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タンデム政権とロシアの政治文化 - ASKA
愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 67 タンデム政権とロシアの政治文化 皆 川 修 吾 メドベージェフ新大統領が、2008年5月7日、就任した。同日、新大統領は、プーチン前 大統領を首相候補として下院に提案し、翌8日下院はこれを承認した(賛成392、反対56)。1 これでタンデム政権(双頭統治)が誕生したのであるが、はたしてこの政権は安定した指 導体制になるのかどうかが課題となる。 ロシア国家の最高指導者の交代劇に接し、誰しも、メドベージェフとは誰か、なぜ新旧大 統領によるタンデム政権になったか、実際に機能するのかどうか、そして政策に変化は生じ るのかなど単純な疑問がおこるであろう。本稿では、タンデム政権の権力構造を政治文化の 視点から分析し、政権の特徴をみることにする。 疑似議院内閣制的大統領制を敷くロシアで、国民から絶大な支持率を8年間とり続けたプ ーチン前大統領が首相の座に納まることに、国民一般は、プーチンが院政を敷き、影武者的 存在に留まることを想定するであろう。ロシアの大統領制は、フランスの半大統領制と異な り、制度上、権力の共有を基礎として機能しないことになっている。ロシアの議会(ドゥー マ)で多数を制した与党が首班指名で首相を選出することはできないが、フランスではそれ ができる議院内閣制を採っている。ただし、後者では、大統領の支持政党と議会の与党が異 なる場合があり、二元的な編成の分割政府となることもある。二元的な権威構造は分割され た行政府によって対峙的になるが、二頭制が柔軟な場合、均衡を通じて機能することもあり うる。2本稿での「タンデム政権」は、ここでの二元的権威構造が対峙的なものではなく、 構造的に二人三脚となっており、いずれか一方が欠けたら機能不全に陥ることを想定してい る。 1.経歴やプロフィールが意味するもの 1965年9月14日レニングラード市生まれというから、執行権のある大統領としては、42 歳という国際的に見ても異例の若さ、父親はレニングラード工業大学教授、母親は文学部卒 で知的エリートの息子、そして彼の出身校はレニングラード大学法学部、同大学院修了、メ ドベージェフの学歴や家庭環境をして彼を現代的、自由主義的、プラグマティストにしたと もいえる。 大学時代の恩師はプーチンと同じ民主化の旗手ソプチャク教授(後のサンクトペテルブル ク市長)であった。っまり、メドベージェフは、プーチンと同郷、同窓、しかもソプチャク 人脈の一員であった。1989年のソ連人民代議員選挙では候補者ソプチャクの選対本部に参加 1『ロシア政策動向』、27巻、13号、No. 576,9頁 2ジョバンニ・サルトーリ、『比較政治学』、早大出版、2000年、140頁 68 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 し、代議員当選に貢献した。翌1990年、ソプチャクがレニングラード市ソビエト議長(91 年6月からサンクトペテルブルグ市長)になったとき、メドベージェフは、プーチン同様、 議長補佐官団に加わった。プーチンが同市対外関係委員会委員長の時、メドベージェフは同 委員会専門官として起用され、1995年頃、同委員会による非鉄金属輸出ライセンス交付をめ ぐるスキャンダルが発生したとき、メドベージェフが積極的に対応にあたり、プーチンの信 頼を得たといわれている。3 1996年、サンクトペテルブルグ市長選挙でソプチャクが敗北した後、母校で教鞭(民法、 ローマ法)を執る傍ら、民間会社の法律顧問などを務めた。1999年11月、プーチン内閣当 時、政府官房副長官として起用される。1999年12月、プーチンがエリツィンによって首相 兼大統領代理に任命されると、メドベージェフは大統領府副長官に起用される。2000年3月 の大統領選挙でプーチン候補の選対本部長を務め、勝利に大きく貢献したといわれている。4 2000年6月大統領府第1副長官、2003年10月大統領府長官、2005年11月フラトコフ内閣 では第1副首相に任命され、優先国家プロジェクト(住宅、保険、教育、農業)を管掌し、 そして2007年9月ズプコフ内閣でも第1副首相に就き、同プロジェクトを引き続き管掌した。 プーチン体制の最も忠実、しかも有能な行政官であったことを印象づけている。2000年6月 「ガスプロム」社取締役会会長を務め、2001年副議長、2002年6月再度会長を務めた。その 間、ガスプロム社株自由化に向けた作業部会で活躍するなど、ガスプロムを国策会社として の再建に貢献した。彼の博士候補(Kandidat)論文テーマが「国営企業の民間権利主体性実 現に関わる諸問題」であったこともあり、この研究が「ガスプロム」社の位置付けに寄与し たともいえる。 2003年11月法執行機関がユコス株を差し押さえた時のメドベージェフの発言、5または 2006年7月スルコフ大統領府副長官が「主権民主主義」を唱えた時の彼の発言には、6温 厚で物静かな性格が感じ取れる反面、執行機関の綿密周到さ、責任感、慎重さの重要性にも 触れている。プーチンと異なり、メドベージェフの経歴にシロビキ(力の省庁関係者)との 関係は見あたらない。しかし、彼自身はそれに属さなくても、これまで政治権力機構での体 験を通して、シロビキの行動様式は十分理解していると思われる。当初、メドベージェフ自 身の人脈らしきものはなかったが、プーチン政権下で権力中枢の場にいる間、彼と近かった 多くの同郷・同窓・旧知の者が主に法執行機関に登用され、メドベージェフ人脈なるものが できつつある。7 「メドベージェフ氏とは17年余りの知己であり、同氏と緊密に、実り多い仕事をしてきた」 とプーチンが機会あるごとに述べているように、8職業上補完関係の中でこれまで相互に信 頼し、指導体制を共に強化してきたといえる。 3http://www. lenta. ru, 2008/3/6 4http://www. lenta. ru, 2008/3/6 5『インタファクス通信』、2003/11/3 6『エクスペルト』、No、28(522),2006/7/24 7『ロシア政策動向』、平成20年、27巻、11号、No.574,5頁一6頁) 8『ロシア政策動向』、平成20年、27巻、1号、No.564,17頁 タンデム政権とロシアの政治文化69 図表1:プーチン前大統領略歴 (ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン) 出生 1952年10月7日レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれ。 学歴 1975年レニングラード国立大学法学部卒。 1992年博士候補(Kandidat).論文「ロシアの資源戦略」執筆にメドベージェフ貢献. 本論文がプーチン政権のエネルギー輸出戦略に反映 職歴 大卒後,KGB入省、1985−1990年KGB東ドイツ代表部赴任 1990年冷戦終結後、レニングラード国立大学国際関係担当主任補佐 その後,レニングラード市議会議長補佐官に任命 1991年6月サンクトペテルブルク市対外関係委員会議長, 1994年からは同市行政府第1副市長を兼任 1996年8月ロシア連邦大統領府総務局次長 1997年3月大統領府副長官に就任 1998年5月大統領府第1副長官に昇任 1998年7月連邦保安局(FSB=KGBの後継機関)長官に就任 1999年3月安全保障評議会書記を兼任 1999年8月ロシア連邦首相に就任 1999年12月31日エリツィン大統領辞任を受けて大統領代行に就任 2000年3月26日ロシア連邦大統領に選出。同年5月7日就任式を挙行 2004年3.月14日ロシア連邦大統領に再選(2期目) ※ロシア連邦憲法上2008年3月満了。 2008年5月,ロシア連邦政府首相に就任 ※ドイツ語に堪能。英語も解する。趣味は柔道(黒帯) 図表2:メドベージェフ大統領の略歴 (ドミトリー・アナトリエヴィッチ・メドヴェージェフ) 出生:1965年9月14レニングラード市生まれ。父親はレニングラード大学教授 家族:1989年結婚(妻は小中学校時代の同級生)、息子1人 学歴:1987年レニングラード国立大学法学部を卒業し、同大学院に進学 1990年専門の私法分野で博士候補(Kandidat) 職歴:1990年ソプチャク・レニングラード市ソビエト議長顧問 1991−99年サンクトペテルブルグ大学(旧レニングラード大学)法学部非常勤講師 1991−95年サンクトペテルブルク市対外関係委員会法律専門官(委員長プーチン) 1999年11月ロシア連邦政府官房次長 1999年12月ロシア連邦大統領府副長官 2000年3月ロシア連邦大統領選でプーチン大統領候補の選対本部長 2000年6月ロシア連邦大統領府第一副長官 2000年6.月 「ガスプロム」取締役会議長、01年副議長、02年6月再度議長(会長) 2003年10月ロシア連邦大統領府長官 :2005年11月ロシア連邦政府第一副首相(フラトコフ内閣) 2007年12月10日プーチンの後継大統領候補に指名 2007年12月11日(メドヴェージェフ体制での)首相就任をプーチンに提案 2008年3月2日大統領選に当選 2.大統領選当選の理由 2008年3月2日行われた大統領選で、メドベージェフ候補(当時、第1副首相)が圧勝し た(得票率70. 28%)。これよりわずか8ヶ月前(2007年7月)のアンケート調査で、 「今大 統領選があったら、あなたは誰に投票しますか」の問いに、プーチンが54%、そしてメドベ 70 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 一ジェフがわずか4%であった。9ところが、2007年12月10日、プーチン大統領がメドベ ージェフを後継指名し、翌11日、メドベージェフ第1副首相は、彼が大統領に当選した場合、 プーチンを首相に指名する考えを表明した。先の下院選で大勝した与党「統一ロシア」は同 月17日の党大会でメドベージェフを大統領選に党候補として正式に決定し、圧勝の流れをつ くった。次期政権が、大統領と与党支配の議会に支えられた内閣となり、 「プーチン路線」 の継承を保障し、それまでプーチン大統領へ7割を超える支持率が大統領選でそのままメド ベージェフ候補への得票率となった。国民のプーチン体制への継続願望は、国民の政治社会 体制への安定指向を表していたといえる。この「プーチン路線」への支持は、国民からだけ でなく、国内の地方政治エリートからも広く支持されていた。その背景には、2004年に当時 のプーチン大統領が導入した連邦構成主体知事の大統領による任命制がある。プーチン大統 領から後継指名をうけて選挙に立候補したメドベージェフは、地方政治エリートにとって 「プーチン路線」の継承であり、大統領選挙でのメドベージェフの勝利はほぼ約束されてい たも同然であった。 3.ロシア政治の権力構造 メドベージェフ政権の権力構造の中核は、大統領、議会、内閣であり、それぞれのリーダ ー間の力関係であり、これら権力機関の行動パターンである。 1)与党支配の議会 国民代表の議員が法律を作って政策を決め、執行機関である政府を監視するのが民主政の 統治原則である。1993年12月制定のロシア憲法は執行権を有する大統領制を採用している とはいえ、基本的にはこの原則に沿って制定されたものである。 ロシア連邦議会は憲法上正統制を付与する最終的な機関となっており、それを背景にして、 法案および改憲発議、監督、代表、統合、争点明示、政治教育、利益表出・集約、司法・行政 人事などの機能が与えられている。しかし、多くの近代国家の例を見ると、これらの機能を 議会自体が独自に果たしているというよりも、(とくに日本のように議院内閣制を採ってい るような国では)その「場」を提供しているといってよい。憲法上の権限では法案審議など の場合、下院の優越性が保障されており(憲法第105条)、上院は憲法上象徴的な正統制付与 機関の色彩が濃い。政府・大統領府にとって上院も政治的価値があると思われる点は、下院 はさまざまな政治勢力の色分けがはっきりしているため政治活動が困難になること、つぎに 上院には極端な立場の違いはなく、多民族国家ロシアの統一と保全の強化に関わる国家的な 重要な諸問題は上院で決定されるなど下院との立法機能分化があげられる。 上院は、憲法第95条第2項に基づき、89の連邦構成主体から2名ずつ(当初は、行政長 官と議会議長)、計178名で構成されるとし、下院は、同条第3項に基づき、450人の議員に よって構成されるとしている。当初は、450人のうち、半分(225人)は比例代表区からの選 出議員であり、あとの半分は小選挙区からの選出議員であった。 新憲法が制定(1993年12月)されて以来、下院選挙がある度に政治勢力の再編がみられ、 9−,Fond“Obshchestvennoe mmeniθ”ロシア国内世論調査 タンデム政権とロシアの政治文化 71 政治ゲームのルールが塗り替えられてきた。下院議員構成で最大の関心事は政党別および院 内会派別の勢力図である。しかしながら、永続性のある政権与党「統一ロシア」が誕生した のは、下院第3期(1999年12月)の選挙以降である。つまり、引退を決意したエリツィン 大統領によってプーチンが大統領代理に任命されたとき以来である。それまで、各期ごとに 政権与党の名称と構成内容が異なっていた:第1期(1994/1−1995/12)は「ロシアの選択」、 第2期(1996/1−1999/12)は「我が家ロシア」。1999年12月の下院選挙でさえも、政権与党 は、比例代表区と小選挙区あわせ絶対数で下院第1政党は「ロシア連邦共産党」(20%)であ り、「統一ロシア」(18%)ではなかった。与党が絶対数で第1政党になったのは、第4期 (2004/1−2008/12)の下院選挙以降である。 表1と表2を比較してみれば分かるように、下院選挙の仕組みの変化により、政党別勢力 図がより鮮明なものになったといえる。表1の時点(2003年12月)でも、比例区で5%条項 があったため、それを突破できた政党ならびにブロックの数はわずか4っにとどまったが、 小選挙区では、そのような制限がないため、結果的には、下院で院内会派が乱立し、議会内 政治過程はより複雑なものになっていた。表2の時点(2007年12月)では、比例区のみの 選挙区となり、さらに得票率7%条項が導入され、前よりも敷居が高くなったため、少数政 党は完全に閉め出された。2007年12月2日の下院選で、プーチン大統領が比例名簿筆頭の 「統一ロシア」が圧勝、これに第2与党「公正ロシア」や政権よりの「ロシア自民党」など を加えると、親政権派で393議席(87%)を占め、実質的な「翼賛議会」が成立し、これに より、与党は憲法改正や大統領弾劾が可能となった(表3参照)。 表1: 2003年12月下院選挙結果 ← 吼 蝋…彩. 丁シ丁 一 シ 」パ脇〔嬉 ポ ・〔T’・” 豊∈ @< ぷ ・▼注 “^ン1 小選挙区合計識席 比例区 選挙団体・ブロック名 得票率(%) 、㍉← @ P ・’・聯 管イフ_. ヨ x @式 ’七 …蘂 丁… 「 允 、 J ル灘鐡難 }” _鱈 ジ ・ 丑 滑 ’ @、梵 @ さ一5菱 雛容、、 сuロコ 右派勢力同盟 農業党 4.37 0 4.04 3.7 ?ヤ㍉、 4 0 3 3 0 3 3 0 3 3 1.2 0 17 17 「新路線一自動車ロシァ」 α84 0 1 1 企業発展党 0.35 0 1 1 67 67 3 3 222 447 ロシア復興・生活党 1.91 人民党 無所属 一 一 不成立 一 一 識員総数 一 225 (注1)議席獲得政党・ブロックのみ掲載 (注2)「」標記は選挙ブロック,他は政党を示す (注3)網かけ部分は,596条項を突破した政党及び選挙ブロック (注4)得票率は,比例区のみ 72 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 表2:2007年12月下院選挙結果 (注1)小選挙区制を廃止し、比例代表制のみを採用 (注2)得票率7%を超えた政党のみ接席獲得 (注3)識席獲得政党のみ掲載 表3:メドベージェフ政権の権力構造 首相指名 分の二の議員投 で発議 認 大統領弾劾 承 憲法改正 僚人事提案 内閣解散権 僚 議 政府:首相(与党党首) 議会:プーチン与党が三分 議会に対し主導権 の二以上の議席確保 2)大統領・首相の憲法上の権限 憲法上はロシア連邦議会が唯一のロシア連邦立法機関となっている(ロシア憲法第94条) が、現実にはその他2つの機関が立法機能を果たしている。ロシア政府の立法活動は、他の 西側政府同様委任立法的なものとして、理解できる。ロシア政府は、「連邦の法律及び規範的 な性格をもつロシア大統領令に基づき」(ロシア憲法第115条第1項)、決定および処分を発 するとあるように、立法府が制定した法律と同等の法的効力を大統領令に与えている。勿論 アメリカやフランスでも国家意思の決定権を議会と大統領が分有する大統領制を布いている が、両国とも終局的には、議会の意思が優越する制度を備えている。新憲法のもとで、大統 領令の公布は憲法及び法律によって定められた権限の範囲内でという趣旨の限定が付いてい るとはいえ(第90条)、大統領は下院を解散して「首相」を任命できる(下院は同意権のみ)(第 111条)、などして前ロシア憲法より大統領権限が強化されている。もともと社会の安定と強 制的改革執行が目的で一時的な緊急策として行使していた立法機能であったものが、国法が 法典化されるまで一時的に補うのが大統領令であるとしてエリツィン時代はとくに正当化さ タンデム政権とロシアの政治文化 73 れていた。現憲法下では、議会選挙が政権交代の機能を議会に付与していないが、国法を法 典化する過程で、政権与党が下院で多数を制することが政府にとって必要条件となっている。 エリツィン政権時、野党共産党が議会で最大政党であったとき、大統領令を乱発レ、その場 を凌いでいたといえる。政権与党「統一ロシア」が多数を制している現在でも大統領令の公 布はしているが、体制移行期のような大統領令を乱発する必要性はなくなっている。 この二層の立法構造とともに、権力構造をより複雑なものにしているのは、執行機関間で 分野別の棲み分けを行っており、非公式には2つの政府が存在していることである。『大統領 の政府』は国防、内務、保安、諜報、防諜、情報、外交などの省・局を「大統領に所属する 機関」と指定しており、そのほか民族問題も大統領の専管としている。『首相の政府』は国家 経済・通商・金融・福祉関連事項を専管としている。 現憲法下では、ロシアは大統領制国家となっている。大統領はいつでも下院を解散できる (ただし、下院選後1年間は解散不可能。憲法第109条)。下院選挙で多数を制した政党が内 閣を組織する議院内閣制を採っていない。憲法上大統領に執行権が集中している限り、そし て大統領選で大統領が交代しない限り、下院選挙結果が直接政権交代につながることはあり 得ない。政権交代というベクトルが存在しない下院選挙をどのようにとらえていくかは、指 導体制のありかたにより、とらえ方は異なってくる。現憲法下でこれまで政権与党の党首が 必ずしも首相に指名されたわけでなく、閣僚人事も必ずしも政権与党会派から任用されてい たわけではない。大統領は意のままに首相を指名・解任でき、しかも内閣を解散できること になっている。首相にとっても、任期の規定や選挙の洗礼はない。 問題は、ロシア憲法第114条が、対外政策の優先事項の特定や国防・人事政策に関する権 限を首相にも与えていることである。しかしながら、プーチンは大統領時代これらの権限を 独占していたといえる。大統領・大統領府の職権は、憲法上明記されておらず、どこまでも 拡大・縮小可能となっている。これまで、主要プレイヤー間での非公式の合意を基盤として、 職権が定着してきたともいえる。 表3で示しているように、現憲法下で下院は3分の2の賛成で大統領を解任できる。大統 領は首相を指名・解任できるが、下院の承認が必要である。2008年4月15日の「統一ロシ ア」党大会で、プーチンは(党員になることなく)党首就任要請に同意した。10プーチン は、党首として党をコントロールし、首相として内閣を編成できるが、党が党員でないプー チンをコントロールすることができない変則的な形となった。これで、下院の絶対多数に支 えられた首相は、原則的には、議会でいっでも大統領に弾劾をつきつけることが可能となっ た。 今後、これまでの慣行にしたがうのか、それとも、より開かれた手続きで権限の再配分を 行い、大統領・議会制国家に移行していくのか、政治文化の行方を注視していく必要がある。 4.プーチン体制が遺した業績1政治的資源 2000年3月に行われた大統領選で、改革の夢から改革の実現へ導く指導者というイメージ を国民に植え付け当選したプーチン大統領の優先課題は、国家の権威の復活、貧困の克服、 lo @Rossゴゴskaia gaze t ta,2008/4/16 74 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 秩序ある市場経済化、国益に従う対外政策であった。ペレストロイカ以降続けてきた改革政 策への教訓は諸外国の経験(先進諸国のシステム)の機械的な導入は成功に繋がらないとい うこと、そして市場経済・民主主義の諸原則をロシアの現実と有機的に結合させることであ った。「強い国家」の再建なくして効果的な政治的リーダーシップをとることは不可能との考 えがその背景にあった。「強い国家」とは「ロシア自身の力を拠り所とし」、「強い、自分に対 して自信を持つ国」を意味していた。11プーチンは「強い国家」建設のため、内政、経済、 外交すべての環境整備を進め、グローバル化が進む中で、G8において対等な発言力を持っ て、国際政治経済に参画できる国に成長させた。 1)行政改革:垂直機構 プーチンは2000年5月大統領に就任するやいなや地方代表 らで構成する上院の抜本改組と新たな垂直的統治機構の連邦構成主体(当時89、2008年10 月現在83)を7つの連邦管区に分け、それぞれに大統領全権代表を置き、さらに連邦構成主 体首長の事実上の大統領任命制を敷き、国家機関の活動の効率化を図り地方に対する中央の 統制システムを導入し、それによって議会外の政治勢力を中性化した。ロシア国家再建への 統治機構合理化に向けて議会改組と垂直的統治機構が整備されたが、2004年の行政改革案 (副首相1人に限定、そして省庁局からなる3段体制機構に改編)は2008年の時点では失敗 したといえる。 2)政治経済の回復 エリツィン時代のロシア経済はGDPの約半分がヤミ経済であり、 法律や金融システムの不整備の下で新興財閥勢力による利権の奪い合い、官僚の腐敗、犯罪・ 汚職の蔓延、いわば「略奪資本主義国家」となった。エリツィンの政治の進め方が公式のル ールや法律を無視し、個人的な取引や秘密の取引を好んだ結果、政治エリート達は国を私物 化することができた。このエリツィン政治を改め法治体制をまがりなりにも整備してきたの がプーチンである。 1998年の通貨危機以降の原油高とルーブル下落効果により、国家予算は、2000年次予算で は均衡財政に、そして2002年次以降若干の黒字予算を計上しており、今後10年間で国内生 産を倍増する目標を立てている。2007年次のGDP成長率は8.1%となった。外貨獲得はエネル ギー輸出に依存(輸出総額の66%)とはいえ、外貨準備高は世界第3位、2008年3月現在5, 070 億ドルとなり、また証券市場時価総額1兆3300億ドルとなった。10年前までは考えられな かった国民の教育福祉向上策を採れるまでに財政が潤沢となった。民営化とは逆行した形で、 エネルギー部門およびそれ以外の戦略企業の国家管理が強化された代償は否めないが、2008 年2月8日、過去の任期8年で政策的課題すべてを達成したとプーチンは言明した(国家評 議会拡大会議でのプーチン大統領演説)。12ただし、2008年次予測のGDP7%代は1991年 次の7%のスタートラインに戻ったということであり、インフレ抑制、年金の水準、汚職取 り締まりは未だ課題のままになっていることも認めた。 3)「新外交概念」の推進。 それは、核軍縮などの全人類的な価値体系を敷術させる ため、ロシアの国益を害さない形で、国際社会でリーダーシップをとることであった。イラ ll 12 wロシア政策動向』 27巻、1号、 No.564,1頁 wロシア政策動向』 27巻、4号、No.567,2頁一8頁 タンデム政権とロシアの政治文化 75 ク紛争時も国連主導の積極的な外交姿勢を示し国際社会でのロシアの存在感をアピールした。 他方、2001年9月11日以降国際テロ撲滅作戦で、米国ともこれまでにない協調姿勢をみせ、 ロシア連邦制のアキレス腱、チェチェン民族問題をテロ活動にすり替え、難局を切り抜けよ うとしている。利害関係が一致する中ロは、戦略的パートナーシップ協定を結び、両国間の 領土問題を解決し、さらに上海協力機構を通じ、北東アジアでの米国の一極覇権主義に対抗 している。又、米国の東欧でのMD(弾道ミサイル防衛)基地計画にロシアが反発し、米ロ関 係が一時期より冷却化している。ただし、ロシアは現在対旧ソ連諸国外交の重視、NATOとの 新たな関係模索、EUとの関係強化、経済外交重視(WTO早期加盟)、インドや日本とのパート ナーシップを目標としている。 2期8年にわたるプーチン大統領の業績は、ロシア国家の安定の礎となる構造を遺したと もいえるし、視点をかえてみれば、統治の過程で、国家権力はプーチンという大統領に集中 し、それに対する国民の絶大なる支持があったことを意味する。これら政治的資源が、二人 の指導者の職責の立場が入れ替わることにより、二人三脚体制を維持していく上で肯定的な ものになりうるかが課題となっている。 5.メドベージェフ新体制 メドベージェフは大統領就任式で、法の支配・人権・自由経済の重視・国民の生活水準改 善を政策目標に掲げ、最後に、プーチン個人にこれまでの揺るぎない支援に感謝し、今後も そうあることを確信していると、彼のスピーチを括っている。メドベージェフが大統領に就 任した翌日(2008/5/8)、メドベージェフはプーチンを新首相に任命し、同日の下院臨時会議 でこれが承認された(賛成392・反対56)。13即日、プーチンは政府活動綱領演説を行った。14 内容は、2008年2月の国家評議会ですでに報告した「ロシア発展の主要な優先事項」と大差 なく、大枠は下記の内容となっている。 ・資源収入の再配分 (惰性戦略) ・国営企業に資源を集中 (総動員戦略) ・ロシアの近代化戦略(社会・制度・経済の改革) 1)中産階級の育成・汚職との戦い 2)ロシア経済のイノベーション(技術革新・先端技術) 3)司法改革・汚職との戦い 4)中小企業支援・経済の多様化 5)大規模なインフラ整備(鉄道、道路、パイプライン) ・外交政策:米国の一極覇権主義を牽制しっつ、国益を害さない形で国際協調 当面の課題:ミサイル防衛計画とNATO拡大問題(とくにグルジアとウクライナ) プーチン前政権が実現した国内の安定と秩序を背景にして、自信回復とナショナリズムの 13 wロシア政策動向』第27巻、第13号、No. 576,14頁 14ロシア政府公式サイト、2008/5/8、一 76 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 高揚、「大国ロシア1復活の志向が見られる中で、タンデム政権は、市場原理をさらに機能さ せ、ロシア経済をよりグローバル化させ、緊張関係を回避する対外関係を構築していく可能 性(余裕)ができつつある。ペレストロイカ以降、ロシアの対外政策は、地政学的にも重要 であった欧米に軸足をおいていたが、世界経済の牽引役となりつつある東アジア諸国との協 力関係は、ロシア極東地域の発展にとって無視できなくなったと認識している。2008年11 月22日のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議に出席したメドベージェフ大統 領は、麻生首相に最大の懸案である北方領土問題について「解決を次世代に委ねることは考 えていない」と述べ、早期解決に強い意欲を表明し、両首脳は、領土問題の進展には政治決 断が不可欠との認識で一致した。15両国の国益が複雑にからみあった懸案だけに、早期解 決にはよほどの政治力を必要としているが、タンデム政権下、前向きの姿勢を示した初めて の案件である。 プーチン首相は国際金融の流動性危機やインフレ、そして貧富の格差に対処する厳しい経 済運営や、石油・金融機関などの一部を利権としておさえている汚職の元凶一掃を迫られ、 同時に石油収入で蓄積された「安定化基金」などを使って社会基盤(道路、住宅、鉄道、病 院、学校などのインフラ)整備に動くと考えられる。 原油価格に脆弱な財政構造からの脱却を目的に、石油収入を財源とするロシア政府の基金 で安定化基金16が2004年1月創設された。この安定化基金が再編され、2008年2月1日から 2分割された。基金の一方、「準備基金」(3兆690億ループル=約1270億ドル)は従来どお り対外債務支払いや予算不足の補填をする基金であり、他方、「国民福祉年金(7800億ルー ブル=約320億ドル)は年金課題の解決などがこの基金の使途となっている。2008年度から、 石油収入に加え、ガス収入も2基金に蓄えられる。「安定化基金」再編の意図は国民に資源収 入をより明示的に社会保障に還元することを保障したものといえる。しかし、2008年後半、 米国のサブプライムローン問題に端を発したグローバルな金融危機にロシアも見舞われ、同 時に石油価格の低下により、順調に伸びていたロシア経済が一挙に減速した。ついにプーチ ン首相は安定化基金を財政赤字の穴埋めに利用する決定をした。17 制度改革 1)政府幹部会の活性化 プーチン首相は、2008年5Al5日の初閣議で、カシヤノブ内閣時代以降形骸化していた 政府幹部会を復活させた。政府幹部会は、7人の副首相、保健・社会発展相、農相、地域発 展相、外相、経済発展相、内相、国防省、そして首相の15人構成となっている。政府会議の 機動的な運営を図るのが目的で閣僚全員参加型会議は月1回だけとして、政府幹部会を週1 回開催することになった。18 これまで大統領直轄省の閣僚となっていた外相、内相、国防 相らがこのインナー・キャビネットともとれる会議に、毎週少なくとも1回(月曜日に)招 15 16 i共同通信、2008/11/23) エ油価格が政府の設定する基準価格(1バレル27米ドル)を超えた場合に原油輸出税および天然資源 採掘税の一部を財源とする。 17 w日本経済新聞』、2008/ll/20 18 wロシア政策動向』第27巻、第13号、No.576、11頁 タンデム政権とロシアの政治文化 77 集されるということは、ロシア憲法第114条の運用を実践することを表明したことになる。 トップレベルの職権や権限の再配分は、関係省庁内、又は省庁間に不和と動揺の時期をもた らすので、組織的空白をかかえたまま制度が機能するまで、時間を要するであろう。 2)憲法改正案 メドベージェフ大統領は、2008年11月5日の年次教書演説で大統領の任期を現在の4年 から6年に、そして下院議員の任期を4年から5年に延長することを提案し、6日後の同月 11日、大統領および下院議員の任期延長に関する憲法改正案を下院に提出した。憲法改正に は下院の3分の2以上、上院の4分の3以上、州や共和国など連邦構成主体の議会の3分の 2以上の承認と大統領署名が必要だが、プーチン首相率いる与党勢力はいずれも上回ってい たため、憲法改正案は2008年11月中に両院で承認され、12月31日発効した。19民主化、 経済改革を進めるには「その柱を強めなければならない」と述べ、任期延長の理由をメドベ ージェフ大統領は説明したが、20プーチン首相も、大統領在任中、大統領の連続2選から 連続3選への憲法改正案については否定していたが、任期延長については、機会ある毎に、 同じ理由で、主張していた。今回の憲法改正案提出に当たって、メドベージェフ大統領の真 意は分かり兼ねるが、1)本憲法改正案が承認されれば、次期大統領選挙(2011年)から施 行され、メドベージェフ大統領自身の地位を固めるため、または2)首相として実権を握る プーチンが大統領として再登坂し、長期政権を築くための布石、あるいは3)誰が次期大統 領に選出されようが、安定した長期政権でないと、抜本的な改革は望めない、理由など3っ の可能性が考えられる。 メドベージェフ大統領が提案した下院の政府監督権限強化(政府に下院への年次活動報告 義務付け)に関する憲法改正法も、連邦議会両院および連邦構成主体議会の承認を得て、 2008年12月31日発効した。このように制度としてのチェック機能も強化している。 危機管理事例 1)グルジア問題 タンデム政権が誕生してまもなく、彼らのリーダーシップをうかがい知ることができた最 初の事件がアブハジアやアカシアにおけるグルジア・ロシア軍事抗争であった。 2008年8月8日、グルジア軍が南オセチア自治州に進軍し、州都ツヒンバリを一時制圧し た。オリンピック開会式列席のため北京にいたプーチン首相は北京から即刻ロシア領北オセ チアに飛び、陣頭指揮をとり迅速に対処した。8月11日朝、ロシア軍は南オセチアのみなら ず、アブハジアに大軍を送り、さらにグルジアの軍事基地、都市、鉄道、幹線道路、港湾な どに爆撃をもって制裁した。しかし、メドベージェフのロシア軍による反撃軍事行動に関す る声明はロシア軍の反撃開始から5時間後であった。ロシア軍に対して、軍事行動開始の指 令をだしたのは、メドベージェフ大統領か、プーチン首相か、定かでない。連邦議会は戦線 布告をしなかったし、軍事行動開始の大統領令もなかったし、また安全保障会議も招集され 19 @Rossiisk∂ia gazet∂,2008/12/31 20 w日本経済新聞』、2008/11/6 78 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 ていなかった。21ロシアとグルジア間の軍事抗争はわずか5日間で終了したが、ロシア軍は 係争地だけでなくグルジア領内奥深くへ進行し、フランスの仲介で和平協定に調印した後で も、グルジア領内からロシア兵力をすぐに撤退させなかった、また抗争終了2週間後南オセ チアとアブハジアのグルジアからの独立を一方的に承認したことから、国際世論の批判の的 となった。しかし、タンデム政権は、ロシアー般国民の圧倒的な支持のもとで、22外交的に この難関をなんとか乗り切った印象を与えている。1999年プーチンがチェチェン問題で強行 姿勢を示したように、メドベージェフもグルジア問題で欧米に対して断固とした態度を示し たことは、国民から大統領として信任される通過儀礼となったようである。23 2)金融危機 天然資源の高価格によって支えられ、急成長してきた資源国ロシアも、例に漏れず、米国 で起こったサブプライム・ローン問題の煽りを受け、海外へ資本の国外流出が起こっている。 資源依存のロシア経済はオイルマネーを有効な生産投資に期待したほど向けられないでいた。 資源輸出で得たオイルマネーの多くを海外の金融市場に投資したロシア経済は海外の市況に ストレートに左右される構造になっていた。一方、今回の金融危機は、ロシアの実業家にと って、これまで彼らが採ってきた企業発展のビジネスモデルを過去のものにしてしまった。 つまり、実業家らは値上がりする資産を担保にして融資を集め、その金で新たな資産を買い 入れ、それによって自分の企業の時価総額を膨張させてきた。現状では、融資を受けられな い実業家にたいしロシア政府は外貨保有と安定化基金を取り崩し6兆ルーブルの支援融資を 行っている。24政府と中央銀行に蓄積された準備金をこのペースで支出していけば、石油 価格がバーレル当たり50ドルを割った現在(2008年10月)、遅かれ早かれ国家経済は破綻 してしまうであろう。ロシアだけが今回の金融危機から脱出できるわけでもなく、タンデム 政権は、国外では金融面のグローバル・ガバナンス作りに参加し、国内では新たな産業政策 を起ち上げるリーダーシップを迫られている。 6.政治文化としての人脈政治 タンデム政権の最初の人事の特徴は、両指導者とも、自分をこれまで支えてきた腹心(ナ ルイシキン大統領府長官、ソビャーニン副首相兼官房長官)をこれまでどおり側近として任 用し、自分の信頼できる旧知を登用した人事、派閥間または同じ派閥内での権力闘争(例え ば2007年10月に起きた治安機関を率いる側近間の勢力争い)を中性化する政治的配慮をし た人事であり、任務の続行を保障する留任人事、同時に適材適所の人事も行われ、相対的に バランスのとれた政策遂行型の人事であることが分かる。 2000年5月、大統領に就任した時のプーチン人事は、異なるグループ(リベラル経済改革 推進派、1日体制利権擁i護派、国家統合派など)の均衡の上に組み立てられ、再任も多かった が、総じてプラグマチックな若手テクノクラートを重用した経済改革指向の人事体制であっ た。そして、主要閣僚17名中6名が、いわゆるプーチン自身の郷土で酒養したサンクトペテ 21 IVo vyi Uremia,2008/8/18 22AVeza visimaia gazθta,2008/8/13 23 24 ム田茂樹、「月曜評論」『信濃毎日新聞』、2008/8/25 @Airgumen ty i fakty, No.43,2008/10/22−28;Vedomosti,2008/10/23 タンデム政権とロシアの政治文化 79 ルブルグ人脈からの登用であった。 表4 タンデム政権下の人事 大統領府と新政府の陣容は2008年5月12日に発表された。 大統領府 長官 第1副長官 副長官 副長官 ナルイシキン(前政府官房長兼副首相) スルコフ(前大統領府副長官兼大統領補佐官):内政問題管轄 グロモフ(前大統領補佐官):マスメディア管轄 ベグロフ(前大統領補佐官兼大統領監督局長):官房活動、文書監修管轄 大統領補佐官 6人(4人再任、2人新任)ヤストルジェムスキー補佐官は解任 5人(3人再任、2人新任) 大統領顧問 チマコワ(女性、新任)(前大統領情報局長) 大統領報道官 大統領儀典長 エンタリツェワ(女性、新任)(前大統領儀典・組織局長) 3人とも留任 下院・上院・憲法裁判所における大統領全権代表 連邦管区大統領全権代表 7人(5人留任、2人新任) 内閣 一音相、副首相7人体制(うち2人は第1副首相、前ズプコフ内閣より2人増)、 18省35庁31局(前内閣は16省34庁34局2国家委員会) 首相 プーチン(前大統領) 第1副首相 第1副首相 ズプコフ(前首相):農林水産業管掌 シュワロフ(前大統領補佐官):対外経済活動・中小企業発展政策管掌 ジューコフ(留任):社会政策・優先的国家プロジェクト管掌 セチン(前大統領副長官兼大統領補佐官):国防部門を除く産業全般管掌 副首相 副首相 副首相 副首相 副首相 S. イワノフ (前第1副首相):国防産業管掌 グドリン (留任、財務相兼任):財務・金融政策管掌 ソビャーニン (政府官房長官兼任、前大統領府長官):連邦・ 地方政府活動評価管掌 2008年次ともなると、タンデム政権下の要職の多くがサンクトペテルブルグ人脈で占めら れている(表4,表5参照)。 プーチン人脈とメドベージェフ人脈の特徴の違いは、プーチ ン人脈が経済派(サンクトペテルブルク市政府時代の人脈)とシロビキ(KGB時代の人脈) を登用しているのに反し、メドベージェフ人脈はサンクトペテルブルグ市対外関係委員会時 代の同僚と、レニングラード大学法学部サプチャクゼミの同輩で占められていることである。 1999年12月、プーチンが大統領代理に任命され、同時にメドベージェフがロシア連邦大統 領府副長官に就いたとき、当時の大統領府長官は、エリツィン「家族」の中心人物、アレク サンドル・ウオロシンであった。ウオロシンのもとで第1副長官および副長官として3年11 ヶ月も仕えたことはメドベージェフにとって自分の人脈を広げる上でプラスにもなったよう である。とくに、「家族」系の新興財閥の代表格であるロマン・アブラモビッチはメドベージ ェフがプーチンの後継者となるまでの節目・節目で彼を後押しすることがあったという。25 メドベージェフ人脈のこれまでの流れをみると、プーチン政権下で要職に就くことができ、 人脈の支持基盤は地域的に限定されているが、同時に両人脈はタンデム体制だからこそ相互 協力関係を維持できると言ってもよい。 人脈類型(閨閥、側近閥、郷土閥、官僚閥など)に従えば、プーチン人脈は官僚郷土閥型 25 蝟?ウ美、『メドベージェフ1ロシア第三大統領の実像』、ユーラシア・ブックレット125、2008年、 37頁 80 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 であり、確固とした政治基盤があり、またその行動は政策指向型である。同じ閥でも、閨閥、 側近閥型になると、支持基盤が非常に限定され、また個人崇拝になりやすい。従って情報量 がコントロールされるだけでなく、有益な情報が上層に届かず、指導者の判断力が鈍くなり、 意志決定に支障を来すことになる。エリツィン人脈はまさに官僚郷士閥型で始まり、最後は 閨閥型で終わったが、それは人脈類型から判断すれば、彼の政治生命の末期症状を示してい た。プーチン大統領は、政策立案の一部を大統領府に移行させるべく、大統領府での人事刷 新が行われたのは第1期が終わる頃で、サンクトペテルブルグ人脈(例えば、メドベージェ フが大統領府長官に)が積極的に起用された。 表5 プーチンの人脈構成26 ウラジーミル・プーチン (レニングラード大法75年卒、KGB勤務、サンクトペテルブルグ副市長) メドーベジェフ人脈 プーチン人脈 市対外関係委員会(ここでの人脈は当委員会 治安機関 議長ブーチンと共有) ミレル(部長、副部長、後にガスプロム社長) ズブコフ(副議長、後に連邦首相、第1副首相) S.イワノブ(FSB連邦保安局副長官、安全保 チュロフ(副議長、後に連邦中央選挙管理委員 長) レニングラード大学法学部サプチャクゼ 1987年卒 A.イワノブ(後に最高調停裁判所長官) イリセーエフ(後にガスプロム銀行副頭取) チュイチェンコ(後に大統領補佐官) ビンニチェンコ(元サンクトペテルブルグ市検 障会議書記、国防大臣、第一副首相) セーチン(主任専門家、顧問、官房長、後に 大統領府副長官、ロスネフチ石油会社会長) バトルシェフ(安全保障会議書記、FSB長官) V.イワノブ(大統領人事顧問) ウスチノフ(最高検察庁検事総長、法相、南 部管区大統領全権代表) フラトコフ(後に首相) チェルケソフ(武器供給局長官、FSB第1副 事長、連邦執行庁長官) 長官、連邦麻薬取締局長官) ゾロトフ(連邦警護局長官) アダモワ(後にシベリア・ウラル石油ガス化学 サンクトペテルブルグ市行政府 会社法務担当副社長) A.グツァン(後に北西連邦管区検事総長代理) 長) ソビャーニン(大統領府長官、副ぎ相兼官房 N.グツァン(後にサンクトペテルブルグ市憲章 ナルイシュキン(政府官房長官、大統領府長 裁判所長官) 官) アリソフ(後にガスプロムレギオンガス法律科 新興財閥: 長) エゴロフ(後にレニングラード州次席検事) デリバスカ(アルミニウム社長) アブラモビッチ 法学部卒: A.ウスマノブ ゴザク(後に市行政府、内閣官房長官) 改革派グルー一プ: クロトフ(後に憲法裁判所における大統領全権 クドリン(財務担当副市長、連邦副首相兼財 代表) 務相) グレフ(市財産管理委議長、連邦経済発展相) シュバロフ(大統領経済担当補佐官、第一副 首相) ドブロコビッチ(大統領府監査局局長) スルコフ(大統領府副長官) ファデーエフ(社会計画研究所) !6大野正美、前掲;石川一洋「復活するロシア」『世界』2008/9に記載されている人脈資料、そして著者 自身の資料などをもとに表5を作成. タンデム政権とロシアの政治文化 81 ロシアには、ロシアの政治文化の一つである人脈政治がはびこる文化的・制度的土壌があ り、事実、帝政ロシア時代も、またソ連共産党時代にも、人脈政治は政治を理解する決定的 な鍵の一つとなっていた。ロシアには、旧態依然とした伝統やユーラシア社会に共通した共 同体指向のメンタリティーがあると同時に、敵対する相手グループを蹴落として勢力を独り 占めしようとするメンタリティーも同居している。こうした精神構造は、連綿として帝政ロ シアからソビエト社会へ、そしてペレストロイカ期を経て現代ロシアにも生きている。しか しながら、人脈構造は、ソビエト期とくにブレジネフ体制のものと、エリツィン体制、もし くはプーチン体制のものとはかなり隔たりがある。 表6 ロシア政治における人脈的要素 ソ連邦時代(ブレジネフ期) 共産主義イデオロギーとノーメンクラトゥーラ制が基盤 エリツィン政権 政治における人脈的要素の破壊 政権維持のための新興財閥の利用→資源,マスコミを新興財閥に独占されたためにロシア 国家経済が疲弊し,国力低下を招く→二流国家ロシアへ 菱琢 プーチン・メドベージェフ政権 ソ連時代に類似した人脈的要素への回帰 国家としての連邦制を選択しつつ,エリツィン期に失われた中央の統制権を取り戻すために 単一国家的性格を帯びる(連邦構成主体の知事選出は半ば大統領による任命制) 経済派(サンクトペテルブルク市政府時代の人脈)とシロビキ(KGB時代の人脈)を登用 ブレジネフ期には、党による集権的人事管理としてノーメンクラトゥーラ制があった。こ の制度は一党独裁的な共産党という組織が適格者を動員する一つのシステムとして運用され ただけでなく、党幹部が党による人事権行使ができる特権と理解し、この特権を利用して党 幹部らはそれぞれの人間関係を強化するための一つの政治的道具とみなしていた。新生ロシ アには人脈政治を支えるこのような制度的補完性が存在しない。大統領がパトロンであれば 一定の人事権も法的に保証されており、大統領の人脈関係も、権力、権威、資源の点では平 等でない2人関係で結ばれ、忠誠心を背景にした利益の互酬性があり、以前と根本的には変 わってないようにみえる。しかし、権力中枢での人脈関係は、その公務の実態面がソビエト 期と異なり外部(メディアや議会など)によってチェックされ、2人関係の永続性がここで 82 愛知淑徳大学大学院論文集一グローバルカルチャー・コミュニケーション研究科一 第1号 2009 は保証されていない。また、クライエント(子分)も選挙というメカニズムを通して公にパ トロンの座を脅かすことができる。ロシア大統領の垂直的な行政(選挙民に直接選出されて いた一時期を除き大統領に半ば任命された行政長官)・監督(大統領代理)命令系統の導入に より地方の指導者との人脈関係らしきものが成立したが、ソビエト期のようにまず地方で行 政経験を積み、多様な機関をクロスしながら螺旋状に昇進階段を上り詰め、中央に吸い上げ られるシステムが存在しないため、かつての共産党政権下の全国規模のピラミッド型人脈関 係パターンが再現できない。今後、垂直的な行政・監督命令系統の運用上の強化、および共 有するイデオロギーをもった全国規模の政党「統一ロシア」の充実により、全国規模のピラ ミッド型人脈関係パターンの再現は全く否定できないが、現在、各々の行政レベルで指導者 を中心に構成されている人脈関係は精神的な絆で結ばれているというよりも、多くが指導者 の政治的判断でなされている。 政治の一行動様式である人脈行動は、その国の政治文化の表象的な側面がある。文化とは そもそも、伝達・伝統・道徳的な精神の諸条件が体系化したものであり、市場経済化や民主 化は伝統的な政治文化から近代的な政治文化への移行を含んでいる。この3つの移行プロセ スは相関関係にあり、互いに影響し合いながら、つまり歩調を合わせながら進行するものと 思われる。移行プロセスは複雑である。移行の前提として、市民一般の移行への理解と認識、 つまり意識変化を必要としているので、通常一本調子で早急にすべての移行プロセスが完了 することはまずあり得ない。 まとめ 二人のリーダー(プーチン、メドベージェフ)の職責は変わったけれど、これまで発揮し てきた各々二人の能力を十二分に生かす形で、若干の制度調整をして、タンデム政権が船出 したといえる。二人三脚は相手と同調して初めて機能するのであり、いずれかが転ければ共 倒れになり、前進できない。ロシアの政治文化では、この協調的な指導体制は異例の指導体 制であるが、国民にとって、秩序ある社会のなかで、生活水準があがっていく限り、体制へ の支援は続くであろう。リーダーの絶対性にたいする伝統的な政治文化も、肯定的な政治社 会変容に応じて、既成事実として変化していく可能性はある。ただし、グローバルな相互依 存の管理体制の崩壊、多民族国家ロシアの内政矛盾、エネルギー外交のバックラッシュなど 不安的要因がタンデム政権の足を引っ張ることは十分考えられる。 西欧で近代国家体制が成立して以来、西欧を除くほとんどの国が近代国家を支える文化に 衣替えしている過程にある。旧権威主義体制から自由民主的・法治国家への移行が直線的で ないことをロシア国民が理解した段階で、タンデム政権は自らの政治理念を展開しているよ うにみえる。ピョートル大帝(1682−1725)以降、ロシアにはスラブ主義と西欧主義が同居し ている。スラブ主義はロシア正教、農民共同体、強力な国家の伝統などが思想の骨子となっ ており、西欧主義は西欧技術文明、経済合理主義、啓蒙主義、人道主義が軸になっている。 これら二つの思想潮流が流れていたロシアであるが、70年間の権威主義的な共産主義体制と いう変則的な時期を経て、市場経済と民主主義という普遍的原則の導入を、ロシアの現実と 有機的に結合させようというのがプーチン・メドベージェフの理念である。そこではロシア タンデム政権とロシアの政治文化83 の歴史と伝統を核に国家統合を図りその威信を回復し漸進的に改革を進め、また外交政策理 念としては環境保全や核兵器廃絶など全人類的価値観とロシアの伝統的価値観を融合させよ うとしている。 図表3 政治文化の移行過程 伝統的政治文化 近代的政治文化 E社会規範〉法規範 E社会規範く法規範 E有機的/不透明性 E機械的/合理性 E個別的価値体系 E普遍的価値体系 EGemeinschaft(共同体) EGesellschaft(結社) したがって、タンデム政権は図表3で示されている伝統的政治文化から近代的政治文化へ の直線的な移行を考えているのではなく、長期的な移行過程を想定し、そのプロセスでは精 神的な拠り所をロシア文化に置き、普遍的価値観を内面化・土着化していくことを意図して いるのではないかと思われる(このような政策指向はプーチン前大統領の年次教書およびメ ドベージェフの2008年度年次教書から読み取れる)。潜在的タンデム政権はすでにプーチン 政権誕生(2000年5月)と同時に始動しているのであり、メドベージェフ政権になって、タ ンデム政権が顕在化したといえる。国力・国権ともかなりの程度回復し、国民も自信を取り 戻したメドベージェフ政権になり、タンデム政権は、内政・外政ともより自主的な政策を採 る余裕がでてきているようである。 タンデム新政権は自存と国際社会との共存と、二つの価値体系の狭間にたたされている。 ロシア国内では多種多様な固有の価値体系間の対話と共存指向を必要としているが、同時に 普遍主義(ここでは主に市場主義や民主政)を取り込まずには地域自体の自存が難しいこと、 普遍主義自体も多種多様の固有の価値体系を取り込む中で進化し、この地域特有の変容が生 まれる可能性もあることを示唆している。ただし、この可能性は、移行期にロシアに起きる 様々な国内外の危機的状況から、自助努力、域内協力、国際協力などの支援を得て、脱出を 想定しての筋書きで、あくまでも仮定的なものである。そして、メドベージェフ政権が今後 起こりうるであろう国内外の政治的・経済的・社会的危機状態からの脱出に蹟いているよう な事態になったとき、カリスマ性のあるリーダーシップを望む国民に応え、プーチン時代の 潜在的なタンデム政権に戻る可能性は否定できないであろう。