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ノーマンの財政改革論について - 香川共同リポジトリ
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ノーマンの財政改革論について 西 山 郎 I はじめに 大蔵大臣がどのようにして財政政策を立案するかは,財政政策の形成過程を 9世中葉のイギリスに限 考察するさいの重要な論点の一つであるが,時代を1 定した場合それはほとんど解明されていないように思われる:しかし,この課 題を達成するには多面的な接近をおこなう必要があり,小論においてそれを十 全におと なうことは困難である。そこで,当面は蔵相が経済学者とどのよラな i 交渉をもちながら財政政策を立案していったかという,私が現在興味をもって いる点に焦点をしぼる。 ところで,スミス以後のイギリス議会を対象としそこに議席をもっ経済学者 たちが議会において社会経済問題をどのように議論し,政府の政策の形成にど の程度寄与したかを解明しようとする,ノース・クエスタシ大学名誉教授フェ ツタ一氏の近著・は..,私の問題意識とよく似た側面をもち興味ぶかい。教授は, 財政の分野におい ては,ハスキッソシ,パーネノレ, l ヒューム, コブデン,ハパ ードらが減債基金や経費,租税を議会においてどのように議論し,彼らの財政 観がどのようなものであったかを分析している。わが国においては, 1 9世紀中 (1) 現代においては,たとえば,つぎの文献が近時の労働党政権下におけるすさまじい ばかりの歳出削減の舞台哀を首席大蔵長官 ( C h i e fS e cI 'e t a r yt ot h eTI'e a s u r y )の自 を通してではあるが,興味深く叙述している。 J o e lB a r n e t t, . : I n s' d et h eT r e a s u y y, London,1 9 8 2 . conomi s .ti nP a r l i a m e n t : 1780, 1868,Durham, (2) Frank W. F e t t e r,The E NOI ' t hC a r o l i n a,1 9 8 0 . ただし,ブヱツター教授のとりあげる 6 2 名の「経済学者J は,アカデミックな経済学者(リカードク, J .S . ミlレ等)の他に,銀行家・実業家 R .ピーノレ,パーネノレ等)を含 (アトクッド兄弟, オーグァストーン卿等),政治家 ( 経済学者」の定義はきわめて隔がある。 む。したがって, I , OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -202- 第5 6 巻 第 1号 202 葉の財政政策の形成に影響をあたえたイグオローグとしてパーネノレが有名であ るが,私が小論におい℃取りあげようとするノーマン (GeorgeWardeNorman) はまったく研究されていない。イギリスにおいても,彼は金融史の分野におい ℃こそ著名であるが,財政史においては無名である。プェツタ一教授の近著に お い て も , 彼 が 国 会 議 員 に は な ら な か っ た が た め に 「 経 済 学 者 Jの 範 隠 に 入 ら ず,対象外となっている。 しかし,私のみるところ, 19世 紀 中 葉 の 財 政 政 策 の 形 成 を み る さ い ノ ー マ シ はきわめて注目すべきイデオローグの一人であろう。そこで,小論においては 彼の財政改革論を紹介し,蔵相とどのような関係をもったかを明らかにした 。 、 L I I 略伝 (4) ま ず 最 初 に ノ ー マ ン の 生 涯 を 簡 単 に み る 。 彼 は 1793 年 9月 に ケ ン ト の ブ ロ ム (3) パーネノレの財政政策論の詳しい紹介をおこなったのは,故高木教授である。高木お 9 4 9年,第 10 章,をみよ。 一『近世財政思想史』北隆館, 1 (4) ノーマシについての単行本の伝記は今日におい-cも執筆されていないようである。 略伝はつぎの文献を参考にした。 TheD i c t i o n a r y ofN a t i o n a l Biograρ hy, Vo l . XIV,の‘Norman,GeorgeWarde'( G . .C .B o a s eの執筆); Di c t i o n a r, Yo fp o l i t i c a l Eωnomy,Vol .I I I,1908,の ‘ 恨 N似 oIman,G. Wa 釘r d , ぜ e( A l i c eLaw の執室筆盗); ε n ほ 眠 cy clo ゆ Jρ~aed ωia o ft h eS o c i a lS c i e n c e,Vol .1 1,1933,の‘Norman, GeorgeW a r d e ' 資本論辞典』青木書庖, 1 9 6 1年 , r ノーマシ J(渡辺 ( F r i e d d c hA. Hayekの執筆); r 佐平の執筆); D. P .O ' B r i e n, ‘I n t r o d u c t i o n ',i n The Cones ρo n d e n c e ofLord O v e r s t o n e,(以下 , TheC o r r e s t o n d e n c e,と略称) e d i t e dbγD.P ;O ' B r i e n,L o n . don,1971,pp.5-8. この書簡集は 3巻本であるが,通しページなので巻数は省略し た。なお,ノーマシの自伝草稿がオプライエン教授によって発見されたが,私は未見 である。 オーグァストーン卿の書簡集』は, 1 9 6 4年にオブライエン教授によって とこるで, r S a m u e lJ o 国 sL o y d ) ー一一後のオーグァストーン卿ーーの寄簡を 発見されたロイド ( 中心に全部で 923 点の書簡や手稿を収録している。もちろんその大部分はオーグァス トーンが発信し受領した番簡等であるが,われわれにとって注目すべきは彼と親交の あったノーマシに関係する答簡がかなり含まれていることである。すなわち,オーグ 6 9 遁,ノーマンからオーグァストーンあてのも アストー γからノーマンあてのもの 3 通.ノーマシがオーグァストーン以外の者とやりとりした手紙や手稿が 14 通で の22 ある。したがって,この書簡集はノーマン研究にとってもきわめて重要な資料といえ るであるう。なお,ノーマンの手稿類は息子によって処分されたというが.オプライ i b i d,p .4 ) という。 エシ教授は「まだ望みはある。 J( υ OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ノーマシの財政改革論について 2 0 3 リー・コモシ -203ー ( B r o m l e yCommon) で生まれた。父親,ジョージ・ノーマンは 805 年から 1 810年 に か ノノレクェー産木材の輸入商であった。わがノーマンは, 1 けてイ一トン校で教育をうけた。同じ時期に後に親友となるオーグァストーシ も同校に在学したが,面識はなかったらし L、。ノーマンは, 1 810年にイートシ 8 1 9年から 1821 年に 校を卒業したのち,父親の下で木材輸入の仕事に従来し, 1 かけてノノレクヱーに滞在した。木材商の仕事は 1 830年まで続けられた。なお, 1822年にスイス,イタリアに遊んだことが篠認されている。 1 8 2 1年 4月にノーマンはイングランド銀行理事に採用された。その時彼は若 干27才であった。われわれは,青二才といってよい材木商がイングランド銀行 理事に選抜されたことに若干奇異な感をもつが,パジヨット氏の『ロンバード l 街』を読むとそうでもない。当時イシグラシド銀行の役員会 ( c o u r t )は , 24 名 の理事と総裁,副総裁各 1名 の 2 6 名で構成されていた。そして,理事たちは別 に理事会 ( b o a r do fd i r e c t o r s ) をもった。理事は特別の事情のないかぎり,年 令1 ) 聞で副総裁,総裁となるのが通例であった。その任期は各 2年 。 理 事 が 副 総 裁,総裁に;就任するのは理事に採用されてからほぼ 20 年後と考えられ,その時 その者が働き盛りにあるように配慮された。したがって,死亡あるいは辞任に より理事の欠員が生じた時に採用される新しい理事の条件の第 1は,年令が若 いということであった。「理事会はロンドンの老舗にいる,精励憾勤し将来性の ある若者たちの名前に目を通して,彼等が銀行理事に最も適当と考えるものを (7) 1人選抜する。 jすなわち, r 20年後には立派に物事の分る,立派に追ってゆけ (5) リカードクは,大陸旅行中に息子夫妻にあてて出した手紙においてつぎのように番 いている。「 νャモニイから戻ってみると,ジコネーグでのここの旅館にイギリス人が 大勢滞在しているのを知ったのですが,そのなかに私の知合いの人たちが幾人かいま した。私が最初に出会ったのは経済学クラブの会員で,非常に感じのよい 2人の青年, ノーマン氏とカクエ lレ氏でした。 J( 1 8 2 2年 9月1 6日)また,ミラーノからは「昨晩は, オペラ~でカクエノレ氏とノーマン氏とが私たちのいたボックス席にやってきました」 (同年 1 0 月 2日)という。以上は, r リカードワ全集 JX,1 9 7 0 年,雄松堂, 3 3 3,3 6 1 ページ。 (6) パジヨット箸,宇野訳『ロンバード街』岩波文庫。底本は 1 9 2 4 年の第 1 4 版。訳文は すとし変更した。私の使用した原舎は. W a l t eI' B a g e h o t, Lombard Street: A , s c r i p t i o no nt h eMoneyM a r ' k e t . NewYOI'k .1 8 7 3,である。 De (7) r ロシパード街J .198ページ。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -204ー 2 0 4 第5 6 巻 第 1号 る人になりそうに見えるものを任命する j わけである。/ーマンが働いていた 父の材木庖がどの位の格の居か,それはロンドンのどこにあったのか等は不明 であるが,ノーマンは理事選抜の第 1条件に合致していたのであろろ。 理事の採用にあたっての第 2の条件は,古くからの慣例により,銀行家であ ってはならないということであった。["如何なる個人銀行家も英開銀行の理事 ではなく,如何なる株式銀行の理事もそれになることは許されていない。この 二つの地位は両立し難いものとせられたのであふ イシグランド銀行の理事 の多くは商人であったから,ノーマンはこの第 2の条件もみたしていたのであ る。ノーマンは, J872 年までイングランド銀行理事をつとめるが,健康上の理 由により副総裁,総裁にはならなかった。もっともノーマンは,イングラシド 銀行の政策決定の中枢機関であり副総裁,総裁経験者で構成される財務委員会 ( C o m m i t t e eo fT r e a s u r y ) の委員に 1840年頃に就任している。 ところで, ノーマシは, イングランド銀行理事として議会の特別委員会に証 832年 5月に大蔵大臣オールトラップ 人としてたびたび召喚された。それは, 1 卿 ( L o r dA l t h r o p ) の動議にもとづいて設置された「イングランド銀行の特許 状に関する秘密委員会 ( C o m m i t t e eo fS e c r e c yont h eBanko fEnglandC h a r - t e r )j(オーノレトラップ委員会)を手はじめに, 1840年 3月に設置された「発券 銀行に関する特別委員会 ( S e l e c tC o m m i t t e eonBanko fI s s u e )j, 1848年の 「恐慌に関する貴族院の秘密委員会 ( S e c r e tCommitteeo ft h eHouseo fL o r d s onC o m m e r c i a lDis t r e s s )j,1857年 2月に設置された「銀行条例に関する特別 委員会 ( S e l e c tCommi主t e eonBankA c t s )jであった。特に前の 2つの委員会 における証言を通じてノーマンはいわゆる通貨学派の有力な論客となった。ま 8 4 0年に設置された委員会の議長はクッド ( C h a d e sW∞d )であり,そこ た , 1 での証言によりワッドとの関係ができ,後にみるクッドあての公開書簡を公刊 した。 (8) 向上番, 2 0 0ぺージ。 (9) 向上書, 2 0 3 2 0 4ぺージ。 ( 1 0 ) なお,イングランド銀行の内部機構については,ヤッフ z者,三輪訳『イギ yスの 9 6 5年 , 2 4 5 2 4 9ページ,もみよ。 銀行制度』日本評論社, 1 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 0 5 -205- ノーマンの財政改革論につい"( ノーマンは, 2 0才代半ばの 1 8 1 7年頃に経済学に興味をもら, 1 8 2 2 年には「租 J (草稿〕においてつ 税論」と題する論文言ピ書く。彼は後に『回想録 (Memoir). 1 8 2 1年の末頃,私は,ベンタムとミ Jレの影響の下に租税に関 ぎのようにいろ。 1 する論文の執筆をはじめた。その論文の課題は,どのようにすれば一国の税収 が納税者の負担を最小にして徴収することができるかを示すことであった。私 が到達した結論は,財産税のみがそれにかなラといちこと,す なわち,それこ U そ個人から徴収するものを最小にし,個人にたいする犠牲を最小にすることに よって最大の利益をもたらすといちことであった。その限りでは私は正しかっ たと今でも信じて L必。リ ・ "c しかしーーオブライエン教授の挿入。っきrち同 1 じ〕イギリスまたはプランスにおいて単税制度を樹立しよラとする試みはまち がいなく失敗するであろうし,もしそれを固執すれば暴動や内乱を引きおこす ことになるであろう。もう一つ重要な点で私は決定的にまちがっていた。私は, その性質上永続的でないすべての所得を資本還元し,資本還元された価値に比 例して課税することを提案した。…一私が現在 ( 1 8 5 7年〕かたく信じていること は,所得の継続期聞がどうであろうと,すべての所得に平等な税を課すことが 正しいということでるる。」この論文は結局公刊されなかったが, われわれの 注意を引くのは「租税論 Jの諜題にすでに後の財政改革論のアーマが示されて いるということである。 8 2 1年に創立された経済学クラブ 詳しい経緯は不明であるが,ノーマンは, 1 の創立会員となり, 1 8 8 0年まで正会員として在籍し,同年名誉主会員となってい る。したがっ て,ほぼ6 0年余り問クラブの会員としで活躍したわけである。経 l ( 1 1 ) リカードクの『経済学および課税の原理.J(初版, 1 8 1 7 年)の刊行が契機かもしれな し 、 。 ( 1 2 ) Thec o r r e s p o n d e n c e,p .1 8 8,f n .2 . ( 1 3 ) 草稿は,ノーマンの竹馬の友であり,のちにロンドン大学の学長 ( V i c eC h a n e e l l o r ) になるグロート (GeorgeG r o t e ) に送られたらしく,彼の長文のコメシトが残っ てい る 。 G .G r o t e ' s .Commentso nNorman' s .Es s . a yo n1 a x a t i o nof1822,i b i d . , p p . 1 9 0 1 9 5,をみよ。しかし, ζ のコメント(r;j:'資本,手J I 潤,交換価値等を論じ,租税には e t t e rfrQm Grotet Q NQrman,n,d .,i b i d "p p .1 9 ! ; i 司 まったく言及し!ていない。 L 1 9 8 ,もみよ。 t OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -206- 第5 6 巻 策 1号 2 0 6 済学クラフ についての詳細は,藤塚教授の著作にゆずるが,教授によれば.i そ e の創立のいささつや,実業界・政界・官界・文筆界・学会等にわたるそれぞれ の時期における当代一流の人士から成るその会員の,名声や社会的地位を考え ると,経済学クラブの活動, とくにその用例の夕食討論会における討論が,経 済学の発展の上にも,政策の展開の上にも,大きな;意味をもったであろうこと が想像される。」ということである。 ノーマンがその月例の夕食討論会において提起した問題や報告したテーマは つぎのようなものであった。 1 . i 利潤率と利子率の聞になんらかの必然的な関連はあるのか。 J ( 1 8 2 2年 3月 4日) 2 . i 課税の最もよい方式はなにか。 J( J822年 4月 1日) 3 . i 間接税よりは直接税の方がこのましいのではないのか。 J ( 1828 年] 2月 1臼 〉 4 . i 財産税をもって他のすべての税にかえるやり方には現実的な難点があ 1 8 2 9年 5月 4日) り,それがその導入をさまたげているのではないか。 J( 5 . i イギリスの繁栄の増進が現在の税負担によって大幅に抑制されたとい 18 4 9年 4月 5B) う世間一般の推定には十分な理由があるか。 J( 6 . i わが国の国富にたいする税負担は, ヨーロツパの他の主要諸国に比較 して重いか。 J( 1 8 5 0年 3月 7日 〉 7 . i カリフオ/レニアとオーストラリアで生産された金がその交換価値を引 き下げたと考える理由はあるか。もしあるなら,その程度はどの位か。」 ( 1875 年12 月 3日) とれらが経済学クラブの『議事録』に記載されているすべてである。これら ( 1 4 ) 藤塚知義『経済学クラブ一一イギリス経済学の展開一一Jミネノレグァ書房, 1 9 7 3年 。 8 2 1 1 9 2 0一一 J ,P o l i t i c a l Economy Club, 向「解題一-PoliticalEconomyClub 1 R e v i . sedR e p o r toft h eP r o c e e d i n g s .a tt h eD i n n e r of31stMay,1876 り ・ V,Tokyo(NihonK e i z a iHyo I ' onSha),1 9 8 0 . もみよ。 ( 1 5 ) 藤塚『経済学クラブム 5ぺージ。 ( 1 6 ) P o l i t i c a l Economy Club,M i n u t e s of P r o c e e d i n g , s . 1821-'1882, Vol . IV (Nih ;e i z a iHyronSha版 , I I I ),London,1 8 8 2 . onE OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 0 7 ノーマンの財政改革論につい℃ をみてただちにわかるように -207- 7つのうち 5つ (2-6) が財政に関するもの であるということである。第 1も,財政とは無関係なもののようにみえるが, 彼の「租税論 jにおいて言及されているものと関連があるように思われる。と くに第 5,第 6は,租税負担を論じた自らのパンフレットにもとづく報告であ った。したがって, ノーマンは財政に関するテーマを若い頃から一貫してあた ためていたと思、われる。私が思うに,ノーマンは今日,通貨学派の論客とし℃ 著名であるが,財政論をぬきにして彼の思想の全体を論じることはできないで あろう。 ノーマンのパンプレッ r ,論文にはつぎのものがある。 1 . Remarksu ponSomeP r ' e v a l e n tE r r o r sw i t h Res ρe c tt oCurrency andBankingandS u g g e s t i o n st ot h eL e g i s l a t u r et ot h eRene ωalof 8 3 3 . (私家版〕 t h eBankC h a r t e r,London,1 2 . Remarksuρ o nSomeP r e v a l e n tE r ' r o r ' s,w i t hR e s ρe c tt oC u r r e n c y andBanking,andS u g g e s t i o n st ot h eL e g i s l a t u r e and t h eRulea s t ot h e1m ρr o v e m e n toft h eMonetarySystem, London,1 8 3 8 .PP.109. 3 . AL e t t e rt ot h eR a t eP a y e r s of t h eP a r i s ho fB r ' o m l e y,on t h e Pro ρr i e t yo fB u i l d i n gaC e n t r a lW o r ' k h o u s efort h eBromleyUnion, London,1 8 3 8 . 4 . L e t t e rt oC h a r l e s Wood,E s q ",M.P .o nMoneyandt h eMeans0 1 E c o n o m i z i n gt h eUseofI t , London,1841 . pp.106. 5 . AnE . x a m i n a t i o nofSomeP r e v a i l i n g0 ρi n i o n s,a st ot h eP r e s s u r e ofTa . x a t i o ni nT h i s,andO t h e rC o u n t r i e s,London,1 8 5 0 . pp.95. ( S e c o n dandThirde d s .,1 8 5 0 ; FOJ lr t he d .,1 8 6 4 .P P .1 4 2 . ) 6 . Remarkso nt h eI n c i d e n c eofImportD u t i e s,w i t hS t e c i a lR e f e r e n c et ot h eEnglandandCubaC a s eC o n t a i n e di nt h e" t h eBudget", Lo ndon,1 8 6 9 .p p . 26L C私家版〕 7 . Pa ρe r so nV a r i o u sSub i . e c t s,London,1 8 6 9 . pp.261 . (私家版〕 8 . Remarkso nt h eP r e s e r v a t i o nandI n ψr o v e m e n t0j Copp i c es匂' o d s, OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ --208ー 2 0 8 第5 6巻 第 1号 London. 1 8 7 5 . (私家版〕 9 . Memoiro nt h eL i fe0 /theRev; F. Beadon,e t c . . Bromley,1 8 7 9 . pp.20. 1 0 . ‘ TheFutureo ft h eUnitedS t a t e s ', lournaloft h eRoyalS t a t i s t i c a l S o c i e t y,Vol . XXXVIII,March,1 8 7 5 . 1 1 . ‘ Remarks on t h e Saxon I n v a s i o n ',Archaeologia Cantiana. , Vo l . Xl I I , 1 8 8 0 . ノーマシは募作であったとはいえないが,自らの著作の公刊にはかなり神経 質であったようである。このことは単行のパンフレット 9点のうち私家版が 4 点にも達することからわか 2 : (私が未見のものは, 1,3,5の第 3版 , ω-11 である。) ノーマンの政治的立場は,オブライエン教授によれば, 1 彼〔ノーマン〕は若 い頃は箪新的 ( r a d i 回わであったし,生漉,ォ.-r : tァストーンよりは自由主義 l i b e r a l ) であった」という。「自由主義Jをどう規定するかだが,私は,ノ 的 ( 8 4 9年頃に執 ーマンをそのように規定するのは若干問題があると思う。私は, 1 筆された,ヒュームらの「小憲章」運動に関するノーマンの評論に注目したい。 ノーマシは, r 小憲章」運動についてまず第 1に時期がよくないとして反対す , る。第 2に 1 小憲章」運動の効果を疑う。「私が思ろに,憲章の 4項目,ある いは 6項目の場合でも,現在聞かれている庶民院の委員会が考える以上の経費 節約をそれがもたらすとは大変うたがわしい。院外の圧力は経費を削減する場 合もあ~が,じばしば増加するものである。政治的変革はしばしば経費を要し, それが革命となると,戦争は別にしてあらゆる国家的事業のうちでもっとも経 費のかかるものである。」そして,結論とし-C, 1 私の見解では,ヒューム氏の 4項目はほとんど革命にちかいものである」ということ,したがって, f 構造改 ( 1 7 ) 著作のごく簡単な解説が,D i c t i o n a r yo fP o l i t i c a lEconomy,Vo l .I I I‘ ,N o r m a n ' にある。 ( 1 8 ) O ' B r i e n,' I n t r o d u c t i o n ',T h eC o r r e sμn d e n c e,p.6. ( 19 ) Y. Z .( N o r m a n ),‘ L e t t e rω t h eS o u t hE a s t e r nGa 宮川t eo nt h e NewR e f o r m Bi l 1 ' , a b o u t1 8 4 9 .P a p e r sQ nV a r i o u s$ u b j e c t . s,p p .4 5 4 9 . ( 2 0 )l b i d ., p . . 4 8 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ノーマシの財政改革論について 2 0 9 -209- 輩 ( o r g a n i cchanges) は,実拍子もない飛躍ではなく,一歩ム歩おこなわれる べきものである。」という。ヒューム,コプデシらの中産階級急進主義者の議会 改革運動はチャーテイズムを批判するものとして 1848 年 4月に登場じたが,そ れを「革命的である」として批判するノーマンは,ホイッグ的・体制的な立場 に立つものといえよう。 年 9月 4日 , 89才の誕生日を十数日後にひかえ,生誕の地プ ノーマンは 1882 ロムリー・コモンで没した。 I I I 通貨調整論 年のイシグランド銀行条例 C いわゆるピーノレ 今日メーマジが著名なのは 1844 条例?の理論的支柱となった通貨学派の代表的論客の一人としてである。そこ で,私は門外漢であるが,彼の財政改革論を論じる前に,通貨問題に関する彼 (鈎) の見解を 2つのパンフレットを中心にすこしてみておまたい。 通貨学派とはなにか。依光教授によれば J通貨主義の基本的な主張は,要す るに,商品の数量が不変なとさに,……銀行券の発行畳が増大すれば通貨価値 は低落して商品価格は騰貸し,そのため正貨は圏外へ流出し,投機がさかんに なってついに恐慌へ導かれることになる,という主張である。これは明らかに 貨幣数量説の立場をとるものであり,しかもリカードにおけると同様に,いっ ( 2 4 ) さいの貨幣は流通手段としてのみ機能するという考え方である。」 通貨学派が リカードクの貨幣理論の流れをくむという指摘は,晩年のリカードヲとノーマ シが経済学クラブにおいて議論をたたかわしともに晩餐をとった間柄であった ことを考えると興味ぶかいが,それはおいじこの理論から導き出される現実 的政策は r 貴金属通貨はその流出入という道を通じて自己救済手段をもっ℃ ( 2 1 ) I b i d ., 4 9 . ( 2 2 ) 彼の肖像画は, S i rJohnClapham,TheBankofEngland,V o l,! I , Lo 畳d on, 1 9 4 4,巻頭口絵 TheC o r r e s . ρondence,pp.592,1272,見聞きページ,にある。 ( 2 3 ) 今回は,時間の都合上,議会の特別委員会における彼の証言を議会報告書にあたっ tむととはできなかった。 て おi ( 2 4 ) 依光良馨『イギリス金本位制成立史J東洋経済新報社, 1 9 6 7 年 , 3 1 3ページ。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -210ー 2 1 0 第5 6巻 第 1号 いるが,銀行券発行は賞金属通貨の法則によっては必ずしも調整されないもの , . " であるから,その法則を模倣して人為的に銀行券を調節させる必要がある 0 ・ ・・紙幣と鋳貨との流通量を,もし通貨が全部貴金属からなっていたならば流通 したはずの貨幣額と,完全に一致せしめるべきである」といろものであった。 とのような通貨学派の主張を最初にとなえたのはノーマンであるといわれる が,彼も当初から紙幣の流通量が正貨に比例して変動すべきであるとは考えて いなかったようである。 1832年のオールトラップ委員会において証言に立った イングランド銀行総裁パーマー(J. HorselyPalmer)は「パーマー原則 Jと称 せられる銀行券の発行高についての一つの準則を提起した。それは,通貨が十 分に供給され為替相場が平価にある時にイングランド銀行が銀行券発行に際し て依拠すべき原理であり,内容は銀行券発行高と預金残高の合計額の 3分の 1 を金貨と地金で保有し,残りの 3分の 2を有価証券,とくに政府証券に投資し て保有すべきであるというものであった。そして,パーマーの主張の重要な点 は , r この原則の下でとられる行動は大衆のそれであり, (イングランド〕銀行 は積極的に手出しをしない。」ということであった。すなわち,パーマーは,イ ングランド銀行のコントローノレの効果については疑問をもっていたのである。 そして,ノーマンはこの委員会においてパーマー原則を支持したのであった。 「パーマー原則」の本質については専門家の閣では若干の見解のくいちがし、 があるようであるが,私は,それが銀行学派と通貨学派の主張の混在したもの ( 2 5 ) 同上書, 3 1 1ぺージ。 ( 2 6 ) ノtーマーは, 1 8 1 1年にイングランド銀行理事となり, 1 8 5 7 年まで在籍。その間, 1 8 2 8 年 ー3 0 年に副総裁, 1 8 3 0年 目3 3 年に総裁をつとめた。彼も 1 8 2 9 年から 1 8 4 6 年まで経 済学クラブの会員であった。 ( 2 7 ) J .K.HOISefield‘ ,TheOpinionsofHorselyPalmer,GovernoI' oftheBankof England,1 8 3 0 3 3 ',Economica,New S e r i e s,Vo 1 .XVI,No.62,May,1849, pp, 1 4 6 . 1 5 0 ; 渡辺佐平「オーグァストーンのパーマ 一批判 J ,有沢他編『世界経済と 9 5 6 年 , 3 2 3 3 3 0ペ 日本経済一一大内兵衛先生還暦記念論文集(下)一一』岩波書底, 1 ージ。 ( 2 8 ) H o r s e f i e l d,o t .c i t ", p.146. ( 2 9 ) クラパム著,英国金融史研究会訳『イシグランド銀行IH J ,ダイヤモンドネ土, 1 9 7 0 年 , 1 3 5ページ;渡辺佐平「ノーマシの通貨流通にかんする教義〈ー) J, 金融経済J 第1 1 9 号 , 1 9 6 9 年1 2 月 , 6ページ。 t r OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 1 1 ノーマンの財政改革論について -211- であるというグレゴリー教授の説が妥当であろラと思う。したがって,グレゴ r 年においては リ一説をとるならば, パ ー マ ー 原 則 」 を 支 持 し た ノ ー マ シ は 1832 まだ通貨学派の主張を確立してはいなかったことになる。では,いつ頃彼は通 貨学派の見解に到達したのであろうか。 1838 年に公刊された最初のパンフレット『通貨と銀行業に関して流布してい r る 二 , 三 の 誤 り に つ い て の 考 察 H以下, 通貨と銀行業に関する考察』と略称〉 は , 1833 年に私家版とし℃印刷されたものを拡充したものである。そして,と 年 6月 の 証 言 を 契 機 に 執 筆 さ れ た の私家版は,オーノレトラップ委員会での 1832 も の の よ う で , 最 初 の 草 稿 は 1832 年1 1月 頃 に 完 成 し て い る 。 ノ ー マ ン は , 私 家 版について『回想録』においてっさ「のようにいう。「元のパンフレツトには,完 全な紙券通貨は必ず見換可能で不渡になる ( d i s c r e d i t ) こともほとんどないう r えに, 取 っ て 代 わ る 金 属 鋳 貨 と 正 確 に 同 等 の 価 値 を 常 に も ち , 状 況 が 同 じ で あ れば,同じ時期比. I ; : ; jじ 程 度 増 加 し た り 減 少 し た り す べ さ で あ る 』 と い う そ の 学 派〔通貨学派〕の最初の宣言であった。/との見解は,私の知る範囲におい℃ は,独創的なものであったんしたがって,ノーマシによれば,通貨学派のテー ( 3 4 ) ぞは 1832 年に措定されたというわけである。 さて, r 通 貨 と 銀 行 業 に 関 す る 考 察Jの要点をごく簡単にみよう。 ノーマン ( 3 0 ) グ νゴリー教授は, r 教義の歴史という見地からいえば,ホーズリー・パーマーの分 析は,いわば銀行学派の見解と通貨学派のそれとを混在せしめているものとみられる .前掲番. 330-331ペー であろう。」という(渡辺「オーグァストーシのパーマー批判 J ジ,から再引用〉。原典は. T heodoreE" G r e g o r y . AnI n t r o d u c t i o nt oT o o k eand , s“ A Hi s . f o η o fP r i c e s. ぺ London. 1 9 2 8 .p . 5 3 . である。 この立 Newmarch' 場をとるわが国の論者には,故渡辺教授(同上論文. 3 2 8 3 2 9ページ).高山洋一氏 -rパーマー・ノレーノレ』に関する研究J . 旭川大学紀要』等 2号. 1974年 3月. 106ペ ージ,注 4) がいる。 ( 3 1 ) 私家版の概要は,渡辺「ノ ーマンの通貨流通にかんする教義(二 ) J .r 金融経済』第 1 2 3 号. 1 9 7 0 年 8月. 1-9ページ,をみよ。 ( 3 2 ) L e t t e rfromNormant oO v e r s t o n e . 5November. 1 8 3 2 . TheC o r r e s t o n d e n c e . p . 2 0 5 . ( 3 3 ) I b i d . .p .205.fn.2 ( 3 4 ) フェツター教授によれば,通貨理論を最初にとなえたのはペニシドシ(James 8 2 7 年であった ( F .F e t t e r .D e v e l o ρ mentofBr#i s . h P e n n i n g t o n ) であり,それは 1 a s s a c h u s e t t s .1 9 6 5,P P .1 3 0 MonetaryO r t h o d o x y1797-1875. Cambridge. M 1 3 2 )。なお,ペニントシも経済学クラブの会員であった。 r c r l ぃ OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -212-- 212 第5 6 巻 第 1号 は,まず「貴金属は価値の最高の,そして唯一の安全な尺度である。」といろ。 じかし,それは多額の経費を要し,扱いにくいので,貴金属と&もに紙券が登 場する。「価値の固定,安価,末J I 便というそれぞれの利点は,特定の純度をもっ 金または銀のある重量を,臨機応変に,主要求しだい支払うという約束をした銀 行券,すなわち紙券によってもえられる(おそして, r もし完全に見換可能であ り非常に大きな政治的動乱の時以外には多分不渡にはならないであろろという ことにつけ加えて,それ〔紙券通貨〕が取っ℃代わる金属鋳貨と正確に同等の 価値を常にもち,状況が同じであれば,同じ時期に同じ程度増加したり減少し たりするな bば,それは実際上完全なものであると考えられるであろう。」この ぷうに,ノーマンは,紙券と金属鋳貨を同等のものと考え,それを金属鋳貨と 閉じように規制しようとする。こ の考えとそ,いろまでもなく,通貨主義の原 i 理であった。ノーマンは,との原理にもとづきイングランド銀行のみに発券 3 0 0 0 万ポ 業務を集中し,その発券はつぎのよラにおこなわれるべきだとする。 r ンドの紙券の流通が必要だとしよう。このうちある額,たとえば当面 3分の 1ーーしか G,これは後に経験してみると,不必要に大きいかもしれない一ー が鋳貨と地金に投資されるとすると,の乙りは利益のあがる証券あるいは 公偵 i の支払いに投下されるであろう。一つの機構が設立され,その単純かつ排他的 任務は,金・銀と引きかえに紙幣を発行し,紙幣と引きかえに金・銀を支払う ことである。前の操作は為替が順調の時に必要とされ,後の操作はそれが逆調 の時である。通貨の収縮と地大は:完全に自然となる。それは,きわだって安価 で便利であることを別にしも完全な金属鋳貨とかわらないものとなるである ( お 〉 ラ 。 Jr3分の 1J とか r3分の 2J とか言っ℃いる点においてまだ「パーマー 原則」の~響がみられるが,主張の内実は,大衆の働さ~;かけによる通貨の調節 を排し,紙幣の量をあたかも金属鋳貨のように変動させようとするものであっ、 ( 3 5 ) Norman,Remarksu ρo nSomeP r e v a l e n tE r r o r s,w i t hRes ρe ctt oC u r r e n c y andBanking,London. 1 8 3 8 . p.3 1 . ( 3 6 ) I bi d . ( 3 7 ) I b i d,. p .3 2 . ( 3 8 ) I b i d . .pp.3 5 3 6 . ゆ OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 1 3 ノーマシの財政改革論について -213- た 。 このような理論から出てくる現実的政策はなにか。 1つは,発行業務の国家, すなわちイングランド銀行への集中である。ノーマシは, [""独占は有害であるか ら通常人気がないし,有害であれば撤廃すべきfということになるが,万に一つ は有益であることもあり,世間も独占の存在を支持する。」という。そして,鍔 2は,イングランド銀行を発券部門と銀行部門に分割す"ることである。「全般的 に言って, (イングラ γFl銀行は早急に通貨発行部門と通常の銀行業務に区分 されることがきわめてのぞまし L T j 。このよろにのベ,ノーマンは通貨と銀行業 に関する改革を要求する。 以上のような『通貨と銀行業に関する考察』に示された主張は, 1840年 3月 に設置された「発券銀行に関する特別委員会」における証言においてくりかえ された。ノーマシは, r パーマー原則」について, [""はっきりと申せば,おらゆ る状況のもとでそれを固守するといろことは不可能だ」とのべ, [""パーマー原 則」からの決別を宣言する。そしてパわたくしは金属通貨が便宜に欠ける点と 場合によっては経費の点とを除けば最も完全な通貨であると考える。他のあら ゆる点で金属通貨は最も完全であり,したがって他のあらゆる通貨の典型と見 なさるべきである。その優れた便宜性と非常な安価性とのために銀行券が金属 通貨の一部分にとって代わるよラに導入されてはいるが,わたくしは銀行券は 金属通貨の他のあらゆる属性を具備するであろうように管理さるべきものと考 える。」とのべ,銀行券も金属通貨と同様に規制すべきであるとした。また,ノ ( 3 9 ) I b i d .,pp,3 4 3 5 . b i d ., p "1 0 5 . ( 4 0 ) I ( 4 1 ) 委員会におけるノーマシの証言は,渡辺 f ノーマシの通貨流通にかんする教義(ー) J, 13-15ページ,による。ノーマシ自身の要約が,L e t t e r 't oC h a r l e sWood,E s q " .M. P .o nMoney,andt h eMeansofEcof ! o ,i mz i n gt h e UseofJ t . .C 以下, ι e t t e rt o Char ' l esWood,と 略称、 1 ,London,1 8 4 , 1 pp;1 0 1 : 1 0 6,にある。ノーマシは, r 回想 , , 〈ママ) 録』において, r この委員会では 6日間〔実際は 9日間〕尋問されたが, それ以前 または以後と比較しても私自身にとって非常に有益であったし,大衆にも益するとこ ろがあったと思う。そして,肝心な点においては私は,すでに持っており,私がかた o r r e s t o n d e n c e . p"301,f n .7 ) とい く真理と信じている主張をのべた。 J(TheC う 。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -214- 2 1 4 第5 6 巻 第 1号 ーマンはイングランド銀行の部局の分離も支持した。そして,周知のように, 彼は証言において「通貨主義」という言葉をはじめて使用したのである。 クラパム教授によれば,イングラシド銀行総裁「コトンを通じて, ロイドの , 1844 年のイングランド 一一そしてノーマンの一一影響がピーノレに及ぼされ J 銀行条例が成立したのであった。〉したがって,われわれが確認すべきことは・ イシグラシド銀行の理事の身分でありながらノーマンは,オーグアストーン, ワッド, ピーノレらとの関係を通じて当時の通貨政策の中枢に位置しており,そ の発言力は無視すべからざるものがあったということである。そして, ζ のこ とは,後にみる彼の財政改革論を評価するさいの有力な手掛りになるであろ ラ 。 1841年に, ノーマンは,ワッドあての公開書簡をパシブレットとして刊行し た。このパンフレットのテーマは,表題にも示されているように,貨幣節約の 方法を論じることであるが,そのためには貨幣の性質や機能についての考察が 不可欠であるとされ,パンフレットの最初に貨幣論がおかれる。しかし,その 貨幣論も含め全体的にみて,この公開書簡には特に注目すべき新しい論点が示 されているようにはみえない。私の関心をひくのは,これがクッドにあてられ た書簡であるという点である。ノーマシは,パンフレットの冒頭部分において つぎのようにいう。 I 公私におけるあらゆる機会において貴方は非常に親切か っ「重に私を遇してくれました。偏見や誤りがまったくないとはいえない世論 ( 4 2 ) クラパム,前掲番, 1 9 9ぺージ。 ( 4 3 ) 向上舎, 1 9 4,ページ。ノーマンは, r 回想録」において, r 私の知るかぎり, この ( 1 8 3 3 年の私家版のパシフレットの中の〕見解は独創的であった。そして,これは 1844 年の n .2 ) という。 条例に具体化され,関係をもっ J(TheCorresPondence,p.205,f ( 4 4 ) ホ ースフィーノレド氏は, r 1 8 4 4 年の条例を基礎づけている主要な原理は,簡潔にい えば, r パーマー原則』に通貨主義の理論を適用したものといえる。J( J . K. H o r s e 8 4 4 ',Economica, NewS e I I e , 喝 f i e l d, ‘ TheOdginso ft h eBankC h a l t e I 'Act,1 Vo l . XI,No. 4 4,November,1 9 4 4,p,1 8 3 ) とのべ, r パーマー原則 j の影響ーを重 視する。なお, 1844 年の銀行条例の想、源、については,オプライエシ教授の分析が興味 ρondence,PP.24-26,をみよ。 ぶかい。 TheCorres ( 4 5 ) Norman,L e t t e r 't oC h a r l e s Wood,London,1 8 41.このパシフレ y トは,原稿 e t t e r IIom O v e r s t o n et o Norman,22 の時にオ ーグァストーンが目を通した。 L J a n u a r y,1 8 4 , 1 TheC ort'eψo l l d e l l c e,p.319,をみよ。 l l OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ノーマシの財政改革論について 2 1 5 -215ー がまだ十分知らない諸問題について私の意見をでまるかぎり興味深くのべると いう,難儀で楽しいとはいえない証人としての私の状況を賢察下さって,貴 方は常に私が主張を十分に陳述できるように配慮して下さいました。」ノーマ ンは, r 発券銀行に関する特別委員会」において., 1840 年 6月 , 7月において 合計 9日間証人として立ったが,その時の議長であったワッドの証人にたいす る厚遇に感謝しているわけで・ある。 ノーマンとクッドの交際はいつ頃はじまったのであろうか。 r オーグァスト 年 ーン卿の書簡集』を読むと,ノーマンがウッドをはじめて訪問したのは 1840 1月にはクッドとノーマンの聞に発券制度や貨幣の価値 の 7月であり,同年 1 尺度,交換手段をめぐる手紙のやりとりがあったことがわかる。したがって, 両者の関係が生じたのは, 1840年であろう。 IV r 租税負担の検討 J(その 1) クッドが第 1次ラッセノレ内閣の蔵相に公式に就任したのは 1846 年 7月 6日で あった。しかし,クッドは,オーグァストーンあての 7月 2日付の手紙におい てつぎのように書く。「拝啓/早速お伝えしたいことあり。貴君も私自身から正 式にお間ぎになりたいと思ろが,私はただ今大蔵大臣に就任することになりま した。思うに,このような地位につく資格は私にはとうていなく,これもひと えに貴君やノーマシの友情の賜物であります。このことをお伝えするにあた り,私は小学生のような喜びにひたっております。きびしい任務の遂行にあた り助言を必要とする時,願わくば貴君の知識や判断を時に私に貸して下さらん ことを。/敬具 Jこの文面からもわかるが,オーグァストーンはワッド蔵相の無 ( 4 6 ) Norman, 。ρ.c i t .,p.6, ( 4 7 ) L e t t e rfromNormant oO v e I ' s t o n e ;. 2 4J u l y,1 8 4 0,The C o r r e s ρondence,p. 2 8 2 . ( 4 8 ) L e t t e r sfromWoodt oNorman,2,1 7November,1 8 4 0and[November,1 8 4 0 J ; L e t t e rfromNoxmant oWood,[November,1 8 4 0 J,i b i d .,pp.3 0 9 3 1 7 . ( 4 9 ) L e t t e rfromWoodt oO v e r s t o n e,J u l y2,1 8 4 6,i b i d .,p .3 7 4 . 傍点は原文がイ タりックである。以下,とくに断わらないかぎり同じ。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ --216 ' ー 第5 6巻 第 1号 2 1 6 ( 5 〉 日 ニの親友であり,彼の有力なブレーンであった。実際クッ Fはオーヴァストー ジから助言をあおいだり,公的な問題について議論をたたかわしたりしてい る。特に両者の間の手紙のやりとりは,恐慌のあった 1847年においてひんは。ん であり, ピーノレ条例守護の立場から臨場感にあふれる手紙の交換がおとなわれ ている。 オーヴァストーンはラッセノレ首相とも交際があった。首相は,彼にあて「通 貨,金融,貿易問題に関してあなたは非常な権威者であり,わが国にたいして ( 日 〉 欠くべからざる 貢献をしている」と書いている。この手紙は, l ロ千ドに爵{立を 授ける意図がある旨を伝えるものであり,若干外交辞令的なところもあったと 思うが, ロイドはラッセ Jレ首相の奏上により, 1850年 2月にオーグアストーシ ( 5 4 ) 痢!となったのである。 蔵相就任を伝えるワッドの先の手紙に登場するわがノーマンも,ワッドの有 力なプレーンであった。『オーヴァストーン卿の書簡集』をみるかぎり,クッド とノーマンの聞にかわされた手紙は正く少ない。しかし,ワッドやオーグァス トーンの手紙を読むと,蔵相がノーマシに一回をおいていたことがよくわか る。ワッドは, 1847年 8月には,経済状況の見通しゃイングランド銀行首脳の 考え方を知るためにノーマシに隣接手紙を書いたり,オーグァストーンを通じ ( 5 5 ) て;¥i;(見を求めたりしている。 ( 5 0 ) 沈ーグァストーシは,蔵相と週末をー絡にすごしたり,乗馬をたのしんだ。 L e t t e r s fromO v e r s t o n et oNorman,25J u l y,1 8 5 0 ; 1J a n u a r y,1 8 5 1,i b i d ., p p .4 9 8,5 0 5, をみよ。モして,オーグァストーンは,蔵相にあて「私の心はあなたとともにありま すJ( L e t t e rfromO v e r s t o n et oWood,2F e b r u a r y,1 8 5 2,i b i d .,p.527) と恋人 のように書いている。 ( 5 1 ) L e t t e rI I ' omWoodt oO v e r s t o n e,2F e b r u a r y,1 8 4 7,i b i d ;,p .3 7 7 . e t t e rfromO v e r s t o n et oNorman,1J a n u a r y,1 8 5 1,i b i d "p .5 0 5 . ( 5 2 ) L e t t e rfromR u s s e l lt oO v e r s t o n e,20O c t o b e r,1 8 4 9,i b i d .,p .454 . . ( 5 3 ) L ( 5 4 ) L e t t e rfromR u s s e l lt oO v e r s t o n e,26F e b l u a r y 、, 1850,i b i d .j p .478,ラッセ 1 レ がロイドに 位を授けた背景ーには,貴族院におけるホイッグ党の強化ということがあ O ' B r i e n, ‘I n t r o d t はi o n,i b i d .,p .3 0 )。 ったらしい ( ( 5 5 ) L e t t e rfromWoodt oO: v e r s t o n e ; 9August,1 8 4 7 ;i b i d .p .3 8 7 ;L e t t e r from O v e r s t o n et oWood,10August,1 8 4 7,i b i d .,3 8 7 ;L e t t e r fmm Woodt oOver. s t o n e,22August,1847,i b i d .,p .3 9 2。 m OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 1 7 -217ー ノーマシの財政改革論について イギリス経済は 1847年 10月正日の手形割引率の再引き上げを引き金に金融恐 慌に突入したが,この時ノーマンは,イシグランド銀行の担当者とし τ蔵相と 毎日のように会っていた。そして,同月 1 2 3日,土曜日早く,有力者 10人のグ ノレーフ。が銀行条例の停止を提案するためにダクニング街にやってきた。..".../ 正午, 12時 , クッドは〔イングランド銀行〕総裁 O .モリス〕とノーマンに会 った。……支払停止が議論され,また臨時に課せられるべき利子率も論議され たおそして, 25日,月曜日午後 1時に, イングランド銀行条例の停止が発表 されたが,同日朝,ダクニング街からクッドは,オーグァストーシにあてつぎ のような手紙を書いている。「親愛なるロイド君/今日午後お会いしたい。決断 が下された。うまくゆくことを希望するだけです。これほど気のすすまないこ とをしたことはありません。 νアィの反応を知りたく思います。多分大方の支 持をうるでしょう。/敬具」ここには, 通貨主義理論にもとづきピー J レが制定 した銀行条例を早くも 3年後に停止せざるをえなくなった当事者の無念があざ やかに表白されている。 ( 5 8 ) さて,ノーマンの「最後の重要著作Jといわれる『わが国および近隣諸国 k に おける租税負担に関するこ,三の通説の検討 J(以下, r 租税負担の検討』と略 称)の草稿は, 1849年の秋頃には出来上っていたらしい。オーグァストーンは, ノーマンあての同年 9月の手紙で「租税に関する君の原稿をぜひ拝見した f 1 1 と書き, 1 1月に,ノーマンはオーグ矢ストーンにあて「気晴しに私の原稿を使 ってくれないか。どうか精読し τほしい。そして,出版するかどうかも含めて ( 6 1 ) コメントをいただきたし、。出版の件は早急に決めなければならない。」と書いて l ( 5 6 ) クラパム,前掲番, 2 3 0ページ。 ( 5 7 ) L e t t e rf I ' omWoodt oOVeI ' s t o n e,2 5O c t o b e r,1 8 4 7,TheC o r r e s t o n d( in c e,p . 3 9 7 . ( 5 8 ) The D i c t i o n a r yofN a t i o n a lBiogra ρhyの‘NOI'm佃'の項。 ( 5 9 ) Norman,AnE x a m i n a t i o nofSOmeP r ' e v a i l i n g0ρi n i o n s ;a st ot h eP r e s s u r e t . ゐe rCo 仰 f r i e s(以下;P r ' e s s u r eofT a x a t i o n ; と略称,) ofT a x a t i o ni nT h i s,andO London,1 8 5 0 . ( 6 0 ) L e t t e r fromO v e r s t o n et oNorman,7September,1 8 4 9,TheC o r r 凶 T o n d e n c e, p . 4 5 2 . 8 4 9,i b i d .,p .4 5 7 . ( 6 1 ) L e t t e r 'fromNormant oO v e r s t o n e,1November,1 , ρ OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -218ー 第5 6 巻 第 1号 2 1 8 r いる。公刊はその後ほどなく決定されたらしく, 租税負担の検討 Jは1850年初 年 3月に,ノーマシあての手紙で めに出版された。オーヴァストーンは, 1850 「パンフレツトはどこでも評判がよいゴ)と書いている。たしかに『租税負担の 検討』はよく売れたらしく,年内に 3版(正確には 3痛のを重ねた。 ところで, ノーマシは『租税負担の検討Jの構想をいっ頃いだいたのであろ ろか。すでにみたよろに,彼は若い頃から租税負担の問題には関心をもってい たが,それほどさかのぼるのはすこし話が飛びすぎるというものであろう。私 が注目するのは,彼が 1845年 12月に『スぺクテータ -j の編集者にあてた小論 である。そこにおいて,ノーマンは政府の第 1の任務は国民と財産の守護であ るという。「守護は,多分政府が臣民に負っている第 1の義務,すなわち,国家 の形で組織された祖会の成員が公益に寄与するように強いられた犠牲の見返り として考える最初の利益である。外国からの侵略や内乱にたいする人や財産の 守護がなくては,多くの社会的幸福は破壊され不確かなものとなる。」ノーマン は,イギリス園内の 5万人の正規軍はアイルランドの内乱やイギリス海岸の防 0万人に増強すべしという。 衛のためには不十分であり,それをすくなくとも 1 しかし,陸軍の増強にともなう国家財政の負担はどうか。「私にたいする予想さ れる反論は私の提案によって必然的に生じる大幅な増税〔をどう考えるのか〕 である。それはもっともな反論だが,残念ながら当てはまらない。すなわち, イギリスは,国家的名替一一ーそれは多分,人間および市民としてなによりも尊 いと考える安全一ーを守るために犠牲をはらわなければならない時には,財政 的にも国民の気持ちの上からも, 万ポシドの経費の増加をま 年間たとえば 300 かなえないような貧乏な国ではない。」ノーマンは,イギリスの経済力と財政負 担を比較し,軍事費の膨脹にもイギリスは十分耐えられるというわけである。 ( 6 2 ) L e t t e I 'f romO v e r s t o n et oNorman. 5March,1 8 5 0,i b i d .,p .4 81 .L e t t e rfrom O v e r s t o n et oNorman,1 9March,1 8 5 0,i b i d .,p .4 8 5 . もみよ。 ( 6 3 ) Z .( N o r m a n ) .‘ I n t e r n a lDefenceo fE n g l a n d . Tot h eE d i t o ro ft h eS p e c t a t o r ら November2 2nd,1 8 4 5,P a t e r ' so nV a r i o u sS u b J e c t s,P P . 2 8 3 3 . ( 6 4 ) I b i d ., p. 2 8, ( 6 5 ) l b i d ., p p .3 2 : 3 3 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -219- ノーマシの財政改革論について 2 1 9 私は,ここに『租税負担の検討 Jの一つの源泉があるように思う。 彼 φ小論において注目すべきもう一つは,軍事力強化の主張である。彼は, r コブデンの平和論を批判し, 国民予算 Jに示された策事費の削減を中心とする 1000 万ポンドの経費の削減に反対する。「予算を 1000万ポンド削減するコプデ ン氏の提案が実行に移されたなら,その時には海軍や陸軍はないに等しくなり, 敵の攻撃をうげるであろう。/編集者殿 1要するに,経費節約も大事であるが, 平和と安全の方がより大事である。イギリスは敵の侵略を許さないだけの経費 を十分支出することができる。そのために必要な金銭的犠牲を拒否する国民 は,賢明でも愛国的でもないと私は思う。」そして,ノーマンのこのような軍備 r 強化の主張は,彼の生酢おいて一貫していたようにみえる :1869年、問, 国 民の義務の中で十分な国防力の維持はその第 1に位置づけ叩られる。それを怠つ ては,今日のイギリス人は他の国民から軽蔑されるだけでなく,後の世代にも およぶ一連の災難の種をまくことになろう(出とのべ, r 国家の守護をまったく 欠いては,わが商船隊は世界の多くの地域で海賊におそわれ,大国と交戦すれ ば海上から一掃されてしまうであろうしという。このようなノーマンの主張 に,軍国主義的あるいは帝国主義的色採をみることは容易であるが,それはさ らに, r 自由貿易帝国主義」の公式の帝国による支配のイデオロギーにつらなる といえないであろうか。 さて,話をもとに戻そう。『租税負担の検討』が出版されたのが 1850年初めで あったが,ノーマンは公刊前にその骨子を経済学クラブの例会において報告し ( 6 6 ) Y. Z . (Norman)‘ ,L e t t eI' t ot h eS o u t hE a s t e r nG a z e t t e on t h e NewReform B i l l ',a b o u t1 8 4 9,i b i d .,p .4 8 . ( 6 7 ) Anon.(Norman),'OUI' N a t i o n a lD e f e n c e s Tot h eE d i t o ro ft h eSouthE a s t e r n .d .,i b i d .,P P .5 5 5 6 . G a z e t t e ',n ( 6 8 ) Anon. (Norman), ‘The Defenceso ft h eC o u n t r y ',June2 4,1 8 5 2,i b i d .,p . 5 1 ; Senex (NoI'man), ‘OUI' Mi 1 i t a yOI'g a n i z a t i o n . Tot h eE d i t o ro ft h e South I 'Y 9 ,1 8 5 6,i b i d ,“ p p .7 3 7 4 ;A n o n . "(Norman)‘ ,Ont h e E a s t e r nG a z e t t e ',Februa zeE c o n o m i s t,DecembeI' 1 4,1 8 6 7,p .1 4 1 3 . Reigno ft h eMiddleC l a s s e s ',TJ ( 6 9 ) Anon. (No I 'm an), ‘ The N a t i o n a lD e f e n c e s ', S p I I n go f1 8 6 9, P aters . o n V a r i o u sS u b j e c t s,p.256. ( 7 0 ) I b i d ., p .2 5 4 . り OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -220-- 2 2 0 第5 6 巻 第 1号 ている。それは, 1849 年 4月 5日であり,テーマは「千ギリヌの繁栄の増進が 現在の税負担によって大幅に抑制されたといラ世間一般の推定には十分な理由 があるか。」であつだ。したがって, 1849年の初めには『租税負担の検討』につ いての素案が出来上っていたと推測してもそんなに大ぎな誤りとはいえないで あろう。別稿で詳しくみたよろえ?)1848 年春から 1年余りイギリスの各地にお いて財政改革運動が後生したが,コプデンはそれを背景に 1849年 2月26日に, 庶民院に「財政改意」の動議を提案した。ノーマシは,このよろな動きに注目 し,それにたいする批判をこめて『租税負担の検討』の構想をねったと思われ る。そして,自らの著作の公表に神経質であった彼は,まず経済学クラブにお 年 4月 5日の例会 いてその概要を発表し,会員の反応をみたのであろう。 1849 は,盛会であった。オーグアストーンが司会し,出席者にはマカロ'/クィブー シトン, J .S .ミ ノ レ , ポーター, トゥークらカ:おり, f 労聴者ーとしてアーパスノ I G e b r g eA r b u t h n o t )が加わった。出席者は,当時世間の注目をあつめ ット ( ていた財政改革運動の帰趨に関心をもち, ノーマンの報告に耳をかたむけたで あ ろ う 。 そ し じ こ の 後 , 夏 か ら 秋 に か け て 『 租 税 負 担 の 検 討 Jは執筆された のであっだ。 v r 租税負担の検討.i (その 2) 早速,内容の紹介に入ろう。 ノーマンは,最初に,イギリス国民の大部分がかたく信じ,、広く外国人もそ うだと思っているイギリス財政に関する通説を 3てうあげる。第 1は,国家経費 は大きな害悪でありイギリスの繁栄の増進を阻害じているというもの,第 2 は,イギリスの国家経費とそれをまかなう租税は他の文明諸国に比較し℃格段 ( 1 1 ) 拙稿「リヴァプール財政改革協会について一一司『国民予算Jから 1 8 6 0 年代末頃まで 二← J ,香川!大学経済学部 F 研究年報Jl2 2 .1 9 8 2 年 , 1 ' -V,をみよ。 ( 7 2 ) プレヴ方ストの日記 ( 1 8 4 9 年 4月 5日),藤塚,前掲番, 275~'.ージ。 ( 7 3 ) 彼は, 1 8 2 0年に大蔵省に入り, 1 8 6 5 年まで勤めた著名な大蔵官僚。一時ピ'.ーノレやク ッドの個人秘書をつとめる。そして,オーグァメトーンの友人でもあった。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 1 2 2 -22Jー ノーマンの財改改革論について 成果と比 に重いと いろとと ,そして ,第 3は,イギ リスの国 家経費は 得られる ℃もきわ 較しても,他の文明諸国の同様な目的のために支出される経費と比較し らず外国 めて浪費的であるということである。ノーマンは, イギリス人のみな 述の目的 人もイギリスの租税負担がきわめて重いと考えているが, 以下の論 r ンの財政 は,こ.の点を全面的かつ厳密に検討し,そのよろなグレイト・ブリテ ることにある。 j 状態に関する共通の認識がどれほど根拠のあるものかを確認す という。 模や租税 負 まず,第 1の通説の 検討。ノ ーマンが 最初に強 調する点 は財政規 おえば" 担を論じる場合特に重要なことは相対的な観点よいろとととである。た めること が イギリス人やアメリカ人は特に困難を感じずに 1ポシドを 国庫に納 なかなか納税 でき・るが, ヰ/ヤム人やマダガスカノレ島の住人は 1 乙/~ν グさえも ) に依存し てい s n a e gm n i t s i x e できない。負担の程度はそ れをささ える所得 ( なく相対 るのである。「決して忘れてならないことは,租税や経費の絶対額では eamount)が問題であり, これこそが国民の負担を考える時のき v i t a l e r 的額 ( の検討』 の全 め手になるということである。」このような見地こそ. 租税負担 i r 体をつらぬく「赤い糸」である。 床に入る。個人の場合,元本に手をつけず、 そこからあ そこで第 1の通説の 吟 l にまわる 部分が がる年収 の範囲内 での消費 を考える と,消費 が少なけ れば貯蓄 あまり期 待でき 多くなり ,彼の寓 は増加す るし,消 費が多く なれば富 の増加は れを,個 人と国 ない。一 国全体の 場合,個 人所得の 合計が国 民所得と なり,そ 少し,逆 の場合 の経費を あわせた ものが超 過すると 再生産に まわる総 資本は減 あるのか 貧乏に は逆とな る。個人 の場合収 入と支出 を比絞し ,富裕に なりつつ 収入と支 出を計 向ってい るのかの 判定は容 易である が,一国 の場合社 会全体の 問題は国 家経費 算しなけ ればなら ず,それ は容易で はない。 しかし, ここでの 判定する ことで が国の繁 栄,すな わち国富 の増加を 阻害して いるのか どうかを 。 あるから,それはおいて,ただちに財政規模と国富の比較をこころみる l . . .5 l P } o, i t a x a .T f eo r u s s e r ) Norman, P 4 7 ( . .9 p ., d i b ) I . 75 ( る OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -222ー 第5 6 巻 第 1号 2 2 2 年々の財政規模に関しては財政統計があり問題はないが,国民所得の統計は ない。そこで,ノーマンは国富の指擦を人口に求める。なぜなら富の創造の最 も重要な要素は労働人口であるからである。「したがって,一国の富は労働人口 の増加,いいかえると人口〔の増加〕に対応して増大するというのが正当かっ 安全な想定である。」もちろん,人口が増加しても国富がそれに応じて増加しな いということも考えられるが,イングラシドの場合はそラではなかった。「観察 匡 ト軌イ 口( 入王 手 仰齢 た a 門 o RM v 年りJ u 円 n u 事干名川 M 紙る控幣除の減額価によ I 講増 4, 6 2 5 │一一一一一一一一一 はで 富率 の比 国い 計 1 3, 8 7 6 の去、 こ大 4, 5 4 9 1 6 1 5, 4, 1 6 6 1 8 1 4 1 8 1 5 1 8 1 6 3カ年平均 カの鋭い人には明白であるにちがいない ,も がり 輸出額 m 1表 ブ Yテンとアイノレランドの はし 第 ングランド,クエーノレズ,スコットランド, そしてアイルランド〉の人口は1813-15年の 平均で 1000万人。それが 1845年 に は2800 万 人 に 増 加 し て お り 増 加 率 は 47%である。 しかし,国富の増加は多分それ以上であろ 9 2 5 う。なぜなら,国富の増加を推測させる一 実質価格 3, 7 0 0 つの材料としてイギリスとアイノレランド 1 8 4 3 1 8 4 4 1 8 4 5 5, 2 2 8 5, 8 5 8 6, 0 1 1 計 1 7, 0 9 7 3カ年平均 5, 6 9 9 〔注) 1 0 0 0ポシド未満は 4捨 5入し た 。 〔出所 NO I 'm an,P r e s s u r e0 / T a x a t i o n,F i r s te d ., Lon. don,1 8 5 0 .p .9 1 . の輸出額をとれば,第 1表のようである。 1814-16年の 3カ年平均は4625 万ポンド。 それ以降の紙幣の減価を却%とふ 925 万ポンドを差し引くと実質価格は3700 万ポ ンド。 それが1 8 4 3 4 5 年の平均で 5699 万ポ ンドとなっており, 5 4 9 ぢの増加である。ノ ーマシは,輸出額の他にイギリスと植民地 が所有する船舶のトシ数,相続税が賦課さ ( 7 6 ) I b i d . ,p.12. ( 7 7 ) I b i d ., p .1 3 . ( 7 8 ) I b i d .,p .1 4 .r 紙幣の減価」は金の市場価格を基準にしたようであるが ( ib i d .,p . 2 4 ),一種のディプレーターと考えてよかろう。素朴ながら物価変動を考慮している 点,ノーマシの分析は統計上の操作において厳密を期そうとしていることがうかがわ れる。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 2 3 ノーマンの財政改革論について -223- れ た 不 動 産 の 価 格 , 火 災 保 険 が か か っ た 財 産 価 値 等 を と り あ げ , 1810 年代と 1840年 代 と の 聞 の 増 加 率 を 検 討 す る 。 そ し て , 国 富 の 増 加 を 推 定 す る い ず れ の 指擦をとっても国富の増加率が人口のそれを上まわっていることを確認したう えで,ノーマンは, r 以上の計数的検証をおこなった後ではどんな悲観的な見方 をする者でも,国富が人口よりはるかに急速に増加したこと,両者の増加を等 ( 8 0 ) しいと考えれば十分に安全であるといラ結論にいや応なしに達するであろう。」 という。 さて,国富の指標として人口を使うとして,終戦前後と今日との人口にたい す る 経 費 の 負 担 率 は ど の よ ラ に 変 化 し た で あ ろ ラ か 。 国 家 経 費 は 第 2表のよろ 年 の 平 均 で 名 目 経 費 は 1億 169 万ポンドだが, 20%の 物 価 水 準 の 低 に" 1813-15 第2 表 3カ年平均の歳入と歳出 (単位ポンド) 年 度 ) 歳 入 │ 歳 出 1 8 1 3 1 8 1 4 1 8 1 5 1 0 8, 3 9 7, 6 4 5 1 0 5, 9 4 3, 7 2 7 6 9 8, 1 0 6 I 1 0 6, 8 3 2, 2 6 0 1 0 5, 92, 4 5 2, 3 1 9 I 92, 2 8 0, 1 8 0 3 0 6, 5 4 8, 0 7 0 I3 0 5, 0 5 6, 1 6 7 計 平 均 1 0 2, 1 8 2, 6 9 0 I 101,685,389 1 8 4 3 1 8 4 4 , 5 1 8 4 5 8 2, 8 1 7 5 2, 0 0 3, 7 5 4 5 4, 5 3, 0 6 0, 3 5 4 5 1, 1 4 8, 2 5 4 2 1 1, 0 0 9 52, 3 8 6, 6 0 3 53, 言 十 1 5 9, 6 4 6, 9 2 5 I 1 5 9, 7 4 5, 8 6 6 平 均 5 3, 2 1 5, 6 4 1 I 5 2, 2 4 8, 6 2 2 (出所 I b i d .,p,9 2 . 下 を 考 慮 し て 実 質 経 費 は 8145 万ポンドとなり, 1843-45 年 の 経 費 の 平 均 は5225 ( 7 9 ) これらの資料は,いずれも,経済学クラブの会員で商務省統計局長の要職にあった r o g r e s . soft h eNationi ni t sV a r i o u sS o c i a landEconomic ボータの著書,TheP R e l a t i o n s,from t h e Beginning oft h eN i n e t e e n t hC e n t u r yt ot h eP r e s e n t d .,London,1 8 4 6,からとられている。ノーマンのかかげる数績が Time,Seconde 1 8 4 5 年までであるのも,この本に資料をもとめたためである。 ( 8 0 ) Norman, o p .c i t "p .1 6 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 第5 6 巻 第 1号 -224ー 2 2 4 万ポンドとなる。したがって,乙の閣の経費の減額は2900万ポンド,約36~ぢの 減少である。それにたいして,人口は 1 900 万人から 2800 万人に増加。したがっ て , r 国富〔の増加〕が人口の増加と同率だと仮定すると, 経費の相対的減少 (率〕は 53%となる。 Jいいかえると,講和時と同じ程度の経費負担をすると仮 定すれば,今日 1億 1 900万ポンドの経費支出に耐えられるということである。 また,人口 1人当りの経費負担は講和時に:4ポンド 4乙/リングであったが,現 在は 1ポ νド1 7i/リングに低下している。したがって 1人当りの経費は 2ポ ンド 7ヰ/1)ング,すなおち 56%減少したことになる。 以上のノーマシの立論を定式化すればつぎのようになるう。財政規模を論じ る場合問題なのは,絶対的経費 ( a b s o l u t ee x p e n d i t u r e ) ではなく相対的経費 ( r e l a t i v ee x p e n d i t u r e ) である。「相対的」とは,国民所得と絶対的経費の比 期の国民所得と絶対的経費を 1 t,E tとし, 相対的 率の;志川味である。そこで , t 経費を X とすればつぎの式がえられる。 x=一 子 (1) しかし ,I tの計算は困難なので,便宜的に 1 /のかわりに t期の人口 Ptを つ か う。その時の相対的経費を x 'とすれば,つぎの式がえられる。 x ' =一 号 したがって, (2) xを「本来の相対的経費 J,x 'を「仮の相対的経費」とよぶこと ができるであろう。 さらに,相対的経費の変化率を定式化すればつぎのようになる。すなわち, 相対的経費の変化率を Y, t o期の人口を P o,経費を E o, t l期の人口を P1, 経 費を E lとすれば,つぎの式がえられ ( 8 1 ) Ibid~ , p. 5 ? 2 5 . ( 8 2 ) I b i d . ,p.40. ( 8 3 ) (3)式よ りえられる Y は-56% である。ノーマンは, 相対的経費の減少率53%と 1 1 "う、数字は諸般の事情を考慮すると小さめであり,真実にちかい数字はー 75% ,すな 8 1 5 年に1 0 0ポンド納税して わち 4分の 3の低下にちかいであろうという。つまり, 1 5ポンドしか納め℃いないというわけである ( i b i d .,p p . .2 7 " 3 2 )。 いた者が今は2 l OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ノーマンの財政改革・論について 2 2 5 -225ー 三 品 一 岳 民 一 n n E一民一一 一 一 Y (3) ノーマンはさらに議論をすすめ,ナポレオン戦争前の経費水準を理想、としそ こまで経費を削減せよという急進主義者の財政改革謀長批判する。すなわち, たとえば, 1792 年をとればその時の経費は 1昭 6万ポン F もあり,人口は 1400 万 人であるから 1人当りの経費は 1ポ γ ド7乙/リングとなる。 r したがって 1 人当りの経費は現在〔の 1ポンド 17乙/リング j より小さし、。しかし,その後に おいて国民所得の増加があったので,実際の租税負担はあきらかに現在よりも 年より今日の方が 重かったであろう。」し、いかえると,相対的経費をとれば 1792 租税負担は緩いと考えられるから,土記の財政改革論者の主張は誤っていると いうことになる。 紹介の順序が若寸前後するが,ノーマンにはイギリスが未曽有の財政的困難 を経験したナポレオン戦争中においてさえも富の蓄積がおこなわれたという認 識があった。彼は,今は亡きリカードクの『経済学および課税の原理Jの一節, 年間 (1793-1815年〕における英国政府の莫大なる出費あるにもかか 「最近の 20 わらず,人民の側における生産の増加がこれを償って余りがあったことは,ほ とんど疑なきところである。国民資本はただに損われざるのみならず,かえっ て大いに増加し,人民の年収入は,その租税納付の後においても,多分わが国 史上 L、かなる時代よりも今日の方が多いであろう。/このことの証明として, われわれは,人口の増加,農業の拡張,海運業および製造業の発達,船渠の建 造,数多の運河開削,ならびにその他いく多の費用のかかる大事業をあげるこ ( 8 4 ) この論者として私の知っている者には, クイリアムズがいる。 W.Williams,An Addresst ot h eE l e c t o r s and Non.Electorsof t h eU n i t e d Kingdom London,1 8 5 0,pp“ 1 3 1 4,をみよ。 ( 8 5 ) この場合ノーマンは物価の変動を考慮していない。しかし, )レ Yーの総合物価指数 をとると ( B . ' R“ M i t c h e l l,A b s t r a c to l B r i t i s hH i s t o r i c a lS t a t i s t i c s,Camb I ' i dge, 1 9 6 2,p .4 7 0 ),1 8 6 5 年と 1 8 8 5 年の平均を 1 0 0とした場合1 8 5 0年は 7 7 . 4であるのにたい 7 9 2 年は 8 0,6 であるから,これで大きな誤りではないようである。けがの主1]名か。 して 1 ( 8 6 ) Norman,op. c i人 p .26. 川 H OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 2 日 3 第5 6巻 第 1号 -226ー とができょう。これらのものはすべて資本および年生産の増加を表示するもの r である。」を引用したあと. 全体として,国富は,膨大な財政負担にもかかわ らず戦争中も大幅に増加したということを指摘すればたりる。簡単にいえば, 私の論法は,講和前の数年間におけるイギリスの経費はその富に比較して今日 よりもはるかに大きいものであったが,はっきりした窮乏化の兆候はなかった 制 ( 8 9 ) ということである。 Jという。 したがって,相対的経費は 1790 年代以降国富の 万 発展にささえられて漸次低下したといろことである。そこで,現在の r5200 ポンドはたしかに大きな額ではあるが,地上におけるもっとも富裕な社会は, 名誉あるいは利益がおびやかされるならば納税者にさしたる苦痛をあたえずに それ以上の経費を支出しうるであろろ。かつてわれわれが負担したくらいは, 必要とあればもう一度負担しラる。 J これが第 1の通説を吟味してえた結論で ある。すなわち,国家経費はこれまでイギリスの国富の増進を姐害したことは なく,膨大な国家経費を負担しているにもかかわらず,イギ Pスは地上におけ るもっとも豊かな社会になったということである。 IV W 租税負担の検討 J(その 3) つぎに第 2の通説の批判に移る。ノーマンは,第 1に,もっとも近い隣国で 「平和時の親友,戦時における最も手ごわ敵」フランスをとりあげる。 ここで も問題なのは相対的経費であり,国富の増加を示す指標として人口が用いられ 817年の人口は 2922 万人, 1 844 年のそれは 3540 万人であ る。ブラシスにおける 1 0 億2 500 万フラシ, り. 1815-17年の国家経費の平均は 1 フランで換算して 4100万ポンド, あ る い は 1ポンドを 25 1845-47年のそれは 15 億7 300万フラン,すな ( 8 7 ) リカードク著,小泉訳『経済学および課税の原理.JI(上),岩波文庫. 1 5 2ページ。 ( 8 8 ) Norman,ot" c i t " p .21 . ( 8 9 ) イギリス経済の旺盛な成長力にたいする信頼は,すでにスミスがのべたところであ る。スミス著,大内・松川訳『諸国民の富』第 2分冊,岩波文庫, 3 6 4 3 6 6ページ。 L e t t e rfromO v e r s t o n et oNorman,2 8September,1 8 4 1,The Correstondence, p .3 2 9 ;O ' B r i e n‘ ,I n t r o d u c t i o n ',ibid",p p .6 2 6 3,をみよ。 ( 9 0 ) Norman ρ cit" p .2 7 . 。 , OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 2 7 -227ー ノーマシの財政改革論につい℃ わち 6200 万ポンドである。したがって,フランスの絶対的経費は 59%以上の増 加であり,相対的経費の変化率は,富の増加が人口の増加と同率だとすれば約 30%の膨脹である。 先にみたように,イギリスが講和時と同程度の経費支出をおこなろとすれ 万ポンドとなる。それにプランスの相対的経費の増加率 3 0 ば,それは 1億 2000 %を上乗せすれば,イギリスは今日 1億 4400 万ポンドの経費支出をおこなって はじめてフランスと同程度の経費負担となる。ところが, イギリスの現実の経 費は5225万ポンドである。したがって, r もし両国が終戦時に同じ程度の負担を していたと仮定すれば,今日におけるイギリスとフランスの相対的な租税負担 7 対1 3 0に聞く一一いいかえると, は4 国富に対して前者は後者の 71~ぢもすくな い納税しかしていない。」しかも,イギリスは航海条例を廃止し徴兵制もしいて いないのにたいして,フランスには保護関税制度や徴兵制度が存在する。ブラ シスにおいてそれらが国民に課している負担を金銭的に勘定すれば,結局「… …プランス人は,同額の所得あるいは財産をもっイギリス人に比較して 2倍以 上の納税をしていることになる。」 他の大陸諸国はどうか o 1 8 1 5 年頃のいくつかの大陸諸国の相対的経費はイギ リスと同じものであったが,それ以降それらの固においては減税や経費の削減 がなかったしイギリスと同じ位の国富の増加もなかったから,多分今日の財政 r 負担はイギリスよりも大まいであろう。すなわち, 国富にたいする相対的比率 を考慮に入れれば,イギリスの租税負担はヨーロッパの近隣の国々より重いと いうよりは,その逆であるじしたがって,第 2の通説も否定される。 つぎに,イギリスの政府の経費支出は浪費的であるという第 3の通説の検討 に入る。ここでの問題は浪費的であるかどうかの判断の基準をどこに求めるか ( 9 1 )I b i d .,p.4 0, (3)式で計算すれば27; ちとなる。なお, ノーマンはブラシスの場合物 l 価水準の変化を考慮に入れ!ていない。 ( 9 2 ) I b i d ., p .41 . p .4 3 . ( 9 3 ) l b i d ., ( 9 4 ) I b i d .,p.4 6 . ただし,ノーマンは,アメリカの租税負担はイギリスより軽いであ ib i d .,p .4 7 ) . ろうという ( OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -228 ー 第5 6 巻 2 2 8 第 1号 である。 ノーマンは,政府経費にしめる「積極的経費 ( ' a c t u a le x p e n d i t u r e 'ま c t i v ee x p e n d i t u r e ' )Jの 1人当り金額を比較することを提案する。 たは‘a 「積 p a s s i v ec h a r g e )J . とし、ち 極的経費」とは,国債費一一これを「消極的経費 ( 一ーを除いた経費であり, それが政府の積極的活動を示すと考える。そして, 積極的経費が多いということは政府経費の浪費が大きいと判断する。ノーマン 第 3表 人口 1人あたりの積極的経費の国際比較 名 国 額 E 噌E d宮 内 u n v q u n t d宮 内 U 1414 υ 令 イ ギ リ ヌ 晶 合の以上の平均 1 ン ノノレクェー アメリカ合衆国 フランスを 1ポンド 6ν リング 4ぺシスとした場 A 噌 FhυnOAUnonvAMU ν 唱 ム 噌i オ ラ 唱 ム ハU A U A U A U A U n U ペ イ 一シアダ ス ン スF aU i ブフンス l l 1 8 4 8 年以降 . レ 、 、 ノ ギ ロ 1ペ 噌 f 先の革命以前 4 Jポシド、 I i/リング i O 1 6 4 o 1 9 4 │ 〔出所 J I b i d ., p .5 4 は , ポーターに依頼して作成し℃もらった第 3表をかかげ, 1 一見してただちに 気づくように, これらの数値は通常イギリス政府にあびせられる浪費的である という非難を正当化していたい。人口 I人あたりの経費はプランスよりほぼ 3 分の 1すくなく, スペイシとオランダを若干上まわる程度である。」とのべ, イギリス政府は浪費的ではないとする。たしかに, 1人当り 1 9i/リング 4ペン スというイギリスの積極的経費はプランスを大幅に下まわるが, しかし それは l ブラシスについで第 2位であり, ノノレクェ一, アメリカの約 2倍である。 した がって, ノーマシもイギリスの積極的経費がかなり高い水準であるととは否 定できない。そこでノーマンはイギリスの積極的経費がプランスについで大き ( 9 5 ) I b i d ., p p .52.53. ( 9 6 ) I b i d ., p p . .5 4 5 5 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 2 9 ノーマシの財政改革論について -229ー い理由を 2つあげる。第 1は,イギリスの賃金水準がヨーロッパの他の諸国に 比較して大幅に高いことである。一般的に言って,それはブタンスの 2倍,オ ーストリア,ロ乙/ア,スクェーデンの 3倍にちかい。したがって民間企業と競 争して労働市場において政府が公務員を採用する場合,当然政府の人件費は増 加する。また,イギリスは徴兵制ではなく志願兵制のため兵士の給料も高くな らざるをえなし、。特に他国と比較して顕著なことは裁判官等の司法職員の俸給 が高いことである。これら 2つの理由により,イギリスの 1人あたりの積極的 万ポンドの中に 経費はブラシスについで大きいが,イギリスの積極的経費 2800 0 . 0 万ポンドが含まれてお は徴税費等のいわば積極的でない経費 5 し引くと 1 人当りの積極的経費は 16 ヰ/~ング 5 ペシスとなり 6 でそれを差 2 月革命以前の ブラシスの 3分の 2以下になり,スペイン,オランダよりも小さくなる。「した がって,読者は緩費のかかるイギリスを生ぜしめている諸事情,特に徴兵制の ないことと公務員に高給を支給せぎるをえないことを考慮する必要がある。そ うすれば,当然の帰結としてイギリス政府にたいして通常あびせられる,きわ めて浪費的であるという非難は正当性を失なう。」これが,第 3の通説を否定す るいささか強引な結論である。そして,ノーマンは,つけたして,イギリスと 大陸諸国の公務員と軍人の数を比較して「イギリス政府は経費節約の精神にみ ちあふれ℃いる」という。 以上の 3点、にわたる通説批判を要約すれば,第 1に,国富と比較したイギリ スの財政負担は講和以降大幅に減少し.それはイギリスの繁栄の進展のさまた げになっていないこと,第 2に,相対的財政負担はブラシスよりは明白に経く ヨーロツパの諸国よりも多分軽いであろうということ,第 3に,イギリス政府 の浪費性については確定的な結論に達しえなかったが,諸般の事情を考慮すれ ば他のヨーロッパ諸国民に比較してイギリス人の方が租税にたいす見返りをよ ( 9 7 ) I b i d . りpp.55-59, ( 9 8 ) 500万ポンドの内訳は不明だが, 1 8 4 8 年度の徴税費は2 8 4 万ポンドにすぎない〈 i b i d o , p.49. fn, ) 。 ( 9 9 ) I b i d ", p .6 3, ( 10 0 ) I b i d ., p .7 2 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -230- 第5 6 主 第 1号 230 り多くうけているということであった。 終章においてノーマンは,以上のような通説批判を通じてえた結論をふまえ て具体的な財政改革を提言する。彼によれば,今日のイギリスは,たとえ℃み れば,広壮な屋敷をかまえ十分な収入もあるのに常に破産の幻影におびえ,小 額の支出に神経質となり,泥棒から財産をまもる錠前を買うためのお金をおし み,屋根を修理するのも鴎踏して高価な家具をだめにしてしまっている金持ち のようなものである。このようなイギリス病にたいするノーマシの処方鐘は, その金持ちに十分な資力のあることを認識させて破産の幻影をとりのぞき,貧 乏性をあらためて錠前をつけさせ,屋根を修理して快適な家庭生話をおくれる よラにすることである。すなわち,イギリスは経済の繁栄を基盤に財政支出を 増大すべしということである。 イギリスは過去半世紀の聞にたしかに資本の蓄積はすすみ経済は発展した が,貧民の状態は中・上流階級に比較してあまり改善されていなし、。持てる者 と持たざる者とのたたかいが激化している。そこで,オーワェン主義,サン・ 乙/モン主義,フーリエ主義等,私有財産を廃止したり競争社会を共同組合的な 組織にかえようとする者があらわれた。しかし,もちろんノーマンは彼らには 組みしない。彼は社会改革における国家の役割を重視し,したがってなにもし ない政府がすぐれた政府だという考えはとらない。国家が貧民のためにおこな う第 1の仕事には,因坊と治安の維持がある。なぜそれらが貧民のためになる かといえば,それらが破られることによりもっとも被害をうけるのが労働者階 級であるからである。第 2に , 教育の充実。第 3に , 公共施設の拡充。「その ニ,三の例をあげれば,すべての大都市の近辺における万人に開放された博物 館,公園。全国のあらゆる教区におけるスポーツやレクレー乙/ョシのための広 い場所。達成されうる最良の衛生施設。多くの地域において人々,ことに子供 たちがほこりっぽい道路以外に遊ぶ場所をもたないのはまことに残念であ詑」 さらに,ノーマンは,美術館,公文書館の建設も主張する。 ( 1 0 1 ) I b i d .,p p.7 2 7 3 . ( 10 2 ) I b i d ., pυ84 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 3 1 -231- ノーマシの財政改輩論について ところで,このような国防,治安,教育,公共施設等の充実には!膨大な経費 が必要であるが,これにたいして, ノーマシはきっぱりとイギリスは富裕であ るからそれらの財政需要を十分まかないうるという。すなわち, イギリスの資 本蓄積や個人貯蓄,企業利潤は予想以上に大きし、。しかも,イギリスは今日通 商上の旧来の束縛から開放され産業の発展が期待される。 Iこのような好条件 の下では,われわれはさしたる困難をともなうこともなしまた着実な経済的 繁栄を中断することもなしに,国の威信を守り外敵の侵入を防ぎ圏内の治安を 維持し内政を充実し,良き政府の属性である・国民の社会的道徳的進歩に資す る・あらゆる施設を維持するために必要なすべての財政需要をまかなう財源を 発見できるであろう。」これが『租税負担の検討Jにおけるノーマシの結論で あった。 以上のようなノーマシの財政改革論は,急進主義者の素朴なそれや,ともに イシグランド銀行理事をつとめ後に総裁となったハシキーの財政分析ゃに比較 してまわめて綴密であり,説得力がある。そし-C,山崎教授の解釈によれば, スミスの国家経費論は相対的な安価な政府論であるということだが,ノーマン の相対的経費論はスミスのそれの 1 9世紀版かもしれない。 ととろで,小論のテーマから言って興味ぶかいことは,ノーマシがワッド蔵 相によ述のような財政改革論を献策していることである。ワッドは, 1851年 2 月 17日に,所得税の更新とコーヒ一関税や木材関税の減税等を内容とする 1851 年度の予算案を議会に提出したが,評判はきわめて悪かった。クッドは, 3月 1 0日,ダクユシグ街の官邸からノーマンにあてつぎのような手紙を書く。「たく ( 1 0 3 ) 1 b i d .,p .9 0, ( 1 0 4 ) ThomsonHankey,Ta: xe sandEx :ρ e n d i t u r e ;o r ',Howt h eMoneyComes1n, andHowt h eMoneyG o e s .O u t ; aL e c t u r eD e l i v e r e dt ot h eM e m b e r ' s oft h e M e c h a n i c s '1 n s t i t u t i o n,a tP e t e r b o r o u g h,November2 3 r ' d,1 8 6 3,London,1 8 6 4 . L e t t e rfromQverstonet oNO I 'm an,20Janua I 'Y ,1 8 6 4,TheC o r ' r e s ρondence,p p ω 1 0 2 6 1 0 2 7,もみよ。なお,ハシキ ーも経済学クラブの会員であった。 ( 1 0 5 ) 山崎怜「アダム・スミスといわゆる“安価な政府 " J,香川大学経済学部『研究年 報 J5,1 9 6 6 年 3月;同「“安価な政府"をめぐる諸解釈について J .r 香川大学経済論 議』第 3 8 巻第 6号 , 1 9 6 6 年1 2 月 。 ( 1 0 6 ) ただし, r 租税負担の検討Jにはスミスは一度も登場しない。 l OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -232- 2 3 2 6巻 第 1号 第5 さんの非難や攻撃は耳に入りますが,私がなにをしたらよいのかについてはち っとも言ってくれません o ・・…もし貴方が一週間以内に町〔ロンドン〕に出て こられるならこちらに立寄って相談にのって下さると大変うれしく存じます。 もしこられない場合にも貴方の御意見はぜひろかがいたいものです。」 ノーマ シはその時病気療養中であり,ダクニシグ街に出むくことは出来なかったの で,ブロムリーから返事を書く。まず「大衆は無知であり,一部の者は非常に 利己的であるため,有能で正直な財政家はのりこえがたいようにみえる障害に 出会うものです。」と,タッドをなぐさめる。そして, r 国民に税は重くなく軽 い,イギリスは他のヨーロッパの大国に比較して,また多分アメリカと比較し てもはるかに税負担は重くない,良い政府とは何もしない政府ではない……と いうべきです。」と書き, r われわれは他の国々よりも富裕であり,彼らがでさ ない位の献も良い政府の特権として享受すべきありまよちと進言する。ノー マシがワッドに献策したのは, r オーヴァストーン卿の書簡集』によるかぎり, この一回だけであり,またノーマシの献策にたいするワッドの回答はないが, これをみるかぎり,蔵相はノーマンを財政問題に関する権威としても遇してい たことがよくわかる。 租税負担の検討』第 3版の改訂に 1864年 2月頃からかか さて,ノーマンは, w り,第 4版を同年夏頃に刊行した。第 4版は,若干の脚注を新しく追加した第 3版に,新しく書き下ろした補章 (SupplementaryChapter) と統計表が付加 されたものである。そして,その統計表の作成には,経済学クラブの会員で統 計学者として著名なニューマーチ (Wi 1 1iamNewmarch) が協力した。 第 4版については補章のみの紹介をおこない,第 3版が刊行された 1850年以 降の財政状況の大きな変化をノーマンがどのように評価じているかをみたい。 まず, 補章の目的であるが,ノーマンは, r 第 1に , 経費の増加額を明らかに ( 10 7 ) L e t t e rfIOmWoodt oNorman.10Malch,1 8 5 1,1heC o r r e s t o n d el 1 c e,p.507. ( 1 0 8 ) L e t t e IfromNOlmant oWood,1 1March,1 8 5 , 1 i b i d .,p p .5 0 8 : 5 0 9 . ( 1 0 9 ) L e t t e I sfromO v e r s t o n et oNorman,2 6Febmaryand 29 May,1 8 6 4,i b i d ., p p .1029,1 0 3 3, OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -233ー ノーマシの財政改革論について 2 3 3 し,ついで,われわれにたいする負担がそれを克える所得の増大によって十分 まかなえるのか否かを検討し,それから,他の国の人々がまぬかれ℃いる負担 にわれわれは耐えるのか,あるいは隣人がとうむっているわれわれと同等ない しそれ以上の世界共通の害悪について文句をいうだけでよいのかを決定するた めに他の諸国の経費の膨脹とわれわれの経費の増加とを比較すること」である という。そして, r 考察するさいに重要なことは,租税と経費の絶対額ではな ( 1 1 1 ) く,相対的な額である Jということを強調する。したがって,財政負担を分析 するさいの基本的な観点はかわっていないといえる。 第 1に国家経費の膨脹についてである。中央政府の経費はクリミヤ戦争前の 12-15年前の平均が約 5600 万ポンドであったのにたいし!て, こ 乙 3-4&:1三の平均 i 万ポシドであり,絶対額に して 1 100 万一 1 300 万ポシドの増加,増 が 6700-6900 l ちである。これにたいして国富の増加であるが, 加率にして 15%--185 これを正 確に示すものがやはりないという。そこで,前回と同様に国富の増加を間接に l 示す指標として人口をとる。連合王国の人口は 1 2 年前が 2770 万人であったのに たいして, 1 8 6 1年 は2930 万人,現在は2960 万人に達していると推定される。し 2年間に 9 %の増加となる。しかし,グレイト・プリテシの人口を たがって, 1 みると; 1 851年に 2093 万人であったが, 1 861年 に は 2312 万人となり,現在は 2400万人ちかくになっていると推測される。この場合の伸び率は 15%。グレイ ト・プリテンにおける「労働の報酬はよく, (労働にたいすでる〕需要もほとんど の大規模生産ーにおいて高い。人口が増加したにもかかわらず,国民の状態は大 幅に改善されている。人口の 15%の 増 加 は 国 富 の よ り 大 き い 増 加 を 意 味 し て ( 1 1 0 ) ( 1 1 1 ) ( 1 1 2 ) ( 1 1 3 ) ( 1 1 4 ) ( 1 1 5 ) Norman,PressureofT a x a t i o n,F o u r t he d .,Lonωn,1 8 6 4,p.1 0 3 . I b i d . 実際は 1 8 5 9 6 2 年の平均で 6 9 9 0 万ポンド ( M i t c h e l l,0ρ.c i t .,p"3 9 7 )。 Norman, 。ρ.c i t P.104“ただし,増加率は正しくは 初予ぢ : 2 3 %である。 I b i d . .p .1 0 5 . ただし,正しくはふ 9%である。 人口統計によると, 1 8 6 4 年のグレイト・プリテンの人口は, 2 4 4 0 万人 ( M i t c h e l l, ρ.c i t .,p.9 )。 ( 1 1 6 ) 連合王国の人口の伸び率が小さいのは,アイノレラシドの人口の絶対的減少による。 しかし,ノーマンは,アイノレラシドの人口流出は移民が資産等を持ち出したわけでは ないので帝国を窮乏化させたわけではないという ( i b i d .,p .1 0 5 )。 。 吋 l OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -234ー 第5 6 巻 第 1号 2 3 4 いると考え℃まちがいないであろう。」こうのべて,ノーマンは,国家経費の r 膨脹を上まわる国富の増加があったことを実証しようとする。なお, 貨幣水準 の減価」については過去 10年一 15年の聞にすくなくともか 10%の物価の上昇, すなわち貨幣価値の減価があったとする。しかし, r どれほどの率で減価があっ たとしても,租税負担は,金額では数年前と同じでもそれだけ軽減されたとい うことである。」しかし,私は, r 相対的経費の変化率 JYがこの 10年余りの聞 において減少したとは必ずしもいえないよろに思う。 つぎは,外国との税負担の比較。ノーマンは"第 4表をつかい,フランス, オーストリア等 7カ国の大陸諸国の 1人当り税負担額とイギリスのそれとを比 較しイギリスの方が軽いという。すなわち, 1861年をとれば,イギリスの 1人 当り税負担は 43乙/リシグであるのにたいし-C,フランスは, 39乙/リング 7ペン久, 第 4表 ,? ヨーロッパ諸国の税負担の状況と国債 1 0 央 0万 政 府 ポ の ン 収 ド 入 ) 人口 1人当りの税負担 ) I中((10~7J ~ ~'?') I~ν リング・ペンス 8 4 7年11 8 4 7年 11 8 6 1年 8 6 1年 蹴 年 11 1 8 2 8年11 7 4 643 ス 5, 0 7 0 5, 1 3 4 6, 1 2 0 5, 4 8 8 7, 4 0 026 ス 4, 16 1 7 2, 9 9 46 0 4 0, ア 1, 0 7 0 2, 2 6 61 ヤ 8 4 6 1, 2 と く 1 , 8 4 91 0 2 3 1, 6 5 0 1, 5 6 6 4 5 7 3 0 8 1 3 8 43 6 3 9 7 9 1 7 8 22 4 - 2 1 2 20 8 4 0 5 7 16- 1 5 5 9 0 4, ア 1, 0 8 0 4, 4 7 0 7 1 23 7 - 50 7 0 7 9 6 - 4 6 0 5 9 222 3 2 1 92 3 9 0 4 5 〔出所 閣 僚 担 万年ボの総額 人口 1 1 1 8 0 6 0 1 リ人ン当グりのペ利ン子ス負} 〈 I シ ンド)[ ( 8 0 5 3 7 3 2 2 7 40 1 8 1 0 5 2 3 7 6 6 76 3 3 1 3 6 1 0 7 22 2 7 1 5 3 6 2 r ' e s s u r ' eo d .,L Norman,P o u x t he o n d o n,1864,p.134. a x a t i o n,F fT b i d . ( 1 1 7 )I ( 1 1 8 ) )レソ ーの総合物価指数をとると, 1 8 5 0 5 4 年平均が 1 0 3であるのにたいじて, 1 8 5 8 p . 年の平均は 1 1 6で , 1 6 2 3ポイント,すなわち 13%の上昇を示している (Mitche , I l o c t t . ,p .4 7 2 )。 i t .,P 1 ( 1 1 9 ) N o x 'ID血 . 0ρ c 0 9 . ( 1 2 0 ) (3)式をつかい試算してみる。 Eoは5 6 0 0 万ポシド。払は,物価上昇率を 10%とみ で除して, 6 て6 2 7 3 万ポンド。 P 万人, P, を2 9 0 0 万ポンドを1.1 oを2 0 9 3 3 1 2万人とする と , Y=1 万人とすると, Y=ー23%。 を2 4 0 0 .4%o P, l ゎ OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -235- ノーマンの財政改革論につい℃ 2 3 5 プロ乙/ャは 22乙/リング 4ペンス,ポーランドは 50乙/リング 7,~ンス等である。 そして, ζ れらの税を負担する所得額だが,ノーマンは, r イギリス人の平均的 富はフランス人の平均的富の 2倍,その他のほとんどのヨーロッパ人の平均的 富の 3倍ないし 4倍であるということは十分自信をもっていえる。 Jという。し r たがって, 連合王国の住民は,大陸の近隣諸国に比較して国家のすーピスにた いして所得のはるかに低い割合しか税として納めていない。」 r 7 ν リング さらに, 積極的経費」を外国と比較すると,イギリスが 1人当り 2 9i./リシグ,プロ νヤが20i/リング,オラン であるのにたいして,ブラシスが 2 ダが 35 乙/~ング,ベ Jレギーが 19ν リングである。したがって, r 以前 t 乞イギリス 政府にたいしてしばしばあびせられ,そして,前の諸章において反論した浪費 的であるという非難は,ここでも同様に根拠のないことが十分に肯定されるで あろう。 J r 要するに, 租税負担の検討 J初版における 3つの通説批判の結論は,今日に おいてもすこしも変更する必要がないということである。 r 1 5年前に真実であ ったことは,今日においても同様に真実である。 1 8 5 0年と同時に 1 8 6 4年におい ても〔国家〕収入と支出は所得と比較すれば適度であり,その割合は他の大国 のそれよりもはるかに低い。」これが補章の結論である。 000万ポンドちかい今日の なお,ノーマンは,補章の結びの部分において, 7 国家経費は必要かと自問し,つぎのように自答する。「帝国の名穫が守られ安全 が十分に確保されるためには,それは必要であろうと思う。民事費は富と人口 に対応して必ず増加するであろうし,海軍と陸軍は最良のわが権益を危険にさ らすことなしには大幅に削減されえない。陸海軍を擁してわれわれが簡単に敵 に屈伏しないということを示すことによってのみ,平和を維持しうるのであ おそして,彼は,今日,民族理論 ( D o c t r i n eo fN a t i o n a l i t i e s ) の勃興によ ( 1 2 1 ) ( 1 2 2 ) ( 1 2 3 ) ( 1 2 4 ) ( 1 2 5 ) I b i d ., p .1 1 2 . 訪i d ., p .1 11 . I b i d . .p.1 1 4 . .1 21 . I b i d . .p I b i d . ,p.122. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -236- 6 巻 第 1号 第5 2 3 6 r って戦争がひきおこされる兆候がみえるが,今度の戦争は総力戦となり, 地球 上のあらゆる地域を,そして多分イギリス本土さえも戦場とするであろう。 J という。これは,ぎたるべき帝国主義戦争を予言したとも受け取ることがでさ, 0 0 0万ポンドに逮するであろ 興味ぶかい。そし て,そのさい,国家経費は 1億 7 l うが, r イギリスは,すくなくとも財政力に関するかぎり,今日そのような試練 に遭遇し℃も,ナポレオン戦争末期に銀行券の減価を考慮しても約 8 0 0 0万ポン きする負担に耐えた時に比較してはるかによく対処しうる。」これが『租税 ドに j 負担の検討 J第 4版の結びであるが,ここにおいても,ノーマンの帝国主義思 想が明瞭に出ている。私が思ろに,従来,自由主義時代のいわゆる「安価な政 府」と常国主義時代の「高価な政府」との関連ゃなぜ前者が後者へ転変するの かが十分解明されていなかったが,ノーマシの「相対的経費論」こそその問題 をとく有力な手掛かりをあたえてくれるであろう。 V I I 反響 ノーマシは,経済学クラブにおいて『租税負担の検討』を公刊する前と後に 2回,自分の財政改革論を発表し会員の批判をあおいだが,当時の人々は「相 対的経費論 lをどのように受け取ったであろうか。 まず最初に庶民院の論議を瞥見する。 1 8 4 9年 2月26日にコブデンは国家経費 を1 8 3 5年の水準に削減すべしとする「財政改革」の動議を庶民院に提出したが, この動議の背景の一つにはイギリスの租税負担が過重であるという認識があっ r た。これにたいして,答弁に立ったワッド蔵相は, わが国の租税負担に関して 言われたことは,私が思うに,論駁するのが非常に困難な主張の一つでありま す。尊敬する紳士〔コプデン〕もその主張を証明するのに困るでしょうし,私 (蔵相)もそれにたいする弁明には 難儀を感じます。〔しかし〕もしわが国の倒人 i 所得とフラシスの個人所得をとるならば,私の信ずるところではおが国の所得 ( 1 2 6 ) l b i d ., p .1 2 3 . ( 1 2 7 ) I b i d ., OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 2 3 7 -237- ノーマンの財政改革論について ( 1 2 8 ) にたいする租税の比率はプランスのそれより低いでしょう。」 と反論する。ま た,ラッセノレ首相も同年 6月,増税を非難する急進派のリーダー, とューム議 員に反論して,つぎのようにいう。ヒューム議員の論法は, 1 0年前に 5000万ポ ンドの税収があったが, それが今日は 5200万ポンドとなり, 200万ポンドの増 税が生じたというものである。しかし,たとえば 1 8 2 9年から 1 8 4 7年までの r 2 0年 間」をとると,その聞に増税は. 6 0 0万ポンドであるのにたいして減税は 1 7 0 0万ポ ンドであり,実質減税が r 1 1 2 7万ポンド」に達する。「しかも注意していただき たいが,この 20年聞に人口が増加し国民の所得と財産が増加しているのであり, 1 0 0万ポンド減税されるとともに残りの税はより大まい人口 それ故に,租税は 1 と財産に課税され℃いるのである。」したがって,蔵相と首相は,索朴な形では あるが「相対的経費論」を用いて急進主義者に答弁をしているのである。 また,野党であるトーリーのディズレーリーも, 1 8 4 8 年 6月に,代議制度の 改革を求める「小憲章」の動議を提出したヒュームを批判して,経費と租税負 担の増大があったというヒュームらの主張は;真実であるのかと問う。過去20 年 聞をみると,歳入は 1 8 2 8年度の 4950万ポ γ ドから 1 8 4 8年度の 4 7 5 0万ポンドに減 0 0 0万人に増加しており,したがっ 少している。その聞に人口は 2300万人から 3 2 νリ て人口 1人当りの租税負担は 2ポンド 3乙/リング 2ペンスから lポンド 1 ング 2ベシスに低下している。しかもその聞に「年々の国富は人口よりも大ぎ な割合で増加している。」さらに,勤労階級にたいしては消費税を中心とする間 r 接税の負担が大幅に軽減されー租税の再配分が生じた。それ故, わが国には;過 重な租税と膨大かつ膨脹する国家経費が存在し,そのために改革が必要である といわれている。私は改革が必要でないというのではない。問題を正しく立て たい。このような大問題を誤った前提のうえで処理すべき・ではない。過去 2 0年 聞に人口と富の大幅な増加があったにもかかわらず,政府経費の割合はほぼ安 定的であった。租税も安定的であった。したがって,このような根拠に立つ ( 12 8 ) 3H a n : s a r d,C I I,1 2 5 0 .F e b I u a I Y2 6,1 8 4 9 . 傍点は西山。 ( 12 9 ) I b i d .,CV,1 2 2 0 .J u n e5,1 8 4 9, ( 1 3 0 ) l b i d .,XCIX,9 47ωJune2 0,l 8 4 8 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -238ー 2 3 8 第5 6 巻 第 1号 j 1したがって,ディズレーリーも相 〔ヒュームらの〕改革の要求は正しくなじと 対的な負担論の視角があったといえる。 r クッド,ラッセノレ,ディズレーリーの 3人の発言は,時間的にみて, 租税負 担の検討 Jの公刊以前であるのみならず,特にクッドとディズレーリ ーの発言 l は,ノーマンが「相対的経費論」の構想を経済学クラブにおいて発表する以前 である。したがって,両名,特にダイズレーリーとノーマンの関係が追跡解明 されなければならないが,それは後日の課題とする。 さて同時代の評論誌でノーマン流の「相対的経費論」を展開したのは,私の 知る限りでは,ホイッグ系の『エディンパラ評論』である。 1849年 4月の匿名 論文は, コブデンやリヴァプーノレ財政改革協会の財政改革論を姐上にのせる。 「地球上でわれわれほど租税負担の重い国民はないと常に考えられている。 し かし,マストの高さと竜骨'の長さから船長の名前をあてるようなあてにならな ( 13 1 . ) いデータを使う以外に,この命題を実証する試みにはお自にかかっていない。」 「乙/乙/リー島の国民所得は 1人当りにしてみれば, ワイト島のそれより多分は るかに小さいであろう。しかし,この 2つの島を比較すれば, ν乙/リーの方が 税負担は重いであろう。エジプトの農民に課されている税負担は,,'西ライディ シグの住民が納めている税額と比較すればとるに足りないものであることは明 白である。しかし,そうだからといって必然的に,西ライディングの住民が不 平のタネをもっているということにはならない。唯一の真の比較は,賦課され る税額と課税の対象となる財産との関係である。それ以外の歩べて(の比較〕 は観念的で根拠がなし、。われわれはイギリスの税負担が重いという通説がこの ( 1 3 1 ) l Q id .,9 4 8 . ( 1 3 2 ) Anon. ‘ ,F i n a n c i a lP r o s p e c t s,1 8 4 9 ',TheE dinburgh R e v i e w,Vo l . LXXXIX, No.CLXXX,A p r i l,1 8 4 9 . ( 1 3 3 ) 評論の対象とする文献は, 1 .F i n a n c i a lReformT r a c t s . Nos. 1,2,3 . Byt h e a t i o n a l Budget f o r1 8 4 9 . By R. F i n a n c i a l Reform A s s o c i a t i o n . 2 . The N s q ., M“ p " 3, A few W o r ' d so nt h et h r e e Amateur Budgets 01 . COBDEN,E C o b d e n,Macgregor,and Wason, Byt h eH o n o u r a b l eEDMUNDPHIPPS,であ る 。 ( 1 3 4 ) A n o n . ‘ ,F i n a n c i a lP r o s p e c t s,1 8 4 9 :o p "c i t .,p "5 1 9 . OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -239- ノーマンの財政改革論について 2 3 9 基準で判断した場合妥当性をもつのかどうか疑問に恩ラ。」匿名氏は,イギリス と,たとえば大陸諸国との税負担の比較等はこころみないが,もしイギリスの 税負担が過重であれば産業の発展や資本蓄積が阻害されるはずであるのに,所 得税が賦課されるヰ/ェデューノレごとの所得は,第 5表のように明らかに増加し ているとして,間接的に税負担に関する急進主義者の主張を批判する。 第5 表 i/玄デューノレ別の課税所得の推移 (単位ポンド) 合 計 l 注) 〔出所 各 νェデューノレの課税所得はi 両年の平均である。 Anon.,' F i n a n c i a lP r o s p e c t s,1 8 4 9 ',TheEdinburghR e v i e卸 , V01 . LXXXIX, No. CLXXX,A p r i l,1 8 4 9,p .5 2 0“ ( 1 3 6 ) r ;J:.ディンパラ評論 j 1860年 1月号の匿名論文は.ノーマン理論を明確に採 ( 1 37 ) 用している。匠名氏は, r ことなった時期を比較するかことなった国を比較する かをとわず,租税負担を推定するには,単に国庫に納付された実際の額をみる ( 1 3 8 ) のではなく,国富と人口に関連させてそれを検討しなければならないりとい う。そして第 6表をかかげ,人口 1人当りの税負担はナポレオン戦争終結後大 幅に減少し,今や世紀初めより小さいという。また,第 7表に示されるように, 「〔財産にしめる)現在の租税の割合は,国防力の再建によっ℃生じた〔国家〕 ( 1 3 5 ) I b i d . ( 1 3 6 ) Anon.,' B r i t i s hT a x a t i o n ',TheE dinburghReview,Vo 1 . CXI,No. CCXXV, J a n u a l Y,1 8 6 0 ( 1 3 7 ) 評論の対象とする文献は. 1 .F i n a n c i a lReformT r a c t s .L i v e r p o o l :1 8 5 9 . .2 . P e ot!e ' sB lt . eeB o o k . London: 1 8 5 6 3 AmericanAlmanac o fG e n e r a lI n f ' o ヂm a t i o n . 1857-18 日 5 9 . NewY o r k .4 .A n n u a i r ed ' E c o n o m i eP o l i t i q u ee td eS t a t i s 8 5 7 1 8 5 9 .Pa I ' I s . 5 .R e t o r to nF i n a n c e s .“Byt h eS e c r e t a r yo ftheTreasury t i q u e .1 疋s .NewYork: 1 8 5 8 ω 6 . On t h eP r e s s u r e. o fT a x a t i o n . By o ft h eU n i t e dS t a t GEORGEW. NORMAN,E s q .1 8 5 0 .7 .R e t o r tO nT a x a t i O 仇 d i r e c t andi n d i r e c t,a d o t t e db yt h eLiv e r t o o lF i n a n c i a lReformAs s . o c i a t i o n .1859,であり, 1 8 5 0 年)が含まれている。 『租税負担の検討j ( ( 1 3 8 ) Ano 乱 , ‘B r i t i s hT a x a t i o n ',0ρ c i t .,p .2 3 7 . 内 刷 剛 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 第5 6巻 第 1号 --240ー ー 第 人 1 8 0 1年 1 8 1 5年 1 8 2 1年 1 8 5 1年 1 8 5 8 年 口(人) 2 4 0 8表 1人当り税負担の推移 I歳 入 防 ド ) I1人当り税負担(ν リング・ペンス) 3 4, 1 1 3 . 0 0 0 2 0 0 . 0 0 0 72, 5 5 . 8 0 0 . 0 0 0 5 2, 3 0 0 . 0 0 0 6 1 . 8 1 2 . 0 0 0 1 5 . 8 0 0 . 0 0 0 1 9 . 0 0 0 . 0 0 0 2 1 . 2 0 0 . 0 0 0 ' 2 : 1 . 0 0 0 . 0 0 0 3 0 . 0 0 0 . 0 0 0 4 3 7 6 52 3 9 4 1 O O 6 O 2 〔 注 〕 歳入はす}べ℃純収入である。 〔出所 J A n o n . .' B I it i s hT a x a t i o n ' .TheE d i n b u f ' g hR e v i e w . Vo I .C X I , No.CCXXV. J a n u a r y .1 8 6 0 . p.237. 第7 表財産価額にしめる歳入の割合 C 単位 1 0 0 0 ポンド・ 9 め 不 動 産 ・ 動 産 の 価 額 (A) 1 8 0 3 年 歳 入 (B) 不動産 動産 1 . 0 6 3 . 0 0 0 ) >, 18 6 3 . 0 0 0 8 0 0 . 0 0 0J , , 3 8 . 6 0 0 2 . 0 7 不動産 動産 1 . 6 5 0 . 0 0 0 ) __ _ __ __ 1 . 2 0 0 . 0 J, , - 7 1 . 0 0 0 2 . 4 9 不動産 2 . 3 0 0 . 0 0 0 ) , ___ _ __ 5 3 . 0 0 0 1 . 1 8 6 , 18 0 0 1 .0 3 4 ∞ 1814年:'=:=.===~ 2 . 8 5 0 . 0 0 0 l (B)/(A) 年= =産 ==-2= = = } . 5 0 0 , 0 0 0 1動 .2 0 0 . O O O J4 , , - 1 8 4 5 │ 不動産 . . , . : ,動 産 _~ 1 8 5 8年 │ 3 . 2 0 0, 0 0 0 ) __ _ __ __ 5 , 9 7 5 . 0 0 0 2 . 7 7 5 . 0 0 0 ), _ . _ , - = = = = ' = = = } 〔出所) I b i d . .pp.238--239. 経費の大幅な増加にもかかわらず 1803年のわずか半分であり, 1845年の 5分の 4にすぎないりついで,外国との比絞であるが, 匿名氏がとりあげる国はブ ラシスとアメリカであるひプランスと比較すれば. 1858年の場合,人口 1人当 りの歳入額はイギリスが44i/リング 2ペンスであるのにたいして,ブラシスは 39 乙/リシグ 5 ペンス,国債の利払費を差し ~I~ 、た 1 人あたりの「現実的経費」 はプランスが 27乙/リング 5ペンスであるのにたいし て,イギリスは 24乙 IJ !シグ l 3ベシスで・ある。国富によしめる租税負担の比較については正確なデータがな ( 1 3 9 ) I b i d . ,p"239. OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -241- ノーマンの財政改革論について 2 4 1 い。そ ζ で j ーマンに依拠し個人所得にしめる租税の比率はブラシス人の方 がイギリス人の倍であろうという。アメリカとの比較も種々の困難な問題があ r るが,推計の結果は,第 8表のよろになる。すなわち, 1人当りではわれわれ の方がアメリカ人より明らかに税負担は重く,納税手段 (meansof ρ a . y m e n t ) ( 1 4 1 ) との比較では明らかに軽い。 Jしたがって,イギリスの租税負担は増加し他の国 々よりも重いとラ主張はあたらないということになる。 第 8表 (単位 イギリスとアメリカの税負担と経費の比較 νリング・ペンス, %) │イギリスつアメリカ 1人当り税負担額 1人当り経質の額 財産額にしめる秘税 財産額にしめる経費 543 1 2 8 2 3 4 3 1 9 1 0 1 .4 1 1 .6 2 0 . 8 9 1 .1 4 (出所 ) I b i d .,p .2 4 6 . r 1860年の匿名論文は, 租税負担の検討』第 4版が出版される以前であるため か自ら統計資料を操作し, 1850年代の計数を追加しているのが注目される(そ れ故に,匿名氏がノーマシでないことはほぼ確実である)。 われわれは,っきrに,グラッドストン蔵相が 1860年 2月 の 財 政 演 説 お い て 「相対的経費論」を援用しているのに注目したし、。グラッドストンは, 1860年 に所得税を廃止すると Lヴ 公 約 を 1853年におこなったが,それは;実現できなか った。彼が 1860年に所得税を廃止できなくなった大きな原因の一つはクリミヤ 戦争による経費の膨脹にあったが,その閣の事情を説明するさいにグラッドス トンは,経費一一中央・地方政府を含むーーの膨脹率と国富の増加率の比較を r こころみる。彼は,まず, 経費の膨脹をささえる所得の大幅な増大を考慮せず ( 1 4 2 ) にわが国の経費の大幅な膨脹を云々するのは正しくないであろう。」という。そ して, 国富の指標として所得税の乙/ェデューノレ A, B ,C,Dをとると, ( 1 4 0 ) I b i d .,p . .2 4 2 . ( 1 4 1 ) I b i d . ., p .2 4 6 ( 1 4 2 ) Art h u !T .B a s s e t t叫 ,G l a d s t o n e ' sS t e e c h e s,London,1 9 1 6,P.264. リ 1842- OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -242ー 2 4 2 第5 6巻 第 1号 1853年の増加率が 12%であるのにたいして, 1 8 5 3 1 8 5 9年のそれは 1 6告%であ る。それにたいして経費の膨脹率は前の期間が 4を%であるのにたいして,後 の期聞は 22告%である。とくに, 国会の審議をへる議定費の伸び率は 8を % と 58~ぢとなっている。したがって,クリミヤ戦争以後は経費の膨脹率が国富の 増加率を大幅に上回っていることになる。グラッドストンは, 1"わが国の現在と っているコースは正しいであろうが,いずれにしても盲滅法にそのコースを追 求すべきではない。逆に,われわれは,財政状態を完全に把握しわれわれがと るべき政策を制定する十分な基準をもつために,国富が負担する経費の割合に ( 1 4 3 ) ついて明確な認識をもつべきである。」という。したがって,グラッドストンは 国富の増加率を上回る経費の膨脹傾向に危倶をいだき,経費の膨脹にブレーキ をかけようとしたのであろろ。しかし,この点はつぎにみるようにノーマンが 批判するところである。 租税負担の検討』第 4版は 1864 年に公刊されたが,当時アイルランド さて, w のゴーノレクヱイ大学, ユニヴア一志/:ティ・カレッジの経済学教授であったケア ンズがそれをとりあげコメントを加えた。ケアンズは,財政負担の国際比較を するさい国家が収入を租税で調達するのか国債を募集して調達するのかによっ ( 1 4 活 〕 て負担の意味がことなるとしてノーマンを批判するが,基本的にはノーマンの 点において実に完壁で 主張を認める。すなわち,ノーマンの主張は「本質的な J 。相) ある」と高く評価するとともに,イギリスの租税負担がその所得と比較しても, またヨーロッパの諸国と比較しても軽いというノーマンの結論を支持す}る。し かし,先にみた 1860年 2月のグラッドストンの財政演説の一節を引用し,ケア ンズは〆「したがって,国家経費は最近では国富よりも急速に膨脹している。 この点は,当面の議論に関連して若干の重要性をもっ事柄であるということを ( 1 4 3 ) I b i d .,p .2 6 7 . ( 1 4 4 ) J .E, Cairnes,‘ OurF i n a n c i a lBurd 氾 が ,The V i c t o r i a Magazine,Vo l .I I I, September,1 8 6 4 . ケアシズは, 1 8 6 2年に経済学クラブの名誉会員になった。 ( 1 4 5 ) I b i d ",pp 3 8 8 3 9 0“ L e t t e rfrom C a i r n e st oNorman,1 5Octobe , ' I1 8 6 4,The C o r ' r eψo n d e n c e,p p .1 0 4 9 1 0 5 0 ; Nor'man'~ N o t e s .o nC a i r n e s .o nT a x a t i o n,Oc. t o b e r,1 8 6 4,i b i d .,ppω15031 5 0 4 ,もみよ。 ( 1 4 6 ) C a i r n e s‘ ,OurF i n a n c i a lB u r d e n ',o p .c i t .,p 3 9 4 . 帥 吟 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ -243ー ノーマンの財政改革論について 2 4 3 承認されるであろねとし,近年の経費の膨脹傾向に密告を発する。これにた いして, ノーマンは, ケアンズ論文に関する私的メモにおいて, i 経費を削減 し,減税をしようとする彼「グラッドストン〕の熱意はきわめて賞賛に価する が,私が思うに,乙の点に関して彼は 時々本筋を見失い,租税負担を過大に評 J ( 1 4 8 ) 価し,それをささえる源泉を過少に評価しがちであるりと書き,グラッドスト ンの財政政策にたいして不満をもらしている。 V I I I まとめ 小論の主題は蔵相と経済学者との交渉はどのようなものであったかを解明す ることであったが, ここではそれを第 1次・第 2次ラッセノレ内閣 (1846年一52 年)の蔵相ワッドとイングランド銀行理事ノーマンの関係に焦点をあてて試み た 。 ノーマンは20 才代半ばでイングランド銀行理事に選抜されたのち, 1830年代 -40年代における議会の特別委員会における証言やパンフレットの刊行を通じ て通貨学派の代表的論客となり, 1844年の銀行条例の成立にオーグァストーン とならんで大きな理論的影響をあたえた。モし乙この頃にピーノレやクッドと の関係がうまれ,イギリスの金融・財政政策立案の中枢に位置することになっ た 。 ノーマンの財政改革に関する主著『租税負担の検討』は1850年に刊行される や否や 3版を重ねるほど売れた。そして,彼はクッドの財政運営に関するプレ ーンとして財政政策の形成に貢献したものと推測される。その内容は栂対的経 ( 1 4 7 ) l b i d . ,p.395. ( 1 4 8 ) Norman' s .N o t e s .o nC a i r ' n e so nTa,x a t i o n, o t .c i t ., p .1 5 0 6 . ( 1 4 9 ) オーグァストーンも同様な見解であった。「うたがいもなくわが経費は膨大であり 乞管理すれば簡単に負担できるでしょう。しかし, ます。しかし,それは税源を賢明 t グラッドストシの気速いじみた無謀さ一一そラよぶ以外によぴょうがありませんーー を弓えているとこれから先どうなることかと気がもめます。J( L e t t e rfrom O v e r s t o n e o r r e s . ρ ' o n d e n c e,p .938) オーグァストーン t o Norman,1 5J a n u a r y,1 8 6 1,TheC は,グラッドストシをはっきり「狂人」とよんでいる。 L e t t e r from O v e r s t o n et o 8 6 0,i b i d .,p .9 1 4,をみよ。 Wood,2 9March,1 l OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 第5 6巻 第 1号 -244--- 244 費論であり,イギリスの国家財政の膨脹を積極的に認めるものであった。ブヱ ツター教授は, i 事実上すべての経済学者は,経費は最小にすえおくべぎである と考え,経済学者の大部分の者は,政府経費は浪費にすぎないという考えに近 かっ五百)といろが,このような通説的見地からすれば,ノーマンの経費論は異 端のようにみえる。しかし,彼の主張は, クッドやラッセノレはもちろんトーリ ーのディズレーリ ーさえも支持していたのであり,ノーマンの主張こそ 1 9世紀 l 中葉の経費政策の主流ではなかったかと恩ラ。 なお,ノーマンは;軍事力の増強に異常なほど執着しており,その政治思想は オブライエン教授のいうように自由主義的といラよりは,軍国主義的あるいは 帝国主義的であった。私は,ノーマンの財政思想に,自由主義時代のいわゆる 「安価な政府」から帝国主義時代の「経費膨脹の傾向 Jへの転変の秘密をとく カギがあるように思う。 3のパンプレツト J ,香川 (付記)小論は,すでに発表した拙稿「財政改革にかんする 2, 大学経済学部『研究年報 J1 8,1 9 7 8 年の VI,VIIに若干の枝葉をつけたものである。 ( 1 5 0 ) F e t t e r, 。ρ c i t ., p .1 1 5 .