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労 働 と 健 康 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

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労 働 と 健 康 - 15年戦争と日本の医学医療研究会
労
働
と
健
康
第 217 号 2010年₁月₁日発行
Vol. 36 No. 1
2010年「安全・健康」いろはカルタ
細川 汀……… ₂
特 集 アスベストの被害を考える ― 被害者の実態に迫る
アスベストによる<健康被害>問題の本質はなにか
働くもののいのちと健康を守る奈良県センター長・医師 水野 洋……… ₅
泉南地域の石綿被害
泉南地域の石綿被害と市民の会代表 柚岡 一禎……… ₈
裁判資料からみた被害の実態 意見陳述書
しんどさを分かってもらえない辛さ
原 まゆみ……… 11
苦しんだ母の病気
竹井 弘子……… 13
特 集 田尻俊一郎先生を偲んで
田尻俊一郎先生に学んだこと
過労死・自死相談センター 上畑鉄之丞……… 16
「過労死」が死語になることを願って
過労死裁判元原告 平岡チエ子……… 18
田尻先生との想い出
元武田薬品争議団 遠藤 富雄……… 18
頸腕患者の強い味方
住友生命頸腕患者会 能崎 嘉子……… 19
田尻俊一郎先生を偲び その歩みから学ぶ集い………………………………………………………… 20
………………………………………………………………………………………………………………………
石橋良信さんの職業がんの労災認定を求める裁判はじまる
ダイトーケミックス労組 副委員長 南原 聡……… 22
〔散歩〕のはなし-その₂ 南天
やまもとやすこ……… 23
大阪民医連社会医学活動交流会……………………………………………………………………………… 24
【シリーズ】カウンセラーによる傾聴のはなし
第₂回 聞く
産業カウンセラー 福田 茂子……… 25
NEWS
NEWS
過労死企業名の公表を求めて提訴………………………………………………………………………… 26
BOOK
BOOK
アスベスト惨禍を国に問う
泉南地域の石綿被害と市民の会大阪じん肺アスベスト弁護団(かもがわ書房)……… 26
男女共同参画統計データブック2009
独立行政法人国立女子会館(きょうせい)……… 27
派遣村その後
小川朋編著「年越し派遣村」実行委協力(新日本出版社)……… 27
メタボより怖い「メチャド」ってなーに
服部 眞著(あけび書房)………………………… 28
強いられる死
斉藤貴男著(角川学芸出版)……………………… 29
時をつなぐ航跡
井上文夫著(新日本出版社)……………………… 29
大阪労災職業病対策連絡会の刊行物に掲載の著作についてのお願い…………………………………… 30
あとがき
あとがき
大 阪 労 災 職 業 病 対 策 連 絡 会 (大阪職対連)
-1-
細 川 汀
2010年「安全・健康」いろはカルタ
け
勤務JR
「明け」「泊まり」
居眠りだらけ
ゐ
古ボイラー
ふ
問う泉州原告団
アスベスト惨禍
濃厚な
の
こ
集団提訴
「死ね」と言われ
女外交員6人
お
NTTの
配転違法
人勝利
え
クレーン
倒れて
歩行者地獄
く
鉄道石綿
人認定は
氷山の一角
て
やっと出来た
千四百人の
水俣病検診
や
朝飯抜き
歳代3割
あ
また増水
下水道作業者
さらわれる
ま
ゆ
め
水際作戦
大失敗
み
し
時間に追われる
ふたをしたまま
CO中毒死
国鉄日の丸
事故原因も
丸のみ
原発
想定以上の
地震がおこる
き
新インフルエンザ
さ
夢と希望を
メンタル不調
職場の7割
こえる
穴だらけのまま
「もんじゅ」 安全
エレベーター事故
シンドラー社の
奪うホームレス
結核ひろがる
運転試行
タクシー規制法
下仲さんは
職業病の
「神様」だった
勤務医
人に1人の
うつの苦労
ん
産直医の
泊まりも
残業の判決
す
ひ
せ
ゑ
も
30
設計に原因
10
運動がついに
勝ち取った
人の不注意の
せいにする
事故調報告
-2-
17
隙間にはさむ
介護用ベッド
老婆大けが
笑顔を残して
帰って来ない
田尻先生
12
いつまで
る
保育所の
安全基準
何のその
ほ
を
閉鎖的な
自衛隊の暴行
自殺また
へ
に
ぬ
は
抜け穴偽装派遣
ルール違反の
コインタクシー
解消へ
そ
ろ
改善命令
止まず
れ
走行中
ドアが開く
トヨタの車
い
派遣村 全国
175カ所に
ひろがる
た
連絡つかぬ
派遣元と
派遣先
う
かにしたたかに」
「企業犯罪法」を
しがみつく政府
「認定基準」に
り
タラップ落下
乗せすぎ
気付かず
む
人
ち
ら
労働者
派遣事故
急増死亡
と
地震に弱い
原子炉の
ひびわれ
よ
楽でない
無理な交替制
5時間休んで
うちの人
事故調肴に
まわし飲み
イージス艦の
事故責任
100%判決
道路空洞
わざと見逃す
国交省
か
ヨーロッパは
正社員が
あたりまえ
原爆症認定訴訟
勤務
何分かる
( メタボ)
をなかさぐって
わ
看護師の
過労死レベル
万人
な
まだ続く
「利益優先」
と言う企業に
「わが青 春 の と き 」
ね
内部から
体むしばむ
放射能
みんな「しなや
つ
寝不足看護師
5時間経てば
出勤
-3-
50
墜落続きの
ヘリコプター
死者続出
60
アスベストの被害を考える - 被害者の実態に迫る
国は知ってた、できた、でも、何もしなかった
「石綿のまち大阪・泉南」、石綿被害は戦前から深刻に進行し、今なお被害は発生し続け
ています。原告らは、そうした泉南で働き、暮らした石綿被害者です。全国に広がる石綿
被害の原点である泉南。石綿に苦しんだ無数の魂が眠っています。
国は、70年も前から泉南の石綿被害を「知っていた」、やろうと思えば十分な規制や対策
が「できた」、でも「やらなかった」、それどころか、国は、石綿の危険性・有害性さえ住
民に隠し、軍需と経済成長を最優先させ、泉南の石綿被害を放置してきました。裁判では、
石綿被害の全面的な救済と被害根絶のために、国の重大な責任を明確にする公正な判決を
強く要望しています。
アスベストの被害は、長い年月を経て、とても苦しい症状が現れます。そして、症状が
現れてからは悪化していくと言われています。「何度もせきこみ、歩いたり、しゃべるだけ
でも息苦しくて、少しも楽になることがありません」。ある原告の言葉には、アスベスト被
害の苦しさがにじみでています。
大阪泉南アスベスト国賠裁判が2009年11月11日結審しました。判決は2010年₅月19日に
大阪地裁で言い渡されます。本特集は、判決を前にして、改めて「アスベストの被害とは
何か」について迫ってみたいと考えました。そのため、裁判で証言された水野洋先生にア
スベスト問題の本質についてご執筆いただきました。そして、柚岡一禎さんからは泉南地
域の労働実態、被害の実態を詳細に報告いただいています。
さらに、被害の実態については、原告、弁護士の方
の協力により、裁判に提出された「意見陳述書」を掲
載させていただきました。職と住が近接していた泉南
の職場環境は、労働者だけではなく、家族にも健康被
害を与えています。その白いアスベストが、どのよう
な被害を与えるかなど知らないままに、その場にいた
という事実にはぐっと胸に迫るものがあります。
-4-
アスベストによる<健康被害>問題の本質はなにか
働くもののいのちと健康を守る奈良県センター長・医師 水 野 洋
本誌「No.195」
(2006.₅)は特集「大阪・
たが、昭和₉年以降その施設として「健康保
泉南地域でのアスベスト禍と取り組み」で
険相談所」が主要府県に設置され、昭和11
あったが、この特集で「大阪・泉南地域を中
年₃月現在22か所。北海道庁(札幌)、警視
心とした石綿健康被害の調査報告の歴史を見
庁(品川、八王子、向島、神田、荒川)、大
る」を執筆した。そこでは昭和12年から数年
阪府(堺、市岡、東淀川、今里)、兵庫県(神
に亘って行われた、当時の保険院健康保険相
戸、尼崎)、愛知県(名古屋、豊橋)、福岡県
談所大阪支所長・助川浩医師を中心にした「ア
(福岡、戸畑)、埼玉・神奈川・長野・石川・
スベスト工場における石綿肺の発生概要を紹
京都・広島の各府県が₁か所。当時の工場法
介した。2006年、泉南地域で石綿健康被害
適用工場の分布状況を見ることができる。こ
の国家賠償集団訴訟がなされ、
「大阪じん肺
の年各地に設置が進み、これらを統括するた
アスベスト弁護団」が組織された。2007年に
め東京市に社会局健康保険相談所、大阪市に
入って原一郎先生の勧めで弁護団の₁つの研
同支所を置いた。
究会に参加した。保険院健康保険相談所の報
告は日本における「石綿健康被害の調査報告
調査主担当者=助川浩医師(1886~1973)
の嚆矢であり且つ政府機関が実施したもの」
済生学舎で医学を学び明治35年22歳で医
で、本訴訟にとっては重要であるとの弁護団
師開業試験合格。警視庁防疫医、各県衛生技
の判断で検討されることになったからであ
師、鉄道院技師など経て大正15年工場監督
る。
「助川研究会」と名付けられ、医学面で
官に就任、大阪府に着任した。ここで大阪府
のアスベスト健康被害の歴史をひろく検討し
下を中心に工場監督官業務と労働衛生調査に
た。前稿との重複はさけて研究会での討議の
力を尽し多くの「労働衛生調査」報告を発表、
中から重視した事項を以下にまとめてみた。
昭和₅年には大阪府下各種工場労働者約₆万
人の結核調査(早期診断)を行い「工場衛生
調査主体=保険院社会保険局健康保険相談所とは
調査 第₁編」(大阪府警察部工場課 昭和
我が国の健康保険制度は大正11年の「健
₆)にまとめた。「綿業紡績」
「メリヤス」
「毛
康保険法」の成立に始まるが、実施は関東大
織」「絹糸紡績」「染色」「ガス」「機械」「鉄」
震災のため昭和₂年₁月にずれ込んだ。被保
「電線」
「アスベスト」の11産業が対象だった。
険者は工場法・鉱業法が適用される事業所で
「アスベスト」産業は₁工場のみだったが保
働く労働者で、強制加入であった。そして「政
険院調査のさきがけでもあった。保険院社会
府管掌」と「組合健保」に分かれており、こ
局健康保険相談所大阪支所設置に際し工場監
の制度は今日に至っている。健康保険法では
督官から大阪支所長に転じた。助川の活動は
「政府管掌に於ける保健施設」として₅項目
労働現場中心主義で「実践労働衛生学者」
(東
が示され「(₃)健康診断に関する施設」があっ
田敏夫関西医大名誉教授)と評価されている。
-5-
日本の労働衛生法制の成立過程
会保険法」を主管する「保険院」は、厚生省
はじめて工場労働者の健康保持のための総
の外局の「保険院」となり、昭和13年「国
括的な法制が出来たのは明治43年成立の「工
民健康保険法」公布でもその主管にあたる。
場法」である。しかし紡績産業界からの反対
昭和15年末に「大日本産業報国会」が作られ、
でその実施は₅年間延期された。この成立・
翌16年には「工場監督官」の名称が「労務
実施に際して当時の繊維産業労働者の過酷な
監督官」に改称された。
健康被害の実態調査報告が一定の成果を上げ
た。その代表が当時の農商務省工務課工場調
保険院・調査の意義
査掛が実施・報告した「職工事情」(明治36
助川医師を中心にした「アスベスト工場に
年刊)と石原修「衛生学上ヨリ見タル女工の
おける石綿肺の発生状況」についての調査活
現況」(大正₂年、報告・刊行)であった。「工
動は当時としては非常に稀有な広範な協力体
場法」は砂上の楼閣だったともいわれ、事実
制のもとで行われている。保険院・社会局健
「女子労働者の深夜業禁止」は法実施後さら
康保険相談所の関係医師には労働衛生分野で
に15年間猶予となったが、それでも「工場
活動してきた人も多く、活動の支えになった。
監督官制度」の導入で、工場内の労働実態や
活動開始の昭和12年は大阪支所が開設され
労働者の健康状況や職業病などが少しずつ明
る直後、厚生省設置の機構改革の時期であっ
らかにされるようになってきた。大正₆年「工
たことが多分にこの調査を可能にしたのでな
鉱業衛生研究室」が設置され工場監督官の労
いかと思われる。
働衛生研究の場が一応できたが、同11年に
は廃止された。これは「工場法」の主管部局
保険院・調査(報告)が埋没した(幻にされ
が農商務省から新設の内務省社会局に移管さ
た)理由=その時代の流れ れた余波でもあり、その後国の労働衛生の研
助川らのこの貴重な「調査報告」は労働衛
究機関はない。昭和₄年「女子の深夜業禁止」
生分野でも十分知らされずにきた。報告書が
の猶予期間が終わり、その実施となった。紡
出た頃には若い医師は当然、多くの医師は軍
績産業界は後進国に押されすでに深夜業を要
医にかりだされておりその成果は埋もれてし
しない時期であった。それでも深夜業禁止の
まった。ただ戦後いち早く「日本の労働科学
措置は工場監督官による調査により健康面で
-概説とその文献」(昭和25年、南山堂刊)
有効であったことが確認されている。
には本報告は文献名として掲載され、「労働
省労働基準局監修・日本産業衛生協会編 珪
昭和10年代の日本社会=戦時体制下
肺」(昭和28年刊)ではその「付録Ⅰ.塵肺
昭和₆年日本は所謂「満州事変」を起し以
概説・石綿肺」の項で、佐野辰雄が助川調査
後「15年戦争」の時代、戦時体制下になり、
の一部を引用している。従って労働衛生関係
国内社会対策として行政組織の再編が進めら
者にはこうした調査が行われていたことは知
れた。昭和13年、従来の内務省社会局・衛
られていたが、
「調査報告書」は幻の書となっ
生局を中心に「厚生省」が設置され、その前
ていた。この報告書は100余ページであるが
年に「保健所法」が公布・施行されている。「社
その最終章「第十一章結語」はわずか₃ペー
-6-
ジだが助川医師はじめ調査担当者の願いが込
る。戦前から石綿工場の環境の悪さは明白で、
められている。報告書刊行と同時期に「保険
工場内にとどまらず外部飛散も知られていた
医事衛生」誌(昭和15年)に同じ題名で掲
が詳しい調査はされていない。助川調査の対
載されているがこの「結語」は除外されてい
象工場は泉南地域では「紡織製品」、その他
る。当時の社会状況を反映している。
大阪地区で「石綿スレート」が主体だったが、
弁護団の「助川研究会」が進む中で、裁判
紡織製品は一次加工品でさらにこれから色々
証言の₁つとして以上のようなことを証言す
な加工品にされ使用されていた。戦前の需要
るよう勧められた。助川・印のある「調査報
の過半は「軍用」とくに海軍艦船であった。
告書」を保管していた責務上から「裁判官に
開戦後は輸入は途絶し、国内でのアスベスト
理解してもらうためです」という弁護団の意
鉱山開発に国は躍起になっている。戦後の昭
向だったので証言することにした。2008年
和25年から輸入再開、年々増加していく。
₅月「医学史的に見た『保険院調査』の意義
1980年代には輸入・使用量は最大に達し
と石綿健康被害の経緯」の文書を弁護団に提
た。石綿健康被害は石綿工場労働者のみなら
出し、同年₇月と₉月の₂回大阪地裁で証言
ず、広範囲な石綿関連作業者や隣接居住者に
した。
拡がり、病態も「石綿肺」のほか「石綿肺か
以上のような経緯で本問題に携わってきた
らの肺がん」
「中皮腫(主として胸膜のがん)」
が、国が働くものの健康問題には積極的に動
が確認されるが、付随する症状・障害・合併
いて来なかったことは明白である。「工場法」
症も無視してはならない。医学的には石綿粉
の成立や、「厚生省」の設置には、当時の軍
じんの特性と中皮腫発生の病理学的検討は不
部の圧力があったことに留意すべきだ。大正
足しており、少なくとも「補償法」に該当し
10年「黄燐マッチ使用禁止令」がはじめて
た被害者の実態の統計的把握と報告は不可欠
の製造禁止令だが、これも当時の国際条約に
である。
よる措置だった。
2005年 の い わ ゆ る「 ク ボ タ・ シ ョ ッ ク 」
その後、実に昭和47年(1972)の「労働
は不明瞭なままにされてきた「石綿の健康被
安全衛生法」、
「特定化学物質等障害予防規則」
害」の片鱗を明らかにした。これに対してとっ
が出来て製造禁止物質が追加されるまで基本
た国の対応は従来より早かったものの対応は
的措置は放置された。現在でも唯一の職業病
表面的かつ杜撰といわざるをえない。
法規である「じん肺法」は昭和35年公布さ
宮本憲一先生は「アスベスト災害は“地球
れたがその大部分は「健康診断」に関する事
的規模の産業災害”であり、“アスベストが
項であって、予防のための「環境管理」「作
人体・商品・施設・廃棄物に蓄積されて、時
業管理」についての規制は極めて不十分な「ザ
間を経て歴史的に発生するストック(蓄積型)
ル法」だが、それでも他の職業病に比して「じ
災害”である。」と指摘されているが、これ
ん肺」の実情はやや明らかにされている。「特
が問題の「本質」である。
化則」の制定で、「石綿」は「発がん物質」
ということで「特化則」で規制され、粉じん
最近刊行された次の₂冊を紹介し、本稿の
としての側面が軽視されていった危惧もあ
不足を補っていただければと思う。
-7-
*「アスベスト惨禍を国に問う」
*「アスベスト禍はなぜ広がったのか-日本
(大阪じん肺アスベスト弁護団+泉南地域の
の石綿産業の歴史と国の関与」
石綿被害と市民の会・編、かもがわ出版、
(中皮腫・じん肺・アスベストセンター編、
2009.₉、1000円+税)
日本評論社、2009.₆、2400円+税)
泉南地域の石綿被害 - 隠された被害の現場を歩く -
泉南地域の石綿被害と市民の会代表 柚 岡 一 禎
はじめに
弁護士につないだ後も相談者の状況を把握
2005年₆月、クボタによる石綿被害がマ
しており、話が聴ける人には何度も会いに
スコミ報道されたとき、私の正直な気持ちは
行って地道な聴き取り調査の活動を続けてい
「尼崎にも石綿工場があったのか」というも
ます。電話インタビューを含めて、これまで
のでした。泉南の石綿産業は衰退して過去の
に600名を超える人から、泉南の石綿産業の
ものとなっていましたが、泉南には尼崎より
実態について話を聞くことができました。私
も大きな被害があるに違いない、そう考えて、
たちの調査の中から見えてきた、泉南地域の
同年11月、有志で「泉南地域の石綿被害と
石綿被害の特徴について報告します。
市民の会」を立ち上げ、潜在的な石綿被害を
掘り起こす活動を始めました。
日本の石綿産業と泉南地域
同年11月27日に行った相談会は、新聞折
日本における石綿紡織業は、日本アスベス
り込みを見て100名を超える市民が参加しま
ト株式会社(現ニチアス株式会社)の創始者
した。当地の石綿被害に対する関心の高さと、
の₁人 で あ る 栄 屋 誠 貴 が、1907( 明 治40)
「どこに行って話をしたらいいのかわからず
年に大阪府泉南郡北信達村(現在の大阪府泉
困っていた」「体の調子が悪く不安だった」
南市)に石綿紡織工場を建設したことが始ま
など、不安を持ち、救済を求めている人たち
りです。栄屋が1912年に独立し、栄屋石綿
が大勢いることを実感させられる取り組みと
紡織所(後の株式会社栄屋石綿紡織所)を設
なり、以後の継続した相談・調査活動の契機
立したことが契機となり、日本における石綿
となるものでした。
紡織業は泉南を中心として発展していきまし
2009年₇月末までの相談者はおよそ350名
た。
で、石綿工場の労働者、家族、下請け、内職、
第二次世界大戦の敗戦までの日本の石綿産
出入り業者、工場近隣の住民まで、様々な人
業は、軍需産業に支えられて発展しました。
たちが相談に訪れています。相談者が健康被
艦船の建造や産業施設の拡張にともなって、
害の不安を抱えている場合、市民の会メン
ボイラー等の保温、冷却機の保冷、ブレーキ
バーが阪南医療生協での検診に付き添い、弁
などに、石綿は重用されていました。
護士と一緒になって救済手続きのサポートを
戦後は軍需向けの需要がなくなり、GHQ
行っています。
による原料石綿の統制もあって、石綿紡織か
-8-
ら特殊紡績(特紡、太糸紡績のこと)に転換
石綿と綿が混じった粉じんが粉雪のように飛
する動きが泉南で相次ぎました。当時から、
び散り、真っ白で前が見えにくく、雪のよう
石綿は体に悪いという印象があったことも影
に機械や床に降り積もっていました。」「作業
響したと思います。祖父の石綿工場を引き継
が終わると、体、特に口や鼻、首筋など服か
いでいた私の父も、戦後、毛布用糸製造の特
ら出ている部分に石綿のほこりがついて白く
殊紡績に転換しました。
なっていました。」「タオルやマスクで口と鼻
この時期、阪南市を中心に、不要になった
を覆っても、口や鼻の中に石綿の粉じんが入
石綿紡織の機械を安く譲り受けた人たちが小
り、口の中がじゃりじゃりになったり、痰が
規模零細の石綿工場を次々に立ち上げていく
灰色になっていました。」
動きがありました。当時の化学肥料製造に不
マスクをしていても、石綿粉じんがマスク
可欠だった電解隔膜用の石綿布の需要が伸び
を通過して入ってきました。多くの人が、作
始め、泉南の石綿紡織業は民需に支えられる
業中マスクをつけると呼吸が苦しくて仕事に
形に変わっていきました。
ならなかったと語っています。石綿粉じんが
そ の 後、 高 度 成 長 期 か ら1970年 代 ま で、
肌に張り付いて気持ちが悪く、頭皮にも突き
造船、自動車、冷暖房器具などの民需向け需
刺さっているような感じで、洗っても取りき
要の高まりとともに、日本の石綿産業は戦後
ることができず、不快感に悩まされたとの証
の活況期を迎えます。最盛期、泉南の石綿工
言もありました。
場は、一貫工場70社、下請けや内職規模の
事業所を加えると200以上あったと聞いてい
ます。
誰も逃れることができなかった石綿粉じん
これらの泉南の石綿工場における粉じん飛
散状況は激甚で、従事者は誰も逃れることが
できませんでした。私たちが原告や被害者、
相談者から直接聴き取った証言をもとに紹介
しましょう。
雪のように降り積もった石綿
「昭和20年代のある工場内では、着ている
粉じんを大量に浴びる掃除や落綿の作業
服や帽子に石綿が真っ白に積もっていまし
とりわけ粉じんの飛散が多かった作業とし
た。」「昭和40年代のある工場では石綿の粉
て、石綿工場の従業員らが毎日行う掃除の作
じんが舞い散って濃い霧のように煙っていま
業を挙げることができます。何人もの人が次
した。」「昭和50年ごろのある工場では、工
のように証言しています。「₁日の作業が終
場の入口を開けると工場全体が真っ白になっ
わると機械の下や床に落ちた粉じんを掃除す
ていました。」「昭和50年代のある工場では、
るのですが、ほうきで床を掃くと降り積もっ
-9-
た石綿粉じんが工場の中にもうもうと舞い上
ぽかったです。」「工場と同じ棟の₂階にある
がり、嫌でも粉じんを吸い込んでしまいまし
寮にすんでいました。₁階が石綿工場、₂階
た。」
に製品の保管庫と寮の部屋、寮の片隅にも製
集じん機のある工場では集じん機自体の掃
品が置かれていました。部屋に帰ると石綿の
除で大量の粉じんを浴びたと言う証言もあり
ほこりがテーブルの上にたまっていて指で字
ました。「集じん機を開けてフィルターにた
が書けるほどでした。」「工場と社宅が同じ棟
まった粉じんをバケツに受ける作業で一気に
で混綿場との仕切りがベニヤ板₁枚、ドアを
粉じんを浴びました。」
開けるたびに勢いよく石綿粉じんが入ってい
石綿紡織の工程で生じる石綿の屑を落綿と
きました。」「工場と社宅の間隔が₁メートル
いいます。落綿関連の仕事には、落綿を集め
もなくて工場の窓は開けっ放し、そこから石
分別して再利用する作業、落綿をスレート用
綿が吹き出していました。」「社宅の窓を閉め
に再生するスレート混綿作業などがありまし
ているのにすき間から石綿のほこりが入って
た。石綿の屑である落綿を直接手やスコップ
きていました。食卓に並べたハムに、カビの
で掬い取って袋詰めする作業ですから、紡織
ように石綿のほこりがついていることがあり
工程よりもさらに劣悪な作業環境下で行われ
ました。」「工場と住居が近いので、作業着に
たと考えています。
「もうもうと粉じんが舞っ
石綿の粉じんが付着したまま帰宅して、入口
ていて、₁メートルくらいに近づかないと人
でばたばたと粉じんをはたいて幼い子どもを
の顔が見えませんでした。」
抱き上げました。」
粉じんの中で子育てを
貧困と差別の中で
石綿工場の従業員の中には、子守をしなが
かつて九州、沖縄、山陰、四国、和歌山か
ら仕事をしていた人もいました。「人手が足
ら、多くの労働者が職を求めて泉南にやって
りないからと社長に頼み込まれて、生後間も
きました。彼らにとって、社宅や寮のある石
ない子どもを粉じんの舞っている工場の中の
綿工場はとても魅力的な職場だったのでしょ
かごに入れて働いていました。」「子どもがぐ
う。しかし、小規模零細な泉南の石綿工場は、
ずったら、持ち場を他の人にみてもらって混
排気や集じん設備にお金をかけることができ
綿場の綿の上で乳を飲ませたり、あやして寝
ませんでした。劣悪な労働条件が長い間放置
かしつけることもありました。」
され、当然のように被害が累積したのです。
私の祖父がやっていた石綿工場の写真に、
石綿は社宅や寮の部屋にも
名前が分かっているだけで₇人の朝鮮人男女
石綿工場に隣接した社宅や寮に住んでいた
工員が写っています。戦後この地で起業した
人は、24時間石綿にさらされる生活を送っ
石綿業者に在日コリアンが多いことは周知の
ていました。「工場と同じ建物の中に間仕切
事とされています。泉南市のある大手石綿工
りをしてあるだけの部屋に住んでいたので、
場には、戦前から戦後にかけて近隣の被差別
ほこりまみれの服で出入りするし、工場のほ
部落から大勢の労働者が通っていたとの証言
こりが部屋の中に入ってきていつもほこりっ
もあります。
- 10 -
誤解を恐れずに言えば、日本社会の底辺で
おわりに
生きる人たちが行き着いた先が泉南の石綿
泉南の石綿被害者は数千人規模であり、私
だったのです。彼らは貧しさゆえに汚れ仕事
たちが聴き取りを行った人たちは全体のごく
も過酷な労働も厭いませんでした。経営者は
一部にすぎません。いわばその「生き残り」
必要であれば自分と家族の労働力をも惜しま
である被害者の₁人から言われた言葉が胸に
ず投入したし、労働者も石綿工場に自分と家
響きます。「今更何や」「手遅れや」と。無力
族の人生をかけました。
感に襲われながらも被害救済に奔走する毎日
ある女性は、一緒に石綿工場で働いていた
です。
夫が肺がんで亡くなった₂年後、かつて夫と
ともに働いた石綿工場に戻ってそれから₉年
※おことわり
間働きました。その結果、咳や呼吸困難に苦
この論文は大阪じん肺アスベスト弁護
しむことになったのです。彼女は₄歳で母を
団+泉南地域の石綿被害と市民の会「ア
亡くし、小学₄年生のときに父親が失明した
スベスト惨禍を国に問う」(2009年₉月
ため学校をやめて働いたそうです。そのため
かもがわ出版発行)の第₂章「隠された
読み書きも満足にできず、夫に先立たれて生
被害の現場を歩く」を一部省略し、「労
活に困った彼女は、「マスクをすれば大丈夫」
働と健康」用に再構成したものである。
と考えて石綿工場に戻ったのです。
裁判資料からみた被害の実態 意見陳述書
しんどさを分かってもらえない辛さ
原 ま ゆ み
私は、昭和18年₉月₇日に徳島で生まれ
年間、泉南地域を中心に、₇つの石綿紡織工
ました。中学校卒業後、兵庫県内の紡績工場
場で働いてきました。私は、おもにロービン
で₁年ほど働いた後、阪南市にやってきまし
やリング、クロスという作業をしてきました。
た。 昭 和40年 頃 夫 と 結 婚 し、 息 子 の 数 行、
ロービンとリングは、どちらも機械で糸をよ
さらに娘の千明を授かりました。夫は昭和
る作業です。クロスは、よった糸を機械で長
63年に亡くなり、今は数行の家族₄人と同
い石綿の布に織り上げる作業です。
居しています。
作業の状況について言いますと、ロービン
私は、平成18年₇月10日、じんぱい管理
やリングでは、機械が回転すると粉じんがた
区分₂とぞくはつ性気管支炎にかかっている
くさん飛び散り、作業中はまわりが真っ白に
と認定され、毎月、岸和田市にある阪南診療
なっていました。リングの方が機械の回転が
所に通院しています。
速かったので、ロービンよりも粉じんはひど
かったです。
石綿まみれの工場
また、クロスは、石綿の布を織り上げると
昭和35年頃から平成18年12月頃まで約46
きに粉じんが大量に飛び散りますので、機械
- 11 -
の下には₁日で₄、₅センチメートルくらい
本当に不安になります。あまりに胸が苦しく、
の厚さのほこりがたまりました。どの作業を
このまま死んでしまうのではないかと思って
しても、体じゅうが石綿まみれになり、私の
怖くなったことも何度もあります。
まゆ毛やまつ毛には、いつも白い粉がつもっ
この頃から、仕事をしていても、午後₃時
ていました。はなをかむと、はな水に石綿が
を過ぎた頃から非常に疲れを感じ、咳が出て、
まじってねずみ色になっていました。
声が思うように出なくなることもよくありま
また、子守をしながら仕事をしていた時期
した。風邪を引くと、咳やたんが頻繁に出て
もありました。仕事をするときに、幼い数行
なかなか治りませんので、風邪を引くのが怖
と千明の₂人をかごに入れておくのです。少
いです。これから自分の体がどうなっていく
し大きくなると、うろうろしないように、体
のかを考えると非常に不安です。また、子供
とかごを、リングの機械に使うベルトでくく
たちの健康のことも心配です。
り、かごにはお菓子を入れておきました。子
私の一番の趣味はカラオケでしたが、今で
供たちが眠たくてぐずるときは、混綿場の綿
は歌うことができません。病気のせいで、息
の上で寝かしつけたこともありました。当時
が続かないのです。踊りに誘われても、息が
は、このようなことは普通のことだと思って
切れるので断っています。ですから、友だち
いました。
と出かけることがすっかり減ってしまいまし
勤務先の会社から、マスクや作業着をも
た。
らったことはありませんでした。昭和62年
この病気は見た目は普通の人と変わらない
頃までは、工場と棟つづきの社宅に住んでい
ため、自分のしんどさを他人に分かってもら
る時期が長かったので、当時は社宅の中もほ
えないのも辛いです。
こりっぽく、作業着を着たまま食事をしてい
現在、体調が悪いので、家事は数行のお嫁
ました。
さんに頼りっきりになっています。また、夜
中にどうしても息苦しくしんどいときは、千
逃れられない胸の苦しみ
明に電話をかけて体の状態を聞いてもらった
私は、10年ほど前から、咳やたんがよく
り、家まで来てもらって朝までそばにいても
出るようになりました。また、早足で歩いた
らうこともあります。いつもまわりの人に迷
り、坂道や階段を上がったりすると、すぐに
惑をかけているという負い目があります。
息切れをするようになりました。そのような
裁判官の皆様には、このような苦しみや不
ときは、咳き込むことも多いです。たんは、
安を少しでも理解していただきたいと思いま
朝にたくさん出ることが多いですが、のどの
す。
奥でからんで、なかなか出てこないこともよ
くあります。
平成12年頃から、夜中に息苦しくて何度
も目が覚め、咳き込んだり、胸のあたりがチ
クチク痛むようになりました。そのときは、
真っ暗な部屋に自分₁人しかいませんので、
- 12 -
(2008年₅月28日)
苦しんだ母の病気
竹 井 弘 子
私の母、木下お栄は、平成18年₂月₅日
た。辛抱強い母は、苦しいのをずっと我慢し
に79歳でこの世を去りました。
ていたのです。すぐに入院して治療を始めま
母は死亡当時、「陳旧性肺結核」と診断さ
したが、状態は良くなりませんでした。
れましたが、本当の死亡原因は、石綿粉じん
その後まもなく、母には酸素の補助が必要
の長期高濃度暴露に伴う「びまん性胸膜肥厚
となり、常に鼻から酸素を吸う生活になりま
に伴う呼吸不全」でした。
した。外出する時は携帯用酸素ボンベを持っ
て、家にいる時はベッドの側に酸素吸入器を
原因が見えない母の病気
おいて生活する日々でした。しかし、そんな
母は、昭和23年、21歳の時から50歳にな
日も長く続きませんでした。
る昭和52年まで、大阪府泉南市新家にあっ
平成15年₄月、母は呼吸不全で緊急入院
た三好石綿大阪工場に勤めていました。
したのです。状態は予断を許さず、私たち家
昭和39年12月、37歳の母は、風邪をひい
族も一縷の希望を持ちながらも最悪の事態を
た後、右肺の肺炎になりました。咳がひどく
覚悟していました。しかし、病院が人工呼吸
痰がたくさん出て高熱が出ました。医師から
器を装着しての献身的な治療をして下さった
は「肺が真っ白になっている。この人の肺は
ことと、本人の生きたいと想う強い生命力と
風邪ひかんようにしないとあかん。」と言わ
で、約₂ヶ月後、母は奇跡的と言っても不思
れたそうです。母はその後も風邪をひきやす
議ではないほどの快復を果たし、食事が口か
く、風邪をひく度に病院へ行きましたが、咳
ら食べられるほどまでになりました。
や痰がひどく出て、なかなか治りませんでし
けれども、当然のことながら、以前のよう
た。それでも滅多に仕事を休むことはなく、
な生活には戻れず、酸素を吸っても吸っても、
いつも働き者の母でした。
見ているだけでしんどそうな毎日が続きまし
と こ ろ が、 平 成12年 頃(73歳 頃 ) か ら、
た。咳をするので、食べた物が気管に入り誤
ハアハアと、それまでなかった苦しそうな息
嚥性の肺炎になって、熱が出ることもよくあ
づかいをするようになりました。医師からは、
りました。
「腰が曲がっているから息がハアハア言うて
しんどいんや。」と言われましたので、私た
この苦しみから解放させてあげたい
ち家族は、「変やな。そんなことがあるんか
母は社交的で友達も多く、どんな事も前向
な。」と思いながらも、医師の言うことを信
きに考える方だったので、頑張って人の集ま
じていました。
る施設などに行きました。でも、₁人で身の
余りに息づかいが荒くしんどそうで、周り
回りのことをこなすことはできず、母と同居
でも見ていられなくなったため、平成13年
していた父だけでは負担が大きすぎるため、
11月、病院に連れて行って検査をお願いし
私や妹が昼も夜も母の世話をしに行きまし
たところ、酸素分圧が83(mmHg)という異
た。
常に低い数値しかなく、肺炎と診断されまし
平成16年₁月、呼吸困難になり再び緊急
- 13 -
入院。すぐに人工呼吸器を装着してICUで治
に頑張ってくれた母。やっとゆっくりと老後
療を続けました。₁ヶ月半後、長期にわたる
の生活ができるようになったのにと思うと、
人工呼吸状態が続くため、気管切開をしまし
かわいそうでたまりませんでした。
た。口から栄養を摂ることができないので、
鼻からのチューブで直接、栄養剤を胃に流し
母の病気の正体
入れます。痰は気管切開をしたところから取
平成18年₂月₅日、敗血症からショック
りますが、たくさん出るので、常に取ってあ
状態になり、呼吸不全で母は亡くなりました。
げないと息が苦しくなりました。しんどくて
意識ははっきりしたまま₂年以上も寝たき
たまらないはずなのに、母は私たちにいつも
りで、自分の意思を話し伝えることもできず、
気を遣ってくれました。 食べることもできず、身体の自由も奪われて
しかし、その後は何度も感染を繰り返し、
いき、天井だけを見て過ごす毎日。亡くなる
全身状態が悪化していきました。身体は骨と
直前、母は全く動けずただ涙を流すだけでし
皮ばかりで文字どおりミイラのようになり、
た。
膝や肘などの関節は固くなって曲がったまま
平成17年の夏頃から、マスコミによって
でした。着替えや体位を変えてあげる時も、
石綿被害が報道され始めました。私たち家族
少し力を入れるとボキッと折れそうでした。
は、母の入院中、担当医に再々、母の病気が
それなのに、夜中に自分で人工呼吸器を外し
石綿と関係がないかと聞きました。母は29
てしまい、腕をベッドに縛られることも何度
年間も石綿工場で働いていたために、こんな
かありました。あんなに弱々しい不自由な手
苦しい目に遭っているのではないか、と考え
のどこにそんな力があったのか不思議なほど
ていたのです。しかし、担当医の説明は、肺
でした。人工呼吸器を外すことが死を意味す
気腫になっていて肺に酸素が取り込めなく
ること、そして誰もわざとそれを外すことが
なっているとのことで、石綿との関係は不明
できないことは母もわかっていました。苦し
という返事でした。
さとつらさの余り、母はもう生きていたくな
しかし私は、石綿との関係が不明という担
かったのだとしか思えません。
当医の返事にはどうしても納得できず、母の
私たち家族は、母に会いに行きたいのに、
死後、死の原因の真相を知りたいと考え、病
母の姿を見るのがつらく、₁人で病院に行く
院から過去のレントゲンファイルを借りて、
時は重い気持ちになって、精神的にも追い込
集団検診の場に持って行きました。そこで別
まれていきました。どんな姿になっても₁日
の医師に見てもらって初めて、母は石綿が原
でも長く生きてほしいという気持ちと、人工
因で亡くなったことがわかったのです。
呼吸器を外して早く楽にしてあげたいという
相反する気持ちとがない交ぜになっていまし
新雪のような石綿の中で
た。
ところで、私は20歳ぐらいの時、母に勧
大好きな母がどうしてこんなになったの
められて、三好石綿に冬のアルバイトに行っ
か、思えば思うほど、考えれば考えるほど悲
たことがあります。母と同じ仕事場でした。
しく、涙が出てきました。私たち子供のため
母は、白い石綿の板であるブレーキランニ
- 14 -
ングに、電気ドリルのような道具で穴を開け
ば、母があんなに苦しむ必要はなかったので
ていました。作業服を着て皮のエプロンを巻
す。また、国がきちんと情報を公開していれ
いて椅子に座り、作業帽子をかぶっていまし
ば、全国の医療水準が上がり、医師ももっと
た。母以外にも何人かの人が座って作業して
石綿のことを理解して、母が本当の病名も知
いました。私は、母達が作った製品を運んで
らずに亡くなることはなかったと思います。
きてコンテナの台に₅枚ずつ積んでいきまし
私も今になって原因のわからない咳が出ま
た。製品はとても重く、母は毎日大変な仕事
す。風邪をひいたときは₆ヶ月ぐらい咳が続
をしているんだなあと思いました。とても忙
き、強い薬を服用してやっと止まりました。
しくて、出来上がった製品はどんどん運び出
医師からは今は問題がないと言われています
されていきました。
が、不安でなりません。
足元にはふわふわした白い石綿の粉が新雪
国は、₁日でも早く石綿被害者が救済され
のように積もっており、床は真っ白で歩くと
るよう、まずは、この裁判を通じて、石綿問
足跡がくっきりつきました。部屋は石綿の粉
題を放置してきた責任をはっきり認めてほし
でほこりぽかったです。母も私もマスクをし
いと思います。
ておらず、私のそばで一緒に仕事をしていた
人もマスクはしていませんでした。
昼食時になると、ぱんぱんと服についてい
る粉をはらって食堂に行きました。ご飯はお
かわり自由でしたが、私は、咳き込んで食べ
られませんでした。若い私でしたが、風邪を
ひたように咳が出てとてもしんどかったで
す。
いつ発症するかわからない不安
私は、アルバイトに行く以前も、よく妹と
一緒に工場に連れて行ってもらいました。工
場の中は、こんなおそろしいことが起きるよ
うな所とは思いもつかないくらい、働く人達
が笑顔で仕事をしていたのを覚えています。
けれども本当は、あの時平気で吸い込んでい
た石綿のせいで、母は苦しみ抜いて亡くなっ
たのです。
国は、石綿の危険性を知りながら、なぜ、
そのことを教えてもくれず放置したのでしょ
うか。
国がきちんとした石綿対策をとっていれ
- 15 -
田尻俊一郎先生を偲んで
過労死問題、公害、頸肩腕障害など、労働者の健
康問題に深く関わってこられた田尻俊一郎医師が、
2009年₉月₄日逝去されました。享年81歳。
本誌のタイトルである「労働と健康」は、田尻先
生が伝法高見診療所労働衛生研究会時代に発行して
いたタブロイド判機関誌を襲名したといわれていま
す。私たちの活動の原点には、田尻先生の長年の取
り組みが基礎であることは間違いありません。
多くの方に慕われた田尻先生を偲んで、言葉を寄
せていただきました。
田尻俊一郎先生に学んだこと
過労死・自死相談センター 上 畑 鉄之丞
田尻先生は、私よりも確か一回り年上の大
科学技術の進歩の中で、機械化、自動化、コ
先輩でした。大阪を拠点に、長年労働者の健
ンピューター化等が普遍化し、交代勤務、単
康を守る闘いへの連帯と支援を続けておられ
調作業、静的作業などが増え、労働の態様の
ました。過労死の予防や労災認定では、とく
変化も著しい。それに伴って労働者への作業
に、第一線の臨床医として、常に先頭に立っ
負荷の質も、動的負荷から静的負荷へ、末梢
て闘っておられました。私自身の先生との出
性負荷から中枢性負荷と変わり、そのための
会いは、東京の杏林大学衛生学教室に移り、
健康破壊像も多彩となってきた」と書かれ、
労災職業病問題に取り組みはじめたころから
脳卒中、心不全、胃潰瘍などの労災相談が増
で約30年もお付き合いをいただきました。
え、₆例の脳血管疾患の労(公)災認定例を
鮮明に記憶に残っているのは1968年。長
紹介されていました。
野県松本市で開催された日本産業衛生学会
この学会では、私も「過労死の研究第一報
で、先生は「くも膜下出血発症に及ぼす労働
-職種の異なる17ケースの検討」を報告し
状態の検討-観光バス運転手の症例」を報告
ましたが、先生の報告は、私にとって大変新
されました。先生の抄録には、「めざましい
鮮で、大きなインパクトになりました。先生
- 16 -
と私の認識は殆ど一致し、大変に勇気づけら
さに衝撃を受けたことを今でも忘れません。
れたのです。
田尻先生は、こうした過労死の家族を救済
その後、先生は1981年、弁護士さんたち
する活動に率先して取り組まれただけでな
とともにいち早く大阪過労死問題連絡会を結
く、過労死を職場で発症させない労働組合の
成され、過労死被害者や遺族の補償・救済活
活動にも大きな影響を与えられました。先生
動に立ち上がられました。
の書かれる労災意見書の内容の₁つ₁つが、
そして1982年、京都の細川汀先生のお声
闘う労働者や労働組合を励ましました。特に
がかりもあって、₃人の共著である「過労死
力を入れておられた観光バス、ハイタク、ト
-業務上認定と予防」(労働経済社)が出版
ラック運転手など交通労働者の労働条件改善
されました。当時、東京で出版社とともに、
は、自民党の行政や経営者に一定の譲歩を強
編集を手伝った私にとって、田尻先生の冷静
いたと思います。2001年12月、それまで疲
な観察眼が大きな励みになったことも覚えて
労の蓄積と過労死の関連をかたくなまで認め
います。
なかった労働省が、ようやく脳・心血管疾患
私たちもようやく1986年になって、東京
の認定基準の改定に条件付で踏み切ったこと
の若手弁護士たちや岡村弁護士、新聞労連の
も、先生が取り組まれた観光バス運転手の過
宮野書記たちと一緒に、「ストレス疾患労災
労死の意見書をもとに、最高裁が国の敗訴を
研究会」を立ち上げましたが、翌年の1987
言い渡したことが大きく影響したと思いま
年₄月、田尻先生たち大阪の連絡会が始めら
す。
れた「過労死110番」が大きな関心を呼び、
東京にお出でいただき、講演をと何度か相
₆月に、東京はじめ、全国でも「父の日を前
談しましたが、亡くなられた奥様の闘病で実
に過労死110番」が取り組むことになりまし
現できなかったのが悔やまれます。先生の大
た。当日、電話の受話器を取っても、取って
きな足跡に、今後も学びたいと考えています。
も、次々とかかってくる過労死相談の根の深
謹んで、先生のご冥福を祈ります。
- 17 -
「過労死」が死語になることを願って
過労死裁判元原告 平 岡 チエ子
田尻先生の訃報は、この上ない理解者を失
が最後となってしまいました。田尻先生は「過
い、ともて辛い気持ちです。
労死」が死語になることを願い続けておられ
「かけこみ寺でいい」と先生が守り続けら
ましたよね。私がそのたたかいを出来ない事
れた過労死問題連絡会に、私は1988年に過
情も理解された事、ありがたかったです。
労死した夫のことで出会いました。
著書「過労死」は、お守りに、少しでも先
身内や労働組合に理解はなく、社会的にも
生に恥かしくない生き方を努力しなければと
理解の少ないことで過労死問題の意見書を書
思います。ありがとうございました。
く医師も稀な頃に、多忙な田尻先生には、労
ご冥福をお祈りいたします。
災申請、企業責任追及裁判と連絡会の弁護士
の力をいただきながらお世話になりました。
「不条理への怒り」「不条理による犠牲」と
表現された時は、私たちに生きる力をもらい、
自信と勇気が原動力になりました。会社側が
全面謝罪をしてもなかなか元気になれず…。
たまにお会いできたことや、毎年頂くお年賀
の一言一言を思い出します。
「あの頃がだんだん遠くなっていきます」
田尻先生との想い出
元武田薬品争議団 遠 藤 富 雄
田尻先生と初めてお会いしたのは、ペニシ
悟がいる。その覚悟が出来たらまた来なさい」
リ ン 喘 息 が も と で 死 亡(1976年11月18日 )
と言われた、どうしようと相談を受けました。
した武田薬品中央研究所の松本洋治さんの労
私は、松本さん、西田さんと同じ研究所で働
災闘争で支援をお願いした時でした。
いており、合成ペニシリンでかぶれた経験が
松本さんの労災問題は最初、同じ研究所で
あり、同僚の中でもかぶれが出る者がおり職
働いていた西田陽子さんらが田尻先生を訪ね
場の安全を守らなければとの思いを強く持っ
支援をお願いしました。この時、田尻先生か
ていましたので、西田さんらと一緒に闘う決
ら「君達が職場にすっこんだままで、誰かに
意を固め田尻先生を訪ねました。
やってもらうと言う態度では運動は決して進
田尻先生は、因果関係の立証に尽力下さる
まない。₂~₃人は首を切られるくらいの覚
と共に、職場内外での運動の重要性を指摘さ
- 18 -
れ、職場外で結成された「松本問題対策協議
災職業病では膠原病、血清肝炎、頸肩腕障害、
会」の会長を快く引き受けて下さいました。
頸背痛症・腰痛、酸欠死亡事故などで労災認
職場の中では松本さんが好きだった花にちな
定を勝ち取ることが出来ました。会社も安全
んで「カーネーションの会」を結成し、「松
衛生に力を入れざるを得なくなり、職場での
本さんの死は労災だ」という声を広げると共
安全衛生対策が進みましたが、この事には、
に、安全衛生についての学習と職場の安全問
田尻先生の力の大きなものがありました。私
題について交流し、危険・有害な職場の改善、
は今、「大阪・中央区地域労組こぶし」にボ
労災職業病の被災者の掘り起こしを行いまし
ランティアとして関わっていますが、このと
た。松本さんは1973年10月23日、日本では
きの経験が労災職業問題、職場の安全衛生問
じめて職業性ペニシリン喘息での労災認定を
題での対応に本当に役立っています。
受け、マスコミで大きく報道されました。
田尻先生に相談する事はもう出来ません
田尻先生には、その後も職場の安全衛生、
が、田尻先生の教えを胸に刻んで頑張ってい
労災職業病問題で指導をお願いしました。研
きたいと思っています。
究所でのパッチテストの実施などの対策、労
頸腕患者の強い味方
住友生命頸腕患者会 能 崎 嘉 子
住友生命では、10名の頸腕患者が業務上
間を決めたのは会社ではないのか。なぜ、就
と認定されています。
業時間を○時~○時と決めているのかを考え
そのうち₄名が、西淀病院の田尻先生の患
てみてはどうか。』と明解な回答を出されま
者でした。
した。世間では考えられない無理難題を出す
住友生命は、私たちの病気を業務上と認め
会社でした。『そこまで会社が言うはずがな
ようとせず、訓練的就労(リハビリ)、働き
い。患者がわがままを言っているのではない
方や休暇の取り方などに言いがかりをつけて
か?』とよく言われ、悩みました。そんな私
きました。時間内通院を認めても「帰社時間
たちを田尻先生は、時にはやさしく、時には
が10分遅い。」「病院の理由書を出せ!」と
厳しく守って頂きました。待合室で「会社に
いう対応でした。
どう説明しよう?」とワイワイ騒いでいたら、
田尻先生に相談し助言を受けて、患者会【大
「君らは、口は頸腕にならんなぁ~!」とよ
阪頸腕罹病者の会・住生頸腕患者会】で話し
く叱られたのを思い出します。
合いました。業務上認定を勝ち取り全日勤務
『エデンの園』に転居されたことを年賀状
が可能になっても『残業不可』の診断書に対
で知り、田尻先生にお会いしたいと相談して
して「残業ができて₁人前。残業ができない
いた矢先の訃報でした。ご冥福をお祈り申し
理由は!」と医師の診断書に対して意見を求
上げます。
めてきました。田尻先生は多忙の中『就業時
- 19 -
田尻俊一郎先生を偲び その歩みから学ぶ集い
2009年12月₆日、大阪民医連会議室にて
あこがれの医師として
「田尻俊一郎先生を偲び その歩みから学ぶ
同世代の医師として小林栄一此花診療所所
集い」(主催:田尻俊一郎先生を偲ぶ集い実
長からは、田尻先生が長崎の原爆の被災者で
行委員会)が開催されました。150人を超え
あったことが話されました。その経験の重み
る方々が集まりました。
を田尻先生がずっと背負われていたそうです。
会場には田尻先生の写真が飾られ、多くの
そして、医師の後輩として₄人の先生が登
人がその姿を写真に納める様子がみられまし
壇されました。広瀬俊夫先生、橋本忠雄先生、
た。写真のお顔までも心にとどめておこうと
松本久先生、垰田和史先生が田尻先生の想い
されるのは、それだけ田尻先生が慕われてい
出を語られました。医学生時代に田尻先生に
たということなのでしょう。
出会い、様々な教えをいただいた方々のお話
追悼の会として開催されながらも、お別れ
には、田尻先生の優しさと厳しさ、そして、
の会というだけではなく、田尻先生が私たち
労働者の生活を見る視点をひたすらに教えよ
に残してくれたものを学び交流しようとする
うとされるお姿が浮かびました。
内容でした。
橋本先生は「どのような医師になりたいか
偲ぶ言葉として、働くもののいのちと健康
わからない時に田尻先生に出会い、こんな医
を守る全国センター理事長の福地保馬先生、
師だったら医師になりたいと思った」といい
過労死・自死相談センターの上畑鉄之丞先生、
ます。患者をみて病気だけを診るのではなく、
大阪過労死連絡会の松丸正弁護士からの言葉
「なぜ、そうならなければいけなかったのか」
がありました。その後、「田尻先生と私」と
を見ることを教えられたといいます。
いうテーマでのリレートークでは、様々な表
垰田先生は、臨床の医師を続けるか、職業
情の田尻先生を伺うことができました。
病を研究する道に進むかという岐路に立った
- 20 -
時に、田尻先生からの言葉が背中を押してく
性あふれる田尻先生の姿が語られました。
れたことを語られました。
頸肩腕障害という、身体的にだけでなく、
精神的にも病んでしまう患者の心を、時に優
闘いを導く医師として
しく、時に厳しく診察されていました。松本
リレートークの後半は、労働者、研究者・
さんは「田尻先生から、なんで君みたいな年
弁護士、元患者が登壇しました。
齢でこんな病気になるんだ」と涙を流された
労働者からは、元武田争議団の遠藤富雄氏、
といいます。そして、「けいわんとは上手に
全港湾本部書記次長の町田正作氏。過労死問
つきあっていきや。体と相談しながらいきや」
題の関係者からは、関西大学教授の森岡孝二
と言葉をかけられたそうです。清水さんも「け
氏、高橋典明法律事務所の高橋典明弁護士、
いわんとたたかってはいけない。仲良くしな
女性共同法律事務所の有村とく子弁護士。
さい」と言われ、「つらい時には、下を向い
全港湾の職場に足を運び、現場の労働者に
てはいけない」と励まされたそうです。それ
話をしてきたこと。最初は「先生」と名のつ
ぞれのエピソードには、笑いがありながらも、
く人との交わりを嫌がった労働者も、田尻先
涙を誘う言葉があふれていました。
生が現場にきてくれると、やはり「わかる」
家族と過ごす以上の時間を多くの労働者、
という。そんな田尻先生から、監督署の人を
患者、弁護士とすごされていた田尻先生でし
わからせることを学びとりました。時に、食
たが、奥様思いの一面もたくさん語られまし
用の粉じんでも病気になるということを知ら
た。
せるために、監督署で小麦粉をぶちまけた話
そして、献花ののち、₂人の娘さんからの
もでてきました。
挨拶がありました。「多くの方のお仲間にな
司法修習生時代から交流があった高橋弁護
らせていただいていたんだ」という言葉に続
士は、過労死問題や頸肩腕障害の闘いを共に
き、昨年に書かれたという書簡が読み上げら
取り組んできたことを報告されました。切り
れ、多くの方への感謝の言葉を残されている
口鋭いお話しでしたが、最後に、吹田の頸肩
ことを知ることができました。滋賀に住む娘
腕の裁判で不当な敗訴した時の、「負けずに
さんは「たくさんの方が訪れてくれてたので
がんばれ」と声をかけたらたことに、声を詰
すね」と驚かれながらも、あまりにもあたた
まらせる場面もありました。語られること以
かい言葉の数々に「ちょっと悔しいので」と
上に、労働者の健康を守る闘いを大きな心で
前置きをされて、こう言われました。「父に
見守られてきた思い出がそこにはあるのだと
最後に会った時、父が私に向けてくれた笑顔
思いました。
は家族だけのものです。みなさんにはお渡し
しません」。たくさんの人に慕われた田尻先
職業病の医師として
生が最後に家族に向けられた愛情の深さを感
元患者として、伊木志津子氏(元大阪頸腕
じました。
罹病者の会)、松本裕美氏(元保育士)、清水
₃時間を超えてもなお語り足りない思い出
芳子氏(元松下働く者の健康を守会)の₃人
が残っているようでした。田尻先生が残され
の話には、臨床の医師として、そして、人間
た功績の偉大さを感じる時間となりました。
- 21 -
石橋良信さんの職業がんの労災認定を求める裁判はじまる
ダイトーケミックス労組 副委員長 南 原 聡
2009年10月15日13時10分より、大阪地裁
₂度と繰り返さないための申請
810号法廷で、石橋良信さんの職業がんを労
意見陳述の中、一番印象に残っているのは、
災認定させる裁判の第₁回口頭弁論が開催さ
膀胱がんもほとんど大丈夫と言われていた矢
れました。
先、今度は口腔がんを発症し、手術後に石橋
当日は45席の傍聴席が満席となるほど出
さんは声が出せず、言いたいことも言えない
席者が多く、裁判官が入室する前から緊張感
状態であるにも関わらず、奥様に労災申請を
に溢れていました。13時10分に裁判官が入
してほしいと伝えた事です。後に残る最愛の
室し口頭弁論が開催となりましたが、傍聴席
家族への思い、石橋さんの愛していた会社や
の人数の多さに裁判官も圧倒されたと思いま
職場で₂度と同じ事を繰り返してはならない
す。この裁判は非常に注目度が高く、重要な
との思いからの労災申請の決断である、と奥
裁判であることをまずはアピールできたと感
様が訴えをされました。
じました。ダイトーケミックス支部からは
認定基準を変える闘いとして
14名が参加しました。
現在の労災認定の基準は、限られた因果関
病室が家庭という生活の中で
係の中での基準になっています。今回の件で
原告である石橋さんの奥様が意見陳述され
言いますと、口腔がんを引き起こすと証明さ
ました。その中で石橋さんは最初の膀胱がん
れる化学物質への暴露が認められないとし
が発症するまで、とても元気な方で残業や徹
て、労災請求が棄却されています。このよう
夜も頑張っておられた事や、休みの日には奥
な労災認定の基準や審査官の態度は、職場で
様を連れて山登りや釣りに行った思い出を述
多くの化学物質を取り扱っている労働者に、
べられ、石橋さんの人となりが目に浮かぶよ
様々ながんが多発していることを軽視してい
うな内容でした。その後、膀胱がんを発症、
ます。
₃回の摘出手術をし、抗がん剤を使用した苦
ダイトーケミックスでは、今現在も発がん
しい闘病生活であったこと、奥様は病院でつ
の疑いのある化学物質を多数扱っています。
きっきり、娘さんはまだ小学校₅年生で学校
限られた暴露集団に属する被災者が、化学物
から帰るとすぐに病院に来て、病室が家庭と
質と発がん部位の関係を証明するなど全く不
いう生活をしていたことを、奥様が時折言葉
可能なことです。この裁判は労災認定の基準
を詰まらせながら述べておられました。私は
を変える闘いでもあります。過労死などの労
聞いていて、胸が痛くなってくるような感じ
災認定の判断基準は運動化することで改善・
を覚えました。
見直しがされてきました。職業がんの判断基
準は過去から殆ど見直しがされていない状況
です。技術の進化と共に使用する化学物質も
- 22 -
多種多様になっているにも関わらず、過去の
石橋良信さんの職業がんを
労災認定させる会
判断基準のみで審議することは不条理な話で
す。皆で運動化し、世間に伝える事でこの理
不尽な判断基準を変えていきましょう。
現在、第₂回口頭弁論に向け、原告である
石橋恵子さん、原告側代理人弁護団の先生方、
石橋良信さんの職業がんを労災認定させる会
幹事の皆様、ダイトーケミックス支部の皆様、
その他大勢の方と力を合わせて準備を進めて
おります。これからも皆様に色々な形でご協
力をお願いすることがあると思いますが、ご
支援よろしくお願い致します。
この裁判は負ける訳にはいきません。絶対
『石橋良信さんの職業がんを労災認定
させる会』は故石橋良信さんの労災認定
闘争を幅広く支援し認定を勝ち取り、化
学物質による職業性がんの認定基準の問
題を社会的に明らかにし、労働者救済と
職場労働者の健康・安全に役立つ基準に
改善させる事を目的として活動を行って
いきます。
労災認定させる会に賛同される方は入
会・カンパをよろしくお願いします。
に勝利しましょう!
〔散歩〕のはなし-その2
南 天
小さな南天の花が₄月に満開に咲き、₆月頃から花が散り、
その後に米粒みたいな実がなりました。₇月頃には実もふく
らみ、₈月にはその実はだいぶん大きくなりました。
₉月の終わり頃は、実もほんの少しちらちらとピンク色に
なってきました。
12月30日には、私は南天と松、千両を生花にします。生け
ていると、心が花と一体になります。生け花の後は、心がゆ
たかになり、生けられた松はうれしそうです。
(やまもと やすこ)
- 23 -
大 阪 民 医 連 社 会 医 学 活 動 交 流 会
2009年10月25日、大阪民医連社会医学活
若い研修医が、板井先生の講演にあった調査
動交流会が開催されました。
への参加した経験が報告されました。水俣病
大阪民医連として、社会医学をどのように
は神経障害があります。しかし、言葉で聞く
取り組んでいるかを議論する場として初めて
とぴんとこない症状が「検診の中で舌や目な
開催されました。
どに強い刺激を与えても痛みを感じない」と
熊本県民主医療機関連合会会長の板井八重
いう驚きを伴った報告には、今もなお水俣病
子医師による「私たちにとって水俣病とは何
の被害は終わっていないことを知らされまし
だろう?」と題した記念講演が行われました。
た。
小学校の教科書でも学んできた「水俣病」で
「ホームレス訪問の取り組み」は、待って
すが、決して過去のものではないことを、板
いるだけの診療ではなく、病院から出向く活
井先生は語られました。2009年に行われた
動として、大仙公園へ出向き、地域の貧困の
「不知火海沿岸住民健康調査」では、全国か
実態を自分たちの目で確かめようという取り
ら医師140人を含む350民医連職員が参加し
組みでした。その中から「貧困は個人の責任
たといいます。1051人の受診者の₉割に水
ではない」ことを確認し、いのちと権利を守
俣病の症状が現れているという実態は、まさ
る取り組みを今後も継続して取り組むことが
に「過去の出来事ではない」ことがわかりま
報告されました。
す。水俣病問題の解決のために歩まれた板井
それぞれの報告には、診療場面だけにとど
先生の人生は、民医連の活動の原点をみるよ
まらない活動が浮かびあがるものでした。民
うでした。
医連綱領には、「地域・職域のひとびとと協
第Ⅱ部では、現在の大阪民医連の活動報告
力を深め、健康を守る運動をすすめる」とい
が行われました。
う言葉がありますが、まさしく、今回の活動
「水俣病検診(不知火海岸沿岸住民検診)」
交流会は健康を守る運動が行われていること
耳原総合病院(研修医)の上田弥生さん。
「ホー
を実感するものでした。
ムレス訪問の取り組み-待っていないで出向
今後もこのような活動交流会の取り組みを
いて行こう」耳原病院の大平路子さん、「ア
開催していただき、病院の中だけでない民医
スベスト計測法の取り組みについて」大阪メ
連の活動を広げてもらいたいと感じました。
ディカルラボラトリーの野村耕一さん、「JR
福知山線脱線事故をうけて労働組合ととりく
んだ調査-電車運転士の労働と“事故の芽”
としての眠気」大阪社会医学研究所の重田博
正さんの₄つの報告は、どれも聞き応えのあ
るものでした。
最初の「水俣病検診」の報告は、民医連の
- 24 -
シリーズ
カウンセラーによる傾聴のはなし
第₂回 聞 く 産業カウンセラー 福 田 茂 子
今回は、「聞く」について詳しく見ていきま
たいていの人は、話づらい、むなしい、話
しょう。
す気がなくなる、という感想を出されます。
たとえば、配偶者、子ども、親、恋人、親友・・・
また、聞いている方は、相手が何を言ってい
誰でもいいのですが、とても身近な人、大切
たのか、まるで覚えていないという感想が多
な人から「ちょっと聞いて」と言われたとし
いです。
ましょう。
傾聴の基本(=聞く)は、全くこの逆の態
その時に、何かをしながら(テレビを見な
度になります。
がら、携帯メールを打ちながら、新聞を読み
つまり、①適度に目を合わせている、②話
ながら、用事をしながら・・・)「聞く」のは、
に合わせてうなずいている、③「そう」「へえ」
ただ「聞き流している」だけ。相手の存在を
「そうなんだ」などと声を出して相槌を打って
認めているというこちらの気持ちがあったと
いる、④他事をしないで話を聞くことに集中
しても、それは相手には伝わりません。
している、態度です。これは、聞く技術とい
逆の立場になってみれば、わかりやすいと
うより、一生懸命聞いていると自然とこうい
思います。話を聞いてほしい時に、他のこと
う態度になっている、と考えた方がいいでしょ
に気を取られている人にはとても話しづらい
う。
ものです。
話している方は、聞いている人のその態度
から、話しやすくなります。非傾聴の時より
傾聴(聴き方)セミナーでは、よく「非傾
話しに広がりと深まりがでます。そして「しっ
聴のロールプレイ(役割を演じる)」というワー
かり自分の話を聞いてもらえた」「私の存在を
ク(実習)をします。₂~₃分の間、話し手
認められている」という信頼感・安心感につ
役の人は、何でもいいので、相手に伝えよう
ながるのです。
と一生懸命話します。
試しに身近な人と「非傾聴・傾聴のロール
その間、聞き役の人は、わざと、①目を合
プレイ」をやってみてください。
わせない、②うなずかない、③相槌をうたない、
(注・非傾聴だけやるとストレスがたまります
④他事をする、というようにしてもらいます。
ので、傾聴とセットで試してみてくださいね)
おすすめ図書:「ロジャーズ選集 上・下」
編集:ハワードカーシェンバウム 他 翻訳:伊藤 博・村山正治
本格的にカウンセラーになろうと思う前にたまたま手にした本です。「傾聴」の素晴らし
さを初めて知り、そして生まれて初めてくらいの大きな感動を覚えた本です。
カウンセリングルーム結(YUI)HPアドレス:http://yui-co-room.com/information.html
- 25 -
過労死企業名の公表を
求めて提訴
アスベスト惨禍を国に問う
泉南地域の石綿被害と市民の会
大阪じん肺アスベスト弁護団
かもがわ書房 1000円
過労死・過労自殺を発生させた企業名の開
示要求に対して、大阪労働局は「非開示」と
した。これに対して、2009年11月18日、「全
大阪泉南は明治40年から石綿の町になっ
国過労死を考える家族の会」(寺西笑子代表
た。石綿糸・布の出荷高は大阪が全国の半数
世話人)と過労死弁護団全国連絡会議は過労
以上を占めていたが、その₃分の₁が泉南で
死・過労自殺を出した企業名の公表を求めて
あった。最盛期には2000人が就労していた
大阪地方裁判所に提訴した。
と記載されている。泉南地区の工場では、石
訴状では、過労死・過労自殺があった企業
綿布、石綿フトンなどがつくられていた。工
で労災認定がなされても、社内にその事実が
場の中にはいつも雪のように石綿が舞いちり
知らされず、企業で労働条件改善が十分に行
積もっていた。工場に隣接した社宅や寮に住
われていないことがあるとしている。また、
む人も少なくなかった。工場の近くの田んぼ
「企業名を公表し、企業を社会的監視の下に
のあぜ道は石綿で真っ白だった。多くの人が
置くことが不可欠」であり、「労働者から最
石綿の被害を受けたことは言うまでもない。
も尊い生命を奪う働かせ方をした企業は、再
国の調査によると、国は1940年代からそ
発防止策を講じる義務を負っているはずであ
のことを知っていた。多くの医師、研究者が
るし、そのような義務を当該企業に確実に履
そのことを報告し予防対策と補償の必要なこ
行させるためには社会的監視が不可欠であ
とを警告していた。戦後では岸和田の労基署
る」と訴状にはある。
も被害が多く死者も出ていることを知ってい
また、重要な視点としては、「求職者が就
た。それでも労働者や住民が立ち上がったの
職するにあたっては、その企業が過労死を生
は2005年尼崎の運動が報道されてからのこ
じさせたことがあったか否かは企業の善し悪
とだった。一斉に対策を企業と国に要求する
しの判断に重要な情報にもなる」と就職を考
取り組みが起こった。この本はその告発と要
える若者のためにも、企業名の公表が必要性
求で占められている。
が高いことが訴えられている。
第₁章はいつ発病し重症化するかも分から
一連の活動は、過労死、過労自殺の問題を、
ない石綿という「時限爆弾」を抱えている被
一個人の認定闘争、裁判闘争に終わらせるの
害者の生々しい訴え、悩み、怒り、叫びがつ
ではなく、「予防」の取り組みを広げようと
づられている。体がこんなになるまでなぜ国
する試みである。
や企業は対策をとらず、どのような被害があ
るかも教えなかったのか。
- 26 -
最後にこの本は経済成長優先のために、働
的格差が大きい。健康「不調」は男女とも₂
く人や住民の命を犠牲にしたこの国の実態を
割、「不安」はともに₈割。女性は「職場の
明らかにし、安全な町、安心な社会にするこ
人間関係」や「仕事の適性」に強いストレス
とを呼びかけている。
を感じている。「男優遇社会」の意見は男
66%、女80%。このような統計表が沢山の
項目で分かりやすく示されており、非常に便
男女共同参画統計データブック 2009
利である。12人の研究者の共同制作の力作。
-日本の女性と男性-
しかし、日常よくあるセクハラ、パワハラの
独立行政法人国立女子会館
きょうせい 2381円
実数、妊産婦の母性健康管理の実態や結婚・
妊娠出産を理由の不利益扱いの実数などは分
毎年男女何人生まれて何人死んでいるか
からない。またこのような問題にどれだけ取
(05年:男106万人、女105万人出生、男1085
り組んでいるかも示されていない。官庁統計
万人、女1175万人死亡、自然減少数₂万人)、
が主体であるせいであろうが、本当に役立つ
25~29才では女性の₆割、男性の₇割が未
統計を作る調査研究体制の充実を望みたい。
婚、非婚である。30~40才代の女性では他
の年齢層より完全失業率が高く、結婚・出産・
派遣村その後
育児のための離職が多い。女性割合の高い職
小川朋編著 「年越し派遣村」実行委協力
新日本出版社 2000円
業は事務及びサービス業で、労働条件の劣る
職業に集中している。非正規雇用者は20年
間 に1890万 人 に 倍 増 し、 そ の う ち 女 性 は
2008年末、大企業の理不尽な非正規労働
1299万人を占める。とくに派遣が多い。35~
者の大量解雇が始まり、食と家を追われた
54才では非正規は男₁割、女₆割。女性の
人々を救済し、「派遣切り」「非正規切り」の
平均賃金(07年)は男性の52.2%(一般は
実態を告発した「年越し派遣村」が東京日比
64.9%)、先進国の中では低く、しかも減少
谷公園を皮切りに全国183箇所に作られた。
し て い な い。 女 性 パ ー ト は 一 般 に 比 し て
これはワーキングプアを励まし、国民の関心
70.1%、男性の53.8%で、格差は拡大傾向に
を高めた。₉年₆月までに23万人以上が雇
ある。年間有償労働時間は女1800時間、男
い止めされている。
2000時間を超えている。女性パートの₄割
この本はその後も続いた「派遣村」活動が
が週35時間を超えている。過労死は増え続
どうなったかを調査した記録である。「非正
けている。男性の育児休業取得1.6%。
規切り」とどうたたかうか、派遣から直接雇
現業転は男のみ、一般職は女のみの企業₆
用への道筋を付けたJMIUの労働組合の力、
割を超える。介護休業取得者は女0.08%、男
とくに「偽装請負」や「サービス残業」を労
0.02%にすぎない。労働組合員は減り続けて
働局に認めさせ企業に違法を改めさせた闘
いる。家事労働時間の格差は縮小していない。
い、解決しなければ裁判提訴も行った、雇用
国際比較では男子の収入労働時間が最も長く
と権利を守る取り組み、個人加入の労働組合
家事労働時間は最も短い。家事労働時間の性
を含めて、新しい労働運動が起きた。この本
- 27 -
には敦賀のパナソニック系の工場や日本トム
大企業の利益を増やし、大企業健保のコスト
ソン姫路工場の労働者運動の記録が詳しくつ
を削減し、さらに公的医療費を削り、病気の
づられている。
責任論を国民に根付かせようとするものであ
これらの労働者の「使い捨て」は正しいも
ることを明快に説明している。さらに、この
の、やむをえないものであろうか。それが国
本は「健康のしくみ」について考え、心身を
際的経済不況を理由とするものであっても、
守るからだのしくみや組成、心地よい身体活
大企業の含み資産や株主への配当を考えれ
動、赤筋(有酸素)運動と睡眠の必要性を検
ば、きわめて不当である。この背景にはすで
証し、職場の長時間・夜間労働、過大ノルマ
に不当性が明らかになっている労働者派遣法
や責任、パワハラや業績主義、などが過労作
や運用がある。当然労働者の闘いは製造業へ
業(職業)関連疾患(けいわん・腰痛・うつ
の派遣禁止、登録型派遣禁止、不法企業の直
状態など)、過労死、過労自殺を生み出すこ
接雇用の義務づけ、派遣先企業労働者との均
とを実証している。
等待遇を要求し、さらに闘いを広げて、雇用
著者は、
働き盛りの危険を知る「メチャ・ド・
の安定、最低賃金「時給1000円」、労働時間
リスクにならないためのチェックリスト」の
短縮の「働くルール」確立へと向けられるよ
使用を提案している。それは(イ)仕事と収
うになった。2010年の労働者はどのような
入面(<世帯収入の不安定>など13)
(ロ)
新しい運動を創り、見えるる成果を勝ち取る
家庭・地域・社会面(<家族との話し合い>
であろうか。
など₈)
(ハ)生活面(<三食決まったときに
食べている>など14)
(ニ)依存面(<食べ
すぎ>など₇)
(ホ)身体面(<血圧・血糖
メタボより怖い「メチャド」ってなーに
値>など₉)
(へ)心理面(<自分らしく生き
服部 眞著 あけび書房
1400円
生きしている>など₅)の計56項目にわたっ
ている。これを採点すると自分が人間らしい
2008年「メタボ健診」が始まってから₂年。
生活を送っているかが分かるしくみである。
以前から心配されてはいたが、以前より検査
さらに、著者は保健師や健診関係者を対象
項目が少なくなったが大丈夫か、おなかまわ
にした「健康づくりの担い手になろう-特定
りで病気の危険が分かるのか、痩せている人
健診、特定保健指導を乗り越えて」(萌文社
でも病気が多いのではないのか、酒、タバコ、
840円)を書いた。これは健診の新しい見直
食事、運動不足だけが病気の原因なのか、な
しと健診活動が、労働者の健康と働きがいの
どの疑問や意見が沢山増えてきた。職場でガ
ある職場を作るための方向付けを示したもの
ン検診や人間ドックが減らされたところも少
で、健診の前後の措置に必要なことを教えて
なくない。
いる。
この本は医師・労働衛生コンサルタントと
して活躍されている著者が、どうして自民党
政府が「メタボ健診」を始めたのか、本当に
役立つのか、という疑問を分析して、これが
- 28 -
めずに、幸せという頂きを目指して登っていこう
強いられる死
よ」と呼びかけている。自殺のない社会をつくる
-自殺者₃万人超の実相-
ためには、いつも相談できる仲間がいることが一
斉藤貴男著 角川学芸出版
1500円
番の予防。
自殺の問題に正面から向き合った説得力のあ
年間自殺者が10年連続₃万人をこえている。
る力作である。
これは労災死や交通事故死よりはるかに多い。ど
うしてこのように自分の尊い人生を自らの手で
時をつなぐ航跡
断ち切る人が多いのか。この問題は決して個人の
井上文夫著 新日本出版社
2000円
問題ではない。毎年の政府統計は、自殺を企てた
人、自殺を考えた人の数は発表されていない。ま
たその原因を「健康」「家庭不和」「経済」など₁
職業病としての腰痛は戦前から鉱山・港湾労働
つだけの原因で集計されているが、おそらくはい
者に多発し、戦後は空港荷物運送、身体障害者施
くつかの要因の絡み合いであるのではないか。
設職員、トラック・フォークリフト運転手、スチュ
2009年は自殺者がさらに増加した。著者はそ
ワーデス、保育士、ヘルパー、強制立ち作業者(ト
の実態を調査するため、新自殺名所になった真冬
ヨタ方式)などの多発が問題になった。
の東尋坊を訪れ、「派遣切れ」の多いことを確か
本書は、日本航空乗務員の腰痛との闘いの歴史
める。さらに過労やいじめ、とくに上司によるパ
を正面から取り組んだ、リアルな小説である。著者
ワハラが重なって、うつ病になり自殺にいたる
は日本航空に長年勤務していた労働者作家である。
ケースの多いことに注目する。そこには労基法も
この物語はNW行きの飛行機に乗務した₁人の
何もない職場がある。また、郵政民営化、成果主
スチュワーデスのその日の労働やあったことを
義に基づく評価制度、「深夜勤」の連続勤務、過
詳しく記し、その労働が多忙過密でストレスの過
密な「トヨタシステム」の導入のため、若い労働
大な仕事で、疲れた労働者の体を痛めることを明
者の自殺が激増していることを労働者が告発し
らかにしてゆく。次いで彼女が所属している第一
ている(かつて国鉄民営化のときも起こった)。
組合員の活動、とくに腰痛の労災認定・患者会組
著者はさらに多重債務者と消費者金融、倒産に追
織・有症者の作業軽減裁判闘争などに対して企業
い込まれた中小企業者、閉鎖された世界である学
が職制を通して徹底した差別・分裂・抑圧を日々
校や自衛隊のいじめなど、最近増加が注目された
進めているかを記していく。
問題にも調査を広げてゆく。
最後に、この会社の腰痛と航空の安全の歴史の
ここには組織や権力から切り離され、孤独と絶
中でたたかう多くの人々、それに協力する医師、
望の淵に追い込まれた人間の姿が現れる。「死ん
研究者(渡部眞也教授ら)の成果の積み重ねを強
だらだめだよ、生きてもらわないと」この一言が
調する。日本航空は「沈まぬ太陽」(山崎豊子)
この社会では必要である。著者は「絶望と、それ
の本や映画で知られているが、今もリストラやひ
でも、これから」で、2000年自殺対策基本法が
どい労務管理が一そう厳しくなっている。この中
できて₁つずつ取り組みが始まったが、まだまだ
で次第に力を強めてゆこうとする労働者たちに
「これから」、「自分の夢や希望を忘れないで、諦
拍手を送りたい。
- 29 -
大阪労災職業病対策連絡会の刊行物に掲載の著作についてのお願い
大阪労災職業病対策連絡会は、「あらゆる職場で働く労働者の生命と健康を守り、労働災害・
職業病の被災者並びに遺族の権利を擁護し、職場からの生命と健康を守る運動を前進させ人間
らしい労働と生活の実現をめざすこと」を目的としてきました。その目的達成のために、会は、
「労
働と健康」などを刊行してきました。最近では、「労働と健康」200号発行記念事業の一環とし
て同誌掲載記事を第₁巻まで遡って電子化して保存し、CD実費頒布という方法で公開しました。
これらに掲載された著作については、目的達成に積極的に利用されることが望ましいという理
念で、特に著作権について(下欄囲みを参照してください)の定めをしてきませんでした。
しかし、各種書誌についての公的な電子化事業が進められる時代において、本会の刊行物の
電子化保存・公開事業は労災職業病闘争の発展に役立つのみならず、文化的資産の保存などに
も大変意義のある事業といえます。つきましては、今後の本会の刊行物に掲載された著作の著
作権は本会にあることとします。
ただし、2010年12月以前については、著作権規定がありません。本来ならば、すべての著者
に対して個別に掲載著作の電子化保存・公開の許諾を求める必要がありますが、現実にはほと
んど不可能です。
そこで、ここに2010年₆月以前の、本会の刊行物掲載記事のすべての著者に対し、当該記事
の著作権を本会に委譲されることをお願いする次第です。ただし、電子化保存・公開を希望さ
れない著作については、お知らせいただければ対象から除外します。この取り扱いについて、
ご質問、ご意見がある場合は、本会事務局宛お知らせください。2010年₆月末日までを意見の
お申し出期間とし、それまでにご異論がなければ、2010年₆月以前の会の刊行物に掲載された
著作についても、著作権を本会に委譲されたものとして、電子化保存と公開の対象といたします。
なお、このお願いは「労働と健康」を通じて行うほか、本会ホームページにも掲示します。
本会会員及び本会の刊行物の著者の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。
2009年12月₇日
大阪労災職業病対策連絡会 役員会 著 作 権 に つ い て
₁ 人が心で思ったことを個性的に表現したものを著作物、つくった人を著作者といいます。
₂ 著作権は「著作物の利用を制限する権利」であると一般的に考えられています。著作
権は、人が著作物をつくったときに、つくった人に対して認められます。日本では権利
が認められるために手続や条件などはありません。
₃ 著作物を利用したいときには、著作権を持っている人から許諾を受けなければなりま
せん。著作者は許諾の条件としてお金を受け取ることもできますから、自分の作品の評
価に応じて収入を得て、次の作品の創作活動にいかすこともできます。
₄ 著作者から許諾を受けないで著作物を利用することは「著作権の侵害」であり、損害
賠償を請求されることがあります。著作権を侵害すると刑罰が科されることもあります。
しかし例外として、許諾をもらわないで著作物を利用できる場合があります。
₅ 著作権は、著作者が亡くなってから50年で消滅するのが原則です。
- 30 -
あとがき
アスベストの苦しさとはどういうものだろうか。私たちは十分に知らな
いのではないかを出発点として、今回の特集を考えました。本特集のより
どころとなった「アスベスト惨禍を国に問う」においても、アスベスト被
害の実態は詳細に語られています。それに加えて、裁判の「意見陳述書」
を掲載させていただくことができました。₂つの陳述書では、生々しい被
害の実態を知ることができました。原告、そして弁護士の協力により実現
したことに、改めて感謝します。
そして、本号においては、いのちと健康を守る運動を導いてくださった
田尻俊一郎先生への追悼企画を掲載しました。日本で初めて過労死という
言葉を使われた医師として田尻先生は知られています。しかし、「田尻俊一
郎先生を偲び その歩みから学ぶ集い」で語られた姿はそれだけではない
ことを知ることができる場でした。田尻先生は、医師が憧れる医師であり、
労働者の闘いを熱く、あたたかく見守る医師であり、そして、職業病の患
者には人間らしいぬくもりのある「ふれあい」を続けてきた医師であった
ようです。掲げられた写真には、優しい表情を浮かべられていますが、田
尻先生のまなざしにはもっと鋭さがあると指摘される方もいました。
田尻先生が積み上げられてきたことは、現在の労働者のいのちと健康を
守る運動にも活かされるものがあります。私たちはその歩みをこれからも
学び続けていきたいと思います。
労働と健康 No.217(隔月刊) (会員に限り配布)
2010年₁月₁日発行
発 行 人
住 所
加入者名
大阪労災職業病対策連絡会
〒530-0034
大阪市北区錦町2-2 国労会館内
T E L・F A X 0 6 - 6 8 8 2 - 2 0 8 4
郵便振替口座 00980-₂-69015
大阪労災職業病対策連絡会
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