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ニュースレター「歩み」 - 特定非営利活動法人 日本・ネパール文化交流
特 定 非 営 利 活 動 法 人 日 本 ・ ネ パ ー ル 文 化 交 流 倶 楽 部 ニュースレター 特別号 平成27 27年 07月 平成 27 年 07 月 2 1日発行 2015 年 4 月ネパールで死者およそ9千人、負傷者約2万2千人を出した大地震が発生いたしました。私た ちが 6 年間続けているネパール学費支援の子供達のうち約 120 名が暮らすバグマティ県ダディン郡も死者 700 人を超える甚大な被害に見舞われました。この「パイラ~歩み」は、大地震に関連した活動を報告するため、 【特別号】といたします。今後も被災地の状況が変化していくにつれ、私たちの支援の形も変化していきます が、顔の見える支援を続けてまいりたいと思います。 「ネパール震災復興応援ロゴ」 :事務局の鈴木の友人である、横浜市在住のアーティ スト棚澤英恵さん(tanazawahanae.com)が、 「この度のネパール大地震からの一日 も早い復興を願い、日本が陰のように寄り添い、支援していく思いを表しました」と、 支援としてデザインしてくださいました。今後の募金活動などに役立つ商品に使わせ ていただく予定です。日本からネパールに皆様の想いを届ける為、一緒にアイデアや ご協力してくださる方、もしくは団体様を募集しております! 私は日本で 4 年間働いています。自分の結婚式 の為に 4 月 11 日にネパールに帰りました。4 月 21 日に式は無事終わり、結婚関係のもう一つの用事 が 25 日に予定されていました。そしたら突然…。 日本・ネパール文化交流倶楽部会員で唯一、 4 月 25 日に発生したネパール大地震を体験された アルウィンさん。人生で一番恐怖を感じたという体 験を綴ってくださいました。 4 月 25 日土曜日朝、私たちは近くのお寺に向かいま した。土曜日ということもあり、お寺は多くの参拝客で賑 わっていました。その後、私達を朝食に招いてくれた親 戚の家で朝食を食べ、家に戻りました。 妻は台所に母の手助けをしに行き、私は叔母と親戚 に配る物の整理を手伝っていました。そして 11 時 55 分 頃、昼食に呼ばれたので私は食卓のある部屋へ向か い、手を洗い、食べ始めるところでした。 突然の揺れ。人生で誰も一度も体験したことのない揺 れに、皆、叫びパニックになりました。私は母親を支え、 叔母と妻はドアのフレームに捕まっていました。一回のガ ラス屋さんからガラスがつぶれるすさまじい音。外に出 た人たちが叫びながら安全な場所に走っているのが見 えました。私達も建物と人口が大変密集した場所にいた ので、安全ではないと感じ、1 階へ降り、店中に広がって いる壊れたガラスや色々なものの上を越え、高い建物に 囲まれた小さな開けた場所に走っていきました。 そこにはすでに多くの人が集まっていました。犬を抱えて いる人やシャワーの最中だったのかタオル 1 枚の人、貴 重品をかかえて出てきた人々などがいました。皆パニッ クしている表情で、誰もどうしたらいいのかわかりません。 最後に経験した地震は 4 年前でそれはたった一回の大 きな揺れでした。今回もそれと同じかと思っていたら、数 分後にまた大きな揺れが。高い建物が揺れ、窓ガラス が震え、電線が踊り、たくさんの烏が飛び立ち、人々はそ れを見て叫んでいました。多くの人が家族や友達と連絡 を取ろうとしていましたが、ケータイの電波はすでになく なっていました。2 回目の揺れの後、多くの人々は病院 の近くのもっと広く高い建物も少ない場所に移動しました。私 達もそこへ移り数分待つことにしました。 そこは病院の近くだったので、多くの人がけが人や建物に つぶされた遺体を急いで運んでいました。救急車、パトカ ー、消防車も走り回っていました。人々は、かなり多くの建物 が倒壊した、盆地内で残っているお寺は一つもない、ダラハ ラタワー(カトマンドゥの展望が楽しめる高い塔)も無くなった、 ポカラやバクタプルは壊滅など、想像も考えることさえもでき ないことを口々に伝え合っていました。病院もあまりにも多く の患者が集まってくるのでスペースが足りなくなり、通路に置 かれ処置を受けていました。遺体は病院の外に並べられて いました。人々は泣き叫び、見つからない家族や友人の名 を呼び探していました。 私達は他の人々と一緒に道路わきに避難していました。 するとまた余震が。強い風が埃を高く舞い上げました。救急 車とパトカーが病院を激しく出入りしています。頭が割れた 人、体が血まみれの人、足を切断した人、それから意識不 明の人々を目の当たりにし、まさに地獄でした。 家族と一緒に他の場所へ移動しました。歩きながら倒壊 した家や、壊れた寺院、道にたたずむ人々、怪我した人を 誘導する警官や兵隊を見ました。聞こえてくるニュースは常 に死者の増加を伝えていました。余震は収まる気配がなく、 立て続けに来る揺れの中、どうしたらいいのかわかりません でした。 この恐怖がいつ終わるのかわかりません。多くの人々は家 や家族や友を失い、まだ親しい人を探す人々が絶えませ ん。人々は道や広場に座って、元の生活に戻ることを切に 願っていました。怪我は治療を受ければいずれ治るかもしれ ませんが、この恐怖と精神的な心の傷を治 すには相当の時間がかかるのではないかと 感じました。個人的には、私はこんな事態に 家族と共にいられて幸運だと感じます。結婚 式後のプランがキャンセルになってしまった けれど、近くに助けられる人々をサポートする ために強くならなければいけません。この悪 夢が早く終わり、みんなが普通の生活に戻れ ることを願っています。―Alwin Kansakar カトマンドゥ王宮広場―地震前(左)と地震後(右)※アルウィンさん提供 015年4月25日と5月12日にネパールで大きな地震が 起きました。首都カトマンズを含む広い範囲で人命と建 物が失われ、地滑りなどの2次災害も広がっています。現 在のところ、続いていた余震も徐々に減ってはいますが、 毎年大雨による被害がもたらされる雨季(モンスーン)の 季節を迎えております。風評被害により観光客は激減し、 失業により貧困の広がりが懸念されている中、理事長が 現地へ向かいました。 月6日。最初の大地震より41日後に、私は現 地の被災状況を知る為カトマンズに到着し た。いつもは賑やかなはずの空港は活気が なく、誰も急いだり大きな声で連絡し合った りするスタッフもおらず静かだった。 空港から出ると、多くのテントが空港を囲 って立っているのが見えた。 今回の課題は3つ。①支援している子供の 安否確認。②被害状況の確認。③被災者に は何が必要かを知ること。 ダディン郡の子供達が通うすべての学校 が倒壊したが、子供たちは全員無事だった。 その理由は、地震が休みの日(土曜日)の昼 間に発生したこと、そして山ごと崩れるよう な地滑りがその周辺では起きなかったこと の人より村の人の方が精神的ダメージが少な だろう。 い。大地震以前から質素でシンプルな生活をし ているせいか、悩みも軽い。水道や電気、ガスといった ものはそもそも存在しない田舎でのライフラインと言 えば、家族(労働力)、家畜、畑。それらが無事であれば、 毎日の仕事―つまり農業、家畜の世話、お祈りの儀式等 ―が続けられ、生活のリズムを保てるのだ。 今回私が支援として使わせていただいた義援金は総 額 250 万円。その前 5 月には約 24 万円を現地スタッフ に送金し、緊急のテントや蚊帳、料理油、衣類などの支援 物資を「母子家庭の会」50 人へ配布した。他の国際 NGO などもすでに村々に緊急支援を行っていたので、そうい った物資は足りていた。しかし、これからがより一層もの が必要となってくる。 人に聞くとみんな違ったものが必要だと言う。今回それを 第一弾 第一弾支援の 支援の実施状況 すべて調達して配るのは時間も手間も輸送コストもかかり 1. 現金での支援 困難な為、現金配布をすることにした。それで自分の必要なものを 団体(2団体)―計35万2千円 自分で変える。このやり方には皆が納得してくれたようだった。 個人(130世帯)―計162万5千円 雨季が終われば、村の人たちはみんな家と家畜小屋を建て直さ 関係者お悔やみ代(1世帯)―2万5千円 なければいけない。国の教育への予算も減ることが決まったので、 渡航・滞在経費―12万2千円 学費支援活動も、被災地を中心にもっと拡大する必要がある。 2. 今後の計画 そして何よりも目に見えて、日本人だから出来る応援として、ネ 応援ツアー:2015年9月29日~10月7日 パールに足を運んで観光や被災地ツアーをしていただくことが大 コミュニティーハウスの建設(学費支援の きな助けになると確信を持っている。滞在するということは、被災 活動拠点となり、村人への復興支援セン 者に仕事を与え、温かいホスピタリティが強みのネパール人が、自 タ―として活用する予定。10月~) 信と希望を取り戻すきっかけになるからだ。(続く) NPO 法人 日本・ネパール文化交流倶楽部 事務局(「ネパールの家庭料理カトマンドゥ」内): 宮城県仙台市宮城野区榴岡 1-7-8 AD ビル1F Tel/Fax: 022-256-7851 ホームページ: http//japanxnepal-club.com