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笹谷街道 工藤迪彦 笹谷街道: ・ 陸奥(みちのく)と出羽(いでは)の国を

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笹谷街道 工藤迪彦 笹谷街道: ・ 陸奥(みちのく)と出羽(いでは)の国を
笹谷街道
工藤迪彦
笹谷街道:
・ 陸奥(みちのく)と出羽(いでは)の国を結ぶ官
道で、小野駅(現宮城県柴田郡川崎町)と最上駅
(現山形市)間をいう。
延喜式 (延長5年(927年)) の兵部省の諸国駅
伝馬の項に、宮城県側に、柴田、小野、名取、玉
前などの駅が、山形県側には最上、村山、野後(の
じり)、避翼(さばね)などの駅があったと記さ
れている。
小野駅には駅馬が10疋、最上駅には駅馬15疋
と伝馬が5疋が配されていた。
※ 1 駅:律令制で、諸道の30里(約16キロ)ごとに置かれた施設。
駅馬を置き、駅使(うまやづか)いに食料・人馬を供する駅長・駅
子(えきし)が置かれた。財源として駅田が給与された。
現在の旧街道
※ 2 駅馬:律令制で、駅家(えきか)に備えて駅使の乗用に使った馬。また、中世
以降、宿駅に備えて一般の旅客の用に供した馬。
※ 3 伝馬:逓送用の馬。律令制では、駅馬とは別に各郡に5頭ずつ常置して公用に
あてた。戦国時代、諸大名は主要道路の宿駅に常備して公用にあて、江戸時代に
は、幕府が主要街道に設け、また、一般人が利用できるものもあった。
・ 奥州と羽州の生活物資の輸送路や出羽三山詣で、江戸時代には参勤交代に使われた。
・ 明暦2年(1656年)羽州街道の小坂峠(宮城県白石市と福島県伊達郡国見町とを結
ぶ峠。標高 441m)の整備に伴い、羽州街道を参勤交代に定めた為、一時衰退した。
※4
羽州街道:江戸時代の街道の一。福島県伊達郡桑折 (こおり) から小坂峠・新庄・
大館 (おおだて) を経て青森に至る、奥州街道の脇 (わき) 街道。
・ 「ささや」と言われるようになったのは?
① 笹の葉が生い茂っていることから笹谷。
② 「あこや姫の悲恋伝説」から。
千歳山の松の精、名取太郎とあこや姫の
悲恋物語から・・・大洪水で流された名
取川の橋の再建に使う為、千歳山の松が
切られることになったが、松の精の名取
太郎が姫との別れを嫌がったため、姫が
笹谷峠まで見送り、峠で最後の別れをさ
さやきあった。それで「ささやき峠」転
じて笹谷峠。
六地蔵の一
冬季の往来には難渋を極め、遭難者が絶えなかった。
・ 八丁平の六地蔵:伊達領から最上領へ荷を運ぼうとした6人の人夫が荷を背負ったま
ま凍死したので、その慰霊と再発防止を祈念して、その道しるべとしてほぼ等間隔に建
てられている。川崎方面の三体は、吹雪に背を向けてか川崎方面を向き、山形側の三体
は道を見失うまいとしてか、吹雪に向かって山形側を向いて立っている。これは発見さ
れた凍死体の向きを再現したものといわれている。
6体のうち4体は土中に埋もれて見えなくなっていたが、笹谷部落の鈴木万次郎翁が探
索・発見し、昭和58年11月11日復元した。
・仙住寺:宮城県側にあった(明治維新後に廃寺)。
伊達二代藩主忠宗建立(寛永19年)の十一面観音
(無耶観音とも。現在は笹谷部落に)・・・旅人の
救助にあたる。
お助け庵跡
仙住寺跡
・尼寺助け庵:山形県側。谷地城主白鳥十郎の姫君が
住んだといわれる。
有耶無耶の関跡
・有耶無耶の関:陸奥の国府多賀城と出羽の国府と
の間の官道笹谷街道にあったとされる関所・・・
軍事的要請に基づくもの。
永久4年(1116年)源俊頼(みなもとのとしより)
に「すぐせや(山)な なぞいなむやの せきをしも
へたてて人に ねをかかすらん」と歌われ、中世まで
歌枕として風雅の対象となった。
・神鳥伝説
明和9年(1772年)仙台藩田辺希文(たなべまれぶみ)が書いた「封内風土記(ほう
ないふどき)」に、『昔この関山に山鬼が住んでいて、旅人を捕らえて食べた。ところが
山中に観音様が姿を変えた双鳥(神鳥)が、山鬼が居る時は「有耶(有也)」、居ない時
は「無耶(無也)」と鳴いて旅人に知らせた』という。
無耶観音は笹谷部落に現在あるが、有耶観音の所在は明治以降不明。
ただ、新山の延福寺本堂前にある聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の石碑
の裏側に有耶関と彫られている。(新山釣堀の山川忠雄氏が昭和58年に有耶観音
を建立しているが、笹谷峠の有耶観音とは別物である)
・ 国道286号線:峠越えの旧国道の開通は、山形県側は明治26年(1893年)、宮城県
側が明治28年(1895年)。
・ 笹谷トンネルの開通:昭和56年 (1981年) 開通
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