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- 1 - 異文化の旅 チュニジアを行く1998-1 a054 チュニジア紀行1日 パリ
異文化の旅 チュニジアを行く1998-1
a054 チュニジア紀行1日 パリ到着
1997 年 12 月 、北アフリカの西はずれに位置するモロッコ Morocco
を訪ねた。初めてのアフリカである。そこにはカスバ、メディナに
代表されるアラブの町とアトラス atlas 山脈を越えたサハラ sahara
砂漠側に展開するベルベル人の土の住まいが私を圧倒した 。同時に 、
モロッコで見た住文化は果たしてモロッコに限られた特徴か、それ
ともマグレブと呼ばれる北アフリカのベルベル人に共通する文化な
のかが、私の関心をとりこにした。モロッコの帰り、すでに次の目
的地はチュニジア Tunisia と思い始めていた。それからまる1年、
チュニジアへの旅が実現した。今回は、往復をパリ泊とし、チュニ
ジア内ではチュニス tunis -トズール tozeur 間を飛行機として、あ
いだの行程をゆったりに組んだ。印象は、チュニジアはかなりフラ
ンス化していてモロッコに比べ異文化性は弱く物足りなさを感じた
反面、文化混交、現代化の様相をじっくり見ることができた。むろ
ん、かつてのローマの遺跡や、アラブ・イスラムの荘厳さ、ベルベ
ル人の穴居住宅など、期待以上の収穫も得られた。まずは簡単な行
程を紹介する(図参照 )。
1998.12.20 1 日目 成田→パリ泊
1998.12.21 2 日目 パリ→チュニス→トズール泊
1998.12.22 3 日目 トズール・サハラ砂漠・オアシス・オングジ
ャメル・トズール泊
1998.12.23 4 日目 トズール→ジェリド湖→ドゥーズ→マトマタ
→スファックス泊
1998.12.24 5 日目 スファックス→エル・ジェム→スース泊
1998.12.25 6 日目 スース→ケロアン→チュニス泊
1998.12.26 7 日目 ドゥガ・フラレシア・チュニス泊
1998.12.27 8 日目 →シティブサイド→チュニス→パリ泊
1998.12.28 9 日目 パリ→
1998.12.29 10 日目 →成田
チュニジアの面積は 16 万㎢で日本のおよそ 2/5 とはいえ、現地
の滞在は 6 日間であるからチュニジアの特徴を見せる代表的な観光
地が主体になる 。そのなかにチュニジアの住まい探訪も盛り込んだ 。
チュニジアの人口は 1067 万人
( 2011 年)で日本の1割にも満
たない。国土の多くは砂漠地帯
だから、旧市街などの密住と砂
漠地帯・遊牧の粗住に分かれて
いそうな気がする。国民の 98 %
はアラブ人であり、北アフリカ
の先住民族であるベルベル人は
わずか1%に満たない。アラブ
人が旧市街に多く住み、ベルベル人が遊牧なのであろう。これは現
地で確認できるはずだ。
教科書では古代ローマがカルタゴと戦うポエニ戦争を習う。通り
一遍の勉強では古代ローマがヨーロッパ~北アフリカを支配したこ
とやカエサルが「ブルータスお前もか」と言って暗殺されたこと、
その後ローマ帝国へと発展することなどを学ぶが、ポエニ戦争の相
手であるカルタゴやハンニバル将軍は記憶にない。古代ローマの記
録しか残っていないためらしい。私も塩野七生著・ローマ人の物語
を読んでカルタゴを詳しく知ったていどである。そのカルタゴこそ
がチュニジアの首都チュニスあたりなのである。
チュニジアには 2013 年時点でチュニス旧市街( 1979 年、文化遺
産 )、カルタゴ遺跡( 1979 年、文化遺産 )、エル・ジェムの円形闘
技場( 1979 年、文化遺産 )、ケルクアンの古代カルタゴの町とその
墓地遺跡( 1985 年 、文化遺産 )、スース旧市街( 1988 年 、文化遺産 )、
ケルアン( 1988 年、文化遺産 )、ドゥッガ /トゥッガ( 1997 年、文
化遺産 )、イシュケル国立公園( 1980 年、自然遺産)の世界遺産が
登録されているが、文化遺産はすべてカルタゴ遺跡と古代ローマの
遺構である。うち、ケルクアンを除く文化遺産を訪ねるのでカルタ
ゴと古代ローマの拮抗にも思いを馳せることが出来そうである。
チュニジアを始めとする北アフリカを支配下に置いていた古代ロ
ーマ帝国に代わってイスラム教であるオスマン帝国が北アフリカの
主権を握る。これが現在のチュニジアの国民の 99 %がアラブ人で
ある理由である。ところがオスマン帝国の力が弱まると、ヨーロッ
パ列強がアフリカに進出してくる。 19 世紀にチュニジアはフラン
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スに占領され、 1957 年の独立宣言までフランス保護領となった。
そのため、現在のチュニジアの公用語はアラビア語とフランス語で
ある。日本からチュニジアへの直行便はない。ヨーロッパを経由す
るならチュニジアの歴史に大いにかかわるフランスがいいだろうと
思い、パリ経由のエールフランス機を使うことにし、前後 1 泊パリ
の行程にした。始めての、しかもパリ前後 1 泊であるがチュニジア
におけるフランス文化の影響がかいま見られるかも知れない。
パリ経由+前後 1 泊にはもう一つ理由がある。同行の K さんの
一人娘 A 嬢がパリ大学に留学中なのである。パリ大学は 13 の大学
の総称だそうで、どこにある大学でなにを専攻しているか忘れてし
まったが、 K さんにとっては久方の再開ができるし、私たちにとっ
て A 嬢は初めてのパリの強い味方になる。などなど、思いのこも
ったチュニジアの旅である。
1998 年 12 月 20 日・日曜、早起きし、スーツケースを押しなが
ら勇んで家を出る。 10 時過ぎに成田第 1 ターミナルに到着、ツア
ー手配をお願いした JTB カウンターに行くと、なんと ??!!、 12:30
発エールフランス機は欠航であった。ドキッ、一瞬息が止まる。だ
がさすが JTB!!!である。私たちのために 11:50 発の全日空機を手配
してくれていた。旅行社にツアー手配をお願いするとこういうとき
に助かる。出発時間が 40 分ほど早くなったので、大急ぎで、全日
空機出発カウンターの成田第 2 ターミナルに移動し、バタバタと機
内に滑り込む。満席で、私たちのグループの席もばらばらになった
が、やむを得ない。一息したころの食前酒でとりあえずは無事の離
陸を祝して乾杯した。遅めの昼食を取り、ワインを楽しみながら、
新着映画を見たり、手持ちの資料に目を通したりして過ごす。この
ころの旅はエコノミー席で、私たち夫婦は窓側 3 人席の窓側、通路
側はスウェーデンの女性だった。彼女はクリスマス休暇でストック
ホルムに帰るところだが、直行便がないためパリ経由になったそう
だ。是非スウェーデンを訪ねたいと言ったら、ストックホルムは歴
史のある美しい町で、初夏がベストシーズンとのことだった。
いつの間にか外が暗くなってきた。下を見ると延々と真っ白な氷
の大地が続いている。シベリアはまだ夜が明けていないようだ。地
図を眺める。チュニジアは北緯 30 ~ 37 °で日本の九州から仙台ぐ
らいに相当する。緯度では埼玉
と同じような気候になろうが、
アトラス atlas 山脈の北側、地中
海に面している地域は地中海性
気候帯に属しやや温暖で湿潤に
対し、アトラス山脈の南側、サ
ハ ラ sahara 砂 漠 に 面 し て い る 地
域は砂漠気候帯に属し暑さが厳
しく乾燥していて、サハラ砂漠
を挟んで気候が大きく違う。首都チュニスの東経はおよそ 10 °、
日本の標準時は東経 135 °だから時差は日本- 8 時間になる。パリ
は北緯 42 °、東経 2 °で冬時間は日本との時差は- 8 時間(夏時
間の場合は- 7 時間)であり、チュニジアとパリの時差はないが、
北緯 42 °は函館ぐらいだからかなり寒そうである 。・・・そんなこ
とを考えているうちに寝たようだ。
フランス時間の 11 時ごろ=日本の夜 7 時ごろに目が覚めた。お
にぎりをもらう。外はだいぶ明るい。モスクワあたりか、まだ真っ
白な氷の世界が続いている。フランス時間午後 2 時過ぎに軽食が出
た。外はすっかり明るくなり、氷の世界にまじりときどき森林の緑
が目に留まる。刻々と風景に畑が広がりだし、道路に沿った家並み
がはっきり見え出す。 4 時半シャルル・ド・ゴール空港に着陸、当
初の予定より 50 分ほど早い到着になった。ストックホルムに帰る
女性にサヨナラを言う。家族と水入らずのクリスマスかな。
私たちは迎えのバスで、セーヌ川の南、地下鉄 6 号線 Glaciere グ
ラシエールに近いソフィテル・フォーラム・リブ・ゴーシュホテル
に向かう。チェックインをすませたあと、みんなで地下鉄に乗る。
といってもグラシエールは高架駅で、次の駅から地下に入り、二つ
目の Danfert Rochereau ダンフェール・ロシュローで降りる。この
駅のそばのレストランで A 嬢と始めてお会いし、和やかに食事を
とった。 K さんと A 嬢は四方山話があるだろうからと、私たちは
ホテルに戻り 、バーでパリの夜を楽しんだ 。モーニングコール 5 時 、
出発 6 時半を確認し 、興奮冷めやらないままベッドに入った 。
( 9812
現地、 9901 記 2013.12 加筆修正)
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