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アルトジウス﹃政治学﹄第1章とその主要点の研究︵その1

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アルトジウス﹃政治学﹄第1章とその主要点の研究︵その1
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page129 2014/02/18 10:04
法律論叢 第八六巻 第六号︵二〇一四・三︶
第1節 第2節 ・
・
まとめ §1–§4
第3章 研究素材の解説 §5–§21ポリティアと結合体の組織原理
第3節 結合体の目的︵ に 対 応 ︶
§3
に対応︶
第4節 結合体の必要と有益︵ §4
第2節 結合体とは何か︵
﹃政治学﹄の基本的な概念
第2章 研究素材の解説 §1–§4
に対応︶
第1節 政治学とは何か︵ §1
に対応︶
§2
第3節 AP
の本文と注のスタイル
第4節 ﹃政治学﹄第1章の表題と小見出し
笹 川 紀 勝
、
、
、
そして﹁付録﹂
AP
AP1603
AP1610
AP1614
、 APCarney
、 APJanssen
、 APMalandrino
、 APDemelemestre
APWolf
第1章 研究素材のためのテキストと凡例
はじめに
目 次
アルトジウス﹃政治学﹄第1章とその主要点の研究︵その1︶
︻論 説︼
129
・
・
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page130 2014/02/18 10:04
に対応︶
§13
第1節 多義的な言葉である政体︵ に対応︶
§5
に対応︶
︵以上本号︶
第2節 共に生きる者/共生者とは誰か︵ §6
に対応︶
第3節 結合体の相互的な共有︵ §7
に対応︶
第4節 事物の共有︵ §8
に対応︶
§9
第5節 作用の共有︵
に対応︶
第6節 法の共有︵
§10
に対応︶
第7節 結合体の共有する法︵ §11
に対応︶
§14
に対応︶
第8節 統治と服従︵ §12
第9節 管理者すなわち命令するものの義務︵
第 節 統治の主題︵
に対応︶
§19
まとめ §5–§21
補録 ﹃政治学﹄第1章第1節︱第 節の訳︵以上次号︶
第 節 共有の形態︵
第 節 共有の形式︵ §20
に対応︶
に対応︶
§21
に対応︶
第 節 服従者の義務︵ §18
第 節 個々の結合体の特殊的法令︵
第 節 保護と防衛︵
に対応︶
第 節 教育の主題︵ §15
に対応︶
第 節 身体への配慮︵ §16
に対応︶
§17
17 16 15 14 13 12 11 10
21
130
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page131 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
131
はじめに
﹃政治学﹄第1章はアルトジウスの国家思想を根本的に表明している。
︵ ︶
の研究を通して知ら
とりあえず﹃政治学﹄の研究史を概観しておこう。この書物はこれまで日本では主にギールケ
1
︵ ︶
︵
︶
れてきた。ギールケの研究はルソーにつながる近代的な個人の自由に引き付け過ぎて身分制の時代の制約を考慮して
3
︶
4
で解説に取り組みたい。
のようなものかが問われる。そのためにとりあえず本稿で必要な個所を研究素材としてなにより確定したい。その後
準備として﹃政治学﹄の第1章を研究したい。その第2章以下の研究は将来の課題とする。そこで、第1章自体がど
る。日本ではアルトジウスの翻訳がないだけでなくラテン語テキストに即した研究もとぼしい。そこで本稿は翻訳の
そして、以下触れるが﹃政治学﹄の翻訳︵独、英、伊、仏︶がいろいろなされていて世界的に関心が高まって来てい
性 の 原 理 を 主 張 す る ヒ ュ ー グ リ ンの研究に関心がむけられている。
︵
いる。今日では、アルトジウスの連邦制︵地方自治︶を研究し共生を基にしてさまざまの助け合いを位置付ける補完
チズムの時代にギールケの抵抗権の研究を継承し、全体的にカルヴィニズムの予定説の下にアルトジウスを分析して
は根本的に批判した。ヴォルフ
は、フリードリヒの身分制の制約の視点を継承しながらも、ナ
いないとフリードリヒ
2
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page132 2014/02/18 10:04
第1節
第1章 研究素材のためのテキストと凡例
Neudruck der 3.
Auflage, Herborn 1614, Scientia Verlag Aalen, 1981(=
Johannes Althusius, Politica Methodicè Digesta atque Exemplis
、 AP1603
、 AP1610
、 AP1614
そして﹁付録﹂
AP
研究素材としての﹃政治学﹄第1章
︵ ︶
Sacris et Profanis Illustrata(= AP), 2.
﹃政治学﹄の第1章を研究する上での一般的な素材は
∏
︵ ︶
1.書名で注目すべき単語は
︶
7
︶
︵一五一五︱一五七二︶の命題を掲げている。
﹂ア
Petrus Ramus
一部を例示すると次のようであ る。この方法が具体的に展開されるのは第2章以降である。
︵
︶と呼び、第3版では四つの図表を掲げている。その
ルトジウスは、この方法論を﹁政治学の図表﹂
︵ schema politicae
として、彼自身が、本の表紙にペトルス・ラムス︵
けしていき、それに基づいてすべてのものを分類する純粋に弁証法的な演繹である。彼にとって決定的な論理的原理
は、ギールケのいうところ
が役立つ。すなわち、
﹁
︹アルトジウス︺の方法論上の基本的な考えは、諸概念を次々に区分
6
である。たしかにそれは﹁方法論﹂にかかわる。この言葉の理解のために
methodicè
書名を理解するには次の二つのことが重要である。
俗の実例に基づいて解説される﹄
︵=アルトジウス﹃政治学﹄
︶である。
である。その邦訳名は、ヨハネス・アルトジウス﹃政治学︱一定の方法にしたがって叙述され、聖
AP1614/Scientia)
5
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――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page133 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
133
﹁政治学の前提は結合体﹂
﹁単純で私的なもの﹂
﹁混合的で公的なもの﹂
﹁一般的でメジャーなもの﹂
﹁特殊的でマイナーなもの﹂
﹁共同体の市民的で自生的なもの﹂
﹁自然的な必要﹂
⋮⋮
⋮⋮
⋮⋮
⋮⋮
とは叙述が﹁一定の方法にしたがって﹂なされることを意味する。
したがって、 methodicè
なお、
﹁人々は、当時、彼のなかにスコラ学に対立した自然的論理の最高の代表的人物をみて尊敬している。いわゆ
︵
︶
るラムス主義の方法論は、もちろんすでに以前から他の法律家によって個々の素材︹実定法︺に応用されていた。し
︵
︶
は重要である。この用語の意味についてギールケの主張は参
exemplis sacris et profanis
すなわち﹁聖俗の実例に基づいて﹂という場合、それ
exemplis sacris et profanis
ルヴァン派の精神をもっているにもかかわらず、アルトジウスの﹃政治学﹄は神政政治の国家観とは完全にといって
理性的な推論をとおして見出された帰結のための例証としてのみ﹂用いられているといい、
﹁アルトジウスが厳格なカ
に世俗的な団体概念から導き出す﹂アルトジウスとを比較して、アルトジウスの場合、
﹁聖書の言葉は、何よりもまず
考になる。すなわち、彼は、
﹁全理論を純粋に神学的な基礎﹂の上に置く文筆家と﹁全体系を、合理的な方法で、純粋
2.書名の中で用いられた
かし、一つの体系の構築のために、それをアルトジウスははじめて利用し た。﹂
8
は、世俗的理性的に捉えられて、信仰告白や神政政治とは関係をもたないことをいう。
こうしてみると、アルトジウスが
。
いいほど関係がない﹂という
9
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page134 2014/02/18 10:04
134
――法 律 論 叢――
の第1版と第2版のテキスト
AP
Christophori Corvini. 469 et 48 S., 1603 (= AP1603).
なお、インターネット上のデジタル版の表紙をみると、所蔵図書館によっては
になっていてしかも
admonitio
Oratio panegyrica de utilitate, necessitate
は文末に置かれている。 oratio
admonitio panegyrica
De utilitate, necessitate et antiquitate scholarum Admonitio
付とそうでないものがある。それだけでなく、表紙には
et antiquitate scholarum
は
oratio
とあるが、巻末の付録の表示は
et antiquitate scholarum
とある。その上
panegyrica
は﹁想起﹂を意味する。
admonitio
の本文の頁数は
AP1610
である。したがって、初版の
725 S.
]として補う。
uitilitate
の本文の頁数の
AP1603
からすると第
469 S.
の単語が消えているが、これは単純な誤植で あると考える。というのは同書末の付録の表示には
utilitate
があるからである。そのために、筆者は[
ら
utilitate
2版で本文が約一・五倍に拡張されている。この第2版には索引が付けられている。なお、第2版の表紙では付録か
第2版の
antiquitate scholarum. Arnhemii. Ex officina Iohannis Ianssonij, 725 et 28 S., 1610 (= AP1610).
priore auctior, & cum Indice amplissimo. Cui in fine adjuncta est, Oratio Panegyrica, De [uitilitate], necessitate &
Johannis Althusii, V. I. D., Politica Methodicè digesta atque exemplis sacris et profanis illustrata; Editio noua
インターネット上のデジタル版の第2版の表紙は次のようである。
は﹁話﹂を意味し付録の
Oratio panegyrica de utilitate, necessitate
adjuncta est Oratio panegyrica de utilitate, necessitate et antiquitate scholarum. Herbornae Nassoviorum. Ex officina
Johannis Althusii U. J. D., Politica, Methodice Digesta et Exemplis Sacris et Profanis illustrata: Cui in fine
の第1版の書名は次のようである。
AP
π
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page135 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
135
第3版の
の本文は
AP1614
に増加している。初版の
968 S.
からすると、ページ数は二倍、第2版の
AP1603
AP1610
からすると、一・三倍に頁数が増加している。そして、
﹁先の二つの︹版︺より︹頁数は︺はるかに増加している﹂と
いう言葉が表紙に印刷されている。
版
AP1614/Scientia
第3版の写真による復刻版の表紙をつけている。復刻版 ではカラー刷りの書名がある。下線部分が赤字印
AP
Cui in fine adjuncta est Oratio Panegyrica, De necessitate, utilitate & antiquitate scholarum
と
methodicè digesta .......
である。した
politica
を修飾することにおいて文
politica
の主部であるが、今、 cui
すなわち﹁それには﹂をあえて訳出しないことに
adjuncta est
oratio panegyrica de utilitate, necessitate et
とは共に
cui in fine ........
の
cui in fine adjuncta est Oratio ........
版の書名を採用すると句の存在は意識されないだろう。
まず、書名にある
は述部
antiquitate scholarum
法上は並列している。しかし、 cui
以下の内容を考えると、関係節の中の
がって、書名の副題である
は関係代名詞与格で、先行詞は
cui
と、この句の存在は分からない。この句自体は、版の改訂とかかわりなく各版に印刷されているから、 AP1614/Scientia
があるが、 AP1614/Scientia
版の表紙にはその長い句への言及がない。そのために、 AP1614/Scientia
版の表紙だけ見る
そして、復刻版には長い句
multo auctior. Herbornae Nassoviorum. 1614.
adjuncta est, Oratio Panegyrica, De [uitilitate], necessitate & antiquitate scholarum. Editio tertia, duabus prioribus
Johan. Althusii, U. I. D. [,] Politica Methodicè digesta atque exemplis sacris et profanis illustrata; Cui in fine
刷され、他は黒字印刷されている。すなわち
の頁に
書名に関して一つ注意したいことがある。すなわち、 AP1614/Scientia
版の表紙は、裏表一枚だけであるが、その次
∫
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page136 2014/02/18 10:04
が付けられる﹂
。
﹁付けられる﹂
︵ adjuncta
︶の
oratio ...........
Cui in fine adjuncta est Oratio panegyrica de utilitate, necessitate & antiquitate scholarum
は﹃政治学﹄の序文・章目次・図表︵ schema
︶を除いた頁数である。そして、初版の
469 S.
﹁付き添わす﹂である。そうすると、 oratio .......
は、
﹁付け添わされたもの﹂であるから本文に
adjungo
すると、 oratio .......
の構文は次のようになる。
﹁本書末に
動詞の原形は
対する付録である。
ところで、初版の本文
とは表紙でいうなら
48 S.
のためのものである。したがって、 469 S.
と
De utilitate, necessitate et antiquitate scholarum Admonitio panegyrica
は区別されている。
48 S.
︶
や英独の
APReprinted
︵
の訳書はこの
AP
の中身であるが、 oratio panegyrica de utilitate, necessitate et antiquitate scholarum
とは﹁有益で、
次に、 oratio .......
必要で、古い伝統をもつ学校の賛歌﹂とでも訳される。なお、校訂本である
が述べるところ
によると、この付録は一六〇三年八
Friedrich-Introduction
︶に献じられた。アルトジウスはヨハン・ナッソウ伯︵
Tobias Mierbeck
アルトジウス﹃政治学﹄の出版後すぐに本を父親に送ったらしい。
ていて、その中には都市の精神的指導者で説教者であるメンゾ・アルティング︵
︶の評議員
Johann of Nassau
︶の息子もいた。彼は
Menso Alting
たが、指導的な都市エムデンはカルヴィニズムであった。この都市から何人かの若者がはるか遠方のヘルボルンに来
た人々に感動を与えたらしい。領邦君主に対して諸身分が勝利することはどこにでもあった。君主はルター派であっ
として第三身分の側に立ち、君主に有利なように働く強力な勢力に対抗して自分たちの権利を拡張しようと戦ってい
ミエルベック︵
月二三日付けの、七月の学期末に慣例であった学長演説である。それはその同居人アントワープ出身の若者トビアス・
の
付録を取り上げていない。 APReprinted
10
136
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page137 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
137
第2節
、 APCarney
、 APJanssen
、 APMalandrino
、 APDemelemestre
APWolf
簡略版のドイツ語訳がいち早く世に出た。すなわち、 Johannes Althusius, Grundbegriffe der Politik. Aus “Politica
methodice digesta” 1603 (Deutsches Rechtsdenken. Lesestücke für Rechtswahrer bei der Wehrmacht. Herausgegeben
Erik Wolf,
von Erik Wolf. Heft 8). Vittorio Klostermann Frankfurt AM Main. 1943 (= APWolf, 1943), 44 S.; Derselbe, ibid.
3
(Deutsches Rechtsdenken. Herausgegeben von Erik Wolf. Heft 3). 1948 (= APWolf, 1948), 45 。
S. Heft は
を引用している。したがって、彼はフ
APReprinted, 1932
のドイツ語訳をしていると思われるかも
AP1603
︵﹁政治学の基本
Grundbegriffe der Politik, Politica methodice digesta, 1603
で
Wolf, Grosse Rechtsdenker, 1939, S. 162
に
Hrsg. von, Quellenbuch zur Geschichte der deutschen Rechtswissenschaft, 1949 (= Wolf, Quellenbuch), S. 104–144
収録されている。
ヴォルフは、
リードリヒのギールケ批判を知っていた。
ところで、ヴォルフは小冊子の表紙に
概念、方法論的に説明された政治学、一六〇三年﹂
︶と表示していて
︵ ︶
しれない。しかし、そうではない。この﹁一六〇三年﹂は﹃政治学﹄初版の年を示す。実際に収録されている翻訳の
に基づいた大幅な抜粋のドイツ語訳である。そして、彼はまだ現代語訳はない
といっているから、 AP
AP1614
英訳では
Politica, Johannes Althusius, An Abridged Translation of Politics Methodically Set Forth and Illustrated
その後、現在に至るまでいずれも抜粋であるが翻訳が四種類現われている。
では彼自身の手になるドイツ語訳が初めてとなる。
内容は
11
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に代えて
Preface by Carl J. Friedrich
Foreword by Daniel
with Sacred and Profane Examples, Edited and Translated, with an Introduction by Frederick S. Carney, Preface by
がある。一九九五年には
Carl J. Friedrich, Beacon Press, 1964
から再
Liberty Fund, Indianapolis
とする。なお英語版に付けられているカーネイの解説の表記は
APCarney
が付けられ 、 AP1614
と同じく章の中にある節番号を取り入れたものが
J. Elazar
版された。英訳としては一九九五年版を
Johannes Althusius, Politik, Übersetzt von Heinrich Janssen, In Auswahl herausgegeben, überarbeitet und
とする。
Carney-Introduction
独訳では
とする。なお独訳にはヴァイデュッケル︵
APJanssen
︶
Wyduckel
がある。カーネイに比べて翻訳された抜粋の量は
eingeleitet von Dieter Wyduckel, Duncker & Humblot, Berlin, 2003
増えてより詳しい。ヤンセンのドイツ語訳の表記は
とする。
Wyduckel-Einleitung
Politisch-rechtliches Lexikon
がある。付言す
La politica. Un’antologia, A cura di Corrado Malandrino, Claudiana Torino, 2011
の解説がある。その表記は
イタリア語訳
れば、イタリアでのアルトジウス研究︵二〇〇五年︶のドイツ語訳が出版されている。
der Politica des Johannes Althusius, Die Kunst der heilig-unverbrüchlichen, gerechten, angemessenen und glücklichen
symbiotischen Gemeinschaft, Herausgegeben von Corrado Malandrino und Dieter Wyduckel, Duncker & Humblot, 2010
Introduction à la Politica methodice digesta de Johannes Althusius : Extraits traduits et commentés
(= APPolitisch-rechtliches Lexikon).
フランス語訳
︶がある。ただし、ドムルメストル訳は、カーネイ訳やヤン
by Gaëlle Demelemestre, Cerf, 2012 (= APDemelemestre
セン訳に比べてその抜粋の量はわずかである。第1章でいえば、第1︱ 、 、 、 節に止まる。
13
14
18
本稿の末に﹁補録﹂として以下の研究を踏まえた﹃政治学﹄第1章の一部を日本語訳として掲載する。あくまで中
11
138
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page139 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
139
間的な報告という意味で﹁補録﹂とする。なお﹁補録﹂とは付録に他ならないが、アルトジウスの説明ですでに﹁付
の本文と注のスタイル
AP
録﹂の用語を用いたのでそれと区別するために考えた言葉にすぎない。
第3節
節番号、解説の際のポイント
で
AP1610
になってフォントの大小による区別が行なわれた。
AP1614
﹂を付ける、段落
∗
︺
﹂などの連続の表示を挿入する。
§5–2
︺
﹂と
§5–1
には章の見出しの後に節の内容を示す小見出し一覧がある。第1章から第9章まではその章の見出
また、 AP1614
か﹁
︹
う。必要に応じて原語を挿入する。また、節の分析の ために必要であれば、節を適当に改行し、例えば﹁
︹
の中にある節の区切りは新たな段落として設定する、本文と注のポイントは同じものとするなどある程度の加工を行
しかし、分かりやすくするには、本文と注の区別を示すべきでもあるから、注の段落の冒頭に﹁
そうすると、筆者は、研究素材そのものとして第1章を明確に提示すべきだと考える。それでゴシックで表示する。
カーネイは本文と注の区別をしていない。それに比べてヤンセンはその区別を維持している。
は、本文はノーマル、注はイタリックで表示されている。
と
た、アルトジウスは、本文と注を段落で区別していて注ではフォントを小さくしている。なお、 AP1603
れる文章の始まりがある。そのために、筆者は、欄外の節番号に対応するように便宜的に段落の途中で改行する。ま
に改行されているわけではない。ときには節番号自体は欄外にありながら、長い段落の中に節番号に対応すると思わ
から本文では章毎にそして段落毎に節番号が欄外に割り振られている。しかし、必ずしも欄外の節番号毎
AP1614
∏
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しの後で節の冒頭に﹁要約﹂
︵
はない。
小見出し
︶という題辞さえある。しかし、第 章から最終の第 章にはそういう題辞
summaria
10
39
、ギールケ著﹃アルトジウス﹄笹川他訳の位置付け
GA
﹂として扱う。この無節番号の内容は以下論じ
§[0]
の 場 合 、本 文 で は
AP1614
で あ る が 、頁 表 記 の 場 合 に は
CAPUT
を批判する仕方でその後の研究は展開 されているので、学説史としていつでも
GA
アルトジウスの研究書で有名なものは﹁はじめに﹂で触れたように
アルトジウス﹄がある。しかし、
には目配りするべきだろう。
GA
で 示 さ れ る 。そ し て
caput
章と節番号の表示の仕方
に際しては
めに、例えば
は﹁政治学第8章第 節﹂である。引用
POLITICAE CAP. VIII 38
を省略し、諸版の違いを示すた
POLITICAE CAP.
と表す。これは﹁政治学第3版第8章第 節﹂である。
VIII 38
が略されることもある。それで本稿では
POLITICAE
と表す。また単に
AP1614, VIII 38
38
38
けられないでアラビア数字で表示される。例えば
で表示されている。そして章数はローマ数字の大文字で表示される。節番号にはとくに記号は付
POLITICAE CAP.
章はラテン語では
である。その邦訳にはギールケ﹃ヨハネス・
GA
られる節の序論のようであってそれには小見出しはつけられていない。
ま掲げている。筆者はヤンセンにならうと同時にこの無節番号は﹁
文章がある。これの扱いについてカーネイは第1節に組み入れているが、ヤンセンは何も節番号を付けないでそのま
は、節番号の始まりの直前に節番号のつかない数行程度の文章を掲げている。いわば﹁無節番号﹂の
ところで、 AP
カーネイは節の小見出しを訳出していないがヤンセンは小見出しを訳出している。筆者はヤンセンにならう。
π
∫
ª
140
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page141 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
141
次に、日本語の研究素材は単なる翻訳ではない。そのために、ラテン語の表示とは異なった表示をする。すなわち、
は﹁第 節﹂を表す。
§38
ラテン語の単純な数字を節番号とすると節の中の数字と紛らわしい。それで、あえて﹁ ﹂§を節の番号の前に付ける。
例えば
か
AP1603
の節番号である。
AP1610
﹂と付ける。それゆえに、例えば﹁ §38
﹂とあれば
§[38]
の節番号で
AP1614
に節番号は付けられていなかったが、必要な場合には、 AP1614
に準じて、本文の段落毎
AP1610
﹂とあれば、それは
§[38]
﹃政治学﹄第1章の表題と小見出し
その1 §5–§21ポリティアと結合体の組織原理
§1–§﹃
4 政治学﹄の基本的な概念
§22–§39結合体の性質
ご
は、形式的にはすべ
§ とに解説してその内容を以下明らかにしてみよう。 §22–§39
39
に
§ それぞれ付けた﹁小見出し﹂に相当する。
につけられた注であり組織原理を述べるものではない。なお、本文か注かは別として、以下の筆者
§21
の割り振った﹁節﹂のタイトルはアルトジウスが
て本文である
これらの塊りに即してかつ各
その3 その2 の塊りに分けられる。
第1章の表題は﹁政治学の一般的な性質﹂であり、第1章は 節からなる。第1章の内容は意味内容上大きく三つ
第4節
あるが、
﹁
に節番号を章のはじめから数えて例えば﹁
なお、 AP1603
と
38
・・ ・・
・・
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page142 2014/02/18 10:04
142
第1節
第2章 研究素材の解説 政治学とは何か
﹃政治学﹄の基本的な概念
§1–§4
・・
︺それゆえに、それは、共生の学︵ συμβιωτ ικ
︶
ὴといわれる。
§1–3
︺ politica
をどのように訳すかは問題である。
﹃ 政治学﹄の 題名で有名なアリストテレスのものがある。この
︹ §1–1
︵ ars
︶である。︹
︹ §1–1
︺政治学︵ politica
︶は、︹ §1–2
︺社会生活を相互に組織し保護し維持するために人々を結合する術
§1
・・
語の
︵
︶
とも一致するものがある、もっとも、アリス
politics
を﹃政治学﹄と訳しても差し障りはないであろう。
politica
︵ ︶
︶
す な わ ち ﹁ 術 ﹂ に は ﹁ 学 術 、 学 、 知 識 ﹂ の 意 味 が 含 ま れ る。 と こ ろ が 、 フ ラ ン ス 語 で は
Kunst
︵
の訳は
art
︺ ars
をどのように訳すか。カーネイは﹁術﹂
︵ art
︶と訳し、ヤンセンは﹁術﹂
︵ Kunst
︶と訳す。これら西欧
§1–2
や
art
13
︵
︵
︶
︶
16
。それゆえに、
﹁術﹂と聞いたとき、それを﹁技術﹂に狭く捉えることはできない。
問﹂が入っている
15
なお、日本語で﹁術﹂というと、そこではたしかに﹁わざ、技能﹂が重きをなす。しかし、その中にたしかに﹁学
同じとはいい難い所がある。その詳細は明らかに出来ないが、結果として﹁術﹂でまとめておきたい。
﹁術、秘訣、こつ﹂であり﹁技術﹂とあり、また﹁芸術、技術、術﹂とあ る。そのために、西欧語においても必ずしも
14
︹
りあえずアルトジウスの書物のタイトル
トテレスが﹁ポリティカ﹂の単語を用いていたかどうかは必ずしも明らかではないといわれる
。こうしてみると、と
12
研究﹂
、
﹁国家学﹂
、
﹁国家社会学﹂と解され、今日の政治学でいう
﹁政治学﹂はギリシャ語の﹁ポリティカ﹂であって、
﹁ポリスにかかわる﹂という形容詞に由来し、
﹁ポリスについての
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page143 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
143
︹
︵
︶
︺フリードリヒは、 “Unde συμβιωτ ικὴ vocatur”
の文章を、
﹁それゆえに、それは、共生にかかわる事柄の科
§1–3
︵ ︶
が政治学という用語の共通な属性であるかのような響きを与える﹂が、アルト
symbioticus
︶と訳し
、さら
Therefore it is called the science of those matters which pertain to the living together.
に、
﹁この文章は、形容詞
学と呼ばれる﹂
︵
17
︵
︶
な構造﹄
︵
から
AP1603
までの頁数の増加の間でみ
AP1614
︵
︶
19
︶を表現するために、
﹃共生﹄を提案している﹂といわれる
。
natürliche Gefüge
︵ ︶
られる版の間の重要な違いであって、第3版において、彼は﹁人間の共生的な共同生活から出てくる権力の﹃自然的
理解﹂において共生を捉えていてその点で先駆者はいない。これは
リビウス、キケロが﹁自然主義的・道徳的な意味﹂で﹁共生﹂を捉えるのに対して、アルトジウスは﹁強い政治学的な
ヒのいうところは再解釈されて肯定されている。すなわち、マランドリノによると、プラトン、アリストテレス、ポ
治学﹂の捉え方がそれ以前の学者たちと異なるというその独自性を指摘するのである。最近の研究では、フリードリ
トジウスの用語の使い方に批判を加えているように見えるのだが、そうではない。彼は、むしろ、アルトジウスの﹁政
ジウス以前の政治学者たちを概観すると、そのようなことはなかったと主張する
。したがって、フリードリヒはアル
18
︵
︶
は、ギリシャ語﹁シムビオティケー﹂を﹁結合の術﹂
︵ Kunst der Zusammenfügung
︶と訳し、ヤ
ところで、ヴォルフ
20
22
とラテン語表記の訳をしている。 symbiotics
﹁共生﹂は
symbiotics
の名詞化と思われる。
symbiotic
が使
symbiosis
のようにそれはいろいろな学問を表示するときに使われているから、カーネ
-cs
といったとき、ヤンセンと同じく﹁共生の学﹂を表現していると理解できる。
symbiotics
われている。
なお、 συμβιωσιζ
というギリシャ語自体はアルトジウスには見当たらない。そのラテン語訳である
イが
などの語尾
politics, physics, linguitics
のまま使わないで
ンセ ンは、
﹁共生の学﹂
︵ Lehre vom symbiotischen Leben
︶と訳している。ところが、カーネイ
は、そのギリシャ語をそ
21
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page144 2014/02/18 10:04
第2節
結合体とは何か
︶は、
︹ §2–3
︺互いに︵
symbiotici
︶
、社会生活の使
inter se invicem
︶をはかる義務を
communicatio mutua
︺
﹁政治学の主題は結合体である﹂と訳したところには、いろいろ難しいことがある。そのために若干述
§2–1
は副詞で﹁したがっ
Proposita igitur Politicae est consociatio (I︶2は文法的には次のように解される。 igitur
に導かれ、
qua
Die Entstehung eines Zusammenlebens zu fördern, ist der Sinn
を形容詞の名詞化ととる可能性はある。
proposita
の完了分詞で単数女性形で形容詞主格に見える。動詞は
propono
︶
﹁結合体﹂である。なお、
consociatio
は
proposita
を先行詞とする従属節がある。
consociatio
そこで、主節にある
であれば主語は女性形の
︵
生を促進することが政治学の政治学たるゆえんである﹂ではなかろうか。もしそういえるなら、 Die Entstehung eines
である。すなわち、
﹁共同生活の発生を促進することが政治学の意味である﹂
。
﹁意味﹂とは、
﹁共同生活の発
der Politik.
の関係する文章は
Iに
2 おいてヴォルフ
である。そう
est
それは強調構文であると考える。ここに引用した文章自体は、文全体でみると、主節であり、その後に、関係代名詞
て、それゆえに﹂などを示すので、ここでの説明上省く。すなわち、
﹁政治学に提起されているのは結合体である﹂。
原文の
べておきたい。
1.︹
負っている。
用と共同に有益で必要であるところの事物に関して相互的な共有︵
るいは黙示的な合意によって、共生者︵
︹ §2–1
︺したがって、政治学の主題は結合体︵ consociatio
︶である。
︹ §2–2
︺そこでは︵ qua
︶
、明示的なあ
§2
・・
ところで、
23
144
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page145 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
145
を補語としている。そうす
consociatio
は補語である。
der Sinn der Politik
と捉え
proposita Politicae
は、文法上形式的には主節の主語であり、
Zusammenlebens zu fördern
ところが、カーネイとヤンセンはどちらも主語を
The subject
の完了分詞で形容詞ととると
propono
Politicae
Gegenstand der Politik ist
は属格、 proposita
は名詞と捉えられている。すなわち、
﹁政治学の主題は結合体である﹂
︵
ると、 politicae
は
proposita
︶
︵カーネイ︶と﹁政治学の対象は生活共同体である﹂
︵
matter of politics is association, .....
︶︵ヤンセン︶である。
die Lebensgemeinschaft, .....
そこでヴォルフを振り返ってみると、 proposita Politicae
の
は属格ではなく与格になり、訳としては﹁政治学の前に置かれている﹂言い換えると、
﹁政治学にとって前提となって
︶ものはとなる。
いる﹂︵ proposita Politicae
したがって、訳としてはヴォルフのものとカーネイ及びヤンセンのものと二通りあることになる。
になる場合は
proposita
であって
proposita
の単数形の名
propositus
proposita
ではない。そうすると、
propositum
であるからである。また、 proposita
が形容詞
est
の複数形の場合であるから、 propositum
を使って単数形の
propositum
である。しかし、原文で使われている単語は
propositum
ところで、カーネイやヤンセンの方からラテン語を見ると、主語である﹁主題﹂や﹁対象﹂に相当するラテン語の名
詞は
が
propositum
を説明することはできない。動詞は単数形
の性が合わされ
proposita
の男性形や中性形でなく女性形
proposita
と主語である
consociatio
詞化ということもありうるが、しかし、その際には、なぜ主語として形容詞
が 選 ば れ た か は 問 わ れ る 。 そ の 場 合 補語である単数形の女性名詞
ることになるのではないか。そうすると、主語の性が補語の性に合わされることが生じているといえないであろうか。
こうしてみると、カーネイやヤンセンの訳には文法上疑問がないわけではない。そして、ドムルメストルも﹁政治学
を主語ととる方が多数になる。文法の整合性
の主題は結合体である﹂と訳している。そうすると、 proposita Politicae
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の
proposita Politicae
consociatio
は大文字で書かれているから政治学一般ではなくアル
Politicae
にこだわらなければ、
﹁政治学の取り扱う主題﹂は﹁結合体﹂をめぐるものだという理解は適切で分かりやすいという
ことはないであろうか。しかも
トジウスからすれば﹁本書でいう政治学﹂にほかならない。その結果、
﹁本書でいう政治学の扱うところは
AP1614, I に
2 も出て
とを比較してみると、少し違うところがある。まず、 AP1603, I [2]
を見る
AP1603, I [2]
から見える大きな変化であるに違いない。そ
AP1610
は使われていない。そう
symbiotici
が登場する。そして、 symbiotici
は
symbiotici
に変わっているのでこの変化は
symbiotici
︵
﹁人間﹂
︶の単語が使われていて
homines
︺ AP1610, I で
§2–2
2 はじめてラテン語で
つまり結合体である﹂ということになる可能性があると考える。
2.
︹
が
homines
では単に
いる。ところが、 AP1603, I [1]
すると、
︺ AP1614, I と
§2–3
2
の違いをどう解釈するかが問われる。
︹
である。
homines
は﹁合意によっ
pacto, tanquam vinculo arctissimo
はすでに触れたので省くと、従属節
Proposita igitur Politicae est consociatio
consortium sunt utilia & necessaria, obligant.
主節の
である。その主語は
obligant
﹁明示的なあるいは
pacto expresso, vel tacito
にあった
むほど幅広いものであることが明確にされたというべきであろう。そして、 AP1603
が削
vinculo arctissimo
黙示的な合意によって﹂と改訂されたから、結合体の成立原因は、明示的な合意だけではなく﹁黙示的な合意﹂を含
・ AP1614
において
て、いわば最狭義の絆によって﹂であるが、 AP1610
している。動詞は
以下は次のような構造をな
qua
ad κoινoπραξαν , seu praestationem & communicationem mutuam eorum quae ad vitae socialis humanae usum &
Proposita igitur Politicae est consociatio, qua pacto, tanquam vinculo arctissimo, homines se inter se invicem,
と、それは、次のようである。
∏
146
――法 律 論 叢――
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――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
147
除されている。おそらく
すなわち﹁最狭義の絆によって﹂とは﹁絆﹂と呼べるもののもっとも狭義
vinculo arctissimo
によって明示的な合意に﹁黙示的な合意﹂が加えられたから、 vinculo arctissimo
が当然に
AP1614
のものすなわち明示的な合意によってを意味する。そうすると、 AP1603
で明確に明示的な合意に限定されていたも
と
のが、 AP1610
﹁共
κoινoπραξαν
﹁それ
ad communicationem mutuam eorum
のギリシャ語
ad κoινoπραξαν , seu praestationem & communicationem mutuam eorum
削除されたのである。
次に
は、 AP1614
で削除され、 AP1614
では単純に
praestationem
であるところの﹂である。
と
こうしてみると、 AP1603
いっている。
それだけでなく、
すなわち﹁相互的な共有﹂である。
communicatio mutua
の間でまった
AP1614
﹁明示的な
pacto expresso, vel tacito
︶置き換えられたのである。そのために、 AP1603
と
AP1614
すなわち共生者・共に生きる人々はいると
symbiotici
とを同一文章の中に位置づけたことには、合
symbiotici
意の契約思想の強化があることに止まらない意義があると思う。まさに、共生者は﹁相互的な共有﹂の関係にあるこ
と
AP1614, I は
2 、 communicatio mutua
黙示的な合意によって相互的な共有を定める、そういう関係に
く違ったとか断絶があったとかではなく連続と進化の目でその関係を捉えたい。そうすると、 AP1614, I は
2 、明示的
あるいは黙示的な合意によって﹂
︵
すなわち﹁合意によって、いわば最狭義の絆によって﹂
︵ AP1603
︶が
arctissimo
そして、さらに、改訂によってよりはっきりその内容を新に登場させたものとしていうなら、 pacto, tanquam vinculo
の間で連続する要点は
AP1614
とは、
﹁人間の社会生活の使用と結合に有益で必要
vitae socialis humanae usum & consortium sunt utilia & necessaria
らの相互的な共有に﹂となった。そして、
﹁それら﹂とは関係節の先行詞である。関係節は次のようである。 quae ad
通な行為﹂と
π
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は
symbiotici
AP1614, I に
2 始めて登場したが、その登場以前
すなわち﹁相互
communicatio mutua
があるともいえることに同じ
communicatio mutua
すなわち﹁共生﹂そのものでもあると。
﹁共生﹂の用語が登場した歴史的意義はもちろん大
symbiotici
である。こういっていいかもしれない。
communicatio mutua
とがここに語られたからである。すなわち、たしかに
からあったものは
的な共有﹂とは
きいが、連続する側面を見たとき、 symbiotici
を生み出した背景に
程に注目したい。
の分析をすることはあまり適切ではない。なぜなら、アルトジウスは、後に
communicatio mutua
︶求める﹁共有﹂
︵ communicatio
︶を論じているからである。筆
ego tuis, tu meis
において、カルヴァン﹃キリスト教綱要﹄第4篇第3章第1節を引用しながら、神が人々に与えた賜物を
§26
しかし、ここで
述べる
﹁わたしはあなたに、あなたは私に﹂
︵
者はここにまさにカルヴィニズムの背景を持つものとして﹁相互的な共有﹂が述べられていると思う。だが、それは
︵ ︶
カルヴァンの思想との密接なかかわりを研究することを必要とする。その点で、ミエッゲがアルトジウスとカルヴア
結合体の目的
の理解の類似性を取り上げていることは参考になると一言触れるにとどめたい
。
communicatio mutua
第3節
生活を生きるためには、人はだれも一人では自足して︵
がらに十分備えられているわけでもない。
︶いない、あるいは足りていないし生まれな
αὺτὰρκηζ
︺まことにこの
§3–2
︹ §3–1
︺政治的︵ politici
︶共生的な︵ symbiotici
︶人間の目的は、清い、公正な、善い、豊かな共生︵ symbiosis
︶
§3
∗
である。いかなる生活も、必要で有益なものを欠いたままにしておくことは出来ない。
︹
・・
ンの
24
148
――法 律 論 叢――
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――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
149
1.
§か
3ら
§ま
5 で長い注が始まる。しかし、筆者は
§3–§を
4 一つのまとまりあるものと考え、 §は
5
は
AP1610, I [3]
§以
6 下につな
。この相
AP1614, I と
3 同文である︶
§に
3 注目するところから分析を始めたい。
AP1614, I で
3 はかなり大きな相違が見える︵
げる方が分析に都合よいと判断している。そのために
と
AP1603, I [3]
Pro hoc fine
Nemo enim per se est αὺτ ὰρκηζ , id est, sufficiens ad benè beateque vivendum. Nam hominis vitae
を見てみよう。次のようである。
§[3]
違は、理論的な展開が深まったことを示すに違いない。
まず
︺
§[3]–1
︹ §[3]–3
︺
Hanc omnes qui ratione utuntur appetunt.
︺誰もたしかにひとりでは自足していない。すなわち、十分に幸福に生きるためには足りていない。とい
§[3]–1
︶
︺理性︵ ratio
︶を享受するものはすべてこの生活を熱心に求める。
§[3]–2
︵
︹
︺成就されるべきこうした目的のために、社会的媒体
︵ media
︶があり、分別︵ rationes
︶がたくさん見出
§[3]–3
︶が神と英知によって示されている。
praecepta
であるから理性のさまざまの働きにほかならなく、理性がたくさんのものを人に気付か
rationes
25
︺と︹ §[3]–3
︺では、人間は、幸福を実現するために、単独ではなく他者と交流する﹁社会的媒
§[3]–2
るといわれる。したがって、
︹
︺では人間は自足していないことが語られているとしても、それを克服するさま
§[3]–1
体﹂をもっている、そして、経験則的な多様な理性の働きを具えている、それだけでなく、神と英知を与えられてい
そうすると、
︹
せることが語られている。
この﹁分別﹂とは
され、教訓︵
︹
うのは、人間の生活の目的は、幸福で、快適で、豊かな生活であるからである。
︹
obtinendo media & rationes inventae plurimae & praecepta à Deo & prudentibus praescripta.
︹ §[3]–2
︺
finis est beata, commoda & felix vita.
︹
∏
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ざまのいわば手段も︹ §[3]–2
︺と︹
︺で語られている。したがって、 §[3]
において、人間は、自足していないが自
§[3]–3
足していない状態を満たそうとして活動する個人として思い描かれているだけではなく、複数の人々との出会いもそ
の中にあることが指摘されている。
それに比べて、 §で
3 は、幸福を求める政治的共生的な人間がまず打ち出される。そして、この人間は﹁共生﹂を前提
としている。その次に人間の本質として﹁自足していない﹂ことが語られるとしても、たしかにもはや単独者として
・ AP1614
には大きな質的
AP1610
で見られた人々の交流する姿が﹁共生﹂の言葉でもっ
個人はイメージされていない。そうすると、 §の
3 重点は、 §[3]
て描かれていることにあると解することができる。こうした意味で、 AP1603
から
AP1614, I と
2
Iの
3 二カ所にある。すなわち、 I の
2
obligant
は、
symbiotici
を形容する
hominis
Iの
3
は動詞
symbiotici
で意味されていたことが﹁共生﹂の言葉によって明確に表現された
変化がうかがえるとまでは言いにくい。 AP1603
の単語は
symbiotici
のではないかと考えられるからである。
原文では
︶
。それに対して
symbiotici inter se ...... se obligant
とは、単数名詞属格
symbiotici
Iの
3
は形は同じだ
symbiotici
は
symbiotici
を形容するからその形容を
hominis
は﹁共生の﹂もしくは﹁共に生きる﹂を意味するだろう。そし
symbiotici
を修飾する。こうしてみると、 I と
finis
2
二つの形容詞である。そして、 hominis
は
は﹁共に生き
symbiotici
的﹂と﹁共生的﹂とは切り離せない。
受けた人間が﹁政治的﹂であることと﹁共生的﹂であることが語られている。アルトジウスの人間理解の上で、
﹁政治
に沿っていうならば、 politici
と
て、 hominis politici symbiotici finis
る人々﹂あるいは﹁共生者﹂であり、後者の
が、前者は複数形主格、後者は単数形属格であ っ て 、 意 味 上 の 相 違 は 明 ら か に あ る 。 前 者 の
という主部の中にある。 politici
と
hominis politici symbiotici finis
と対応するので明らかに複数形主格である︵
π
150
――法 律 論 叢――
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を
symbiotici
よ
politici
にかけているが、 symbiotic
にのみク
hominis
にはつけていない。ということは、カーネイは訳す上で
political
と訳していて、 politici symbiotici
を
political “symbiotic” man
ところが、カーネイとヤンセンでいささか異なる理解がある。すなわち、カーネイは、 hominis politici symbiotici
の箇所を
オーテーションをつけていて
hominis
finis
[Symbiose]: Duden, Das große Wörterbuch der deutschen Sprache, 1998,
は近代ラテン語に由来しさらにギリシャ語から来たといわれる
symbiosis
から出てくる。そして、このラテン語はもともと動植物の﹁共生﹂を表すために
AP1610
を修飾するのではなく 意味上
hominis
﹁人々の共生的な政治
das Ziel des symbiotischen politischen Zusammenlebens der Menschen
り重んじたのである。しかし、原文にはそのような軽重は表示されていない。次に、ヤンセンはラテン語句
を
politici symbiotici finis
的な共同生活の目的﹂と訳している。そうするなら、 politici symbiotici
は
は
symbiosis
を修飾すると理解しているように見える。
ラテン語
﹃新英和大辞典﹄二一三八頁。
[symbiosis]
§と
3
える。
AP1614, I の
3︹
︺と
§[3]–1
AP1614, I の
3︹
§の
4 記号を欄外に記すことによって二つの節の区別
︺に﹁自足して﹂
︵ αὺτ ὰρκηζ
︶という単語がある。そして、
§3–2
︺は、誰も﹁生まれながらに﹂
︵ a natura
︶充分備えられているのではないという。ところが、こ
§3–2
の︹
AP1603, I [3]
を意識しているから、論理展開の際にも区別を意識しているに違いない。この関心から考えると次のようなことが見
§と
3
§と
4 に節を区切ることなく連続的一体的な同一の段落でこれらの二つの節を取り
§を
3 考えることとは別に、 §自
3 体をとらえる努力をもう少ししてみたい。
2.アルトジウスは、元来
との比較で
I 2–3
︶
。
Bd. 8, S. 3828
・・
上げている、そのように考えたい。しかし、彼ははっきり
︵
使われるもので、ギリシャ語に る。英語の
∫
∏
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
151
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page152 2014/02/18 10:04
の
は
a natura
には用語としてはなく、 AP1610, I [3]
で加筆され、 AP1614, I に
と
AP1603
3 継承されたから、 AP1610
には﹁生まれながら﹂
︵ a natura
︶という副詞句の挿入によって
AP1614
より強
AP1603
で﹁生まれながら﹂に﹁自足していない﹂人間が自覚的に論じられるに至った。とすれば、
﹁自足して﹂とい
AP1614
う同じ句ではあるが、文脈上
調された側面があるのではないか。これはまぎれもなく自然法思想を反映している。そうであれば、この強調によっ
てアルトジウスのもっとも根本にある考えの一つが表されるにいたったに違いない。
この﹁生まれながら﹂に﹁自足していない﹂状態から抜け出す力ないし考えはどこから来るか。この疑問にかか
︶行為する人は﹁幸福な、善い、豊かな生活﹂を欲するの句であ
ratione
︶で取上げるが、
﹁理性的に﹂の代わりに現われているのは、肉体的には成人に
AP1610, I [4]
AP1614, I で
4 もそうである。魂の光を掲げない人とは文
︵
︶
︶
vita symbiotica
リヒなら、良くも悪くもあるありのままの人間を﹁幻想なく﹂観察していて、それでいてペシミスティックにならな
が成り立つ。自足していない人間と救いの手を差し伸べる﹁他の人﹂との﹁共生的な生活﹂とは、おそらくフリード
し喜ばせる他の人﹂から来て、それを受け入れる人がいる、そうした両者によって﹁共生的な生活﹂
︵
脈的には﹁理性的に﹂行動しない人のことをいうから、
﹁理性﹂から救いは出てこない。その代わりに、救いは﹁干渉
なっているのに魂の光を掲げない人がいるという話である。
えている。次の第4節︵
ではその﹁理性的に﹂という言葉が消えている。そして、 AP1614, CAP. I で
る。しかしながら、 AP1610, I [3]
3 も消
わるのは、 AP1603, I [3]
にある﹁理性的に﹂
︵
π
をいうかもしれない。かかる理解自体は、カルヴィニズムの予定論に立つ現実に固執する見方に由来するであろう。
い﹁バランスのとれた健全なリアリズム﹂の﹁生物学的な社会関係の基礎﹂を探る見 方の一適用としてアルトジウス
26
152
――法 律 論 叢――
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――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
153
第4節
結合体の必要と有益
︹ §4–1
︺たしかに、人は、生まれるとき、難破船から捨てられたす べてのものと同じく、いっさいの援助
§4
・・
︶を嘆きと涙によって始めうる以外のことは何もない。急迫し切迫して
vita miserrima
︺もしも干渉し喜ばせる他の人がいないなら人は救われない。
§4–2
︵ ︶
︹
︺まことに肉体的には十分に育っても、その人は、しかしながら魂の光︵ animi lumen
︶を掲げることは
§4–3
︹
︹
いる不幸の最も確実な前兆を前にして、しかし、もっとも欲しいあらゆる助言と援助がその時にない。
もっとも惨めな生活︵
きないし、その時の不正に耐えることもできないし、産み出されたところから歩いて立ち去ることもできない。
はなく、裸で無防備のまま、この生活の艱難の中に投げ出される。その人は、母の乳房に手を伸ばすことはで
∗
︶、人間社会︵
privatim sibi vivit
︶に巻き込まれない限り、必要と有益なもの
societati hominum
︶生きることは決してできない。
commode et bene
しくむろん生きることを望むなら、彼はこの喜び迎えるものの方へ引き寄せられほとんど駆り立てられる。そ
︺従って、共生的な生活︵ vita symbiotica
︶の中で救助と支援がその者に差し出されるときに、善く正
§4–4
をたくさん欠いているから、人は、善く正しく︵
ていて︵
人々が自ら進んで骨を折っている。そのように︹魂の光を掲げない成年齢者は︺
、個人として自分のために生き
需品を獲得することはできないだろう。たしかに、これら補充され世話されるべきもののために、たくさんの
のすべて︺をひとりでかつ自己の手で手に入れることは出来ず、同胞の人々と一緒になって生活のすべての必
出来ず、さらに、成年齢になっても、善く清く過ごされるべき生活のために必要な外的なそれら︹助言と援助
27
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page154 2014/02/18 10:04
154
――法 律 論 叢――
︹
の際この共生︵
︶の中においてのみあり得る力強い実践と行動へと人は招かれているのである。
symbiosis
︺そして、それゆえに、そこからたくさんの有益な成果が由来すると期待される共生体︵ symbiosis
︶が
§4–5
︶説明しよう。
in sequentibus
作られ、営まれ、維持される、人はそうした社会的媒体を考え始める。かかる社会的媒体について神の恩寵に
よって以下で︵
の文章である。 §と
AP1603, I [4]
4 同じ内容と相当に違うものがあることに注意
§は
4 内容上いくつかの塊に分けられる。その塊と塊との相互の関係を検討してみよう。
1.この検討の上で参考になるのは
︺ Sibi subvenire
§[4]–2
︺ Id autem fieri non potest sine omnibus illis mediis, quibus homo politicus utitur,
︹ §[4]–5
︺ de quibus hoc
§[4]–4
exerere potest, nisi vel intus, vel extra in societate doceatur. vid. Francisc. Patricium lib. 1. de Repub. tit. 10.
︹ §[4]–3
︺ Etsi vero maxime enutritus est corpore, non tamen ainimi lumen
nequit, nisi alio interveniente & juvante.
︹
terram projicitur, consilii & auxilii omnis inops, quibus tamen tum quam maxime eget.
︺ Sed bene vivere sine societate homo qui potest? Nam quando nascitur ille: omni auxilio destitutus in
§[4]–1
してみよう。その文章は次のようである。
︹
︹
in libro deinceps dicturi sumus.
︺
﹁しかし、社会がなければ人はどうしてよく生きることができるか。なぜなら、人が生まれるとき、いっ
§[4]–1
︺もし干渉し喜ばせる他の人がいないなら、助けられない。
§[4]–2
︹
さいの援助なしに地上に投げ出されるからである。助言と援助のあらゆるものがない。だが、そのときにはそ
︹
︺そしてもしまことに肉体的には非常によく育っていても、もしも内部へであれ外部にむけてであれ社会
§[4]–3
れがたくさん必要なのである。
︹
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page155 2014/02/18 10:04
︹
Francisc. Patricius lib. 1. de Repub. tit. ︶
10を見よ。
に対して魂の光が示されない場合には、その人は、しかし、魂の光をかかげることは出来ないのである。フラ
ンキスクス・パトリキウス﹃共和国第1篇第 章﹄
︵
︺これに反して︵ autem
︶
、政治的人間︵ homo politicus
︶が利用する︹前述した︺いっさいの社会的媒体
§[4]–4
なくしてはそのようなこと︹人が助けられること︺は生じ得ない。
︺そうした社会的媒体についてこの章で次に︵ hoc in libro deinceps
︶論じよう。﹂
§[4]–5
︺そこでそれらの塊に立ち入ってみると、 §[3]
と
§4–1
︹ §[4]–1
︺
§は
3 人は生まれながらに自足していないことをいい、
︺と︹ §4–4
︺
・
︹ §4–5
︺では言葉と表現がいろいろ異なっている。
§[4]–4
︺と︹ §4–3
︺は成人をモデルとしている。 §[3]
・ §は
、 ︺
・
、 ︺
§[4]–3
3 ︹ §[4]–1
3︹ §4–1
3と内容上ほとんど一致する。と
︹ §[4]–1
︺と︹ §4–1
︺は生れたばかりの子供をモデルとし、
§で
3 は一般的につまり子供と大人を含めて述べられたが、
︹
10
︶
︵
︹
vita miserrima
われる。ところが、
︹
︺
︶を述べる。次に︹ §4–3
︺は、自足していないことを成人を例にして、生
§4–1
︺と︹ §4–2
︺で干渉し喜ばせる他
§[4]–3
︺で、﹁共生的な生活﹂から救助と支援がその人に行なわれその人が受け入
§4–4
︺で、人は﹁この共生体︵ symbiosis
︶の中におい
§4–4
︺では成人の救いは言及されていない。
§[4]–3
てのみあり得る力強い実践と行動へと人は招かれている﹂
、それゆえに、
﹁善くかつ正しく生きること﹂ができるとい
れることによって来るといわれる。それゆえに、成人の場合、
︹
の人から来る。では、成人の場合、︹
︺それでは、生れたばかりの子供に救いはどこから来るか。それは︹
︹ §4–2
た﹁個人として生きていて﹂社会生活に巻き込まれない人すなわち﹁魂の光﹂を掲げない人を取り上げる。
活のために必要なものをひとりで手に入れることのできない、同胞と一緒になってそうすることもできない、そうし
とも惨めな生活﹂
︵
︺はその自足していないことを、生まれたばかりの子供を例にして、その﹁いっさいの援助のない﹂、
﹁ もっ
と︹ §4–1
︹
ころが、
︹
︹
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
155
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page156 2014/02/18 10:04
156
――法 律 論 叢――
子供と成人では以上述べた違いがある。この違いそのものよりも、人は自分の力だけでは救われない、ではこの救
われない状況からどうやって救われるのかを考えてみたい。
2.そこでアルトジウスが﹁もしも干渉し喜ばせる他の人がいないなら人は救われない﹂というところに注目した
い。救いは、自分からではなく﹁他の人﹂から来る。ラテン語の語句自体に即してみると、
﹁もしも干渉し喜ばせる他
の人がいないなら人は救われない﹂というところは、次のようである。
sibi subvenire nequit, nisi alio interveniente & juvante
を
alio
interveniente
は現在分詞で
interveniente & juvante
﹁人は救われない﹂ というのが主節であって、 nisi alio interveniente & juvante
﹁もしも干渉し
sibi subvenire nequit
喜ばせる他の人がいないなら﹂はいわば条件節である。条件節の中にある
形容するので全体としては奪格別句である。また、奪格別句であるから、 alio
を主格すなわち主語と考え
[daß]
を動詞と捉えることもできる。そうすると、 alius
すなわち﹁他の人﹂は、 intervenio & juvo
すなわち﹁
︹人
& juvante
に︺干渉し︹その人を︺喜ばせる﹂のである。この点について、ヤンセンは﹁他の人が人を世話し援助する﹂
︵
︶と訳す。ドムルメストルが﹁他の人々が干渉しあるいは何らかの他
ein anderer sich seiner annimt und ihm beisteht
︶と訳す。カーネイは﹁他の人の干
intervenir ou aider d’aucune autre manière les autres
︶というように名詞句に訳す。それゆえに、訳自体には一致がある
intervention and assistance of another
の方法を用いて援助する﹂
︵
渉と援助﹂
︵
であるから、ドムルメストルが複数形で﹁他の人々﹂を表すところに違いがあ
alio
なのでその意味が考えられたのであろう。しかし、特別な違いがあるとは思われない。
aliis
が、
﹁他の人﹂は原文では単数形の
る。複数形なら
3.︹ §4–3
︺の構文と内容は必ずしも分かりやすいものではない。そして、内容的にはこれまでの叙述と異なるもの
が出ている。このことを意識して分析してみよう。
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その原文を掲げると次のようである。分析の便宜上
の記号を挿入する。
〔A〕
〔B〕
〔C〕
〔D〕
〔E〕
minime potest, in tanta tot rerum necessariarum & utilium inopia.
で
〔B〕
〔C〕
〔D〕
は決して出来ない。﹂
〔A〕
〔F〕
そうすると、 から でいわれる人は﹁魂の光﹂を掲げることの出来ない成年齢者であるから、魂の光を掲げ
〔D〕
︶
、人間社会に巻き込まれない限り、必要と有益なものをたくさん欠いているから、善く正しく生きること
sibi vivit
で骨を折っている。 そのように︹魂の光を掲げない成年齢者は︺、個人として自分のために生きていて︵ privatim
〔F〕
することも出来ないだろう。 たしかに、これら補充され世話されるべきもののために、たくさんの人々が自ら進ん
〔E〕
て︺をひとりでかつ自己の手で手に入れることは出来ず、 同胞の人々と一緒になって生活のすべての必需品を獲得
〔D〕
ず、 さ ら に 、 成 年 齢 に な っ て も 、 善 く 清 く 過 ご さ れ る べ き 生 活 の た め に 必 要 な 外 的 な そ れ ら ︹ 助 言 と 援 助 の す べ
︶を掲げることは出来
animi lumen
であり、 parare nequeat
である。そうすると、 §4–3
の訳は次
invenire [potest]
ところで、 AP1603,
[ §[4]-3
]と諸先行訳を参照すると、次のようにいえる。 は条件節であり、その主節は
と
ある。主節の動詞は、 exerere potest
のようになる。
〔B〕
﹁ まことに肉体的には十分に育っても、 その人は、しかしながら魂の光︵
〔C〕〔A〕
〔A〕
︹ ︺
F Quamdiu itaque privatim sibi vivit, atque societati hominum se non immiscet, commode & bene vivere
sudant.
︹ ︺
suis viribus omnia vitae subsidia parare nequeat.
E His enim supplendis & procurandis multorum vires et industria
︹ ︺
D cum
aetate etiam externa illa, quibus in vita commode & sancte degenda opus habet, in se & apud se invenire,
︹ ︺
︹ ︺
︹ ︺
A Etsi vero maxime est corpore enutritus,
B non tamen animi lumen exerere potest,
C neque in adulta
∏
π
ない人は、 でいわれる生活のために労苦しているたく さんの人々とは区別されている。そして、 では、この魂の
〔E〕
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
157
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page158 2014/02/18 10:04
158
――法 律 論 叢――
光を掲げない人は、﹁個人として自分のために﹂生きているといわれ、しかも、人間社会に巻き込まれないといわれ
︶生き、他者の交わりに組みしよ
für sich allein
人がいることを知っている。で
APWolf, 1943, S. 12; APWolf, 1948, S. 14; Wolf, Qullenbuch, S. 113)
る。そうすると、アルトジウスは、
﹁個人として自分のためにのみ︵
うとしない﹂
︵
for one’s self, in : Lewis & Smith, A Latin Dictionary,
はこういう人はどういう人であろうか。世捨て人だろうか。それとも富裕な人や王侯貴族であろうか。いずれにしろ
には﹁個人として﹂の意味の他に﹁自分自身のために﹂
︵
privatim
Oxford, 1966/1879, p. 1446; für seine Person, in: Menge-Güthling, Langenscheids Großwörterbuch Lateinisch-Deutsch,
︶の意味もあるから、自分のためにのみ生きて社会のために生きようとしない﹁個人﹂が認識され
1977/1911, S. 600
ている。彼はまさに共同体主義的な立場から消極的に個人主義的な人間像に言及している。しかし、そういう﹁個人﹂
の存在を無視・否定しようとはしていない。
︹ §[4]-3
︺には見られなく、 AP1610
・ AP1614
に見られるから、 AP1603
AP1603,
・ AP1614
への重要な変化の一つがここに見出されることになる。そうであれば、彼の社会契約論の構想
AP1610
この個人主義的な人間像への言及は
から
にはその組みしない、後述するが、後代の社会契約論の構想につながる分岐点があるといえるであろう。
4.人を救うものはその人以外の他の人であるといわれるから、ここには他力救済がある。ただし他力救済を成り
立たせる原理は述べられていない。おそらくアルトジウスは困難な中にいる人を救おうとする他の人の中に人間の本
︺であろう。︹ §4–5
︺の言葉でいうならそれは﹁共生体︵ symbiosis
︶が作られ、
§4–5
︺
、
︹ §[4]–4
︺
︶として組織化され維持されることになり、そうした﹁社会的媒体﹂のとっかか
§4–5
質的属性の一端を見ているに違いない。社会性をもたない側面と社会性をもつ側面と二つがあって、社会性をもつ側
面が﹁社会的媒体﹂
︵
︹
りへの移行の話しが︹ §[4]–4
︺と︹
営まれ、維持される﹂ことをいう。
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︺は、
﹁共
§4–4
︹ §[4]–3
︺における成人の救いは、
︹ §[4]–4
︺で取り上げられる社会的媒体の議論に含まれると思われる。そうす
1.
︺において﹁共生的な生活﹂は﹁共生体﹂によって実
§4–4
︺における﹁以下で﹂とはラテン語では
§4–5
であるから複数の意味でいわれている。
in sequentibus
︺においてその﹁共生体﹂を組織運営維持する社会的媒体が﹁以下で﹂論じられる。
§4–5
の︹
AP1614
の︹ §[4]–5
︺を見ると﹁この章で次に﹂とある﹁次に﹂とは副詞であるから単数か複数かは断
AP1603
§1–§4
§で
1 ﹁政治学﹂の定義がなされている。政治学は﹁社会生活を相互に組織し保護し維持する﹂ために人々を﹁結
まとめ
・・
と、第5節以下で社会的媒体が詳論されるであろう。
定できない。しかし、
﹁この章﹂とは第1章であるから﹁以下﹂とは複数の節を意味している可能性がある。そうする
この点に関して
π
現され、
︹
を︵いわば組織的に︶目指すといわれる。言い換えると、
︹
り離せないといわなければならない。まさに、 §に
3 おいて﹁政治的共生的な人間﹂は、一定の内容をもった﹁共生﹂
体がいわれるからである。それゆえに、救いにかかわって共生︵いわば個人的に︶と政治︵いわば組織的に︶とは切
︺では、政治的人間が救いのために利用する社会的媒
§[4]–4
︺では、救いのないものが他者の差し出す救いを受け入れることによって共生が生れて救われるのであり、受け
§4–4
係に置かれているのかという疑問が生じる。筆者は、救われる話の文脈が異なるのではないかと考える。というのは、
生的な生活﹂を受け入れることによって人は救われるというから、
﹁政治的人間﹂と﹁共生的な生活﹂とはどういう関
ると、
︹ §[4]–4
︺において成人は、
﹁政治的人間﹂が利用する社会的媒体によって救われる。ところが、
︹
∏
入れなければ救われず共生も生れないからである。他方︹
︹
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
159
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page160 2014/02/18 10:04
合する術﹂
︵
︶である。その﹁術﹂をギリシャ語を使ってシムビオティケー︵ συμβιωτ ικ
︶
ὴという。そ
ars consociandi
§で
2 はいくつか注目したい論点がある。
§以
2 下の
や
symbiotici
︶という結合の
ars
つまり共生、共生者、共
symbiosis
、 Kunst
︶と訳しながら、フリードリヒと同じくこのシムビオティケーを﹁共生の学﹂と捉えている。
art
れゆえに、アルトジウスはシムビオティケーを﹃政治学﹄という。また、カーネイとヤンセンは、 ars
を﹁結合する術﹂
︵
2.
シムビオティケーの中身である﹁共生﹂はたしかに
その根拠は信仰すべきものではない。
結合体の成立根拠は﹁共生者﹂
︵
communicatio
ているというならそれは誤解である。すでにギールケやヴォルフによって触れられたが、社会を動かす要因は共生者
的合理的に問われ点検される。それゆえに、アルトジウスはカルヴィニストだから社会を動かす要因として神意を見
︶
﹂にある。そのために、つねに﹁相互的な共有﹂は、共生者によって﹁有益﹂か﹁必要﹂かという観点で世俗
mutua
い出されている。何のための結合かといえば、それは社会生活上﹁有益で必要である事物の相互的な共有︵
︶つまり社会を構成する人々の﹁明示的なあるいは黙示的な合意﹂に見
symbiotici
ことを受け入れるものが内包されている。そのために、人々がその手段や方法の根拠を科学的学問的に論じうるから、
ものではない。そして、
﹁術﹂には、
﹁学﹂すなわち科学の意味が含まれているから人々が物事の根拠を合理的に問う
生の学﹂にさらされる。つまり、この﹁術﹂は具体的な手段や方法にかかわっていて決して空想的あるいは思弁的な
権力の担い手のあり方は﹁術﹂として点検され得る。決して﹁術﹂は魔術でも秘術でもなく﹁相互に﹂了解可能な﹁共
ここに、アルトジウスの政治学の重要な特質があり、アリストテレスとは異なるものが現われている。それと同時に、
あり方に規定される。結合のあり方を規定するものは共生的な人間﹁相互に﹂あり、そのために、権力の発生がある。
に生きる人々にかかわっている。しかし、注目したいことに、社会生活の組織の保護維持は﹁術﹂
︵
∏
π
160
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page161 2014/02/18 10:04
の合意である。
矛盾したものがあるのではないか。以下この問題関心をもってアルトジウスを見ていきたい。
して暴君の殺害の肯定が出てきていたからここには神意が出ているといわざるを得ない︵注︵
︵
︶
︶参照︶。ここには、
るであろう。それなら叙述に際して神意は出てこないのである。にもかかわらず、抵抗権にかかわって﹁神の民﹂と
しかし、アルトジウスはカルヴィニストとして、ヴォルフのいうようにその社会の成立を予定論
から当然考えてい
28
﹁合意﹂によって人々は互いに有益で必要なものを共有する義務を負っている。そうすると、有益とか必要とか
3
§で
2 は、かかる﹁合意﹂は身分制社会に限定されていわれているわけではない。それゆえに、彼は実定法秩序で
は至らないであろう。
から
§に
2 おいて、 AP1603
から
AP1603
へ連続する側面にも注目したい。連続を表す言葉は
AP1614
う事実である。それではこの結び付きはどう考えられるか。筆者は、
﹁相互的な共有﹂の思想が﹁共生者﹂の思想を生
︶であり、﹁共生者﹂と﹁相互的な共有﹂の用語が一つの文章で結ばれたとい
communicatio mutua
ある。しかしながら、そうした変化と共に
への変化でもっとも注目すべきはもちろん﹁共生者﹂
︵ symbiotici
︶の登場で
AP1614
ある身分制社会を直視しながらあるべきものをとなえているように見える。もしそうであれば、彼は革命への賛成に
とも
根本的原則であろう。たしかに、
﹁黙示的な合意﹂は身分制社会のあり方を反映するかもしれないが、しかし、少なく
言い換えるなら、おそらく明示的な合意と異なり﹁黙示的な合意﹂は、共生者が生きている結合体すなわち社会の
たに違いない。
ゆえに、果たすべき義務と状況の要請との交錯現象すなわち改革・改良こそアルトジウスの興味のあるところであっ
は不確定概念であるから、
﹁合意﹂は固定されたものではなく、事情によって変化する柔軟な性質をもっている。それ
∫
ª
﹁相互的な共有﹂
︵
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
161
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page162 2014/02/18 10:04
み出したのではないかと思う。たしかに、
﹁相互的な共有﹂
︵
︶にズバリ該当する言葉はカルヴァ
communicatio mutua
においてカルヴァンとの関係で議論される。それゆえに、
﹁共生﹂の思想を考える場合、それの背景をな
§26
ンにはないが同じとしか言いようのない言葉がカルヴァン﹃キリスト教綱要﹄第4篇第3章第1節にある。このこと
はやがて
すカルヴィニズムの﹁相互的な共有﹂の思想それ自体にもっと目を向けなければならないと考える。私たちはとかく
︵
の叙述を
AP1614
§と
3
§の
4 二つに分けていて、前者は四行、後者は二五行に及
§の
3 冒頭に
︶と﹁共生的﹂
politicus
では、前者は二行半、後者は一五行半に及ぶ。アルトジウスは長い注を述べる
APReprinted
︶という。したがって、
﹁政治的﹂
︵
homo politicus symbioticus
まず﹁政治的共生的な人間﹂の目的が提示される。それは﹁清い、公正な、善い、豊かな共生﹂である。この目
生的な生活﹂
︵
﹁なぜなら﹂人は生まれるときいっさいの援助がない
§に
4 おいて、
§は
4 、したがって、必要で有益なものを求めているのに生まれながらにいっさいの援助のな
︶が生まれると主張する。なぜかかる﹁他の人﹂がいるのかは論じられていない。いず
vita symbiotica
を人に差出すと指摘する。そして、このような救助・支援を差出す人がいて、それを受け入れる人がいるところに﹁共
︶
ではどこから救いは来るか。アルトジウスは、
﹁干渉し喜ばせる他の人﹂が﹁救助と支援﹂
︵ remedium & auxilium
い人間観を展開する。そうすると、かかる人間から救いは生まれない。
からであるといわれる。
﹁生まれながらに﹂
﹁自足していない﹂
。そして続く
かなる生活も、必要で有益なものを欠いたままにしておくことは出来ない﹂。さらに踏み込んで、﹁だれも一人では﹂
標設定をしたとき、この目標に達しない事態にいるものはどう捉えられるか。それが次の文章である。すなわち、
﹁い
∏
︶の特徴を備えた人間観が出ている。アルトジウスはこの人間観の議論にどのような切り口から入るか。
symbioticus
おいて﹁政治的共生的な人間﹂
︵
ぶ 。な お 、
3.アルトジウスは共生に関する
﹁共に生きる﹂ということに関心を向けがちであるが、それを支える思想にさほど気付いていないかもしれない。
162
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page163 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
163
§と
3
§を
4 閉じるのだが、ではかかる社会形成の特色はどこにあるか。筆者
§の
4 根底にある考え方は、 §の
3 ﹁人はだれも一人では自足していな い﹂ではないかと思う。ここを起点と
アルトジウスはこう述べることによって
れにしろ、この共生的な生活によって﹁共生体﹂
︵ symbiosis
︶が組織運営保持される。
は、
§の
3 人間観
§に
4 おいて援助を必要としながらいっさいの援助のない人間観を描きだし、そのような人間にか
でも同じように窺えるのでその時に改めて比較して考えてみよう。
AP1614, I 23–26
︶
29
︶
30
︶
31
このように、アルトジウスとホッブズ、ロック、ルソーとの間で、社会契約論を基礎付ける人間観は極めて異なる
﹂とする社会契約論を展開する。
しかない、
﹁各人の力と自由こそは、生存のための最も大切な手段である
︵
ためにとりうる手段として﹁多人数の協力によって﹂障害の抵抗に﹁打ちかちうる力の総和﹂として﹁集合すること﹂
は、
﹁人間は自由なものとして生まれた﹂が、自然状態では﹁生存することを妨げるもろもろの障害﹂があり生存する
から生まれる社会契約論を展開する。そして、ルソー
人の意志に依存することもいらない﹂
﹁完全に自由﹂な自然状態
︵
当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他
﹁自らの適
る 。 す な わ ち 、 ホ ッ ブ ズ は ﹁ 万 人 の 万 人 に 対 す る 闘 争﹂ から生まれる社会契約論を展開する。ロックは、
︵
そこで振り返ってみると、アルトジウスの社会契約論は、ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約論とは大きく異な
そして、弱い人間観は他の人にも本質的にある訳だから、共生的な生活に反映しているであろう。
同時に、その弱い人間に積極的にかかわる﹁他の人﹂がいて、そうした出会いにおいて﹁共生的な生活﹂が生まれる。
述べたように、生まれながらに自立していないというものであると思う。いうならば弱いもろい人間である。しかし、
4.明示的黙示的な合意によって結合体がつくられる、そうした社会契約論の起点になっている人間観は、すでに
は、さらに
かわる﹁他の人﹂の存在を指摘して、両者の﹁共生的な生活﹂の成立を述べる。そうすると、起点をなす
してアルトジウスは
π
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page164 2014/02/18 10:04
ことが明らかになったと思う。ホッブズ、ロック、ルソーでは、自分で自分のあり方を決め得る強い人間観があるの
に、アルトジウスには自分で自分のあり方を決め得ないいうならば弱い人間観がある。それゆえに、両者の人間観は
対比的であると考える。この点では、フリードリヒもまたアルトジウスの中にある弱い人間観をとくに分析していな
いことは見落としてはならない点であろう。
こうしてみると、アルトジウスの社会契約論の独自性が浮かび上がる。そしてかかる土台の上で国家論が展開され
ることに目配りをしたい。共生体が、必ずしもアリストテレスに倣うことなくプルタルクの理論枠組みに助けられな
がら具体的に組織され維持される。そうすると、アルトジウスは、どのように共生体を組織し維持するか、その際に
多義的な言葉である政体
第3章 研究素材の解説 §5–§21ポリティアと結合体の組織原理
とられた原理的な構想はどのようなものかを以下節を追って見てみよう。
第1節
・・
︶と呼んで
politeuma
いる︵ピリピの信徒への手紙第3章第 節︶
。それから、それは、国家を管理規制する考え︵ ratio administrandi
︶を示す。そのことを、使徒はポリテウマ︵
権利の共有︵ communicatio juris in Repub.
︶の中で述べているごとしである。すなわち、最初に、それは国家における
de tribus Reip. generibus
︶の言葉には三つの意味がある。プルタルクス︵ Plutarchus
︶が﹃国家の三つの
§5とくにポリティア︵ politia
・・
あり方﹄
︵
∗
︶を示す。最後に、それは、市民の活動のすべてが従わなければならない国家の秩序
& instituendi rempub.
20
164
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page165 2014/02/18 10:04
と組織を示す ︵ ordo & constitutio civitatis, ad quam omnes civium actiones diriguntur
︶
。この意味
と一致してアリストテレス﹃政治学﹄第3巻第4章第8巻第 章もポリティアの言語を認めている。
AP1614, I︵︹
4
︺︶は、 AP1603, I [4]
︵︹ §[4]–3
︺
︶と
§4–5
る。それがポリティアである。
て
でいうならば
AP1614
︺︶とで言及された社会的媒体
§[4]–4
以下で、そし
I [5]
︵
︹ §[4]–4
︺
︶と同様、 AP1614, I︵
︹
︺
︶にも、以下の叙述上
AP1610, I [4]
4 §4–5
I以
6 下で、具体的に社会的媒体を具体化するときに必要な組織原理が展開されている。し
︺
︶と
§[4]–3
§で
5 ポリティアを取り上げるか。アルトジウスが
§か
1ら
§ま
4 でに叙述したところから
の構成上特異な位置が与えられている。そうした理解に立つなら、 AP1614, I︵4︹ §4–5
︺︶
AP
︵
︹
たがって、 AP1603, I [4]
︶
32
§で
5 展開されるプルタルクの思想である。
プルタルクを理解するために、アルトジウスの引用する
を検討してみよ
Plutarchus, De tribus Reip. generibus
権利付与、第2に国家管理方法、第3に国家の秩序と組織である。そうすると、たしかにポリティアは多義的である。
家であ る。そして、アルトジウスは、プルタルクに沿ってポリティアを三つの意味で説明する。簡略にいえば、第1に
︵
そこで、プルタルク︹プルタルクス︺の考え方を探ってみよう。彼はギリシャ生まれ︵四六?︱一二〇?︶ の著作
ある考えは
が必要だと考えて、ポリティアの概念はそのような役割を果たしうると考えられたからであろう。その視点の中心に
必然的に導かれたものではなく、それとは別個に、 §で
4 いわれた共生体の組織化を目指すためには、全く独自な視点
では、なぜアルトジウスは
︵︹ §[4]–3
︺
︶では実質的に前提されていたに違いない。
の持つ内容は、 AP1603, I [4]
の視点を述べるという
でいうならば、
AP1603
︵︹
AP1610, I [4]
1. §は
5 、 §に
4 続く注である。したがって、 §で
4 述べられた﹁社会的媒体﹂を展開する上で何が必要かを論じてい
10
を統治組織を構想する際の総括的な視点としている。そうした視点の下に
∏
π
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
165
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page166 2014/02/18 10:04
︵
︶
ジウスの掲げた表題﹃国家の三つのあり方﹄
︵
︵
︶
︵
︵
︶
︶
︶といささか異なる。ところで、プルタルクの
de tribus Reip. generibus
である。明らかに、この表題はアルト
De unius in republica dominatione, populari statu, & paucorum imperio
34
36
︶
︶が
vita civitatis
︶といわれる。その権利は、どこか他の国と関係
communicatio iuris
︶。
︵もちろん、それは単にポリテイアということはできよう︶。メガラ
quod in aliqua est republica
︶な理由もまた権利の共有︵
civile
であろう。あるいは、そうしたものをなし得ないなら少なくともそのもっとも近いものを残りのうちより選ぶであろ
︶は、あらゆる統治形態の中から最良のものを選ぶ
最高のものを選ばなければならないように、政治家︵ civilis homo
過ごし方があるように、統治形態︵ reipublicae forma
︶に関しても同様である。すなわち、市民生活︵
︶
。
﹁人には思い描かれる様々な生活の
①﹁最良の統治形態はどのようなものか﹂
︵ quae reipublicae forma sit optima
その中身を見よう。プルタルクは、次のようにいう。
民身分、少数者の支配﹂となるであろう。
を引用しているから、筆者はラテン語文に注目したい。そうすると、そのタイトル訳は﹁国家における一人の支配、人
論文は元来ギリシャ語とラテン語で書かれている。なお、その英訳
と日本語訳
がある。アルトジウスはラテン語文献
35
それは
う。その関連文献として、ヤンセ ンはプルタルクの著作四点を掲記する。そのうち筆者の理解できたところでいえば、
33
︶
38
︶の秩序と組織もまたポリテイアと名付けられる。そのあり方と
civitas
して、三つのポリテイアすなわち統治形態がいわれる。すなわち、一人の支配である君主制、少数者の支配である寡
③﹁諸活動が従わなければならない国家︵
﹂。
する国家の誰かの活動もまたポリテイアといわれる
︵
の人々が、アレクサンダー大王のために市民︵ civitas
︶法を定めたといわれるのと同様である。﹂﹁公的なものを執行
するものである︵
②﹁国家的︵
。
う。﹂
︵
37
166
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page167 2014/02/18 10:04
︶
英訳者のフォウラーはラテン語の
2.この引用文を考えてみよう。
︵
︵
︶
に当るところを
respublica
頭制、人民の意のままに統治の全部を定める民主制
﹂。
39
︵
︶
すなわち
government
︵ πoλιτ εία
︶と呼ん
politeia
︶は、中世においてアリストテレスの﹃政治学﹄をラテン語に翻訳する際に、
﹁ politeia
を
Bruni
︵
︶
た
﹂
。それだから、今日アリストテレスの﹃政治学﹄を読むとき、アリストテレスの﹃政治学﹄の
と
AP1610, I [5]
AP1614, I で
5
といいしかも
politia
と訳し
res publica
︵
︶
︵ πoλιτ εία
︶
politeia
の単語も使用している
respublica
と訳されていることを知ることは重要に思える
。 この書はギリシャ語とラテン語の対訳であ る。
respublica
42
︶
44
織﹂と理解できる。
振り返ってみると、アルトジウスの
は﹁統治組
respublica
も三種類にポリティアを分けている。同じ三種類だが、内容上実質的には違
Plutarchus, De unius in republica
﹁国家における権利の共有﹂である。それに
§で
5 いうプルタルクの最初のポリティアは、
対して、 Plutarchus, De unius in republica
が﹁権利の共有﹂という意味で﹁権利の付与﹂を述べているのは二番目のポ
すなわち、アルトジウスの
いはないが、叙述の順序が異なる。
介した
§で
5 いうプルタルクはポリティアを三種類に分けている。そして、先に紹
。意味をとるとここでの
にはいろいろな種類があるとアリストテレスによって議論されている
︵
なのである。そして、
﹁国家体制/国制﹂
︵ポリーティアー︶は﹁国務遂行機関・政府﹂
︵ポリーテウマ︶であってそれ
ことは中世以来の伝統に立つことを示す。そうすると、アルトジウスの認識では﹁ポリティア﹂は﹁ポリーティアー﹂
したがって、アルトジウスが
は
43
ニ︵
でい る。そのために、 respublica
を﹁統治組織﹂と訳すことができる。ところですでによく知られているが、ブルー
40
∏
41
π
リテイアにおいてである。アルトジウスは例示としてピリピの信徒への手紙第3章第 節 ﹁わたしたちの本国は天に
20
・・
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
167
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page168 2014/02/18 10:04
あります﹂を掲げる。なお、
﹁本国﹂
︵新共同訳︶として日本語に訳されている箇所は
である。
πoλιτ ευμα = politeuma
これにはいろいろな訳がある。例えば、 KJV: conversation; NKJV: citizenship; NRSV: citizenship or commonwealth;
﹁国家を管理規制する考え﹂である。この﹁考え﹂は
§で
5 いうプルタルクの二番目のポリティアは、
Luther: Heimat; APCarney: citizenship; APJanssen: Bürgerrecht; APDemelemestre: gouvrnement.
アルトジウスの
である。この単語に﹁理性﹂の意味はあっても﹁権利付与﹂のような具体的な意味はない。次に、 Plutarchus, De
ratio
が﹁最良の国家統治形態の選択﹂をいうのは順序としては最初のポリテイアにおいてである。順序
unius in republica
を別とすれば、
﹁最良の国家統治形態﹂と﹁国家の管理規制﹂とは内容的には響き合うものをもっている。
﹁市民の活動のすべてが従わなけ
﹁最後に﹂アルトジウスは、 §で
5 いうプルタルクの三番目のポリティアとして、
︵
︶
ればならない国家の秩序と組織﹂をいい、そして、
﹁いま述べた︵ hic
︶意味と一致して﹂と断って、アリストテレス
45
︶
46
︶の秩序と組織﹂であって、統治形態としてもアリストテレスにな
civitatis
つの統治組織の考えから離れて自由に統治組織を構想でき、プルタルクの描いた﹁最良の国家統治形態﹂を展開しよ
形態の選択﹂という規範性を含んだ﹁国家を管理規制する考え﹂であろう。そうであれば、彼はアリストテレスの三
を論ずる際にどのタイプのポリティア概念に注目しているだろうか。それはおそらくプルタルクの﹁最良の国家統治
ては、アルトジウスはアリストテレスではなくプルタルクから学んでいる。そうすると、アルトジウスは社会的媒体
制、民主制という具体的な統治形態では共通性がある。そして、権利付与と最良の特化された統治形態の選択におい
3.こうしてアルトジウスとその引用するプルタルクスを比較してみると、アリストテレスにならた君主制、寡頭
。
らった君主制、寡頭制、民主制である
︵
も﹁諸活動が従わなければならない国家︵
が三番目に述べるところ
﹃政治学﹄第3巻第4章第8巻第 章を引用す る。そして、 Plutarchus, De unius in republica
10
168
――法 律 論 叢――
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――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
169
うとするところにアルトジウスの新奇さがある。
4.組織原理 統治組織を構想する上で、アルトジウスはポリティアの概念の多義性に注目したことがもっとも重
とが明らかになったからである。
とすれば、 §の
4 注に相当する
§以
6 下において組織原理を求めることはもっと難しいであろうから、組織
共に生きる者/共生者とは誰か
である。彼らは結合と合意の契約の絆によって、快適に過ごされるべき魂と肉体の生活に役立つところの固有
︹ §6–1
︺共生者︵ symbiotici
︶は、それゆえに、ここに、シュムボエトイ︵ συμβoηθ︶
︶
︺
o︹
ι 共働者︵ co-workers
§6
︶
。
のものを分かち合う︵ communico
︺そしてそれに反して︵ & vicissim
︶
、彼らは、コイノネトイ︵ κoινωνητ︶
︶
oίすなわち共同体︵ communio
§6–2
に参加する︵ participes
︶。
︵ ︶
以下﹂と﹁ & vicissim
§の
6 文章は、元来一つの文章である。しかし、意味内容を考えると、その文章は﹁ & vicissim
︶という。そして、
﹁
ンセンは共生者は﹁互いに助けあうもの﹂
︵ einander Helfende
以下﹂に関して、カー
& vicissim
以前﹂について見れば、カーネイ
は共生者は﹁共働者﹂であるという。ヤ
& vicissim
47
︹
第2節
原理としてポリティアの選択があるということを述べておきたい。
離れるというポリティアの選択がなければ
§に
5 何かの組織原理を求めることはしにくい。しかしながら、アリストテレスから
要であろう。なぜなら、アリストテレスの具体的な三つの統治組織とは別個に、
﹁最良の国家統治形態﹂はありうるこ
・・
以前﹂とで大きく分けられる。﹁
1.
・・
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170
︵ ︶
︶
生体に参加する・関与する側面を表現していると取る。
︵
と訳している。そし
participants or partners
︶とは何か﹂である。さて、 & vicissim
以前をなす
Lebensgenossen
︶と見る。彼らは、合意
symbiotici
quae ad animi & corporis
︶は、次のように訳される。
vitam commode degendam expedient, & vicissim κoιωνητ o ὶ, communionis sunt participes
によって互いに結合して相互にそれぞれのものを分かち合っている。
﹂そして、第2の文章︵
︶を生活の仲間 ︵
consociati
︶は、
Symbiotici igitur hic sunt συμβóηθo ι qui vinculo pacti conjuncti & consociati communicant de sui
彼によれば、 §の
6 全体のテーマは﹁生活の仲間︵
は、全体としては一つの文章である
ヴォルフは少し違う。すなわち、ヴォルフ
50
次のように訳される。
﹁私たちはすべての共生者たち︵
第1の文章︵
§を
6 二つの文章に分けて訳している。
をもっている﹂と訳している。このように、カーネイとヤンセンは、 §の
以下﹂をもって、共生者が共
6 ﹁ & vicissim
すなわち﹁それに進んで関与する目的
mit dem Ziel, daran Anteil zu nehmen und geben
を
participes
すなわち﹁言い換えると、彼らは共同生活
In other words, they are participants or partners in a common life.
︶
49
は該当の箇所を
て、ヤンセン
︵
への参与者であり仲間である﹂と訳している。ラテン語の
ネ イは
48
︶
、つねに共同体の構成員全体として立ち現れる。
﹂このヴォルフ
auch als Einzelne betrachtet
そうすると、ヴォルフとカーネイやヤンセンの間には意味の理解に違いがある訳でなく、長い
で
participes
§の
6 一文をどのよう
はないかと考える。そのために、
﹁生活の仲間﹂には益を受けるとともに益の実現に努める二つの側面がある。
的に参加する︵第2の文章︶
。したがって、かかる共生者の共同体形成の積極的な位置付けを示すものが
もに︵第1の文章︶
、もう一面で︵個人レベルで見られるとしても︶共同体の必要を自ら判断しその実現のために積極
によるなら、共生者は、一面で﹁合意﹂の結合による﹁生活の仲間﹂と結び付いてその持てるものを分かち合うとと
して見られるとしても︵
﹁彼ら︹生活の仲間︺は、政治的全体の精神的肉体的生活に何が属するかを配慮し、共同体の生活に関与し、個々人と
――法 律 論 叢――
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――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
171
︺ところで、ドムルメストルは、この
§6–2
に区切るかによる違いがあるというべきだろう。
2.︹
を
vicissim
すなわち﹁逆に、あべこべに﹂と訳す。たし
inversement
かに田中﹃羅和辞典﹄によると、①﹁交替に﹂の他に、②﹁反対に﹂
、③﹁他方、更にまた﹂の意味がある。国原﹃古典ラ
テン語辞典﹄にも、㋐﹁交互に、お互いに、かわるがわる﹂の他に、㋑﹁今度は逆に、他方では、それに反し﹂
、㋒﹁再び、
もう一度﹂という意味がある。①と㋐では対立点は見えなく、順接的なものの間での交替がありそうである。ところ
︵ ︶
が、②と㋑では交替するものの間に何らかの対立点を含むことが表わされているように見える。③と㋒では対立を超
51
︶
、逆に︵ umgekehrt
︶
、それに対して︵
dagegen
︶
、層を成して・重畳的に︵ umschichtig
︶
﹂
、 ﹁他方に於
wechselweise
えて順接が復活するように見える。筆者のこうした勝手な読み方を支持するように、 Langenscheidts Großwörterbuch
︶
、それに反対して︵
andrerseits
︶
、かわるがわる︵
は、 ﹁交替に︵ abwechselnd
て︵
︵ ︶
︶
﹂をいう。あ
hinwieder, wiederum
`
は﹁他方では、
Lewis and Short
52
︶と訳されている。そして、 & vicissim
以
Les symbiotes sont donc des convives [symboithi]
︶と訳されている。そうした二つの文章の間にあるのが & vicissim
である。そうすると、どうい
ceux qui y participant
下の第2文章﹁共同体の構成員は、共同体に参加する者たちである﹂
︵ les members de la communauté [koinonitoi] sont
のたちからできている﹂︵
以前の第1文章の主部は﹁共生物はそれゆえに共に生きているも
すなわち、ドムルメストルにあっては、 & vicissim
の目で見てみたい。
の以前と以下との間に対立する何かを見ているからである。こ
うである。というのは、ドムルメストルは、 & vicissim
そうすると、ドムルメストルはカーネイとヤンセンとヴォルフの理解の微妙なところを顕わに示しているといえそ
︶という。
on the other hand, on the contrary, again, in turn
るものの間で、 には﹁重畳的﹂なものがあり、 には﹁反﹂するものがある。また
_
反対に、再び、交替に﹂
︵
`
_
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page172 2014/02/18 10:04
う点で前者と以下は対立するものをもっているのだろうか。前者では﹁共に生きているもの﹂であることが強調され
る。したがって、共同体の構成員は﹁共に生きているもの﹂といわれるから、共同体を構成する要素としての構成員が
一体的にいわれる。以下では、共同体の構成員は﹁共同体に参加するもの﹂といわれるから、共同体の意思や活動を形
︶
︶
、 participes
の
inversement
︵
︶
︺︶。つまり、 participes
は﹁ 共に
§6–2
︶関係にあるものであ る。 そ う す る と 、
sharing, partaking, participant
をもとらえている︵︹
partners
︵
︶構成員の個別的な側面がいわれる。したがって、ドムルメス
成実現することに働くすなわち参加する︵ y participer
と
participants
﹁共に生きているもの﹂を表わしつつ︵
︹ §6–1
︺
︶
、それに対して︵
トルにあっては、 §は
6、
言葉によって、カーネイのように
53
は次のようである。
AP1603, I [5]
Politici igitur & socii hic sunt, qui vinculo pacti conjuncti & consociati, communicant quaedam de suis, & vicissim
AP1610, I ・
[6] AP1614, Iで
6は
と置き換えられている。 politici
symbiotici
によって二つの文章に分け
AP1614, I に
6 似ていて、 & vicissim
・ AP1614, I と
AP1610, I [6]
6 比較してみよう。
κoινωνητ oί, communionis sunt capaces.
3.
二つの側面を捉える訳が適切に思える。
なわち参加することを表している。こう考えると簡略になっていたヤンセンの訳も理解できる。そして、ヴォルフの
構成員は、その﹁共に生きているもの﹂の関係を抜きにしてはそもそもそのなにか自体が存在し得ないように働くす
生きているもの﹂となにかを分け合っている︵
54
という形容詞の複数主格の名詞化とするなら、その意味は﹁政治的な人々﹂であろう。したがって、 Politici
politicus
以前について見ると、 politici
は
& vicissim
以前と以下で分けて考えてみよう。
& vicissim
の文章の構造は、すでに述べた
AP1603, I [5]
これを
は
られる。ここでも
∏
172
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page173 2014/02/18 10:04
である。主語は﹁政治的な人々﹂ととる。そして、
capaces
︶
socii
とは、
﹁政治的な人々は、
igitur & socii hic sunt, qui vinculo pacti conjuncti & consociati, communicant quaedam de suis
したがって、ここでは、結合と合意の契約の絆によって自分たちの持っているもののいくらかを共有する仲間︵
であり補語は
sunt
である﹂
。そうすると、
﹁政治的な人々﹂とは、カーネイが述べたように、﹁共有する仲間﹂つまり共働者である。
以下を見ると、動詞は
& vicissim
とは同じ意味をもつものではない。前者︵
participes
︶
capaces
︶に適応でき
oὶすなわち共同体︵ communio
κoινωνητ︶
をとる。そうすると、 & vicissim κoινωνητ oί, communionis sunt capaces
κoινωνητo ί, communionis
と
capaces
る﹂ということである。
しかし、この
︶
、
﹁共生者﹂
︵ symbiotici
︶は
AP1603, I [5]
への変化にあ
participes
・ AP1614, I︶
﹁政治的な
AP1610, I [6]
6と文脈が変わったのである。この原因は、
︶への変化にあるというのではなく、 capaces
から
simbiotici
つまり﹁政治的人間﹂が使われていたし、
homo politicus
︺では、救いにかかわって共生と政治とは切り離せない関係にあったし、そも
§[4]–4
から
capaces
への変化の論点と同じように
participes
︵ homo politicus symbioticus
︶という表現があった位であるからである。﹁政
§に
3 おいて﹁政治的共生的な人間﹂
考えることはできないであろう。
においてそのもっとも基本的な思想を展開し、 §に
§1–4
5 おいて、基本的な思想に
︶から﹁共生者﹂
︵ simbiotici
︶への変化を
治的な人々﹂ (politici
そも
さらに、すでに述べたように、
︹
るというべきだろう。なぜなら、
﹁政治的な人々﹂の単数形の
︶から﹁共生者﹂
︵
人々﹂ (politici
共同体に﹁参加する﹂という話へ︵
れゆえに、この﹁政治的な人々﹂は共同体に﹁適応できる﹂という話から︵
は共同体に﹁適応できる﹂という能力があることをいい、後者︵ participes
︶は共同体に﹁参加する﹂ことをいう。そ
AP1610, I ・
[6] AP1614, I の
6
とは﹁そしてそれに反して、政治的な人々は、コイノネトイ︵
は属格の
capaces
π
4.組織原理 アルトジウスは
・・
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
173
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page174 2014/02/18 10:04
基づく共生体を組織し維持する手段として統治組織を捉えているから、その組織原理になるものを
§に
6 おいても述べ
ていると理解しなければならない。そうすると、それはヴォルフの捉えるところになるが、一つは、共生者は結合と
合意の契約によってその構成員相互が持てるものを共有するという共同体の構想である。二つ目は、その共同体を構
成する個々の構成員は共同体の必要とするものを見出し実現すべく参加する働きをなしうる構成員の参加の地位の肯
Otto von Gierke, Johannes Althusius und die Entwicklung der naturrechtlichen Staatstheorien, Zugleich ein Beitrag
zur Geschichte der Rechtssystematik (= GA), 6. unveränderte Ausgabe mit Vorwort von Jurius von Gierke, Scientia
定である。
注
︵
︶
︶
︵
︶
1
ヴォルフは、初版においてユダヤ人への理解を示し、また、神の民︵人民︶の宗教的な義務を担う﹁良き良心﹂によって﹁神
﹁一五五七︱一六三八年﹂を付記している。
て、ギールケはアルトジウスの肖像画の下段にその生涯を記したが、ヴォルフはそれにヨハネス・アルトジウスの名前と共に
年とするギールケ説を批判して一五六三年説を主張したが、ヴォルフはこれら諸版で一貫してギールケ説に立っている。そし
増補を続けた。ところで初版はフリードリヒの影響を強く示している。なお、フリードリヒはアルトジウスの生年を一五五七
な お 、同 書 は 、初 版 は 一 九 三
durchgearbeitete und ergänzte Auflage, J. C. Mohr (Paul Siebeck), Tübingen, 1963.
九年、第2版は一九四四 年、第3版は戦後の一九五一年、第4版は一九六三年に出版されている。このようにヴォルフは改訂
Erik Wolf, Grosse Rechtsdenker der deutschen Geistesgeschichte (= Wolf, Grosse Rechtsdenker), vierte,
Cambridge, Harvard University Press, 1932 (= APReprinted).
edition of 1603 and by 21 hitherto unpublished letters of the authorr, with an introduction by Carl Joachim Friedrich,
of Johannes Althusius (Althaus), Reprinted from the third edition of 1614, Augmented by the preface to the first
Carl J. Friedrich, Introductory remarks (= Friedrich-Introduction), in: Carl J. Friedrich, Politica methodice digesta
Verlag Aalen, 1968.オットー・フォン・ギールケ﹃ヨハネス・アルトジウス 自然法的国家論の展開及び法体系学説史研究﹄
笹川紀勝・本間信長・増田明彦訳、勁草書房、二〇一一年︵=ギールケ﹃アルトジウス﹄︶。
︵
2
3
174
――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page175 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
175
の恩寵に基く制度としての支配﹂を信じるアルトジウスはかかる﹁不正に行為する支配者﹂
﹁義務違反の支配者﹂
︵ Wolf, ibid.,
︶
、
﹁神の敵﹂である﹁専制君主﹂
︵ Ibid., 1944, S. 196; Ibid., 1951, S. 214
︶を殺害することを肯定している︵ Ibid.,
1939, S. 153
︶と主張している。そして、ヴォルフは、アルトジウスならクロムウエルのチャールズ︵ Karl
︶一世の処刑
1939, S. 153–154
︶、しかし、フランス革命のルイ︵ Ludwig
︶一六 世
を同様に受けとめただろうと理解しているが︵ Wolf, ibid., 1939, S. 154
の処刑をアルトジウスとはまったく違う思想に基く暴徒的フランス革命的な︵ Wolf, ibid., 1939, S. 154
︶、ルソー的フランス
︶、フランス革命的な︵ Ibid., 1951, S. 214; Ibid., 1963, S. 215
︶﹁いわゆる人民の代表者の空
Ibid., 1944, S. 196
革命的な︵
︶
、
﹁人民の偶像化﹂によるという︵ Ibid., 1951, S. 214; Ibid., 1963, S. 215
︶
。ヴォルフ
想的な権利請求﹂
︵ Ibid., 1944, S. 196
の第2版は一九四四年に出版されている︵その序文は一九四三年八月に書かれている︶が、国防軍将官と牧師ボンヘッファー
︶たちによるヒトラーの暗殺未遂事件が一九四四年七月二〇日に起きている。
︵ Bonhoeffer
Thomas O. Hüglin, Early Modern Concepts for a Late Modern World. Althusius on Community and Federalism.
︶
︵
︵
︵
︵
︵
︶
︶
︶
︶
ギールケ﹃アルトジウス﹄同上。
GA, ibid.
GA, S. 58–60.ギールケ﹃アルトジウス﹄六五、六六頁。
AP1614/Scientia, [Schema 1].
︶
ギールケ﹃アルトジウス﹄四二頁。アルトジウス がその思想を形づくる上で影響を受けたラムスにつ
GA,
ibid.,
S.
39.
いては次のものを参照
Frederick S. Carney, Translator’s Introduction, p. xii-xiv, in: Politica, Johannes Althusius,
、第 3 版 は
AP1610
で 示 し 、出 版 年 を と っ て 以 下 初 版 は
AP
︵
︶
Wolf, Quellenbuch, S. 102.
︶ アリストテレス﹃政治学﹄田中美知太郎・北嶋美雪・尼ケ崎徳一・松居正俊・津村寛二訳、中央公論新社、二〇〇九年、三︱
︵
︵
、第 2 版 は
AP1603
Waterloo, Ontario, 1999.
︶ アルトジウス﹃政治学﹄のラテン語版を
4
7
と表示する。
AP1614
︵
5
6
8
12 11 10 9
Friedrich-Introduction, p. xxix-xxx.
Edited and Translated, with an Introduction by Frederick S. Carney, Foreword by Daniel J. Elazar, Liberty Fund,
。
Indianapolis, 1995/1965/1964 (= APCarney)
An Abridged Translation of Politics Methodically Set Forth and Illustrated with Sacred and Profane Examples,
・・
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page176 2014/02/18 10:04
四頁。
・・
・・
・・
・・
︶ ︹術︺ 諸橋轍次﹃大漢和辞典﹄第 巻、大修館、一九七六年、一五三頁。
﹁学術技芸﹂の意味を含む。﹁学術﹂自体は中国に
・・
・・
﹃スタンダード仏和辞典﹄
、一一〇頁。
[art]鈴木信太郎外﹃スタンダード仏和辞典﹄大修館、一九六五/一九五七年︵=
槻鉄男外﹃クラウン仏和辞典﹄三省堂、一九八二年、七六頁。
︶
︵ ︶
[ars]田中秀央編﹃増訂改訂羅和辞典﹄、研究社、一九六六/一九五二年︵=田中﹃羅和辞典﹄︶、五三頁。 [ars]国原吉之助
﹃新英和大辞典﹄研究社、一九八二
﹃古典ラテン語辞典﹄大学書林、二〇〇五年︵=国原﹃古典ラテン語辞典﹄
︶
、五八頁。 [art]
木村謹治・相良守峯﹃独和辞典﹄博文館、一九四〇年︵=木村・相良﹃独和辞典﹄︶、七七六頁。
年、一一八頁。
[Kunst]
[art]大
︵
13
10
由来し﹁一定の学問を指していふ﹂︵同第3巻、八八八頁︶。︹術︺ ﹃大辞林﹄三省堂、二〇〇六年、一一九八頁。
・・
︶ この点でドムルメストルは明らかにフリードリヒとは異なる。ドムルメストルの該当の箇所は次のようである。﹁政治学は、
︶ ︹術︺ ﹃広辞苑﹄新村出編、第5版、岩波書店、一九九八年、一二八一頁。
人々を結びつける社会生活を人々の間に組織し、磨き︵
・・
︵
︵
︵
︵
︵
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︵ ︶
Mario Miegge, Communicatio mutua (Althusius und Calvin), in: APPolitisch-rechtliches Lexikon, S. 147ff.
︵ ︶
の訳として﹁社会、世間﹂ 田中﹃増補改訂羅和辞典﹄三六八頁、
﹁公共の場﹂ 国原﹃古典ラテン語辞典﹄四四八頁
media
がある。ところで、 medium
には﹁媒質﹂
︵田中、前掲︶の意味もあり、アルトジウスの使い方では﹁社会﹂
﹁世間﹂だけでは意
をいっているから
味を表現しにくい。というのは、彼はすでに﹁人間社会﹂を用語として使っていて、それと区別して media
を独自に使っているので﹁社会的
media
Wolf, Quellenbuch, a.a.O.
APCarney, p. 17.
APJanssen, S. 24.
Wolf, Quellenbuch, S. 112.
Corrad Malandrino, Symbiosis (Symbiotiké, Pactum), in: APPolitisch-rechtliches Lexikon, S. 341–342.
Friedrich-Introduction, p. lxvii.
︶ の語がない。
の訳には﹁科学﹂︵ science
︵
︶
、維持する術︵ art
︶である﹂
︵ APDemelemestre, p. 51
︶
。こ
cultiver
︵
・・
︵
︵
14
15
17 16
25 24 23 22 21 20 19 18
媒体﹂を訳語として考えた。
である。そこで、個人と個人を結び付けその上一定の組織性をも意味する用語として
・・
・・
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――法 律 論 叢――
明治大学 法律論叢 86 巻 6 号: 責了 tex/sasagawa-866.tex page177 2014/02/18 10:04
――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
177
︵
︵
︵
︵
︶
︶
︶
︶
Friedrich-Introduction, p. lxxi.
は﹁理性の光﹂と訳している。
APCarney, p. 17
Wolf, Grosse Rechtsdenker, 1939, S. 143.
“a war of all men against all men”, in: Thomas Hobbes, De cive or the Citizen, 1642, edited with an introduction
︵ ︶
John Locke, Two Treatises of Civil Government, 1690, Introduction by W. S. Carpenter, Everyman’s Library, 1970,
p. 118.ロック﹃市民政府論﹄鵜飼信成訳、岩波書店、一〇頁。
by Sterling P. Lamprecht, 1949, p. 29; The same, Leviathan, 1651, edited with an introduction by C. B. Macpherson,
ホッブズ﹃リヴァイサン︵国家論︶
﹄水田洋・田中浩訳、河出書房新社、
﹃世界の大思想﹄
Penguin Books, 1974/1968, p. 185.
9、一九七四年、八五頁。
29 28 27 26
︵
︵
︶
︶
Jean-Jacques Rousseau, Du Contrat Social, 1762, Chronologie et introduction par Pierre Burgelin, GarnierFrammarion, 1966, p. 41 et 50.ルソー﹃社会契約論﹄桑原武雄・前川貞次郎訳、岩波書店、一九六三/一九五四年、一五、
二八︱二九頁。
30
31
︵
︶
︶
︶
︶
Ibid.
Plutarchus, De unius in republica, p. 88.
二〇一一年、二九一頁。
︵
︶
2011﹄京都大学学術出版会、
X, 771E-854D with an English translation by Harold North Fowler, Heinemann/Harvard University, 1960 (= Fowler),
On monarchy, democracy, and oligarchy (Plutarch’s Moralia in fifteen volumes, The Loeb classical library, Volume
pars 2, 1572 (= Plutarchus, De unius in republica), p. 87–90, Universitätsbibliothek Basel, Digitalisat in e-rara.
De unius in republica dominatione, populari statu, & paucorum imperio, in: Plutarchi Chaeronensis Moralia [...],
APJanssen, S. LXIV-LXV.
・・
p. 305.
︶ ﹁独裁政治と民主政治と寡頭政治について﹂
﹃モラリア﹄9、伊藤輝夫訳、
﹃西洋古典叢書
︵
︵
︵
︵
[Plutarch]: The Oxford Dictionary of Philosophy, Simon Blackburn, Oxford University Press, 1996/1994, p. 291.
︹プルタルコス︺ ﹃岩波哲学・思想事典﹄岩波書店、一九九八年、一四一一頁。
32
34 33
35
36
38 37
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︵
︵
︶
︶
︶
﹁人民の意のままに統治の全部を定める﹂の原語は
Ibid., p. 88–89.
である。
quae penes populum summa[m] gubernationis ponit
Nicolai Rubinstein, Machiavelli and Frolentine republican experience, in: Gisela Bock, Quentin Skinner and
Maurizio Viroli, edited by, Machiavelli and Republicanism, Cambridge University Press, 1990, p. 4, note 11.
Aristoteles, Politica (1601), a Petro Ramo Latina Facta, in: Bayerische Staatsbibliothek digital, liber tertrius, p.
の﹁体制﹂。
1274b32
151.田中他訳の日本語訳では第3巻第1章
︶ ブルーニについては、各種あるが、筆者は
︶
Cf. Fowler, p. 304 : πoλιτ εία and p. 305: we must consider what is the best form of government.
︵
︵
︵
Politica Aristotelis a Leonardo Aretinoe greco in latinum traducta (1502),
を参照する。
in: Bayerische Staatsbibliothek digital, liber tertrius, p. [1]
︶ アリストテレス﹃政治学﹄田中美知太郎、北嶋美雪、尼ヶ崎徳一、松居正俊、津村寛二訳、中央公論社、二〇〇九年、七︱八、
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︶
︶
︶
︶
︶
︶ カーネイは、アルトジウスのいう﹁第 章﹂の問題の箇所を、誤植とはいわないで、 Aristotle, Politics, 1276b 17–1277b
︶
の記述にフリードリヒはとくに改訂を加えていない。そして、ヤンセンもそ
Aristoteles
lib.
3.
c.
4
,
lib.
8.
c.
10.
Polit.
︶
。しかしながら、アリストテレス﹃政治学﹄は第8巻第7章をもって終わっているか
の記述を認めている︵ APJanssen, S. 25
ら 、 第 8 巻 第 章なる箇所はアリストテレス﹃政治学﹄には存在しない。そうすると、アリストテレスの引用には誤植の可能
二五、三八︱四三、一五四︱一六三頁。なお、アリストテレス﹃政治学﹄山本光雄訳、岩波書店、一九七七/一九六一年も参照。
︵
︵
・・
39
41 40
42
43
44
性がある。
10
[vicissim]: Menge-Güthling, Langenscheidts Großwörterbuch Lateinisch-Deutsch mit Etimologie, Langenscheidt,
Wolf, Quellenbuch, S. 113.
APJanssen, S. 25.
Ibid.
APCarney, p. 19.
というように限定している。この限定によるなら、実際、アルトジウスの引
4; 1293a35–1294b41(APCarney, p. 18, note 7)
の三番目のポリテイアの内容とカーネイの内容とは一致する。すなわち、君主制、
用する Plutarchus, De unius in republica
寡頭制、民主制の三つである。
10
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46
51 50 49 48 47
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――法 律 論 叢――
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――アルトジウス『政治学』第1章とその主要点の研究(その1)――
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︵
︵
︵
︶
︶
︶
54 53 52
︵明治大学法学部元専任教授︶
[vicissim]: Lewis and Short, A Latin Dictionary, Oxford, 1966/1879(= Lewis and Short), p. 1987.
.
1977/1911(= Langenscheidts Großwörterbuch), S. 799
[particeps]: Lewis and Short, p. 1308.
も同旨。
[particeps]: Langenscheidts Großwörterbuch, S. 542
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