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AN EXHIBITION OF ZEN CALLIGRAPHY AND
2014. 12. 25 日本の経済思想:時間と空間の中で 〈第14回例会報告〉 十八世紀における文献研究特性の比較考察:西欧・中国におけるそ の発展に鑑みながら中井履軒『尚書』研究を考える 竹村 英二 0. はじめに - Joseph Justus Scaliger, Paris, Leiden, 1540-1609 - Isaac Casaubon, Geneva, Montpellier, Oxon, 1559-1614 ◯前者は宗教家であると同時に、「古代史」を「ギリシャ・ローマ史」からペルシャ、 バビロニア、ユダヤ史までも含むものに拡幅した人物として、後者は『聖書』のカトリ ック教徒的発展史(主に Baronio の Annales)の再考を促した文献研究者として著名。 ※彼らは、「博識」とそれに基づく「客観的」テクスト研究、そして「文献批判」発展 の象徴的重要人物。 ◯ Ward, A.W., A.R. Waller (eds.), The Cambridge History of English Literature, Cambridge University Press, 1907-16 の Vol.7 Cavalier and Puritan 第十三章は、F oster Watson による ‘Scholars and Scholarship, 1600-1660’。ここで、Casaubon が 取り上げられている。 ‘Next to Joseph Scaliger, Isaac Casaubon was regarded as the most learned scholar in Europe’, who, ‘(I)n the inner sanctity of his conscience, the cause of truth was enshrined’. He went into ‘the root of matters’ with ‘the results of independent enquiries into the ideas and thoughts as well as the surroundings of the ancient world’. (第七冊第十三章、p.311) ◯十九世紀後半の Oxonian で歴史家の Mark Pattison も、その著 Isaac Casaubon, 15591614, Longmans, Green, London, 1875 にて、節々に Casaubon の学問態度の基底に言及: i.e., ‘Casaubon had applied his knowledge to the grounds of his faith. Examining and re-examining as he was compelled to do …’ ‘(H)e gave the highest evidence man can give of a sincere love of truth.’ (Chapter 3, Montpellier, p.141) ※この Casaubon も取り 上げられている前掲 The Cambridge History of English Literature 第七冊第十三章が区切る 1600-1660 は、 「江戸時代」という政治的=歴史的 時代区分の「第一四半期」にほぼ相当。この時代の後半期には、たとえば伊藤仁斎 (1627-1705)『論語古羲』の「第二本」「誠修校本」の推敲過程であり、彼による緻密 な text critique とそれに基づく原典批判が展開されていた時期。 ⇒本格的な文献研究と原典批判は中井履軒(1732-1817)、山本北山(1752-1812)、大田 錦城(1765-1825)らを俟つが、十七世紀後半は、その萌芽。 1 1. 古典テクスト(’Canon’)の文献研究と「原典批判」 - 清代中国における『尚書』 研究を事例に ※そもそも、「文献研究」はいつごろから? 「原典批判」は? ◯Benjamin A. Elman は、清代中国における「考証学」 「考拠学」の発展は、‘epistemological revolution’ と も 形 容 で き る 現 象 と す る 〈 Elman, B.A., From Philosophy to Philology: Intellectual and Social Aspects of Change in Late Imperial China, Harvard University Press, 1984。近 年では ’The search for evidence from China’, Joshua Vogel (ed.), Sagacious Monks and Bloodthirsty Warriors, EastBridge, 2002, ‘Early modern or late imperial?: The crisis of classical philology in eighteenth-century China’, Sheldon Pollock, Elman, et.al (eds.), World Philology, Harvard University Press, 2015。 ⇒即ち、「聖人の作」とされるものも含め、あらゆる書を「客観的」な「考察対象」に おし据える、という知的方法/風土が飛躍的に進展したとする。 ◯対し、この Elman の主張、すなわち明代までの学問と清代の考証学との間の学問特 性の違いを殊更強調し、epistemological ‘revolution’ と形容することへの反対の見方も。 とくに、小島毅、伊東貴之らによる、宋代における経学の発展と、それを継承発展させ た明代の経学が、清代考証学の基礎であるとの指摘があり。 〈小島『宋学の形成と展開』 (創文社、一九九九年)、伊東『思想としての中国近世』(汲古書院、二○○五年)。或 はまた、木下鉄矢『「清朝考証学」とその時代』(創文社・中国学芸叢書、一九九六)、 吉田純『清朝考証学の群像』(創文社、二〇〇七)、同「『尚書古文疏證』とその時代」 (『日本中国学会報』四〇,一九八八)、井上進『明清学術変遷史―出版と伝統学術の 臨界点』(平凡社,二〇一一)などなど。 〉 ⇒報告者も、たとえば『尚書』研究では朱熹とほぼ同世代の呉棫(生没年不詳、1124 年の進士)、同・呂祖謙(1137-81)、同・陳大猷(生没年未詳、1229 年進士)、さらに は宋末〜元初・王柏(魯齋、1197-1274)、同・呉澄(草廬、1249-1331)、明・梅鷟らに おける「段階的」な研究の発展があり、その上に清初の朱彝尊(1629-1709)、そして閻 若璩(1636-1704)、王鳴盛(1720-97)らによる研究の「大成」がなったとする立場で ある。 ⇒加え、『尚書』の偽古諸編に関して忌憚のない批判を展開した宋末〜元初・呉澄、清 初・閻若璩ら、或はかなり溯るが唐代に『史通』を著した劉知幾らは、どちらかといえ ば「例外的」であるのは、伊東貴之「清朝考証学の再考のために – 中国・清代におけ る『尚書』をめぐる文献批判とその位相、あるいは、伝統と近代、日本との比較の視点 から」(笠谷和比古編著『徳川社会と日本の近代化』〈思文閣出版、二○一五年二月刊 行予定〉)にも指摘あり。 ◯これに対し、経書を徹底的に「客観的考察対象」に押し据えることをし得たのは、十 八世紀日本の考証学者であったのでは? 2 2. 古典テクスト(’Canon’)の文献研究と「原典批判」 - 西洋における発展の様相 2-1. 「西洋」における「文献研究」と「原典批判」:いつごろから? ⇒バルトホルト・ニーブール(1776.8.27-1831)、レオポルト・フォン・ランケ(1795-1886) らが「近代歴史学」、或は「独立した科学としての歴史学」の祖とされる。 ⇒しかし、西欧において、キリスト教的世界観の枠内での「普遍史」から離陸し、客観 的「世界史」が台頭してきたのはゲッティンゲン学派のガッテラー(1727-99)、とりわ け彼の前半の普遍史的業績からの脱却を象徴する『世界史』(1785 年)、『世界史試論』 (1792 年)、或はシュレーツァー(1735-1809)あたり、つまりは18世紀末。Gatterer, Johann Christoph, Weltgeschichte in ihrem ganzen Umfange, Theil 1,2, Gotttingen, 1785, Gatterer, J.C., Versuch einer allgemeinen Weltgeschichte, Gottingen, 1792。 ⇒哲学においても似たような状況:ようやく十八世紀になってから、はるか遠い昔の西 ローマ帝国の滅亡以来の、長期にわたるキリスト教的歴史哲学の支配が覆えされ、近代 の歴史哲学が芽をふいて来た。 〈和辻哲郎『近代歴史哲学の先駆者 – ヴィコとヘルダー』 (『和辻哲郎全集』〈岩波書店、一九六一-六三年〉第六巻〈一九六二年〉)〉 ◯歴史哲学、歴史学のかような発展は、いうまでもなく17世紀後半よりにわかに盛ん となるキリスト教経典の原典批判、とりわけリシャール・シモン (1638-1712) やジャ ン・アストリュック (1684-1766) らによる『聖書』の著者の複数性の摘発、著述の時 期と場所の「歴史性」の析出努力、それらを基盤に、『聖書』が「異なった時代に書か れた諸書を編集した『文献』と考え」るに至った知的大変動が寄与。 さらに根源的な次元においては、デカルト(1596-1660)『方法叙説』(1637 年)、ア ントワーヌ・アルノー(1612-94)らによる『ポール=ロワイヤルの論理学』 (1662 年) といった書に表徴されるごとくの知的共通感覚をもった知識層の勃興が挙げられよう。 ※デカルトの上掲書、そしてフランシス・ベーコン(1561-1626)による『学問の進歩』 (1605)をもって、彼らはしばしば「新科学」そして「経験哲学」の祖と認知されるが、 これに大いなる反駁を加えるのが Anthony Grafton である。西欧における文献研究、 客観的思惟の発展に関する膨大な著作をもつ同氏の主著の一である Defenders of the text: The traditions of scholarship in an age of science, 1450-1800 (1991) は、同書の 目的が、「新科学」のはじまりをベーコン、デカルトにもとめる「誤謬」にみちた一般 的理解の「攻撃」にあるとの刺激的な一語ではじまる。Grafton は、彼らこそが西洋の 古典文化を“単なる”「文学的な」ものにおとしめた張本人であり、ルネサンス期の学 問発展ですら客観的・科学的知性とは何ら関係のないものに矮小化せしめたとし、これ らの繆説を、ルネサンス期の Angelo Ambrogini (Poliziano, 1454-94)、Scaliger 、 Casaubon、そして Kepler らの学問の性質の解明をもって正さんとする。以下、この Grafton の著作を指針に、彼も言及する先行研究も参照しながら学問発展について俯瞰 しよう。 Poliziano はホメーロス『イリアス』のラテン語訳なども手がけたフィレンツェ・ル ネサンスの代表的古典研究者・詩人であり、すでに Sebastiano Timpanaro, Alessandro Perosa, Manilo Pastore Stocchi らによる彼の研究があるが、とくに Timpanaro は、 Poliziano における原史料の「歴史的」理解の重視に着目する。即ち Poliziano は十五 3 世紀後半の時点において、時代が下るに従い原史料の権威が低下する点、上代の一つの 史料が後代の諸史料の「元本」となっているさまに言及する[注 g]が、これまさに富 永仲基 (1715-46)「加上法」を彷彿させる。翻って Grafton は、彼の学問が、それまで の人文学において中心的であった「修辞的」スタイルから極めて「技術的」体系を擁す る「文献学」への発展の画期であるとする。[注 h] これらの点の指摘は本書にとっ て重要である。 Grafton は、北イタリアの法学者を中心とする “prehumanists” と称される一団の学 者の存在がルネサンス期の学問発展の重要な基礎であり、さらにはこれが、宗教改革運 動の学問方法的基盤にもなっていったことが、すでに 1960~70 年代の米国の学者の間で 認識されていた一方、彼らの多くが、この学問方法はラテン語研究、古代ローマの修辞 法学習に有用であったとの認識にとどまるものであったことを指摘する。[注 i] “Prehumanists”より段階的な発展をみた学問がかような矮小的価値をはるかに超えた 意味をもつものであったのを“発見”したのがさきの Timpanaro らであり、現代の Grafton、そして本章で後述する Pomata, N. Siraisi といった研究者群である。 Grafton が專著をもってその学問発展への寄与を力説する Scaliger は、 注 g Grafton は Timpanaro による Poliziano の学問特性の発見を以下のごとく要約 する。曰く、‘showed that Poliziano had seen the problem of assessing manuscript evidence as one to be settled not by seat-of-the-pants navigation but by strict historical reasoning. In all cases he considered later manuscripts less authoritative, because farther removed from the ultimate, ancient source, than older ones.In some favored cases, moreover, he could show that one surviving manuscript was the parent of all the rest. This alone should serve as the basis for textual scholarship. The demonstration that Poliziano had arrived, long before Scaliger, at a fundamentally historical approach to textual criticism, was dizzyingly exciting. (p.9) 注 h Grafton 曰く、‘Poliziano’s work had marked a watershed in the history of classical scholarship: a break between an older, rhetorical style of humanism and a newer, technical philology’. (p.7) 注 i 同、pp.7-9。 Grafton のこの主張は、日本における経験的学問の発展を安易に蘭学や清朝考証学に よる「影響」、或はその産物とすることへの重大な警鐘でもある。本書の主題である十 八世紀日本の儒者における「経典」への接近の姿勢、所謂 ‘Canon’ とされる文典の「考 察対象化」、 “客観化”の様相は、Grafton が素描する Scaliger や Casaubon における 文献研究と原典批判に比肩し得るものである。 2-2. 「法」研究、「医学書」研究の伝統と文献批判 ◯実は、十八世紀末西欧における「歴史学」の「客観的方法」発展を溯ること約二◯◯ 年ぐらい前、即ち十六世紀末ごろより、法学、医学研究の分野における研究方法の発展 があり、「文献考証」「原典批判」はこれらを端緒とする。 4 (1) The development of ‘historical methods’ marked by ‘a significant move from the rhetorical or literary to a new sensitivity to issues of method and source criticism’, is attributable to legal studies in the sixteenth century. ‘… the spilling over into history writing of the critical methods of the jurists’ mos gallicus. --- 要するに、「十六世紀」に ‘legal’な method による影響始 まる(Pomata, G. and N.G. Siraisi, Historia: Empiricism and erudition in early modern Europe, MIT Press, 2005, pp.3-4). ‘literary genre’ から ‘epistemic genre’ へ (Ibid., p.4) (2) ‘A veritable explosion of clinical and anatomical reports written in the historia format began in the late sixteenth century. Case histories and autopsy narratives multiplied’ (Ibid., p.2) --- 即ち、「十六世紀末」に、‘clinical’’anatomical’な方 法の影響あり。 ‘… ‘anatomical investigations’ that meant ‘a thorough description of the structure of bodily parts’ proliferated and flourished in the late c.16 th and the c.17th. (Ibid.) Anthony Grafton も、この、学問方法の発展における「法学」「医学」の影響を指摘: ‘Republic of Letters (born around 1500 - Respublica literarum – flourished in early c.17th) published manuals designed to transform history, philology … into disciplines as formal as law or medicine’ (Grafton, A., Worlds made by words, Harvard UP, 2009, Introduction). ⇒この、’The Republic of Letters’ における潮流も即ち、Siraisi らが上の書で指摘 した学問潮流をうけたものといえよう。 ⇒「十六世紀末」から「十八世紀末」までのおよそ二○○年が、 ‘prescientific empirical knowledge’ の台頭期間(Seifert, A., Cognitio historica: die Gechichte als Namengeberin der fruhneuzeitlichen Empirie. Berlin, 1976)。 cf. Francis Bacon (1561-1626): ‘identification of historia and experientia’ to Emmanuel Kant (1724-1804) ◯ここで、いま一つの事例として興味深いのが、十六世紀末から十七世紀前半ぐらいの Oxford。いうまでもなくこの時代のイングランド、そしてかの地の“知の中心”とされ るオックスフォード大学は、西欧の「辺境」に位置する、古典研究・文献の蓄積も大陸 の主要大学に大きく劣る、あまり重要視されていない一地方大学。たとえば、 ’When historians credit James(一世-筆者)with surrounding himself with learned men, it should be added that it was with learned divines only. There did not exist in this country any distinct class of scholars, or guild of learning, such as had been found in Italy in the 15th century, or as is formed by the g(G)erman professorium of our (Pattison’s -筆者) day’. M. Pattison、前掲 Isaac Casaubon, 1559-1614 (1875), p.324. 或は、前掲 Grafton, A., Worlds made by words,’, pp.228-30 にも、十九世紀中葉においても、オックスフォード は基本的には“教養大学”であり、専門研究のための学府とはほど遠かったとの記述あ り。 5 ⇒しかし同時に、 ‘… the soul of true learning, viz. the spirit of investigation, was wanting in the circle which surrounded James … They were led into the region of learning’ (Ibid., pp.32627). ※ ’the region of learning’ ≒ ‘a significant move to issues of method and source criticism’ (前掲 Pomata, G. and N.G. Siraisi, Historia: Empiricism and erudition in early modern Europe)。 Saumaise あての Casaubon の手紙にも、 ‘(People in England) love(s) letters and cultivate(s) them, sacred learning especially. Indeed, if I am not mistaken, the soundest part of the whole reformation is to be found here in England, where the study of antiquity flourishes together with zeal for the truth’ (Ibid., p.328 に引用).. ⇒Anthony Grafton が指摘するように、Oxford は ‘a resort of learned men … whose philological practices were more precise and systematic than his (Casaubon’s) own’ (前掲 Worlds made by words’, p.4)、つまり、「宗教研究」の伝統、または、古典的或は 伝統的学問の蓄積とは別軸の、「精緻」で「体系的」な「文献研究」の進展という方向 では、この辺境の大学においてむしろ進歩的であったともいえよう。 (この、Casaubon のオックスフォード体験については、前掲 Isaac Casaubon 1559-1614、 それに関する Grafton の ‘The Messrs. Casaubon: Isaac Casaubon and Mark Pattison’(前掲, Worlds made by words)、同収 ‘Introduction’ に詳しい。) ⇒かような Oxford において Casaubon は、’… self-consciously located himself in a range of social networks … (and) felt personal warmth for learned Anglicans like Andrews and Huguenot humanist like Scaliger … (and) Lutherans like Kepler and even to a Jew like Barnet – and those loose ties had their impact on his ways of thinking and reading’ (Grafton, A., 前掲 Worlds made by words,’, p.6).(但し Casaubon の Oxon 滞在 は短く、その「思考の仕方」に「影響があった」とまでするのは問題であろう。) ⇒また、’the first Bodleian librarian’ で Calvinist であった Thomas James とも親しく交流。 ※即ち、Anglicans, Huguenots, Calvinists, Lutherans, Jews … らと分け隔てなく、しか も極めて自然に交流でき得たのが Oxford。 ⇒ Thomas James: ‘believed that Catholic scholars had deliberately corrupted the texts of the church fathers to make them support their theological positions’(Ibid., p.4). とくに、 Cesare Baronio の ‘efforts to support papal claims to spiritual and temporal authority’ (Grafton, A., Defenders of the Text, Harvard University Press, 1991, Ch.5, p.145)、その集大成である the Annales ecclesiastici は論駁の対象。 ⇒ James は、これを精緻なテクスト研究をもって論駁しようと試みていた。 ⇒そのような環境で、Casaubon も、’firmly believed that as a scholar, he had a duty to state the truth’ … (h)e allied with, i.e., Joseph Scaliger to ‘fight to cleanse Christianity of forged texts and spurious authorities’ (Grafton, A., 前掲 Worlds made by words’, pp.5-6). 「偽書」と「偽りの権威」の“浄化”への戦い 6 ※これらの動きを、単なる ‘Calvinist (Thomas) vs Catholic’、’Huguenot (Casaubon) 、、 、、、、、、、、 vs Catholic’ の対立、新旧宗教対立とのみ捉えることは浅薄。論争を行なう過程 、、、、、、 において発達した/或はそれと同時並行でそこから派生した、精微な文献考証、 、、、、 その学問発展史として重要なエポックである、 「原典批判」(‘source criticism’) を 、、、、 至上とする学問態度の発展に注目すべき。 前出の F. Watson いわく、 ‘The older ideal of imitation, both in form and in substance, of the great classical writers of antiquity had now passed. It was essential for those engaged in theological conflict on an intellectual plane to know (斜字-ママ; 前掲 The Cambridge History of English Literature, Vol.7, Ch.13, p.311). 、、 ※ ‘imitation’ of ‘classical’, ‘antiquity’ ではなく、 ’independent enquiries’, quest for truth’ ※これは、あえて比較すると、漢・唐註疏学、或は朱子学の経学(とくに『語類』『集 注』に象徴されるところのもの)とは、学問の性質を異にする、「考証学」「考拠学」。 ⇒漢・唐註疏学、朱子学の経学も「考証」を基とするが、「原典批判」などはなし。ま してや「経」を誰が書いたか、その複数性の指摘など、もってのほか。 基本的に先学の注、疏を列挙することを主旨とする(所謂 ‘commentary’)。 「原典批判」の「考証」は、これとは次元が異なる。 Siraisi, Pomata, Grafton, さらには Michael Witzel, Sheldon Pollock らは、この学的地 核変動を中心とする学問発展の系譜の包括的研究をすすめる。 ⇒十八世紀東アジア、そして日本における学問の研究にも極めて示唆的。 ◯一方、余談だが、欧州の「東」においては、ヘロドトス『歴史』の伝統を継承したビ ザンツの歴史家が、諸民族の言語、宗教、思想の相違、出来事を事実主義的に、かなり 「公平に」取り扱おうとの基本姿勢をもって、外国の記録、実地観察、地理学的・民族 、、、、、、、、、、、 学的探究の知見等の「材料」にもとづいて「客観的に事の真相を捕え」、その上で、 「材 料の力強い取捨選択によって」「時代の肖像画」を描かんとしていたとするのは、前述 、、、、、、、 の和辻である。逆に西ヨーロッパの物語や年代記は、「その構図と言い、心理的な特性 描写と言い、政治的意図や行動の理解と言い、実に幼稚で、ほとんど比べものにならな い」(和辻、前掲書)。 ⇒和辻は、上記の十六末〜十八世紀初頭の原典批判の様相に無頓着であったのかもしれ ないが、西欧の「大勢」は、このような状況であったかもしれぬ。 ※さて、十八世紀日本の儒学思想世界においては、一方では「朱子学が正統」といった 風潮の学派・学統がいくつも生まれたが、また一方では、古典テクスト(経書)を忠実 7 に理解し、のみならず、その成立過程における紆余曲折の様相を精密に特定し、それに 、、、、 、、 内在する偽古/擬古箇所を摘発する、「原典批判」を至上とする学問が、とくに十八世 紀後半に発展をみた。 ⇒この、自由な原典批判の「特質」はなにか。また、それを可能せしめた気風または要 因として、いかなるものがあったか? これは日本思想史の研究課題として、そして日本の思想の発展の特質を考える上で極め て重要な問題である。そして、上に論じてきた西洋、そして中国における学問方法の発 展系譜は、17 世紀〜19 世紀前半の日本における文献研究、原典批判の勃興・発展の比 較対象として/それを照射する重要な手がかりとして有用であるが、いまだこれらの研 究を十全に反映させ、方法的次元の微細の考察まで刺さり込んでの比較研究は存在しな いといえる。本書の問題意識はここにある。 〔1〕 中国では、「儒家的経典の解釈は必然的に政治的権力と相互作用をもった密接 な関係に置かれて」おり、「経典解釈と権力との入り組んだ関係」、「解釈者と権力構造 の相互作用」がその枢要(黄俊傑「東アジアにおける儒家的経典の解釈と政治的権力の 関係」 〈黄、辻本雅史〈編著〉 『経典解釈の思想史 – 共有と多様の東アジア』 〈ぺりかん 社、二○一○年〉)、八頁)。 ◯その一方で黄俊傑は、「東アジア」と一括できない大きな相違が、とくに経典解釈と 政治状況との「密着度」において日・中・韓の間に存在し、「徳川時代の日本の儒者は 権力の中枢との関係が比較的遠」かったと適切に述べる(同、二頁)。 ※この指摘は重要 --- とりわけ、政治状況よりもむしろ、社会=経済的与件との密 着度が高い“市井の人”、或はまた「下級武士」が思想的営為の担い手である場合、思 想特性に相違 --- 江戸後期〜幕末の考証学を担った多くの儒者はこの属性にある 人々であり、これは、哲学的(或は、具体的に、 「朱子学的」)思惟、政治思想/理念そ のものに ‘lean-in’ することが多くの場合その前提である中国士大夫層とは、その思想 形成の環境与件に大きな差があるのは留意されよう。 ⇒主に明和〜天明期(1764-88)、そして十八世紀初頭の日本の思想世界に登場した井上 金峨(1732-1784)、中井履軒(1732-1817)、吉田篁墩(1745-1798)、山本北山(1752-1812)、 それを継承発展させた化政期の大田錦城(1765-1825) 松崎慊堂(1771-1844)、狩谷棭斎 (1775-1835)、さらには幕末に台頭した東條一堂(1778-1857)、海保漁村(1798-1866)、 安井息軒(1799-1876)らは、かような属性をもつ儒者。 ⇒彼らの学問は、久米邦武(1839-1931)、重野安繹(1827-1910)といった近代史学を 成立させた漢学者らに継承された。 ⇒蛇足だが、ある面においては、イングランドとオックスフォードの十七世紀欧州にお ける「辺境性」、古典研究・文献の蓄積も大陸の主要大学に大きく劣る、あまり重要視 されていなかった ⇒⇒ 逆に、それ故に、束縛のない研究環境がありえた? 〔2〕 十八世紀日本の経験的学問を成立させた第二の要因として重要なのは、日本 儒者にとって「中国古典テクスト」が、二重の意味で「外国語」であったこと。この点 8 の重要性を強く認識させるのは、市來津由彦。市來「漢文訓読の現象学」(中村春作、 市來、田尻祐一郎、前田勉〈編著〉 『訓読論』 〈勉誠出版、二○○八年〉) 、同「課題とし ての訓読」(「大坂市立大学東洋史論叢」別冊特集号、二○○六年)、同「学界展望(哲 学)」(『日本中国学会報』第五十八集、二○○六年、第五十九集、二○○七年)。 ⇒市來はとくに「漢文訓読の現象学」において、古代漢語文言文を、日本語訳するにお 、、、 いては、 「文言文の記号的表記世界(傍点-筆者)から、ニュアンスもべったり書き込む 表記世界への変換」が必須の作業となると論じる。これはまた、古典の文言文の「表記 の表層では文脈内にしか現れない」「時制、推量などの簡略化されている感情、ニュア ンス的要素を読み取り、助字的語彙そのものの変換に加え」る作業であるとも述べる。 ⇒特に日本語への翻訳作業であれば、日中言語の格別なる相違点としての「構文」の問 題への傾注が必要となり、これを意識しての「外国語翻訳」としての営みが同時に求め られる、とする。 ⇒伊藤東涯が精微な「経典解釈」の遂行と同時並行で、 『助辭考』 『助字詳解』 『用字格』 といった書を通じて、字・句法、文の法・体、そして文章そのものの深遠な理解のため の方法の整序を試み、春臺も『倭讀要領』で徹底的に「古代中国語」の特性を考察する。 山本北山も言語に関する著述あり。 【A】これら、 「言語特性の精究」と「詳密な経学的テクスト理解」は車の両輪であり、 かような二軸での精密な研究は、結果として、 十六世紀末〜十八世紀末の西欧における、 ‘epistemic genre’ の飛躍的発展、「法学」 「医学」における学問方法の発展の影響を反映しての「精緻」で「体系的」な「文献研 究」の発展に比肩し得る学問の発展があったと措定し得る。 【B】さらには、上述のように、「市井の人」が研究主体であった = 明・清の士大夫 層とは異なり、「朱子学的思惟」などから比較的自由であったという社会的・思想的環 境与件が重要。 また、十八世紀〜十九世紀の日本の知的環境は、十六世紀前半の西欧宗教世界を大混乱 に陥れたような峻厳な「思想対立」はなし。しかし一方では、久米邦武(1839-1931) が述懐するように、十九世紀中葉の時点においても、「考証学」を実践する儒者は「謀 反人の様に」見下され、「私も其宋学の中で育ち、随分老輩の呵責もうけ、公然と道徳 を離れて独立に歴史を論ずる口を嵌制せられたことも久し」かった(久米「史学考証の 弊」〈大久保利謙(編)『久米邦武歴史著作集』第三巻「史学・史学方法論」(吉川弘 文館、一九九○年)所収、第一編「史学の独立と研究」第四「史学考証の弊」、六二— 六三頁、同上、第一「史学の独立」、六頁〉)。 つまり、特定の思想のドミナンスは厳然と存在した一方、「論駁」「原典批判」の“自 由”はあったという状況。 このような状況は、ある意味では、さきに挙げた、Thomas James が Catholic scholars に よる『聖書』の恣意的改竄(the deliberate corruption of the texts)の摘発にのりだしてい た、或は Casaubon が、independent enquiries into the ideas and thoughts を遂行し、‘fight to cleanse Christianity of forged texts and spurious authorities を敢行していた知的状況と対比 9 せられ得るものであり、中井履軒、山本北山らの忌憚なき原典批判を可能せしめた社会 環境的与件として注視されるべし。 本報告は、これら、中国における学問発展との相違、日本における学問方法の発展を特 徴づける要因を勘案しながら、さらには西洋における「文献研究」、そして「原典批判」 、、、、、、、、、、、、、、、 を頭にいれながら、そこに位置づけられる題材として、十八世紀日本におけるそれらの 発展を考えることを主眼とし、その主題として中井履軒をとりあげる。 履軒の『尚書』研究 〔利用史料〕: 【1】 本報告で利用の中井履軒『尚書』関連著作・注釈書: ◯『尚書雕題』 (履軒自筆、七經ノ内)。蔡沈『書經集伝』に頭注を中心とする書入れを 施したもので、初頁の頭注に「尚書雕題」とあり。六冊、27.5cm x 19cm、1-09-01 日 本 SHI-C(2)。懐徳堂文庫蔵。 ◯『尚書雕題畧』 (履軒手稿、七經ノ内)二冊、23.0cm x 16.2cm、1-09-01 日本 SHI-R(2)。 懐徳堂文庫蔵。第二冊の末に「雕題附言」あり。 ◯『尚書雕題畧』(七經雕題畧二ノ一〜二)二冊、22.3cm x 16.2cm、旧一高文庫(現東 京大学附属駒場図書館)蔵。「第一高等学校図書館」の印のほか、「桑名文庫」「白河文 庫」の印あり。第二冊の末に「雕題附言」あり。 ◯『尚書雕題附言』(「雕題附言」のみ独立の册)一冊、24.0cm x 16.0cm。「雕題附言」 との内題の次行に「尚書」とある以外は、懐徳堂文庫蔵、一高文庫蔵『雕題畧』「書」 の第二冊末にあるものと全く同じ。懐徳堂文庫蔵。 ◯「典謨接」(履軒手稿『七經雕題畧』一「易」三巻の末に収める。『懐徳堂文庫目録』 には「尚書二巻付典謨接一巻」とあるが、実際には「易」の第三巻の末に収める。24.0cm x 16.1cm。1-09-01 日本 SHI-R(1)。懐徳堂文庫蔵。 ◯『梅賾古文尚書』 (中井積徳〈履軒〉自抄並傍注 水哉館遺書)一巻。1-03-00 正文 BAI。 懐徳堂文庫蔵。 ◯『尚書』(中井積徳〈履軒〉訓点 安永年間刊本 皇都松梅軒蔵版 水哉館遺書)一巻。 懐徳堂文庫蔵。 ◯『伏生尚書』 (中井積徳〈履軒〉自抄並考定・訓点 水哉館遺書)一巻。1-03-00 前漢 FUK。懐徳堂文庫蔵。 【2】 その他の日本儒者による『尚書』関連著作・注釈書: ◯伊藤蘭嵎『書反正』二冊、「序説」「堯典」のみ。本稿では享保 20 年(1735)版の蘭 嵎手稿本(懐徳堂文庫蔵)を、明和2年(1765)の平安書林等版刊本(早稲田大学古典 籍資料室蔵)と交合の上利用。尚、享保 20 年写本と明和 2 年版の双方に「序説」があ るが、前者巻之一巻首にある「書反正序」 (「序説」巻の「書反正序説」とは別)が後者 にはない。 ◯大田錦城『九經談』十巻(四冊)。文化元年(1804)の須原屋茂兵衛等版の刊本と、 10 秋田屋多右衛門等版(著者蔵)とを交合の上利用。 ◯同『梧窓漫筆』前・後編上下(四冊)。玉嚴堂(和泉屋金右衛門梓)刊本(著者蔵) を利用。 ◯同『梅本増多原』四冊。写本、東京大学東洋文化研究所図書室蔵、国会図書館古典籍 資料室蔵のものを利用。 ◯同『壁經辨正』三冊。写本、東京大学総合図書館蔵のものを利用。 ◯岡白駒『尚書解』一冊。享保 20 年(1735)版(懐徳堂文庫蔵)刊本を寳暦2年(1752) 版(早稲田大学古典籍資料室蔵)刊本と交合の上利用。 ◯下郷次郎八(學海)『尚書去病』一冊。安永4年(1775)写本(懐徳堂文庫蔵)を利 用。 ◯赤松蘭室(訓点、序) 『書疑』三冊。平安書林等版本、明和2年〈1765〉、早稲田大学 古典籍資料室蔵。 中井履軒(名-積徳、字-処叔、通称-徳二、一七三二-一八一七): 懐徳堂第二代学主中井甃庵(名-誠之、字-叔貴、一六九三-一七五八)の第二子、第四 代学主竹山(名-積善、字-子慶、一七三◯-一八◯四)の弟。 緻密な経学的業績を残した懐徳堂の重要人物の一人。武内義雄以来その業績への評価は 枚挙に遑がないが、とくに経書への自注の直接書入れである『七經雕題』、その概要を まとめ別に一個の著作としてまとめた『七經雕題畧』、それらの晩年の集大成である『七 經逢原』は彼の生涯をかけ作成された主著群。 ⇒履軒は、易・詩・書・礼・春秋に論語、孟子を加えた「七経」の詳密な原典の検討に 専心し、その上で「五経」についてはこれらを孔子から引き離し、逆に「孔子の道を伝 ふるものはただ論語・孟子・中庸のみ」との立場に至り、とりわけ『中庸』を最重視。 さらにこれもって忠・孝を重視、誠によるこれら二倫の実行を標榜していた。〈武内義 雄「懐徳堂と大坂の儒学」 (『武内義雄全集』第十巻〈角川書店、一九八四年〉) 、三五五 -五八頁〉 ⇒「新奇を好む」に忙しい徂徠、 「故常に安んずる」林家、 「剛戻」を好み「物敵」とな る崎門各々を批判。さらに、「唯平心書を読みて愛憎を新故に生ぜず、深く古經の未だ 瞭かならざるを慨きて、聖人の心後世に伸びざるを痛み、憤るが如く悶ゆるが如く、寝 を忘れ食を忘れ、毀誉得喪を度外におき、□□鑽攻して老の将に至らんとするを知らず、 然る後始めて与に経を論ずべきのみ」と語っている。〈履軒『雕題畧』緒言の言葉〉 ⇒本報告は、懐徳堂における履軒の位置づけ、彼の『中庸』重視、或は「朱子学者」と しての彼の思想について云々することを意図するものではない。そうではなく、 「六經」 のなかでもとりわけ「最古」とされる『尚書』の研究の「やり方」の微細の検討をつう じて、彼の学問態度、とりわけ原典批判の姿勢の一端を考察することを目的とする。 ⇒⇒別途資料(『東洋文化研究所紀要』掲載決定済論文)参照。 11 小 括 ※本報告にて考察した履軒、或はすこし前の伊藤蘭嵎、或は履軒の懐徳堂の先輩富永仲 基(1715-46)、すこし後の大田錦城らにおける、辛辣な原典批判は、水田紀久の言葉を 借りていえば、「斯道の始祖、聖人を絶対視せず、これらを、ただ後の立論者が権威と 仰ぐ偶像と断じ、その超人格をも、思想発達の原則により、ひとしく相対的地位に定位 し去」る知的営み。〈水田「富永仲基と山片蟠桃 – その懐徳堂との関係など」(日本思 想大系『富永仲基・山片蟠桃』岩波書店、1973 年)、664 頁。646-7、671-2 頁ほかにも 同様の主張あり〉 ⇒本報告でみたように、履軒は、王粛、梅賾らによる「捏造」「剽窃」「誇言」の横行、 孔伝などにおける「詆誣の横加」を指摘。のみならず、蘭嵎、錦城らも言及しなかった 前漢末〜新の劉歆による偽作とその班固による無批判な引用なども析出。 ⇒履軒のこれらの営為は、単なる「漢・魏回帰」、或は「漢学の復興」ではない。 なにより、彼の劉歆批判は、後の康有為によるそれが多分に政治色の強かったものであ ったのとは異なり、価値中立的に一切の偏りを排し、純粋に文献的に「最適」と判断さ れた「古典」とその「原解」のみを適宜客観的に析出、吟味・考究する営みであり、こ れ即ちまさしく「文献批判の方法」。 ◯履軒の学的態度を、清代考証学者の『尚書』研究におけるそれと比較するとどうか? 大谷敏夫、木下鉄矢、濱口富士雄、井上進、吉田純らによる、注目すべき清代『尚書』 研究あり。〈大谷敏夫『清代政治思想史研究』 (汲古書院、一九九一) 、同『清代の政治 と文化』(朋友書店、二〇〇二)。濱口富士雄『清代考據學の思想史的研究』(国書刊行 会、一九九四)。木下、前掲『「清朝考証学」とその時代』。吉田、前掲『清朝考証学の 群像』、同「『尚書古文疏證』とその時代」。井上、前掲『明清学術変遷史―出版と伝統 学術の臨界点』。 とりわけ吉田純氏の著作は、本報告が主題とする経書批判の姿勢に関することにも鋭意 言及、いわば、「守旧的」とも映る非決定或は留保的態度に着目、彼らにおける、極端 な「辨偽」的姿勢への批判的傾向を指摘する(吉田、前掲書)。吉田は、清初の顧炎武、 或は王鳴盛『尚書後案』、さらには閻若璩『尚書古文疏證』でさえも、経書の権威性の 全面的な剥奪を究極的に目指したものではなく、これらを偶像破壊的なニュアンスで理 解することは誤りであると指摘。伊東貴之は、これら清代考拠家研究の説を十全に引照 しながら、それが単純な文献批判ではなく、高度に政治的な判断や思想的な色合いを濃 厚に反映させたものでもあったとする。 〈伊東「清朝考証学の再考のために - 中国・清 代における『尚書』をめぐる文献批判とその位相、あるいは、伝統と近代、日本との比 較の視点から」(笠谷和比古編著『徳川社会と日本の近代化』 〈思文閣、2015 年内刊行 予定〉)〉。 ⇒翻って、履軒の忌憚なき原典批判は、「総ての」経書の権威の全面否定を目的とした ものであったか。彼が論・孟、そして『中庸』を重視したのは、武内義雄、湯浅邦弘ら の研究が既に指摘するところ。そして、現行『尚書』の「今文」箇所を偽書としなかっ たことからも、全面的な経書否定が目的ではなかったことは明らかで、そもそもそれが 目的なら経学の精緻な考究という営為自体が自己矛盾であったといえよう。 12 しかし、「真書」の確定への努力の否定、経書の「無批判な」尊崇こそ、一方では妄 信、排他性、自浄作用の排除を胚胎させる要因とはなるまいか。無私の姿勢をもっての 経書への没入が肝要であるのはいうまでもないが、一見相矛盾する懐疑的姿勢の同時的 保持をも否定し、「何が真に専心すべき対象か」を特定する過程においても「態度保留 的」であることを宣揚するのであれば、それが醸成するのは単なる服従志向のみではな いか。楊愼 (1488-1559)『丹鉛続録』序の、「信を信ずるは信。疑はしきを疑ふもまた 信」との言はまことに適切であると考える。 もう一点、江戸儒者における文献研究を考える上で忘れてはならないのは、まず履軒 や蘭嵎らの仕事は、宋末〜元・王魯齋、同・呉草廬、明・梅鷟、郝敬らの批判的『書』 研究を適宜参酌したものであったこと。そして、少しあとの錦城の研究には確実に閻若 璩『尚書古文疏證』、王鳴盛『尚書後案』、江聲『尚書集注音疏』が反映されていたこと。 彼らの『書』研究の当地における評価についてはここでは断言できず、また、 『書纂言』 『疏證』などの大胆な原典批判はかえって十八世紀日本において花開いたともいえよう。 同時に、ここに「東アジア海域」をまたいだ「客観主義」「原典批判」の発展を認める ことができよう。 *本報告は、JETTS 代表である川口浩早稲田大学教授を代表とする科学研究費補助金事 業をもっての研究成果の一部であると同時に、報告者が同時平行ですすめる東京大学東 洋文化研究所個別課題「中国古代テクスト研究と西欧のフィロロギー – 18世紀日本 の文献学的・書誌学的学問方法の比較研究」、さらには報告者が代表の科研費事業(課 題名: 「考証学・言語の学、そして近代知性 – 近代的学問の「基体」としての漢学の学 問方法」〈代表:筆者、課題番号 25370093〉)の研究成果の一部でもある。 13