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ブラジルにおける日系移民の住空間の変遷について

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ブラジルにおける日系移民の住空間の変遷について
ブラジルにおける目系移民の住空間の変遷について
−パラ州トメ・アスー移住地を事例として−
主査 熊谷広子*1
委員 森 弘則*2,坂口
大洋*3,森 幸一*4
本研究ではブラジル,パラ州トメ・アスー(Tome−Acu)移住地において日系家族の住居の実測及びヒアリング調査
を行った。ここでは得られた住居平面のうち,建設年代・建設者・室構成・住居規模の明らかな平面68例を用いて,住
居規模,室構成要素,間取り,外観,材料,日本的要素といった項目についてその変遷過程を明らかにした。これらの
変遷要因についての検討から,これらがブラジルの気候風土,地域経済社会条件と密接なかかわりをもちながら変化し
てきていることが明らかになった。
キーワード:1)日系移民,2)住空間,3)変遷,4)トメ・アスー移住地,5)ブラジル,
6)住宅規模,7)室構成要素,8)間取り,9)日本的要素
A STUDY OF THE EVOLUTlON OF THE DWELLlNG OF JAPANESE lMMlGRANTS lN BRAZlL
−In Case of Tome-Acu, Para−
Ch.Hiroko Kumagai
Mem.Hironori Mori,Taiyo Sakaguchi and Koichi Mori.
The purpose of this report is to clarify the characteristics in the evolution of the dwe
Acu,Para,Brazil.Based on the survey of the 68 plans which their construction ages,builders,
specified these processes of changing on the scales,structures,plannings,exterior ornaments,mat
elements.This analysis clarified that the changing of their dwellings has been closely cnnecte
economic conditions in Brazil.
1.はじめに
っている。
明治以来120年の間に日本社会は大きく変化してきた。 これら移民たちの入植当時の住居はどのようなもので
西欧文化の流入,経済の発展によって我々の生活様式も あり,そしてそれらは地形・気侯・風土などの自然・地
変化し,また現在も大きな転換の過程にある。そして同 域的条件と人的・文化的条件の違いの中で今日に至るま
時に人々の価値観は多様化し,本当の豊かさとは何かと でどのように変化していったのだろうか。
いった問いが投げかけられている。
こうした状況の中で,我々と同じ文化的背景を有しな
がらも,異文化の中で生活する日本人とその子弟の住空
間の変容と展開を明らかにし,その要因を考察すること
は我々がもってきた住文化を明らかにし,今後の住まい
のあり方を考えていく上で,そしてまた日本の近代建築
史においても意義のあることだと考える。
19世紀から20世紀にかけて世界各地で移住が行われて
ブラジル国内には開拓年代の異なる日系移住地が点在
している。本研究ではその中でも戦前に開拓され,かつ
現在においても居住地として機能している数少ない日系
移住地の1つであるパラ州トメ・アスー(Tome−Acu)
移住地(図1−1)をとりあげ,そこに居住する日系移民
住居の実測調査を行った。
本報告ではこの移住地における住空間の変遷過程を,
住宅規模,室構成要素,間取り,外観,材料,日本的要
いるが,我が国が出移民国として登場してくるのは1880 素の観点から明らかにし,その要因について若干の考察
年代のことである。我が国最大の移民先はブラジルであ を試みる。
り,1908年から1988年の間に24万1,895人もの人々が渡
*1宮城工業高等専門学校 助手
*2宮城工業高等専門学校 技術専門職員
*3東北大学 助手
*4サンパウロ人文科学研究所 研究員
−1−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
2. 調査地及び調査の概要
2.1 トメ・アスー移住地の概要
トメ・アスー移住地は,アマゾン河河口にあるパラ州
の州都で人口120万人を有する都市ベレンから南に直線
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距離で約110km,標高11∼30mの熱帯雨林に位置する。
気侯は平均気温27℃,年間降水量2,600mmである。
この移住地は1929年に鐘紡系「南米拓殖株式会社(南
拓)」によって形成され,その後1962年に日本海外移住
振興株式会社(JAMIC)によって,当初の移住地の南西
に隣接して第2トメ・アスー移住地が形成された。
現在南拓によって開拓された第1移住地内にはアマゾ
ン河に注ぐアカラミリン河西岸の河港に接して発達した
旧市街地であるトメ・アスー市街地注1)と,その西方約
12km離れたところにクワトロボッカス(QUATRO−
BOCAS)(写真2−1)と呼ばれる2つの市街地が存在す
図1−1 トメ・アスー移住地の位置
る。これら市街地及びその近辺の居住者は,この市街地
にある商業施設,組合や銀行などに賃金労働者として勤
める日系人と,比較的近年にブラジル北東部から日系人
表2−1現住戸数と調査件数
農家のための農業労働者として就業の機会を求めてやっ
てきた非日系人である。農地に居住する日系農業従事者
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は毎週金曜日になると買い物や支払い等のために市街地
にやってくる。
形成から70年が経過する現在の総人口は,第1,第2
合わせておよそ6万5千人,そのうち日系人口は1500人
弱といわれている。第1移住地はトメ・アスー
(Tome−Acu:TA)市街地,ボアビスタ(BOAVISTA:
BV),イピチンガ(IPITINGA:IP),クワトロボッカス
(QUATROBOCAS:QB),アライア(ARRAIA:AR),
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TOTAL * 1 1 73
★1:JM1,JM2は含まず。
★2:分析平面数中に含まれる過去に屠住していた住居平面
マリキータ (MARIQUITA:MQ),アグアブランカ
(AGUABRANCA:AG),ブレウ(BREU:BR)注2)の8
地区,第2移住地はジャミック1(JAMIC1:JM1),ジ
ャミック2(JAMIC2:JM2)の2地区に分けられてい
しても両親と同居し続けている世帯を除くと,現住戸数
る(図2−1,写真2−2)。各地区に屠住する日系人農家 は実質117戸であると考えられる。
第2次調査では事前に作成した住居規模,室構成要素,
世帯数は1997年11月現在で表2−1の通りである注3)。
間取り,外観,材料,日本的要素に関連すると思われる
項目,計65項目(戸主の世代,渡航年,引っ越しの経験,
2.2 調査の概要
建設年,建設時の家族構成,建設費用,設計者,協力者,
1998年7月下旬から8月下旬にかけて第1次調査注4)
を行い,日系世帯の住宅分布を把握し調査対象地区を決 材料の選択理由,増改築年と部位など)からなる調査票
定した。第2移住地に居住するのは主に戦後移住者ある
いは独立した2世である。今回はできるだけ過去の状況
を知る目的から第1移住地を調査対象とし,数地区にお
いて住居の実測調査及びヒアリング調査を行った。
第2次調査では第1次調査を受け,ヒアリング項目を
確認,新たに設定し1999年3月から4月にかけて実測調
査及びヒアリング調査を実施した。
1997年11月の移住地調査報告によると第1移住地に居
を,アンケート票として配布し,実測調査に先立ち記入
をお願いした。アンケート票回収時にヒアリングと実測
調査を行った。都合上,実測調査に回ることのできなか
った佳屠に関しては,各地区の区長にアンケート票(調
査票)の回収を依頼した。また,実測調査にあたっては
現住唐の実測のほか,可能なかぎり過去に居住していた
住居についてのヒアリングを行い,復元の略平面図を作
成した。現在居住してはいないが,過去に居住していた
住居が同一敷地内に存在する場合は,これについても実
住する日系農家世帯数は173世帯となるが,ヒアリング
により日本に出稼ぎにいって不在である肚帯,及び結婚 測調査を行い平面図を作成した。
−2−
住総研 研究年報No.26, 1999年
トメ・アスー移住地
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写真2−1 クワトロボッカス市街地中心部
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写真2−2 農家住宅
図2−1 トメ・アスー移住地の全体構成と日系家族所有耕地
−3−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
回収できたアンケート数は77例(回収率65.8%)であ のから300㎡を超えるものまで様々な住居が存在し,そ
り,実測件数62件,ヒアリングによる住居平面入手件数 の約4割強を占める15例の住居は延べ床200㎡以上,う
21件,計83件が得られた。このうち今回は建設年代・建 ちさらに5例は300㎡を超える大規模な住居である。こ
設者・室構成・規模の明らかな平面68件を分析に用いた。れに村し,1965年以降の住居32例の中では200㎡を超え
るのはわずか2例のみである。
1964年以前に大規模な住居を建設しているのはピメン
3. 開拓時代の住居
トメ・アスー移住地には南米拓殖株式会社によっては タ景気で豊かになった戦前移住の人々である。一方,比
じめから各入植家族のために住居が用意されていた。こ 較的小規模な住居は戦後移住の人々によるものといえる。
の住居については,復元された住居が資料館として存在 1953年に第2次世界大戦勃発により中断されていた移住
する。この資料と先住者へのヒアリングによると南拓住 が再開された。戦後トメ・アスー移住地に入植した人々
は,戦前移住者の呼びかけに応じてブラジルに渡り,ほ
宅はおおむね8m×10mの規模をもち,土間である炊事
ぼ3年から5年で独立して各自で家を建設した。独立の
場兼食堂と高床である2室あるいは3室からなる住居で
あり,ほかの移住地よりはるかに恵まれた状況で移住地 際にはパトロンから住居建設のための資材を援助しても
はスタートした。
しかし,入植後の生活は困難なものであった。当初南
拓が奨励したカカオの作付けに失敗したあと,野菜・米
の栽培を行うが決して安定した収入が得られず,加えて
らったという稀なケースもみられるが,大抵は小規模な
住居からスタートしたのである。
その後1960年代に入るとピメンタの根腐れ・胴枯れ
病・マリキッタ病といわれるピメンタウイルス病が流行
1936年には悪性のマラリアが発生し,移住地全体に蔓延 し,1980年代に入り,再びピメンタの価格が高騰するま
したのである。転出者があとを断たず,1937年末には入 で移住地の景気は低迷した。また国際相場の変動によっ
植家族数352家族中,移住地に留まったのはわずか98家 てピメンタの価格が左右されるということもあり,この
族であったという。南拓住宅は建設から3,4年も経過す 景気は長く続かず,1990年頃には日本への出稼ぎが目立
ると土台の腐食が進んだが,住宅を新築する余裕はなく,つようになった。1965年以降の住居規模に関してはこの
大抵の住居は腐食した土台を替えただけであり,建設し ような状況が関係しているといえよう。
たとしても南拓住宅と大差のない平屋の住宅であったと 室構成要素についてみると住居規模と同様に1965年頃
いわれる。このような中で,比較的規模の大きな2階建 を境として変化がみられる。1964年以前のいくつかの住
ての住居を建設できたのは日本で大工の経験をもつごく 居では「広間」,「台所から独立した食堂」,「店」と呼ば
わずかの人々であり,建設にあたっては自分の耕地で伐 れる室が存在したが,1965年以降の住居にはみられなく
採した木材を丸太のまま構造材として用いたといわれる。なっている。
一時期猛威をふるったマラリアによる死亡者が,目に 室構成要素の変化は移住地の社会状況と密接なかかわ
見えて減少するのは1945年のことである。次第に生活が りをもつ。当時,移住地には冠婚葬祭を行うための公共
落ち着き,この頃からピメンタ(胡椒)が適正作物とし 施設がなく,冠婚葬祭などの行事は各自の家で行わなけ
て定着し,徐々に植え付けられるようになっていった。 ればならなかった。普段あまり使用することのない広間
このピメンタの国際価格が高騰した1950年代から1960年 はそのために設けられていたし(図4−1,写真4−1),
代にかけて移住地は好景気に沸き,それと同時に本格的 旅館がなかったことから外部からの客人には,どこかの
家に宿泊してもらう必要があった。そのため,食堂も接
な住居の建設が始まった。
客に耐えるような「独立した食堂」が用意されたといえ
4.住空間の変遷
1950年以降に建設された住居68戸について建設者の世
代・住居形態・規模・材料・室構成などの点について整
理し,建設年代順に並べたのが表4−1である。便宜上5
よう。特に移住地で功労者として讃えられる人々の住居
においては専用客室の設置が見受けられた(図4−2)。
遷についてみていく。
地の人々の呼ぶところの「店」が用意されたのである。
これらの空間は,入植35周年の記念事業の一環として,
1967年に文化会館が落成しそこで各種催しを行うことが
また,現在のように市街地が形成されておらず,トメ・
アスー産業組合と組合員の間においてのみ日常生活に必
年ごとに区切りを入れてある。一部,市街地周辺部に居 要な物資の売買が行われていた当時は,白耕地内で働く
住している農家については住宅番号に網かけで示してい ブラジル人労働者に供給するための物品をパトロンが一
るが,農村部との違いが特にみられないので同様に扱っ 括購入し,一時的に保管する必要があった。この物品を
ていくことにする。以下,事例をあげながら住空間の変 保管し,かつ労働者に応対するための室,すなわち移住
4.1 住宅規模と室構成要素について
表4−1によると1964年までの住居には40㎡程度のも
−4−
できるようになり,また旅館や個人の商店の進出によっ
住総研 研究年報No.26, 1999年
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て次第に市街地が形成されてくるようになると,それ以 すなわち住居規模も必然的に縮小したと考えられ,この
降の住居内にはみられなくなっている。特別にこのよう ような室構成要素の変化は一方で住居規模の変化にも関
な空間を各自で維持する必要がなくなったためである。 係しているといえよう。
戦後移民向けに発行された「トメアスー植民地案内」
の中に,住居を建設するにあたっての当時の人々の意識
・十
をみることができる。ここに紹介しておく。
「1954年頃から,住宅の新築が,あちこちで始まった。
……(中略)……保健を第一に考え,さらに,生活
広間は弟の結婚式を意識し
て設けられたもの。しかし、実
際には結婚式時の客寄せは住宅
脇の倉庫で行われた。
のうるおい,家庭的な心のゆとりのよりどころとして又,
担室
食堂 眉間
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図4−1 2階に広間をもつ1960年建設の木造住宅
写真4−1 広間内観
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寝室
寝室
居閤
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シャワー・トイレ
居間
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客室 客室
写真4−2 住居正面
居間
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ガレージ
0 1 5m
食堂
O氏は1929年にブラジル移住し、トメ・アスー移住地
では12年間にわたって産業組合の理事長を勤め、勲五等瑞
宝章ほか5つの賞を受けた。夫人はトメ・アスー婦人会連
合会会長を務め、夫婦ともに移住地の功労者である。
ト レ 1
予傭室
住屠は以前から住んでいた木造住居の一部を残して改装
ト レ ■
し、それにレンガ材で増築した。改築から完成までに約4
シヤワー・凪E
年の歳月を要した。住居内に目を向けると一階には、居間、
物置
食堂、予備室、暗室、台所2室、トイレ2つ、シャワー・
風呂1つがあり、中2階に客室2室と客用の居間、2階に
台所
台所
は寝室2室に居間及びシャワー・トイレとかなり大規模な
住居である。
移住地の芳名帳には当時の昌太子夫妻、総理大臣や目本
政府機関関係者、プラジル側からもパラ州知事などの主要
人物はじめ様々な人々が名を運ねている。それらの人々は
皆、O氏をはじめとする個人宅に宿泊したのである。
図4−2 専用客室をもつT.O.氏の住居(1959年建設)
−6−
住総研 研究年報No.26, 1999年
子供たちの小さなあり方も考慮に入れ,炊事場,食堂サ レンガは積み上げるのに時間を要するが,木材であれば
ロンを十分広くとりいれてある。シャワー,風呂場,水 わずか1日で組み立てることも可能であったということ
洗便所なども完備している。窓の大きな涼しい部屋で, も理由の1つとしてあげられている。
家庭内の団築や読書やマージャンが,気持ちよくできる 近年においては,木材はシロアリなどの虫害に弱いと
部屋があり,いつでも旅の人を招じ入れて,ゆっくり滞 いう理由に加え,それまで用いてきた比較的虫に強い材
在していたゞける設備が,ととのえられている。」
が,伐採の進行につれ入手困難となり価格が上昇してい
ることもまたレンガを選択するようになっている原因の
4.2 材料・外観の変遷
1つといえよう。
建築材料に着目すると,1950年代においてはレンガが 外観についてみると1965年以前に建設された住居の場
大分普及してきていると思われるが,1960年代,1970年 合,住居規模にかかわらず,前面に張り出したベランダ
代では再び木材が主流となっている。そしてそれ以降の をもつのが特徴的である。その中でもレンガ2階建ての
1980年代からは住居21例中19例がレンガ造と,ほとんど いくつかの住居においては2階部分にもベランダを有し,
の人がレンガを選択している。
また木造2階建住居では,入母屋をかけるなどした立派
1960年代,1970年代に建てられた住居の多くは,呼び な構えのベランダ玄関をもつ。現地ではこれらの威風
かけに応じて移住してきた戦後移住の人々の住居である。堂々とした印象を与える住居を好況期の作物(ピメン
彼らは経済的理由から木造を選択したといえる。レンガ タ)にちなんで「ピメンタ御殿」と呼ぶ。
は金銭を出して購入する必要があったが,木材は自分の それ以降,今日に至るまでの住居についてベランダ面
耕地からいくらでもただで入手することができたのであ 積及び形態に着目すると,面積は増加傾向にあり,当初
る。自らあるいは労働者を使って木挽きした木材を製材 主に前面のみであったベランダが,住宅を取り巻くよう
所に運んで板にするほうがはるかに安価であった。また に変化していく傾向にあることが分かる(図4−3)。
汽
●切婁
●片流れ
●寄棟
●陸
○入母屋 ●2F
絆欝串
貧
汽
拡大の方向へ
●は表4−1における分類タイプを示している。
図4−3 ベランダの推移
−7−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
アマゾンにあるトメ・アスー移住地では,奥行き3m
への移行では私的空間の独立性が」層強まっている。こ
ほどのベランダを設けていても,雨期には毎日」時的に
の間取りタイプW,Vは現在のブラジル住居一般にもよ
住居内に吹き込んでくるほど激しい雨がふる。また外壁
くみられる。・一」方,1950年代,1960年代に建設されたレ
に直射日光が当たると,特にレンガ住居では耐え難いほ
ンガ住居は当時移住地の公共建築物を建設するために,
ど室温が上昇する。レンガ住居の増加に伴い,これらの
ベレンから呼ばれて移住地に来ていたブラジル人設計士
外壁を雨や直射日光から守るために・一一層ベランダ規模が
の設計によるもク)1である。日系人住居の問取りの変化に
拡大してきたと考えられる。
関しては,こオ1一らの住居がその後のトメ・アスー移住地
における住層准設のモデルとなったとも考えられる。
4.3間取りの変遷
また,「浴室」「トイレ」空間の配置方式を分類したの
「居間」「台所」「寝室」の配置方式から次の5つのタ
が,図4−5である。年代を追ってみるとタイプAからタ
イプに分類した。これをまとめたのが図4−4である。
イプDへの移行がみられる。別棟として設けられていた
年代を追ってその傾向をみると(表4−1),おおむね
ものが次第に住居に付属し,さらに住居内に設置される
タイプIからタイプ皿,1V,Vへと次第に移行していく
ようになった。住居内においても,当初は主に台所の隅
様子が分かるが,一一部195〔)年代,1960年代に建てられて
に設けられる傾向が強かったが,近年においては寝室の
いるピメンタ御殿と呼ばれるレンガ住屠においては,既
側に設けられるようになってきている。
にタイプIV,Vの間取りが主流となっている。
「浴室」「トイレ」空問は技術的・経済的条件が整うに
タイプIからタイプVへの変化の流れは,接客に対す
従い,住唐内郡に追加されてくる。これまで「浴室」
る考え方の変化及び家族に対する考え方の変化を示して
「トイレ」を別棟として住み続けてきた人々も,ユ980年
いるように思われる。すなわち,タイプIからmへの移
代後半からは増改築によってこれを住居内に設置するよ
行では家族空間から接客空間が分離し,タイプ皿からV
うになってきた。日本への出稼ぎによって得られた収入
タイプlll
タイプ1 タイプll
タイプlV タイプV
配
置
方
式
模
式
図
SA」へ(層間)中心型11SA」へ(屠聞)中心型2:100ZlNHA(台所)中心型11ホール中心型: 1ブラジルー般型:
居間を通って各空間へ1タイプ1とタイプl1lの1台所(館)を通って各1各空間がそれぞれ総1公と私(個人)の空聞
移動用間で接客と団1魁 1空間へ鰍居聞では接1廊下’ホールでつな1の分駄
特
徴・
繁の肪が行われるr l㍊所では団樂が行わ1がっ帆 1
1 1 1 1
1 1 1 1
図4−4 「眉間」「台所」「寝室」の配置タイプ
タイプA タイプB
タイブC
タイプD
図4−4,5共通略記号
S=SALA(居間)
C:COZlNHA(台所)
配
置
方
式
Q:QUARTO(寝皇)
z1廊下、ホール
■:「浴室」『トイレ」
模
の両方、あるいは
いずれか一方
式
図
図4−5 「浴室」「トイレ」の配置タイプ
一8一
佳総研研究年報No.26.1999年版
の一部をこのための費用に充てている場合もみられる。
近年においてはさらに「専用の浴室・トイレを付属す
る寝室」が出現するようになり,寝室の私的空間として
の意味合いがより強まっている。このことは「居間」
「寝室」「部屋」の配置において私室同士の独立性が強ま
ってきていることと表裏一体の関係にあるといえよう。
写真4−4 (K氏寄贈)
4.4 日本的要素について
ピメンタの景気のよい時代には,木造住居・レンガ住 ・←十一
居ともに随所に日本的な要素がみられる。木造住居にお
いては8割以上が土間注5)を有しているが,その中でも
特に,図4−6,写真4−3の住居のように日本の農家的間
取りをもつものがいくつか存在する。意匠に関するもの
写真4−5
縁側的ベランダ
としては玄関,引違い戸,繰り戸,続き間,縁側といっ
たものの存在があげられる(図4−7,写真4−4,5)。レ
ンガ住居においても,ブラジル式一辺倒の住宅でなく,
ほかの木造住宅と同様に,食堂を含む台所部分を,1段
低く土間にしているものが見受けられる(図4−8)。こ
れらの住居では日常生活において,台所で靴を脱ぎ室内
へ上がる。また開口部に日本風の意匠を施した引違い戸
が設けられたり,1例ではあるが,床の間のある続き間
く 繰り戸×5枚
高床ペランダ
1/板
X4枚
台所
蝕
続き間
(客脳1 (寝臼〕
屠問 ■斎
▲
0 1 5m
▲
図4−7 続き間をもつ住宅(1951年建設)
多い時で6∼7家族の労働者を使っていたというO氏の住居。
当時のO氏の日常生活は、朝5時の起床にはじまった。午前6
時から午後4時まで農地で働き、その間に3度の休憩をとって
いた。午前8時からメレンダ(朝食)ために30分、午前11時
から昼食のために1時間、そして午後2時からトマール・カ
フェ(軽食)ために30分。住屠の建設にあたって、農作業の途
中で靴を脱がずに休憩出来るように、台所、食堂、トイレを土間
にしたという。
写真4−3 入口より「にわ」を見る
十・
多
〃
倉庫
居間
〃蝕
シヤワー・ レ
▲
物置
十
▲
E22:土間部分(図4−6,7,8)共遍
図4−6 農家的間取をもつ住居(1958年建設)
−9−
魑
」
図4−8 土間をもつレンガ住居(1959年建設)
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1960年代
1950年代
建築ブーム 1 戦後移民による住宅建設
1929年
戦前一世によるピメンタ御殿の出現
・日本的意匠要素「繰り戸」「縁剣」「続き間」「引違い戸」など
套
・r広間」「店」「客用寝室」の碕在
注6〕
灘
鰯 麟
南拓住宅
蝉
「1
月根■
寝窒 寝室
。一トー l
LL___=ヱ
2F
外
観
i
平
面
1F
戦後移民の木造住宅
l 1
南拓の引き.上げ 1 ■
開植 1 1
直営農場の閉鎖、コロノ制度解消、農事試験場の廃止 1
1 1
35年農業組合成立 1 1
I 1
移 適正作物の模索1 52年上半期より胡淑の値の高勝
住 42−45年世界大戦 I 1
地 1 1
年 マラリアとの闘い 1 53年第一回戦後移民入植 1
表 1 1
1 総戸数7541(内日本人324)
42年次移住地内98家族1 1 62年第二移住地の建設
1 1
1 ■ 67年文化会館落成
−10−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
1970年代
1980年代
1990年代
■ 快適性・利便性の追求
木造からレンガヘ
日本の農家的間取り
/ベランダ規模の拡大/公・私の分離
1 ブラジルー般にみる間取り
最近のレンガ平屋住宅
台所
鱗
腿
膚豊・トイレ
蝕
・トイレ
・十
漣
居間
雌
▲
ペランダ
LL__」m一十刊
1L__」
l l
l 1
l l
l I
l l
1 1
1 出稼ぎの開始1
1 1
マリキッタ病に1よりピメンタ生産高減少 JICAの助成によるジ1ユースエ場の建設
1 1
1 1
1 1
74年州立アグアブランカ病院と発電所落成 190年農村電化
1 1
73年ベレンに至る産業道路即通 = 94年農村電話開通
図4−9 トメ・アスー移住地における住居の変遷
−11−
住総研 研究年報No.26, 1999年版
が設けられた住居も存在する。しかし,近年において建 を実施したサンパウロ州のバストス移住地における農家
設されているレンガ住居に,日本的要素を見出すことは 住居の変遷注7)と年代の差こそあれ,ほぼ共通している。
今後,世代ごとの家あるいは家族に対する意識および,
難しい。
日本的要素の出現は,ピメンタ景気による繁栄によっ ブラジルの住文化にも着目しながら,両移住地における
て実現したものである。家屋建築のために,わざわざ日 日系移民の住居の特質をより明らかにしていきたいと考
本から大工を呼び寄せることが可能であったし,経済状
況が好転し一大建築ブームがおこったために,大工仕事
が職業として成立できたのである。日本で建具師や指物
師であった人々が大工と組み,あちこちの住居を建設し
て回った。時間の経過とともに世代が移り,現在トメ・
アスー移住地においては,ブラジルで生まれ教育を受け
た2世が地域社会における中心となってきている。ト
メ・アスー移住地に居住する大多数の日系の家庭では,
高等教育を受けさせるために子供たちをベレンの学校へ
通わせる。回収できたアンケートによると,実に1/3の
家庭がベレンに住宅,あるいはアパートを有している。
えている。
謝辞:
本調査においてトメ・アスー移住地の皆様,並びに諸機
関に多大なる御支援と御協力をいただきました。また,
考察にあたっては,東北大学大学院教授の飯淵康一氏に
得ることが多く,東北大学大学院助教授の小野田泰明氏,
宮城工業高等専門学校教授の加藤正一郎氏,同助教授の
伊藤憲雄氏には貴重な助言をいただいたきました。ここ
に心から感謝の意を表します。
ベレンでブラジル式の生活様式を身に付けた彼らが建設 <注>
1)トメ・アス−移住地内には移住地名と同名のトメ・アス
するのはブラジル式の住宅である。2世,3世たちにと
って日本の文化というものはブラジルで生きていくため 区が存在する。本稿では旧市街地を有するこの地区を移住
全体と区別するために地区をさす場合にはトメ・アスー市
には必ずしも必要なものではなく,それは住居の中から
地と表記している。
も姿を消していく傾向にある。ただトメ・アスー移住地 2)ブレウ地区はさらに8区に分けられている。
において靴脱ぎの習慣は現在でも残っており,アンケー 3)トメ・アスー文化協会(編):1997年度事業決算報告書
トでは約8割の人が靴を脱いで室内に入ると答えている。 アスー,1998
近年建設されているレンガ住居の場合でも,日系人の場 4)第1次調査は財団法人日本科学協会より助成を受け実施
5)いわゆる.土間をさす。土足で利用することを前提とし
合,人々はベランダで靴を脱いで入居している。
の場合セメント敷きにしてある。
6)トメ・アスー文化協会(編):みどりの大地−トメ・ア
拓五十周年史,1998,サンパウロより転載
5.まとめ
以上,トメ・アスー移住地の住空間の変遷を,住居規 7)熊谷広子:ブラジルにおける日系移民の住空間の変遷に
て−バストスを事例として−,東北大学修士論文,1997
模,室構成要素,間取り,材料,外観,日本的要素に着
目してみてきた。
<参考文献>
住宅規模,室構成要素のなかで具体的にあげた,ピメ
泉靖一編著:移民−プラジル移民の実態調査−,占今書院
ンタ御殿と呼ばれる大規模住宅とその住宅内に設けられ 1957
た「店」「専用客室」「広間」の存在及び消滅に関しては,
・森幸一:アマゾン地域からの日系人出稼ぎ現象−トメ・
経済的な要因に加え,地域社会,特に地域における施設 ー移住地の寮例を通して−,移住研究30号 国際協力事業
建設状況との関わりから,材料,外観,日本的要素のな 1993
トメアスー産業組合:トメアスー植民地案内
かで述べた「木造からレンガヘの移行」,「ベランダ部分 ・国際協力事薬団:アマゾン地域の農産業と日本人(集団
の拡大」といった変遷項目に関しては,おもに気侯風土 その農業,1988
との関わりから説明できよう。そしてまた気候風土への ・汎アマゾニア日伯協会編:アマゾン 日本人による60年
適応は,外観上での日本的要素の消失にもつながってい 住史,1994
る。間取りの変化に関しては2世あるいは3世のアイデ
<研究協カ者>
ンテイテイあるいは家族観といったものが大きく関わっ
Any Sampaio Lima サンパウロ在住
ていると思われるが,こうした文化的条件に関しては今
村上 良太 宮城工業高等専門学校 専攻科1年
後の検討課題としたい。
後藤 宮城工業高等専門学校 建築学科4年
気侯風土への適応で説明できる項目および間取りにお
本内 昌志 安藤建設
ける「公・私の分離」に関しては,同様の観点から調査
−12−
住総研 研究年報No.26, 1999年
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