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26号 - 北海道医師会

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26号 - 北海道医師会
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第 26号
2011
室 蘭 市 医 師 会 誌
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第 26号
2011
室 蘭 市 医 師 会 誌
横 山
福 永
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チ
鉄 周
貴
修 司
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[ ﹁
日
浩
純 康
日
召
表 紙
カ ット
土 肥
堀 尾
東
草 場
不
活
巻 頭 一
百
未知と の道遇 そ の後
随 想
東 日本 大 震災 への医療支援
マラ リ ア
最 後 の診 断
室蘭 ∼引 っ越 しを くり返 した果 てに∼
座 談 会
室蘭今昔物語
飯島 三男 日斎藤義 寛 ・澤山 由
亘
木 下 博 日立木 仁 ・神島 博之
1上
Oじ
И仕
疫∪
∩U
l■
1上
4
目
次
ふんかわん
野鳥観察︶から見えて来たもの
バードウオッチング ︵
私 の心身 医療 と の出会 い
開業 一年 半 を経 過 し て
めま いの話
菊 入 剛先生 を悼 む
追 悼 田中豊 典先生
浜 田 弘 巳
第九﹂演奏会
今年 のベートーヴ ェン ﹁
二〇 一一冬季 アジア大会 ︵
カザ フスタン︶に参加して
第 一回市民雪像 ゆきま つりを主催 し て
十 五年経ちました
・⋮ 生 田 茂 夫 ・
斉藤甲斐之助
博 寛
敏
幹
之 志 仁 豊 博 彦 仲 人 亮
追悼 加藤治良先生
編集 後 記
45 42 38 37 36 35 34 32 32 30 28
47
神 成 立 澤 木 上 佐 松 森
島 田 木 山 下 戸 原 田 川
ク
未 知 と の遭 遇″ そ の後
室蘭 市医師会会長
昭
て直 しと し て大病院中心 ではありま したが、診療報酬 のア ップ、 ワクチ ンで予防 でき る病気 の公費負担 など、短期的な対処 は評価
され て いた よう に思 います︶見 ておりま したが、 ほぼ菅 政権も おしま いと いうと ころで、あ の三月十 一日 の大震災 、大津波 、原発
と が明 らか になりました。
政権交代 の生 み の苦 しみ、ど のような知恵を出 し てく る のかと期待 しながら ︵
医療 政策的 には小泉改革 で疲弊 した地域医療 の立
的 に難 しくなり、揚句 に参議院選挙 では泥縄的 な消費 税十 %ア ップなどを 言 い出 し てしま い、民主主義 でも っとも重要と され て い
る過半数を得 ること に失敗 し、福 田内 閣を放り出 させたね じれ国会 が逆 の形 で存続 し、す べての政策 が 一筋縄 では実現 されな いこ
党 の政官民癒着排除 、特別会計 の無駄削減等 々と いう意気込 みが種 々の些末 な スキ ャング ル、沖縄基地 に対す る希望的発言など の
対応 に追われ機能 せず 、当地域期待 の鳩 山内 閣は 三百五十六日 の短命 に終 わりま した。衆議院選挙 での公約 の マニフ ェストが財政
二年前 の巻頭言 に当地域 に関係 の深 い鳩山民主党内 閣誕生、新型 イ ンフル エンザ の流行 に対す る期待 や不安 の入り混 じ った拙文
を載 せ て いただきま した。 こ の二年 間 の歴史 の検 証は いかな るも のになる でし ょう か。民主党政権 の政治主導 、財務省排除 、自 民
)II
事故 が起き てしま いました。国家と いう 巨大な組織 、平時 で の方向転換 には時間がかか ること は容易 に想像 でき、政権交代 の代価
と流れ に任 せられますが、 こ の未曾有 の大災害を 目 の当 たり にし ての民主党政府 の機能 不全 は、半年 た った被災 地 の復旧、復 興 の
現状 を見 るに つけ、被災者 の皆様 の絶望的 な悔 しさ、憤り は いかばかり であ るでし ょう か。野党も含 め て、 こ の間 の国会議 員 の責
任 は重 いも のがあ る のではな いでし ょう か。
-1-
稲
一気 に肺 炎 にな り やす いと いう 特 徴 を 持 ち な がらも 、 予測 さ れ た 強毒
も う 一つの新 型 イ ン フル エンザ は 子供 中心 の流行 であ り 、
型 でな く多 く の犠 牲 者 を出 さず に済 んだ こと は幸 いでし た 。札 幌 では夜 間 、 休 日当 番 医 が夜 中 ま で診 療 す ると いう 事 態 があ り ま し
た が 、 室 蘭 市 医 師 会 では 課 題 であ った 、休 日在 宅 当 番 医 制 度 を 復 活 さ せ る契 機 と な り 、大 き な混 乱 がな か った こと に ほ つと し た次
第 です 。
一方 、 国 の新 型 イ ン フル エンザ 行 動対 策 の見直 しが 遅 れ、仰 々し い防 護 服 で の検 疫 、 ホ テ ルに缶 詰 め 、集 会 禁 止 、修 学 旅
行 禁 止 、出 席 停 止 、出 勤 停 止 一週 間 など マス コミが これ でも か これ でも かと 不安 を 報 道 し 、法 律 と いう のは こう ま で、市 民 生 活 を
適 度 に怖 が る﹂と いう こと が いか に難 し い事 か と
束 縛 、混 乱 さ せ るも のか と 感 じ さ せ ら れ た こと と パ ニ ック にな ら な いよう に、 ﹁
思 い知 ら さ れ た感 があ り ま した 。
百 年 に 一回と いう 経 済 混 乱 のリ ー マンシ ョ ツクを 経 験 した のも 束 の間 、千 年 に 一回 の大 災 害 や、絶 対 安 全 であ ると の前 提 の原 発
想 定 外 ﹂ は許 さ れ なく な り ま し た 。特 に、家禽 類 の大 量 屠 殺 の報 道 を 見 る に つけ 、 H 5 N lな ど の強 毒 型
事 故 を 経 験 し 、安 易 な ﹁
が や や毒 力 を 弱 め 、 ヒト ー ヒト間 で大 流行 す る のは時 間 の問 題 と さ れ て いるよう に思 わ れま す 。 W H O、 C D Cな ど の海 外 情 報 に
も 目を 配り 、真 摯 な職 業 意 識 や職業 倫 理 を 基 にし た職 能 集 団 と し て知 恵 を 出 し合 って いか な く てはな ら な いと 思 っており ます 。
現 在 、 ユー ロ圏 、米 国を 中 心 と した世 界 経 済 の大 混 乱 への予兆 の中 、 日本 も そ の影 響 を 避 け る こと が でき ま せ ん。特 に、 医 療 、
介 護 、年 金 にか か わ る社 会 保 障 の財 源 論 に結 論 を 出 す こと が でき な く 、 国 民 の大 事 な セ ー フテ ィーネ ット であ る国 民皆 保 険 制 度 か
ら離 脱 せざ るを得 な い生活 困窮者 が多 数 生 み出 さ れ ており ま す 。世 界 が 評価 す る皆 保 険 制 度 が成 立 し 五十 年 が経 ち ま し た 。 日本 医
師会 は ﹁
社 会 的 共 通資 本と し て の医 療 ﹂ を 具現 化 す る制 度 と し て維 持 、発 展 を訴 え ており ま す 。市 民 が戦 って勝 ち得 た 制 度 ではな
いです が 、 グ ロー バ リゼイ シ ョン の名 のも と 、米 国流 が至 る所 に入 って こよう と し ており ま す 。 み んな の力 で大 事 に擁 護 し 、拡 充
し て いか ね ば な ら な いと 思 いま す 。
-2-
場
東 日本 大震 災 への医療 支援
車
鉄
周
む タイ ヤ に冷 や汗 を感 じた 。宮 城県気 仙 沼 に入 った のが 四 月 七
日。
一ヶ月 が経 とう と す るも 、瓦礫 は道 路 周 辺 のみ除去 さ れ、
大 部 分 は放 置 さ れ て いた 。腐 った魚 の にお いが町 中 にし み こ み、
陸 に積 も った ヘド ロが乾 燥 し て砂塵 と し て町 中 で舞 い、 目 が痛
んだ 。
初 日 は保 健 師 と 共 に、被 災 住 宅 に残 る住 民 の健 康 状 態 を 把 握
す るた め 一件 ず つ訪 問 。衛 生状 態 も 悪 い中 、懸 命 に清 掃 す る住
民 の復 興 への熱意 には胸 を 打 た れた 。 翌 日か ら は幸 い被 災 しな
を 大 き く 感 じ 、 これ は大 変 な こと が起 き た かも し れ な いと いう
予感 があ った 。
一九 九 五年 一月 、大 学 二年 生 の時 に京 都 で感 じ
二〇 一 一年 三月 十 一日 の大 震災 発 生直 後 、室 蘭 でも そ の揺 れ
お いて心 理的 スト レ スが高 ま り 、様 々な 健康 問 題 が生 じ て いる
る った 。 ま た 、最終 日は気 仙 沼 市内 の辻 難 所 に て、集 団生 活 に
慄 然 と しな が ら 、褥倉 の処 置 や栄養 管 理 、感 染 症 治 療 に腕 を ふ
る中 、 必 死 で母親 を抱 え て自 家 用車 で逃 げ てき た被 災 者 の話 に
︵
本輪西 フ ァミリークリ ニック︶
た 阪 神 大 震災 の揺 れ に何 か似 て いた か ら だ 。と り も な お さず 、
と いう 報 告 を受 けた 。病 気 の管 理 より も 、避 難 所 全 体 の食 生 活
か った在 宅 息 者 宅 への訪 問診 療 を 実 施 。す ぐ後 ろま で津 波 が迫
翌朝 、神 戸 へ友 人 と 出 か け 、被 災 地 への支 援 物 資 を仕 分 け し 、
や生 活 環 境整 備 への検 討 が急 務 と実 感 した 。
瞬 く 間 の四 日間 の支 援 を終 え て、住 民 や地 元 の医 療 関係者 の
避 難 民 に手 渡 す ボ ラ ン テ ィ ア に従事 した こと を 思 い出 し な が ら 、
今 回 は 一体 何 が でき るだ ろう かと 信 じ が た い映 像 を T V で見 な
医 療 法 人 の理事 長 と いう 立 場 、 そ し て 一人 の医 師と し て の立
う 実 感 を 覚え た 。良 く あ る病 気 を し っかり診 断 治 療 し 、手 に負
のよう な家 庭 医 、プ ライ マリ ・ケ ア医 は大 いに貢 献 でき ると い
不屈 の精 神 に感 銘 を 覚え つ つ、 そ れを サポ ー トす るた め に我 々
場 、 両 面 で の支 援 を検 討 す る 日 々。 阪神 大 震災 と 異 な り 、放 射
え な いも のを 手 際 よく 紹介 す る判断 力 。 そ し て、介 護 や保 健 の
が ら ぼ ん やり 考 え て いた 。
線 被 曝 のリ スクが高 いこと が 、法 人内 の若 手 医 師 の派 遣 に躊 躇
当 てら れ るが 、災 害 医 療 でも プ ライ マリ ・ケ アは必 須 であ る。
コメデ ィカ ル の皆 さ んと 連携 し な が ら 地域 全 体 の問 題 に対 処 す
我 々 の所 属 す る 日本 プ ライ マリ ・ケ ア連 合 学 会 が立 ち 上 げ た
す る こと に つな がり 、私も 含 め てリ スクを 踏 まえ て支 援 でき る
P C A Tと いう 医 療 支 援 チ ー ム のメ ンバ ーと し て、ま ず は東 京
現在 も 、我 々 の法 人 か ら は被 災 地 支 援 を 一∼ 二名 / 月 で継 続
し て いる。
一時 の ニーズ は減 った が 、 まだ や れ る こと はあ り そ
る包 括 的 ケ ア の経 験 。と かく 、 D M A T等 の救 急 医 療 に視 点 が
の本 部 で被 災 地支 援 で の基 本 情報 を 学 習 。 そ し て、 チ ー ム三名
う だ 。と も か く 、東 北 が復 活 す るま で細 く 長 く貢 献 した い。
メ ンバ ー七名 で の支 援 を 地 震 発 生 二週後 か ら 順 次 開始 し た 。
で レ ンタ カ ー に て 一路 被災 地 へ。東 北道 は大 き く ゆが み、た わ
3
炎 を か な り診 て いた のでグ ラ ム染色 、 ギ ムザ 染色 標 本 を 鏡 検 す
第 一病 日 は 顕微鏡 を 見 て いるだ け で過ぎ た が、 異 常白 血 球 は
る のはあ ま り苦 にな ら な い。
認 めら れ な か った 。第 二病 日、点 滴 輸 旗 中 、突 然 悪寒 戦 慄 、 四
十 度 の高 熱 が約 四時 間続 く 。 ア スピ リ ン服 用 さ せ るも 効 果 な し 。
大 量 の発 汗 ︵
パ ジ ャ マ、 シ ー ツ全 部 交 換 ︶、 そ の後 急 に 三十 七
度 台 に解 熱 し全 身 倦怠 を 訴 え 、虚脱 状 態 と な る。 し か し食 欲 も
第 三病 日、
昨 日 の症状 が嘘 のよう にケ ロ ツ
あ り よく 眠 って いる。
数 え て いた時代︶、心 電図 など当時 の船 貝保険 診療 所 で出 来得
液 一般 ︵
臨床検査 セ ンターが無く、血球計算も全 て顕微鏡 下 で
かなり楽 にな ったと いう のが訴え であ る。胸部 エック ス線、血
着 用す るも寒 さは取 れず遂 に風呂 へ入 ったが駄 目 で、そ の後急
に四十度 の高熱 が何時間か続き 、大 量 の発汗を したが、今 日は
の熱 が続 いて いたが、昨 日突然寒 さ で体 が震え 、毛布 を何枚 か
体 温三十 七度 、広島 で の原爆被爆者手帳を持参 し て いる。約 二
週間前 に マニラを出港 、約 一週間前 から風邪気味 で三十七度台
員が高熱と震え で入院 した。全身状態 や ゝ衰弱 、軽度 の貧血、
の秋だ ったと思う 。 マ号 フ経由 の外航船 の四十 五歳 の日本人船
室蘭船員保険診療所 に勤務 し てから約 二年後 の昭和 四十 一年
報 告 が多 く み ら れ る よ う にな った が 、 不 幸 に し て死 に 至 った
人 達 が増 え 輸 入熱帯 病 の代 表 的 なも のと し て、 マラリ ア の症 例
な 一外 科 医 の輸 入 マラリ アと の戦 いであ った 。
無 事 本 州 の自 宅 に帰 す こと が出 来 た 。 以 上 が卒 後 八年 目 の無 知
チ に使 用 さ れ て いた ク ロ ロキ ン三 日間 服 用 で劇 的 効 果 があ り 、
キ ニーネ は既 に国内 では製 造 さ れ てなく 、慢 性 腎 不全 と リ ウ マ
た が壊 れた よう な赤 血球 内 に青 黒 く 染 ま った マラリ ア原 虫 の二、
も う 一度 血 液 塗 抹 ギ ムザ染 色 標 本 を 作 り 鏡 検 す る。 そ れ ま で
は白 血病 を疑 って赤 血球 は み て いな か った 。少 し時 間 がか か っ
熱 マラリ アを 疑 う 。
下あ り 。 こ ゝら でや つと 発 熱 が 四十 八時 間 の波 状 熱 であ り 三 日
日、輸 液 中 、 二日前 と 全 く 同 じ 悪寒 戦 慄 、高 熱 、急 激 な 体 温 降
マラ リ ア
東 浩
と し て いる。当 時 の輸 旗 セ ット は消 毒 した ゴ ム管 を 使 用 し て い
る範 囲内 の検査 では白 血球数 の軽度増加と尿 ウ ロビ リ ノーゲ ン
陽性 以外病的所見 はな い。食欲もあり重症 にみえ な い。息者 の
ケ ー スは マラリ アを 念 頭 に置 けば救 命 し得 た と 思 わ れ るも ので
︵
元室蘭船 貝保険診療所 ︶
訴え の高熱 、震え の原 因が不明 のまま抗 生剤投与と輸液 で経過
あ る。私自 身 は こ の苦 い経 験 を し て以来 、外 航 船 員 の高 熱 には 、
た のでゴ ム管 内 への塵 の混 入も 疑 い新 品 に取 り換 え た 。第 四病
を見 ながら被爆者 であ る のが気 になり白 血病を疑 った。血波塗
そ の後 、昭 和 四十 年 後 半 にな ると 海 外 の未 開発 地 へ旅 行 す る
三 の小体 を 認 め、 三 日熱 マラリ ア の診 断 が つ いた 。治 療 は塩 酸
抹ギ ムザ染色 で鏡検す る。船 員診療所 に勤 め てから沐菌性尿道
4
な が ら 勤 務 し てき た が 、 そ の後 幸 いにも 二度 と 診 る こと は な
女 を みた ら 妊 娠 を 疑 え の例え の如 く 、常 に マラリ アを 思 い出 し
も のは ほと んど整 理 、処 分 し た が 、 な ぜ か メ フ ァキ シ ン錠 ︵一
これを機 会 に臨 床 か ら離 れ る こと になり 、今 ま で の医 療 関係 の
平成 二十 一年 十 二月 室 蘭船 員保 険 診 療所 は廃 止 と なり 、私 は
旅行医学
参 考 図書
中 へ入 れ てあ る。余 程 マラリ ア に憑 か れた のか な 。
箱 六錠 ︶だ け は破 棄 せず 、使 用期 限 の過ぎ た今 も 机 の引 出 し の
か った 。
マラ リ アは古 来 日本 では蔓 延 し た 病 であ り ﹁
嬉﹂ ︵
わらはや
み 。お こり ︶ と よ ん で いた が、源 氏物 語 にも 登 場 し て いるし、
平 清 盛 の死 因 が ﹁お こり ﹂ であ つたと いう 説 は有 名 であ る。
昭 和 にな っても 国内 ではあ り ふ れた病 気 であ り 、太 平 洋 戦争 で
酒井 ︻
ンゲ
海老 沢 功
海外 で健康︱ 知恵袋
病 が語 る日本史
し か し 、終 戦後 日本 国内 の衛 生状 態 の向 上 により 昭和 三十 年 頃
宮 崎 豊
は多 く の将 兵 が東 南 アジ アで マラリ ア のた め戦 病 死 し て いる。
か ら は新 患 者 の発 生 は なく なり 、 昭 和 四十 年 代 に入 ると 日本 で
は過 去 の病 気 と な って医療 関 係者 か ら忘 れ ら れ て いた 。病 理 学
で マラリ ア の眸 腫 、精 神 科 で の梅 毒 の進 行 麻 痺 の マラリ ア発 熱
-5-
療 法 の講義 を 思 い出 し た のは息者 が退 院 した後 のこと であ る。
し か し、直 接 死亡 す る こと が無 く良 性 マラリ アと 言 わ れ て い
る三 日熱 マラリ ア、 四 日熱 マラリ ア、卵 型 マラリ ア、重 篤 で死
亡 す る こと も あ る熱 帯 熱 マラリ アと も 、世 界 では いま だ に猛威
を 振 る いア フリ カを 中 心 に東 南 アジ ア、 イ ンド では毎 年 二億 人
か ら 四億 人 が罹 り 、 百 五十 万 人 か ら 二百 五十 万 人 が死亡 し て い
る病 気 であ る。 予防 薬 、治 療 薬 と も 数種 類 あ る が 、
一部 を 除 き
国内 では入手 困難 で厚 生労 働 省 熱 帯 病 開発 研究 班 の医 療 機 関 だ
け に抗 マラリ ア薬 は保管 さ れ て いる。薬 剤 耐 性 の マラリ アも 発
生 し て いるが 流行 地 を 旅 行 す る人 は必ず 予防 薬 を 服 用 す べき で
あ る。 四 , 五年 前 久 光 製 薬 株 式 会 社 から や つと 待 望 の マラリ ア
予防 薬 メ フ ァキ シ ン ﹁ヒサ ミ ツ﹂錠 2 7 5 ︵一般 名 塩 酸 メ フ ロ
キ ン︶ が発 売 さ れ 、船 員診 療 所 でも 海外 旅 行 者 、 ヒ マラヤ登 山
者 な ど へ処 方 し て いた 。
0と ア■入
フ°
最 後 の診 断
昌
司
後 三日以内 ︶ の場合 、末梢血を採取 し、持参 した血液検査試薬
ト ロポ ニンT検査 ︶、心筋 梗塞 があ った
に滴 下す る事 により ︵
かどう かが、あ る程度推定 でき る。採 血は大 腿静脈 や手背 の静
脈 など、心臓 から離 れた部位 の血波を用 いなければ いけな い。
最近 、ト ロポ ニンT検査を鎖骨 下静脈 血 で行う医師 が いて、刑
尾
何
事 さん達を困らせ て いる旨 の話を聞 いた。医師 の言 い分 は ﹁
堀
刑事 一課 ﹂ で大
東 町 の室 蘭 警 察 署 三階左 突 き当 た り にあ る ﹁
︵
堀 尾医 院 ︶
ま か な 説 明 を受 け た後 、階 段 を 降 り 署 の右 手 裏 側 に建 って いる
処 から採 血 し ても 同じ でし ょ。
﹂と いうも のだ。生き て いる人
ならそ の通りだ。しかし死体 の場合 は違う 。私 は実際、大 腿静
ど んな死体 でも ト ロポ ニンTは心臓内と、滲 みだ し得 る周 辺 の
2G針と
血管 ︵
鎖骨 下静脈も含 ま れる︶ には存在す るからだ 。 2
。
l
5︲
mのシリ ンジを使 つて腑 mも採 れれば検査 が でき る そ の他
、
。
に心臓 血 Ю l
mの採 取も求 められ る 右心房 が狙 い易 いが 新 し
8Gサ︲ フロー針 で鎖骨 下静脈を狙う方 が易 し い。
い遺体 なら 1
検柔 は、選ば れた検柔医以外 の医師 が行 う事も少 なくな い。
安 置 室 へ向 かう 。 マスクを 付 け扉 を 開く 。数 人 の刑事 達 に囲 ま
れ て、 中央 の ス テ ンレ ス の台 に仰 向 け に横 た わ って いる のは人
間 の変 死体 であ る 。
脈 血 で陰性だ ったト ロポ エンT検査を同じ遺体 の鎖骨 下静脈 血
後述︶
で試 した事 があ る。結 果 は陽性 だ った。死体検柔講 習 ︵
でも 、講師 が大腿静脈 から採 血す るよう強く注意を促 し て いた。
刑事 さ ん達 が既 に進 め て いる のが人 定 調査 だ 。古 い遺 体 では 、
指 紋 、掌 紋 の鑑 定 、 最終 的 には D N A鑑 定 を し な いと 人定 が出
全 てと は言わな いが、鎖骨 下静脈 は偽陽性 が出 る確率 が高 い場
所 であ る事を確認し ておき た い。
次 に後頭 下穿刺 で脳脊髄液を採取す る。脳脊髄旗 が透 明だ か
来 な い事 も多 い。
の約 四割 は便 箋 に書 か れ て いるが 、残 り の六割 は新 聞 の折 り 込
らと言 って脳内出血を否定 は できな いし、脳梗塞 の場合 、多 少
自 殺 が疑 わ れ る場 合 は 、遺 書 の有 無 が チ エックさ れ る。遺 書
みチ ラ シ等 の裏 に走 り書 き さ れた物 で、自 殺 の多 く が行 動 的 に
の例外 はあ るも のの出血が起 こらな いので髄液 では診断 でき な
検 案 医 の仕 事 にな る。部 屋 に残 さ れ た薬 袋 の病 院 名 と 中身 の薬
仕方 なく包括的な言 い方 で ﹁
脳出血﹂と推定診断す る。脳底部
が疑 われ る場合 、CTが出来な いので両者 の区別 は出来な い。
い。血性髄液 であり 、﹁
くも膜 下出 血﹂か ﹁
脳内出血 の脳室穿破﹂
決 断 さ れた事 を物 語 って いる。
剤 、薬 情手 帳 な ど か ら 、持 病 が推 定 さ れ る。携 帯 電 話 で主 治 医
の血管 に針 が当 た った場合 、ド ロッと した血液 が吸引 され る。
事 件 性 が薄 い場 合 、病 死 の可能 性 が 調 べら れ る。 これ が主 に
死
と 連 絡 を と り 、具 体 的 な情 報 を得 る事 も あ る。新 し い遺 体 ︵
-6-
これを 血性 髄 液 と 判 定 し ては いけ な い。 場所 を変 え て刺 し直 さ
な い無 力 感 を感 じ る。我 々の経 験 では 、総検 案 数 の 1/ 3が外
れ て いる。 止 む を得 ず ﹁
急 性 心 臓 死 ﹂ と 書 く 場合 、何 と も 言え
因死 ︵
自 殺 、事 故 、他 殺 ︶、 2/ 3が内 因 死 ︵
病 死 及び自 然 死 ︶
。
であ るが 、内 因 死 の中 で死 因 が判 明 し た のは約 0
5% に過ぎ な い
残 り の約 0% は死 因 不明 であ る。ち な み に全 国平 均 では死 因 不
5
0∼ 0%。監 察 医 制 度 ︵
3区 な ど では 、
明率 が 6
後 述 ︶ のあ る東 京 2
7
わず か 5% であ る。道 内 でも いち 早 く 血液 と 尿 の検 査 キ ットを
な け れば いけ な い。
体 では こ こ に挙 げ た検 査 は 困難 にな る の で、事 件 性 が疑 わ れ る
後 述 ︶ を 取 り 入 れ る等 、室 蘭 市 医 師 会 と 室 蘭 警
常 備 し、 A I ︵
膀 肌 穿 刺 か導 尿 カ テー テ ル で尿を 採 取 し 、持 参 した 尿検 査 試
場 合 のみ解 剖 に回 さ れ る事 にな る。冬 の暖 房 のな い部 屋 で発 見
察 署 の検 案 活 動 に対 す る取 り組 みは全 道 でも 高 く 評価 さ れ て い
留 守 着 信 の有 無 な ども 有 力 な手 掛 り にな る。
は推 定 でき る。新 聞 や郵 便 物 の取 り 込 み。携 帯 電話 の通話 記 録 。
テレビ や ラジ オ の スイ ッチ は O Nだ った か な ど か ら 、 昼 か夜 か
死亡 時 間帯 が推 定 でき るが 、数 日を 経 た と 思わ れ る遺 体 は難 し
い。 居 間 の照 明 は点 いて いた か 。 カ ー テ ンは閉 じら れ て いた か 。
合 は 、 死後 硬 直 の程 度 、範 囲 。直 腸 温 な ど か ら 、 か なり 細 か な
全﹂ ﹁
心 臓麻 痺 ﹂ と いう 文 言 を 使 用 し ては な ら な い。﹂ と いう 、
診 断 書 の書 式改 訂 ﹂ を行 った 。 困 った のは法 医 学 者 や
愚 かな ﹁
た厚 生省 は 、平 成 七年 、 ﹁死 因欄 に ﹁
急 性 心 不全 ﹂ 冒 心
性呼 吸 不
明 率 が高 いのであ る。 そ れを 先進 国 か ら指 摘 さ れ 、大 恥 を か い
が ほと んど行 わ れ な いので、欧 米 先進 国 に比 べ、極 端 に死 因 不
る が、 そ れ でも 全 国平均 の死 因 不明率 を Ю% ほど 少 なく 出 来 た
に過ぎ な い。
薬 を 飲 ん で いた か 、大 雑 把 に知 る事 が でき る。腐 敗 の著 し い遺
精 神 薬 、抗 う つ剤 、 コカイ ン、大 麻 、覚 醒 剤 な ど を含 めど んな
ト ライ エージ ︶ に滴 下す る事 により 、 そ の人 が睡 眠薬 、向
薬 ︵
さ れ た遺 体 は 死後 二∼ 三週 間 でも 検 査 可能 な事 も あ る。
死者 の唇 が ワナ ワナと 震 え て いてド キ ツと した事 があ る。 日
検 案 医 達 であ った 。ま とも に解 剖 が出 来 な い以 上 、 判 ら な いも
死 亡 時刻 の推 定 も 大 切だ 。新 し い遺 体 ︵
死後 一日以内 ︶ の場
唇 の結 合 組 織 内 で無 数 の岨虫 がう ご め いて いた のだ 。 虹虫 は夏
末 な現 状 であ る。
心 臓 死 ﹂ と いう 言葉 に置 き換 え て使 って いると いう 、誠 にお粗
のは判 ら な い。 し かた なく 、使え な い ﹁
急 性 心 不全 ﹂ を ﹁
急性
日本 では監 察 医 制 度 が機 能 し て いな い。 死 因究 明 の為 の解 剖
mに成
な ら 死後 一時 間 で産 卵 さ れ、次 の日 には孵 化 し 、仏 長 4 m
m、5 日 で 2 mにな る。 そ の後 蛹 に な り 十 日前 後
長 。 3 日 で9 m
1m
で羽化 す る。毎 日産 卵 が行 わ れ るか ら 、虫 の中 で 一番 成 長 し て
事 件 性 を含 め た外 因 がな いと推 定 さ れ 、 か つ、どう し ても 内
集 団 が 、充 実 し た設備 を 駆 使 し て検 案 や解 剖 を行 う 制度 の事 で
N E S﹂等 に出 てく る よう な 、医 師 を 含 め た変 死 体 専 門 のプ ロ
監 察 医 制 度 と は 、 ア メリ カ のT Vド ラ マ ﹁C S I﹂ や ﹁BO
因 が わ か ら な い場 合 は 、 死 体 検 案 書 に ﹁
急 性 心 臓 死﹂ ︵
後 述︶
いる物 を 手 が かり に逆算 す る。
と 記 入 す る。検 案 は そ の人 が受 け る最後 の医療 行 為 だ 。 死者 の
あ る。 ほと んど の欧 米 先進 国 では こ の制度 が運 用 さ れ て いる。
太 平洋 戦 争 敗 戦直 後 、上 野 の地 下道 で浮 浪者 の死 亡 が多 発 した 。
声 を 聞 き 取 る耳 、 ﹁
最 期 の診 断 ﹂ を 下 す 努 力 が我 々に は求 め ら
7
と こ ろ、 そ のほと んど が肺 結 核 に起 因 し て いた 。 これ により 、
餓 死だ な ﹂等 と 診 断 す る様 な お粗 末 なも のであ った 。浮
めて ﹁
浪 者 の相 次 ぐ 死亡 に不 審 を 抱 いた G HQ が独自 で解 剖 を 行 った
そ の頃 の日本 に掛 け る検 案 と いえ ば 、医 者 が遺 体 を遠 く か ら眺
が証言 したも のだ。
︶石垣島 に着 いた妻 は、 ホ テル のチ ェック
事 の顛末 は、たま たま 二人 に同行 し て いた妻 の友 人
ま せた。 ︵
飲 ん でおき な さ い。
﹂と 、妻 に 二重 にな った白 いカプ セ ルを飲
く から。あ、そう そう 。こ ﹂れは い つも の滋養強壮剤だ から、
こ の制 度 が 日本 中 に広 が って行 く事 を期 待 し た のであ る。 し か
七都 市 には 日本 全 人 口 の1/ 3が集 中 し て いた ので、 G HQ は
急性心臓死﹂と診断 さ
わからな いから不明 の内 因死、 つまり ﹁
れ て いたかも しれな い。完全 犯罪が成立し て いた可能性 は高 い。
脊髄液もき れ いで、末 梢血検査 では心筋梗塞 でも な い。原因が
の時 Kは那覇 におり、完全 な アリバイ が成立 し て いた。も し、
妻 が監察医制度 のな い地域 で死亡し て いたら、外傷も な い。脳
イ ンを済ま せた直後 に苦 し み出 し、島 の病院 に救急 搬送中 に心
何 人 の命 が救 わ れ た のか は定 か でな いが 、 こ のま ま では いけ な
3区 、横 浜 市 、名 古 屋市 、京 都 市 、 肺停止と な った。 二重 カプ セ ル服用から 二時間後 であ った。 こ
いと 判 断 し た G HQ は 、東 京 2
大 阪 市 、神 戸市 、福 岡 市 の七 都市 に監 察 医 制度 を 置 いた 。 こ の
し 、監 察 医 制 度 下 では 、高 頻度 で解 剖 によ る死 因究 明 が行 わ れ
現在 で 一体 約 二十
る為 、当 然 な がら多 く の予算 が 必 要 と な る ︵
沖縄 の離島 な ら大丈夫﹂と高 を括 って いた K の思
万 円 ︶。 G HQ が去 った後 、昭和 五十 七年 の厚 生省 の政令 により 、 と ころが、﹁
惑 は見事 にはず れ る事 になる。沖縄 は昭和 四十七年 ま で アメリ
﹁
行 政改 革 ﹂ と 称 し て、京 都 市 、福 岡市 で監 察 医 制度 が廃止 さ
の都 市 でも 、監 察 医 の数 が大 幅 に減 ら さ れ た 。 現 在 ま と も に機
3区を 含 め数 都 市 だ け であ る。 こ の結 果 ほ
能 し て いる のは東 京 2
と んど の地 域 では 、専 門 の訓 練 を受 け て いな い臨 床 医 が 死体 検
3区 では臨 床 医 が 死 体 検
東京 2
案 を 行 わざ るを 得 な く な った 。 ︵
案 書 を 書 く事 は 原 則 あ り 得 な い。︶変 死 体 の解 剖 率 は スウ ェー
0%以 上 、 ア メリ カ やィ ギ リ ス では約
デ ンや フィ ン ラ ンド では 8
、
3区
0
ち な み に東 京 2
5%な のに比 し 日本 は約 3% に過ぎ な い ︵
0∼ 5% であ る︶。
では 2
2
昭 和 六十 一年 に起 き た ﹁ト リ カ ブ ト 殺 人事 件 ﹂。 Kは 三 人 目
時津風部屋﹂でぶ つかり稽古 → ←
成十九年 六月愛知 県大山市 の﹁
の妻 の件 のみで立件 され、無 懲役と な った。
期
時太 山﹂は、平
時大山事件 ﹂ は記憶 に新 し い。新弟子 の ﹁
﹁
れ 、制 度 の運 営 そ のも のも 各 自 治 体 に任 さ れた 。 そ の結 果 、他
の妻 ︵
三十 三歳 ︶と 沖 縄 に新 婚 旅 行 に出 か け た 。 那覇 空 港 で石
を した後 に心肺停止と なり、地元 の病院 で死亡 が確 認された。
カ の統治 下 にあり 、返還後も アメリ方式 の監察医制度 が、ほぼ
そ のまま の形 で機能 し て いた。死因がわからなか った石垣島 の
急 用 が でき た 。
垣島 行 き の航 空 券 を手 にし た Kは 、搭 乗直 前 に ﹁
体 の無数 の傷 に ついて、親方 から ﹁ぶ つかり稽古をす れば よく
が、遺体 は既 に火葬 され ており検 証不能 であ った。 Kは三人目
保険 が掛 けられ て いた。実 は前 の二人 の妻も急 死を遂げ て いた
る ﹁ア コ ニチ ン﹂を検出 した のであ る。 この妻 には計 二億円 の
不審を抱き臓器 や血波を保存 。執念 の努力 でトリカブト毒 であ
島 の琉球大 学 に送り、解剖 が行 われた。剖検 した医師 が死因 に
病院 は、監察医制度 の流 れ に従 い何 の躊躇も なく遺体を沖縄本
君 は先 に島 のホ テ ルに行 って待 って いな さ い。私 は次 の便 で行
8
意 も 問 題視 さ れ た事 件 だ 。
死 ﹂ と 判 明 し 、親 方 や兄弟 子 は逮捕 さ れ た 。刑事 や検 案 医 の熱
学 に解 剖 を 要請 。解 剖 の結 果 ﹁
多 発外 傷 によ る外 傷性 シ ョ ック
を 引 き 取 った 遺 族 が 、部 屋 側 の説 明 に納 得 せず 、地 元 の新 潟 大
と し た 。愛 知 県警 も 事 件 性 が薄 いと し て遺体 を 返 還 し た 。遺 体
あ る事 だ 。﹂ と 説 明 を 受 け た 臨 床 医 は 、 死 因 を ﹁
急 性 心 不全﹂
幸 い、今 年 か ら医 師会 の御 尽力 により 、高 速 道 路 を 利 用 でき る
を 頑 な に守 る。一時 停 止 では し っか り止 ま り 、
左 右 を 確 認 す る。︶
しまう 。 ︵
パ ト カ ーは 、道 が ど ん な に空 いて いよう が制 限 速 度
話 が入 る事 も あ る。本 輪 西 な ど の遠 い現 場 だ と 大 仕事 にな って
選 び 、検 柔 業 務 を 行 って いる。午 前 二時 頃 、 登 別 の検 案 医 に電
日 中 の検 柔 ︶、 開業 医 四名 ︵
夜 間 と 休 日 の検 案 ︶ の人名 を
名 ︵
て いる のだ 。
一人 一人 の死 囚究 明 は 、次 世 代 の万 人 の生 に繋 が
いる。 解 剖 は更 に、殺 さ れ た人 を含 め 、 死者 達 の人権 を も 守 っ
犠 牲 者 を 最 小 限 に留 め るな ど 公 衆 衛 生 上 の重 要 な役 割 も 担 って
く 、戦 後 の上 野 の事 例 のよう に、伝 染病 等 を いち 早 く発 見 し、
を 解 剖 によ って究 明 す る事 は、犯 罪 の再 発 を抑 止 す るだ け でな
る 一部 始終 を ビ デオ に残 し た 人 が いた 。も ち ろんビ デ オ は 流 さ
には いろんな 人 が いて、自 分 が ﹁ぶら 下 がり 健康 器 ﹂ で総 頚 す
て の講義 は 興味 深 か った 。自 殺 の約 七割 が総 頚 であ る。 世 の中
缶 詰 にな り な が ら受 け さ せ て頂 いた 。 そ の中 で ﹁
自 殺 ﹂ に つい
頂 き 、埼 玉県 で行 わ れた ﹁
死 体検 柔 に関す る講 習会 ﹂ を 三 日間
検 柔 医 にな って二年 目 頃 、室 蘭 市 医 師会 の御 厚 意 で旅 費 ま で
様 にな った 。 本当 に有 難 い。
そも そも 1/ 6 の死 因 が わ か ら な
る重 要 な資 料 な の であ る。 ︵
れ な か つた が 、講 師 の話 では 、 ぶら 下 が った後 、彼 は 一分 以上
日本 では 、全 死 亡 の六人 に 一人 は変 死 であ る。変 死 体 の死 因
いと 言う事 は 、 日本 の死 因統 計自 体意 味 が な いのに等 し い。︶
も がき苦 し んだ 。 そ の後 、全 身 の痙 攣 が起 こり 、動 か なく な る
器 の外 傷 や病 変 を知 る事 が でき る。 し か し 、放射 線 科 の先 生 の
アド バイ スか ら 、 血 流 がな く 腐 敗 も 始 ま って いる人体 と 生 き て
す る試 み であ る。 これな ら 、脳 、骨 、肺 、 肝臓 を含 め多 く の臓
を 賜 り行 わ れ るよう にな った 。解 剖 でき な いな ら 、 せ め て問 題
のあ り そう な遺 体 を C T にか け て、体 の内 部 の情 報 を 得 よう と
綿 で首 を絞 め ら れ る様 に徐 々に呼 吸 困難 にな る。更 に目張 り を
殺も 、
一部 始 終 を 記 録 に残 した 人 が いた そう だ 。 こ の場 合 も 真
備 のな い 一般家 庭 で の首 吊 り は想 像 以 上 に苦 し い。 死 に顔 が美
の断 裂 、致 死的 神 経 反射 な ど が起 き る為 と 言 わ れ る。絞 首 台 設
ま で に五分 間 を 要 し た 。死刑 囚 が即 死 でき る のは 、落 下 で体 が
解 剖 率 の低 さを補 う べく 、最 近 では ﹁
>飼一
中
A
B”∽
pヒ ︵
3電 日
I︶ と いう 方 法 が室 蘭 地 区 でも 、総 合病 院 のあ り がた い御 協 力
いる人 体 と では 、 か なり 画 像 の見 え方 が違 う事 がわ か った 。遺
した車 内 では 、練 炭 や排 ガ スによ る熱 さ が重 な るか ら 地 獄 の苦
加 速 さ れ た後 、急 激 に頚部 が絞 めら れ た為 、 頚椎 の脱 臼 、 頚髄
体 を 損 傷 せず に大 量 の情 報 を 得 る事 が出 来 る頼 も し い手 段 だ が 、
し みだ 。 死後 は桜 色 の安 ら か な 死 に顔 にな るが 、 これも 冬 期 間 、
室 蘭 警 察 署 の管 轄 であ る室 蘭 登 別 地 区 では、毎 年 二百件前 後
排 ガ ス自 体 が高 温 環境 を作 る ので、腐敗 が 一気 に進 み顔 が赤 鬼
死後 一∼ 二日以内 に発 見 さ れ た場 合 に限 る。 雪 が無 いと 練 炭 や
し いと 人気 ? のあ る練 炭 や排 気 ガ ス、 つま り C O中 毒 によ る自
現状 では解 剖 に取 って代 わ れ るも のでは な い。
の変 死 が あ る。室 蘭 市 医 師 会 は、 ﹁クジ 引 き ﹂ で病 院 勤 務 医 四
-9-
の様 にな ってしま う 。
医 師 過 論 ﹂を 唱 え 、医 学 部 の
昭和 六十 一年 、時 の政府 は ﹁
剰
0%減 ら し た 。 そ れ に平 成 十 六 年 の ﹁
新 臨 床 研修 制 度 ﹂
定 員を 1
導 入 が追 い討 ち を か け 、現在 の深刻 な医 師 不足 がも た ら さ れ た 。
O E C D加 盟 三十 四 カ国 の人 口千 人当 た り の医 師 数 が平 均 3
1人 な のに、 日本 は 現 在 2 0人 であ る。全 国 で約 十 二万 人 の
医 師 が 不 足 し て いる計算 にな る。慌 てた 政 府 は 、数 年前 から 医
学 部 の定 貝を 増 やし始 め た 。大 震災 が起 き ても 、 原発 が爆 発 し
ても 、 政権 抗 争 に明 け暮 れ て いる愚 か な 政 治 屋 共 を 見 て いると
気 持 ち が萎 え そう にな る。順 調 に医 師 が増 え 続 け 、監 察 医 制 度
が全 国 で復 活 し、 死者 の為 に確 か な ﹁
最期 の診 断 ﹂を 下 せ る時
代 は果 た し て来 る のだ ろう か ?
肥
修
司
室蘭 ∼引 っ越 しをく り返 した果 てに∼
土
︵
市立室蘭総合病院︶
医師 にな ってから 、私 は十 九 回 の引 っ越 しを く り 返 し た 。札
幌 か ら 函 館 へ赴 任 し て 一回 日 、 そ の函 館 か ら札幌 に戻 って 二回
日 、と いう 計算 であ る。 そ の最 後 が岐 阜 か ら室 蘭 への引 っ越 し
であ った 。 そ の間 四十 二年 、札 幌 、 函館 、旭 川 、釧 路 、 マイ ア
ミ、 ニ ュー ヘブ ン、旭 川 、札 幌 、 つく ば 、 ボ ルチ ィ モ ア、岐 阜 、
室 蘭 と 六 カ月 以 上 生 活 し た地 は十 二市 に及 ん で いる。尿 初 の四
カ所 と マイ ア ミと ニ ュー ヘヴ ンを挟 んだ旭 川 と 札幌 は医 局 の人
事 に従 い、あ と はど ち ら かと 云う と自 分 の意 思 で、外 国 の地 へ
の憧 れも あ って少 し は計 画 したも のだ った 。 そ し て、北 海 道 の
地 で医 師 と し て の勉 学 ・研修 を スタ ート し た 私 にと って、定 年
前に ﹁
原点 に復 帰 す る﹂ と いう 多 少 強 い想 いがあ った 。筑 波 大
学 か ら岐 阜 大 学 に赴 任 し た時 か ら 、辞 め る時 のこと を考 え て い
た のであ る。 は っき り と し た 認 識 では な か った が 、辞 め た後 の
地 は 北 国 し か な いと いう 思 いは 、地 域 医 療 崩 壊 、自 治 体 病 院 の
経 営破 綻 、若 い医 師 達 の金 銭 志向 など 、 さ まざ ま な 問 題 が湧 き
お こ って いた こ の数 年 間 ま す ま す 強 く な ってき た 。首 都 圏 や 関
-10-
た し、
私 が学 んだ 時代 に比 べ て、北 海 道 の医 療 社 会 がどう 変 わ っ
事情 ︵
崩壊 ︶ に対 す る マス コミ の表 現 過剰 な報 道 の影 響 も受 け
西 圏 の金 銭 志 向 の医 師 達 を受 け 入 れざ るを得 な い北海 道 の医 療
た のであ る。
のだ 。 そ し て、クま あ、いいか″と いう 思 いが常 習的 にな って い っ
のであ る。教授 と し て の職 の最初 の振 る舞 いに完 全 に失 敗 した
室 蘭 への引 っ越 し は 、当 時 の札幌 医科 大 学今 井 浩 三学 長 か ら
てしま った者 にと つて心 す べき 最 大 のこと は 、 な により先 ず 最
て いる。﹃
君 子論﹄の中 にク突然 に地 位 な り を受 け継 ぐ こと にな っ
た か を 知 り た く 思 った のであ る。
の電 話 に対 し て 一つ返事 で決 ま つた こと だ 。道 内 な ら無 医 村 で
指導 者 の姿 勢 がま す ま す 重 要性 を 増 し、 そ し て厳 しく 問 わ れ
も 何 処 でも よ い、 と お願 いした 以 上 は 、最 初 のオ フ ァーを受 け
ると いう 決 意 を し て いた 。室 蘭 は勿 論 、今 思え ば 、ど の赴 任 も
初 に、 し かも た だ ち に、土台 を 固 め る こと であ る。 以前 か ら用
意 し て いてき た こと を 、就 任 と 同時 に、時 を お かず 実行 す る心
、
、
構 え が 不 可欠 だ 。
″ と あ るが こ の認 識 は持 つて いた が これ
を 実行 でき な か った 。 いわば 、変 化 や改 革 によ る軋 観 を避 け た
幸 運 であ ったと 思 って いる。何 時 も 引 っ越 し で貧 乏 であ った け
れども 、 そ の地 そ の地 でさまざ ま な 人と の避通 があ つた 。 二十
た頼 ま れ た講 演 でも 、司会 者 の長 い紹介 の後 、思﹂紹介 のよう に、
な キ ー ワード﹂ と な って い った 。
か った の であ り 、 ﹁
評 判 ﹂ を 恐 れ た の であ る。先 輩 教 授 の相 応
しく な い評 判 を聴 く た び に、私 の言 動 には段 々と ﹁
評 判 が主 要
年 間住 んだ岐 阜 では 、岐 阜 大 学 の学 生 への最初 の講義 でも 、ま
あ ち ら こち ら で嫌 わ れ て岐 阜 にき ま した ﹂ と自 己紹介 す ると 、
いのか ﹂と 云 わ れ たも のだ 。 こ の場 合 は 、
無 口 であ つ
単 に静 か 、
て、大 人 な ら では の品 位 と か 、洗 練 と か 、 ゆと り と か 、と 云 っ
生 か らも ﹁
先 生 は本 当 に大 人 し い、 評 判 が よ い、何 か 要求 はな
たり 、 要求 を す る こと を全 く し な か った ので、院 長 や外 科 系 先
あ った のであ る。事 実 、岐 阜 大 学 に赴 任 した当 初 は意 見 を 述 べ
と いう 印象 が な か ったも のだ 。だ か ら これ は私 流 の ユー モ アで
感 のな い男 ﹂ であ った け れど 、
人 には嫌 わ れ て いる﹂
自 分 には ﹁
意 を し て いた 。 かな り 耐 え た 。だ が 、臨床 実 習 で の麻酔 科 の評
教 育 以 外 のこと は全 く 変 え な いで、 ﹁
待 って見 届 け よう ﹂ と 決
も した 。事 実 、 ク
十 六年 あ る ︵
当 時 は定 年 六十 三歳 / 〓一
年 間は
経 っても 何 も し な い教 授﹄ と 云 わ れ て いるよう な 思 いに捉 わ れ
出 入り の業 者 にも 及 ん で いた 。 そ れ が後 にな ると 、暗 に ﹃
何年
選 ん で本 当 によか った﹂ と 云 わ れたも のだ 。 そ れ が医 学 部 全 体 、
人 か の同 僚 教 授 か ら も 、 ﹁評 判 が よ い の で、 先 生 を ︵
教 授 に︶
判 は本 当 に良 いです よ﹂ と医 局 長 は しば しば 云 って いた し 、幾
そ のた め か 、私 の評 判 は極 め てよ か った よう だ 。 ﹁
先 生 の評
たも のが あ った と いう 意 味 では な い。 ﹁
少 し様 子 を みま し てか
笑 いを誘 ったも のだ 。自 分 はどち ら かと 云う と ﹁
無 口 で、存 在
ら ・ ・﹂ と 丁重 に対 応 し 、赴 任 一年 六 カ月後 か ら変 革 の要求 な
ど を 始 め た 。だ が 、 ﹁
今 ま で問 題 な か った では な いか ﹂ と 一蹴
価 が ダ ント ツで 一番 にな った勢 いも あ って、
一年 半 後 に教 室 の
人 事 や方 針 を 明 確 に示 し 、実 行 し て い った 。 ″
岐 阜 で″ と いう
反対 を 押 し切 って、 需 要 の多 い名 古 屋市 内 の大 病 院 に、毎 年 一
さ れ叶 わ な か った 。 予定 さ れ て いた資金 も 既 に使 用 さ れ て いた
-11-
病 院 に麻 酔 科 新 設 し十 年 で十 関連 病 院 が増 え た 。名 大 系 列 で の
と いう 記 憶 であ る。室 蘭 に移 り 、 そ の先 生 か ら手 紙 を 頂 き 、嬉
の手 術 の麻酔 で疲 れ て いても 、先 輩 に対 す る対 応 ではな か った 、
し さと感 謝 と 共 に思 い出 し た のが 、若 い時 の自 身 の至 ら な さ で
あ った 。 こ の意 味 では 、岐 阜 の二十 年 間 や筑 波 の八年 間を 想 い
岐 阜大 学医 で
岐 阜 大 学 の評 判 はす こ ぶ る良 く な った 。 そ し て ﹁
勢 も あ が ったも のだ った 。だ が 、研 修 医 制 度 開始 の少 し前 か ら 、
起 こし ても 、 これ が な い。
名 古 屋 を 制 す る こと が出 来 る のは麻酔 科 だ けだ ﹂ と 教 室 員 の気
医 師 達 の動 き に変 化 が見 え 、 そ し て開始 後 は方 向 転 換 を せざ る
私 の心 な い言 葉 に傷 ついた こと を結 構 は っき り と 憶 え て いるよ
だ が妻 によ ると 、岐 阜 でも 筑 波 でも 、引 っ越 し の折 々には 、
良 い評判 と 云う も のは長 続 き さ せ る のは難 し い。 そ し て引 っ
う だ 。 子供 達 も そう だ と いう 。家 庭 では 評 判 を 恐 れ る必 要 が な
い、と 同 じ よう に、 北 海道 に いた 頃 の若 い時 分 は 、多 分 評 判 を
を 得 な く な った 。
越 し を 繰 り 返 し て いると 、成 功 体 験 を 実 感 す る ことも多 く はな
室 蘭 は初 め て住 む 地 で、私 の故 郷 ではな い。だ が、 北 海道 内
かも し れ な い。故 郷 では失 敗 は慰撫 さ れ 、成 功 は賞 賛 さ れ る、
の冬 の風 土 のた めか 、あ る いは家 庭 あ る いは故 郷 への甘 え な の
意 識 す る必 要 が な か った のだ 。全 てを 覆 い尽 く し てく れ る北 国
と いう だ け で風 土 が 同 じ よう に感 じ ら れ 、私 に何 か ら何 ま でが
ふと こんな 言葉 も 浮 か ん でく る。
いのであ る。
懐 か し い想 いを伝 え てく れ る。 二十 八年 ぶり の帰 郷 のた めな の
思 い出 と と も に、 な ぜ か自 分 の至 ら ぬ言動 も多 く 思 いだ さ れた 。
甦 ってく る のであ る。だ が 、 人と の避 通 では、 ほ のぼ のと す る
け た 時 の息 者 の顔 な ど が、心 に染 み入 るよう な 思 い出 と とも に
地 の風 景と と も に、例 え ば 、地吹 雪 の舞 う 深夜 に病 院 に駆 け付
が さま ざ ま な 思 い出 を と も な って、私 の脳 裏 に去 来 す る。 そ の
意 識 し てき た の であ る、と 云え ば 格 好 が つく が、大 した こと で
う 言動 す るか 、 三十 歳 の時 は 四十歳 の自 分 はどう 対 応 す るか を
き た のであ る。 二十 六歳 の時 は 、 三十 六歳 の自 分 であ った ら ど
歳 代 はど こが どう 違 う か 、大 人 の振 る舞 いを しよう と 努 力 し て
と 接 し て いると こ の想 いを 強 く し て いる。私 は 二十 歳 代 と 三十
医師 は謙 虚 でなく ては いけ な い。 比較 的若 い直 情 的 な 医 師 達
か 、 六十 五と いう 年 齢 のた めな のか 、風 土 と と も に過 去 の事 柄
恥 と は いえ な いま でも 、至 ら ぬ こと が多 か った のだ ろう 。学 生 、
前 は スー パ ー アグ ルトだ ﹂と 軽 蔑 的 に呼 ば れ た こと にも 、嬉 し
は な い。だ が 、
考 え ら れな い程 に幼 い悪童 と 思え た 同僚 か ら ﹁お
あ の時 は 、あ あ 云え ば よ か った﹂ 類 の、多 く
同僚 、息 者 等 々 ﹁
は誰 も が多 分忘 れ去 って いる、些 細 な こと な のであ る。手 術 室
や深 い想 いと 比 べると 、何 と も 些 細 な こと だ 。だ が 二十 八年 ぶ
さを 感 じ たも のだ 。
何 です か ﹂
外 科 の先 生 にド アーを 開 け ら れ た時 の、﹁
で勉 強 中 に、
と い った私 の引 き 攣 った 、多 分 、顔 や態 度 や対 応 など 、あ の先
生 はど う 思 わ れた であ ろう か 、と いう こと も あ った 。私 は気 持
り の北 国 で六十 六歳 の今 、 二十 代後 半 三十 代 の昔 に、相 手 に不
北 国 で の私 の想 いは 、大 震災 で被 災 した東 北 人 たち の悲 し み
ち が顔 に でる タイ プ 、 不快 な顔 を した に違 いな い。例 え 長 時 間
-12-
快 な気 持 ち にさ せ た かも し れ な いと いう 想 いが脳 裏 に去 来 す る
よう な姿 勢 を と った つも り も な いし、落 ち着 き 、 思慮 深 さ 、謙
な った 。挨 拶 代 わ り と し ては 、少 し長 い自 分本 位 の内 容 であ る。
追 記 ¨昨 二十 二年 四月 か ら 、市 立 室 蘭 総合 病 院 の事 業管 理者 と
し て二十 八年 ぶり に郷 里 北海道 に戻 り 、室 蘭 市 医 師 会 の会 員と
のは な ぜ か 。権 威 ぶ るも のを笑 ったり 、尊 大 なも のを あ ざ け る
虚 さ と いう も のを 尊 ん でき たと 思 って いる。多 分 に消 極 的 だ が 、
波 久 鳥 ﹂ の保存 版 を 室 医 のP D F版 で拝 読 し 、会 員諸 氏 の素
﹁
晴 ら し い視点 に敬 服 し て いる。
﹁こ の程 度 の男﹂ と 評価 さ れ る のを避 け た か った 一心 であ った
のであ る。
若 く 、直 向 き であ った け れど 人 間と し ては壱 だ 至 ら な か った
時 代 のさまざ ま な こと など は 、 そ の地 そ の地 の記 憶 と の繋 がり
と と も に、自 分 の生 き てき た陰 の部 分 と し て思 い出 さ れ る。消
し た く はな いほ ろ苦 い記憶 であ る。 これも 年 を 取 ると 云う こと
-13-
な のだ ろう 。
年 齢 を経 ると 人 は賢 く 聡 明 にな って いく 、と いう のは幻 想 に
すぎ な い、と 六十 を 越 した 頃 か ら 思 って いる。年 の限界 を知 り
つ つ、充 分老 いてか ら の室 蘭 への十 九 回 目 の引 っ越 し には、 二
十 八年 ぶり の故 郷 への赴 任 の旅 には 、私 な り の希 望 と こだ わ り
と があ った 。室蘭 で の失 敗 は許 さ れな いと いう 想 いであ る。
中特
″
rT r
﹁評 判 ﹂ と 云う も のは、 しば しば そ れを 流布 す る本 人 の自 己
本 位 で狭 量 なも のだ が 、悪 い評 判 は避 け る に越 した こと はな い。
今 は 、 評 判 を 恐 れ る こと なく 、管 理者 と し て の業 務 に全 力 を 傾
注 し て いる。全 てが 、素 晴 ら し い想 い出 や素 晴 ら し い人 たち の
出 会 いだ け であ った と 思 って余 生 を 生き て いく より は 、多 少 の
陰 の部 分も あ っても よ いと 思 って いる のだ 。 そ し て、終 の住 処
はど こ にな る のか分 か ら な いが 、多 少 ほ ろ苦 い想 いで室 蘭 時 代
を 思 い出 す のも よ いのでは 、と いう か 、 そ の覚 悟 も し て いる。
二
,育
庄
説
会
ヨえ
博
山島
振 島 二 男 。斎 藤 桑 克 。
仁。
木下
澪・ 立 木
洋杵
室 蘭今昔物語
縮 集会 買 (弄 藤・ 二村・ 生 口・ 堀え・ オ
岩 口・ 野尻・ ͡)
'P,II・
事 務 局 (島 橋)
千 茂 23年 7月 14日
潜 :ホ テルサンルート室蘭
振 島二 男
浮山
堂
斎藤 桑 寛
木下
#島 博 え
澪
立木
-14-
仁
乾 杯 の音 頭 です ね 。飯 島 先 生 乾 杯 の音 頭
今 回 の テー マの引 き 金 にな ったわ け です 。
が良 か った のか教 え て欲 し いと いう のが 、
いま す 。昔 を知 ら な い若 い先 生 は 、ど こ
ど う いう 点 が 現 在 の室 蘭 と 比 べ て良
か った のか 、大 いに語 って頂 き た いと 思
いま す 。
返 り 、 そ の時代 を懐 か し ん でみた いと 思
す け ど 、繁 栄 した室 蘭 の良 き 時 代 を 振 り
室 蘭 の栄 枯 盛衰 ﹂ と いう 仮 のテー マで
﹁
す 。今 日 は皆 さ ん にご案 内 したと おり 、
ま り いただ き 、大 変 あ り がとう ござ いま
こ ろを 二十 六 号 の波 久 鳥 の座 談 会 にお集
三村 お晩 でござ いま した 。 お忙 し いと
行 っても ら つた 。
大 谷 地 公 辿 先 生 と 二人 で、常 盤 に連 れ て
の副院 長 位 にな った ら 、芸者 を 揚 げ れた 。
飯 島 昭 和 三十 年 こ ろだ と 思う 。新 日鉄
新 日鉄 、 日本 製 鋼 、大 企業 だ よ 。
斎藤 ︵
義 ︶ 豪 快 に金 を 使 って いた のは
飯 島 あ の頃 の給 料 では芸 者 を 揚 げ る こ
あ ま り行 け な か った 。
来 た けど 、給料 少 な いか らね 、 中央 町 に
斎藤 ︵
義 ︶ 昭 和 三 十 六 年 に市 立 病 院 に
か来 て頂 き 、芸 を披 露 し てく れた 。
思 いま す 。常 盤 で医 師 会 の宴 会 には何 人
あ り ま した 。 そ の頃 の話 か ら進 め た いと
いう 料 亭 があ り 、芸者 さ んが 居 た時 代 も
町 に移 って い った 。中 央 町 には 、常 盤 と
した 。室 蘭 の繁 栄 と 同 時 に、繁 栄 が中 島
鉄 鋼 産業 が 町を繁 栄 さ せ た時 代 があ り ま
斉藤 ︵
甲︶ 常 盤 は 意 外 と 最 近 な の です 。
無 く な った のは何 年 位 だ った か 、
は み んな お婆 ち やん芸者 でした 。常 盤 が
な芸 者 さ んたち が居 て、私 が行 った時 に
三村 何 回も 行 き ま し た 。 ほ んと に上 手
た 、 そ の時 先 生 は 、
飯 島 医 師 会 の新 年 会 を 常 盤 で行 って い
言わ れ る人 達 は。
は じめ
を 取 ってく だ さ い。
三村 斎 藤 義 寛 先 生 のお 父 さ ん の頃 は ?
故 元道 医 会 長 斎
斎藤 ︵
義 ︶ う ち の父 ︵
常 盤 は平 成 十 一年 廃業 ︶
︵
日頭 く ら いな ら 、折 角 の御 指名 な
飯 島 立
藤 義 太 郎 ︶ は常 盤 に入 り 浸 り 、戦前 。
-15-
と は出 来 な か つた ろう な 。
ので、音 頭 を 取 ら せ ても ら いま す 。皆 さ
ん、大 いにお喋 り く だ さ い。乾杯 !
飯 島 斎 藤 先 生 の親 父 さ んは 、金 も あ り 、
地 位 も あ り 、常 盤 辺り だ ろう ね 。親 父 さ
や って いる人 は色 が居 た ね 。
常 盤
三村 所 謂 中央 町 を 中心 に、当 時 の室
三村 私 が室 蘭 に来 た 頃 には芸 者 さ んと
ん は解 ら な いけ ど 、 開業 し てパ アー ッと
蘭 と いう 町 が経 済 成 長 の真 直 中 に、特 に
不明・飯島三男
高橋則夫・森川 亮 。
木下 博・神島茂夫・タヅコ・大久保洋平 ど
・
・
・チ
・
ンコ
ち奴
照 代。
浩
ョ
,H上
美
斎藤修弥
敏晃・ユ キコ
東
平成11年 1月 15日 室南市医師会新年会
来 て 、沢 山 お 医 者 さ ん が 居 る 中 で 、ス テ ー
立 木 出 ま し た ね 。 若 い時 に市 立 病 院 に
ありますか。
三 村 常 盤 の新 年 会 に お若 い方 出 た こと
と いう のが 、大 昔 の話 です け ど ね 、 そ っ
一本 の線 香 が灯 る時 間
飯 島 あ れ は昔 、
世 代 と し て判 ら な いん です け ど 、
生 田 だ いた い線 香 代 と いう のが我 々 の
木 下 ニ ューブ ラザ ーと か ね 。
の公 園あ る でし ょ、あ そ こ に白 鳥 ク ラブ
と いう のがあ って、女 給 さ んが 沢 山 居 て。
斎藤 ︵
義 ︶ 白 鳥 ク ラブ に行 った よ 、今
立 木 無 いです ね 。
当 時 の市 立 病 院 の給 料 か ら す ると 、何 日
芸者 さ んと 遊 ば し てく れ ると いう のが 、
生 田 いま ま で の先 輩 たち の話 です と 、
す 。我 々は 入 った こと は な いけ ど 。
出 てき た け ど 、本 当 に通路 があ った ので
一時 上 が崩 れ て入 口が
木 下 本当 です 。
甲︶ 本 当 にあ った ん です か 。
斉藤 ︵
よう に、地 下 通路 を 設 け たと の事 です 。
出 れな か ったも のね 。
斎藤 ︵
義 ︶ あ の頃 金 が無 く て俺 た ち は
飯 島 エー ワ ンと 木 村 屋 はね 。
木 下 あ れ は キ ャバ レーだ ね 。
飯 島 エー ワ ンね 。
が有 った でし ょ。
斎藤 ︵
義 ︶ 北 海 道 で 一番 大 き いと こ ろ
軒 く ら い有 ったと 思 いま す け ど 。
三村 ク ラブと いう と こ ろは 中央 町 に十
薇 館 だも の。
木 下 カ ウ ンタ ー に居 た のが、有 名 な者
し よ。
飯 島 先 生 来 た 時 、 ニ ュー ブ ラ ザ ー で
か ら始 ま った ら し いです け ど ね 。
三村 常 盤 が話 の中心 にな って いま す け
中央町界隈
ジ の上 で色 々芸 を し て 、 昭 和 六 十 年 代 で
した ね 。
甲 ︶ 市 立 病 院 が 移 った の は 何 年
斉藤 ︵
だ った の です ね 。
ど 、 中央 町 の街 場 の奇 麗 な女 性 が マ マさ
で す か 。 立 木 先 生 が 来 た 時 に は 古 い所
立 木 平 成 九 年 に今 のと こ ろ に 移 り ま し
た 。 昔 の市 立 病 院 は 常 盤 と 地 下 通 路 が
笑 い︶
分 と いう か 、
何 力月 分 な ん です か 。︵
飯 島 スポ ンサ ー 付 か な け れ ば 行 け な
-16-
ん にな って居 ま し た よ ね 。
飯 島 でも 直 ぐ に バ バ さ ん に な った 。
か な り 高 いも のな ん です か 。
か った 。
ヽ
路
卜
呻弟をの
あ った と 聞 き ま し た 。
飯 島 通 に言 わ せ ると変 な飲 み屋 でばら
三村 お若 い方 たち は ク ラブと か 、 キ ャ
︵
笑︶
れ る より は 、ず っと 安 いと 。 同 じ時 間あ
バ レ ー に行 った こと有 り ま す か 。
イ
■ュ
_
木 下 戦 時 中 に常 盤 が臨 時 の病 舎 にな る
た り飲 ん で、線香 代 の方 が安 いと 。
ゅ
一
三村 あ れ は憧 れと いう か 、我 々 一般 人
斎藤 ︵
義 ︶ 市 立 病 院 は安 か ったも の。
ら です ね 、少 しず つ上 が って来 た のは 。
ほと んど 差 が無 か った 。だ いぶ遅 れ てか
来 た 時 には凄 い安 か った 。大 学 の給料 と
木 下 やはり 昭和 四十 七年 に市 立 病 院 に
じ ゃ、 中 央 町 に飲 み に行 け な か った 。
昭和 四十 二年 ま で居 た け ど 、当 時 の給 料
斎藤 ︵
義 ︶ いや、違 う よ 、市 立 病 院 に
先 生 は大勢 通 つた のでは 。
日参 し た先 生 も いた 。昔 は 、市 立 病 院 の
市 立 病 院 の先 生方 は 、懇 ろにな った店 に
市 立 病 院 は 、 ま さ しく 中 央 町 だ つた ので、
僕 も 連 れ て行 って貰 いま し た が、 み んな
病 院 の先 生 が 通 い詰 め る スナ ツク です か 、
街 場 だ った よう な気 が しま す けど 。市 立
三村 街 場 の飲 み屋 さ んは 、今 と は違 っ
て、勤 め帰 り の人 たち が 、飲 ん で騒 ぐ 、
一回も 中 央 町 の飲 み屋 に行 った こと無 い。
な いです か 。
全然 。行 った こと 無 い。
斎藤 ︵
義 ︶ いや、
り 羽振 り を 効 か せ な か ったと 言 いな がら 、
ド ク タ ーと いう のは街 場 でも てた んじ や
三村 経 済事 情 は そう いう わ け で、あ ま
た。
令 を も つて、会 社 の中 全 部 回 った 。 そう
し て、係 長 の給 料 を見 た ら 、
一番 下だ っ
遇 にな った 、係 長 待 遇 にな ったと いう 辞
の佐 藤 先 生 が医 長 だ った 、 や つと係 長 待
飯 島 昭和 三十 年 こ ろ、新 日鉄 の耳鼻 科
が大 き いので、
木 下 勤 務 年数 が基 準 だ か ら 、年 数 の差
斎藤 ︵
義 ︶ 年 取 って いるか ら 。
一
局か った 。
飯 島 当 時 は掃 除 のおば さ ん の方 が給 料
ま り変 わ ら な い。当 然 飲 み屋 に行 け な い。
清 掃 のおば さ ん の給料 も 医 者 の給料 も あ
し ょ、 そ れ か ら変 わ って いな いのだ か ら 。
食 え るだ け の給 料 で全 部 一律 にな った で
斎藤 ︵
義 ︶ 洗 脳 さ 、 戦 争 終 わ つた 時 に
た のかね 。
木 下 どう し て、ああ いう 給 与 体系 だ っ
木 下 ただ 、忘 年 会 な ど で手伝 いに来 た
芸者 は揚 げ れ な か った け ど 。
医 で来ましたけど、
飲 める給料 でした。︵
笑︶
入 が上 が って来 た のが 。
民皆 保 険 で色 んなと こ ろ でド ク タ ー の収
木 下 五十 年 過ぎ た こ ろか ら です ね 、 国
が った のは 。
飯 島 昭 和 五 十 年 頃 です か 、給 料 が 上
は 昭和 五十 三年 に室 蘭 の日銅 病 院 に来 ま
の圧倒 的 な のは お医 者 さ ん です よね 、僕
は安 か ったと 言 わ れ るけ ど 、今 は経 済 力
三百 七 十 三名 、当 時 のお医 者 さ ん の給 料
云 わ れ て いるが 、 つい 一年 前 の会 員数 は
十 名 でした 。今 は室 蘭 はも う 九 万 四 千と
そ の当 時 の医 師会 員数 は百 三十名 、 百 四
四十 年 代 です ね 、十 六万 、十 人 万 とも 、
斉藤 ︵
甲︶ 室 蘭 の 一番 人 口 が 居 た のは
で払 う 奴 はあ まり も てな い。
木 下 付 け れ るお客 さ んを 優 先 で、現金
かな け れば 。
飯 島 医者 だ って言 っても 、金 持 って い
て いたも 。虐 げ ら れ た時 代 。
グ レード が違 う も 。我 々は遠 く か ら眺 め
昔 の給 料
よりも 新 日鉄 の職 員 の方 が 、格 が 上 。
新 日鉄 な んか は 、顔 だ も の、名 前 言 え ば 、
時 に、 そ の後 に近 く の飲 み屋 に行 った と
斉藤 ︵
甲 ︶ 来 た 頃 は 、 日 銅 病 院 に出 張
した 。
斎藤 ︵
義 ︶ 我 々 の給 料 と いう のは清 掃
あ と 会社 で払 ってく れ る。だ か ら 、全 然 、
木 下 日銅 、新 日鉄 のボ ー ナ スが立 つと
いゝ
つ。
のお ば さ んと 変 わ り な い。
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か 、直 接 揚 げ る こと は無 いね 。
斎藤 ︵
義 ︶ いま は 中 島 も 街 ら し く な っ
立 木 良 か った です ね 。 固定 し た のは平
のでし ょ。
立木 先 生 は来 ら れ た 頃 は良 か った
飯 島 一
給 料 は ほ んと に低 か った 。
年 く ら い前 は凄 く 賑 わ って いま した ね 、
立 木 中 島 町 、 昼 間 な ん です けど 、 二十
ん でし ょう か 。
う か 、ど う いう 風 に感 じ て いら つし ゃる
三村 今 、 現 代 の皆 さ ん は街 の風 土と い
残 ってお った 。馬 車 を 引 いて いる馬 が糞
おり ます ん で。確 か に子 ど も の頃 も 、 周
神 島 私 は生 れ てか ら 、ず つと あ そ こ で、
飯 島 神 島 整 形 外 科 の辺り は 。
澤 山 そう ね 、昔 は。
立 木 東 町 の方 は栄 え て いた の です か 。
中島町界隈
成 七年 でし た けど 、 でも 医 者 にな って直
九 井 の交 差 点 な んかも 、 ほ んと に スク ラ
ンブ ル交 差 点 にな って いて、休 み の日な
を ボ タ ッ、ボ タ ッと落 と し て い った のを
た けど、
ぐ に来 た 頃 は 、市 立 病 院 は特 別 給 料 が悪
んか 、当 時 流行 った竹 の子族 の若 者 が沢
覚 え て いま す 。
斎藤 ︵
義 ︶ 先 生 が 来 る前 の市 立 病 院 の
いこと で医 局 でも 有 名 で、 み んな誰 も 行
山 線り 出 し て いて、札 幌 の中 心 部 みた い
三時 、飲 んだ 時 代 があ った です ね 。今 、
生 方 と ご 一緒 した こと有 り ます けど 。随
分 お世 話 にな り ま し た 。 結 構 、夜 、 二時 、
三村 私 の若 い頃 は よく 連 れら れ て、先
ぐ に判 る。 ︵
笑 ︶ 悪 いこと 出 来 な いよ 。
飯 島 士
戸が大 き いか ら 、 ど こに居 ても直
ても タダ じ ゃ。
遊 ぶと 云 っ
義 ︶ 金 が無 いか ら ね 、
斎藤 ︵
笑︶
か ら ね 。 でも 、私 は駄 目 だ よ。 ︵
三村 品行 方 正 だ った 。
斎藤 ︵
義 ︶ う ち の親 父 は 遊 び 人 だ った
先 生 のお 父 さ んは凄 か った 。
左 側 は谷 地 だ った 。
飯 島 道 路 一本 で、東 室蘭 駅 か ら行 くと
無 か った ね 、 湿 地帯 で。
駅 に降 り て、新 日鉄 病 院 ま で の間 、何 も
木 下 学 生 の時 に実 習 に来 た時 、東 室蘭
の間 ね 、何 も 年 か った よ。
斎藤 ︵
義 ︶ 東 室 蘭 の駅 か ら 新 国 鉄 病 院
立 木 そう な ん です か 。
て何 も 無 か った 。
義 ︶ 昔 は シ ベ リ ヤ街 道 と 言 わ れ
斎藤 ︵
う ね 、 三十年 前 、 四十 年 前 の中 島 町 は 。
な いです 。 そ の前 はど う だ った のでし ょ
な 雰 囲気 あ り ま し た け ど 。今 は見 る影 も
神 島 ま だ ま だ 栄 え てお って、確 か に人
木 下 中 央 町 の平林 紙 店 のと こ ろね ①
処 に住 ん で いた の です け ど 。
中 央 町 のお爺 ち ゃん ︵
神 島 辰夫 先 生 ︶ の
中 央 町方 面 が栄 え てお り 、僕 も 三歳 ま で
神 島 でも 、僕 の子 供 の頃 は 圧倒 的 に、
向 こう が室 蘭 、 こ こは室 蘭 では な いと 。
確 か に子 ども の頌 、汽 車 で通 ると 室 蘭 は
違 う ん です よね 、東 室 蘭 があ って、 そ の
ど 馬 がボ タボ タと いう 話 は聞 き ま し た 。
斉藤 ︵
甲︶ 家 内 が 室 蘭 で、 西 口 です け
り はあ そ こも や はり谷 地 つぽ いと こ ろが
三村 昔 の人 ほど 豪 快 さを 持 つた 、斉 藤
笑︶
き た がら な か った 。 ︵
体 力 も 落 ち ち ゃ って出 来 ま せ ん が 。
斎藤 ︵
義 ︶ 両方 谷 地 でし ょ。
と ぶ つか ら な いと 歩 け な いよう な 、 そう
中 央 町 の思 い出
飯 島 先 生 、酒 強 か った 。
飯 島 艦砲 射 撃 の跡 があ り 。
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の時 には ワー ツと 蟻 の様 に凄 か った 。
飯 島 輪 西 駅 か ら新 国鉄 正 門 ま で、出 勤
現金 で出 し て いた と 云 って いま した ね 。
う 人 達 が 、ど っと 押 し寄 せ た 。時 間外 は
た か ら 、宵 越 し のお カネ を 持 た な いと い
木 下 会 社 も 日給 で払 って いた時 代 だ っ
ら い、混 雑 し て いま し た 。
怒 ら れ ると いう 羽目 になり ま す 。 そ れぐ
ロチ ョ ロし て いると 迷 子 にな り ま し て、
いう と こ ろが何 力所 かあ り ま し て、 チ ョ
港 湾 荷 役 って居 な いも んね 。 あ れ 、相 撲
斎藤 ︵
義︶ お そらく 深 く した んだ ろう ね 。
深 く し た ん です か ね 。
神 島 上国は浅 か った ん です ね 。浚 渫 し て
搾 で逗 んだ 。
たち が 居 な い。沖 に船 が止 ま って いて、
港 湾 荷 役 は ゼ ロ。燿 に荷 物 を 肩 で逗 ぶ人
港 湾 荷 役 と いう のがす ごく 居 た 。 いま は
でし ょ、 タグボ ート が引 いてく るな ど 、
斎藤 ︵
義 ︶ 五日は 沖 に船 が 止 ま って いる
も 船 で溢 れ て いた のが 、 居 な く な った 。
甲︶ 函 館 も 同 じ です よ ね 。函 館
斉藤 ︵
ツンと 岳 る位 だ よね 。
木 下 新 国鉄 、 日銅 への船 が ポ ツ ン、 ポ
斉藤 ︵
甲︶ 今 、
港 に船 が 居 な いん です よ。
斎藤 ︵
義 ︶ 船 員 いな い。
いた ん です ね 。
仕 事 し て いて、 そ れ で、 中央 町 は栄え て
斉藤 ︵
甲 ︶ そ し て船 の関 係 者 の人 達 が、
も し れな い。
木 下 石炭 積 み出 しが ま だ残 って いた か
たく さ ん の船 が港 に居 ま し た 。
港 です ね 。港 の船 が、僕 が来 たと き には、
ま す けど 、
一番 変 わ った なあ と 思う のは
五十 三年 に来 た 時 以来 、 三十 年 く ら い居
甲 ︶ 人 も そう です け ど ね 、 昭 和
斉藤 ︵
三村 街 の衰 退と と も に、 いろんな店 が
あ れ の力 だ か らね 。
る位 な ら 、あ の時 の代議 士 、篠 田か い、
飯 島 当 時 、苫 小 牧 にあ んな掘 って港 造
木 下 上国は 石炭 も そう だ つた ん です ね 。
飯 島 パイ スケと いう 。
事 は昔 あ って、今 は な い。
六十 キ ロの荷 物 担 いで、船 ま で細 い板 を
渡 って、落 ち て死 ぬ んだ よ 、あ あ いう 仕
あ あ いう 事 を す ると 云 った って、 居 な い、
な い、港 湾 荷役 は大 変 な仕 事 だ よ 。 いま
斎藤 ︵
義 ︶ あ る意 味 で良 く な った んじ や
大 し たも んだ った 。
飯 島 八幡 さ ん のお祭 り と 云 った らね 、
が や る のは臥 目 な ん でし ょ。
そ んな に出 て居 な いも んね 。今 は香 具 師
木 下 夜 店 の数 も 昔 は凄 か った け ど 。今
斎藤 ︵
義 ︶ 蘭 西 が多 いんじ やな い。
と 聞 き ます け ど 。
です よ ね 。各 町内 のお祭 り が盛 んだ った
者 だ った です ね 。清 水 町 の栗 林 邸 も 豪 勢
立 木 昔 は栗 林 商 会 が 日本 屈指 の海 運業
には 一杯船 が泊 ま って いた 時 代 があ った 。
んな 付 いて行 け な いと いう か 、室 蘭 の港
三村 あ ま り にも 時 代 の変 化 が急 で、 み
取 り の若 の花 、港 湾 荷役 だ った 。
19軸 呼
-19-
あ れ は や っぱ り 、昔 東 町 の医 師会 に出 て
木 下 取 り 得 は 、室 蘭 新道 が出来 た こと 、
常 に残 念 です け ども 。
後 退 し て行 く と いう のか 、長 崎 屋 、九 井 、
代 表 的 なも のが み んな後 退 し て行 き 、非
か った ん です か 。
飯 島 親 父 さ ん は そ んな に飲 み に行 か な
綺 麗 な女 性 が中 島 にお店 を持 ったと か 。
院 の先 生方 と良 く 中央 町 に行 き ま し た 。
三村 僕 も そ の狭 間 に居 た ん で、市 立 病
結 構 人 が多 く て、
さ ん みた いなと こ ろは有 るけ ども 、食 ベ
最 近 は食 べる処 が少 な いです ね 。 焼鳥 屋
笑︶
言 って段 々閉 ま って来 る ん です よ 。 ︵
ち やん 達 が多 く て、一
肩 が 痛 く な った と
す けど 、経 営 し て いる人達 が高 齢 な おば
最 初 は 一寸 食 べれ る処 が沢 山 有 った ん で
い若 いな 。
く る のに、中 央 町 か ら長 崎 屋 の前 の千歳
神 島 私 は小 さ い頃 、 孫 のか わ い い爺 さ
飯 島 一
二村 先 生 が そ んな年 上 だ と 知 ら な
か った 。 ︵
笑 ︶ でも ね 、 昭 和 三 十 年 代 の
れ る処 が少 なく な ってき て いる。
んぐ ら いに しか覚 え て いな いん で。
後 半 に、 いわ ゆ る幌 別 郡幌 別 町 の頃 の幌
三村 親 父 は 、酔 っ払 い運転 し た位 だ か
しか な く て、
三村 一
兵快 な先 生 でした よ。良 く ね 、僕
別 町 で開業 し て いた皆 川英貞 さ ん 、狩 野
交 差 点 が渋 滞 で全 然 、 ニ ッチ モサ ッチ モ
飯 島 あ の新 道 が出 来 る前 に、室 蘭 ま で
を 呼 び つけ て、 こ こに座 れ 、僕 に黙 々と
正直 さ ん、深 瀬 政俊 さ ん、伊 藤 一
貝さ ん、
昭和 ︶ 三十 年 代 前
飯 島 若 い先 生方 は ︵
飲 み に行 って いた澤 山 先 生 も 苦 労 し て居
お酒 を 注 いでく れ た 。飲 め 、飲 めと 、 よ
そ れ か ら生 き てる大 岩 昌 生 先 生 、 あ の連
後 です か 。
た んだ か ら 。
く そう いう 思 い出 があ る。
中 は そ れ ぞれ診 療 が終 わ ってか ら 、 み ん
ら 、行 ったと 思 いま す よ 。
木 下 でも 夜 な ら大 丈 夫 だ け ど ね 。ち ょ
飯 島 H
貝禄 があ った か ら ね 。
な 車 で中 央 町 ま で飛 ん で いた 。 昭和 三十
行 か なく て、何 回も 講 演 会 遅刻 し て、 司
う ど 夕 方 五時 、 六時 な ら 、渋 滞 で。
︵7 私 は室 蘭 に来 て十 年 な ん です よ。十
五年 頃 か な 。
▲フ 二十 九年 です 。
飯 島 飲 み に行 く んだ か ら 、自 分 で車 を
年 と 言 っても 長 い歴史 か ら言 う と 、 つい
最 近 の十 年 な ん です け ど 、 こ の十 年 でも
三村 帰 り は飲 酒 運 転 です か 。
三村 神 島 先 生 のお爺 ち ゃんは豪 快 な人
運 転 す るわ け でも な いか ら 、当 時 車 も 無
随 分変 わ ってき て いると 思 いま す 。市 立
笑 ︶ あ の頃 お ま わ り
飯 島 飲 酒 運 転。 ︵
飯 島 そ の話 は聞 き ま し た 。
か った ね 。
病 院 で勤 務 のた め中 央 町 三 丁 目 の アパ ー
会 し なく ては いけ な い事 も あ り 、あ そ こ
野 尻 私 最 初 に来 た のが、 昭 和 五十 七年 、
さ んは 、捕 ま え な か った 。
三村 若 いな 、考 え れば 、僕 ら より す ご
五十 八年 です 。 そ の時 に日銅 記 念 病 院 に
ト に住 ん で います けど 、 そ こ に決 めた 時
甲 ︶ 登別 に飲 む 処 が無 か った 。
斉藤 ︵
だ った ん です よ 。 ご 一緒 した事 有 るけ ど 。
居 ま し て、 そ の後 平 成 元年 か ら新 日鉄 病
には 、 こ こはま だ 店 は 沢 山有 る し、何 の
斎藤 ︵
義 ︶ 中島 町も 無 か った 。
は酷 か った です ね 。曲 がり く ね った 一本
院 に移 り ま し た 。 日銅 記 念 病 院 に居 た時
不自 由も し な いか なと 、決 め た ん です ね 。
力 った し 。
木 下 あ れだ け は室 蘭 の発 展 のた め に良
は、 よ く 中 央 町 に飲 み に行 って いま し た 。
20
そ んな こと は し て いな か った 。
た か ら 、俺 と 同 じ で真 面 目だ った か ら 、
飯 島 堀 尾先 生 の親 父 さ んは真 面 目だ っ
生 ︶ も 豪 快 に飲 んだ ん では 。
三村 堀 尾 先 生 のお 父 さ ん ︵
堀 尾行 彦 先
て いて、 そ れ が 一番 覚 え て いる事 です ね 。
時 に は、 札幌 と 同 じ位 に色 んな物 も売 っ
見 る影 も な い位 で、九 井 が中 央 町 にあ る
て人 が多 か った な あ と 思 いま す 。 いま は
住 ん で いま し た け ど 、当 時 は景気 が良 く
柳 川 子 ども の頃 は 五歳 位 ま で、輪 西 に
木 下 野崎 ね 、残 って いるね 。
木 下 ヽ
ミヤ モリさ ん でな か った かな 。
飯 島 せ心れち やう よね 。
て云 った か 。 フラ ン ス料 理 の。
木 下 当 時 の三階 にあ り ま し た よね 、何
飯 島 あ のレ スト ラ ンも ね 。
な い。
一軒 か 二軒在 った んですよね。今 は何も
木 下 蛯 天 だ ね 、 中 央 町 に レ スト ラ ンが
う ね 。 昔 は 。 昔 の て ん ぷ ら 屋 、 何 て云 っ
た っけ 。
く と 云 った ら 、 ほ ん と 子 供 喜 ん だ で し ょ
飯 島 つ つみ 屋 と 云 った か い。 九 井 に行
お も ち ゃを 買 って貰 いま し た 。
柳 川 上日、 九 井 の前 のお も ち ゃ屋 さ ん で、
立 木 五十 数名 です ね 。
斎藤 ︵
義 ︶ 私 、 イ ン タ ー ン や つた 時 に、
そう す ると や っぱ り飲 む ね 。
斎藤 ︵
義 ︶ 今 、製 鉄 病 院 の医 者 は何 人 。
澤山 どう し ても 仕事 が 遅く な るか らね 、
飯 島 飲 んだ よな 、 よく な 。
立木 院内 では飲 ま な いです ね 、 流 石 に。
う 事 は無 いん でし ょ。
飯 島 勿論 、勤務 の時 に医 局 で飲 む と い
ね 。誰 と は言 わ な いけ どと 。
てく る奴 が居 たと 、 要す る に朝 帰 り だ よ
行 く時 、
出 て行 く 、見 た顔 が ノ コノ コ帰 っ
飯 島 カ ラオ ケボ ック スな ん て無 か った
でや って居 ま した ね 。
木 下 中央 町も 、昔 は店 は 二時 く ら いま
ず っと そ こ に居 る みた いです ね 。
子供 の頃
堀 尾 子 ども の頃 の僕 の思 い出 は 、九 井
が 中 央 町 に あ って、あ の頃 よ く 連 れ て
飯 島 も う 一軒 は何 だ った け 、浪花 か 。
二十 人位 。 昭和 二十 五年 。 日本 鎮 雄 先 生
しね。 ︵
笑 ︶ 本 庄 先 生 が 朝 、 犬 の散 歩 に
行 って貰 って、七歳 、 人歳 の時 にお子様
木 下 浪 花 は消 え ま し たね 。
と 一緒 だ った 。あ の人 達 、受 験 の神 様 で
ね 、 国家 試 験 のヤ マ当 てる のに見 事 だ っ
若 い方 が夜 通 し で飲 む な ん てあ ま り無 く
三村 趣 味 の多 様 化 と いう のでし ょう か 、
会 や る でし ょ、偉 い人達 は 理事 会 と 称 し
飯 島 回本 先 生 は ね 、 や はり 、常 盤 で宴
最 近 の飲 み会
斎藤 ︵
義 ︶ 僕 が行 った のは野崎 だ よね 。
ラ ンチを 最 上 階 のレ スト ラ ン で食 べた事
です 。
斉藤 ︵
甲︶ そ れ は ど う や つて中 央 町 に
堀 尾 蒸気 機 関車 でな か ったか な 。 レ ス
ト ラ ン の前 にジ ュー ス の販 売 機 が在 って、
な った のでし ょう か 。
た 。戦 艦大 和 の乗 員 だ った 。
て っぺん の透 明 な ド ー ム の中 にジ ュー ス
て芸 者 と 一緒 に向 こう の部 屋 に行 く 、大
広 間 に我 々残 って、酒 が 一杯 余 つて いる、
行 く ん です か 。
が噴 水 の様 に湧 き 出 て いて、十 円 入 れ る
国本 先 生 は勿 体 な いから 全 部 空 けち や い
立 木 無 いです ね 。 最 近 、病 院 の宴 会 も
二次 会 は カ ラ オ ケ ボ ック ス に行 って、
と 紙 コ ップ で飲 め た 。感 激 でし た 。
-21-
笑 ︶ ま だ 、 あ の当 時 は
ま す か ら ね と。 ︵
勿 体 な い、勿 体 な い、 写真 持 ってく れば
よか つたな 、芸者 たち が写 って いる や つ。
若 い人 の減 少
立 木 やはり 、若 い人 が少 な いです ね 。
室 蘭 工大 の近所 が 一番 。 やはり若 い人 が
義︶ 白 鳥 のゴ ル フ場 は コン ペじ ゃ
斎藤 ︵
言 った ら 、全 然違 った 。
木 下 本当 に企業 城 下 町だ った んだ け ど 、
な か つた ら 、行 け な か った 。絶 対 入 れ な
い。 予約 は新 日鉄 ば かり だ った か ら 。
居 るか ら 。
勤 務 医 の今 昔
飯 島 先 生 は 開業 し た の い つ。
甲 ︶ 昭 和 六 十 一年 。室 蘭 のピ ー
斉藤 ︵
ク は 昭和 四十 年 です ね 、東 京 オ リ ンピ ツ
と 健 闘 し て いる のは 、 北見 な ん です 。 こ
木 下 新 国鉄 の広 い工場 の中 で、働 いて
いる人 は多 か った 。
斎藤 ︵
義 ︶ いま は そ んな に居 な いよ 。
-22-
前 に疫 学 調査 みた いなも のを 調 べた こと
が有 る ん です けど 、十 八歳 過ぎ ると 特 に
れ が意 外 でね 、平 成 七 年 に室 蘭 と 北見 は
ク の終 わ った 頃 、面白 いのは苫 小牧 と ク
ロスす る。苫 小 牧 が伸 び て行 って、室 蘭
神 島 そ れ は こ こか ら 大 学 に進 学 す ると
ク ロスし て いる。 人 口 では 、 北見 は ジ リ
女 の子 の数 が 、市 の人 口動 態 で、 ガ ク ッ
いう 事 では な く 、就 職 と か でも外 に行 く
ジ リ上 が って いるんだ け ど 、室 蘭 は ジ リ
が衰 退 。
と いう 事 です か 。
ジ リ下 が って いる。 北 見 も 室 蘭 も 国立 大
と 減 る ん です よ ね 。み んな 、ど っか に行 っ
立 木 どう な ん でし ょう ね 。多 分 、 そう
学 あ る ん です け ど ね 、室 蘭 に来 た と き は 、
斎藤 ︵
義 ︶ 反対 にな った 。
だ と 思う ん です よ ね 。
こ の街 は新 国鉄 と 日本 製 鋼 所 、 日本 石油
ち やう ん です ね 。
神 島 働 き 口が無 い。
斉藤 ︵
甲︶ 道 内 の都 市 で見 る と 、意 外
斎藤 ︵
義 ︶ だ か ら 出 稼 ぎ だ も ん。昔 と
か った 。
斎藤 ︵
義 ︶ 小 学 校 は み んな統 廃 合 。
違 う ね 、出 稼 ぎ に来 た人多 か った けど 、
今 は仕事 が無 いか ら出 稼 ぎ に行 っち ゃう 。
飯 島 ゴ ル フ場 に行 った って、新 日鉄 と
が あ る か ら 、衰 退 す る と は 想 像 でき な
木 下 技 術 持 って いる人 は 、 み んな出 て
行 っち つ。
,
立 木 国立 大 学 も 有 るん です け ど ね 。
斎藤 ︵
義 ︶ いま 一番 、景 気 が 良 い のは
ヤた町
ね 、忙 しく て、忙 し く て、
も 、今 の先 生 方 の話 聞 く と 、凄 いです よ
さ ん のんび り 診 察 や つて いた んだ け れ ど
斉藤 ︵
甲 ︶ 僕 が 来 た 頃 の三 大 病 院 の皆
のに、 こんな に多 く し て良 いのか い。
らね 、全 部 三大 病 院 が人 口半 分 にな った
院 に居 た 頃 は医 者 は 二十 人 ち ょ っと だ か
銅病 院 、製 鉄 病 院 にし ても 、俺 が市 立 病
斎藤 ︵
義 ︶ 上日に比 べ て、市 立 病 院 、 日
木 下 需 要 が有 ると いう 事 だ ね 、
の需 要 を 増 や し て いる。
だ け は衰 退 しな いです ね 、高 齢 化 が医 療
斉藤 ︵
甲︶ 衰 退 す る街 です け ど 、医 療
行 か な いで良 く な った と 云 って いま した 。
業 し た時 、息 者 さ んが線 路 の向 こう ま で
き ま した ね 。だ から 、俺 と 大 岩 先 生 が開
いう 事 は無 か った けど 。 開業 当 時 は結構
のと こ ろは はず れ なも ん です か ら 、 そう
には 、 二百 人 、 三百 人 来 たと かね 。我 々
飯 島 上日、 イ ン フル エンザ が流行 った時
か った 。
いも の、新 日鐵 な んか 二十 人 位 し か いな
位 診 たと か 。
斎藤 ︵
義︶ だ って、病 院 の医 師 が 少 な
か 。児 玉直 彦 先 生 に聞 く と 、
一日 二百 人
立 木 昔 は息 者 さ ん の数 も多 か った です
か った よね 。
家 が少 な い、 そう した ら高 く な る。 そ れ
で、白 鳥 台 に新 し い宅 地 を造 って、 そ つ
澤 山 上国か ら でし ょ。場 所 が少 な いし 、
神 島 そう みた いです ね 。
よね 。
立 木 な ぜ か 、室 蘭 家 賃 高 いと 云 いま す
木 下 そ れ は将 来 は何 か あ るか 判 ら な い。
斎藤 ︵
義 ︶ そ れ は判 ら な い、
無 く 、ど んど ん減 つて いく だ け だ ね 。
三村 >
﹂れ以 上 室 蘭 は 人 口が増 え る事 は
心 が あ って、 中 島 町 に 中 心 が 移 った ら
も つと 、も つと 伸 び るか と 、意 外 と 伸 び
そ れ で広 がり が無 い。最 初 は中 央 町 に中
ち に行 って貰 おう と 思 った ら 、 そ こ に行
く のは嫌 だ と 、 で結 局 縮 小 、縮 小 にな っ
三軒 、軒 を連 ね て いる街 は無 いん じ やな
斎藤 ︵
義 ︶ 無 いよ、 こ ん な 巨 大 病 院 が
適 な 室 蘭 だ と 思う ん です け ど ね 。
呼 ば な いのか 、 そう 思う のです け ど 。快
暑 く な ら な いと こ ろ、 な ぜ室 蘭 に人 口を
三村 室 蘭 は 一番 日本 で、素 晴 ら し い、
神 島 ハ ックが無 く なり ま し た ね 。
す ね 、白 鳥 台 は 。
立 木 生 鮮 食 品店 が無 く な った みた いで
計 画 が臥 目だ った と 聞 いており ます 。
丁 平 に造 れば 、 ま だ良 か つた 。 そ つか ら
-23-
な いのは残 念 だ け れど も ね 。
木 下 な ん でそ んな に忙 し いのか ね 。
斉藤 ︵
甲 ︶ な ん で そ ん な に忙 し い のか 。
飲 み に行 く 暇も な いみた いで。
斉藤 ︵
甲 ︶ 若 い先 生 は 忙 し く て、飲 み
斎藤 ︵
義︶ 街 は 綺 麗 に な った ね 。 景 気
今、
た 。 そ れ で人丁 平 にな った 。 最 初 か ら 人
に行 け な いそう です よ 。
悪 いと 云 ってるけ ど 、う ち の近所 は新築
ば つか り だ よ 、誰 が住 ん で いるんだ ろね 。
立 木 他 の街 で こんな の無 いです よね 。
斎藤 ︵
義 ︶ そ こが 変 な んだ よ ね 。ど う
し てだ ろう 。 人 口半 分 な のに。
神 島 空 いて いる みた いです ね 。
飯 島 アパ ートも 空 いて いる ん でし ょ、
飯 島 偉 い人 が真 面 目 な んだ よ 。
木 下 息 者 さ ん沢 山診 た け ど 、医者 少 な
斎藤 ︵
義 ︶ ガ ラガ ラ空 い て いる、風 呂
?
木 下 土 地 の形 が発 展 し にく いんだ よね 、
八 よね で狭 い幅 で、 沢 ば っか りあ つて、
住
み
易
い
ん です け ど 、 み んな向 こう に移 った 。
三村 新 日本 石油 のト ップ も ここ に居 た
う 。所 長 な んかも 東 京 し か見 て いな いか
つ。
正
なあ っち に行 ってしまう か ら 、潰 れち や
れど も 、新 日鉄 も 合 理化 で偉 い人 は み ん
粋 月 だ の云 っ
飯 島 さ っき の、常 盤 だ の、
ても さ 、普 通 の街 な ら 、あ る程 度 も つけ
も 付 いて いな いか ら さ 。
三村 ∼
﹂んな こと を 云 ってし まう と 怒 ら
メリ カさ んと 云 って いた のと 同 じ 。
飯 島 昔 の総 理大 臣 が アメリ カさ ん、 ア
ると 街 は衰 退 す る。
か って発 展 し てき た か ら 、 経 済 が停 滞 す
斉藤 ︵
甲︶ あ ま り にも 大 企 業 に寄 り か
三村 大 企業 が全 て低 迷 し てく るか ら 、
は大 企 業 は無 いです か ら 。
新 日鉄 、 日銅 、新 日本 石油 、大 企業 の城
斎藤 ︵
義 ︶ でも ね 、あ の頃 は 新 日鉄 が
大 企 業 が発 展 し てく れな いと 、
三村 街 の繁 栄 と いう のは 、 ま さ しく 、
義 ︶ 俺 が 来 た 時 は 、室 蘭 最 高 潮
斎藤 ︵
の時 だ った 。
の後 継 いで戻 ってく る んだ から 。
飯 島 そう す ると 、先 生 方 は偉 いね 、親
日鉄 の職 員 は少 な いんじ ゃな いか
義 ︶ 室 蘭 に将 来 住 む な ん て、新
斎藤 ︵
年 取 った ら室 蘭 に住 ま な いと 。
三村 そ れ ぞ れ の人 生 設 計 にし た って、
居 な いか ら ね 。千 葉 県 と か に。
三村 反 対 だ も んね 、
飯 島 自 衛 隊 が来 れば 、 反対 、 反対 と や
る んだ わ 、 いま は無 理 だ わ 。
事 で。
人も 来 ま す し 、色 んなも のが潤う と いう
う 事 であ れば 、出 来 る んじ やな いです か 。
一寸 立 ち 寄 ってと 云
備 の基 地 です かね 、
神 島 いま 軍港 では無 く ても 、 な んか整
れ な い。
そ れを 満 たす こと が出 来 な いと 軍港 にな
と 飛行 場 が無 い。 要件 が七 つ、 入 つあ る。
て生 き る んだ った ら 、何 が 要件 か と 云う
れ るかも し れ な いけ ど 、室 蘭 が 軍港 と し
下 町 な ん です ね 、他 の函館 と か 、北 見 に
斎藤 ︵
義 ︶ み ん な 所 長 な ん て、室 蘭 に
偉 く 見え て、相 対 的 に我 々が低 か った 。
神 島 基 本 的 に世 の中 で、 日本 が戦争 す
ん です か ね 、 し な いんだ った ら 、自 衛 隊
ると いう のはあ り 得 な いです よね 。す る
市 立 病 院 の医 者 な ん て、誰 も 相 手 にし な
斉藤 ︵
甲 ︶ 室 蘭 と いう 土 地 は 特 殊 で、
の需 要 を 。
-24-
汁
喜
▼IW
:坤
く いよ ね 。
木 下 毎 日 三 〇度 超 え て いたら 、住 み に
北海 道 が住 み やす い。
斎藤 ︵
義 ︶ 平 均気 温 が 二∼ 三度 上 が ると 、
木 下 温度 は ど んど ん上 が るし ね 。
はあ り得 るか ら ね 。
斎藤 ︵
義 ︶ 東 京 に居 ら れ な いと いう 事
です よ 、根 室 と か 。
木 下 道 東 は地 震 銀 座 です ね 。毎 日地 震
も 少 な いしね 。
んだ よね 。 分 か んな いよ、 これ は 。地 震
北海 道 が急 激 に発 展 す る ことも あ り得 る
全 なと こ ろと いう のが北海 道 にな って、
斎藤 ︵
義 ︶ あ る意 味 で、 日本 で 一番 安
最低 の馬 券 場 にな っち ゃ って、
ウ ィ ンズ な ん て、今 年 も売 り 上 げ 減 で、
三村 僕 は競 馬 を や って いる んだ け れど 、
置 い て いた よ う だ ね 。 昔 の漁 師 と いう の
飯 島 ヤ ー さ ん た ち も 普 段 漁 師 に は 一目
たね。
木 下 上日、 香 具 師 の親 分 が 居 て 、 凄 か っ
神 島 いま は キ ツキ ツ です ね 。
澤 山 そ の代 わ り に 、 お 祭 り が こじ ん ま
り に な った 感 じ 。 中 島 榊 社 も 盛 大 だ った 。
神 島 ど こ か で息 を 潜 め て いる ん です ね 。
な った 。
夏 に な る と 来 る ん で す 。 いま は 少 な く
澤 山 キ レ やす い。 そ れ でも ど う し ても
神 島 キ レ やす いん です か 。
はり 。
みれば 割 と 、話 は合う んだ け れども 、 や
澤 山 居 ま し た ね 、昔 相 撲 取 り で話 し て
て いる ん です 。大 人 し いです 。
甲 ︶ 居 ま す よ。 み ん な 高 齢 化 し
斉藤 ︵
いけど 。
神 島 今 も いま す か 、 ほと んど見 か け な
社 の運 営 に使 わ れ てき て いる ので、港 が
どう 使 わ れ るか 、住 民 が稼 げ る仕事 、 産
鉄 の会 社 が来 て、 最終 的 には今 、製 鉄 会
岩 田 室 蘭 は 、 最初 に港 あ り き 、後 で製
用方 法 など を 提案 し て いただ き た い。
湖 も あ り 、 景色 も 良 く て、 天候 も 穏 やか
で、 そ こらを 工夫 し て、若 い政 治 家 に活
こ ろな ので、海も あ り 、山 も あ り 、温 泉 ・
堀 尾 難 し いけど 、色 んなも のがあ ると
野 尻 神 島 先 生 のお力 で何 と か 。 ︵
笑︶
よね 。
整 備 さ れ て いな いと ころは 沢山 あ り ま す
か 、観 光 道 路 も 不十 分 です し 、 ま だ ま だ
じ ゃな いです か 、 こ んな狭 い道 行 く のと
神 島 地 球 岬 一つに し ても 行 き にく い
す が。
国的 に やら れ始 め て いると こ ろは有 り ま
に結 び つけ て でき な いか な あ と 、 日本 全
そ の周 り に観 光 があ って、何 と か有 機 的
哀 稼 業 の人達 は
フ ァの事 を考 え な く ては いけ な いのか と
思う のです が 、 そ れ か ら先 は 一寸 。
業 のた め に だ け じ やな い、プ ラ ス ア ル
これ から
は 乱 暴 だ った ら し いな 。
神 島 上日、 人 口が多 か った時 に北海道 の
中 で、 こ っち の方 が非 常 に多 か ったと か 、
ると 思 いま す 。折 角 良 い港 があ る のに使
︿フ 今 回 の震災 で、色 々わ か った事 があ
野 尻 此 処 の地 区 は 、先 ほど 先 生方 が言
北海 道 の中 で 一番 巨 大 な組 織 があ ったと
聞 き ま した が 、 やは リ ガ ラが悪 か った で
す よね 、大 き な震災 が起 き ると 一極 に集
わ れ て いな い。札 幌 に近 いか ら苫 小 牧 で
し ょう か 。
わ れ た よう に、医 療 と し ては 、医 療 圏 と
し てみた場 合 には非 常 に充 実 し て いま す 。
三村 今 も 居 ます け どね 。
-25-
が 三十 ∼ 四十 分 で行 け るも のです か ら 、
な ん です よ 、 洞爺 湖 と かあ の辺 ね 、 そ こ
あ つて、 キ ャ ンプ オ タ ク にと っては聖 地
プ 場 が 洞 爺 湖 と か 、す ご く 綺 麗 な 処 が
週 のよう に キ ャ ンプ し て いま す 、 キ ャン
こ の街 非 常 に気 に入 ってです ね 、夏 は毎
ど 、 開業 し て十 二∼ 三年 目 な ん です けど 、
生 田 産業 の事 は良 く 分 か んな いです け
く 、他 の小 樽 と か に押 さ れ て いま す よね 。
レ ットを 見 ても 、室 蘭 の情 報 発 信 は少 な
は な いかと 思 いま す 。道 内 の観 光 パ ン フ
ピ ー ルす る。情 報 発 信 と 云う のは必 要 で
です か ら 、 雪も 少 な く冬 も 大 した こと無
い、 そう い ったも のを 全 国的 にも っと ア
見 れ ば 、 エア コン無 し で暮 ら せ る街 な ん
メージだ った ん です けど 、 逆 に全 国的 に
点 で、室 蘭 は 寒 いと いう マイ ナ ス のイ
て死 にそう にし て いま す 。僕 は札 幌 が拠
節 電 、節 電 と 関東 の方 では暑 い思 いを し
い った 流 れ にな ると 思う ん です け ど ね 。
は生 か し てお か な け れば な ら な い。 そう
スクを 分散 す るた め には必ず 、良 いも の
札 幌 離 れ て、地 方 出 た 人 、 み んな 子供 が
室 蘭 栄高 と いう のが有 る、医 局 の先 生方
的 に此処 の街良 いなあ と 思 って いる のが 、
か 、 国立 大 学 が有 ると か 、
一つには個 人
ま す 。例 え ば 、 胆 振 総 合 振 興 局 が有 ると
ン テージ を 大事 に守 った 方 が良 いと 思 い
え て いる方 だ と 思う ん で、今 あ る アド バ
て いるよう です 。 そ の中 で室 蘭 は持 ち 応
た旭 川 、苫 小牧 、帯 広 でも 中心 部 の空 洞
化 が始 ま って、 か な り寂 し い状 況 にな っ
だ け じ ゃな いです 。
特 に今 、
前 ま で良 か っ
け ど 、他 の街 はど こも 衰 退 し て いて室 蘭
立 木 北 海道 の場 合 、 札幌 は良 いん です
を 変 え れば す ご く良 い街 だ と 思 いま す 。
た な あ と 非 常 に心 底 思 って いま す 。見 方
ごす と いう 意 味 では 、 此 処 に来 て良 か っ
ん です ね 。だ か ら 、仕事 以外 に余 暇を 過
お金 の事 を 考 え な き ゃ、非常 に良 い所 な
ん中 に住 ん で いるより ず っと 楽 し い所 で、
と な ん です 高速 使 う と 。だ か ら札幌 の真
く ん です け ど 、 ニセ コま で 一時 間 ち ょ っ
は小樽 出 身 なも の です か ら 、 スキ ー に行
ニア の人 は結構 サ イ ク リ ング ロードと し
て、 国道 を 利 用 し て いま す ね 、冬 は 、僕
な い。 そ れ が現 実 な んだ よね 。 そ の辺 が
一回位 は札 幌 方 面 に出 か け な け れば な ら
も のを含 め て、室 蘭 は品 不 足 、結 局 月 に
姑 立 す る んだ よね 、 フ ァ ッシ ョナブ ルな
です ね 。だ け ど 、女 の考 え 方 は 圧 倒 的 に、
も ゴ ル フそ の他 、結 構 、室 蘭 住 み やす い
木 下 男 は働 き 場 が有 った り 、 レジ ャー
海道 は良 く な るよ 。世 の中 は 通だ か ら ね 。
云 わ れ る ん じ やな い。 そう す ると 急 に北
度 く ら い上 が った ら 、 北海 道 は別 天地 と
か ら 、 運だ けど ね 、 日本 の平 均 気 温 が 二
る、あ れも 凄 く良 いと 云う ん でし ょ、 だ
れ か ら 、室 蘭 に波 乗 り の場 所 を持 って い
る でし ょ、冬 場 は スキ ー場直 ぐ だ よ 。 そ
るんだ よね 。夏 は ゴ ル フ場 ど こ でも 出 来
義 ︶ 私 も 実 は 室 蘭 気 に 入 って い
斎藤 ︵
と 思 いま し た 。
大 事 にし て いく と良 いんじ ゃな いか なあ
ざ 汽 車 で通 って いる高 校 な ん で、是 非 、
理数 科 も 有 り ま す し 、苫 小 牧 か ら わ ざ わ
方 が多 いと 思う ん です けど 、室 蘭 栄 高 は
会 の先 生 方 沢 山 お子 さ んを 行 か し て いる
幌 に就 職 し た り 、室 蘭 の場 合 には 、医 師
は自 分 が単身 赴 任 した り 、自 分自 身 が札
非 常 に良 いと 、木 曜 日午 後 休 み で、午 後
中 学 、高 校 位 にな ると 、地 元 に良 い高 校
ク リ ア でき ると 、 な お将 来 室蘭 に良 い事
中 し て いると 被 害 甚 大 にな り ます よ 。 リ
は殆 ど サイ ク リ ング し て いま す 。伊 達往
が無 いん で、札幌 に子供 や った り 、或 い
笑︶
︵
復 と か 、 そ れ はま た す ごく 良 い所 で、 マ
-26-
が発 展 す る、活気 あ る状 態 にな る のは 、
は 三十 年 以 上 にな り ます が 、 こう いう 街
こ に来 て、僕 は登 別 です けど 、最 初 か ら
の人 回は十 万 を 切 ってしま った けど 、 こ
クタ ーも 企業 人も 楽 し ん で いた 。今 室 蘭
んも 随 分 繁 盛 し て いた みた いです し、 ド
と 過 去 形 で語 って い いのか と 、飲 み屋 さ
も 有 り 、文 化 も 有 り 、魅 力 的 な 街 だ った
斉藤 ︵
甲 ︶ いろ いろ話 を 聞 いて、歴 史
いう 反省 点 と し てあ る。
出 来 な く な って いる んじ やな いか 、 そう
良 い所 に住 ん で いるも のだ か ら 、変 革 が
も 良 いんじ やな いか と 、
一寸 ね 、あ まり
住 ん で いる んだ ね 。 たま には暑 く な つて
蘭 は中 間 と いう か 、 そう いう 良 いと こ に
も の凄 く 暑 か ったり 、凄 い冷 え 込 み、室
も な ら な い。あ ち ら の方 を 見 て いた ら 、
低 気 温 の差 が少 な い、 さら に非 常 に暑 く
ほ んと に、 最 近 見 て いると 最 高気 温 と最
澤 山 や はり 室 蘭 で、良 い所 と いう のは
キ ーは出 来 る は、 ではね 。
乗 り は出 来 る は、 ゴ ル フは出 来 るは 、 ス
と 思 いま す ね 。野郎 ば か り 、良 いよ 、波
よう な街 づ く り を 考 え な け れば いけ な い
に居 る人達 でも 室 蘭 が好 き だ と 云 わ れ る
が有 る のか な あと 、難 し いです ね 。家 庭
思 いま し た 。
す 。今 日 、皆 さ ん の話 を 聞 いて つく づ く
退 の 一つの間違 いのな い要 因 だ と 思 いま
無 理矢 理 造 った 、 これ は やはり 室 蘭 の衰
ま す 。特 に、話 題 にな った苫 小 牧 の港 は
化 圏 を保 つのは距 離 の問 題 が有 ると 思 い
札 幌 に流 れ てし まう 事 は確 か に有 ると 思
いま す 。帯 広と か 、北 見 が そ れ なり の文
蘭 があ ま り にも 札 幌 に近 い為 に、 み んな
て行 か な いのでは無 いかと 思 います 。室
援 しな け れば 街 と いう のは やはり 発 展 し
な し に地 元 の産 業 と か文 化 を です ね 、応
大 好 きだ と 、 これ は是 非 好 き な だ け では
皆 さ ん の話 聞 いて いると 、皆 さ ん室 蘭 が
いう のは 一つあ ると 思 いま す 。だ けど 、
と し て、室 蘭 が こ の様 な状 態 にな ったと
ク です ね 、 そう いう も のがか か った結 果
ば 行 か な いし 、ネ ガ テ ィブ フイード バ ッ
美 味 し い食 材 が 入 らな いし、旨 く な け れ
スト ラ ンも 無 いと いう け ど行 か な け れば 、
事 にな れば 、無 く な っち ゃ いま す し 、 レ
札 幌 に行 って買 い物 し た方 が良 いと いう
あ れ は や はり み んな が大事 にし な いか ら 、
移 って、 結 局撤 退 しち や いま し た け ど 、
でし ょう ね 。九 井 が中 央 町 か ら中島 町 に
皆 さ んが街 を好 き でな く ては いけな いん
に愛 し て いる。乾 杯
蘭 歴 は長 い、 そう いう ので、室 蘭 を 非 常
昭和 三十 六年 か ら はず つと 居 る ん で、 室
蘭 に居 てね 、
一寸 一時期 抜 け た け ど も 、
斎藤 ︵
義 ︶ 私 ね 、小 学 校 一年 生 か ら 室
た ん でし ょう か ︵
笑︶
き にした いと 思 いま す 。座 談 会 は成 功 し
す 。 そ ろそ ろ時 間 がき ま した ので、 お 開
いて頂 き た いなあ と いう のが僕 の実 感 で
政治 家 、地 区 を代 表 す るト ップ の人 に聞
ただ いて、ま ず 、皆 さ ん の話 した こと を
三村 二
貝重 な ご意 見 を お 一人 、 お 一人 い
玖を 霧
27
う辛カ
tし
野鳥観察︶
バードウオ ッチング ︵
から見え て来たも の
森 川 一
元
を 経 験 しま し た が、望 遠 鏡 ︵フィー ルド
ス コープ ︶ の中 に いる野鳥 の姿 は皆 美 し
く 、 そ の愛 ら し い仕 草 や美 し いさえ ず り
にす つかり魅 了 さ れ てしま いま し た 。 そ
れ以 来 、暇 があ れば イ タ ンキ浜 や地球 岬 、
マスイ チ浜 、室 蘭 港 等 案 内 し ても ら い、
日本 野鳥 の会 に入会 し 、市 民 探鳥 会 にも
いて周 辺 は雑草 だ ら け 、 し か し 、あ ち こ
私 の前 の病 院 は中嶋 神 社 近 く に建 って
出 来 るよう にな り ま す ま す バ ード ウ オ ッ
約 五十 種 類 く ら いの野鳥 を 見 分 け る事 が
る指 導 員 に いろ いろ教え ら れ 、 三年 程 で
︵
森 川内科医院︶
ち には樹齢 七 ∼ 八十 年 も す る大 き な木 が
チ ング が楽 しく なり ま し た 。
参 加 し て野鳥 のこと な ら何 でも 知 って い
そび え 立 って いて早朝 には 野鳥 の賑 やか
え ら れ、 翌 日友 人 は野鳥 図鑑 と 双眼 鏡 を
き っと キビ タ キと いう 野鳥 でし ょう と 教
た の で 責 色 い鳥 の件 を 話 す と 、 そ れ は
が 、数 日後 野鳥 好 き の友 人 が遊 び に見 え
麗 な鳥 だ ろう と 感 嘆 し見 と れ て いま し た
て止 ま り こち ら を 伺 って いま す 。何 と 綺
と こ ろ目 の前 の枝 に黄 色 い鳥 が飛 ん でき
夏 のあ る朝 、窓 を 開 け て庭 を 見 て いた
ング の魅 力 にと り つか れ、 ウ ト ナイ湖 や
そ の後 、妻 や子供 達 も バ ード ウオ ッチ
を何 度 も 歩 き 廻 った のを覚 え て いま す 。
私も ハヤ ブ サを 探 し て絵 柄半 島 の海 岸 線
サ が生息 し て いる事 は全 国的 にも 有 名 で、
絵 輛 半 島 の断 崖 には 、 猛禽 類 の ハヤブ
に及 ぶ多 彩 な 野鳥 が観 察 さ れ て いま す 。
宝庫 と し て知 ら れ て いて、年 間約 二百種
いのです が 、実 は愛 鳥 家 の間 では 野鳥 の
室 蘭 は 工業 都 市 と し て のイ メージ が強
持 ってき て ﹁一緒 にバ ード ウオ ッチ ング
有 珠 海岸 ・苫 小 牧 北大 演 習 林 ・千 歳 川等
な さえ ず り が響 き わ た って いま し た 。
を 始 めま せ んか ﹂ と 強 力 に薦 め ら れ た の
たす こと が出 来 た のは嬉 し い収 穫 でした 。
家 族 ぐ る み で遠 出 し親 子 の触 れ合 いを 果
さ っそく 日曜 日 の早朝 、友 人 と 測 量 山
当 時 、 入院 息 者 が いる関 係 上 、 頻 繁 に
が始 ま り でした 。
に出 か け 、初 め て のバ ー ド ウオ ッチ ング
28
は遠 出 は出 来 ま せ ん 。 そ れ な ら ﹁
野鳥 を
庭 に呼 ん で みた ら ﹂ と のアド バイ スを受
け 、庭 に バ ード テーブ ルを 設 置 し てみま
した 。
一枚 です ︵
写真 ︶。
ワシ ・タ カ類 は小鳥 を 餌 にし て生 き て
いま す 。
小鳥 は昆 虫 を食 べ、昆 虫 は植 物 に依存
て来 ま せ ん 。 でも 、 二∼ 三 ヶ月 間気 長 に
の食 べる ・食 べら れ る関係 を 食 物 連 鎖 と
な って蓄 え ら れま す 。 こ の様 に生物 同 士
中 の生物 によ つて分解 さ れ、 上 の養 分 と
ワシ ・夕 力が事 故 や病 気 で死 ぬと 、 土壌
し 、植 物 は大 地 か ら栄 養 を受 け 、 そ し て、
待 って いるう ち に スズ メ に混 じ って、 ヒ
ョド リ ・シ メ ・シジ ュウ カ ラ ・アカゲ ラ
言 いま す 。
や はり 、始 めは スズ メく ら いしか寄 っ
等 、年 間約 四十種 類 以 上 の野鳥 が訪 れ る
野鳥 の頂 点 に いる ワシ ・タ カ類 が こ の
よう になり 、家 の中 に いな が ら ウオ ッチ
ングを 楽 し む事 が出 来 るよう にな り ま し
地 域 に生息 し て いると 言う 事 は 、 こ の地
域 の食 物 連 鎖 が健 全 に保 た れ て いる証 で
た。
スズ メや ヒ ョド リは毎 日 のよう に や っ
し か し 、 こ の数 年 ワ シ ・タ カ類 も 減多
あ り 、豊 か な自 然 が残 さ れ て いると 言 っ
瞬 のう ち に捕 らえ 庭 の隅 で食 べて いると 、
に見 かけ な く なり ま し た 。 こ の地 域 の自
て来 ま した が 、 そ れを 狙 って ハイ タ カが
カ ラ スが これを 見 つけ 二羽 ・三 羽と 集 ま
然 にも 何 か 悪 い異 変 が 起 き て いる の で
て良 いでし ょう 。
り 、 つ いに空 中 戦 と な り ま す が、多 勢 に
し ょう か 。
音 も 無 く舞 い降 り てき て、 ヒ ヨド リを 一
無 勢 でさす が の ハイ タ カも 退散 す る破 目
す ぐ 私 が見 に行 く と 、 な んと オ オ タ カが
て いて怖 く て通 れ な い﹂ と の苦 情 があ り 、
階 段 の手 摺 に大 き な鳥 が止 ま っ
す ると ﹁
夏 の朝 、厨 房 の人 が出 勤 し て来 ま す 。
し つ つバ ード ウオ ッチ ングを 続 け て いま
にも 野鳥 を 絶 滅 さ せ ては な ら な いと 痛 感
し ており 、豊 か な自 然 を 後 世 に残 す た め
く と いう 事 は自 然 が失 わ れ て いる事 を 示
タ ーと 言 わ れ て います 。 野鳥 が減 って行
野 鳥 は 自 然 の豊 か さ を 示 す バ ロ メ ー
止 ま って いま した 。急 いで住 宅 か ら カ メ
す。
にな り ま す 。
ラを 持 ち 出 し夢 中 で シ ャ ッタ ーを 切 った
一 一 一 一二
一一二
29
そ し てそ の翌年 か ら心 身 医 学 に興味 あ る
メ ンバ ーと 心 身 医 学 の基 礎 的 勉 強 を毎 週
心 身 症 の定義 は 一九 九 一年 十 月 に心 身
囲 の期 待 に応え よう と し て過剰 な努 力 を
に良 く気 を使 う 良 い子 ク等 と 表 現 さ れ る
よう に過剰 適 応 の傾向 が見 ら れま す 。 つ
真面目
す いが 、心 身 症 の息 者 はむ し ろ ク
人 間焦 ク
他人
仕事 中 毒 焦 ク
頑張 り 屋 焦 ″
医 学 会 の指 針 が でま し た が そ れ によ ると
ク
心 身 症 と は身 体 疾 患 の中 でそ の発 症 や
払う こと で スト レ ス病 にな り易 いわ け で
開始 しま した 。
経 過 に心 理社 会 的 因子 が密 接 に関与 し 、
す。
私 の心 身 医 療 と の出 会 い
私 が心身 医 療 を 開始 し てか ら今 年 で約
器質 的 、機 能 的 障 害 の認 め ら れ る病 態 を
分化 さ れ て ゆく 中 で個 々 の息 者 さ ん の心
物 学 と し て の医 学 がど んど ん専 門化 、細
し て診 療 し て いま し た 。 し か し 一方 で生
診 療 にそ の成 果 を 応 用 す る こと を 目標 に
た り影 響 を受 け る多 く の疾 息 があ げ ら れ
心 理 、社 会 的 スト レ ス等 によ って発 症 し
性 腸症 候 群 、偏 頭痛 や緊 張性 頭痛 そ の他
表 的 疾 患 に スト レ ス性 消 化性 潰 瘍 、 過敏
精 神 障 害 に伴 う 身 体 症 状 は除外 す るク と
な っており ま す 。 こ の定 義 に該 当 す る代
を お こな いま す 。 そ し て必 要 に応 じ て多
を行 って これ らを 調 べ てか ら診 断 や治 療
要 があ り 、十 分 な時 間を か け て受 理 面 接
環境 、幼 少 時 か ら の生 活 史 等 を 調 べる必
題 を 引 き 起 こし た息 者 さ ん の性 格 や生 活
あ る心 理 、社 会 面 の問 題 やそ のよう な 問
す る には そ の病 状 の発 生 や経 過 に関係 の
こ のよう な心身 症 の息 者 の病 態 を 理解
ま り心 身 症 の息 者 は内 的感 情 を抑 え て周
二十 五年 経 つが 、 そ れま で医 師 と し て の
言う 。 ただ し神 経 症 やう つ病 な ど の他 の
松 田 幹 人
約 二十 年 の診 療 にお いては年 々発 展 す る
理 面 や社 会 面 に深 く 関わ って ゆか な け れ
ます 。
先 端 的 な医 学 や医 術 を 出 来 る限り 吸 収 し、
ば どう し ても 診 療 を 全 う す る こと が出 来
意 識 を 感 じ な がらも 心 身 医 療 の手 段 や方
じ ており ま し た 。 し か し こ のよう な 問 題
な い息 者 さ ん が数 多 く いる こと を 常 々感
は ﹁
失 感 情 言語 症 ﹂ な ど と 訳 さ れ て いま
と熙中
JЧユ 臣 と いう 概 念 を 提 唱 し て いま
付
失 感 情 症 ﹂ な いし
す 。 日本 語 に訳 す と ﹁
考 え 方 と し て 米 国 の 盟け観 ら は
さ て心 身 症 の特 徴 を 説 明す る ひと つの
べき 息 者 さ ん に対 応 せざ るを え な いこと
多 く 心 療 内科 を訪 れ 、本 来 精 神 科 で診 る
的 愁 訴 を も つ神 経 症 やう つ病 の息 者 が数
で行 い参 考 にし ます 。
数 の心 理 テ スト の中 か ら必 要 なも の選 ん
法 の経 験 を 持 ち 合 わ せ て いな か った た め 、
す 。 要す る に自 分 の内 的 な感 情 への気 付
が就 職 し てき ま し た 。 これ は私 の懸 柔 を
記念 病 院 に心 理学 を専 攻 し た学 卒 者 二人
五十 七年 に私 が勤 務 し ており ま し た 日銅
こ の様 な こと を 考 え ており ま し た 昭和
り 、対 人 関係 にお いて不適 応 を き た し や
神 経 症 の患 者 は些 細 な こと に感 情 的 にな
言う わ け です 。社 会 適 応 と いう 面 か ら は
き と そ の言 語 的 表 現 が制 約 さ れ た状 態 を
です 。
療 す る方 法 を身 に つけ ておく こと が必 要
行う 医 師 は 一応 軽 症 う つ病 や榊 経 症 を 診
が しば しば あ り ま す 。従 って心 身 医 療 を
さ て心 身 症 医 療 を 標 榜 し て いると 身 体
実 行 に移 せな いま ま 過 ご し ており ま した 。
解 決 す る チ ャ ン スであ ると考 え ま し た 。
-30-
るき っか けと な った内 観 併 用 絶食 療 法 に
多 く あ り ま す が、私 が心 身 医 療 を 開始 す
薬 物 療 法 、自 律 訓練 法 、絶 食 療 法 な ど数
生 か さ れ てき た か に ついて の気 付 き を 深
を 調 べて ゆき 、自 分 が周 囲 の者 に いか に
ら そ の人 た ち にお世話 にな った こと な ど
夫 な ど に ついて 一人 ひと り 思 い返 し な が
あ った 人 々、例え ば 父 、母 、兄弟 姉 妹 、妻 、
た だき ま した 。
か の参 考 に な れ ば と 思 い、 述 べさ せ て い
ど のよ う に診 療 し てき た か に つ い て な に
さ て心身 症 の治 療 には種 々 の心 理療 法 、
ついて少 し説 明 さ せ て いた だ き ま す 。
が内 科 系 心 身 症 の治 療 に応 用 し てそ の効
効 果 を 調査 し 、 そ の後 東 北 大 学 の鈴 木 ら
十 年 前 に東 北大 学 の九嶋 、長 谷 川 が そ の
の修 業 に用 いら れ てき ま した 。 これを数
と が昔 か ら知 ら れ ており 、 これが各 宗 教
悟 り を 開く のに適 し た心 的 状 態 にな る こ
食 と いう 修 業 によ って気 付 き が深 ま り 、
僧 侶 が悟 り を 開 く た め に断 食 し て いる こ
と は皆 さ んも 承知 し て いる通り です 。絶
いう のがあ り ま す 。多 く の宗 教 で昔 か ら
け れど も 非 常 に奏 効 率 の高 い絶 食 療 法 と
には医 療 の世 界 でも 良 く知 ら れ て いな い
倹 ってこ のよう な 異常 な条 件 付 け が修 正
肉 体 への揺 さ ぶり と内 観 的 心 理療 法 が相
るも のと 考 え ら れます 。絶 食 療 法 と いう
低 下 さ せ 、慢性 の心身 症 を成 立 さ せ て い
条 件 付 け が成 立 し 、症 状 の聞値 を著 しく
傾向 があ り 、間 脳 、自 律 神 経 系 の異常 な
の持 つ心 理 的 、社 会 的 、性 格 的 に歪 んだ
わ らず 増 悪 し た り治 ら な いのは息 者 さ ん
例 が治 癒 し た例 を多 数 経 験 し ており ま す 。
治 療 法 でも な か な か治 癒 困難 であ った症
療 を多 数 行 ってき ま した が 、他 のど んな
私 は今 ま で心身 医療 の 一つと し て こ の治
め てゆく のが こ の治 療 法 のポ イ ント です 。
果 を 確 認す ると と も に いく つか の変 更 を
さ れ 、心 身 症 の患 者 を治 癒 に導 くも のと
-31-
心 身 症 の息 者 の治 療 の 一つと し て 一般
加え 、東 北大 学方 式 絶 食 療 法 と し て確 立
思 いま す 。
"
心身 症 の思者 さ ん の症 状 が治 療 にか か
しま し た 。
心 と 身 体 を 共 に視 野 に入 れた治 療 を 行 わ
人 間 の心 と 体 は密 接 に連携 し ており 、
より 大 き な 効 果 が得 ら れま す 。内 観 療法
な け れば 病 気 が治 ら な い息 者 さ んを 皆 さ
そ の際内 観 療法 を 併 用す る こと により 、
と は 仏 教 の僧 侶 吉 本伊 信 が創 始 し た 日本
んも 経 験 し てお ら れ る こと と 思 いま す 。
以 上私 が心身 医 療 と ど のよう に遭 遇 し 、
独自 の心 理療 法 の 一つであ り 、今 ま で自
分 が育 ってき た 環境 の中 で身 近 に交 流 の
b
鷲石茄ギ
開 業 一年 半 を 経 過 し て
佐 原 仲
は喘息 発 作 を 発 症 さ れ る方 が割 合多 い印
象 があ り ま す 。
診 療 分 野 と し て呼 吸 器内 科 は内 科 の マ
イ ナ ー であ り 、調 べてみ ると 二〇 〇 人年
の厚 生 労 働 省 統 計 では全 国 の呼 吸 器内 科
同統 計 で放 射 線 科 五 一
医 は 四 五七 人名 ︵
めま いの話
上 一
戸 敏 彦
呼 吸 器科 医 と し て ロー テー シ ョン勤 務 を
の中 で受 け た後 、道 内 各 病 院 でそ れ ぞ れ
チ ン の初 期 研修 と し て 一年 間 の大 学 研修
科 ・病 理部 な ど肺 にま つわ る内 容 を ルー
方 法 な ど基 本 的 な こと や 、 三 ヶ月 胸 部外
局 に入 局 し 、肺 の断 層 写真 、 C T の読影
科 ク リ ニ ックを 開業 いた しま し た 。
札 幌 医 科 大 学 を卒 業 後 、 同第 三内 科 医
平 成 二十 二年 二月 より さ は ら呼 吸 器内
よ り これ ま で 一年 半多 く の先 生方 に息 者
療 し て いき た いと 思 いま す 。 ま た 、 開業
の呼 吸 器 疾 患 の管 理 に貢 献 でき るよう 診
診 療 し てき た経 験 を 生 か し 、地 道 に地 域
散 見 さ れ 、今 後 も これ ま で専 門医 と し て
た め では な く年 のせ いと 考 え て いる方 も
か し な がら慢 性 的 な呼 吸 器症 状 を疾 病 の
必 要 な方 が たま にお ら れ たり しま す 。 し
にも 何 を専 門と し て いる科 な のか説 明 が
の知名 度 は いま だ 低 く 、初 診 の息 者 さ ん
の こと です 。市 井 の皆 さ ん にも 科 と し て
は めま いに含 ま れま す が 、平 衡 機 能 を 司
で起 き る立 ち く ら み や貧 血 、心 身 症 な ど
と です 。 広 い意 味 では起 立性 低 血 圧 な ど
能 が障 害 さ れ た 時 に現 れ る異 常 感 覚 のこ
が しま す 。 めま いは 一言 で いう と 平 衡 機
めま いと は少 し ギ ャ ップ があ るよう な気
耳鼻 科 医 が神 経 耳科 学 的 に言う と こ ろ の
使 わ れ て いて、 時 には突 拍 子も な いこと
を 言 った と き に ″めま いがす る″ な どと
表 現す る こと も あ り ま す 。ど う も 私 たち
ふらす る感 じ 、 立 ち く ら みな ど に幅 広 く
一般 的 にめま いは 目 が 回 る感 じ 、 ふら
かみと耳鼻 咽喉科 クリ ニック︶
︵
行 いま した 。大 学 に戻 った時 には断 層 写
さ んを ご紹 介 いた だ き 、感 謝 申 し上 げ ま
る前 庭 系 の障 害 と いう 意 味 では真 性 のめ
さはら呼吸器内科 クリ ニック︶
︵
真 は大 半 の施 設 で検 査 が 下火 にな ってき
す 。 医 師 会 の仕事 と しま し て昨 年 か ら 学
ま いには含 ま れま せ ん。
人七名 、神 経 内 科 三 人九 〇名 の中 間 ︶と
た頃 で、 二次 検 査 はす ぐ に C Tと い った
校 医 、今 年 度 か ら介 護 認 定 審 査 の作 業 も
年 間 研 究 に携 わり 、研 究終 了 後 に当 時 の
肺 疾 患 のC T画像 診 断 を専 門と し て約 六
と 考 え ており ます 。今 後 と も 、何卒 宜 し
これ か ら徐 々に要 領 を つか ん で いき た い
始 ま り 、 いず れも 初 め て の経 験 です が 、
末 梢前 庭 系 ︵
三半 規管 、耳 石器 ︶ に分 か
剛庭神 経 核 な ど ︶、
系 ︵
小 脳 、脳幹 網 様 体 、一
言 う こと にな り ま す 。前 庭 系 は中 枢 前 庭
こ の前 庭系 の障害 こそ が真 のめま いと
研 究 生 と し て外 病 院 の勤 務 を し な がら 、
具合 でし た 。
新 日鐵室 蘭 総 合 病 院呼 吸 器科 で勤 務 いた
く お願 い致 しま す 。
れ 、 こ の中 のど こか に障 害 が起 き ると め
しま し た 。道 内 沿 岸 部 は霧も多 く 、気 温
も 上 がり にく いた め か季 節 の変 わ り 目 に
32
か発 作 性 か誘 発性 か持 続性 か な ど の他 、
す 。外 来 では まず めま いの性 質 が自 発性
経 反射 によ る吐 き気 、頭痛 な ども 起 き ま
脊 髄 反射 によ る身 体 の動揺 、前 庭自 律 神
揺 れ て いるよう に感 じ たり しま す 。前 庭
前 のも のがぐ るぐ る回 るよう に感 じ たり 、
眼 球 振 盪 ︶ が出 現 し 、自 分 ま た は 目 の
︵
ま いが起 き ま す 。前 庭 眼 反射 によ る眼 振
浮 遊 し頭 位 の変 換 とと も にめま いが起 き
こ の疾 患 は耳 石 が は が れ て半 規 管 の中 を
う にな ってき た た めと 考 え ら れ て いま す 。
れ て いたも のが B P P Vと診 断 さ れ るよ
か椎 骨 脳 底 動脈 循 環 不全 症 な ど と診 断 さ
き た た め以前 には他 の内 耳性 のめま いと
年 そ の病 態 が広 く知 ら れ るよう にな って
P Vが最も多 い疾 患 と な り ま した が 、近
ました。
ま いに つ い て簡 単 に 述 べ さ せ て いた だ き
いは B P P V が 一番 多 い の です 。 以 上 め
病 の方 が 有 名 です が 、 実 は 内 耳 性 のめ ま
他 にクプ ラ結 石症 と いう タイ プ のも の
る半 規管 結 石症 と いう タイプ が多 いと 言
出 て いれば 問診 と あ わ せ て診 断 が容 易 に
も あ り 、半 規管 の部 位 では後 半 規管 型 が
随伴 症 状 、 既往 歴 な ども詳 細 に聞 き 、眼
なり ま す 。足踏 み検査 な ど で偏 衛 現象 全
最 も多 く 、次 いで水 平半 規管 型 であ り ま
わ れ て いま す 。
定 方 向 への身 体 動 揺 ︶ を チ ェックし 、蝸
す 。 こ の様 に病 態 の解 明 が進 む と と も に
を 注 入 し水 平 半 規 管 を 刺 激 し てそ の反応
断 が つき ま す が 、最 後 に外 耳道 側 か ら水
必 要 と なり ま す 。 こ こま です れば ほ ぼ診
認 め ら れ る場 合 には MR I等 脳 の検 査 が
り 、 頭 痛 が激 し いと き や他 の神 経 症 状 が
で起 き ま す が 、ま れ に中 枢 性 のこと も あ
学 療 法 は難 治 例 に対 し て行 って いま す 。
徐 々に良 く な ってく るた め、当 院 では理
P P Vは抗 眩 量 剤 な ど の対 症 療 法 により
こと が でき る訳 です 。 ただ ほと んど のB
でき れば 、 そ の病 的 な半 規管 を 同定 す る
を 動 か し浮 遊 した 耳 石を 元 に戻 す こと が
そ の理 学 療 法 含 u中
¶ 法 な ど の浮 遊 耳 石
置換 法 な ど ︶も 進 歩 し てき ま し た 。頭 位
33
振 を確 認 し ま す 。注 視 眼 振 や頭位 眼振 が
牛 症 状 がな いか聴 力 検 査 も 行 いま す 。
を 見 る温度 眼 振 検 査 ︵
カ ロリ ック テ スト ︶
こ の病態 は模 型 な ど でも 説 明 し やす いた
めま いのほと んど は末 梢前 庭 系 の異常
を行 いま す 。外 来 では メ ニ エー ル病 、 め
こと が多 く なり 、 聞 いた こと があ ると い
め 、 最近 では テ レビ でも 取り 上 げ ら れ る
性 発 作 性 頭 位 めま い症 ︵
B P P V︶ など
う 六 も多 く な ってき ま し た 。 メ ニエー ル
ま いを 伴 う 突 発性 難 聴 、前 庭神 経 炎 。良
が多 く みら れま す 。 最 近 の統 計 では B P
ヨ侑9p∨ イ
0
ガ
菊 入 剛 先 生 を悼 む
木 下 博
か ら 最新 の病 状 を 聞 いて不帰 の近 づ き を
院 第 二内 科 長 、 五十 年 部 長 、 六十 年 副 院
年 三月 助 教授 、 同年 五月 市 立 室 蘭 総 合 病
総 合 病 院 内 科 、十 五年 か ら介 護老 人 施 設
長 、平 成 十 二年 三月 退 職後 、 新 日鐵 室 蘭
知 り病 室 を後 にしま した 。
先 生 の病 歴 は 、製 鉄 記 念病 院 前 田征 洋
先 生 か ら お聞 き しま し た 。
を 知 り 言 葉 が な め ら か に出 ず 、 ﹁元 気 に
おり ま した 。私 も さす が に予後 の厳 し さ
苦 痛 を 訴え る言葉 も 発 せず 従 容 と さ れ て
淡 々と 病 状 の解 説 を さ れ 、弱 気 な 言葉 も 、
そ う で し た が 、先 生 は い つも の よ う に
プ が 入 って いる状 況 で、体 位 交 換 は苦 し
伺 いま した 。術 後 のた め か 沢 山 のチ ュー
日手 術 を受 け ら れ たと 聞 き 、 八 日病 室 に
本 年 一月 中 頃 か ら 不調 にな ら れ 二月 二
生 が忽 然 と し て彼 の地 へと 旅 立 た れ てか
平 成 二十 三年 三月 八 日午 前 十 一時 、先
り ま し た 。約 二年 間 の闘 病 生 活 、 三回 の
で終 了 し た 。 二月 二十 八 日内 科 に転 科 し
た が 、病 状 は好 転 せず 三月 八 日鬼 籍 に入
術 を 行 った が 、総 胆管 に C チ ューブ留 置
断 、 二月 二日先 生 の希 望 があ って開腹 手
膜 播 種 、十 二指 腸 浸 潤 、閉 塞 性 黄疸 と 診
あ った 。十 八 日 入院 、精 査 し た結 果 、腹
全 身 倦怠 感 が出 現 、肝機 能検 査 は異常 で
二十 三年 一月初 め悪心 、心 寓 部 不快 感 、
切 除 を受 け 、再 び 化 学 療 法 を 開始 し た 。
結 腸癌 が見 つかり 、 二十 二年 三月 同部 の
学 療 法 を 十 一コー ス終 了 後 小 康 状 態 と
な った 。其 後 の内 視鏡 検 査 で新 た に横 行
を受 け ら れ 、 七 月 か ら製 鉄 記 念 病 院 で化
の癌 と診 断 さ れた 。 五月 札幌 で根 治 手 術
内 視鏡 検 査 で直 腸 S字 結 腸移 行 部 に 二型
け ら れ 、会 話 も 豊 富 で、他 の職業 の方 や
い方 でし た 。 人懐 っこく 、笑 顔 で話 し か
先 生 は印象 的 で エピ ソード の非 常 に多
に近 未 来 を見 据 え た 新 病 院 の完 成 ま でと
に副院 長 と し て力 添 え を いた だ き 、九 年
基 本 設計 、実施 設計 に関わ る調査 、決 定
平成 三年 に始 ま る市 立病 院 移 転 新 築 の
救 命 に成 功 し た時 は感 動 的 でした 。
筋 梗 塞 に経 皮 的 バ ルー ン冠 動 脈 形 成 術 で
輩 を指 導 さ れ 、後 に同僚 N医 師 の急 性 心
早 く か ら心 臓 カ テー テ ル検 査 の導 入 、後
百 人外 来 を こな さ れ て居 り ま し た 。 ま た 、
躍 いただ き 、 ク リ アカ ット な診 断 、治 療 、
門医 と し て、地 域 医療 のた め存 分 のご活
市 立 病 院 時 代 の先 生 は循 環 器内 科 の専
﹁
憩 ﹂ の施 設 長 に就 任 さ れ ま した 。
成 って、取 っと き の ワイ ンを 飲 も う よ﹂
手 術 を受 け ら れ 、 ハードな化 学 療 法 に耐
平 成 二十 一年 三月 血便 あ り 、 四月 大 腸
が
暖 か く な った ら ゴ ル フも や ろう ﹂ ﹁
﹁
初 対 面 の方 でも 会 話 を た のし む特 技 があ
︵
き のした内科 クリ ニック︶
んば れ よ﹂ な ど と 問 いか け た が ﹁そう だ
え な がら 勤 務 を 続 け ら れた先 生 の強 靭 な
り ます 。仲 間 づ く り が上手 で、多 彩 な趣
先 生 は 昭和 三十 四年 札 幌 医 科 大 学 卒 六
のレ ベ ルま で頑 張 ら れ る 一面 があ り ま し
味 も 必ず 仲 間 と 一緒 に楽 し みな が ら 一定
も に苦 労 を 分 か ち合 いま し た 。
イ ン フ オー ムド ・コンセ ント が評 判 で、
俺 も 出 す ぞ﹂ ﹁そ う だ な ﹂ と 答 え ら れ た
忍耐 力 、精 神 力 には頭 が さ がり ま す 。
再 び 病 室 を 訪 れた 時 には 、す で に先 生 の
期 生 、 四十 年 第 二内 科 助 手 を 経 て四十 人
ら 、 早 くも 六 カ月 が経 ち ま し た 。
言葉 が最後 の声 と な り ま し た 。 三月 四 日
意 識 は朦 朧 で問 いか け に反 応 な く 、奥 様
34
室 蘭 ロー タ リ ー ク ラブ には 、 昭和 六十
不 思議 な才 能 があ り ま し た 。
ゴ ル フは四十 八年秋 から始 めら れ、仲
三年 私 と 同時 入会 しま した 。副 会 長 を 経
た。
間を誘 っては四時起き の朝 駆 け で旧登別
なり ま した 。体 型 か ら自 称 腹 回 し打 法 で
を テー マに、環 境 問題 、留 学 生 と の国際
康 な 社 会 と 楽 し い ロー タ リ ー ・ライ フ﹂
て平 成 十 九 年 六 十 二代 会 長 を 務 め 、 ﹁
健
鋭 いド ライ バ ーを 打 ち 、 カ ップ を 外 す と 、
親 善 、高 齢 者 福 祉 に取 り組 ま れ ま し た 。
6ま でに
G C 、 伊 達 G C等 に 通 い、 H D l
口惜 し さを パ タ ー で靴 を 叩く 仕草 で示す
本 年 一月 十 三 日、 い つも のよう に例 会 に
出 席 さ れた のが最 後 の姿 でし た 。
姿 は 、今 でも 目 に焼 き 付 いて いま す 。
スキ ーは 昭和 五十 四年 頃 、と も に子供
追 悼 田中 豊 典 先 生
澤 山 豊
︵
サ テライ トクリ ニック高砂 ︶
田中豊 典 先 生 は平 成 二十 二年 十 一月十
一日 、九 十 五歳 の生 涯 を終 え ら れ ま し た 。
初 め ら れま し た 。 ま た 地 元 の熟年 スキ ー
住 宅 に住 ま わ れま した 。 以来 三十 八年 に
長 男 諭 史 さ ん の家 族 三 人 で常 盤 町 の医 師
ま り でし た 。
中 、 お会 いしま し た のが お付 き 合 いの始
タ ー ンと し て当 時 の富 士製 鉄 病 院 で修 練
先 生 と は私 が 昭 和 三十 年 四 月 にイ ン
愛好会 ﹁
白 銀 ク ラブ﹂ への参 加 も 先 生 の
わ た り 子供 の運 動 会 、水 泳会 、 スキ ー バ
私 より 一年 遅 れ て先 生 と奥 様 水 子 さ ん、
紹介 で 一緒 にし、 平成 十 五年 ま で続 き ま
ス ツアーな ど ご 一緒 し 、家 族 ぐ る み でも
に勤 務 さ れ ており 、 時 折 、 本 院 にも 顔 を
の スキ ー教 室 に参 加 した のを き っか け に
した 。 先 生 は そ の間 も スキ ー ・スク ー ル
お付 き合 い戴 き あ り がと う ござ いま した 。
出 さ れ て居 ら れま し た 。
先 生 と 何 か の話 の中 で偶 然 、先 生 が私
当 時 先 生 は富 士鉄 病 院 元 町 分 院 ︵
輪 西︶
に通 わ れ 、 六十 歳 を 過ぎ てか ら 一級 の検
今 でも 電 話 が鳴 ると ﹁こ の次 の日曜 日予
定 あ るか い?﹂ の声 が聞 こえ てき そう で
定 に合 格 さ れま し た 。
水 泳 も 退 職 後 に指 導 者 と知 り合 い、仲
の父 を ご存 じだ った こと が判 り 、 より身
最後 に、 い つも 忙 し そう に動 か れ て い
す。
バ ック、平 泳 ぎ と 挑 戦 し て程 々 のレ ベ ル
た先 生 、 どう ぞ ゆ つく り お休 みく だ さ い。
私 の父 は千 代 田生命 と 云う 保 険 会 社 の
社 医 を し てお り 、 昭 和 十 一年 、 旧 満 州 ・
間 を 集 め て週 一回 の練 習 に ク ロー ル、
ボー
と な り 、 ﹁ヤ ング ・
シ ルバ ー ・スイ ム ・
い つか彼 の地 で、
一緒 にグ ラ スを 傾 け る
現落 陽市 ︶ に渡 り 、終 戦 後 の昭
奉 天市 ︵
和 二十 二年 に引 揚 後 、 小樽 支 社 勤 務 の社
近 な感 じを 抱 いた こと を 思 い出 しま す 。
イズ ﹂ の名 のも と 、大会 に出 場 した り し
時 ま で。
合掌 。
て いま し た 。
先生 は、意外 にも博オ があ る方 で、麻
医 を し て いて室 蘭 製 鉄 所 にも 時 々顔 を 出
し て保 険 加 入者 の診 査 を し て いま し た 。
︵
平成 二十 三年 九 月 八 日記 ︶
よく当 た るし、ち ょ っと したゴ ロ合 わせ
当 時 ︻健 康管 理 の仕 事 も さ れ て いた 田中
雀大会 で度 々優勝 し て いるし、ビ ンゴも
で買 った有馬記念 で万馬券を当 てるなど
-35-
先 生 には色 々お世 話 にな った と 云う 事 で
した 。
田中 豊 典 先 生 は大 正 五年 一月十 一日 の
伺 った こと も あ り ま した 。
先 生 ご夫 妻 には お子 様 が おら れず 、 そ
の分 、 ご夫 婦 仲 は羨 ま し い程 であ った と
任 。 同 四十 六年 五十 五歳 定 年 退 職後 、 四
七 月 、富 士 製 鉄 室 蘭 製 鉄 所 病 院 副 院 長 就
製 鉄 所 元 町 分院 に勤 務 さ れ 、 同 四十 一年
部 を 卒 業 。 同十 九 年 人月 、 日本 製 鉄 室 蘭
典 先 生 が お亡 く な り にな り 、十 三 日 に雲
昨 平成 二十 二年 十 一月十 一日、 田中 豊
と 聞 いて居 り ま す 。
は勤 めを 辞 め 、奥 様 の介 護 に専 念 さ れた
十 七 日お逝 く な り になり ま した が 、先 生
そ の奥 様 が病 に侵 さ れ平 成 十 五年 人月
ヴ ェン の交 響 曲 第 九 番 演 奏 会 を行 いま し
創 立 三 十 五 周 年 を 記 念 し て、 ベ ー ト ー
今年 ︵
平成 二十 三年 ︶ は室 蘭 文 化 連 盟
︵
製鉄記念室蘭病院︶
工
立 木 仁
今年 のベートーヴ ェン
第九﹂演奏会
﹁
十 六 年 七 月 に は 室 蘭 工大 保 健 管 理 セ ン
タ ー所 長 就 任 、約 十 年 。 同 五十 八年 一月
上 閣 メ モリ ア ルホ ー ル で通夜 、十 四 日 に
た 。私 も 室 蘭 音 楽協 会 市 民 オ ーケ スト ラ
思 いま す 。
か ら 平 成 十 五年 六月 ま で登 別 中 央 病 院 に
告 別式 が行 わ れ 、喪 主 には先 生 の甥御 に
お生 れ で、 昭 和十 五年 、 北 海道 大 学 医 学
勤 務 さ れ医 道 に専 念 さ れ ると 云う 生 涯 を
当 た る田中 博 典 様 が務 めら れま した 。
室 蘭 市 医 師 会 には 昭和十 七年 に入会 さ
先 生 の追 悼 文 の依 頼 を受 け 、改 め て田中
今 回、 室 蘭 市 医 師会 誌 の編 纂 に当 り 、
ラ ﹁
夕 鶴 ﹂ で、 堀 尾 医 院 の堀 尾 昌 司先 生
五年 前 の創 立 三十 周 年 記 念 行 事 は オ ペ
︵
以下 ﹁
市 民 オ ケし のヴ ィオ ラ奏 者 と
送 ら れ てお り ます 。
れ ており 、 同 四十 四年 四月 より 四十 六年
豊 典 先 生 への思 い出 を 振 り 返 ら せ て頂 き
が主 役 級 の ﹁
惣 ど ﹂ を 演 じ ら れ 、 こ の時
市 民 オ ケ は 、も と 市 立病 院 長 の安 斎 哲
メ ンバ ーと し て尽力 さ れま し た 。
先 生 は今 回 の ﹁
第 九 ﹂ でも 男声 陣 の中 心
も 市 民 オ ケ が伴 奏 を担 当 しま し た 。 堀 尾
し て出 演 しま し た 。
三月 ま で理事 と し て 一期 二年 間 勤 め ら れ
ま した 。
合掌
て居 ら れま す 。
ま た 、先 生 の御 夫 人 のト シ様 の令 弟 、
中村 利 夫 先 生 は私 の 一期 後 輩 でし た が イ
ンタ ー ンと し て富 士製 鉄 病 院 へ来 ら れ 、
修 練 終 了後 、富 士製 鉄 病 院 内 科 、豊 浦 療
神 島 整 形 外 科 の神 島 茂 夫 先 生 が団 長 を 、
郎 先 生 によ って創 立 さ れま し た 。 現在 は
昭 和 四十 八年 、 私 共 で家 を 建 てる時 、
私 が事 務 局 長 を 務 め運 営 に当 た って いま
養 所 等 に勤 務 さ れ て居 ら れ ま し た 。
頼 んだ 大 工 さ んが偶 々先 生 のお家 を 建 て
す。
私 が楽 器 を 始 め るき っか け と な った 札
た 人 と 判 り 、先 生 のお宅 を 見 せ て貰 いに
お 伺 いし 、 ト シ 様 よ り 色 々と ご 意 見 を
-36-
だ ら け ね と いわ れ 、 直 前 ま で大 変 苦 労 し
ウ ラ ンな ど 地 下資 源 が豊 富 な 国 で、街 を
と んど です 。 ロシ アか ら 一九 九 一年 に独
幌 医 科 大 学 室 内 楽 合 奏 団も ま た安 斎 哲郎
演 奏 会 当 日 は 、真 冬 と いう のに文 化 セ
立 し 、 カザ フスタ ン人 ︵
イ ス ラム教 ︶ 五
走 って いる車 は メ ルセ デ スと 日本 車 が ほ
貝 が少 な く 潰 れ そう だ つた のです が 、 な
ンタ ー大 ホ ー ルに入り き らな いほど のお
十 五 %、 ロシ ア人 ︵ロシ ア正 教 ︶ 三十 % 、
ま した。
んと かも ち こたえ 、 現在 は大 き な部 活 に
客 さ んが詰 めか け 、大 変 に気 合 いの入 っ
先 生 が創 った 団体 で、私 の在 籍 当 時 は団
発 展 し て いま す 。
在 の首 都 ア スタ ナ では 男女 フィギ ュア、
に分 か れ ており 、 北部 の ロシ アに近 い現
さ て、冬 季 アジ ア大 会 の会 場 は ニ カ所
のごと く 混ざ り 合 って いま す 。
ん なと こ ろ です か ら 、様 々な 人種 が汁 蝸
他 に古 か ら シ ルク ロー ドと し て交 易 の盛
二〇 一一冬季 アジ ア大会
︵
カザフスタン︶に参加して
た 演奏 が出 来 ま し た 。
実 は市 民 オ ケも 団 貝 が減 る 一方 で、今
にも 潰 れ そう ではあ る のです が、 せ っか
く安 斎 先 生 が創 ら れ た オ ケを 次 世 代 に残
す べく 、再 度 が んば つて いる次第 です 。
幸 い、 市 民 オ ケ後 援 会 理事 の松 田幹 人先
生 を 始 め 、多 く の医 師会 員 の皆 様 に応 援
男 子 アイ スホ ッケ ー、南 部 の古 都 ア ル マ
志
成
テ ィでは女 子 アイ スホ ッケ ー、 スキ ー競
寛
し て いた だ いてお り 、 こ の場 を お借 り し
登別厚生年金病院︶
︵
田
てお礼 申 し 上 げ ま す 。
れだ け では ダ メで、音 楽 を 音 楽 ら しく演
に別 格 です 。楽 譜 を 正確 に演 奏 し ても そ
見 てき ま した が、菊 地 氏 の指 導 力 はま さ
いま す 。私 も 各 地 で いろ いろな指 揮 者 を
成 五年 か ら市 民 オ ケ の指導 に当 た ら れ て
名 で、私 は バイ ア ス ロ ン競 技 のチ ー ムド
ク タ ーと し て韓 国 イ ンチ ョン空 港 か ら 六
日本 選手 団 は選手 一〇 三名 、役 員 六十 五
カザ フスタ ン共 和 国 で行 な わ れま した 。
月 二十 九 日か ら 二月 六 日ま で西 アジ ア の
第 七 回冬 季 アジ ア大 会 が 二〇 一 一年 一
り ま した 。
て いた私 の願 いは は か なく も 次 回 の冬 季
子 さ んと ツー シ ョ ツトを 撮 り た いと 思 っ
技 、 バイ ア ス ロンが行 な わ れ ま し た 。 こ
m程 離 れ ており 、
の二 つの都 市 は南 北 に千 k
女 子 フィギ ュア日本 代 表 選手 の村 上 佳 菜
今 回 の指 揮 者 であ る菊 地 俊 一氏 は 、平
奏 す るた め の方 法 論 があ り 、 そ れを徹 底
時 間半 程 で現 地 入り し ま し た 。
菊 地 氏 いわ く 、 ﹁
第 九 ﹂ は 合 唱 の指 導
カザ フスタ ンは 、 日本 と の時 差 は 三時
日本 では考 え ら れな いよう な 光 景 に出 く
毎 日海 抜 二千 m程 のバイ ア ス ロンと ク
オ リ ンピ ック ロシ ア の ソチ ヘと 延 期 と な
的 にた た き こ ん でく れ る指 導 者 です 。
が大 変 で、特 に男声 が非 力 で苦 労 す る こ
間 、 人 口 一五六 〇 万人 、面 積 二百 七十 二
m、 ︵
万 平方 k
世 界 第 九 位 ︶ で、 西 は カ ス
ピ 海 、東 は中 国 、南 は 天山 山脈 、 北 は ロ
わ しま す 。簡 易 舗 装 の でこ ぼ こ道 を 時速
で 一時 間程 か け て登 り ま す 。 そ の道 中 、
本 選 手 団専 用車 両 ︵
ト ヨタ の レ ク サ ス︶
ロスカ ント リ ー会 場 ヘシ ャト ルバ スか 日
ま ると 、合 唱 は思 いのほか 上手 で、特 に
シ アに囲 ま れ て います 。 石油 、 天然 ガ ス、
と が多 いんだ よね と 。と こ ろが練 習 が始
男 声 が い いと 。 そ れ に比 べ てオケ は 問題
37
し かも セ ンタ ー ライ ンは歩 行 者 、 野良
と した 交 通道 徳 は全 く 通 用 しま せ ん。
す 。割 り 込 みも 当 然 あ り で、 日本 の整 然
キ ープ は早 い者 勝 ち と いう こと になり ま
て行 く わ け です か ら 、 セ ンタ ー ライ ン の
m程 で走 る のです が 、 セ ンタ ー ライ ン
百k
があ り ま せ ん 。 そ こを ど んど ん追 い越 し
つく った馬 乳 酒 を 飲 んだ り 体 に塗 った り
隣 国 モ ンゴ ル出身 の横 綱 朝 青 龍 も 祖 母 の
ス﹂ のよう な味 が濃 厚 にな るそう です 。
れば 振 る ほど ﹁ブ ルーチ ーズ 入リ カ ルピ
事 でし た が 、今 は機 械 で撹 拌 しま す 。振
一万 回 ほど 振 るそう です 。昔 は女 性 の仕
です 。子 馬 を グ シ にし て搾 乳 し 、茂 通 し
行 いま し た 。 雪像 作 製 チ ー ムは 、初 年 度
ではなく 、実 行委 員会 形 式 で組 織 作 り を
ると の考 え か ら 、と む そ ︱ やく ら ぶ単 体
一般 市 民 の活 力 を 生 か す べき が必 須 であ
そ し て今 後 継 続事 業 にし て いく のな らば 、
スタ ツ フにも 新 し い血 と風 を 投 入す べく 、
ラにお いて、 ゆき ま つり に着 手 し ま した 。
間 を 経 て、室 蘭岳 丘陵 公 園 H通称 だ ん パ
の募集 と 付 き 合 いのあ る企 業 に声 を か け
な ので参 加 が懸 念 さ れ ま し た が、新 聞 で
日本 選 手 団 は 、 開催 国 カザ フスタ ンに
さ せ て いただ き 二十 基 す べ てが埋 ま り ま
し た そ う です 。対 戦 相 手 は さ ぞ か し 臭
次 いで十 三個 の金 メグ ルと 合 計 五十 四個
し た 。特 筆 す べき事 は 、東 翔 高 校 一年 四
か った こと と 思 いま す 。
のメグ ルを獲 得 し 、第 二位 の成 績 でし た 。
組 の担 任 の先 生 が 、地 元 で開 催 さ れ る 一
犬 、 馬 、牛 にも 権 利 があ り ま す 。 し か し 、
中 国 と韓 国 より も よ い成 績 でし た ので、
回 目 のゆき ま つり な ら ば 、是 非 参 加 した
期 間 中事 故 は ほと んど みか けま せ ん でし
た 。道 を 共有 財 産 と し て利 用す る こと に
ま た 、 ヒ ッチ ハイ クも 公 然 と行 な わ れ
毎 晩 ウオ ッカ で ﹁ウ ラー ︵
万歳 ︶ !﹂ と
長 年 の知 恵 と 暗 黙 の了解 があ る のでし ょ
。
ノ
ヽ
コ
ム
て いま す 。若 い女 性 が独 り で合 図を 出 し 、
いと 生徒 さ ん達 に声 を か け て いた だ き参
像 が 一週 間程 度 しかも た な いか ら です 。
理 由 は 、気 温 の低 い山 の上 であ っても 雪
で開催 さ れま し た。短 期 間 の開催 日程 の
終 日 の二十 日 ︵
日︶ ま で の八 日間 の日程
三日 ︵
日 ︶か ら ゆき ま つリ スタ ート 、最
の土 日祭 日があ り 、作 製 最 終 日 の二月十
雪像 の作 製 は 一月 二十 九 日か ら 計 七 回
加 く だ さ いま した 。
乾 杯 し て いま し た 。
神 島 博 之
︵
神島整形外科 ︶
ア ップも 行 いま した 。連 日新 聞 記事 と し
婆
NPO法人夢 工房 とむそ︱やく ら ぶ
第 一回市民雪像ゆきまつりを
主催して
停 ま った車 に平気 で乗 って いる。あ ま り
にも よ く見 か け る ので、う ら若 い日本語
の女 性 通訳 ノ ルド さ ん に聞 いてみま し た 。
危 険 な こと はな いです か ﹂ す ると けげ
﹁
んそう な顔 を し て ﹁イ スラ ム教 の国 は女
性 を 大 切 にす るか ら絶 対 に安 心 です 。 わ
た し も よ く 乗 せ ても ら いま す 。﹂と いう
返事 が返 って来 ま し た 。
さ て、 お酒 の話 です 。 た い へん好 奇心
︻
市 民雪像 ゆき ま つり︼
て掲載 し て いただ いた おか げ で雪 像 作 製
ま た 、夕 方 か ら 二十 時 三十 分 ま で ライ ト
探 し当 てま した 。馬 の乳 は授 乳 し て いる
平成 二十 二年度 、ほぼ 一年 間 の準備期
ク ム ス︶ を
の旺 盛 な スタ ッフが馬 乳 酒 ︵
母 馬 か ら 一回 一合 ほど しか搾 れ な いそう
-38-
と 軽 く 五千 名 は突 破 し て いると 思 わ れま
作 製 期 間 に来 場 さ れ た方 々な どあ わ せ る
場 者 があ り 、 スタ ッフや雪 像 作 製 チ ー ム、
ご む す れ ︱ も 例年 通 り 二千名 以 上 の来
結 果 、 二六 四七枚 の投 票 用 紙 を消 費 、
V放 映 を し て いただ き ま し た 。
全 道 版 にも 二回 、 地方 版 一回計 三 回 のT
見 に来 ら れ た方 にご 評価 いただ いた のか 、
モホ ロ ロ、 渋 い顔 を し て いま した が 、 下
にも 取 材 のお願 いに行 った と き には ケ ン
つの効 果 があ り ま す 。事 前 に N H Kさ ん
の作 製 に来 て いると い った事 だ け でも 一
×二十 基 分 が土 日、 あ る いは平 日 に雪像
開催 口ま で の準 備期 間 には 五人 ∼ 二十 人
期 間 中 にも多 く の市 民 が訪 れ て いま した 。
て実 行 委 員会 は スタ ート し て いま す 。
ま す が、 す でに秋 口か ら第 二回 目 に向 け
つなげ て いく か 、懸 念 材 料 は山 ほど あ り
ま せ ん。次 の課 題 は 二回 目 の開催 にどう
の努 力 の結 果 であ る事 は 言う ま でも あ り
く れま し た 。も ち ろん スタ ッフ 一人 一人
スタ ソフ西條 君 は奮 闘 し 、結 果 を出 し て
す 。大 き な事 業 を す ると 、勃 発 す る問 題
も多 岐 に渡 り ま す 。実 行 委 員長 を 務 め た
も 誇 り です 。 そ し て実績 へと つな がり ま
に楽 し ん で いただ け た事 は私 達 にと つて
方 達 と スク ラ ムを組 み、 より多 く の人 達
たち だ け が楽 しむ だ け ではな く 、多 く の
く さ ん の笑 顔 を み る事 が でき ま す 。自 分
ほ ん の少 し の努 力 と 工夫 で こんな にも た
所 が散 在 し て いま す 。 し か し 、 地 元 でも
さな いのはも った いな い。と いう事 で、
て いる。 雪 を 邪 魔 なも のと だ け し か みな
雪 に年 間 五百億 円 も の巨 額 のお金 を 使 っ
演 は素 晴 ら し いも のでした 。 北海 道 は除
そ れ は そう と 、当 日 の媚 山 教授 のご講
に道 は平 坦 ではあ り ま せ ん。
いか 、場 が違 う のか 、わ かり ま せ ん が常
お得 意 のよけ いな事 には 一切 耳 を 貸 さな
念 な がら 主旨 を 理解 いただ け な か った か 、
しま し た が 、あ え な く断 ら れま し た 。残
け さ せ て欲 し いと連 合 会 事 務 局 にお話 し
があ った ので、周知 のた め の話 を 一分だ
市 のP T A連 合 会 で百 人近 く が集 ま る会
申 し訳 あ り ま せ ん。講 演 の 二週 間程 前 に
き 挑 みま した 。結 果 は 五十 七名 。 教授 、
プ ッシ ユし て、新 聞 記事 にも し て いただ
室 蘭 市市 民会 館 で平成 二十 二年 十 月 三 日
の紹介 、備蓄 し た 雪 で夏 場 の空 調 を 行 っ
道 ・洞爺 サ ミ ット で使 用 した施 設 の空 調
わ かり やす く ス ライ ド で紹介 し て いただ
︵
日︶ ﹁雪 の魅 力 ﹂ に つ い て のご 講 演 を
て いる施 設 の実 例 紹介 等 です 。 そ の他 に
︻
雪 の魅 力 に ついて基 調講 演 ︼
雪 の利 用 を ﹁
利 雪 ﹂ と し て様 々な事 例 を
す 。 山 のレ スト ラ ンも 例年 以 上 には やり 、
大 忙 し であ った ろう と 思 いま す 。
室 蘭岳 丘陵 公 園 、 通称 だ ん パ ラ の地 に
ば し い事 です 。 カ メ ラ の フ ァイ ンダ ー越
し に子 ども 達 、 そ し て市 民 のと び き り の
室 蘭 工業 大 学媚 山 教 授 に行 って いた だ き
も 、 ﹁雪 は親 の様 なも の であ る。
﹂ そ の訳
き ま した 。愛 知 万博 で の出 展 例 や 、 北海
笑 顔 と 歓 声 を 連 日追 う 事 が でき 、私 の心
ま し た 。 五百名 入 る大 ホ ー ルな ので、 せ
はと か 、﹁日本 の米 は な ぜ美 味 し いのか 。﹂
市 民 雪像 ゆき ま つり事 業 の前 段 と し て、
の中 にも幸 せ が満 ち あ ふれ る 日 々が こ こ
め て 三百名 は来 ても ら わ な いと 格 好 が つ
たく さ ん の笑 顔 の花 が咲 いた事 は大 変喜
に あ り ま し た 。 日 本 の中 でも 有 数 の リ
そ の説 明 など な ど 、 利 雪 にか ら んだ 事 柄
を幅 広 く 丁寧 に、 さす が教 授 とう な ら せ
ゾ ート 地 であ る ニセ コや ル ス ツな ど 、私
か な いと 全 小 学 校 に ポ ス タ ー、 リ ー フ
レ ットを 配布 、 近 隣 の小 中学 校 には更 に
たち の住 む ま ち の近郊 には素 晴 ら し い場
-39-
がら私 達 の生 活 の中 で の雪 の魅 力 に つ い
深く コー デ ィネ ー タ ー の私 が汗 を 流 しな
実行 委 員長 ︶ を交 え 、 雪 の魅 力 を更 に奥
ゆき ま つり 副
二人 と プ ロの雪像 彫 刻 家 ︵
ンと し て、媚 山 教 授 、 メ ンバ ー の子ど も
ま た 、第 二部 では パネ ルデ ィ スカ ッシ ョ
いに集 め る事 が できず 申 し訳 あ り ま せ ん 。
講 演 であ った だ け に聴 講 者 を 会 場 い っぱ
て いただ き ま した 。 そ んな素 晴 ら し いご
ジ グ に シ ャー ベ ツト の雪 を 詰 め 込 み ブ
ロ ック。ビ ニー ル袋 を 張 った木 製手 作 り
業 な の で半 日 置 け ば カ チ カ チ に な る ブ
み に い って戻 ってき ま す 。寒 い中 で の作
ンク 三十 個 運 ん では使 い、 ま た自 宅 に汲
るま る費 や しま す 。 二十 L入 り のポ リ タ
ば な り ま せ ん。行 程 が繁 雑 な た め土 日ま
落 す る事 のな い建 造 物 を作 り 上 げ な け れ
一ヶ月 間 以 上持 た せ るた め の、絶 対 陥
は 思 いま せ ん 。も と も と イ グ ルー の使 途
弱 い私 と し ては 、 さす が に 一泊 し た いと
想 像 し ただ け でも 嫌 にな る ので、寒 さ に
界 下 三十 度 にも な る中 で のチ ャレ ンジ は
足 り な か った と いう 記事 があ り ま し た 。
か ら希 望 者 を 募 り 、昨 年 は 四十 個 作 って
イ グ ルー内 で 一泊 キ ャ ンプ を 目 的 に全 国
でも 極 寒 の地 であ る幕 別あ た り では例年
が んば れ る範 疇 でし ょう か 。 北海 道 の中
で の作 業 は身 体 に悪 いと感 じま す 。 イ グ
置 か れ て いる ので、 いき な り 酷寒 の世 界
しま す 。な にせ普 段 は ぬ るま 湯 の環境 に
作 業 ま で積 極 的 に や ってく れ る人 は激 減
員 を 確 保 し てしまう と 必 然 的 にそ の他 の
ワー に不足 し て いま す 。 ゆき ま つり で人
ト ライ です 。 し か し 、 いか ん せ ん マンパ
も ま た昨 年 の経 験 を 経 て改 良 を し つ つの
グ ルー作 り にチ ャレ ンジ しま し た 。 これ
正 月 気 分 も 抜 け な いう ち に準 備 を 経 てイ
後 々 の日程 が つま って いるた め 、ま だ
︻
イ グ ルー &かま く ら︼
様 です 。外 気 が氷 点 下十 度 であ っても 中
安 全 確 保 のた め にや ってお いた方 が良 い
に氷 の壁 の層 が でき 強 度 が増 す 様 な ので、
火 を 使 い、暖 め てや ると そ の後 内 膜 の様
であ ろう 代 物 です 。 イ グ ルーは中 で 一度
そ らく は て つぺ ん に登 ると 崩 れ てしまう
く ても自 然 に開 いてま す よ状 態 です 。 お
も ので、 ガ タガ タな ので空気 穴 はあ け な
て いま す 。 写真 でみ る出 来 映 え は ひど い
も のを み ても 三時 間 で完 成 す ると 書 か れ
す が 、 ホ ー ム ページ 上 に掲載 さ れ て いる
ロ ック状 に切 り 出 し て積 み上 げ て いき ま
た 雪 自 体 の重 み で 圧 雪 さ れ た も のを ブ
一般 的 な イ グ ルー の作 り方 は 、積 も っ
パ ー テ ィを 開催 でき た し 、 よ しと し て い
か ま く ら の中 で餅 を 焼 いた り 、焼 き 肉
しま し ょう 。我 々も 三年 目 にし て初 め て
く の人 に楽 し ん で いただ け た のでよ しと
る のが大 変 です 。 し か し 、 そ れ以 上 に多
て いま す 。 ただ し 、大 き な か ま く ら は掘
コンパネ を張 って崩 落 の危 険 性 を 無 く し
危 険 性 があ る ので、単 管 を 組 ん で天 丼 に
ま した 。大 き な かま く ら は 天丼 が落 ち る
かま く ら 一号 と か ま く ら 二号も 作 製 し
れま す 。
ら の方 が よ ほど 利便 性 が い いよう に思 わ
が セオ リ ー の様 です 。 そ れ な らば か ま く
は せず 、
一泊 し た ら 翌朝 壊 し てしま う の
様 な ので、残 し てま た使 おう と いう こと
目的 の多 く はビ バ ー ク用 に作 ら れ て いる
ルー作 り は体 力 勝負 でも あ り ま す 。 ま る
はプ ラ ス何 度 か には保 た れ る様 です 。寒
ま す 。 雪氷 のブ ロ ック で作 製 した 滑 り台
ロ ックを 作 り ま す 。
で エジ プ ト のピ ラ ミ ッドを作 る人夫 のよ
いのには 間違 いあ り ま せ んが 、 な んと か
てひも と いて参 り ま し た 。
う な 気 持 ち になり ま す 。
40
が必 要 であ ると感 じ ら れま し た 。
度 はも っと多 く の スタ ッフを集 め る こと
会 場 の設営 にも 労 力 か け て いま す 。次年
ス テーブ ル六 つのセ ットも 用意 し ま した 。
も てな し のた め に氷 の天板 を作 製 し 、 イ
十 日 のだ ん パ ラ冬 フ エスで の来 場 者 のお
修 に つぐ 補 修 を強 いら れま し た 。 二月 二
も 好 評 でし た が、大 人数 が滑 るた め 、補
るごむ す れ ︱は行う 事 が でき ま せ ん。 ご
て来 るか しな い限 リ スピ ー デ イで楽 し め
ま ら なく す るか 、他 の場所 か ら 雪 を 持 っ
す るま で の雪 が つか な いので コー スを つ
だ ん パ ラ の降 雪 量 から す れば これを 回避
せ ん。 これ が 三年 目 の結 論 です 。 し か し、
題を 解 決 しな け れば前 に進 む事 は でき ま
ぎ る。安 心 安 全 を う たう な ら ば 、 こ の問
様 々な コ ツや アイ デ ア の指 導 があ り 、ど
須 藤 く んが副 実 行委 員長 にな ってか ら は 、
室 蘭 市 輪 西 町 の ノー ルド デザ イ ン代 表 の
ん。当 初 ノウ ハウはあ り ま せ ん でし た が 、
でき る のか ? や ってみな いと わ か り ま せ
だ ん パ ラ の地 で果 た し てゆき ま つり は
︻
雪像 ブ ロ ックと 土台 ︼
学 的 には体 格 と筋 量 の差 だ け であ ると 言
で終 わ り ま す 。男 と 女 の差 は スポ ー ツ医
父 さ んと 一緒 であ れば コー ス の問 題 だ け
せ が 問 題 。 重 く な ると スピ ードも つく が
コント ロー ル でき な い。子 ど も 同 士 やお
と つは 母親 と 子 ども 二人乗 り の組 み合 わ
な いが安 全 だ 。と いう こと です 。も う ひ
スピ ー ド が出 な い H距 離 が短 い、面白 く
ても スピ ー ド が出 れ ば楽 し いが危 な い。
しま し た 。 し か し な が ら 、 ど こま で い っ
てき ま し た 。今 年 も 反省 を 生 か し 工夫 を
も 、今 ま でさ んざ ん改 良 を 重 ね進 化 さ せ
今 回 で第 三 回 目 にな るご む す れ ︱事 業
ご む す れ ︱考 察 ︼
︻
ま す 。 これ でも 苦 肉 の策 的 で安 心 は でき
y コー スと カ ーブ コー ス ニ本 だ てで いき
年 は絶対 超 え な いスト ッパ ー付 き E a s
け れば 私 の身 体 が持 ち ま せ ん。 よ って来
落 ち てしま いま し た 。 問 題を ク リ アし な
力 と 精神 を消 耗 し 、意 欲 と いう 壁 が崩 れ
いのか 。 開催 中 の十 五 日 間 でめ っき り 体
に必 ず 呼 び 出 さ れま す 。 そ んな に私 が悪
会 長 であ り 医 師 であ る私 は誰 か が傷 む 度
人 にはむ ち ゃく ち ゃ文句 を 言 わ れま す 。
いた だ いて いる にも か か わ らず 、傷 んだ
コー ス整 備 を し て、毎 朝 雪 上 車 に走 って
ので難 し い所 です 。あ れだ け神 経 を 使 い
い人 を つか まえ てダ メだ しは でき ま せ ん
す が 、初 め て来 る人 や運 動神 経 の足 り な
あ げ 体 操 状態 が常 な の で、 か な り 骨 が折
めます 。 ま さ にぬか る んだ 場 所 で の モ モ
づ くり は 雪踏 み作 業 が そ のほと んど を占
成 し た気 が し てき ま し た 。 雪像 ブ ロ ック
き ま つり 会 場 の完 成 予想 図 が頭 の中 で完
ぼ ろげ な がら にしか見 え て いな か った ゆ
いた しま した 。台 座 が完 成 し た所 で、 お
へん よ ろし いゆき ま つり会 場 に早変 わ り
ん の重機 機 械 操 作 により 、 見 栄 え のた い
作 り は完 了 さ せま し た 。 スタ ッフ田 中 く
ま す が スタ ッフが集 ま る 日程 ま で に台 座
は そ こそ こ雪 が降 り 、ぎ りぎ り ではあ り
な け れば なり ま せ ん でし た 。結 果 と し て
でき るか どう かぎ り ぎ り ま で判断 を待 た
む す れ ︱は憤 れ ると 操 作 す る事 が でき ま
んど ん加 速 し て い った よう です 。
mではあ るも の の、
土台 作 り は高 さ 五十 c
台 座自 体 が裾 ま で入 れ ると 五 m ×五 mと
大 き いの で、降 雪 量 によ っては台 座 す ら
わ れ て いま す が、 明 ら か に違 いま す 。危
ま せ んが 。
れ る作 業 です 。膝 ま でぬか るむ 足 場 の悪
機 意 識 の予測 に違 いがあ る のか 、転 倒 や
コー ス アウト に対 し て明 ら か に無 防 備 す
-41-
下 ↑ケ ガと いう事 も 予測 し 、考 え な が ら
光 でか なり 雪像 は溶 け ま した 。壊 れ て落
山 の上 であ っても 開催 期 間 中 は、直 射 日
ま つり を 開催 す る事 は 不 可能 です 。事 実 、
え ると 室 蘭 の地 では山 の上 以 外 では ゆき
寒 い日 は何 度 かあ り ま した が、気 温 を 考
ネ ー シ ョンを 飾 り お 目 見え し て いま す 。
も つき ま と いま す 。 雪像 たち が被 害 に道
わ な い様 、祈 り を 込 めた番 シ カも イ ルミ
可能 性 と慣 れ な い作 業 により傷 む 可能 性
足場 も 常 に悪 い状 況 です し 、危 険 であ る
高 い所 に登 ったり 、重 いも のを 持 ったり 、
業 は細 心 の注 意 は払 って いると は いえ 、
て踏 み続 け ると 言 った行 程 です 。 現 場作
スタ ッフ 一同 乳酸 のたま った 足 に鞭 打 っ
れば き れ いな ブ ロ ックが でき な いので、
物 です 。 し か し これを き っち り やら な け
い沼 の中 を ぶ っと お し で歩 き 続 け る様 な
かり ま す 。
てか な り 強 固 な作 り にな って いる事 がわ
機 が持 ち 上 が るだ け で、円 の力 が作 用 し
が、 イ グ ルーは重 機 で上 か ら押 し ても 重
我 々には撤 収 作 業 が残 さ れ て いる訳 です
う事 が でき ま した 。全 てが終 了 し た後 も
り 取 材 し て いた だ き 、大 変 い い締 めを行
T Vな ら び に各 報 道 機 関 の方 々にが っち
行 わ れま し た 。表 彰 式 の模様 も N H K
た方 達 の市 民投 票 によ る雪像 の表彰 式 が
スープ の販売 を 行 い、 お 昼 か ら は来 場 し
最 終 日 に は 焼 き 鳥 や フ ラ ン ク フ ル ト、
り 、意 外 と 大変 であ る事 がわ かり ま し た 。
で の駐 車 場 確 保 は想 像 以 上 に時 間 が か か
障 害 物 の無 い運動 場 と は いえ 、広 い場 所
場 の除 雪を 行 い、臨 時 駐 車 場 に しま し た 。
私 達 の スタ ッフを 動 員 し 、隣 接 す る運 動
訪 れま す 。 例年 駐 車 場 が混 み合 う た め 、
います ので、千 人 近 い人 達 がだ ん パ ラを
で当 分 す ね は細 る 一方 です 。
し た 。息 子 たち は ふた り とも 道 外 です の
は我 が家 も か みさ んと 二人 だ け にな り ま
の春 に高 校 を卒 業 し進 学 し た ので、普 段
き には生 ま れ て いま せ ん でし た ︶ が今 年
最 初 に来 たと
三歳 で室 蘭 に来 た次 男 ︵
年 半 になり ま す 。
も 一年 いた ので合計 はも う 一年 長 く十 六
入り ま し た 。 正 確 には卒 後 六年 目 の時 に
室 蘭 に来 て九 十 五年 たち 、十 六年 目 に
だ んパ ラ冬 ま つりと ゆきま つり︼
︻
れま し た 。
り 、 たく さ ん の市 民 の眼 を 楽 しま せ てく
で作 製 した 雪像 は冬 のだ ん パ ラ高 原 を彩
いず れ にしま し ても 、精 鋭 二十 チ ー ム
せ 、準 備 九 割 です 。
更 に大 き く育 って いく事 でし ょう 。 な に
だ 魅 力 を 引 き 出 せ るはず のゆき ま つり は
方 に少 しず つの協 力 を いただ き 、ま だ ま
て の活 動 は 既 に始 ま って いま す 。多 く の
た方 々に感 謝 を し つ つも 、次 年 度 に向 け
た く さ ん の来 場 者 並 び に協 力 いただ い
か ったと こ ろ です が 、 こんな ご時 世 です
波 乱 の 日 々 は も う こ れ で終 わ り に し た
て十 五年 の最後 に大 震 災 があ り ま し た 。
よう 、と 考 え た こと も あ り ま し た 。 そ し
と 潰 瘍 持 ち な のに、穴 が開 いた ら どう し
の渦 中 に副 院 長 にな った と き にはも と も
重 々承 知 のよう に波 乱 の日 々でし た 。 そ
特 に後 半 の五年 は室 蘭 市 医 師 会 の方 々は
こ の間 、 いろんな こと があ り ま し た 。
︵
日銅 記念病院 ︶
浜 田 弘 巳
十 五年 経 ち ま し た
す す め な け れば なり ま せ ん。
最終 日はだ んパ ラ冬ま つり にぶ つけ て
-42-
ンタ ー︶ の故 佐 伯 守 弘 院 長 が小児 外 科 学
いと 思 いま す 。
か つて国 立 小 児 病 院 ︵
現 、成育 医 療 セ
す が 、少 し小 児 外 科 に ついて書 き 残 した
後 にも う ち ょ つと 柔 ら か いと こも 書 き ま
ほう が量 的 にはず つと多 く ても です 。最
断 定 ︶。 た と え 現 在 は専 門 外 の仕 事 の
︵
も し れま せ ん が私 の専 門 は小 児外 科 です
と は い っても 、 ご存 知 な い方 も いるか
受 け て いま す が︶ で取 り ま した 。
医 は室 蘭 で の診 療 実 績 ︵
も ち ろん試 験 も
回試 験 ま で受 けま し た 。救 急 、透 析 専 門
く さ な いよう にと 消 化 器病 専 門医 の第 一
当 然 のよう に救 急 、透 析 な ど も診 な け れ
ば いけ ま せ ん。留 学 前 には将 来機 会 を無
いと いう わ け には いき ま せ ん。 こ こ では
こ では自 分 の専 門 だ けを や って いれば い
医 です が 、大 都 会 ではあ り ま せ んか ら こ
入 局 し た のが 北大 第 一外 科 です か ら外科
見 ると 、驚 か れ ると 思 いま す 。も と も と
P で ? 肩書 き 、持 って いる専 門医 な ど を
り ま せ ん。
か ら 平穏 な 日 々は当 分期 待 でき そう にあ
五十 人 、 六十 歳 以 上 が 百 人 以 上 いま す 。
す ︶ が約 五十 人 、 五十 歳 代前 後 半 が各 約
上 一番 若 く 取 得 し ても 最 低 が 四 十 歳 で
です 。 問 題 は年 齢 構 成 で四十 歳 代 ︵
計算
現在 名 簿 に載 って いる方 が 三百 五十 九 人
︵
ち な み に最 後 が 三 五 二番 ︶。 そ のう ち
いま す と 私 の指 導 医番 号 が 三 四 一番 です
るく ら いです 。 ど のく ら い少 な いかと い
に気 づ いても らえ る のではな いかと 思 え
結 果 が ・ ・にな った時 初 め てそ の必 要性
分 の家 族 のこど も に手 術 が必 要 にな り 、
のと 思わ れます 。 ひ つそり と 絶 減 し 、自
ニ ッチさ故 も あ り 絶 減 危 惧 種 の最 た るも
昨 今 の医 師 不 足 の中 、小 児 外 科 は そ の
ま し ょう 。 これ は いま でも 大 差 あ り ま せ
ん。
い った い何 重苦 の中 にあ る のか 、と いえ
加え 、
一般 の方 々 の認知 度 も 低 いと いう 、
療 科 の代 表 みた いなも のでし た 。 そ れ に
ら な いし 、病 院 にし ても 利益 の少 な い診
す 。実 は そ れく ら い労 働 量 のわ り に儲 か
会 場 か ら苦 笑 が漏 れた こと を 思 い出 しま
る皆 さ ん は奇特 な方 々 であ ると 挨拶 さ れ 、
と 。 そ の二 つを 冠 し た診 療 科 を専 門と す
上 に大 変 な診 療 科 が小 児 科 と外 科 であ る
て いま す 、 北海 道 では 四施 設 し か あ り ま
も 必 要 で、認 定施 設 ︵
当 院 も な んと か な っ
昨 年 は な んと 三十 %台 でし た 。診 療 実 績
専 門医 試 験 の合 格率 は大 体 五十 %前 後 、
です が 、試 験 が輪 を か け て難 し いです 。
り ま せ ん。年 間 に取得 す る のは十 五人 位
です が じ つは専 門医 の取得 も 容 易 ではあ
こ のよう に指 導 医 の ハード ルも 一
局 いの
ルは指 導 医 と 考 え て いま す 。
定 では責 任 を も って診 療 に当 た れ る レ ベ
十 例 以 上等 です 。 じ つは学 会 と し て の設
手 術 症 例 は新 生 児 、高 難 易度 年 長 児各 四
制 限 あ り ︶十 本 でつち 原 者 五 本 以 上 ︶、
論文 ︵
小児 外 科 に関す るも の で、雑 誌 の
の ハード ル の高 さ は群 を抜 き ま す 。筆 頭
ま せ ん。 つま り数 年 後 には指 導 医 は 二人
になり ま す 。 理 由 と し てま ず 指導 医 取得
上 でう ち 三人 は小 児 外 科 の診 療 を し て い
六 人 の名 前 があ り ま す が 四人 が 六十 歳 以
道 はどう かと いいま す と指 導 医 名 簿 には
指 導 医 の いな い県 が多 数 あ り ま す 。 北海
わ れま す 。
時 に現役 の指 導 医 は百 人 強 位 にな ると 思
十 年 す ると 私 も 六十 歳 を 過ぎ ます が そ の
一〇人 と い ったと こ ろ です 。 つま り あと
知 ら な い方 が 日頃 の私 の業 務 、病 院 H
会 会 長 を 務 め ら れた 時 の評議 員懇 親 会 で
そ し て最近 の指 導 医 取 得 者 は年 に七 か ら
実 は地 域 の偏 在 化 も 問 題 で、専 門 医 ・
当 時 の国立 小 児病 院 の総 長 が儲 か ら な い
-43-
目的 と 言 い換 え ら れま す 。 こ の数 字 を み
いのは診 療 のレ ベ ルを 落 と さ な いこと が
です か ら専 門 医 、指 導 医 人数 を 増 や さな
個 人 の経 済 的 イ ンセ ン テ ィブ はな いわ け
持 って いても いま のと こ ろ診 療 報 酬 や
力 さ れ て いま す か ら 。
う と す ると自 分 の手 術 実績 が自 動 的 に入
か し はき き ま せ ん。申 請 書 類 を作 成 し よ
て の手 術 台 帳 を提 出 し て いま す か ら ごま
せ ん ︶ で の研 修 が 必 要 で、各 施 設 はす べ
現 役 を 引 退 し、後 進 に後 を 託 す ま で責 任
失 禁 は な いよう です 。 こ の子 たち は私 が
社 会 生 活 に支 障 を き た す ほど の高 度 の便
高 位 の子 も多 少 の機 能 障 害 はあ り ま す が 、
中 間位 の子供 たち は割 と 良 い機 能 です し
機 能 障 害 が残 り ま す 。幸 い私 の手 術 し た
位 だ と ど う し ても多 く の子 に幾 ば く か の
問 題 な い事 が多 いのです が、 中 間 位 ・高
肛 ︶ の息 児 の場 合 、低 位 の時 は機 能 的 に
鎖
こま ね ば な り ま せ ん。直 腸 肛 門 奇形 ︵
と いう こと は そ の子 の 一生 を 時 に背 負 い
そ し て現在 の北海 道 の事 情 に つ いても
け養 成 す る こと は難 し いのが 現状 です 。
た だ 手 術 件 数 か ら言 ってそ れを当 院 でだ
必 要 な 小 児外 科 医 を 養 成 す る こと です 。
す 。 です か ら今 、必 要 な こと は十 年 後 に
け る小 児 外 科 医 の養 成 には十 年 か かり ま
疾 息 を 指 導 医 な し でな んと か こな し て い
が近 づ き つ つあ り ま す 。
一般 的 小児 外 科
で手 術 を 続 け る こと が でき な く な る年 齢
ただ 私 も 五十 歳 を 過ぎ ま し た 。第 一線
にと 思う こと があ り ま す 。
ただ け で いか に絶 滅 危 惧 種 であ るか お分
触 れ ておき ま し ょう 。 じ つは 北海 道 で難
そ し ても う 一つは小 児 特 有 の病 気 があ
医 大 の 二名 、帯 広 に 一名 だ け です 。 こ の
う ち 帯 広 は術 者 の年 齢 も あ り 一、 二年 後
を も って診 て いか な け れば なり ま せ ん。
り ま す 。 成 人 し か見 て いな いと どう いう
になく な る可能 性 が高 いです 。 つま り 日
か り いただ け ると 思 います 。 しかも 最 近
です が十 年 後 も そう か はわ か り ま せ ん。
病 態 でどう いう 手 術 が必 要 な のか 理解 さ
高 山脈 の東 側 には 一人も いな いと いう こ
と にな り ま す 。 そし て道 南 も ゼ ロです 。
易 度 の高 い手 術 を こな せ る小 児 外 科 医 は
小 児 外 科 の意 義 に つ いては言う ま でも
れ な いこと があ り ます 。例 え ば鼠 径 ヘル
本 来 は北 海道 全 体 であ と 三 四人 は 地域
小 児 外 科 医 にやり つぱ な し で終 わ ると い
な いも のと 思 いま す 。 子供 は小 さ い大 人
ニア。 いろ んな事 情 があ り今 でも 成 人 の
は小 児外 科 学 会 の会 員も 減 少 傾向 です し。
ではあ り ま せ ん。大 人と 同 じ感 覚 で手 術
外 科 医 が そ れな り の数 を手 術 し て いる最
で こな せ る人 材 が いな いと な ら な いので
十 人も いま せ ん。札 幌 以外 だ と 私 、旭 川
す ると 痛 い目 にあ いま す 。手 術 の内 容 に
も 小 児外 科 と し ては数 の多 い手 術 です 。
う こと は な いん です 。
ついても 成 人 と 異 なり 機 能 温存 、将 来 の
す 。 こ の現状 を 理解 し ても ら いた いと 思
救 いは専 門 医 取得 者 数 の減 少 が な いこと
成 長 を 考 え た手 術 が 必 要 です 。 こ の先 五
こ の手術 には いく つもピ ット フォー ルが
ただ 少 し希 望 があ る のは今 、 北海 道 で
十 年 以 上 障 害 な く 成 長 さ せ 、機 能 維 持 が
て いま す 。あ と か ら ト ラブ ル の対 応 を し
少 しだ け若 手 で小児 外 科 を 志 す 医 師 が増
います 。
私 は成 人 の手 術 も し て いま す が 、成 人
た ことも あ り ま す 。 これ らを 見 て いると
え てき た こと です 。少 しず つです が大 学
あ り ま す 。 いろんな アク シデ ントも 聞 い
の癌 の手 術 と は コンセプ トを変 え て手 術
専 門 医 に手 術 し ても らえ れば よ か った の
な さ れ な け れば いけ な いの です 。
す る必 要 があ り ま す 。 そ し て手 術 を す る
- 44 -
す 。 ただ そ の 一方 で、 北大 の小児 外 科 講
かと は 思 いま す が 、 ま だ ま だ 先 のこと で
帰 ってき て、 場数 を 踏 めば な んと か な る
多 い病 院 で研 修 さ せ て いま す 。彼 ら が
いま す し 、実 際 、彼 らを 本 州 の症 例 数 の
で小 児 外 科 を 志 す若 い外 科 医 が出 てき て
ね。
カ テゴ リ ー が 別 に な り 続 け て いま す か ら
に な る ん です よ ね 。 長 男 の進 学 と 同 時 に
と 長 男 が いる 山 形 が 降 格 し そ う な のが 気
も 昇 格 し ても ら わ な いと 。 た だ そう な る
曜 開 催 は J lだ け に な る の で な んと し て
圏 の a w a y に行 き やす く な り ま す 。 土
かな 景 勝 地 と いう 室 蘭 のも う 一つの顔 が
てみ るとピ リ カ ノカ に指 定 さ れた自 然豊
地球 岬 観 光 道 路 を ゆ っく り と ド ライ ブ し
のんび り と し た追直 漁 港 を ぬけ 、 そ し て
絵 輛 岬 から 測 量山 観 光 道 路 を た ど り 、
す る こと が出 来 な い見 事 な 風 景 です 。
の山 が並 ぶと いう 、他 ではち ょ っと 目 に
見 え てき ます 。
医 師 も ま た 生命 と向 き 合う と いう き わ
め て重 い職業 ではあ り ま す が 、仕 事 を 離
れ て の別 の 一面 を誰 しも が お持 ち のこと
と 思 いま す 。
波 久 鳥 創 刊 以 来 の常 連 であ り 編 集 の中
心 にも お ら れ た加 藤 治 良 先 生 は医 師 と し
て の表 の顔 、文 人 、 画 人 、風 流 人 と し て
のも う 一つの顔 、ま さ に室 蘭 の二面性 を
思わ せ るよう な見事 な才 能 を お持 ち の方
櫛 引 両名 が レギ ュラー で頑張 って いま す 。
す 。今 のチ ー ムには室 蘭 大 谷 出身 の宮 澤 、
む こと が出 来 、鉄 の町 室 蘭 の重 工業 地帯
く に駒 ヶ岳 、有 珠 山 、 そ し て羊 蹄 山 を望
輛 岬 か ら み る噴 火 湾 は手前 に大 黒島 、遠
全 国的 には地 球 岬 の方 が有 名 です が絵
十 五号 ま で全 て の内 容 を P D F フ ァイ ル
医 師 会 事 務 局 の高 橋 さ ん の尽力 に より 二
年 の出 版 です が今 年 二十 六号 にな り ま す 。
成 十 三年 ま で毎 年 号を 重 ね 、 そ の後 は 隔
昭和 五十 五年 に創 刊 さ れ た波 久 鳥 は平
でし た 。
来 年 はJ l の舞 台 で彼 ら の活 躍を 見 た い
にごく 近 いにも か かわ らず青 く 澄 んだ 海
で見 る こと が出 来 ま す 。室 蘭 市 医 師 会 の
美 し い白 鳥 湾 が広 がり ま す 。
噴 火 湾 の東 の端 に絵 輌 半 島 に囲ま れ た
斉 藤 甲斐之助
波久 鳥編集委員 長
追 悼 加 藤 治良 先 生
いと 思 いま す 。
ま せ ん が 、 ま だ ま だ 老 け こま ず に行 き た
か 。 世 の中 の動 き が 早 す ぎ て想 像 も つき
さ て来 年 は ど う な って いる の で し ょう
座 が なく な り ま し た 。 これ が こ の先 の小
児 外 科 医 の育 成 、 し いては将 来 の小 児外
科 診 療 に影 響 が出 な いか が心 配 の種 です 。
最 後 に、 ち ょ っと 柔 ら か い話 を 。
ご存 知 の方 も多 いと 思 いま す が 、私 は
も う 十 年 以 上 コンサ ド ー レ札幌 のサ ポ ー
タ ーを し ており ま す 。 な んと か都 合 を つ
け てホ ー ムゲ ー ム に足 を 通 ん で います 。
た ま に出 張 と 日程 があ え ば 本 州 へも行 く
こと があ り ま す 。 二〇 〇 八年 に降 格 し て
か ら 三年 、今 年 や っと 昇格 のチ ャ ン スが
来 ま し た 。 こ の原 稿 が皆 様 の目 に触 れ る
と き どう いう 結 果 にな って いるかわ かり
です 。 じ つは来年 の春 には次 男 が 田舎 の
の向 こう に巨大 な エネ ルギ ーを 秘 めた火
ま せ ん がな んと か 昇 格 し て欲 し いも ので
寮 か ら東 京 に引 っ越 し てき ま す か ら首 都
-45-
ホ ー ム ページ か ら会 貝専 用 の ページ に入
ると す ぐ に見 つか り ま す 。
創 刊 号 か ら 二十 二号 ま で の表 紙 は加 藤
先 生 によ るも のです 。室 蘭 の美 し い景色
を いる いろな手 法 で楽 しく 描 いてお ら れ
ま し た 。内 容 ま で読 み通す のは よ ほど 暇
な時 にし て いただ く こと と し て表 紙 だ け
でも 目を 通 し て いた だ け れば 、加 藤 先 生
の愛 し た室 蘭 風 景 が よ みがえ る のではと
思 いま す 。
大 正 十 三年 室 蘭 に生 ま れ 、十 二年 間 の
室 蘭 市 立病 院勤 務 を 経 て昭 和 三十 二年 に
母恋 に内 科 医 院 を 開業 さ れ、惜 しく も今
年 九 月 に亡 く な ら れ た加 藤 先 生 の絶 筆 と
2011年 7月 12日 攀
♂
-46-
ケッチ
絵を愛 し
病室から見える追直港の風景
ワ乾'ら・″与 爾
,r
″
病 室 か ら 見 え る追 直 港 の風 景 ﹂
な った ﹁
ガ
″
を 巻 末 に飾 り 先 生 のご 冥福 を お祈 り いた
しま す 。
t
ぢ浄 ″
ゼ
/´
\
r
lb
、
を ご存 じ の先 生 方 にお集 ま り 頂 いて ﹁
室
蘭 今 昔 物 語 ﹂ と いう 題 でお話 し し て頂 き
出 しま した 。 こ の大 災 害 は被 災 地 の人 々
の人 生 を 大 き く変 え ま し た 。 そ れ のみ で
周 囲 の環境 へ膨大 な 量 の放 射 性 物 質 を 波
発 電 所 で原 子炉 の メ ルト ダ ウ ンを 起 こし、
なり ま した 。 ま た 、大 津 波 は福 島 原 子力
の結 果 、街 が破 壊 さ れ多 く の人 が犠 牲 に
いわ れ る大 津 波 を 引 き起 こしま した 。 そ
たと 思 いま す 。東 北 では約 千 年 に 一度 と
でし た 。多 く の先 生 は診 療 の最 中 であ っ
今 ま で感 じ た こと のな いよう な長 い揺 れ
室 蘭 でも か な り大 き な揺 れを 感 じま した 。
四十 六 分 ﹁
東 日本 大 震災 ﹂ が おき ま した 。
平 成 二 十 三 年 三 月 十 一日 午 後 二 時
み返 し てみた時 に変 化 の節 目 であ つた と
たも のと 考 え て います 。何 年 か た って読
申 し上 げ ま す 。 おかげ さ ま で会 員 の皆 様
頂 いた皆 様 には 編集委 員 一同心 より 感 謝
る スケ ッチも 描 いて頂 き ま し た 。ご協 力
て頂 き ま した 。ま た 、絵 や文 章 の間 を彩
と し て いろ いろと貴 重 な御 体 験 を投 稿 し
作 ら れま し た 。医 師 と し てあ る いは市 民
こ のよう な変 化 の時 に今 回 の波久 鳥 は
い者 にも 大 き な変 化 が感 じら れ ま し た 。
子 が生 き 生 き と 語 ら れ て いて昔 を 知 ら な
わり ま し た 。昔 通 って いた お店 や街 の様
ま せ んが長 い年 月 の間 に室 蘭 は大 き く 変
波久 鳥 ﹂ 二十 六号 編集 委 員
﹁
室 蘭 市 医 師会 会 誌 沖 赤 ゑ ︵ ≧何
発行 日 平成 二十三年 十 二月 一日
発行所 室蘭市 医師会
印刷所 株式会社 日光印刷
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綿 集 後 記
なく 日本 の経 済 や制 度 を大 き く変 え ま し
感 じられ る ﹁
波 久 鳥 ﹂ であ る こと を期 待
本 山 尻 田 川 永 尾 田 村 藤
甲
信 哲 貴 秀 至
昌 茂 博 斐
一
之
仁 郎 郎 康 一 博 譲 純 司 夫 通 助
木
ま した 。 日 々 の変 化 にはな か な か気 づ き
た 。 同時 に日本 人 の心 の中 を大 き く 変 え
し て いま す 。
︵
生 田茂夫 ︶
に楽 し ん で頂 け る﹁
波 久 鳥 ﹂が できあ が っ
たと も いわ れ て いま す 。今 ま では お金 を
稼 ぐ こと や成 果を 上 げ る こと を 目 標 と す
る こと が重 要 と 考え ら れ て いま し た 。大
震 災 を 境 に自 然 を 守 る こと 大 切 であ ると
か 、 困 って いる人 を 助 け よう と考 え る人
が増 え てき ま した 。 こ のよう に今 年 は大
き く 時 代 が変 わ るよう な年 でした 。
一方 、座 談 会 では 昭和 三十 年 代 の室 蘭
立 今 山 横 野 岩 柳 福 堀 生 三 斉
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