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見る/開く - ROSEリポジトリいばらき

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見る/開く - ROSEリポジトリいばらき
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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執筆禁止時代のケストナー(5)
佐藤, 和夫
茨城大学人文学部紀要. 人文学科論集(27): 89-103
1994-03
http://hdl.handle.net/10109/2161
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
「執筆禁止時代のケストナー(V)」
佐 藤 和 夫
1.はじめに
『執筆禁止時代のケストナー』の第五部にあたる本稿では長編娯楽小説3部
作の第2作にあたる《Die verschwundene Miniatur》(1935年刊)を取り上
げる(以下この作品を《Miniatur》と略す)。第一作,《Drei Manner im
Schnee》では大人向けの作品としての特色と児童文学作品としての特色の二重
性を中心として分析したが,本論においてはとりわけ推理小説とメルヘンの二
重構造をもつ作品として注目してみたい。
高橋健二氏は『ケストナーの生涯』の中で
「このユーモアに満ちた小説は,波瀾万丈の推理小説である」1
と述べて,《Miniatur》を推理小説であると断定している。確かにこの作品は
そう言っていいだけのものはもっている。そこでとりあえずこの作品のテーマ
が美術品の窃盗をたくらむ盗賊団と彼らからミニアチュアを守ろうとする老若
男女三人の物語であるとして全20章のこの作品の構造を簡単にまとめてみよう。
1∼4章:舞台背景の説明と登場人物たち(ルーチンワークを逃れて旅に出た
肉屋の親方キュルッ,美術コレクターの美しい女秘書イレーネ,こ
の二人に近づこうとするルーディと名のる若い青年,そしてみるか
らにひとくせありそうな盗賊団の手下たち)の互いの関係が述べら
れる。
5∼8章:ミニアチュアをめぐってキュルツ,イレーネ,若い青年の三人と盗
賊団たちとの虚々実々の駆け引きが行われる。
9∼10章:舞台がデンマークからドイッへ移動し,キュルッたちは盗賊団の目
を逃れてヴァルネミュンデで遊ぶ。緊張の高まりの小休止。
11∼12章:盗賊団によるキュルツたちの包囲と襲撃。この混乱の中でミニアチュ
アと若い青年が消え失せる。新たな緊張の高まり。
13∼18章:ミニアチュアの行方を知ると目される若い青年を盗賊団が追跡する,
90
一方警察はその青年を犯人と推定する。若者と盗賊団との息詰まる
ような駆け引きが続く中で,若者の計略が功を奏し,盗賊団は皆逮
捕され,残る謎は本物のミニアチュアの所在だけになる。
19∼20章:本物のミニアチュアの行方が明らかになり,若い男の正体も判明す
る。盗賊団を除く当事者たちはそれぞれ結果に満足する。緊張の解
放と幸福の山積。
こうしてみると,発端において巧みに伏線が張られ,しだいに緊張が高まり,
中間部ではいったん緊張を解放して別な方向へ緊張をもっていき,それを継続
させながら最後には予想外の結末と幸福を用意して緊張を解放し,充足感をも
たらすという推理小説(以下ミステリーと呼ぶことにする)として一見何の問
題もないような構造になっている。しかし詳細にみてみるとそうは単純に言い
切ることはできない。この作品は表面的にはミステリーのようにみえながら,
メルヘンの要素も濃厚に含んでいるからである。ミステリーが
「物語文学のうち,娯楽的効果を含んだサスペンス指向の形態を持つもので
あり,その中で犯罪の遂行と(あるいは)発見がその犯罪のもつ社会的,心理
的背景と結びつけて描かれる」2
ものであるとするならば,上記の構成要素のうち, 「娯楽的効果を含んだサス
ペンス指向の形態を持つ」点に関しては先ほどみたように満たしているにして
も,《Miniatur》の中で「犯罪の遂行と(あるいは)発見」が「その犯罪のも
つ社会的,心理的背景と結びつけて描かれ」ているようにはみえない。
一方,メルヘンの特色が
①自然法則や歴史的・社会的決定因子が遠くへ押しやられ,
②非現実的な人やもの,「奇跡」が筋の決定要素になりうる
点にある3としてこの作品に当てはめてみれば,
《Miniatur》の場合現代の小説であるから自然法則は無視していないが,そ
の他の
①時代背景にほとんどとらわれていない
②社会階層の垣根がない
③非現実的な,あるいは超人的な人物が登場する
点において,メルヘンの要素を満たしていると言えよう。以下においては上記
のミステリーとメルヘンの二つの観点から,作品の構成と登場人物の役割とに
ついて考察してみたい。
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 91
2.作品の構成
2.1.メルヘンの世界
推理小説の構成要素の一つとして「社会的背景」があるとするならば,時間
と場所を具体的に描写する必要がある。ところがこの作品では場所こそ具体的
に名を挙げているものの,例えば
「本当に変わったところだ,このコンゲンス・ニュトロフは。何年もデンマー
クを離れていて_再び_ホテル・ダングレテルの方を見れば,相変わらずあ
の優雅な女性たちや上品な客たちがすわっており_十指に余る言葉でおしゃ
べりをし,陽気なにぎわいを辛抱強く眺め...
コンゲンス・ニュトロフ広場の前では時が止まっているのである」4
という具合に,時間は停止され,過去,現在,未来の区別が否定されているの
である。それと同時にこの広場に姿を現す肉屋の親方キュルッは後述のように
突然日常生活に嫌気がさして自ら求めて家族にも知らせず飛び出してきたのだっ
た。もう少し牽強付会するならば,この脱出先デンマークはアンデルセンの故
郷である。つまりキュルッの非日常性への憧憬はメルヘンの世界と結びついて
いるとも言える。
さらにその後の舞台背景をたどっていくと,骨董店(3章)や盗賊たちの愛
顧する酒場(4章)であり,これらはきわめて伝統的な場所であり,はるか昔
から存在した場所である。第5章に至って駅,列車と近代の産物が登場し,第
6章の連絡船へとつながっていく。列車,連絡船と場所の移動の手段が舞台装
置となっているのも一つの暗示と思われる。つまりメルヘンの国デンマークか
ら現実の国ドイツへの移動を象徴するのが列車であり,連絡船なのである。こ
の連絡船の中で若い男が,肉屋の親方に置かれている状況を説明するためにメ
ルヘンを語って聞かせる場面がある(第8章)。
「「キュルッさん,あなたのまだご存じない物語を一つしなくてはなりませ
ん」とシュトルーフェは言った。
『どんどんしてください。』
『それでは一昔々とても正直な男がおりました。それでその男は他の人もみ
な同じように正直なものと思っていました。』
『昔々だって。まるでメルヘンみたいだね』とキュルッはたずねた。」5
これを話して聞かせるのはこれまではメルヘンの世界であったことと,これか
らは現実に目覚めてほしいことの現れであり,ここからいよいよミステリーの
92
世界へ入っていく分かれ目であり,シンボルでもある。そして場所はいつしか
バルト海を渡る連絡船を経て,ドイッの地に至る。表面的には
「コペンハーゲンを出た後すぐに眠り込んだ旅行者が今目を覚ましたとして
も自分がまだデンマークにいるのか,それともすでにメクレンブルクにいる
のかほとんど断言することはできないだろう。この両者の風景は互いに取り
違えるほど似ている。」6
しかしその直後ではきわめて現実的なことを白髭の紳士(実は盗賊団の首領)
とクレーフェルトの繊維製造業者が対話を交わしている。
「彼らは世界大戦によって生じた新情勢を議論した。彼らはヨーロッパが大
規模な自殺を企てた年月が他の大陸,かつてのヨーロッパ製品を購入した側
によってうまく利用されてしまったこと,を話し合った。
二人の男たちは,ヨーロッパのような大陸にはやむをえざる原料の輸入と現
金を除けば何も輸出できないことによる危険の増大を話し合った。」7(9章)
この二人の対話の内容は戦間期ヨー1ロッパの状況の一般的特色を述べたもので,
年月を特定することはできないものの,それまでの時の流れが止まっているか
のような描写に比べて全く異質に現実味を帯びている。先の若者によって語ら
れたメルヘンは遠回しに現実を教えるものであったが,この章の対話ははっき
りと現実の世界に入ったことを告げ知らせるものになっている。
しかしこの時点まではいずれにしてもまだ予兆にとどまっている。イレーネ
による単純なおとり作戦が功を奏し,ミニアチュアはまだ無事手元にある一方
で盗賊たちはその奪取に成功したと思いこんでおり,メルヘン的な素朴な解決
策の成功はそれまでの緊張の空白を生み出し,あたかも一一件落着したかのよう
な状態になる。キュルッはベルリンの妻に電話をしてそれまでの蒸発の事情を
説明し,長年の疲れからくる倦怠をふきとばすような妻の情愛に満ちた反応を
得ることができ,再び夫婦の絆を強める。イレーネは緊張がゆるんで若い青年
が止めたにもかかわらず最終目的地であるベルリンへの直行を中断して,一時
下車をしてしまう。
ここで彼らは森へのハイキングをし,ダンスホールでの仮装舞踏会に参加す
るが,もはやメルヘンの世界にはとどまっていられないことを思い知らされる
ことになる。ハイキングでは彼らは森がかつて育んだメルヘンの世界(狼,妖
精,小人など)に思いを寄せるが,彼らの腰を下ろした場所は実は蟻塚の上で
あって,たちまち現実の世界に引きもどされてしまう(9∼10章)。そしてダ
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 93
ンスホールでの華やかな舞踏会のまっただ中で三人は現実に突き落とされる。
ミニアチュアが偽物であると気づいた盗賊団は彼らを包囲し,電気を停め,暗
闇の中の大騒乱を引き起こす。これを契機としてメルヘンの世界は完全に終わ
る(ll章)。
2.2.ミステリーの世界
推理小説部にあたる後半を象徴する道具立ては自動車と電信網である。ダン
スホールの混乱の中でミニアチュアを奪取したと思いこんだ盗賊たちはタクシー
6台に分乗してロストックの隠れ家に向かう(12章)。一方ミニアチュア盗難
のニュースは自動車をはるかに超えるスピードで広まっていく。
「今日泥棒どもを捕らえる網は電線で編まれていて電話網とよばれている。
高い柱に取りつけられ国中に引かれている電線がブンブンと低い音を立てた。
ホルバインのミニアチュアの盗難の報道と高い懸賞金の事実がアッという間
に四方八方へ広まった_」8
11章までの牧歌的な世界に別れを告げたこの小説は以後自動車と電話を媒介に
して進行していく。
隠れ家に引き上げた盗賊団のボスは手下たちからミニアチュアを受け取って
解散しようとするが誰もそれを持っているものはいない。ボスは異変を悟って
指示を
「俺はホテル・ブリュヘルへ行ってヴァルネミュンデと電話で連絡をとる」9
と変更する(12章)。
ホテルの電話で部下からシュトルーフェと名乗る若い男が姿を消しているこ
とを知ったボスは自分を出し抜いたこの男をあくまでも捕まえようと決心する。
そこへ当の若い男自身がホテルへ姿を現し,ここからレンタカーを用いたベル
リンへ向けての追跡劇が始まる。(13∼15章)
一方キュルッとイレーネから事情聴取したロストックの警察も姿を消した若
い男に疑惑の目を向ける。キュルツは嫌疑を否定しようとするが,彼には論理
的に説明できない。逆にイレーネに彼女とルーディ・シュトルーフェと名乗る
若い男との関わりを問いただすほど疑問は深まるばかりである。彼らの事情聴
取が終わり,部屋を出ようとしたとき担当の警部に電話が入り,彼はキュルツ
たちにこう言う。
「たった今ルドルフ・シュトルーフェ氏をベルリンのホルッェンドルフ通り
94
の彼の住居で逮捕したとの報告を受けました...」’°
警察はベルリンで拘束されたシュトルーフェを尋問することになり,参考人.
であるキュルッたちもベルリンへおもむくことになる。(13∼15章)
ここでミニアチュアの行方と同時に,盗賊たちが追跡しているはずの若い男
とベルリンで拘束されている男は果たして同一人物でありうるのかという謎が
生じるが,この二つに分岐した追跡と捜査の対象はベルリンを舞台とする第16
章で結節する。
16章では追跡する側とされる側が逆転し,警察に逮捕されかかったシュトルー
フェ氏と若い男の関係も判明する。
レンタカーを返却した若い男はベルリンのカント通り177番地の五階に姿を
現す。彼は当然ながら追跡してきた盗賊たちに住居を取り囲まれる。盗賊たち
は警察をかたって住居に踏み込むが,若い男は彼らが机の上にある小さな包み
に気を取られているすきに抜け出し,鍵を掛け,全員を部屋に閉じこめたうえ
で, 「書斎の電話へ駆けこん」11で,特別機動捜査隊に出動を要請する。これ
によって首領を除いて盗賊たちはすべて逮捕されることになる。残る首領も名
前をかたられて冷や汗を流すはめになったシュトルーフェ氏の協力によって無
事逮捕されることになる(17∼18章)。
こうして見てくると盗賊と若い男の追いつ追われつの活劇が派手で目立つが
これはあくまでもストーリーをおもしろくしながら本線の謎であるミニアチュ
アの所在を隠蔽する支線にすぎないと見なければならない。
筋が分岐した13章以降ミニアチュアの存在も分岐していく。というのは本物
と偽物の「二つのミニアチュアがあるから」12である。前半部のメルヘンの世
界では少なくとも本物は絶えず本来の搬送者であるイレーネの元を離れること
はなく,この点でもll章が分岐点となって,二つあるミニアチュアのどちらが
本物であるのかが混濁して見えにくくなっていく。11章末尾のダンスホールの
場面でイレーネの元に戻された「偽の」ミニアチュアはキュルツが預かり,12
章で美術的価値がないものとして彼にイレーネから譲渡され,16章でキュルツ
家の部屋を飾ることになる。一方盗賊たちに追われている若い男は自分の住居
で「書斎に接した部屋の低いテーブルの上に」13小さな包みを置き,それは部
屋に押し入った強盗たちを逮捕した警察の手に渡る。どちらが本物のミニアチュ
アであるのか,さらには盗賊団とその先回りをする若い男の正体は何なのかな
ど,謎の解明は作品最終部の19章と20章にゆだねられることになる。
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 95
3.登場人物
《Miniatur》は上記のように冒頭から末尾にかけてメルヘンの世界からミス
テリーの世界へしだいに移行していることがわかるが,登場人物の役割につい
ても同様のことが言える。
以下に述べる人物たちの大部分は作品の中で終始一貫して登場しながらも主と
して活動する世界は上記二つの世界のいずれかに限られるのである。
3.1.メルヘンの世界の人物たち
3.1.1.オスカー・キュルツ
この物語において終始中心人物の一人となっているオスカー・キュルッが最
初の舞台であるコペンハーゲンに出現するのは日常生活に突然嫌気がさして
「逃げてきた」’4からである。そしてキュルツは偶然出会った息子の店の得意客
の女性に仕事を放り出してきた心境を物語る。
「突然やっていけなくなったんです。土曜の晩のことでした。どうしてなの
かわかりません。店は大忙しでした_中庭を横切って..屠殺舎の窓の前で立
ち止まりました_するとそのときクロウタドリが泣いたんです_いっぺんに
これまでの人生のことが浮かび上がってきたんです。まるで神様がボタンを
押したみたいでした。」’5
この部分の肉屋の親方の告白はそのまま受け取ればかなり深刻である。しかし
ながら彼のいでたちは「緑色の防水加工した上着を着,褐色のビロードの帽子
をかぶり,もじゃもじゃと白髪混じりの髭を生やし」’6た上に,「右手には節く
れだった杖,左手にはグリーベンの旅行案内」17をもっているという具合で,
上品ななりをしてコンゲンス・ニュトロフ広場に面したレストランで食事をし
ている人々にはきわめて滑稽に映っており’,盗賊団の一味に言わせても,「こ
れ以上の愚か者なんていやしない」18ほどの人物なのである。
この肉屋の親方キュルツの邪気のなさが高価なミニアチュアの搬送の使命を
帯びたイレーネ・トリュープナーの目に留まり,搬送の代行を委託されること
になる。そして彼はこの仕事をイレーネの期待通りに実直に遂行し,期待通り
に盗賊団に手の内を読まれて,(偽の)ミニアチュアを盗まれてしまうのであ
る。キュルツには小説の進行上二つの役割が課せられている。一つは先に述べ
た生活からの逃避とその解決,二つ目は今触れたミニアチュアの代理搬送者と
しての役割である。前者はイレーネの意見を受け入れることによって解決に向
96
かい,後者の役割は忠実に果たして,彼にもイレーネにも本物のミニアチュア
の行方がわからなくなる11章でその役割を終える。ただし「本物の」ミニアチュ
アの無邪気な搬送者としての役割はむしろ後半部で果たすことになる。
3.1.2.イレーネ・トリュープナー
美術品コレクター,シュタインヘーフェルの秘書イレーネ・トリュープナー
の本来の役割は60万クローネで競り落としたアン・ブーリンのミニアチュアを
すみやかにベルリンへ移送することであった。彼女がその役目をおおせつかっ
たのは著名なコレクターであるシュタインヘーフェル自身よりも無名の秘書の
方が目立たなくてよいという理由からであった。その彼女がただちに目的地に
向かわずに,いかにものんびりとコペンハーゲンにとどまっているのは別の高
価な美術品の盗難が報道され,ベルリンまでの旅程に不安を感じているからで
ある。
「『百万クローネの美術品が盗まれてしまったんですって』彼女は我を忘
れた。『例外なくオークションで競売されたものばかりなんです。しかも犯
人は何の痕跡も残していないのです。明日アン・ブーリンのミニアチュアを
持ってベルリンへ発てば私の身にも何かが起こるかもしれません。もう今日
からそんな感じがするんです_』ユ9
そうは言っても使命を考えれば,とどまり続けることもできない。だが彼女に
は策があるという。その策とはたまたま知り合った自分のひいきの肉屋の父親
であるキュルッに協力を依頼することだった。そこから,若い優雅な美女と初
老の粗野な大男のミニアチュア搬送の旅が始まることになる。しかしイレーネ
が積極的に本来の行動を計画し,遂行するのは駅頭でキュルッにミニアチュア
を渡す5章までで,先に見たように10∼11章では緊張のゆるみから仕事を離れ
て,ハイキングとダンスに興じてしまう。その後の状況の変化に対してはきわ
めて受動的で,単なる協力者にすぎないキュルツ以上にその役割は後退する。
彼女が自分の意志をはっきりさせるのは雇い主,シュタインヘーフェルにミニ
アチュア盗難の責任を感じて辞任の申し出をするときだけである。
「啓蒙的なハプスブルクの君主ヨーゼフ2世が当時腰かけていた椅子にすわっ
ていたイレーネ・トリュープナーは取り乱して,立ち上がり,そして突然何
日も前からそうするのを待ち受けていたかのように泣き出した_
『解雇してください』と彼女はつっかえながら言った。卸
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 97
したがってイレーネの作品中の積極的関与は1章から5章までと言ってよいだ
ろう。
3.1.3.盗賊団の手下たち
盗賊団の手下たちは少なくとも「およそ2ダースほど」21いるが,何らかの
特徴を付与され,名前を持ち,かつ主体的に行動している者は二人に絞られる。
一人はアハテルという名の,テノール歌手のように量感のある体躯を持ち,鼻
は霜焼けになっているみたいに赤紫をしている人物で,もう一人はシュトルム
という名の,背が低く,栄養不良で顔はもはやはつらつとはしておらず,耳は
フクロウのように異常に顔の上方についていて,おまけにそれが突き出ている
という人物である認。
この二人を含めて手下たちの行動はすべて後述の首領の指示に従っていると
思われるが,1∼4章におけるキュルツ,イレーネの尾行,さらには後者への
直接の接触の試みなど,若い男に邪魔されて結局は成功しないものの,彼らは
指示された以上に積極的に行動に出ている。
彼らはその後もキュルッとの接触を絶やさず,ドイッへ向かう列車の中でも
同席し,キュルッがイレーネに委託されたミニアチュアを税関検査を工作して,
巧みに盗み出し,当初の目的を達成している(6章)。しかし首領が直接姿を
現し,指示を出し始める9章以降になると彼らの主体的行動はほとんど見られ
なくなり,首領の操り人形になっていく。
3.2.ミステリーの世界の登場人物たち
3.2.1.若い男
メルヘンの世界での若い男はあくまでも影の役割にとどまっている。第2章
末にキュルッとイレーネを尾行し始めた盗賊団三人のさらに後ろを尾行する形
で登場した彼は常に全体状況を把握しながら盗賊団の機先を制し,キュルッと
トリュープナー,そしてミニアチュアを守っていく。彼のイレーネの前への登
場の仕方は強引で,唐突でもある。
「『何かご用ですか』とトリュープナー嬢は断固たる調子でたずねた_『そ
れにどうして私の名をお呼びになるんですか。』」お
この若い男の正体はメルヘンの世界,ミステリーの世界を通じて完全には明
らかにされないままなのだから,彼に対するイレーネの警戒感は最後まで保持
98
されてしかるべきものである。しかし彼女の積極的な役割が後退していく第5
章を境として,取り立てて深い理由のないまま好感の持てる青年として受け入
れられていく。これもまた彼女がメルヘンの世界の住人であるゆえんであろう。
この青年自身は先にも述べたようにキュルッにメルヘンに託して後者の置か
れた状況の説明を試みているが,これは彼がメルヘンの世界の外側にいる人間
であることを示すものと考えられる。
その彼は盗賊団によるダンスホール襲撃事件を境にして本来の姿を現す。す
なわちミステリーの世界の主役に躍り出るのである(ll章)。いったん表舞台
に出た後は常に積極的に行動に出て後退することがない。盗賊たちにミニアチュ
アの所有をにおわせると同時に自身の所在を明らかにして絶えず注意を自分に
引きつけ(12∼15章),自分の住居に彼らを閉じこめて警察に通報して一網打
尽にし(16章),わずかにその網から逃がした首領をも友人を動かして追いつ
め(16∼18章),最後にはミステリーの世界の主役として一連の謎の種明かし
をするに至るのである(19章)。
3.2.2.盗賊団の首領
盗賊団の首領は二つの集団の対立の中で若い男と対をなす存在である。もっ
とも若い男はイレーネたちの味方なのか,それとも盗賊団の商売敵なのかはっ
きりしないままに事態が進行していくのだから,一貫してイレーネを支えるキュ
ルッと対照すべきなのかもしれないが,彼が主として活躍するのはメルヘンの
世界なのだから,首領と対置させるにはふさわしい存在ではないであろう。
首領が最初に姿を現すのは酔いつぶすつもりが逆に酔いつぶされてしまった
盗賊団の手下をキュルツが送り届けたペンションであった。
「白い口ひげを生やし,黒眼鏡をかけた上品な紳士が姿を現した_翌(4章)
次いでキュルッたちの乗っている列車の中にも同じスタイルで登場し,イレー
ネと若い男のいるコンパートメントを一瞥して通り過ぎていく (5章)。コン
パートメントの窓に向かってささやきかける行為(5章)や部下の言葉,
「_奴が感づいたら,ボスの命令を実行するんだ」ゐ(7章)
からも彼の存在そのものは常に彼の仲間にも,そうでない者にも鮮明に意識さ
れながらも,彼自身は表だった行動を起こさず,対立者である若い男同様メル
ヘンの世界では影の存在にとどまっている。
その彼が直接行動を起こすのはキュルツたちの途中下車に気づいてその行方
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 99
の捜索を命じてからである(9章)。彼らの行方を突き止めてからは先頭に立っ
てイレーネの一行を捕捉しようとし,ついにはダンスホールの襲撃を仕掛け,
強引にミニアチュアを奪い取ろうとする(11章)。しかし彼の攻勢はここが頂
点で,ミニアチュアを奪取したつもりが見込み違いとなり,部下からこの件か
ら手を引くよう進言されたのをはねつけ,前述の若者の挑戦を受けて立ったと
きから彼の没落が始まる。つまり彼は真に主体的に行動できたのは作品がメル
ヘンがミステリーに移行する過程のみで,その移行が済んでしまった後からは
若者に振り回され続け,彼の引き立て役に堕してしまう。ついには「ホルン教
授」26と自称し,彼の知的雰囲気を醸し出していた口ひげを取り去り(17章),
追いつめられてデパートのショーウインドーに逃げ込みマネキンを装うはめと
なる。結局首領は自らは主体的に行動しているつもりではあったが,ミステリー
の世界への移行が終わった後は若者の広げた網の中で動いていたことになる。
3.2.3.警官たち
警官たちが登場するのは盗賊たちがダンスホールを襲撃した第ll章からであ
る。それまでの隠密のうちに進められた窃盗計画が,ここで初めて強奪事件と
して公然のものとなり,警察の介入を招来する。近代の組織である警察が出現
するこの事態もまたメルヘンの世界から完全にミステリーの世界へ入ったこと
を意味している。
警察は盗賊団に対抗する公的組織であるが,ここでは事態の把握と事後処理
に追われ(12∼13章),事件を能動的に解決するには至っていない。盗賊団と
いう組織集団による襲撃があったにもかかわらず,ミニアチュアの強奪犯人を
それと同時に姿の見えなくなった若者と見込んで捜査をした結果,彼の偽称に
振り回されて真相をつかみ損ねてしまう(14章)。若者を最初から信じている
キュルッに言わせれば,捜査主任の「理論」は「みえすいた嘘」なのである幻。
警察が盗賊団の存在を把握し,逮捕するのは若者とその友人の行動によって
盗賊たちが身動きできない状態になってからである(17∼18章)。盗賊団の手
下たちがミステリーの世界ではほとんど首領の指示に従ってしか行動できなかっ
たのとちょうど呼応するように,結果として警官たちも若者の意図に沿う形で
しか事件の解決の道は残されていなかったのである。
4.二つの世界の融合
100
上記の物語の構成と登場人物の役割の両面からの記述を大まかにまとめてみ
ると,構成それ自体と人物の役割がほぼ純粋にメルヘンに近いのは1∼4章ま
でで,それ以降はしだいにミステリーの要素が入り込んできており,11章のダ
ンスホールの襲撃を境として活動の中心となる人物もほぼ入れ替わってミステ
リーの世界にほぼ完全に移行し,19章で謎の解明が行われるということになる。
一方,登場人物の面からは主としてメルヘンの世界で活動する人物とミステリー
の世界で正面に出てくる人物とにほぼはっきりと二分されていることがわかる。
そして最終章の20章ではミステリーの世界の謎の解明からくる安堵感と,盗賊
という反社会的集団を除けば肉屋の親方も,その妻も,美術コレクターの女性
秘書も,その雇い主も,美術品を助けるために大活躍した保険会社員も,その
上司も,そして警察も皆幸せな気持ちになるメルヘンの世界の幸福感とが結び
合う,つまり二つの世界が融合して大団円を迎えるのである。
5.おわりに
この《Miniatur》にはケストナーが自分の小説の趣旨と意義を述べる常套
手段である「序文」がない。その理由の一つはこの小説がすでにみてきたよう
にミステリーを構成していることに求められる。さらにそのミステリーの世界
で活躍する若い男を探偵であるとするならば,探偵小説は
「分析的で,提示部ですでに設定されている因果の鎖の必然的結果とやがて
判明する結末から組み立てられており,その因果の鎖はたくみに導入されたい
くつかの偶然と筋の展開を延ばす要素によってさしあたり隠蔽され,これらの
要素がしだいに解体されていくにつれて読者の目に明らかになってくる望
構成をもっているのだから,作者は必然的に序文の章を設けて手の内を明かす
ことはできないのだと言うことができよう。
序文のないもう一つの理由は作品そのものの基本的な組立,つまり真の主人
公が直接中心になって行動していないことにあるように思われる。筋の流れか
らみると最初から登場する旅行中の肉屋の親方キュルッ,キュルッとカフェー
で偶然出会う美女イレーネ,最後までなかなか正体をつかませないが,前記の
二人を盗賊から守っている青年の三人が主人公であるように見える。事実彼ら
は最後まで盗賊団の標的であるミニアチュアを守るために活躍し,彼らの行動
は直接読者の目にさらされている。
しかしながら前作《Drei M翫ner im Schnee》を思い起こしてみると主人
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 101
公たちを動かしていたのは大人になっても失われない永遠の子どもらしい遊び
心,無邪気さであった29。そしてとりわけその中心はフェンスの外からは邸宅
のあるのが全くわからないほどの広大な屋敷に住みながら,肉うどんをすする
のが大好きという億万長者のトーブラーである。この《Miniatur》において
も子どもの気持ちを失わない億万長者が中心にいて周囲の人々は彼の一挙手,
一投足によって右往左往させられるという基本的枠組みは変わっていないよう
に思われる。本来ならもし盗難を恐れるならば,ミニアチュアの搬送は屈強な
ガードマンを雇えば済みそうなものである。それにもかかわらず,美術品の盗
賊団が暗躍している中で美しい自分の秘書に搬送を命じるのは全編喜劇調のこ
の作品においてはまさにいつになっても遊びを忘れられない前作のトーブラー
を髪髭とさせる。ただ前作においては億万長者が終始直接登場していた。この
《Miniatur》において億万長者の名(シュタインヘーフェル)は16章以前に
おいても,第1,3,7,9,ll,12,13の各章において他の登場人物によって
挙げられ,彼らのうちの一方は,直接この億万長者の意にそって行動し,他方
盗賊たちは
「シュタインヘーフェルのじいさんがあの女の子のために誰かをよこすって
ことも考えられる」3°
などと彼の手の内を読んで行動しようとするのであるが,直接登場するのはよ
うやく第16章になってからなのである。直接登場してからの彼のしたこととい
えば,盗難の責任をとって辞職しようとする秘書を思いとどまらせることや戻っ
てきたミニアチュアが本物かどうか鑑定するぐらいで,盗賊たちが常に彼を意
識して彼の挙措を憂慮していたのと比べるときわめて受動的な存在でしかない。
マンクはこの作品が「一目でわかるくらいに筋の流れが素朴につくられてい
る」3’といっているが,これはまさに「筋の組立は単純で,一本調子で,直線的
である伊というメルヘンの特色ではあるけれども,それほど単純ではないこ
とはすでにみたとおりである。ただシュタインヘーフェルの直接の登場が少な
いことが,親方キュルツを除けば,確かに「規格化され_個性を失って_作者
の割り振った役割を果たすだけの人」認になってしまっている。例えば後半の
ミステリーの世界の中心人物の若い男に対しては「背が高くてスマート翌あ
るいは「すてきで,絵のような人」舗くらいの規定しかなされていない。この
ような登場人物に「もっぱらプロセスを担う機能だけが付与されている」36の
もまたメルヘンの特色ではあるし,子ども心を忘れない大人が,メルヘンに登
102
場するのも当然ではあるけれども,肝心のその心を持った本人がほとんど表に
出ずに後退してしまったことが登場人物個々人の果たす役割においてもひいて
は筋の流れの点でも精彩を欠くことにつながっているように思われる。基本的
にメルヘンの特色を持ちながら,しかも「子どもの心」を失わない大人を登場
させて物語の冒頭から末尾まで活躍させるのはケストナーの第三作《Der klei一
ne Grenzverkehr》を待たねばならない。
注
1 高橋健二,『ケストナーの生涯』(増補版,1984)S.118
2 Tr昌ger, Claus[hg.]:W6rterbuch der Literatuawissenschaft(1986), S.277
3 Doderer,Klaus[hg.]:Lexikon der Kinder−und Jugendliteratur Bd。2
(1977)S.422
4 K細tner, Erich:Gesammelte Schriften 7 Bde. Bd,3(1959),S.171(以下この
全集に拠るときは巻数をローマ数字で,ページ数をアラビア数字で示す)
5 皿一228
6 皿一232
7 皿一233
8 皿一259
9 皿一262
10 m−270
11 皿一290
12 皿一217
13 皿一286
14 田一175
15 田一177
16 皿一172
17 皿一172
18 田一181
19 田一188
20 皿一291f.
21 皿一271
22 皿一175
佐藤:「執筆禁止時代のケストナー(V)」 103
23 皿一194
24 皿一199
25 皿一220
26 皿一237
27 田一268
28Tr菖ger, Claus[hg.]:W6rterbuch der Literaturwissenschaft, S.101
29佐藤和夫,「執筆禁止時代のケストナー(皿D」茨城大学人文学部紀要(人文学科論
集)第23号(1990)S.23
30 皿一175
31Mank, Dieter:Erich K齢tner im nationalsozialistischen Deutschland
(1981),S.76
32Klotz, Volker:Das europ翫sche Kunstm勘chen(1985),S。12
33Mank, Dieter:Erich K齢tner im nationalsozialistischen Deutschland, S.
78
34 皿一182
35 皿一267,もっともホテルのメイドの口を通じて「髪はブリュネット..,グレーの目,
細身,髭なし,身長182cm,襟回りサイズは42cm」(IH−266)と盗賊たちに伝え
させている。
36 Klotz, Volker:Das europ翫sche Kunstmarchen, S..12
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