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ユ リ - 新潟経済社会リサーチセンター
第7回 ユ リ 新潟県立植物園 副園長 倉重 祐二 新潟にも自生するヤマユリ 観賞だけではなく球根は食用にもされた 今回はユリのお話です。では、最初に問題。ユ てである。シーボルトは日本人に蘭学を教授する リの花びらは何枚でしょう? 等、我が国の自然科学の発見に貢献したが、帰国 ハイ、答えは6枚ですね。実はというほどでは の際に国禁の地図を持ち出そうとした容疑で1829 ないのですが、外側の3枚は萼 が変化したもの 年に国外追放された。いわゆるシーボルト事件 で、内側3枚が本来の花びらです。ユリやラン、 である。 アヤメの仲間である洋ラン、チューリップや花菖 その際、彼自身の植物コレクションの中から 蒲なども花弁数は3が基本です。外側の萼由来の 1,200株を選び、オランダに持ち帰ったが、半年 花弁を外花被、もともとの花びらを内花被といい に及ぶ長旅により、わずかに260株を残して枯死 ます。ランの場合は内花被の下の1枚がさらに したという。ユリの球根は10種類のうち7種類が リップ(唇弁)に変化しています。 生き残り、開花時には新聞にその美しさが紹介さ そんなことはどうでもいいのですが、ユリと言 れるなどヨーロッパで絶賛を博した。 えば、明治時代の球根自生地の争奪戦はすごかっ たらしい。 自生地を探せ ヨーロッパでの日本のユリの評価を知ってか、 シーボルトが球根を持ち帰る 江戸時代も末、慶応3(1867)年から横浜に住ん 日本のユリが西欧に渡ったのは1929年のこと。 だイギリスのジャーメンによってユリの球根が輸 オランダ商館医として来日したシーボルトによっ 出されはじめた。その後、明治6(1873)年の (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2011.10 34 にいがた花力 ユ リ ウィーンの万国博覧会で展示された日本のユリが 人気を博してからは、横浜に居住する数多くの外 国人が輸出業に参入した。 イギリス人で横浜に住んだバンティングは、ユ リの球根の輸出を手掛けていたが、神戸で花の赤 みが強いカノコユリ、通称アカカノコが飾られて いるのを発見し、その産地が甑島(鹿児島県)で あることを知った。早速、職員を派遣したとこ ろ、島に大量のアカカノコが自生することを発見 した。その球根を秘密裡に買い集め、明治30年ご ろからイギリスに輸出したところ、非常に好評で 高値で売れたため、巨利を得ていた。他の業者も アカカノコの自生地探しに血眼で、韓国にあると いう噂を聞いてわざわざ出かけた者もあったよう だ。しかし、秘密は漏れるもの、明治43(1910) 年の関東地方の大水害によって、球根の船積みに 間に合わなかった甑島の代表者が他業者へ買い取 りの依頼をしたことで、アカカノコの産地がはじ 四国、九州に自生するカノコユリは、園芸品種の 改良親としても重要な役割を果たした めて他に知られることになった。 されてから状況は一変した。 テッポウユリは香りが良く、栽培容易で、すぐ なくてはならぬテッポウユリ に花が咲いて、よくふえる。良いことだらけだっ 明治39(1906)年にはユリ球根の輸出は1200万 たんですね。新潟では見ませんが、関東も南に行 球を超え、大正に入ると2200万球、当時の金額で けば道端や道路にテッポウユリが勝手に生えてい 100万円に達し、政府も重要輸出品に指定するな ます。そのくらい強いユリなんです。テッポウユ ど日本を代表する輸出産物となっていった。 リの英名もそのものずばりイースターリリーで、 当初は外国人によって行われた輸出業も大正に キリスト教の行事にならない存在となったようで 入ると日本人によって行われるようになった。 す。こんな事情もあって、テッポウユリの需要が ちょうどこの時期から輸出の主品目はヤマユリか 増大したのだと思います。 らテッポウユリにうつっていった。 さて、聖母マリアの純潔の象徴として、西欧諸 国ではイースターなどの行事には純白のユリは欠 花より団子 日本の場合 かせない存在である。かつては西アジアから地中 日本には観賞価値の高いユリの仲間、ヤマユリ 海に分布するマドンナリリーが使われていたのだ やカノコユリ、スカシユリなどが自生し、万葉集 が、日本原産のテッポウユリがヨーロッパに導入 や新古今和歌集にも詠まれるなど、古くから観賞 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2011.10 35 にいがた花力 ユ リ 培ということになると、観賞用 としてよりも、食用が主だった ようだ。さらに、ツツジやツバ キ、ボタンなど多数の園芸品種 が生み出された江戸時代にも、 ユリではスカシユリの品種改良 が行われただけであった。翻っ てヨーロッパでは日本から渡っ たユリを交配して品種改良を行 い、後に大発達を遂げている。 本家本元の日本は大きな後れを とってしまったのだ。 江戸時代の新潟でも食用 カノコユリが描かれたユリ輸出のさきがけ横浜のボエメル商会の卸売り カタログ︵明治 年︶ されてきた。しかしながら、栽 33 江戸時代の新潟での状況はど うだったのだろうか。 「越後名 寄」 (1756)を見ると、百合は 「菜蔬類」 牛蒡や南瓜などと同じ に分類されていることから、観 賞用の栽培はなかったと考えら れる。 「百合」の説明には、ど この山にも皆生えるために俗に 山百合といい、山里から掘り出 されて市場に出されることや、 熱湯にしばらく浸して塩漬けに し、シソの葉をもんで汁を加え るなどの調理法が記されてい る。 も う 1 つ の ユ リ、「 巻 丹 」 は「一向見所ナキ花也」とされ、 当時は観賞に供されることはな かったことがうかがえる。 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2011.10 36 テッポウユリ(イースターリリー)が表紙に描かれた横浜植木株式会社の 海外向け通信販売カタログ(昭和5年) にいがた花力 ユ リ 新潟で観賞用の栽培がはじまる 食用ヤマユリの栽培は明治にも続けられてい た。明治44(1911)年に刊行された「新潟県園芸 要鑑」の「蔬菜」の項には、岩船郡関谷村(関川 村)、東蒲原郡東川村(阿賀町) 、三島郡塚山村(長 岡市)、北魚沼郡田麦山村(長岡市) 、中魚沼郡下 条村(十日町市)でヤマユリやオニユリ、コオニ ユリが栽培されていたことが記されている。これ らは食用として栽培されていたのだが、下条村の 説明には明治27年ごろに百合根が外国に輸出され たことを聞き及び栽培がはじめられたとあること から、一部は観賞用として海外にも輸出されたと 思われる。 明治時代における本県の観賞ユリの栽培につい てはほとんど記録がないが、 「新潟県園芸要鑑」 には、石山村竹尾(現新潟市)で明治20年ごろか スカシユリは江戸から明治にかけて改良された ら花ユリの栽培が盛んになり、 「緋鹿の子」及び「白 鹿の子」が流行したと記されている。しかしなが あるユリも多数の品種が大量に生産されたようで らこの流行も明治末期には西洋草花の流行に取っ ある。 「小合村園芸の沿革史」によれば、昭和8 て代わられ、ほとんど栽培がなくなったようだ。 (1933)年に小合村の高山熊平が山口県よりスカ 続く大正時代の状況はどうだったのだろうか。 シユリの園芸品種「日の出」を導入し、後年にこ 小合村(現新潟市)花卉生産者の大正8(1919) の血を引く「新千草」と「金鵄」が本県で作出さ 年の通信販売用のカタログにはテッポウユリやヤ れたが、さしたる流行は見なかったようだ。 マユリなど8種類が掲載され、また15年には24種 戦後にユリの球根と切花生産は、堀之内町(魚 類と増加している。しかしながら、これらは野生 沼市)を中心に大きく変化した。同町では戦前か 種もしくは色変わりであり、全国的にも明治から らユリやチューリップの球根を栽培していたが、 大正時代にはユリの品種改良はほとんど行われな 昭和23(1948)年、堀之内花卉園芸組合が設立さ かった。 れてから生産が本格化した。翌年からチョウセン ヒメユリの実生による球根生産がはじめられ、江 戸末期からはじまったと伝えられるスギの実生法 昭和に入って観賞ユリの栽培が本格化 を応用した結果、通常の半分の期間、1年で開花 昭和初期には、70以上の品種が小合村のカタロ 球を育成することに成功した。そのため生産は拡 グに掲載されている。この時期は本県でチュー 大したが、昭和32(1957)年に価格が暴落したた リップなどの生産が盛んとなり、同じ球根植物で め生産者および生産量は減少に転じた。 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2011.10 37 にいがた花力 ユ リ その後、昭和35(1960)年に滝沢氏が 「越後スカシユリ」を育成したのを契機 にユリの生産が再び増加しはじめる。ま た同氏は非常に困難といわれていたヤマ ユリとシンテッポウユリの交配により 「ゆきのひかり」を作出し、また「越路紅」 や「滝の峰」など数々の新品種を発表し ている。平成5(1993)年までに同町だ けで45もの新品種が育成されている。 昭和50年代には球根生産が過剰にな り、切り花出荷を試みたところ好評を博 したため、生産は徐々に切花にかわって いった。当時は堀之内をはじめとする本 邦育成品種も栽培されていたが、平成2 (1990)年から一部のオランダ産の球根 の隔離検疫が免除されたことや、球根が 安価であったことから、同7(1995)年 堀之内でのユリ栽培 には切花用球根はすべて輸入球根に取っ てかわられた。 オランダで改良、生産され、日本人が毎年買って 堀之内は平成9(1997)年まで切花出荷量が日 いる状況を考えると、うーん、手放しで喜べない 本一、現在も第二位と日本のユリ切花の主要な産 気がします。 地である。でも、もともとは日本の植物なのに、 ∼著者プロフィール∼ 倉 重 祐 二 (くらしげ ゆうじ) 新潟県立植物園副園長。専門はツツジ属の栽培保全や系統進化、園芸 文化史。著書に『よくわかる栽培12か月 シャクナゲ』 『よくわかる土・ 肥料・鉢』(以上NHK出版) 、『増補原色日本産ツツジ・シャクナゲ大図 譜』 (改訂増補、誠文堂新光社)など。 「みんなの趣味の園芸」に面白くてためになるブログ「植物園日記」 (http://www.shuminoengei.jp/?id=3078または「みんなの趣味の 園芸 新潟県立植物園」で検索)を執筆中。ツイッターをはじめました。 http://twitter.com/tutuji_kamemaru NHK出版が運営する「みんなの趣味の園芸」に掲載した新潟県立植 物園の植物園日記を電子書籍として出版しました。パブーから無料でダ ウンロードできますので、是非ご一読ください。 http://p.booklog.jp/book/32962 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2011.10 38