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正倉院展を見学して

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正倉院展を見学して
正倉院展を見学して
【随 想】
正倉院展を見学して
瀬戸谷晧
はじめに
た写真を下に紹介しておこう。大きな目玉や
ー本稿は、一昨年(平成6年度)の正倉院
口ばしが観察できる。問題は、絹が破損して
展を見学した折の雑感をまとめたものであ
所々に露出した地(芯)の材質である。
る。「とよおか発掘情報」2号の埋め草とし
鳥兜は完全なものではなく、あくまで残欠
て収載させていただいた。原文は、「豊岡発
である。宮中や東大寺の舞楽に用いたもので
掘だより」1 0 3号(1 9 9 4年1 1月1 5日付)に収
はないかとされている。この種のものとして
録したものである。今回の掲載にあたり、見
は古い部類に入るらしい。保存のため、伸ば
出し等、一部を手直ししている。ー
して密封したケースに入れられている。現在
は失われているが、別にこれと同じものを用
もう閉幕したが、本当に久しぶりに奈良国
意し、ひとつの鳥兜が構成されるようだ。
立博物館で開催された正倉院展を見学する機
気にかかり、日高町の加賀見省一さんに無
会があった。日ごろ何かとお世話になってい
理をいって、関係の文献を彼の奈良の友人か
る温泉町の田中忠雄氏からのたってのお勧め
ら彼の元にファックスで送ってもらい、その
があったからだが、例によってたいへんな人
コピーを入手することができた。田中さん、
ごみのなかではあったが、しばらくの間、文
加賀見さんの好意に感謝しながら、以下思い
化の香りに浸りきる時間を得ることができ
付くまま述べてみよう。
た。
東野先生の研究
さて、この鳥兜がなぜ但馬
田中さん曰く。「有名な鳥兜残欠が展示さ
の人々に知られているかというと、奈良時代
れていましたよ。但馬にとって重要な資料で
の但馬に関係した古文書がこの鳥兜の裏側に
す。是非、見学されては」彼の助言がなかっ
貼られていたからである。この文書は、1974
たら、おそらく今後二度と見る機会を得られ
年に発表された「正倉院蔵鳥兜残欠より発見
なかったかも知れない。彼がこだわり、文献
された奈良時代の文書と墨画」という東野治
には疎いわたしが、心をときめかせ
て見学したのには、それなりの理由
があった。
鳥兜の紹介
正倉院鳥兜残欠の紹介
トリカブ
ト、何やら危険な響きをもつ言葉だ
が、ここでいうトリカブトは前述の
ように鳥兜、すなわち鳥を型取った
兜の形をした、舞楽の際に頭に被る
装束のようなもの、と理解していた
だいたらよかろう。図録から転載し
正倉院に伝来していた鳥兜残欠 ー57ー
とよおか発掘情報 第2号
処
分
事
謹
以
天
平
勝
寳
九
歳
八
月
廿
日
解
右
依
久
船
所
出
既
粮
断
辛
苦
侍
仍
注
状
請
た結論である。しかし、前述の田中忠雄さん
高 田 駅 家 封 戸 牧 田 連 麻 ︵
呂 戸
□ 口
□ か
︶
丸 部 虫 麻 呂 五 歳
廾
鳥兜残欠裏張りの古文書 高田駅・牧田などの字が見える
の見解は、上に紹介した高田駅家関係の資料
が丹後とは直接間接の関係がないところか
ら、最終的な文書の留め置き場所を但馬国衙
と考え、したがって、鳥兜の製作も但馬国衙
で行われたとみている。
田中さんが気にかけ、わざわざわたしに見
学するように勧めてくれたのは、上に説明し
た彼の見解と、「芯が柳製」と一般に伝えら
れていたためであり、彼自身、実際に見学し
たことでたいへん興奮したからであった。
問題はここから先。とはいっても別に大発
見があったというのではない。以下、但馬と
の関係でいくつかの点についてふれておきた
い。
之先生による論文ではじめて本格的に紹介さ
正倉院の杞柳製品
れた。
その後、但馬や兵庫県の関連の資料(冊子)
正倉院杞柳製品は但馬産ではない?
正倉院
に掲載されるようになったが、その1枚の全
には正倉院御物として、多数の文物が伝来し
文は上のとおりである。今はこの文献の説明
ており、但馬に関係した古文書もいくつか知
が大事というわけではないが、いますこし古
られている。しかし、直接但馬で作ったこと
文書関係の説明をしておこう。
が判明している品物が伝わっているという話
鳥兜の説明
さて、鳥兜は地(芯)となるも
のに、アシギヌという布を被せて作成したも
のだが、頭に被るためや補強の意味で、裏に
反故紙を用いるので、この反故紙が歴史資料
になるわけだ。
はない。
たしかに正倉院には柳箱(ヤナイバコ)が
伝世されてきており、希望的見方として、
「正倉院蔵の柳箱(ヤナイバコ)は、但馬か
ら献納されたもの」という考えが但馬では広
鳥兜に貼られていた文書は、このほかにも
く流布しているかに思われる。しかし、歴史
数通残されており、但馬・丹後関係が大半を
的事実として、そうしたことがあったことを
占めている。このことは、いったい何を示し
実証する資料は皆無といえよう。
ているのか。結論を先にいうと、使用されて
そういえば、今夏のカバン博のコンピュー
いる反故紙が中央政府に必要なものではな
タによる「Q&A」でも似たようなものがあ
く、但馬国、丹後国単位で処分してよい性格
った。しかし、けっして今までに正倉院の柳
の文書であり、換言すれば、鳥兜の製作の地
箱が但馬国からの進上品であることが確認さ
が但馬なり丹後である可能性が強い。そして、
れたわけでも、東大寺に納められた事実が論
上の1通を除くと、いずれも丹後に留め置か
証されたわけでもないのだ。
れた可能性の高い文書ばかりで、鳥兜製作の
地が丹後である可能性はきわめて高い。
現在、ちなみに正倉院には残欠も合わせる
と5 0合近くの柳製品があるらしい。しかし、
ここまでは、東野先生に
但馬で作られたことを示す証拠は見つかって
よってきっちりと論証された事実や述べられ
いないという。(宮内庁正倉院事務所尾形さ
田中忠雄氏の見解
ー58ー
正倉院展を見学して
んによる)
いする段取ができたところで、しかし展覧会
そこで、ふたたび鳥兜に話題を
で鳥兜の網代を見た感じが、ヤナギを「へい
戻すが、東野先生の観察では鳥兜の製法を次
だ」ものとしてはよく揃っており、材質をヤ
のように解説する。「網代の芯に反故紙で裏
ナギとした図録の記載内容にいささかの疑念
張し表に緋 を張った二枚の飾板を左右から
があったことを思い出した。
鳥兜の材質
合わせて紫綾の丸文と覆輪をつけたものらし
く、現在は破損した片面だけを存する」と。
ここでは写真観察によるためか、「網代の
専門家が書いたものを信頼しないわけでは
なかったが、念のため前述した尾形さんに電
話して、最新の材質調査の結果を尋ねてみた。
芯」とのみ表現されており、その材質には及
正倉院では宝物の材質調査を何度か実施して
んでいない。それが今回の展覧会図録では、
おり、当該鳥兜についても昭和50年代後半に
はっきりと「芯はヤナギを網代に編み」と表
行われ、『正倉院年報』にはその結果が掲載
現されており、柳を割って網代に組み上げて
されている。コピーを送っていただいて、
芯としていることを説明した文章となってい
る。
但馬産説強まるか?
「やはり」と思った。そこには、「網代の芯は
柳とされていたが、ヒノキの材を板目裂きに
ということになると、
した経木と思われる。」とあるではないか。
いままで製作地が不明であった正倉院所蔵の
こうして、まわりまわって得られた結論は、
柳関係資料のうち、その一部が但馬もしくは
くだんの鳥兜、製作地は丹後もしくは但馬で
....
ある可能性はきわめて高いものの、ヤナギ製
....................
品ルーツの但馬なり丹後説はとりあえず露と
......
消えていった。今後の新発見を期待したい。
丹後で製作された可能性がでてきたわけで、
今まで希望的な想いを込め、さらには強引に、
根拠の薄弱なまま「正倉院にある柳箱は但馬
産」というまことしやかな説であったものが、
それにしても、加賀見省一さん、田中忠雄
やや可能性をもって語れる状況が生まれつつ
さん、正倉院展が閉幕してたいへんな時期に
あったと言えるかもしれない。
無理をお願いした正倉院事務所の尾形充彦氏
しかし、誤解のないように付言するが、上
にはお世話になった。但馬の柳のルーツには
の考えは鳥兜が丹後で製作されたという前提
今後とも気にかけ、探索を続けていくことで
での考え方であり、だとすれば鳥兜の芯に使
ご好意に報いたい。
用されたヤナギの網代は、丹後なり隣国の但
馬で調達された可能性があるというもので、
まだ、正倉院蔵の柳製品全般が丹後なり但馬
で製作されたとは断言できないのである。
ともあれ、今回の展示と図録の刊行は、但
馬がそして豊岡が全国に誇る柳製品の技術
.........
が、ことによるとすでに奈良時代のむかしに、
....................
丹後なり但馬で確立されていた可能性を示唆
..
する ものとして注目して良いように思われ
る。
どんでん返し
実は、ここまで記事を書き、市の印刷担当
者に15日の刊行日に間に合うよう印刷をお願
鳥兜残欠裏張りの絵画 鳥兜職人の落書きか
ー59ー
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