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Title ポール・ヴァレリーと表象=代理の「危機」
Title Author(s) Citation Issue Date URL ポール・ヴァレリーと表象=代理の「危機」 森本, 淳生 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (2000), 83: 315-336 2000-03 https://doi.org/10.14989/48542 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 『人文苧報』第 83号 ( 2000年 3 月 ) (京都大学人文科学研究所) ポール・ヴァレリーと表象ェ代理の「危機」 ω 森 本 、J <コ i子 生 第恥次世界人戦はポール・ヴァレリーにとって「フランス精神 Jそのものの「危機 J,また ヴァレリーにあっては端的にそれと結びついている「ヨーロッパ精神jの「危機」として映っ た。大戦の激しい戦火の中,彼は滅びつつあると思われたフランス語のためにささやかな 標Jを築こうと,最もi5典的な規則jに従った f若きバルク』を書く。それはヴァレリー自身の 言葉に従えば,野蛮な営為の横行する世界の中でほそぼそと精神の灯りを怯えている修道院に おける作業にも似たものであった。 1 9 1 9年には「精字申の的機」と題するエッセーを発表し,い まや「ヨーロッパ精神Jは滅亡へと向かいつつあることを,確たる処方議を示すことなく,あ りのままの問題として提訴する。ヴァレワーの問題意識にあったのは,ヨーロッパをこれまで 支えてきた「精神jというものがあり,それが現代のさまざまな状況の中で「危機J に掘して いる,このことはヨーロッパの円己同一性もしそのようなものがあるとしてそのもの の解体をももたらすであろう,ということであった。ここには明らかにイデオロギー性が見ら れるが. r若 き バ ル ク 』 の 成功 と ヴ ァ レ リ ー の 大戦後 の 名 声 (1 925年 lこ 彼 は ア カ デ ミ ー ・ フ ラ ンセーズ会員に選出される)を考慮に入れれば,ヴァレリーのディスクールは当時のヨーロッ パ知識人に少なからぬ共感をよんだのであり,従ってそれはヴァレリー傑人のイデオロギーに とどまらず,大戦期ヨーロッパのそれとも密接に関わっているはずである。本稿はヴァレリー のデ、イスクールを分析の中心としているが,それは,将来的には戦時期ヨーロッパの言説空間 の分析というより l広範な開題への接続を予感しつつなされている。 ところで. I精神 の 危機」 と 題 さ れ る エ ッ セ ー に は 具体的 に 次 の 三つ の 論 点 が あ る よ う に 思 つ。 1)外在的要因。ヨーロッパがその優{立を保証するものとして作り上げた「技術jは本質的 に模倣司能なものであり,アメリカや日本といった非ヨーロッパ諸民jに流出してヨーロッパの 地位を脅かす。これが「ヨーロッパ精神jの「危機jを 4惹起するとヴァレリーは考えた。 2)内在的原!村山一一一「精神」のアポリア。ヨ…ロッパの近代文明を作り上げたのは「ヨー 3 1 5 人文学報 ロッパ精神Jであるが,この「精神Jは現代においてみずから作り上げた文明によって逆に圧 されている。それが「危機Jを引き起こす。 3) 内 在 的 原 因 ( 2 ) 表象 = 代理(representation) の 危機。 ヴ ァ レ リ ー は , 1 ヨ ー ロ ッ ノリ がもはや輪郭の明確に定まった自己イメージをもてなくなっていることを述べている。これが f精神 の 危機」 の 要 因 を な し , そ れ に 関連 す る か た ち で, さ ま ざ ま な 表象 ニ 代理 の 段 機 が 語 ら れる。すなわち,信用の危機としての恐慌(つまり貨幣という表象=代理に対する信用の消滅), 議会制の危機(議会という表象±代理に対する倍用の消滅)とその帰結としての独裁なと1こ っ いてヴァレリーは語ることになる。 第一点と第二点についてはすでに論じたので町本稿では第三点を論じることにしたい (3L 自己表象の喪失 「精神の危機Jの「第一の手紙jの中で,ヴァレリーは第」次 lit界大戦後にヨーロッパをお そった「異常な戦傑」を次のような言葉で語っている。 異常な戦燥がヨーロッパの脅の髄を駆けめぐった。ヨーロッパは,そのすべての思考中 枢によって,もはや自分が訂分の姿を見分けられないこと (elle 自分が自分に似ることをやめたこと (elle ωssait か け て い る こ と を ! 惑 じ た [ . .・ H・] n es er e c o n n a i s s a itplus) , d es eressernbler) , 自 分 の 意識 を 失 い ( 4 ) 0 かりに自己が自己を確 \T.しうるのが何らかの自己表象によるのだとすれば,ここで問題になっ ているのは,ヨーロッパが何らかの昌己イメージを喪失することによって投機に陥っていると いうことである。しかし何故ヨーロッパは自己表象を失ってしまったのか。「第一の手紙 jの 別の部分には, 11914年 の ヨ ー ロ ッ パ の 知 的 健 康状態」 に 関 し て 次 の よ う に 警 か れ て い る 。 従って,もし私があらゆる細部を捨象し,つかの間の印象に,また瞬間的な知覚が与え るあの自然な全体像にとどまるならば,私の見るものは無である[私には何も見えない] ! 無眼に農縫ではあるが,とにかく「無Jなのである。 物理学者が我々に教えるところによると,白熱化した炉の中では,もし我々の担が生存 しえたとしても,その限にうつるものは無であろうと言われている。光のし、かなる不平等 性も存在せず,それは空間の諸点を区別することもない。このような閉じこめられた驚く べきエネルギーは,不可慢性に,感覚しえない平等性に到達する Oところで,この種の平 等性とは,完全な状態における無秩序以外の何ものでもない(針。 3 1 6 ポール・ヴァレリーと表象 z代躍の「危機 J (森本) ヴァレリーによれば,世界はもはやヨーロッパが白己表象を形成しえないほどに無秩序に陥っ てしまっている。この「白熱化した炉jを言 L、かえれば「近代主義 ( m o d erni s m e )の極眼」 としての「思想、の万凶陣覧会 (expo si t io n u n i v e r s e l l ed epens 西部) J , の 思 ; 間 的 断 片 の 同 時 的 共 存 , すな わ ち あ ら ゆ る 種頼 r カ ー ニ ヴ ァ ルj と い う こ と に な る だ ろ う 。 こ れ は 文 学 に 限 っ て ば , 断 片 化 と 古 典 的 な 様 式 の 失 と い う ド イ ツ ・ ロ マ ン 派 ( フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ シ ュ レ ー ゲ ル ) 以 来 の テ ー マ で あ る が , こ こ で 問 題 に し た い の は , こ の よ う な 明 確 な 表 象 , は っ き り と 限 定 さ れ た 表 象 体 系 が 消 滅 す る こ と に よ っ て 引 き お こ さ れ る 近 代 社 会 全 般 の 「 危 機 」 の 方 で あ る 。 ヴ ァ レ リ ー の テ ク ス ト に お い て こ の 問 題 は 決 定 的 な 重 要 性 を も っ て お り , 彼 の 文 明 批 評 の 基 軸 を な す と 言 っ て よ い ほ ど あ ら ゆ る 鵠 域 で 展 開 が 試 み ら れ て い る 。 1894 年以来生濯 に わ た っ て 書 き 続 け ら れ た ノ ー ト テ ム j の 試 み が , 精 神 現 象 の 完 全 な 「 表 象 c r カ イ ェ J ) で ヴ ァ レ リ ー が試 み た 「 シ ス ( repr e sen ta ti o n) J を め ざ す も の で あ っ た こ と を , こ こ で 思 い 起 こ す の も 無 駄 で は あ る ま い 。 そ れ と 密 接 に 関 連 す る か た ち で , ヴ ァ レ リ ー の 文 明 論 の 暗 黙 の 前 提 を な す も の は , r精神J は 「世 界J を 表象 す る こ と を 欲望 し て い る , ゼ だ と 言 う こ と が で き る o r精神J はrI の こ と に よ っ て 初 め て 安 息 す る 。 「 世 界 け れ ば な ら な という テー l: 界J を 仁l 己 が操 作 し う る 表 象 の う ち に て 重 化 し , そ j は 「 精 神 」 の う ち で 明 噺 な 表 象 と し て 二 電 化 さ れ な L 、 。 こ の テ ー ゼ は 彼 の 数 多 く の エ ッ セ ー の 中 で あ ま り 明 示 的 に は 定 式 化 さ れ て い な い が , ヴ ァ レ リ ー の テ ク ス ト の ノ む 向 性 を 厳 密 に 規 定 す る も の で あ る ( あ る い は 逆 に 言 え ば , こ の よ う な 表 象 へ の 欲 望 を 措 定 せ ず 、 に は , ヴ ァ レ リ ー の テ ク ス ト が 行 う 運 動 の あ り 様 を よ く 理 解 す る こ と が で き な い ) (九 し か し こ の 「 精 神 」 の 自 己 表 象 へ の 欲 望 が 満 た さ れ る こ と は な い 。 そ れ は 」 つ に は , 世 界 が 「 無 秩 序 」 化 し た た め で あ り , ま た 第 三 i こ , 次 節 で 詳 し く 述 べ る よ う に 科 学 的 ・ 実 証 主 義 的 な リ ア リ ズ ム が 我 々 の 持 ち 合 わ せ て い る ! 日 米 の 表 象 体 系 を 破 綻 さ せ る ほ ど に 発 展 し た か ら で あ る こ の 点 が お そ ら く ヴ ァ レ リ ー の 限 を 「 現 実 O j へ と 向 け さ せ , 信 用 の 危 機 を め ぐ る 考 察 へ と 彼 を 導 い た と 忠 わ れ る ( こ れ に つ い て は 次 郎 で 考 察 す る ) 。 し か し 第 二 に ヴ ァ レ リ ー は , 明 確 な 表 象 体 系 を 破 壊 し た の が 「 精 神 」 自 身 な の だ と も 指 摘 し て い る 。 こ の 第 三 点 は 特 に 注 目 に 値 す る 。 す な わ ち , 現 代 世 界 の 無 秩 序 の な か に 「 精 神 」 は 自 己 自 身 の 無 秩 序 を 見 出 す 。 ヨ ー ロ ッ パ の 「 精 神 」 が そ の f 欲 望 」 と 「 夢 想 活 動 へ と 駆 り 立 て た と き , 世 界 は す で に J に よ っ て , す な わ ち 岳 己 の 本 性 に よ っ て , 世 界 を 飽 く な き f 精 神 」 の 無 秩 序 と 同 様 の 性 質 委 譲 り 受 け て し ま っ て い た の で あ る 。 か つ て の よ う に , ゲ ー ム の 約 束 を 知 り , カ ー ド の 札 数 と 図 柄 を 知 っ た 上 で , 連 命 を 柏 手 に 堂 々 と 勝 負 を す る か わ り に , い ま で は , 日 分 の 相 手 の 手 が こ れ ま で 見 た こ と も な い 函 柄 の カ ー ド を 出 し , 勝 負 の 度 ご と に ゲ ー ム の 規 則 が 変 え ら れ る の を 呆 然 と 見 て い る 賭 博 者 の 3 1 7 人 ュ 文 報 f 状態に我々はいるのである。いかなる擁立計算ももはや可能ではなく, にカードを投げつけることさえできないのだ。何故か? れば見るほど, 自分の相手の鼻先 それは相手の顔そしげしげと 在分の顔を相手の中に認めることになるからである!……現代世界は人間 の精神をかたどって作られている。人閣は, 自分のまわりの事物を自分と同じくらい迅速 で不安定で変わりやすいものにするための, また自分自身の精神と同じくらい裳賛に値し, 不条理で,面食らわせるとともに驚異的でもあるものにするためのあらゆる必要な手段と 力とを自然、の中に探しオとめた。ところで,精神は自分に関して予知することができないし 臼分岳身を予知することもできない。我々は, うじて自分の反応を予知するのみである。 自分の夢や計画を予知しない。我々はかろ したがって, もし我々が人間世界に我々の精神 の歩みを刻印するのであれば,世界はそれだけ予見不可能になり,世界は精神の無秩序を 取り入れることになるゆ。 「相手の顔をしげしげと見れば見るほど, 自分の顔を相手の中に認めることになる [・…・・]現 代世界は人間の精神をかたどって作られている jという言葉からは A見,精神が世界を白己表 象にしえたかに見える。 しかし世界に見出された臼日の「顔Jとは,精神がそもそももってい た輪郭のない不定形な「顔jだったのだ。精神は「顔jを持つことができない。ちょうどナル シスが自己の fJ;,l姿を失ったように。「精神Jは世界の明確な表象を求めつつも, 性のためについにそれに到達することができない。 てまた, r精神j 自 身 が無秩序 で あ る な ら ば, も,決してそれをもったことがないし, 自己自身の本 これは論理的な不可能性なのである。そし r精神J は 輪郭 の 定 ま っ た 口 己表象 を 欲望 し つ つ もつこともできないということになる。 i精神 J は白 己についても世界についても明断な表象体系をえることができないのである。 信用の危機と「純粋現実J このように近代は「精神」の表象への欲望を満たすことはなかった。その理由のひとつとし て先に信用の危機をあげておいたが, 索や技術的な革新が, し, この,点に戻ることにしよう。 ヴァレリーは,科学的な思 もはや旧来の諸概念(表象)では対応できぬほどに発展したことを確認 この論点に繰り返し立ち戻っている。それは「精神Jを狭義の意味にとるならば, r科学」 と「精神Jとの不一致と要約することもできるだろう。 [ ..・ H・]経済の危機,科学の危機,文学と芸術における危機,政治的自由の危機,風俗に おける危機……。細かな点には立ち入らないことにしよう。私はただ単に,この状態の注 目すべき特徴のひとつを指摘したし、。強大な力を保持し,驚くべき技術的資本をもち,実 証的な諸方法が完全に浸透している近代世界は,それにもかかわらず,自分が創造した生 318- ポール・ヴァレリーと表象=代理の「危機 J (森本〕 活様式と調和し,ある種の科学的精神の背遍的な波及と発展が徐々に令ての人々に課して きた思考様式とも調和するような,ひとつの政治学,道徳,理想,民法ないし刑法を岳分 自身のために作ることができなかったのである。 科学の基礎を革新し, 言語の諸特性や制度の諸起源や社会生活の諸形式を明らかにした さまぎまな批判的研究を多かれ少なかれ知っている人なら誰でも,今日,概念とか原理と かかつて真理と呼ばれたものとかで,再考されたり修iE,改訂されたりしないものは存荘 しないことに同意している。約定的 (con ven ti onnelle)でない行為は存在しないし, また 書かれていようといまいと,近似的ではない法[法律,法員旧は夜しないことも知って いる (8L 例えば,法律で問題になっている「人間Jはこうして,市民,選挙人,被選挙人,納税者,被 告というさまざまな慣習的規定を受けることになるが,他)jで、生物学や心理学や精神医学が定 義する「人間」は全く異なることになる。法律によるか,科学:によるかで, ある昭人に責任が 生じたり生じなかったりする。科学による人間の実証的,客観的概念、は,法律,政治,道徳、な どがもっ人聞の概念と深淵によって楠てられているのである (9Lここで問題なのは, このよう な議論からヴァレリーの科学主義とでもいったもの(彼が科学を持ち上げて,政治的概念の暖 昧さを批判したというような)を取りだすことではなくて,端的にヴァレリーが述べているこ と, すなわち約定的な概念体系(表象)の破綻ということである。科学的確実性の印象がそれ とは対照的に伝統的政治諸概念の「暖昧さ」を明らかにし, る。逆にいえば, それへの告用を失墜させるのであ この表象体系が危機に縮るときになお確実なものとして残るは拙稿 f-r危機』 のディスクール」で見たように「行動力 J (確実な行動の「やり方 (recette) J) の み で あ ろ う 。 ヴァレリーはしばしば科学をこのような確実な <recettωとして定義するが, 同時に科学の中 に含まれている膨大な約定的な領域も明らかに認識していた (lOL とし、うことは, は, 表象の危機 今の引用でヴァレリーが述べているように科学の危機でもあるのである。 いずれにせよこれまで多少なりとも信用されてきた諸概念が,貨幣が信用を失うように, そ の信頼を失墜させている。 ヴァレリーはこのような信用の失墜を社会全体のスケールで考察し ている O まず私は, あらゆる社会構造は信南 ( croyanoりあるいは信頼 ( conjiance)を基礎として いる,と言いたし、。あらゆる権力は,こうした心理的諸特性の上にうち立てられるのであ る。社会,法律の領域,政治世界は本質的に神話的世界であると わち, うことができる。すな こういった世界を構成する諸々の法や基礎や関係は,事物の観察,確認,痕接的知 -319 文 人 ,."与 子 幸H 党によって与えられたり示されたりすることはなく,逆に我々の方からその存在,力,刺 激作用あるいは抑制作崩を'支けとっているのである Oそして,このような存在と作用は, それらが我々に由米すること,我々の精神に由来することを我々が知らなければ知らない ほど,強力なのである。 語られたものでも書かれたものでも,人間の言葉を信じるということは,地面の安定を 信頼することと同じくらい,人間にとって必要不可欠なことである。確かに,我々は場所 によってはそれを疑うこともある。 しかし特別な場合をのぞけば,我々はそれを疑いえな いのである。 とか,信用 ( cr edi t)とか,契約とか,署名とか, 係や, こうしたものの前提する種々の関 過去の存在や,未来の予感や,我々が受ける教育や,我々がたてる計画といったも のはすべて,完全に神話的な性質のものである。すなわちこうしたことは全て, まったく 精神のみに属するものごとを,精神に属するものごととして扱わないという,我々の精神 の根幹的な特牲に完全に基づいているのである。 ところで, [人間にとって]不可欠なこの神話牲の本質的性格は次のようなものである。 すなわちそれは,交換における不平等性そ可能にする。つまり言葉ないしは書かれたもの お前は獲得する[現在時における所有]とお前は所有するだろう と高品との交換, における所有] [未米 との交換,現在や確実性と未来や不確実性との交換である。 より注臼すべ きものとしては,信頼と服従との交換,熱狂と断念や犠牲との交換, 感情と行為の交換が ある。 要するに,現在や感覚可能なのものや計量可能なものや現実的なものと,想像上の手 IJ主主 との交換である O しかし,実証的な感覚の進歩によって [……]社会のこの古代からの某 礎が損なわれているのである ( i IL 全てが「信用による ( fiduci a ire) J の で あ り 「想像上 の も の (I ' i m a g i n a i r e )J な の で あ る 。 「 権 力 ( pou v o i r) J す ら 例 外 で は な し 、 。 「 人 は 権 力 に , い つ で も ど こ で も 行 使 す べ き も の と し て の 力 (puissance) を 帰 す る が , 権 力 は 実 際 に は , あ る 時 期 に あ る 地 点 に お い て し か そ れ を 発 揮 す る こ と が で き な い 。 要 す る に , 権 力 と は 全 て , の で あ っ て , そ の 存 衷 は , f言活 取 引 を す る 営業所 と 全 く 同 様 の 状況 に あ る 全 て の 顧 客 が 同 時 に , 同 じ 日 に 頭 金 の 払 い 戻 し を 請 求 し に 来 な い で あ ろ う と い う 蓋 然 性 ( た し か に こ れ は か な り 大 き な も の だ が ) に 基 つ 、 い て い る 。 も し , あ る 権 力 が つ ね に 任 意 の 時 期 に , そ の 常 国 の あ ら ゆ る 地 点 に お い て 現 実 的 な 実 力 を ふ る う よ う に 要 求 さ れ る な ら ば , こ れ ら の 全 地 点 に お け る こ の 権 力 の 力 は ゼ ロ に 等 し い で あ ろ う て, だ ろ う 。 f言 頼 や 信用 が存在 せ ず に , J C1 九 全 て の 人 が批判 = 批 評 的 で あ っ た な ら , ヴ ァ レ リ ー は こ こ で , 世 界 中 の 紙 を 壊 滅 し て し ま う よ う な 「 病 原 菌 し た が っ 社会 は 存在 し な か っ た ( m icrobe) J を 想 320- ポーノレ・ヴァレリーと表象口代環の「危機 J (森本) 定する。信じられるものの基礎である紙がこの病原菌のために消滅してしまったとしよう 紙幣,証券,条約,証明書,法典,詩篇,新聞など,紙が消滅したと想像してみよ。す ぐさま,あらゆる社会生活は破壊され,そして,この過去の廃域の跡に,未来と可能性と 蓋然性の中から,純粋現実(Ie r e e lpur) の 出 現 す る の が 見 ら れ る (13L 事 態 は 紙 の 治 減 よ り も 深 刻 で あ る 。 な ぜ な ら 信 用 そ の も の が 崩 壊 し て い る の だ か ら 。 あ ら ゆ る 巨 が 条 約 を 破 棄 し , 自 由 も も は や 50 年 前 の よ う に は 要 求 さ れ な い ( 急 進 的 な 党 は そ れ を 否 定 し さ え し て い る ) 。 そ れ は 「 結 局 , 信 頼 の 危 機 ( crise d ec o n f i a n c e )J な の で あ る (14L こ れ は 言 い 換 え る な ら あ ら ゆ る 表 象 体 系 が 日 明 性 を 失 い 信 用 さ れ な く な っ た と い う こ と だ 。 こ の よ う な 点 象 の 危 機 に 対 し て , 日 IJ の 表 象 体 系 を も っ て き て 危 機 を 克 服 し よ う と し て も 無 駄 で あ り , と い う の も , こ れ は 個 々 の 表 象 体 系 の 破 綻 で は な く , 表 象 そ の も の の 危 機 , 表 象 を 表 象 た ら し め て い る 福 用 の 危 機 だ か ら で あ る 。 そ れ は 政 治 的 破 綻 , 経 済 的 破 綻 ( 今 ま で の 引 用 か ら 明 ら か な よ う に ヴ ァ レ リ ー は 明 ら か に 貨 幣 と い う 「 表 象 ニ 代 理 な わ ち 経 済 恐 J に 対 す る 'I 荒 を 念 頭 に お い て い る ) を 必 然 、 的 に 招 く o 家 権 力 は か つ て の 威 信 を 失 っ て し ま っ た 。 歴 史 は も は や 何 の 教 訓 も も た ら し え な し 、 何 故 な ら 有 名 な 一 節 が 示 す と お り . 来 に 後 ず さ り し な が ら 進 ん で い く f 信 用 」 の 危 機 , す (Nous r夜 々 は 未 e n t r o n sdαns l 'a u e n i rareωlons) J (15)からであり, 世界はもはや麿史を参照することで予見しうるような相対的な新しさではなく,絶対的な新し さをもち始めているからである (1 6L我々が世界を認識するために表象として利用しうるもの は必然、的に過去のものだけであるが,過去の歴史からえられた表象では,世界はもはや埋解で きなくなっている。我々の目は未知のものを見たときにも,その光線の具合にあわせて網膜を 調節し明確な視覚像(これは視覚的表象にほかならない)をえることができる。呂はこの場合, 予想しえないものを予見していた。しかしそのようなことは現代世界を見る自にはあてはまら ない(1 7)。ヴァレリーのあるエッセーの題名が示すとおり,現代世界は「予見不可能Ci m pre visi b l e )J な の で あ る 。 こ れ は 歴史 的表 象 の 破産 に ほ か な ら な し 、 こ の よ う な 文 脈 で , ヴ ァ レ リ ー は あ る ヱ ッ セ ー の 中 で ジ ュ ー ル ・ ヴ ェ ル ヌ や ウ ェ ル ズ の よ う なS F 小 説 作 家 に 言 及 し て い る ( fa n t a i s i e )J が 決 し て 絶 対 的 に 新 ( 18L 問 題 は , 彼 ら の 「 空 想 、 し い も の を 想 像 し え な か っ た と い う こ と で あ り , ま た 現 代 の 政 治 的 , 経 済 的 , 社 会 的 な 諸 々 の 表 象 体 系 が も は や S F と 本 質 的 に は 異 な ら な い も の と し て う つ る よ う に な っ た こ と で あ る 。 表 象 が 破 綻 し た と き , 先 ほ ど の 引 用 に も あ っ た f 純 粋 現 実 ( l い は 架 空 の も の に す ぎ な い こ と が 露 見 し た 表 象 を 現 実 的 な 何 か で 補 完 し よ う と す る 「 衝 動 e r e e l pur うj がた ち現れ る 。 あ る j が 生 ま れ て く る 。 法 目 す べ き こ と に , ヴ ァ レ リ ー は こ の よ う な 「 現 実 」 へ の 「 衝 動 」 と し て 戦 争 を 説 明 し て い る 。 -321- 人文学報 つまり平和とは慣習=約定 (con v e ntion) Uiduciaire) の 体系, 記号 間 の 均衡, 本質 的 に 信培 に 基 づ く 建築 物 に す ぎ な い の で あ る 。 そ こ で は 脅 迫 が [実 際 の ] 行為 の 代 わ り と な り , き ん 紙 が 金 の 代 わ り と な り , 金 が 全 て の も の の 代 わ り と な る 。 そ の 時 . { 言 揺 , 蓋 然 性 , 習 慣 , 記 憶 , 言 葉 は 政 治 ゲ ー ム の 直 接 的 な 要 素 で あ る 。 何 故 な ら , 政 治 と は す べ て 投 機 で あ り , 虚 構 の 諸 価 値 に お け る 多 か れ 少 な か れ 現 実 的 な 取 引 だ か ら で あ る 。 あ ら ゆ る 政 治 は 力 の 割 gI (escompte) あ る い は 繰 り 越 し(report) へ と 還元 さ れ る 。 況 (posit ions) を 清算 し 戦争 は つ い に こ う し た 貸借状 真 の 力 の 現存 と 振 り 込 み を 要求 し , 誠意 を 試 し , 金庫を 開 き , 事実を観念に,結果を名声 iこ,出来事を予見に,死を語らJに対立させる。戦争は,事物の 最終的な運命を,瞬間の全く生々しい現実に依存させようとする(則。 こうして第一次世界大戦は富裕で尊大な附(フランスのことであろう)の純粋現実,例えば, その脆弱性を露呈させたのである。 戦争が表象の危機の最終的な帰結であるとすれば,他方,この危機を何とか超克しようとす る試みがなされるのも当然であろう。しかし未曾有の新しさを現出させたtt+界を明確に二重化 するような表象体系を現在のところ我々は保有していないし,そもそも表象 z代理への信用そ のものが失われてしまったように見える。とすれば,ヴァレリーの言うように,世界は「無秩 序j と し て 環 れ る し か な い し . 1 カ オ ス の イ メ ー ジ は カ オ ス 」 と な る ほ か は な い (20L 表 象 に よ る二重化は破綻し,カオスとしての純粋現実が現出するのである。 独裁者,芸術家 信用の危機,表象 z代理の危機の経済的帰結が恐慌であるとするならば,政治的な帰'紡は何 であろうか。そのひとつとしてヴァレリーが戦争を考えていることはすでに見た。他方でヴァ レリーは「独裁者jを,そのような表象と信用の体系の破綻を想像的に解決する万法として考 察しているように思われる。つまり,そもそも「あらゆる社会システムは多かれ少なかれ反出 自然 (contre-nature)であり,自然、はつねに自分の権利を取り戻そうと働いている。生きてい る各々の人間,各個人,ひとつひとつの傾向は,組織された社会を定義するものである強力な 抽象装置,法と儀式の網の目,慣習ニ約定と同意の建築物を破壊あるいは解体しようとしてい る j。自然、はつねに社会を,その信用にもとづいた約定の世界を破産させる脅威でわりえるの である。しかしこの「信用 J ce) ( I[ 社 会 シ ス テ ム の 自 分 自 身 の ] 信 用 と 自 分 の 力 の 優越性へ の 指仰(croyance) (cr~ di t) へ の 信 頼 J と ヴ ァ レ リ ー は書 い て い る ) (co nfian が失墜 す る こ と が あ り う る 。 そ の と き 「 人 間 と 諸 制 度 へ の 信 頼 は 衰 弱 し , 行 政 の 機 能 , 業 務 の 進 行 , 法 の 適 用 は 気 ま ぐ れ や 優 遇 や 慣 行 に ま か さ れ て い る よ う に 忠 わ れ J. -322- 1諸 党 派 が , 同を何 ら かの 目 的 ポール・ヴァレリーと表象=代理の「危機 J (森本) (ide e) へ と 向 け る た め に 権 力 が提供 す る 諸右 法 よ り も , 権力 の 享受 と そ の 低級 な 利益 を 争 う 」 ように見えることになる。こういう無秩序 ( de sord re)と混乱 ( trou ble )の印象こそが,それと は正反対の秩序だった「独法」のイメージを人々の聞に生み出すのである。ヴァレリーはこれ を「一次的で自然発生的な効果,一種の反射行為」であると述べている (200ここで注目して おきたいのは,独裁が, I精神」 の 明 確 な 自 己表 象 へ の 欲望 と そ の 控折 に 由 来 す る も の だ と い うことである。 要するに,精神が政治システムの流動性と無能力の中に,もはや告分の姿を見分けられ なくなると(I ' espri t n ese 陀conna It plus) , 一一 あ る い は 自 分 の 本 賀 的 な 諸 特 徴 , 自分 の 合 理 的 な 行 動 様 式 , カ オ ス と 力 の 浪 費 へ の 恐 怖 を も は や 見 分 け ら れ な く な る と 一 一 一 , 精 神 は 唯 一 の 頭 脳 ( une s e u l e tete) し 本 能 的 に 希 望 す る の 権威 が最 も 迅速 に 介 入 し て く る こ と を , 必然 的 に 想像 ( 22L こ の 引 用 に は , 本 稿 の 白 頭 で 号 i い た 「 精 神 の 危 機 」 と 同 じ (ne p l u ss ereconna Itre> と い う 表 現 が 見 ら れ る 。 し か し も ち ろ ん こ の 明 断 な 自 己 表 象 へ の 欲 塑 は 「 精 神 」 自 身 の 本 性 が 無 秩 序 で あ る こ と か ら , 決 し て 実 現 さ れ る こ と は な い 。 そ れ に も か か わ ら ず 「 精 神 」 は 明 確 な 自 己 表 象 を 欲 望 せ ざ る え な い 。 そ れ が 独 裁 者 へ の 希 求 と な る わ け で あ る 。 そ し て だ か ら こ そ , こ の 独 裁 者 は 「 唯 一 の 頭 脳 て , こ の J と 規 定 さ れ , 無 秩 序 な 世 界 が こ の 「 唯 一 の 頭 脳 」 の 中 に 含 ま れ , 理 解 さ れ f 頭 脳 j が 意 識 的 に 思 考 し , 操 作 す る 明 確 な 表 象 体 系 と し て 構 築 さ れ る こ と が 求 め ら れ る の で あ る 。 独 裁 者 と は こ の 「 頭 脳 」 の 強 力 な 表 象 作 用 の こ と に ほ か な ら な い 。 そ し て こ う し た 文 脈 に お い て , こ の 「 頭 脳 」 の 統 一 性 と と も に , I顔J や 「人格j の 統 一性 が 同 時 に 要 求 さ れ る こ と に な る 。 飢 え が 滋 味 豊 か な 料 理 の 幻 を 生 み , 喉 の 渇 き が 美 味 な 飲 み 物 の 幻 を 生 む よ う に , 危 機 の 不 安 に み ち た 期 待 の 中 で 予 感 さ れ た 危 険 は , 権 力 行 為 の 実 行 を 見 て 理 解 し た い と い う 欲 望 を 牛 ゐ じ さ せ る 。 そ し て そ の た め に , 多 く の 人 々 の う ち に , 強 力 か っ 迅 速 で 、 断 聞 と し て お り , 慣 習 z 約 定 (action) (conventi on) の あ ら ゆ る 障 害 と 全 て の 受 動 的 抵 抗 か ら 自 由 で あ る よ う な 行 動 の イ メ ー ジ が発展す る 。 こ の 行動 は 唯一者 ( u n seu!) に し か属 し え な い 。 巨的 と 手 段 の 明 確 な 視 覚 的 イ メ ー ジ や , 概 念 の 決 断 へ の 変 換 や , 最 高 度 に 完 全 な 調 整 が 生 じ う る の は 唯 一 ー の 頭 脳 (une t e t eseu!) の う ち で し か な し 、 。 そ こ に は 判 断 の 諸 因 子 関 の 一種 の 同 時 性 と 相 性 や , 決 断 に お け る 一 種 の 決 定 的 な 力 と が 存 在 す る が , こ れ ら は 複 数 の 人 間 が 討 議 す る 場 合 に は 決 し て 見 ら れ な い も の で あ る 。 従 っ て , も し 独 裁 が 樹 立 さ れ , も し 「 車 独 者 ( I ' Uni que) J が権力 を と る な ら ば, 公務 の 執行 は , 集 中 と 反省 を 行 う 意志 の あ ら 3 2 3 人文学報 ゆる昨を帯びることになり,ある人格 ( person ne)の様式 ( s t yle)が統治の全行為に刻印さ s a n sv i s a g ee ts a n s accent) れる。これに対して,顔と語調のない国家(l ' E tat, は, 慣 行 や き り の な い 暗 中 模 索 に よ っ て 行 わ れ る , 統 計 的 な い し 伝 統 的 起 源 の 非 人 間 的 な 実 体 や [ 力 の ] 抽 象 的 発 現 と し て し か 現 れ る こ と が で き な い の で あ る (23L 現 代 の 政 治 的 世 界 は 「 人 格 」 も 「 顔 J も 「 語 謂 j も も た ぬ 「 非 人 間 的 な J も の で あ る c こ う し た も の は 「 接 数 の 人 間 が 討 議 す る 場 合 」 に は 決 し て み ら れ な い と い う ( こ の 言 葉 は 当 時 の 反 議 会 主 義 的 言 説 と 無 縁 で は あ る ま い ) (24)0 こ う し た 「頭脳」 の 欠如 が, 現代 の 表象体 系 そ 無 秩 序 で 不 安 定 な も の と し つ い に は 敏 綻 さ せ た の で あ る 。 独 裁 と は こ の よ う な [ 頭 脳 J や 「 顔 j を 惣 像 的 に ( つ ま り 表 象 の レ ベ ル で ) 回 復 し よ う と す る , 本 質 的 に 空 想 的 な 行 為 で あ る 。 近 代 と は , こ の よ う な 表 象 の 危 機 と そ の 想 像 的 回 復 と の 無 限 の 反 復 に よ っ て 木 建 的 に 特 徴 づ け ら れ て い る の で は な い だ ろ う か ( つ ま り 近 代 は 一 度 た り と も 自 己 の 表 象 を 獲 得 し た こ と が な か っ た の で は な い だ ろ う か ) 。 そ し て 独 裁 と は 近 代 世 界 の 必 然 的 な J 局 結 だ っ た の で は な い だ ろ う か 。 先 ほ ど 見 た 近 代 に お け る 世 界 と 社 会 的 道 徳 的 慣 習 と の 不 一 致 を 指 摘 し た あ と , ヴ ァ レ リ ー は さ ら に 次 の よ う に 言 っ て い る 。 「 近 代 t J : l : 界 は 自 分 の た め に ひ と つ の 経 済 , ひ と つ の 政 治 , ひ と つ の 道 徳 , ひ と つ の 美 学 , そ し て 宗 教 さ え も , ー ー さ ら に は … ・ ・ , お そ ら く 論 理 さ え も 探 し て し 喝 。 た だ 始 ま る こ と し か で き ぬ 模 索 , 成 功 も 終 結 も 予 見 で き な い 諸 々 の 模 索 の う ち で , 独 裁 の 観 念 , あ の 有 名 な 『 聡 明 な 倦 =tJ の イ メ ー ジ が あ ち こ ち で 提 案 さ れ , 押 し つ け ら れ さ え す る と し て も 篤 く べ き こ と で は な い j (25)0 こ の よ う な 近 代 の 特 徴 は , い わ ば 一 種 の セ ー の 中 で , ヴ ァ レ リ ー は 者 ( l f 王 殺 し J の 結 束 と し て 生 じ た も の で あ る 。 日 IJのエッ 17 世 紀 に 成 立 し た フ ラ ン ス の 絶 対 王 政 に つ い て 語 っ て い る 。 「 単 独 ' Un i明日) j に 全 権 力 安 集 中 さ せ . r朕 は 国家 で あ る (l 'E tαt で き る 同 王 を も っ 絶 対 王 政 は , 国 家 の 観 念 、 と し て 「 こ れ 以 上 明 瞭 な も の は な い c ' e s tMo i) j と 述 べ る こ と の j も の で あ る 。 こ こ で も 問 題 は 表 象 の 明 瞭 性 で あ っ て , 国 家 機 構 の 何 ら か の 社 会 科 学 的 な い し 政 治 学 的 分 析 で は な い 。 そ し て こ の よ う な 表 象 の 明 膿 性 , 国 家 の 想 像 可 能 性 こ そ が , 革 命 を 可 能 に し た の だ と ヴ ァ レ リ ー は 言 う o r 前世 紀 の わ が 国 の 革命 は ど れ も , 構 成 (co nsti tu ti on c e n t r a l i s e ed upouvoir) そ の 必要十分条件 と し て 権 力 の 集 中 的 を も っ て い た 。 こ の 権力 の 集 中 が あ る た め に , 小 限 度 の 想 像 力 と 最 小 隈 度 の 努 力 の 強 さ と 持 続 だ け で , 冒 険 を 企 て る 人 間 へ 最 ~I 曇 全 体 を 一 挙 に 与 え る と い う こ と が 可 能 に な る の で あ る 」 。 革 命 と は 同 王 を 処 刑 す る こ と だ と い う 表 象 の 明 瞭 さ こ そ が , 革 命 を 可 能 に す る の で あ る 。 し か し 王 を 殺 し た 後 の 近 代 国 家 に は も は や い か な る 人 間 的 な も の も 残 っ て い な し 、 。 そ れ は 「 非 人 間 j 的 な 「 怪 物 ヴ ァ レ リ ー の テ ク ス ト の も つ 論 理 か ら 言 え ば , 近 代 の 政 治 空 間 は , こ の よ う な 主 の 不 在 と 欠 如 を 補 完 し そ れ を 想 像 的 に 呂 穫 す る よ う な 独 裁 者 モ 欲 望 さ せ る 。 独 裁 者 と は 処 刑 さ れ た 壬 の 欠 -324 C m on s tre) j に な っ て し ま っ た (26)。 ポール・ヴァレリーと表象ニヱ代理の「危機 J (森本) 如を想像的に理め合わせる何かなのである。 表象体系の破綻を想像的に回復しようとする方法は「独裁者jだけではない。想像的な解決 はー般に認識しえぬものを認識しなければならないときに現れると言ってよい。ヨーロッパ諸 国の関係が緊迫していた 1 927年にヴァレリーは次のように書いている。「踊俗,理想,政治な ど精神の産物というものは,無眼に錯綜した諸原区lから生じる計算イ、ロJ能な結果であり,そこ では知性も独立因子とその結合の数の多さの中で道に迷ってしまうし,統計もほとんど我々の 役にはたたな L、。このような大きな無能力は人類にとって致命的で‘ある。ある国家を他の国家 と対立させるのは,利害関係よりもこの無能力なのである[. .・ H・]。人間は人間について十分 に知っていないので,急場しのぎの手段に訴えざるえなし、。大雑把で空成な,あるいは絶望的 な解決方法が人類と諸11詩人とに時じように提案され,おしつけられる。 何故なら,彼らは知ら ないからだ j (27)oこのような認識をもっていたとしても,ヴァレリー自身がこうした危験から 自由であったわけではなし、。というのも,ヴァレリー自身が「定義するのが極めて匝難で.:t る j (28) と 認 め る フ ラ ン ス . I異 な る 員族 的 要素j の 混t肴 や , I雑多 な 印」 と 「接 ぎ 木」 か ら な る ために恐るべき多様性をもっ(制フランスの「イメージ」を捕こうとして,彼自身が「独裁有」 成でよの論理と本質的に異なるところのないロジックを用いているからである。すなわち,パリ は「世界の他の Li:<1Iこ対してフランスの仲介者ないし通訳として,また代表(表象口代理)する もの (represent a n t)として役立つ J (30),。 「パリ j はフランス国家のみ;量的な陵雑性に対応する。これほどまでに杷異なる地方, 住民,習慣,方言が,その諸々の関係の台機的な中心,本日;な理解のための仲介者や記念、建 造物を作る必要があった。実際,これこそが, I パ リ J 国有 の 偉大 で 栄 光 に み ち た 機 能 な のである。 f パ I) j は フ ラ ン ス の 事実 上 の 頭 で あ り , 法が集められている。その美と光によって, そ こ に は こ の 国 の 最 も 顕 著 な 知覚 や 反応 の 万 Iパ リ J は フ ラ ン ス に 顔を う え る 。 こ の顔の 上に,時折,この阪の全知性が輝くのだ (3IL バリはいわばフランスの「独裁者jであろう。この想像は,おそらくナショナリスムなどを招 くことはないが,いずれにせよひとつの急場しのぎの想像にすぎなし、。別の陣所では,パリは 「精神」と同じく迷路に富んだ複雑なものに変じ,想像不可能なものであると述べられてい る (32Lヴァレリーを読むとはこのような矛眉を読むことである O ヴァレリーのテクストは,ヴァレリ一自身が批判している表象の市機の想像的解決から決し て自由ではない。彼のテクストはこれに「汚染」されており,このような想像的解決によって 書かれていると言っても過言ではない。おそらくヴァレリー自身が,書くとは何らかの急、場し 3 2 5 人文学報 のぎの表象を与えることだと認識していたであろう。完全に表象の運動から自由なエクリチュ Jレ な ど い っ た い 可能 だ ろ う か。 こ の こ と は先 ほ ど の 「独裁者J の 議論 と , 今挙 げ た フ ラ ン ス と パリの議論を比較すれば明らかになる。まず, 1独裁者」 が 表象 体系 の 破 綻 を 何 ら か の 明 確 な 表象によって一時的に解決するものであるとすれば,それは社会を素材としてうたしい作品を作 ろうとする芸術家に比することが可能である。 独裁者のうちには芸術家がおり,彼の情想、の中には美学がある en y ad el 'a r t i s t edans I ed i c t ateur , e td el 'e s t h et i q u edanss e sc o n c e p t i o n s )(ね L こ の 場 合 , 独 裁 さ れ る 社 会 と は 独 裁 者 の 芸 術 作 品 と い う こ と に な る だ ろ う 。 い 作 品 (ou v rage) が そ の 制 作 者 の 「 名 前 I: 質 の 模 倣 し え な J を 思 い 浮 か ば せ る よ う に ( 叫 独 裁 者 は 自 己 の 摺 有 の 作 品 と し て 社 会 を つ く り , そ こ に 自 分 の 「 人 権 j の 明 瞭 な 刻 印 を 与 え る だ ろ う ( こ の 議 論 は ラ ク ラ バ ル ト の ハ イ デ ガ ー 論 , と く に そ の い も の に な る ) f 問 家 唯 美 E 義 J と 比 較 す る と き い っ そ う 興 味 深 ( お 弘 ヴ ァ レ リ ー の テ ク ス ト は フ ラ ン ス や パ リ を 考 え る と き , こ れ と 論 理 を 用 い ざ る え な か っ た 。 「 フ ラ ン ス は 私 に は ひ と つ の 作 品 j 可 じ よ う な ( ce uv re ) の よ う に 見 え る 。 フ ラ ン ス と い う 国 は , 人 間 の 手 で 作 ら れ , い わ ば ひ と つ の 長 像 ( fig ur e) の よ う に 捕 か れ 構 築 さ れ て お り , そ の 各 部 分 の 多 機 性 は ひ と り の 偶 人 に お け る よ う に 調 和 が と れ て い る と 言 う こ と が で き る 」 悌 ) 。 パ リ は と い え ば , そ れ は s i e c l e s )J(37) と 1 20 世 紀 に わ た っ て 作 ら れ た 作 品 ( ou v r a g ed ev i n g t い う こ と にな るだろ う。 自己の表象化あるいは「ヴァレリー Jという表象 拙稿 Ir危機』のディスクール」において我々は,ヴァレリーが,職人,芸術家,詩人,純 粋な「知」など狭義の「精神」をいかに空しく擁護しようとしているかを見た。ここまで論述 を進めてくると,このことを別の角産から批判することができる。すなわち,こうした狭義の 「精神」と関連づけて引き合いに出されるものは,すべて急場しのぎの「表象 jにすぎないの である。それは表象の危機にさいして提出される.結局は無効でしかない想像的解決のひとつ にすぎない。ヴァレリーのエッセーがしばしば保守的ないし退行的な印象を与えるのはそのた めである Oしかし問題はこれにとどまらなし、ヴァレリーのテクストの語る対象やその用いる 論理がこうした「表象」であるだけでなく,ヴァレリ一自身がそのような「表象Jになってし まっているからである。 うまでもなく,両大戦間期にヴァレリーはフランス第主共和政を代表する古典主義的な詩 人・批評家として (38)数々のエッセーを発表し,ヨーロッパ各地で講演を行ってきた。この活 -326- 代迎の「危機 J (森本) ポール・ヴァレリーと表象 動はこうしたものにとどまらず, アカデミー・フランセーズへの入会,国際連盟知的協力委員 会での活動,地中海大学センタ一理字への就任など,多少とも政治的な舞台にまで広がってい このような中で醸成されたヴァレリーのイメージは, fこ 。 精神」の「擁護省 Jであったと rま 1 1性J の 詩人 で あ り , rヨ ー ロ ッ パ いかえれば,表象の危機がある種の「精神の危 ってよ L 、 ヨーロッパの少なからぬ人々がヴァレリーを「ヨーロッパ精神」という 機jを招いた当時に, ものの「代表(表象ココ代理 r日PI・esent ation) J と 見 な す こ と で こ の 市機 を 想像 的 に 解 決 し よ う としたのではな L、かと考えられる。 ヴァレリーは「ヨーロッパ精神Jを旗じた俳優であったし, ヨーロッパも彼のこのような演技を喜んで受け入れ, それにみずからすすんで欺かれたのでは なかったか。 『カイエ Jの巾で繰り返し r {図性 (perso nn a l i t eJ (自己のもっさまざまな留別的偶在的な特 性,外的な規定,他者 iこ対する日己など)と「純粋白我 (M oi p u r ) J(r個性j との峻別を説き (39 ), る規定性から自由になった地点に措定される白 「闘いの方法として敵に円分を似せてしまう以 tに効果的なものはないし, い。敵の固有の本牲において相手を凌駕できるほどに, の もつあ ら ゆ 1910 年 の ノ ー ト で は みごとな方式もな また彼以上に彼となり,彼以上に彼の モデルに近づくことができるほどに打分を相手に似せるのである。あとはこの似姿を抹殺する だけで十分だ。自分にもどることで勝利するのだ J (40)とまで書き,あるいはスタンダールの 「告白 J, r純真J , ( v o u l o i r @ tre-sincere- r 臼 然、」 な ど へ の 志 向 や , αvec-soi)J ダ ー ル と は だ か ら 俳 優 な の だ ) は 当 然 , の う ち に さ え 本 質 的 な 演劇性 や 約定 を 見 出 す ほ ど に ( ス タ ン ( 4 1 ) , 他 者 と の 関 係 に お け る 演 劇 的 要 素 に 敏 感 だ っ た ヴ ァ レ リ ー 自 分 の 演 じ て い る 「 ヨ ー ロ ッ パ 精 神 」 と い う 役 柄 に 意 識 的 だ っ た は ず で あ る 。 リ ー の こ の よ う な 側 面 は 松 田 浩 J [ レ リ ー は その「日己に対して誠実であろうと欲すること ヴ ァ レ IH こ よ っ て 「 文 化 の コ メ デ ィ ア ン H ・ H ・ . . ] 1922 年, j と し て 要 約 さ れ て い る 。 ヴ ァ 勤 務先 の ア ヴ ァ ス 通信 社 の パ ト ロ ン で あ る エ ド ゥ ア ー ル ・ 1レ ベ ィ 氏の死去により失職したのがきっかけで,精神の価値,知性の危機をより広い大衆にむかつて 訴え始める。このようなヴァレリーのなかには, わち, 高度な演技性を見て取ることができる Oすな ヴァレリーが,単に論旨の展開,発声方法,壇上での身振りを『カイエ Jのなかで周到 に研究していただけでなく, r だ れ も が黙示録 を 書 く こ と が で き る ほ どJ 全 面 的 な 危 機 が 世 界 中を覆い尽くそうとしていた時期にあって, クを駆使しつつ, フランス語が可能とするあらゆる伝統的なレトリッ あたかも精神がまだ有効に機能するかのように, 頼るに足るかのように語り続けたのである。これは, そして,未来も後世も十分 ヴァレリーが危機の深刻さを知らない楽 観主義者なのではなく,事情をすべて承知の上でうったドンキホーテ的な大芝居, モットーのひとつ『信じずに為すJの見事な表現である J (42)0 強 調 し て お き た い こ と は , こ の 演 技 は ヨ ー ロ ッ パ に お け る 「 表 象 の 危 機 」 に 対 す る 想 像 的 解 決 の ひ と つ の ヴ ァ ー ジ ョ ン で あ っ た と い う こ と だ 。 こ こ で 詳 し く 分 析 す る こ と は で き な い が , 3 2 7 テ ス ト 氏 の 人文学報 国連知的協力委員会(学芸常量小委員会)の活動,とくにその f談話会 C E n tretiens) J に お け る知識人たちの言動もそのような枠組みのなかでこそ適切に解釈できるのではないだろうか。 国連の知的協力委員会は 1 9 2 2年に設置され, 1925年 に は そ の傘下 に学芸小委員会が設 け ら れ ヴ ァ レリーもその委員に選ばれた。 1 930年にこれが学芸常置小委員会として改組されると, r国 際 連盟は精神連盟を前提する jというスローガ、ンを掲げたヴァレ I)ーがその中心的メンバーとな り,委員会の活動も技の色彰が濃くなったと言われる。この委員会の事業としては特に,知識 人たちによる「談話会jと「文通 C C orrespondance)J が提 唱 さ れ , そ れ ぞ れ 8 聞 と 4 冊の 出 販 物 が 公 に さ れ た 。 こ こ で 問 題 に し た い の は , 神 の 将 来 1933 年10 月16 CL 'A ven ir !J か ら 1 8 日 に か け て パ リ で 行 わ れ た 「 ヨ ー ロ ッ パ精 d e[ ' e s p r i te u r o p e e n )J と 題 す る 「談話会」 で あ る (参加者 は ヴ ァ レ リ ー , ト ー マ ス ・ マ ン , ホ イ ジ ン ガ , ハ ッ ク ス レ ー , プ ラ ン シ ュ ヴ ィ ッ ク , パ ン ダ な ど 29 名 ) 。 こ れ は 極 端 な ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 台 頭 を 前 に 「 ヨ ー ロ ッ パ 精 神 」 を 確 認 し 擁 護 す る と い う 基 本 的 な 立 場 で 行 わ れ た も の だ が , そ の 際 i こ 「 ヨ ー ロ ッ パ 」 を 定 義 し よ う と し て 持 ち 出 さ れ た 「 表 象 」 に は 次 の よ う な も の が あ っ た 。 ギ リ シ ア ( の ち の 科 学 に 発 展 す る 学 問 的 探 求 心 ) 権 な ど の 法 的 平 等 ) , 古 典 占 代 の 地 中 海 , ロ ー マ ( 市 民 t It 界 , キ リ ス ト 教 ( 真 理 , 道 徳 , 観 念 ) , 騎 士 道 , ル ネ サ ン ス と ユ マ ニ ス ム , グ ロ チ ウ ス ( 国 際 法 ) , ど 。 基 本 的 に 見 ら れ る 図 式 は , J王 義 , 責任 な ど の 18! 任紀 の フ ラ ン ス , などな 18 世紀 ま で フ ラ ン ス を 中心 に 成立 し て い た 「 ヨ ー ロ ッ パ l f+界 」 が19 世 紀 以 蜂 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 台 頭 に よ っ て 破 壊 さ れ た と い う も の で あ る 。 こ の 図 式 が 歴 史 的 に 妥 判 か ど う か は 問 わ な い 。 こ こ で 注 片 し た い の は 「 ヨ ー ロ ッ パ 精 神 J の 表 象 の 危 機 に 対 し て ど の よ う な 形 で 想 像 的 解 決 が 試 み ら れ る か の ひ と つ の 例 で あ る 。 参 加 有 の か か わ ら ず , こ の 3 日 間 に わ た る 「 談 話 会 ~I 籍 の 多 様 性 に も J の す そ で の 議 論 は フ ラ ン ス 語 で 行 わ れ た ら し し 、 。 ハ ッ ク ス レ ー は こ の 事 実 を 指 描 し て , ヴ ォ ノ レ テ ー ル の 時 代 の 合 埋 的 精 神 , い て も 死 ん で い な い , な ぜ な ら 18tl r 紀 の 精神 は 現在 に お 1 8世紀 の 精神 は フ ラ ン ス 語 の 中 に 体現 さ れ て い る か ら だ, フ ラ ン ス 誌 は 確 か に ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 台 頭 後 , ヨ ー ロ ァ パ の 言 語 と し て の 性 質 を か な り 失 っ た が , そ れ に も か か わ ら ず , フ ラ ン ス 語 は い ま な お い く ら か は ヨ ー ロ ッ パ の 言 語 で あ る , そ の ; l i E 拠 が こ の 会 議 で あ り , ヨ ー ロ ッ パ 精 神 の 名 に お い て 集 ま っ た 我 々 は フ ラ ン ス 語 で 話 し た の だ , と 述 べ て い る (43L ハ ッ ク ス レ ー の こ の 怠 見 が ど こ ま で 真 面 白 に 言 わ れ て い る か は と も か く と し て , こ こ に は 表 象 の 危 機 に 対 す る 想 像 的 解 決 法 が 典 型 的 に 現 れ て い る と 言 え る だ ろ う 。 す な わ ち , 危 機 に 対 し て ま ず 危 機 の 存 在 し な か っ た 状 態 な い し そ れ が 解 決 さ れ た 状 態 が 表 象 さ れ る ( こ こ で は 18 世 紀 の フ ラ ン ス を 中 心 と す る ヨ ー ロ ッ パ ) 。 そ し て こ の 方 策 が さ ら に す す む 場 合 は , こ の よ う な 幸 福 な 表 象 に 自 分 た ち 自 身 が な り す ま す と い う こ と が 生 じ る 。 表 象 の 危 機 は , 人 に 幸 福 な 表 象 を 表 象 さ せ , さ ら に 自 己 現 身 を そ の よ う な 表 象 と 化 す よ う に 仕 向 け る の で あ る 。 ヴ ァ レ リ § 身 に 関 し て 言 え ば , 次 の よ う な 事 情 も あ っ た 。 こ の 「 談 話 会 」 は 「 ヨ ー ロ ッ パ 3 2 8 ポール・ヴァレリーと表象=代理の「危機(森本) 研究連盟 (Soci ete d ' e t u d e seuropeennes)J と い う 恒常 的 な 研究会合紺織 の 設 立 を 宣言 し た が, こ の 組 織 提 案 の 経 緯 を 説 明 し て ヴ ァ レ リ ー は 次 の よ う に 言 っ て い る 。 準 備 委 員 会 ( Bur eau )で の 話 し 合 い で は 何 ら か の 決 議 文 を だ そ う と い う 話 も あ っ た が 丹 分 は 反 対 し た , 何 故 な ら 決 議 文 と は 「 行 為 (ac te) J で は な く , (Compagnie)J か ら で あ る た だ 言葉 だ け の も の に す ぎ ず, よ り 効巣 的 な の は 一種 の 「 団 体 を 作 っ て 「 ヨ ー ロ ッ パ精神」 に つ い て の 議 論 を 断 続 的i こ で も 淋 続 す る こ と だ (44L こ の 「 行 為 j と は 政 治 的 行 為 の こ と で は な い ( ヴ ァ レ リ ー は ジ ュ ー ル ・ ロ マ ン に 反 対 し て 政 治 の 問 題 で は な く 「 精 神 j の み を 扱 う こ と を 主 張 し て い る ) の 「 行 為 」 は , 今 ま で 見 て き た よ う な (45) 。 い う な れ ば こ f 演 技 」 を 行 う こ と , み ず か ら を f ヨ ー ロ ッ パ 精 神 表 象 と な し つ つ 言 動 を 行 う こ と な の で あ る 。 先 ほ ど の ハ ッ ク ス レ ー の f 7 の よ う な 「 談 話 会 j な い し 「 研 究 連 盟 論 が 行 わ れ る だ ろ う 。 こ れ は j の U と あ わ せ て 言 え ば , こ j に お い て は 継 続 的 に フ ラ ン ス 語 で 「 精 神 」 に 関 す る 議 18 t 片 紀 の 持 蒙 的 ヨ ー ロ ッ パ 精 神 を 現 在 に お い て 実 現 す る も の だ 。 18 世紀 の 「 ヨ ー ロ ッ パ精神J が現代 の 第一 a流 の 知識 人 た ち に よ っ て 文字 ど お り 「体現」 さ れ, そ れ は 現 代 の 「 ヨ ー ロ ッ パ 精 神 」 に な る だ ろ う 。 表 象 の 危 機 に 対 す る 表 象 に よ る 解 決 の 典 裂 が こ こ に あ る 。 も ち ろ ん こ れ は 松 田 治 則 が 指 摘 し た よ う に , ヴ ァ レ リ ー が 楽 観 主 義 者 だ っ た と い う こ と を 意 味 す る の で は な い 。 そ れ は 行 動 し え ぬ ひ と り の 老 フ ラ ン ス 人 が 行 い え た 最 大 限 の 批 評 的 行 為 で あ り , 現 代 に 対 す る 「 抵 抗 」 で あ っ た と い う こ と が で き る 。 フ ラ ン セ ー ズ に つ い て 1 935 年 に ヴ ァ レ リ ー は ア カ デ ミ ー ・ J 寄 り な が ら こ う 言 っ て い る 。 し か し 孜 々 が 今 見 て い る す べ て の も の [ ア カ デ ミ ー ] は , 対 照 的 に , 混 乱 , 落 ち つ き の な さ , 変 わ り や す さ , 安 易 さ , 真 の あ る い は 見 せ か け の 熱 狂 な ど に 対 す る 抵 抗 の 観 念 を 抱 か せ る 。 人 は , 人 類 の 文 化 の 最 良 の も の に 対 す る 配 慮 が 保 存 さ れ て い る 離 れ 小 島 ( u n11ot) を 思 う 。 実 効力 を も た ず に , た だ 自 分 の 存在(existence) の み に よ っ て, ま た精 神 の 自 由 の 充 実 に お い て 身 を 立 て て い る あ の 何 人 か の 人 々 の 感 情 や 意 見 の 中 か ら 世 間 の 人 々 へ と 広 が っ て い く も の の み に よ っ て , 観 察 と 複 合 的 反 省 と 予 見 の こ の 中 央 機 関 は , 定 義 し え な い が 恒 常 的 な 作 用 を 働 か せ る だ ろ た だ 自 分 の 「 存 在 (48L (ex i stence) J を 「知性」 や 「精神J な 演 技 を す る こ と , 言 い 換 え れ ば 自 分 の 「 存 在 を体現 す る も の と す る こ と , j を そ の よ う な 「 表 象 J に し て し ま う こ と , こ れ が ヴ ァ レ リ ー の 行 い え た 「 抵 抗 」 で あ っ た 。 そ こ に は 当 然 イ ロ ニ ー の 意 識 が 伴 っ て い る 。 「 精 神 」 の 人 々 が 存 在 す る の は せ い ぜ い 「 離 れ 小 島 学 問 を 細 々 と 守 り { 云 え た J の 中 で あ り , あ る い は 「 培 黒 の 中 世 」 に f 修 道 院 」 の 中 だ け な の だ 。 -329 そのよ う 人文学報 これらすべてのもの[法律による拘束,印刷物,報道,広告,時間割など]が我々の頭 脳を狙っている。今に波[電波]も木の葉〔印端物]も入ってこず,政治全般についての 無知が保護養成される厳密に孤立した修道i誌が建立されなければならないだろう。そこで は,速度や数,あるいは大量・驚樗・対比・反復・新奇・軽厄の効果は軽蔑されるだろう。 いつの日か人々はそこに行き,鉄格子越しに自由人のいくつかの見本をしけ、しげと眺める ことだろう (47L ここに改めて現れている演劇のテーマにはもう触れない(知識人とは人々にこのように見られ ている者のことである)。ただここには「自由人jないし f精神の人jを演じ,みずからその ような表象になっているヴァレリーのイロニーが現れているのではないだろうか。「自由人」 が動物国に入れられたかのように人々に見られるというのは,単なる現代社会への警鐘や非難 というものではないだろう。そこにはそのような役ぞ演じている自己へのイロニックな意識が 現れているはずである。 しかしイロニックな意識を伴うにせよ,これが表象の f討議に対する想、{象的解決に加握してい ることにちがいはなし、。それはむしろ表象の危機を隠蔽してしまう。ヴァレリーは表象の危機 の原理的な必然、性を明らかにしえる地点まで考察を進めていたにもかかわらず,そこから惣像 的に退行してしまっている。彼は表象の原型的不口i能性のまえに踏みとどまることができなかっ た。ここでもヴァレリーの批評性は可能性のみにとどまっており,彼はつねに「媛昧Jであっ たと言うことができる。 このような不十分さのために,ヴァレリーの言動は体制)I阻止i主義的な印象を我々に与える。 もちろんあらゆる党派を嫌う彼は,特定の党派のスローガンを信者毒したことはなかった。しか しそれにもかかわらず,ヴァレリーの行動は(彼はそれに秘めて意識的であったにせよ)体制 維持的に機能していたはずで、あって,これが戦間期ヨーロッパにおいて取るべき行動として十 分であったかは大きな問題として残っている。ヴァレ I)ーが息子のフランソワに f私は政府の アナーキストだ」と言ったとき,フランソワは「お父さんがアナーキストなのは,それが都合 が良くて体制l順応的だからだ,慎重だからだ」と言い返した。ヴァレリーの答えは「お前は馬 鹿じゃないな」というものだったという (48弘この子供だけに辛赫なことばはおそらく正鵠を 射抜いている。調患はこうである一一一イロニーと批評とがかりに切り離せないのであるなら ば,批評を伴った行動は存在するのだろうか。おそらくヴァレリーが考えていたように,批評 と日動とは,イロニーと実践とは背反するものなのかもしれない。イロニーは極端な場合,あ 'らゆる積極的な行為へ懐疑を抱き,行動を不可能にしてしまう。批評的な意識は,政治を f偶 像jとみなし,政治的行為が虚構的価値基準に基づいていることを暴露することで,行動への 意志を最終的に萎縮させてしまう。 3 3 0 ポール・ウ、ァレワーと表象=代理の「危機 J (森本) 政治と精神の自由は排除しあう。なぜなら,政治とは偶像だからである。 思うに精神の自由とは,できるだけ速やかに諸観念をその観念としての性費に還元し, 観念とそれが表象するものとが混同されることを許容せずに,観念をその感情的情動的な 価値から分離するような特殊な「自動運動Jなのである。この感情的情動的価値が,観念 の結合可能性を減少させたり偽造したりする。こうしたいわゆる価値なるものは,偶発的 なできごとによってのみ結合される O悲しい観念は,悲しくはありえない観念と,観念を 欠いた悲しみとに分解されるのである。 この「口出 jを,通常「考える自由」と呼ばれているものや. r良心 の 自 由 j な ど と 混 同しではならない。これらは全く外的なもので,意志表示あるいは行動が問題なのだ。こ ういったことを気にする人々においては. r考 え る 自 由 」 も 「良心 の 自 由 J も ー般 に , 今 述べたような「精神の日出 Jとほとんど両立不可能である。 に白山な精神は自分の意見にほとんど執着しな L 、。もしやむをえずに打己のうち じるのを見,この意見とはじめのうちは分離しえないように見える J情緒や感情を感 じる場合,精神は,自分が受けるこういった内的現象に対して反抗する。精神は意見を, その確実な特殊性と不安定性に還元しようと試みる。実際,我々が決心しうるのは,孜々 の性質のうちで最も特殊なものと,現在のうちで段も偶然的なものに譲少することによっ てのみなのである。 自由な精神は,白分を疎外不可能なものCi n ali ~ n abIe) ヴ ァ レ リ ー は 行 動 と 見 な し て い る c r決心 J )を. と し て 感 じ る (制。 r精神J が 偶有 的 な も の に 妥協 す る こ と で し か 行 え ぬ も の O 批 評 的 イ ロ ニ ー は 本 質 的 に 非 行 動 的 な の で あ る 。 し か し だ か ら と い っ て , イ ロ ニ ッ ク な 批 評 意 識 そ 伴 わ な い 行 動 は , 暦 史 に 証 拠 を 求 め る ま で も な く , 危 験 な も の で あ る こ と も 鳴 ら か で あ る 。 批 評 と 行 動 を ど の よ う に 結 合 す る か と い う こ と , こ れ が 今 な お 思 考 の 諜 賜 と な っ て い る の で は な い か 。 註 ( 1 ) 本 稿 は , 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 に お け る 上 野 成 利 を 班 長 と す る 共 同 研 究 班 「 テ ク ス ト の 政 治 学 一 一 危 機 の 時 代 に お け る 理 論 と 批 評 『精神の危機 場 を か り で 感 謝 し た し 、 。 前 半 部 は の 溢 路 一 J に お い て JJ の 後 半 部 を 加 筆 訂 - Jと越して. Eーしたものである。 rT 危 機 1 998年 11 月 26 臼 に 行 わ れ た 報 告 「 ヴ ァ レ リ ー と til l い 発 表 を 聞 い て 下 さ っ た 班 員 各 位 に こ の j の デ ィ ス ク ー ル ヴ ァ レ リ ー と 『 ヨ ー ロ ッ パ 精 神 』 r 仏文研究J 第30 号 (京都大学 フ ラ ン ス 語学 フ ラ ン ス 文 学 研 究 会 . 年 ) に 潟 載 さ れ て い る 。 本 篇 は こ の 論 文 の 姉 妹 編 で あ る が , 独 立 し た 論 稿 と し て も 読 み う る よ う に 脅 か れ て い る 。 ま た , こ れ ら の 論 文 は 狭 義 の ヴ ァ レ リ ー 研 究 者 以 外 の 読 者 も 想 定 し て 書 か れ て 3 3 1 1 9 9 9 人文学報 いるため,ヴァレリー専門家には自明な事柄も煩をいとわず論述しである。そのため一部の読者 には叙.i!Gが冗漫に見えるかもしれないがご容赦路島いたい。ヴァレリーの専門家以外の読者に対し てヴァレリーに特化した論文を書くという営為肉体は,同時代の思:官、を考えるとでヴァレワーに はある程度の範例性があるという惣定を前提している。そのような範例性が本当にあるかどうか, 本論を読んでいただいた上で各読おのご批判をいただければ幸いである。 (2)第一\点については拙稿 < 8i gne e t opElration 品I' epoque d e s premiers Cα h i ers > 167) を, 路 一 一 (3) (Zi 九bun une E lt udeduformalisme v a lElryen , 31, Kyoto University , 1996, p p .1 3 5 ュ 第二点 に つ い て は rT危機』 の デ ィ ス ク ー ル ーー ヴ ァ レ リ ー と 「 ヨ ー ロ y パ 精 神 J の 話通 j を 参照 さ れ た L 、。 本稿 の コ ー ペ ス で あ る 「準 = 政治 的 エ セ - JEss 論 に 関 連 す る 先 行 研 究 ・ 文 献 に つ い て は , 拙 稿 α ! s qu αsi IW 危 機 politiques あ る い は広義 の 文 明 J の デ ィ ス ク ー ル J の 冒 頭 に お い て 不 十 分 な が ら 街 単 な 紹 介 を 行 っ て お い た 。 (4) I 精神 の 危機J , レリー全集j] 中に, X I/260/989)o (筑摩書房, Paul Val Elry , P l e i a d e >, 2vo l. , Lat a b l eronde 以 下, 1977 年-1978 ヴ ァ レ リ ー の テ ク ス ト か ら の 引 用 は , 増 補版 『 ヴ ァ 年) の 宅金数 と ペ ー ジ を 示 し (補 巻 はsup. (E uvres , E ld.J ean Hytier , Gallimard , で表す ) , 括弧の < B i b l i o t h e q u e de l a 1987-1988 の 巻数 と ペ ー ジ を 示 す。 こ れ に 収 録 さ れ て い な い 場 合 は ,1948 の ペ ー ジ 数 を 不 す 。 翻訳 は 既訳 を 参 考 に し , Vu e s , そ の ま ま 使わ せ て い た だ い た と こ ろ も あ る が , 法 ~ 的 に は 矧 訳 で あ る 。 (5)同前, (6)拙稿 XI/29 0/99 II'危機 1) 。 J の デ ィ ス ク ー ル j で 見 た 「 精 神 」 を 「 欲 望 J や 「 過 剰 J と 捉 え る 定 義 も 含 め て , こ れ は , ヴ ァ レ リ ー の 哲 学 嫌 い に も 関 わ ら ず , す で に へ ー ゲ ル に よ っ て 明 確 に 恋 べ ら れ て い る こ と で あ る O 例 え ば へ ー ゲ ル は 「 自 由 J に つ い て 語 り な が ら 次 の よ う に 語 っ て い る 。 「 白 山 は 精 神 の 最 高 の 規 定 で あ る 。 ま ず そ の ま っ た く 形 式 的 な 面 か ら み れ ば , 自 由 は , 1c 観 に と っ て そ れ に 対 立 す る も の が も は や 無 縁 の 異 物 で は な く , 限 界 や 制 犯 と は な ら な い で , む し ろ 主 観 が そ の う ち に 向 日 白 身 を み い だ す こ と に 存 す る J (W 美 学 j] , 竹 内 敏 雄訳 , r へ ー ケザ ル 全集J 第 1 8巻 b , p.305) 。 このような主観と客観の対立が生じたのはそもそも人間が意識的存在だからである。「精神」を 「過剰rJJとみなすヴァレリーの論述はこの点に関して完全にへーゲルに類似する。「動物はお日自 身ともその周回の事物とも和合して平穏に生活しているけれども,人間はその精神的本性によっ て不和や分裂をひきおこし,ここに存する矛盾のうちにのたうちまわる。まったくの内面生活と か,純粋な思考とか,法則とその普遍性の世界とかには人間は亭抱していられず,感覚的存在を 求め,感情・心情・心怠などをも必要とするからである J (p.306) 。 へ ー ゲ ル が 『 精 神 現 象 学J で示したように,このような「精神 J はまず有限な「欲望 jとしてあらわれ,しかもこの「欲望J の「満足」はつねに有限な対象に関わるものだから決して絶対的な満足に達することはない。こ こから矛盾と I t揚との絶えざる弁証法的展開が生じることになるが,哲学の課題とは「この対立 をひとしく普遍的な融和によって止揚しようとする J (i b i d .) こ と な の で あ る 。 す な わ ち 「 知識 欲の衝動や,認識への欲求は,最下級のものから最高段階の哲学的洞察にいたるまで,もっぱら そのような不自由の状態を止揚して,世界を表象と思考のかたちで自分のものにしようとする努 力から生じるのである J (p.307) 。 こ の よ う に 「 精神」 が 自 己 を 疎 外 し た f対象J の 内 に 再 び 自 己を見出すことによって自己に時帰し対立を辻揚するというへーゲルの弁証法は,本質的にヴァ レリーの「表象への欲望 jと同じ論理になっている。ヴァレリーによれば. I精 神 」 は i廿 界 の う ちに自己の似姿を見;れそうと欲望するからである。ただし,ヴァレリーにとってへーゲル約な止 3 3 2 ポール・ヴァレリーと表象=代煙の「危機 J (森本) 揚はつねに不可能なものにとどまっているという相違はある。誤解のないように言っておけば, 以上は,ヘーゲルのヴァレリーに対する影響といったものではない(ヴァレリーはカントは読ん f二の丸 へ ー ゲ ル は お そ ら く ほ と ん ど読 ん で い な い は ず で あ る ) 。 そ う で は な し 二人 の 申 越 し た 思忽家が「ヨーロッパ精神 Jというものに関してっきつめた考察を行った結果として生じた一致 として考えるべきものであろう。 (7) r わ れ ら の 遥命 と 文学J, X II/209 (2/1068) (8) r 精神 の 政 治学J , X1/85 (1/ (X1/124-128). (9) 毘前· 。 10 17) 。 同 じ よ う な 論点 に つ い て は . r精神連盟 を 目 ざ し て J (X 1/215-218) r精神 の 政 治学 の 道 し る べJ な ど も 参照 の こ と 。 X1/85-86 ( 1/1 0 17 );X1/101-102 (1 / 10 29 - 10 30) 。 (1 0 ) こ の 点 に つ い て は 「科学私見J (I X/ 308叩 3 1 9) な ど を 参照 の こ と 。 ( l l ) r精神 の 政 治学J . X 1/105-106 (1/1033 倫1034) 。 ( 12 )r寸 前 · X1/107 (1 / 1 034 ) 。 (1 3 ) 間 前 , X1/108 (1 / 10 35 ) 。 (1 4) 同前, X1/109-110 (1/1035-1036) (1 5) 同 前 · X1/114 (1/1040) 。 。 ( 16 )r知 力 の 決算書 J , X1/138-139 (1/1062-1064) 。 ( 1 7 ) r わ れ ら の運命 と 文学J . X I I / 2 0 5 2 0 9 (2/1065 (1 8) 同 前 · XII/215 蜘216 (2/1073-1074) ( 19 )r 東 洋 と 西洋J , XII/156 (2/1031-1032) ( 2 0 ) r精 神 の 政治学 J . X1/82 (1/1014) 桐1068) 。 。 。 。 な お 「 精神 の 政 治 学 の 道 し る べ j お よ び 「 知 力 の 決 算 書 jのそれぞれ冒頭部分も参照のこと。 ( 21 ) r独裁 の 理 念 J . X11 /79-80 (2/971-972) (22) 同前· XII/81 (2/972 附973) 。 。 ( 2 3 ) r 独 裁 に つ い て J . XII/878 8 (2/978) 。 こ の よ う な 独裁 の 理念 に つ い て は 「 人 の 職 業 j の 忌 終 部 分 も 参 照 の こ と 。 (24) こ の 点 で ヴ ァ レ リ ー を カ ー ル ・ シ ュ ミ ッ ト と 比較 す る の も 無駄で は あ る ま い。 局 知の よ う に シ ュ ミ ッ ト は F 現 代 議 会 主 義 の 精 神 史 的 地 位 J ( 原 書 初 版 1 92 3 年 , 稲 葉 素 之 訳 , み す ず 書 房 . 1972 年〉 に お い て 議 会 制 の 原 理 を 検 討 し , そ の 現 代 に お け る 凋 落 を 指 摘 し て い る 。 彼 に よ れ ば 議 会 総 と は 日 行 命 と 公 開 」 を 原 康 と す る も の で あ る 。 r f \ : : 議 上 ー は 選 本 人 お よ び 政 党 か ら 独 立 ヴ ァ イ マ ー ル 憲 法 に 規 定 さ れ て い る と お り 「 全 国 民 の 代 表 者 し て の 代 議 士 が 「 公 開 j し て お り J で あ り j の 場 に お い て 相 手 を 「 説 得 」 す る べ く 「 討 議 (p . 6) . ( p . 9) . そ の よ う な も の と J す る こ と が , 結 局 , 政 治 上 の 真 理 に 至 る 道 で あ る と す る 思 想 、 が 議 会 主 義 の 根 幹 を な す も の な の で あ る 。 こ こ に 見 ら れ る の は 「 自 由 競 争 と 予 定 調 和 の 思 忽 ム す な わ ち 「 競 争 か ら 自 ず と 調 和 ] が 生 ず る 」 し 「 意 見 の 自 由 な 闘 争 か ら 真 理 が 生 ず る j と す る 「 自 由 主 義 J 的 な 原 理 で あ る ( p .4 8) 。 し か し こ の よ う な 議 会 主 義 の 原 理 は 現 代 に お い て は 凋 落 し て お り , 議 会 は 単 な る 「 交 渉 と 妥 協 」 の 場 と 化 し , 公 開 と 討 議 は 「 一 つ の 空 虚 な 形 式 」 に す ぎ な く な っ て い る 。 党 は 権 力 集 団 と し て 戦 略 を め ぐ ら し , 大 衆 は 宣 伝 に 扇 動 さ れ . r説得j で は な く 「多 数j が 支配 す る よ う に な っ た 現在, 議 会 は ま さ し く 危 機 に 瀕 し て い る と シ ュ ミ ッ ト は 言 う ( p p . lO 悶 1 2 ) 。 こ の よ う な 議 会 主 義 の 衰 退 は 民 主 主 義 の 凋 落 を も も た ら す た 、 ろ う か 。 シ ュ ミ ッ ト は こ こ で , 自 由 主 義 を 原 則 と す る 議 会 主 義 か ら 民 主 主 義 を 区 別 す る 。 民 主 主 義 は 公 開 と 討 論 と い っ た 原 則 と は 関 係 な く . 思 想 、 で あ る r統 治者 と 被治 者 の 同一 性」 を 妥 求 す る 政 治 ( p . 2 2) 。 す な わ ち , そ れ は 国 民 的 向 性 を 要 求 し 政 治 の 場 に 「 人 民 の ; 意 志 -333- j ル 人文学報 ソーの言葉を使えば「般意志」ーーが直接的に実現されることを求めるのである Oその意味で, ボルシェヴイズムやファシズムは反向自主義だが,決して反民主主義ではない。秘密投票と統計 は白山主義的!忠則であるが,一億の私人の集合もそれだけでは人民とはならないし,むしろ投紫 ではなく「喝采 acc1 am ati o Jのほうが人民の意志を民主主義的に表現しうるのである。直接 民主主義に比べれば議会は人工的機械,空虚な機械にすぎない ( p p . 24 - 25, p . 30 )。このように考 えてくれば,いわゆる場独省による独裁が決して反民主主義的なものではないことが分かる。 「人民の意志jを体現するかぎり,独裁者は民主主義者なのである。シュミ γトは以上のことを 次のように要約している。「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在し得るし, 議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は,民主主義に対する決定的な対 \T.物で‘ はないし,また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである J (p .44) 。 シ ュ ミ ッ ト に お け る 「独裁Jの概念をここでこれ以上展開する余裕はないが,いずれにせよ以上の概観からも予感さ れるとおり,ヴァレリーとシュミットの比較はなされるべき研究課題であると言えよう。ヴァレ ザーは独裁を明確な表象への人々の欲望の結果として捉えており,これはシュミット的に言えば 「民主主義」的であると言える。このように独裁を民主主義と関連させ,それを討論を原理とす る議会主義と対立させて捉える捉え方はまさにシュミットのものにほかならない。なお,ちなみ に f独裁の盟念jおよび「独裁について Jが発表されたのは 1 934年のことである。 ( 2 5 ) r 独裁 に つ い て J . XII/91 (2/98 1) 。 ( 2 6 ) r 白 取 を 論 じ 潮 汐 に 倣 う J . XII/72-75 (2/965-967) ( 2 7 ) r フ ラ ン ス 素賠J . X II/106 (2/993 (28) 同 前, XII/104 (2/992) 。 (29) 間 前, XII/109 (2/996) 。 (30) 向前 . XII/112 (2/999) 。 ( 31 ) rパ リ (32) XlI/134 (2/1015) の 存在 J , 陪前 . X I I / 1 3 1 1 3 2 (2/1012 ( 3 3 ) r独裁 の 理念 J . XII/83 (2/974) ド イ ツ 哲学, 。 。 。 姐1013) 。 。 ( 3 4 ) r 質J . XII/360 (Vues. p p . 30-3 (35) 司994) 1) 。 と り わ け ノ 、 イ デ ガ ー の 用 語 で 自 由 間接話法 的 に 脅 か れ た ラ ク ー ー ラ バ ル ト の 書 物 (r 政治 と い う 虚構 ハ イ デガ一 芸術 そ し て 政治J ( 浅 利 誠 , 大 谷 尚 文 訳 , 藤 原 書 店 . 1992 年» と , こ う し た タ ー ミ ノ ロ ジ ー を 嫌 っ た ヴ ァ レ リ ー の 議 論 と を 直 接 比 較 す る の は か な り 難 し い 。 た だ rr 政 治 の 唯 美 化 』 が , 本 質 的 に 閤 家 蜘 社 会 主 義 の 縦 領 を な し て い た ラ バ ル ト の 視 点 は ヴ ァ レ ザ ー の そ れ に 通 J (p. 1I 5 ) と 述 べ る ラ ク ー 蜘 l ま す る も の が あ る ( 例 え ば 彼 が 引 用 し て い る ゲ ッ ベ ル ス の フ ル ト ヴ ェ ン グ ラ ー 宛 誉 衝 は 示 唆 に 富 む 。 「 政 治 は , い や 政 治 も ま た , 芸 術 な の で す 。 〔 … … ] [ 政 治 家 で あ る ] わ れ わ れ は , 粗 野 な 群 衆 を も と に し て , 民 族 の 堅 固 で 全 的 な イ メ ー ジ を 形 成 す る と い う 高 遁 な 責 任 を ゆ だ ね ら れ た 芸 術 家 で あ る と , 自 ら を 感 じ て い ま す 。 芸 術 と 芸 術 家 の 使 命 は , 団 結 さ せ る と い う だ け に と ど ま り ま せ ん 。 も っ と は る か に 深 遠 な も の で す 。 創 造 し , 呉 体 的 な 形 を あ た え , 病 ん で い る も の を 排 除 し , 健 康 な も の に 道 を 開 く こ と , こ れ が 芸 術 と 芸 術 家 の 義 務なのです。[..・ H・] Volkstum [民族性]全体から汲みとる芸術のみが,結局はすぐれたもの で あ り う る の で す J (p. 1I 6» 。 確 か に ド イ ツ ・ ロ マ ン 派 的 な 芸術理論 と ヴ ァ レ リ ー の ( 多 分 に ポ ー の影響下にある) r効 果 の 詩学J と は 相 容 れ な い ( た だ し , 共通する部分があることも確かである。この点は別 ヴァ レ リ ーにはシ ュ レ ー ゲルな ど と iこ稿を立てて論じねばなるまい)。ラクー酬ラ バ ル ト が 明 ら か に ド イ ツ ・ ロ マ ン 派 の 影 響 下 に あ る と す る ( p p . 10 9 - I1 0 )ハイデガーの芸術論から 334- ポール・ヴァレリーと表象ヱヱ代理の「危機 J (森本) すれば,芸術はその本質(真理,アレーテイア〕をテクネーとして作品イとするのであり,このア レーテイアとテクネーの関係は(ハイデガーの最良の場合)決して rep rti s e n t a ti o nの関係では p r e s e n t a t i o n (現前イりである なく, ( p . 162) 。 こ れ に 対 し て ヴ ァ レ リ ー は し ば し ば , ハ イ デ ガ ー が 批 判 し た 「 表 象 作 用 の 確 実 性 」 の う ち に と ど ま っ て い て , 芸 術 制 作 と は 芸 術 家 が 素 材 を 変 形 す る こ と で あ る と す る 。 こ の 場 合 , 芸 術 家 は 世 界 ( 素 材 ) を 表 象 し , そ の 表 象 に お い て 臼 己 の 制 作 の II I ! 念 を 実 現 さ せ つ つ 対 象 を 変 形 さ せ る の で あ る 。 こ の 芸 術 観 の ち が い は 「 政 治 の 唯 美 化 」 に お い て も 現 れ る 。 ラ ク ー ー ラ バ ル ト に よ れ ば , r政治的 な も の そ れ 白 体 が, 術 作 品 と し て , 自 ら を 設 立 し , 自 ら を 組 織 す る ( そ し て 定 期 限 と な の で あ り J (p.122) , 芸術 作 品 の な か で , 芸 j に 自 ら を 再 ー 創 設 す る ) と い う こ r政 治 的 な も の « 都市開家» は 造 形芸術, す な わ ち 脊 成 [ 形 を 作 る こと (fo rm αl i o n) ]と情報[内に作ること ( i nfo rmα t i o n) ] , つ ま り 厳密 な 意味 で の 虚 構 に 騰 し ている」のだが,こういったからといってポリスが人工的な形成物だとか習慣的な形成物だ ということは少しも意味していな L、。そうではなく,政治的なものとは,この語の至高の窓味に おけるテクネーである。そしてこの意味では,テクネーはピュシス[臼然]ぞれ自体の成就と開 示として考えられているのである。だからポリスはまた「向然的 Jでもある。それは,アリスト テレスの模倣論の近代的なだが実際にはひじように占くからの一一解釈によれば, r一 民 族 の精髄 J (ギリシアの精髄)から白発的にほとばしりでた『美しき形成物」なのである J (p.129)。 これに対して,ヴァレリーの表象盟論は,社会をまさに「約定ェェ償習」の産物として考えている。 しかしすでに指摘しておいたとおり,ヴァレリーのいう「精神 J は「世界」の表象とともに自己 自身の表象をも欲望するものとしてヴァレワーに前提されている。この表象を先ほどの意味での 「テクネ - Jと読みかえることが可能であるのなら,精神は自己開示として表象を形成するので あり,このヴァレリーの議論は実はハイデガーのそれからそれほど離れていないという可能性も 残っている O ( 3 6 ) I"フランス素描 XII/119( 2 / 1 0 0 5 ) 0 r 質」 J, で あ る と 述 べ ら れ て い る ( 3 7 )rパ (38) リ の 存在 J , ( X II / 34 7 (Vues , p . 1 4 ) ) 0 X lI/363 XII/130 (2/1012) r現 代詩手帳 J (特集「カイエ フ ラ ン ス は ひ と つ の 「作品 (ce u v re) J も 参照 の こ と 。 。 ヴ ァ レ ザ ー の こ の よ う な イ メ ー ジ と1960 ば, に お いて も, Of: 代以 降 に 起 こ っ た そ の 読 み 換 え と に つ い て は , 例 え j以後のヴァレリー) 1979 年9 月 号所載 の 清水徹, 恒 }I I 邦夫, 三浦信孝の鼎談を参照のこと。 (39) こ の点に つ い て は, r ヴ ァ レ リ ー 全集 カ イ エ 篇J 第 6 巻 (筑摩書房, 1981 年) 所 収 の f 自 我 と 個 性 jの項を見よ。 ( 4 0 ) r カ イ エ B 191OJ , I I / 2 3 72 3 8 (2/576)ο ( 41 )rス (42) タ ン ダ ー ルJ , V I I I / 2 5 9 2 7 9 (1 / 558- 573 )。 松 田 浩I1 IJ I " ヴ ァ レ リ ー あ る い は { 文 化 の コ メ デ ィ ア ン } の 肖 像 J ( 一 橋 大 学 主 催 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム 「 東 と 西 と の 対 話 一 一 ポ ー ル ・ ヴ ァ レ リ ー の 眼 差 し の ド に け る 報 告 J (1996 ) 0 r 命橋 論叢J (第 117巻第 ( 4 3 ) L'Av e n i rdeL 'esprit θ u r o p f! en , 3号, 1997 年 3 月 , p .475) 年 9 月248 ~27 日〉 にお 所載 の 要約 よ り 引 用 し た 。 Paris , I n s t i t u ti n t e r n a t i o n a ld ec o o p e r a t i o ni n t e l l e c ュ tuelle , ( E n t r e t i e nI I I ), 1934, p p .2 8 2 2 8 4 . ( 4 4 ) Ibid. (45) , p p .1 0 9 1 1 1 . こ の 談話 会 は 基本 的 に 政 治 的制 度 の 問題 に は 入 ら な か っ た 。 て 次 の よ う に 言 っ て い る 。 「 最 初 か ら 政 治 , 問 題 や 事 態 の 政 治 的 側 面 は わ れ わ れ の 議 論 か ら 除 か れ る f ご ろ う と い う か i 意 が 形 成 さ れ て い た 。 こ の 禁 則 の 動 機 は 私 に も 欠 け て は お ら ず , そ れ が 効 力 3 3 5 ジ ュ ー ル ・ ロ マ ン は こ れ を 批判 し 人文学報 を欠くとは全く思っていない。しかし思うに,現在においては不可避と考えられているこの禁則 は,われわれの議論を不毛にする恐れがある。[……]つまり私の考えでは,ヨーロッパ精神の あらゆる問題がヨーロッパの現実の存在に従属していることを見ない振りするのは一橋の偽蕎で ある Oもしヨーロッパの現実の存在の政治的諸条件が自由な精神によって考察されないのなら, このヨーロッパの存在は研究されることも定義されることも予見されることもいかなる改良をう けることも不可能なのである J (I bi d . , pp.289-290) 。 ヴ ァ レ リ ー は こ れ に 反 対 し て 次 の よ う に 述べている o I私 の 確 信 は わ が友 ロ マ ン の 縫 信 と 完全 に は ー 致 し な い 。 私 は 精神 そ れ 自 体 , 精神 田有の活動に大きな信頼を寄せており,たとえ孤独者,独房に閉じこめられた者の思想、であって も,同じ問題に極度に集中され適用された思想が空虚で効果のないものでありつづけうるとは想 像できないのである J (p.30 l) 。 そ し て , 政治 は 低級 な 惟現 に 満 ち て お り , そ れか ら 身 を離す こ とが大切なのだということになる。 ( 4 6 )I ア カ デ ミ ー の 機能 と 神秘J , XII/286 (2/1127) ( 4 7 ) I 白 山 を 論 じ 潮 汐 に 倣 う J , XII/76-77 (2/969) 。 。 ( 4 8 ) YranyoisValery , < L ' e n t r e t r o i s g u e r r e sdePaulValery>, i n Pαul politique , e d .SergeBourjea , L'Harmattan ( 4 9 )I 自 由 を論 じ 潮 汐 に 倣 う J, XII/66-67 (2/961 3 3 6 , 1994, p .3 5 同962) 。 Vαl f!ry e tI e