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第2章 プラトンについて

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第2章 プラトンについて
第2章 プラトンについて
第1節 都市国家ギリシャ
ウィキペディは、プラトンを次のように説明している。『 プラトンは紀元前427年、
アテナイ最後の王「コドロス」の血を引く貴族の息子として、アテナイに生まれた。
祖父の名前にちなみ「アリストクレス」と名付けられたが、体格が立派で肩幅が広かった
ためレスリングの師匠であるアルゴスのアリストンにプラトンと呼ばれ、以降そのあだ名
が定着した。』・・・と。
ギリシャの首都は、現在、アテネというが、古代は「アテナイ」といった。したがっ
て、私は、ここではプラトンの頃のギリシャを問題にするので、古名をつかって「アテナ
イ」という。プラトンは紀元前5世紀の人であるが、その頃のギリシャという国はどうい
う国であったのだろうか。プラトンを理解する上で最低限必要な事柄を説明しておきた
い。上記のウィキペディアの説明では、レスリングの師匠・アリストンに呼ばれていたあ
だ名が「プラトン」であるということだが、その文書のなかに大きな疑問がある。
アリストンはスパルタの人であるが、アテナイの若者が何故スパルタの人にレスリング
を教わらなければならなかったのか? アテナイとスパルタというのは、しょっちゅう戦
争をしていたのではなかったのか? だとすれば、スパルタの人がアテナイの若者にレス
リングを教えるというのは不思議ではないか。
次の疑問はプラトンは王の血筋を引く貴族だが、何故そのような高貴な人がレスリング
を訓練しなければならなかったのか? では、これらの疑問を念頭に、当時のギリシャについて最低限の説明をしておきたい。
ギリシャの特徴として都市国家であるという点が上げられる。世界の歴史のなかでギリ
シャがもっとも華やかな都市国家らしい都市国家であって、都市国家の典型がギリシャで
あるといってよい。では、何故ギリシャにおいて典型的な都市国家が形成されたのか? そのことを考えてみたい。
次の図は、国立科学博物館が行なった「日本人はるかなる旅展」に展示された図である
が、この図に示されているように、人類がスンダランドから黒潮に乗ってはじめて日本列
島にやって来たのが5万年前である。スンダランドは、インドネシアの付近にあったが、
百数十メートルの海面上昇によって今は海底に沈んでいる。人類がスンダランドに到達す
る前の拠点はトルコからメソポタミアにかけてのアッシリア地方である。10万年前にア
フリカで人類が誕生して、6万年前にアッシリア地方に人類の拠点ができる。
人類学では、かつては世界の三大人種をネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドと呼
んできたが、 今日ではそれぞれ主な居住地域から、「アフリカ人」、「ヨーロッパ
人」、「アジア人」という呼び方で分類している。「アフリカ人」は、ホモ・サピエンス
誕生以来ずっと故郷の地に暮らし続ける肌の黒い人々。「ヨーロッパ人」はアフリカを旅
立ったのち、東に向かったわれわれの祖先たちと別れ、欧州に住み着いた人々を指す。そ
して、太陽の昇る方向を目指して長い旅を続けた集団を「アジア人」と呼ぶ。ともにアフ
リカを出発し、西に進路をとる「ヨーロッパ人」と東の「アジア人」が別れたのは、アッ
シリア地方においてであり、遺伝学の分析によると今から六万年前のことである。
アッシリアは、メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域のことであるが、そこ
に興った世界帝国のことをいう場合もある。アッシリアは、チグリス川とユーフラテス川
の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。紀元
前10世紀末のことである。アッシリアの歴史時代は紀元前15世紀から始まるが、それ
までの文字のない先史時代においても、後期旧石器時代(約3万年前から約1万年前ま
で)、新石器時代(約1万年前から4000年前まで)、青銅器時代(4000年前から
1500年前まで)のそれぞれにおいてそれなりの文化があったことは言うまでもない。
先史時代が随分永いのである。6万年前に人が住み始め、ずっと継続して文化を育んでき
たが、国家というものができたのはごく最近のこと言わざるをえない。
この絵は、フランスの西南部のラスコー洞窟の壁画であるが、約1万5000年前のも
のである。このオーリニャック文化と呼ばれる文化は、地域的にはおおむねフランス、イ
タリヤ、スペインであり、バルカン半島やアッシリア地方ははずれているが、これらの地
域にもオーリニャック文化と同じような石器が出土している。地中海を中心にしてヨー
ロッパはかなり高い文化水準にあったと考えて良い。アッシリア地方の文化は、そこに人
類が住むようになった約6万年まえから連綿と続いていって、約1万5000年前には、
オーリニャック文化とまあ同じような水準まで発達してきて、3500年前、すなわち紀
元前1500年頃に、エジプトやメソポタミアを呑み込む大帝国を作った。ギリシャを理
解する上で、このことの理解がきわめて大事であり、少し回り道かもしれないが説明をし
ているのである。もう少しつきあってほしい。
エジプトの王朝はおおむね紀元前3000年前ぐらいから始まるが、かの最大ピラミッ
ドで有名な「クフ王」の頃(おおむね紀元前2600年頃)がエジプトの最盛期であった
と思われ、その後、アッシリアに征服される。紀元前7世紀半ばのことである。
ところで、ご承知のように、地中海でクレタ文明が栄えたのは紀元前20世紀から紀元
前15世紀までの約500年間であるが、ミケーネ文明は、紀元前15世紀頃、スパルタ
が侵入してくる以前のペロポネソス半島で興り、ついにはクレタ文明を滅ぼしてしまう。
このころ、ミケーネの勢いは強く、トロイをも滅ぼしてしまう。このトロイ戦争について
は、ホメーロスが叙事詩『イーリアス』が謳っているので、みなさんもよくご存知にこと
である。しかし、ミケーネ文明を支えていたペロポネス半島の諸都市は海賊のために破壊
され再起できなくなってしまう。しかし、その後、フェニキア人が活躍し、さすがの海賊
も鳴りを潜める。フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる
地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都
市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベ
リア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍。また、その交易活動にともなってアルファ
ベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。
フェニキア人の建設した主な主要都市には、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュ
ブロス、アラドゥスなどがあり、海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃
に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に
広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。
しかし紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて
服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っ
ていった。
この画像ではちょっと判りにくいが、赤印がギリシャの交易都市・ポリスであり、黄印
がフェニキアの交易都市・ポリスである。
上述したように、ともにアフリカを出発し、西に進路をとる「ヨーロッパ人」と東の
「アジア人」が別れたのは、「アッシリア地方」においてであり、遺伝学の分析によると
今から六万年前のことである。その後アッシリア地方を中心として、ヨーロッパではオー
リニャック文化を初めとし、バルカン半島やアッシリア地方もそれに準ずる文化的発展を
する。そして遂には、アッシリアがメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築くこ
とになる。紀元前10世紀末のことである。交通という観点から言えば、これらの動きは
すべて地中海の海上交通の重要性を高めることに繋がるものであり、クレタ文明の勃興に
引き続いてフェニキア人の活躍を経て、ギリシャの交易都市・ポリスが世界的にも珍しい
華やかな発展をすることになるのである。ギリシャという都市国家の発達は、人類大移動
に際して大きな役割を果たした「アッシリア地方」の存在があってはじめてなし得た歴史
的必然であったと思う。
第2節 アテナイとスパルタ
ギリシャの交易都市・ポリスの代表はアテナイ(アテネの古名)とスパルタである。
アテナイの人びとがアテナイに定住したのは紀元前20世紀の頃と推定され、紀元前12
世紀頃にはドーリス人の侵入をうけ周辺村落は次々と征服されたらしい。アテナイは、こ
れをしのいで何とか王政を維持しつつ存続した。
一方、スパルタがペロポネソス半島にやってきたのは比較的新しい。紀元前10世紀ころ
にギリシア北方からペロポネソス半島に侵入し、ミケーネ文明の人びとを征服し奴隷(ヘ
イロタイ)にした。スパルタは、リュクルゴス制度という社会制度がもの凄くしっかりし
ていた。土地の均等配分、長老会設置、民会設置、教育制度、常備軍の創設、装飾品の禁
止、共同食事制がその基本である。リュクルゴスというのは、諸国遍歴の末、この制度を
スパルタに成立させた伝説的な立法者である。紀元前743年、スパルタは自分たちの部族
の統一もままならない中、西の隣国、メッセニアを征服した。この戦争はスパルタがギリ
シアの強国となるための一つのステップであったといえる。このため、スパルタは、当時
のポリスのなかでもその領域は例外的に広かった。奪った土地はスパルタ市民に均等配分
され、約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは奴隷の身分から解放されることも
移動することも許されず、土地を耕してスパルタ人に貢納した。スパルタは、市民皆兵主
義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。ヘイロタイに反乱の兆しが見られ
ると、クリュプキアと呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘイロタイの集落を襲った。ま
あ、スパルタは徹底的に厳しかったんですね。教育もスパルタ教育!
さて、冒頭の疑問点に戻ろう。アリストンはスパルタの王家筋の人であるが、アテナイ
の若者が何故スパルタの人にレスリングを教わらなければならなかったのか? まずこの
点から説明したいと思う。
アテナイとスパルタというのは、ライバルとして争う敵国ではなかったのか? だとす
れば、スパルタの王家筋の人がアテナイの若者にレスリングを教えるというのは不思議で
はないか。私は最初そう思ったのである。しかし、よく調べてみると、プラトンの生きて
いたのは、 紀元前427年から紀元前347年である。プラトンの生まれた少し前か
ら、アテナイとスパルタは断続的に戦争状態を続けていたが、プラトンの青年期は、アテ
ナイのろう城作戦も疫病のために功を奏せず、スパルタの圧勝で戦争は終わった。戦争は
終わっていたので、スパルタの王家筋の人がアテナイの若者にレスリングを教えるという
のはあり得るかもしれない。しかし、何となく腑に落ちないものが残る。で、気がついた
のである。そうだ!オリンピアの祭典だ。
オリンピアの祭典は前8世紀から4年ごとにずっと開かれている。各ポリスから選び
抜かれた 選手達がオリンピアに集まって、円盤投げとかレスリングとか、戦争に直接関
わるような競技が中心だが、それで栄誉を競い合うわけだ。優勝しても賞金とかないけれ
ど、全ギリシアにその名前がとどろき渡って、優勝者の彫像が作られて神殿に奉納された
りする。名誉なんですよ。
重要なのが「オリンピックの平和」というものである。「エリス」というポリスがオ
リンピアの祭典を主催するのだが、開催前には「エリス」から開催を告げる使者が全ギリ
シアのポリスをめぐってすべての戦争の休戦を告げるのである。オリンピックは三ヶ月間
やるんだけれど、その間は一切戦争は禁止というわけだ。各ポリスは これをちゃんと守
るのである。これは凄いことですね。何故、ギリシアではスポーツ競技会のために戦争ま
で中止したかというと、オ リンピックそのものがゼウス神に捧げる儀式だからである。
宗教行事と言ってもいい。ペルシアの大軍がギリシアに攻め込んできた時にも、オリン
ピックは開催している。神に捧げる儀式だから、やめたくてもやめられないような性質の
ものだったんですね。
次の疑問はプラトンは王の血筋を引く貴族だが、何故そのような高貴な人がレスリング
を訓練しなければならなかったのか? これが少年愛に繋がるいちばん大事なところであ
る。ギリシャのポリスは交易都市であり、「自由」がその本質である。自由に交易を続け
るためには、他都市や他国の支配を受けるようではダメだ!「命」をかけて自分たちの
「自由」を守らなければならない。大なり小なり戦争は起こる。専守防衛に徹するにして
も「命」をかけて「自由」は守らなければならないのだ。若者の責任はそこにあり!特に
リーダーの責任は重い!そういう考えがギリシャのポリスの常識になっていた。ポリスの
文化というものはそういうものであったのである。プラトンは王の血筋を引く貴族だが、
そのような高貴な人が何故レスリングの訓練をしたかというと、心身ともにおおいに鍛
え、いざというときに率先して戦うためだ。ポリスの自由を守るためだ。
このように、当時の名門家では文武両道を旨とし知的教育と並んで体育も奨励され、実
際プラトンはイストミア祭のレスリング大会で2度も優勝している。オリンピアの祭典で
は成績を上げられず、学問の道に進みソクラテスに弟子入りしたのだが・・・。
ギリシャという都市国家は、「人類はるかな旅」において、生まれるべくして生まれた
国家であり、プラトンという人物も、ひとつの歴史的必然性として、生まれるべくして生
まれたのだ。
第3節 青年プラトンを取り巻く政治情勢
ウィキペディは、プラトンを次のように説明している。 『若い頃は政治家を志していた
が、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲学と対話術を学んだ。紀元前
399年、アテナイの民主派によってソクラテスは、「神々に対する不敬と、青年たちに害
毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、死刑を宣告され、毒杯を仰いで刑死す
る。』・・・と。
ウィキペディアのこの説明部分を読んでいて、どうも判らないのが当時の政治情勢であ
る。プラトンが幻滅を覚えて政治家になることをあきらめたり、大哲学者のソクラテスが
死刑に処せられたり、当時の政治はめちゃくちゃだったようだ。
では、上記のウィキペディアの説明を念頭に、当時のギリシャの政治情勢について最低
限の説明をしておきたい。
ギリシア人社会における世界大戦とも考えられるペロポンネソス戦争は、プラトンが23
歳になる前404年、アテナイの敗北をもって終わる。 そして、スパルタの占領軍を背後の
力にたのんで、海外亡命から帰国したクリ ティアスたちが、30人の独裁政権を樹立する
のである。クリティアスは、プラトンの母親の従兄でプラトンより30歳ほど年上だが、
ソクラテスの弟子であり、プラトンの若い頃にアテナイの政権を握ったことのある大政治
家である。独裁者クリ ティアスは、次々に反対派を死刑や国外追放に処し、ソクラテスに
「次々に牛を減じて質を悪化させた牛飼い」と皮肉られる。これを受けクリティアスは、
ソクラテスに30歳以下の若者との会話を禁じた。しかしクリティアスの独裁政権はすぐに
転覆される。海外亡命から遅れて帰国した民主派の人びとがふたたび国内に足場をつくっ
て内乱を起こすのである。折しも悪くクリティアスが頼りにするスパルタの国論
に分裂が生じたために、クリティアスの独裁政権は短日月のうちに転覆されるのである。
かくしてアテナイに民主制が回復されるのだが、クリティアスは、若い頃ソクラテスに最
も近い仲間のひとりであり、そのことは周知の事実だった。こうしたこともあって、ソク
ラテスは、民主派の人々からクリティアスのような危険人物を教育したと思われていたの
ある。すなわち、ソクラテスは反民主派の黒幕であるとされていたのである。そしてソク
ラテスは民主派の人たちのよって危険人物として告発され、処刑され ることになる。プラ
トンが28歳のときである。
プラトンの青少年時代は、このような戦争と革命の時代に重なっているのである。トゥ
キュディデスの史書は、戦争が一種の暴力教室であっ て、人々の心情を強引に時局にし
たがわせ、道徳の内容を変化させてしまうことを語っているが、内乱や革命の経験もま
た、いっそうひどいものであると言 わなければならない。プラトンはその青年時代にお
いて、最も身近な人である クリティアスやソクラテスの非業の死をとおして、その苛酷な
経験をしたのである。プラトンは、あらゆる理想主義哲学の代表者であるが、しかし彼
は、ただ甘い夢をみるだけの理想家ではない。彼の理想主義は、このような苛酷な現実の
きびしい認識から生まれてきているのである。
第4節 少年愛について
さて、今までプラトンに関するウィキペディアの説明として、
『 プラトンは紀元前427年、アテナイ最後の王「コドロス」の血を引く貴族の息子とし
て、アテナイに生まれた。祖父の名前にちなみ「アリストクレス」と名付けられたが、体
格が立派で肩幅が広かったためレスリングの師匠であるアルゴスのアリストンにプラトン
と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。』・・・という冒頭の説明に続いて、
『若い頃は政治家を志していたが、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲
学と対話術を学んだ。紀元前399年、アテナイの民主派によってソクラテスは、「神々に
対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、死刑を宣告され、
毒杯を仰いで刑死する。』・・・という説明を紹介し、それに関連して、「都市国家ギリ
シャ」「アテナイとスパルタ」「 青年プラトンを取り巻く政治情勢」についてやや詳し
い説明をしてきた。
では、プラトンに関するウィキペディアの説明の最後の部分を紹介しよう。ウィキペ
ディアの説明は、上記の部分に引き続いて次のように続く。すなわち、
『 この後プラトンはアテナイを離れイタリア、シチリア島(1回目のシチリア行き)、
エジプトを遍歴した。このときイタリアで、ピュタゴラス派およびエレア派と交流を持っ
たと考えられている。紀元前387年、アテナイ郊外に学園アカデメイアを設立した。プラ
トン40才のときである。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが
教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。弟
子にあたるアリストテレスは17歳のときにアカデメイアに入門し、そこで20年間学生と
して、その後は教師として在籍した。 紀元前367年、恋人であったディオンらの懇願を
受け、生涯に2回目となるシチリア島のシュラクサイへ旅行した。プラトン60才のとき
である。シュラクサイの若き僭主(クーデターによってなった王)・ディオニュシオス2世
を指導して哲人政治の実現を目指したが、着いた時には恋人ディオンは追放されており、
不首尾に終わる。紀元前361年、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目の
シュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ今度はプラトン自身、軟禁され
てしまう。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス学派の政治家アルキュタスの助力
を得てなんとかアテナイに帰ることが出来た。哲人政治の夢は、紀元前353年にディオン
が政争により暗殺されることによって途絶える。 晩年のプラトンは著作とアカデメイア
での教育に力を注ぎ、紀元前347年(紀元前348年とも)、80歳で死亡した。』・・・
と。
上記ウィキペディアの説明には『 恋人であったディオンらの懇願を受け、生涯に2回目
となるシチリア島のシュラクサイへ旅行した』と書いてあるが、シュラクサイはイタリア
のシチリア島の都市でギリシャの植民地になっていた。ディオンはそのシュラクサイの政
治家である。ギリシャの植民地シュラクサイには、かの有名はアルキメデスがいる。この
あたりの事情を少し説明しておきたい。そのあと、プラトンを理解する上でもっとも大事
だと思われる問題・「少年愛」の説明にはいりたいと思う。
プラトンは、ソクラテスが死刑になったこともあり、アテネから一時身を隠す。やは
り、ソクラテスの弟子の一人エウクレイデスの家が、メガラにあったので、そこに身を寄
せるのである。その後、ギリシアの各地や南イタリアを歴訪する。
南イタリアのタラスでは、ピタゴラス教団の指導者アルキュタスを訪ねる。ここで、
しっかりとピタゴラス派の考えについて学ぶのである。古代ギリシアの偉大な哲学者ピタ
ゴラス。今日の数学・音楽・天文学の基本的な体系は、全て彼から始まる。彼は有名な
「ピタゴラスの定理」によって科学史上に偉大な足跡を残すが、彼の哲学の根底にあった
のは「神秘主義的哲学」であった。そして、彼が組織した「ピタゴラス教団」は当時は秘密
結社ともいえる存在だったのである。
ピタゴラス教団での1日の始まりは森の散歩で幕を開けた。それは魂を鎮めて、学問や
真理に対しての観想能力を鋭敏にさせるためであった。次にグループ研究の時間があり、
その後に競争やレスリングなどで運動し、肉体の世話をした。そして軽い昼食。原則とし
て菜食中心であったという。午後は教団運営上の仕事や雑務をこなし、夕方ごろに再び散
歩があったが、このときは学習したことを2人か3人で討論しながら行なったという。そ
して入浴後に10人ずつの集団で夕食をとり、夕食後に講義があったという。その後、初
心者は書物を読み、長老は読むべき書物の選択に時間を費やし、寝る前に、神への献酒の
儀式と、ピタゴラスの信条を詩の形で成文化した「黄金詩篇」を、長老に続いて復唱した
という。
のちにプラトンが考え出す〔イデア論〕の理論的裏づけとなっているのが、この教団の
教義に近いものだといわれている。
さらに、シシリー島のシュラクサイに渡る。ディオニュシオス1世の娘婿に20歳くら
いのディオンがいたのである。プラトンは、このディオンと恋仲になる。美青年は、知識
豊かな中年のプラトンにあこがれ、中年のプラトンは美青年・美少年の若さを愛し、正し
い道に導くことに情熱を燃やすのである。
プラトンは、このディオニュシオス王を導いて理想のポリスをつくろうと試みる。しか
し、残念ながらディオニュシオス1世はプラトンの思い通りにはならず、アテネに帰国す
る。
そして、プラトン60歳くらいのときに、シュラクサイのディオニュシオス1世が亡く
なる。その息子のディオニュシオス2世が後を継いで王となるのだが、恋人ディオンから
ディオニュシオス2世の教育のため、シチリア島に来てくれという要請を受けるのであ
る。しかし、プラトンがシュラクサイに到着したときには、ディオンが追放処分に遭って
いて、ディオニュシオス2世の教育がうまく行かなくなってしまったのである。
ディオンはプラトンの恋人であった。ウィキペディアの脚注には、『プラトンは、ディ
オンのほかに、アステール、パイドロス、アレクシス、アガトンと恋愛していた。またコ
ロポン生まれの芸娘アルケアナッサをかこってもいたというから、バイセクシャルであっ
た。ディオゲネス・ラエルティオス(「ギリシア哲学者列伝」岩波文庫、271-273
頁)』・・・という説明がなされている。
さあ、ここでプラトンのエロス論の基礎的知識として「少年愛」について説明しなけれ
ばならない。ディオン、アステール、パイドロス、アレクシス、アガトンはすべて男性で
あり、プラトンの弟子である。ウィキペディアにはプラトンはバイセクシャルであったと
書いている。少年愛とは何か? 詳しくは次章の第2節に譲り、ここでは要点だけを述べ
る。
古典的な意味の少年愛は、世界中のあらゆる社会で存在したと考えられる社会制度であ
る。それはとりわけ、都市国家であるギリシャのような戦士社会において顕著であり、年
長の戦士と若い戦士のあいだを結びつける互いの信頼関係は、しばしば少年愛の関係にお
いて成立した。 このような少年愛は、男性同士の結束と青少年の教育という目的と、い
ま一つに、現代的な表現では、青少年を指向する男性同性愛の目的や意味を持っていた。
教育とは、青少年を一人前の共同体の成員としての男性に育成するのが目的で、中世西欧
や近代における市民教養としての教育とは意味が違っていた。 少年愛としては、古代ギ
リシアの「少年愛」が著名であるが、これは当時の代表的なポリスであるアテナイでは、
暗黙に認められた市民の義務であった。アテナイに比べ、より戦士社会として厳格な文化
や制度を持っていたスパルタにおいては、少年愛は男性市民にとって法文化された義務で
あった。国民皆兵制のスパルタでは、男性市民は戦士であることを意味したのである。
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