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(ウンター・バルメン)における地域信条と社会構成(1816年)

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(ウンター・バルメン)における地域信条と社会構成(1816年)
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ヴッパータール(ウンター・バルメン)における地域信条と社会構成(1816年)
村山, 聡
慶應義塾経済学会
三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.81, No.4 (1989. 1) ,p.629(89)- 649(109)
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19890101
-0089
r 三田学会雑誌」81卷 4 号 (
1989年 1 月)
ウ ッ パ 一 タ 一ノレ(ウンタ— . バルメン) に お け る
地域信条と社会構成(
1816年)*
村 山
〔
目次〕
はじめに
信 条圏(
Konfessionsraum) と多信条社会
ヴッバータールに おける人口増加と信条分布
ウンター. バルメンにおける地域信条(
Ortskonfession)
信条別職業構成ならびに信条別年齢構成
----- 1816年 ウ ン タ 一 . バルメンのドュルナ一区およびフルッファ一区の場合 -
6.
おわりに
はじめに
西ドイツの最 近 の 歴史学研究において, マ ッ ク ス . ウェ一バーのプロ チ ス タ ン チ ィ ズ ム の 倫理と
資本主義の精神についての議論が,地域史レペルで正面から取り上げられろことは少ない。特に初
期近世については,世俗の歴史家サイドから,社会史的な教会史研究が精力的に行われている現状
( 1)
において, ウェーバー. テーゼか必ずしも正当に取り上げられないのは,まずは,その一般史ある
いは世界史的射程とミクロな地域史研究とを接合する上での方法的困難さに原因がある。 しかし,
それと同時に,その問題設定を「
古典的」 とみる風潮が一般にあるからでもある。通常の理解にお
ける,かなり内容的に一面的に限定され,そして時代遅れとみなされた禁欲主義的経済倫理につい
て の
ウェーバー.
テ ー ゼ の ,
それが本来内包する問題射程を,社会学的な理論的一般化および批判
( 2)
の方向とは別に,新たな問題意識においてなされている地域史もしくは都市史サイドからの個々具
体的な最近の歴史研究の成果を踏まえ, より広い視野の中で改めて位置づけていく必要があろう。
その場合,本稿ではキリスト教「
信条」の社会的影響力における r 地域性」に參目したい。
ウェーバー • テーゼを直接取り扱った数少ない地域史研究において, しばしばその議論の出発点
本稿は筆者の博士論文 『Konfession und Gesellschaft in einem Gewerbezentrum des friihneuzeitlichen Deutschlands: Das Wuppertal (Elberfeld-Barmen) von 1650 bis 1820』〔
西独 Giefien
大学歷史学部中近世史専攻における学位論文一1988年10月一)の一部を新たにまとめたものである。
この博士論文作成にあたり,筆者の四年近い西独滞在を可能にしたD A A D ( ドイツ学術交流会)お
よ び Institut fiir Europaische Geschichte in M a in z に対して, この場を借りて謝意を表したい。
89 Q629)
(3)
にされるのはア ル フ レッド.ミュ ラ ー = ア ル マ ックの主著『経済様式の系譜』である。 ミュラー=
ア ル マ ッ ク は , マ ッ ク ス . ウ ェ ー バ ー の プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム と資本主義社会成立に関する議 論 を
受け入れ, さらに独自の方向に展開させている。そこで彼はウニ ー バ ー の 議論をさらに一般化し,
注 (1 ) 神学者である Bernd Moller の著書 Reichsstadt und Reformation, Giitersloh 1962 以来,すで
に 『
都市と宗教改革』 というチーマについての膨大な文献が蓄積されている。詳しくは,Archivfiir
Reformationsgeschichte の Literaturbericht を参照のこと。主要なものだけをあげるとすると,ま
ずは,B. Moeller (Hrsg.), Stadt und Kirche im 16. Jahrhundert, Giitersloh 1978 あるいは
W. J. Mommsen (Hrsg.), Stadtbiirgetum und Adel in der Reformation.
Studien zur Sozial-
geschichte der Reformation in Deutschland und England, Stuttgart 1979 所収の諸論文が基本
的であり,日本においても,中村賢ニ郎• 倉嫁平編『
宗教改革と都市』刀水書房1983年という論文參
が刊行されている。またカルヴィニズムを中心にした『
第二次宗教改革』については,最近公刊され
た H. Schilling (H rsg j, Die reformierte Konfessionalisierung in Deutschland - Das Problem
der "Zweiten Reformation." Wissenschaftliches Symposion des Vereins fiir Reformationsges­
chichte 1985, Giitersloh 1986 所収論文を参照のこと。また,筆者の Doktorvater であったシリン
グ教授の一連の論文te よび著作:Niederほndische Exulanten im 16. Jahrhundert, Giiterloh 1972 ;
Calvinistische Presbyterien in Stadten der Friihneuzeit - eine kirchliche Alternativform zur
biirgerlichen Representation ? (M it einer quantifizierenden Untersuchung zur hollandischen
Stadt Leiden), in: W. Ehbrecht (Hrsg.), Stadtische Fuhrugsgruppen und Gemeinde in der
werdenden Neuzeit, Koln/Wien 1980, S. 385-444 ; Religion und Gesellschaft in der calvinistischen
Republik der Vereinigten Niederlande - "Offentlichkeitskirche" und Sakuralisation ; Ehe und
Hebammenwesen ; Presbyterien und politische Partizipation, in: F. Petri (Hrsg.), Kirche und
gesellschaftlicher Wandel in deutschen und niederlandischen Stadten der werdenden Neuzeit,
Koln/Wien 1980, S . 197-250 ; Reformierte Kirchenzucht als Sozialdisziplinierung ? Die Tatigkeit
des Emder Presbyteriums in den Jahren 1557-1562 (M it vergleichenden Betrachtungen iiber
die Kirchenrate in Groningen und Leiden sowie mit einem Ausblick ins 17.
in : W. Ehebrecht/H. Schilling (Hrsg.), Niederlande und Nordwestdeutschland.
Jahrhundert),
Studien zur
Regional- und Stadtgeschichte Nordwestkontinentaleuropas im Mittelalter und in der Neuzeit.
Franz Petri zum 80.
Reich.
Geburtstag, Koln/W ien 1983, S. 261-327 ; Die Konfessionalisierung im
Religioser und gesellschaftlicher Wandel in Deutschland zwischen 1555 und 1620, in:
HZ 246 (1988), S. 1-45 も併せて参照のこと。また,『
宗教的寛容』をテーマとして取り扱ったもの
として,P. Lang, Die Ulmer Katholiken im Zeitalter der ulaubenskampfe.
Lebensbedingungen
einer konfessionellen Minderheit, Frankfurt a. M./Bern 1977 ; P. Warmbrunn, Zwei Konfessionen in einer Stadt. Das Zusammenleben von Katholiken und Protestanten in den paritatischen
Reichsstadten Augsburg, Biberach, Ravensberg und Dinkelsbiihl von 1548 bis 1648, Wiesbaden
1983 ; P. Zschunke’ Konfession und Alltag in Oppenheim. Beitrage zur Geschichte von Bevolkerung und Gesellschaft einer gemischtkonfessionellen Kleinstadt in der Friihen Neuzeit,
Wiesbaden 1984 ( この文献は例外的にウェーバー• テーゼを直接取り上げている);J. Whaley,
Religious Toleration and Social Change in Hamburg 1529-1819, Cambridge University Press
1985 が参考になろう。さらに,W. Schieder, Religionsgeschichte als Sozialgeschichte.
Einlei.
tende Bemerkungen zur Forschungsproblematik, in : GG 3 (1977), S. 291-298, u. ders., Reli­
gionsgeschichte in der Sozialgeschichte, in : ders./V. Sellin (Hrsg.), Sozialgeschichte in Deutsch­
land.
Bd. Ill Soziales Verhalten und soziale Aktionsformen in der Geschichte, Gottingen 1987,
S. 9- 31 ;R. van Diilmen, Religionsgeschichte in der Historischen Sozialforschung, in: GG
6 (1980), S, 36-59; W. Reinhard, Moglichkeiten und Grenzen der Verbindung von Kirchengeschichte mit S o z ia l- und Wirtschaftsgeschichte, i n : G. Klingenstein/H. Lutz, Spezialforschung und > Gesamtgeschichte < . Beispiele und Methodenfragen zur Geschichte der friihen
Neuzeit, Miinchen 1982 ; R. v, Thadden, Kirchengeschichte als Gesellschaftsgeschichte, in:
GG 9 (1983), S. 598-614 も必見である。
--- 90 (j630)----
世界観の相違が政治形態あるいは経済様式の相違に繁がり,信条特有の集合的心性(メンタリティ)
(4)
が特定の経済様式あるいはある特定の社会的統合体をもたらした’ という。 ドイツあるいはある程
度スイスにもあてはまることであるが,単一の宗教的信条がその文化空間を刻印づけなかったため
に,そこでは さまざまな経済様式が複合的に存在する ことになり,単一かつ 全体的な経済様式は形
(5)
成されなかった, とする。 ミュラー= アルマックはそこで 宗教改革期あるいはそれ以後の多くの宗
( 6)
教的迫言に基づく住民移動が特定地域の経済榮展そして社会的な構造決定に与えた影響を強調する。
彼はまた,例えば,アーヘン近郊のシュトールベルクの経済的発展を例にとれば,「プロテスタント
の人々の追放は,その地域の経済発展を停滞させ,反対にその流入は経済的興隆をもたらす」 とい
(7)
うこと力; ,容易に証明されるであろうとする。
この議論に刺激されて, クララ . ファン . アイルとフリードリッヒ. ツンケルは’シュトールぺ
C8)
^
ルクの産業発展について,それぞれ小論を発表している。彼らは,共に,宗教的逃亡民とその地域
的経済発展との関連を取り扱っているのであるが,ファン . アイルは,彼女の論文を’「なぜア一へ
ンにおいて当時経済的にも社会的にも指導的な企業家たちが新しい信仰を信じるようになったのか。
その改宗は,彼らが企業家として感受性が高く,世界に目を開いており,新しいものを受け入れや
すかったからではなかったのか。そしてこれはそうウエーバー. テーゼの逆のようなものを意味す
注 (2 ) さしあたり C. Seyfarth/W. M. Sprondel (Hrsg')’ Seminar: Religion und gesellschaftliche
Entwicklung.
Studien zur Protestantismus-Kapitalismus-These Max Webers’ Frankfurt a. M.
1973 参照。
( 3 ) A. Miiller-Armack, Genealogie der Wirtschaftsstile.
Die geistesgeschichtliche Urspriinge der
Staats- und Wirtschaftsformen bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, in: ders.,Religion und
Wirtschaft.
Geistesgeschichtliche Hintergrunde unserer europaischen Lebensform, Stuttgart
1959, S. 46-244.ウ:
n —バー • テーゼについては,さらに大度久雄マックス•ウェーバーにおける資
本主義の『
精神』
」(
著作集第八卷所収)
, またその英訳に対する反応:として, E. Schremmer, Auf
dem Weg zu einer allgemeinen Lehre von der Entstehung moderner Industriegesellschaften r
Anmerkungen zu H. Otsukas Konzept "Der > G eist< des Kapitalismus," in: VSWG 70 (1983),
S. 363-378,およびその邦訳『
社会経済史学』49 (1983), 48-61頁所収参照。また石坂昭雄「
『プロチ
スタンティズムー資本主義論争』をめぐる戦後の研究動向一へルペルト• リューティーの諸説を中心
に一」r 北大経憐学研究』30 (1980) 195-213頁もあわせて参照。
(4 )
A. Muller-Armack, ebd., S . 128 ff..
(5 )
Ebd., S. 1 5 3 . 東西そして南北, またカトリックの支配的地域あるいはプロテスタントの支配的地
域それぞれに多層な文化構造の存在を, ドイツでは現代においても感じ取ることができる。
( 6 ) 宗教上の逃亡民については’
H. Schilling, Niederlandische Fxulanten im
16.
Jahrhundert,
Gutersloh 19 72, 諸 田実 「
信仰の亡命者一ドイツ経済史への影響一」『
神奈川大学経済学会商経論叢』
14 (1978) 69—93 頁及び石坂昭雄「
16世紀におけるネーデルラント.プロテスタントのドイツ散住
一その経済史的概観一」『
北大経済学研究JI 27 (1977) 307-349頁参照。
(7 )
(8 )
A. Miiller-Armack, a. a. 0 .’ S. 215.
K. V. Eyll, Die Kupfermeister im Stolberger T a l - zur wirtschaftlichen Aktivitat einer
religiosen Minderheit, KoIp 1 9 7 1 . F. Zunkel, Die Bedeutung des Protestantismus fiir die
industrielle Entwicklung Stolbergs, in: Monatshefte fiir Evangelische Kirchengeschichte des
Rheinlandes 29 (1980), S. 133-150. 後に紹介するH. L e h m a n n のカルヴについての研究の他に,
最近では,ウェーバー• テーゼの地域史的検討として,厘史人口学の方法を駆使したP. ZschunKe,
Konfession und Alltag in Oppenheim. (a. a. O . ) が挙げられる。
--- 91 0631)----
(9 )
(IG)
るのではないか」 という提示をもって閉じている。 ツンケルはこれに対して肯定的である。 しかし
それはウェーバー• テーゼの『逆』を意味するようなことではない。 とL 、うのも,少なくともウェ
(11)
一バーはそのような因果連関を指摘してはいないからである。ノ
、ルトムート . レーマンは’彼の力
ルヴの繊維産業の発展への敬虔主義の影響についての研究において, ウェーバーの議論を正当に受
けとめ, ウェーバーの議論の中心は,r しばしば誤って受け止められているように,世俗内的禁欲
と載業観,あるいは,宗教的に規定された生産態度と成功に導くような,つまりウェーバーによれ
ば,現代資本主義を推進したとされる非伝統主義的な経済的行為との因果的な相互依存性にあった
(12)
のではなく,両者の心理上の親和性にあった」 と指摘している。
しかし, レーマンにおいても, こ の 「心理上の親和性」 というものを地域史レペルで検討しよう
とした際に,史料上そして方法上の困難に遭遇することになる。それは,そのような問題を直接検
IE できるような史料,つまり回想録あるいは日記の類の史料を初期近世の時期については,見つけ
出すことそのものが容易なことではなく, また,たとえ運良く発見できた場合においても,個別性
と集合性,つまり,ある程度地域性を持った集合的なメンタリティをその地域社会の経済的社会的
(13)
発展との関連で明らかにしようとするにあたって,それらの個人的な個別史料の分析からどの程度
の成果を納めうるかとなると疑問が多いからである。実は,そのような方法的史料的問題状況が,
ウ ェ ー バ ー をして根本的な「
方法的迁回」の上で,神学者の著述の解釈学的分析に向かわせた, と
いうこともできるのである。
以下で取り扱うテーマは,上記のような地域史における, ウ:
C 一バー.テーゼのメンタリティの
レペ ル で の , あるいはエ 一 トス論的な検誰にあるのではない。むしろウェ一 バー力:,『フロアスタ
ンチィ ズ ム の 倫理と資本主義の精神』の序論部分で,彼の行論上本質的ではないとして退けた,彼
の主張を搜乱する個別歴史的な諸事情をさらに詳しく述べることにある。なお今回取り上げるヴッ
バ ー タ ー
ルにつ
い て ,
ウェーバー自身は, ル タ ー 派と改革派との間で資本主義精神の発達を促進す
(14)
る上での相違がそこでも容易に見出すことができるであろうと述べているが, ここでの課題は,そ
の 『資本主義の精神』に収敛する議論に直接与するのではなく,諸信条所属者の相違が, どのよう
に,また, どのような問題領域において見出すことができるか, ということにある。
注 〔9 )
(10)
K.
V.
Eyll, ebd., S. 22.
F. Zunkel, a. a. O., S , 137.
( 1 1 ) ウ:c 一バーの意図は,「
一面的な唯物論的歴史観にかえて同じく一面的な唯心論的な文化•歴史の
因果論を定立すること」にあったのではない。 (M ax Weber, Die Protestantische Ethik und der
Geist des Kapitalismus, in : ders., Gesammelte Aufsatze zur Religionssoziologie, Bd. I, Tiibingen
1920, S. 17-206, hier S. 20 5, 邦訳岩波文庫下 249頁)。
C12)
H. Lehmann, Pietism us und Wirtschaft in Calw am Anfang des 18. Jahrhunderts.
Ein
lokalhistorischer Beitrag zu einer universalhistorischen These von Max Weber, in: Zeitschrift
fiir wiirttembergische Landesgeschichte 3 1 〔
1972), S. 249-277, ここでは S. 250.
( 1 3 ) ここで注目すべきは,ウェーバーがカルヴァン自身の宗教観とカルヴィニズムとを明確に区別して
いたことにある。V g l . M. Weber, a. a. O', S. 8 9 . つまり,一個人としてのカルヴァンあるいはカル
ヴィニストではなく,社会的な集合体• 結合体としてのカルヴィニズムが問題とされていたのである。
(14) M . クェーバ一,邦訳前掲書上 30頁。
--- 92 (632)----
2 . 信条圏(
Konfessionsraum) と多信条社会
ミュラー= アルマックが指摘するような意味において,ある特定の信条がある社会を,たとえそ
の住民のメンタリティへの影響力に『内密度』の違いがあるにしても,『
地域的』に刻印づけてい
たことは,ある程度容易に確認される。それは,ェティンネ.フランソワのコプレンツやアウグス
ブルクについての研究, またヴァルター . G . ロェーデルのマインツについての研究, さらにペー
タ ー . シ ュ ー ラ ー の ラ イ ン . ヴュ ス ト フ ァ ー レ ンの諸境界線につ い て の 先駆 的 業績などに お い て ,
人口移動およびある地域の社会構成とキリスト教信条との間に,一定の親和関係のあることが, し
(15)
ぱしぱ指摘されているからである。
教会記録簿に基づくコプレンツへの移住民の出身地についての 分析の結果, フランソワは,移入
民の地域的分布は, コプレンツからの蹈離に応じた空間的な広がりを示しているのでぱなく,かな
(16)
り変則的,つまりしぱしぱ遠隔地からの移入民の方が,分布上多いことを指摘している。その原因
は, コプレンツ市内部における根強い反プロテスタント的性格と,逆にコプレンツの周辺が主にプ
ロテスタント的性格を帯びていることにあるとされている。つまり, カトリックのコプレンツ対プ
ロテスタントの周辺地域という信条空間上の対抗的関係が住民移動に影響を与え,直接の近隣地よ
(17)
りもカトリックの支配的な遠隔地からの住民移動が多くなるという結果になったのである。
このように複数の信条圏(
Konfessionsraum)の存在が住民移動に強い影響を与えていたことは,
旧ドイツ帝国に特徴的な一'":
>の事実であるが, カトリックの支配的なバイェルン,ルター派プロチ
スタントの支配的な東ドイツあるいはカルヴァン派の支配的なフリースラント地方など,北欧ある
いはフランスのような比較的単一信条の支配的な地域も旧帝国内には存在したことを, ここで指摘
しておく必要があろう。 このような意味での信条圏はニー ダーライン地方のヴッバータールの場合
どのように歴史的に観察されるであろう力、
。 ここではまずその地域の信条史的特徴を明らかにして
おきたい。
ヴ ッ バ ー タ ー ル が
属するベ
ル ク
地方は,17世紀後半,異なった信条を有する二人の領邦君主の所
領の境界領域に位置していた。 17世紀初頭のユ ー リッヒ= クレーフェ= マ ル ク = ベルクと いう四つ
の領邦の相続権を巡っての紛糾の後,それらニー ダーラインの諸領邦はプランデルプルクとプファ
ルツ = ノイブルクという両領邦国家に分断されていたのであるが,当初両者ともルター派であった
注 レ 丄 p. Scholler, Die rheinisch-westfalische Grenze zwischen Ruhr
und
Ebbegebirge.
Ihre
Auswirkungen auf die Sozial - und Wirtschaftsraume und die zentralen Funktionen der Orte,
Remagen 1953 ; E. Frangois, Koblenz im 18.
Jahrhundert.
Zur S o z ia l- und Bevolkerungsst-
rukutr einer deutschen Residenzstadt, Gottingen 1982 ; W. G. Rodel, Mainz und seine Bevolkerung im 17.
und 18.
Jahrhundert.
Demographische Entwicklung, Lebensverhaltnisse und
soziale Strukturen in einer geistlichen Residenzstadt, Stuttgart 1985.
(16)
E. Frangois, ebd., S. 49.
(17)
Ebd., S. 191.
--- 9 3 〔
633)
両君主の改革派と力トリックへの改宗などによって,宗教上は必ずしも明確な状態ではなかった。
また30年戦争後,宗教闘争が領邦君主の政策から大きく後退していった時期においても,個々の地
方に宗教的寛容が直ちに実現されたわけではない。 この地域において領主の信条が必ずしも領民の
それと一致していなかったということは,逆に個々の領民が比較的g 由に自己の信仰を選択してい
ったことを意味する。 しかし,その領邦国家体制における宗教行政上の無秩序も, ようやく1672年
の両君主による宗教和約によって決着がついた。 それは非常に特殊なものである。つまり, カトリ
ックのプファルツ伯はプラ ンデルプルク領内ク レーフ:
n .マ ル ク の 力 ト リ ッ ク 教 徒 を 保 護 し 力ル
ヴィニストのプランデルプルク選帝侯はプファルツ領内ユーリッヒ•ベルクのプロテスタント信徒
を保護するという変則的な協約だった。領邦国家レベルから見た場合, このような信条社会は,す
でに多信条社会と名付けることもできる。 しかし,個々の地域ではこの諸信条が混在しているとい
うのは, どのように観察されるのであろう力、
。
個々の地域を詳しく見てみると,むしろ一信条社会が通例であったことがわかる。なろほど住民
移動の激しい地域では,一信条社会が次第に多信条社会へと変化していったというのが地域レベル
での事実であるが,大部分の場合,かなり最近まであるいは現代においてもある特定信条が個々の
地域で支配的であり,それ故に,先にも触れた信条圏〔
Konfessionsraum) なるものが形成されてい
たのである。
その信条圏の領域的限定は,最小単位として,基本的には中世以来の教区領域によって決定づけ
られている。 しかし,その領域的限定が相対的なものであり,また流動的なものであることも明ら
かであり,個々具体的に調べる以外にその空間規定を法的あるいは行政上のレベルで一般的に定式
化することは意味がない。例えば,ある特定の信条圏にしばしば他信条所属者の少数グループがい
る場合も多いが,多くの新たな教会が一地域内に建設される18世紀後半までは,彼らは,不十分で
はありながらも,隣接する他宗派の教区教会で洗礼. 婚 姻 • 埋葬および礼^¥等を行なっていた。そ
の場合,場所によっては,私的な* 会が許されていたこともあった。
信条構成の変化は主として他信条所属者の流入によって決定づけられる。 コプレンツやマインツ
のようにその人口流入が地理上変則的な場合もあるが,逆にアウグスブルクの例では,その近隣の
信条構成がその都市内部の信条構成変化にとって重要であったことが確認されており, この帝国都
市では, プロテスタント,主にルター派優位の状況は,近隣地域がカトリック信条圏であるがため
(18)
に17 • 18世紀を通じて全く逆転してしまった。 また後に述べるようにヴッバータールの場合,ルタ
一派の急増が顕著なのであるが,それはヴッバータールの周辺地域とくにマルク地方がルタ一派的
色彩が濃かったためである。 このような信条構造の変化は,17世紀初頭に決定されていた信条圏の
地理的構造だけではなく,人口吸収を促進していくそれら中心地の政治的. 経 済 的 • 文化的諸前提
注 〔18) Ders., De runiformite a la tolerance: confession et societe en Allemagne 1650-1800, in:
Annales E. S. C 3 7 〔1982), S. 783-800, 特に S. 786 f . . さらに V. Haertel, Die Augsburger
Weberunruhen 1784 und 1794 und die Struktur der Weberschaft Ende des 18. Jahrhunderts,
in: Zeitschrift des historischen Vereins fiir Schwaben 64/65 (1971), S. 121-268, 特に S . 186f.
--- 94 {6 3 4 )----
ならびにその社会ぽ造変化によって条件づけられていたことを前もって指摘しておきたい。
3.
ヴッバータールにおける人口增加と信条分布
19世紀初頭のヴッバータールにおける信条分布は,上記で述べた旧帝国における信条社会の特性
ならびに特殊地域的な要素,つまり宗教改革以来の領邦君主の宗教政策並びに地域的な信条構成の
歴史的変化によって特徴づけられている。そのヴッバータール〔
ここではその中心地域であるェルバー
フュルト とバルメンの両地域の総称としてこの地域名を用いることにする一現在の都市ヴッバータールをさす
のではない)は,16世紀の末期,わずか 3 ,700人の人口を有するに過ぎなかったが,その後のニ世紀
の間に,およそその10倍以上の人口を有するニー ダーライン地方で有数の産業地域に発展すること
になる。エルバーフェルトとバルメンをあわせると,人口数では, ラインの首都と称されるケルン
(19)
に肉薄し,その経済的重要性も絶大なものになった。
決定的な人口増加は,18世紀後半に見られるのであるが,その人口増加とともに,信条構成も大
きく変化することになる。 しかし,統計資料が不十分な時代(16 • 17世紀)の信条分布を具体的に示
すことは難しい。また, ヴッパータールの場合,改革派教区ェルバーフェルトは実際はその教区領
域以外の住民をもその信条所属者として含んでおり,それらの信条所属者を統計上領域的に正確に
区分することも難しい。 また,例えばルター派と改革派との異宗派婚の存在も明確な信条分布の析
出を困難にしている。 ここでは,その時期の信条分布については,残されている史料をもとに,可
能な限りでの推計を試みる。確かな統計数値は, ヴッパータールの場合,初めて18世紀末のものに
ついて得ることができる。
0 1 :160©年から1850年にかけてのヴッパータールにおける人口増加
( 人)
65,000-|
63,231
60,000­
55,000
50.000
45.000
40,716
40,000­
35,000­
30,000
24,872
25.000
20.000
15.000
10.000
5,000
0
約5,500
約3,700
D _
1600
1650
1700
約8 ,500
1750
95 (JS35)
1800
1850!( 年)
ここで17世紀後期の信条分布をある程度推計することが可能になったのは,隣接するマルク伯爵
領に属するシ ュ ヴ エ ル ム に 新たに改革派教会が設立されることになり, 教区領域上そのマルク側に
属していたオーバー. バルメンの改革派の信徒数をおおよそ推計することができるような史料が残
存することになったためである。 1655年,プランデルプルク選帝侯によって隣接する都市シュヴニ
ルムに改革派教会が設置されることになったが,本来その地には改革派信徒がほとんどいなく,そ
の教会が, オーバー . バ ル メ ンの改革派信徒によって維持されることを選帝侯は期待し,その旨ュ
ル バ 一 フ ュ ル ト の 改革派教会の牧師に依頼するということになった。そこには,オーバー •バ ル メ
ンが,教区教会上変則的にベルク領ではなくマルク領に位置するシュヴ:n ルムの教会に中世以来属
注 〔19)
1815年のケルンの人口数は49, 000人, ア ー ヘ ン 32,000人, デュッセルドルフ22, 000人,ェルバー
フ ェ ル ト 21,500人,バルメン19, 000人そしてクレフェルト13, 200人と続く。(M. Barkhausen, Der
Aufstieg der rheinischen Industrie im 18.
Jahrhundert und die Entstehung eines industriellen
GroBbiirgertums, in: R h V jb ll19 (1954), S. 135-177, S. 1 7 0 ) また,ヴッパータール社会経済史に
ついては,H. Kisch, Vom Monopol zum Laissez-Faire: das friihe Wachstum der Textilgewerbe
im Wuppertal, in: ders.’ Die hausindustriellen Textilgewerbe
am
Niederrhein
vor
der
industriellen Revolution. Von der urspriinglichen zur kapitalistischen Akkumulation, Gottingen
1981,S. 162-257 および W. Kollmann, Sozialgeschichte der Stadt Barmen im 19. Jahrhundert,
Tubingen 1 9 6 0 がさしあたり必読文献であるが,筆者独自の史料分析の結果につぃて,詳しくは稿
を改めて紹介する予定である。
( 表) 18Q0年から1840年にかけてのヴッパータールの人口
(年
エ ル ハ ー フ ユ ル ト (人
1600年頃
1663
1673
1698
1702/03
1745
1792
1816
1840
1,900-2,100
1,352+ ?
1,565+ ?
—
3,014 (+400)
—
—
2 ,1729
3 ,2384
バ ル メ ン ( 人
計 (
人
1,600-1,700
—
—
約 3,700
2 ,134
—
約 5,M0
3,790
—
約 8,500
19,030
30, 847
—
—
—
2も 872
40, 716
63,231
資料:K. uoebel, Zuwanderung zwischen Reformation und Franzosenzeit. Ein Beitraff zur
vorindustriellen Bevolkerungs- und Wirtschaftsgeschichte Wuppertals von 1527-1808, Wuppertal
1966, S. 34; HStA Ddf. (Hauptstaatsarchiv Diisseldorf) Berg. Landstande V34, A 1 152:
Rechnungen der in den Stadten u. des Herzogtums Berg im Jahre 1662-1673 ; H. Haacke,
Barmens Bevolkerung im 17. und 18. Jahrhundert, Barmen 1911 u. ders., Die Entwicklung
der Besiedlung Barmens bis zum Beginn des 19. Jahrhunderts, in :ZBGV (Zeitschrift des
Bergischen Geschichtsvereins) 52 (1920/21). S. 94-133; StA W. (Stadtarchiv W uppertal) AV
29: Verziechnis der in Elberfeld ansassigen Familien 1702/03 :StA W AV 2: Conscriptio
Familiarum et personarum I/II (1745/47) ; T. Wilmes, Aufzeichnungen zur Geschichte der
St. Laurentius-Gemeinde, W u p p e rta l- Elberfeld (Masch. Schr.’ in: Katholisches Pfarrarchiv
Elberfeld) ; W. Huthsteiner/C. Rocholl, Barmen in historischer, topographischsr u. statistischer
Beziehung von seiner Entstehung bis zum Jahr 1841, Barmen 1841’ S . 144 ; E. F. Wiebeking,
Beitrage zur Churpfalzischen Staatengeschichte vom Jahre 1742 bis 1792’ vorziiglich in Riicksicht
der Herzogtiimer Jiilich und Berg, gesammelt von E. F. Wiebeking, Heidelberg/Mannheim 1793,
Beilage G: "Zwanzigjき
hrige Volkstabelle," getrennt nach Konfessionen ; A. Bartelsen, Mittelund Niederberg um 1800. Zur Kulturgeographie einer vorindustriellen Gewerbelandschaft, in:
ZBGV 89 (1980/81), S. 67-95.
96 (636)
していたというま情があったのである。後に述べるようにオーバー. バルメンにルタ一派が多いの
は, 16世紀末期そのシュヴェルムの教会が力トリックからルター派に変わったためであった。
オ ー バ ー .バ ル メ ン
の
改革派信徒は, 1055年,そのュルバーフュルトの教区牧師の進言 ■によって,
シュヴェルムの改革派教会の資金援助特に牧師雇用費用の援助に賛成する旨個々の改革派信徒の住
民が,大部分は家族の代表者として暑名している。 そのことを通じて, オーバー.バルメンにどの
(20)
程度改革派信徒がいたかが,推計することができるのである。 全 部 で 7 5 名の暑名がそこに見出さ
れるが,そのすべてが家長というわけではなく,そこには例外的に 7 人 の 『主婦』 あ る い は 1 人の
『娘』 という署名もある。 つまり,すべての家族が単一信条所属者ということはなく,家族内部で
も複数の信条所属者が存在することがあったということである。 このことは,確かに正確な信条分
布を插むことを困難にしている。 しかし, それでもある程度の推計は可能であり, またそれらの暑
名を, 1655年の租税台帳と比較した場合には,その75名の内59名の名前が確認され,バルメン内で
(21)
の居住地も判明した。 この租税台帳では, オ ー バ ー .バ ル メ ン 全 体 で 187 名の課税対象者が登録さ
れており, その結果, 31.5 % が改革派であったことになる。 ルター派と改革派の経済的地位が同等
であることを前提にするならば, オ ー バ ー • バルメンの住民はおよそ 7 对 3 の割合でルター派優勢
であったということになる。
図 2 :1670年 . 1792年 . 1816年ヴッパータールにおける信条分布
人口 = 約3 ,800人
1670年頃
注)Kath. = 力トリック,Luth. = ル夕一派,Ref. = 改革派
1670年頃エルバーフェルトの改革派教会の教区領域(
本稿で特に取り上げるウンター. バルメンはこ
の教区に属する)に は お よ そ 100 人のルター派住民と, さらにカトリック教徒が 7 家族いたとされ
ている。 その他の住民は全て改革派である。 1673年の都市ユルバーフェルトについての租税台帳
あ る い は 1698年のバルメン全体の住民台帳などから,都市ユルバーフェルトには 1670年頃およそ
1,700人から 1,800 人居住しており, そのキルヒシュピールと呼ばれた周辺部には 200人から 300人,
そ してウンター•バルメンには 700人から 800人が居住していた, と推察できる。 このことから,教
''王 (
20)
Vgl. A. Werth/A. Lauffs,
Geschichte
der
Evangelisch-Reformierten
Gemeinde
Barmen-
Gemarke 1702-1927, Barmen-Cemarke 1927, S. 37 f. u. S. 513 Anhang 2: "Die Namen der
Oberbarmer Reformierten, welche sich bereit erklarten, zum Gehalt des reformierten Pastors
in Schwelm beizutragen.
( 2 1 ) E. Muthmann, Barmer Steuerrolle von 1655, in: ZBGV 68 (1911), S. 83-98.
97 (557)
区エルバーフエルトには, およそ3 .6 % のルター 派住民そしておよそ1.1 % の 力 トリックの住民が住
んでいたと考えられる。同様の時期,オーバー . バルメンにはおよそ1,000 人居住しており,先の
租税台帳等の推計から判断して,オーバー . バルメンの住民の内およそ70% がルター派でその他が
改革派に属していたとして, ヴッバータール全体にそれを換算すれぱ78% が改革派であり,21% は
ルター派,そして 1 .0 % が力トリックということになる。なお当時オーバー• バルメンにカトリッ
ク教徒が居住していなかったことは, イエズス派の宣教師の報告から確認できる。
正確な統計数値は1792年についてはじめて得られる力';,それによると全ヴッパータール居住民の
( 22 )
うち45.8% が改革派,44.3% がルター派,そして10.0% がカトリックとなっている。 また,1816年
には, 改革派はさらに41.7 % に減少し, ルター派は44. 3 % と相対的には変化なく, カトリックはさ
らに13.6% にまで増加している。 1816年については,その他僅かではあるが,ユダヤ人あるいはメ
(23)
^
ンノ一派の住民の存在も確認される。 1670年については,以上のように概算でしか信条分布は明ら
かにならないが,17世紀後半から18世紀を通じて信条I f 成が大きく変化したことは疑いなく,その
結果,改革派の多数派状況は消滅した。それは,ルター派信徒の大幅な増加に原因がある。
ルター派の増加に比べて 力 トリックの増加は遅々としたものであったが,その原因はヴッバータ
一ル周辺地域には基本的にカトリックの優勢な地域が存在しなかったことにある。 また, プロテス
タントの支配的な社会において力トリック教徒が生活の地歩を固めるのは容易ではなかった, とい
うことも推察される力' ; , 17 . 18世紀についての具体的な# 例の情報を得ることはなかなか難しい。
それに対して,本稿で特に取り上げる1816年のバルメン,特にウンター•バルメンについての統計
(24)
資料は,一地域の単なる信条構成だけではなく,一家族内のそれ,また年齢構成ならびに職業構成
も同時に知ることができる。それは,ベルクがプロイセンに併合される際の住民調査に由来するが,
個々の教区ごとの調査の中間統計が残されているために,個々の家族を具体的に復元することがで
き■る。
その史料(
StAW. AV 6 ) では信条別に名前 . 年 齢 . 職業が記載されており,それはもともと家族
ごとに記載されているわけではない。 また,最終的な調査報告では,信条分布.職業構成などは別
々に表として作成されている。 ここでは,個々の地区ごとの調查時点で出されたその原史料を利用
して,それぞれを独自に比狡しながらひとつひとつの家族を復元した結果を利用していくことにす
る。 オーバー • バルメンについては, カトリック教徒のリストだけが残っていたため,本稿は, ウ
注 (22)
E. F.
Wiebeking, Beitrage zur Churpfalzischen Staatengeschichte (a. a. O.), Beilage G:
"Zwanzigjihrige Volkstabelle," getrennt nach Konfessionen.
(23)
StAW FIV 38, StAW EIV 3: Die sog.
"GroBe statistische Tabelle" u. statistische Nachwei-
sungen von 1816 および J. R. Briining, Elberfeld und seine biirgerliche Verfassung von dem
fiinfzehnten Jahrhundert bis auf die neueste Zeit, Elberfeld 1 8 3 0 . 改革派,ルター派あるいは
(24)
カトリック以外の住民としては, 2 人のメンノー派,15人のユダヤ人が確認される。
Stadtarchiv Wuppertal: EIV 3 (a. a. O . ) ならびに AV 6: Namentliches Verzeichnis der
Einwohner Barmens nach Alter und Beruf in den einzelnen Kirchengemeinden, a) reformierte
Gemeinde, b)lutherische Gemeinde U-Barmen, c) katholische Gemeinde und Trennung nach
Rotten.
—
98 C638) —
ンタ ー .バルメン全地区そしてその中で特に対照的な二つの地区についての史料を取り上げること
にした。 また,上記ヴッバータールのうち特にバルメンに注目して議論を進めるのも,1816年の詳
細な統計資料が,バルメンに対してだけのものであり,エルバーフェルトについては同種の史料は
残存していないからである。
ウンター
:ル メ ン に お け る 地 域 信 条 (
Ortskonfession)
バ ル メ ンは全体として二つの 信条圏から構成されていた, と考えられる。 つまり, ルター 派的色
彩の 強いオ ー バ ー •バ ル メ ンと改革派的色彩の強いウンター. バルメン である。 ここで改革派的色
彩が強いという場合,単に信条分布上改革派が多数派であることを意味するのではない。 しかし
ある特定の信条がある特定地域住民のメンタリティを特徴づけていたと想定する場合,それはどの
ような形で史料上検出することができるのであろう力、
。
1816年の統計資料からは,先にも触れたように信条別職業構成,年齢構成,異宗派婚の状況,さ
らにそのような異宗派婚の家庭における子供の信条別教まの有り方などを知ることができる。信条
別社会構成についての詳しい議論に入る前に, ここではまず,前項でみた信条史的特質ならびにヴ
ッバータールの信条分布の変化を考慮した上で,特に改革派の教区エルバーフ:
C ルト に属していた
ウンター. バルメンがどのよう な地域信条を有していたか,あるいはその地域信条なるものがどの
よ うに観察されうるかについて,特に異宗派婚とそれに伴う子供の信条別教まに着目しながら議論
を進めることにする。
1816年ウンター . バルメンには,全部で 1,036 組の夫婦が存在し,その内夫參共にプロチスタソ
表 1 : 18W年ウンター. パルメンにおける信条別夫婦请成
地区
Ev. u. Ev.
Ev. u. Kath.
Kath. u. Ev.
Kath. u. Kath.
計
Wester
91
1
6
11
Loher
83
1
1
8
93
Leimbacher
34
1
2
1
38
Hatzfelder
40
0
1
0
41
Unterclev.
64
1
0
7
73
109
Brucher
119
3
2
13
137
Auer
140
5
4
7
156
Haspeler
57
1
4
1
63
Hochster
114
1
3
4
122
Dorner
150
10
3
42
205
計
892
24
26
94
1,036
史 料:StA W. AV 6.
注)なお,上の表での, Ev. = evangelisch ( 新教派)であり,Kath. = katholisch (力ト
リック)を意味する。 U. = u n d であり,その前におかれているのが男性の宗派で,
後ろが女姓の宗派をさす。これでもって夫婦を表しており,以下の表でも同様の略
記号を使用する。
99 Q639:
)
表 2 :1812年ウン夕一• パルメンにおけるプロチスタン卜の夫婦
地区
L. u. L.
L. u. R.
R. u, L.
R. u, R.
計
Wester
17
22
6
46
91
Loher
16
21
13
33
83
9
10
7
8
34
1
6
7
40
Leimbacher
Hatzfelder
26
.
Unterclev.
18
19
9
18
64
Brucher
37
12
12
58
119
Auer
46
25
30
39
140
Haspeler
Hochster
26
12
8
11
57
38
23
18
35
114
Dorner
51
24
35
39
149
284
169
144
294
891*
計
注)し = lutherisch ( ルタ一派)
R. = reformiert C改革派)
* ドュルナ一区にはさらに個別信条不明のプロチスタントの夫婦が一組あった。
史料 :StA W. AV 6.
トの夫婦は892 組 (
8 6 .1 % ), 夫參共に力トリックの夫婦は9 4 組 (
9.1め ,異宗派婚の夫婦は全部で
50組 (
4. 8 % ) であった。その場合,改革派とルター派の夫婦も異宗派婚に算入すると,全部で 363
組 (
3 5 .1 % ) が異宗派婚であったことになる。
異宗派婚の家庭での子供の信条についての規定は17世紀中頃にはまだはっきりしていなかった。
(25)
改革派の場合,1680年代になってようやくある程度の規定が明確化された。子供の教育については,
基本的に両親の意向によってS 由に決定されたのであるが,両親にある特定の取り決めがなされて
いないような場合には,息子は父親の,そして娘は母親の宗旨に従って教まされるのが決まりであ
った。 また,母子あるいは父子家庭の場合には, その片親が自由に子供の信条(もちろん両親の信条
(26)
のいずれかではあったが)を選択することが許された。 このような慣行は19世紀初頭についてもあて
はまる。
ウンター• バルメンの363組の異宗派婚の家庭のうち,162組は男女両方の子供を有していた。個
々の信条への特定の傾向を観察するにはそれらの家庭を分析するのが適している。 これらの家庭の
53.7% (87組)は,先の慣習のように子供を両親の信条にあわせて別々に教言している。そして,
父親がルター派で母親が改革派の場合には,6 8 .0 % が同様に別々に,そして 9 .3 % がすべてルター
派で,そして22.7 % がすべて改革派で子供を教育している。父親が改革派で母親がルター派の場合
には,その家庭の何と47. 8 % が彼らの子供達をすべて改革派で,それに対して母親の信条にあわせ
てルター派で単一に教言させているのは,わずか 8 . 7 % に過ぎない。つまり,母親,父親の区別な
く, どちらかが改革派の場合,圧倒的に子供を改革派で単一に教ぎする傾向があったのである。 こ
れは,明らかにこのウンター. バルメンが改革派の地域信条に支配されていたことを示すであろう。
しかし’ なぜこのウンター.バルメン在住の家庭において’ その子供たちを改革派で教言しようと
注(
25) J. V. Bredt, Die Verfassung der reformierten Kirche in Cleve-Jiilich-Berg-Mark, Neukirchen
1938’ S. 274.
(26)
Ebd., S. 275 f..
100 (^640)
1816年ウ ンタ'~ •
表 3 :異宗派婚家庭における子供の信条—
V 丄.U.M.R. V.R.U.M 丄.
地区
gt
V.
M.
gt
V.
17
30
33
ノ
、
ノレメン---
V.K.U.M 丄. V 丄.U.M.K.
V.K.U.M.R. V.R.u.M .K.
gt
gt
M.
V.
M.
gt
V.
M.
V.
M.
Rt
V.
M.
Wester
Loher
Leimbacher
Hatzfelder
Unterclev.
Brucher
Auer
Haspeler
Hochster
Dorner
51
計
史料:StA W. AV 6
注)V. = Vater ( 父)
,M. = M u t t e r 〔
母)の略で,L . = lutherisch, R. = reformiert, K = katholisch
の略であり,それぞれルター派,改革派,カトリックをさす。 V . し U . M . R . でもって,父親
がルーター派,母親が改革派の家庭であることが示されている。また, gt = ge tren nt の略で
息子は父親の,娘は母親の信条にと別々に教育している場合をさし,その欄におけるV . ある
いはM . はそれぞれ父親もしくは母親の信条で,単一に子供の教ぎをさせている場合をさす。
表 4 :1816年ウンター• パルメンの農民層および商人層の信条別夫婦構成
地区
L. u, L.
L. u. R.
Kf
B.
Kf
—
—
—
B.
R. u. L.
R. u. R.
Ev. u. K.
K. u. Ev.
K. u• K.
Kf
Kf
Kf
Kf
B.
Kf
B.
—
—
—
—
一
B.
Wester
Loher
B.
B.
6
Leimbacher
1
1
—
1
—
2
4
—
1
2
Hatzfelder
—
2
—
—
—
Unterclev.
1
—
—
—
3
1
—
—
1
—
—
一
—
—
2
—
一
—
一
一
Brucher
1
—
—
—
2
—
一
6
1
—
一
—
—
一
一
Auer
1
—
1
—
—
1
1
2
Haspeler
—
—
1
Hochster
—
4
—
1
—
Dorner
1
—
1
—
1
1
—
10
—
—
—
—
一
—
—
5
計
4
7
3
4
6
4
14
2
28
0
1
0
0
1
—
1
0
史料 :StA W. AV 6.
注)B. = B auer の略で,農民層,Kf = K aufleute の略で商人層をさすことにする。その他の略記
号については,他の表と同様である。
する傾向が強くなっていたのであろう力んそれは改革派信条への心理上の愛着であったのか,ある
いはその地域信条がその他の社会的諸要素との関連でなんらかの強制力を持っていたのか。 また,
改革派で子供たちに教まを受けさせることに対して,何か具体的な効果があったのであろうか。そ
れは,この改革派の地域信条と当地域の社会構成との間に何らかの関係があるからであろう力、
。
そこで次に職業構成別の異宗派婚の比率を分析してみた結果, まずは農民層と商人層との問に顕
--- 101 {641 )
著な相違のあることが発見された。 ウ ン タ ー .バ ル メ ン の 1,03 6 の家庭において, 44組が農業従享
者 (
4 . 1 % ) となっていた。 この農民たちにおいては, 異宗派婚の比率は, 20. 5 % に過ぎない。それ
に対して, ウンター.バルメンには 28組の商人層に属する家庭があったが,その場合,異宗派婚は
9 組,比率としては 3 2 .1 % と平均以上の数値を示している。 農民層で異宗派婚の比率が少ないのは ,
その大部分がホョッフスター区とヴニスター区の信条構成に起因している。 この両区での異宗派婚
の 比 率 は特 に 少な い(
12.5% ) 。 このことから農民層の方が単一信条の傾向が強いように観察される
ものの, さらに個別例を詳しくみてみると,例えばプルッファー区のように,商人層において単一
信条の傾向の強い地区もあることがわかる。 そこでは,商人および企業家層が圧倒的に改革派で占
められている。
ウンター.バルメンの地域信条は以上のように, 全体として改革派の多数派状況の消減した 1816
年の時点でも,改革派信条であることが確認されたが, それではなぜこのような地域信条なるもの
力; , かなり永続的な形で,再生産されていくことになるのであろう力んそしてこの異宗派婚の比率
の個々の地区での相違ならびに先にも触れた信条分布のかなりの地域偏差を考慮した場合, そのよ
うな相違および偏差の生じた原因を探る必要があろう。 それらの問いに完全な形で解答を与えるこ
とは難しいが,次項では,信条構造と社会構成との関連をウンター•バルメンの中の二つの地区を
選んでさらに具体的に分析する。
5.
信条別職業構成ならびに信条別年齢構成
1816年ウンタ 一 . /、ルメンのトュルナ一区およびフルッファ一区の場合 ---
ヴッバータール.バルメン全体でみると 1816年の時点で,36. 6 % は改革派,54. 2 % はルター派,そ
して 9 . 2 % は力トリックに属している力;
,個々の地区をみてみるとその信条構成は実に様々である
ことがわかる。 クンター . バルメンでは,改革派, ルター派, カトリックそれぞれ 45. 3%, 42. 9%,
11.8 % であるのに対して, オ ー バ ー • バルメンでは, それぞれ, 29.6%, 63.1%, 7 . 1 % と,大き
く信条構成が異なる。 特に, マルク側のヴュルフィンガ一区, へッキングハウザー区, ヴィクリン
グハウザー区などでは, ルター派が 70% から 80% 近くを占めている。 し か し 人 口 増 加 と と も に 単
一信条型の社会が次第に多信条型の社会へと変化していく ® 向は, ウンター.バルメンおよびバル
メンの中心地において特に顕著であり, また,バルメン全体においても観察できることである。 だ
力;, この信条分布上の相違と職業構造あるいは社会構造の相違とはどのように関連しているのであ
ろうか。
早い時期に宗派同まが制度的に確立された帝国都市アウグスブルクの場合においても, 1661年に
(27)
はまだ32の手工業種において力トリック教徒は皆無であった。 し か し そ の 後 の 信 条 構 成 の 変 化 は ,
汪 (27J
li. Francois, De runiformite a la tolerance: confession et societe en Allemagne 1650-1800,
in: Annales E. S. C. 37 (1982), S. 783-800,ここでは S. 788.
--- 102 (.642')
先に述べたようにかなり激しい。例えば力トリックの職工はその時点で 29% に過ぎなかった力:, 18
世紀末にはその信条構成は逆転し, プロテスタントの織工が今度は全体の 16% へと大きく減少した。
プロテ
(28)
ス タ ン
トはこの業種で多数派から少数派に変化したのである。 またすでに1720年には力トリ
ック教徒のいない業種はなくなっており, どの業種でも最低 12% は力トリック教徒が占めるように
なったか, あるいは逆に多数派に転化している例もある。 このアウグスプルク同様ヴッバータール
の場合も個々の職種で多信条性は増大しているようである。 しかし, ヴッバータールにおいては,
個々の信条所属者の社会的地位はかなり異なったものであり,単純な,っまり全面的な多信条化の
過程を観察することはできない。 それは,領邦都市エルバーフェルトとヴッバー川上流に隣接する
バルメンが, ニー ダーライン地方での主要な一特化繊維産業地域として, 特にこの 17世紀から 18世
紀にかけて,信条構成の変化を伴いながら大きく発展していったことを考慮しなければならないか
らである。 ヴッバータールの場合,確かにすベての業種に多信条化が進展したわけではなかった。
残存している 1830年の企 業 家 リストにおいてもバルメンにおいては力トリ ッ クの企業家を見出すこ
とはできない。 プロテスタントの色彩の強いヴッパータールにおいては, 力トリックの企業家が言
つような地盤が存在しなかったということであろう力、
。
初期近世期の職業技術の習得を考える場合,現代以上に人の聲がりに f i 要性があることを理解し
ておく必要がある。手工業技術を習得するためには,熟練した親方の下で修業をっまなけれぱいけ
ないし, それは商人や企業家層についてもあてはまる。 特に複雑な貨幣制度や関税制度のもとでは,
彼らにはさまざまな特殊な知識が要求される。実際多くの具体例は, 当時の若者があらゆる人的結
(29)
合を利用して,それらの知識や技術を獲得していったことがわかる。 そこでは, 今まで述べてきた
宗教的信条特に地域信条はなんらかの制約あるいは積極的な役割を果たしていたであろう力、
。
バルメンは, フリードリッヒ . エンゲルスの生地としても知られている力;, そのエンゲルスの祖
(30)
父にあたるヨハン • フリードリッヒ . エンゲルスの日記が一部残っている。 この祖父エンゲルスは,
1791年 1 月から一筒月ヴェストファーレン地方を旅行している。 彼が訪問した街は, Giitersloh,
Hall, W erther, Neuenkirchen, B iin d e ; Gohfeld, H erfold, Bielefeld, Lippstadt などである。 こ
の旅行について,彼の日記では,それぞれの地でのキリスト者との出会いについてのみ記されてい
る。 しかしこの旅行が主に彼の燃糸漂白業の原料購入を目的にしていたことは明らかである。 と
いうのは, それら訪問地がすべて麻燃糸の購入地としてヴッバータールではよく知られていたから
注 (
28)
V. Heartel, Die Augsburger Weberunruhen 1784 und 1794 und die Struktur der Weberschaft
Ende des 18. Jahrhunderts, in: Zeitschrift des historischen Vereins fiir Schwaben 64/65 (1971),
S. 121-268,ここでは S. 186.
(29)
K. Goebel,
Zuwanderung zwischen Reformation und Franzosenzeit.
Ein
Beitrag zur
vorindustriellen Bevolkerungs- und Wirtschaftsgeschichte Wuppertals 1527-1808, Wuppertal
1966, S. 78f.’ S. 88f.’ S . 126 などを参照。
(30)
1790年および1791年の両年について蔑されているこの日記は, 原本からの Klaus G o e b e l 教授
(Universitat D o r tm u n d ) による写本で参照した。また,同教授には資料収集の過程で,貴重な助
言を頂いた。
---103 (j643)---
である。彼がまた燃糸漂白業でもって,次第に富を築いていっていたことも確認されている。
それぞれの街でのキリスト者との出会いには,多くの場合,その地の牧師が重要な役割を果たし
ている。キリスト教信条の相違については,彼の日記で,直接言•及している® 所はない。 しかし,
彼は私的なままりで話された宗教上の議論についての共鳴について,熱をこめた語り口で,その日
記に記している。 このような宗教上の共感が,彼の人間関係を拡大していっていたことは,容易に
推察される。そのような; * まりは様々な知識を得る良い機会でもあったであろう。また, ニーダー
ライン地方では,改革派を中心にして16世紀後半以降,長老派制度が進展しており,牧師だけでは
なく,平信徒が g らの教会行政に積極的に参加しており,彼らは領邦国家とは別の枠組みで個別の
教区を越えた,あるいは国家の行政領域をも越えたきましたニーダーライン全体の教会会議の制度
を発展させており,そのような教会制度の社会的意味は,宗教問題だけに限らず,様々な情報交換
(31)
の場としても当時において重要な社会的影響力を持っていたであろうことが推察される。
現在のところこの議論をさらに展開させるに充分な材料が手元にはない。そこでわれわれは,再
びヴッパータール内部に目を移し,個々の信条所属者の経済的社会的地位の相違が,具体的にどの
ように観察されるかを見ていくことにする。 このテーマに对して, ウンター.バルメンの二つの地
区--- ドュルナ一区およびプルッ ファー区---- は恰好の材料を提供してくれる。
図 3 :1816年バルメン. プルマファー区およびドュルナ一区の信条分布
ドュルナ一区
プルッファー区
人口 =1,349 人
注)略記号については,図 2 に同じ。
1816年プル ッ フ ァ ー 区には 1,182 人居住していた。その内,50 .5 % は改革派,39 .6 % はルター派,
そして 9 . 9 % はカトリックであった。それに対して, ドュルナ一区では,1,349 人の住民のうち,
32 .1 % は改革派,42.5 % はルター派,そして25. 4% は力トリ ッ クであった。 プル ッ フ ァ ー 区の力ト
リックの比率はバルメンでは平均的であったが, ドュルナ一区のそれは,他に比してひときわ高く,
この地域がバルメンでは力トリック系住民の中心地であったことを示している。 ドュルナ一区には,
注 (3 1 ) こ の 改 革 派 の Presbyterial.syondale V e rfassu n g については, さしあたり, J. V. Bredt, Die
Verfassung der reformierten Kirche in Cleve-Jiilich-Berg-Mark, Neukirchen 1938 を参照。
104 (.644')
実際カトリック教会が建ち ’ 隣接するゲマルケとともにゆるやかではある力;
,バ ル メ ン の 『都市』
的中心地として特徴づけることができる。 それに対してプルッファー区はエンゲルス家を中心にし
た繊後産業の特化地域であった。 この両地区はヴッバー川を挟んで対特している。
バルメンの 地区構成図
A : ドュルナ一(
DSrner)区
B : プルッファ一(
Brucher)区
( シュヴュルム)
( エルバーフエノレト)
ヴッパー川
L(下流)
(上流)
ヴッ ■
?一JI]
注意) この地区区分には居住地以外の部分C森林地あるいは草地)も含まれている。ヴッバー
タ一ルは谷間地であるため,大部分の居住地はヴッバー川沿いに集中しており,区域上
の広さは必ずしも居住地区の広さに呼応していない。また,上記は,概略図である。
図 4 :1816年プルッファ一区における信条別年齢構成
100
150
100
0— 7 ■
S-14 W
15-18 1
19-45 m
46 —60
61F
( 年齢)
」
1
_
1
m
200
150
250
300(人)
300
.
〔
女性:]
r
□
1
t
200
250
—
105 0545')
350(人)
図 5 :1816 年ドュルナ一区における信条別年齢请成
150
200
250
300(人)
250
300(人)
〔男性:
]
0
0- 7
8-14
15-18
19-45
46—60
61一
( 年餘)I
50
ニ
100
!■■■■
!■■■■—
im H
■
150
200
〔
女性;
]
■
■
1
1
サ
カトリックプロテス夕ント
これら両地区は信条別年齢構成でもかなり異なった後子を示している〔
図4 , 図5 参照) 。 まず,
プルッファー区では,19歳から45歳にかけての女性の数が,同年代の男性の数を圧倒している。そ
れに加えて, この地区では,15歳から18歳---- まり丁度修業期にある—
—
力トリックの男子若者
はいない。 ドュルナ一区はこれとは逆に,同年齢のカトリック男子は,全体の38.2% を占めており,
これはカトリック教徒の比率25. 4 % をはるかに上回っている。 また,同地区では,60歳以上の年齢
層の男性は, カトリックがはるかに優勢であり,全体の79.6% を占めている。それに対して46歳以
上の力トリックの女性は相対的に少ない。 このような年齢構成上の偏差は,大部分が流入民である
カトリックの場合,その就業機会ならびに婚姻の機会などに影響されていることは明らかであろう。
両地区の載業構成については先にも少し触れたがまったく異なった様相を示している〔
表 5 参照)。
プルッファー区では,全住民の 6 2 .3 % が繊維産業に従事しており, この地区が特化された産業地
表 5:1816 年プルッファー区およびドュルナ一区における職業構成S
Brucher
商人•企業家層
食料品•飲食构製造分野
繊維産業分野
農業分野
サービス 業
その他一般的な手工業分野
区 %
Dorner
区 %
17
3.2
29
7.2
18
3.4
21
5.2
334
62.3
92
22.8
1
0.2
0
0.0
3
0,6
11
2.7
45
8.4
136
33.7
日 雇 い • 下女その他
118
22.0
115
28.5
計
536
100.1
404
100.1
総住民数
1 ,187
1,349
史料 :StA W. AV 6. *=個々の職業分野における従事者数の構成
--- 106 {646 )
表 6 :181ti年ドュルナ一区における信条別職業構成(
従ま者数の構成)
改革派
%
ノレター 派
%
カトリ ックダ
商人• 企業家層
食料品• 飲食物製造分野
繊維産業分野
農業分野
サービス 業
17
58.6
9
31.0
3
10.3
3
14.3
4
19.0
14
66.7
29
31.5
44
47.8
19
20.7
0
0.0
0
0.0
0
0-0
4
36.4
6
54.5
1
9.1
その他の一般的な手工業分野
日雇い• 下女その他
33
24.3
34
25.0
69
50.7
30
26.1
51
44.3
34
29.6
116
28,7
148
36. 6
140
34.7
計
史料 :StA W. AV 6 (この 表では煩雑になるため親方. 奉公人の区別はしていない)
表 7:1816 年におけるプルッファー区における信条別職業構成(
従事者数の構成)
改革派
商人• 企業家層
食料品• 飲食物製造分野
繊維産業分野
農業分野
サービス 業
その他の一般的な手工業分野
日雇い• 下女その他
計
%
ノレター 派
%
力トリ ック%
13
76.5
2
11.8
2
11.8
9
42.9
9
42.9
3
14.3
105
44.9
110
47.0
19
8.1
1
100.0
0
0.0
0
0.0
1
33.3
2
66.7
0
0.0
8
17.8
24
53.3
13
28.9
55
44.4
57
46.0
12
9.7
189
43-3
197
45.2
50
11.5
史料 :StA W. AV 6 ( この表では煩雑になるため親方. 參公人の区別はしていない)
域であることは明白である。 それに対して, ドュルナ一区では伝統的な手工業に従#している割合
が全体としては多い。個々の職業における信条別構成であるが(
表 6 参照),比較的力トリックが多
いドュルナ一区ではあるものの, そ こ に 住む 20 人 の (
見習い等を除く)商 人 の う ち 13 人 は 改 革 派
( 6 5 .0 % ) であり, ルター派は 6 人 (
30.0タ
0 , カトリックの商人は 1 人しかいない。 この職業分野で
はプロテスタントが圧倒的である。繊維産業の分野では, ルター派が多数派を占めているのである
力:,全体としてカトリックは 20.7 % にすぎない。 しかし,觸織物の分野だけは例外であり, 20人の
手工業者の内9 人 〔
4 5 .0 % ) はカトリックであった。 それに対して,燃糸漂白業者,染色業者の分
野では, その経営の所有者にもまた雇用人にも力トリックはいない。 カトリック教徒はたいてい伝
統的な手工業に従ぎしており,特に仕立て屋や建具屋の享公人に多くの力トリック教徒がいた。 編
織物業はヴッパータールでは新種の産業であり, その分野に力トリック教徒が多いのはその意味で
うなづける。 しかしその後重要な産業となった染色業などでは, カトリック教徒はプロテスタン
トの親方あるいは経営者のもとで技術を習得しながら働くというようなことは全く不可能であった
ようである。 またこのドュルナ一区では, カトリックの教会との関係で牧師等の教会関係者も多数
居住していた。
プ ル ッ フ ァ ー 区では, ルター派がドュルナ一区での力トリックの人々と同様の職業構成上の役割
--- 107 (647^ ----
を担っている(
表 7 参照) 。つまり,そこではルター派が50% 以上の割合で伝統的な一般的手工業分
野に従事している。 しかし,繊維産業分野では改革派とルター派との大きな相違は見出せない。 も
っとも,商人層あるいは『工場』経営者層では改革派が優勢である。経済的な指導権は明らかに改
草派が握っていたといえる。 このプルッファー区でもドュルナ一区同様網纖物の分野では力トリプ
クの住民が活躍している。職業構成の詳しい統計表は煩雑になるので本稿では割愛したが, プルッ
ファー区で特徴的なのは, さらに,17歳から25歳にかけての力トリックの女性が編み工手伝いとし
て雇用されていたことである。 しかしそれが特別な技術習得の目的を兼ねた雇用ではあるかどう
かは明らかではない。ただ, このプルッファー区では,現代的意味での工場制度は未発達ではあっ
たものの,ェンゲルス家およびその所有家屋• 所有地を中心にして,繊維産業に従#すろ家内作業
(32)
場をi f った大小の家屋が,多数集中しており,全部で 300 人ほどが作業していたという。 このよう
な環境の中でこそ, 力トリックの若い女性もドュルナ一区とは違った就業機会を得ることができた
といえよう。
6.
おわりに
本稿では,キリスト教信条を「
思想」として取り扱ったのではない。 もし仮に歴史分析が,現実史
的 (realgeschichtlich), メ ン タ リ チ ィ 史的(mentaliほtsgeschichtlich)そ して 理念史的〔ideengeschichtlich)
と
い
う
三 つ に 分類可能であ
る
と
するならば,本稿は ウ
ェ
ー
バ
ー
.テ ー ゼ に つ い て の 現実史的分析を
行なったということができよう。 こ の 「
現実史的」な分析を通じて明らかにされたことは,キリス
ト教信条の社会的影響力といった場合に,それが特に「
地域性」を有しているということである。
その地域性とは,当時の人々の社会的あるいは地理的人口移動に重要な影響を与えていたという意
味においてであり, メンタ リ ティの レペルでの行為論的な理解とは異なる次元で把握しうる内容で
ある。既にい く つ か なされているウエ ー バ ー . テーゼにつ い て の 地域史研究の不十分さあるい は 不
明確さの原因は,その三つの次元を厳密に区別しないことによる混乱にある。例えば, メンタ リ チ
ィの歴史のレベルでは, キ リ ス ト教の社会的影響力の強度あるいは密度の違いということが一つの
研究課題になるはずである。 カルヴァン派あるいはニーダーライン地方で見られる改革派教会のよ
うに, 自律的な長老派• 教会会議制度を有するような場合には,その社会的影響力の内密度という
点で, カトリックと顕著な相違を示すであろうことは想像に難くない。そのことは,宗教の社会的
影響力を考える場合に,宗教的諸制度の現実史的な影響力に着目する必要性のあることも示唆する。
それ故本稿では, まず現実史的なレベルで,「
地域信条」の社会的影響力についての検討を試みた。
注 (32) Mitteilungen des Stadtarchivs, des Historischen Zentrums und des Bergischen Geschichtsvereins _ Abteilung Wuppertal 一 , Sonderheft anIaBlich der Eroffnung des Historischen
Zentrums in Wuppertal-Barmen, 8 (1983), Heft 4, S. 30; M. Knierium, Die Entwicklung der
Firma Caspar Engels Sohne ( = Nachrichten aus dem Engels-Haus 1 ) , Wuppertal 1978, S. 23
および S . 1 8 参照。
108 054め
そこでは,一地域社会が単一信条社会から多信条社会へと転換する過程において,個々の移入民の
適応および同化の様子を,主に統計資料に基づいて観察した。
ウ ン ター . バ ル メ ン における地域信条の検出後に行なった,一地域内部における細かな比較分析
の結果,多信条化の進行は,社会層そして個別地区ごとにかなりの差をもって進んでいることが明
らかになった。当時の伝統的な職業教育システムにおいて,ある地域信条の社会的影響力は決して
見過ごすことができない, ということである。 しかし本稿で行なったような現実史的分析は, さ
らにメンタリティ. レベルの議論へと発展させていくべきであろう。 というのも,本稿の分析の結
果として,当時の特殊信条別に観察される職業構成の原因を,ただ一面的に個々の信条所属者の職
業選択における信条別のメンタリティから説明しようとする議論には無理がある, ということは確
認できたものの,それが実際どの程度,個々人のメンタリティにおいて自己理解されていたか, と
いう点については明らかにされていないからである。つまり,む し ろ 「
理念史的」 とでもいうぺき
ウェーバー自身の議論と,本稿で行なったような「
現実史的」な議論との両者が競合する場である
メンタリティの歴史の次元で, さらに議論が展開されるべきであろうと考える。そのためには,本
稿と同様の,あるいはまた今回取り上げたような特化繊維産業地域だけではなく,鉄加工業地域あ
るいは農業地域など他種類の居住地について,比較可能な地域研究を積み重ねると同時に, この残
された課題を具体的に検討するために, さらに史料分析上あるいは理論的方法上の充分な検討が必
要となる。 また,本文でも若干触れたように, このレベルでの議論においては,局地的分析だけで
は不十分である。例えば, ヴッバータールの例で見られるように,改革派の信条が支配的な地域に
おいて,大部分が下層民に属していた力トリックの民衆の生活,その独特の住民行動を探ろうとし
た場合にも, また初期近世期,その人的交流を飛躍的に,そして超地域的に拡大していった多くの
商人あるいは企業家層の分析においても,それは1 ■えることである。 また,地域信条が住民移-励に
重要な影響を与えていたであろうことは,上記でも確認されたことではあるが,職 業 教 あ る い は
工場制度の発展との関連で,そのような傾向がいつ頃どのように変化していったかについて,キリ
スト教信条の個人主義化との関連において,18世紀から19世紀にかけての敬虔主義の運動あるいは
19世紀中葉から活発になる自由教会派の運動をも含めて,考察していく必要があろう。
〔
付記〕 本稿作成にあたり,昭和63年度慶應義塾学事振興資金による研究助成の一部を利用した。
( 経済学部助手)
109 C649)
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