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第7回「大地の叫び〜炎暑・雷雨・疫病〜残酷な夏⑤」

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第7回「大地の叫び〜炎暑・雷雨・疫病〜残酷な夏⑤」
第7回「大地の叫び〜炎暑・雷雨・疫病〜残酷な夏⑤」
「藩主からの差し入れ、
『沢庵漬』」
と鳥取藩の持ち場の境界近くにあって境界線の目印になってい
た。掘割を挟んで反対側の小高い丘には、普請の妨げにあるこ
7 月 28 日
(新暦 8 月 23 日)
、印旛沼の東に日が昇るにつれ
とから工事前に移設された元池弁天の朱色の鳥居が建ってい
て夏の日差しが照りつけ大地を焦がした。この日も庄内藩郷人
た。
(午前 4 時)に起床した。
夫は、拍子木と法螺貝によって暁 7 ツ
竹内は、渡辺の幕府幹部の動向に関する情報がたびたび
「誤
食事をとり明け 6 ツ
(午前 6 時)の法螺貝を合図に日の丸が染
報」となることにいら立った。上司にへつらうような小役人ぶり
め抜かれた大旗 2 本を先頭にして、遊 佐郷、荒瀬郷の順に整
にも腹が立った。が、口には出さなかった。前日にも、渡辺は庄
列した。次の太鼓での合図で、惣奉行竹内茂正らが見送る中、
小屋を出発し元小屋のある高台を下って普請丁場に降りて行っ
た。朝 5 ツ
(午前 8 時)過ぎ、竹内は元小屋で普請丁場に出向
くため軽装に着替えた。前日、江戸表に向かう添奉行
(副奉行)
黒崎に托した藩主酒井忠発宛ての書状の内容を思い出してい
た。書状は
「普請は猛暑や地質などに妨げられて難航しそうで
あり、工事の方向が見える 9 月上旬までは現場で指揮に当りた
い」との願いを記したものだった。この難工事の前線指揮官は
「拙者にしか出来ない」との強い意思を伝えるものだった。そこ
に陣笠をかぶった幕府・庄内藩普請丁場担当の勘定渡辺左大
夫が姿を見せた。
「幕府勘定奉行の梶野様が元小屋に立ち寄る予定である」
渡辺はそう知らせると
「ご免」と言って立ち去った。竹内は普
請場に出向くのを見合わせていた。だが梶野の一行は立ち寄
ることも無く、弁天から庄内藩に接する鳥取藩の丁場に向かっ
て行ってしまった。弁天は、正しくは
「元池弁天」といい庄内藩
元池弁天の宮(続保定記、
『天保期の印旛沼堀割普請』
(千葉市史編纂委員会)
より)
連載/泥と汗と涙と
●
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第7回「大地の叫び〜炎暑・雷雨・疫病〜残酷な夏⑤」
内藩場所奉行辻を呼びつけて
「書付」を渡していた。だが、これ
12 日現地着)。第二陣は 8 月 2 日に発つ。
(8 月 14 日着)
。藩
までの指示と比べて特段の変更はなかった。
「一、朝、取り掛
は猛暑の作業であることから交代要員を送り込んだのである。
かりは 6 ツ半
(午前 7 時)
。一、夕、掘り方引き揚げは夕 7 ツ
(午
(以下、鏑木行廣
『天保改革と印旛沼普請』、千葉市史編集委員
後 4 時)
」
と改めて命じたうえで、
「炎暑で人夫が疲労するので日
会
『天保期の印旛沼掘割普請』、
『印旛沼開発史』
、松本精一氏
中の休みの回数を増やしてもいいが、その代わり昼食後の休
論文
「江戸時代の土木設計・積算・施工技術を探る−
「天保期
み時間を短くせよ」
と記されていた。苛酷な労働を求めているこ
の印旛沼掘割普請」の古文書を読む−」などを参考にし、一部
とには変わらなかった。
引用する)。
この頃、町奉行鳥居耀蔵の手下・与力と同心が秋月藩普請
場の千葉村
(現千葉市)で 3 人の博徒を召し捕えた。人夫の労
賃を目当てにイカサマ賭博に引き込んだ疑いである。博徒が現
場周辺を徘徊しているとの噂は絶えなかった。
「雷雨にさらされる元小屋」
竹内は、涼風が吹くようになって普請場を見回り、人夫たち
7 月 29 日、朝から曇りがちだったが、蒸し暑い日となった。
を激励して予定通り夕 7 ツ
(午後 4 時)には元小屋に引き上げ
竹内ら幹部は幕府目付戸田寛十郎が立ち寄るとの知らせから
るように命じた。
普請丁場では、朝 4 ツ
(午前 10 時)
、昼 9 ツ
(正
元小屋に正装して詰めていた。戸田は昼食をとるために立ち
午)、昼 8 ツ
(午後 2 時)に法螺貝で休憩し、太鼓で再び労働に
寄ったのである。昼ごろ、一天にわかにかき曇ると雷が轟 き、
就き、夕 7 ツ
(午後 4 時)にその日の作業を終了して、朝と同じ
叩きつけるような雨が降り出した。雷鳴とともに豪雨の襲来で
隊列を組んで元小屋へ戻った。規律は厳守された。
ある。話し声が聞こえなかった。元小屋は雨漏りがひどく畳を
この日夜、江戸藩邸から荒瀬郷の 92 人に酒一樽
(四斗樽)が
引き剝し、戸田には長柄傘をさし出し他の者は傘をさして雨漏
江戸の出入り商人松尾屋を通じて差し入れされた。29 日の竹
りを凌いだものの全員びしょ濡れとなった。床上まで濁流が押
内日記には以下の記述がある。
し寄せた。幕府要人戸田への
「大不調法」
(竹内)となった。大
失態であった。5 藩の普請場でも豪雨に見舞われ、掘削した
一、 惣人夫へ 1 昨日はニシン 3 本づつ、昨日は塩引、外に沢
掘割
(水路)が泥水に水没してしまった。中でも海に面した秋月
庵漬と号し酒密かに下され置き候につき、少し人気も進み
藩の普請現場では一部が海面に没し、工事は一から出直しと
候心に相成り、昨日抔 は何れも情働、掘方果敢に取り申し
なった。
候
大庄屋久松宗作は元小屋の惨めな生活環境を
『続 保定記』
に描写している。風が吹くと小屋の簀の間から灰のようなゴミ
飲酒は幕府の御触れで普請中はかたく禁じられていた。そこ
が大量に入って呼吸が出来ないほど苦しんだ。目を開けていら
で樽に入っている物との連想から元小屋では
「沢庵漬」と符丁
れないこともあった。夏場とあってムカデ、トカゲ、アリ、毒蛇
で呼んだ。藩主酒井家からの特別の計らいであり、惣奉行竹内
の類が元小屋周辺をはじめ草むらや道端にたくさんいて噛み
は過度にならぬよう注意した上で飲酒を暗黙のうちに認めた。
つかれた人夫もいた。蚊やアブの類はいなかったので、蚊帳を
「口外無用」であった。藩主からの書付には
「疫病に存分に気を
つけよ」
と書かれてあった。
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●
使わずに済んだ。
◇
同日、櫛引通の 103 人には一人 3 本ずつの割合で 309 本の
秋月藩の
「藩政記録」によると、同藩現場では庄内藩人足の
みがきニシンが下された。これ以降、藩から庄内人夫に対し、
働きぶりに特に注目している。
(原文カタカナ)。
クジラ肉、塩引、棒鱈、野菜、お守、下痢の薬、漬物などの品
「相役は出羽庄内領主酒井左衛門尉にて、同家は其領民を呼
物や乾物代・肴代などの金銭がほぼ 2 日おきに渡された。この
寄せ使役やり、夫役最奮励し、一際目立て見へたり、其様土石
28 日、庄内藩の追加郷人夫の第一陣が鶴岡を発った。
(8 月
盛る笈を負て持ち運び、土を移すには己倒に打伏て土の頭部を
水とともに 水がささえる豊かな社会
覆う、嫌厭せず働けり、畢竟領主へ帰服したるに出づると、其
蓋には汁を入れた。
時の美談とせりと」
大食いである人夫が自炊を行うのである。櫛引通から御渡物
庄内藩は最難関工事の二の手が持場であったが、人夫の大
方役所に提出された覚書がある。
半が藩領農民であったため、他の 4 藩の雇い人夫と違って藩主
のため文字通り
「一所懸命」
に汗を流したのであった。他藩の
「美
一、 米 71 俵、7 月 29 日より 9 月 1 日まで、
談」となったのである。
この升目 26 石 8 斗 8 升 平均 1 俵に付き 3 斗 7 升 8 合 6
庄内人夫の食事は百川屋からの仕出しで賄われていた。しか
勺5才
し大勢の人数に加えて、いくつもある小屋へ飯や汁を運ぶのは
人数 3812 人、但、1 日に付き 7 合 5 才
骨の折れる仕事であり、大食漢の人夫の空腹を癒すのは容易
一、 日数平均米 1 石 1 斗 2 升 人数 150 人
ではなかった。そこで、29 日から、鍋、釜、包丁、薪、米、味噌、
一、 味噌 6 桶 7 月 29 日より 9 月 1 日まで 人数 3812
醤油、塩など炊事に必要な物を与えて手賄いとした。
一、 薪 253 束 7 月 29 日より 9 月 1 日まで 日数 32 日 但、1
日に 7 束 9 分づつ
「のしかかる藩の負担」
櫛引通の 150 人の郷人夫が 7 月 29 日から 9 月 1 日までの
32 日間で、人 足 1 人 1 日当り米 が 7 合 5 才
(1270CC・立方
庄内人夫への食事の提供が元小屋内の 3 か所以上に及んで
センチ)として 26 石 8 斗余、味噌が 6 桶、薪が 1 日約 8 束で
おり、① 1000 人を超える人足数から食事の給仕に早い遅いの
253 束であったと報告している。現在の 1 人当りの年間米消費
時間差が出て来たこと、②大食いの百姓には提供される弁当の
量は、2005 年農林センサスで約 60 キログラムとなっている。
量が少なく毎回空腹状態になったことから、百川屋の仕出しに
よる食事を打ち切り、百姓自らの自炊に変えた。百川屋は郷人
足への食事提供を終わりにしたが、藩の普請詰役人
(幹部)へ
の食事の提供は継続した。
(松本精一氏論文
「江戸時代の土木
設計・積算・施工技術を探る−
「天保期の印旛沼掘割普請」の
古文書を読む−」
参考)
。
自炊になって、百姓たちには調理用具と食器が渡された。
一、 1と小屋へ人数 75人と見て、
25人につき、
釜 1 斗焚:1つ、
鍋 3 升焚:1 つ、2 升焚:1 つ、菜切包丁:1 丁、肴包丁:1
丁、大飯鉢:1 つ、大へら:1 本、真名板:1 枚、手桶:2 つ、
水溜こが
(大型のおけ)
:1 つ、すり鉢 :1 つ。
一、 食器 飯盛り候茶碗は人数だけ相渡し、汁その外はわっ
ぱ
(輪っぱ)
等にて間に合わせ候事
庄内人夫の 1467 人が元小屋で自炊生活を行った。人夫分
の炊飯のために、1 斗焚の釜が 59 個用意された。江戸時代の
台所用具としての品ぞろえは鍋、
釜、真名板、
包丁を基本とした。
食器は木を曲げて作った
「わっぱ」を使い、それに飯を盛った。
庄内藩が郷人夫に行った食材提供(松本精一氏論文より)
連載/泥と汗と涙と
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第7回「大地の叫び〜炎暑・雷雨・疫病〜残酷な夏⑤」
郷人足には 1 日当り 7 合 5 才であるので、1 年間には 0.705
き抜く工作を考えていた。それだけに 500 人の増員話にすぐ
升× 365 日= 257 升= 25.7 斗になる。米が 4 斗で 1 俵の 60
さま飛びついた。
(「江戸の職能集団・黒鍬者を雇って作業を大
キログラムとすると 385 キログラムになり、現在の 6 倍に当っ
幅に進めたい」。5 藩の惣奉行でそう思わないものはなかった。
ている。郷人夫を働かせるために、大量の米を調達し支給した
問題は労賃だった)。
ことになる。
降ったり止んだりの蒸し暑い日だったが、夕方に入って風が
郷人夫の人数は 1467 人であり、7 月 29 日から普請の中止
吹き凌ぎやすくなった。庄内藩元小屋のある高台から西の方角
が伝えられる閏 9 月 23 日までの間では、延べで約 99400 人
に富士山が見えた。竹内は、落日に紫色のシルエットを見せる
日に及んでいる。この間における支給された食材などの量は、
富士の霊峰を歌いこんだ短歌に自己の心境を託そうとした。だ
米で約 701 石
(1850 俵)
、味噌が 157 桶、薪が 6600 束に及
が思いは乱れて 31 文字に凝縮しなかった。幕府役人が示す仕
んでいる。
様
(工事方法)がたびたび変更され 5 藩の現場はその都度混乱
農民の常食は、米に麦、豆、大根、菜、海草などを混ぜて量
したが、幕府の威光に逆らえる藩はなかった。
不足を補った
「カテ飯」が普通だった。農家の食事は質素なも
貝淵藩は 1 万石の小藩であり人夫の確保がいっこうに進ま
のであった。それが、普請場の郷人夫には、人足 1 人日当り米
なかった。幕府同藩普請丁場の普請役宮本鉄次郎からも人夫
が 7 合 5 才も支給されたのであるから、ご飯の面では良い境
の確保を急ぐよう忠告された。そこで煮物を添えた弁当を出し
遇であった。
たり、昼休みに葛、砂糖、干飯などを給仕した。すると評判が
米の値段は、代官手代大滝益吉の書簡には
「白米壱升 90 文
広まり、難所の少ない普請場との条件も重なって、近隣の農村
位の由、両替 6 貫 500 文」とあり、この価格で米 701 石を換
から農民が集まり、人夫の確保が出来るようになった。それは
算すると、6300 貫文
(70100 升× 90 文)で、970 両に及んで
同藩に人件費の巨額な出費を強いることになった。各藩が現場
いる。
米だけで 970 両に及び、1 文が 50 円とすると、3.2 億円、
に投入した人夫数は、庄内藩が最高で百川屋雇い人夫も加えて
1 文が 25 円として 1.6 億円、1 両が 20 万円としても 3700 万
1364 人、鳥取藩が 1101 人、貝淵藩が 519 人、秋月藩は具体
円という金額になる。現在の米価では比較にならないが、概略
的史料がないが一日平均 910 人程度と見られる。
で言うと、
「1500 人の人夫が 85 日間の普請で必要な米代金が
2 日、3 日とも、朝から晴れ上がり南西風が吹いたが、元小
1.6 億円」
ということになる。
屋には入らず終日炎熱で堪え難かった。3 日夜は遠雷が鳴り
故郷を離れて、他国下総(現千葉県)の炎天下で普請を行う
渡ったが雨は降らず、深夜になって満天の星空となった。竹内
のであるから庄内藩の普請場の役人も郷人夫が気持よく労働
は自室から星降る夜を眺め郷里鶴岡の出羽三山を思った。近く
に励むように様々な気遣いを人夫に行っていた。折にふれて人
の森でフクロウが鳴いた。野犬の遠吠えが時々聞こえた。4 日、
夫に魚の提供、十五夜に肴 代金の増額などの配慮を行ってい
幕府勘定吟味役藤田が庄内藩の元小屋に立ち寄り、現場に建
る。支給の回数が増えると大きな負担増になった。
「貝淵藩、やっと人夫を確保」
8 月 1 日
(新暦 8 月 25 日)朝、惣奉行竹内は人夫の隊列とと
もに谷間のように深い普請現場に出向いた。幕府普請役小林
大次郎に出会い、500 人程度の人夫ならば世話できると聞か
された。竹内は、先ごろ秋月藩普請場に土木普請に精通した黒
鍬組の人夫が雇われたと聞かされ、百川屋を走らせて彼らを引
貝淵藩の元小屋跡(現千葉市天戸、水神宮)
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●
水とともに 水がささえる豊かな社会
てられた野馬越小屋に出向いて昼食をとり休息した。竹内らが
所と聞いています。予想以上の難場であり、このまま普請を続
同行した。
ければ莫大な経費が必要となりましょう」
「暑気の折に大勢が居る所には、杉の葉に小糠を混ぜて燻せ
藤兵衛ははばかることなく見解を述べた。篠田は腕を組んだ
ば人いきれの障りがなくなる。湯にはヨモギを入れれば疲労が
まま天井を見上げた。
とれる」
工事の難所は、鳥取藩が受け持った花島村
(現千葉市)のケ
藤田は額の汗をぬぐいながらしきりに勧めた。
トウと呼ばれた泥土層の場所であった。水を汲むようなもので、
掘割を造ることは難しく先の天明年間の工事でも最も困難な
場所であった。ゲドまたはケトウ
(化灯)土とはヨシ、マコモなど
「化け物丁場、ケトウ土」
の水草の遺骸が繊維を残したまま地中に堆積した地質の俗称
で泥炭の一種である。北総
(現千葉県北部)の低湿な水田には
「大館藤兵衛を検見川村から印旛沼までの 5 丁場全ての幕
至る所に泥炭層、黒泥層があり、いずれも縄文時代以降の堆
府検分に同道させよ」
積物である。花見川下流域の低地は縄文海進(縄文時代に発
4 日、庄内藩 の越中山 村
(旧山形県朝日村、現鶴岡市)の
生した海面上昇)頃の入江であった。その後の海退と入り口付
地 方巧者(土木巧者)藤兵衛を、幕府役人として現場で検分に
近の砂丘
(幕張砂丘)の発達によって、入江は海と遮断された。
当らせたいとの意向が幕府勘定吟味役篠田藤四郎の配下役人
淡水化されていく。そこにヨシ、マコモなどの繁茂と枯れ死堆
から示された。竹内は
「名誉でござる」と伝え、藤兵衛を幕府御
積が続き、3 メートルもの泥炭層が形成された。難工事とされ
用の手伝いとして働かせることに同意した。藤兵衛は庄内藩内
た花島付近のケトウ土層もこの種のものである。
(地質学者白
での河川改修や堰普請で実績を挙げており算術や測量にもた
鳥孝治氏の指摘による)。
けていた。三番立の庄内郷人夫とともに先月 26 日に普請場に
印旛沼掘割普請では、庄内藩の分担した難工事の高台付近
やって来ていた。現地を検分した藤兵衛は庄内藩普請場に姿
は、
「印旛潟」といえる
「潟湖(外海と切り離されてできた湖)
」
の
を見せた篠田に呼び出された。
時代に泥が堆積して比較的堅い地層を形成した後、一変して隆
「鳥取藩の持ち場はケトウ
(化灯)土という軟弱地盤で苦しん
起し始め、標高の最も高い場所となった。このため掘割工事に
でいる。掘っても掘っても水が湧き出てしまう。この対策につい
際して、粘土を含む堅い地層を深く掘らなければならなかった。
てどう考えるか。忌憚なく述べよ」
一方、鳥取藩の分担した花島付近は、ローム層の標高が鞍部(山
「前回の天明の掘割普請でも化け物丁場と呼び最も苦しんだ
の尾根のくぼんだ所)となり、分水界
(流域の境界)となった隆
起帯の中では、相対的に隆起量の小さいところとなっている。
このため、地下水は東西両方向から集まりやすい地点となって
大館藤兵衛肖像画(『天保期の印旛沼堀割普請』
(千葉市史編纂委員会)
より)
ケド
(化灯土とも。庄内・鳥取藩の普請場を苦しめた超軟弱土)
連載/泥と汗と涙と
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第7回「大地の叫び〜炎暑・雷雨・疫病〜残酷な夏⑤」
「現場労働と黒鍬者」
6 日、早朝から真夏の陽光が照りつけた。熱波が大地から
揺れ上った。庄内藩普請場では、前日幕府普請役小林の世話
で人夫雇い方引受人の新兵衛と七九郎が来て、彼らの働きによ
り今後 2000 人の人夫を投入することを取り決めた。新兵衛と
七九郎は 2 日前まで秋月藩の人夫雇い方引受人である秋葉孫
兵衛のところで世話人をしていた人物で、後に横戸村
(現千葉
市)字二子山に小屋を建て雇い人夫を収容している。これによっ
て庄内藩の持ち場は 3 つに区切られ、上流の沼津藩側が百川
鳥取藩と庄内藩の現場を走る分水界
(高台の峰、
『印旛沼­自然と文化』第5号 1998より)
屋雇い人夫、中央の高台部分
(難所)が庄内人夫、下流の鳥取
藩側が新兵衛・七九郎雇い人夫の担当となった。これで工事の
態勢が整った。人夫たちは猛暑の中で競争するように大汗を流
14
●
いる。このことが分水界にもかかわらず、多量の地下水を噴出
しながら懸命に掘った。
だれもが真黒に日焼けし、
目だけが光っ
させ、低湿の泥炭層の形成とあいまって掘割を難工事にした。
ていた。掘り上げた土砂は掘割筋に設けられた土捨て場に運
掘割普請は標高の低い場所での工事であったことも、難工事
んだが、人夫によって運び方に違いがあった。庄内人夫は
「もっ
にした一つの要因になっていた。印旛沼掘割の出発点に当る平
こ」
(藁 むしろまたは藁縄を網状に編んだものの四隅に吊紐を
戸河底と終点にあたる検見川河底間の高低差は 7 尺 1 寸、行
付けて土砂や農産物などを運ぶ用具)を担ぐことには慣れてい
程 9400 間であるから、勾配は 1 間
(1.8 メートル)につき 7 毛
なかった。そこで背負いの籠で運んだ。現地雇いの人夫は両担
5余
(1 キロメートルにつき 12.5 センチ)であり、満水時には止
ぎ籠であった。大量の土砂を担ぐことは出来なかったが、怠け
水となる。大潮満水時には排水は困難である。天保期の記録に
ずに仕事に精出すので思ったよりも捗った。注目を集めたのは
よれば、潮水は河口から 2100 間
(3.8 キロ)上流の天戸村字猪
江戸から呼び寄せられた黒鍬者たちであった。大きな
「もっこ」
鼻橋まで逆流した。掘割工事中の花見川は中流付近まで少なく
で重さが 30 貫から 40 貫
(1 貫は 3.75 キロ)から水分を含んだ
とも満潮時の流れは止まっていたと見られる。花島付近の工事
土 70 貫位まで軽々と担いだ。入れ墨の肌を見せ下帯だけの黒
は排水が悪く水中
(川中)
での掘割作業に近い状態であった。
鍬者は
「はー、どっこいしょ」
「ああ、よいとよ」などと掛け声を
◇
かけあって
「もっこ」を担ぎ土捨て場に向かった。黒鍬者の作業
5 日、快晴の一日だったが、朝食後から心地よい風が吹いて、
は抜群のものと見なされ、
庄内藩大庄屋久松宗作はその書状に
風の通るところは凌ぎよかった。庄内藩では連日の猛暑きに過
「黒鍬と申者は働方抜群にて、土をかつぎ行くに力ありて、庄内
労が加わって早くも倒れる者がでた。代官矢島逸策が倒れた。
共抔中々及ものにあらず。鍬の重さ壱メ三百匁、両人にて壱度
矢島は一番立の付き添い役を務め、この 10 日間連日現場で指
かつぎ土五六十貫目もかつぎ候由、其の上さかし至て巧者なる
図に当っていた。腹痛や下痢に伴う痢病
(赤痢など)の症状はひ
事に御座候」と記した。
どくはなかった。だが持病の疝 気(腰腹部の疼痛)のほかに吐
江戸時代を通じて、大規模普請の場合は
「人海作戦」となり、
き気が続き食事ものどを通らない症状だった。竹内は、元小屋
作業員を多数集めることが肝要であり苦労した点であった。江
での看病や手当では回復はおぼつかないと判断し医師進藤周
戸には幕府の普請を担当する部局
(普請方)に直結した黒鍬組
人を付き添わせ駕籠に乗せて江戸の親類宅に向かわせた。竹
などの土木技術の専門家集団が存在した。だが彼らだけでは
内自身も時々下痢や目眩に苦しめられた。この後、庄内藩の現
人数が足りなかった。関東各地には人足を雇い入れる口入れ業
場では人夫が相次いで倒れるのである。
者が廻村して人員を募集したり、噂を聞きつけて普請現場に駆
水とともに 水がささえる豊かな社会
られた鳥取藩が御入用として書き残している道具や資材を見て
みる。
大 鋤簾(土砂を掻き寄せる農具、40 挺)、掛 矢(大きな槌、
20 挺)、縄
(5800 房)、明俵(8383 枚)、竹
(2531 本)
、葉唐竹
(1700 本)、松杭
(2087 本)、杉丸太
(72 本)、人足札
(4500 枚)
、
、山萱類 50
頭廻し札
(150 枚)、蛸突(土固め用機材、50 挺)
束(150 把)、杉敷板(70 枚)、杉 6 分板(2870 枚)
、歩行板
(3103 枚)、水車
(260)。
これらのうち、竹、葉唐竹、山萱類、杉丸太は山や原野から
黒鍬者(続保定記、
『天保期の印旛沼堀割普請』
(千葉市史編纂委員会)
より)
刈り取ってきたものであり、縄、明俵は藁の加工品であり、松杭、
杉敷板、杉 6 分板、歩行板は材木を板状に切ったもので、人足
札、頭廻し札、大鋤簾、掛矢、蛸突、水車は木や板をさらに加
け付ける者もいた。彼らの中には、治安を乱すような者も紛れ
工したものとなっている。自給自足経済の中で、1 藩をみても
込んでおり現地の村や世話人たちを悩ませた。江戸末期になる
この量である。5 藩が必要とした量は莫大であった。板の確保
と関東・越後
(現新潟地方)
・尾張
(現愛知地方)が土方
(土木
は木材からノコギリで引き出すとしても相当数の大工を必要と
巧者)の集団化した地域と知られ、彼らはここでも
「黒鍬者」と
した。
も呼ばれた。
犢橋村
(現千葉市)からの
「杭木数名前書上帳」には、農民が
黒鍬者の習俗は、博徒・侠客などと共通するものがある。現
普請用に松と杉を納入した書き上げで、上総貝淵藩普請丁場
場では一家そろいのハッピを着て作業をし、体に入れ墨を彫る
の橋杭や立木の納品を樹種、本数、農民名を書き
「合本数 351
者も少なくなかった。彼らは在来の技術の体得者であり、国内
本、外に林様杭木 松木 21 本、杉木 23 本、惣本数 林様杭木
各地の地質や地形に精通していて、その技術力が日本の土木
共 〆 385 本」とある。村々から丁場に納品されたものの中には、
建築や農業を支えていた。
農家にあったものが相当提供されたものとみえる。
「道具・資材類」
掘割普請に必要とされた諸資材を見てみる。難所を担当させ
「当惑、恐入候」
竹内は、百川屋雇い人夫の 1000 人と新兵衛・七九郎雇い人
夫の 4000 人で取り掛かると、1 日金 330 両
(1 両は 10 万円
から 20 万円)ほどで、1 か月 1 万両ずつ支払いになると算出し、
江戸藩邸に伝えた。それに残りの庄内人夫が来ると 500 人ほ
ど増え、合わせて 5500 人が作業を行うことになる。
「誠に莫大
之御入高にて何とも当惑、恐入候」と日記に記した。普請費用を
見積もった百川屋からは金 8 万両の見積もりが出ており、膨ら
む一方の普請費用に最高責任者の苦悩は尽きなかった。灼 熱
地獄の作業現場では人夫だけでなく、各藩の役人にも絶望と
怒りが渦を巻きだしていた。
(つづく)
現場で使われた農具類(同型のもの、八千代市博物館蔵)
連載/泥と汗と涙と
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15
∼印旛沼を囲んでいた城郭∼
中世∼近世 印旛沼を囲むように建てられていた城郭
時には戦場としての要害となり、時には海運としての足となり・・・
印旛沼は様々な姿に変えながら歴史を刻んできました。
今も残る城址を巡り、兵者どもの夢の跡を歩いてみましょう。
本 佐倉城址(千葉県印旛郡酒々井町本佐倉)。国史跡。文明年間
(1469∼1486)、千葉氏の居城として千 葉輔 胤が築城。以後9代
100年間、下総地域支配の中心となる。場内に海運のための船着き
場を備えるなど
「印旛浦」
を利用した築城方式を採用。印旛沼の中
心を埋め立てた中央干拓地に位置するため、沼を見渡すことはでき
ないが、晴れた日には筑波山を望める。
佐 倉城址(千葉県佐倉市城内町)。戦国時代中頃、千葉氏一族で
ある鹿 島幹 胤が鹿島台に築いた中世城郭を原型として、慶長15年
(1610)に佐倉に封ぜられた土 井利 勝によって、元和2年(1616)
に築城。北に印旛沼、西と南に鹿島川、高崎川を外堀とした台地上に
ある平山城。現在は、佐倉城址公園・国立歴史民俗博物館などから
なり、数多くある堀周辺では、秋になると見事な紅葉が楽しめる。
印旛沼周辺の城址位置図
師戸城
師 戸城址(千葉県印西市師戸)。
鎌倉時代に臼井城の支城として築
城され、当地の豪族・師 戸四 郎の
居城だったといわれる。印旛沼の
対岸にある臼井城とは「渡」で連
絡、
臼井城の防衛に大きな役割を
果たしたと考えられる。沼の奥に
見える高台が師戸城址。現在は千
葉県立印旛沼公園となっている。
16
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水とともに 水がささえる豊かな社会
臼井城
佐倉城
本佐倉城
臼 井城址(千葉県佐倉市臼井田)。平安時
代後期から鎌倉時代初め頃、
臼井常康が築
城。城周辺は深い堀と急崖、印旛沼に守られ
た要害。現在は臼井城址公園として、印旛沼
や田園を見晴せる市民の憩いの場。
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