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死者を返してもらったアブラハム

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死者を返してもらったアブラハム
死者を返してもらったアブラハム
ヘブライ書の福音 28
死者を返してもらったアブラハム
11:17-22
イスラエルの信仰の父と言われるアブラハムの生涯の中でも、ここはその
ピークをなす箇所です。アブラハムの名は、英語式に発音すると Abraham
(エーブラハム)。昔から多くの人たちが、この人の信仰にあやかるように、
という願いをこめて Abraham という名を親から付けてもらいました。歴史
に残る有名人ではもちろん Abraham Lincoln,新しい所では映画「アマデウ
ス」でモーツァルトを死に追いやる敵役がエーブラハムさん。これは芸名で
しょうが。それに朝は連続ドラマの「はっさい先生」にまで顔を出すくらい
です。
そのアブラハムが、主と仰ぐ神から息子のイサクを、犠牲として献げよと
命じられて、それに服する話。これは旧約聖書の中でも一つのクライマック
スになっていますし、読む人にも最も強い印象を残すくだりです。旧約聖書
創世記の第 22 章、新共同訳では 34 頁の上段から始まります。(口語訳 25
頁上,新改訳 30 頁上)
1.これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が「アブラハムよ」
と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、 2.神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行
きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として献
げなさい。」(元の訳では『燔祭』という字が使ってありました)
3.次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、
二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
4.三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた
ので、 5.アブラハムは若者に言った。
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「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそ
こへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
6.アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背
負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
7.イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、
「ここにいる。私の子よ」と答えると、イサクは言った。
「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいる
のですか。」
8.アブラハムは答えた。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」
二人は一緒に歩いて行った。
9.神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並
べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を
伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11.そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びか
けた。彼が、「はい」と答えると、 12.御使いは言った。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であ
ることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わ
たしにささげることを惜しまなかった。」
13.アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の
雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代
わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
14.アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名
付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言
っている。
15.主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。 16.御使いは言っ
た。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、
自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、
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あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫
は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福
を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
これがアブラハム伝の中でもそのクライマックスと言えるイサク燔祭の場
です。もちろん、実際には最後に出る雄羊が屠られて薪の上で焼かれますか
ら、アブラハムはヘブル書の 3 行目にあるとおり、「献げようとした」だけ
です。しかし今も読んだとおり、「息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せ
た」のですし、「手を伸ばして刃物を取り」羊の喉首を切る時のように刃物
を構えたのです。御使いの制止がなかったらイサクの血は祭壇の上に流され
ていた筈です。その意味では、2 行目の表現のように「イサクを献げてしま
った」のです。ここは完了形で表現してあって、アブラハムはイサクを「献
げてしまった人」として描かれています。
このくだりはユダヤのラビたちの間では「イサク縛り」の場と呼びならわ
されていました。アブラハムの真骨頂、彼の信仰の神髄を覗かせるシーンで
ありますが、決して分かり易くはありません。反発と拒否反応を覚える人が
いても不思議はありません。
人身御供を徹底的に否定した旧約聖書の中に、この話があること自体が不
思議でもあります。アブラハムを試すためとはいえ、アブラハムにとっては
何ものにも変えがたい息子の血を流して祭壇の上で灰になるまで焼き尽くせ
という命令でした。なぜなのか。
それに、この物語は事実だけを、殆どドライと言ってもいいような筆致で
淡々と描きます。「お父さん、小羊は、どこにあるのです」と尋ねるイサク
に「羊は神さまが自分で見計らいなさる」とアブラハムは答えるのですが、
この曖昧な答えの外にはヒントは何も無い。それは苦し紛れのごまかしであ
ったのか、それともヘブライ書が見ているような復活の信仰が込められてい
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たのか?
こういうのは人間が書いた人間の文学では、もっと心理描写を入れないと
「持たない」ものです。クレタ島に伝わる長い民謡詩に「アブラハムの犠牲」
というのがあります。アテネでトマダキス教授の講義を受けたので少し覚え
ております。350 年位前にクレタ島のギリシャ人が残した作品で、現代ギリ
シャ文学のはしりみたいな素朴なものですが、創世記とは違い、描写は真に
ドラマチックです。父アブラハムの苦悶、家を出て行く子と母の別れ、サラ
の心をよぎる不安、等が綿々と語られます。ところが創世記の「イサク縛り」
の場はそうじゃないのです。心理描写等は全く無くて、「イサクを祭壇の上
で屠れ。灰になるまで焼き尽くせ」アブラハムはこれに服した。言葉と表現
も押さえて、押さえて書いています。それが印象をいっそう強くしています。
ユダヤ人のラビたちに言わせれば、このヘブライ書の見方は余りに狭くて
偏っている、と言うでしょう。もっと広い角度から霊的な教訓を引き出すこ
とができる。こんな一面的なものではない。そう言うと思います。でも私た
ちはもう一度、中村さんが朗読なさった 11 章の 17 節に戻りましょう。新共
同訳 480 頁、口語訳 355 頁です。
第 1 段は 17 節から 18 節までで、ここは……
本気でイサクを焼き尽くす献げ物にする、そんな服従は何故できたか―
それはその時点で既に、そこまで信頼し切れる神との生きたつながりがあっ
たから出来た。
ここも「信仰によって」で始まります。この「信仰で」という一語
に重心がありますから、ここも「アブラハムがイサクを献げきった姿で我々
の前に立っているのは、ほかのことではない。信仰で……なのだ」となりま
す。でも今朝はこのまま読みます。
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17.信仰によって、アブラハムは試練を受けたとき、イサクを献げました。
つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 18.この
独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」
と言われていました。
アブラハムにとって、未来の総て、希望全部がかかっているような独り子
イサクを「放棄せよ。お前のものではなく、私のものとして思い切れ。灰し
か残らないようなゼロの形にしてでも、後は私に任せよ」とお命じになった。
それを真っ正面から受け止めたアブラハムは、なんと信じて服した。彼にと
っては主なる神はそこまで、すべてを懸けて悔いの無いような、不動の信頼
性を、彼の経験の中で既に持っていた、というのです。
普通、世間では子供を一人失いでもしたら、それと一緒に未来は絶望、暗
黒になります。どんな形ででも、例えば親に徹底的に反抗して去ったとか、
自分の家庭と自分の仕事と自分の世界を持つ独立人間になって離れてゆけば、
「この子にかけていた私の未来は何だったんだろう」と、すべてが空しくな
ったりします。案外こういう人は多いものです。結局はわが子を自分の所有
物として、自分の夢と未来をそこへ投影して、「生きがい」という美しいカ
バーを掛けていたからですね。神のものとは思わなかった。
アブラハムにとってのイサクは、単なる独り子とか、将来の夢が掛かって
いるとかいう、人間的な意味だけではなかったのです。子を持つことは全く
絶望と思えた老齢で、神の力の奇跡で与えられたのがイサクでした。神の約
束の確かさ自体が、奇跡の息子イサクの中にある、イサクを失えば神の約束
も無に帰する……という考えが起こっても不思議はありません。その彼が神
の約束そのものとさえ思えたイサクを、未来の全部と一緒にどうして放棄し
て委ねる気になれたのでしょう。それは、この人にはそれでも信じてすべて
をかけて間違いない神との、その時点までの歴史があったからです。「信仰
で」イサクを献げたという意味はそこにありましょう。
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第 2 段は 19 節でここは……
イサクを犠牲にして屠るという、考えられないような服従のかげには「死
んだ者にも命を注いで生かす神」への信頼があった。
19.アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる
と信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいました。それは死者の
中から返してもらったも同然です。
最後の行の「同然です」と訳したところ、原文は「比喩で」
返して頂いたとでも言いましょうか、「たとえの形で」受け取ったと書いて
あります。これは、文字どおりイサクが死んで復活したのではないが、そう
だといっても良いような戴き方をした。だからイサクはいわば復活させて頂
いて、父と一緒に山を降りたのである。……これがこの訳文を書いた人の趣
旨でしょう。とすると、アブラハムがしもべの若者に言った言葉も、そうい
う意味で本気で言ったことになります。「礼拝を済ませたら、二人で帰って
来るから、ろばを見張って待っておれ」と。イサクを本当に屠る決心を固め
ていたとすれば、しもべへのこの言葉は「復活させる神」を信じるのでなけ
れば、言えない筈です。
しかし「死者の中から息子を」「たとえの形で」「返された」というこの
不思議な言い方は、イサクが生きて帰って来たこと以上の何かを、つまりイ
エス・キリストが死者の世界を突き抜けて復活者として帰られる姿を描いた
絵として、その予告編、シンボルとしてイサクを受けたのだ、という意味に
なります。前回に引用したあのヨハネ伝の言葉(8:56)に、「アブラハムは
あそこから私の日を見て喜んだ」とありましたが、彼はそれをイサクの上に
二重写しにして見ていたのかも知れません。
第 3 段は残りの 20 節から 22 節まで。ここは……
このようなスケールの大きい信仰を言い表したのは、アブラハム一族の中
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には外にもいたことを付記します。
ここももちろん文の形は前と同じですから、「イサク、ヤコブの臨終の祝
福も、ヨセフの最後の指示も、あれはみな『信仰で』であった。信じまつる
神があって初めてあれができた!」という響きと重みを持つ訳ですが、この
まま新共同訳で読みます。
20.信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのた
めに祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。 21.信仰によっ
て、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、
杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。 22.信仰によって、ヨセフは臨終
のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を
与えました。
ここにあるのは全部、旧約聖書の創世記と出エジプト記の故事です。それ
もこの人たちが地上の旅路を終えて、死を迎えた時にイサクは信仰の言葉で
息子たちを祝福した。ヤコブは孫たちに神の祝福を与えながら、主なる神を
信じてしっかり生きよ、と言い残した。……こういう箇所を読むと、我々、
その時が近付いている者にとっては、人ごとではない実感があります。ヨセ
フなんかは全民族がエジプトの奴隷階級だつたどん底で、次の世代に希望の
言葉を残して行きます。
「わたしは間もなく死ぬが、神は必ずお前たちを顧みてくださる。このエ
ジプトから自由の世界に脱出する日が来る。その時は私の骨を携えて、その
自由の国へ行け。」なんと、死ぬ人が、残る人に希望を与えさえした。それ
もこれも、みんな信仰で初めて可能であった。あなたは死にしなに、そんな
希望を残してゆけるか。しかり、信じる神をもつ時にそれはできる。
考えてみると、ここに書いてあるヤコブとエサウ、ヨセフの息子たち、解
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放の日に立ち会う子孫たちというのは、外でもない、あなたの息子さんたち
のことです。あなたの娘さんたちの絵なんです。私たちの孫たちと二重写し
になっているのです。そんな去り方を最後にしたいが、そんな力強い別れ方
は、イサクやヤコブが仰いだ神を仰いでできる。あなたにもできるんだ、と
いうのがヘブライ書のチャレンジです。
《 まとめと勧めの言葉 》
「死者を返してもらったアブラハム」というテーマを掲げて始めました。
未来のすべてがかかっていた独り子を献げよという命令に、それでも信じら
れる神をもったが故に、アブラハムは服することができた。神の約束が生き
ている限り、イサクの血を流しきって、灰にしてしまっても、神は生きたイ
サクを返してくださる。死者を生かす神を彼は信じていた。その信仰はイサ
クにも、ヤコブにも、ヨセフにも脈々と生きて流れていた。この人たちの死
に際がまさに、信仰で死んで行く者の輝きを持っていた。
二三日前に、がん患者が最後の日々をどのように生きるか、またどのよう
に静かに平安にすごさせてあげるか、という内容の番組が放映されていまし
た。たしか、患者に病名を告知するかどうか、ということが直接のテーマに
なっておったと記憶します。淀川キリスト教病院のホスピスが紹介されてい
まして、柏木哲夫ドクターもホスピスの事業を紹介して話しておられました。
患者が病名を知る権利ということを主張していらっしゃる婦人が、「自分
の病気を正確に知らされて、あと何ヶ月生きられると知って初めて、人間ら
しく、積極的に生きられるのだ」という趣旨の話をしておられましたし、医
師の立場や看護婦の立場からの発言等、いろんな角度から問題が取り上げら
れていました。
でも、私が感じたのは、どの人もみな、自分の体験、自分の確信から、外
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の人の場合もみんなそうである筈と力説しておられる様子でした。「医師は
がんの病名を告知せよ」という講演を打って回っておられる勇気ある婦人は、
病名さえ教えてもらえれば、人は自動的に生きる力と勇気に満ちる、みたい
な話を繰り返しておられましたし、反対に不幸な実例をいくつか見た医師は、
やはり告知するのは問題だと警告していらっしゃいました。その中で、米国
のあるホスピスの明るさが取り上げられていましたけれども、やはり、病名
告知を受ける側の肝腎の受け皿のほうが、果たして現実を冷静に受け入れて、
なお勇気が持てるような人間なのか、その準備はできているのかという、本
当のポイントがボヤかされているように見えました。日本はアメリカより 30
年遅れている、というので、とにかく病名を告知しようという傾向だけが、
これからは進むのだろうな、と想像しました。そのこと自体はウソでカバー
するよりずっと良いに違いありませんが、受け皿の無い所では苦痛もショッ
クも一層激しくなるのでしょう。
考えてみると人生の晩年というものはみな、がんになる、ならないにかか
わらず、まあホスピスの入院生活みたいなものですが、その最後の数年、最
後の数ヶ月と別れの時がイサクやヤコブのような力強いものでありたいな、
と思います。ヨセフの解放の予告みたいなのを、それも強がりとかイイカッ
コ抜きで、できたら良いな、と思います。私たちも息子共をみな巣立ちさせ
たし、主な役目は殆ど済ませたし、あと残るのは死を迎える事業です。その
事業、いわば“final project”ですが、二三年で完成しますか、なし崩しに
15 年以上も経営することになりますか、既にその事業に身を投じたという実
感があります。
今日読んだ終わりの 7 行を見ますと、臨終の枕もとに愛用の杖を持って来
させて、一族の長として神を礼拝した人がいた。息子たちと孫たちに、主の
名によって祝福を与えて静かに去った人がいた。自分の骨の始末まで事務的
にドライに指図しながら、「この地上の生涯は絶望じゃない。死からの解放
があるんだ!」と言い残して、光りを指し示した人がいた。
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そういう者になりたい。そしてそれは、恵みにより信仰によってなれるの
です。ヘブライ書のアピールです。
(1988/03/27)
《研究者のための注》
1.アブラハムがイサクを縛って献げようとした地は創 22:2 によれば「モリヤの地」で
すが、歴下 3:1 のモリヤ山と同定されるとすれば、シオンの丘と同一地点になります。
2.神がアブラハムを試みた「試み」の内容は、神御自身が彼に授け、アブラハムにとっ
ては将来を保証する唯一の根拠であったイサクを、彼が神に属する宝、神の所有とし
て全く神に委ねきることができるか、それとも、それがいつの間にかアブラハム自身
の所有となり、何を犠牲にしてでも死守しようとする執念に捕らわれてしまうかとい
う点に中心があったのでしょう。
3.ヤコブはヨセフを前にして創 47:31(MT)によれば寝台の「枕もとで」感謝を表し
たとありますが、同じ箇所の LXX は「杖の先に(のって)」です。私の説明は二つを
結びつけてあります。
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