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バーリンとテイラーにおける 「自由」概念の差異 On Difference between

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バーリンとテイラーにおける 「自由」概念の差異 On Difference between
異文化 17
〔論文〕
バーリンとテイラーにおける
「自由」概念の差異
―多元性を擁護する「自由」にかんする比較思想的考察
On Difference between Liberty of
Berlin and That of Taylor
―Comparative Thoughts on Liberty which Protects Plurality
法政大学国際文化研究科博士後期課程
釜土詳二
KAMADO Shoji
目次
1.はじめに―現代における自由の問題
2.自由の消極的/積極的概念―バーリンの政治的自由論
3.消極的自由の擁護―積極的自由の政治的転換に対する防波堤
4.自由の機会/行使概念―テイラーによる自由概念の再定義
5.自己実現の擁護―人間論の観点からの「純粋な消極的自由」批判
6.おわりに―自由論を基礎づける人間学に向けて
1.はじめに―現代における自由の問題
本稿は、アイザィア・バーリンとチャールズ・テイラーにおける「自
由」概念の差異を比較思想的な観点から考察することを通じて、価値
の多元性を擁護しうる自由の条件を明らかにすることを目的としてい
る。とりわけ、両者の「自由」概念の差異を摘出するに当たっては、バー
リンの論文「二つの自由概念 1」、および、それに対するテイラーの論
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文「消極的自由の何が間違っているか 2」に焦点を絞って論じること
にする。
まず、
「自由」と「価値の多元性」という問題を論じる背景には、
筆者の次のような問題意識がある。現代社会において、「自由」の問
題が取り上げられる文脈のひとつに、「宗教と民主主義の共存」とい
う問題がある。例えば、2015 年 1 月 17 日のシャルリー・エブド襲撃
事件は、民主主義的な「表現の自由」と「テロリズム」の対立と捉え
られる傾向にあるが、実際には、
「表現の自由」と「信教の自由」の
対立の事例と見ることができる。シャルリー・エブド紙は、「表現の
自由」を盾に、しばしばムハンマドの風刺画を描いてきたが、イスラ
ム教を侮辱するこのような「自由」が、ムスリムの信仰を侵害するも
のであったことは事実である。また、一部の過激派とイスラム教を同
一視することはできないとはいえ、公然たる侮辱の結果、テロによる
報復を招いたのは明らかである。もちろん、残虐なテロ行為が許され
ないのは当然であるが、マスコミによる宗教的風刺画の出版は、フラ
ンス社会におけるイスラム教の「歪められた承認 3」を意味し、事実
上の「信教の自由」の侵害を意味しているのではないか、と問うこと
はできるだろう 4。「表現の自由」を盾に、人間の実存の根幹にかかわ
る重要な「価値」を侵害する自由は認められるのか。むしろ、「表現
の自由」を盾にした攻撃から、「信教の自由」は守られるべきとはい
えないか。この点、擁護すべき「自由」とは何かという問いが存在す
るといえる。先進諸国を中心に世俗化が進展する一方で、世俗化の進
展に抗する宗教勢力の重要性も増す現代社会においては、世俗と宗教
の共存、宗教的複数性を担保する民主主義の原理が問われうるのである。
このような「宗教の重要性」がいや増す現代社会を、ハーバーマス
は、
「ポスト世俗化社会」という言葉で特徴づけ、
「宗教的市民」と「世
俗的市民」の公共圏における対話の重要性を指摘している 5。宗教的
市民は、公共圏において、宗教的言語を世俗的言語に翻訳する必要が
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あると同時に、世俗的市民は、宗教的言説に対して偏見を持たない態
度、
宗教的差異に対する「寛容の精神」が必要であるとする。ハーバー
マスにとって、自由の問題は、コミュニケーション的行為に基づく合
意形成を意味している。彼の戦略の当否については、ここでは問わな
いが、少なくとも、彼の言説に従うならば、シャルリー・エブド紙は、
世俗と宗教の共存という問題に対して、「寛容の精神」を欠いていた
と見なされるだろう。したがって、
「ポスト世俗化社会」において「自
由」を論ずるに当たっては、世俗と宗教の共存という問題も含めて、
価値の多元性を擁護する自由の特徴を問う必要がある、というのが筆
者の認識である。
それでは、バーリンとテイラーの「自由」概念の差異を取り上げる
意味は、どのような点にあるのか。バーリンの論文「二つの自由概念」
は、1958 年の教授就任講演がもとになっているが、
「二つの自由概念」
における自由の消極的/積極的区別は、その後の政治的自由論に多大
な影響を与え、自由論における古典的議論としての位置づけを確立し
ている。一方、上記の講演は、東西両陣営の冷戦という当時の政治的
背景をもとに全体主義体制の復活を危惧するバーリンが、リアル・ポ
リティックスの趨勢を見据えた上で行った議論であり、当時の政治的・
時代的状況の制約を負っていることも事実である。そのため、政治的
自由論の文脈では、バーリンによる消極的自由の擁護/積極的自由の
批判という立論に対して、様々な議論が行われている。例えば、「共
和主義的自由」の立場からは、自由な国家なしには個人の自由はない
として、マキャベリに依拠するかたちで積極的自由を擁護するスキ
ナーや、消極的自由の概念をより精緻に議論しているペティトがい
る 6。また、承認論の文脈では、ホネットが、消極的自由は「文化的
帰属性」という積極的自由を前提としていると論じている 7。
ただ、筆者の見解では、価値の多元性を擁護する自由を論じる場合、
政治的自由についての議論だけでは十分ではなく、自由の担い手であ
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る人間についての議論、すなわち、
「人間とはいかなる存在であるのか」
という人間観にかんする問いも必要不可欠である。なぜなら、人間の
自由は、各人にとって重要と見なされる価値の実現を目指すものであ
る以上、自由における実現すべき価値の地平を問うことなしに十分に
論じることはできないからである。この点、テイラーの論文「消極的
自由の何が間違っているか」は、バーリンの政治的自由に対し、哲学
的人間学の立場からの批判として重要な論点を含んでいる。「擁護さ
れるべき自由とは何か」という問いに回答するに当たって、今なお重
要な視座を含んでいる、というのが筆者の見解である。
以上の問題意識に基づき、本稿では、以下の順序に従って考察する。
第一に、バーリンの「二つの自由概念」における「自由」概念の特
徴を考察し、バーリンが「積極的自由」の何を、どのような点におい
て批判しているのか、そして、
「二つの自由概念」の下で考察してい
る問題の射程がどの範囲にまで及ぶのかを明らかにする。第二に、テ
イラーの「消極的自由の何が間違っているか」における「二つの自由
概念」批判の内容の考察し、テイラーがバーリンの「自由」概念の何
を、どのような点において批判しているのかを明らかにする。このよ
うな検証作業を通じて、多元的価値を擁護しうる自由の条件のなかに、
人間における存在論的な価値の地平に対する洞察が必要であり、政治
的自由論は、哲学的人間学によって基礎づけられる必要があることを
明らかにする。
なお、筆者は、自由論における真の課題は、複数的自由・多元的価
値における相互承認や調停の原理にこそあり、具体的には、合意形成
の前提を担保する「共通善」にかんする議論が必要と考えている。こ
れらの問題については、別の機会に論じたい。
2.自由の消極的/積極的概念―バーリンの政治的自由論
本節では、まず、バーリンの論文「二つの自由概念」における自由
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概念の定義と射程を明らかにする。バーリンは、自由概念を、政治的
な意味に限定した上で、政治的自由を「消極的自由」と「積極的自由」
に 大 別 し て 論 じ て い る 8。 政 治 的 自 由 は、「 服 従 と 強 制 の 問 題 the
question of obedience and coercion9」として論じられてきたものであり、
政治学の領域では、この問題を巡って、二つの「自由」観が対立し合っ
てきたとされる。したがって、二つの自由概念の定義は、「服従と強
制の問題」にかんする各々の問いに対する回答のかたちで行われる。
第一に、
「消極的自由」は、以下の問いに対する回答によって定義さ
れる。
主体 subject が―個人であれ、集団であれ―他の人々によっ
て干渉されずに、自分のなしうることをなし、自分がありうる
ものであることを放任されている、あるいは、放任されるべき
範囲 area は何であるか 10。
「消極的自由」は、主体 subject が、他の人々によって干渉されずに
行為・存在しうる「範囲 area」にかんする問題である。消極的自由が、
「範囲」にかかわる自由である以上、他人から干渉される範囲が少な
くなればなるほど、いっそう自由であることを意味する。自由の度合
いは、他人からの干渉の度合いという消極的 negative な意味から測ら
れる。すなわち、「自由の擁護 the diffence of liberty とは、干渉を防ぐ
という「消極的」な目標 the negative goal に存する 11」のである。し
たがって、消極的自由は、「∼からの自由 freedom from」として特徴
づけられる。バーリンによれば、このような自由は、例えば、J.S. ミ
ルや、トクヴィルなどの自由主義者によって代表される見解であり、
個人における神聖不可侵な最小限度の自由の領域を確保することを目
指すものとされている。
第二に、
「積極的自由」は、以下の問いに対する回答によって定義
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される。
あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれである
こと、を決定できる支配や干渉の源泉 the source of control or
interference は何であるか、また誰であるか 12。
「積極的自由」は、複数の行為や存在のあり方のなかで、ある行為
や存在のあり方を優先して決定しうる「支配や干渉の源泉 the source
of control or interference」にかんする問題である。「対象」が自己であ
れ他者であれ、
「主体」が個人であれ集団であれ、特定の価値にかん
する積極的関与を意味する場合は、積極的自由に位置付けられる。し
たがって、積極的自由とは、「∼への自由 freedom to」として特徴づけ
られる。ただし、積極的自由の源泉は、個人における「自己支配 selfmastery」の願望に求められており 13、自己支配の願望が積極的な政治
的自由にまで拡張されるのだと主張される。
このように、
「消極的自由」が、支配・干渉されうる自由の「範囲
area」の問題として理解される一方、
「積極的自由」は、支配や干渉の
「源泉 source」の問題として理解されている。そして、バーリンによ
れば、両者の自由概念は、単なる概念上の区別に留まらない。両者は、
互いに異なる方向に展開した後、結局は、直接、衝突するに至るので
ある。
……この自由の「積極的」観念と「消極的」観念とは、それぞ
れ異なる方向に展開され、最後には両者が直接に衝突するとこ
ろまでゆく 14。
二つの自由観が衝突するのは、各々の自由が展開した後、すなわち、
積極的自由が政治的な意味を帯び、集団的支配としての特徴を備え、
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消極的自由を侵害するに至る局面である。したがって、集合的支配に
至る政治的な積極的自由から消極的自由を擁護することが、バーリン
の自由論の要点である。しかしながら、バーリンは、積極的自由の源
泉を「自己支配の願望」という心理的事実に求めている。それでは、
政治的な転換以前の積極的自由は、批判されるべきなのか。あるいは、
政治的な積極的自由だけが批判されるべきであるならば、<積極的自
由の政治的転換>はどのようにして生じるのか、を問う必要があるだ
ろう。
3.消極的自由の擁護―積極的自由の政治的転換に対する防波堤
本節では、バーリンの危惧する政治的な積極的自由の特徴と、擁護
すべきとされる消極的自由の意味を明らかにする。まず、積極的自由
の政治的転換はどのようにして生じるのか、という問いに回答する。
バーリンによれば、積極的自由の源泉である「自己支配の願望」は、
「支配する自己」と「支配される自己」という自己の二重化を前提と
しており、このような自己像の分裂は、合理主義的な形而上学と結び
ついているとされる。例えば、カントにおける理性の「自律性」や、
カント以降のフィヒテなどのドイツ観念論の思想も、積極的自由の系
譜に連なる自由論を意味する。
「支配する自己」は、しばしば「理性
reason」や、
「より高次の本性 higher nature 」、「本当の real 」、「理想的
な ideal 」、「自律的な autonomous 」、「最善の at its best 」自己と同一
視 さ れ る 一 方、「 支 配 さ れ る 自 己 」 は、「 非 理 性 的 な 衝 動 irrational
impulse」、
「統御できない欲望 uncontrolled desires」、
「私のより低い本性
my lower nature」
、
「 直 接 的 な 快 楽 の 追 求 the pursuit of immediate
pleasures」、
「 私 の 経 験 的 あ る い は 他 律 的 な my empirical or
heteronomous 」自己と同一視される 15。この「自己支配」には、次の
二つの特徴がある。ひとつは、高次の自己による低次の自己の否定・
抑圧という「自己否定 self-abnegation」の側面であり、もうひとつは、
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低次の自己を高次の自己に統合する「自己実現 self-realisation」の側面
である 16。
個人における自己支配は、人格的涵養の意味を持つ以上、端的に批
判されるわけではない。つまり、政治以前の積極的自由が問題視され
る理由はない。一方、
「支配」の対象が、他人や超個人的な集団へ転
換される場合、積極的自由の政治的転換が生じる。すなわち、個人に
おいて理性的に方向づけられた生が理想的であるならば、同様に、理
想的な社会は理性的に統制された社会である、という思想的転換であ
る 17。この場合、理性的に方向づけられた生が「本当の自由」として
設定され、それに向けて他人を統制することが強制される危険性があ
る。バーリンは、心理的事実としての支配の願望が、政治的な集団的
支配の正当化に転換することを危惧しているのである 18。
積極的自由の政治的転換において、支配や強制を正当化する「恐ろ
しい偽装 monstrous impersonation」
が生まれる。すなわち、偽装とは、
「他
人が私の自由の意味を知っている一方で、私は私自身の自由の意味を
知らない」という状況を設定した上で、「他人が、私の自由の価値を
決定しうる」という論理を導き出し、自己の「支配の源泉」を、自己
以外の第三者にすり替えることである。具体的には、次のような論理
になる。
理性的に方向づけられた生を理想とする人々にとっては、理性的な
社会においてこそ、自分たちは自律的で自由であると感じられるかも
しれない。一方、理性的な社会を望まない人々にとっては、そのよう
な社会は、他人から強制されたものと感じられるだろう。だが、前者
の理性的な人々から見れば、後者の非理性的な人々は、「本当の自由」
をまだ知らないだけである。言い換えるならば、「教育」を通じて理
性的に陶冶されたなら、いずれ「本当の自由」を知ることになるはず
である。ちょうど、教師が未熟な生徒を教導するように、彼らが「本
当の自由」を理解できるようになるまでは彼らを統制するが許される。
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以上のように、自己の二重化における自己支配の論理は、社会的な
文脈に適用されると「本当の自由=理性的な人々」による「偽物の自
由=理性的でない人々」の支配というかたちを取る。自己支配におけ
る「自己否定」の側面が、他人の自由の抑圧に対応し、「自己実現」
の側面は、上からの一元的価値観の積極的な押し付け・強制化に対応
する 19。「本当の自由」を打ち立て、それに向けて他人を統御する「こ
の恐ろしい偽装 monstrous impersonation は、……政治上のあらゆる自
己 実 現 説 の 核 心 at the heart of all political theories of self-realisation を な
。バーリンによれば、このような政治上の自己実現的な「自由観」
す 20」
の背景には、上記のように、他人によって操作された「人間観」が存
在する。自由の概念が、人間がいかなる存在であるかという見解に基
づいている以上、自由の根底にある「人間観」に操作が加えられたな
らば、自由の意味も恣意的に変更することができる。
こ の こ と が 証 明 し て い る の は、 …… 自 由 観 conceptions of
freedom が、自己・個人・人間を構成しているものは何かとい
う見解 views of what constitutes a self, a person, a man に、直接、由
来しているということである。人間の定義にあれこれ操作を加
えれば、操作するひとが願うことは何であれ、その通りの意味
を自由に与えることができるわけである 21。
バーリンにとって、政治上の「自己実現」は、「自己支配の願望」
に由来し、「他人の支配」に帰着するものである。「自己実現」を「自
己支配の願望」に求めている以上、彼の自由観の背後にある人間観も、
事実認識において悲観的な見解に基づくものである。人間観の恣意的
な操作によって、自由の意味を任意に設定しうるとすれば、人間観に
ついて解釈を加えることすらも禁欲されるべきであることになる。自
分にとって重要な価値が何であるかを、第三者が判断することはでき
111
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ない。私の自由は、私の自由であるべきであり、第三者が判断すべき
事柄ではない。この見地からすれば、擁護されるべき自由とは、「個
人の権利」であり、
「消極的自由」と「個人の権利」は同義である。
したがって、
「個人の権利」は、積極的自由から擁護されねばならない。
なぜなら、集団的支配に結びつく「積極的自由」が強大である一方、
個人の権利を意味する「消極的自由」は脆く、簡単に侵害されてしま
うからである。
バーリンによれば、十九世紀前半の自由主義思想家たちは、「消極
的自由」が容易に侵害されてしまうことを自覚していたからこそ、個
人の神聖不可侵な権利を守る上で、
「絶対的な足掛かり absolute stand」
となる理論(自然権、自然法、
「功利の原理」など)を必要としたと
「最小限度の個人的自由の不可侵性に対する真正の信仰は、
される 22。
このような何らかの絶対的な足掛かり absolute stand を必要とする 23」。
バーリンが、「個人の権利」を保護するための原理(「絶対的な足がか
り」
)として認めているのは次の二点である。
第一の原理は、
「権力ではなく、権利のみが絶対的と見なされうる
no power, but only rights, can be regarded as absolute24」ことである。
第二の原理は、人間の内部における神聖不可侵の領域に対する境界
線は、人為的に定められるものではなく、歴史的に受け入れられた規
則によって定められているとする原理である 25。
以上の原理によって、バーリンは、積極的自由から消極的自由を擁
護する立場を明確に主張する。第一の原理によって、いかなる権力で
あれ、個人の権利を侵害することは許容されない。第二の原理によっ
て、個人の権利は、人為的に侵害されうるものではないとされる。
このような自由観の背景に、対立や抗争を前提とする「人間観」が
存在することを容易に見て取ることができる。二つの自由観の対立は、
人々の間の対立や個人と国家の対立を前提としている。「消極的自由
=個人の権利」が脆く壊れやすいものであり、「積極的自由=集団的
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権力」が強大である以上、「消極的自由=個人の権利」は常に擁護さ
れるべき価値として想定される。バーリンにとっては、「権利を擁護
する」ことが重要なのであって、
各々の自由の「内実」は考慮されない。
「個人の権利」が絶対的な価値である以上、複数の価値の間におけ
る対立も統合されるものではない。バーリンは、複数の価値の間にお
ける対立を観念的に統合しようとする形而上学に批判的である。諸価
値の統合という観念は、理性による自己支配の願望に基づく積極的自
由の発展形態である。各々の価値は、それ自体が、かけがえのない絶
対的価値である以上、人間は、各々の価値の間で、絶対的な選択を迫
られている。
「要するに、人間は究極的な諸価値の間で選択する 26」。
かくして、相互に和解不可能な絶対的価値を擁護する根拠として、個
人における不可侵の権利という私的自由の最低限度の領域を確保する
ことが、バーリンにとって譲れない境界線を意味する。バーリンの論
点においては、「積極的自由=集団的支配」から、「消極的自由=個人
の権利」の「範囲」を擁護することが、複数的価値の共存を可能にす
る自由の条件である。
以上、バーリンの消極的自由の擁護/積極的自由批判の立論に対し
ては、次の疑問を提示することができる。
①「政治的な」積極的自由の源泉を、
「自己支配の願望」という「心
理的事実」に求めることは妥当か。
②積極的自由の源泉は、
「自己支配の願望」だけに還元できるものか。
③政治的転換以前の自己支配や自己実現は、肯定的に評価されるべ
きではないか。
④人間における自由の問題を論じるに当たっては、個々の自由の具
体的な内実や自由の質的区別をも考慮する必要があるのではないか。
まず、①については、筆者は、政治的自由が自由の担い手である人
113
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間にかんする問いを離れては論じることができないことの証左として
理解する。バーリンにとっても、政治的自由は彼の人間観に根差して
いる。次に、②については、積極的自由を「自己支配の願望」に還元
する戦略は、バーリンの人間観に基づくものであるが、その人間観の
妥当性を問う必要があると考える。対立や抗争を前提とする人間観に
よって基礎づけられる自由は、人間の自由を十分に表現できているの
だろうか、と問うことができる。③や④については、②から派生する
問題であり、筆者は、人間における自由は、自由の質的区別や多種多
様な価値の側面を考慮する必要があると考える。人間が多種多様な目
的の実現を目指す存在である以上、自由の質的な区別を考慮すること
なしに擁護すべき権利の意味も考えられないのではないだろうか。こ
れらの問題を巡って、テイラーがどのように反論しているかを次に検
討することにしよう。
4.自由の機会/行使概念―テイラーによる自由概念の再定義
本稿では、テイラーの論文「消極的自由の何が間違っているか」か
ら、テイラーによるバーリンの自由論批判の要点を検証する。
テイラーは、バーリンの「二つの自由概念」における自由概念の区
別を、一応は認めつつも、これらの自由観が「極端なカリカチュア」
として捉えられる傾向がある事実を指摘する。実際の自由のあり方は、
極端な積極的自由/消極的自由の形態を取るわけではない。
第一に、「積極的自由」の極端なカリカチュアは、「積極的自由」が
批判される文脈において、共産主義社会における左翼的な全体主義に
よる集合的支配が念頭に置かれることが多い点にある。だが、実際に
は、国家による積極的な政策があっても、個人の自由が保証されてい
る社会は存在する。積極的自由の批判がなされる場合、このような事
実が度外視されて、単に極端な政治形態だけが強調されがちであると
される 27。
114
異文化 17
第二に、
「消極的自由」の極端なカリカチュアは、自由の特徴を「外
的な障害物の欠如」だけに限定し、それ以外の内的な要因を認めてい
ない点にある 28。この場合、単に、外的・法的な障害が存在しないこ
とのみをもって自由と見なされる。
このように二つの自由観が極端なかたちで論じられる傾向があるこ
とは、自由の消極的/積極的概念という区別が、現実における自由の
あり方を適切に分節化できていないことを意味している。したがって、
テイラーは、二つの「自由」概念を、別の概念を用いて再定義する。
す な わ ち、
「 積 極 的 自 由 」 と は、 本 質 的 に、 自 由 の「 行 使 概 念 an
exercise-concept」を意味し、「消極的自由」は、自由の「機会概念 an
opportunity-concept」を意味しているとされる。まず、「積極的自由=
行使概念」は、次のように定義される。
積極的自由の教説は、本質的に、あるひとの生を統御すること
the exercising of control over one s life にかんする自由の見解に関係
している。この見解においては、ひとが、実際に自己決定した
範囲、自己の生を形成した範囲内でのみ自由である。ここでは、
自由の概念は、行使概念 an exercise-concept である 29。
積極的自由の本質とは、人生を統御することであり、積極的自由の
範囲は、実際に生を統御した範囲にある。次に、「消極的自由=機会
概念」は、次のように定義される。
こ れ に 対 し、 消 極 的 自 由 の 諸 理 論 は、 た だ 機 会 概 念 an
opportunity-concept に依存している。機会概念において、自由
であるとは、私たちに何ができるか、私たちに何をすることが
開かれているか、私たちはこれらの選択肢を行使するかどうか、
という問題である 30。
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消極的自由の概念は、自由を行使する可能性が開かれているかどう
か、という自由を行使する「機会」の問題を意味する。この点、バー
リンによる消極的自由の定義と同様に、機会概念の本質は、「障害物
が存在しない」ことにあるとされるが、テイラーは、自由の機会を「外
的な障害物の欠如」だけに限定しない。「恐怖心」などの「内的な障
害物」も考慮に入れる必要があるとする。一方、極端な消極的自由(あ
るいは、純粋な消極的自由)の理論は、自由の意味を「外的な障害物
の欠如」に限定し、自由を妨げる「内的な要因」を看過している。テ
イラーは、このような「極端な消極的自由」の理論を、「ホッブズ・
ベンサム的概念 Hobbes-Bentham concept31」と位置づけている。「ホッ
ブズ・ベンサム的概念」と位置づけられる理由は、自由の前提にある
人間観が、敵意と不信に基づく闘争状態として仮定されている点や、
法律と自由が対立関係に置かれており、自由の行使にかかわる動機の
質的区別が考慮されていない点にあると考えられる。逆に言えば、テ
イラーの立論の特徴は、人間観を、諸欲求の闘争状態に矮小化せず、
より大きな枠組みのなかに位置づけている点や、自由の行使にかかわ
る動機や目的に質的区別を認めている点にある。
しかし、もし、私たちが、自由について、私たち自身のパター
ンに従って、自己充実や自己実現の自由のような何かを含めて
考えるならば、私たちは、外的な障害物 external obstacles だけ
ではなく、内的な要因 inner reasons のために失敗しうる何らか
のものを持っているのは明らかである。私たちが、自分たちの
自己実現を遂げられないのは、外的な強制 external coercion の
ためばかりではなく、内的な恐れ inner fears や間違った意識
false consciousness を通じてでもある 32。
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テイラーは、動機や目的における質的区別を認める見地から、人間
にとって重要な目的の実現を意味する「自己実現 self-realization/selffulfillment」の側面を重視する。バーリンは、
「自己実現」を「自己支配」
の特徴のひとつと考え、
「消極的自由」と対立する「積極的自由」と
見なしていた。一方、テイラーは、人間における「自己実現」の重要
性を強調し、自己実現においては、自由の「行使」が、自由の「機会」
を擁護するために必要なものと見なしている。言い換えるならば、
「消
極的自由」は「積極的自由」を前提としていると見なす。
なぜ、自己実現においては、自由の「行使」が「機会」を擁護しう
るのか。その理由は、前述のとおり、
「内的な障害物」が、私たちの「自
己実現」を妨げることがあり、内的な障害物を取り除くには、積極的
な自由の行使を必要とする、という事実にある。例えば、恐怖心によっ
て身動きが取れなくなっている場合、多くの人々の前で講演をしたい
という自己実現の願望が、失敗への恐れによって妨げられている。つ
まり、心理的な要因によって自由の機会が奪われている。この場合、
自由の「機会」を得るには、恐怖心を、例えば「自制心」などによっ
て理性的に統御する必要があるだろう。「自制心」は、バーリンが「自
己支配」と見なした「積極的自由」の特徴である。だが、この意味に
おける積極的自由は、消極的自由を侵害しているのではなく、むしろ
擁護している。この観点から、
「純粋な消極的自由=機会概念」は、
そもそも擁護することが不可能であると指摘する。
したがって、自己実現という自由にとって、自由である機会を
持つこと having the opportunity to be free は、私が既に自由を行
使していること that I already be exercising freedom を必要とする。
純粋な機会概念というものは、ここでは不可能なのである 33。
テイラーが、
「二つの自由概念」を「機会/行使」概念に定義し直
117
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した背景に、人間の自由にとっては、両者は分かちがたく結びついて
おり、
一方から他方を切り離すことはできないという理解が存在する。
「行使」を伴わない「機会」だけの自由というのは現実には存在しない。
私たちが自由を評価する場合、それは実際に自由を行使することを含
意しているからである。自由を「消極的自由」と「積極的自由」とい
う極端なかたちに区別すれば、まるで二つの別個の自由が存在し、両
者が対立し合っているかのように見えるが、それらは必ずしも現実の
自由のあり方に即しているわけではない。テイラーは、自由概念を「機
会概念」と「行使概念」とに分節化し直すことで、人間的自由を現実
のなかに位置づけ直し、
「自己実現」という自由に着目することによっ
て、両者の補完的な関係を強調していると考えられる。すなわち、自
由の「消極的=機会/積極的=行使」概念は、対立し合うのではなく、
相互に補完し合う関係にある。
このように、テイラーの立論は、
「純粋な消極的自由」に対する批
判と、
「自己実現」の擁護というかたちを取って行われる。
5.自己実現の擁護―人間論の観点からの「純粋な消極的自由」批判
バーリンによれば、
「積極的自由」が「消極的自由」を侵害する契
機は、積極的自由の「政治的転換」
(第三者が「本当の自由」の決定
者となりうること)にあった。本節では、上記の問題に対して、テイ
ラーがどのように「自己実現」を擁護しているかを検討する。
テイラーは、第一に、擁護すべき自由を「純粋な機会概念」に限定
する戦略が、人間の持つ自由領域を狭める危険性があることを指摘す
る。テイラーも、バーリンと同様に、一元的な価値観の押し付けに抗
して、多様な価値観や個人の自由を擁護する立場にあることは変わら
ない。その上で、テイラーが、消極的自由を批判する文脈は、敢えて
「純粋な機会概念」擁護の戦略を取ろうとすれば、むしろ、自由の領
域を「積極的に」狭める可能性がある、という点にある。テイラーは、
118
異文化 17
この「純粋な機会概念」を擁護する精神性を「マグネット線メンタリ
ティ Magnet Line Mentality」
(自由の最終防衛ラインだけを守ろうとす
る消極的な精神性)と言い換える。最低限度の自由だけを死守しよう
とする戦略では、もっと広範な自由の領域であり、多種多様な価値の
実現を目指す「自己実現」は擁護できない。上記の戦略では、明確な
目的をもって自由を侵害しようとする敵に対して、神聖不可侵な個人
の権利は死守する一方で、それ以外の自由の領域を譲り渡してしまう
可能性があるからである。それは結局、人間の自由の領域を狭める戦
略である。したがって、擁護すべき自由を「純粋な機会概念」だけに
限定することが、かえって「実際に敗北を確実なものとしてしま
。一方、より広範な自由の領域である「積極的自由」を擁護し
う 34」
ようとすることは、むしろ消極的自由を擁護することにつながる。
テイラーは、第二に、
「積極的自由」を「支配の観念」だけに結び
つけることの問題点を指摘する。積極的自由の源泉は、自己支配の願
望だけに求められるわけでもないし、必ずしも集団的支配に結びつく
わけでもない。むしろ、このような見解が、自由の行使概念をミスリー
ドしており、行使概念の扱う領域を矮小化していると反論する。テイ
ラーによれば、自由の行使概念は、自己支配の願望や形而上学に源泉
を求める発想よりも、いっそう広い領域を担うものであり、人間が意
義ある生を求めて生きる目的的な存在であるという事実に基づく。具
体的には、次の二つの問題によって特徴づけられる。
自由の行使概念を特徴づける問題は、第一に、動機や目的における
重要性の違いである。人間が自由を行使する際、複数の動機や目的の
間で重要性の違いを評価している。テイラーは、動機や目的に意義(重
要性)があることを「重要性の帰属 import-attributing35」として特徴づ
け、 重 要 な 動 機 や 目 的 に 基 づ く 価 値 判 断 を、「 強 い 評 価 strong
evaluation36」と呼んでいる。すなわち、人間は、自由を行使する際、
意義にかんする背景的な枠組みに従って、動機や目的の「質的区別」
119
異文化 17
を考慮しているのである。
自由の行使概念を特徴づける問題は、第二に、人間主体が自己の自
由にかんする「最終的な決定者 the final authority/arbiter」であるかと
いう問いに存する。これは、
「事後的な判断 second-guess37」、すなわち、
自己の欲求や目的にかんする判断の間違いを、「後から評価し直す」
可能性を認めるかどうかの問題と言い換えられる。人間は、最初から
自分の本当の欲求や自由を必ずしも知っているわけではなく、動機や
目的にかんして様々な質的区別を行うからこそ、自分にとって「何が
重要であるか」という判断を間違いうる。ただ、間違って評価するこ
とがある一方で、評価を後から訂正することもできる。つまり、人間
は、意義ある生を求めて生きる過程において試行錯誤を繰り返し、自
己認識を深めていく存在である。自己の自由を再評価するからといっ
て、必ずしも集団的支配の正当化につながるわけではない。
自由の行使概念を特徴づける二つの論点は、人間主体にかんするテ
イラーの理解に基づいているが、まずは、第一の「動機や目的におけ
る重要性の違い」という論点について確認する。
テイラーによれば、人間は、複数の動機や目的の間で重要性の違い
を評価しているが、純粋な機会概念の理論は、この点を考慮していな
い。例えば、テイラーは、
「交通規制」と「信教の自由」における「自
由の侵害」の違いを例に取って説明する。交通規制は、法的・物理的
な「自由の制限」を意味するが、通常、私たちは、交通規制を自由の
侵害とは見なさない。交通規制の目的は、交通事故を防止し、私たち
の「生命の安全」を守ることにあるからである。交通規制によって制
限される自由は、重要性の低い、取るに足らない自由である。「哲学
的議論においては、私たちは、これを自由の制限と呼ぶのかもしれな
いが、真剣な政治的議論ではそうではない。なぜなら、あまりにも取
るに足らない too trivial38」からである。私たちは、交通規制による「自
由の制限」よりも、むしろ、自分の愛する子供が交通事故にあって命
120
異文化 17
を失うことのほうを恐れる。この場合、「私たちがトレードオフして
いると感じるのは、安全に対する利便性である 39」。交通規制によっ
て制限される自由は、生命の安全を守るという目的に比べれば、重要
度の低いものである。
一方、
「信教の自由」の侵害は、交通規制よりもはるかに甚大な意
味を持つ。というのも、宗教的な信仰は、人間にとって、遥かに重要
度の高い価値であるからである。
二つの事例の間では何が違うのか。理由は、明らか過ぎて理解
しづらいのだが、ある活動や目標は人間にとって重要度の高い
ものとして、あるいは重要度の低いものとして、そのような活
動や目標にかんする背景的理解 a background understanding を私
たちが持つからである。あるひとの宗教的信仰 One s religious
belief は、たとえ無神論者によってであっても、特別に重要な
ものとして認識される。なぜならば、宗教的信仰によって、信
仰者 the believer は、自らを道徳的存在 a moral being であると明
らかにする define からである 40。
人間は、
「目的を持つ存在 purposive beings」であり、自由を行使す
る際、動機や目的の質的区別にかかわる「背景的理解 a background
understanding」に基づいて判断を行っている。宗教的信仰が、自らを「道
徳的存在」であると表明・定義することである以上、信仰は、人間の
「背景的理解」に属する深い価値である。「交通規制」が、法的・物理
的な自由の制限である一方、
「信教の自由の侵害」は、内心の自由の
侵害に及ぶ。この点、人間主体のアイデンティティを根底から否定す
る自由の侵害を意味している。動機や目的に重要度の違いがある以上、
自由にも重要度の違いがある。
121
異文化 17
したがって、動機の間で何らかの区別を行うことは、私たちの
自由の概念にとって本質的である。……自由が私たちにとって
重要であるのは、私たちが、目的を持つ存在 purposive beings だ
からである。しかし、そうであるなら、様々な目的の重要性に
おける違いに基づく、様々な種類の自由の重要性における違い
もなければならない 41。
自由に質的な違いがある以上、自由の機会も同じではない。「あら
ゆる機会が同じ equal というわけではない 42」のである。
次に、自由の行使概念を特徴づける第二の論点(人間主体が、自己
の自由にかんする「最終的な決定者」であるかという問い)について
検討する。第二の論点は、第一の論点を踏まえた上で、より深い人間
主体についての考察に基礎を置いている。すなわち、テイラーは、人
間における自由の問題を「本当の自己とは何か」というアイデンティ
ティにかんする問題に立脚するものと見ている。言い換えるならば、
自由は、
「私が私自身である」という感覚に根差すものである。この
ような自己感覚に根差す自由は、ある種の欲求を「束縛 fetter」、すな
わち、
「自由の喪失」と感じる経験から理解できる。「私たちは、ある
欲求を束縛として経験しうる。なぜなら、私たちはそれらを自分たち
ではないものとして経験しうるからである 43」。例えば、自分や家族
の健康のために禁煙を望むひとが、煙草を吸いたいという強い欲求に
駆られる場合、喫煙の欲求は、
「束縛」として感じられるだろう。そ
して、喫煙の誘惑に屈するならば、そのひとは、自信、家族からの信
頼、健康など、自己を構成している大切な要素を失うことになる。一
方、誘惑に打ち勝つならば、自分にとって本当に大切なものを守り通
したと感じるのではないだろうか。本当に大切な自由は、
「欲求の強さ」
ではなく、動機や目的の意義によって測られるものであり、人間主体
のアイデンティティを保護するものである。「私たちにとって本当に
122
異文化 17
重要なことは全て、安全が保護されているもの safe-guarded であるだ
。
ろう 44」
「欲求の強さ」という尺度は、人間の自由を特徴づけるのに十分で
はない。むしろ、私たちを束縛する強い欲求や感情、例えば、「非理
性的な恐れ irrational fear」
、
「敵意 spite」、「あまりに強い安楽への欲求
too great need for comfort」などは、「自由の否定 a negation of freedom」
でさえある 45。一方、重要さについての価値判断は、「各々の欲求の
。テイラーによれば、このような意
強さから完全に独立している 46」
義ある自由を特徴づけるのは、むきだし brute の「第一段階の欲求
first-order desires」ではなく、それらの「欲求にかんする欲求 desires
about desires」
、すなわち、
「第二段階の欲求 second-order desires」であ
る 47。意義ある自由は、直接的な欲求や感情に従うことではなく、こ
れらの欲求を評価することによって可能となる。とはいえ、人間主体
が、様々な欲求の間で葛藤しつつ選択するという事実は、自らの欲求
や感情、目的、そして、本当の自由についての評価を間違いうること
をも意味している。
……私たちが見て取る必要があるのは、私たちの情緒的な生
our emotional life が、 大 部 分、 意 義 の あ る 欲 求 や 感 情 importattributing desires and feelings から成り立っていること、つまり、
私たちが間違って mistakenly 経験しうる欲求や感情から成り
立っていることである 48。
自己認識を過つ可能性があるという点において、人間は、自己にか
んする「最終的な決定者 the final arbiter」ではない。ただし、たとえ
間違ったとしても、後から評価し直すこと second-guessing はできる 49。
そして、この見地から、人間の自由は、自己についての深い理解を要
するのである。というのも、自由の問題は、「私がもっと重要な目的
123
異文化 17
を十分に認識できることや、動機づけにおける束縛 my motivational
fetters を克服しうるか、あるいは、少なくとも無効化しうる 50」こと
に関係しており、そうである以上、自らにとって「何が重要であるか」
という理解を前提としているからである。自己理解には、実際に自由
を行使し、間違いに気づき、それを評価し直すという過程を必要とす
る。そのような過程を経ることによって、人間は、自己認識を深める。
「本当に、あるいは、十分に自由であるためには、私は自己理解 selfunderstanding を実際に行使しなければならない 51」。したがって、人
間 の 自 由 は、「 自 己 洞 察 self- clairvoyance」 や「 自 己 認 識 selfunderstanding」を前提条件としており、意義に関する背景的理解がな
ければ、自由も意味をなさないのである。
私たちの自由の特質 attributions は、多かれ少なかれ、重要な諸
目的にかんする背景的な意義に対して意味をなしている。なぜ
なら、自由か/自由ではないかという問題は、私たちの諸目的
を抑圧するか/実現するかということに緊密に結び付いている
からである 52。
人間が、意義にかんする背景的理解を持ち、意義ある生を求めて生
きる存在である以上、人間の自由とは、各人にとって重要な目的の実
現を意味する。したがって、人間の自由を理解する上では、人間につ
いての深い理解や考察を必要とする。この点、自由論は、人間学の上
に築かれる必要があるといえよう。
これまでのテイラーの議論を要約するならば、次のようにいえる。
第一に、自由の行使を伴わない「純粋な機会概念」は不可能である。
第二に、積極的自由が必ずしも消極的自由の侵害につながるとはい
えないが、擁護すべき自由を「純粋な機会概念」に限定する戦略は、
消極的自由の侵害につながる。
124
異文化 17
第三に、積極的自由を「支配の観念」だけに結びつけることは、ミ
スリードである。自由の行使概念の問題は、むしろ人間が動機や目的
の質的区別を行う存在であるという事実に存する。「純粋な機会概念」
説は、この点を看過している。
第四に、意義ある生を求める存在である人間が、動機や目的の質的
な区別に基づき、複数の欲求の間で葛藤しながら自由を行使する存在
である以上、自己の欲求や目的、自由にかんする評価を間違う可能性
がある。一方、人間の特徴は、間違いを訂正し、自己の欲求や目的、
自由を再評価しうるという点にある。したがって、人間の自由は、深
い自己理解を前提としてはじめて達成されるものである。
バーリンとテイラーの違いは、次の点にある。バーリンは、「自己
支配の願望」が集団的支配という政治的な意味に転換する危険を危惧
する一方で、テイラーは、動機や目的に質的区別が存在するという観
点から、積極的自由の源泉を「自己支配の願望」だけに求める発想を
退けている。むしろ、人間主体にかんする理論を背景に、自己実現と
いう積極的自由を明確に肯定している。
また、バーリンの自由概念が政治的な意味に限定される一方で、テ
イラーの自由概念は、必ずしも政治的な意味に限定されるわけではな
い。ただ、バーリンが、積極的自由の源泉を「自己支配の願望」とい
う心理的事実に求めている以上、自由の政治的帰結だけを比較して論
じることもできない。政治的自由論を論じる場合も、自由の担い手と
しての人間主体にかんする考察が必要であると主張できる。だが、バー
リンは、彼の政治的自由論において、「人間がいかなる存在であるか」
という問いに進むことはしない。あくまでも対立を前提とした人間観
の立場に留まり続ける。この点において、バーリンの立論には不十分
な点がある。一方、テイラーは、人間が意義ある生を求めて生きる存
在であることを明確に肯定しており、彼の哲学的人間学に基づき自由
の問題を意義づけている。人間は、自己の欲求や自由にかんする評価
125
異文化 17
を間違いうると同時に間違いを訂正しうる自己認識的な存在でもあ
る。このことは、人間の視野における有限性と共に、自己認識の変容
の可能性をも示しているだろう。別の言葉でいえば、他者の持つ道徳
的地平に対して自己を開く余地、すなわち、自由の相互承認や和解の
可能性につながる希望をも残しているといえるのではないだろうか。
6.おわりに―自由論を基礎づける人間学に向けて
以上の考察から、自由を論じるに当たっては、自由の担い手である
人間主体にかんする哲学的考察が必要であることを、テイラーの立論
に依拠するかたちで明らかにした。
テイラーの自由概念は、
「範囲」においても「質」においても、バー
リンの自由概念の射程を超えているが、その理由は、テイラーの自由
観の背景に存在する人間観が、バーリンのそれよりも具体的で詳細な
人間主体にかんする理論に立脚しているからである。バーリンは、各
人の自由の内実を問うこと自体を危険視しており、人間がいかなる存
在であるのか、ということを問う一歩手前で立ち止まる。バーリンに
とって、自由の内実を問うこと自体が、各人の価値領域の絶対性を侵
す越権行為である。一方、テイラーは、人間主体が意義ある生の地平
において、各人にとってのより良き生を目指して生きる道徳的存在で
ある、という人間観を明確に肯定する。テイラーは、人間が間違いう
る存在であり、かつ、間違いを訂正しうる存在でもあるという見解も
含めて、深い存在論的な価値との結びつきにおいて人間の可能性を見
ている。人間が背景的な道徳的地平を持ち、意義ある生を求める存在
である以上、自己実現という積極的自由は擁護されねばならない。人
間における自由の範囲は、バーリンの擁護しようとする消極的自由よ
りも、いっそう広い領域に及び、自由の質的な区別という点でも、動
機や目的に帰属する意義の深みは多種多様である。そうである以上、
人間的自由は、単に個人の権利を擁護することによって擁護されうる
126
異文化 17
わけではなく、各々の目指す価値を積極的に実現することによっては
じめて擁護されうるものである。自由が人間主体に備わる深い意義の
実現を意味する以上、多元的価値を擁護しうる自由も人間学的な考察
によって基礎づけられる必要がある。
本稿では、自由論を基礎づけるテイラーの人間主体にかんする理論
については、十分に論じることはできなかった。この点については、
別の機会に改めて論じたい 53。
〔注〕
1
Berlin, Isaiah, Liberty , Oxford University Press, 2002. /小川 晃一ほか訳『自由論』
、
みすず書房、2000 年。本文からの引用は、邦訳を参考にしつつ、適宜、筆者
が訳し直している。なお、注では、原文と邦訳の参照箇所は併記している。
2
Charles, Taylor, Philosophy and the Human Sciences , Cambridge University Press, 1985.
論文「消極的自由の何が間違っているか」からの引用は、拙訳。
3
テイラー , チャールズほか、佐々木毅ほか訳『マルチカルチュラリズム』、岩
波書店、1996 年、p.38. テイラーは、「承認をめぐる政治」において、
「歪めら
れた承認」が、現実に被害を被る抑圧の一形態となりうることを指摘している。
4
アントニオ・ネグリほか『現代思想 2015 年 3 月臨時増刊号 総特集 シャルリ・
エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃』
、青土社、2015 年。勝俣誠「パリ
襲撃事件を考える」、p.69.
ムハンマドに対する風刺は、一部の急進派だけでなく、一般のムスリムに
とっても受け入れがたいものである。また、フランス社会においては、反ユ
ダヤ的な言説は厳しく監視される一方で、イスラム教に対する風刺画は、
「表
現の自由」を盾に、ユーモアに対する「寛容さ」が主張される。このことは、
明らかに宗教的無理解や宗教的差別、「承認の歪み」を意味しているとはいえ
ないか。
5
ハーバーマス , ユルゲンほか、箱田徹/金城美幸訳『公共圏に挑戦する宗教
―ポスト世俗化時代における共棲のために』
、岩波書店、2014 年。
「民主的な討議の場では世俗的市民と宗教的市民は相補う関係にあります。両
者の関わり合いこそが、市民社会を土壌とし、公共圏でのインフォーマルな
コミュニケーションのネットワークを通して成長するデモクラシーのプロセ
スを構成するのです。(p.30.)」
127
異文化 17
6
小野紀明ほか『岩波講座 政治哲学 6 政治哲学と現代』
、岩波書店、2014 年。
7
ホネット , アクセル、加藤泰史/日暮雅夫訳『正義の他者』
、法政大学出版局、
山岡龍一「1 自由論の展開―リベラルな政治の構想のなかで」pp.12-17.
2005 年。
「つまり、私が消極的自由への権利を行使できるのは、私自身の価値観と行為
実践とを共有する文化的共同体に私が所属しているという社会的条件のもと
でのみなのである。(p.376.)」
8
ただし、バーリンは、政治的自由の源泉そのものは、個人の領域に求めている。
9
Berlin, ibid ., p.168.(バーリン、同書、p.302.)
10 Berlin, ibid ., p.169.(バーリン、同書、pp.303f.)
11 Berlin, ibid ., p.174.(バーリン、同書、p.312.)
12 Berlin, ibid ., p.169.(バーリン、同書、p.304.)
13 Berlin, ibid ., pp.178f.(バーリン、同書、p.320.)
14 Berlin, ibid .(バーリン、同書)
15 Berlin, ibid ., pp.179.(バーリン、同書、pp.320f.)
16 Berlin, ibid ., p.181.(バーリン、同書、p.325.)
17 Berlin, ibid ., p.191.(バーリン、同書、p.342.)
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18 例えば、上森は、「……バーリンの批判する積極的自由とは、合理主義の枠内
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(上森亮『アイザ
で一元主義的な目的と解釈されたものである(傍点原著者)
イア・バーリン』、春秋社、2010 年、p.158.)
」としており、バーリンが、積
極的自由それ自体を否定しているわけではないとする。
19 Berlin, ibid ., p.208.(バーリン、同書、p.374.)
バーリンは、積極的自由が、集団的な自己支配 collective self-direction を生んだ
例として、フランス革命におけるジャコバン派の統治を挙げている。その理
論的源泉は、ルソーにあり、バーリンによれば、ルソーも積極的自由の系譜
に位置付けられる。
20 Berlin, ibid ., p.180.(バーリン、同書、p.323.)
21 Berlin, ibid ., p.181.(バーリン、同書、p.324.)
22 Berlin, ibid ., p.208.(バーリン、同書、p.324.)
23 Berlin, ibid ., p.210.(バーリン、同書、p.378.)
24 Berlin, ibid ., p.211.(バーリン、同書、p.379.)
25 Berlin, ibid .(バーリン、同書)
26 Berlin, ibid ., p.217.(バーリン、同書、p.389.)
27 Taylor, ibid , p.211.
128
異文化 17
28 Taylor, ibid , p.212.
29 Taylor, ibid , p.213.
30 Taylor, ibid .
31 Taylor, ibid , p.215.
32 Taylor, ibid , p.212.
33 Taylor, ibid , pp.213f.
34 Taylor, ibid , p.215.
35 Taylor, ibid , p.224.
36 Taylor, ibid , p.220.
37 Taylor, ibid , p.219.
38 Taylor, ibid , p.218.
39 Taylor, ibid .
40 Taylor, ibid .
41 Taylor, ibid , p.219.
42 Taylor, ibid , p.220.
43 Taylor, ibid , p.225.
44 Taylor, ibid .
45 Taylor, ibid , p.222.
46 Taylor, ibid , p.220.
47 Taylor, ibid .
48 Taylor, ibid , p.224.
49 Taylor, ibid , p.228.
50 Taylor, ibid .
51 Taylor, ibid , p.229.
52 Taylor, ibid , p.227.
53 現代社会の文脈において、多種多様な価値観の共存が問題となる以上、
筆者は、
自由観を基礎づける人間観は、不信や敵意に満ちた「欲求の闘争」ではなく、
各人がより良き生を求めるなかで生じる「諸善の抗争」であると主張したい。
同時に、「諸善の抗争」が問題となりうる以上、複数の「自由」間の抗争を調
停する原理や、価値の多元性を両立しうる原理こそが自由問題における真の
課題であると考えている。ただ、この点については、次なる考察の課題とし
たい。
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