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26号 - 北海道医師会
● /● 第 26号 2011 室 蘭 市 医 師 会 誌 ● ′ 第 26号 2011 室 蘭 市 医 師 会 誌 横 山 福 永 ││ チ 鉄 周 貴 修 司 剛 [ ﹁ 日 浩 純 康 日 召 表 紙 カ ット 土 肥 堀 尾 東 草 場 不 活 巻 頭 一 百 未知と の道遇 そ の後 随 想 東 日本 大 震災 への医療支援 マラ リ ア 最 後 の診 断 室蘭 ∼引 っ越 しを くり返 した果 てに∼ 座 談 会 室蘭今昔物語 飯島 三男 日斎藤義 寛 ・澤山 由 亘 木 下 博 日立木 仁 ・神島 博之 1上 Oじ И仕 疫∪ ∩U l■ 1上 4 目 次 ふんかわん 野鳥観察︶から見えて来たもの バードウオッチング ︵ 私 の心身 医療 と の出会 い 開業 一年 半 を経 過 し て めま いの話 菊 入 剛先生 を悼 む 追 悼 田中豊 典先生 浜 田 弘 巳 第九﹂演奏会 今年 のベートーヴ ェン ﹁ 二〇 一一冬季 アジア大会 ︵ カザ フスタン︶に参加して 第 一回市民雪像 ゆきま つりを主催 し て 十 五年経ちました ・⋮ 生 田 茂 夫 ・ 斉藤甲斐之助 博 寛 敏 幹 之 志 仁 豊 博 彦 仲 人 亮 追悼 加藤治良先生 編集 後 記 45 42 38 37 36 35 34 32 32 30 28 47 神 成 立 澤 木 上 佐 松 森 島 田 木 山 下 戸 原 田 川 ク 未 知 と の遭 遇″ そ の後 室蘭 市医師会会長 昭 て直 しと し て大病院中心 ではありま したが、診療報酬 のア ップ、 ワクチ ンで予防 でき る病気 の公費負担 など、短期的な対処 は評価 され て いた よう に思 います︶見 ておりま したが、 ほぼ菅 政権も おしま いと いうと ころで、あ の三月十 一日 の大震災 、大津波 、原発 と が明 らか になりました。 政権交代 の生 み の苦 しみ、ど のような知恵を出 し てく る のかと期待 しながら ︵ 医療 政策的 には小泉改革 で疲弊 した地域医療 の立 的 に難 しくなり、揚句 に参議院選挙 では泥縄的 な消費 税十 %ア ップなどを 言 い出 し てしま い、民主主義 でも っとも重要と され て い る過半数を得 ること に失敗 し、福 田内 閣を放り出 させたね じれ国会 が逆 の形 で存続 し、す べての政策 が 一筋縄 では実現 されな いこ 党 の政官民癒着排除 、特別会計 の無駄削減等 々と いう意気込 みが種 々の些末 な スキ ャング ル、沖縄基地 に対す る希望的発言など の 対応 に追われ機能 せず 、当地域期待 の鳩 山内 閣は 三百五十六日 の短命 に終 わりま した。衆議院選挙 での公約 の マニフ ェストが財政 二年前 の巻頭言 に当地域 に関係 の深 い鳩山民主党内 閣誕生、新型 イ ンフル エンザ の流行 に対す る期待 や不安 の入り混 じ った拙文 を載 せ て いただきま した。 こ の二年 間 の歴史 の検 証は いかな るも のになる でし ょう か。民主党政権 の政治主導 、財務省排除 、自 民 )II 事故 が起き てしま いました。国家と いう 巨大な組織 、平時 で の方向転換 には時間がかか ること は容易 に想像 でき、政権交代 の代価 と流れ に任 せられますが、 こ の未曾有 の大災害を 目 の当 たり にし ての民主党政府 の機能 不全 は、半年 た った被災 地 の復旧、復 興 の 現状 を見 るに つけ、被災者 の皆様 の絶望的 な悔 しさ、憤り は いかばかり であ るでし ょう か。野党も含 め て、 こ の間 の国会議 員 の責 任 は重 いも のがあ る のではな いでし ょう か。 -1- 稲 一気 に肺 炎 にな り やす いと いう 特 徴 を 持 ち な がらも 、 予測 さ れ た 強毒 も う 一つの新 型 イ ン フル エンザ は 子供 中心 の流行 であ り 、 型 でな く多 く の犠 牲 者 を出 さず に済 んだ こと は幸 いでし た 。札 幌 では夜 間 、 休 日当 番 医 が夜 中 ま で診 療 す ると いう 事 態 があ り ま し た が 、 室 蘭 市 医 師 会 では 課 題 であ った 、休 日在 宅 当 番 医 制 度 を 復 活 さ せ る契 機 と な り 、大 き な混 乱 がな か った こと に ほ つと し た次 第 です 。 一方 、 国 の新 型 イ ン フル エンザ 行 動対 策 の見直 しが 遅 れ、仰 々し い防 護 服 で の検 疫 、 ホ テ ルに缶 詰 め 、集 会 禁 止 、修 学 旅 行 禁 止 、出 席 停 止 、出 勤 停 止 一週 間 など マス コミが これ でも か これ でも かと 不安 を 報 道 し 、法 律 と いう のは こう ま で、市 民 生 活 を 適 度 に怖 が る﹂と いう こと が いか に難 し い事 か と 束 縛 、混 乱 さ せ るも のか と 感 じ さ せ ら れ た こと と パ ニ ック にな ら な いよう に、 ﹁ 思 い知 ら さ れ た感 があ り ま した 。 百 年 に 一回と いう 経 済 混 乱 のリ ー マンシ ョ ツクを 経 験 した のも 束 の間 、千 年 に 一回 の大 災 害 や、絶 対 安 全 であ ると の前 提 の原 発 想 定 外 ﹂ は許 さ れ なく な り ま し た 。特 に、家禽 類 の大 量 屠 殺 の報 道 を 見 る に つけ 、 H 5 N lな ど の強 毒 型 事 故 を 経 験 し 、安 易 な ﹁ が や や毒 力 を 弱 め 、 ヒト ー ヒト間 で大 流行 す る のは時 間 の問 題 と さ れ て いるよう に思 わ れま す 。 W H O、 C D Cな ど の海 外 情 報 に も 目を 配り 、真 摯 な職 業 意 識 や職業 倫 理 を 基 にし た職 能 集 団 と し て知 恵 を 出 し合 って いか な く てはな ら な いと 思 っており ます 。 現 在 、 ユー ロ圏 、米 国を 中 心 と した世 界 経 済 の大 混 乱 への予兆 の中 、 日本 も そ の影 響 を 避 け る こと が でき ま せ ん。特 に、 医 療 、 介 護 、年 金 にか か わ る社 会 保 障 の財 源 論 に結 論 を 出 す こと が でき な く 、 国 民 の大 事 な セ ー フテ ィーネ ット であ る国 民皆 保 険 制 度 か ら離 脱 せざ るを得 な い生活 困窮者 が多 数 生 み出 さ れ ており ま す 。世 界 が 評価 す る皆 保 険 制 度 が成 立 し 五十 年 が経 ち ま し た 。 日本 医 師会 は ﹁ 社 会 的 共 通資 本と し て の医 療 ﹂ を 具現 化 す る制 度 と し て維 持 、発 展 を訴 え ており ま す 。市 民 が戦 って勝 ち得 た 制 度 ではな いです が 、 グ ロー バ リゼイ シ ョン の名 のも と 、米 国流 が至 る所 に入 って こよう と し ており ま す 。 み んな の力 で大 事 に擁 護 し 、拡 充 し て いか ね ば な ら な いと 思 いま す 。 -2- 場 東 日本 大震 災 への医療 支援 車 鉄 周 む タイ ヤ に冷 や汗 を感 じた 。宮 城県気 仙 沼 に入 った のが 四 月 七 日。 一ヶ月 が経 とう と す るも 、瓦礫 は道 路 周 辺 のみ除去 さ れ、 大 部 分 は放 置 さ れ て いた 。腐 った魚 の にお いが町 中 にし み こ み、 陸 に積 も った ヘド ロが乾 燥 し て砂塵 と し て町 中 で舞 い、 目 が痛 んだ 。 初 日 は保 健 師 と 共 に、被 災 住 宅 に残 る住 民 の健 康 状 態 を 把 握 す るた め 一件 ず つ訪 問 。衛 生状 態 も 悪 い中 、懸 命 に清 掃 す る住 民 の復 興 への熱意 には胸 を 打 た れた 。 翌 日か ら は幸 い被 災 しな を 大 き く 感 じ 、 これ は大 変 な こと が起 き た かも し れ な いと いう 予感 があ った 。 一九 九 五年 一月 、大 学 二年 生 の時 に京 都 で感 じ 二〇 一 一年 三月 十 一日 の大 震災 発 生直 後 、室 蘭 でも そ の揺 れ お いて心 理的 スト レ スが高 ま り 、様 々な 健康 問 題 が生 じ て いる る った 。 ま た 、最終 日は気 仙 沼 市内 の辻 難 所 に て、集 団生 活 に 慄 然 と しな が ら 、褥倉 の処 置 や栄養 管 理 、感 染 症 治 療 に腕 を ふ る中 、 必 死 で母親 を抱 え て自 家 用車 で逃 げ てき た被 災 者 の話 に ︵ 本輪西 フ ァミリークリ ニック︶ た 阪 神 大 震災 の揺 れ に何 か似 て いた か ら だ 。と り も な お さず 、 と いう 報 告 を受 けた 。病 気 の管 理 より も 、避 難 所 全 体 の食 生 活 か った在 宅 息 者 宅 への訪 問診 療 を 実 施 。す ぐ後 ろま で津 波 が迫 翌朝 、神 戸 へ友 人 と 出 か け 、被 災 地 への支 援 物 資 を仕 分 け し 、 や生 活 環 境整 備 への検 討 が急 務 と実 感 した 。 瞬 く 間 の四 日間 の支 援 を終 え て、住 民 や地 元 の医 療 関係者 の 避 難 民 に手 渡 す ボ ラ ン テ ィ ア に従事 した こと を 思 い出 し な が ら 、 今 回 は 一体 何 が でき るだ ろう かと 信 じ が た い映 像 を T V で見 な 医 療 法 人 の理事 長 と いう 立 場 、 そ し て 一人 の医 師と し て の立 う 実 感 を 覚え た 。良 く あ る病 気 を し っかり診 断 治 療 し 、手 に負 のよう な家 庭 医 、プ ライ マリ ・ケ ア医 は大 いに貢 献 でき ると い 不屈 の精 神 に感 銘 を 覚え つ つ、 そ れを サポ ー トす るた め に我 々 場 、 両 面 で の支 援 を検 討 す る 日 々。 阪神 大 震災 と 異 な り 、放 射 え な いも のを 手 際 よく 紹介 す る判断 力 。 そ し て、介 護 や保 健 の が ら ぼ ん やり 考 え て いた 。 線 被 曝 のリ スクが高 いこと が 、法 人内 の若 手 医 師 の派 遣 に躊 躇 当 てら れ るが 、災 害 医 療 でも プ ライ マリ ・ケ アは必 須 であ る。 コメデ ィカ ル の皆 さ んと 連携 し な が ら 地域 全 体 の問 題 に対 処 す 我 々 の所 属 す る 日本 プ ライ マリ ・ケ ア連 合 学 会 が立 ち 上 げ た す る こと に つな がり 、私も 含 め てリ スクを 踏 まえ て支 援 でき る P C A Tと いう 医 療 支 援 チ ー ム のメ ンバ ーと し て、ま ず は東 京 現在 も 、我 々 の法 人 か ら は被 災 地 支 援 を 一∼ 二名 / 月 で継 続 し て いる。 一時 の ニーズ は減 った が 、 まだ や れ る こと はあ り そ る包 括 的 ケ ア の経 験 。と かく 、 D M A T等 の救 急 医 療 に視 点 が の本 部 で被 災 地支 援 で の基 本 情報 を 学 習 。 そ し て、 チ ー ム三名 う だ 。と も か く 、東 北 が復 活 す るま で細 く 長 く貢 献 した い。 メ ンバ ー七名 で の支 援 を 地 震 発 生 二週後 か ら 順 次 開始 し た 。 で レ ンタ カ ー に て 一路 被災 地 へ。東 北道 は大 き く ゆが み、た わ 3 炎 を か な り診 て いた のでグ ラ ム染色 、 ギ ムザ 染色 標 本 を 鏡 検 す 第 一病 日 は 顕微鏡 を 見 て いるだ け で過ぎ た が、 異 常白 血 球 は る のはあ ま り苦 にな ら な い。 認 めら れ な か った 。第 二病 日、点 滴 輸 旗 中 、突 然 悪寒 戦 慄 、 四 十 度 の高 熱 が約 四時 間続 く 。 ア スピ リ ン服 用 さ せ るも 効 果 な し 。 大 量 の発 汗 ︵ パ ジ ャ マ、 シ ー ツ全 部 交 換 ︶、 そ の後 急 に 三十 七 度 台 に解 熱 し全 身 倦怠 を 訴 え 、虚脱 状 態 と な る。 し か し食 欲 も 第 三病 日、 昨 日 の症状 が嘘 のよう にケ ロ ツ あ り よく 眠 って いる。 数 え て いた時代︶、心 電図 など当時 の船 貝保険 診療 所 で出 来得 液 一般 ︵ 臨床検査 セ ンターが無く、血球計算も全 て顕微鏡 下 で かなり楽 にな ったと いう のが訴え であ る。胸部 エック ス線、血 着 用す るも寒 さは取 れず遂 に風呂 へ入 ったが駄 目 で、そ の後急 に四十度 の高熱 が何時間か続き 、大 量 の発汗を したが、今 日は の熱 が続 いて いたが、昨 日突然寒 さ で体 が震え 、毛布 を何枚 か 体 温三十 七度 、広島 で の原爆被爆者手帳を持参 し て いる。約 二 週間前 に マニラを出港 、約 一週間前 から風邪気味 で三十七度台 員が高熱と震え で入院 した。全身状態 や ゝ衰弱 、軽度 の貧血、 の秋だ ったと思う 。 マ号 フ経由 の外航船 の四十 五歳 の日本人船 室蘭船員保険診療所 に勤務 し てから約 二年後 の昭和 四十 一年 報 告 が多 く み ら れ る よ う にな った が 、 不 幸 に し て死 に 至 った 人 達 が増 え 輸 入熱帯 病 の代 表 的 なも のと し て、 マラリ ア の症 例 な 一外 科 医 の輸 入 マラリ アと の戦 いであ った 。 無 事 本 州 の自 宅 に帰 す こと が出 来 た 。 以 上 が卒 後 八年 目 の無 知 チ に使 用 さ れ て いた ク ロ ロキ ン三 日間 服 用 で劇 的 効 果 があ り 、 キ ニーネ は既 に国内 では製 造 さ れ てなく 、慢 性 腎 不全 と リ ウ マ た が壊 れた よう な赤 血球 内 に青 黒 く 染 ま った マラリ ア原 虫 の二、 も う 一度 血 液 塗 抹 ギ ムザ染 色 標 本 を 作 り 鏡 検 す る。 そ れ ま で は白 血病 を疑 って赤 血球 は み て いな か った 。少 し時 間 がか か っ 熱 マラリ アを 疑 う 。 下あ り 。 こ ゝら でや つと 発 熱 が 四十 八時 間 の波 状 熱 であ り 三 日 日、輸 液 中 、 二日前 と 全 く 同 じ 悪寒 戦 慄 、高 熱 、急 激 な 体 温 降 マラ リ ア 東 浩 と し て いる。当 時 の輸 旗 セ ット は消 毒 した ゴ ム管 を 使 用 し て い る範 囲内 の検査 では白 血球数 の軽度増加と尿 ウ ロビ リ ノーゲ ン 陽性 以外病的所見 はな い。食欲もあり重症 にみえ な い。息者 の ケ ー スは マラリ アを 念 頭 に置 けば救 命 し得 た と 思 わ れ るも ので ︵ 元室蘭船 貝保険診療所 ︶ 訴え の高熱 、震え の原 因が不明 のまま抗 生剤投与と輸液 で経過 あ る。私自 身 は こ の苦 い経 験 を し て以来 、外 航 船 員 の高 熱 には 、 た のでゴ ム管 内 への塵 の混 入も 疑 い新 品 に取 り換 え た 。第 四病 を見 ながら被爆者 であ る のが気 になり白 血病を疑 った。血波塗 そ の後 、昭 和 四十 年 後 半 にな ると 海 外 の未 開発 地 へ旅 行 す る 三 の小体 を 認 め、 三 日熱 マラリ ア の診 断 が つ いた 。治 療 は塩 酸 抹ギ ムザ染色 で鏡検す る。船 員診療所 に勤 め てから沐菌性尿道 4 な が ら 勤 務 し てき た が 、 そ の後 幸 いにも 二度 と 診 る こと は な 女 を みた ら 妊 娠 を 疑 え の例え の如 く 、常 に マラリ アを 思 い出 し も のは ほと んど整 理 、処 分 し た が 、 な ぜ か メ フ ァキ シ ン錠 ︵一 これを機 会 に臨 床 か ら離 れ る こと になり 、今 ま で の医 療 関係 の 平成 二十 一年 十 二月 室 蘭船 員保 険 診 療所 は廃 止 と なり 、私 は 旅行医学 参 考 図書 中 へ入 れ てあ る。余 程 マラリ ア に憑 か れた のか な 。 箱 六錠 ︶だ け は破 棄 せず 、使 用期 限 の過ぎ た今 も 机 の引 出 し の か った 。 マラ リ アは古 来 日本 では蔓 延 し た 病 であ り ﹁ 嬉﹂ ︵ わらはや み 。お こり ︶ と よ ん で いた が、源 氏物 語 にも 登 場 し て いるし、 平 清 盛 の死 因 が ﹁お こり ﹂ であ つたと いう 説 は有 名 であ る。 昭 和 にな っても 国内 ではあ り ふ れた病 気 であ り 、太 平 洋 戦争 で 酒井 ︻ ンゲ 海老 沢 功 海外 で健康︱ 知恵袋 病 が語 る日本史 し か し 、終 戦後 日本 国内 の衛 生状 態 の向 上 により 昭和 三十 年 頃 宮 崎 豊 は多 く の将 兵 が東 南 アジ アで マラリ ア のた め戦 病 死 し て いる。 か ら は新 患 者 の発 生 は なく なり 、 昭 和 四十 年 代 に入 ると 日本 で は過 去 の病 気 と な って医療 関 係者 か ら忘 れ ら れ て いた 。病 理 学 で マラリ ア の眸 腫 、精 神 科 で の梅 毒 の進 行 麻 痺 の マラリ ア発 熱 -5- 療 法 の講義 を 思 い出 し た のは息者 が退 院 した後 のこと であ る。 し か し、直 接 死亡 す る こと が無 く良 性 マラリ アと 言 わ れ て い る三 日熱 マラリ ア、 四 日熱 マラリ ア、卵 型 マラリ ア、重 篤 で死 亡 す る こと も あ る熱 帯 熱 マラリ アと も 、世 界 では いま だ に猛威 を 振 る いア フリ カを 中 心 に東 南 アジ ア、 イ ンド では毎 年 二億 人 か ら 四億 人 が罹 り 、 百 五十 万 人 か ら 二百 五十 万 人 が死亡 し て い る病 気 であ る。 予防 薬 、治 療 薬 と も 数種 類 あ る が 、 一部 を 除 き 国内 では入手 困難 で厚 生労 働 省 熱 帯 病 開発 研究 班 の医 療 機 関 だ け に抗 マラリ ア薬 は保管 さ れ て いる。薬 剤 耐 性 の マラリ アも 発 生 し て いるが 流行 地 を 旅 行 す る人 は必ず 予防 薬 を 服 用 す べき で あ る。 四 , 五年 前 久 光 製 薬 株 式 会 社 から や つと 待 望 の マラリ ア 予防 薬 メ フ ァキ シ ン ﹁ヒサ ミ ツ﹂錠 2 7 5 ︵一般 名 塩 酸 メ フ ロ キ ン︶ が発 売 さ れ 、船 員診 療 所 でも 海外 旅 行 者 、 ヒ マラヤ登 山 者 な ど へ処 方 し て いた 。 0と ア■入 フ° 最 後 の診 断 昌 司 後 三日以内 ︶ の場合 、末梢血を採取 し、持参 した血液検査試薬 ト ロポ ニンT検査 ︶、心筋 梗塞 があ った に滴 下す る事 により ︵ かどう かが、あ る程度推定 でき る。採 血は大 腿静脈 や手背 の静 脈 など、心臓 から離 れた部位 の血波を用 いなければ いけな い。 最近 、ト ロポ ニンT検査を鎖骨 下静脈 血 で行う医師 が いて、刑 尾 何 事 さん達を困らせ て いる旨 の話を聞 いた。医師 の言 い分 は ﹁ 堀 刑事 一課 ﹂ で大 東 町 の室 蘭 警 察 署 三階左 突 き当 た り にあ る ﹁ ︵ 堀 尾医 院 ︶ ま か な 説 明 を受 け た後 、階 段 を 降 り 署 の右 手 裏 側 に建 って いる 処 から採 血 し ても 同じ でし ょ。 ﹂と いうも のだ。生き て いる人 ならそ の通りだ。しかし死体 の場合 は違う 。私 は実際、大 腿静 ど んな死体 でも ト ロポ ニンTは心臓内と、滲 みだ し得 る周 辺 の 2G針と 血管 ︵ 鎖骨 下静脈も含 ま れる︶ には存在す るからだ 。 2 。 l 5︲ mのシリ ンジを使 つて腑 mも採 れれば検査 が でき る そ の他 、 。 に心臓 血 Ю l mの採 取も求 められ る 右心房 が狙 い易 いが 新 し 8Gサ︲ フロー針 で鎖骨 下静脈を狙う方 が易 し い。 い遺体 なら 1 検柔 は、選ば れた検柔医以外 の医師 が行 う事も少 なくな い。 安 置 室 へ向 かう 。 マスクを 付 け扉 を 開く 。数 人 の刑事 達 に囲 ま れ て、 中央 の ス テ ンレ ス の台 に仰 向 け に横 た わ って いる のは人 間 の変 死体 であ る 。 脈 血 で陰性だ ったト ロポ エンT検査を同じ遺体 の鎖骨 下静脈 血 後述︶ で試 した事 があ る。結 果 は陽性 だ った。死体検柔講 習 ︵ でも 、講師 が大腿静脈 から採 血す るよう強く注意を促 し て いた。 刑事 さ ん達 が既 に進 め て いる のが人 定 調査 だ 。古 い遺 体 では 、 指 紋 、掌 紋 の鑑 定 、 最終 的 には D N A鑑 定 を し な いと 人定 が出 全 てと は言わな いが、鎖骨 下静脈 は偽陽性 が出 る確率 が高 い場 所 であ る事を確認し ておき た い。 次 に後頭 下穿刺 で脳脊髄液を採取す る。脳脊髄旗 が透 明だ か 来 な い事 も多 い。 の約 四割 は便 箋 に書 か れ て いるが 、残 り の六割 は新 聞 の折 り 込 らと言 って脳内出血を否定 は できな いし、脳梗塞 の場合 、多 少 自 殺 が疑 わ れ る場 合 は 、遺 書 の有 無 が チ エックさ れ る。遺 書 みチ ラ シ等 の裏 に走 り書 き さ れた物 で、自 殺 の多 く が行 動 的 に の例外 はあ るも のの出血が起 こらな いので髄液 では診断 でき な 検 案 医 の仕 事 にな る。部 屋 に残 さ れ た薬 袋 の病 院 名 と 中身 の薬 仕方 なく包括的な言 い方 で ﹁ 脳出血﹂と推定診断す る。脳底部 が疑 われ る場合 、CTが出来な いので両者 の区別 は出来な い。 い。血性髄液 であり 、﹁ くも膜 下出 血﹂か ﹁ 脳内出血 の脳室穿破﹂ 決 断 さ れた事 を物 語 って いる。 剤 、薬 情手 帳 な ど か ら 、持 病 が推 定 さ れ る。携 帯 電 話 で主 治 医 の血管 に針 が当 た った場合 、ド ロッと した血液 が吸引 され る。 事 件 性 が薄 い場 合 、病 死 の可能 性 が 調 べら れ る。 これ が主 に 死 と 連 絡 を と り 、具 体 的 な情 報 を得 る事 も あ る。新 し い遺 体 ︵ -6- これを 血性 髄 液 と 判 定 し ては いけ な い。 場所 を変 え て刺 し直 さ な い無 力 感 を感 じ る。我 々の経 験 では 、総検 案 数 の 1/ 3が外 れ て いる。 止 む を得 ず ﹁ 急 性 心 臓 死 ﹂ と 書 く 場合 、何 と も 言え 因死 ︵ 自 殺 、事 故 、他 殺 ︶、 2/ 3が内 因 死 ︵ 病 死 及び自 然 死 ︶ 。 であ るが 、内 因 死 の中 で死 因 が判 明 し た のは約 0 5% に過ぎ な い 残 り の約 0% は死 因 不明 であ る。ち な み に全 国平 均 では死 因 不 5 0∼ 0%。監 察 医 制 度 ︵ 3区 な ど では 、 明率 が 6 後 述 ︶ のあ る東 京 2 7 わず か 5% であ る。道 内 でも いち 早 く 血液 と 尿 の検 査 キ ットを な け れば いけ な い。 体 では こ こ に挙 げ た検 査 は 困難 にな る の で、事 件 性 が疑 わ れ る 後 述 ︶ を 取 り 入 れ る等 、室 蘭 市 医 師 会 と 室 蘭 警 常 備 し、 A I ︵ 膀 肌 穿 刺 か導 尿 カ テー テ ル で尿を 採 取 し 、持 参 した 尿検 査 試 場 合 のみ解 剖 に回 さ れ る事 にな る。冬 の暖 房 のな い部 屋 で発 見 察 署 の検 案 活 動 に対 す る取 り組 みは全 道 でも 高 く 評価 さ れ て い 留 守 着 信 の有 無 な ども 有 力 な手 掛 り にな る。 は推 定 でき る。新 聞 や郵 便 物 の取 り 込 み。携 帯 電話 の通話 記 録 。 テレビ や ラジ オ の スイ ッチ は O Nだ った か な ど か ら 、 昼 か夜 か 死亡 時 間帯 が推 定 でき るが 、数 日を 経 た と 思わ れ る遺 体 は難 し い。 居 間 の照 明 は点 いて いた か 。 カ ー テ ンは閉 じら れ て いた か 。 合 は 、 死後 硬 直 の程 度 、範 囲 。直 腸 温 な ど か ら 、 か なり 細 か な 全﹂ ﹁ 心 臓麻 痺 ﹂ と いう 文 言 を 使 用 し ては な ら な い。﹂ と いう 、 診 断 書 の書 式改 訂 ﹂ を行 った 。 困 った のは法 医 学 者 や 愚 かな ﹁ た厚 生省 は 、平 成 七年 、 ﹁死 因欄 に ﹁ 急 性 心 不全 ﹂ 冒 心 性呼 吸 不 明 率 が高 いのであ る。 そ れを 先進 国 か ら指 摘 さ れ 、大 恥 を か い が ほと んど行 わ れ な いので、欧 米 先進 国 に比 べ、極 端 に死 因 不 る が、 そ れ でも 全 国平均 の死 因 不明率 を Ю% ほど 少 なく 出 来 た に過ぎ な い。 薬 を 飲 ん で いた か 、大 雑 把 に知 る事 が でき る。腐 敗 の著 し い遺 精 神 薬 、抗 う つ剤 、 コカイ ン、大 麻 、覚 醒 剤 な ど を含 めど んな ト ライ エージ ︶ に滴 下す る事 により 、 そ の人 が睡 眠薬 、向 薬 ︵ さ れ た遺 体 は 死後 二∼ 三週 間 でも 検 査 可能 な事 も あ る。 死者 の唇 が ワナ ワナと 震 え て いてド キ ツと した事 があ る。 日 検 案 医 達 であ った 。ま とも に解 剖 が出 来 な い以 上 、 判 ら な いも 死 亡 時刻 の推 定 も 大 切だ 。新 し い遺 体 ︵ 死後 一日以内 ︶ の場 唇 の結 合 組 織 内 で無 数 の岨虫 がう ご め いて いた のだ 。 虹虫 は夏 末 な現 状 であ る。 心 臓 死 ﹂ と いう 言葉 に置 き換 え て使 って いると いう 、誠 にお粗 のは判 ら な い。 し かた なく 、使え な い ﹁ 急 性 心 不全 ﹂ を ﹁ 急性 日本 では監 察 医 制 度 が機 能 し て いな い。 死 因究 明 の為 の解 剖 mに成 な ら 死後 一時 間 で産 卵 さ れ、次 の日 には孵 化 し 、仏 長 4 m m、5 日 で 2 mにな る。 そ の後 蛹 に な り 十 日前 後 長 。 3 日 で9 m 1m で羽化 す る。毎 日産 卵 が行 わ れ るか ら 、虫 の中 で 一番 成 長 し て 事 件 性 を含 め た外 因 がな いと推 定 さ れ 、 か つ、どう し ても 内 集 団 が 、充 実 し た設備 を 駆 使 し て検 案 や解 剖 を行 う 制度 の事 で N E S﹂等 に出 てく る よう な 、医 師 を 含 め た変 死 体 専 門 のプ ロ 監 察 医 制 度 と は 、 ア メリ カ のT Vド ラ マ ﹁C S I﹂ や ﹁BO 因 が わ か ら な い場 合 は 、 死 体 検 案 書 に ﹁ 急 性 心 臓 死﹂ ︵ 後 述︶ いる物 を 手 が かり に逆算 す る。 と 記 入 す る。検 案 は そ の人 が受 け る最後 の医療 行 為 だ 。 死者 の あ る。 ほと んど の欧 米 先進 国 では こ の制度 が運 用 さ れ て いる。 太 平洋 戦 争 敗 戦直 後 、上 野 の地 下道 で浮 浪者 の死 亡 が多 発 した 。 声 を 聞 き 取 る耳 、 ﹁ 最 期 の診 断 ﹂ を 下 す 努 力 が我 々に は求 め ら 7 と こ ろ、 そ のほと んど が肺 結 核 に起 因 し て いた 。 これ により 、 餓 死だ な ﹂等 と 診 断 す る様 な お粗 末 なも のであ った 。浮 めて ﹁ 浪 者 の相 次 ぐ 死亡 に不 審 を 抱 いた G HQ が独自 で解 剖 を 行 った そ の頃 の日本 に掛 け る検 案 と いえ ば 、医 者 が遺 体 を遠 く か ら眺 が証言 したも のだ。 ︶石垣島 に着 いた妻 は、 ホ テル のチ ェック 事 の顛末 は、たま たま 二人 に同行 し て いた妻 の友 人 ま せた。 ︵ 飲 ん でおき な さ い。 ﹂と 、妻 に 二重 にな った白 いカプ セ ルを飲 く から。あ、そう そう 。こ ﹂れは い つも の滋養強壮剤だ から、 こ の制 度 が 日本 中 に広 が って行 く事 を期 待 し た のであ る。 し か 七都 市 には 日本 全 人 口 の1/ 3が集 中 し て いた ので、 G HQ は 急性心臓死﹂と診断 さ わからな いから不明 の内 因死、 つまり ﹁ れ て いたかも しれな い。完全 犯罪が成立し て いた可能性 は高 い。 脊髄液もき れ いで、末 梢血検査 では心筋梗塞 でも な い。原因が の時 Kは那覇 におり、完全 な アリバイ が成立 し て いた。も し、 妻 が監察医制度 のな い地域 で死亡し て いたら、外傷も な い。脳 イ ンを済ま せた直後 に苦 し み出 し、島 の病院 に救急 搬送中 に心 何 人 の命 が救 わ れ た のか は定 か でな いが 、 こ のま ま では いけ な 3区 、横 浜 市 、名 古 屋市 、京 都 市 、 肺停止と な った。 二重 カプ セ ル服用から 二時間後 であ った。 こ いと 判 断 し た G HQ は 、東 京 2 大 阪 市 、神 戸市 、福 岡 市 の七 都市 に監 察 医 制度 を 置 いた 。 こ の し 、監 察 医 制 度 下 では 、高 頻度 で解 剖 によ る死 因究 明 が行 わ れ 現在 で 一体 約 二十 る為 、当 然 な がら多 く の予算 が 必 要 と な る ︵ 沖縄 の離島 な ら大丈夫﹂と高 を括 って いた K の思 万 円 ︶。 G HQ が去 った後 、昭和 五十 七年 の厚 生省 の政令 により 、 と ころが、﹁ 惑 は見事 にはず れ る事 になる。沖縄 は昭和 四十七年 ま で アメリ ﹁ 行 政改 革 ﹂ と 称 し て、京 都 市 、福 岡市 で監 察 医 制度 が廃止 さ の都 市 でも 、監 察 医 の数 が大 幅 に減 ら さ れ た 。 現 在 ま と も に機 3区を 含 め数 都 市 だ け であ る。 こ の結 果 ほ 能 し て いる のは東 京 2 と んど の地 域 では 、専 門 の訓 練 を受 け て いな い臨 床 医 が 死体 検 3区 では臨 床 医 が 死 体 検 東京 2 案 を 行 わざ るを 得 な く な った 。 ︵ 案 書 を 書 く事 は 原 則 あ り 得 な い。︶変 死 体 の解 剖 率 は スウ ェー 0%以 上 、 ア メリ カ やィ ギ リ ス では約 デ ンや フィ ン ラ ンド では 8 、 3区 0 ち な み に東 京 2 5%な のに比 し 日本 は約 3% に過ぎ な い ︵ 0∼ 5% であ る︶。 では 2 2 昭 和 六十 一年 に起 き た ﹁ト リ カ ブ ト 殺 人事 件 ﹂。 Kは 三 人 目 時津風部屋﹂でぶ つかり稽古 → ← 成十九年 六月愛知 県大山市 の﹁ の妻 の件 のみで立件 され、無 懲役と な った。 期 時太 山﹂は、平 時大山事件 ﹂ は記憶 に新 し い。新弟子 の ﹁ ﹁ れ 、制 度 の運 営 そ のも のも 各 自 治 体 に任 さ れた 。 そ の結 果 、他 の妻 ︵ 三十 三歳 ︶と 沖 縄 に新 婚 旅 行 に出 か け た 。 那覇 空 港 で石 を した後 に心肺停止と なり、地元 の病院 で死亡 が確 認された。 カ の統治 下 にあり 、返還後も アメリ方式 の監察医制度 が、ほぼ そ のまま の形 で機能 し て いた。死因がわからなか った石垣島 の 急 用 が でき た 。 垣島 行 き の航 空 券 を手 にし た Kは 、搭 乗直 前 に ﹁ 体 の無数 の傷 に ついて、親方 から ﹁ぶ つかり稽古をす れば よく が、遺体 は既 に火葬 され ており検 証不能 であ った。 Kは三人目 保険 が掛 けられ て いた。実 は前 の二人 の妻も急 死を遂げ て いた る ﹁ア コ ニチ ン﹂を検出 した のであ る。 この妻 には計 二億円 の 不審を抱き臓器 や血波を保存 。執念 の努力 でトリカブト毒 であ 島 の琉球大 学 に送り、解剖 が行 われた。剖検 した医師 が死因 に 病院 は、監察医制度 の流 れ に従 い何 の躊躇も なく遺体を沖縄本 君 は先 に島 のホ テ ルに行 って待 って いな さ い。私 は次 の便 で行 8 意 も 問 題視 さ れ た事 件 だ 。 死 ﹂ と 判 明 し 、親 方 や兄弟 子 は逮捕 さ れ た 。刑事 や検 案 医 の熱 学 に解 剖 を 要請 。解 剖 の結 果 ﹁ 多 発外 傷 によ る外 傷性 シ ョ ック を 引 き 取 った 遺 族 が 、部 屋 側 の説 明 に納 得 せず 、地 元 の新 潟 大 と し た 。愛 知 県警 も 事 件 性 が薄 いと し て遺体 を 返 還 し た 。遺 体 あ る事 だ 。﹂ と 説 明 を 受 け た 臨 床 医 は 、 死 因 を ﹁ 急 性 心 不全﹂ 幸 い、今 年 か ら医 師会 の御 尽力 により 、高 速 道 路 を 利 用 でき る を 頑 な に守 る。一時 停 止 では し っか り止 ま り 、 左 右 を 確 認 す る。︶ しまう 。 ︵ パ ト カ ーは 、道 が ど ん な に空 いて いよう が制 限 速 度 話 が入 る事 も あ る。本 輪 西 な ど の遠 い現 場 だ と 大 仕事 にな って 選 び 、検 柔 業 務 を 行 って いる。午 前 二時 頃 、 登 別 の検 案 医 に電 日 中 の検 柔 ︶、 開業 医 四名 ︵ 夜 間 と 休 日 の検 案 ︶ の人名 を 名 ︵ て いる のだ 。 一人 一人 の死 囚究 明 は 、次 世 代 の万 人 の生 に繋 が いる。 解 剖 は更 に、殺 さ れ た人 を含 め 、 死者 達 の人権 を も 守 っ 犠 牲 者 を 最 小 限 に留 め るな ど 公 衆 衛 生 上 の重 要 な役 割 も 担 って く 、戦 後 の上 野 の事 例 のよう に、伝 染病 等 を いち 早 く発 見 し、 を 解 剖 によ って究 明 す る事 は、犯 罪 の再 発 を抑 止 す るだ け でな る 一部 始終 を ビ デオ に残 し た 人 が いた 。も ち ろんビ デ オ は 流 さ には いろんな 人 が いて、自 分 が ﹁ぶら 下 がり 健康 器 ﹂ で総 頚 す て の講義 は 興味 深 か った 。自 殺 の約 七割 が総 頚 であ る。 世 の中 缶 詰 にな り な が ら受 け さ せ て頂 いた 。 そ の中 で ﹁ 自 殺 ﹂ に つい 頂 き 、埼 玉県 で行 わ れた ﹁ 死 体検 柔 に関す る講 習会 ﹂ を 三 日間 検 柔 医 にな って二年 目 頃 、室 蘭 市 医 師会 の御 厚 意 で旅 費 ま で 様 にな った 。 本当 に有 難 い。 そも そも 1/ 6 の死 因 が わ か ら な る重 要 な資 料 な の であ る。 ︵ れ な か つた が 、講 師 の話 では 、 ぶら 下 が った後 、彼 は 一分 以上 日本 では 、全 死 亡 の六人 に 一人 は変 死 であ る。変 死 体 の死 因 いと 言う事 は 、 日本 の死 因統 計自 体意 味 が な いのに等 し い。︶ も がき苦 し んだ 。 そ の後 、全 身 の痙 攣 が起 こり 、動 か なく な る 器 の外 傷 や病 変 を知 る事 が でき る。 し か し 、放射 線 科 の先 生 の アド バイ スか ら 、 血 流 がな く 腐 敗 も 始 ま って いる人体 と 生 き て す る試 み であ る。 これな ら 、脳 、骨 、肺 、 肝臓 を含 め多 く の臓 を 賜 り行 わ れ るよう にな った 。解 剖 でき な いな ら 、 せ め て問 題 のあ り そう な遺 体 を C T にか け て、体 の内 部 の情 報 を 得 よう と 綿 で首 を絞 め ら れ る様 に徐 々に呼 吸 困難 にな る。更 に目張 り を 殺も 、 一部 始 終 を 記 録 に残 した 人 が いた そう だ 。 こ の場 合 も 真 備 のな い 一般家 庭 で の首 吊 り は想 像 以 上 に苦 し い。 死 に顔 が美 の断 裂 、致 死的 神 経 反射 な ど が起 き る為 と 言 わ れ る。絞 首 台 設 ま で に五分 間 を 要 し た 。死刑 囚 が即 死 でき る のは 、落 下 で体 が 解 剖 率 の低 さを補 う べく 、最 近 では ﹁ >飼一 中 A B”∽ pヒ ︵ 3電 日 I︶ と いう 方 法 が室 蘭 地 区 でも 、総 合病 院 のあ り がた い御 協 力 いる人 体 と では 、 か なり 画 像 の見 え方 が違 う事 がわ か った 。遺 した車 内 では 、練 炭 や排 ガ スによ る熱 さ が重 な るか ら 地 獄 の苦 加 速 さ れ た後 、急 激 に頚部 が絞 めら れ た為 、 頚椎 の脱 臼 、 頚髄 体 を 損 傷 せず に大 量 の情 報 を 得 る事 が出 来 る頼 も し い手 段 だ が 、 し みだ 。 死後 は桜 色 の安 ら か な 死 に顔 にな るが 、 これも 冬 期 間 、 室 蘭 警 察 署 の管 轄 であ る室 蘭 登 別 地 区 では、毎 年 二百件前 後 排 ガ ス自 体 が高 温 環境 を作 る ので、腐敗 が 一気 に進 み顔 が赤 鬼 死後 一∼ 二日以内 に発 見 さ れ た場 合 に限 る。 雪 が無 いと 練 炭 や し いと 人気 ? のあ る練 炭 や排 気 ガ ス、 つま り C O中 毒 によ る自 現状 では解 剖 に取 って代 わ れ るも のでは な い。 の変 死 が あ る。室 蘭 市 医 師 会 は、 ﹁クジ 引 き ﹂ で病 院 勤 務 医 四 -9- の様 にな ってしま う 。 医 師 過 論 ﹂を 唱 え 、医 学 部 の 昭和 六十 一年 、時 の政府 は ﹁ 剰 0%減 ら し た 。 そ れ に平 成 十 六 年 の ﹁ 新 臨 床 研修 制 度 ﹂ 定 員を 1 導 入 が追 い討 ち を か け 、現在 の深刻 な医 師 不足 がも た ら さ れ た 。 O E C D加 盟 三十 四 カ国 の人 口千 人当 た り の医 師 数 が平 均 3 1人 な のに、 日本 は 現 在 2 0人 であ る。全 国 で約 十 二万 人 の 医 師 が 不 足 し て いる計算 にな る。慌 てた 政 府 は 、数 年前 から 医 学 部 の定 貝を 増 やし始 め た 。大 震災 が起 き ても 、 原発 が爆 発 し ても 、 政権 抗 争 に明 け暮 れ て いる愚 か な 政 治 屋 共 を 見 て いると 気 持 ち が萎 え そう にな る。順 調 に医 師 が増 え 続 け 、監 察 医 制 度 が全 国 で復 活 し、 死者 の為 に確 か な ﹁ 最期 の診 断 ﹂を 下 せ る時 代 は果 た し て来 る のだ ろう か ? 肥 修 司 室蘭 ∼引 っ越 しをく り返 した果 てに∼ 土 ︵ 市立室蘭総合病院︶ 医師 にな ってから 、私 は十 九 回 の引 っ越 しを く り 返 し た 。札 幌 か ら 函 館 へ赴 任 し て 一回 日 、 そ の函 館 か ら札幌 に戻 って 二回 日 、と いう 計算 であ る。 そ の最 後 が岐 阜 か ら室 蘭 への引 っ越 し であ った 。 そ の間 四十 二年 、札 幌 、 函館 、旭 川 、釧 路 、 マイ ア ミ、 ニ ュー ヘブ ン、旭 川 、札 幌 、 つく ば 、 ボ ルチ ィ モ ア、岐 阜 、 室 蘭 と 六 カ月 以 上 生 活 し た地 は十 二市 に及 ん で いる。尿 初 の四 カ所 と マイ ア ミと ニ ュー ヘヴ ンを挟 んだ旭 川 と 札幌 は医 局 の人 事 に従 い、あ と はど ち ら かと 云う と自 分 の意 思 で、外 国 の地 へ の憧 れも あ って少 し は計 画 したも のだ った 。 そ し て、北 海 道 の 地 で医 師 と し て の勉 学 ・研修 を スタ ート し た 私 にと って、定 年 前に ﹁ 原点 に復 帰 す る﹂ と いう 多 少 強 い想 いがあ った 。筑 波 大 学 か ら岐 阜 大 学 に赴 任 し た時 か ら 、辞 め る時 のこと を考 え て い た のであ る。 は っき り と し た 認 識 では な か った が 、辞 め た後 の 地 は 北 国 し か な いと いう 思 いは 、地 域 医 療 崩 壊 、自 治 体 病 院 の 経 営破 綻 、若 い医 師 達 の金 銭 志向 など 、 さ まざ ま な 問 題 が湧 き お こ って いた こ の数 年 間 ま す ま す 強 く な ってき た 。首 都 圏 や 関 -10- た し、 私 が学 んだ 時代 に比 べ て、北 海 道 の医 療 社 会 がどう 変 わ っ 事情 ︵ 崩壊 ︶ に対 す る マス コミ の表 現 過剰 な報 道 の影 響 も受 け 西 圏 の金 銭 志 向 の医 師 達 を受 け 入 れざ るを得 な い北海 道 の医 療 た のであ る。 のだ 。 そ し て、クま あ、いいか″と いう 思 いが常 習的 にな って い っ のであ る。教授 と し て の職 の最初 の振 る舞 いに完 全 に失 敗 した 室 蘭 への引 っ越 し は 、当 時 の札幌 医科 大 学今 井 浩 三学 長 か ら てしま った者 にと つて心 す べき 最 大 のこと は 、 な により先 ず 最 て いる。﹃ 君 子論﹄の中 にク突然 に地 位 な り を受 け継 ぐ こと にな っ た か を 知 り た く 思 った のであ る。 の電 話 に対 し て 一つ返事 で決 ま つた こと だ 。道 内 な ら無 医 村 で 指導 者 の姿 勢 がま す ま す 重 要性 を 増 し、 そ し て厳 しく 問 わ れ も 何 処 でも よ い、 と お願 いした 以 上 は 、最 初 のオ フ ァーを受 け ると いう 決 意 を し て いた 。室 蘭 は勿 論 、今 思え ば 、ど の赴 任 も 初 に、 し かも た だ ち に、土台 を 固 め る こと であ る。 以前 か ら用 意 し て いてき た こと を 、就 任 と 同時 に、時 を お かず 実行 す る心 、 、 構 え が 不 可欠 だ 。 ″ と あ るが こ の認 識 は持 つて いた が これ を 実行 でき な か った 。 いわば 、変 化 や改 革 によ る軋 観 を避 け た 幸 運 であ ったと 思 って いる。何 時 も 引 っ越 し で貧 乏 であ った け れども 、 そ の地 そ の地 でさまざ ま な 人と の避通 があ つた 。 二十 た頼 ま れ た講 演 でも 、司会 者 の長 い紹介 の後 、思﹂紹介 のよう に、 な キ ー ワード﹂ と な って い った 。 か った の であ り 、 ﹁ 評 判 ﹂ を 恐 れ た の であ る。先 輩 教 授 の相 応 しく な い評 判 を聴 く た び に、私 の言 動 には段 々と ﹁ 評 判 が主 要 年 間住 んだ岐 阜 では 、岐 阜 大 学 の学 生 への最初 の講義 でも 、ま あ ち ら こち ら で嫌 わ れ て岐 阜 にき ま した ﹂ と自 己紹介 す ると 、 いのか ﹂と 云 わ れ たも のだ 。 こ の場 合 は 、 無 口 であ つ 単 に静 か 、 て、大 人 な ら では の品 位 と か 、洗 練 と か 、 ゆと り と か 、と 云 っ 生 か らも ﹁ 先 生 は本 当 に大 人 し い、 評 判 が よ い、何 か 要求 はな たり 、 要求 を す る こと を全 く し な か った ので、院 長 や外 科 系 先 あ った のであ る。事 実 、岐 阜 大 学 に赴 任 した当 初 は意 見 を 述 べ と いう 印象 が な か ったも のだ 。だ か ら これ は私 流 の ユー モ アで 感 のな い男 ﹂ であ った け れど 、 人 には嫌 わ れ て いる﹂ 自 分 には ﹁ 意 を し て いた 。 かな り 耐 え た 。だ が 、臨床 実 習 で の麻酔 科 の評 教 育 以 外 のこと は全 く 変 え な いで、 ﹁ 待 って見 届 け よう ﹂ と 決 も した 。事 実 、 ク 十 六年 あ る ︵ 当 時 は定 年 六十 三歳 / 〓一 年 間は 経 っても 何 も し な い教 授﹄ と 云 わ れ て いるよう な 思 いに捉 わ れ 出 入り の業 者 にも 及 ん で いた 。 そ れ が後 にな ると 、暗 に ﹃ 何年 選 ん で本 当 によか った﹂ と 云 わ れたも のだ 。 そ れ が医 学 部 全 体 、 人 か の同 僚 教 授 か ら も 、 ﹁評 判 が よ い の で、 先 生 を ︵ 教 授 に︶ 判 は本 当 に良 いです よ﹂ と医 局 長 は しば しば 云 って いた し 、幾 そ のた め か 、私 の評 判 は極 め てよ か った よう だ 。 ﹁ 先 生 の評 たも のが あ った と いう 意 味 では な い。 ﹁ 少 し様 子 を みま し てか 笑 いを誘 ったも のだ 。自 分 はどち ら かと 云う と ﹁ 無 口 で、存 在 ら ・ ・﹂ と 丁重 に対 応 し 、赴 任 一年 六 カ月後 か ら変 革 の要求 な ど を 始 め た 。だ が 、 ﹁ 今 ま で問 題 な か った では な いか ﹂ と 一蹴 価 が ダ ント ツで 一番 にな った勢 いも あ って、 一年 半 後 に教 室 の 人 事 や方 針 を 明 確 に示 し 、実 行 し て い った 。 ″ 岐 阜 で″ と いう 反対 を 押 し切 って、 需 要 の多 い名 古 屋市 内 の大 病 院 に、毎 年 一 さ れ叶 わ な か った 。 予定 さ れ て いた資金 も 既 に使 用 さ れ て いた -11- 病 院 に麻 酔 科 新 設 し十 年 で十 関連 病 院 が増 え た 。名 大 系 列 で の と いう 記 憶 であ る。室 蘭 に移 り 、 そ の先 生 か ら手 紙 を 頂 き 、嬉 の手 術 の麻酔 で疲 れ て いても 、先 輩 に対 す る対 応 ではな か った 、 し さと感 謝 と 共 に思 い出 し た のが 、若 い時 の自 身 の至 ら な さ で あ った 。 こ の意 味 では 、岐 阜 の二十 年 間 や筑 波 の八年 間を 想 い 岐 阜大 学医 で 岐 阜 大 学 の評 判 はす こ ぶ る良 く な った 。 そ し て ﹁ 勢 も あ が ったも のだ った 。だ が 、研 修 医 制 度 開始 の少 し前 か ら 、 起 こし ても 、 これ が な い。 名 古 屋 を 制 す る こと が出 来 る のは麻酔 科 だ けだ ﹂ と 教 室 員 の気 医 師 達 の動 き に変 化 が見 え 、 そ し て開始 後 は方 向 転 換 を せざ る 私 の心 な い言 葉 に傷 ついた こと を結 構 は っき り と 憶 え て いるよ だ が妻 によ ると 、岐 阜 でも 筑 波 でも 、引 っ越 し の折 々には 、 良 い評判 と 云う も のは長 続 き さ せ る のは難 し い。 そ し て引 っ う だ 。 子供 達 も そう だ と いう 。家 庭 では 評 判 を 恐 れ る必 要 が な い、と 同 じ よう に、 北 海道 に いた 頃 の若 い時 分 は 、多 分 評 判 を を 得 な く な った 。 越 し を 繰 り 返 し て いると 、成 功 体 験 を 実 感 す る ことも多 く はな 室 蘭 は初 め て住 む 地 で、私 の故 郷 ではな い。だ が、 北 海道 内 かも し れ な い。故 郷 では失 敗 は慰撫 さ れ 、成 功 は賞 賛 さ れ る、 の冬 の風 土 のた めか 、あ る いは家 庭 あ る いは故 郷 への甘 え な の 意 識 す る必 要 が な か った のだ 。全 てを 覆 い尽 く し てく れ る北 国 と いう だ け で風 土 が 同 じ よう に感 じ ら れ 、私 に何 か ら何 ま でが ふと こんな 言葉 も 浮 か ん でく る。 いのであ る。 懐 か し い想 いを伝 え てく れ る。 二十 八年 ぶり の帰 郷 のた めな の 思 い出 と と も に、 な ぜ か自 分 の至 ら ぬ言動 も多 く 思 いだ さ れた 。 甦 ってく る のであ る。だ が 、 人と の避 通 では、 ほ のぼ のと す る け た 時 の息 者 の顔 な ど が、心 に染 み入 るよう な 思 い出 と とも に 地 の風 景と と も に、例 え ば 、地吹 雪 の舞 う 深夜 に病 院 に駆 け付 が さま ざ ま な 思 い出 を と も な って、私 の脳 裏 に去 来 す る。 そ の 意 識 し てき た の であ る、と 云え ば 格 好 が つく が、大 した こと で う 言動 す るか 、 三十 歳 の時 は 四十歳 の自 分 はどう 対 応 す るか を き た のであ る。 二十 六歳 の時 は 、 三十 六歳 の自 分 であ った ら ど 歳 代 はど こが どう 違 う か 、大 人 の振 る舞 いを しよう と 努 力 し て と 接 し て いると こ の想 いを 強 く し て いる。私 は 二十 歳 代 と 三十 医師 は謙 虚 でなく ては いけ な い。 比較 的若 い直 情 的 な 医 師 達 か 、 六十 五と いう 年 齢 のた めな のか 、風 土 と と も に過 去 の事 柄 恥 と は いえ な いま でも 、至 ら ぬ こと が多 か った のだ ろう 。学 生 、 前 は スー パ ー アグ ルトだ ﹂と 軽 蔑 的 に呼 ば れ た こと にも 、嬉 し は な い。だ が 、 考 え ら れな い程 に幼 い悪童 と 思え た 同僚 か ら ﹁お あ の時 は 、あ あ 云え ば よ か った﹂ 類 の、多 く 同僚 、息 者 等 々 ﹁ は誰 も が多 分忘 れ去 って いる、些 細 な こと な のであ る。手 術 室 や深 い想 いと 比 べると 、何 と も 些 細 な こと だ 。だ が 二十 八年 ぶ さを 感 じ たも のだ 。 何 です か ﹂ 外 科 の先 生 にド アーを 開 け ら れ た時 の、﹁ で勉 強 中 に、 と い った私 の引 き 攣 った 、多 分 、顔 や態 度 や対 応 など 、あ の先 生 はど う 思 わ れた であ ろう か 、と いう こと も あ った 。私 は気 持 り の北 国 で六十 六歳 の今 、 二十 代後 半 三十 代 の昔 に、相 手 に不 北 国 で の私 の想 いは 、大 震災 で被 災 した東 北 人 たち の悲 し み ち が顔 に でる タイ プ 、 不快 な顔 を した に違 いな い。例 え 長 時 間 -12- 快 な気 持 ち にさ せ た かも し れ な いと いう 想 いが脳 裏 に去 来 す る よう な姿 勢 を と った つも り も な いし、落 ち着 き 、 思慮 深 さ 、謙 な った 。挨 拶 代 わ り と し ては 、少 し長 い自 分本 位 の内 容 であ る。 追 記 ¨昨 二十 二年 四月 か ら 、市 立 室 蘭 総合 病 院 の事 業管 理者 と し て二十 八年 ぶり に郷 里 北海道 に戻 り 、室 蘭 市 医 師 会 の会 員と のは な ぜ か 。権 威 ぶ るも のを笑 ったり 、尊 大 なも のを あ ざ け る 虚 さ と いう も のを 尊 ん でき たと 思 って いる。多 分 に消 極 的 だ が 、 波 久 鳥 ﹂ の保存 版 を 室 医 のP D F版 で拝 読 し 、会 員諸 氏 の素 ﹁ 晴 ら し い視点 に敬 服 し て いる。 ﹁こ の程 度 の男﹂ と 評価 さ れ る のを避 け た か った 一心 であ った のであ る。 若 く 、直 向 き であ った け れど 人 間と し ては壱 だ 至 ら な か った 時 代 のさまざ ま な こと など は 、 そ の地 そ の地 の記 憶 と の繋 がり と と も に、自 分 の生 き てき た陰 の部 分 と し て思 い出 さ れ る。消 し た く はな いほ ろ苦 い記憶 であ る。 これも 年 を 取 ると 云う こと -13- な のだ ろう 。 年 齢 を経 ると 人 は賢 く 聡 明 にな って いく 、と いう のは幻 想 に すぎ な い、と 六十 を 越 した 頃 か ら 思 って いる。年 の限界 を知 り つ つ、充 分老 いてか ら の室 蘭 への十 九 回 目 の引 っ越 し には、 二 十 八年 ぶり の故 郷 への赴 任 の旅 には 、私 な り の希 望 と こだ わ り と があ った 。室蘭 で の失 敗 は許 さ れな いと いう 想 いであ る。 中特 ″ rT r ﹁評 判 ﹂ と 云う も のは、 しば しば そ れを 流布 す る本 人 の自 己 本 位 で狭 量 なも のだ が 、悪 い評 判 は避 け る に越 した こと はな い。 今 は 、 評 判 を 恐 れ る こと なく 、管 理者 と し て の業 務 に全 力 を 傾 注 し て いる。全 てが 、素 晴 ら し い想 い出 や素 晴 ら し い人 たち の 出 会 いだ け であ った と 思 って余 生 を 生き て いく より は 、多 少 の 陰 の部 分も あ っても よ いと 思 って いる のだ 。 そ し て、終 の住 処 はど こ にな る のか分 か ら な いが 、多 少 ほ ろ苦 い想 いで室 蘭 時 代 を 思 い出 す のも よ いのでは 、と いう か 、 そ の覚 悟 も し て いる。 二 ,育 庄 説 会 ヨえ 博 山島 振 島 二 男 。斎 藤 桑 克 。 仁。 木下 澪・ 立 木 洋杵 室 蘭今昔物語 縮 集会 買 (弄 藤・ 二村・ 生 口・ 堀え・ オ 岩 口・ 野尻・ ͡) 'P,II・ 事 務 局 (島 橋) 千 茂 23年 7月 14日 潜 :ホ テルサンルート室蘭 振 島二 男 浮山 堂 斎藤 桑 寛 木下 #島 博 え 澪 立木 -14- 仁 乾 杯 の音 頭 です ね 。飯 島 先 生 乾 杯 の音 頭 今 回 の テー マの引 き 金 にな ったわ け です 。 が良 か った のか教 え て欲 し いと いう のが 、 いま す 。昔 を知 ら な い若 い先 生 は 、ど こ ど う いう 点 が 現 在 の室 蘭 と 比 べ て良 か った のか 、大 いに語 って頂 き た いと 思 いま す 。 返 り 、 そ の時代 を懐 か し ん でみた いと 思 す け ど 、繁 栄 した室 蘭 の良 き 時 代 を 振 り 室 蘭 の栄 枯 盛衰 ﹂ と いう 仮 のテー マで ﹁ す 。今 日 は皆 さ ん にご案 内 したと おり 、 ま り いただ き 、大 変 あ り がとう ござ いま こ ろを 二十 六 号 の波 久 鳥 の座 談 会 にお集 三村 お晩 でござ いま した 。 お忙 し いと 行 っても ら つた 。 大 谷 地 公 辿 先 生 と 二人 で、常 盤 に連 れ て の副院 長 位 にな った ら 、芸者 を 揚 げ れた 。 飯 島 昭 和 三十 年 こ ろだ と 思う 。新 日鉄 新 日鉄 、 日本 製 鋼 、大 企業 だ よ 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 豪 快 に金 を 使 って いた のは 飯 島 あ の頃 の給 料 では芸 者 を 揚 げ る こ あ ま り行 け な か った 。 来 た けど 、給料 少 な いか らね 、 中央 町 に 斎藤 ︵ 義 ︶ 昭 和 三 十 六 年 に市 立 病 院 に か来 て頂 き 、芸 を披 露 し てく れた 。 思 いま す 。常 盤 で医 師 会 の宴 会 には何 人 あ り ま した 。 そ の頃 の話 か ら進 め た いと いう 料 亭 があ り 、芸者 さ んが 居 た時 代 も 町 に移 って い った 。中 央 町 には 、常 盤 と した 。室 蘭 の繁 栄 と 同 時 に、繁 栄 が中 島 鉄 鋼 産業 が 町を繁 栄 さ せ た時 代 があ り ま 斉藤 ︵ 甲︶ 常 盤 は 意 外 と 最 近 な の です 。 無 く な った のは何 年 位 だ った か 、 は み んな お婆 ち やん芸者 でした 。常 盤 が な芸 者 さ んたち が居 て、私 が行 った時 に 三村 何 回も 行 き ま し た 。 ほ んと に上 手 た 、 そ の時 先 生 は 、 飯 島 医 師 会 の新 年 会 を 常 盤 で行 って い 言わ れ る人 達 は。 は じめ を 取 ってく だ さ い。 三村 斎 藤 義 寛 先 生 のお 父 さ ん の頃 は ? 故 元道 医 会 長 斎 斎藤 ︵ 義 ︶ う ち の父 ︵ 常 盤 は平 成 十 一年 廃業 ︶ ︵ 日頭 く ら いな ら 、折 角 の御 指名 な 飯 島 立 藤 義 太 郎 ︶ は常 盤 に入 り 浸 り 、戦前 。 -15- と は出 来 な か つた ろう な 。 ので、音 頭 を 取 ら せ ても ら いま す 。皆 さ ん、大 いにお喋 り く だ さ い。乾杯 ! 飯 島 斎 藤 先 生 の親 父 さ んは 、金 も あ り 、 地 位 も あ り 、常 盤 辺り だ ろう ね 。親 父 さ や って いる人 は色 が居 た ね 。 常 盤 三村 所 謂 中央 町 を 中心 に、当 時 の室 三村 私 が室 蘭 に来 た 頃 には芸 者 さ んと ん は解 ら な いけ ど 、 開業 し てパ アー ッと 蘭 と いう 町 が経 済 成 長 の真 直 中 に、特 に 不明・飯島三男 高橋則夫・森川 亮 。 木下 博・神島茂夫・タヅコ・大久保洋平 ど ・ ・ ・チ ・ ンコ ち奴 照 代。 浩 ョ ,H上 美 斎藤修弥 敏晃・ユ キコ 東 平成11年 1月 15日 室南市医師会新年会 来 て 、沢 山 お 医 者 さ ん が 居 る 中 で 、ス テ ー 立 木 出 ま し た ね 。 若 い時 に市 立 病 院 に ありますか。 三 村 常 盤 の新 年 会 に お若 い方 出 た こと と いう のが 、大 昔 の話 です け ど ね 、 そ っ 一本 の線 香 が灯 る時 間 飯 島 あ れ は昔 、 世 代 と し て判 ら な いん です け ど 、 生 田 だ いた い線 香 代 と いう のが我 々 の 木 下 ニ ューブ ラザ ーと か ね 。 の公 園あ る でし ょ、あ そ こ に白 鳥 ク ラブ と いう のがあ って、女 給 さ んが 沢 山 居 て。 斎藤 ︵ 義 ︶ 白 鳥 ク ラブ に行 った よ 、今 立 木 無 いです ね 。 当 時 の市 立 病 院 の給 料 か ら す ると 、何 日 芸者 さ んと 遊 ば し てく れ ると いう のが 、 生 田 いま ま で の先 輩 たち の話 です と 、 す 。我 々は 入 った こと は な いけ ど 。 出 てき た け ど 、本 当 に通路 があ った ので 一時 上 が崩 れ て入 口が 木 下 本当 です 。 甲︶ 本 当 にあ った ん です か 。 斉藤 ︵ よう に、地 下 通路 を 設 け たと の事 です 。 出 れな か ったも のね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ あ の頃 金 が無 く て俺 た ち は 飯 島 エー ワ ンと 木 村 屋 はね 。 木 下 あ れ は キ ャバ レーだ ね 。 飯 島 エー ワ ンね 。 が有 った でし ょ。 斎藤 ︵ 義 ︶ 北 海 道 で 一番 大 き いと こ ろ 軒 く ら い有 ったと 思 いま す け ど 。 三村 ク ラブと いう と こ ろは 中央 町 に十 薇 館 だも の。 木 下 カ ウ ンタ ー に居 た のが、有 名 な者 し よ。 飯 島 先 生 来 た 時 、 ニ ュー ブ ラ ザ ー で か ら始 ま った ら し いです け ど ね 。 三村 常 盤 が話 の中心 にな って いま す け 中央町界隈 ジ の上 で色 々芸 を し て 、 昭 和 六 十 年 代 で した ね 。 甲 ︶ 市 立 病 院 が 移 った の は 何 年 斉藤 ︵ だ った の です ね 。 ど 、 中央 町 の街 場 の奇 麗 な女 性 が マ マさ で す か 。 立 木 先 生 が 来 た 時 に は 古 い所 立 木 平 成 九 年 に今 のと こ ろ に 移 り ま し た 。 昔 の市 立 病 院 は 常 盤 と 地 下 通 路 が 笑 い︶ 分 と いう か 、 何 力月 分 な ん です か 。︵ 飯 島 スポ ンサ ー 付 か な け れ ば 行 け な -16- ん にな って居 ま し た よ ね 。 飯 島 でも 直 ぐ に バ バ さ ん に な った 。 か な り 高 いも のな ん です か 。 か った 。 ヽ 路 卜 呻弟をの あ った と 聞 き ま し た 。 飯 島 通 に言 わ せ ると変 な飲 み屋 でばら 三村 お若 い方 たち は ク ラブと か 、 キ ャ ︵ 笑︶ れ る より は 、ず っと 安 いと 。 同 じ時 間あ バ レ ー に行 った こと有 り ま す か 。 イ ■ュ _ 木 下 戦 時 中 に常 盤 が臨 時 の病 舎 にな る た り飲 ん で、線香 代 の方 が安 いと 。 ゅ 一 三村 あ れ は憧 れと いう か 、我 々 一般 人 斎藤 ︵ 義 ︶ 市 立 病 院 は安 か ったも の。 ら です ね 、少 しず つ上 が って来 た のは 。 ほと んど 差 が無 か った 。だ いぶ遅 れ てか 来 た 時 には凄 い安 か った 。大 学 の給料 と 木 下 やはり 昭和 四十 七年 に市 立 病 院 に じ ゃ、 中 央 町 に飲 み に行 け な か った 。 昭和 四十 二年 ま で居 た け ど 、当 時 の給 料 斎藤 ︵ 義 ︶ いや、違 う よ 、市 立 病 院 に 先 生 は大勢 通 つた のでは 。 日参 し た先 生 も いた 。昔 は 、市 立 病 院 の 市 立 病 院 の先 生方 は 、懇 ろにな った店 に 市 立 病 院 は 、 ま さ しく 中 央 町 だ つた ので、 僕 も 連 れ て行 って貰 いま し た が、 み んな 病 院 の先 生 が 通 い詰 め る スナ ツク です か 、 街 場 だ った よう な気 が しま す けど 。市 立 三村 街 場 の飲 み屋 さ んは 、今 と は違 っ て、勤 め帰 り の人 たち が 、飲 ん で騒 ぐ 、 一回も 中 央 町 の飲 み屋 に行 った こと無 い。 な いです か 。 全然 。行 った こと 無 い。 斎藤 ︵ 義 ︶ いや、 り 羽振 り を 効 か せ な か ったと 言 いな がら 、 ド ク タ ーと いう のは街 場 でも てた んじ や 三村 経 済事 情 は そう いう わ け で、あ ま た。 令 を も つて、会 社 の中 全 部 回 った 。 そう し て、係 長 の給 料 を見 た ら 、 一番 下だ っ 遇 にな った 、係 長 待 遇 にな ったと いう 辞 の佐 藤 先 生 が医 長 だ った 、 や つと係 長 待 飯 島 昭和 三十 年 こ ろ、新 日鉄 の耳鼻 科 が大 き いので、 木 下 勤 務 年数 が基 準 だ か ら 、年 数 の差 斎藤 ︵ 義 ︶ 年 取 って いるか ら 。 一 局か った 。 飯 島 当 時 は掃 除 のおば さ ん の方 が給 料 ま り変 わ ら な い。当 然 飲 み屋 に行 け な い。 清 掃 のおば さ ん の給料 も 医 者 の給料 も あ し ょ、 そ れ か ら変 わ って いな いのだ か ら 。 食 え るだ け の給 料 で全 部 一律 にな った で 斎藤 ︵ 義 ︶ 洗 脳 さ 、 戦 争 終 わ つた 時 に た のかね 。 木 下 どう し て、ああ いう 給 与 体系 だ っ 木 下 ただ 、忘 年 会 な ど で手伝 いに来 た 芸者 は揚 げ れ な か った け ど 。 医 で来ましたけど、 飲 める給料 でした。︵ 笑︶ 入 が上 が って来 た のが 。 民皆 保 険 で色 んなと こ ろ でド ク タ ー の収 木 下 五十 年 過ぎ た こ ろか ら です ね 、 国 が った のは 。 飯 島 昭 和 五 十 年 頃 です か 、給 料 が 上 は 昭和 五十 三年 に室 蘭 の日銅 病 院 に来 ま の圧倒 的 な のは お医 者 さ ん です よね 、僕 は安 か ったと 言 わ れ るけ ど 、今 は経 済 力 三百 七 十 三名 、当 時 のお医 者 さ ん の給 料 云 わ れ て いるが 、 つい 一年 前 の会 員数 は 十 名 でした 。今 は室 蘭 はも う 九 万 四 千と そ の当 時 の医 師会 員数 は百 三十名 、 百 四 四十 年 代 です ね 、十 六万 、十 人 万 とも 、 斉藤 ︵ 甲︶ 室 蘭 の 一番 人 口 が 居 た のは で払 う 奴 はあ まり も てな い。 木 下 付 け れ るお客 さ んを 優 先 で、現金 かな け れば 。 飯 島 医者 だ って言 っても 、金 持 って い て いたも 。虐 げ ら れ た時 代 。 グ レード が違 う も 。我 々は遠 く か ら眺 め 昔 の給 料 よりも 新 日鉄 の職 員 の方 が 、格 が 上 。 新 日鉄 な んか は 、顔 だ も の、名 前 言 え ば 、 時 に、 そ の後 に近 く の飲 み屋 に行 った と 斉藤 ︵ 甲 ︶ 来 た 頃 は 、 日 銅 病 院 に出 張 した 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 我 々 の給 料 と いう のは清 掃 あ と 会社 で払 ってく れ る。だ か ら 、全 然 、 木 下 日銅 、新 日鉄 のボ ー ナ スが立 つと いゝ つ。 のお ば さ んと 変 わ り な い。 -17- か 、直 接 揚 げ る こと は無 いね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ いま は 中 島 も 街 ら し く な っ 立 木 良 か った です ね 。 固定 し た のは平 のでし ょ。 立木 先 生 は来 ら れ た 頃 は良 か った 飯 島 一 給 料 は ほ んと に低 か った 。 年 く ら い前 は凄 く 賑 わ って いま した ね 、 立 木 中 島 町 、 昼 間 な ん です けど 、 二十 ん でし ょう か 。 う か 、ど う いう 風 に感 じ て いら つし ゃる 三村 今 、 現 代 の皆 さ ん は街 の風 土と い 残 ってお った 。馬 車 を 引 いて いる馬 が糞 おり ます ん で。確 か に子 ど も の頃 も 、 周 神 島 私 は生 れ てか ら 、ず つと あ そ こ で、 飯 島 神 島 整 形 外 科 の辺り は 。 澤 山 そう ね 、昔 は。 立 木 東 町 の方 は栄 え て いた の です か 。 中島町界隈 成 七年 でし た けど 、 でも 医 者 にな って直 九 井 の交 差 点 な んかも 、 ほ んと に スク ラ ンブ ル交 差 点 にな って いて、休 み の日な を ボ タ ッ、ボ タ ッと落 と し て い った のを た けど、 ぐ に来 た 頃 は 、市 立 病 院 は特 別 給 料 が悪 んか 、当 時 流行 った竹 の子族 の若 者 が沢 覚 え て いま す 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 先 生 が 来 る前 の市 立 病 院 の いこと で医 局 でも 有 名 で、 み んな誰 も 行 山 線り 出 し て いて、札 幌 の中 心 部 みた い 三時 、飲 んだ 時 代 があ った です ね 。今 、 生 方 と ご 一緒 した こと有 り ます けど 。随 分 お世 話 にな り ま し た 。 結 構 、夜 、 二時 、 三村 私 の若 い頃 は よく 連 れら れ て、先 ぐ に判 る。 ︵ 笑 ︶ 悪 いこと 出 来 な いよ 。 飯 島 士 戸が大 き いか ら 、 ど こに居 ても直 ても タダ じ ゃ。 遊 ぶと 云 っ 義 ︶ 金 が無 いか ら ね 、 斎藤 ︵ 笑︶ か ら ね 。 でも 、私 は駄 目 だ よ。 ︵ 三村 品行 方 正 だ った 。 斎藤 ︵ 義 ︶ う ち の親 父 は 遊 び 人 だ った 先 生 のお 父 さ んは凄 か った 。 左 側 は谷 地 だ った 。 飯 島 道 路 一本 で、東 室蘭 駅 か ら行 くと 無 か った ね 、 湿 地帯 で。 駅 に降 り て、新 日鉄 病 院 ま で の間 、何 も 木 下 学 生 の時 に実 習 に来 た時 、東 室蘭 の間 ね 、何 も 年 か った よ。 斎藤 ︵ 義 ︶ 東 室 蘭 の駅 か ら 新 国 鉄 病 院 立 木 そう な ん です か 。 て何 も 無 か った 。 義 ︶ 昔 は シ ベ リ ヤ街 道 と 言 わ れ 斎藤 ︵ う ね 、 三十年 前 、 四十 年 前 の中 島 町 は 。 な いです 。 そ の前 はど う だ った のでし ょ な 雰 囲気 あ り ま し た け ど 。今 は見 る影 も 神 島 ま だ ま だ 栄 え てお って、確 か に人 木 下 中 央 町 の平林 紙 店 のと こ ろね ① 処 に住 ん で いた の です け ど 。 中 央 町 のお爺 ち ゃん ︵ 神 島 辰夫 先 生 ︶ の 中 央 町方 面 が栄 え てお り 、僕 も 三歳 ま で 神 島 でも 、僕 の子 供 の頃 は 圧倒 的 に、 向 こう が室 蘭 、 こ こは室 蘭 では な いと 。 確 か に子 ども の頌 、汽 車 で通 ると 室 蘭 は 違 う ん です よね 、東 室 蘭 があ って、 そ の ど 馬 がボ タボ タと いう 話 は聞 き ま し た 。 斉藤 ︵ 甲︶ 家 内 が 室 蘭 で、 西 口 です け り はあ そ こも や はり谷 地 つぽ いと こ ろが 三村 昔 の人 ほど 豪 快 さを 持 つた 、斉 藤 笑︶ き た がら な か った 。 ︵ 体 力 も 落 ち ち ゃ って出 来 ま せ ん が 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 両方 谷 地 でし ょ。 と ぶ つか ら な いと 歩 け な いよう な 、 そう 中 央 町 の思 い出 飯 島 先 生 、酒 強 か った 。 飯 島 艦砲 射 撃 の跡 があ り 。 -18- の時 には ワー ツと 蟻 の様 に凄 か った 。 飯 島 輪 西 駅 か ら新 国鉄 正 門 ま で、出 勤 現金 で出 し て いた と 云 って いま した ね 。 う 人 達 が 、ど っと 押 し寄 せ た 。時 間外 は た か ら 、宵 越 し のお カネ を 持 た な いと い 木 下 会 社 も 日給 で払 って いた時 代 だ っ ら い、混 雑 し て いま し た 。 怒 ら れ ると いう 羽目 になり ま す 。 そ れぐ ロチ ョ ロし て いると 迷 子 にな り ま し て、 いう と こ ろが何 力所 かあ り ま し て、 チ ョ 港 湾 荷 役 って居 な いも んね 。 あ れ 、相 撲 斎藤 ︵ 義︶ お そらく 深 く した んだ ろう ね 。 深 く し た ん です か ね 。 神 島 上国は浅 か った ん です ね 。浚 渫 し て 搾 で逗 んだ 。 たち が 居 な い。沖 に船 が止 ま って いて、 港 湾 荷 役 は ゼ ロ。燿 に荷 物 を 肩 で逗 ぶ人 港 湾 荷 役 と いう のがす ごく 居 た 。 いま は でし ょ、 タグボ ート が引 いてく るな ど 、 斎藤 ︵ 義 ︶ 五日は 沖 に船 が 止 ま って いる も 船 で溢 れ て いた のが 、 居 な く な った 。 甲︶ 函 館 も 同 じ です よ ね 。函 館 斉藤 ︵ ツンと 岳 る位 だ よね 。 木 下 新 国鉄 、 日銅 への船 が ポ ツ ン、 ポ 斉藤 ︵ 甲︶ 今 、 港 に船 が 居 な いん です よ。 斎藤 ︵ 義 ︶ 船 員 いな い。 いた ん です ね 。 仕 事 し て いて、 そ れ で、 中央 町 は栄え て 斉藤 ︵ 甲 ︶ そ し て船 の関 係 者 の人 達 が、 も し れな い。 木 下 石炭 積 み出 しが ま だ残 って いた か たく さ ん の船 が港 に居 ま し た 。 港 です ね 。港 の船 が、僕 が来 たと き には、 ま す けど 、 一番 変 わ った なあ と 思う のは 五十 三年 に来 た 時 以来 、 三十 年 く ら い居 甲 ︶ 人 も そう です け ど ね 、 昭 和 斉藤 ︵ 三村 街 の衰 退と と も に、 いろんな店 が あ れ の力 だ か らね 。 る位 な ら 、あ の時 の代議 士 、篠 田か い、 飯 島 当 時 、苫 小 牧 にあ んな掘 って港 造 木 下 上国は 石炭 も そう だ つた ん です ね 。 飯 島 パイ スケと いう 。 事 は昔 あ って、今 は な い。 六十 キ ロの荷 物 担 いで、船 ま で細 い板 を 渡 って、落 ち て死 ぬ んだ よ 、あ あ いう 仕 あ あ いう 事 を す ると 云 った って、 居 な い、 な い、港 湾 荷役 は大 変 な仕 事 だ よ 。 いま 斎藤 ︵ 義 ︶ あ る意 味 で良 く な った んじ や 大 し たも んだ った 。 飯 島 八幡 さ ん のお祭 り と 云 った らね 、 が や る のは臥 目 な ん でし ょ。 そ んな に出 て居 な いも んね 。今 は香 具 師 木 下 夜 店 の数 も 昔 は凄 か った け ど 。今 斎藤 ︵ 義 ︶ 蘭 西 が多 いんじ やな い。 と 聞 き ます け ど 。 です よ ね 。各 町内 のお祭 り が盛 んだ った 者 だ った です ね 。清 水 町 の栗 林 邸 も 豪 勢 立 木 昔 は栗 林 商 会 が 日本 屈指 の海 運業 には 一杯船 が泊 ま って いた 時 代 があ った 。 んな 付 いて行 け な いと いう か 、室 蘭 の港 三村 あ ま り にも 時 代 の変 化 が急 で、 み 取 り の若 の花 、港 湾 荷役 だ った 。 19軸 呼 -19- あ れ は や っぱ り 、昔 東 町 の医 師会 に出 て 木 下 取 り 得 は 、室 蘭 新道 が出来 た こと 、 常 に残 念 です け ども 。 後 退 し て行 く と いう のか 、長 崎 屋 、九 井 、 代 表 的 なも のが み んな後 退 し て行 き 、非 か った ん です か 。 飯 島 親 父 さ ん は そ んな に飲 み に行 か な 綺 麗 な女 性 が中 島 にお店 を持 ったと か 。 院 の先 生方 と良 く 中央 町 に行 き ま し た 。 三村 僕 も そ の狭 間 に居 た ん で、市 立 病 結 構 人 が多 く て、 さ ん みた いなと こ ろは有 るけ ども 、食 ベ 最 近 は食 べる処 が少 な いです ね 。 焼鳥 屋 笑︶ 言 って段 々閉 ま って来 る ん です よ 。 ︵ ち やん 達 が多 く て、一 肩 が 痛 く な った と す けど 、経 営 し て いる人達 が高 齢 な おば 最 初 は 一寸 食 べれ る処 が沢 山 有 った ん で い若 いな 。 く る のに、中 央 町 か ら長 崎 屋 の前 の千歳 神 島 私 は小 さ い頃 、 孫 のか わ い い爺 さ 飯 島 一 二村 先 生 が そ んな年 上 だ と 知 ら な か った 。 ︵ 笑 ︶ でも ね 、 昭 和 三 十 年 代 の れ る処 が少 なく な ってき て いる。 んぐ ら いに しか覚 え て いな いん で。 後 半 に、 いわ ゆ る幌 別 郡幌 別 町 の頃 の幌 三村 親 父 は 、酔 っ払 い運転 し た位 だ か しか な く て、 三村 一 兵快 な先 生 でした よ。良 く ね 、僕 別 町 で開業 し て いた皆 川英貞 さ ん 、狩 野 交 差 点 が渋 滞 で全 然 、 ニ ッチ モサ ッチ モ 飯 島 あ の新 道 が出 来 る前 に、室 蘭 ま で を 呼 び つけ て、 こ こに座 れ 、僕 に黙 々と 正直 さ ん、深 瀬 政俊 さ ん、伊 藤 一 貝さ ん、 昭和 ︶ 三十 年 代 前 飯 島 若 い先 生方 は ︵ 飲 み に行 って いた澤 山 先 生 も 苦 労 し て居 お酒 を 注 いでく れ た 。飲 め 、飲 めと 、 よ そ れ か ら生 き てる大 岩 昌 生 先 生 、 あ の連 後 です か 。 た んだ か ら 。 く そう いう 思 い出 があ る。 中 は そ れ ぞれ診 療 が終 わ ってか ら 、 み ん ら 、行 ったと 思 いま す よ 。 木 下 でも 夜 な ら大 丈 夫 だ け ど ね 。ち ょ 飯 島 H 貝禄 があ った か ら ね 。 な 車 で中 央 町 ま で飛 ん で いた 。 昭和 三十 行 か なく て、何 回も 講 演 会 遅刻 し て、 司 う ど 夕 方 五時 、 六時 な ら 、渋 滞 で。 ︵7 私 は室 蘭 に来 て十 年 な ん です よ。十 五年 頃 か な 。 ▲フ 二十 九年 です 。 飯 島 飲 み に行 く んだ か ら 、自 分 で車 を 年 と 言 っても 長 い歴史 か ら言 う と 、 つい 最 近 の十 年 な ん です け ど 、 こ の十 年 でも 三村 帰 り は飲 酒 運 転 です か 。 三村 神 島 先 生 のお爺 ち ゃんは豪 快 な人 運 転 す るわ け でも な いか ら 、当 時 車 も 無 随 分変 わ ってき て いると 思 いま す 。市 立 笑 ︶ あ の頃 お ま わ り 飯 島 飲 酒 運 転。 ︵ 飯 島 そ の話 は聞 き ま し た 。 か った ね 。 病 院 で勤 務 のた め中 央 町 三 丁 目 の アパ ー 会 し なく ては いけ な い事 も あ り 、あ そ こ 野 尻 私 最 初 に来 た のが、 昭 和 五十 七年 、 さ んは 、捕 ま え な か った 。 三村 若 いな 、考 え れば 、僕 ら より す ご 五十 八年 です 。 そ の時 に日銅 記 念 病 院 に ト に住 ん で います けど 、 そ こ に決 めた 時 甲 ︶ 登別 に飲 む 処 が無 か った 。 斉藤 ︵ だ った ん です よ 。 ご 一緒 した事 有 るけ ど 。 居 ま し て、 そ の後 平 成 元年 か ら新 日鉄 病 には 、 こ こはま だ 店 は 沢 山有 る し、何 の 斎藤 ︵ 義 ︶ 中島 町も 無 か った 。 は酷 か った です ね 。曲 がり く ね った 一本 院 に移 り ま し た 。 日銅 記 念 病 院 に居 た時 不自 由も し な いか なと 、決 め た ん です ね 。 力 った し 。 木 下 あ れだ け は室 蘭 の発 展 のた め に良 は、 よ く 中 央 町 に飲 み に行 って いま し た 。 20 そ んな こと は し て いな か った 。 た か ら 、俺 と 同 じ で真 面 目だ った か ら 、 飯 島 堀 尾先 生 の親 父 さ んは真 面 目だ っ 生 ︶ も 豪 快 に飲 んだ ん では 。 三村 堀 尾 先 生 のお 父 さ ん ︵ 堀 尾行 彦 先 て いて、 そ れ が 一番 覚 え て いる事 です ね 。 時 に は、 札幌 と 同 じ位 に色 んな物 も売 っ 見 る影 も な い位 で、九 井 が中 央 町 にあ る て人 が多 か った な あ と 思 いま す 。 いま は 住 ん で いま し た け ど 、当 時 は景気 が良 く 柳 川 子 ども の頃 は 五歳 位 ま で、輪 西 に 木 下 野崎 ね 、残 って いるね 。 木 下 ヽ ミヤ モリさ ん でな か った かな 。 飯 島 せ心れち やう よね 。 て云 った か 。 フラ ン ス料 理 の。 木 下 当 時 の三階 にあ り ま し た よね 、何 飯 島 あ のレ スト ラ ンも ね 。 な い。 一軒 か 二軒在 った んですよね。今 は何も 木 下 蛯 天 だ ね 、 中 央 町 に レ スト ラ ンが う ね 。 昔 は 。 昔 の て ん ぷ ら 屋 、 何 て云 っ た っけ 。 く と 云 った ら 、 ほ ん と 子 供 喜 ん だ で し ょ 飯 島 つ つみ 屋 と 云 った か い。 九 井 に行 お も ち ゃを 買 って貰 いま し た 。 柳 川 上日、 九 井 の前 のお も ち ゃ屋 さ ん で、 立 木 五十 数名 です ね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 私 、 イ ン タ ー ン や つた 時 に、 そう す ると や っぱ り飲 む ね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 今 、製 鉄 病 院 の医 者 は何 人 。 澤山 どう し ても 仕事 が 遅く な るか らね 、 飯 島 飲 んだ よな 、 よく な 。 立木 院内 では飲 ま な いです ね 、 流 石 に。 う 事 は無 いん でし ょ。 飯 島 勿論 、勤務 の時 に医 局 で飲 む と い ね 。誰 と は言 わ な いけ どと 。 てく る奴 が居 たと 、 要す る に朝 帰 り だ よ 行 く時 、 出 て行 く 、見 た顔 が ノ コノ コ帰 っ 飯 島 カ ラオ ケボ ック スな ん て無 か った でや って居 ま した ね 。 木 下 中央 町も 、昔 は店 は 二時 く ら いま ず っと そ こ に居 る みた いです ね 。 子供 の頃 堀 尾 子 ども の頃 の僕 の思 い出 は 、九 井 が 中 央 町 に あ って、あ の頃 よ く 連 れ て 飯 島 も う 一軒 は何 だ った け 、浪花 か 。 二十 人位 。 昭和 二十 五年 。 日本 鎮 雄 先 生 しね。 ︵ 笑 ︶ 本 庄 先 生 が 朝 、 犬 の散 歩 に 行 って貰 って、七歳 、 人歳 の時 にお子様 木 下 浪 花 は消 え ま し たね 。 と 一緒 だ った 。あ の人 達 、受 験 の神 様 で ね 、 国家 試 験 のヤ マ当 てる のに見 事 だ っ 若 い方 が夜 通 し で飲 む な ん てあ ま り無 く 三村 趣 味 の多 様 化 と いう のでし ょう か 、 会 や る でし ょ、偉 い人達 は 理事 会 と 称 し 飯 島 回本 先 生 は ね 、 や はり 、常 盤 で宴 最 近 の飲 み会 斎藤 ︵ 義 ︶ 僕 が行 った のは野崎 だ よね 。 ラ ンチを 最 上 階 のレ スト ラ ン で食 べた事 です 。 斉藤 ︵ 甲︶ そ れ は ど う や つて中 央 町 に 堀 尾 蒸気 機 関車 でな か ったか な 。 レ ス ト ラ ン の前 にジ ュー ス の販 売 機 が在 って、 な った のでし ょう か 。 た 。戦 艦大 和 の乗 員 だ った 。 て っぺん の透 明 な ド ー ム の中 にジ ュー ス て芸 者 と 一緒 に向 こう の部 屋 に行 く 、大 広 間 に我 々残 って、酒 が 一杯 余 つて いる、 行 く ん です か 。 が噴 水 の様 に湧 き 出 て いて、十 円 入 れ る 国本 先 生 は勿 体 な いから 全 部 空 けち や い 立 木 無 いです ね 。 最 近 、病 院 の宴 会 も 二次 会 は カ ラ オ ケ ボ ック ス に行 って、 と 紙 コ ップ で飲 め た 。感 激 でし た 。 -21- 笑 ︶ ま だ 、 あ の当 時 は ま す か ら ね と。 ︵ 勿 体 な い、勿 体 な い、 写真 持 ってく れば よか つたな 、芸者 たち が写 って いる や つ。 若 い人 の減 少 立 木 やはり 、若 い人 が少 な いです ね 。 室 蘭 工大 の近所 が 一番 。 やはり若 い人 が 義︶ 白 鳥 のゴ ル フ場 は コン ペじ ゃ 斎藤 ︵ 言 った ら 、全 然違 った 。 木 下 本当 に企業 城 下 町だ った んだ け ど 、 な か つた ら 、行 け な か った 。絶 対 入 れ な い。 予約 は新 日鉄 ば かり だ った か ら 。 居 るか ら 。 勤 務 医 の今 昔 飯 島 先 生 は 開業 し た の い つ。 甲 ︶ 昭 和 六 十 一年 。室 蘭 のピ ー 斉藤 ︵ ク は 昭和 四十 年 です ね 、東 京 オ リ ンピ ツ と 健 闘 し て いる のは 、 北見 な ん です 。 こ 木 下 新 国鉄 の広 い工場 の中 で、働 いて いる人 は多 か った 。 斎藤 ︵ 義 ︶ いま は そ んな に居 な いよ 。 -22- 前 に疫 学 調査 みた いなも のを 調 べた こと が有 る ん です けど 、十 八歳 過ぎ ると 特 に れ が意 外 でね 、平 成 七 年 に室 蘭 と 北見 は ク の終 わ った 頃 、面白 いのは苫 小牧 と ク ロスす る。苫 小 牧 が伸 び て行 って、室 蘭 神 島 そ れ は こ こか ら 大 学 に進 学 す ると ク ロスし て いる。 人 口 では 、 北見 は ジ リ 女 の子 の数 が 、市 の人 口動 態 で、 ガ ク ッ いう 事 では な く 、就 職 と か でも外 に行 く ジ リ上 が って いるんだ け ど 、室 蘭 は ジ リ が衰 退 。 と いう 事 です か 。 ジ リ下 が って いる。 北 見 も 室 蘭 も 国立 大 と 減 る ん です よ ね 。み んな 、ど っか に行 っ 立 木 どう な ん でし ょう ね 。多 分 、 そう 学 あ る ん です け ど ね 、室 蘭 に来 た と き は 、 斎藤 ︵ 義 ︶ 反対 にな った 。 だ と 思う ん です よ ね 。 こ の街 は新 国鉄 と 日本 製 鋼 所 、 日本 石油 ち やう ん です ね 。 神 島 働 き 口が無 い。 斉藤 ︵ 甲︶ 道 内 の都 市 で見 る と 、意 外 斎藤 ︵ 義 ︶ だ か ら 出 稼 ぎ だ も ん。昔 と か った 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 小 学 校 は み んな統 廃 合 。 違 う ね 、出 稼 ぎ に来 た人多 か った けど 、 今 は仕事 が無 いか ら出 稼 ぎ に行 っち ゃう 。 飯 島 ゴ ル フ場 に行 った って、新 日鉄 と が あ る か ら 、衰 退 す る と は 想 像 でき な 木 下 技 術 持 って いる人 は 、 み んな出 て 行 っち つ。 , 立 木 国立 大 学 も 有 るん です け ど ね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ いま 一番 、景 気 が 良 い のは ヤた町 ね 、忙 しく て、忙 し く て、 も 、今 の先 生 方 の話 聞 く と 、凄 いです よ さ ん のんび り 診 察 や つて いた んだ け れ ど 斉藤 ︵ 甲 ︶ 僕 が 来 た 頃 の三 大 病 院 の皆 のに、 こんな に多 く し て良 いのか い。 らね 、全 部 三大 病 院 が人 口半 分 にな った 院 に居 た 頃 は医 者 は 二十 人 ち ょ っと だ か 銅病 院 、製 鉄 病 院 にし ても 、俺 が市 立 病 斎藤 ︵ 義 ︶ 上日に比 べ て、市 立 病 院 、 日 木 下 需 要 が有 ると いう 事 だ ね 、 の需 要 を 増 や し て いる。 だ け は衰 退 しな いです ね 、高 齢 化 が医 療 斉藤 ︵ 甲︶ 衰 退 す る街 です け ど 、医 療 行 か な いで良 く な った と 云 って いま した 。 業 し た時 、息 者 さ んが線 路 の向 こう ま で き ま した ね 。だ から 、俺 と 大 岩 先 生 が開 いう 事 は無 か った けど 。 開業 当 時 は結構 のと こ ろは はず れ なも ん です か ら 、 そう には 、 二百 人 、 三百 人 来 たと かね 。我 々 飯 島 上日、 イ ン フル エンザ が流行 った時 か った 。 いも の、新 日鐵 な んか 二十 人 位 し か いな 位 診 たと か 。 斎藤 ︵ 義︶ だ って、病 院 の医 師 が 少 な か 。児 玉直 彦 先 生 に聞 く と 、 一日 二百 人 立 木 昔 は息 者 さ ん の数 も多 か った です か った よね 。 家 が少 な い、 そう した ら高 く な る。 そ れ で、白 鳥 台 に新 し い宅 地 を造 って、 そ つ 澤 山 上国か ら でし ょ。場 所 が少 な いし 、 神 島 そう みた いです ね 。 よね 。 立 木 な ぜ か 、室 蘭 家 賃 高 いと 云 いま す 木 下 そ れ は将 来 は何 か あ るか 判 ら な い。 斎藤 ︵ 義 ︶ そ れ は判 ら な い、 無 く 、ど んど ん減 つて いく だ け だ ね 。 三村 > ﹂れ以 上 室 蘭 は 人 口が増 え る事 は 心 が あ って、 中 島 町 に 中 心 が 移 った ら も つと 、も つと 伸 び るか と 、意 外 と 伸 び そ れ で広 がり が無 い。最 初 は中 央 町 に中 ち に行 って貰 おう と 思 った ら 、 そ こ に行 く のは嫌 だ と 、 で結 局 縮 小 、縮 小 にな っ 三軒 、軒 を連 ね て いる街 は無 いん じ やな 斎藤 ︵ 義 ︶ 無 いよ、 こ ん な 巨 大 病 院 が 適 な 室 蘭 だ と 思う ん です け ど ね 。 呼 ば な いのか 、 そう 思う のです け ど 。快 暑 く な ら な いと こ ろ、 な ぜ室 蘭 に人 口を 三村 室 蘭 は 一番 日本 で、素 晴 ら し い、 神 島 ハ ックが無 く なり ま し た ね 。 す ね 、白 鳥 台 は 。 立 木 生 鮮 食 品店 が無 く な った みた いで 計 画 が臥 目だ った と 聞 いており ます 。 丁 平 に造 れば 、 ま だ良 か つた 。 そ つか ら -23- な いのは残 念 だ け れど も ね 。 木 下 な ん でそ んな に忙 し いのか ね 。 斉藤 ︵ 甲 ︶ な ん で そ ん な に忙 し い のか 。 飲 み に行 く 暇も な いみた いで。 斉藤 ︵ 甲 ︶ 若 い先 生 は 忙 し く て、飲 み 斎藤 ︵ 義︶ 街 は 綺 麗 に な った ね 。 景 気 今、 た 。 そ れ で人丁 平 にな った 。 最 初 か ら 人 に行 け な いそう です よ 。 悪 いと 云 ってるけ ど 、う ち の近所 は新築 ば つか り だ よ 、誰 が住 ん で いるんだ ろね 。 立 木 他 の街 で こんな の無 いです よね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ そ こが 変 な んだ よ ね 。ど う し てだ ろう 。 人 口半 分 な のに。 神 島 空 いて いる みた いです ね 。 飯 島 アパ ートも 空 いて いる ん でし ょ、 飯 島 偉 い人 が真 面 目 な んだ よ 。 木 下 息 者 さ ん沢 山診 た け ど 、医者 少 な 斎藤 ︵ 義 ︶ ガ ラガ ラ空 い て いる、風 呂 ? 木 下 土 地 の形 が発 展 し にく いんだ よね 、 八 よね で狭 い幅 で、 沢 ば っか りあ つて、 住 み 易 い ん です け ど 、 み んな向 こう に移 った 。 三村 新 日本 石油 のト ップ も ここ に居 た う 。所 長 な んかも 東 京 し か見 て いな いか つ。 正 なあ っち に行 ってしまう か ら 、潰 れち や れど も 、新 日鉄 も 合 理化 で偉 い人 は み ん 粋 月 だ の云 っ 飯 島 さ っき の、常 盤 だ の、 ても さ 、普 通 の街 な ら 、あ る程 度 も つけ も 付 いて いな いか ら さ 。 三村 ∼ ﹂んな こと を 云 ってし まう と 怒 ら メリ カさ んと 云 って いた のと 同 じ 。 飯 島 昔 の総 理大 臣 が アメリ カさ ん、 ア ると 街 は衰 退 す る。 か って発 展 し てき た か ら 、 経 済 が停 滞 す 斉藤 ︵ 甲︶ あ ま り にも 大 企 業 に寄 り か 三村 大 企業 が全 て低 迷 し てく るか ら 、 は大 企 業 は無 いです か ら 。 新 日鉄 、 日銅 、新 日本 石油 、大 企業 の城 斎藤 ︵ 義 ︶ でも ね 、あ の頃 は 新 日鉄 が 大 企 業 が発 展 し てく れな いと 、 三村 街 の繁 栄 と いう のは 、 ま さ しく 、 義 ︶ 俺 が 来 た 時 は 、室 蘭 最 高 潮 斎藤 ︵ の時 だ った 。 の後 継 いで戻 ってく る んだ から 。 飯 島 そう す ると 、先 生 方 は偉 いね 、親 日鉄 の職 員 は少 な いんじ ゃな いか 義 ︶ 室 蘭 に将 来 住 む な ん て、新 斎藤 ︵ 年 取 った ら室 蘭 に住 ま な いと 。 三村 そ れ ぞ れ の人 生 設 計 にし た って、 居 な いか ら ね 。千 葉 県 と か に。 三村 反 対 だ も んね 、 飯 島 自 衛 隊 が来 れば 、 反対 、 反対 と や る んだ わ 、 いま は無 理 だ わ 。 事 で。 人も 来 ま す し 、色 んなも のが潤う と いう う 事 であ れば 、出 来 る んじ やな いです か 。 一寸 立 ち 寄 ってと 云 備 の基 地 です かね 、 神 島 いま 軍港 では無 く ても 、 な んか整 れ な い。 そ れを 満 たす こと が出 来 な いと 軍港 にな と 飛行 場 が無 い。 要件 が七 つ、 入 つあ る。 て生 き る んだ った ら 、何 が 要件 か と 云う れ るかも し れ な いけ ど 、室 蘭 が 軍港 と し 下 町 な ん です ね 、他 の函館 と か 、北 見 に 斎藤 ︵ 義 ︶ み ん な 所 長 な ん て、室 蘭 に 偉 く 見え て、相 対 的 に我 々が低 か った 。 神 島 基 本 的 に世 の中 で、 日本 が戦争 す ん です か ね 、 し な いんだ った ら 、自 衛 隊 ると いう のはあ り 得 な いです よね 。す る 市 立 病 院 の医 者 な ん て、誰 も 相 手 にし な 斉藤 ︵ 甲 ︶ 室 蘭 と いう 土 地 は 特 殊 で、 の需 要 を 。 -24- 汁 喜 ▼IW :坤 く いよ ね 。 木 下 毎 日 三 〇度 超 え て いたら 、住 み に 北海 道 が住 み やす い。 斎藤 ︵ 義 ︶ 平 均気 温 が 二∼ 三度 上 が ると 、 木 下 温度 は ど んど ん上 が るし ね 。 はあ り得 るか ら ね 。 斎藤 ︵ 義 ︶ 東 京 に居 ら れ な いと いう 事 です よ 、根 室 と か 。 木 下 道 東 は地 震 銀 座 です ね 。毎 日地 震 も 少 な いしね 。 んだ よね 。 分 か んな いよ、 これ は 。地 震 北海 道 が急 激 に発 展 す る ことも あ り得 る 全 なと こ ろと いう のが北海 道 にな って、 斎藤 ︵ 義 ︶ あ る意 味 で、 日本 で 一番 安 最低 の馬 券 場 にな っち ゃ って、 ウ ィ ンズ な ん て、今 年 も売 り 上 げ 減 で、 三村 僕 は競 馬 を や って いる んだ け れど 、 置 い て いた よ う だ ね 。 昔 の漁 師 と いう の 飯 島 ヤ ー さ ん た ち も 普 段 漁 師 に は 一目 たね。 木 下 上日、 香 具 師 の親 分 が 居 て 、 凄 か っ 神 島 いま は キ ツキ ツ です ね 。 澤 山 そ の代 わ り に 、 お 祭 り が こじ ん ま り に な った 感 じ 。 中 島 榊 社 も 盛 大 だ った 。 神 島 ど こ か で息 を 潜 め て いる ん です ね 。 な った 。 夏 に な る と 来 る ん で す 。 いま は 少 な く 澤 山 キ レ やす い。 そ れ でも ど う し ても 神 島 キ レ やす いん です か 。 はり 。 みれば 割 と 、話 は合う んだ け れども 、 や 澤 山 居 ま し た ね 、昔 相 撲 取 り で話 し て て いる ん です 。大 人 し いです 。 甲 ︶ 居 ま す よ。 み ん な 高 齢 化 し 斉藤 ︵ いけど 。 神 島 今 も いま す か 、 ほと んど見 か け な 社 の運 営 に使 わ れ てき て いる ので、港 が どう 使 わ れ るか 、住 民 が稼 げ る仕事 、 産 鉄 の会 社 が来 て、 最終 的 には今 、製 鉄 会 岩 田 室 蘭 は 、 最初 に港 あ り き 、後 で製 用方 法 など を 提案 し て いただ き た い。 湖 も あ り 、 景色 も 良 く て、 天候 も 穏 やか で、 そ こらを 工夫 し て、若 い政 治 家 に活 こ ろな ので、海も あ り 、山 も あ り 、温 泉 ・ 堀 尾 難 し いけど 、色 んなも のがあ ると 野 尻 神 島 先 生 のお力 で何 と か 。 ︵ 笑︶ よね 。 整 備 さ れ て いな いと ころは 沢山 あ り ま す か 、観 光 道 路 も 不十 分 です し 、 ま だ ま だ じ ゃな いです か 、 こ んな狭 い道 行 く のと 神 島 地 球 岬 一つに し ても 行 き にく い す が。 国的 に やら れ始 め て いると こ ろは有 り ま に結 び つけ て でき な いか な あ と 、 日本 全 そ の周 り に観 光 があ って、何 と か有 機 的 哀 稼 業 の人達 は フ ァの事 を考 え な く ては いけ な いのか と 思う のです が 、 そ れ か ら先 は 一寸 。 業 のた め に だ け じ やな い、プ ラ ス ア ル これ から は 乱 暴 だ った ら し いな 。 神 島 上日、 人 口が多 か った時 に北海道 の 中 で、 こ っち の方 が非 常 に多 か ったと か 、 ると 思 いま す 。折 角 良 い港 があ る のに使 ︿フ 今 回 の震災 で、色 々わ か った事 があ 野 尻 此 処 の地 区 は 、先 ほど 先 生方 が言 北海 道 の中 で 一番 巨 大 な組 織 があ ったと 聞 き ま した が 、 やは リ ガ ラが悪 か った で す よね 、大 き な震災 が起 き ると 一極 に集 わ れ て いな い。札 幌 に近 いか ら苫 小 牧 で し ょう か 。 わ れ た よう に、医 療 と し ては 、医 療 圏 と し てみた場 合 には非 常 に充 実 し て いま す 。 三村 今 も 居 ます け どね 。 -25- が 三十 ∼ 四十 分 で行 け るも のです か ら 、 な ん です よ 、 洞爺 湖 と かあ の辺 ね 、 そ こ あ つて、 キ ャ ンプ オ タ ク にと っては聖 地 プ 場 が 洞 爺 湖 と か 、す ご く 綺 麗 な 処 が 週 のよう に キ ャ ンプ し て いま す 、 キ ャン こ の街 非 常 に気 に入 ってです ね 、夏 は毎 ど 、 開業 し て十 二∼ 三年 目 な ん です けど 、 生 田 産業 の事 は良 く 分 か んな いです け く 、他 の小 樽 と か に押 さ れ て いま す よね 。 レ ットを 見 ても 、室 蘭 の情 報 発 信 は少 な は な いかと 思 いま す 。道 内 の観 光 パ ン フ ピ ー ルす る。情 報 発 信 と 云う のは必 要 で です か ら 、 雪も 少 な く冬 も 大 した こと無 い、 そう い ったも のを 全 国的 にも っと ア 見 れ ば 、 エア コン無 し で暮 ら せ る街 な ん メージだ った ん です けど 、 逆 に全 国的 に 点 で、室 蘭 は 寒 いと いう マイ ナ ス のイ て死 にそう にし て いま す 。僕 は札 幌 が拠 節 電 、節 電 と 関東 の方 では暑 い思 いを し い った 流 れ にな ると 思う ん です け ど ね 。 は生 か し てお か な け れば な ら な い。 そう スクを 分散 す るた め には必ず 、良 いも の 札 幌 離 れ て、地 方 出 た 人 、 み んな 子供 が 室 蘭 栄高 と いう のが有 る、医 局 の先 生方 的 に此処 の街良 いなあ と 思 って いる のが 、 か 、 国立 大 学 が有 ると か 、 一つには個 人 ま す 。例 え ば 、 胆 振 総 合 振 興 局 が有 ると ン テージ を 大事 に守 った 方 が良 いと 思 い え て いる方 だ と 思う ん で、今 あ る アド バ て いるよう です 。 そ の中 で室 蘭 は持 ち 応 た旭 川 、苫 小牧 、帯 広 でも 中心 部 の空 洞 化 が始 ま って、 か な り寂 し い状 況 にな っ だ け じ ゃな いです 。 特 に今 、 前 ま で良 か っ け ど 、他 の街 はど こも 衰 退 し て いて室 蘭 立 木 北 海道 の場 合 、 札幌 は良 いん です を 変 え れば す ご く良 い街 だ と 思 いま す 。 た な あ と 非 常 に心 底 思 って いま す 。見 方 ごす と いう 意 味 では 、 此 処 に来 て良 か っ ん です ね 。だ か ら 、仕事 以外 に余 暇を 過 お金 の事 を 考 え な き ゃ、非常 に良 い所 な ん中 に住 ん で いるより ず っと 楽 し い所 で、 と な ん です 高速 使 う と 。だ か ら札幌 の真 く ん です け ど 、 ニセ コま で 一時 間 ち ょ っ は小樽 出 身 なも の です か ら 、 スキ ー に行 ニア の人 は結構 サ イ ク リ ング ロードと し て、 国道 を 利 用 し て いま す ね 、冬 は 、僕 な い。 そ れ が現 実 な んだ よね 。 そ の辺 が 一回位 は札 幌 方 面 に出 か け な け れば な ら も のを含 め て、室 蘭 は品 不 足 、結 局 月 に 姑 立 す る んだ よね 、 フ ァ ッシ ョナブ ルな です ね 。だ け ど 、女 の考 え 方 は 圧 倒 的 に、 も ゴ ル フそ の他 、結 構 、室 蘭 住 み やす い 木 下 男 は働 き 場 が有 った り 、 レジ ャー 海道 は良 く な るよ 。世 の中 は 通だ か ら ね 。 云 わ れ る ん じ やな い。 そう す ると 急 に北 度 く ら い上 が った ら 、 北海 道 は別 天地 と か ら 、 運だ けど ね 、 日本 の平 均 気 温 が 二 る、あ れも 凄 く良 いと 云う ん でし ょ、 だ れ か ら 、室 蘭 に波 乗 り の場 所 を持 って い る でし ょ、冬 場 は スキ ー場直 ぐ だ よ 。 そ るんだ よね 。夏 は ゴ ル フ場 ど こ でも 出 来 義 ︶ 私 も 実 は 室 蘭 気 に 入 って い 斎藤 ︵ と 思 いま し た 。 大 事 にし て いく と良 いんじ ゃな いか なあ ざ 汽 車 で通 って いる高 校 な ん で、是 非 、 理数 科 も 有 り ま す し 、苫 小 牧 か ら わ ざ わ 方 が多 いと 思う ん です けど 、室 蘭 栄 高 は 会 の先 生 方 沢 山 お子 さ んを 行 か し て いる 幌 に就 職 し た り 、室 蘭 の場 合 には 、医 師 は自 分 が単身 赴 任 した り 、自 分自 身 が札 非 常 に良 いと 、木 曜 日午 後 休 み で、午 後 中 学 、高 校 位 にな ると 、地 元 に良 い高 校 ク リ ア でき ると 、 な お将 来 室蘭 に良 い事 中 し て いると 被 害 甚 大 にな り ます よ 。 リ は殆 ど サイ ク リ ング し て いま す 。伊 達往 が無 いん で、札幌 に子供 や った り 、或 い 笑︶ ︵ 復 と か 、 そ れ はま た す ごく 良 い所 で、 マ -26- が発 展 す る、活気 あ る状 態 にな る のは 、 は 三十 年 以 上 にな り ます が 、 こう いう 街 こ に来 て、僕 は登 別 です けど 、最 初 か ら の人 回は十 万 を 切 ってしま った けど 、 こ クタ ーも 企業 人も 楽 し ん で いた 。今 室 蘭 んも 随 分 繁 盛 し て いた みた いです し、 ド と 過 去 形 で語 って い いのか と 、飲 み屋 さ も 有 り 、文 化 も 有 り 、魅 力 的 な 街 だ った 斉藤 ︵ 甲 ︶ いろ いろ話 を 聞 いて、歴 史 いう 反省 点 と し てあ る。 出 来 な く な って いる んじ やな いか 、 そう 良 い所 に住 ん で いるも のだ か ら 、変 革 が も 良 いんじ やな いか と 、 一寸 ね 、あ まり 住 ん で いる んだ ね 。 たま には暑 く な つて 蘭 は中 間 と いう か 、 そう いう 良 いと こ に も の凄 く 暑 か ったり 、凄 い冷 え 込 み、室 も な ら な い。あ ち ら の方 を 見 て いた ら 、 低 気 温 の差 が少 な い、 さら に非 常 に暑 く ほ んと に、 最 近 見 て いると 最 高気 温 と最 澤 山 や はり 室 蘭 で、良 い所 と いう のは キ ーは出 来 る は、 ではね 。 乗 り は出 来 る は、 ゴ ル フは出 来 るは 、 ス と 思 いま す ね 。野郎 ば か り 、良 いよ 、波 よう な街 づ く り を 考 え な け れば いけ な い に居 る人達 でも 室 蘭 が好 き だ と 云 わ れ る が有 る のか な あと 、難 し いです ね 。家 庭 思 いま し た 。 す 。今 日 、皆 さ ん の話 を 聞 いて つく づ く 退 の 一つの間違 いのな い要 因 だ と 思 いま 無 理矢 理 造 った 、 これ は やはり 室 蘭 の衰 ま す 。特 に、話 題 にな った苫 小 牧 の港 は 化 圏 を保 つのは距 離 の問 題 が有 ると 思 い 札 幌 に流 れ てし まう 事 は確 か に有 ると 思 いま す 。帯 広と か 、北 見 が そ れ なり の文 蘭 があ ま り にも 札 幌 に近 い為 に、 み んな て行 か な いのでは無 いかと 思 います 。室 援 しな け れば 街 と いう のは やはり 発 展 し な し に地 元 の産 業 と か文 化 を です ね 、応 大 好 きだ と 、 これ は是 非 好 き な だ け では 皆 さ ん の話 聞 いて いると 、皆 さ ん室 蘭 が いう のは 一つあ ると 思 いま す 。だ けど 、 と し て、室 蘭 が こ の様 な状 態 にな ったと ク です ね 、 そう いう も のがか か った結 果 ば 行 か な いし 、ネ ガ テ ィブ フイード バ ッ 美 味 し い食 材 が 入 らな いし、旨 く な け れ スト ラ ンも 無 いと いう け ど行 か な け れば 、 事 にな れば 、無 く な っち ゃ いま す し 、 レ 札 幌 に行 って買 い物 し た方 が良 いと いう あ れ は や はり み んな が大事 にし な いか ら 、 移 って、 結 局撤 退 しち や いま し た け ど 、 でし ょう ね 。九 井 が中 央 町 か ら中島 町 に 皆 さ んが街 を好 き でな く ては いけな いん に愛 し て いる。乾 杯 蘭 歴 は長 い、 そう いう ので、室 蘭 を 非 常 昭和 三十 六年 か ら はず つと 居 る ん で、 室 蘭 に居 てね 、 一寸 一時期 抜 け た け ど も 、 斎藤 ︵ 義 ︶ 私 ね 、小 学 校 一年 生 か ら 室 た ん でし ょう か ︵ 笑︶ き にした いと 思 いま す 。座 談 会 は成 功 し す 。 そ ろそ ろ時 間 がき ま した ので、 お 開 いて頂 き た いなあ と いう のが僕 の実 感 で 政治 家 、地 区 を代 表 す るト ップ の人 に聞 ただ いて、ま ず 、皆 さ ん の話 した こと を 三村 二 貝重 な ご意 見 を お 一人 、 お 一人 い 玖を 霧 27 う辛カ tし 野鳥観察︶ バードウオ ッチング ︵ から見え て来たも の 森 川 一 元 を 経 験 しま し た が、望 遠 鏡 ︵フィー ルド ス コープ ︶ の中 に いる野鳥 の姿 は皆 美 し く 、 そ の愛 ら し い仕 草 や美 し いさえ ず り にす つかり魅 了 さ れ てしま いま し た 。 そ れ以 来 、暇 があ れば イ タ ンキ浜 や地球 岬 、 マスイ チ浜 、室 蘭 港 等 案 内 し ても ら い、 日本 野鳥 の会 に入会 し 、市 民 探鳥 会 にも いて周 辺 は雑草 だ ら け 、 し か し 、あ ち こ 私 の前 の病 院 は中嶋 神 社 近 く に建 って 出 来 るよう にな り ま す ま す バ ード ウ オ ッ 約 五十 種 類 く ら いの野鳥 を 見 分 け る事 が る指 導 員 に いろ いろ教え ら れ 、 三年 程 で ︵ 森 川内科医院︶ ち には樹齢 七 ∼ 八十 年 も す る大 き な木 が チ ング が楽 しく なり ま し た 。 参 加 し て野鳥 のこと な ら何 でも 知 って い そび え 立 って いて早朝 には 野鳥 の賑 やか え ら れ、 翌 日友 人 は野鳥 図鑑 と 双眼 鏡 を き っと キビ タ キと いう 野鳥 でし ょう と 教 た の で 責 色 い鳥 の件 を 話 す と 、 そ れ は が 、数 日後 野鳥 好 き の友 人 が遊 び に見 え 麗 な鳥 だ ろう と 感 嘆 し見 と れ て いま し た て止 ま り こち ら を 伺 って いま す 。何 と 綺 と こ ろ目 の前 の枝 に黄 色 い鳥 が飛 ん でき 夏 のあ る朝 、窓 を 開 け て庭 を 見 て いた ング の魅 力 にと り つか れ、 ウ ト ナイ湖 や そ の後 、妻 や子供 達 も バ ード ウオ ッチ を何 度 も 歩 き 廻 った のを覚 え て いま す 。 私も ハヤ ブ サを 探 し て絵 柄半 島 の海 岸 線 サ が生息 し て いる事 は全 国的 にも 有 名 で、 絵 輛 半 島 の断 崖 には 、 猛禽 類 の ハヤブ に及 ぶ多 彩 な 野鳥 が観 察 さ れ て いま す 。 宝庫 と し て知 ら れ て いて、年 間約 二百種 いのです が 、実 は愛 鳥 家 の間 では 野鳥 の 室 蘭 は 工業 都 市 と し て のイ メージ が強 持 ってき て ﹁一緒 にバ ード ウオ ッチ ング 有 珠 海岸 ・苫 小 牧 北大 演 習 林 ・千 歳 川等 な さえ ず り が響 き わ た って いま し た 。 を 始 めま せ んか ﹂ と 強 力 に薦 め ら れ た の たす こと が出 来 た のは嬉 し い収 穫 でした 。 家 族 ぐ る み で遠 出 し親 子 の触 れ合 いを 果 さ っそく 日曜 日 の早朝 、友 人 と 測 量 山 当 時 、 入院 息 者 が いる関 係 上 、 頻 繁 に が始 ま り でした 。 に出 か け 、初 め て のバ ー ド ウオ ッチ ング 28 は遠 出 は出 来 ま せ ん 。 そ れ な ら ﹁ 野鳥 を 庭 に呼 ん で みた ら ﹂ と のアド バイ スを受 け 、庭 に バ ード テーブ ルを 設 置 し てみま した 。 一枚 です ︵ 写真 ︶。 ワシ ・タ カ類 は小鳥 を 餌 にし て生 き て いま す 。 小鳥 は昆 虫 を食 べ、昆 虫 は植 物 に依存 て来 ま せ ん 。 でも 、 二∼ 三 ヶ月 間気 長 に の食 べる ・食 べら れ る関係 を 食 物 連 鎖 と な って蓄 え ら れま す 。 こ の様 に生物 同 士 中 の生物 によ つて分解 さ れ、 上 の養 分 と ワシ ・夕 力が事 故 や病 気 で死 ぬと 、 土壌 し 、植 物 は大 地 か ら栄 養 を受 け 、 そ し て、 待 って いるう ち に スズ メ に混 じ って、 ヒ ョド リ ・シ メ ・シジ ュウ カ ラ ・アカゲ ラ 言 いま す 。 や はり 、始 めは スズ メく ら いしか寄 っ 等 、年 間約 四十種 類 以 上 の野鳥 が訪 れ る 野鳥 の頂 点 に いる ワシ ・タ カ類 が こ の よう になり 、家 の中 に いな が ら ウオ ッチ ングを 楽 し む事 が出 来 るよう にな り ま し 地 域 に生息 し て いると 言う 事 は 、 こ の地 域 の食 物 連 鎖 が健 全 に保 た れ て いる証 で た。 スズ メや ヒ ョド リは毎 日 のよう に や っ し か し 、 こ の数 年 ワ シ ・タ カ類 も 減多 あ り 、豊 か な自 然 が残 さ れ て いると 言 っ 瞬 のう ち に捕 らえ 庭 の隅 で食 べて いると 、 に見 かけ な く なり ま し た 。 こ の地 域 の自 て来 ま した が 、 そ れを 狙 って ハイ タ カが カ ラ スが これを 見 つけ 二羽 ・三 羽と 集 ま 然 にも 何 か 悪 い異 変 が 起 き て いる の で て良 いでし ょう 。 り 、 つ いに空 中 戦 と な り ま す が、多 勢 に し ょう か 。 音 も 無 く舞 い降 り てき て、 ヒ ヨド リを 一 無 勢 でさす が の ハイ タ カも 退散 す る破 目 す ぐ 私 が見 に行 く と 、 な んと オ オ タ カが て いて怖 く て通 れ な い﹂ と の苦 情 があ り 、 階 段 の手 摺 に大 き な鳥 が止 ま っ す ると ﹁ 夏 の朝 、厨 房 の人 が出 勤 し て来 ま す 。 し つ つバ ード ウオ ッチ ングを 続 け て いま にも 野鳥 を 絶 滅 さ せ ては な ら な いと 痛 感 し ており 、豊 か な自 然 を 後 世 に残 す た め く と いう 事 は自 然 が失 わ れ て いる事 を 示 タ ーと 言 わ れ て います 。 野鳥 が減 って行 野 鳥 は 自 然 の豊 か さ を 示 す バ ロ メ ー 止 ま って いま した 。急 いで住 宅 か ら カ メ す。 にな り ま す 。 ラを 持 ち 出 し夢 中 で シ ャ ッタ ーを 切 った 一 一 一 一二 一一二 29 そ し てそ の翌年 か ら心 身 医 学 に興味 あ る メ ンバ ーと 心 身 医 学 の基 礎 的 勉 強 を毎 週 心 身 症 の定義 は 一九 九 一年 十 月 に心 身 囲 の期 待 に応え よう と し て過剰 な努 力 を に良 く気 を使 う 良 い子 ク等 と 表 現 さ れ る よう に過剰 適 応 の傾向 が見 ら れま す 。 つ 真面目 す いが 、心 身 症 の息 者 はむ し ろ ク 人 間焦 ク 他人 仕事 中 毒 焦 ク 頑張 り 屋 焦 ″ 医 学 会 の指 針 が でま し た が そ れ によ ると ク 心 身 症 と は身 体 疾 患 の中 でそ の発 症 や 払う こと で スト レ ス病 にな り易 いわ け で 開始 しま した 。 経 過 に心 理社 会 的 因子 が密 接 に関与 し 、 す。 私 の心 身 医 療 と の出 会 い 私 が心身 医 療 を 開始 し てか ら今 年 で約 器質 的 、機 能 的 障 害 の認 め ら れ る病 態 を 分化 さ れ て ゆく 中 で個 々 の息 者 さ ん の心 物 学 と し て の医 学 がど んど ん専 門化 、細 し て診 療 し て いま し た 。 し か し 一方 で生 診 療 にそ の成 果 を 応 用 す る こと を 目標 に た り影 響 を受 け る多 く の疾 息 があ げ ら れ 心 理 、社 会 的 スト レ ス等 によ って発 症 し 性 腸症 候 群 、偏 頭痛 や緊 張性 頭痛 そ の他 表 的 疾 患 に スト レ ス性 消 化性 潰 瘍 、 過敏 精 神 障 害 に伴 う 身 体 症 状 は除外 す るク と な っており ま す 。 こ の定 義 に該 当 す る代 を お こな いま す 。 そ し て必 要 に応 じ て多 を行 って これ らを 調 べ てか ら診 断 や治 療 要 があ り 、十 分 な時 間を か け て受 理 面 接 環境 、幼 少 時 か ら の生 活 史 等 を 調 べる必 題 を 引 き 起 こし た息 者 さ ん の性 格 や生 活 あ る心 理 、社 会 面 の問 題 やそ のよう な 問 す る には そ の病 状 の発 生 や経 過 に関係 の こ のよう な心身 症 の息 者 の病 態 を 理解 ま り心 身 症 の息 者 は内 的感 情 を抑 え て周 二十 五年 経 つが 、 そ れま で医 師 と し て の 言う 。 ただ し神 経 症 やう つ病 な ど の他 の 松 田 幹 人 約 二十 年 の診 療 にお いては年 々発 展 す る 理 面 や社 会 面 に深 く 関わ って ゆか な け れ ます 。 先 端 的 な医 学 や医 術 を 出 来 る限り 吸 収 し、 ば どう し ても 診 療 を 全 う す る こと が出 来 意 識 を 感 じ な がらも 心 身 医 療 の手 段 や方 じ ており ま し た 。 し か し こ のよう な 問 題 な い息 者 さ ん が数 多 く いる こと を 常 々感 は ﹁ 失 感 情 言語 症 ﹂ な ど と 訳 さ れ て いま と熙中 JЧユ 臣 と いう 概 念 を 提 唱 し て いま 付 失 感 情 症 ﹂ な いし す 。 日本 語 に訳 す と ﹁ 考 え 方 と し て 米 国 の 盟け観 ら は さ て心 身 症 の特 徴 を 説 明す る ひと つの べき 息 者 さ ん に対 応 せざ るを え な いこと 多 く 心 療 内科 を訪 れ 、本 来 精 神 科 で診 る 的 愁 訴 を も つ神 経 症 やう つ病 の息 者 が数 で行 い参 考 にし ます 。 数 の心 理 テ スト の中 か ら必 要 なも の選 ん 法 の経 験 を 持 ち 合 わ せ て いな か った た め 、 す 。 要す る に自 分 の内 的 な感 情 への気 付 が就 職 し てき ま し た 。 これ は私 の懸 柔 を 記念 病 院 に心 理学 を専 攻 し た学 卒 者 二人 五十 七年 に私 が勤 務 し ており ま し た 日銅 こ の様 な こと を 考 え ており ま し た 昭和 り 、対 人 関係 にお いて不適 応 を き た し や 神 経 症 の患 者 は些 細 な こと に感 情 的 にな 言う わ け です 。社 会 適 応 と いう 面 か ら は き と そ の言 語 的 表 現 が制 約 さ れ た状 態 を です 。 療 す る方 法 を身 に つけ ておく こと が必 要 行う 医 師 は 一応 軽 症 う つ病 や榊 経 症 を 診 が しば しば あ り ま す 。従 って心 身 医 療 を さ て心 身 症 医 療 を 標 榜 し て いると 身 体 実 行 に移 せな いま ま 過 ご し ており ま した 。 解 決 す る チ ャ ン スであ ると考 え ま し た 。 -30- るき っか けと な った内 観 併 用 絶食 療 法 に 多 く あ り ま す が、私 が心 身 医 療 を 開始 す 薬 物 療 法 、自 律 訓練 法 、絶 食 療 法 な ど数 生 か さ れ てき た か に ついて の気 付 き を 深 を 調 べて ゆき 、自 分 が周 囲 の者 に いか に ら そ の人 た ち にお世話 にな った こと な ど 夫 な ど に ついて 一人 ひと り 思 い返 し な が あ った 人 々、例え ば 父 、母 、兄弟 姉 妹 、妻 、 た だき ま した 。 か の参 考 に な れ ば と 思 い、 述 べさ せ て い ど のよ う に診 療 し てき た か に つ い て な に さ て心身 症 の治 療 には種 々 の心 理療 法 、 ついて少 し説 明 さ せ て いた だ き ま す 。 が内 科 系 心 身 症 の治 療 に応 用 し てそ の効 効 果 を 調査 し 、 そ の後 東 北 大 学 の鈴 木 ら 十 年 前 に東 北大 学 の九嶋 、長 谷 川 が そ の の修 業 に用 いら れ てき ま した 。 これを数 と が昔 か ら知 ら れ ており 、 これが各 宗 教 悟 り を 開く のに適 し た心 的 状 態 にな る こ 食 と いう 修 業 によ って気 付 き が深 ま り 、 僧 侶 が悟 り を 開 く た め に断 食 し て いる こ と は皆 さ んも 承知 し て いる通り です 。絶 いう のがあ り ま す 。多 く の宗 教 で昔 か ら け れど も 非 常 に奏 効 率 の高 い絶 食 療 法 と には医 療 の世 界 でも 良 く知 ら れ て いな い 倹 ってこ のよう な 異常 な条 件 付 け が修 正 肉 体 への揺 さ ぶり と内 観 的 心 理療 法 が相 るも のと 考 え ら れます 。絶 食 療 法 と いう 低 下 さ せ 、慢性 の心身 症 を成 立 さ せ て い 条 件 付 け が成 立 し 、症 状 の聞値 を著 しく 傾向 があ り 、間 脳 、自 律 神 経 系 の異常 な の持 つ心 理 的 、社 会 的 、性 格 的 に歪 んだ わ らず 増 悪 し た り治 ら な いのは息 者 さ ん 例 が治 癒 し た例 を多 数 経 験 し ており ま す 。 治 療 法 でも な か な か治 癒 困難 であ った症 療 を多 数 行 ってき ま した が 、他 のど んな 私 は今 ま で心身 医療 の 一つと し て こ の治 め てゆく のが こ の治 療 法 のポ イ ント です 。 果 を 確 認す ると と も に いく つか の変 更 を さ れ 、心 身 症 の患 者 を治 癒 に導 くも のと -31- 心 身 症 の息 者 の治 療 の 一つと し て 一般 加え 、東 北大 学方 式 絶 食 療 法 と し て確 立 思 いま す 。 " 心身 症 の思者 さ ん の症 状 が治 療 にか か しま し た 。 心 と 身 体 を 共 に視 野 に入 れた治 療 を 行 わ 人 間 の心 と 体 は密 接 に連携 し ており 、 より 大 き な 効 果 が得 ら れま す 。内 観 療法 な け れば 病 気 が治 ら な い息 者 さ んを 皆 さ そ の際内 観 療法 を 併 用す る こと により 、 と は 仏 教 の僧 侶 吉 本伊 信 が創 始 し た 日本 んも 経 験 し てお ら れ る こと と 思 いま す 。 以 上私 が心身 医 療 と ど のよう に遭 遇 し 、 独自 の心 理療 法 の 一つであ り 、今 ま で自 分 が育 ってき た 環境 の中 で身 近 に交 流 の b 鷲石茄ギ 開 業 一年 半 を 経 過 し て 佐 原 仲 は喘息 発 作 を 発 症 さ れ る方 が割 合多 い印 象 があ り ま す 。 診 療 分 野 と し て呼 吸 器内 科 は内 科 の マ イ ナ ー であ り 、調 べてみ ると 二〇 〇 人年 の厚 生 労 働 省 統 計 では全 国 の呼 吸 器内 科 同統 計 で放 射 線 科 五 一 医 は 四 五七 人名 ︵ めま いの話 上 一 戸 敏 彦 呼 吸 器科 医 と し て ロー テー シ ョン勤 務 を の中 で受 け た後 、道 内 各 病 院 でそ れ ぞ れ チ ン の初 期 研修 と し て 一年 間 の大 学 研修 科 ・病 理部 な ど肺 にま つわ る内 容 を ルー 方 法 な ど基 本 的 な こと や 、 三 ヶ月 胸 部外 局 に入 局 し 、肺 の断 層 写真 、 C T の読影 科 ク リ ニ ックを 開業 いた しま し た 。 札 幌 医 科 大 学 を卒 業 後 、 同第 三内 科 医 平 成 二十 二年 二月 より さ は ら呼 吸 器内 よ り これ ま で 一年 半多 く の先 生方 に息 者 療 し て いき た いと 思 いま す 。 ま た 、 開業 の呼 吸 器 疾 患 の管 理 に貢 献 でき るよう 診 診 療 し てき た経 験 を 生 か し 、地 道 に地 域 散 見 さ れ 、今 後 も これ ま で専 門医 と し て た め では な く年 のせ いと 考 え て いる方 も か し な がら慢 性 的 な呼 吸 器症 状 を疾 病 の 必 要 な方 が たま にお ら れ たり しま す 。 し にも 何 を専 門と し て いる科 な のか説 明 が の知名 度 は いま だ 低 く 、初 診 の息 者 さ ん の こと です 。市 井 の皆 さ ん にも 科 と し て は めま いに含 ま れま す が 、平 衡 機 能 を 司 で起 き る立 ち く ら み や貧 血 、心 身 症 な ど と です 。 広 い意 味 では起 立性 低 血 圧 な ど 能 が障 害 さ れ た 時 に現 れ る異 常 感 覚 のこ が しま す 。 めま いは 一言 で いう と 平 衡 機 めま いと は少 し ギ ャ ップ があ るよう な気 耳鼻 科 医 が神 経 耳科 学 的 に言う と こ ろ の 使 わ れ て いて、 時 には突 拍 子も な いこと を 言 った と き に ″めま いがす る″ な どと 表 現す る こと も あ り ま す 。ど う も 私 たち ふらす る感 じ 、 立 ち く ら みな ど に幅 広 く 一般 的 にめま いは 目 が 回 る感 じ 、 ふら かみと耳鼻 咽喉科 クリ ニック︶ ︵ 行 いま した 。大 学 に戻 った時 には断 層 写 さ んを ご紹 介 いた だ き 、感 謝 申 し上 げ ま る前 庭 系 の障 害 と いう 意 味 では真 性 のめ さはら呼吸器内科 クリ ニック︶ ︵ 真 は大 半 の施 設 で検 査 が 下火 にな ってき す 。 医 師 会 の仕事 と しま し て昨 年 か ら 学 ま いには含 ま れま せ ん。 人七名 、神 経 内 科 三 人九 〇名 の中 間 ︶と た頃 で、 二次 検 査 はす ぐ に C Tと い った 校 医 、今 年 度 か ら介 護 認 定 審 査 の作 業 も 年 間 研 究 に携 わり 、研 究終 了 後 に当 時 の 肺 疾 患 のC T画像 診 断 を専 門と し て約 六 と 考 え ており ます 。今 後 と も 、何卒 宜 し これ か ら徐 々に要 領 を つか ん で いき た い 始 ま り 、 いず れも 初 め て の経 験 です が 、 末 梢前 庭 系 ︵ 三半 規管 、耳 石器 ︶ に分 か 剛庭神 経 核 な ど ︶、 系 ︵ 小 脳 、脳幹 網 様 体 、一 言 う こと にな り ま す 。前 庭 系 は中 枢 前 庭 こ の前 庭系 の障害 こそ が真 のめま いと 研 究 生 と し て外 病 院 の勤 務 を し な がら 、 具合 でし た 。 新 日鐵室 蘭 総 合 病 院呼 吸 器科 で勤 務 いた く お願 い致 しま す 。 れ 、 こ の中 のど こか に障 害 が起 き ると め しま し た 。道 内 沿 岸 部 は霧も多 く 、気 温 も 上 がり にく いた め か季 節 の変 わ り 目 に 32 か発 作 性 か誘 発性 か持 続性 か な ど の他 、 す 。外 来 では まず めま いの性 質 が自 発性 経 反射 によ る吐 き気 、頭痛 な ども 起 き ま 脊 髄 反射 によ る身 体 の動揺 、前 庭自 律 神 揺 れ て いるよう に感 じ たり しま す 。前 庭 前 のも のがぐ るぐ る回 るよう に感 じ たり 、 眼 球 振 盪 ︶ が出 現 し 、自 分 ま た は 目 の ︵ ま いが起 き ま す 。前 庭 眼 反射 によ る眼 振 浮 遊 し頭 位 の変 換 とと も にめま いが起 き こ の疾 患 は耳 石 が は が れ て半 規 管 の中 を う にな ってき た た めと 考 え ら れ て いま す 。 れ て いたも のが B P P Vと診 断 さ れ るよ か椎 骨 脳 底 動脈 循 環 不全 症 な ど と診 断 さ き た た め以前 には他 の内 耳性 のめま いと 年 そ の病 態 が広 く知 ら れ るよう にな って P Vが最も多 い疾 患 と な り ま した が 、近 ました。 ま いに つ い て簡 単 に 述 べ さ せ て いた だ き いは B P P V が 一番 多 い の です 。 以 上 め 病 の方 が 有 名 です が 、 実 は 内 耳 性 のめ ま 他 にクプ ラ結 石症 と いう タイ プ のも の る半 規管 結 石症 と いう タイプ が多 いと 言 出 て いれば 問診 と あ わ せ て診 断 が容 易 に も あ り 、半 規管 の部 位 では後 半 規管 型 が 随伴 症 状 、 既往 歴 な ども詳 細 に聞 き 、眼 なり ま す 。足踏 み検査 な ど で偏 衛 現象 全 最 も多 く 、次 いで水 平半 規管 型 であ り ま わ れ て いま す 。 定 方 向 への身 体 動 揺 ︶ を チ ェックし 、蝸 す 。 こ の様 に病 態 の解 明 が進 む と と も に を 注 入 し水 平 半 規 管 を 刺 激 し てそ の反応 断 が つき ま す が 、最 後 に外 耳道 側 か ら水 必 要 と なり ま す 。 こ こま です れば ほ ぼ診 認 め ら れ る場 合 には MR I等 脳 の検 査 が り 、 頭 痛 が激 し いと き や他 の神 経 症 状 が で起 き ま す が 、ま れ に中 枢 性 のこと も あ 学 療 法 は難 治 例 に対 し て行 って いま す 。 徐 々に良 く な ってく るた め、当 院 では理 P P Vは抗 眩 量 剤 な ど の対 症 療 法 により こと が でき る訳 です 。 ただ ほと んど のB でき れば 、 そ の病 的 な半 規管 を 同定 す る を 動 か し浮 遊 した 耳 石を 元 に戻 す こと が そ の理 学 療 法 含 u中 ¶ 法 な ど の浮 遊 耳 石 置換 法 な ど ︶も 進 歩 し てき ま し た 。頭 位 33 振 を確 認 し ま す 。注 視 眼 振 や頭位 眼振 が 牛 症 状 がな いか聴 力 検 査 も 行 いま す 。 を 見 る温度 眼 振 検 査 ︵ カ ロリ ック テ スト ︶ こ の病態 は模 型 な ど でも 説 明 し やす いた めま いのほと んど は末 梢前 庭 系 の異常 を行 いま す 。外 来 では メ ニ エー ル病 、 め こと が多 く なり 、 聞 いた こと があ ると い め 、 最近 では テ レビ でも 取り 上 げ ら れ る 性 発 作 性 頭 位 めま い症 ︵ B P P V︶ など う 六 も多 く な ってき ま し た 。 メ ニエー ル ま いを 伴 う 突 発性 難 聴 、前 庭神 経 炎 。良 が多 く みら れま す 。 最 近 の統 計 では B P ヨ侑9p∨ イ 0 ガ 菊 入 剛 先 生 を悼 む 木 下 博 か ら 最新 の病 状 を 聞 いて不帰 の近 づ き を 院 第 二内 科 長 、 五十 年 部 長 、 六十 年 副 院 年 三月 助 教授 、 同年 五月 市 立 室 蘭 総 合 病 総 合 病 院 内 科 、十 五年 か ら介 護老 人 施 設 長 、平 成 十 二年 三月 退 職後 、 新 日鐵 室 蘭 知 り病 室 を後 にしま した 。 先 生 の病 歴 は 、製 鉄 記 念病 院 前 田征 洋 先 生 か ら お聞 き しま し た 。 を 知 り 言 葉 が な め ら か に出 ず 、 ﹁元 気 に おり ま した 。私 も さす が に予後 の厳 し さ 苦 痛 を 訴え る言葉 も 発 せず 従 容 と さ れ て 淡 々と 病 状 の解 説 を さ れ 、弱 気 な 言葉 も 、 そ う で し た が 、先 生 は い つも の よ う に プ が 入 って いる状 況 で、体 位 交 換 は苦 し 伺 いま した 。術 後 のた め か 沢 山 のチ ュー 日手 術 を受 け ら れ たと 聞 き 、 八 日病 室 に 本 年 一月 中 頃 か ら 不調 にな ら れ 二月 二 生 が忽 然 と し て彼 の地 へと 旅 立 た れ てか 平 成 二十 三年 三月 八 日午 前 十 一時 、先 り ま し た 。約 二年 間 の闘 病 生 活 、 三回 の で終 了 し た 。 二月 二十 八 日内 科 に転 科 し た が 、病 状 は好 転 せず 三月 八 日鬼 籍 に入 術 を 行 った が 、総 胆管 に C チ ューブ留 置 断 、 二月 二日先 生 の希 望 があ って開腹 手 膜 播 種 、十 二指 腸 浸 潤 、閉 塞 性 黄疸 と 診 あ った 。十 八 日 入院 、精 査 し た結 果 、腹 全 身 倦怠 感 が出 現 、肝機 能検 査 は異常 で 二十 三年 一月初 め悪心 、心 寓 部 不快 感 、 切 除 を受 け 、再 び 化 学 療 法 を 開始 し た 。 結 腸癌 が見 つかり 、 二十 二年 三月 同部 の 学 療 法 を 十 一コー ス終 了 後 小 康 状 態 と な った 。其 後 の内 視鏡 検 査 で新 た に横 行 を受 け ら れ 、 七 月 か ら製 鉄 記 念 病 院 で化 の癌 と診 断 さ れた 。 五月 札幌 で根 治 手 術 内 視鏡 検 査 で直 腸 S字 結 腸移 行 部 に 二型 け ら れ 、会 話 も 豊 富 で、他 の職業 の方 や い方 でし た 。 人懐 っこく 、笑 顔 で話 し か 先 生 は印象 的 で エピ ソード の非 常 に多 に近 未 来 を見 据 え た 新 病 院 の完 成 ま でと に副院 長 と し て力 添 え を いた だ き 、九 年 基 本 設計 、実施 設計 に関わ る調査 、決 定 平成 三年 に始 ま る市 立病 院 移 転 新 築 の 救 命 に成 功 し た時 は感 動 的 でした 。 筋 梗 塞 に経 皮 的 バ ルー ン冠 動 脈 形 成 術 で 輩 を指 導 さ れ 、後 に同僚 N医 師 の急 性 心 早 く か ら心 臓 カ テー テ ル検 査 の導 入 、後 百 人外 来 を こな さ れ て居 り ま し た 。 ま た 、 躍 いただ き 、 ク リ アカ ット な診 断 、治 療 、 門医 と し て、地 域 医療 のた め存 分 のご活 市 立 病 院 時 代 の先 生 は循 環 器内 科 の専 ﹁ 憩 ﹂ の施 設 長 に就 任 さ れ ま した 。 成 って、取 っと き の ワイ ンを 飲 も う よ﹂ 手 術 を受 け ら れ 、 ハードな化 学 療 法 に耐 平 成 二十 一年 三月 血便 あ り 、 四月 大 腸 が 暖 か く な った ら ゴ ル フも や ろう ﹂ ﹁ ﹁ 初 対 面 の方 でも 会 話 を た のし む特 技 があ ︵ き のした内科 クリ ニック︶ んば れ よ﹂ な ど と 問 いか け た が ﹁そう だ え な がら 勤 務 を 続 け ら れた先 生 の強 靭 な り ます 。仲 間 づ く り が上手 で、多 彩 な趣 先 生 は 昭和 三十 四年 札 幌 医 科 大 学 卒 六 のレ ベ ルま で頑 張 ら れ る 一面 があ り ま し 味 も 必ず 仲 間 と 一緒 に楽 し みな が ら 一定 も に苦 労 を 分 か ち合 いま し た 。 イ ン フ オー ムド ・コンセ ント が評 判 で、 俺 も 出 す ぞ﹂ ﹁そ う だ な ﹂ と 答 え ら れ た 忍耐 力 、精 神 力 には頭 が さ がり ま す 。 再 び 病 室 を 訪 れた 時 には 、す で に先 生 の 期 生 、 四十 年 第 二内 科 助 手 を 経 て四十 人 ら 、 早 くも 六 カ月 が経 ち ま し た 。 言葉 が最後 の声 と な り ま し た 。 三月 四 日 意 識 は朦 朧 で問 いか け に反 応 な く 、奥 様 34 室 蘭 ロー タ リ ー ク ラブ には 、 昭和 六十 不 思議 な才 能 があ り ま し た 。 ゴ ル フは四十 八年秋 から始 めら れ、仲 三年 私 と 同時 入会 しま した 。副 会 長 を 経 た。 間を誘 っては四時起き の朝 駆 け で旧登別 なり ま した 。体 型 か ら自 称 腹 回 し打 法 で を テー マに、環 境 問題 、留 学 生 と の国際 康 な 社 会 と 楽 し い ロー タ リ ー ・ライ フ﹂ て平 成 十 九 年 六 十 二代 会 長 を 務 め 、 ﹁ 健 鋭 いド ライ バ ーを 打 ち 、 カ ップ を 外 す と 、 親 善 、高 齢 者 福 祉 に取 り組 ま れ ま し た 。 6ま でに G C 、 伊 達 G C等 に 通 い、 H D l 口惜 し さを パ タ ー で靴 を 叩く 仕草 で示す 本 年 一月 十 三 日、 い つも のよう に例 会 に 出 席 さ れた のが最 後 の姿 でし た 。 姿 は 、今 でも 目 に焼 き 付 いて いま す 。 スキ ーは 昭和 五十 四年 頃 、と も に子供 追 悼 田中 豊 典 先 生 澤 山 豊 ︵ サ テライ トクリ ニック高砂 ︶ 田中豊 典 先 生 は平 成 二十 二年 十 一月十 一日 、九 十 五歳 の生 涯 を終 え ら れ ま し た 。 初 め ら れま し た 。 ま た 地 元 の熟年 スキ ー 住 宅 に住 ま わ れま した 。 以来 三十 八年 に 長 男 諭 史 さ ん の家 族 三 人 で常 盤 町 の医 師 ま り でし た 。 中 、 お会 いしま し た のが お付 き 合 いの始 タ ー ンと し て当 時 の富 士製 鉄 病 院 で修 練 先 生 と は私 が 昭 和 三十 年 四 月 にイ ン 愛好会 ﹁ 白 銀 ク ラブ﹂ への参 加 も 先 生 の わ た り 子供 の運 動 会 、水 泳会 、 スキ ー バ 私 より 一年 遅 れ て先 生 と奥 様 水 子 さ ん、 紹介 で 一緒 にし、 平成 十 五年 ま で続 き ま ス ツアーな ど ご 一緒 し 、家 族 ぐ る み でも に勤 務 さ れ ており 、 時 折 、 本 院 にも 顔 を の スキ ー教 室 に参 加 した のを き っか け に した 。 先 生 は そ の間 も スキ ー ・スク ー ル お付 き合 い戴 き あ り がと う ござ いま した 。 出 さ れ て居 ら れま し た 。 先 生 と 何 か の話 の中 で偶 然 、先 生 が私 当 時 先 生 は富 士鉄 病 院 元 町 分 院 ︵ 輪 西︶ に通 わ れ 、 六十 歳 を 過ぎ てか ら 一級 の検 今 でも 電 話 が鳴 ると ﹁こ の次 の日曜 日予 定 あ るか い?﹂ の声 が聞 こえ てき そう で 定 に合 格 さ れま し た 。 水 泳 も 退 職 後 に指 導 者 と知 り合 い、仲 の父 を ご存 じだ った こと が判 り 、 より身 最後 に、 い つも 忙 し そう に動 か れ て い す。 バ ック、平 泳 ぎ と 挑 戦 し て程 々 のレ ベ ル た先 生 、 どう ぞ ゆ つく り お休 みく だ さ い。 私 の父 は千 代 田生命 と 云う 保 険 会 社 の 社 医 を し てお り 、 昭 和 十 一年 、 旧 満 州 ・ 間 を 集 め て週 一回 の練 習 に ク ロー ル、 ボー と な り 、 ﹁ヤ ング ・ シ ルバ ー ・スイ ム ・ い つか彼 の地 で、 一緒 にグ ラ スを 傾 け る 現落 陽市 ︶ に渡 り 、終 戦 後 の昭 奉 天市 ︵ 和 二十 二年 に引 揚 後 、 小樽 支 社 勤 務 の社 近 な感 じを 抱 いた こと を 思 い出 しま す 。 イズ ﹂ の名 のも と 、大会 に出 場 した り し 時 ま で。 合掌 。 て いま し た 。 先生 は、意外 にも博オ があ る方 で、麻 医 を し て いて室 蘭 製 鉄 所 にも 時 々顔 を 出 し て保 険 加 入者 の診 査 を し て いま し た 。 ︵ 平成 二十 三年 九 月 八 日記 ︶ よく当 た るし、ち ょ っと したゴ ロ合 わせ 当 時 ︻健 康管 理 の仕 事 も さ れ て いた 田中 雀大会 で度 々優勝 し て いるし、ビ ンゴも で買 った有馬記念 で万馬券を当 てるなど -35- 先 生 には色 々お世 話 にな った と 云う 事 で した 。 田中 豊 典 先 生 は大 正 五年 一月十 一日 の 伺 った こと も あ り ま した 。 先 生 ご夫 妻 には お子 様 が おら れず 、 そ の分 、 ご夫 婦 仲 は羨 ま し い程 であ った と 任 。 同 四十 六年 五十 五歳 定 年 退 職後 、 四 七 月 、富 士 製 鉄 室 蘭 製 鉄 所 病 院 副 院 長 就 製 鉄 所 元 町 分院 に勤 務 さ れ 、 同 四十 一年 部 を 卒 業 。 同十 九 年 人月 、 日本 製 鉄 室 蘭 典 先 生 が お亡 く な り にな り 、十 三 日 に雲 昨 平成 二十 二年 十 一月十 一日、 田中 豊 と 聞 いて居 り ま す 。 は勤 めを 辞 め 、奥 様 の介 護 に専 念 さ れた 十 七 日お逝 く な り になり ま した が 、先 生 そ の奥 様 が病 に侵 さ れ平 成 十 五年 人月 ヴ ェン の交 響 曲 第 九 番 演 奏 会 を行 いま し 創 立 三 十 五 周 年 を 記 念 し て、 ベ ー ト ー 今年 ︵ 平成 二十 三年 ︶ は室 蘭 文 化 連 盟 ︵ 製鉄記念室蘭病院︶ 工 立 木 仁 今年 のベートーヴ ェン 第九﹂演奏会 ﹁ 十 六 年 七 月 に は 室 蘭 工大 保 健 管 理 セ ン タ ー所 長 就 任 、約 十 年 。 同 五十 八年 一月 上 閣 メ モリ ア ルホ ー ル で通夜 、十 四 日 に た 。私 も 室 蘭 音 楽協 会 市 民 オ ーケ スト ラ 思 いま す 。 か ら 平 成 十 五年 六月 ま で登 別 中 央 病 院 に 告 別式 が行 わ れ 、喪 主 には先 生 の甥御 に お生 れ で、 昭 和十 五年 、 北 海道 大 学 医 学 勤 務 さ れ医 道 に専 念 さ れ ると 云う 生 涯 を 当 た る田中 博 典 様 が務 めら れま した 。 室 蘭 市 医 師 会 には 昭和十 七年 に入会 さ 先 生 の追 悼 文 の依 頼 を受 け 、改 め て田中 今 回、 室 蘭 市 医 師会 誌 の編 纂 に当 り 、 ラ ﹁ 夕 鶴 ﹂ で、 堀 尾 医 院 の堀 尾 昌 司先 生 五年 前 の創 立 三十 周 年 記 念 行 事 は オ ペ ︵ 以下 ﹁ 市 民 オ ケし のヴ ィオ ラ奏 者 と 送 ら れ てお り ます 。 れ ており 、 同 四十 四年 四月 より 四十 六年 豊 典 先 生 への思 い出 を 振 り 返 ら せ て頂 き が主 役 級 の ﹁ 惣 ど ﹂ を 演 じ ら れ 、 こ の時 市 民 オ ケ は 、も と 市 立病 院 長 の安 斎 哲 メ ンバ ーと し て尽力 さ れま し た 。 先 生 は今 回 の ﹁ 第 九 ﹂ でも 男声 陣 の中 心 も 市 民 オ ケ が伴 奏 を担 当 しま し た 。 堀 尾 し て出 演 しま し た 。 三月 ま で理事 と し て 一期 二年 間 勤 め ら れ ま した 。 合掌 て居 ら れま す 。 ま た 、先 生 の御 夫 人 のト シ様 の令 弟 、 中村 利 夫 先 生 は私 の 一期 後 輩 でし た が イ ンタ ー ンと し て富 士製 鉄 病 院 へ来 ら れ 、 修 練 終 了後 、富 士製 鉄 病 院 内 科 、豊 浦 療 神 島 整 形 外 科 の神 島 茂 夫 先 生 が団 長 を 、 郎 先 生 によ って創 立 さ れま し た 。 現在 は 昭 和 四十 八年 、 私 共 で家 を 建 てる時 、 私 が事 務 局 長 を 務 め運 営 に当 た って いま 養 所 等 に勤 務 さ れ て居 ら れ ま し た 。 頼 んだ 大 工 さ んが偶 々先 生 のお家 を 建 て す。 私 が楽 器 を 始 め るき っか け と な った 札 た 人 と 判 り 、先 生 のお宅 を 見 せ て貰 いに お 伺 いし 、 ト シ 様 よ り 色 々と ご 意 見 を -36- だ ら け ね と いわ れ 、 直 前 ま で大 変 苦 労 し ウ ラ ンな ど 地 下資 源 が豊 富 な 国 で、街 を と んど です 。 ロシ アか ら 一九 九 一年 に独 幌 医 科 大 学 室 内 楽 合 奏 団も ま た安 斎 哲郎 演 奏 会 当 日 は 、真 冬 と いう のに文 化 セ 立 し 、 カザ フスタ ン人 ︵ イ ス ラム教 ︶ 五 走 って いる車 は メ ルセ デ スと 日本 車 が ほ 貝 が少 な く 潰 れ そう だ つた のです が 、 な ンタ ー大 ホ ー ルに入り き らな いほど のお 十 五 %、 ロシ ア人 ︵ロシ ア正 教 ︶ 三十 % 、 ま した。 んと かも ち こたえ 、 現在 は大 き な部 活 に 客 さ んが詰 めか け 、大 変 に気 合 いの入 っ 先 生 が創 った 団体 で、私 の在 籍 当 時 は団 発 展 し て いま す 。 在 の首 都 ア スタ ナ では 男女 フィギ ュア、 に分 か れ ており 、 北部 の ロシ アに近 い現 さ て、冬 季 アジ ア大 会 の会 場 は ニ カ所 のごと く 混ざ り 合 って いま す 。 ん なと こ ろ です か ら 、様 々な 人種 が汁 蝸 他 に古 か ら シ ルク ロー ドと し て交 易 の盛 二〇 一一冬季 アジ ア大会 ︵ カザフスタン︶に参加して た 演奏 が出 来 ま し た 。 実 は市 民 オ ケも 団 貝 が減 る 一方 で、今 にも 潰 れ そう ではあ る のです が、 せ っか く安 斎 先 生 が創 ら れ た オ ケを 次 世 代 に残 す べく 、再 度 が んば つて いる次第 です 。 幸 い、 市 民 オ ケ後 援 会 理事 の松 田幹 人先 生 を 始 め 、多 く の医 師会 員 の皆 様 に応 援 男 子 アイ スホ ッケ ー、南 部 の古 都 ア ル マ 志 成 テ ィでは女 子 アイ スホ ッケ ー、 スキ ー競 寛 し て いた だ いてお り 、 こ の場 を お借 り し 登別厚生年金病院︶ ︵ 田 てお礼 申 し 上 げ ま す 。 れだ け では ダ メで、音 楽 を 音 楽 ら しく演 に別 格 です 。楽 譜 を 正確 に演 奏 し ても そ 見 てき ま した が、菊 地 氏 の指 導 力 はま さ いま す 。私 も 各 地 で いろ いろな指 揮 者 を 成 五年 か ら市 民 オ ケ の指導 に当 た ら れ て 名 で、私 は バイ ア ス ロ ン競 技 のチ ー ムド ク タ ーと し て韓 国 イ ンチ ョン空 港 か ら 六 日本 選手 団 は選手 一〇 三名 、役 員 六十 五 カザ フスタ ン共 和 国 で行 な わ れま した 。 月 二十 九 日か ら 二月 六 日ま で西 アジ ア の 第 七 回冬 季 アジ ア大 会 が 二〇 一 一年 一 り ま した 。 て いた私 の願 いは は か なく も 次 回 の冬 季 子 さ んと ツー シ ョ ツトを 撮 り た いと 思 っ 技 、 バイ ア ス ロンが行 な わ れ ま し た 。 こ m程 離 れ ており 、 の二 つの都 市 は南 北 に千 k 女 子 フィギ ュア日本 代 表 選手 の村 上 佳 菜 今 回 の指 揮 者 であ る菊 地 俊 一氏 は 、平 奏 す るた め の方 法 論 があ り 、 そ れを徹 底 時 間半 程 で現 地 入り し ま し た 。 菊 地 氏 いわ く 、 ﹁ 第 九 ﹂ は 合 唱 の指 導 カザ フスタ ンは 、 日本 と の時 差 は 三時 日本 では考 え ら れな いよう な 光 景 に出 く 毎 日海 抜 二千 m程 のバイ ア ス ロンと ク オ リ ンピ ック ロシ ア の ソチ ヘと 延 期 と な 的 にた た き こ ん でく れ る指 導 者 です 。 が大 変 で、特 に男声 が非 力 で苦 労 す る こ 間 、 人 口 一五六 〇 万人 、面 積 二百 七十 二 m、 ︵ 万 平方 k 世 界 第 九 位 ︶ で、 西 は カ ス ピ 海 、東 は中 国 、南 は 天山 山脈 、 北 は ロ わ しま す 。簡 易 舗 装 の でこ ぼ こ道 を 時速 で 一時 間程 か け て登 り ま す 。 そ の道 中 、 本 選 手 団専 用車 両 ︵ ト ヨタ の レ ク サ ス︶ ロスカ ント リ ー会 場 ヘシ ャト ルバ スか 日 ま ると 、合 唱 は思 いのほか 上手 で、特 に シ アに囲 ま れ て います 。 石油 、 天然 ガ ス、 と が多 いんだ よね と 。と こ ろが練 習 が始 男 声 が い いと 。 そ れ に比 べ てオケ は 問題 37 し かも セ ンタ ー ライ ンは歩 行 者 、 野良 と した 交 通道 徳 は全 く 通 用 しま せ ん。 す 。割 り 込 みも 当 然 あ り で、 日本 の整 然 キ ープ は早 い者 勝 ち と いう こと になり ま て行 く わ け です か ら 、 セ ンタ ー ライ ン の m程 で走 る のです が 、 セ ンタ ー ライ ン 百k があ り ま せ ん 。 そ こを ど んど ん追 い越 し つく った馬 乳 酒 を 飲 んだ り 体 に塗 った り 隣 国 モ ンゴ ル出身 の横 綱 朝 青 龍 も 祖 母 の ス﹂ のよう な味 が濃 厚 にな るそう です 。 れば 振 る ほど ﹁ブ ルーチ ーズ 入リ カ ルピ 事 でし た が 、今 は機 械 で撹 拌 しま す 。振 一万 回 ほど 振 るそう です 。昔 は女 性 の仕 です 。子 馬 を グ シ にし て搾 乳 し 、茂 通 し 行 いま し た 。 雪像 作 製 チ ー ムは 、初 年 度 ではなく 、実 行委 員会 形 式 で組 織 作 り を ると の考 え か ら 、と む そ ︱ やく ら ぶ単 体 一般 市 民 の活 力 を 生 か す べき が必 須 であ そ し て今 後 継 続事 業 にし て いく のな らば 、 スタ ツ フにも 新 し い血 と風 を 投 入す べく 、 ラにお いて、 ゆき ま つり に着 手 し ま した 。 間 を 経 て、室 蘭岳 丘陵 公 園 H通称 だ ん パ の募集 と 付 き 合 いのあ る企 業 に声 を か け な ので参 加 が懸 念 さ れ ま し た が、新 聞 で 日本 選 手 団 は 、 開催 国 カザ フスタ ンに さ せ て いただ き 二十 基 す べ てが埋 ま り ま し た そ う です 。対 戦 相 手 は さ ぞ か し 臭 次 いで十 三個 の金 メグ ルと 合 計 五十 四個 し た 。特 筆 す べき事 は 、東 翔 高 校 一年 四 か った こと と 思 いま す 。 のメグ ルを獲 得 し 、第 二位 の成 績 でし た 。 組 の担 任 の先 生 が 、地 元 で開 催 さ れ る 一 犬 、 馬 、牛 にも 権 利 があ り ま す 。 し か し 、 中 国 と韓 国 より も よ い成 績 でし た ので、 回 目 のゆき ま つり な ら ば 、是 非 参 加 した 期 間 中事 故 は ほと んど みか けま せ ん でし た 。道 を 共有 財 産 と し て利 用す る こと に ま た 、 ヒ ッチ ハイ クも 公 然 と行 な わ れ 毎 晩 ウオ ッカ で ﹁ウ ラー ︵ 万歳 ︶ !﹂ と 長 年 の知 恵 と 暗 黙 の了解 があ る のでし ょ 。 ノ ヽ コ ム て いま す 。若 い女 性 が独 り で合 図を 出 し 、 いと 生徒 さ ん達 に声 を か け て いた だ き参 像 が 一週 間程 度 しかも た な いか ら です 。 理 由 は 、気 温 の低 い山 の上 であ っても 雪 で開催 さ れま し た。短 期 間 の開催 日程 の 終 日 の二十 日 ︵ 日︶ ま で の八 日間 の日程 三日 ︵ 日 ︶か ら ゆき ま つリ スタ ート 、最 の土 日祭 日があ り 、作 製 最 終 日 の二月十 雪像 の作 製 は 一月 二十 九 日か ら 計 七 回 加 く だ さ いま した 。 乾 杯 し て いま し た 。 神 島 博 之 ︵ 神島整形外科 ︶ ア ップも 行 いま した 。連 日新 聞 記事 と し 婆 NPO法人夢 工房 とむそ︱やく ら ぶ 第 一回市民雪像ゆきまつりを 主催して 停 ま った車 に平気 で乗 って いる。あ ま り にも よ く見 か け る ので、う ら若 い日本語 の女 性 通訳 ノ ルド さ ん に聞 いてみま し た 。 危 険 な こと はな いです か ﹂ す ると けげ ﹁ んそう な顔 を し て ﹁イ スラ ム教 の国 は女 性 を 大 切 にす るか ら絶 対 に安 心 です 。 わ た し も よ く 乗 せ ても ら いま す 。﹂と いう 返事 が返 って来 ま し た 。 さ て、 お酒 の話 です 。 た い へん好 奇心 ︻ 市 民雪像 ゆき ま つり︼ て掲載 し て いただ いた おか げ で雪 像 作 製 ま た 、夕 方 か ら 二十 時 三十 分 ま で ライ ト 探 し当 てま した 。馬 の乳 は授 乳 し て いる 平成 二十 二年度 、ほぼ 一年 間 の準備期 ク ム ス︶ を の旺 盛 な スタ ッフが馬 乳 酒 ︵ 母 馬 か ら 一回 一合 ほど しか搾 れ な いそう -38- と 軽 く 五千 名 は突 破 し て いると 思 わ れま 作 製 期 間 に来 場 さ れ た方 々な どあ わ せ る 場 者 があ り 、 スタ ッフや雪 像 作 製 チ ー ム、 ご む す れ ︱ も 例年 通 り 二千名 以 上 の来 結 果 、 二六 四七枚 の投 票 用 紙 を消 費 、 V放 映 を し て いただ き ま し た 。 全 道 版 にも 二回 、 地方 版 一回計 三 回 のT 見 に来 ら れ た方 にご 評価 いただ いた のか 、 モホ ロ ロ、 渋 い顔 を し て いま した が 、 下 にも 取 材 のお願 いに行 った と き には ケ ン つの効 果 があ り ま す 。事 前 に N H Kさ ん の作 製 に来 て いると い った事 だ け でも 一 ×二十 基 分 が土 日、 あ る いは平 日 に雪像 開催 口ま で の準 備期 間 には 五人 ∼ 二十 人 期 間 中 にも多 く の市 民 が訪 れ て いま した 。 て実 行 委 員会 は スタ ート し て いま す 。 ま す が、 す でに秋 口か ら第 二回 目 に向 け つなげ て いく か 、懸 念 材 料 は山 ほど あ り ま せ ん。次 の課 題 は 二回 目 の開催 にどう の努 力 の結 果 であ る事 は 言う ま でも あ り く れま し た 。も ち ろん スタ ッフ 一人 一人 スタ ソフ西條 君 は奮 闘 し 、結 果 を出 し て す 。大 き な事 業 を す ると 、勃 発 す る問 題 も多 岐 に渡 り ま す 。実 行 委 員長 を 務 め た も 誇 り です 。 そ し て実績 へと つな がり ま に楽 し ん で いただ け た事 は私 達 にと つて 方 達 と スク ラ ムを組 み、 より多 く の人 達 たち だ け が楽 しむ だ け ではな く 、多 く の く さ ん の笑 顔 を み る事 が でき ま す 。自 分 ほ ん の少 し の努 力 と 工夫 で こんな にも た 所 が散 在 し て いま す 。 し か し 、 地 元 でも さな いのはも った いな い。と いう事 で、 て いる。 雪 を 邪 魔 なも のと だ け し か みな 雪 に年 間 五百億 円 も の巨 額 のお金 を 使 っ 演 は素 晴 ら し いも のでした 。 北海 道 は除 そ れ は そう と 、当 日 の媚 山 教授 のご講 に道 は平 坦 ではあ り ま せ ん。 いか 、場 が違 う のか 、わ かり ま せ ん が常 お得 意 のよけ いな事 には 一切 耳 を 貸 さな 念 な がら 主旨 を 理解 いただ け な か った か 、 しま し た が 、あ え な く断 ら れま し た 。残 け さ せ て欲 し いと連 合 会 事 務 局 にお話 し があ った ので、周知 のた め の話 を 一分だ 市 のP T A連 合 会 で百 人近 く が集 ま る会 申 し訳 あ り ま せ ん。講 演 の 二週 間程 前 に き 挑 みま した 。結 果 は 五十 七名 。 教授 、 プ ッシ ユし て、新 聞 記事 にも し て いただ 室 蘭 市市 民会 館 で平成 二十 二年 十 月 三 日 の紹介 、備蓄 し た 雪 で夏 場 の空 調 を 行 っ 道 ・洞爺 サ ミ ット で使 用 した施 設 の空 調 わ かり やす く ス ライ ド で紹介 し て いただ ︵ 日︶ ﹁雪 の魅 力 ﹂ に つ い て のご 講 演 を て いる施 設 の実 例 紹介 等 です 。 そ の他 に ︻ 雪 の魅 力 に ついて基 調講 演 ︼ 雪 の利 用 を ﹁ 利 雪 ﹂ と し て様 々な事 例 を す 。 山 のレ スト ラ ンも 例年 以 上 には やり 、 大 忙 し であ った ろう と 思 いま す 。 室 蘭岳 丘陵 公 園 、 通称 だ ん パ ラ の地 に ば し い事 です 。 カ メ ラ の フ ァイ ンダ ー越 し に子 ども 達 、 そ し て市 民 のと び き り の 室 蘭 工業 大 学媚 山 教 授 に行 って いた だ き も 、 ﹁雪 は親 の様 なも の であ る。 ﹂ そ の訳 き ま した 。愛 知 万博 で の出 展 例 や 、 北海 笑 顔 と 歓 声 を 連 日追 う 事 が でき 、私 の心 ま し た 。 五百名 入 る大 ホ ー ルな ので、 せ はと か 、﹁日本 の米 は な ぜ美 味 し いのか 。﹂ 市 民 雪像 ゆき ま つり事 業 の前 段 と し て、 の中 にも幸 せ が満 ち あ ふれ る 日 々が こ こ め て 三百名 は来 ても ら わ な いと 格 好 が つ たく さ ん の笑 顔 の花 が咲 いた事 は大 変喜 に あ り ま し た 。 日 本 の中 でも 有 数 の リ そ の説 明 など な ど 、 利 雪 にか ら んだ 事 柄 を幅 広 く 丁寧 に、 さす が教 授 とう な ら せ ゾ ート 地 であ る ニセ コや ル ス ツな ど 、私 か な いと 全 小 学 校 に ポ ス タ ー、 リ ー フ レ ットを 配布 、 近 隣 の小 中学 校 には更 に たち の住 む ま ち の近郊 には素 晴 ら し い場 -39- がら私 達 の生 活 の中 で の雪 の魅 力 に つ い 深く コー デ ィネ ー タ ー の私 が汗 を 流 しな 実行 委 員長 ︶ を交 え 、 雪 の魅 力 を更 に奥 ゆき ま つり 副 二人 と プ ロの雪像 彫 刻 家 ︵ ンと し て、媚 山 教 授 、 メ ンバ ー の子ど も ま た 、第 二部 では パネ ルデ ィ スカ ッシ ョ いに集 め る事 が できず 申 し訳 あ り ま せ ん 。 講 演 であ った だ け に聴 講 者 を 会 場 い っぱ て いただ き ま した 。 そ んな素 晴 ら し いご ジ グ に シ ャー ベ ツト の雪 を 詰 め 込 み ブ ロ ック。ビ ニー ル袋 を 張 った木 製手 作 り 業 な の で半 日 置 け ば カ チ カ チ に な る ブ み に い って戻 ってき ま す 。寒 い中 で の作 ンク 三十 個 運 ん では使 い、 ま た自 宅 に汲 るま る費 や しま す 。 二十 L入 り のポ リ タ ば な り ま せ ん。行 程 が繁 雑 な た め土 日ま 落 す る事 のな い建 造 物 を作 り 上 げ な け れ 一ヶ月 間 以 上持 た せ るた め の、絶 対 陥 は 思 いま せ ん 。も と も と イ グ ルー の使 途 弱 い私 と し ては 、 さす が に 一泊 し た いと 想 像 し ただ け でも 嫌 にな る ので、寒 さ に 界 下 三十 度 にも な る中 で のチ ャレ ンジ は 足 り な か った と いう 記事 があ り ま し た 。 か ら希 望 者 を 募 り 、昨 年 は 四十 個 作 って イ グ ルー内 で 一泊 キ ャ ンプ を 目 的 に全 国 でも 極 寒 の地 であ る幕 別あ た り では例年 が んば れ る範 疇 でし ょう か 。 北海 道 の中 で の作 業 は身 体 に悪 いと感 じま す 。 イ グ 置 か れ て いる ので、 いき な り 酷寒 の世 界 しま す 。な にせ普 段 は ぬ るま 湯 の環境 に 作 業 ま で積 極 的 に や ってく れ る人 は激 減 員 を 確 保 し てしまう と 必 然 的 にそ の他 の ワー に不足 し て いま す 。 ゆき ま つり で人 ト ライ です 。 し か し 、 いか ん せ ん マンパ も ま た昨 年 の経 験 を 経 て改 良 を し つ つの グ ルー作 り にチ ャレ ンジ しま し た 。 これ 正 月 気 分 も 抜 け な いう ち に準 備 を 経 てイ 後 々 の日程 が つま って いるた め 、ま だ ︻ イ グ ルー &かま く ら︼ 様 です 。外 気 が氷 点 下十 度 であ っても 中 安 全 確 保 のた め にや ってお いた方 が良 い に氷 の壁 の層 が でき 強 度 が増 す 様 な ので、 火 を 使 い、暖 め てや ると そ の後 内 膜 の様 であ ろう 代 物 です 。 イ グ ルーは中 で 一度 そ らく は て つぺ ん に登 ると 崩 れ てしまう く ても自 然 に開 いてま す よ状 態 です 。 お も ので、 ガ タガ タな ので空気 穴 はあ け な て いま す 。 写真 でみ る出 来 映 え は ひど い も のを み ても 三時 間 で完 成 す ると 書 か れ す が 、 ホ ー ム ページ 上 に掲載 さ れ て いる ロ ック状 に切 り 出 し て積 み上 げ て いき ま た 雪 自 体 の重 み で 圧 雪 さ れ た も のを ブ 一般 的 な イ グ ルー の作 り方 は 、積 も っ パ ー テ ィを 開催 でき た し 、 よ しと し て い か ま く ら の中 で餅 を 焼 いた り 、焼 き 肉 しま し ょう 。我 々も 三年 目 にし て初 め て く の人 に楽 し ん で いただ け た のでよ しと る のが大 変 です 。 し か し 、 そ れ以 上 に多 て いま す 。 ただ し 、大 き な か ま く ら は掘 コンパネ を張 って崩 落 の危 険 性 を 無 く し 危 険 性 があ る ので、単 管 を 組 ん で天 丼 に ま した 。大 き な かま く ら は 天丼 が落 ち る かま く ら 一号 と か ま く ら 二号も 作 製 し れま す 。 ら の方 が よ ほど 利便 性 が い いよう に思 わ が セオ リ ー の様 です 。 そ れ な らば か ま く は せず 、 一泊 し た ら 翌朝 壊 し てしま う の 様 な ので、残 し てま た使 おう と いう こと 目的 の多 く はビ バ ー ク用 に作 ら れ て いる ルー作 り は体 力 勝負 でも あ り ま す 。 ま る はプ ラ ス何 度 か には保 た れ る様 です 。寒 ま す 。 雪氷 のブ ロ ック で作 製 した 滑 り台 ロ ックを 作 り ま す 。 で エジ プ ト のピ ラ ミ ッドを作 る人夫 のよ いのには 間違 いあ り ま せ んが 、 な んと か てひも と いて参 り ま し た 。 う な 気 持 ち になり ま す 。 40 が必 要 であ ると感 じ ら れま し た 。 度 はも っと多 く の スタ ッフを集 め る こと 会 場 の設営 にも 労 力 か け て いま す 。次年 ス テーブ ル六 つのセ ットも 用意 し ま した 。 も てな し のた め に氷 の天板 を作 製 し 、 イ 十 日 のだ ん パ ラ冬 フ エスで の来 場 者 のお 修 に つぐ 補 修 を強 いら れま し た 。 二月 二 も 好 評 でし た が、大 人数 が滑 るた め 、補 るごむ す れ ︱は行う 事 が でき ま せ ん。 ご て来 るか しな い限 リ スピ ー デ イで楽 し め ま ら なく す るか 、他 の場所 か ら 雪 を 持 っ す るま で の雪 が つか な いので コー スを つ だ ん パ ラ の降 雪 量 から す れば これを 回避 せ ん。 これ が 三年 目 の結 論 です 。 し か し、 題を 解 決 しな け れば前 に進 む事 は でき ま ぎ る。安 心 安 全 を う たう な ら ば 、 こ の問 様 々な コ ツや アイ デ ア の指 導 があ り 、ど 須 藤 く んが副 実 行委 員長 にな ってか ら は 、 室 蘭 市 輪 西 町 の ノー ルド デザ イ ン代 表 の ん。当 初 ノウ ハウはあ り ま せ ん でし た が 、 でき る のか ? や ってみな いと わ か り ま せ だ ん パ ラ の地 で果 た し てゆき ま つり は ︻ 雪像 ブ ロ ックと 土台 ︼ 学 的 には体 格 と筋 量 の差 だ け であ ると 言 で終 わ り ま す 。男 と 女 の差 は スポ ー ツ医 父 さ んと 一緒 であ れば コー ス の問 題 だ け せ が 問 題 。 重 く な ると スピ ードも つく が コント ロー ル でき な い。子 ど も 同 士 やお と つは 母親 と 子 ども 二人乗 り の組 み合 わ な いが安 全 だ 。と いう こと です 。も う ひ スピ ー ド が出 な い H距 離 が短 い、面白 く ても スピ ー ド が出 れ ば楽 し いが危 な い。 しま し た 。 し か し な が ら 、 ど こま で い っ てき ま し た 。今 年 も 反省 を 生 か し 工夫 を も 、今 ま でさ んざ ん改 良 を 重 ね進 化 さ せ 今 回 で第 三 回 目 にな るご む す れ ︱事 業 ご む す れ ︱考 察 ︼ ︻ ま す 。 これ でも 苦 肉 の策 的 で安 心 は でき y コー スと カ ーブ コー ス ニ本 だ てで いき 年 は絶対 超 え な いスト ッパ ー付 き E a s け れば 私 の身 体 が持 ち ま せ ん。 よ って来 落 ち てしま いま し た 。 問 題を ク リ アし な 力 と 精神 を消 耗 し 、意 欲 と いう 壁 が崩 れ いのか 。 開催 中 の十 五 日 間 でめ っき り 体 に必 ず 呼 び 出 さ れま す 。 そ んな に私 が悪 会 長 であ り 医 師 であ る私 は誰 か が傷 む 度 人 にはむ ち ゃく ち ゃ文句 を 言 わ れま す 。 いた だ いて いる にも か か わ らず 、傷 んだ コー ス整 備 を し て、毎 朝 雪 上 車 に走 って ので難 し い所 です 。あ れだ け神 経 を 使 い い人 を つか まえ てダ メだ しは でき ま せ ん す が 、初 め て来 る人 や運 動神 経 の足 り な あ げ 体 操 状態 が常 な の で、 か な り 骨 が折 めます 。 ま さ にぬか る んだ 場 所 で の モ モ づ くり は 雪踏 み作 業 が そ のほと んど を占 成 し た気 が し てき ま し た 。 雪像 ブ ロ ック き ま つり 会 場 の完 成 予想 図 が頭 の中 で完 ぼ ろげ な がら にしか見 え て いな か った ゆ いた しま した 。台 座 が完 成 し た所 で、 お へん よ ろし いゆき ま つり会 場 に早変 わ り ん の重機 機 械 操 作 により 、 見 栄 え のた い 作 り は完 了 さ せま し た 。 スタ ッフ田 中 く ま す が スタ ッフが集 ま る 日程 ま で に台 座 は そ こそ こ雪 が降 り 、ぎ りぎ り ではあ り な け れば なり ま せ ん でし た 。結 果 と し て でき るか どう かぎ り ぎ り ま で判断 を待 た む す れ ︱は憤 れ ると 操 作 す る事 が でき ま んど ん加 速 し て い った よう です 。 mではあ るも の の、 土台 作 り は高 さ 五十 c 台 座自 体 が裾 ま で入 れ ると 五 m ×五 mと 大 き いの で、降 雪 量 によ っては台 座 す ら わ れ て いま す が、 明 ら か に違 いま す 。危 ま せ んが 。 れ る作 業 です 。膝 ま でぬか るむ 足 場 の悪 機 意 識 の予測 に違 いがあ る のか 、転 倒 や コー ス アウト に対 し て明 ら か に無 防 備 す -41- 下 ↑ケ ガと いう事 も 予測 し 、考 え な が ら 光 でか なり 雪像 は溶 け ま した 。壊 れ て落 山 の上 であ っても 開催 期 間 中 は、直 射 日 ま つり を 開催 す る事 は 不 可能 です 。事 実 、 え ると 室 蘭 の地 では山 の上 以 外 では ゆき 寒 い日 は何 度 かあ り ま した が、気 温 を 考 ネ ー シ ョンを 飾 り お 目 見え し て いま す 。 も つき ま と いま す 。 雪像 たち が被 害 に道 わ な い様 、祈 り を 込 めた番 シ カも イ ルミ 可能 性 と慣 れ な い作 業 により傷 む 可能 性 足場 も 常 に悪 い状 況 です し 、危 険 であ る 高 い所 に登 ったり 、重 いも のを 持 ったり 、 業 は細 心 の注 意 は払 って いると は いえ 、 て踏 み続 け ると 言 った行 程 です 。 現 場作 スタ ッフ 一同 乳酸 のたま った 足 に鞭 打 っ れば き れ いな ブ ロ ックが でき な いので、 物 です 。 し か し これを き っち り やら な け い沼 の中 を ぶ っと お し で歩 き 続 け る様 な かり ま す 。 てか な り 強 固 な作 り にな って いる事 がわ 機 が持 ち 上 が るだ け で、円 の力 が作 用 し が、 イ グ ルーは重 機 で上 か ら押 し ても 重 我 々には撤 収 作 業 が残 さ れ て いる訳 です う事 が でき ま した 。全 てが終 了 し た後 も り 取 材 し て いた だ き 、大 変 い い締 めを行 T Vな ら び に各 報 道 機 関 の方 々にが っち 行 わ れま し た 。表 彰 式 の模様 も N H K た方 達 の市 民投 票 によ る雪像 の表彰 式 が スープ の販売 を 行 い、 お 昼 か ら は来 場 し 最 終 日 に は 焼 き 鳥 や フ ラ ン ク フ ル ト、 り 、意 外 と 大変 であ る事 がわ かり ま し た 。 で の駐 車 場 確 保 は想 像 以 上 に時 間 が か か 障 害 物 の無 い運動 場 と は いえ 、広 い場 所 場 の除 雪を 行 い、臨 時 駐 車 場 に しま し た 。 私 達 の スタ ッフを 動 員 し 、隣 接 す る運 動 訪 れま す 。 例年 駐 車 場 が混 み合 う た め 、 います ので、千 人 近 い人 達 がだ ん パ ラを で当 分 す ね は細 る 一方 です 。 し た 。息 子 たち は ふた り とも 道 外 です の は我 が家 も か みさ んと 二人 だ け にな り ま の春 に高 校 を卒 業 し進 学 し た ので、普 段 き には生 ま れ て いま せ ん でし た ︶ が今 年 最 初 に来 たと 三歳 で室 蘭 に来 た次 男 ︵ 年 半 になり ま す 。 も 一年 いた ので合計 はも う 一年 長 く十 六 入り ま し た 。 正 確 には卒 後 六年 目 の時 に 室 蘭 に来 て九 十 五年 たち 、十 六年 目 に だ んパ ラ冬 ま つりと ゆきま つり︼ ︻ れま し た 。 り 、 たく さ ん の市 民 の眼 を 楽 しま せ てく で作 製 した 雪像 は冬 のだ ん パ ラ高 原 を彩 いず れ にしま し ても 、精 鋭 二十 チ ー ム せ 、準 備 九 割 です 。 更 に大 き く育 って いく事 でし ょう 。 な に だ 魅 力 を 引 き 出 せ るはず のゆき ま つり は 方 に少 しず つの協 力 を いただ き 、ま だ ま て の活 動 は 既 に始 ま って いま す 。多 く の た方 々に感 謝 を し つ つも 、次 年 度 に向 け た く さ ん の来 場 者 並 び に協 力 いただ い か ったと こ ろ です が 、 こんな ご時 世 です 波 乱 の 日 々 は も う こ れ で終 わ り に し た て十 五年 の最後 に大 震 災 があ り ま し た 。 よう 、と 考 え た こと も あ り ま し た 。 そ し と 潰 瘍 持 ち な のに、穴 が開 いた ら どう し の渦 中 に副 院 長 にな った と き にはも と も 重 々承 知 のよう に波 乱 の日 々でし た 。 そ 特 に後 半 の五年 は室 蘭 市 医 師 会 の方 々は こ の間 、 いろんな こと があ り ま し た 。 ︵ 日銅 記念病院 ︶ 浜 田 弘 巳 十 五年 経 ち ま し た す す め な け れば なり ま せ ん。 最終 日はだ んパ ラ冬ま つり にぶ つけ て -42- ンタ ー︶ の故 佐 伯 守 弘 院 長 が小児 外 科 学 いと 思 いま す 。 か つて国 立 小 児 病 院 ︵ 現 、成育 医 療 セ す が 、少 し小 児 外 科 に ついて書 き 残 した 後 にも う ち ょ つと 柔 ら か いと こも 書 き ま ほう が量 的 にはず つと多 く ても です 。最 断 定 ︶。 た と え 現 在 は専 門 外 の仕 事 の ︵ も し れま せ ん が私 の専 門 は小 児外 科 です と は い っても 、 ご存 知 な い方 も いるか 受 け て いま す が︶ で取 り ま した 。 医 は室 蘭 で の診 療 実 績 ︵ も ち ろん試 験 も 回試 験 ま で受 けま し た 。救 急 、透 析 専 門 く さ な いよう にと 消 化 器病 専 門医 の第 一 当 然 のよう に救 急 、透 析 な ど も診 な け れ ば いけ ま せ ん。留 学 前 には将 来機 会 を無 いと いう わ け には いき ま せ ん。 こ こ では こ では自 分 の専 門 だ けを や って いれば い 医 です が 、大 都 会 ではあ り ま せ んか ら こ 入 局 し た のが 北大 第 一外 科 です か ら外科 見 ると 、驚 か れ ると 思 いま す 。も と も と P で ? 肩書 き 、持 って いる専 門医 な ど を り ま せ ん。 か ら 平穏 な 日 々は当 分期 待 でき そう にあ 五十 人 、 六十 歳 以 上 が 百 人 以 上 いま す 。 す ︶ が約 五十 人 、 五十 歳 代前 後 半 が各 約 上 一番 若 く 取 得 し ても 最 低 が 四 十 歳 で です 。 問 題 は年 齢 構 成 で四十 歳 代 ︵ 計算 現在 名 簿 に載 って いる方 が 三百 五十 九 人 ︵ ち な み に最 後 が 三 五 二番 ︶。 そ のう ち いま す と 私 の指 導 医番 号 が 三 四 一番 です るく ら いです 。 ど のく ら い少 な いかと い に気 づ いても らえ る のではな いかと 思 え 結 果 が ・ ・にな った時 初 め てそ の必 要性 分 の家 族 のこど も に手 術 が必 要 にな り 、 のと 思わ れます 。 ひ つそり と 絶 減 し 、自 ニ ッチさ故 も あ り 絶 減 危 惧 種 の最 た るも 昨 今 の医 師 不 足 の中 、小 児 外 科 は そ の ま し ょう 。 これ は いま でも 大 差 あ り ま せ ん。 い った い何 重苦 の中 にあ る のか 、と いえ 加え 、 一般 の方 々 の認知 度 も 低 いと いう 、 療 科 の代 表 みた いなも のでし た 。 そ れ に ら な いし 、病 院 にし ても 利益 の少 な い診 す 。実 は そ れく ら い労 働 量 のわ り に儲 か 会 場 か ら苦 笑 が漏 れた こと を 思 い出 しま る皆 さ ん は奇特 な方 々 であ ると 挨拶 さ れ 、 と 。 そ の二 つを 冠 し た診 療 科 を専 門と す 上 に大 変 な診 療 科 が小 児 科 と外 科 であ る て いま す 、 北海 道 では 四施 設 し か あ り ま も 必 要 で、認 定施 設 ︵ 当 院 も な んと か な っ 昨 年 は な んと 三十 %台 でし た 。診 療 実 績 専 門医 試 験 の合 格率 は大 体 五十 %前 後 、 です が 、試 験 が輪 を か け て難 し いです 。 り ま せ ん。年 間 に取得 す る のは十 五人 位 です が じ つは専 門医 の取得 も 容 易 ではあ こ のよう に指 導 医 の ハード ルも 一 局 いの ルは指 導 医 と 考 え て いま す 。 定 では責 任 を も って診 療 に当 た れ る レ ベ 十 例 以 上等 です 。 じ つは学 会 と し て の設 手 術 症 例 は新 生 児 、高 難 易度 年 長 児各 四 制 限 あ り ︶十 本 でつち 原 者 五 本 以 上 ︶、 論文 ︵ 小児 外 科 に関す るも の で、雑 誌 の の ハード ル の高 さ は群 を抜 き ま す 。筆 頭 ま せ ん。 つま り数 年 後 には指 導 医 は 二人 になり ま す 。 理 由 と し てま ず 指導 医 取得 上 でう ち 三人 は小 児 外 科 の診 療 を し て い 六 人 の名 前 があ り ま す が 四人 が 六十 歳 以 道 はどう かと いいま す と指 導 医 名 簿 には 指 導 医 の いな い県 が多 数 あ り ま す 。 北海 わ れま す 。 時 に現役 の指 導 医 は百 人 強 位 にな ると 思 十 年 す ると 私 も 六十 歳 を 過ぎ ます が そ の 一〇人 と い ったと こ ろ です 。 つま り あと 知 ら な い方 が 日頃 の私 の業 務 、病 院 H 会 会 長 を 務 め ら れた 時 の評議 員懇 親 会 で そ し て最近 の指 導 医 取 得 者 は年 に七 か ら 実 は地 域 の偏 在 化 も 問 題 で、専 門 医 ・ 当 時 の国立 小 児病 院 の総 長 が儲 か ら な い -43- 目的 と 言 い換 え ら れま す 。 こ の数 字 を み いのは診 療 のレ ベ ルを 落 と さ な いこと が です か ら専 門 医 、指 導 医 人数 を 増 や さな 個 人 の経 済 的 イ ンセ ン テ ィブ はな いわ け 持 って いても いま のと こ ろ診 療 報 酬 や 力 さ れ て いま す か ら 。 う と す ると自 分 の手 術 実績 が自 動 的 に入 か し はき き ま せ ん。申 請 書 類 を作 成 し よ て の手 術 台 帳 を提 出 し て いま す か ら ごま せ ん ︶ で の研 修 が 必 要 で、各 施 設 はす べ 現 役 を 引 退 し、後 進 に後 を 託 す ま で責 任 失 禁 は な いよう です 。 こ の子 たち は私 が 社 会 生 活 に支 障 を き た す ほど の高 度 の便 高 位 の子 も多 少 の機 能 障 害 はあ り ま す が 、 中 間位 の子供 たち は割 と 良 い機 能 です し 機 能 障 害 が残 り ま す 。幸 い私 の手 術 し た 位 だ と ど う し ても多 く の子 に幾 ば く か の 問 題 な い事 が多 いのです が、 中 間 位 ・高 肛 ︶ の息 児 の場 合 、低 位 の時 は機 能 的 に 鎖 こま ね ば な り ま せ ん。直 腸 肛 門 奇形 ︵ と いう こと は そ の子 の 一生 を 時 に背 負 い そ し て現在 の北海 道 の事 情 に つ いても け養 成 す る こと は難 し いのが 現状 です 。 た だ 手 術 件 数 か ら言 ってそ れを当 院 でだ 必 要 な 小 児外 科 医 を 養 成 す る こと です 。 す 。 です か ら今 、必 要 な こと は十 年 後 に け る小 児 外 科 医 の養 成 には十 年 か かり ま 疾 息 を 指 導 医 な し でな んと か こな し て い が近 づ き つ つあ り ま す 。 一般 的 小児 外 科 で手 術 を 続 け る こと が でき な く な る年 齢 ただ 私 も 五十 歳 を 過ぎ ま し た 。第 一線 にと 思う こと があ り ま す 。 ただ け で いか に絶 滅 危 惧 種 であ るか お分 触 れ ておき ま し ょう 。 じ つは 北海 道 で難 そ し ても う 一つは小 児 特 有 の病 気 があ 医 大 の 二名 、帯 広 に 一名 だ け です 。 こ の う ち 帯 広 は術 者 の年 齢 も あ り 一、 二年 後 を も って診 て いか な け れば なり ま せ ん。 り ま す 。 成 人 し か見 て いな いと どう いう になく な る可能 性 が高 いです 。 つま り 日 か り いただ け ると 思 います 。 しかも 最 近 です が十 年 後 も そう か はわ か り ま せ ん。 病 態 でどう いう 手 術 が必 要 な のか 理解 さ 高 山脈 の東 側 には 一人も いな いと いう こ と にな り ま す 。 そし て道 南 も ゼ ロです 。 易 度 の高 い手 術 を こな せ る小 児 外 科 医 は 小 児 外 科 の意 義 に つ いては言う ま でも れ な いこと があ り ます 。例 え ば鼠 径 ヘル 本 来 は北 海道 全 体 であ と 三 四人 は 地域 小 児 外 科 医 にやり つぱ な し で終 わ ると い な いも のと 思 いま す 。 子供 は小 さ い大 人 ニア。 いろ んな事 情 があ り今 でも 成 人 の は小 児外 科 学 会 の会 員も 減 少 傾向 です し。 ではあ り ま せ ん。大 人と 同 じ感 覚 で手 術 外 科 医 が そ れな り の数 を手 術 し て いる最 で こな せ る人 材 が いな いと な ら な いので 十 人も いま せ ん。札 幌 以外 だ と 私 、旭 川 す ると 痛 い目 にあ いま す 。手 術 の内 容 に も 小 児外 科 と し ては数 の多 い手 術 です 。 う こと は な いん です 。 ついても 成 人 と 異 なり 機 能 温存 、将 来 の す 。 こ の現状 を 理解 し ても ら いた いと 思 救 いは専 門 医 取得 者 数 の減 少 が な いこと 成 長 を 考 え た手 術 が 必 要 です 。 こ の先 五 こ の手術 には いく つもピ ット フォー ルが ただ 少 し希 望 があ る のは今 、 北海 道 で 十 年 以 上 障 害 な く 成 長 さ せ 、機 能 維 持 が て いま す 。あ と か ら ト ラブ ル の対 応 を し 少 しだ け若 手 で小児 外 科 を 志 す 医 師 が増 います 。 私 は成 人 の手 術 も し て いま す が 、成 人 た ことも あ り ま す 。 これ らを 見 て いると え てき た こと です 。少 しず つです が大 学 あ り ま す 。 いろんな アク シデ ントも 聞 い の癌 の手 術 と は コンセプ トを変 え て手 術 専 門 医 に手 術 し ても らえ れば よ か った の な さ れ な け れば いけ な いの です 。 す る必 要 があ り ま す 。 そ し て手 術 を す る - 44 - す 。 ただ そ の 一方 で、 北大 の小児 外 科 講 かと は 思 いま す が 、 ま だ ま だ 先 のこと で 帰 ってき て、 場数 を 踏 めば な んと か な る 多 い病 院 で研 修 さ せ て いま す 。彼 ら が いま す し 、実 際 、彼 らを 本 州 の症 例 数 の で小 児 外 科 を 志 す若 い外 科 医 が出 てき て ね。 カ テゴ リ ー が 別 に な り 続 け て いま す か ら に な る ん です よ ね 。 長 男 の進 学 と 同 時 に と 長 男 が いる 山 形 が 降 格 し そ う な のが 気 も 昇 格 し ても ら わ な いと 。 た だ そう な る 曜 開 催 は J lだ け に な る の で な んと し て 圏 の a w a y に行 き やす く な り ま す 。 土 かな 景 勝 地 と いう 室 蘭 のも う 一つの顔 が てみ るとピ リ カ ノカ に指 定 さ れた自 然豊 地球 岬 観 光 道 路 を ゆ っく り と ド ライ ブ し のんび り と し た追直 漁 港 を ぬけ 、 そ し て 絵 輛 岬 から 測 量山 観 光 道 路 を た ど り 、 す る こと が出 来 な い見 事 な 風 景 です 。 の山 が並 ぶと いう 、他 ではち ょ っと 目 に 見 え てき ます 。 医 師 も ま た 生命 と向 き 合う と いう き わ め て重 い職業 ではあ り ま す が 、仕 事 を 離 れ て の別 の 一面 を誰 しも が お持 ち のこと と 思 いま す 。 波 久 鳥 創 刊 以 来 の常 連 であ り 編 集 の中 心 にも お ら れ た加 藤 治 良 先 生 は医 師 と し て の表 の顔 、文 人 、 画 人 、風 流 人 と し て のも う 一つの顔 、ま さ に室 蘭 の二面性 を 思わ せ るよう な見事 な才 能 を お持 ち の方 櫛 引 両名 が レギ ュラー で頑張 って いま す 。 す 。今 のチ ー ムには室 蘭 大 谷 出身 の宮 澤 、 む こと が出 来 、鉄 の町 室 蘭 の重 工業 地帯 く に駒 ヶ岳 、有 珠 山 、 そ し て羊 蹄 山 を望 輛 岬 か ら み る噴 火 湾 は手前 に大 黒島 、遠 全 国的 には地 球 岬 の方 が有 名 です が絵 十 五号 ま で全 て の内 容 を P D F フ ァイ ル 医 師 会 事 務 局 の高 橋 さ ん の尽力 に より 二 年 の出 版 です が今 年 二十 六号 にな り ま す 。 成 十 三年 ま で毎 年 号を 重 ね 、 そ の後 は 隔 昭和 五十 五年 に創 刊 さ れ た波 久 鳥 は平 でし た 。 来 年 はJ l の舞 台 で彼 ら の活 躍を 見 た い にごく 近 いにも か かわ らず青 く 澄 んだ 海 で見 る こと が出 来 ま す 。室 蘭 市 医 師 会 の 美 し い白 鳥 湾 が広 がり ま す 。 噴 火 湾 の東 の端 に絵 輌 半 島 に囲ま れ た 斉 藤 甲斐之助 波久 鳥編集委員 長 追 悼 加 藤 治良 先 生 いと 思 いま す 。 ま せ ん が 、 ま だ ま だ 老 け こま ず に行 き た か 。 世 の中 の動 き が 早 す ぎ て想 像 も つき さ て来 年 は ど う な って いる の で し ょう 座 が なく な り ま し た 。 これ が こ の先 の小 児 外 科 医 の育 成 、 し いては将 来 の小 児外 科 診 療 に影 響 が出 な いか が心 配 の種 です 。 最 後 に、 ち ょ っと 柔 ら か い話 を 。 ご存 知 の方 も多 いと 思 いま す が 、私 は も う 十 年 以 上 コンサ ド ー レ札幌 のサ ポ ー タ ーを し ており ま す 。 な んと か都 合 を つ け てホ ー ムゲ ー ム に足 を 通 ん で います 。 た ま に出 張 と 日程 があ え ば 本 州 へも行 く こと があ り ま す 。 二〇 〇 八年 に降 格 し て か ら 三年 、今 年 や っと 昇格 のチ ャ ン スが 来 ま し た 。 こ の原 稿 が皆 様 の目 に触 れ る と き どう いう 結 果 にな って いるかわ かり です 。 じ つは来年 の春 には次 男 が 田舎 の の向 こう に巨大 な エネ ルギ ーを 秘 めた火 ま せ ん がな んと か 昇 格 し て欲 し いも ので 寮 か ら東 京 に引 っ越 し てき ま す か ら首 都 -45- ホ ー ム ページ か ら会 貝専 用 の ページ に入 ると す ぐ に見 つか り ま す 。 創 刊 号 か ら 二十 二号 ま で の表 紙 は加 藤 先 生 によ るも のです 。室 蘭 の美 し い景色 を いる いろな手 法 で楽 しく 描 いてお ら れ ま し た 。内 容 ま で読 み通す のは よ ほど 暇 な時 にし て いただ く こと と し て表 紙 だ け でも 目を 通 し て いた だ け れば 、加 藤 先 生 の愛 し た室 蘭 風 景 が よ みがえ る のではと 思 いま す 。 大 正 十 三年 室 蘭 に生 ま れ 、十 二年 間 の 室 蘭 市 立病 院勤 務 を 経 て昭 和 三十 二年 に 母恋 に内 科 医 院 を 開業 さ れ、惜 しく も今 年 九 月 に亡 く な ら れ た加 藤 先 生 の絶 筆 と 2011年 7月 12日 攀 ♂ -46- ケッチ 絵を愛 し 病室から見える追直港の風景 ワ乾'ら・″与 爾 ,r ″ 病 室 か ら 見 え る追 直 港 の風 景 ﹂ な った ﹁ ガ ″ を 巻 末 に飾 り 先 生 のご 冥福 を お祈 り いた しま す 。 t ぢ浄 ″ ゼ /´ \ r lb 、 を ご存 じ の先 生 方 にお集 ま り 頂 いて ﹁ 室 蘭 今 昔 物 語 ﹂ と いう 題 でお話 し し て頂 き 出 しま した 。 こ の大 災 害 は被 災 地 の人 々 の人 生 を 大 き く変 え ま し た 。 そ れ のみ で 周 囲 の環境 へ膨大 な 量 の放 射 性 物 質 を 波 発 電 所 で原 子炉 の メ ルト ダ ウ ンを 起 こし、 なり ま した 。 ま た 、大 津 波 は福 島 原 子力 の結 果 、街 が破 壊 さ れ多 く の人 が犠 牲 に いわ れ る大 津 波 を 引 き起 こしま した 。 そ たと 思 いま す 。東 北 では約 千 年 に 一度 と でし た 。多 く の先 生 は診 療 の最 中 であ っ 今 ま で感 じ た こと のな いよう な長 い揺 れ 室 蘭 でも か な り大 き な揺 れを 感 じま した 。 四十 六 分 ﹁ 東 日本 大 震災 ﹂ が おき ま した 。 平 成 二 十 三 年 三 月 十 一日 午 後 二 時 み返 し てみた時 に変 化 の節 目 であ つた と たも のと 考 え て います 。何 年 か た って読 申 し上 げ ま す 。 おかげ さ ま で会 員 の皆 様 頂 いた皆 様 には 編集委 員 一同心 より 感 謝 る スケ ッチも 描 いて頂 き ま し た 。ご協 力 て頂 き ま した 。ま た 、絵 や文 章 の間 を彩 と し て いろ いろと貴 重 な御 体 験 を投 稿 し 作 ら れま し た 。医 師 と し てあ る いは市 民 こ のよう な変 化 の時 に今 回 の波久 鳥 は い者 にも 大 き な変 化 が感 じら れ ま し た 。 子 が生 き 生 き と 語 ら れ て いて昔 を 知 ら な わり ま し た 。昔 通 って いた お店 や街 の様 ま せ んが長 い年 月 の間 に室 蘭 は大 き く 変 波久 鳥 ﹂ 二十 六号 編集 委 員 ﹁ 室 蘭 市 医 師会 会 誌 沖 赤 ゑ ︵ ≧何 発行 日 平成 二十三年 十 二月 一日 発行所 室蘭市 医師会 印刷所 株式会社 日光印刷 -47- 綿 集 後 記 なく 日本 の経 済 や制 度 を大 き く変 え ま し 感 じられ る ﹁ 波 久 鳥 ﹂ であ る こと を期 待 本 山 尻 田 川 永 尾 田 村 藤 甲 信 哲 貴 秀 至 昌 茂 博 斐 一 之 仁 郎 郎 康 一 博 譲 純 司 夫 通 助 木 ま した 。 日 々 の変 化 にはな か な か気 づ き た 。 同時 に日本 人 の心 の中 を大 き く 変 え し て いま す 。 ︵ 生 田茂夫 ︶ に楽 し ん で頂 け る﹁ 波 久 鳥 ﹂が できあ が っ たと も いわ れ て いま す 。今 ま では お金 を 稼 ぐ こと や成 果を 上 げ る こと を 目 標 と す る こと が重 要 と 考え ら れ て いま し た 。大 震 災 を 境 に自 然 を 守 る こと 大 切 であ ると か 、 困 って いる人 を 助 け よう と考 え る人 が増 え てき ま した 。 こ のよう に今 年 は大 き く 時 代 が変 わ るよう な年 でした 。 一方 、座 談 会 では 昭和 三十 年 代 の室 蘭 立 今 山 横 野 岩 柳 福 堀 生 三 斉