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a071 チュニジア紀行7日 民家訪問 ホテル周辺散策 バルドー博物館

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a071 チュニジア紀行7日 民家訪問 ホテル周辺散策 バルドー博物館
異文化の旅 チュニジアを行く1998-18
チュニジア紀行7-8日 民家訪問 ホテル周辺散策
a071
バルドー
博物館
ドゥガからチュニスまではおよそ 1 時間だった。 5 時近くにシキ
ブさんの家に着く。今回のチュニジアツアーではあらかじめ民家訪
問をお願いしておいた。ただし、イスラム教徒は非イスラム教徒を
あまり歓迎したがらないと聞いていたので、旅行社には無理のない
範囲で構わないとも伝えた。現地事務所とシキブさんは、チュニス
の高級住宅と一般的な住宅=シキブさん宅をコースに組み込んでく
れた。わずかな時間であっても実際に訪問すると暮らしぶりを実感
することができる。
シキブさん宅は住宅地の一角
にあり、周りは戸建て住宅が整
然と並んでいた(写真右奥がシ
キ ブ さ ん 宅 )。 ど の 住 宅 も 敷 地
を高さ 2m ほどの塀で囲ってい
る。外に閉じるつくりだ。シキ
ブさん宅は南道路で、東西はお
よそ 12m、南北は 20m ほどの広
さがあり 、北側半分ほどは菜園である 。
ほかの住宅も同じで、菜園で野菜を作
り、ときには鶏なども育てる。
南東の端は駐車場になっている。車
をもたない住宅が多いが、最近は自家
用車が増えてきているそうだ。鉄製の
門扉を開けると前庭があり、正面に入
口がある。入口扉は木製で、上枠にマ
グロの尻尾が留めてあった。一種の魔
除けだそうだ。
入口の左手がリビングルーム=ビッ
ツナグァ(次頁上写真、入口側から撮
る )、右手が寝室=ビッツヌーム、ビッツヌームの奥が台所=クジ
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ーナ(下写真、入口あたりから
撮 る )、 ク ジ ー ナ の 右 手 、 入 口
の奥がバストイレ=ミハッドで
ある。クジーナの裏手に勝手口
があり菜園とつながる。
6 年前 の建築 で、 いまはお母
さんとシキブさんの 2 人暮らし
である。お父さんが元気だった
ころは、姉と妹の 5 人家族だったが、姉、
妹は結婚し、お父さんは他界されたそう
だ。 2 人暮らしだから、シキブさんがツア
ーガイドから帰ってくるとお母さんは嬉
しくてたまらないようだ。台所には断食
が終了になる日没後に食べる食事が用意
してあった。私たちはホテルに帰ってか
ら食べるのでみんなは紅茶とクッキーを
頂いた。その間、私は間取りをスケッチ
し、写真を撮っていた。暗くなってきた
ので、 6 時ごろおいとました。図々しく大
勢でお邪魔して申し訳ない。シキブさん
も運転手もとても明るく気さくであった。
シキブさんのお母さんも朗らかな感じであった。思い起こすと、チ
ュニジアで出会った人々はみんな明るく親しみやすい感じであっ
た。紆余曲折の歴史を乗り切るにはこうした明るさが欠かせないの
かも知れない。
ホテルに戻り、レストランパノラマで夕食をとる。サラダ、チュ
ニジア風春巻きに魚のフライ、デザートをチュニジアワインで楽し
んだ。いよいよ明日はチュニジア最終日、部屋に戻って荷物をまと
め、ベッドにもぐり込む
1998 年 12 月 27 日・日曜、朝 6 時半ごろ起きる。雨は上がった
が空には雲が残っていて、外気温 12 °、湿度 71 %、空気はひんや
りしている。窓から身を乗り出して街中を見るとすぐ先に、上に行
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くほど横に張り出した逆三角形の高層ビルが建っていた( 上写真 )。
チュニジアには地震がないので
あろうか、ずいぶんと奇抜なデ
ザインである。その先にも高層
ビルが並んでいる。サハラのオ
アシスで暮らすベルベル人のイ
メージが強いと、近代都市チュ
ニスを見て拍子抜けしてしまう
に違いない。
朝食後、散策に出る。私たち
のホテルも上階がせり出してい
る ( 中 写 真 )。 チ ュ ニ ジ ア の 特
産でもあるナツメヤシの木の葉
っぱは外側に伸び出している。
上階が外にせり出すデザインは
ヤシの木の葉陰で強い日射を防
いできた意識が顕在化したため
かも知れない。
少し歩いた 先に TGM チ ュニ
スマリーン駅があった(下写
真 )。 TGM は郊外に向かう路面
電車で、地下鉄とも連絡してい
る。チュニスの地下鉄開業は
1985 年であるがすでに 5 路線が
市街に伸びている。ドイツ製だ
そうだ。車両や交通システム、
延伸するたびの路線などがすべてドイツ製=ドイツ規格になる。さ
らにはドイツの技術への信頼度も増し、さまざまな分野への影響力
はさらに大きくなる。日本からの企業進出は難しさもあろうが、技
術力ではドイツに引けをとらないはずだ。期待したい。
小 1 時間の散策から戻る。車にスーツケースを入れ、ホテルから
車で 10 分ほどのバルドー博物館に向かった。これまでの遺跡、遺
構で発見されたモザイクや彫像などは Musee National du Bardo バル
ドー博物館 に展示されていると
何度も聞かされてきた。いよい
よ対面である。
インターネット上の資料をい
くつかを拾い読みする。チュニ
スがイスラム・アラブの首都と
なるのはハフス朝=ハフシド朝
( 1228-1574)からで、チュニス
の郊外に宮殿がつくられた。ハ
フス朝は、モロッコから現スペインのアンダルシアを基盤とするム
ワヒッド朝の流れをくんでいたため、この宮殿はスペインとイスラ
ムの融合したムーアスタイルでデザインされたらしい。
1574 年、ハフス朝に取って代わってオスマン帝国がチュニジア
を支配し、チュニジアにパシャ=司令官が派遣されてたが、ムラー
ド朝( 1613-1705)がベイ=総司令官を名のりチュニジアを治める
ようになった。居城については書かれていない。
ムラード朝滅亡後、フサイン朝( 1705-1881)がフランス統治を
挟んでチュニジアに君臨した。 1735 ~ 1756 年にムラード朝のアリ
・パシャ=副将軍が現在の場所に宮殿を建てる。広大な敷地だった
らしい。 1824 ~ 1835 年、総司令官のベイ・フサインは敷地の中に
ムーアスタイルの居城を建てる。資料によってはバルドー博物館の
起源を 13 世紀の宮殿としているから、ベイ・フサインの居城はハ
フス朝のムーアスタイルの宮殿がイメージされたのかも知れない。
1859 ~ 1864 年にはその隣に総司令官ベイ・ムハンマドがイタリア
スタイルのハーレムを建てた。
しかし、 1879 年ごろにフサイン朝は破産してしまう。総司令官
ベイ・サドックは小さな居城に引っ越し、この宮殿は手放された。
フランス政府がこの宮殿を手に入れ、改修を加え、スペインでは草
原や豊かな緑を意味する plado プラドに由来して bardo バルド博物
館と命名し、 1882 年に開館した。バルドー博物館からも歴史のう
ねりが分かるが、歴史のうねりが大きいほど史実の確たる証ががあ
いまいになる。大筋が理解できたところで、現物を堪能した方が良
さそうだ 。・・続く( 9812 現地、 2014.2 記)
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