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ボ ケ - 新潟経済社会リサーチセンター
第11回 ボ ケ 新潟県立植物園 副園長 倉重 祐二 淡いピンク色の一重咲きの「ゆめ」 平成21年に日本ボケ協会で「日本のボケ」を出 版しました。小生も「ボケの園芸史」を寄稿しま 明治までは人気が出ず したので、出版記念パーティーに出席しました 中国原産のボケの渡来時期は、平安初期以前で が、会場の看板「日本ボケ協会」がいけなかった。 あるとされる。 知らない人が会場をそーっとのぞきに来ていまし 「本草和名」(918年)に「木瓜 和名毛介」とあ た。一体、どんな人の集まりなのか、皆さん興味 ることや、 「延喜式」(927年)に、 「御杖木瓜三束」 があったのでしょうね。 とあることから、この時代にはすでに相当に栽培 そのボケですが、日本一の生産量を誇るのが本 されていたとされる。日本にもクサボケが自生す 県、毎年発表される新品種もほとんどが県内で育 るが、昔の記録を見ると、 「しどみ」などと呼ば 成されたものであるように、新潟はボケのメッカ れていることから、木瓜は中国渡来原産のボケを といえるでしょう。ボケというとオレンジ色の花 さしていると考えられている。「延喜式」の記述 が早春に咲くくらいのイメージしかない向きが多 は、中国の故事に倣ってボケでつくった杖がこむ いと思いますが、日本ボケ協会が毎年3月に新潟 ら返りを治すと信じられたからであろうし、酒に 市内で開催する日本最大の展示会「日本ボケ展」 浸けた果実が疲労回復の薬に用いられたように、 を見学すると、その花の多様さと華麗さに目を見 当時は有用植物として栽培された。 張ります。 江戸時代にはツツジやツバキ、サクラなど数多 では、新潟県がボケの日本最大の産地になった くの植物の園芸品種が作出されたが、ボケの改良 歴史をひもといていきましょう。 は ほ と ん ど 行 わ れ な か っ た よ う だ。 元 禄 年 間 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2012.02 30 にいがた花力 ボ ケ (1688∼1704)の園芸書には、淀ボケや八重ボケ 盆栽栽培で有名な秋田屋から568鉢のボケ盆栽を など多少の品種が掲載されている程度で、その後 購入し、ある者は名古屋の栽培家のもとへ出か の文政元(1818)年に刊行された「草 木 育 種 」 け、またある者はタネを播いて品種改良を行っ には、淡紅色花のさらさぼけ、濃赤の緋ぼけ、白 た。これらのうち、優等なものを新たに命名し、 花の園芸品種があったことが記されている。ツツ 大正2年に越後小合園芸同好会の名で27品種が掲 ジやツバキには数百の品種があったのにくらべる 載された「放春花銘鑑」を発行した。また、翌年 と、ボケの人気はそう高くなかったことが分かる。 にも同会から36品種が掲載された銘鑑が発行され この状況は近代に入ってからも変わらず、明治 ている。 末期に出版された園芸書や種苗カタログを調べて みても、赤、白、絞りの3品種が掲載されている のみで、ほとんど園芸品種は発達しなかったと考 えられる。 本県においては、宝暦6(1756)年に丸山元純 によって著された「越後名寄」の木瓜の項に、 「花 ノ真紅ナル者有、刺多シ。俗ニヒトメ(シドメ: クサボケのこと)ト云、園ニ栽、 (以下略)」とあ ることから、すでにボケが栽培されていたことが 分かる。一方、小合村(現新潟市秋葉区)では江 戸中期の明和年間(1764∼72)にはボケが生産さ れたとされる。 本県初の通信販売カタログである新潟市の長尾 草生園の「営業目録」 (明治41年)には、盆栽の 項に「寒木瓜」の名がみえるのみで、時代が明治 大正2年の「放春花銘鑑」にも記載された 「緋の御旗」 に移っても他県と同様、園芸品種は未発達だった と考えられる。 さて、ボケは古くから「木瓜」と表記しますが、 これに加えて「放春花」と書き表すこともありま す。後者の表記が最も早く現れるのは大正2年の 大正時代に新潟から起こった流行 越後小合園芸同好会の銘鑑であるため、本県独自 このように江戸から明治にかけてはほとんど発 に考案されたものである可能性が高いと思いま 展しなかったボケも、大正時代に突然のように多 す。放春花は、迎春花(ロウバイ)や報春花(寒 くの品種が現れた。その発端は小合村であり、以 ボケ・シュンラン)からの連想だと思いますが、 下の話が伝わっている。 それまでパッとしなかったボケのイメージを変え 明治時代末より、小合村の生産者は、ボケの盆 るためのネーミングは、商売上、重要な要素だっ 栽を流行させようと、買出しに奔走していた。あ たのだろうと思います。 る者は、紫雲寺村(現新発田市)で回船業を営み、 閑話休題。 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2012.02 31 にいがた花力 ボ ケ こうしてボケの流行がはじまり、大正10年に 長寿」 (発表は昭和30年ごろ)や「長寿楽」を作 は、江戸時代から園芸産業が盛んな埼玉県安行 出している。 (川口市)の埼玉安行同好会から48品種が掲載さ れた「宝家華の名鑑」が発刊されたように、ブー ムが広がっていったことが分かる。 大正11年に発表された「高嶺錦」は現在で も人気が高い 大正も半ばを過ぎると兵庫県宝塚市や東京の種 新潟市秋葉区の岡田氏作出の「長寿楽」 第二次の流行は昭和40年代 苗商の通信販売カタログにも数多くのボケの園芸 状況が変わったのは昭和40年ごろであった。臼 品種が掲載されるようになった。しかしながら、 井小学校の校長であった和田文義が退職後に品種 兵庫県のカタログに掲載されている品種名は新潟 改良に取り組み「金鵄殿」などを作出し、また白 と全く異なり、これらが関西独自の品種なのか、 根市(現新潟市南区)の鶴巻清次郎が「七変化」、 新潟や埼玉の品種を改名したのかは明らかでは 「黒牡丹」、「世界一」や「長寿冠」(昭和59年に農 ない。 林省種苗登録)など数々の新品種を発表した。 しかし、時代が昭和に変わると徐々にボケの人 一方、同時期にさし木の活着率が低かった大正 気は衰え、昭和5年以降にはほとんど販売されな からの人気品種、「日月星」や「東洋錦」を、果 くなり、流行は20年ほどの短い期間で終息したの 樹の接木方法を応用して大量に増殖することに安 だった。戦後もボケの人気は復活せず、昭和30年 田町(現阿賀野市)の加藤悦郎が成功している。 代には10品種ほどしか流通していなかった。こう こうした新品種の作出と増殖技術の開発の相乗効 した中でも、昭和12年ごろから新潟市秋葉区の岡 果で、ボケの第二次の流行がはじまった。 田長吉はボケの品種改良を行い、白花八重の「銀 昭和51年には当時の代表的な園芸雑誌「ガーデ (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2012.02 32 にいがた花力 ボ ケ ンライフ」でボケの特集が組まれ、相前後して新 潟市秋葉区の㈱日園から「かがり火」や「虹」が 日本ボケ協会が新潟で発足 発表された。その他にも埼玉県の改良園、水戸市 昭和50年ごろには、ボケの愛好者や生産者が集 の寺門忠之、横浜市の中村隆吉などにより、数々 まり、品種名の統一、増殖栽培技術の向上や品種 の新品種が作出された。 改良などを目的として昭和52年に「ボッケの会」 当時、ボケの生産は、稲作農家の兼業としても が発足した。同会は「新潟県ボケの会」 、また昭 行われていたが、接木の適期が稲刈りの時期と重 和57年に「日本ボケ協会」と改称し、全国規模で なるため、増殖には限界があった。しかし、昭和 ボケの普及や新品種の登録に貢献している。昭和 50年ごろに新潟市秋葉区の加藤政明が農閑期の冬 53年から毎年開催されている「日本ボケ展」は今 場に接木を行う技術を開発したことで生産量が飛 年で34回を数え、3月4日∼3月13日まで、新潟 躍的に増大し、現在は全国の9割を占める日本一 市秋葉区の「うららこすど」で開催される。 の生産地に発展した。 日本ボケ展の展示風景 ∼著者プロフィール∼ 倉重 祐二(くらしげ ゆうじ) 新潟県立植物園副園長。専門はツツジ属の栽培保全や系統進化、園芸文化史。著書に『よくわかる栽培12か月 シャクナゲ』 『よくわかる土・肥料・鉢』 (以上NHK出版) 、『増補原色日本産ツツジ・シャクナゲ大図譜』(改訂増補、誠文堂新光社)など。 「みんなの趣味の園芸」に面白くてためになるブログ「植物園日記」(http://www.shuminoengei.jp/?id=3078または「み んなの趣味の園芸 新潟県立植物園」で検索)を執筆中。ツイッターをはじめました。http://twitter.com/tutuji_kamemaru NHK出版が運営する「みんなの趣味の園芸」に掲載した新潟県立植物園の植物園日記を電子書籍として出版しました。パブー から無料でダウンロードできますので、是非ご一読ください。http://p.booklog.jp/book/32962 (財) 新潟経済社会リサーチセンター センター月報 2012.02 33