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第8回「響きと怒り〜『大蛇に食いつくされる』〜残酷な夏⑥」
第8回「響きと怒り〜『大蛇に食いつくされる』〜残酷な夏⑥」 「秋月藩 : 賃金をめぐる訴え」 また普請の遅れにもつながる。1000 人をゆうに超える多くの 人夫に難儀をかけ混乱をきたせば、秋月藩の汚名が表面化す 炎暑はいっこうに衰えをみせず 5 藩の作業現場に熱波を容 ることになる。そこで仁左衛門を掛りからはずし正規の賃金を 赦なく降り注いだ。秋月藩の丁場では掘割普請は順調に進む 早速支給してほしい」 かに見えた。そこに、人夫の世話人たちが出面(労賃)の支払 世話人たちは窮状を訴え出たのである。事態を重く見た惣 いをめぐって藩の掛り役人に訴え出るという 「訴訟沙 汰」が起 奉行吉田縫 殿助は、仁左衛門を取り調べたうえで即刻解雇し きた。訴えられたのは、訴え出た世話人たちの頭・仁 左衛門 た。小藩である同藩では、印旛沼掘割普請に伴う経費の捻出 (常陸国土浦出 ) で、彼は人夫雇い引受人の秋葉孫兵衛から普 に難儀を強いられていた。藩主黒田長元の命令を受けて、家老 請の取り仕切りを一任されていた。世話人たちは、仁左衛門の 吉田斎宮は家臣に対し向こう 2 カ年の所務渡し米 (扶持米、給 もとでクジ引きによって決められた普請場所に人夫を投入して 与)の減額を行うことを口達した。同時に藩では家臣に対し寸志 いた。彼らの訴えによれば、 「当初人夫の賃金は一人銀 4 匁(1 (寄付)を募ったところ、家臣の中から所務渡し米の一部を役立 匁は 1 両の 60 分の 1) であったが、それがいつしか坪割による てて欲しいと申し出る者が相次いだ。このうち足軽森士郎の倅 賃金に変わり1 坪 12 匁に下げられた。これまでの半分が損金 利平は、葛の根を掘るなどして 3 分 (1 両は 4 分)を献上した。 になる勘 定である。加 (以下、鏑木行廣 『天 彼らは 〝家臣の鏡〟として褒め称えられた。 えて賃金が渡されない 保改革と印旛沼普請』、千葉市史編集委員会 『天保期の印旛沼 こともあり、仁左衛門が 掘割普請』、 『印旛沼開発史』、 『印旛沼経緯記』を参考にし、一 横領している疑いがあ 部引用する)。 る」との愁 訴であった。 「膏血を搾り取られてい る」 との哀訴である。 「仁 左 衛 門に大普 請 「藩士・百姓が買った品物価格」 を任せたのは孫兵衛自 庄内藩の普請場で雇われた人足賃銀が 1 人日銀 4 匁、郷人 身の判断の誤りであり、 夫の賃金が 1 人日銭 200 文など、銀や銭の通貨で支払われた。 秋月藩の人夫雇い系統(松本精一氏論文より) 連載/泥と汗と涙と ● 13 第8回「響きと怒り〜『大蛇に食いつくされる』〜残酷な夏⑥」 (1 両は 4000 文) 。この賃金は当時の人足や郷人夫が生活する あった。わらじは、最大値が 28 文で、最低値が 8 文であり、平 上で必要な物価等と比較してどのようであったのだろうか。 均値では 15 文である。酒は 1 人で 20 文から 29 文までである。 村の住民の多くは農民で、現金を手に入れる機会はないとい 旅籠では 1 泊で上旅籠で 300 文、中旅籠で 250 円、下旅籠で える。年貢を納めたあとの米は、自家用に消費する分を除き、 200 文で、自分で賄いをする木賃宿もあった。 (上は 1 汁 3 菜、 出来るだけ売るように心掛けた。野菜や藁 ・竹の細工物を市場 中は 1 汁 2 菜、下は 1 汁 1 菜である)。賃金は決して低くはな に持って行って売る者もいたし、茶店を出してささやかな商売 いと言えよう。 をやっている者もいた。耕作の合間に野鍛冶や屋根葺きといっ 庄内藩と鳥取藩の普請場をかかえる北柏井村の名主には心 た職人仕事をする者もいる。農閑期に出稼ぎをするのは当たり 配事があった。数千人もの人夫が普請場に投入されていて、日 前になっている地方もある。年貢は米の場合は現物納だが、そ 用雑貨などの商品をはじめ農作物、薪、松葉などが不足してケ の他は金納が普通で、金銭に全く無縁ということではなかった。 ンカや口論が起きており、今後も大事が起きかねないと心配し 庄内藩の現場記録には「郡奉行山岸嘉右衛門の出金留帳」 「 、杖 たのである。そこで事件が発生した場合の諸費用の分担として、 突太郎右衛門出銭帳」 「定助葬礼入目帳」 、 があり、帳面に品名、 当人が 3 分、村方 (名主など)がならし(平均)で 5 分と農民の 代金が記録され、そして酒代もかなり頻繁に記録される。普請 石高に応じて 2 分とすることを決めた。 ● ● ● 場への旅の支出ということに限られるが、この時代の消費生活 の一端をうかがうことができる。 前記の帳面から判明できた品名とその代金が分かるものは、 290 品目である。昼賄 (昼食代)は 45 文から 50 文位の代金で 「工期短縮の情報」 8 月 7 日 (新暦 8 月 31 日)、早朝は薄曇りで初秋を思わせる 涼風が吹いた。だが現場作業に入る朝 5 ツ (午前 8 時)頃から 残暑の陽光が照りつけた。昼頃雷鳴が西の空に轟いた。人夫 たちは骨休めを願って雷雨を期待した。が、曇りにもならず雨 の降る気配もなかった。 昼過ぎ、庄内藩の元小屋に飛脚が駆け込んだ。国元から追 加の人夫を追々出立させるとの知らせであった。追加の庄内藩 (自主参加)の希望者で 郷人夫は、藩の徴発ではなく 「厚意登」 編成されていた。合わせて 750 人が 7 月 28 日、8 月 2 日、同 5 日、同 8 日の 4 度に分けて国元を出立している。惣奉行竹内 茂正は飛脚のもたらした書状を読み終わると、作業用の裁着袴 に着替えた。竹内は体調がすぐれなかったが、供の者を従え馬 に乗って高台から弁天の方へ向い、百川屋雇いの人夫が働く普 請場を見て回った。掘削現場で作業をする人夫たちは頭から 水を浴びせられたように日焼けした全身から汗を流し泥にまみ れ、アリの群れのように列を作って掘った土石を運び上げてい る。夕刻、幕府勘定組頭金田故三郎が元小屋に立ち止まった。 「当初の 10 か月の内に完成させよとの方針は、大幅に前倒し になるかも知れない。口外は無用である」 金田は声を低めて竹内に語りかけた。竹内は腕を組んだまま で言葉を返さなかった。 金銭出納帳にみる品物代金(松本精一氏論文より) 14 ● 水とともに 水がささえる豊かな社会 鳥取藩の持ち場では、普請現場で倒れたり下痢を催す人夫 が増えだした。重病となって寝た切りの作業員も出て来た。惣 奉行乾八次郎は病人には積極的に投薬するよう命じた。それ は庄内藩が病気の人夫に薬 (漢方薬)を進んで施すので人夫の 集まりがよいとの評判を聞いていたからであった。完成前倒し の情報を信じれば、同藩も人夫をより多く集めなければならな くなるのは必至であった。 百川雇丁場(続保定期、 『天保期の印旛沼堀割普請』 (千 葉市史編纂委員会) より) 庄内藩の普請場で指揮をとる地 方巧者(土木巧者)大館藤 兵衛は、柏井村の鳥取藩元小屋に出向くよう命じられた。そこ には幕府の勘定方 (普請役元〆格)渡辺棠 之助と鳥取藩持ち 一方、この日夕方、江戸城に近い鍛冶橋内八代洲河岸にある 場担当の勘定土 肥伝右衛門が待っていた。 (藤兵衛が庄内藩 鳥取藩上屋敷に、現場の添奉行 (副奉行)吉村牧右衛門から藩 の優秀な土木技術者で、河川改修や堰普請で実績を挙げてい 主宛てに御書状が届いた。その中で 「幕府勘定方役人から追々 ることは前回記した)。鳥取藩の総奉行乾以下幹部も同席した。 3000 人の人夫を動員して、当初の 10 か月を半分の 5 か月で完 元小屋には蚊遣り香が青白い煙の線を引いてくゆっていた。 成させるよう内々に指示があった」と知らせて来た。突然の方 「鳥取藩と貝淵藩は軟弱なケトウ (化灯)土にはほとほと泣か 針変更の情報に、藩主をはじめ重臣でため息をつかぬものはな されている。幕府頼りの黒鍬者でもお手上げで万策尽きた。何 かった。この日も難関の鳥取藩現場では、3000 人を既に超え かよい方法はないか」 て 3208 もの人夫が汗まみれになって働いていた。 上座に座る渡辺は膝を進めるようにして訊ねた。 幕府江戸町奉行鳥居耀蔵の部下である与力佐久間、同心加 「花島観音下の丁場は一通りではありません。最悪の地質と 藤、同五島は、庄内・鳥取・貝淵・秋月の 4 藩の持ち場を見回 言えます。そこで掘割筋 (水路)を東側に移すことを考えてはい り、疲労や猛暑による病人 (今日の熱中症) が出たら報告する様 かがでしょう。もし掘割筋の西側にある花島観音の高台を残ら に伝えた。一行は秋月藩の元小屋に近い検 見川村 (現千葉市) ず切り崩して堀割りますと、さらに莫大な経費が必要となりま の秋元屋重兵衛方に宿をとった。 す。とても賛成できかねます」 藤兵衛は掘削水路のルート変更以外に打つ手がないことを 強調した。 「〝化け物丁場〟をどうするか」 「その仕法で間違いなく難場を避けることができるか」 渡辺は声を荒げて質した。 同月10 日、 朝方印旛沼から普請現場にかけて霞がかかった。 「すべてとは言えません。3 分の 2 の難所は除くことができ 秋が近いことを伝えるものだったが、朝 4 ツ (午前 10 時)まで ましょう」 には晴れ上がった。猛暑もひと休みとなり、夕方から涼風が吹 藤兵衛は落ち着いて答えた。問答に耳を傾けていた土肥は、 いていく分凌ぎやすくなった。暮れ方、庄内藩の添奉行都筑が 3 分の 2 が除ければ普請は容易になり大いに進むことが期待 江戸藩邸から現場に戻って来た。 できると、新たな手法に興味を持った。 「竹内様には当面現場に留まるようにとの沙汰でございます」 「早速、計画を改め掘割を東側に移しはいかがでしょう。化け 都筑は恐縮したような表情をつくって藩主の意向を伝えた。 物丁場を避けられそうです」 竹内は空咳が止まらず微熱が続いていた。彼は、いったん江戸 土肥は上役の渡辺や鳥取藩役人に声をかけたが、にわかに に帰って妻子と再会し体調を整えたうえで帰任したいと願って 応じる者はいなかった。責任者江戸町奉行鳥居耀蔵が一旦決 いただけに、都筑の報告には失望の念を隠せなかった。 めたことは変更したがらない性格であることを知っていたから ◇ であった。 連載/泥と汗と涙と ● 15 第8回「響きと怒り〜『大蛇に食いつくされる』〜残酷な夏⑥」 「普請の縮小案、浮上」 8 月中旬に入ると工事は本格化した。同時に工事期間と堀 床の短縮が幕閣内で大問題となっているとの噂が飛び交った。 12 日、庄内藩の元小屋に悲しい知らせが届いた。5 日傷寒病 (赤痢・腸チフス)療養のため普請場を離れて江戸の親類宅で 養生していた代官矢島逸策が前日他界したとの訃報であった。 (不憫なることなり)と日記に記し矢 惣奉行竹内は 「不憫成事也」 島の異郷での死を悼んだ。その後も普請場で倒れる人夫は増 掘割断面図 (堀床10間・法2割、 『天保期の印旛沼堀割普請』 (千葉市史編纂委員会) より) え続けているのである。 16 ● 留守居役大山は百川屋が作成した庄内藩経費見積書を幕府 に竹内は幕府勘定吟味役篠田藤四郎から 「内密であるが」とし 勘定渡辺に内々に提示した。 「このくらいの額であろう」との返 た上で、 「当初の見込みより普請経費が増えたため幕府内でも 事であった。 (金額は不明だが、10 万両は下らないであろう)。 対応を評議中である」と聞かされた。当初の幕府計画では堀床 「このような莫大な額になるとは予想外のことであり、今度掘 が 10 間、法が 2 割 (底辺 2 に対して高さ 1 の割合) であった) 。 床が 8 間 (1 間は 1.8 メートル) で、法(斜面) が1割 (底辺と高さ 前月 28 日に出立した追加の庄内郷人夫が到着した。遊 佐郷 の比率が 1:1)に縮小になるようだ。そうすれば普請費用も半 からの 209 人で、大庄屋今野茂作をはじめ手代割役、大組頭、 分位に減るので、それを考えた見積もりで差し出したらどうか」 郷医その他村役人 8 人が付き添ってきた。遊佐郷 (岡田村)の 渡辺は伝えた。これに対し大山は応じた。 肝煎六右衛門は、旅の途上宿泊先にあてた利根川べり関宿藩 「普請が縮小になるにしても、また見積もりをやり直すと手間 領境町の古老理左衛門から 「天明期の印旛沼掘割普請に関与 取るし、老中の水野様からたびたび工事前倒しを催促されてい した話」を聞かされた。彼は半世紀前の掘割失敗談に大いに興 るので、遅滞は許されない」 味を持ち 「留帳」に詳細に記した。到着後竹内に 「留帳」を差し 「それならばやむをえない、これで届けてはいかがか」 上げた。 (<付録>参照)。 渡辺は答えた。大山は惣奉行竹内の了解をとって見積書を早 13 日(新暦 9 月 6 日)、朝夕は風も吹いて凌ぎやすくなった 飛脚で江戸藩邸に送った。 が、それでも日中は汗が流れる暑さであった。暮れ方から晴れ この後のことである。竹内は、昼過ぎに江戸商人・駿河屋平左 て月夜になった。月光が 5 つの藩の元小屋を照らした。この日 衛門を元小屋に呼んで普請費用の才覚 (資金調達) を依頼した。 秋月藩では、幕府支配勘定大竹伊兵衛から 11 日までの普請の 「何とか普請費の才覚に協力願いたい。わが藩の資金は底を 進捗状況を報告するよう指示された。惣奉行吉田縫 殿助は配 つきそうである」 下の者に 「3 分の出来でござる」と答えさせた。実は 5 分の出来 彼は、商人の前で金の工面のため頭を下げることをよしとは であったが、その後の普請が進捗しなかった場合のことを勘案 しなかったが、異常事態であり屈辱を耐えるしかなかった。駿 して、あえて低く答えさせたのである。 河屋が江戸に帰った後、竹内は才覚の件を江戸藩邸に報告す 沼津藩の丁場では人夫の賃金支払いをめぐって大混乱が生 るため藩勘定組頭林元右衛門を江戸に向かわせた。 じた。この月 5 日までは普請の専門家集団である黒鍬組と現 ◇ 地雇い人夫の賃金は一日銀 4 匁 5 分であったが、10 日になっ この日、幕府勘定奉行梶野良材が、庄内藩担当の部下を引 て黒鍬組に銭 448 文、現地雇い人夫に銭 400 文ずつそれぞれ き連れ、高台の同藩普請場を検分に来た。竹内が接遇した。 支払った。ところが、現地雇い人夫は、少なすぎると不満を述 「堀床は 7 間または 8 間の見積もりで、法は 1 割勾配でひと べて持ち場から引き払ってしまった。その結果、11 日、12 日 まず掘るようにせよ」 には人夫の数が大幅に減った。幕府役人に気付かれることを恐 梶野は堅い口調で指示したが、その理由は示さなかった。 (後 れた惣奉行土方縫殿助は、13 日には賃金を銀 4 匁 5 分に戻 水とともに 水がささえる豊かな社会 した。これによって現場労働者が再度確保されるようになった。 だけに現場は任せられないので、もうしばらく在留するように」 江戸表では町奉行鳥居耀蔵が老中水野忠邦から勘定奉行の との指示であった。これは竹内が、都筑が江戸から現場に戻っ 兼務を命じられた。これによって、鳥居は現場監視役のみなら た際莫大な普請費用を手当てするため江戸に上りたいと伝え ず普請経費を含む工事全般に指揮を揮う立場になった。与力・ た先の書状に答えたものであった。藩主酒井忠発は普請の経 同心は本来の治安維持の他に、勘定奉行鳥居の配下としての 費急増をことの他案じていた。 活動が加わった。 最後の庄内人夫が村役人付き添いで到着するとの情報が寄 せられた。これで庄内藩の現場労働者は 3000 人を超え、庄内 人夫 754 人、百川屋雇い人夫 2456 人、新兵衛・七九郎雇い 「のしかかる普請経費」 人夫 190 人の合計 3400 人となる。 この夜は十五夜であった。中秋の名月が印旛沼の湖面や 5 14 日朝、勘定奉行梶野が急遽江戸に向かった。方針変更を 藩の普請場を照らし、秋風がススキの原を渡った。藩主の計ら 協議するためだった。幕府内では普請経費の増大が緊急課題 いで、庄内人夫に 1 人につき銭 50 文が下された。体調維持の となった。財務担当の梶尾が急遽江戸に向かったのもこの大問 ためにとの理由で焼酎の差し入れがあった。中秋の一夜、竹内 題に対処するためである。 は荒涼とした工事現場の一隅で月明を仰いだ。黒い松林の向こ 「幕府は詳細を後で伝えるとのことだが、とかく一貫性のない うには、農家の灯や煙が見える。彼は時代を思い、幕政を思い、 デタラメなことだ」 普請事業を思い、家族を思った。月光を踏んで短歌を吟じた。 庄内藩惣奉行竹内は幕府の普請仕様の変更について苦々し い思いを日記に記した。 彼はこの日の御用留に、老中水野に提出した 「堀床 10 間、法 2 割の見積書」を書きとどめた。それによると、水上部分の普請 「蛇の食」 が 11 万 8107 坪で 金 3 万 3463 両余 (1 坪につき銀 17 匁)、 「古堀の普請は天明 3 年に田沼意次公の威勢をもって行わ 水底部分の普請が 12 万 4435 坪で金 7 万 2587 両余 (1 坪に れたもので、今は亀ヶ崎 (酒田の亀ヶ崎城)の外堀くらいな模様 つき銀 35 匁) 、泥汲み・水替え (排水用)水車、足場その他一 になっているが、いずれにしても広大で大変な難所である。こ 式で金 1 万 1000 両ほどとなっている。合計すると 11 万 7050 の度の普請は掘割の曲がりを直し、幅も広く、また深く掘らな 両余で、当初の幕府の見積もりが全体で金 15 万両余であった ければならない個所もあり、国元で考えていたのとはあまりに ことを考えると、一藩の負担の重さは歴然としている。この見 も違い過ぎている。これでは完成は覚 束なく、人夫は 60 万人 積書は 12 日に百川屋の手の者が藩に出した見積もりに基づい も必要だろうし、費用も金 20 万両位と見込まれる。この通りな ている。他の藩の見積もりは、沼津藩が金 6 万 3144 両余、鳥 らば、古堀筋の『蛇の食』になってしまい、先の国替えと同じこ 取藩が金 6 万 1500 両余、貝淵藩が金 4 万両余、秋月藩が金 と (政治弾圧)だ」 1 万両余となっている。庄内藩分も含めると金 29 万 1694 両と 庄内藩大庄屋久松宗作は国元に宛てて普請場の無残な様子 いう莫大な金額になる。 を書き綴った書状を送った。さらには、難所のケトウ土につい 15 日、庄 ては 「鳥取藩や貝淵藩の持ち場内には、ケトウ土という泥土が 内 藩 江 戸屋 多く湧きだす場所があって最大の難所となっている。馬糞のよ 敷の 藩主 か うな土で水気が甚だしい所は湧き出し、どろどろとしていて、鍬 ら竹 内 に 書 にも鋤にも引っかからず、ただ水のように汲み干すしか手立て 状が届いた。 がない。そのうえいくら掘っても、一夜のうちに泥土が湧き出し 「添 奉 行 (副 て埋まってしまう」と驚きをもって伝えている。大勢の人夫が汗 奉 行)都 筑 水流して働いている掘割現場は一匹の大蛇がのたうち回って蠢 庄内藩の見積書(堀床10間・法2割、松本精一氏論文より) 連載/泥と汗と涙と ● 17 一、当時七十二番杭より因州様御持場、林様御持場内迄も泥 場に而、今日六尺掘下げ候得者 明朝迄如故吹出し又者両 岸われ下り、尤 花島観音辺難場に而、村内には井戸曲り、 或は家之内凹くなり候も有、甚だ難儀いたし候由 一、寅年より巳年迄無休取掛り候得共、成就之見当無之旨御 掛衆より申立候得共、主殿頭様江申上兼候旨伊豆守様御 鳥取藩工区・花島神社付近(ケド層に悩まされた。現在) 達有之、金沢安太郎様出役有之、色々手尽し候而も手戻り のみに相成候由、尤上土当時之如く遠く捨候にも無之近々 上げ候所、午年関東洪水之節泥場之上土左右共崩落、此 いているようなものだ。完成しなければ掘割の溝に三度大金を 上はたとひ如何様に被付候共拠と評議究り手段無之旨申 捨てることになる。大蛇に食いつくされるのである。 上げ止めに可相成由 一、巳十月高台当時七拾番杭之辺より如大柄杓(絵あり)黒石 〈付録〉 庄内藩遊佐郷岡田村 (現山形県遊佐町)の肝煎六右衛門の 而跡物成りとて江戸江相回し候積に而、検見川某之蔵江入 「留帳」より。天明期の印旛沼掘割普請に関与した関宿藩境町 置候所、夜光をなし、船に積候事も不相成由に而、当時六 の理左衛門への聞き取りである。 (ひらがなで統一。紙面の制 拾九番杭之辺之西側に休小屋有之、脇江為取寄候処、大 限もあり現代語訳は省略する) 雨大雷に而置き候処、かの石もうせ大穴明候由、此節要右 明和六丑年 (1769) 出生に而当卯七拾五歳相成候得共、丑年生 衛門様犢橋村止宿に而取急ぎ罷帰り候由、所謂龍卵之類 に付七拾六歳の積にいたし置候由 に而も可有之哉と之沙汰いたし候由 一、安永九子年 (1780)村方大普請有之、支配勘定猪俣右衛門 と申仁出役に而 子分にいたし仕官之身分に取立可申旨に 而被貰候而、同年十二歳に而江戸江 罷登候由、然所兄病 死に付帰村相続人に相成候よし 文御渡に相成、全通船いたし候御趣旨に者無之由 一、惣御入用積拾萬両余之由、五ヶ年之御入用七万両程之よ ふに承知居候由 一、安永年 (18 世紀後半)写に烏山検校と申もの高利非常之賃 普請役山口鉄五郎、この人後御代官に相成候よし、長山才 金いたし、当人遠島欠所に相成、欠所金八万両程有之、右 助平田政蔵関和太夫、この人後御代官に被仰付候、当時保 御元に而新田開発御目論見相成候趣之噂茂有之、彼怪石 右衛門様之父若田喜内出役印旛沼手賀沼辺見分、高台掘 も烏山座頭之執念抔と沙汰いたし候由 一、天明二寅年印旛沼手賀沼新開被仰付、御用掛田沼様御勘 定奉行松本伊豆守様組頭金沢安太郎様此面々者見分無之 候 一、同年三月御普請始り猪俣要右衛門支配勘定岩尾治郎左衛 一、見分之節より御普請中故、要右衛門殿江刀持いたし、毎日 毎日場所江罷出候由 一、地土呂場成就可致見込も可有之哉之承り候所、天明之度 は御入用金辛く一と丁場も請負被仰付、弐割引に而代金於 検見川御渡に相成候、引候弐割は成就之上御渡之由積り、 門御普請役前五人、外に拾壱人相増場所分け御普請取掛 如当時人夫大勢出候無之、高台は御国人足位之人数も掛 り候由 り候に有之、其外前後川岸都合二千人位も入人に可有欤一 一、高台より掘割始横戸村地内東側江人足小屋四拾五棟建、 一日之出人大抵弐参千人位と覚候 一、弁天其節当時之地面に相成候而沼より検見川迄川筋掘割 之由 ● 一、天明之度に印旛沼手賀沼新開就御用たれ被遣候旨之御証 一、天明元丑年当御普請所目論見為見分、右要右衛門外に御 割見分有之、此節要右衛門供いたし候間 (ママ) 18 壱つ掘出し候由、長四尺斗り目形四拾貫目位如黒染堅石に 水とともに 水がささえる豊かな社会 向見立無之も可有之、此度者別段之御威光故出来兼候事 に有之間敷候、甲斐守様御尋之節茂申上候由 右関宿老人承候所話し之由、折々此者七九郎新兵衛丁場 江罷出何廉作配いたし候。 (つづく) ∼印旛沼にまつわる物語①−義民佐倉惣五郎伝説∼ “印旛沼”から連想するものの一つに、佐倉惣五郎伝説があります。 この話は舞台となった下総地方だけではなく、全国的に広がり信仰を集め、 今もなお、墓前には線香の煙が絶えることはありません。 命を投げ打ってまで、農民たちを救おうとした佐倉惣五郎のお話です。 ■義民・佐倉惣五郎伝説あらすじ 天保年間、 下総佐倉の領主の圧政に苦しんだ領民 のために、名主・木内惣五郎(本名)は命を捨てる覚 悟で将軍家に直訴せんと江戸へ向かう。安食の宿で 役人の詮議を危うく逃れ、惣五郎は松 崎の土手へ。 ここで渡し守・甚兵衛の義侠で舟を出してもらった (甚兵衛渡し)惣五郎は自宅へ戻って妻子に別れを告 げる。帰途、役人に見咎められるが甚兵衛はこの役 人を殺した罪を背負って印旛沼に投身して亡くなる。 惣五郎の直訴は取り上げられるが、妻子もろとも処 刑される。 (参考: 「名跡 佐倉宗五郎(HP)」) 現在でも、歌舞伎等で上演され 「佐倉義民伝」 とし て有名です。 県立印旛沼自然公園・甚兵衛公園(千葉県成田市北須賀)。 旧跡 甚兵衛渡し や樹齢300年以上の松の森がある。 この松は 「日本の名松百選」 に選定されて いる。 甚兵衛大橋施工工事(昭和42年4月) 水資源開発公団(現水資源機構)により、北印旛沼に橋 が架けられた。右奥が甚兵衛公園 宗吾霊堂にある木内宗吾の墓所(千葉県成田市宗吾) ※木内惣五郎は木内宗吾、佐倉宗吾、佐倉惣五などとも呼ばれているが、 この木内惣五郎 が本名である。宗吾という名は、後の佐倉藩主が惣五郎の名誉回復をはかったさいの贈 り名である 木内宗吾の旧宅(千葉県成田市台方) 連載/泥と汗と涙と ● 19