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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
グレッシャムと「グレッシャムの法則」
Author(s)
岩松, 繁俊
Citation
経営と経済, 41(1), pp.69-111; 1961
Issue Date
1961-04-30
URL
http://hdl.handle.net/10069/27604
Right
This document is downloaded at: 2017-03-31T06:28:35Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
グレッシャムと﹁グレッシャムの法則﹂
岩松繁俊
お よ そ ﹁ 経 済 法 則 ﹂ と 称 さ れ る も の の な か で 、 ﹁ グ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ﹂ G r e s h a m ' s L a w は ど
し ば の ぼ せ ら れ る も の は 、 ほ か に あ ま り 例 を み な い と い っ て も い い で あ ろ う 。 こ の こ と は 、 世 俗 に お い
か り で な く 、 学 界 に お い て も そ う で あ っ た と い え る 。 こ れ を 証 明 す る た め に こ こ に ひ と つ ひ と つ 具 体 的
o
1
る
2
い
n e y , 1 9 1 1 ” の な か で 、 二 種 も し く は そ れ 以 上 の 貨 幣 の 流 通 す る 制 度 に お い て 支 配 す る 法 則
︶
。 フ ィ ッ シ ャ ー は ﹁ グ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ﹂ を 一 個 所 に お い て ﹁ グ レ ッ シ ャ ム ま た は オ レ ー ム の 法 則
︶
る け れ ど 、 こ れ は こ の 法 則 の 名 づ け 親 た る マ ッ ク ラ ウ ド H . D . M a c L e o d ︵ 1 8 2 1 - 1 9
ま で も あ る ま い が 、 た と え ば 、 ア ー ヴ ィ ン グ ・ フ ィ ッ シ ャ ー I r v i n g F i s h e r は そ の 著 “ T h
M
︵
い
︵
も
ム の 法 則 ﹂ と 名 づ け た も の を の ち に ﹁ オ レ ー ム ・ コ ペ ル ニ ク ス お法よ則び﹂グとレ改ッ称シしャたムののに︵照3応︶す る
︵ 4 ︶
の で あ ろ う 。 し か し そ の 他 の 個 所 で は 単 に ﹁ グ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ﹂ と の み 記 し て い る 。 ま た フ ィ ッ シ ャ
シ ャ ム の 法 則 ﹂ の 通 常 の 説 明 た る ﹁ 悪 貨 は 良 貨 を 駆 逐 す る ︵ B a d m o n e y d r i v e s o u t g o
グ レ ッ シ ャ ム と ﹁ グ レ ッ シ ャ
経営と経済
﹁乙の言い方は正確なものではない﹂として、﹁安い貨幣は高い貨幣を駆逐する
(5)
円四
円
円
の
仙
Fg ℃B。ロ州当者己︼色円可。。E
(
ゎ
﹁安い貨幣は高い貨幣を駆
O
B
ω 目。 (Z OE50円
gBEω)(SNotMωl
∞
M
)や
ORBOロミ)﹂という表現にかえている。しかしそれにもかかわらず、ブィッシャ!は、
。Z
逐する﹂という法則がグレッシャム以前にオレ l ム Z庁
ω
m
u
o岡高円ロ仙のロω(手.3l-gω) によってすでに唱道されていたとはいえ、まぎれもなくグレツ
Z仙
の
﹃
巳ωロ
が真実にグレツシャムの述べた法則であるか否かを論じようとするものであることである。﹁グレッシャムの法則﹂と
法則が経済法則として正当なりや否やを論じようとするのではなくて、﹁グレッシャムの法則﹂といわれている法則
ただし水稿の主題にかんして注意しておかなければならないことは、本稿は﹁グレッシャムの法則﹂といわれている
を発見者とし、そのゆえにグレツシャムの名を冠してよばれることの正当性いかんを検討しようとするものである。
から展開されようとするものである。すなわち、本稿は﹁グレツシャムの法則﹂といわれている法則がグレッシャム
本稿はこのいわゆる﹁グレッシャムの法則﹂を無批判に受容することにたいして疑問を発せざるをえないという理由
レッシャムの法則﹂がまさしくグレッシャムの発見した法別であるという通説を根拠ゃつけるものではけっしてない。
法則﹂が貨幣論の専門家によってきえいささかも疑われる乙となく受容されているということは、しかしながら﹁グ
ブィッシャーをとりあげたのは、前述のように、 ひとつの例にすぎないのであるが、 このように﹁グレッシャムの
にもその適用をみるものである o
﹂
(
7
)
レッシャムの法則は同一の金属をもって鋳造した二種の貨幣に適用せられるのみならず、同時に流通する数種の貨幣
﹂また﹁グ
の法則はその威力が強大であって、全国民の便宜さえもこのために犠牲に供せられることがあるのである o
(
6
)
理でないというかんがえにたいしては、いきさかの疑問もさしはさまないのである。﹁事実において、グレッシャム
シャムそのひとによっても独立に発見された法則であり、したがってこれを﹁グレツシャムの法則﹂とよぶのは不合
ゴペルニクス
O
七
いうことばが今日あまりにも普遍化してしまった結果、ゲレッシャムがはたして﹁悪貨は良貨を駆逐する﹂あるいは
一安い貨幣は高い貨幣を駆逐する﹂という命題を真実に述べたかどうかを疑うことはナンセンスであるかのととき印
象をあたえるかもしれない。かりに﹁グレッシャムの法則﹂がグレッシャム自身の立言を歴史的に考証する手続きを必
要としないまでに今日それ自体に独立した生命と固有の名詞とをあたえられてひとり歩きしているのであるならば、
いまさらその生命を断ちそれから固有名詞を剥奪する権利を主張しようとはおもわない。もしそうではなくて、ひと
が﹁グレッシャムの法則﹂をグレッシャムの発見した法則であると思惟し、グレッシャム自身乙れを主張したからこ
そその名が冠せられているのだと臆測し、その結果として﹁ゲレッシャムの法則﹂を固有名詞化しているのであるな
らぱ、真実にグレッシャムがこれを主張したかどうかを論ずる乙とは充分に意義のある乙とである。
ージ。
、
0 同JM円nygEm唱
。4
(T)ptBmE目
yoF3
2円。同富。5 ア昌二・ 3 ・﹂AMIm-金原賢之助・高域仙次郎巽訳一四七!主一・へ
(2)H42voF。?己仲 JHr
コω・ 訳一四八ページ。
(
3
) 乙の点については次節でくわしく述ベる。
百田町内
ngogk目=とのふたつを参照している。
同
開
0
WF。ヲ立件J ? コω・訳一四八ページ。
している一入九六年の書=叶Z 出ZZミ
開-oE320同司。EW巳一明。。ロO
E
u
-と乙れを修正拡充して﹁オレ lム・コベルニグスおよびグレッシヤムの法則﹂と改啓
(
4
) ブイッシャ 1は、マッグラウドの多数の著書のなかから、かれが﹁グレッシヤムの法則﹂を唱道した一八五入年の書=4Z
(5)
吉田町
2・。ヲ巳同
J
ヲコム・訳一五0 ページ。
(
6
) 司zvopou-巳f
u・コム・訳一四九l五0 ページ。
(
7
)
グレッシヤムと﹁グレッシャムの法則﹂
七
経営と経済
﹁グレッシャムの法則﹂の命名者はマックラウドである。そ乙で本節においては、 マックラ
D
・:かれは女王が即位してわずか三日自にセシルわ2 ロ
法則といえるかどうかを論じようとする本稿においては、 乙の書簡こそ議論の焦点となるものでなければならない
c
27 同ω0・の所蔵す
マックラウドは明記していないけれども、それはパ lゴン旬。﹃ロ宅ロロω自国再開。ロが一E524﹃
(
2
)
、、、、、、、
る書簡の写本からうつしとったものにほかならない。したがって﹁グレッシャムの法則一がはたしてグレッシャムの
ツシャムの書簡は、右に述べられているように、女王の即位後ブランドルへ赴任するにあたって書いたものであり、
乙れが﹁ゲレッシャムの法則﹂命名の最初の宣言である。そしてマックラウドが乙の命名の根拠とした女王宛ゲレ
われわれが通貨にかんするこの偉大な根本法則をかれの名でよぶのはただ当然なことをしようとするのにすぎない。
(
1
)
われわれはそれを通貨にかんするグレツシャムの法則とよんでよい c
﹂(傍点は原文イタリックの個所)
ている。ところで、かれは悪い庇質通貨が良貨の消失の原因であるという乙とを認識した最初のひとであったから、
貨幣がみな流通界からすがたを消してしまったかを説明した。乙の原因をかれはヘンリ八世による鋳貨の隠質に帰し
かれを採用した。ブランドルへ赴任するまえ、かれは女王へ忠告の書簡を書き、そのなかで、とりわけ、なぜ良質の
の紹介で拝謁し、女王はメアリ︹女王︺がのこした国庫の枯渇状態において必要な借款をとりきめるためにただちに
最初に認識したという偉大な名誉をになっているひとである
良貨と悪貨とは同時に流通する乙とはできないという通貨にかんする偉大な根本法則を、われわれのしりうるかぎり
﹁エリザベス女王は王位に即くや否や、有名なグレッシャムにうとかされて通貨の状態に注意をむけた。かれは、
ウドのいうところに謙虚に耳をかたむけることとしたい。
すでにふれたように、
七
(
3
)
しかしこの焦点に議論を集中することは次節にまわし、 ここではもっぱらマックラウドの所説に耳をかたむけよう。
w
E
m
- において、はじめて、
マックラウドは一八七三年に第三版をどした=吋宮 吋町。。ミ一鉛口弘司E一の昨日。。。町田ωロ
(
4
)
﹁グレツシャムの法則﹂を、今日われわれが常識的に表現する﹁悪貨は良貨を駆逐する﹂ということばによって表現
B。ロミ骨zg
﹁あらゆる国あらゆる時代に真であるとみとめられてきた経済学上の根本的普遍的法則﹂
しているのであるが、これはグレツシャム自身のことばではなく、一六九六年に出版された無名のパンフレットのな
かにある表現なのである。
としてかれはパンフレットのなかからつぎの語句を引用する。﹁悪貨は良貨を流通から駆逐する(回包
as
。ロミ同円。自己完巳忠吉ロ ) ﹂
。C仲間。
0 ﹁二種の貨幣が同一国内で、真実価値では異なるのに名目価値では同一に流
、5)
通するとき、もっともすくない価値をもっ貨幣は流通しつづけ、他はできるかぎりおおく保蔵されるであろうよそし
てかれは、 この法則をとくに複本位制にだけ限定するのではなく、紙幣と硬貨との関係についても拡張適用し、紙幣
は同一名目価値をもった金属貨幣を流通から排除することがつねにみとめられるという。さらには、紙幣相互の関係
(
6
)
﹁もしも
一万の効力は必然的に他方の効力に追随しなければ
一一年後に公刊したこの書の第四版では、 この法則を若干修正しているようにみえる。
にもこの法則を拡張し、価値の下落した紙幣はなおいっそう価値の下落した紙幣の発行によって流通界からすがたを
消すという。
マックラウドは、
量目の完全な鋳貨と減少した鋳貨とを同時に流通させておけば、
ならない。販売すべき商品をもっているひとびとは、良い鋳貨で支払われるか軽い鋳貨で支払われるかに応じて商品
の名目価格に差違をつけるであろう。すなわち、軽い鋳貨は良い鋳貨と比較して割引かれるであろう。もしこれをき
(
7
)
またげ両者を同一名目価値で流通せしめる法律があるとすれば、あらゆるひとはできるピけ最少の費用で負債を弁済
・しようとつとめるであろうニすなわち、ここでは、悪貨と良貨とを同時に流通させていても、悪貨は良貨を駆逐せ
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
七
経営と経済
良貨と悪貨との定義をかんがえよ) ﹁悪貨が良貨を駆逐しない﹂という乙とはありえず、 したがって﹁悪貨が良貨を
一八九三l 七年比第二版を、たした著書=叶}話、目。。ミえハUBE件コにおいて、
マッ々二フ
駆逐する﹂ことはすこしも否定されていない。ただ悪貨が良貨を駆逐するばあいが明確化されただけであるといって
いいであろう。
一八八九i 九一年に初版、
ウドは複本位制を徹底的に攻撃し、 その有力な論者のひとりにかれグレッシャムを登場せしめている。ところで、
れはグレッシャムについて論ずるまえにオレ l ムおよびゴペルニクスについて論じており、われわれにとっても後二
者が関連をもつので、かれらにかんする叙述からみてゆくことにしよう。
﹁︹貨幣の庇質によって生じた︺その悪をつぐない、国家にいにしえの繁栄をとりもどそうとこころにつよく念じて
(
8
)
いた賢明な玉︹シャルル五世(一三六回l 八O)︺ は 貨 幣 事 情 に 最 大 の 注 意 を は ら っ た 。 か れ は そ の 顧 問 の ひ と り で の
ちにリズュ 1F2-2Mn の司教になったニコラス・オレ 1 ムにその問題を相談した。ォレ l ムは一貨幣論﹂を書いたが、
(
9
)
これはまさしく近代の経済学的文献の冒頭にくらいするといっていいものである。これは貨幣の真の機能にかんする
みととな議論をふくみ、貨幣の量目、比率および純分のいっさいの変更をもっとも精力的なことばで非難する。﹂マッ
クラウドによれば、オレ i ム は 複 本 位 制 を 維 持 不 可 能 と は か ん が え な か っ た が 、 比 価 は 金 銀 の 市 場 価 値 に 厳 格 に 適
応して固定せられるべきであり、そして金銀の市場価値の変動にもとづくのでなければ比価を変更してはならないと
か
その真実価値に応じて名目価値を異にするばあいには、もはや良貨と.忠貨との区別自体が存在しないのであるから(
すのであれば、乙れはまことに重大な修正であるといわなければならないが、量目の完全な貨幣と減少した貨幣とが
っているかのととくにみえる。もし乙れが真実に﹁恵貨は良貨を駆逐しない﹂のが一般的であるという意味をあらわ
ず
、 ただ法により悪貨と良貨とを同一名目価値で流通せしめるべく強制するぱあいにのみ悪貨は良貨を駆逐するとい
七
四
主張している。君主の恋意によって比価を変更してはならないっなぜなら、君主がもし貨幣に任意の価格もしくは価
値を賦与する権利をもっているとすれば、かれは同様に国内のあらゆる生産物の価格あるいは価値を確定する権利を
もちうるはずであるからである。かくしてオレ 1 ムは一貨幣の法定比価は金属の自然もしくは市場価値に適応させら
(叩)
れなければならない﹂と主張し、﹁貨幣の比価の法定が金属の市場価値を規制しもしくは支配しうる﹂という謬見は
(竹)
乙れを抱懐していなかった。オレ l ムはさらに貨幣の減量および庭質を非難し、なかんずく、既質をつよくいましめ
それは高利よりも罪悪であるという。つぎに、このような貨幣の変造庭質の結果どのような事態が生ずるかについて
オレ l ム は つ ぎ の よ う に い う 。 金 や 銀 が 園 内 か ら す が た を 消 し 、 よ り 高 い 価 値 を あ た え ら れ る 外 国 へ 流 出 す る の を い
かなる政策によってもふせぎえない。また外国の商人は商品を国内にもたらさなくなる。なぜならば、商人をしてそ
(也)
の商品を国内に搬入せしめる動機は主として良質で信頼できる貨幣の獲得にあるからである。かくして貨幣への干渉
はあらゆる取引を混乱におとしいれ、あらゆる信頼を破壊する。
マックラウドはオレ l ムの所説をつぎのように要約して複本位制を攻撃する。オレ i ムは﹁諸貨幣の法定比価のい
かなる変更も金属の市場価値の変動にしたがわなければならないとはっきりいっている。かれは諸貨幣聞の固定され
貨幣の価値きりさげないし品質ひきさげ
(
品
。
間
口 w仏
ω立。ロ
た法定比価が金属の市場価値を支配しうるという観念にはいかなる支持もあたえない。なかんずく、かれはわれわれ
がグレッシャムの法則と称したと乙ろのもの、すなわち、
gaaogω0583 は 金 貨 や 銀 貨 が 流 通 界 か ら す が た を 消 す 原 因 で あ る と い う 法 則 を 二 百 年 も ま え に 論 じ て い た の で
O O年もまえであったこと、そして
FSwo の学説の先駆者ではなかった。﹂最後にマックラウドはオレ l ムの論稿をいままで看過し
(旬)
ある。しかしかれは単一金属の貨幣が本位制とし'て採用されるべきであり、他のすべての貨幣は補助貨幣とすべきで
あるというロック
ていた乙とへの弁解を附加する。乙の論稿をオレ l ムが書いたのは公刊される一
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
一
七
五
経営と経済
七六
こ れ は も と も と シ ャ ル ル 五 世 の 参 考 の た め に 書 か れ た も の で ひ ろ く 公 刊 す る 意 図 を も っ て い な か っ た 乙 と 、 これらの
マックラウドは近代天文学の創立者ゴペルニクスの貨幣論をとりあげる。はやくから数学にきわだった才
ために一般のひとにしられなかったのであるというのである。
つぎに、
一五二六年
供
品
正
問
。
ロ
ゆ
件 ω。 。
ロ
品
。
ロ
品ω。
能 を し め し て い た ゴ ペ ル ニ ク ス は 、 当 時 プ ロ シ ャ を 包 含 し て い た ポ ー ラ ン ド の 国 王 で あ っ た 虫 色 ω自己ロ弘一世にみと
められ、混乱した貨幣制度をたてなおすべき意図をもっ国王の要請に応じて、
(叫)
z
z。こをあらわした。この論稿は一八一五年にいたってケ!ニヒスペルク大学教授∞225 ︿忠常により発見され、
(行)
翌 年 雑 誌 に 発 表 さ れ た 。 ﹁ ゴ ペ ル ニ ク ス は 一 六O 年 も ま え に か か れ た オ レ l ム の 書 を し ら な か っ た が 、 そ の な か に 主
張されている学説はあらゆる点においてオレ 1 ムのそれと同一である﹂とマックラウドはいい、その議論をたどって
ゆく。乙乙ではわれわれに関係ある部分ににけ限定してゆ乙う。コペルニクスによれば、最良の貨幣はその貨幣と交
換に獲得できる金あるいは銀よりも鋳造費だけすくない金あるいは銀をふくんでいる貨幣のことである。そしてつぎ
に貨幣価値下落の原因についてのべ、ふるい貨幣が鹿賀されてまに流通しているときに良質の貨幣をあたちしく発行
、(叩)
するのはよろしくない、いままでの貨幣よりもさらに質のおとった貨幣をあたらしく発行する乙とはもっとわるい。
これはふるい貨幣の価値を減少させるばかりでなく、乙の貨幣をただちに流通界から駆逐するのである、という。
つぎに、 コ ペ ル ニ ク ス は 貨 幣 の 庇 質 が プ ロ シ ャ に ど の よ う な 結 果 を も た ら す か を 述 べ る 。 貨 幣 の 皮 質 は 現 存 す る 貨
幣の価値を下落させる。その結果金や銀は国外へきり、銅だけがのこることになり、外国商品の輸入ははばまれ、全
商業が破壊されるにいたるであろう。どこの外国商人が、その商品を銅貨と交換するであろうか。われわれのうちい
︻目。
円
ω
o ピげである
P
かれらはふるい貨幣をえらびあっめ的解して
ったいだれが銅貨で外国商品を購入しうるであろうか。プロシャの貨幣が庇賀されるかぎり、それによって利益をう
ω 百三回と金融業者 σcECロ
るものは金匠問。E
銀を売るつふるい貨幣がほとんどなくなってしまうと、 の こ っ て い る 貨 幣 の う ち で 最 良 の も の を え ら び だ し て 最 忠 の
ものだけしか流通界にのこさない。したがって、金や銀、穀物その他の食料、工業坐産物その他あらゆる生活必需品
の価格が上昇する。われわれが怠惰でさえなければ、この価格の上昇が貨幣の庇質からおこったのだということは容
(行)
易に理解できる。事実、価格は金貨や銀貨が鹿賀されるか改善されるかに応じて騰貴したり、下落したりするのであ
る。そこでプロシャの貨幣を改善して害悪をなくそうと欲するならば、まず造幣局の乱立をあらためて統一しなけれ
ばならない。そして貨幣はきめられた法規に準拠して鋳造されなければならない。国王といえどもその鋳造から利益
をうる権利はもたない。 つ ぎ に 、 あ た ら し い 貨 幣 と ふ る い 貨 幣 と が 同 時 に 流 通 す る 結 果 生 ず る 混 乱 に お ち い ら な い た
めには、あたらしい貨幣を発行すると同時に、ふるい貨幣の通用を廃止しそれを造幣局においてその市場価値で交換
したあと、その使用を全面的に禁ずることが必要である。そうしなければ良貨を発行する意味はない。ふたつの貨幣
の共存はあたらしい貨幣の利益をすべて破壊し、現在の混乱は依然としてつづくであろう。つぎに金貨と銀貨との比
価は金地金と銀地金との比価にひとしくなければならない。なぜなら金と銀とのあいだの比率は鋳造されたばあいも
(市)
純地金のばあいも同一であるべきだからである。当時あらゆる国において純金一ポンドは純銀一二ポンドにひとしか
った。
(一)国王あるいは法律または他のいかなる条令といえども貨幣の価値を規定することはできない。
(二)国
マックラウドは、 コペルニクスの所説を以上のように述べたあと、かれとオレ l ムとの一致点をつぎのように要約
する。
(三)国王が
(四)量目のたどしい良質の貨幣と皮質貨幣
王あるいは法律がなしうることはただ貨幣の名目、量目および純分を一定に維持すること、にげである。
貨幣の名目を変更し、量目を減じ、純分をおとすのは略奪行為である。
とを同時に流通させる ζと は 不 可 能 で あ る 。 良 貨 は す べ て 保 蔵 さ れ 溶 解 さ れ あ る い は 輸 出 さ れ る 。 流 通 界 に の こ る の
グレ吋ノシャムと﹁グレッシャムの法則﹂
七
七
経嘗と経済
これら五点のうち、
(旬)
(五)金貨と銀貨とは金銀地金が市場においてもつ比率と同一比率をもたなければならな
(四)乙そは、いうまでもなくマックラウド自身がグレッシャムの法則と命名していたものに
い。そして乙の比率は金と銀との市場比価が変動したばあい以外にはけっして変更してはならない。
は尼質貨幣のみである。
七
Y¥
(却)
マックラウドは複本位制攻撃
ほかならない。そ乙でマックラウドは﹁これらの偉大な著者たちはわれわれがグレッシャムの法則と名づけたものを
さ
反
対
の
t
こ
T
こ「
場
で
I
ム
ゴ
と
fミ
lレ
ク
ス
と
乙
l
よ
て
述
コ
ず
Jて
;
れ
ら
学
説
f
こ
注意しておかなければならないことは、﹁グレッシャムの法則﹂が(四)にかんするものであるのにたいし、複本位
制否定は(五)にかかわるということである。もちろん(五)がそれ自体で複本位制を否定する意味をもつものでな
い乙とはマックラウドといえども認識していた。複本位制否定の明確な主張はペティやロックにもとめるべき乙とを
マックラウドは述べている。しかし複本位制否定の根拠は、結局そのもたらす弊害の根源を認識するところにあり、
その弊害は金銀貨をその比価が金銀地金の市場比価から手離したまま無制限に流通させることによって生ずるのであ
り、乙の弊害の根源の認識はすなわち上述(五)の認識にほかならない。ただこの弊害をもって、従来の制度のなか
(泣)
で技術的に克服しうるものとかんがえるか否かという二者れ一より、複本位制にたいする態度の差違が由来する。し
ロックとの差は理論的には、きわめてわずかのへだたりにすぎ
かもこの弊害が激化するのはポトシ銀山の発見(一五四五年)にともなう銀の量の激増以米であるという歴史的背以
、 ゴペルニクスとペティ、
を考慮するならば、オレ l ム
は
完全に認識し、かっ、ききんじていた﹂というのである。そしてすでに述べたように、
合
レ
しかし﹁グレッシャムの法則﹂が複本位制を攻撃す
っか
てく
いし
る(て
よ2
1、
オ
の過程において﹁これらの偉大な著者たち﹂とグレッシャムとをとりあげたのであって、これらの偉大な著者たちは
位
主
義
者
の
主
張
と
複本位制攻撃の立場にたつと解釈するのである。
本
る意味をもっているかどうかについては問題がある。乙の点についてはあとでもふれるつもりであるが、とりあえず
現
代
の
複
ないといえるであろう。しかしこれはあくまでも(五)にかんしていえる乙とであって、
(四)すなわち﹁グレッシ
(五)は(四)に
ャムの法則﹂にかかわるものではない。もちろん、悪貨と良貨との意味を想起すればたにちにわかるように、ふたつ
の点はけっして関係なしとはいいえない。しかしその関係は等級。。。EE巳芯ロのそれではなく、
z
t。EZSZロ の関係である。なぜならば、たしかに一六世紀中葉以降銀の金にたいする市
包摂されるという下級
場比価が不断に低下し、金の銀にたいする市場比価が不断にその法定比価をうわまわる時代においては、金貨はうた
が い も な く 良 質 で あ り 銀 貨 は 悪 質 で あ っ て 、 金 貨 は 溶 解 さ れ ネ lダ lラ ン ト へ 輸 出 さ れ に 。 し か し 歴 史 を さ ら に 複 本
c それはかれがイングランドにおけ
位制なかりし時代にまでさかのぼるとき、そこにも悪貨と良貨とが存在していたことをわれわれは理解するからであ
る。それをわれわれはマックラウド自身の叙述のなかからひき、にすことができる
﹁当時の経済論者たちは、良貨と悪貨とは同時に流通することがで
る貨幣の歴史を略述する部分にある。かれはエドワード三世の一一三一二年における貨幣制度改善策を論じつつ、当時
の経済論者たちの無知をつぎのように指摘する。
(幻)
きない、悪貨はつねに良貨を駆逐する、という・のちにオレ l ム、ゴペルニクスおよびゲレッシャムによって暴露さ
れ た ・ 貨 幣 に か ん す る 偉 大 な る 根 本 法 則 を ま ど 発 見 し て い な か っ た 。 ﹂ か れ が グ レ ッ シ ャ ム の 法 則 を オ レ l ム・コペ
Z2BS ゎoロGCOω件 以 後
ルニクスおよびグレッシャムの法則と修正している乙とも問題とすべきは論をまたないが、乙こではとりあえず、一
三三一年当時にはまピ金貨が発行されていなかったということに注目しよう。すなわち、
はじめて、へンリ三世(一二一六 l 七二)の第四一年、二一五七年にひとたび金貨を発行したけれども商人がこれを
(μ)(
お
︺
うけとることを拒絶したため回収し、二二四四年にいたってようやく金貨を鋳造発行したのである。イングランドに
お け る 複 本 位 制 は こ の と き に い た っ て 成 立 し た コ か く し て 、 グ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ( あ る い は オ レ l ム・コペルニクス
L
およびグレッシャムの法則)はそれ自体けっして復本位制のみを対象とするものでないことをマックラウド自身の叙
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則
九
七
経営と経済
述がしめしているコ
かれはさらに、複本位制下、
へンリ八世、
ワ
ノ¥
ド
世
7¥
メアリ女王の貨幣改鋳(改.思および改善)について議
O
貨を流通界からひきあげなかったことにたいしてである。
﹁エリザベスは王位に即くや否や﹂とかれはつ-つける。
書かれた覚書にすぎず、また一般に普及していなかったからである。これら三人の有名なひとびとは、したがって、
て何かをしっていたと推測すべき理由もない。というのは、それらはただかれらのそれぞれの君主におしえるために
で一般流布用として出版されていなかったために、しらなかったのである。またグレッシャムがこれらの論文につい
まえにオレ l ム に よ っ て 、 三 二 年 ま え に ゴ ペ ル ニ ク ス に よ っ て 論 証 さ れ て い た こ と を 、 か れ ら の 論 文 が 一 八 六 四 年 ま
乙とを示唆した。そしてこれは現在ひろく採用されている。しかしそのときわれわれは、この偉大な法則が二ハ二年
ヨ〆戸 ωぎ な る 名 称 で よ ば れ る べ き
わ れ わ れ は 貨 幣 に か ん す る 乙 の 偉 大 な 根 本 法 則 が ? ゲ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ﹄ の3
ω ﹃ω
ではじめてふたつの事実が原因と結果として必然的に関係づけられていることをしめしたのである。一八五八年に、
て書簡を書き、へンリ八世による鋳貨の毘質がすべての良貨の消失の原因であ払と説明した。かくて、かれはこの国
シャム以前に乙の国でこれらの事実のあいピの必然的関係を認識したひとはひとりもいなかった。かれは女王に宛て
それは、良貨と悪貨とは同時に流通することができないということをこの国ではじめて彼女に指摘した有名なグレツ
、
、
シャムによってうとかされたのである。事実は数世紀にもわたる経験であまりにもよくしられていに。しかしグレツ
﹁兄がはじめた貨幣の大改革を完成しようとかんがえた。
まりはてた事情を述べる。乙乙でもかれらは、オレ l ム・ゴペルニクスの法則をしらなかったのであると説明されて
(お)
いる。マックラウドが ζ 乙 で 指 摘 し 非 難 し て い る の は 、 複 本 位 制 そ れ 自 体 で は な く て 良 貨 を 発 行 し つ つ 依 然 と し て 悪
論をすすめ、当時の政治家経済論者たちが良貨を発行してもそれがただちにすがたを消してしまうことにまったくこ
ニ
コ
ド
(幻)
独立の発見者であり、そしてそれゆえにとの法則は﹃オレ l ム・コペルニクスおよびゲレッシャムの法則﹄
百
戸
内
同
の
円
。ω﹃
仙
の
ロω何
03ωBP ゎOHMOB
ω自 と 名 づ け ら れ る べ き で あ る o﹂(傍点は原文イタリック体)
いまや﹁グレッシャムの法則﹂の名によって普及せられている法則は、命名者自身の見解にもと事ついて、
円相凶君。一﹃
﹁オレ i
(却)
=叶 FO回
目ω
件。ミ。問問。。ロ。B芯ωこを公刊し、そのなかの二個所で﹁ゲレツ
ム・コペルニクスおよびグレッシャムの法則﹂とよばれなければならない。
マックラウドは一八九六年にいたって
シャムの法則﹂にふれている。しかしととに述べられている内容は、前著﹁信用の理論﹂に述べられている内容とい
ごグレッシャムの法則ムは普遍的で
ささかも異ならず、ただ前著における詳細をきわめた説明がとこではおもいきって省略きれ通読するのに便となった
rけを引用しておとう。
ζとピげがあたらしい点である。ととでは最後の結論
ある。なぜならば、それはあらゆる時代あらゆる国において普遍的な人間性の本能と特質、すなわち、できうるかぎ
り利益をつかもうとする本能と欲求に基礎をおいているからである。そしてあらゆる時代あらゆる固において、
(mm)
るのである o
﹂
以上われわれは、
﹁グレッシャムの法則﹂は﹁オレ l ム・コペルニクスおよびグレッシャムの法則﹂と修正されなければなら
つぎに、この法則はいくつかの異なった表現をもっている。﹁悪い庇質通貨は良質貨幣の消失の原因である。﹂﹁悪
ない。しかしグレッシャムが乙の法則の独立の発見者であることにはいささかの訂正もくわえられない。
まず、
あるが、乙こでかれの見解を要約しておこう。
﹁グレッシャムの法則﹂の命名者マックラウドの見解をその著書について順次検討してきたので
びとは法律が低く評価しすぎる鋳貨を溶解したり輸出したりすることによって利益がえられるという乙とをしってい
ひ
と
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
D ﹁二種の貨幣が同一国内で、真実価値では異なるのに名目価値では同一に流通すると
貨は良貨を流通から駆逐する ﹂
7
¥
経嘗と経積八二
(叩)
き、もっともすくない価値をもっ貨幣は流通しつづけ、他はできるかぎりおおく保蔵されるであろう。﹂﹁貨幣の庭質
は金や銀が流通界からすがたを消す原因である。﹂﹁量目のただしい良質貨幣と皮質貨幣とを同時に流通させることは
これらはしかしながらまったく同一の意味を表現したも
不可能である。良貨はすべて保蔵され溶解されあるいは輸出されるこ﹁流通している通貨のうち最悪のものが全通貨
(引)
の価値を規定し、あらゆる他の通貨を流通から駆逐するよ
のにほかならない。
(位)
この法則はときとところのいかんをとわず成立する普遍的法別である。したがって、復本位制たると単本位制たる
(一)単本位制のばあい(イングランドの初期貨幣制度におけるがととし)。
乙のばあい
と、金銀貨たると銅貨たると、さらには紙幣たるとをとわず成立する法則である。マックラウドはつぎの三つのぱあ
いにこの法則を適用する。
には、削減され品位をおとされ鹿賀された貨幣と良貨とがともに流通させられると、良貨はすべて流通界からすがた
ω 保蔵されるかω 溶解されるかω 輸出される。いかなる法律もこれをふせぐ乙とは不可能であ
を消す。良貨は
る。そして悪貨のみが流通する口(二)二種の金属、たとえば金と銀とからなる貨幣が一定の法定比価で無制限に同
(三)異なった金
時に流通する複本位制のばあい。このばあい、法定比価が市場比価と異なると、低く評価された貨幣は流通界からす
がたを消し、保蔵されるか溶解されるか輸出される。高く評価された貨幣のみが流通をつ事つける。
(犯)
属 を 本 位 貨 幣 と し て 使 用 し て い る 国 と 国 と の ば あ い 。 両 国 の あ い だ に あ る 固 定 し た 為 替 平 価 司 里 丘 同uSFgmo を確
立し維持することは不可能である。
(加)
以上の要約であきらかなように、マックラウドの定式佑した﹁法則﹂は、表現万法に若干のニコアンスの相異こそ
あれ、、きわめて明確である。ところが、かれはこの﹁法則﹂を、複本位制を非難し単本位制を擁護せんとする自己の
強烈な立場において主張するために、かれのこの﹁法則﹂にたいする単純明快な見解が複本位制にたいする説明と錯
綜し、いささか理解を混乱せしめる因となっているのはおおうべくもない
c複本位制にのみ限定されるものではない
乙の﹁法則﹂を複本位制にたいするはげしい非難の根拠に利用するとき、自己の立場を固執することの熱心さのあま
・
∞
3 ・hzml
りそれがひとつの特殊なばあいへの適用にほかならない乙とをヨリ明確化する努力を惜しんでは、読者に若干の疑念
を印象づけることになるかもしれないのである。
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∞
﹁o
EOBgz 。同司。E-g- 開円。ロ。ョア﹂∞m
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(
1
) 出。ロミロロロロEm 冨RFg内
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一
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(
2
) 乙の書簡が書かれたのは、ただしくはブランドルヘ旅だつまえではなくて、エリザベスが王位に即いたときであるとパ 1 ゴ
ンはいう
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ζの書はかれの処女作である
D
乙れはかれのもっとも重要な著作であるとハイエグ
ロmzzr20同冨gu可。町田zngZBH
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M・そしてとの書簡の全文
2 ・ 4司xvE己主EZoロfg--FH︼
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G内ア匂℃・ム∞ωl∞におさめられ、また叶ロ門目。円開。。ロ。ヨ古口onE出
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ものせられている。
(
3
) この書の初版は一八五五年であって、
の
刊
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) 乙のパンフレットの表題は Z﹀刻。℃右 Z50 口広3 2 0同神宮ぬ回ωロ
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- である。
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(
8
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ロOぽF
Aωmm・ これは後述するコベルニグスの論稿とともに、一入六四年
バリで翻刻されたが、わたくしはこれをみることができなかった。
グレッシヤムと﹁グレツ、ンヤムの法則﹂
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単 組 AJ:
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n,PP. 425-6.
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.,pp. 427-8.
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(巳) MacLeod,o
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.,PP. 429-30.
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.,PP. 432-3.
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MacLeod,o
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(別) ~AJ ぱ包漏出世『組主主程~ ~
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.437-9.
(幻)冨ωnFOO円ア。?の伊丹-w同YK3u・
(お)第一の問所は経済学の歴史を述べる第一部第三章である。
J匂
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おω・
。?の伊丹
J3・主∞lg
冨RFgp 、
25EEoミ。同開。。ロ。B-2二∞8 ・℃ U・ω∞
l
ω・
第二の個所は﹁経済学の根本概念と公理﹂と題する第二部である。
(却)冨RFgp。?の伊丹
(初)前述のごとく、乙れは一六九六年のパンフレットのなかにある ζとばであり、マッグ一フウドが=吋FO吋VOO門司自仏司円旬。昨日円。
。内切EWER- で引用しているものである。かれはこのことばがおおいに気にいったものとみえて、=J200ミえのZ E同=
においては三九八ページと四四0 ページとに ζのことばを引用し、﹁われわれは乙れに、あるいは溶解されあるいは輸出さ
れるであろうとつけくわえてよい﹂と追加している。さらに=叶宮出UZミー。同開。。ロOBゅのyzu・品目 N においても乙のと
とばを引用し、おなじ文句を追加している。
MO
ps-45一円同伊丹gw出宮件。門司。同開。。ロ。E-g・u・主∞・
(引)冨RFga--50ミ。同わ円。仏伊丹・40--F同 円
pw昨ZFmOBozo包020仏﹀印。220向。円2vωE.印Fω君"=吋﹃MODZ釦円昨日u可﹄0ロ円ロ包O同
(位)紙幣と紙幣との関係にまで拡張するばあい、乙れが法則として成立しうるか否かは問題である。たとえばプェタ 1 戸当・
司ZZ同は乙れを批判する。
即
3 ・主014一色目立。・叶ZE己O門司O同開。。ロOB2・3 ・品目M!?
∞
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由ny--JE--AmwZ。・ ω・4
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凶作。ミえの円。門5・
ゲ 4
(お)冨RFg門
(担)乙の法則の経済法則としての妥当性いかんについては、乙乙で論じない乙とをすでに乙とわっておいたが、ただ乙の法則に
たいするフェタ 1 の批判について一言しておとう。ブェターはその批判的論文においてつ.きのように指摘する。﹁マッグ一ブ
ウドが定式化した﹃法則﹄はあきらかにただしくない。おおくの批評家がいままで指摘してきたように、もしも﹃悪﹄貨が
入
にたいしてはもちろん貨幣的使用にたいしてもふたつの貨幣のあいだに差別をつけるならば悪貨は良貨を駆逐しないであろ
あまりおおくないときには、﹃悪﹄貨は﹃良﹄貨と同時に流通しうる。乙の限定と、もうひとつ、もし世間が非貨幣的使用
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
五
経営と経済
八六
うという限定とは、マッグ一ブウドが示唆しなかったものである。﹂同刀法2・。?巳了?おアしかしながら、マッグ一プウド
はかならずしも悪貨の量が不足するばあいにも乙の法則が妥当するとかんがえたのではなく、むしろ乙のばあいには妥当し
ない乙とを考慮していたといってよいであろう。なぜならば、かれはこの法則を述べるばあいに、二種の貨幣が﹁無制限に
ζとも、すでにふれたように、かれは関説しているのである。した
﹂流通せしめられるとき、という限定をしばしば注意ぶかくつけくわえているからである口また、世間が二種の貨幣に差別
をつけるならば悪貨は良貨を駆逐しないであろうという
がって、乙れらの点についてのフェタ 1の批判は成立しないといってよいであろう。
前節においてわれわれは、はじめグレッシャムが発見した法別であるという意味で﹁グレッシャムの法則﹂と命名
したマックラウドが、 のちにそれはオレ l ム お よ び コ ペ ル ニ ク ス も 独 立 に 発 見 し て い た 乙 と を し っ て ﹁ オ レ l ム・コ
ペルニクスおよびグレッシャムの法則﹂と修正したことをみた。もしひとびとが命名者のはじめのかんがえかたに賛
同して﹁グレッシャムの法則﹂という用語を受容したのであるならば、かれのそののちにおける修正に不合理な理屈
を み い だ き な い か ぎ り 、 命 名 者 の か ん が え か た に し た が っ て ﹁ オ レ 1 ム・コペルニクスおよびグレッシャムの法則﹂
とよびかえるべ‘きであろう。しかるに一般には依然として、﹁グレッシャムの法則﹂という用語のみが流布されてい
る。命名者は﹁グレッシャムの法則﹂なる用語とそれを命名するもとになったかんがえかたを公刊書において修正し
たのであるから、乙れにたいしてはもはや責任をもたないといっていいであろう。ここにおいて本稿のとりあっかう
テl マ が 複 雑 な 状 況 に 直 面 し て い る こ と が あ き ら か と な る 。 す な わ ち 、 一 万 で は ﹁ グ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ﹂ な る 一 般 的
常 識 的 用 語 と ﹁ そ れ は グ レ ッ シ ャ ム が 発 見 し た 法 別 で あ る ﹂ と い う か ん が え か た と が 存 在 し 、 他 方 に は ﹁ オ レ l ム・
コ ペ ル ニ ク ス お よ び ゲ レ ッ シ ャ ム の 法 則 ﹂ な る 命 名 者 自 身 の あ た ら し い 用 語 と ﹁ そ れ は オ レ l ム・コペルニクスおよ
びグレッシャムがそれぞれ独立に発見した法別である﹂というか入がえかたとが存在するつこれらふたつの用語とふ
たつのかんがえかたのうち、いずれを本稿は対象として論じようとするのであるか。第一節で述べたように、わたく
しは用語のせんさくをするものではなく、用語を口にするひとのもつかんがえかた自体をもっぱら問題にするのであ
﹁グレッシャムの
﹁グレッシャムの法則﹂はオレ l ム・コペ
る。そして、もしかんがえかたがかわれば牢固としてもちいられつづけてきた用語への反省もおのずからお乙ってく
るであろうとはおもうが、それは乙とで強制すべき性質のものではない。
ルニクスおよびグレッシャムがそれぞれ独立に発見した法別であるというかんがえをもちながら、
法則﹂という用語をもちいつづけるひとがあるかもしれないし、またわたくしはそれをあらためるべきだと強制する
つもりはない。かくして、いわゆる﹁グレッシャムの法則﹂なる用語については各人の乙のみにまかせ、たピ乙の法
則 は ﹁ ゲ レ ッ シ ャ ム が 発 見 し た 法 別 で あ る ﹂ と い う か ん が え と ﹁ オ レ l ム・コペルニクスおよびグレッシャムがそれ
ぞれ独立に発見した法別である﹂というかんがえとを本稿は対象とする。ところで、第一節において設定した問題は
この法則がまさしくグレッシャムの発見した法別であるか否かということであった。結論をさきにいえば、それはグ
﹁乙の法則はオレ 1 ム・コペル
レッシャムの発見した法則ではないということになるのであるが、わたくしの乙の結論は、単に﹁乙の法則はグレツ
シャムの発見した法別である﹂というかんがえにたいしてむけられるばかりでなく、
ニクスおよびグレッシャムの発見した法別である﹂というマックラウドのかんがえにたいしてもむけられるものであ
ることを注意しておきたい。たしかに後者すなわちマックラウドのかんがえは前者を修正し拡充したものであり、た
だゲレッシャムひとりを問題にするとときせまい視野に限局せられないのであって、ただグレッシャムのみを問題に
八
する本稿とはその視野を異にするという乙とをみとめるのにやぶさかではない。本稿の結論をもってしてもマックラ
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
七
経蛍と経済
有利ならしめ金貨を流出せしめたという論旨はここに明確にしめされている。この記述のなかには、銀貨が毘質され
の記述には歴史的事実と合致しないものがあるけれども、貨幣の毘質が為替を下落させ、為替の下落が金貨の輸出を
(
4
)
ッシュから二二シリング四ペンス・フレミッシュに下落した結果、金貨が国外へもちきられたというのである。かれ
(
3
)
貨︺の庇質にあるというのである。そして為替相場が一ポンド・スターリングあたり二六シリング八ペンス・フレミ
(
2
)
すなわち、グレッシャムは﹁書簡﹂の冒頭において為替相場がなぜ下落したかを論じ、その第一の原因は貨幣︹銀
れました。そこで為替は二六シリング八ペンスから二二シリング四ペンスに下落いたしました。これが陛下の良質の
(
1
)
金貨がすべて乙の陛下の王国からもちきられました原因でとざいます。﹂
の原因は、陛下の亡き父君国王陛下が貨幣を純分六オンスから純分三オンスへ毘質なさったことによりまして醸成さ
陛下には以下述べますことをなにとぞ御理解くださいますようおねがい申しあげます。すなわち、為替下落の第一
﹁女王陛下
﹁書簡﹂はつぎの文章からはじまる。
に﹁書簡﹂という)。
宛書簡に集中されなければならない。いまや乙の書簡をとりあげるべき段階にきている(以下この書簡のことを簡単
きて、以上のととき目的をもっ本稿の議論の焦点は、第二節で指摘しておいたように、グレッシャムのエリザベス
しない現在においては、部分的たるをもって満足するほかない。
あって、オレ l ムおよびコペルニクスについては否定も肯定もしない。かれらの所説を直接検討しうべき資料を所有
たいしては乙れを完全に否定する。しかし後者マックラウドのかんがえにたいしてはこれを部分的に否定するのみで
ウドのかんがえを全面的に否定しあるいは肯定することができないのは明白である。本稿の結論は前者のかんがえに
1
¥
、
1
¥
、
たという乙と、および良質の金貨が国外へ流出したという乙とがあきらかに述べられている。しかし銀貨の毘質が直
接の原因となって金貨が国外へ流出したという分析はついにここに発見する乙とができない。銀貨の尼質と金貨の圏
(
5
)
外流出とのあいだには、為替相場の下落という媒介項が存在するのである。グレッシャムの論旨からすれば、乙の媒
介 項 た る 為 替 相 場 こ そ か れ の 主 要 テ l マであって、単に媒介的接続的位置にとどまるものではない。低い為替相場は
イングランドにとって破滅の原因であり、したがって為替相場を高めなければならない。そのためにはなぜ為替相場
﹁書簡﹂はこのような認識と意図のもとに執筆されたのである。
が下落したかの原因を追求しなければならない。為替相場はイングランドにとって死活の鍵をにぎる重大な要素であ
る
。
(
6
)
﹁第二に、戦争のために、国王陛下はブランドルにおおきな借金をなさいました。そしてそれの償還は為替によっ
(
7
)
ておこない、そしてその支払いのためには良質の金貨をもってゆくよりほかに方法がありませんでした口﹂
乙こでは、 へンリ八世が戦費をブランドルの富豪商人から調達し、その償還を為替手形によってなすことにより、
為替が下落する乙とを述べている。もちろん為替手形による償還が良質の金貨の支払いによってなされることは、貴
金属の流出となって、のちの重商主義者にとりおおきな関心事となるべきものであるが、グレッシャムにとってはそ
うでなかった。かれは、為替の支配権の牛耳をとりえないかぎり、金貨の獲得ないし流出阻止のためにいろいろな政
策を講じてもそれらは結局外国商人に牧奪されるという大局的認識から、高為替の維持に最大の眼目をおいたのであ
る。戦費を大陸富豪商人より借りいれるかぎり、その支払いは良質の金貨でなさなければならないことは当時の事情
では当然であった。かれはその﹃為替の理解のために﹂のなかで商人の為替による操作を論じ、﹁ヨリ貧乏な王が利付
で調達した貨幣で戦争を維持しているときに、もしヨリ富裕な敵がそれをもとめかつ︹ヨリ有利な条件で︺それにた
J
¥
、
いし支払おうとするならば、貧乏な王より貨幣をひきあげ︹てヨリ富裕な敵にそれを貸与す︺る﹂という操作を述べ
グレ的ノシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
九
経嘗と経済
わなければならない。
﹁第三に、スティ l ルヤ lド ω江戸︼可向島。
(位)
要な点でとざいます。﹂
ggg 君。=において先見の明を発揮なさらなければなりま
一三二 O年以降ハンザ商人がロンドンにおいてもっていた居留地の名称であり、テ
(叫)
ングランドの外国貿易は、 ハンザ商人のみでなくブランドルやイタリアの商人によってもいとなまれ、これら商人の
ゆるさなかったロンドン市でさえもハンザ同盟の特権にたいしてはほとんど異議をとなえなかった。中世におけるイ
(句)
グランドにおける反外国人立法はつねにハンザ商人の特権を保護する例外条項をみとめ、自己の特権の妨害を容易に
ユω によって一四世紀半ばごろにはその保護は最高潮に達した。イン
gg
。
円
の﹃カルタ・メルカト!リア﹄わRZ 富
ングランドに来往していたが、へンリ二世の一一五七年以来しだいに特権をあたえられ、二二O 三年エドワード一世
自由ないし特権のことにほかならない。ドイツ北部の諸自由都市の商人は、ふるくはアンゲロ・サクソン時代からイ
ムズ河にかかるロンドン橋の上流北岸にあった。したがって、スティ l ルヤ lドの自由ないし特権とはハンザ商人の
スティ l ルヤ lドというのは、
(旬)
二度とかれらの特権を授与されてはなりませぬ、乙れは乙の陛下の王国ならびに王国の商人を破滅させるもっとも章一
せぬもっとも重要な問題点のひとつでとざいます。すなわち、陛下はスティ l ルヤ l ドとよばれています場所にもう
めの特許状の授与、これは陛下が目下乙の陛下の国家
のおおきな自由と陛下の羊毛その他の商品を陛下の王国からもちだすた
豪商人の巨富に仰ぎ、かくして経済的劣者の立場にたつ乙とにより、為替相場が下落することにむけられているとい
うちきられることは必定であったであろう。グレッシャムの関心はより根本的な面、すなわち、戦費の調達を大陸富
(竹)
に経済的劣者であって、大陸富豪商人にたいし良質の金貨でもって支払わなければ、﹁貨幣をひきあげ﹂られ借款を
(叩)
ている。その﹁財政状態は:・・:絶望的﹂で﹁国家の信用は失墜のほ慨に達していた﹂イングランドの国王は、あきらか
(8)(9)
O
九
(行)
﹁国民経済のなかにおいて外国人が重要な地位をしめている﹂ことのために﹁政府は外国人にたいして伝統的
﹁イギリスの商業生活は市民と外国人との相対立する要求によるたえざる争いになやまされた﹂にもかかわ
(泊)
イングランドにおける歴史は﹁イギリスの都市当局とのあいだにおこなわれたひとつのながい休みない争斗の記録﹂
であり、
らず、
(惜)
に好意をしめした﹂のである。しかしそのなかでもとくにハンザ商人にたいしては、グレッシャムがいうととく、お
(旬)
おきな特権があたえられていた。われわれはそれをテュ l ダl王朝初期における毛織物輸出関税の統計によって明瞭
(却)
2
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ω とたたえられてきた
にしることができる。ところで、一四世紀後期まで﹁商人の女神﹂ 吾om。品島市出。同 B
(引)
羊毛にかわって、毛織物が﹁国家の大黒柱﹂となり、輸出品の大宗となるにいたるや、その輸出に特権的独占的に従
(お)
事するマ l チャント・アドヴェンチュアラ lズが一五世紀後半以降その劃然たる地位を確立して、それまでイギリス
(辺)
の対外貿易に従事してその隆盛をほ乙ったハンザ商人と抗争し対立せざるをえなくなった。ハンザ商人は頑強にこれ
(包)(お)
に抵抗し、二ハ世紀前半を通じてその地位を維持する乙とができた。ところで、グレッシャムは﹁もっともはげしい
憎悪心をもった競争者﹂としてハンザ商人と抗争するマ l チャン卜・アドヴェンチュアラ lズの一員であり、そのか
一 五 五 一 年 王 室 財 務 官 同 ミ 巳 司ω22 となったグレ
れがハンザ商人の自由と特権とを排除することにひじような力点をおいたことは、このような歴史的背景を考慮する
とき、きわめて当然のこととして了解できるであろう。 なお、
(幻)
ッシャムの建言にもと事ついて、エドワード六世(一五四七 l 五一二)が一五五二年二月ハンザ商人の特権を剥奪したこ
(お)
と、しかるにエドワードの死後、メアリ女王(一五五三 l 八)はスペイン王フェリーペの要請によりその特権を回復
せしめたこと、しかし一五五六年グレッシャムの主張をいれてふたたび特権を制限したこと、一五五七年ハンザ商人
(お)
の通商断絶にあい特権を回復せしめた乙とl!このように特権がいくたびか剥奪ないし停止され、そしていくたびか
回復せられるという迂余曲折をへて、結局エリザベスの即位のとき(一五五八年一一月一七日)には回復せられてい
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
九
経営と経済
たという事実を念頭においてよむとき、
﹁もう二度と﹂特権をあたえてはならないといっている乙とばの意味が切実
﹁書簡﹂によれば、それにはいちおう四つのことがある。第一に、 ハンザ商人のしめだし。第二に、自
﹁かれら︹ハンザ商人︺は以下のような理由で為替を下落せしめるでありましょう﹂
と述べてい
﹁陛下と自身の国の商人が毛織物関税として一四ペンス支払うのに、かれらはわずか九ペンスしか支
しめることでとざいましょう。﹂
(引)
提供しようと約束したでありましょうか。乙れは時間の経過につれて陛下の全王国と乙の王国の商人たちとを破滅せ
ら、陛下の関税で百ポンドにつき五ポンド得をするというのに、どうしてイングランドの商人よりもヨリ安い価格を
となります。そしてかれらは、その財貨の購入に有利なように為替を支配する︹利己的な︺ひとびとでありましたか
ス支払うのに、ハンザ商人は一ポンドにつき三ペンスしか支払いません。乙れは百ポンドについて五シリングの差額
(叩)
払いません。また同様に、陛下の王国へもたらされるあらゆる商品にたいし、自国の商人が一ポンドにつき)二ペン
る。すなわち、
たってようやく、
ザ商人の特権が為替相場を下落せしめるかについて述べていない。王室財務官としておこなった対策を述べる段にい
さきに為替相場下落の原因の第三としてハンザ商人の特権をあげたグレッシャムは、そこでは、しかし、なぜハン
国商人の優遇。第三に、外国貨幣の低評価。第四に、高為替論。
何であるか。
こと、および国王の海外負債を支払うことを目的としていた。グレッシャムが王室財務官に任ぜられてなしたことは
れたのは、当時一ポンド・スターリングあたり一五ないし一六シリング・フレミッシュであった為替相場を改定する
ためにエドワード六世により召されたことを述
べ簡
る
エれド
ワード六世がグレッシャムを宮廷にい
﹁書
﹂。
によ
ば、
(mU)
グレッシャムは、以上のととく、論点を三つにわけで為替相場下落の原因を論じたあと、これらの事態を改善する
に感じとられうるであろう。
丸s
(担)
ハンザ商人は、イン、グランド王室の財政とこの国の貿易とにたいする貢献をみとめられて、イングランドからの輸
出にさいしてもイングランドへの輸入にさいしても、他の外国人商人はおろかイングランド商人よりもヨリ低廉な関
税を負担するのみであった。このようなハンザ商人の特権が商人仲間のひじような嫉妬と敵意をかきたてる原因とな
(お)
ったことはひろくみとめられている乙とであって、グレッシャムの叙述はこのことをまきしく裏付けるにたるもので
ある。ところで、 ハ ン ザ 商 人 は 関 税 負 担 を 他 の い か な る 商 人 よ り も 安 く し て も ら っ て い る か ら と い っ て 、 イ ン グ ラ ン
ドへの輸入のばあい、その差額だけ安くイングランド人へ売ろうとするほどイングランド国王の恩義を感ずるひとび
とではない。その差額ピけ確実に他の商人より利益がおおきい。イングランドからの輸出のばあいにも同様である。
そこでかれらはしだいに富力を増大してゆき、その財力によって為替相場をかれらの買付けに有利になるようになる
べく高く維持するよう支配するのである。かくして、イングランドの立場からすれば、為替相場は下落する乙とにな
る。低為替相場ではイングランドの海外負債は消滅しない。そしてしだいにイングランドは破滅の運命をたどること
になる。このようにかんがえたかれは、 ハンザ商人をしめだす方策をたて国王にそれをすすめたのである。
(出)
つぎに、グレッシャムは自国の商人すなわちマ l チ ャ ン ト ・ ア ド ヴ ェ ン チ ュ ア ラ lズ に 信 用 さ れ る よ う 努 力 し た と
述べている。これは、あとでかれが述べているように、国家の危急のきいに味方するのは結局自国の商人のみである
から、ハンザ商人のような外国人を信用せず自国商人を信用すべきであるという趣旨から発している。したがって、
(お)
乙れは前述した第一の方策と相まってハンザ商人排斥の主張を補強したものということができる。ところで、かれが
この主題のもとに述べている方策は、すぐっ。ついて述べるように、為替を高めつつ海外負債を償還する乙とを目的と
(お)
するものである。ゆえに、この第二の方策は、前述した為替下落の三原因のうちの第三に関連しつつ、第二の原因の
除去をめ、ざしていたという乙と、かできるであろう。ではかれのいう第二の万策とはどのようなものであったか。ネ l
グレッシャムと﹁グレッシヤムの法則﹂
九
四
ロンドンにおいて二ユ l ザン
一ポンドにつき六シリ
第三に、グレッシャムはあらゆる外国貨幣を低く評価し、それによって沈滞した造幣局に外国の金銀貨を搬入せし
ングないし七シリング節約せしめたばかりか、王国内に財宝を蓄積せしめたのである。
(羽)
ペンスへ上昇した。そしてこのような政策によってかれはエドワード六世を負債からすくい、
(犯)
貨幣と貴金属を豊富に国王の手中にもたらし、このため為替相場は二ハシリング・ブレミッシュから二三シリング四
な高相場であり、商人にとっては不利であることが明白である。ともあれ、このような政策によってグレッシャムは
人にとって有利であったが、いまや一ポンド・スターリングあたり二二シリング・フレミッシュの換算率はひじよう
う に し 、 国 王 の 支 払 っ た 額 は ほ ぼ 一 O 七0 ポ ン ド で あ っ た 。 六 ヶ 月 ま え の 換 算 率 は 市 場 相 場 よ り 低 い の で あ る か ら 商
措置を講じ、ロンドンで返済する一ポンド・スターリングにたいして商人は二二シリング・フレミッシュを支払うよ
ど お り 商 人 に 支 払 っ た 。 そ の 額 は ほ ぼ 一 O 六0 ポ ン ド に 達 し た 。 そ こ で 六 ヶ 月 後 に は 、 毛 織 物 以 外 の 商 品 に も 同 様 の
リングに交換するのであるから、この点では有利である。さて、グレッシャムによれば、国王はグレッシャムの方策
が二ヶ月に延期されるのであるから、商人にとって不利であるが、市場相場よりも低い相場でブレミッシュをスタ!
ス払いで二0 シ リ ン グ ・ ス タ ー リ ン グ を 返 済 し て も ら う の で あ る 。 為 替 の 支 払 い は 通 常 な ら ば 一 ヶ 月 で あ る べ き も の
ったが、商人はアントウェルペンにおいて一五シリング・プレミッシュピけ支払えば、
為替相場は市場相場より低いのである。グレッシャムによれば、当時の為替相場は一六シリング・ブレミッシュであ
強制されてアントウェルペンで支払う金はロンドンにおいて二ユーザンス払いで払いもどされる。しかもそのときの
(訂)
ことに同意をもとめ、かれらがこれを受諾するまで出航禁止命令を解除しないというのがそれである。そして商人が
ーダl ラ ン ト の 市 場 に お け る 毛 織 物 売 上 げ か ら う る 枚 益 の 若 干 を ︹ 国 王 の 代 理 人 で あ る ︺ グ レ ッ シ ャ ム に ひ き わ た す
ダl ラ ン 卜 に む け て 出 帆 し よ う と す る マ l チ ャ ン ト ・ ア ド ヴ ェ ン チ ュ ア ラ iズ の 毛 織 物 商 船 隊 に 出 帆 を 延 期 さ せ 、 ネ
経蛍と経済
九
(刊)
めるよう、計画をたてた。しかしおりしもエドワード六世の死(一五五三年七月六日)にあい、グレッシャムの意見
は ウ イ ン チ ェ ス タ l司 教 に よ り 信 用 さ れ ず 、 乙 の 計 画 は 廃 棄 さ れ た 。 そ し て 司 教 は 逆 の 政 策 を と り 、 フ レ ン チ ・ ク ラ
(引)(位)
ウン貨を六シリング四ペンスに、ピストル貨を六シリング二ペンスに、リアル銀貨を六ペンス半にそれぞれ評価しな
お し た 。 そ の 結 果 、 た ピ ち に 為 替 相 場 は 二 0 シリング六ペンスないし一二シリングに下落した。
つぎにグレッシャムは第四の方策として高為替論を述べる。しかしこれは厳密には万策ではなくて、方策の目的そ
のものである。なぜならば、以上にあげた三つの方策はグレッシャムがいずれも為替相場を高めるための方策とする
ものであり、これらの方策の目的は高為替そのものにほかならないからである。したがって、かれが乙の第四項目に
おいて高為替について論ずる論じかには、以上三つの方策にかんする論述のしかたとまったく異ならざるをえないは
ずである。はたしてゲレッシャムの論述は、為替をひきあげるための方策ではなく、なぜ為替をひきあげなければな
らないのか、為替をひきあげることにはどのような利点があるのか、を説述するかたちをとっている。
2=
﹁乙れ︹以上の説明︺により、為替は充分に気をつけないとあらゆる君主を侵蝕し、ついにはその民富gg。ロ 4
g 己己 ω と に 良 質 の 金 貨 や 銀 貨 を と り も ど す た
をまったく破壊してしまうものであり、なおまた為替は陛下と王国同
めにほかの何ものにもまさってもっとも重要かつ貴重な唯一のものであり、あらゆる種類の生活必需品をふくむあら
ゆる外国商品ならびに自国商品を安価にし、かつまた陛下の良質の金貨や銀貨を王国内に維持するための手段である
乙とが陛下におわかりいただけたことと存じます。例をあげますと、為替は現在二二シリング︹・フレミッシュ︺で
とぎいまずから、︹海外からの送金のぱあい︺あらゆる商人は良質の金貨や銀貨を王国にもたらそうと努力いたしま
︹ロンドンにおいて︺二0 シ リ ン グ ・ ス タ ー リ ン グ を う る た め に は ︹ ア ン ト ウ ェ ル ペ ン に お い て ︺ 二 二 シ リ ン
す。といいますのは、もしかれが為倖で︹アントウェルペンから二0 シリング・スターリングを︺送金しようとしま
すと
グレッシヤムと﹁グレツ、ンヤムの法則﹂
九
五
経営と経済
九六
グ・フレミッシ了伊﹄支払います。またそれ︹二 0 シリング・スターリング︺を金貨や銀貨でもたらそうとすれば、二
一シリング四ペンス︹・フレミッシュ︺かかるでありましょうllそ乙でかれは一ポンドにつき八ペンス節約するこ
︹海外への送金のばあい︺あらゆるひとは
とになります。このため、もし為替がいまの二二シリングという相場を維持しますならば、数年のうちに富める王国
となり、財宝は永久に流入しつやつけるでありましょう。といいますのは、
それ︹二 0 シリング・スターリング︺を貨幣で現送するよりも為替で送金する方が百ポンドにつき五ポンドだけ利益
(川町)
(判)
である乙とを発見するからであります。したがって、為替が高ければ高いほど陛下と王国と民富とはますます隆盛に
むかいます。そして、乙の乙と︹高為替︺は技術と神の摂理によってのみ保持されます。﹂
乙乙にはかれの高為替政策にたいするかたい信念が遺憾なく吐露されているというととができるであろう。
D
以上為替をひきあげるための三つの方策と為替を高く維持することによりえられる利点とを論じきれいったグレッシ
ャムは、最後に、 エリザベス女王のなすべき政策を簡単に要約する。
(一)劣悪な貨幣(銀貨)を六オンスの純分をもっ良貨へ、金貨も乙れとおなじ割合の良貨へ改鋳すること
(二)ハンザ商人にふたたび特権を授与しない乙と。
(三)できるだけ特許状を授与しないようにすること。
(四)できるだけ海外負債をつくらないようにする乙と。
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(桁)
(五)自国商人の信用をうしなわないようにする乙と。なぜならば、陛下のあらゆる危急にさいして味方になるの
はかれらだけであるから。
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為替相場とのあいだには密接な関係があって、前者の変動は、後者に影響をおよぼしていたととがたしかめられる。そのう
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・ ﹁本国における尼質はポンド・スターリングが為替において敏感に下落する原因であり、他方
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ネーダ 1プントにおける庇質は反対の効果そもち、ポンド・スターリングが上昇する原因であった乙とはあきらかである。﹂
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やす乙しあとの﹃諸国の商業ならびに慣習の記録﹄
コ2ugagnorZEE-o 含 ∞zmo∞仏2 冨ZEZ
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銀行の記録、あるいは﹃メディチ家のブルージュ支屈の書簡﹄ z
あるいは﹃シリ 1報告書﹄=叶}︼ゅの巴可司宅2 ∞ーなどの資斜にもと.ついて、十五世紀以降におけるイングランドとブラン
ドルとのあいだの為替相場をしめしている。ヘンリ入世以前における変遷をみておくととはわれわれにとって有益であろう o
dNN80 の著書からル 14Y71が計算したと乙ろによれば、一五世紀初期における一ポンド・スターリングはブランドル
の通貨でちょうど一一一シリング四ペンス・グロ 1 トに相当していた。やがて-ボンド・スターリングは二二シリング一O ベ
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
九
七
経営と経済
z
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- 己銀行ロンドン支屈の報告によれば、一四五三年ごろのブルージュにおける為替
ンス・グロ 1 トと等価値となった。
相場は一ポンド・スターリングあた打一ほぼこ四シリング・グロ 1 トあるいはブレミツシユであった。一四七六年には二三シ
リング六ペンス・グロ 1 トとなり、一四七入年から入O 年までは二四シリング・グロ 1 トであった。乙の乙ろまでは比較的
貨 幣 価 値 の 安 定 し た 時 代 で あ っ て 、 貨 幣 の 肥 質 は イ ン グ ラ ン ド に お い て も ネ 1 ダ 1 ラントにおいても若干おこなわれたので
あ る が 、 双 方 相 殺 し あ っ て 、 為 替 相 場 は ほ と ん ど 変 動 し な か っ た 。 と 乙 ろ が 、 ネ 1 ダ 1 ラントに不安と戦争の時代がおとず
れ、安配者たるオーストリアのマグシミリアンが貨幣守尼質し、つぎに法定純分影高めた。とのよラな不安定性そ反映して
一四入三年には一ポンド・スターリングが二六、ンリング・フレミッシユに上昇し、一四八七年九月にはついに三三シリング
七・五ペンス・グロ 1 ト に ま で 騰 貴 し た 。 一 五 一 四 年 ブ ラ ン ド ル と イ ン グ ラ ン ド と の 浩 幣 官 が 純 分 度 分 析 検 定 を お こ な い 、
平 価 そ 二 八 シ リ ン グ 四 ペ ン ス ・ フ レ ミ ツ シ ュ に さ だ め た 。 一 五 二O 年には三二シリング・グロ 1 トとなった。一五三八年か
ら 一 五 四 四 年 ま で は 六 シ リ ン グ 八 ペ ン ス ・ ス タ ー リ ン グ の ノ 1ブル貨が最高九シリング七・五ペンス・グロ 1 ト、最低入、ン
リング四ベンス・グロ 1 ト(一ポンド・スターリングあため最高二八シリング一 0 ・五ペンス・グロ 1 ト、最低二五、ンリン
ロ・色。刻。。︿2 ・
。u・門広
印
J3・aM│
グ・グロ 1 ト)のあいだそ変劃していた。グレッシヤムが為替相場訟二六、ンリング・八ペンス(・グロ 1 ト・あるいはプレミ
ツシユ)であったというのはこの ζろのことである。
年)ていた。
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o そしてかれは一五四七年一月二十八日に死亡し、三オンスに
印
2 ・。。。円ぬぬれ・切円。z
。 ・開口∞-zznoEYωEE--S 0・
3 ・=ベ│∞一号刻。。 40﹃・。。・nF・s-Elm-
である││エドカードば午、応にさ・き去って四オン二一九万ン一二三げ二有四ごミ、勺ぎに六オン
7E21二 一 主 四 九
毘質するにいたらなかっト。純分六オンス 一人三オンスに吃質したのはつぎのエド h 1ド 六 壮 の 第 五 年 一 五 五 一 年 五 月 一 一 日
て六オンスから四オンスに(一五四六年)院質したのでお一る
ご五四三年)、つぎに一 0 オ ン ス か ら 九 オ ン ス に こ 買 四 四 年 ) 、 九 オ ン ス か ら さ ら に 六 オ ン ス に ( 一 五 四 五 年 ) 、 そ し
へンリ入世は一封度の純分六オンスの銀貨そ一一一オンスに肥質したのではない。かれは一一オンスの銀貨そまず一 0 オンスに
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九
E司
250 ロロ仏02Zロ仏古関え片言明MRFEmo-- と題する
なおへンリ入世およびエドワード六世の治世下における大臣質について、グレッシヤム自身乙の﹁書簡﹂とほとんど同時ま
たはすこしあとに書いたと推測される﹃為替の理解のために﹄
・なおこの小論においてド・ル 14vァ1 の
と記し、グレッシャムの執筆した﹁覚書﹂についてはとく
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g目。ロ明。同巴関口明U2FEmo-- から引用するばあい、ド・ル 1グァー
門
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口B・2yMUM
﹁覚書﹂冨OBOEロ色ロ自において、乙の﹁害簡﹂より詳細な記述そおとなっている。。﹃2ggd 冨OBOEロ
m冨OB。
にのお田町ω自 Zロ仏ロヨと記する乙とにする。
ω
-の執筆した部分については通例のとおり円宮児。。40ア。℃・巳昨・
(5︺乙の点の認識は重要である。かれのかんがえを図式化すれば、銀貨の氾質││為替相場の下落││金貨の流出、というとと
になる。グレッシヤムのいう為替相場下落の原因は、のちに述べているように、貨幣の庇質だけではないのであるが、乙の
図式の第二環たる為替相場の下落││金貨の流出、あるいは為替相場の上昇ll良貨の流入、というかんがえかたは一貫し
てとられている。乙れはグレッシヤムの独創でなく当時のひとびとにひろくうけいれられていた経済理論である 23門
官
S
ω 己﹀仏40Eロ足円切・わOB同高ロ山、百吾OMNZmロ。同何戸紅白ずZYEHmzzE22 何円。ロ。日時円同時国件。ミ・
ロロ考古・ 4Z 冨2
呂町・同︾・昂吋)が、乙のかんがえかたの定型をわすれてはならない。乙れに反して、たとえばアンウィンは、逆に、貨幣の
尼質il良貨の流出ll為替相場の下落、というかんがえをとっているのであって︹後述註(犯)をみよ︺、マツグ一フウド
ζ乙では為替相場そのものには
のいう﹁グレッシヤムの法則﹂はまさに ζのような図式(第一環)をとるのでなければならない。もっとも、アンウィンは
o要するに、グレッシヤムのかんがえかたからは、マツグ一フウドのいうごとき、貨幣の院質l│良貨の
乙のほかに、貨幣の毘質 H平価の下落││為替相場の下落、といううごきを述べているが、
注目しないでお乙う
流出、というかんがえはくみとられない乙とがあきらかであろろ。
(
6
) 回己円moロ'。同y n X J ? k干∞ム
千
九
(
7
) ブランドル(フランダ 1 ス)は、位置的には今日のベルギー西部にあり、一六世紀中葉当時にはオランダ独立(一五入一年
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
九
経営と経済
一OO
ー
l ホラント、ゼ 1 ラントなど北部諸州よりなる)以前のスベイン領、不 1ダ 1ラントの南部の一州であった。ブランドとぞ
オランダとよぶ乙とが通俗的におこなわれているので、念のために附記しておく。ブランドルの東北部にアントウェルベン
(戸国・叶位当ロ3J 河Aw--mEロωロaso 河ZOO同わω1z-us--UMm・同MO--gロ
があるが、乙乙は当時人口一 O万(切己認op。?己了間︼・4m)、ヨ T ロッバの文化、経済の中心地であり、﹁ブランドルの
首都というよりむしろヨーロッパの首都﹂
(
吋ω
4
﹃
ロ
3 ・。。・立件JHY∞ω・訳一二九ページ
・Mg であり、 ﹁︹支配者︺カール五
回ooELY∞ω・出口勇蔵・越智武臣訳、上、一二八ページuaoF540♂。?巳了間 v
世の即位以来、アントウェルベンはまたスペイン帝国の商業上の首都﹂
であった。したがって、アントウェルベンには自由と安息をもとめる学者・芸術家が﹁すべての国民の共通のふるさと﹂
(
叶
ω
当5 ァ。?己了。・∞ N・訳一一一七ベ Tジ)としてあつまり、七ヶ国語をあやつる婦人にであう乙ともまれでなく
﹀=ωBωmP0・Z2包ロ己目。ロ同︾目白
昨ロロ河・
国-
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仏
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国ωm
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明。。ロOB芯
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印命田仲
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ロゆ悼の同伊丹江。ロゆ門戸伊神戸HZF
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(FO色。4roDzrnE円門-zruo目。門戸℃Zoロ色。叶Oロz-oω司包田・∞ω田ωロ丹円。目。ロ仲卸℃円︾Aw--mm曲目白の2Bωロぽ円ロー内角川円FO己円。。ロ
四回日目。
ω-=-BOEO円目。同昨日の2目白ロEZP
ユO円0・昂勾・
とこに設置して、自に二回、午前と午後の一定の時聞に、貨幣市場の中心切OEZにあつまり(のE2zazr。?己f
U02B82・4己]?邑虫・同︾・﹂21イングランド、フランス、ドイ夕、スペイン、イタリアなどの商人が本居や支百を
J
﹃・開・ロJ園・MY昂∞)、全ヨーロッパの為替相場の動向に注目した20MN0042・0?巳了。・MO)。なかでもアウグスプル
グの大商業資本家フッガI同2mm2を中心とする南ドイ吋/の宮豪商人は﹁世界市場﹂アントウェルベンにおいて﹁プッガl
家の時代﹂NZZ52骨門司ロmm2を現出したのである(わF何回︼円。ロZ 円伊ロBNZZ-Z円骨門司ロmmoFA∞um)。新大陸の
廉価な銀の氾濫により、六0 年代以降かれらの金融力の生産的基礎はゆりうどかされ、しだいに衰類してゆくのであるが、
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フランドルの宮豪商人とは、とくにブ
一五五人年当時においてはなおアントウェルベンにおける最有力者としての巨大なちからを保持しているのである百三・
2zazro?巳了叶・開・UJ園噌同︼・ 印
4 可・一大坂久雄‘前掲書、五四
l 六ページ
yトウェルベンにおけるこれら甫ドイツ商人をさすものにほかならない
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(
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) のお田町ωBJ冨OB。EロES-?ωON・50向。丘三∞︺一渡辺源次郎﹃イギリス初期重商主義研究﹄九五ページ。かれらは﹁相
手がだれであろうがわけへだてなく金を融通し、ヨーロッパのすべての首都に支屈をもって、財界において戦争における備
兵隊長の役割を演じ﹂た。吋
gd3・0?の四件JU・∞∞・訳、上、一一一一五ページ。
ロユ
(
9
)ロ
4 po?の伊丹JHY孟∞・勤勉なへンリ七世がたくわえた財宝をへンリ八世は浪費した。通貨を・改悪し、官職そ売り、おも
い間接税を課し、教会を掠奪し、王領地をてぱなし、後継者たちに解決のできない問題をのこした。しかしそれでもなおた
りず、大陸(とくに南ドイヅ)の富豪商人に借金した。吋白453・。?の伊丹JHY∞ア訳一一一一四l 五ページ。
(叩)ひとりイングランド王室にかぎらず、南ドイツの富豪商人のまえでは、﹁ハプスプルグ家同省与日間切︹当時スペインおよ
び神聖ロ l マ帝国王室︺、グァロア家︿己主回︹フランス王室︺、テュl ダl家叶ロ円吉田のような王朝は、金力によって張ら
g ・訳、上、二二五l 六ページ。
れた針金のうえをおどっている人形のような存在であった。﹂吋ω当ロ3 ・。?巳了間 v
・
(刊)一般商人間でも、優者が劣者よりうけとるばあいには良貨に限定したとかんがえられる。。円2EEd 冨OBOEロ︻古BW
Hyso-sopEqv渡辺源次郎、前掲書、九三、九八ページ。
(刊は)切口円mopOHM-巳了間yh干∞デ
(恰)何回忌吋包自己℃帥op吋宮開。。ロOB芯 出 Eo与え開ロm-spdo--?-NSE--S印??印ω∞一重藤威夫﹃英国中世経済の
発展過程﹄二五九l 六0 ページ。
F-33・8 ・ 立 件 J ケ 同 一 重 藤 威 夫 、 前 掲 書 、 二
﹁第四十一条
すべての商人は、あらゆる悪
冨ωmロωnRZ (=二五年六月一九日ジョン壬署名)にもす
たとえぼ、
(叫)大塚久雄、前掲書、一一一一一l 一一一ページ。ハンザ商人については‘高村象平﹃ドイy・ハシザの研究﹄その他の諸論著そ参照。
ハシザ商人のイングランドにおける歴史については、
五五l 六ページ、などを参照。有名な﹃マ lグナ・カルタ﹄
でに外国商人(ハンザ商人のみにかぎらないけれども)保護の規定がある。
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
O
経営と経済
冨ωmgnRgw 田中秀央訳、九五l七ページ。
(
恒)Ffgp 同町件。ミ・??印ω
吋一重藤威夫、前掲書、二五六ページ。
天川潤次郎訳、上、
円
0・
E-
吋
﹁イングランドの外国貿易のうももっともおおきな、かつ、もっとも利益のおおい部分にたいする唯一の公認通路であった。
ドの外国貿易展開の枢軸となった。大塚久雄、前掲書、二一七l 八ページ。エリザぺスの治世にかぎっていえば、かれらは
王制成立とともに、ほぼ全国的統一的組織を形成し、一七世紀半ばステュア l ト絶対王制の崩壊にいたるまで、イングラン
(引)マ l チャント・アドグェンチユアラ iズは一回世紀末ごろ以降、漸次すがたをととのえていき、一五世紀末テュ lダl絶対
開・ ω V
口m
nF8F 三 回
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0・ゎ。B52己ω-nユ己目 sa わygmoE 開
印ゴ張漢柘
-saAmoo-s#M-smp ℃
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0 ページ。
﹃イギリス重商主義研究﹄七l 一
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ω 三回0
.凹匂円。﹄028仏50205
・アドグェンチュアラ1ズにも影響をあたえた。わ同・﹀・司ユ2・﹀E2Bgn。
乙れがついに一六一四年にいたって、ォ l ルダl マン・コケインの計画となり、乙の計画は失敗に帰したが、マーチャント
(加)ただしそれは半製品であった。これを完製品にしあげて輸出しようとするうどきはすでにへンリ七世のころからみられた。
(旬)戸仲間v
2 ・訳、上、七五ページ。
gp 出22ミ・][噂℃・2 合 E20・の円。三ダ同v・
らべても、ヨリ軽い関税そ負担するのみであった。
(
仔 ) FMgpD341yu・宝・訳、上、七一一一ページ。
間
仲
(惜)ピ匂明。P 国仲田件。門司・??目当にあたえられている統計表によれば、ハンザ商人は他の外国人はおろか、イギリス商人にく
七二ページ。
(
旬 ) F仲
間
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凹o
E
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-ヴ 仏伊丹件。・叶ZOC842z 。同開ロ mZZ
p 出22円??匂一℃ア邑色・
印 FnFZ
g-テ
E・
ドを出るととも、イングランドへ来る乙とも、イングランドに滞在し、イングランド中を旅行する乙ともできる。(後略)﹂
料金なく、古来の正しい慢習によって、売買のため、陸路によると海路によるとを問わず、安全に、心配なく、イングラン
O
イングランド臣民のいとなむネ 1 ダ 1 ラントおよびドイツとの貿易の独占権を享受し、それによって、イングランドでもち
JJ ングランドの指導的商品l l毛織物の輸出が-統却していた。﹂ 532・3 ・
。
。
門mgZω 昨日。ロえ
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,印刷
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・マ l チャント・アドグェンチユアラ lズの活動について、さらにくわしくは、だとえば、ゎ??壱印。ロ唱。?
いられる外国製品の輸入の犬部分だけで
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・同・圏一ロロ41p。℃・巳H
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匂F 。℃・己円・一喝三Z日 ﹀ 会 -o子、
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の伊丹
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p 右手・同︼℃-gl∞ア矢口孝次郎訳﹃イギリス経済史講義﹄九五l 一O九ページ一角山栄﹁﹁イギリス絶対主義の構造﹄
開
ロ
ぬ
七一 l 一三五ページ。アシユリ l の書には、他に数種の訳があるけれども、乙こでは便宜上、上掲訳そもちいる。アンウ 4
ンの論文法マ i チャント・アドグェンチユアラーズ組合の一員であったグレツ、ンヤムにかんする研究をふくんでいる。角山
﹃
氏の書(前掲・へ iジ)ばマ l チャント・アドグェンチユアラ lズ組合の書記ジョン・ウ 4 1ラ 1 τ 5452-2(生涯に
T王朝時代に
OA を絶対壬制とマ 1チャント・アドグェンチュア一ブ 1ズ
つ い て 詳 細 不 明 ) の ﹃ 商 業 論 ﹄ ﹀ 吋BE20 。同わ。B522・S
との関係を追求する立場から検討したものである。なお角山氏は﹃商業論﹄について﹁一六世紀いやテュ 1 ダ
おいて、マ 1チヤジト・アドグェンチヤ一フ 1ズの立場から書かれた文献はこの他に見当らない以上、﹃商業論﹄乙そ当時の
唯一の文献であるという乙とができる﹂と述ベ(七二ページ)、しかも(註)において、グレツ、ンヤムの業績についてかんが
ζとが乙れらの論著によって示唆されているといっていいであろう。
えなければならない点がある乙とを附記する(七五ページ)。グレッシヤムについてかんがえるばあい、マーチャント・ア
Tズが抗争した外国商人のうち、ハンザ商人はその宅要なる敵手であった。両者の抗争
ドグェシチュアラ 1ズとの関係を無視してはならない
(辺)マ 1チャント・アドグェンチユアラ
2 ・F68p 自 由 ざ 円 ア ヶ 。 ? 勾 ∞l∞ド戸旬開yMOωlコ一口口dip 名・巳fB-M宝lMO一
については、たとえば、
一O三
4 ツグ地域の生産物を輸入し、イングランドの生産物とくに毛織物をドイ
角山栄、前掲書、七七l九ページ。さらにくわしい文献については、大撮久雄、前掲書、二一九i 二0 ページ、註 (
1
)を
みよ。
仲間︼
(
お ) Fgp 出2Z3・HWHym∞M・かれらはパルテ
グレッシヤムと﹁グレッシャムの法則﹂
経営と経済
ロ
ロ41ロ・。?巳了間MU・孟∞!?
一O 四
Erg-
ッ、東ヨ 1 ヨッバおよびロシアに輸出した。ヘンリ入世の初期には二万反であった毛織物輸出額は一五四九年には四万四O
00反、二五万ポンド・スターリングにのぼった。
)rMN0042・。。.己了間M・ MM4
(川出
(お)グレツシヤムの生涯については、国ロ認。P 。?の伊丹・一回ロσ03 出包﹁ ω。。芯ミ吉伸EO巴伊 与
N ZEロ﹀mo--∞∞ア
マ!サl
句
巴 nz¥・2円JEoEBDB岳ωB(出品吋l a芯ブ=ロFnz。E 門司。同Z旦古ロ己目。唱右目4・吾-SD
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印 lumu一司-MN・ωωZ2・ 2円12MOBBO円ggs・ 4
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u 色。F540Fo?のFHJ同省・﹂∞ lω0・などを参照。かれは一五四三
TサTズが取引したのは反物B22
ュ2 で あ り 、 反 物
岳ω自のもとで徒弟の課程をおえて、マ 1 サlズ・カムバエ 1の一員となった。マ
年、絹織物商である叔父印可︼ogDZ
マーサl ズ
ーチヤシト・アドグェンチユアラ tズの社会的系譜は絹織物商(マ
リン不ンカシパス
グロ│サ│ズドレ
fパズ
E3・。匂・の伊丹JU・∞プ訳一 O 一ページーーから、ひ
とは亜麻布、厚地紅布、なかんずくすべての絹織物であった││旨
のアドグェンチユアラーは新しい外国貿易業務に従事しながら、一方では従来と同じく市の組合に所層していた。というの
ろく反物商と訳してもよいであろう)を中心とし、香料商、毛織物商その他から構成されていたのであり、しかも﹁間々
は、かれらが市民権を保持しようと欲するならば、組合の何れかに所麗していなければならなかったからである。その中で
l 二ページ。
もかれらが最も深い関係をもっていたのは絹織物商組合であった。﹂﹀凶Z。ァ。℃・己了間︼・∞ア訳一 O 一
(お)わ同-E官。F 田町件。円ア一??印∞ M一ロロ名古・0匂・己同・・3 ・手一ア手∞・政府が特権停止にさいしてあげた理由は、年々約二万
ポンドの関税政入の損失がある乙と、エドワード四世のときにむすばれた互恵条約に違反して、ドイツにおけるイギリス商
人に自由があたえられないこと、ハンザ同盟の特権ははじめのうちはイングランドに有害であるどころかむしろ有益であっ
(二)ドイツの
Tダi ラントとの半製品毛機物貿易について享受する独占的特権をおか
(ごプロシャの諸都市がイギリスの商人の入国をみとめること、
たが、いまでは邪魔になっていることなどである。
(幻)このさい、ふたつの条件がついていた。
商人はマーチャント・アドグェンチユアラ 1ズがネ
さない乙と。
J
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3 ・-ul切口一色。河 840F 。u-nZJU・MM42aロoZ・
ロロ41ロ・。。・己仲
(mA) ロロ41po?の伊丹 J
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・
(mU) それは一五五一年、グレッシヤムが三二才のときであった。ロロ41p。?の伊丹 J 匂
FMOωロ・二ぽ河 840門"。?の伊丹3℃・MMAロ・
(叩)乙れはすぐあとにあるように、五ポンドの誤記である。しかしこの数字はどのような計算にもと.ついて算出されたのかわか
らない。
同
yM宏・
(引)切ロ同問。P 。匂・己了間YA∞ム・
(明記)ロロユ
4P 。?の伊丹
J
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n伊丹3??mωア
(
お) Q・ピ宮
S・
(担)後述九六ページ参照。
ロロ考古・。?の伊丹
J
同
YAks-
(お)アンウィンも、乙の操作がハンザ商人の特権の排除とマlチャント・アドグェンチユアラlズへの独占の賦与をふくむと述
べている。
げかけられるけれども、為替相場を低めなかったということ、別言するならば、もしかれの方策なかりせば下落したであろ
(お)後述註(柏崎)で指摘するように、かれがこの方策によって為替相場を積極的に高めたという点についてはおおくの疑問がな
う相場よりも高い相場で外債を償還するととを可能ならしめたという点にかれの方策の苦心をみとめるならば、かれを信頼
してしかるべきである。なぜならば乙の方策によらないで外債を償還するには、アントウェルベンにおいてロンドン宛手形
色
。
岡
山 840♂。?の X J 3・MSlMO
を売却するか、ロンドンにおいて外国為替手形を購入するかしなければならないが、このためフレミツシュ貨にたいする需
要の増加、スターリング貨の供給過剰となって為替相場は下落するからである。
一O 五
ントウェルベン聞において﹁ユーザンス払い﹂(一ヶ月払い)であった。なお半ユーザンス、ユーザンス、一一ユーザンスの
(訂)一一ユーザンス払いとは、為替の支払い期限が手形作成の白から二ヶ月であることを意味する。通常の為替はロンドンllア
グレッシヤムと﹁グレッシャムの法則﹂
経営と経済
うち、いずれによるかは商慣習によってきまるのである。
・
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一O 六
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。ZF 。円︼・己ァ・℃・ 3? の円。吾川出ヨJ
Z。ョミ ωコ 仏ZB-
(お)グレツ、ンヤムが自己の業績そかたる乙とぱそわれわれがそのまま信じて土いかどうかについては疑問がもたれている。たと
え ば 、 ア ン ウ ィ ン は ﹁ 者-Fω82 博士のイギリス株式会社にかんする大著が最近日限されたが、それまではグレツ、ンヤ
ムの功績についてのかれ自身の記録はひ乃くうけいれられ、乙れそ批判的に分析しようとする試みはごくわずかしかなかっ
二年ごろにおける為替相場の上昇について、つぎのようにいう。まず為替相場が三二シリング(一五二O 年)から二二、ンリ
た。しかしその記録はたしかに批判をまねくほどのものである o
﹂といっている。ロロ三P 。
同
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同JHyd-- そして一五五
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)
(
2
) におけるド・ルldvァ!の説明、および註 (
における貨幣此質の概略を参照せよ︺、
つぎに為替相場が一一一な
ング四ペンス(一五五O 年)に下落したのは、イングランド貨幣の此質の結呆生じた鋳造平価の変動によるのであり︹前述
註
い し 二 二 シ リ ン グ に 上 昇 し た こ 五 五 二 な い し 一 五 五 三 年 ) の は 、 一 五 五 一 年 八 月V質貨幣の額面価値号半分にきりさげて
銀貨の含有する銀の量を吃質前のそれの約%から豹刊にあげたためである。すなわち、一こないし一一一一シリングの為替相
場ははじめの一一一一一シリングという相場の約仏に相当しているのである。したがって、グレッシヤムが自己の巧妙な手腕に
よって一六シリングから一一一一一シリングにあげたというのは、ひとをあざむ ζうとするものでゆるせない︹アンウィンの論調
はきびしい︺。つぎにグレッシヤムはもうひとつ別の意味で為替相場を上昇せしめたといっている。それはイングランドに
とって有利な為替相場にしたという意味である。乙れは平価の変動とはまったく別聞の変動である。有利な(市場)為替相
h 高い相場であわ、市場相場が平価相場より上昇したり下落したりするのは、ある国における一定量
場とは平価為替相場よ 円
の金や銀が他の国にくらべてヨリおおきい価値号もつ(購買力がヨリおおきい)か否かによる口貨幣価値のヨリおおきい国
の商人がヨリちいさい国の商人に負債があるとき、かれは他に方法さえあれば貨幣で支払うことそ避けるであろう。逆に貨
幣価値のヨリちいさい国の商人は、貨幣現送費が両国聞における貨幣価値の差よりおおきくなければ、貨幣で支払うであろ
ぅ。要するに貨幣価値のヨリおおきい固には貨幣が流入してくる。そしてこのような河ほ貨幣の流出する国にたいして有利
いては、地金はアメリカの新鉱山からヨーロッパ諮問へ必然に流入し、イングランドへはアントウェルペシそ経由して流入
な為替相場をもっ土うになる。したがって、有利な、為替相場は金銀の流入の結果であって原閃ではない。一六世一紀中壊にお
するゆえ、イングランドがアントウヱルベンにたいして有利な為替相場をもつのは当然である。グレッシヤムは為替相場を
有利にしたのは自己の最大の業績であると主張するが、それはすぐれた政治的手腕のうみだした奇跡でも何でもない。グレ
ツシヤムが、それをひとに信じ乙ませえたのは、政府がおどろくべき悪政︹貨幣の吃質︺によって為替相場を一時異常な状
態におとしいれていたからにほかならない(貨幣の尼質ll良貨の一時的流出ll 一時的な不利な為替相場)。しかし乙の
異常な原因にもとづく良貨の海外流出がやめば、正常に地金が流入してきて、為替相場はふたたび有利になる。アンウィン
はこのように論じてグレッシャムの自信過剰││自分が為替相場そ上昇せしめ、かくして金銀の流入をもたらしたのである
pa ・己仲33・﹂虫1ベ・もっとも、グレツ、ンヤムは、本文に記したように、貨幣および貴金属の
ー ー を 批 判 す る 。 巴 ロヱ
d
流入が為替相場を上昇せしめたということをみとめているかのごとくにみえるが、すぐあとには、高為替相場が財宇一そ蓄積
せしめたとかいているのであって、乙の﹁書簡﹂全体からみても、為替相場が金銀流入、有利な貿易の究極原因であり、
為替相場の操作が政府の最大関心事でなければならないというのが、かれの為替論の骨子であるといえるであろう。また、
dy ァlはつぎのようにいっている。﹁かれはたしかに、自己が為替相場を操作する能力と他人が操作する能力とに
ド・ル l
ついて誇接された意見をもっていた。だからわれわれはかれが政府への報告書のなかで進-一目しているすべての政繁そその額
面どお内うけとってはならない。為替が上昇すればすべての功繭守自己に帰し、下落すれば他人そ非難するのがかれの鮮で
あった。かれが客観性そかいていた乙とのいもじるしい例は、エリザペス女王が王位に即いてのちまもなく、かれが女王に
宛てて書いた有名な書簡︹われわれがいま問題にしているところのもの︺のなかにあたえられている。乙の書簡のなかで、
一O七
グレッシヤムは、女王の先代の諸王にたいするかれの宰仕の重要性そ強調し、一五五一年から一五五二年にかけて為替を一
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
経嘗と経済
一O 入
六シリング・ブレミッシユから一一一一一シリング・ブレミツシユに高めたととをすべて自己の名誉にしている。乙の上昇はけっ
してグレッシヤムの手腕によるものではなかった。永続的な改善は永続的な原因によるものでなければならない。乙のばあ
い為替の上昇は皮質されたテストゥ l ン貨を半分の価値にきりさげ、それにともなって鋳造価格をおなじ割合にきりさげた
z
oユ吉田Zュ
ω ・ところが、当
g 仏のデフレーション的政策に帰せられるべきであるよ骨河内52ァ。ヲ己了間︾匂・2∞l
のグレッシャムは、乙の﹁書簡﹂のあとでもセシル者三百自の2 即日(一五二O l九八)に宿てておなじようなととをくり
かえし述べている。すなわち、一五五九年三月かれはセシルに自己がエドワード六世の時代に実施した計画をくりかえすよ
うすすめ、自己の以前の功績をつぎのようにのべている。 ﹁エドワード王の時代の為替はわずか一六シリングでした。わた
m
M・
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回
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。poHY 丘デ・][・。・ME・口問・ロロ41pou-nF同
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とは、ウ 4 ンチェスタ l侯冨問。ロo
g (富山Z E 印 )
同
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yo 師同角川♂
d﹃ロ
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くしはそれを一一一一一シリングにあげなかったでしょうか。そして二O ないし一一一一シリングでかれの全負債を償還しなかったで
しようか。﹂
O
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2
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﹀ -F-MN0唱
4 曲。によれば、かれは﹁融通がききものわかりのよいひとで:::︹へンリ八
己
f H ・ ・ム∞ムl
(泊)回日ぬ
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印
(川刊)ウ 4 ンチェスタI司教 wuZ3ゆ え 巧 百
M
g
E の乙とであろう。
者三宮日同
二年のあいだ、エドワード・メアリ・エリザペスのもとで大蔵大臣をつとめた。﹂見。者問 0・吋宮開口ES仏 え 巴 定 与ZY
世・エドワード六世・メアリ・エリザペスの︺四代にわたるあらゆる嵐をきりぬけ、一五五O 年から一五七二年にいたる二
0
℃-n-7・
3 ・己ol--
忠・そして河 c
﹃印。はさらに、ウ 4 ンチェスタ l侯がグレツ、ンャムの通貨安定政策を後援したと述ベ、またエリザ
品印プ℃・ ω
d
ベスをはじ治おおくのひとびとがかれの忠告をうけいれその成果を期待したと述べている。同州。調印。・
乙れによってみると、ウインチェスタ l侯とグレッシヤムとのあい、だにはいささかも間然するところがなかったごとくであ
0﹃
4 目。はひとびとが政繁の表面上の変動だけをみて不連続と評価するのに異議をとなえ、テュ i ダl王朝の政策にむ
州
同
しろおおくの連続性をみようとする立場にたっているので布。項目F 。ヲ♀f ? 隠 さ 、 大 蔵 大 臣 ウ イ ン チ ェ ス タ l俣の態
る
。
度にも連続性を強調するのであろう。しかしグレッシヤムからみれば、エリザペス女王のもとにおけるウインチェスタ l伎
の態度には節操にかけるものがある乙とになるのではなかろうか。なぜならば、ウインチェスタ l伎は二度までも(エドり
回 目 ぬOps-n-fHW
宅-solプ ωMm・
lド六世のとき、およびメアり女王のとき)なかぱっくりぱなしそまじえて国王に告げ口をし、グレッシヤムを失脚させよ
うと策したからである。
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zpZロ・ロ。zpgmz-z=-gmz-GE
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P ミ包)銀貨
・
(削)当時イングランド圏内には、イギリスの金貨(ロ。
EZEロぬ)のほかに、外国の貨幣(たとえば、 Fg与の円。43・ω百三田町 E27 ロEnZ22-p
(
肉
円
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巳-EロgpF円
2・
m円
12己主)が相当量流通していた。ロロ司ユロ・。?の伊丹 J
∞己認ロロ色EPE22・
プフレンチ・グラウンは、当時の文献に
・
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しばしば引用されていると乙ろから、イギリスの貨幣とほとんどおなじくらいひとびとにしたしまれていたとおもわれるの
][WJ
h
5・
∞
司
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ω・
∞
印
円
小松芳
pvmo
であるが、はじめ六シリングに評価されていた。ロロ41pou- 己f u ・ω
ω
ω ・それを司教は六シリング四ペンスに評価し
・
J 4。
なおしたのである。のちにエリザペス女王は外国金貨の通用価値をひきさげた(一五六O 年一 O月九日布告)。
Fロωmo 。同の円。ω同切円山台ユロ ωロ色広田口2︼
河口内ロロ伊﹀ロロ包明。町三おわO
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凶
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口
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切
口
同
旬
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ロ
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u-nF同・・ ][-u・ ∞印
喬﹁封建英国とその崩壊過程﹂二二五.ページ。
(位) (特)
(判)なお、高為替相場がイングランドの富を回復し隆盛にみちびく経済的論理については、いま引用した文章のほかに、とくに
(a)
海外からの送金が金銀貨でなされること、
(b) 海外への送金が為替
覚 書 ﹃ 為 替 の 理 解 の た め に ﹄ を 参 照 す る 必 要 が あ る 。 ロ-pggBd 冨OB2SEE-3・8印li
吋・渡辺源次郎、前掲書、
一
O五l 六ページ。﹁書簡﹂においては、︹1︺
によりなされる乙とから、王国内に金銀が流入し王国の宮が増大する乙と、︹2︺外国商品を安価に買える乙と、︹3︺ 自
国商品を安価にするとと、の三点のゆえに高い為替相場がイギリスに有利であると論ずるのであるが、﹁覚書﹂においては
一O九
︹
1︺イギリスで支払う一ポンド・スターリングにつき海外でヨリおおくの金銀がえられる乙と、︹2︺外国商品を安価に買
グレッシヤムと﹁グレッシヤムの法則﹂
経営と経済
える乙と、
︹
3︺外間人貿易商そ侵蝕すること、の三点のゆえに高為替そ主張する。
二。
﹁書簡﹂における︹1︺は為替相場と
正貨現送費との関係から金銀の流入か-説くのにたいし、﹁覚書﹂における︹1︺は為替相場の高低による換算そ説き、﹁書
が附加されている。﹁書簡﹂における︹3︺は高為替の結果でなく、むしろ高為替桁持のために同同商品そ低刷絡におさえよ
︹3︺にはくわしい説明
簡﹂における︹2︺お上び︹3︺には何らの説明がなされないのにたいし、﹁覚書 L における︹2︺
ζ のためには生産者の工賃をできるだけ低廉におさえなければならないことはいうまでもない。
うとする政策の表現にほかならないというべきである。これは﹁覚書 L において為替をひきあげるための方策の第九にあげ
られているところであり、
をみなおさえている。また、 ζれは為替相場そ上井せしめるための三つの方策と本正確に対応するものではないが、グ L ッ
(布)回ロ円肉。P 。 ? 己 了 ? ? お デ 乙 の 五 つ の 政 策 ほ 、 為 替 相 場 ド 落 の コ 一 つ の 原 因 と 正 確 に 対 応 す る も の で は な い が 、 こ れ ら
シヤムにおける外同貨幣の低評価が円凶貨幣の改善令前提していたと解すれば、三方繁テすベてふくんでいるというととが
できる。しか永田国貨幣の改善守前提して外阿貨幣低評価方策そたてたと解釈することは、史実にてらして点不合理ではな
いとかんがえられる。なぜならば、イングランドの貨幣はエドり iド六世の悪名高き大蛇質(一五五一年五月)ののち、一
刻
。
。
40
ァ。匂・己了宅
-mmlg) が、グレッシヤムが外国貨幣侭評側方策そたてたのはエドり1 ド六世の死(一五百三年七
五 五 一 年 一 O 月および一五五二年三月にいちじるしく改善(純分一一オンス一ペニー・ウェイト)されたのである(帝
月六日)のすこしまえとみられるからである。
マックラウドの﹁ゲレッシャムの法則﹂にかんする見解をそのいくつかの主要
到達した見解をもっともただしく表現するものであることを述べた。
再書をたどりつつ吟味し、その結果﹁オレ l ム・コペルニクスおよびゲレッシャムの法則﹂とよぶのがかれの最後に
きて、わたくしは第二節において、
四
つぎに、第三節においては、 マックラウドがグレッシャムをひとりの独立した発見者と称する根拠としたグレッシ
ャムの﹁書簡﹂を細部にわたって吟味し、その結果ゲレッシャムはけっして銀貨の庇質を金貨の流出の直接原因とし
ているのではなく、為替相場の下落が金貨(良貨)の流出の以因であるとし、銀貨の皮質は海外負債やハンザ商人の
特権とならんで為替下落のひとつの原因にほかならないと主張していることを述べた。かれの思想は高為替を論ずる
一為替は充分に気をつけないとあらゆる君主を侵蝕し、 ついにはその民
一良質の金貨や銀貨を王国内に維持するための手段﹂、﹁為替が高
﹁為替は陛下と王国とに良質の金貨や銀貨をとりもどすために他の何ものにも
個所に、きわめて明白直裁にかたられている。
富をまったく破壊してしまうもの﹂、
まさってもっとも重要かつ貴君な唯一のもの﹂、
ければ高いほど陛下と王国と民富とはますます降盛にむかいます。﹂│!これらのことばは為替相場こそが良貨の流出
流入を決定する鍵であることを解説の余地なくしめしている。かれの関心はすべてこれ為科相場ひとつにむけられて
いる。銀貨の皮質をあげたのは為梓相場下落のひとつの原因としてであり、また貨幣の改鋳を政策のひとつにあげた
マックラウドのグレッシャム解釈はあやまっていたといわなければならない
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﹁グレツ
﹁忠貨は良質を駆逐する﹂
のは為替相場をあげるためであって、けっしてこれによってた、にちに良貨の流出をふせぐためではなかった。
かくて、
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(一九六一・四・一二)
﹁オレ!ム・コヘルニクスおよびグレッシャムの法則﹂という
という経済法則は、グレッシャムが(オレ 1 ムあるいはコペルニクスとは独立に)発見したものではない
シャムの法則﹂という用語はもちろん無意味であり、
用語からもグレッシャムの名は消きれなければならないのである。
グレッシヤムと﹁グレッジャムの法則﹂
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