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Title デイヴィッド・ダビディーン著 大英帝国の階級・人種・性 : W・ホガース
Title Author Publisher Jtitle Abstract Genre URL Powered by TCPDF (www.tcpdf.org) デイヴィッド・ダビディーン著 大英帝国の階級・人種・性 : W・ホガースにみる黒人の図像学 杉原, 達 慶應義塾経済学会 三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.86, No.3 (1993. 10) ,p.324(162)- 327(165) Journal Article http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19931001 -0162 「 三田学会雑誌」86巻 3 号 ( 1993年 10月) に関わる歴史研究にとっても極めて重要な問題提 起となっている。専攻分野を異にするにもかかわ 書 評 らず,あえて書評を試みる所以である。 II デ イ ヴ ィ ッ ド • ダビディーン著 『 大英帝国の階級• 人 種 •性 W * ホガ一スにみる黒人の図像学』 第 1章 「 18世紀のイングランドにおける黒人」 松村高夫 • 市 橋 秀 夫 訳 ( 同文舘,1992年) は,当時の絵画と版画の中で,黒人がどのような ものとして描かれていたのかを略述している。上 流階級は, しばしば植民地物産や黒人を自らの生 活の中に取り込み,それを絵に描かせるという趣 『ホガースの黒人--- 18世紀イギリス美術にお 向をもっていた。そうした絵画にあっては,黒人 ける黒人のイメージ』( 1985年) という原題を持 は白人の「 美しさ」を際立たせる引き立て役にす つ,まことに魅力的な書物が翻訳された。著者は ぎなかった。 この感覚は,黒人をサルの延長線上 南米ガイアナ出身で, ウォーリック大学で教鞭を にみる当時の支配的風潮の反映であり,黒人と動 とるほか,種々の教育活動•創作活動に携わる黒 物とは,貴族の家庭の中では同一の位置を与えら 人著述家である。 れていたのである。 これに対して版画の方には, 本書の主人公は,18世紀イギリスの画家• 版画 白人社会における黒人の経験の他の側面を明らか 家ウィリアム•ホ ガ ー ス ( William Hogarth, にするものがみられる。黒人を戯面化する傾向も 1697〜1764) である。細部描写に特定の意味や効 あるとはいえ,「 黒人は下層階級のサブ•カルチュ 果を付与したホガ一スの作品に対して,数多くの アに積極的に参加しており,その暴力と卑俗な経 批評が行われてきたにもかかわらず,著者によれ 験を十分にかつ等しく共有している」( 47,以下 ば 「ホガースの黒人をそれが登場する物語の文脈 ページ数を示す)姿が,版画には示されていると に位置づける試み」は,膨大な研究史の中でも今 いう。黒人が白人下層と社会生活を共にし,生き なお果たされていないという。ちなみに日本にお 抜くための連帯感情を抱いていたことの指摘は, けるホガ一スの受容という問題を考えてみると, 本書全体を貫くモ チ ー フ であるといえよう。 第 2 章 「『 美の分析』における黒人への言及」 美術史に関しては何とも言えないのだが,歴史関 係では,1975年 7 月に大河内一男が東京• 銀座で は,1750年 代 に ホ ガ ー ス が 書 き 残 し た 『 美の分 銅版画展を開催したことがあり,また川北稔『 路 析』草稿の検討にあてられている( ただし草稿か 地裏の大英帝国』( 1982年)で紹介されるなど, らの引用が多くないのが残念である) 。著者によ つとにその存在は知られてきた。だがそれらは, れば,英国では18世紀半ばに至って支配的• 伝統 基本的には18世紀イギリスの庶民や貴族生活の諸 的な白人絶対主義に対抗する形で,美の相対性を 相を知るための貴重な美術史料として位置づけら 認める考え方が見られるようになった( 例えばス れてきたのであって,本書のように黒人の描き方 ミスの『 道徳感情論』( 1759年) を見よ)。 ホガー を軸にして,彼の諸作品を解釈する試みは, 日本 スもその一人であって「 母国の黒人女性たちに大 の読者にとってもやはり新しい研究として受けと いなる美をみいだすニグロが, ヨーロッパの美人 められるであろう。 しかもそれは,ホガース研究 の中に, 醜さをみいだすかもしれない」 と やあるいは近年注目を集めている図像学研究のヶ みていた( 56)。 しかも黒を単調とみる当時の風 ーススタディたるにとどまらず,他者= 自己認識 潮とは異なり, ホ 162 Q324) ガ ー ス は 「 膚ざわりや 光の吸収 と反射,また,色の明度という点で黒人の『 多様 (126)。実はこの給仕が手にするチョコレートは 性』を認識」( 6 3 ) しており,単調であるのはむ 植民地物産であり, ま た 「 安ピカな美術品と競売 しろ白い膚の方であると見なしていたという。 さ 目録の横に膝をついている小さな黒人少年は,美 らに彼は,解剖への立会いなどを通じて新しい生 術と奴隸制とのつながりを象徴している」( 138)。 作品には, イン グ ラ ドの文化が,植 物学に積極的に触れており,『 美の分析』には, ホ ガ ー ス の 膚の色の原因に関する当時の科学的認識が反映さ 民地貿易, より根源的には奴隸労働の搾取によっ ン れていた。 このように彼は,黒人に関する哲学 て支えられているのだというメッセージが込めら 的 • 美 学 的 • 科学的認識を持っていたのであり, れていることを, ダビディーンは図像分析を通じ 「 黒人は, ホ ガ ー ス の 絵画や版画のひじょうに重 て読み取っていく。 第 4 節は,相場師として身代を築いた父の遺産 要な語り手」( 8 5 ) なのであった。 床にこぼれた「インド債券」 を見よ を継 承した青年の墜落を描いた版画『 放蕩者一代記』 III を取り上げる。その第 3 図 は 『 最後の晩餐』をパ 第 3 章 「ホ ガ ー ス の作品における野蛮人と文明 ロディ化した構図になっており,卓を囲んだ売春 人」の第 1 • 2 節では,信仰厚い文明人と自称す 婦たちが猥雑な振る舞いをしている中で,その情 る存在こそが,堕落しきった野蛮人に他ならない 景を見渡して笑みを浮かべている黒人が描かれて ことを暴露するホガ一スの諷刺が, カニバリズム いる。著者は, この黒人女性を両義的な意味をも の凄味を漂わせた戦慄的な構図を含む5 種類の版 つ存在とみている。一方で彼女は自墜落で神を冒 画に即して分析される( 『 勤勉と怠惰』の晩餐会 瀆する行動をとる白人たちを笑いとばす存在であ の中の黒人給仕は「 だれが野蛮人であり,だれが りながら,他方では自分自身も売春婦仲間であり, 文明人なのか?」を問い直す重要な位置にあると 性風俗の欠くべからざる一部なのであった。 ここ 著者はみる。次の場面で黒人は恐怖を帯びた驚き にも伝統的な文明批判とは異なるホガース独自の の表情に変わるというが,著者がこの変化に大き ス タ ン ス が あることを著者が示唆しているのだが, な意味を見いだしている( 102) だけに,その版 この点は後に触れよう。 画が掲載されていないことが惜しまれる) 。だが 第5節は『 娼婦一代記』を扱い,本書の中心を 著者は,「 文明人」たちの金銭欲ゃ頹廃した道徳 なす。売春婦や零落した人々が並んで麻や縄を打 意識を諷刺したホガー ス, という地点で立ち止ま つ監獄を描いた第4 図の中で,著者は妊娠した黒 りはしない。 人女性に特に注目し,彼女の存在は, ともに砧を 第 3 節では,絵 画 『 当世風結婚』の第 4 図が特 打つ白人売春婦の将来の姿を示すという。 という に論じられる。貴婦人の背後からチョコレートを のも,彼女たちの多くは植民地に追放されること 給仕する黒人男性は,一見したところ目立たない になるが,そこでは性的かつ経済的な搾取が待ち が,著者によれば,実はこの絵の要の位置に据え 受けており,入植者たちの性の気晴らしの結果と られている。彼の視線は,有名なイタリア人のオ しての妊娠も労働力の再生産という意味を持って ペラ歌手に向けられており,歌手の取り巻き連中 いて,その境遇は黒人奴隸と似通ったものであっ をも貫いている。 この絵画を全体として見た場合, たからである。植民地における奴隸労働が富を創 白人貴族たちが「 上から,真横から,そして下か り出し,それが貿易商人を通して本国へ還流する。 ら」の黒いまなざし,つまり給仕と衝立の中の黒 商人は売春婦を求め,彼女たちの一部は監獄を経 人少年像と床に遊ぶ黒人の子供との視線によって て植民地へ流れて,そこで富の生産と労働力の再 嘲笑される構図となっているという指摘は鋭い 生産に貢献する。その富がまたイングランドにお 163 (5 2 5 ) ける更なる売春の資金となる 。簡略化すれ きないかどうかを, きびしく点検する必要がある。 ばこのような大英帝国の経済循環を背景にしなが 第 1 章はまさにこの点を扱っているのだが,叙述 ら, この連作は構成されていたと著者はみる。第 は短く,内容的に不完全燃焼の感は免れがたい。 1 図の細部が最後の場面を予言し,第 6 図が最初 また,第 の場面に再び接続しているという形で,実は作品 人に関わる図像がホ 全体が循環構造をもっていることを指摘する筆致 かなる内的な意味と連関をもつのかが,改めてホ は鮮烈である。彼女たちの,そしてその孤児たち ガ ー ス の運命は,決 し て 「 免れえない神の摂理」などで この点に関わるはずの第2 章の分析は十分でなく, はなく「 経済に根本原因がある」 とホ また結論部でも見るべき形で論じられていないの ガ ー ス は 理 二 に , こ の 研究成果を踏まえた上で,黒 ガ ー ス の 仕事の全容の中でい 論の問題として提起されるであろう。だが 解していたという( 177〜181)。 また著者によれ は残念である。 ば, この黒人妊婦は,売春婦や乞食を追放して街 ⑵ホガースは,優れた異邦人という設定に仮託し を 「 浄化」 し,かつ現地の黒人奴隸に対する布教 て白人文明の基盤をひっくり返すという,モンテ の意図をもった植民地事業に対するホ スキュー以来の諷刺の伝統の中で, どのような独 ガ ー ス の 冷 笑的な態度を反映するものであった( 194)。 自の位置を持っていたと著者は見ているのであろ だが著者が力説してきたホ ガ ー ス の 意図は,当 時どれほど理解された の で あろうか。 この点で著 うか。 ここに本書から学びその成果を継承発展さ せる重要な論点が含まれていると私には思われる。 者は, ホ ガースの 諷 刺 が 「 人種差別思想の最悪の 著者の分析の第一の特徴は,植民地の奴隸労働 伝統」に正面から対立す る も の で なく,むしろ に支えられた大英帝国経済の循環と再生産のシス 「にやりと笑った淫らな黒人のイ メ ー ジ 」 を喚起 テ ム と いう具体的 • 歴史的現実の中に, ホ ガ ー ス する効果をさえ有し得たことを認めている。 にも の作品を位置づけた点にある。黒人の図像は,植, かかわらずダビディーンは, この美術家が示した 民地交易による様々な富の収奪を軸とした帝国の 可能性を次のように高く評価し,それが決して過 全体像につながってこそ,その歴史的意義が見い 去の も の で は ないことをメ ッセ ー ジ と して記して だせるのであり,絵画の表面にあらわれた黒人を 「ホ ガ ー ス は , 女 性 ( 白人と黒 純美術的• 孤立的に鑑賞するにとどまるならば真 人)の従属の経験を理解しようと模索しており, の意味を見誤ってしまうと言わねばならない。III 人種的区分を克服する,黒人と下層階級の白人と で取り上げた中心的な3 枚の図版における黒人の いるのである一 の連帯を理解している。 それは,資産家階級によ 諸像のみならず,紅茶ポットをもった黒人少年や, って統制された経済制度に犠牲になった人びとの 猿, マ 連帯であ る 」 ( 231)。 を広げるならば, ホ ホ ガ ニ ー の 机と い っ た 細部描写にまで視野 ガ ー ス の 図像における同時代 的な帝国性が,一段とリアルな実体をもって迫っ IV てくるのである。 第二の貢献は,諸作品に描かれた他者としての 最後に,本書の意義を認めた上でなお残る疑問 黒人の位相が明確にされた点であって,本書のョ と継承すべき成果を確認しておきたい。⑴まず第 リ本質的なインパクトはまさにこの点にあるとい 一に,ホガース作品の黒人像に対する著者の位置 えよう。 ホ づけはまことに明解で刺激的であるにしても,そ 立ち寄った旅行者のように,高みに立って「こち ガ ー ス の設定する他者は,例えば偶然 れが恣意的なものでないことを示すためには,同 ら側」の世界を相対化できるような自立的で弁の 時代の芸術で黒人を描いた他の作品において,ホ 立つ存在では決してない。超越的な位置にあるど ガースに見られるような特徴を指摘することがで ころか,む し ろ 「こちら側」の世界を離れては生 164 C326} きることができず,猥雑な生活圏の内部にいて, 的,階級的,性的な矛盾 • 葛 藤 • 交流の批判的分 経 済 的 • 性的搾取や支配的規範にしばられながら 祈が,「 大英帝国」の世界性を解読する上での不 も, 自身をその一部とする「 文明社会」を時には 可欠な契機であるとみる方法的立場の深化をうな 笑いとばす エ がすものではないだろうか。 ネ ル ギ ー を 持った存在である。『 放 蕩者一代記』に登場する黒人売春婦は,そうした ただしこの点で著者の論理に気になる箇所があ タ イ プ に ほかならない。 ま た 『 娼婦一代記』の監 ることを付け加えておかねばならない。それは, 獄の場面に出てくる黒人妊婦も,一層深刻な形で とくに『 娼婦一代記』の分析にみられる,下層諸 「内部の中の他者」 としての存在感を示している 階級の白人と黒人の奴隸使用人との間の階級的連 と言えよう。そのような形での他者の設定の仕方 帯の強調である。著者のこの結論は,ある種の励 の内に, ホ ガ ー スの独 自性が見いだされるのであ ましではあろうが,矛盾をヨリ根底的にとらえる る。 方向へ分析を誘うわけではない。本書も関心を示 近 年 ,E • サ イ ー ド 『オ リ エ ン タ リ ズ ム 』 や P • J • マーシャル/ している帝国主義文化の問題を考えようとする時, . ウ ィ リ ア ム ズ 『野蛮の 勤労下層諸階級のショーヴィニズム, とりわけ 博物誌 』 等 々 , 異世界ないし他者へのイメージの 「内部の中の他者」に対する排外的な視線の構造 分析を通して自らの位置を確かめようとする研究 を問うことは必須の課題である。その場合,人々 が,次々と邦訳されている。本書が,そうした他 の間での反発と交歓,例えて言えば傷のつけ合い 者 = 自己認識に関わる新しい研究潮流の中に位置 となめ合いをも含む民衆意識の両義的で複雑なあ づけられることは当然であるが,それはいかなる り方の中から,解放の契機を探る方向が求められ 意味においてであろうか。黒人を通して大英帝国 よう。 もとよりその具体的な分析は,私たちの手 の全体像を大局的に浮かび上がらせるという上記 に委ねられている。 第一の特徴—— それは他者を外部に設定すること によっても可能ではあろう もさることなから, 末尾になったが,かくも刺激的で内容豊かな書 物を,88枚もの図版を配し,明快な文章をもって 「内部の中の他者」 との関係の中で地域の重層的 刊行された訳者および出版社のご苦労に,心より な日常生活を分析していく可能性を提示している 敬意を表したい。 第二の特徴の線においてこそ,本書の問題提起が 十全に理解されるのではあるまいか。そしてこの 方向は, イングランドの日常生活にみられる人種 165 C327) 杉 原 連 (大阪大学文学部助教授)