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性 のも のでもなく、念力と いうような力 んだも のでもなく、
ま た、禅機 と いう ような抹香 くさ いも のでもな い。富岡鉄斎
八十 五歳 の書 に ﹁
忘機得真趣﹂ ︵
機を忘 れ真趣を得︶と いう
のがあるが、遊記山人 の境 地 はま こと にそんなも のであ ろう
か。
こう いう 心境 は、儒書 や仏書 や聖書 にも書 いてはあ るが、
そ の境 地 には絢爛豪幸 な花 はなく、 野 の百合 の 一輪 のような
素 朴なも のであ るから、 人 の目 にとまり にく いのであ る。 い
つか、宮 田さん の家 の応接間 で蒲作英 の書 になる次 の言葉 を
見 た ことがある。
道徳 五千言、牛 に乗 って函谷を出ず。腰 に十万貫を纏 い、
鶴 に騎 って楊州 へ上る。
これは 五千鱈り ﹁道徳経﹂をば し て、老子 は牛 に乗 って函
谷関を出た、漂と し て行方 を消 した。 そうかと思うと、腰 に
十万貫 の銭 を つけ て、 しかも仙人 になり、
鶴 に騎 って、
名都 ・
楊州 へ行 きた い、 などと いう欲 の皮 の つ っ張 った や つ が い
る、 と いう対 句 であ る。 こんな ふう にでも云 いあらわさな い
。
W
殺
祉
卿
齢
議
面
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静
い
暉
彙
醒
贅
麟
践
﹃
﹄
蜘
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い
応
m
雌
い
は
﹁
ような 三位 一体 のも のが東洋文明を貫 いている。白楽 天 や寒
山 の詩、顔魯公 や蘇東波 の書文、 十 八史略 や菜根諄 の文章、
また、下 って近代 の呉昌碩、斉自石、 王 一亭 の画 にも そ の風
格 が見られる。 と いうよりは、 そ の真髄 を示現す るため に詩
文 があり、書画 の存在 がある、 と いう方 が東洋文化を 云 いあ
らわす のに似合 っていると思う。
私 の畏友 に、峡南翁 ・間 四郎氏 が いる。私 は間 さんを宮 田
さ んの観音会 に誘 い、間 さんは私を、諸橋轍次 ︵
止軒︶先生
の上軒会 に誘 ってくれた。 この会 は止軒先生 が中国 の詩文を
講義 される会 であ る。私 は この会 の席後、 二 つの亥 の詩 の、
めぐりあ いを先生 に話 すと、先生 は ﹁それ は面白 いこと でし
た。亥 にま つわ る古 い故事 が左伝襄 公 三十年 にあ り ま す か
ら、李義山 のそ の詩 はそ の故事 にの っと ったも のでし ょう﹂
と云われ、左伝 の故事 に ついて詳 し い話 をされた。左伝 の話
を諸橋先生 の著 ﹁十 二支物語﹂ から抜 卒す ると、
﹃春秋時代、晋 の樟夫人 は杷 と いう 土地 に城 を築きました。
む かし の土功 ︵土木 工事︶ はだ いた い民間 のただ の労役 であ
城 を築 いて、 そ の慰労 に人夫 たち に酒食 の餐慮ゲ した時、 そ
の人夫 の中 に、緯県 の男 だと いう、 どう見 ても七十以上 に見
える老 人が いました。 そ こで役人 が怪 しん で ﹁キサ マは 一体
って日給 は出ま せん。 そ の代 わり に年齢 はだ いた い六十 五ま
でのこと にし て、 それ以上 のも のは、老者 を いたわる意味 か
らも、使 役 しな いこと にな っていま した。 さ て悼夫人 が杷 に
を人間 に与 えようと いう企 てにお いては老荘も同 じ であ る。
印度 から中国 に渡来 した仏教 は、 それ以前 から の儒教 と道
教 に扶まれ て、仏陀 のカ ツサ ンド のような形 で熟成 された。
仏 の 一方 の面 は儒 と交わり、他方 は道 に馴染 ん でいる。 この
この役夫 は唐亥 と いう賢人 でした。 そ こで趙 孟は、
﹁あなた の
さ て、普 通人 は暦年 をも って年齢を数 える のであ るが、 そ
うす ると、 太陽暦 でも太陰暦 でも間と いうも のがあ って、 そ
れ ぞれ の該 当年月 に応 じ て正確を期 し難 いが、甲子 ︵
十干 と
﹁
韓非子﹂ には同 じ名 前 で出 てくるが、 これ は ﹁孟子﹂ の亥
唐 に該当 し、 それ はみな同 一人 であ ろうと いう のが諸橋先生
の説 であ る。
唐は ﹁
韓非 子﹂ では唐亥 とな って います から、お そらく ﹁左
伝﹂ の唐亥 と ﹁孟子﹂ の亥唐 は、同 一人 な のでし ょう﹄ と。
このよう に ﹁左伝﹂ に重要 な足跡を残 した当該 の 唐 亥 は
は鉄つぎ 挫 せ、 と いえば平公 は坐 し、食 え、 と いえば、ど ん
な疏食菜羮 でも平公 は甘 んじ て食 ったと いう のです。 そ の亥
子 が多 い、 ﹁未 だ楡 んず可らず﹂、
軽蔑 は できな いと い って、
長れたと いう こと です。 以上 これ は ﹁左伝﹂ に出 ている話 で
す。
﹁孟子﹂ の中 に、晋 の平公が亥唐 と いう賢 人 に師事 した話 が
出 ています。 この亥唐 が平公 に向 って、 入れ、と いえば平 公
なり過ぎたから﹂ と い って、
固辞 し てきき いれま せん ので、
趙
孟は唐亥 に改 め て土地を与 え、緯県 の師 としました。賢 人を
櫂抜 した この話 を魯 の権臣 の季武子が聞き、晋 の朝庭 には君
ような賢人を こんな賤役 に つかせ てお いた のは、私 の不明 の
罪 で す これから は改 め て御意見 に従 い
から どうかあ
ま
す
。
、
なたも仕 途 に ついて下 さ い﹂と懇 願 しましたが、亥 は﹁
老人 に
何歳か﹂ときくと、その老人の答えは、
﹁
何分にも私は小臣も
っ ヵ、
っ
の
数
章
け
ぼ
¨
爛
な
い
い
っ
わ
は
は
蜘
鞭
ゲ
社
は
豫
Ⅸ
協
嗽
げ
つ
ゝ
の
そ
ら
力
四十 五回む かえました。 いやそ の最後 の甲子ま でにはあと 三
分の 二残 っています﹂と いうも のでした。それだけ では誰 に間
いてお符算がむづかしくてわかりませんので、そこで晋の賢
。
錆
鰤
軸
¨
%
晰
一
訃
ぼ
誰
駐
長
蹴
奇
確
飽
ぼ
け
紺
榔
鰤
辞
漿
ゲ
″
熱
れ
年 に生 ま れ た こと にな る か ら、 彼 は今 年 七 十 三歳 にな る はず
だ、 と い いま し たo 最 後 の甲 子 を 加 え ると 七 十 四歳 、 そ し て
そ の最 後 の甲 子 はま だ 三分 の 二、 即 ち 四 十 日を 余 し て いると
いう から 計 算 す る と、 8 ×ミ いICo十∞×8 =8 8 と なり ま
す。
と ころ が、 こ の話 を聞 いた或 る賢 い大 夫 が、
Tアそ の日数
から す る と、 そ の男 の名 は ﹁亥 ﹂ と いう のかも し れ な い 亥
。
と いう 字 は 二首 六身 から でき て いて、 象 文 では覇 と な って い
る。 即 ち首 は 二 であ るか ら 二首 、 下 は イ が 二 つと L が 一つ、
L は 二画 に数 えら れ るか ら 六身 と な る。 そし て商 人 など が使
う数 字 の符 号 か ら考 え る と、 二首 六身 は 二六 六 六 であ る。 ま
0︶ を単 位 と し て いた か ら 結 局 8 8 oと
た昔 はす べて句 ︵1
、
いう 数 にな って、 亥 を 意味 し て いる のだ ろう 、 と いう 新 説 を
出 し た の です 。 こ の話 が晋 の 一大 勢 家 ・趙 孟 の耳 に は い っ
て、 趙 孟 が さ っそ く降 県 の大 夫 を召 し て調 べさ せた と ころ、
-8―- 9 -―
十 二支 の最小公倍数 六〇 日︶を単位とし て、 これを積 み重ね
た。 ︵
拙稿 庖丁余語第 八号 ・玉川上水物語︶。この水系 に属 し
て、 そ の恩恵 に浴 し ていた人達 はおも に諸 国から移住 した武
四代将軍徳川家綱 が多摩川 から江戸 の町 に玉川上水を引 い
恩 恵を蒙らず に丼戸水 で生き ていた下町 の大衆 が いた。 この
人 たち の中 にあ った文化 を、 かり に隅 田川系文化と称 ぶ。 き
わめ て大ざ っば に分 けると、江戸文化 は如 上 の二 っに分ける
家階級 で、 そ の人 々の中 にあ った文 化を ここで、 かり に多摩
川系文化と称 ぶ こと にしよう。江戸 には、あまり この水道 の
て計算 し ていれば、甚 だ正確 であ る。春秋時代 の賢人 ・唐亥
も晩唐 の老吏 ・王全も共 に甲 子をも って年齢 を計 っている。
幕末 の仙学 。佐藤 一斎 も、自 ら算すと いう言葉 の通り、 お そ
らく この詩を作 ったとき の七十 三歳 と いう年齢 は、生まれ て
から四百四十 五甲子 の計算を 心得 ていて、 それ から はじき出
したも のであろう。 これから見 ると、中国 の年齢計算 は昔 か
ら 満計算 に依 っている ことがわかる。
、
春秋時代 と晩唐 とは千 三百年も の隔 りがあ る のだが、 よく
ことが でき る。 この多摩川系 と隅 田川系 では人 の気質 が異 な
り、従 って生き方も変 っている。前者 にお いては ﹁処世﹂ と
いう、 おも に学問 の定型 に従 って、計算 の見 通し の つく生 き
方 が重 んじられ、 この人たち は立身栄達を主眼とした。 これ
に反して後者 にお いては、儒 仏道 が混沌と し て入りみだれ て
そ の中 から ﹁渡世﹂ と いう生き方 が生まれた。
いて、
この
渡世 は義気、依気 および人情 に つなが って、江戸 の文化とし
も同 じ緯県 に、同 じような人物 があら われたも のであ る。晩
唐 から下 る こと千年 の江戸末期 にま たも同じような生き方 を
考 えた人間 が日本 にあらわれ、 通算 二千 三百年 の長 き にわた
って、亥 が人間 の心 の中 に住 み続 け て来 た ことを 面 白 く 思
う。私 は この文明 の脈 の 連 綿 を 貴 重 に思う と同時 に、長 い
間 の治 乱と興 亡 の渦巻 の中 から、角 のとれた丸 い柔 軟体 を探
て芝 居など で華 々しく開花 したが、 そ の花陰 には天衣 無縫 の
道気 の化をうけた幽花も存在 した。 この幽な花 は洒落 や道化
た。
丸 の内 何 号 街 と いう ビ ル街 の、 地 下 室 で道 路 面 か ら わず か
け てあ る のを 見 た こと が あ る。 中 華 の都 会 人 は、 早 く か ら こ
う いう境 地 を 見 出 し て、 べ つな 天 地 を楽 しむ 工夫 を 知 って い
林 泉 、 市 二近 ウ シテ、 幽 サ ラ ニ幽
な ん て洒 落 た ことば があ る のを 引 い て、 北 京 の茶 館 の朕 に懸
﹁小隠 は山 野 にか く れ、 大 隠 は市 に住 む、 と いう が、 た し か
に市 のな か にも、 幽寂 はあ るも のだ。 いや古 い ことば にも
故 吉 川 英 治 氏 は、
て、 明 治 天 皇 を 挙 げ る こと が でき よう。
﹁土俗 も の言 わず﹂。こ の物 いわざ る 幽花 を 発 見 し た喜 び を、
う。 教 育 家 と し ては佐 藤 一斎 、 政 治 家 と し ては徳 川 光 囲、 徳
二宮 尊 徳 、
西 郷 隆 盛、
お よび 最 も 重要 な存 在 と し
川吉 宗、
田兼 好 と松 尾芭 蕉 、 そし て江 戸 の 一連 の造文 家 の面 々。 画 家
と し ては葛 飾 北 斎 と江 戸 の風 俗 画 家 た ちを 推 す こと が でき よ
摘 し た よう に、 江 戸 初 期 にお い て下 河 辺長 流 と契 沖 が いる。
近来 には折 口信 夫 、 柳 田国 男 、柳 宗 悦 が いる。 文 学 者 には吉
変 のも の であ る故 に。
こ の点 に ついて、 深 い関 心を 示 し た学 者 には、 保 田氏 の指
す べて敗 北
わ る な ぜな ら ば 、 土俗 こそ ﹁天 地不 仁 ﹂ を
。
証
鶴
︲
一
身 を も って験 め、
ス 地未 済 ﹂ を つね に得 心 し て いる唯 一不
虚業 、 土俗 の思索 を 無 視 し た教 育 は異 端 、 土 俗 の生 息 を蔑 視
し た政 治 は専 横 であ り 、 そし て、 これを 軽 視 した軍 事 外 交 は
く、香詢お私く、味もなく、しかも騎ることなく恰えること
なく、悼 た
べとした 一種 の戯気をも って、人間 の歴史 の続く
かぎりにお いて、 この地上に生き永らえ得る野 の草 の命とし
おこ う れ
に 一花咲 かせた こともあ ったが、 そ の本体 は、 ﹁よく見れば
なづな花咲 く垣根 か な﹂ ︵
芭 蕉︶ の雑草 の花 であ って、 それ
は、春風も夏 天も秋霜も冬雪 も我 れ関 せず、色もなく声もな
し出 し、 いかな る栄枯 にも盛衰 にもかかわりなく平気 で生き
て行 ける姿勢 をあみ出 した人間 の叡知を尊く思う。 この生き
方 に ついて荘 子 は云う
。
﹁ を
善
為
す
と
に
づ
も
名
︵
名
に
れ
を
近
く
有
な
る
︶
こ
と
無
か
悪
、
為 夕とも刑 に近 づく ︵
刑罰 にふれ る︶ こと無かれ。督 ︵
筋道
を通 すこと︶ に縁 り て以 て経 ︵
常 のお こな い︶と為 せば、以
て身 を保 つべく、以 て生を全うヶ べく、以 て親 を養 う べく、
以 て年を尽す べし﹂ ︵
養生主︶と。
華 一一
一一鷹 藤
本、土俗 の浄 土 に根 を お か な い宗 教 を邪 宗 、土俗 の悦 び に触 れ
士
な い学 問 を 闇 学 と いう。 さ て、 更 に、 こ の土 俗 の息 吹 き に ふ
れ な い文 化 は ニセ物 であ り、 土 俗 の営 み に背 を 向 け た企業 は
術 、 宗 教 、 学 問 な ど に課 せら れ て いる。 こ の使 命 を 自覚 し な
い文 学 を 駄文 と い い、 土 俗 の真 の姿 を 見 つめな い 芸 術 を 虚
ね に思 って いる の であ る﹂ ︵騒 友 ︶ と 云 って いる。
こ の上俗 と文 化 と の触 れ あ いを 掘 り 起 す 仕 事 が 文 学 、 芸
は、 花 大 な既 刊 資 料 を 埋蔵 し たま ま で、 殆 んど 顧 み ら れ ぬ傾
があ る。 こ の所 謂 俗 学 の雑 学 的 部 面 から、 必ず 古 の下 河 辺 長
流 や契 沖 の如 き 大 学 者 が現 れ るだ ろ う と いう こと を、 私 は つ
こう いう も の に ついて、 保 田与 重郎 氏 は、 ﹁公 の文 化 が土
俗 と ふれ て いる と ころ に生 れ た文 化、 即 ち文 化 と民 衆 の関 係
て存 在 し た。 これ を 胡 蘭 成 氏 は そ の建 国 新 書 にお い て、 ﹁天
地 開 聞 の優 し い柔 ら か さ、 い たづら の喜 び ﹂ と 云 い、 日本 の
﹁神 な がら の道 ﹂ を 称 え る。
:言
―- 10-―
―- 11 -―
鼈
―――
【
―
にさす明り で、他念 なく、象刻 に耽 っている騒音裡 の静 人 の
姿を ふと見 た ことがある。 ド アが開 いて、 たれか と 思 っ た
ら、山水楼 主人 の宮 田氏 であ った﹂ ︵
随 筆集 ・折 々の記︶ と
書 いている。
これ に較 べて土俗 の風尚 を解 さな い傾向 は、 日本 には甚 だ
つよ い。森枕南 2 八六三︱ 一九 一一︶は その著 ﹁李義山詩講
義﹂ の ﹁王全亥字詩﹂のくだり に、﹁この緯 県 には、春秋時代
いかな いまま、森椀南 は明治 の有力 な漢詩人と し て、東 京帝
国大学 にお いて教 鞭を執り、 ﹁ああ玉杯 に花うけ て﹂ の高踏
思潮 に拍車 をかけ、多 く の秀才を育成 した。森枕南 は中年 に
な って伊藤博文 に聘 せられ官途 に つき、 主と して明治政府 の
大陸政策 に寄与 した。伊藤博文 は、 ﹁朝鮮人 の自衣を変 える
のには、 百年 はかかるだろう﹂ と、妄 語し つつ日韓合併を推
進 した。森祝南博 士は、不幸、伊藤 公と共 に ハルピ ンで韓 人
の兇弾を受 け、再起不能 とな った人 であ る。伊藤公も森博 士
り、 それが昭和 に引き つがれ て現代 に及 ん でいる 人 は この
。
官僚組織 にだけ目を つけ、非難を浴 びせる のだが、
実 は、その
に於 て、 此 の王全 と同じよう に、長寿をし て、 謎語を以 てそ
の年数 を言 ひ顕 わした奇談 があります。 それは左伝 の襄 公三
十年 の条 に見 え ている彼 の緯 県 の人 の物 語り であります。稜
山 が既 に古 への緯県 でありますれば、此 の左伝 の事実 は、恰
も今 日 の王全 の為 めに設 けられたる典故 ではあ るま いかと疑
組織 の中 での秀才的処世が土俗 の渡世 と つながりを持 たず、
い た づ ら に高踏独善 に傾 いたと ころ に弊害を生 じた のであ
も そう し て消 えたが、 この上俗軽視 の思想 は、明治末期 から
大 正にかけ て、 日本を支 配し、 日本 は秀才官僚国家 の姿 とな
わるる程、都合 の宜 し い話 でありますから、 それを引き来り
ま した のが、 即ち此 の詩 の趣向 であります﹂ と述 べている。
る。 それは明治以来 の、情緒 に欠けた頭脳偏 重教育 に欠陥が
あり、大陸 で幅 をきか せた日本 の軍人 の独善 もそれと同 じも
1
お 手 廻 り 品 を お忘 れ な き よう 。 な お、 白 金 線 にお乗 り替 え の
お客 さま は 三番 ホ ー ム、 黄 金 線 のお客 様 は 八番 ホ ー ム ヘ。 次
ま す。 ど な た さま も、 ルビ ー、 サ フ ァイ ヤ、
エメラ ルド など
1
義 を謳歌す る自由 日本 に消 え ている であ ろうか。
昭和十九年 の頃、私 は内蒙 の竜姻鉄鉱 と いう国策会社 の 一
課長 の職 にあ った。或 る日、所用 で北 京 に出 て、駅 に下り る
と、駅前 に並 ぶ五十台位 の洋車 が、梶棒をあげ て客 に迫 って
のであ った。 日本 の満洲駐屯軍 のある高級将校 は、 ﹁称 ︵
軍
が雇 っているボ ーイ の俗称︶ は臭 いから、 ド アから中 に入れ
ぬよう﹂ にと当番兵 に命じた。 この高踏独善 が今 日、民主 々
この左伝 の人物 ・唐亥 は 一介 の築城人夫 であ ったが、 晋国
の卿 ・趙 孟 の見出 すと ころとなり、趙 孟は これ に 厚 遇 を 与
え、敵国 。魯を し て、う ずんず べからずと、警 戒 心を起 させ
た
は
こ
と
記
の
既
り
で
る
通
あ
こ
の
の
と
人
夫
唐
亥
駅
の王全 が
吏
。
甲子を以 て年齢を云 いあら わした ことを ﹁謎語 ︵
人を迷わす
言葉と と いい、 この話を ﹁奇談 ︵
おかしな話と と片 づけた の
は奇 態な こと であ る。 それがおかしな話 ならば、佐藤 一斎 も
︱
おかしな人物 と いう こと にな る。
この へんに潜 んでいる重要 な ﹁道気﹂ と いうも のに合点が
︱
来 る。 つれ の課員 が 二人 で、
■ハ国飯店ま で多少銭?﹂ と聞
きまわ っていると、 ゴ ムタイ ヤも ついていな いボ ロ車 の老車
夫 が、普 通 の値段 の倍額 のことを云う。 聞 いた課員が馬鹿 に
いる のが前 記 の止軒 会 で、 講 筵 延 々二十年 に垂 ん と し て い
る。 今 では、先 生 が卒 寿 、弟 子 の平 均 年 齢 は亥 寿 を 超 え て いよ
は終 着、 ダ イ ヤ モ ンド/ ﹂ と。
さ て、 こ のダ イ ヤ モンド幹 線 のガ ード の下 のさ さ や か な軒
を 借 り て、 学 ん で時 に習 う悦 び を つ つま し や か に分 ちあ って
力 が要 って息 がきれる。 だから高 いんだ﹂ と いう。 そう いう
価格 形成 は経済学 の本 には書 いてはな いし、 まし て、 日本 軍
占領下 の逼迫した経済社会 には在 るはずがな い。 こう いう桃
う 。 以 前 から 入会 資 格 が 還暦 以 上 と さ れ て いた会 に、 当 時、
五十歳 を 出 たば か り の私 が入会 を許 さ れ た のだ った か ら、 全
く破 格 のお 許 し であ った。青 二才 の私 は久 し い間 、 身 を ち ぢ
した 日調 で、
﹁お前 は老 人 で、車 もボ ロのく せに、 なぜ高 いん
だ﹂ と いう と、老車夫 曰く、 ﹁
車 がボ ロで俺 が老頭児 だから
源価格 とも いう べきも のに、始 め て出合 った私 は驚 ろきもし
たし、感 心もし、 そ の車 に乗 った。老車夫 は先頭 にたち、走
るかと思う と、 さ にあらず、漫 々的 と歩 いて行 く。課員を の
め て聴 講 に及 んだ次 第 だ った。 そ の会 に今 か ら 四 五年 前 、 ど
う 見 ても 二十 半 ば の年 輩 で、 ﹁キ サ マは 一体 何歳 か﹂ と き き
た いよ う な青 年 が 入会 し た。 銀座 壱 番 館 画 廊 主 の海 上雅 臣 氏
であ った。 それ 以後 、 私 は古 参 の気 分 にか わり 、 ゆ とり のあ
せた若 い屈 強な車夫 のピ カピ カな立派 な車 が 二台、あ とから
ノソノンと ついて来 る。老車夫 は手鼻 かみかみ、私 の抱 え て
いる内蒙宣 化 の遅咲 き の杏 の花 に ついて話 しかけ てく る。私
る態 度 にな って、 海 上 氏 とも親 し く つき 合 う よう に な ったっ
私 は こ の会 に、 それ より 以 前 、 胡 蘭 成 さ んを 案 内 した ︶胡
著 ﹁心経随 喜 ﹂ が出 て、 それ によ って会 員 の人 た ち とも 親 交
が深 ま って行 った。 海 上 さ ん は、 さ いき ん に、 そ の頃 の こと
は 六国飯店 の入り 口で、花 の東を 二 つに分 け て、 そ の 一つを
老車夫 にや った。若 い車夫 たちも嬉 しそう で、手を振り なが
ら別 れ て行 った。
現今 の日本 は、頭 のいいり纂博文 や森枕南 が敷設 した欧米
型 の レー ルの上を、群衆 の放 埓を満載 した超特 急が走 って い
る仕末 であ る。 ﹁お めえさ ん、ど こま で行きなさ ろ?﹂、 ﹁は
いダ イ ヤモンド駅ま で﹂。 乗客 の行き先 は、
明治末 から今 日
を 回 想 し て、 次 のよ う に記 し て いる。
﹁昭 和 四十 二年 の秋 、 止軒 会 の席 後 に紹 介 さ れ て心経 随 喜 を
さ ん は諸 橋 先 生 の詩 経 の講 義 にき き ほれ て、 こ の会 に顔 を出
す のを楽 し み にし て いた。 と き恰 も、 胡 蘭 成 さ ん の日本 文 の
ま で変 って いな い。 そ こで車掌 は叫 ぶ、 ﹁みなさま、 た い へ
んお疲 れさま でし た。 次 は終着駅∧ ダ イ ヤ モンド∨ でござ い
- 12-13-
読 み そ の内容 に感動 したぼくは、 これを数 とり寄 せて友 人 に
すす めた。 そ の礼 とし て別 に 一冊 そ の本 の著者胡 蘭 成 氏 か
っさ と帰 って行 った。 帰 り が け に、 来 会 者 に配布 し いてた拙
文 の ﹁肉 食 談 義 ﹂ と いう 一冊 子 を あげ た。 写 真 を と って いた
む と、 あ いにく フ ィ ル ムが き れ てしま った と 云 う の であ る。
残 念 な こと だ と 思 って いると、 川 端 さ ん は身 仕度 を し て、 さ
のは海 上 さ ん と親 し い柿 沼 さ んと いう 人 で、 気 の毒 に思 った
のか 、フ ィ ル ムを わざ わざ 買 って来 て、娘 の見 合 い写 真 を そ こ
で撮 ってく れ た。 そ の写 真 が実 物 よ り よく でき て、 娘 は そ の
ら、一
扉に微 風 感 我 心としるした本を贈られたとき、胡 氏 の
清爽 な筆法 に 一層感動 し、 あらため て胡 氏 の書を拝 見 した い
と思 った。 ︵
略ご ︵
遊記山人竜鱗歌集肱 より︶。
そう いうわけ で、海 上氏 の主唱 で、 四十 三年 の正月早 々、
壱番館画廊 で ﹁胡蘭成書展﹂ が開 かれる ことになり、諸 橋先
生 から ﹁胡 さん の書を推 す﹂ と いう次 の文 が寄 せられた。
般 の瞳 目す る効 果 を あげ て幕 を閉 ぢ た。 会 期 中 に私 の店 のお
客 さ ん たち にも声 を か け て観 賞 し ても ら い、 何 点 か買 上げ の
後 結 婚 し て、 前 に述 べた よう な 新 婚 旅 行 に出 た の であ った。
この書 展 は思 い のほか 盛会 で、 江湖 の名 士 が つめ か け、
一
﹃胡蘭成 さ ん は近頃珍 し い多才 の人 であ る。書を能くし詩を
善 くし、 また学 に深 い。私 が胡 さんを知 った のは最近 四 五年
のこと であ るが、
初見 の印象 は所謂中国 の大 人、
悠揚迫らざ る
栄 に浴 し た のだ った が、 古 いお客 さ ん の 一人、 三島 由 紀 夫 さ
んだ け に は行 き違 いば かり で、 つい誘 う機 会 を失 ってしま っ
妻轟事攀
う く だ り が あ る。
した ので、あ なたからもお 口添 へお願 いいたします。 あなた
も 一幅書 いておもら ひになり ては いかがかと存 じます﹂ と い
をもら いま した。 そ の題字 は山水楼 の宮 田武義氏、巻尾 にも
宮武氏 の書 あり、ま こと に立派 なので揮量を頼 みたくなりま
で、 ついでに寄 って見ましたと ころ、展観 の世話 人 の 一人ら
し いトンカ ツ屋か つ吉 の主人 ︵
?︶ の肉食談義 と いう 一冊 子
氏から故 立野信之氏 に当 てたも ので、 そ の文 の中 に、 ﹁胡蘭
成 と いう人 ︵
江政権 の人 で日本 に亡命 した ので すから御存 じ
と思 います︶ の書 の展観 が近く の壱番館画廊 でありま した の
蘭 成 書 展 を見 に来 ら れ た川 端 康 成 氏 が、 か え って遊 記 山 人 の
書 を 推 挽 さ れ た。 こ の いき さ つは遊 記 山 人 喜 寿 書 展 の序 にく
山 人 と親 し くす る機 会 を 得 た。 そう し て面 白 い こと は、 翌 春
早 々ぼく が、 亡命 生 活 の無 馴 を お慰 め し よ う と し て開 いた胡
た 。こ のと き は じ め て山 水 楼 を お と づ れ た ぼく は 、
所 期 の目的
を 得 ると同 時 に、 書 に つい てより すば ら し い指針 の人 と し て
喜 寿 書 展 を や ろう じ ゃな いか、 と 云 い出 し た。 前 掲抜 文 の つ
づ き に海 上 氏 は 、 ﹁これ が遊 記 山 人 と の出 逢 いのも と と な っ
た。
そ の会 が終 ると海 上 さ ん が、 次 には、 世 話 人 の遊 記 山 人 の
風格 の人 であ った。 そ の後談論 を聞き著書を読 んで、 はじめ
て奇才縦横畑眼達識 の人 たるに驚 いた。書 は其 の人 の如 し胡
さん の書 には温雅 のうち にも警抜 のキラ メキがあ る。︵
略と 。
この胡蘭成書展開催中 のあ る日、 み んなが出かけ てしま っ
た会場 に、私 と家内と前 に書 いた 三女と で留守番 をし ている
と、
一人 の男 の人 がは入 って来、書を丹念 に見 ている。 カ メ
ラ マンが、書を背景 にそ の人をパ チリパ チリ撮 っている。私
はそ の人 が誰 かは知らな いが、 ど こか で見 た顔 のよう に思え
た。 やが て海 上さんが事務室から出 て来 て、親 しそう に挨 拶
す る ので、 ﹁あ の人 は誰 だ い﹂と聞くと、 ﹁川端 康 成 さ ん
だ﹂と いう のであ る。 それ では、家内娘もろとも川端 さんと
一緒 に記念写真 をと ってもら いた い、 と、 そ の写真家 にた の
二 胃 “ ‘■ ■ ︶
わ し い。 ぼくは この折 の経緯を省 ると、川端氏が慈航観 音堂
建 立 に際 し て寄 せられ た揮 宅 の、 有由有縁 の語 の妙 をしきり
に思う。 ︵
略と。 と述 べて いる。
そう いう いきさ つで、宮 田さん の喜寿を祝 って書展を開 こ
うと いう企 てに対 して、本 人 は、
ただ好き でやたら書 きながす わが文 字を
人 に示さん こと のおろかさ
はらわ たをさらけ いだし て恥かしや
心 のしみ の文字 にのこるが
十年 の歳月 ゎれ に加 はらば
心手相応 の文字書 き得 んか
など の歌を詠 ん で、 われ われを相手 にしな いのであ る。 そ こ
で、年来悲願 の慈航観音堂建 立 の浄財 を集 める目的 で、 と い
うと、 それなら と、膝 を のり出 し、
な にはさ て手習 だけは残年 の
わが 一等 の娯 しみ にし て
肩肱 は幸 ひま め で馬鹿者 の
れは、 ﹃胡蘭 成氏 の書 の展覧会を見 てゐ た時、連 想 と し て
か、私 は宮 田武義 氏 の書、 そ の清高 な風格 と古雅 な気韻 の書
そ の後 の顛末 に ついては、 ﹁遊記山人喜寿書展﹂ に川端氏
が寄 せた ﹁宮 田遊記氏 の書﹂ と 題 す る 次 の文 に詳 し い。 そ
と いう気分 にかたむ いて、よう やく やる気 になる のであ った。
がしきりと思 はれ た。宮 田氏と親 し い立野信之氏 に、私 はそ
のことを伝 え、宮 田氏 の書を恵まれ た いも のと言 った。 やが
駆使 に甘 んじ筆 とり運 ぶ
しわ
年輪 の徹 よせややにわが文字 に
多少 の徹 は つかむ とす るか
この展覧会 の相談 のため に、私 が山水楼 へ出向くと、宮 田
さ んが 一通 の手紙を開 いて見 せるのであ る。 それ は川端康成
- 14 ―- 15 -―
て日本 ベ ンクラブ の小集会 が山,
水楼 にあ って行 くと、 早くも
宮 田氏 から書を いただけると いう幸 ひが待 っていた。私 はそ
の書 の妙趣 に改 め ておどろ いた のは勿論 だが、 おどろき はな
ほ 二 つあ った。 合 せて十 六葉も たまわ った こと、ま た、 そ の
多く に私 の姓名 の文字 を ふくむ中国 の古 い詩句 が書 かれ てゐ
動。
. 。
﹃
ま
¨
r
一
智
﹁
一
一
¨
義
¨
]
¨
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一
は
﹄
榊
一
﹂
︲
﹁
﹂
崚
﹄
“
浸
つ
骨
お い、 心 と手 が よ く筆 を転 じ て円滑 な が ら、 達 者 の臭 味 は な
く、 ま こと に高 爽 の名 筆 であ る。 ま た、 宮 田 氏 の大 字 には肉
太 の書 体 も あ って、 それ には潤 筆 と渇 筆 の映 発、 調 和 の妙 が
見 ら れ る。 宮 田 氏 は自 分 の店 の山 水 楼 に自 分 の書 を か け る こ
と な ど 滅 多 にな いが、 たま たま ペ ン ・ク ラプ の 小 集 の時 、
﹁済 神 ﹂ の 二字 があ って、 立野 氏 も 私 も 感 歎 久 しう し、 ほ し
く てな ら な か った。
私 は宮 田 氏 の書 展 を楽 し み に待 って いる﹄。 と い う も の で
の った 。
こ
︲︲
孟 と唐 亥 、 李 義
山 と 王全 のめ ぐり 合 いにも 比す べき、 ほ ほえ
ま し さ が感 じ ら れ る。 そう いう こと にな ると、 斯 く申 す 拙 者
は とり あ えず 杞 城 の城 主 か、 緯 台 駅 の改 札 掛 と いう こと にな
ろ う か。
さ て、 こ の会 に展 べら れ た宮 田 さ ん の書 品 は、
巻 き て舒 べ去 り ては来 た る雲 水 の
姿 にわ れ は手 習 を す る
大 空 に雲 往 く如 く 長 江 に
水 去 るご とく筆 を 運ば む
の計 里 の景 観 が人 々の心% 、 更 に 一層 の楼 に上 ら し め、
床 の中 夜 ふけ て独 り 目醒 む れば
も の に逐 は る る 心 せ ち なき
やかtわがむ訳%ヽおもひもすべてみな
鳥 部 の山 の煙 と消 なむ
の人 生 の焦 燥 と諦 観 が、 交 生かす れ と にじ み の本 霊 と な っ
て人 々の耳 を そば だ て、
無 能 者 と観 念 す れ ど な ほわ れ は
文 字 書 く こと に執 着 お ぼゆ
た そ し て、
。
う ま いと かま たま づ いと か いふか ぎ り
紙 を つぶ し てな ほ文 字 な ら ず
千 本 の筆 を投 げ 捨 て万枚 の
共 に噛 みじめると、少 しわ かるよう にな った。 これを教 え て
くれた のは胡蘭成 さんであ る。 そ の余り のと ころは川端 さん
の書 に教 わ った。川端さんと宮田さん の出合 いは、げ に、趙
しば ら く た つと、 乗 客 のざ わ めき も静 ま り、 や が て機 内 の客
は白 河 夜 船 とな った。 隣席 の婦 人 と話 を取 り 交 わ し て いた妻
宮 田さ んは川端 さん の、 あ のギ ョロッとした眼を評 し て、
﹁長生久視﹂ と いう 久視 とは ジ ット見 る ことだと いう。
。
、
私も宮 田さ んの書を視 る こと久 し いが、
一斎 や蒼海 や蘇峯と
文字 のう ち には這入ら ぬと知 れ
の 一喝は、警世 の暁鐘 のご とくわれ われ に感 じられる のであ
﹃三国 志 演 義 に、 関 羽 は剤州 の戦 で負 け て、 呉 に首 を と ら
れ た。 山 寺 の月 夜 に、 関 羽 の魂 は生 前 面 識 のあ る普 静 禅 師 の
と いう執 念 と努 力 が人 々に自 分 たち の揮 のゆ るみ を気 にさ せ
った。
も 黙 し、ひとり 飛 行 機 だ け が 生 き て いて、エンジ ン の微 動 が身
に伝 わ る。 窓 外 中 天 の月 は十 六夜 であ ろ う か。 私 は胡 蘭 成 さ
ん の新 著 ﹁建 国 新 書﹂ を 取 り 出 し て読 む 。
朝 か ら 老 酒 や葡 萄 酒 を飲 み放 題 の ﹁遊 記 山 人 展﹂ は、 前 の
﹁糊 鏑 成 展﹂ と とも に、 今 日 の銀 座 の風 景 では な い。
盤 餐 の老 夫 、 食 を 分 ち て減 じ て渓 魚 に及 ぶ。
の 捕 の風流 が、 銀 座 の市 塵 を暫 し鎮 静 す る の趣 があ った。
鉗
樗 木 の命 を保 つわ れ な れ ば
前 に現 れ、 ﹁わ が首 を 還 せ﹂ と叫 んだ 。 禅 師 一喝 し て いふ、
﹁貴 殿 に打 ち とら れ た大 将 顔 良 や文 醜 の首 は これ ま た如 何 に
し て還 す べ き か﹂。 関 羽 の魂 は論然 悟 って、 稽 首 お礼 を申 し
て去 った。 三島 の ﹁英 霊 の声 ﹂ を読 ん で、 た だ た だ 三国 志 演
義 の こ の 一節 の文 章 に新 に感 服 した。 三島 の作 には悟 り がな
い﹄ と。
三島 文 学 の評 は、 ま だ 長 く続 く の であ る が、 は か ら ず も
太 平 洋 上 の月 下 で こ の文 に遇 った私 は、 何 か、 三島 さ んが不
吉 に襲 わ れ る感 じ が し てなら なか った。 私 は平 素 の三島 さ ん
の風 貌 を想 い出 し、 二 ・二 六事 件 の事 実 上 の首 謀 ・栗 原 安 秀
中 尉 を連 想 す る のだ った。 当時 、 歩 兵 一聯 隊 第 七中 隊 に現 役
上等 兵 と し て在 隊 し た私 は、 中 隊 長 ・山 口 一太 郎 大 尉 の下
で、 叛 乱 の企 画 に従 事 し て い て、 栗 原 中 尉 に湯 河 原 襲 撃 の弾
薬 を手 渡 し た こと が あ った。 あ の青 年 将 校 の人 た ち は、 た し
か に義 侠 に富 ん で人情 に厚 く、 日本 人 の優 れ た 一面 を 具 え て
は いた が、 残 念 な こと に、 弁 慶 の道気 や大 石良 雄 の戯 気 に薄
―- 16 -―
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自 玉 せよ と はも った いな かり
と 詠 む 宮 田 さ ん は、
無 用 の 材 の樗 木 が、 無 用 な る が故 に伐
ら れ る こと な く よ く老 木 にな る、 と自 分 に讐 え る。 荘 子 は こ
にも 目処 がたち、 工事 は進 ん でいた。
私 は 一一
肩ぬけたような思 いになり、月 が明 けた昭和 四十 三
年 六月 に アメリカ ヘの旅 に立 った。飛行機 が羽 田を離陸 し て
に樗木を樹 え、 そ の 陰 で 胡 琴などを聞 こう と いう、海 上氏
の風流 にも敬服 した次第 であ った。 この会も盛会 に終 始 し、
はらわたを さらけ いだ した書 がたくさん売 れ て、観音堂建設
や﹂ ︵
逍追済︶ と 云 っている。高山樗牛 と坪 内逍逢 の見識 に
お いて、広臭 の野 でな い、 土 一升 金 一升 の銀座 の ど ま ん 中
乎 ︵のんびり︶ とし て、 そ の下 に寝臥 ︵ね こ ろ ぶ︶ せ ざ る
”
一
¨
”
神
鴨
嘱
輩
露
に
い
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