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華厳学からみた通摂の実践

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華厳学からみた通摂の実践
華厳学からみた通摂の実践
キム
チョン
ハク
金 天 鶴
1 はじめに
現代社会は既存の価値観を破りながら新たな人間観を作り出している。儒教の伝統的な価値観から見た時、臓器
提供は儒教倫理に適応しないものと見える。仏教の修行理念から見た時、政治参与もやはり、その論理的な根拠を
大正大學研究紀要 第一〇〇輯 特別号
東国大学 仏教文化研究院 HK 教授
(前 金剛大学校 仏教文化研究所 所長)
求めるのは容易ではない。過去の僧兵もやはり僧団の理念とは違背するものである。しかし、仏教が修行にだけ一
貫する僧団となった時、果して現代社会において正当なる役割を果たすことができるのかは疑問である。それだけ
現代社会は仏教の変化を求めていると言える。インドの仏教が必ずしも中国の仏教と同じでないように、また中国
の仏教が必ずしも韓国の仏教とは同じでない。韓国の仏教が日本の仏教と同じでないように、仏教は継続して変化
しているのも事実である。そのような点で、過去の仏教と現代の仏教とが必ず同じものでなければならないと見る
ことはできない。しかし、仏教本来の趣旨を離れたならば、それは既に仏教ではないであろう。
仏教の根本趣旨に符合しながら、現代社会において行動しようとするならば、どうしなければならないか。この
大きな問題を扱うのは筆者の力が及ばないところである。ただ、ここでは華厳学という限られた学問分野をもって、
仏教の通摂と悲の理念をどのように現代的に解釈し行動しなければならないかを考察しようとするものである。
昨今、我々の社会では、ウェルビーイング(wel-being)
、ヒーリング(healing)などの概念がよく用いられる。
それは幸福の追求にほかならない。華厳学の場合、その根本の理論は無礙、または円融であると知られている。多
くの華厳学者たちは、この概念を広く知らせるために努力してきた。ところで、このような諸概念は観念的な論理
の駆使で一貫する存在論、または認識論になりやすい。それがすぐさま行動を誘発するのは簡単なことではない。
どのようにすれば華厳学の立場で現代社会に積極的に実践を行うことができるのであろうか。
実践の主体は菩薩といわれる。 菩薩とはよく知られているように、すでに仏の世界を経験したとしてもこの世
界に留まり、衆生を慈悲によって済度する仏の弟子たちを指すものであると解釈できる。よって、まず仏の世界を
経験することが菩薩の実践、すなわち慈悲の実践の前提条件となる。華厳学では十住の菩薩あるいは遅くとも初地
の菩薩になると、仏の世界を十分に知ることができるという。果してこうした者たちの境界をどのようにすれば現
代的に解釈していくことができるであろうか。ここでは、菩薩の十地の中のスタートになる歓喜地の解釈に焦点を
当てて華厳学の立場で慈悲の実践がどのように可能であるかを探ってみる。
2 通摂の概念
位であるという1) 。よって通摂こそが菩薩の実践を包括する大概念であると見ることができる。菩薩の実践におい
て主要な概念である通摂は、現代に用いられる統摂(consilience)とは異なるものである。現代の統摂という概念
の辞典的な意味は「互いに異なるものを一つにして新たなものを作る」という意味であり、人文社会科学と自然科
学の学際間を統合して新たなものを作り出すことを指す。これは異なる範疇のものを混ぜ合わせる過程の中で、捨
てるものは捨て、生かすものは生かし、新たに意味あるものを創造するということである。
仏教でも統摂という語句を用いる。例えば、
『涅槃経』で「内外を統摂する」という時は、「すべて包摂する」と
97
一
中国の華厳学を大成した法蔵(643-712)の『探玄記』によれば、十地の境界は、三乗などの差別を通摂する地
いう意味である。
『大般若経』では「もしこの三昧に留まる時、すべての三昧を統摂するが、王が自在であること
同じである」2)といい、
すべてのものを包摂する意味で用いられていることがわかる。このように「統」は「すべて」
という意味を持つ。
華厳学からみた通摂の実践
このように簡単に言及したが、仏教で用いる統摂の概念は、現代的な統摂とは異なることがわかる。ところで、
仏教では通摂という概念も好んで用いられる。この場合、統摂とは用法が若干異なり、
「通ずる」というニュアン
スが付与される。例えば、明代の廣伸が著わした『成唯識論訂正』では、
「一を挙げて十を全て一に包摂すること
が通摂である。互いに拒否することなく従うためである3)という。こうした結果、一と十は共通した何かである。
新羅の元暁も「通摂」を用いる。彼の『金剛三昧経論』では、
「このように、ただ一つの事が六波羅蜜を通摂する
のであるが、これが仏と菩薩たちの一切智である」4)と述べる。一を挙げると全てのものがその中に備わることを
意味し、これは紛れもない仏と菩薩たちの境地である。すなわち通摂には、何かを貫き共通するように作るという
意味が強い。
もう少し複雑な形態の通摂の概念は、華厳学で見ることができる。『探玄記』では「限りない法界を通摂という。
すなわち、人と法、教と義など、一切の自在な法門の海が合わさって教法の体となることである。因陀羅網が重な
り合っても主伴を備えるのと同じである。これは華厳教理の立場からの解釈である」5)という。
「通」についても
横的に通ずることと、縦的に通ずることがあるであろう。よって、完全な通摂は、縦横をすべて通摂しなければな
らないであろう。すなわち通時的(diachronic)にも共時的(synchronic)にもすべて通摂するものであってこそ、
完全なる通摂となることができる。このような概念を通して見る時、通摂はどんなものをも十分に貫通し、または
どんなものとも十分に疎通しながらも、そこに留まらず、その一つ一つを縦横にわたり同一の水準で包摂する概念
である、と現代的に解釈できるであろう。
これを理論的な規定であるとするならば、実践的な規定も可能である。すなわち、
「信が完成される地位で、す
べての後の地位を通摂するが、すべてこの信が完成される地位にあり、よってその地位では備えないものはない。
これは実践に立脚して地位を包摂するものである」6)という。または言葉を通しても可能である。同じ『探玄記』
には、「華厳教理では、かの限りない存在世界がさまたげの無い状態にあることを本性とする。そのため一切に通
摂し円融して自在である。下の「性起品」の如来の音声を説くところを見ればわかる」7)とある。この中の如来の
音声に対して簡単に述べると、如来の音声には届かないところがなく、色々な微妙な音声により一切衆生がみな大
きな喜びを味わうことができるように無量の正しい法を演説することである。そして如来のこのような能力は、菩
薩たちが知り、説明し、実践することが可能である 8)。言葉からも衆生たちを通摂できるということである。
このように見る時、現代的な概念の統摂は、仏教的な通摂にならなければならない。それが仏教の実践的な姿で
あると言えるであろう。このような仏教的な通摂は、他のものを除外したり生かしたりしながら統合するというも
のではない。「これ」と「あれ」とを根本的に同一化させるものであり、すべての存在が果てしなく円満で、かつ
調和のある状態にあることを理論的に、実践的に知らせ、それを自ら悟らせることである。そのような仏教的な存
在世界の真実を悟らせること、それが正しく通摂の実践である。
よって菩薩の実践において通摂の現代的な意味は、菩薩たちが自ら仏を求めながら、現代人のすべての心理現象、
および悩みを熟知した後に、その悩みの主体が本来、仏とは異ならないものであることを悟るようにさせ、差別な
く通摂する実践であると解釈できる。
二
3 菩薩の通摂的な実践
1)本願力と威神力、そして三昧
菩薩が衆生のために実践する時、忘れてはならない事実が三つある。それは本願力と威神力と三昧である。普賢
菩薩が如来の前で三昧に入った 9)。三昧に入って一切世間のすべての仏を照らしてみると、仏には障害がなく、す
べての汚れを離れ、その姿が虚空と同じである。ところで、この時、全世界の仏たちが普賢菩薩を讃えながら、私
が三昧に入ったのは、第一には盧舎那仏の本願力(仏が昔に立てた誓願)のためであるという。もちろんこれだけ
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ではない。普賢菩薩が過去に全ての仏がいらした所で清浄な行願を修したためである。行願力とは、普賢菩薩が仏
法をよく説き広め、一切如来の智慧の海を開けて見せ、一切のすばらしい教化方法をよく使用して、一切衆生の煩
悩を無くし清浄を得るようにするなどの実践力を言う10)。
の威神力を得て入るということも忘れてはならない。「十地品」では十地を説くために金剛蔵菩薩が仏の威神力を
受けて三昧に入る。この時、全世界の仏たちが現れ、金剛蔵菩薩を讃えながら盧舎那仏の本願力のために三昧に入
ることが可能であり、大威神力のためであるという11)。ここでも、その次に菩薩の大きな智慧のために可能である
という。このように実践する菩薩は、まず仏の威神力によって三昧に入った後、三昧から出て実践しなければなら
ないということである。
菩薩たちの実践の根本が、まず仏にあり、三昧にあり、その次にようやく実践の意味がある。
菩薩たちが仏力によって三昧に入り、その後に可能になる実践のプロセスは、現代の菩薩道の概念に殆ど注目され
ていなかったと思われる。
2)菩薩の実践は悟りの行為
大正大學研究紀要 第一〇〇輯 特別号
このように菩薩が仏の本願力によって三昧に入るのが菩薩行の前提となる。ところで菩薩が三昧に入るのは、仏
菩薩たちの理論的、行動的、言語的な実践は、悟るためのものではなく、根本的には悟った菩薩の実践である。
そのような実践であってこそ、悟ることのできない衆生たちを通摂する実践が可能なのである。法蔵は、菩薩のこ
のような実践の意味について十種類の観点から説明する。
第一に、本来的な立場から見れば、菩薩の実践自体は仏の本性をするものである。
第二に、証得した立場から見れば、既に汚れを離れ真如が発現し実践するものである。
第三に、智慧という立場から見れば、仏の本性の発現と、同時に言語などを通した慈悲の実践であり、ひいては
そのようなことが増長する実践である。
第四に、何かを断ずるという立場から見れば、智慧を覆う障害と煩悩という障害が積もり現れることを断ずる実
践である。
第五に、修行という立場から見れば、歓喜地は誓願の実践である。
第六に、修行が成就されるという立場から見れば、歓喜地は信による楽しみが生ずる実践である。
第七に、地位の立場から見れば、証得した地位と説法する地位の実践である。
第八に、教えの車に乗るようになる始まりから見ると、歓喜地は人間世界を対象として行なう実践である。
第九に、地位による実践の立場から見れば、十地で布施などの波羅蜜の実践である。
第十に、その報答が現れる立場から見れば、人間世界と天上世界の衆生たちが住む世界の王としての実践である12)。
このように菩薩の実践は、根本的に仏の本性を発現するのと同時に、誓願などを通して衆生がすばらしい仏教の
教えに同乗するようにしながら、最後にはそのような衆生の世界の王としての実践という意味を持っている。
悟りの行為の具体的な様相の第十の、王としての実践という点についてもう少し考察しようと思う。ここで王と
しての実践という点は、自身が統治する国の全ての衆生をみな包摂するという意味を持つ。そうであれば、一見、
権威的な姿勢を衆生たちに見せる菩薩として、
現代において「仕えるリーダーシップ」として語られるサーバント・
リーダーシップ(Servant-Leadership)とは正反対のリーダーとなり得る。チョ・ギリョンはグリーンリーフ(Robert
K. Greenleaf)のサーバント・リーダーシップの徳目 18 種を、直接的にサーバント・リーダーシップと関連する
ものと、間接的に関連するものとに区分する。直接的に関連するサーバント・リーダーシップには、①他人の欲求
⑮共同体精神、⑯人間を最優先視する考え、⑰他人のせいではなく、自分のせいであると考える姿勢、9個が該当し、
残りの9個は間接的に関連する徳目であり、②実践する勇気、③目標の提示、⑤想像力を刺激する言語、⑧情報の
不十分さの中でも決定する直感力、⑨合理的思考に基づいた予知力、⑫一度に一つずつ目標を達成する姿勢、⑬概
念を定立する姿勢、⑭自分自身の治癒、⑱危険を冒して創造する姿勢、が該当すると考える13)。
直接的に関連した徳目は、菩薩の立場で言えば衆生を救済しようとする実践であり、間接的に関連した徳目は、
仏を求めようとする実践に該当するであろう。ただ、上のリーダーシップにおいて「王としての菩薩」という言葉
が与える権威的な徳目は確実に存在しない。そうであれば、仏教は、このような「王としての菩薩」という徳目を
99
三
を優先視する姿勢、④傾聴し理解する姿勢、⑥余裕、⑦交感、⑩認識の門を開放する姿勢、⑪一人ずつ説得する姿勢、
入れることにより、自ら現代のリーダーシップに適応することができなくなるのであろうか。そうでないなら、
「王
としての菩薩」が追求するところは何であろうか。まず経典でこの部分は初地菩薩に該当する果報として述べられ
る。すなわち、初地に留まる菩薩は、大概、衆生世界の王となり、
華厳学からみた通摂の実践
①高貴であり、②自在であり、③常に正法を保護する。④大きく布施して衆生を摂め取り、⑦衆生の貪りの心
と嫉妬の心をなくしてやる。⑧常に捨てる実践をすることが限りない。⑨四摂法の善業を造る。⑩そのような
福徳は法宝を常に考え、⑪仏宝を考え、⑫僧宝を考え、⑬全ての菩薩を考え、⑭菩薩の実践を考え、⑮全ての
波羅蜜を考え、⑯十地の法を考え、⑰破壊されない力を考え、⑱無畏の法を考え、⑳仏の不共法を考え、㉑全
ての種類の一切智者の智慧を考えることと相応する。
そして常にこのような心を出す。すなわち、㉒私は一切衆生のリーダーとなる。㉓優れた人になる。㉔大きな人
になる。㉕妙なるものを備えた人になる。㉖上の人となる。㉗この上ない人になる。㉘道を案内する人になる。㉙
引率する人になる。㉚師匠となる。㉛尊敬される人になる㉜一切智に依止する人になる。
また、㉝家を捨てて勤勉に精進し、㉞仏法の中で妻子と五欲を捨て、そのように出家して勤勉に精進すれば、㉟
一瞬の間に百種の三昧を得て百種の仏を親見し、㊱百仏の神通力がよく百仏の世界を動かすことを見、㊲百仏世界
によく入り百仏世界を照らし、㊳百仏世界の衆生をよく教化し、㊴よく百劫の間留まり、㊵よく過去未来世の百劫
のことを知り、㊶よく百仏世界の法門によく入り、㊷よく百種に変身し、㊸一つ一つの体によく百の菩薩を見せて
眷属とする14)。
長文になったが、このように 43 種の初地菩薩の果報が説かれる。これをいくつかに分類すると次のようになる。
①、②は、歓喜地が持つ偉大さと能力を象徴する。
③から⑨までは、衆生たちのための菩薩の善業の実践をいう。
⑩から㉑までは、仏の能力を求める実践である。
ここでは王としての特別な権威意識はない。ところで,
㉒から㉜までは、一切衆生をリードするための徳目および意識である。
㉝から㉟までは、王が出家して精進することをいう。
㊱から㊸は、それにより得る功徳である。
①から㊸までは、初地の菩薩が得る果報としての結果であるが、a. 衆生をリードするための堂々たる自意識があ
りながら、b. 出家して全てのものを捨てるほど欲心や権威意識がなく、c. 四摂法などの実践により衆生を摂め取
り、d. 常に上の仏の功徳のために邁進する。すなわち仏教における菩薩は、このような4種が備わっていなけれ
ばならない。そして c に Servant-Leadership の直接的な徳目が備わらなければならない。特に布施を強調するの
は Servant-Leadership の直接的な徳目には見ることができない。間接的な徳目と一致する部分がないようであるが、
強いて言うならば、㊱から㊸に Servant-Leadership の間接的な徳目を包括することができる。
このように菩薩が歓喜地に留まるということは、多くの場合、衆生世界の王となり、自在に常に正しい教法を説
き、大きく施し、衆生たちをすべて包摂する。包摂するということは、ただ抱きかかえるということだけではない。
衆生たちの貪着の心、互いに嫉妬する心の垢をうまく無くしてやることである。また、常に大きく施して衆生たち
をすべて包摂するということは、善業を積むということであるが、モノを与え、暖かい言葉をかけてやり、利益に
なるようにしてやり、困難なことを共に悩むということである。
四
そうでありながら菩薩は仏を常に考え、正法を常に考え、同行の菩薩たちを常に考え、菩薩が実践しなければな
らないものを常に考えなければならない。またこのように実践しながら、自身がリーダーであり、優れた者であり、
師匠にならなければならず、それは正しく全ての衆生たちの拠りどころであるということを忘れてはならないとい
うことである。
このように、上を念願しながらも下の衆生たちの師匠にならなければならないということ、および、その資格が
あるという自覚をもち品格を備える時、すべての衆生の拠り所となるのである。これが王としての菩薩の姿勢と実
践である。
100
3)あわれみ(悲)こそ、菩薩の実践
歓喜地の菩薩は、この上ない自利利他行の能力を成就することにより、聖なる境界を証得するという、大きな喜
を成就したということは、今後、実践行に自信を持つようになる。
上にも述べたが、5 番目の菩薩は誓願を立てて実践する。また9番目では布施を強調していた。これは慈悲の実
践に該当するであろう。こうして菩薩の実践は自利と利他がともに成就するということなのである。
法蔵によれば、菩薩が起こす実践には4種類がある。①優れていることに立脚してみると、布施行を修行して成
就することである。②成就されたことに立脚すれば、10 種の大願を起こすことである。③修行して成就すること
に立脚してみると、信などの 10 種の行為を実践することである。④真実の行為ということに立脚してみると十波
羅蜜をすべて修行するということである15)。このように菩薩は善根を集め、仏となることを願うが、衆生を大きく
あわれむ(大悲)心が原因となり、これにより聖人の姿を得るのである 16)。これにより数多くの実践のなかで大
悲心を先頭に置いていることがわかる。これは利他に該当する。よって自利利他の能力を備えた菩薩であるが、利
他行が優先されることを重視しなければならない。
大正大學研究紀要 第一〇〇輯 特別号
びが起こる第一番目の地位である。すなわち無限の喜びを満喫する地位ということである。この初地で自利利他行
ここでもう一度、菩薩が善根を集める方法について考えてみよう。経典ではこれに対して 10 種を提示する。そ
の中、9番目が仏法を信じて楽しみ、仏の智慧を求める善根を集めることであり、10 番目が大慈悲を現し出すた
めに、菩提心を発し善根を集める 17)。菩薩の実践において仏の世界を信じ、それを喜ぶことがまず重要である。そ
れでこそ仏の智慧を実現可能にするためである。仏の智慧を実現するということは、仏の大慈悲を実現することで
ある。菩薩はその大慈悲を実現させるために発心するのである。
法蔵は、愛すること(慈)を粗い心、あわれむこと(悲)を細かい心に喩える。そして、慈は衆生に喜びを与え、
悲は衆生の辛さを離れさせることであると説明する 18)。しかし、菩薩は前でも言及したように、愛すること(慈)
とあわれむこと(悲)の中、あわれむことをより重視する。なぜならば、このあわれむ心こそが菩提心を起こす第
一原因になるためである19)。そして、この大きくあわれむ心が無ければ、究極的に衆生を救済することはできない
という 20)。
『十地経論』では大きくあわれみの心について9種類により説明する 21)。その9種類が意味するものを述べると
次のようになる。
第一は、あわれむ心があってこそ、微細な苦痛を知る智慧の力が増長するためである。大きくあわれむ心を通
して衆生たちの微細な苦痛までも知る智慧が生じるようになる。法蔵は、智は世間の真理を知ることであり、
慧は聖人の真理を照らすことであると述べる 22)。世間の真理、衆生たちが苦痛を受ける真理[十二縁起]を知っ
てこそ聖人の真理であり、それを照らしてくれ、苦痛を無くすることができるのである。
第二は、あわれむ心があってこそ、苦痛を受けている衆生たちを立派な方法で包摂することである。
『経論』には、
どのような方法なのかは具体的に明かしていないが、法蔵は四摂法(布施、愛語、利行、同事)であると述べる 23)。
第三は、あわれむ心があってこそ、はじめて衆生世界に利益を与えるようになり、その心が増長する。
第四は、あわれむ心があってこそ、はじめて無量なる如来の神通な力を成就し、衆生に信を出すようにさせる
ことができるようになる。
第五は、あわれむ心があってこそ、偉大な法に対して決定的に信じ、深い智慧により衆生たちの苦を癒すため
である。法蔵は、決定的な信はすべての仏の深い智慧を知るところに繋げ、それにより衆生に最上の方便を用
第六は、あわれむ心があってこそ、正しい悟りに至るためである。法蔵は、そのような時、菩薩は無礙智を得
る方向に出、自然(本来そのまま)の智慧にしたがうと述べる 25)。
第七は、あわれむ心があってこそ、よく偉大な教法を受け、衆生たちに教説するためである。
第八は、あわれむ心があってこそ、優れた功徳を接受するためである。
第九は、あわれむ心があってこそ、無量の愛の結果の原因により、ついに涅槃に至るためである。
このように菩薩が、あわれむ心を通して衆生の辛さを無くすことは、愛すること(愛)の結果として自身が涅槃
に至り、衆生たちを教化することができる。すなわち、衆生に楽しみ(幸福=喜び)を与えることと同時に、自身
101
五
いることができると述べる 24)。
の涅槃も成就するのである。よって菩薩の実践は衆生に対するあわれみにより可能となることを十分に知ることが
できる。
ところで、このような利他行のために菩薩は誓願を立てる。本性に集約して言えば、誓願は衆生を救おうとする
華厳学からみた通摂の実践
意志と、仏法に対する優れた理解と、信を本性とする。すなわち誓願、衆生を救おうとすれば、仏法に対する優れ
た理解と信が前提とならなければならない。そして、菩薩は清浄でなければならない。それにより仏法を求め衆生
を済度することができる。また誓願は悟りが前提となるために、その後の実践の様相となる。それゆえ誓願が増長
することができるためである。そのようになれば、一つの実践に全ての実践を具備する功徳が備わる。このような
能力を、菩薩は初地によく備えることができるのである 26)。
4 誰が実践するか
そうであれば、あわれむことを最優先する菩薩は現代では誰であろうか。そして、どのように現代社会で具体的
に菩薩行を実践するのであろうか。現代社会で我々、一人一人が行う役割が明らかに存在するが、それが社会的実
践となるためには、これまで述べてきたことを充足させ、菩薩の資格がなければならない。その資格があると見て
みよう。それにも関わらず、菩薩個人が一人で現代社会の悩みを全て抱え込むというのは容易なことではなく効果
も小さくなるほかない。
個人的には、一人の仏、一人の菩薩では、現代社会の悩みを治癒することはできないと考える。よって前に見た
ように、菩薩の姿勢として同僚の菩薩たちの実践を互いに賛嘆することがあったが、これは昔、無数の仏菩薩が必
要だったことを教えている。
そして多くの仏菩薩が一つの集団を形成する菩薩集団であってこそ、現代における効果的な菩薩の実践を可能に
するであろう。この時、菩薩の集団は人格者となり、菩薩が持つべき徳目を備えなければならない。すなわち、仏
の本願力と威神力、そして自身の清浄なる修行を通してこそ、通摂、菩薩行が可能であるということである。菩薩
がそのような修行を通さずに人天の師匠になれるという心を出したなら、それは毒キノコと同じである。まもなく
自らが限界をさらけ出し、むしろ社会の悪になるであろう。
ところで、一人の菩薩が治癒できない衆生たちの辛さは、菩薩集団が現代社会で積極的にあわれむこと(悲)の
実践を行なわなければならないということであろう。そうであれば何が現代的な菩薩集団であろうか。そして、そ
の集団をどのように実践すれば通摂の実践が可能となるであろうか。
周知のように、現在は心身の豊かさから治癒とヒーリング(精神の高揚)を強調する時代となった。心身の治癒
を通して幸福を求めるのである。我々にとって幸福を求めるための時代に、菩薩の集団は社会福祉団体とともに一
つのグループが衆生たちの救済のために中心に立ち、通摂の実践をしなければならないのである。
その菩薩の集団は、上に述べたことを自覚しなければならない。集団自体が盧舎那仏の本願力で形成されたとい
うことを自覚し、絶えず内外を隔てなく通摂する実践をしなければならないのである。
5 おわりに
六
以上、華厳学から見た時に通摂の実践がどのように可能なのかを考察してきた。仏教の変化を求める現代に、果
して仏教が社会にどのように対応しなければならないか。テレビをつけると、メディアが宗教の役割を代行してい
るという錯覚を起こす。ウェルビーイングの食べ物、ヒーリング治療、健康常識など、人々が必要とする情報が溢
れている。こうした昨今の現実において、宗教ができることは果してあるのであろうか。それも特に無礙あるいは
円融という観念的な論理を駆使する華厳学が、現代社会に入り込んで積極的に慈悲の実践を果たすことができるで
あろうか。
このような問題を解くための端緒として、本稿では通摂の概念を整理した。仏教で用いる通摂は、現代によく用い
られる統摂(consilience)とは異なる。通摂こそが仏教の真理をよく伝達することであることも主張した。この通摂
102
の概念は、どのようなことでも十分に貫通し、またはどのようなこととも十分に疎通しながらも、そこに留まること
なく、その一つ一つを縦横にわたり同一の水準で包摂する概念であると現代的に解釈することができるであろう。
菩薩たちは、このような通摂的な実践を行なわなければならない。また、菩薩が衆生のために実践する時、本願
出て実践に入る時、始めてさまたげ無く、全ての衆生を縦横に貫いて見、通摂の実践を行なうことができるためで
ある。そして、菩薩はこのように悟りを根底に置いているから菩薩の実践は悟りの行為である。そのような実践で
あってこそ、悟ることのできない衆生たちを通摂する実践が可能なのである。
特に国を治める王の立場で施し包摂することを強調した。それは自らが品格を持ちながら、仏を常に考え、衆生
たちの拠り所にならなければならないということである。王としての菩薩の実践の根本は利他主義にある。歓喜地
の菩薩は自利利他を成就することにより喜びを得るが、経典では菩薩が善根を集める心の姿勢を持たなければなら
ないと説きながら、愛すること(慈)とあわれむこと(悲)の内、あわれむことをより重視する。法蔵もあわれみ
の心こそが菩提心を起こす第一原因であり、大きくあわれむ心が無ければ究極的に衆生を救済できないと述べてい
る。これは、慈悲を一つの概念としてだけ考えてきた我々に相当の示唆を与えるものである。 このように、菩薩があわれみの心を通して衆生の辛さを無くすことは、衆生に煩悩を取り除き楽しさ(幸福=喜
大正大學研究紀要 第一〇〇輯 特別号
力と威神力を忘れてはならないことも強調した。盧遮那仏の過去の願力と威神力を得て三昧に入った後、三昧から
び)を与えることと同時に、自身の涅槃も成就される。そして菩薩もこのような心と実践が可能なように誓願を立
てることを忘れてはならない。衆生を救済しようという意志と、仏法に対する優れた理解と信を備えることができ
るように誓願を立てることである。
現代において、このような通摂的な実践を行なうことができる菩薩について、菩薩集団の存在が必要であると考
える。同僚菩薩たちの実践を互いに賛嘆する組織のない菩薩集団から、組織を備えた菩薩集団に至るまで必要であ
る。そのような菩薩集団もやはり人格化されて菩薩に必要な前提を備えなければならない。菩薩集団が現代ではど
のような具体的な名称を持った集団であるか、どのような通摂的な実践をするのか、などの具体的なことについて
は、今後の課題とする。
参考文献
『華厳経』
(T.9)
『十地経論』
(T.26)
『探玄記』
(T.35)
チョ・ギリョン「菩薩思想とサーバントリーダーシップに基づいた社会福祉士のリーダーシップの導出」
『仏教研究』
29(韓国仏教研究院、2008)pp.357-390.
チョ・ションヒ「現代的観点からみた菩薩行の再解釈」『東洋社会思想』22、(東洋社会思想学会、2010)、pp.
175 ~ 199.
曹 潤鎬「普賢行願思相の研究のための文献学的アプローチ」
『仏教学研究』4号(仏教学研究会、2002)pp.171190.
大竹晋 校註、新国訳大蔵経 釈経論部〈16〉
『十地経論』(1)、大蔵出版、2005.
坂本幸男『国訳一切経』和漢撰述部、第 6-9、大東出版社、1936.
七
註
1)
『探玄記』
「又釋以一乘十地甚深故、通攝三乘等、總為十地」(T35.277b)
2)
『大般若波羅蜜多經卷』
「謂若住此三摩地時、統攝諸定如王自在」(T1.293a)
3)
『成唯識論訂正』
「通攝者。 凢舉一種、皆攝十種。以互相順故」(D23.905b)
4)
『金剛三昧經論』
「如是一事通攝六行。是佛菩提薩般若海」(T34.991a)
5)『探玄記』
「或通攝無盡法界。謂人法教義等、一切自在法門海竝為法輪體。如帝網重重具足主伴等。此約圓教」
(T35.154a)
103
6)
『探玄記』
「然信滿入位之際、通攝一切後諸位皆在此中、無不具足。此則約行攝位故也」(T35.176a) 7)
『探玄記』
「圓教以彼無盡法界無礙為性。是故通攝一切、圓融自在。如下性起品如來音聲處説」(T35.190a)
8)
『華嚴經』
(T9.618c)
華厳学からみた通摂の実践
9)普賢菩薩とは衆生を救いたいという念願と実践を象徴する。 曹 潤鎬「普賢行願思相の研究のための文献学的
アプローチ」
『仏教学研究』4号(仏教学研究会、2002)pp.171-190 では、東アジア仏教における普賢菩薩
の所願と実践を知る上で、重要な情報を提供する。
10)
『華嚴經』
(T9.408c)
11)
『華嚴經』
(T9.542b)
12)
『探玄記』
(T35.277bc)
13)チョ・ギリョン「菩薩思想とサーバントリーダーシップに基づいた社会福祉士のリーダーシップの導出」『仏
教研究』29(韓国仏教研究院、2008)pp.357-390。
14)
『華嚴經』
(T9.547b)
15)
『探玄記』
「五所成行者、
略有四種。一約增勝、修成施行。二約所成、起十大願。三約修成、謂信等十行。四約實行、
謂十度等行無不皆修。餘所修行釋文自顯」
(T35.301a)
16)
『探玄記(T35.302b)
17)
『華嚴經』
(T9.544c)
18)
『探玄記(T35.301c)
19)チョ・ションヒ「現代的観点からみた菩薩行の再解釈 」
『東洋社会思想』22、
(東洋社会思想学会、2010)、
pp.175-199 では、宗教団体の寄付行為について、菩薩行の利他主義の徳目として分析し、こうした行為を慈
悲と理解する。しかし、経典と法蔵の解釈から見て、利他主義の根底に慈より悲があるという認識は仏教なり
の特徴といえる。
20)
『探玄記』
(T35.302b)
21)
『十地經論』
(T26.135b)
22)
『探玄記』
(T35.302b)
23)
『探玄記』
(T35.302b)
24)
『探玄記』
(T35.302c)
25)
『探玄記』
(T35.302c)
26)
『探玄記』
(T35.306c)
八
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