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「厳冬のポーランド」 雑誌『自治実務セミナー』

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「厳冬のポーランド」 雑誌『自治実務セミナー』
◆最 近 欧 州 事 情
厳冬 のポーラ ンド
0 ど基
◆0 0 ︻
豊 虚 豊 食 密 マ宝 X ︶
ボ ー ラ ン ド 0︻
ヴェルサ イユ 条拘国境のた
による)
( 世界各国史3 「
│ イツ史」
港 で六時間も客を待 っていたんだそうで
ある。市内まで、森 の道を三〇血ほど走
る。日本人は管、学校 でボーラ ンド民謡
、
﹁
森 へ行きましょう 娘さん﹂を習うん
だと言 って、日本語 で歌 ってやると嬉じ
そうな顔をした。
哲学者 ショーペ ンハウ エルの生まれた
タクシーの運転手が英語 とドイツ語 で
。
話しかけ てくる ドイツ語 の方がうとい
東欧題では、 英語よりもドイツ語の方がよ
︵
く通ずる。 歴史的な理由に加えて、今日にお
いても経済問をはじめドイツとの関係が深い
。 と つ も、
からであろう︶
い て
単語数 にし
ておそらく五〇〇謂前後、片言 である。
それでも話が通ず るだけ大 いに助かる。
帰 るまで雇 い上げることにした。名前を
。
尋れる ﹁X氏だ﹂と言う。今 日は、空
うかと心配 になる。
●栄▼杏*立本X◆A軍0︻
◆︼
◆︼◆AMO ︻
金 本▼A▼●︼●”◆壊一”0い
0︻
OAMO A▼AM◆壊vA︼0 ︻
OAヱ0︻
去 る二月ボ ーラ ンドを訪 れる機会 があ
った。 以下 は、
一旅行者 の垣間見たポ ー
ラ ンド の表情 であ る。
一 ダ ン チ ヒ
雪 のフ ルシ ャフを午後 四時 に飛び立 っ
た ノ連製 イリ ュー シ ン双発段 がダ ンチ ヒ
グダンスク︶に近づく。機内 は、ポ ーラ
︵
ンド人 の普通 の市 民 で満員 であ る。通 路
の前後 に二人 の兵士が突 っ立 って監視 し
て いる のが西側 とち ょ っと違 う点 だ。亡
命 を目的 とす る ハイジ ャックを恐れ て い
る のだそう であ る。午後 五時、 既 にと っ
ぶり と日 の暮 れたダ ンチ ヒ空港 に着 く。
。
。
気 温零下 一七度 寒 い 明朝 は、零下三
〇度近 くま で下が るだろうとのことであ
る。白 一色 の清走 路 にさら に降 りしきる
、
雪 を見 て 明 日フ ルシ ャフに戻 れるだろ
ダ ンチ との湾を隔 てた北 の対岸 にこれま
、
、
た 哲学 者 カ ントが生まれ 活躍 したケ
ー ニヒスベ ルクと いう都市 があ る。今 日
、
では ソ連領 にな ってしま っており、名
、
、
前 も カメー ニング ラード と いうが か
、
つて同市 は ド イ ツ騎 士団 の後 のプ ロイ
セン公国 の首都 であ った。 そ の後、 ベ ル
リ ンを首都 とし ていたノ ラ ンデ ンプ ルク
と 一緒 にな ってプ ロイ センー国 となり、
、
、
膨張 に つぐ膨張を続け 遂 には ド イ ン
を統 一に至 らしめた ことは、 局知 のとお
り であ る。したが って、あ る意味 で、 こ
こらあたりは、ド イ ツの本拠地 とも いえ
るわけ である。
と ころが、第 一次 大戦後 のプ ェルサイ
ユ条約 でポ ーラ ンド が独立する こととな
り、ド イ ツは、 旧プ ロイ セン王国 が三次
にわた るポーラ ンド分割 で得た領土を返
還させられることとな
る。 この際、ポーラ ン
ドは念願であ ったパ ル
ト海 に抜ける地域 を獲
、
得 これにようて、ド
イツは、本国と東ノ ロ
イセン地域 を分断され
ることとな る の で あ
る。これが世 に有名な
﹁
ポーラ ンド回廊﹂で
ある。この時、ダ ンチ
ヒは、 ﹁
自由都市﹂と
して国際連盟 の管理下
。
におかれている
、
第二次世界大戦 は このダ ンチ ヒを奪
取 せんとするヒットラーの 一九二九年九
月 一日のポーランド侵攻電撃作戦 で始ま
った。ボーラ ンド全土は、またたく間 に
ドイツ軍 の擁開するところとなり、ダ ン
、
チヒは その九五%が破壊し尽されたと
。
いわれている
、
戦後 ボ ツダ ム協定 に従 ってオーデ ル
・ナイセ以東 のドイツ人数百万人は本国
に追 い立 てられ、その後 に、 ノ連領とな
った東部方面からポーラ ンド人が流入し
た。今日、 この地域 には、ドイツ人は、
もはや居住していな い。
ダ ンチヒは、戦後、 ハンザ同盟都市 の
往時をしのぼ せる音 の美しい姿そのまま
に復元された。特 に、や世ゴシック時代
旧
の建物が立ち並ぶ スタ レ ・ヽ ャスタ ︵
ハンザ争市ダンチL― ― ド,ガ お リーー
範
自治業務セ ミナー
(25-5),98●
j―
Ⅲ
ⅢⅢ
いⅢ
中,Ⅲ
"“
Ⅲ
…"""4trs_mⅢ… 海外 〃ポー ト
︱ の所 に戻 ると、幸 いタイ ヤの交換 ほ終
市街︶ は、 ﹁パ ルト海随 一の 美 し い 港
。
。
、
町﹂ と いわれ て いる
了 して いた 革 を走 らせな がら ﹁あ の
タク シー ︵フイアット︶は、 レー ニン造
アパ ートが フ レサの家。 ワ レサ良 い、 ヤ
。
。
。
船所 の前 でバ ンクした メイ ヤを変換す
ルゼ ルスキー悪 い ﹂ と言 う 政府 に対
。
、 ﹁フ レサ記
るから、 そ の間 に散歩 し ヤ
す る不信 の念 が非常 に強 い
。
、
念塔﹂ でも見 てこいと言 う な るほど
、
二 民 信なくんぼ立たず
造 船所 の前 の暗闇 にな にやら高 い塔 のよ
、
うなも のが三本立 って いた。 ち ょ っと最
夜 は これまた X氏 の案内 でダ ンチ ヒ
近建 った も ののよう にも見 えなか った の
郊 外 の私企業 レストラ ンで食事 をとる こ
ととする。 おカミは、
で変 に思 った が、後 で開 いた と こ ろ で
一〇年米 国 にいて
、
は ゴ ム ルカ政権を退障 へと遣 い込 んだ
五年前 に帰 ってき てこの レストラ ンを経
。
一九 七〇年 の民衆 の蜂起 を記念 したも の
営 し ている のだそう である シカゴ付近
。
だそう であ る ダ ンチ ヒで は、 何 で も
には、 三百万人 のポ ーラ ンド 人 が いると
。
﹁フ レサ﹂ にな ってしまう。寒 く て寒 く
聞 いた 流場 な英語 で ﹁
何 にいた します
。
。
てじ っとし ていられな い。急 いでタク シ
か ﹂ ときた オラ ンダ のビー ルとボ ー
ラ ンド名物 だと いう鴨 の腹 にジ ンゴ
。
も
を
ち 詰 め て焼 いた のを注文する 大
。
ォ
、
う
外貨 の受取 りは 田 く禁 じられ
ているらし い。 ﹁ノープ ロノ レム、
ノープ ロプ レム/﹂ とX氏。 ど こか で替
。
え てく るらし い 周囲 を キ ョロキ ョロと
警戒 しな がら ﹁
交換 レートは これ でどう
。
だ ﹂ と紙 に書 いて示 し てきた 。﹁一DM
= 一五〇ズ “チ﹂ とあ る。持参 の旅行案
、
内書 には ﹁一DM=三〇ズ ,チ﹂ と書
。
後でわかっと身では、
いてあ る 五 倍 だ ︵
、
公式レートは 現在 一D =約七〇ズ ロチ。
M
そ の運
閣はその四︱五倍だと言われている。
転手は随分結構な商売をしようとした こと に
なこ 。小生 のよう に善良な る日 本 国 民
が このような闇 レート に手 を出 すはず も
な いが、 それ にしても、大変な安 さ であ
る。外貿 があればあ こがれ の 外 国 製 品
勿論西側の︶が手 に入 ると いう ことと、
︵
ポ ーラ ンド経済 の現状自 体 に対す る評価
が極端 に下 が っている ことと に起 因す る
も のであろうと思われる。 しかし、
一般
、
国民 は これを恥じ ることも忘れ、 それ
ど ころかそ の裏 をか いて 一商売 しようと
、
、
す る あ る いは せぎ るを得な い現状 に
あ るよう に小生 には思われた。
X氏 は言う。 ﹁ろく に寝 な いで 一月 一
、
〇 OOOズ ロチ の稼 ぎだ。 そ の中 から
、
、
、
住宅費 に五 OOO 光熱水費 に二 O
。
、
OO消 え ていく おまけ に ガ ノリ ンは
タク シーに対 し ても 一日 一〇 リ ッ ト ル
公 般人は月三〇リットル︶ の 割 当 て だ。
一〇リ ット ルじ ゃあ九〇 血ぐ ら いしか走
。
れな い どう や って親子 四人食 っていく
。
ボーランドではたいていの夫婦は、
んだ ﹂ ︵
共藤ぎであること。 平均賃金も、 三五歳 の夫
、
婦子供 一人の家族で 平均 〓一
〇 OOOズ ●チ
という数字もあることから考 えると、 彼 の話
が訪張でなければ、 彼 の場合は たまたま相当
うヽ
低 い所得階層 に 属していると いう ことであろ
﹁
ら日本人 は、 月 にど のく ら い稼
あ
ん
た
ぐ んだ。
﹂ と言 われ て ﹁月 二 〇 万 円 か
。
な ﹂ と言 うと、 紙 の上 で換 算 し て み
、
せ ﹁ボ ーラ ンドじ や、 日本人 は皆 ミリ
。
オネアだ ﹂ と言 う。
よく見 ると計算間
違 いで寄 が 一つ少な か った が、気 の葦 で
。
、
そ を
る にも
れ
訂
な
正
す
﹁
気
ま
れ
ぬ
あ
、
日 も
し
は
ど
い
本
物
価
高
お
の
ほ
宅
目
医
、
、
療 住宅 交通費 も低藤 ではな い。
﹂と
但し、住宅難は、ポーラン
慰 めてお い た ︵
ドの 一つの大きな 社会問題にな っているのだ
。
そうである︶
一九八〇年夏 の食肉価格 の四〇%︱ 六
〇% の値上げ に端 を発 したポ ー ラ ンド の
、
連帯 運動 は ノ連 の軍事介入 を恐 れた ヤ
ルゼ ルスキー軍政 による疲厳令 の施 行 に
より、非合法 化 され、地 下 にもぐ る こと
とな った。今 日、 ﹁連帯 ﹂は、 か つてほ
ど の力 を持 っていな いと言 われ て いる。
しかし、 これは、 ﹁
の
連
﹂
帯
動 き が失敗
に っ こと
し
た
を
終
な い。 ﹁連
て
い
味
意
帯 ﹂を支 えた 国民 の要求 は、
一方 にお い
てヤ ルゼ ルスキー政権 をし て、
一九八 一
年以来 の経済改革 に踏 み切ら せていると
も言 えるから であ る。 一連 の改革 は、中
(20と0),986
6
自治柔務セ ミナ ー
… ⅢⅢ ヽ
Ⅲ
…
…
Ⅲ Ⅲ ⅢⅢ…
…
Ⅲ…
Ⅲ
抑 mⅢ
…
Ⅲ…
ⅢⅢ莉 m ―
Ⅲ Ⅲ ⅢⅢⅢⅢ
Ⅲ' ・Ⅲ Ⅲ m …
・ⅢⅢ Ⅲ ⅢⅢよ" 口 ■…
・れ ' Ⅲ 加 Ⅲ…
。コ …
Ⅲ…
向 Ⅲ,Ⅲ
Ⅲ Ⅲよ
い ⅢⅢ, Ⅲ…
Ⅲ… Ⅲ Ⅲ‐ Ⅲ Ⅲ m …
, W Ⅲ ・Ⅲ ⅢⅢ…
ト
ー
)ポ
外
海
m……
Ⅲ
m叫
Ⅲ
Ⅲ
Ⅲ
Ⅲ
Ⅲ
,…
Ⅲ
…ⅢⅢ
Ⅲ
Ⅲ
ⅢⅢⅢ
Ⅲ
mⅢ
…Ⅲ
… ml海外 ツポー ト
…Ⅲ
,加Ⅲ
Ⅲ
Ⅲコ
央集極的 システ ムから企業 の自 主経営を
、
、
尊重する方向 へ向 って 経済 の民主化
、
分権化 を進 めよう とす るも のであり ハ
ンガリー型 の誘導市 場 モデ ルをめざ そう
とす るも のだそう であ る。
この結果、
一連 の経済混 乱 で 一時 一〇
年前 の水準 にま で落 ち込 んだ 国 民 経 済
、
は 八 三︱ 八 四年 には幾分好転 を見 てい
る。 しかし、 これも つか の間、八 五年 に
は再び 鈍化、依然 とし てポ ーラ ンド経済
は、予断 を許 さな い状 況 にあ る。
、
特 に 八五年五月現在 二七五億ド ルに
、
、
、
が 意 外 に品数 も多 く あ る市場 では
丈ド イ ツでな見 られな いと言 われ て いる
、
、
パ ナナ オ レンジ レモン竿 が色 も鮮 や
、
。
か に積 まれ て いたのには驚 いた 但 し
、
値 段 がも のすごく高 く て普通 の市民 は
、
買 いに来 な い 来 れな いのだ そ う で あ
る。あ るポ ーラ ンド人 によれば、疲 厳令
、
施行後 法 の裏 をか いて儲け る 者 も 出
、
て 貧宮 の差 松拡大 し ているとのことで
あ る。また、法 の裏 をか いて いる者 では
な いが、今 一番 羽振り のよ いのは、都市
。
近郊 の自営園芸農家 だそう である フ ル
シ ャワ郊 外 にも、 これら の農 民 の花井 を
。
殺培す るビ ユー ル ハウ スが目 に ついた
このよう にして高所得 を有す るよう にな
スラブ 人 の 一派 だから ロシア人
とも規威 みた いなも のであ る。
。
、
例 えば 子妄 も近 い ,シア語
で ﹁さようなら﹂ は ﹁ダ スヴ ィ
、
ダ ー ニヤ﹂ であ るが ポ ーラ ン
ド
ドヴ ィゼー ニア﹂ と言
﹁
で
語
、
う。﹁
今晩 は﹂は ロ
今 日は﹂﹁
シア語 で ﹁ド ープ ルイ デ ィ エ
一
こ ﹁ド ープ ルイヴ ェーチ ェル﹂
、
であ るが ポーラ ン ド 語 で は
﹁デ イ エン ド ープ リ﹂ ﹁ド ー
っていたヽ
。
また、食 べ物 も驚 くほど似 て いる ポ
。
、
ルシチもあれば ウ ォッカもあ る ポ ー
ラ ンド人 は、 ウ ォ ッカはポ ーラ ンド が本
。
。
場 だと思 っている 実際実 にうま い 四
プリ ヴ ェーチ ェル﹂だそう で
。
あ る キブ ル文字 とラテ ン文字
、
の違 いで 書 いた も のは全 く異
な るよう に見 えるが、発音 さ れ る 言 葉
、
は 非常 に近 いような印象 を受 けた ︵モ
スクフ
留学経験のある ヮルシャワ大使館
大
学
。
の菜氏も、 ﹁
非常に似た言葉だ ﹂ と,っしゃ
はた また、米 国等 の海 外 のポーラ ンド人
〇度前後 のも のを冷 やし てそ のまま 一気
。
、
にクイーとやる 余談 であ るが ア ルシ
ャフ在住 のあ る日本人 が ﹁土地 の物 を食
った者 だけが比較的高 いレベ ルの生活を
。
亨受 し て いるとのこと であ った
とも かく、ポ ーラ ンド では、特 に国民
り
と
も
し ている
そ
の
の
の
交
流
仕
送
他
影
響
。
のであ ろうか 孔子 ﹁
自 古皆
論語﹂ の ﹁
。
有死 民無信 不立﹂ の 一節 がしきり に思
の政府 に対 する不信 が強 いのには驚 かさ
。
れ る 百年以上 にわた る祖国喪失 の歴史
。
のしからしめる所 であ ろうか カノリ ッ
ク教会 の強 さ にもよるも のであろうか。
い出 される のである。
子一
ソ連 とポーランド
、
いた い﹂ と の我 々の希望 を開 い て ﹁そ
。
れ では是非 スープ はポ ルシ チ を ﹂ と勧
。
。
めた ﹁こんな マズ イも のはな い ﹂ のだ
そう である。ポ ーラ ンド に来 た客 には、
ど んな顔 をす るかが楽 しみ でい つも勧 め
ポ ーラ ンド人 松、 チ ェック人、 ス ▼ブ
ァキア人 ととも に西 スラブ 族 に属す る。
な いことには我 々地方行政 マンは勤 まり
。
。
ま せんのでね ﹂と答 え てお いた
イ ツ料理 に比 べれば味 が上品 でうま いで
。
す よ 郷 土料理 と郷土民謡 を マスターし
しく て最 後ま です っかり飲 み干 してしま
った 。皆 があ まり に感 心す る の で、﹁ド
ド の人たち はおそらく手 の込 んだやり方
、
でこの汁 を煮出 し 一つの料理文化 とし
、
て珍重 し て いるんだろうと考 えると 嬉
、
の日本 人た ちも 我 々の里 死 に 注 目 す
る。 と ころが、小生 にと っ て は ︵
味は少
し甘すぎるようには思われたがヽ ポ ー ラ ン
るらし い。出 て来た も のは真赤 な色 のす
。
まし汁 であ る た また ま同席 し て いた他
■のショメンの生家の臣て
一一案内のポーラン ド美人ハンナさんと筆者――
このよう に、ポ ーラ ンド人 と ,シア人
。
は、民族的 には極 め て近 い にも かかわ
らず、 ポーラ ンド人 のソ連人 を嫌 う こと
2
6
自治実務セ ミナ ー
(25r5)『 986
達 したと言われ ている対 西側債務 に つい
、
ては そ の償還 は理論 的 に不可能 だと言
わ れ るほど であり、ポーラ ンド政府 の最
も頭 の痛 い所 とな っている。
ワ ルシ ャワ市内 の市場を訪 れ て み た
フルシャフ市 内の市場
一―バナナ、レモン、オ レンジが 富↓
をも鮮やか―一
海外 ツポー
ポ ーラ ンド貫 族 にフラ ンス語 を教 えるた
また、 これ と関 連 し て、ポ ーラ ンド と
、
ー ッ
西ヨ
・ ロ パとの結び つきも 歴史的 に
。
、
深 い 文化 は いつも西側 から入 って来
。
た のである フ ルシ ャフ郊外 にシ ョバ ン
。
、
の生家 があ る シ ョバ ンの父 は 当時 の
。
な い 現 ロー マ法 王は、 ポ ーラ ンド出身
。
であ る ﹁
連帯 ﹂を支 持 したボビ エツ シ
ヨ神 父 は、 そ の影響 力故 に内務省職員 に
よ って殺害 され た。
、
失 った こともあ る長 い歴史 を通 じ て ポ
ーラ ンド は、 そ のアイデ ンテ イテ イを カ
トリ ック数 に求 めてきた と言 っても、過
には甚 し いも のがあ るようである。
、
、
そ
の
の
由
は
い
一
の
第
理
宗
教
運
化
文
。
キ
にあ る ポ ーラ ンド は、 東 は ロシア ︵
ェア候国︶に、 西 はド イ ツ ︵
神塾 ローマ帝
言 ではな いわけ であ る。だから、宗教 は
︱ラ ンド の現状 な のであ る。益 々Hシア
人 が嫌 いにな るのも道理 である。
、
第 二の原因 は ,シアとの関係 の歴史
にあ る。 ワ ルシ ャワの旧市 街市場広 場 の
一角 に市 の歴史博物館 があ るが、戦 時中
のドイ ツの犯罪 的行為 を展示する部 屋 と
、
、
、
並 んで 一八 三〇 四六 六三年 の民衆
の蜂起 をそれぞれ展示 した部屋 が三室あ
る。 4 すれ の蜂起 も、ポ ーラ ンド の多 く
の人 々の流血 の犠牲 にもかかわらず 失敗
に終 ってしまうのであ るが、 これを当時
、
弾 圧し たのな いず れも ロシアだ った の
。
であ る
また、第 二次大戦中 ノ連 が四、 五OO
人 のポ ーラ ンド士官 を集団殺害 したと い
われ るカチ ンの森事件、自 らの軍隊 によ
ってフ ルシ ャフを解放 し戦後 のポ ーラ ン
ド を支 配下 に置 く ことを願 った も のと い
わ れ て いる 一九 四四年 のフ ルシ ャワ蜂起
の際 のソ連軍 の非協力、 これ ら の 事 件
も、ポ ーラ ンド人 が忘れよう とし ても忘
* *
れ る ことのできな いも のであ る。
、
し かし いか にボ ーラ ンド人 が ロシア
、
、
人 が嫌 いであれ また いか にポ ーラ ン
ド の経済 が社会 主義的計画経済 システ ム
の下 で破維 に瀕 しようと、今 日 の東 西関
、
係 の下 にお いて 全地球的規模 の核戦 争
の脅威 なし にポ ーラ ンドメ台出 主義陣営
、
側 にす んなり一
戻ると いう ことよ おそう
く考 えられな いも のと思われ る。 そ の状
況如何 によ っては、世界 の運命 につなが
りかねな いという意味 にお いて、日本国
米 *
への輸出の第 一位がフォークラ ンド沖 の
同国漁船による︶だという遠 い国ボ
イカ ︵
ーランドの状況も、また我が国 に
無縁 で
はな いのである。
デ ュッセルド ルアに戻 ると、今ャ
松ポ ー
ラ ンド領 とな った ポ ンメ ルンから逃げ て
来 た と いう事務所 の家 政婦 のチ ュベ ルス
キー”ばさんが、ダ ンチ ヒ出身 だ ったと
いう亡夫を思 い出 した のか目をうるま せ
ながら ﹁ロシア よリポ ーラ ンド
人
の
人
方
がも っとひど い仕打 ちを我 々に し た。
﹂
と訴えた。 オーデ ル ・ナイ セの東 には、
今 も怨念 が渦巻 いている。
片 木 淳 疎
帰鋳越響
︵
(25工5)『986
3
6
自治業務セ ミナ ー
国︶ に対抗す る必要 土から 一〇世紀 にカ
トリ ック教 を導入した。そ の後、祖国を
阿片 であ るとも言 われる社会 主義国 の中
、
で ポ ーラ ンド ほど宗教勢力 の強 い国も
め にフ ルシ ャワに来 て いた フラ ンス人 で
。
、
あ った 今 でも 五年 に 一度 フ ルシ ャワ
でシ ョバ ン ・ヨンクー ルが開 か
、
れ 世界中 から音楽 家 が 集 ま
る。 また、例 えば、堂 々とし て
しかも美 し いフ ルシ ャフの行 を
、
見 ると ボ ーラ ンド の文化水準
、
さ にあ るな と いう
は 相当 の高一
。
印象 も受け る
このよう に、あ れ や こ れ や
、
で ボ ーラ ンド人は、 ロシア人
のが遺 憾ながら東 西対立下 のポ
シ ャフ市民 にはあ まり評判 が良
くな いと聞 いた。 多も
し て、 そ の
ロシア人 に抑 え つけ られ ている
をなく見 る傾向 にあ る の で あ
る。自 分たち は自由 の民 であ る
、
が 向 こうはまだ隷従 の民 だと
いうわけ であ る、 ソ連 からボ ー
ラ ンド国民 への贈 り物 として述
、
設 された文化科学宮 駿は ワ ル
ソ連から閣られた文化科学宮段 (ワル シャワ市内)
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