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シュメールの心 その 1

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シュメールの心 その 1
シュメールの心
その 1
葦と泥と水と
「楽園」の原風景
栁
① チグリス川(左側)とユーフラテス川
幸夫
合流点の突端。合流してシャトルアラブ川となりペルシャ湾へ注ぐ
◆「世界で最古の都市文明」を築いた
のは、シュメール人である、というの
が定説である。
シュメールとはどこかで聞いたよう
なことはあるが、それが何のかかわり
があるというのか?
という方々には、「アルコール」という言葉は、
そもそもはシュメール語からはじまっているし、
ビールはシュメール人が発明したものだと云えば、
たとえ遠い西アジアの古代史なんぞに興味なくて
も、オヤ!と振り向かれる呑兵衛の御仁もいらっ
しゃるかもしれない。
◆イラク南部にチグリス川とユーフラテス川が合
流する地点がある(①)
。旧約聖書に登場するアダ
ムとイヴがくらした「エデンの園」の伝承が残る
水豊かな湿地帯である。人類の誕生物語に「楽園」
とまで呼ばれたこのメソポタミア南部地帯は、
クルナは、禁断の実を食ったばかりに「原罪」を
背負ってしまったという、あの旧約聖書『創世記』
の舞台である。
(※上図はNHK出版『四大文明』より)
(「原罪」などという言葉を使うと、ほんの今、
そのことにはふれないと云ったばかりなのに、そ
の業みたいなものに思いいたってしまう。このク
ルナの風景を撮った翌年(1991年)の湾岸戦争
と2003年のイラク戦争で、米軍は大量の劣化
ウラン弾を使用し、クルナの人々は半減期45億
年という放射能の残酷な被害に苦しみ続けている、
ことに目をつぶるわけにはいかない)
② 葦で造られた建物とアダムとイヴの子孫たち?
イラク戦争で「地獄」と化してしまった。
しかし、ここではさしあたり、そのことには言
及しない。考古学的発掘の調査から、かつてはシ
ュメールと呼ばれた人々
のことについて語ろうと
おもう。
②クルナの町に立つアダム
の木
◆さて、そのクルナの町
に<アダムの木>というの
があり、観光地のひとつ
になっていた。(写真②)
◆古代に戻って、発掘された粘土板文書の中に、
「エンキとニンフルサグ」というシュメールの神
話がある。その中に、ディルムンという地名が出
てくる。神話の中で、ディルムンは水だけが不足
葦は籠やむしろを作るだけでなく、葦を束ねて
していた。水の神様エンキが、太陽の神様ウツに
大きな柱を作り、家や舟の骨組みに利用する。さ
命じて、地中から水をひきあげ、清らかな水を潤
らに、家畜の飼料や燃料にもなる。そしてシュメ
沢に与えた。こうしてディルムンは穀物も豊かに
ール人最大の発明は、葦でペン先を作り粘土に刻
実る楽園になった、という話である。
みつけて、世界で始めて文字を書いたことである。
この古いシュメール時代の神話が、ずぅっと後
の時代の旧約聖書に出てくる楽園の物語に反映さ
⑥刈った葦を
葦舟で運ぶ
れているという。というのは、旧約聖書の『創世
記』の中に、「しかし、地から泉がわきあがって、
土の全面を潤していた」という一節があるからで
ある。それは、シュメール人の灌漑農業を思い起
こさせるのに充分なわけがあるからである。
◆メソポタミア南部に「世界最古の都市文明」が
誕生する要因は、実はこの「灌漑農耕の発展」に
よるものであった、というのが一つの結論である。
そこで、まずメソポタミア古代をイメージする
⑦古代と変わらぬ葦の家でのくらし
タイムスリップしたかのような世界
上で、次の風景から見ていただくとしよう。
④イラク南部
マーシュランドの湿地帯
又、泥粘土は日乾レンガや焼成レンガに加工さ
シュメール人が住み着いたのは、メソポタミア
南部の湿地帯である。このマーシュランドと呼ば
れ、さまざまな建造物に利用された。
⑧運河で水を汲む人と
ナツメヤシの林
れる、葦が生い茂る湿原の広さは九州の広さくら
いあるといわれる。
⑤マーシュランドの湿地帯で葦を刈る風景
葦と泥と水のほかに、ナツメヤシ。昔はチグリ
ス・ユーフラテスの中流域から南部の方へ約3千
万本のナツメヤシの木があり、そのうち2500
万本が実をつけるといわれていた。塩害にも強く、
⑨デイツ(ナツメヤシの実)
⑫イラン・イラク戦争が終り、湾岸戦争との中間期、
このナツメヤシの実
子供たちはみんな明るい笑顔ばかりであった!
と羊のミルクから作
ったチーズだけで、
砂漠の旅行ができた
と言われる。
紀元前二千年紀以来、
シュメールの辞書の中には150もの単語がある
いろいろな種類のデイツ(ナツメヤシの実)が記
録されているという。ホテルで呑みすぎて二日酔
の朝、これだけ食べて元気が出たのは確かである。
⑩アラック酒
ナツ メヤシから アラ ッ
⑬運河での漁
クという酒もできる。45
度くらいあるが、水で割る
とあら不思議、カルピスみ
たいに白くなる。ちょっと
匂いにクセがあるが、慣れ
るとこれがもうやみつき
になる。トルコでは、ラクといい、ギリシアでは、
ウーゾと云って人気の酒だ。比較的安いから必ず
仕入れてきては馴染みの店で開けていた。その店
でいつぞや知友・H氏のグループのつどいで、あ
のフォークシンガーの小室等さんにお目にかかり、 ⑭葦の湿地帯 泥煉瓦の家、ナンを焼く窯、家畜
持参していたギリシアのウーゾを披露したことが
ある。小室さんもそれなりの呑兵衛らしく(失
礼!)ご満悦であった。どうも、お酒の話だけで
酩酊してきたようで、冒頭に云ったとおり、ビー
ルはシュメール人の発明であるから、シュメール
はやはりノメールなのだと冗句も言いたくなる。
⑪運河沿いのくらし
◆「在る」のは、葦と泥と水とナツメヤシ。まと
もな木材や、石材や、鉱産物はない。ほとんど無
にちかい自然条件の中から、世界に先駆けて「文
明」をつくりだしたことは文字どおり驚嘆にあた
いする。そして誰しもがその文明誕生の秘密を究
めようという強い衝動にかられてくるものだ。
そして、この謎解きについては、19世紀から
世界中の学者たちが考古学的調査による粘土板文
書の解読に熱中してきた。
◆1980年より8年も続いたイラン・イラク戦
いたる、さまざまな文化要素をもったものが、明
争は1988年8月に停戦した。しかし、199
らかにされた。ここから16の神殿址が発見され
0年8月2日にイラクはクゥエートへの侵攻を行
た。以下は、イラク国立博物館で必死になって探
い、湾岸戦争がはじまった。
し求めたエリドゥ発掘調査報告書の写真である。
そのクゥエート侵攻の8ケ月前、1989年の
⑰ジッグラト発掘当時
⑱最上部の神殿(ジッグラト)
年末から1990年の1月にかけての「ほんの束
の間の平和」の時期。砂漠の中に残る遺跡の丘(テ
ペとかテルとか呼ぶ)の泥の山をかけ巡ることか
ら、
「私のシュメール文明入門」は始まった。
◆<エリドゥ遺跡>
⑮エリドゥのジッグラト(聖なる塔)へ向かう
⑰の写真で、一番下の17層
で、まず、3m四方の小さな
祠堂(供物台)が建てられた。
それがおよそ紀元前5000
年頃。その同じ場所が、村落共同体の中心に神様を
祀る神域として、拡大発展していった。次の⑲発展
見取図がよくわかるだろう。
⑲エリドゥ神殿発展見取図
イラク南部のナッシリアから南西130キロの
砂漠の中に、エリドゥ遺跡がある。写⑮の向こう
に小高い丘が見えているが、これは、ジッグラト
(聖なる塔)と呼ばれる神殿址である。
⑯ジッグラト(聖塔・ウル第三王朝時代)に上る
図の右下隅が17層の最初の小さな祠堂である。
つまり、この神殿は、控壁や供物台や装飾が付け加
えられ、ウバイド期になると大規模になり、単なる
宗教的な建造物でなく、政治、経済、社会のセンタ
ー的な神殿に発展していったことが指摘されている。
そして、一番上に、シュメール最後の王朝である、
ウル第三王朝時代のジッグラト(聖塔)が建ってい
た。今は崩れた泥の山になっているが、復元すると
発掘調査の結果、この<エリドゥ遺跡>は、シュ
こんな見事な神殿⑱であったろうというわけである。
メール人が登場するはるか以前の先史時代、紀元
前6000年から紀元前4000年の間のウバイ
ド期から、紀元前2千年代のウル第三王朝時代に
2千数百年以上にわたって同じ場所に16もの神
殿がつくられ続けていたことはまさに驚きだ。
⑳エリドゥ神殿址で出た蛇形土製品(前掲書)
◆シュメール人が、4千年前に残してくれたもの
に、有力な都市の年代記を整理した「王朝表」が
ある。この「王朝表」によると、
「王権が天から降
ったとき」地上に最初の王朝を立てたのは、エリ
ドゥであった、とされている。なにか天孫降臨の
神話みたいであるが、エリドゥに最初に天降って
その後いくつかの王朝があいつぐわけである。
それが、シュルッパク王朝のジウスドラという王
エリドゥの神殿に祀られた神は先にも述べたエ
様のとき、先述した「大洪水」が地上を洗い流し
ンキという水の神様である。エンキはシュメール
た。洪水後の最初の王朝がキシュになり、ウルク、
の神々の中では古い神様で、地下の水の世界を支
ウルというように、いくつもの王朝(都市)が交代
配し、蛇や魚がシンボルになっている。有名な「ギ
していくわけである。この「王朝表」は王の在籍
ルガメッシュ叙事詩」に出てくる洪水伝説にかか
年代など滅茶苦茶な架空の記述もあるが、発掘の
わって、ウトナピシュテム(シュメール語版では
成果と照合すると無視できない重要史料である。
ジウスドラ)に洪水の到来を教えるのが、このエ
◆発掘調査報告書よりひき続き写真を紹介する。
ンキ神だという。
㉒ジッグラトの発掘状況
㉓出土土器の一部
◆考古学上の編年名を何度も出して恐縮だが、こ
のウバイド期の後期から次のウルク期にかけての
特徴は、神殿の発達と祭祀を司る神官の機能が増
大し、大きな建造物や金属の鋳造法の発明、交通
機関の発達などがみられた。
㉑エリドゥ出土の帆船模型(前掲書)
小泉龍人氏は
『都市誕生の
考古学』(2001
年同成社刊)で
「ユーフラテ
ス河などの河
◆エリドゥの遺跡を歩いていると、おびただしい
川を用いた交
土器片と
易は古くから発達していた。水上輸送の証拠とし
楔形文字
ては、ウバイド期(前5千年期)の舟形模型が今
らしき粘
のところ最古である」と指摘された。それがエリ
土板文書
ドゥから出土した土製の帆船模型(⑰)である。
が足元に
葦で作られた舟というよりも板の張られた舟の可
埋まって
能性が高いとされる。この構造であれば、ペルシ
いた。か
ャ湾沿岸の航行も可能であったろうと推定されて
つて20
いる。そうすると、インダス文明などとのかかわ
06年に
りも考えてみたくなるが、それは今後の課題だ。
ここでは交通機関の発達は、交易が盛んになる
ことを意味し、物資の交換の発展は、やがて文字
来日した、イラク考古遺産庁長官
ージ 氏は、このエリドゥ遺跡が爆破され、盗掘団
の仕業ではないかとの報告を行っていた。
の発明を生み出す動機になっていくことだけを指
摘しておこう。
ドニー・ジョ
※※※※※※
◆この拙文はN会社を退職後、福岡県内で活動す
㉕何たることか!こんな風景は無くなったのか!
る0B会を立ち上げ、その会報に、2006年8
月より2009年4月まで18回、2年半にわた
って掲載したものを修正縮小し再録している。
区切りがついたところで、今は、西アジアから
しばし遠ざかり、筑紫古代文化研究会の東アジア
の古代史をあらためて勉強し直していたが。
◆イラクから帰国して8カ月後の1990年8月
に湾岸戦争がはじまり、そして、イラク戦争、今
はIS(イスラム国)の侵攻との戦乱にあけくれてい
㉖当時、橋を守っていた兵士たち
る。全世界が戦争という苛酷な地獄に変貌した。
◆マーシュランドの壊滅に愕然!
㉔九州の広さもあった
壊滅前のマーシュランド
㉗マーシュランドで。
長かったイラン・イラク戦争
が終り、手持ちぶさた気味のイラク兵と。
◆つかの間の平和を喜んでいたイラク兵士たち
私たちが見学しているとイラク兵士が近づいて
最近、IS(イスラム国)が、シリアやイラクの遺
きて、日本人だというと、自分の銃(カラシニコフか?)
跡破壊を続けているニュースが断片的に伝えられ
を「持て」といって渡そうとする。拒否する間も
るようになった。訪れたことのあるシリアのパル
なくガイドが応じるように合図するので重たい武
ミラやイラクのニムルド遺跡破壊など気がかりで
器を抱えてみた。そして一緒に写真まで撮った。
はあった。しかし、その後のマーシュランドのこ
あえてこんなこと紹介するのは、そのくらい、当
とについては何にも知らなかった。うかつにも、
時の兵士たちも平和であることを喜び、日本人に
2008年12月刊行の岡田明子・小林登志子著
友好的で、のどかな「楽園」の雰囲気に満ちてい
『シユメル神話の世界』
(中公新書)を放っていた。
たのだ、ということを強調したいがゆえである。
つい最近偶然、本棚の隅で目に留まったこの本を
武器なんか触りたくはなかったのだが・・・。
読み始めて愕然とした!帰国して1年後には起き
ていたことである。
独裁者フセインの罪も大きいが、大量破壊兵器
が「ない」のに「ある」と捏造し、果てしない戦
「イラン・イラク戦争(1980~88 年)ではペル
争とテロの地獄に世界を陥れたブッシュやブレア
シャ湾付近のメソポタミア湿原が戦場となった。
や、追随した小泉政権などの罪ははるかに重い。
「湾岸戦争」直後の1991年には、湿原に住む
2015年8月30日、憲法を踏みにじり、米
シーア派住民が反政府武装蜂起をしたために当時
軍の戦争に参加する「戦争法案」を「ナチスの手
のフセイン政権が湿原を干上がらせた。これによ
口」で強行する安倍政権に対し、国会前に12万
ってメソポタミア湿原はほぼ壊滅し、シュメール
人、全国300ヶ所以上で、デモや集会が行われ、
人以来の伝統的な水辺で暮らす人々の生活基盤が
多くの若者たちも廃案を求めて抗議した。戦後史
失われてしまったという」ではないか。
上空前のできごとだと報道された。
(続く)
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