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雑言 一宵一話

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雑言 一宵一話
行
第 130 号
雑言
雲
平 成 23 年 3 月 1 日
一宵一話
その三十九
藤本敬八郎
VIOLIN
①
主題の洋楽器にお話が到達するまで、暫くのあいだ迂回路をご一緒に散
策していただけませんか。歩きながら雑談とも、つぶやきともつかぬ昭和
30年代の独り言を聞いてやってください。
では、まずは就職試験のことから、お話をおこしていかなければなりま
せん。
面 接 試 験 官 :「 特 技 は あ り ま す か ? 」。
私 :「 謄 写 版 印 刷 で す 」。
官 :「 ど れ 程 の 腕 前 で す か ? 」。
私:
「 定 時 制 高 校 生 の こ ろ 、昼 の 仕 事 は 、謄 写 版 印 刷 店 に 勤 め て お り ま し
た。筆耕から印刷、製本まで小さな個人会社でしたから印刷のこと
は 何 で も や り ま し た 」( 行 雲 N o 、 1 0 7 に 詳 )。
官 :「 そ れ で は プ ロ 級 で す か ? 」。
私 :「 は い 。 プ ロ で す 」。
官 :「 そ れ は 素 晴 ら し い ! 」。
面接官も同席の書記らしいひとも好意的な笑顔で、室内の雰囲気はいち
どに和やかになりました。
官:
「 そ の 調 子 で 子 ど も た ち に 接 し て や っ て 下 さ い 。あ な た は A 小 学 校 へ
赴 任 し て い た だ き ま す 」。
1
私 :「 え ? 私 は 小 学 校 の 免 許 は 持 っ て お り ま せ ん 」。
官:
「 わ か っ て い ま す 。中 学・高 校 の も の が あ れ ば 、そ れ で よ い の で す 」。
私 :「 で は 、 代 用 教 員 で す か ? 」。
官 :「 い い え 、 正 式 の 教 諭 で 行 っ て も ら い ま す 」。
以 上 は 、 昭 和 33 年 早 春 、 神 戸 市 教 育 委 員 会 人 事 主 事 と の 面 接 で の 一 齣
です。
人事課では、応募書類を検討し筆記と小論文の試験(音楽、美術、体育
は実技試験も課す)で、合格ラインに達した者には面接をするという具合
だったようです。
あの時代は、どこの会社でも、特に学校現場の印刷物は殆どが謄写版印
刷でした。特にテスト用紙は各担任や教科担当者が自分で原紙に筆耕し印
刷したものですから、技術の差こそあれみんなができたものでした。
私 の 特 技 が 面 接 試 験 官 の 印 象 に ど う 働 い た か 、つ ぶ さ で は あ り ま せ ん が 、
少 な く と も マ イ ナ ス に 振 れ る こ と は な か っ た と 自 負 し て お り ま す 。ま さ に 、
『芸は身を助ける』というではありませんか。
◇
『神戸市立学校教諭に任ず』と『神戸市立A小学校勤務を命ず』と 2 枚
の辞令を受けとりました。
神 戸 市 で は 、古 く か ら 児 童 数 が 中 規 模 以 上 の 小 学 校 に 専 科 と し て 、
『音楽』
と『図工』に専門教員を配置しておりましたので、高い教育効果を上げて
いると他府県の関係者から羨ましがられていました。
創造美術教育(本部は東京)運動にも携わったり、また、デザイン教育
という戦後の新しい図工教育理念に共感して、それらを採り入れた指導法
を自分なりに考え出し、やりがいのある充実した教育現場の仕事は、天職
とさえ思えるようになりました。光陰矢の如く十数年の教職生活が過ぎて
いき、この間に転勤も経験して、いつのまにか中堅といわれる立場になっ
ておりました。
◇
12 月 に な る と 各 学 校 の 職 員 室 に 煙 突 ス ト ー ブ が 入 り ま す 。手 の す い た 者
が昼休みや、児童の帰った放課後にストーブの囲りで、簡単な打ち合わせ
2
や雑談をするスポットになるのは、どこの職場でも同じことで、炎のあた
たかみが人々を呼び集めるのでしょうか。こういうときに授業のヒントや
学級経営助言のアイデアがよく生まれるものです。そんな時、音楽、とり
わけ弦楽器のはなしをしている時、ある同僚がヴァイオリン製作者を知っ
て い る と 、云 い 出 し ま し た 。神 戸 近 郊 に そ う い う 人 が い る こ と に 私 は 驚 き 、
また強い興味を持ちました。かねてから、彫刻の技術を駆使して楽器を作
ってみたいと真剣に思っておりましたので、これはまたとない幸運、実現
の可能性があるかも知れない!
心はもうそちらの方向へ向いておりまし
た。
音楽好きの仲間5人が自前の楽器で童謡などを合奏しはじめて、2~3
ヶ月が経っていたでしょうか。当時、NHK教育テレビ番組で『初心者の
ためのフルート講座』がありまして、これが全国的に大人気となり、俄フ
ルーティストがあちらでもこちらでも生まれました。まちの楽器店では、
フルートが品切れで入手は数ヶ月待ちという奇異なブームまで作ったほど
でしたが、この洗礼を受けた俄フルーティストがわが仲間にも1人おりま
した。この人の楽器がいちばんまともなメロディー楽器になったのも皮肉
な結果と云わなければなりません。他の 4 人はと云えば、むかし懐かしい
音色のハーモニカ、ギター、小学生の吹くリコーダーは私が担当。音楽室
備品のタンバリンと世にも不思議なアンサンブルでしたが、それなりに興
味尽きない時間を共有できたのは音楽のもつ懐の深さというものでしょう
か。
◇
行きつ戻りつの散策で恐縮ですが、もう一度もとの道、ヴァイオリン製
作者の話題へ一緒に戻っていただきましょう。
この話を持ち出した同僚は、私たちの願いを入れて紹介の労をとってく
れました。
尋ねる人は、三田市に住む松崎さんという小学校本科の先生で、私たち
とほゞ同年輩の男の方とききますと、会う前から何となく親しみが湧いて
まいりました。
このようにヴァイオリン作りの具体的な手掛かりが見えてきたのは昭和
3
4 4 年 ( 1969) 冬 の こ と で し た 。
―つづく―
川
柳
大嵯峨
―内憂外患でも春はくる―
検察が犯罪弁護士が検事
鳩菅は『キューカン』と鳴く霞関
『佑樹ヤ~イ』入党祈願民主党
負けてやりもはやかえれぬ初土俵
八百長を裁く人ありスネにキズ
◇
『大国』は外貨準備で艦を買う
地球儀や地殻変動赤い旗
シナ海に空母一隻国ができ
海底でひと仕事陸ふた仕事
吸い盗れば甘美な味や潮の騒
尖閣に言わずもがなの旗が立つ
◇
自主評価では皆の衆三冠王
どの顔もプロになる日やキャンプイン
優勝を請負っている移籍組
2 月限ぎり6球団が優勝す
4
仁
篆刻
5
不思議の国・阿波徳島
その7
亀井
實
前号まで:1.日ユ同祖論について(日本人とユダヤ人の祖先は同じで
ある)につづいて、先月号(その6)から:2.天皇家の出自は阿波の国
③まで(編者註)
④
石 井 町 に は 気 延 山 が あ り 、矢 野 神 山 と 言 わ れ 、こ の 山 を ご 神 体 と す
る
ご 神 体 と し た 、ア マ テ ラ ス 大 神 を 祭 っ て あ る と こ ろ は 、全 国 に
なし、
また神話に出てくる主な神様の神社がみな揃っているところは日
本広しといえども、阿波の国だけである。
さ ら に 、神 話 を 忠 実 に 再 現 で き る と こ ろ は 阿 波 の 国 と 言 わ れ て い る 。
⑤ その奥には、名西郡神山町神領高根がある。ここには現在、
悲 願 寺 が あ り 、 高 燈 篭 が あ る ( 灯 台 )、・ ・ ・ ・ ・ こ の 辺 に 卑 弥 呼 が
住んでいたと言われる。
徳島には他に大きなお寺があるのに蜂須賀候もよくお参りに来た
とい言われている。また、この高燈篭は、昔はもっと高いところに
あ っ て 、 蜂 須 賀 候 が 高 根 8 軒 に 命 じ て 、 250 年 に わ た り 、 火 を 灯 さ
せ、もし、火が消えることがあれば、打ち首と言われ、火の維持を
命じられたそうである。
その火は遠く徳島市内からも見えたそう
である。
こ の 山 の 中 で 、 何 の た め に 、 250 年 の 永 き に わ た り 、 な ぜ 火 を 灯 し
続けたのか、謎に満ちている。
蜂須賀候はこの阿波の国の本当の
姿を知っていたのではないかと思われる。
⑥ 決定的なものとして
天 皇 の 即 位 式 で あ る 、大 嘗 祭 に 欠 か せ な い も の と し て 、ア ラ タ エ( 鹿
服・織布)がある。これは、神聖な神衣として、大嘗宮内陣の第一
の神座に供えられるものである、これがないと大嘗祭ができない。
こ れ を 貢 ぐ こ と が で き る の は 、徳 島 の 木 屋 平 村 の 三 木 家( 忌 部 氏 の
6
末裔)に限るとされている、昭和天皇も、今上天皇もこれで、即位
したのである。
山また山のなおまた山奥に木屋平村がある。
即 位 式 の 前 に は 、三 木 家 の 前 庭 で 大 麻 を 栽 培 、 ア ラ タ エ に し て 献 上
するのである。この前庭は竹矢来で囲まれ、鳥居もある。
昭 和 3 年 に 行 わ れ た 昭 和 天 皇 の 大 嘗 祭 の 悠 記 斎 田 式( 抜 麻 式 ? )の
とき、この場所に多くの人(何百人)がこの斎田式を見ようと集ま
っている写真がある。
三木家は
い ん べ 氏( 忌 部 氏 )の 後 裔 で あ り 、ア ラ タ エ を 献 上 す る
儀 式 は 今 に 始 ま っ た こ と で は な く 、 遠 く 、 亀 山 天 皇 即 位 式 ( 1260
年)のころからの文書が残っている。
そ の 文 章 に は 、 先 例 に な ら っ て 、早 く ア ラ タ エ を 出 す よ う に と な っ
ており、遠い昔から続いていることを証明している。
アラタエは古来から阿波の国の忌部氏が調達するものと定められ
ていたという。
それが平安時代になると明確な文書として残って
いるという。
( 貞 観 儀 式:じ ょ う が ん ぎ し き:859 年 )や( 延 喜 式:え ん ぎ し き :
927 年 ) に は 大 嘗 祭 に 関 す る 式 文 が 定 め ら れ て い て 、 ア ラ タ エ に つ
い て は 阿 波 忌 部 氏 が 御 殿 人( み あ ら か ん ど )に 指 名 さ れ 、ア ラ タ エ
を 織 っ て 神 祇 官( ち ぎ か ん )に 調 進 す る 方 法 が 細 か く 定 め ら れ て い
たという。
な ぜ 、こ の 剣 山 の 中 腹 と も い え る 山 奥 か ら 天 皇 家 の 即 位 式 に 欠 か せ
ないア ラタエ が来るのか、真に不思議であるが、もともと天皇家が
ここに住んでいたとすれば、納得できる。
当然、今上天皇のときも、忌部神社を出発点として献上された。
三里四方の地にある忌部神社と徳島眉山の麓にある忌部神社の 2 箇
所から出ている。古来、2 つのルートで運ばれているという。
⑦ 釈 日 本 記( 1274 年 )、こ れ は 、古 事 記 や 、日 本 書 紀 の 解 説 書 と し て 出
されたとされるが、その中で、
( 日 本 に は 昔 か ら 北 倭 と 南 倭 が あ る が 、 こ れ は な ぜ か 、) と い う 問
7
いに
答 え と し て 、北 倭 は わ が 国 と な す べ し 、南 倭 は 女 王 国 と い う・・・・
と な っ て い る 。 古 来 、南 は 南 海 道 で あ り 、紀 伊 水 道 、四 国 を 指 す 。
本州は東海道である。ちなみに、九州は西海道といい、決して、南
と は い わ な い 。 こ こ で は 、南 倭 に 女 王 が 住 ん で い た と 言 っ て い る 。
⑧ 国 生 み の 神 話 に 、 ま ず 、 淡 路 島 を 生 み ( も と 阿 波 の 国 に 属 す )、 次 に
伊予の二名島を生んだとある。そして、阿波の国の神の名として、
大 ゲ ツ ヒ メ (大 宣 都 比 賣 )と し て い る 、こ の 神 は イ ザ ナ ギ 、イ ザ ナ ミ の
子で五穀の神といわれる人で大変重要な神である。
天 皇 家 が 九 州 か ら 来 た の な ら 、九 州 が 最 初 に で き た と 書 く べ き だ ろ
う、
しかし、いの一番に阿波=淡路島である。これは、何かを示唆して
いるのではないか???
⑨ 次に万葉集について
イ.
古 事 記 に 仁 徳 天 皇 が 淡 路 島 に 座 し て 、は る ば る み さ け て 、つ ぎ
の歌を詠んだ。
(おしてるや、難波の崎よ、出で立ちて、我が国見れば、
あわ島、おのころしま、あじまさの島も見ゆ、さけつ島見
ゆ・・・・)
淡路島から、奈良県(やまと)は見えない、これは、四国、阿
波、今の小松島あたりを見て詠っているのでは・・・・?
難 波 の 崎 も 四 国 で す よ 。( 今 の 大 阪 難 波 で は な い )
ロ.
(やまとには、群山(むらやま)あれど、とりよろう天乃香具
山、登り立ち、国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原はかも
め立ち立つ、うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)やまとの国
は・・・)と歌われているが、奈良県のやまとには海はらもな
ければ、かもめも飛ばないのです。
そして、小松島湾のところには香具山があるのです。
ハ.
徳島県からは、日本最古の木簡がでているが、その中に、
咲くやこの花・・・・・が出ている、
8
ナニワ津に咲くやこの花冬ごもり、いまは春べと咲くやこの花
このナニワ津(難波津)も先に言ったように阿波である。
万 葉 集 に は 、や ま と の 国 の 歌 に 八 重 波 、百 重 波 な ど が 出 て き た り し て 、
海に関することが多いが、万葉集のやまとの国が今の奈良県では矛盾
だらけである。
よろしおまーぜ
松阪
昭
少年時代の生家の近くに町の集会所があった。町の道普請や、お稲荷さ
んの祭りの打ち合わせ。はたまた、何かの祝いだとして町の男衆がちょく
ちょく集まっていた。
小 さ な 町 だ か ら 、 集 ま っ て も 5~ 6 人 で 、 先 代 か ら こ の 町 に 住 む 古 な じ
み で あ る 。こ の 町 に は 同 姓 者 が 多 か っ た か ら 互 い は 幼 名 で 呼 び 合 っ て い て 、
こんな声が聞こえてくる。
・ なあ、よっちゃんよ、うちの松おまはん所へ枝伸ばしよるが切るか
ら待つてんか。
・ うちはええねんで、そんなことかまへんがな。
・ そろそろ祭りの用意やが(町の総代さんらしい)おぬしら次の日曜
出れるか。
・ よろしおまーぜ、めんめらはべっちょおまへん。
と 、こ の よ う な 大 人 の 話 、聞 く と も な く 聞 き 、大 人 の 口 調 を 楽 し ん で い た 。
◇
大正から昭和へ、神戸は神戸港で大きく発展し、働き口がおおくなり、
播州、但馬、淡路はじめ近県の人が多くそれぞれの地の言葉そのままで神
戸に移り住んできた。それらの人々の日常生活、社会活動の中での言葉が
混じり合い、変形していった。
しかし、神戸は他のものを広く受け入れる風土であったから、地方弁や
9
訛りを揶揄するのでなく、なつかしく大切にし合いながら自然に、やさし
く、ほっこりした神戸言葉となっていったようだ。
私の耳のなかには今も……いとさん、こいさん、ごりょんはん、おいえ
はん、おとんぼ、あんさん、うちら、などの人称代名詞や、せんだって、
う っ と こ 、お ま は ん と こ 、あ ん じ ょ う 、ぎ ょ う さ ん 、お ま っ か ? お ま へ ん 、
しよもない、すかたん、へました、そうだっか、そうしまひょう、などの
話言葉がなつかしく忘れないでいる。
如
月
会
津田貞子
印南は母の故里ほの煙る雨の加古川猫柳芽ぐむ
暗紫色のクリスマスローズ見つめるとワタシはワタシこの色がワタシ
吊されし玉葱芽立つ藁小屋に破戒読みし十五の早春
干鱈焼き燗壜の酒熱くして笑いし人は若き日の父
捨蚕すてこ飼い透けたる繭を眺めつつもう触れない神様の顔
久保
成行
カレンダー日々の予定こなし行く書いてない予定いつの日ならむ
終わりたいなにをたずねて独り旅もう疲れたはよう休みたい
ハイカラな嫁の巻き寿司食べながらお前の味の穴子高野干瓢
ピカピカにこんなに気分って変わるのかほんまに有難トイレの神様
空の塵のひとときかおまえとの過ぎ越し方はなれどなれども
よしおかひろこ
休みごと電話かけくる弟に用向き問えば無用の用と
彼の乗るくるま(乳母車)爪たち押しゝ日よ
かの日は現うつゝか共に古希越ゆ
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兼好にかぶれし彼の諤々にひたむき吹きし青さなつかし
二上山いろせと模し見し人あはれ能なき我らに天与の命
彼の言う成す無きて古希虚うろ深し我らが老母ははは湛然たりしを
久米
裕子
すやすやとからだ丸めて寝むるねこ幸福つれて来てくれるねこ
小林多加子
行きずりに会いたる人とひとときを掘の鴨見て別れゆきけり
友よりの手紙少しふくらみて善光寺さんの七味が届く
「わかるでしょうか」と問えば「白き髭あり」と
五十年振りの人駅頭に待つ
八っ割の白菜しんなり敷きつめて重し置くなり今日も事無く
さりげなく顔を見せてはすぐ帰る気に懸けられる齢となりぬ
桜
が
丘
生垣の棘の青さや卒業す
句
会
岡野多江子
盆梅の一輪咲くを買いにけり
木の花の散り放題や福は内
バス停の朧の中へ人こぼす
厄除けの餅胸に受く斑雪山はだらやま
小便のとぎれとぎれや寒の入り
神原
故郷を出て五十年干し大根
葱買うて今夜は妻の誕生日
着ぶくれて青春の歌老人会
人気なき団地を過ぎる焼き芋屋
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甫
雪吊りの松にたるむ縄目あり
八木
静子
久保
成行
友の訃音梅の蕾もかたき日に
冬陽さし埃り舞い立つ部屋の隅
ぶらんこは人待ち顔に公園の冬
冬ざれの散歩道や日脚のぶ
もののふも馬上貧弱雨は降る
何故死んだ目白を捨てる雪の上
ガラス越し冬陽のぬくみ睡に負け
句友よりワイン贈らる冬の夜
はつらつも消え失せにけり冬暮らし
雪景色見下ろしている昼の月
小林多加子
薄氷や郵便受けに請求書
草抜けば土ぼろぼろと霜の穴
お下がりの鶯餅に兄のこと
飛行機雲のふやけていたり四温の日
杉木立影累累と山ねむる
冨士
敬
津田
貞子
大寒の気を震わせてトランペット
凍結の蕾堅くもやや紅す
寒冷を気力に変えて梅まつり
針を刺す冷気の朝の松葉かな
見せに来る赤子の前歯春隣
蕗の薹天プラにされ匂出す
夫病んでおろおろと我が冬日あり
雛あられ子袋二つ買いにけり
寒満月ピタリ付き来る月女郎
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あれこれを ( お じ ん 的 に ) 5
久保
成行
マスコミによる相撲の八百長摘発は度を越した「責め立て」だ。相撲に
は八百長があるのは誰でもしっている。今さらなにを?の感。真剣勝負と
して演ずる見世物であり、観客は酒食でくつろぎ、砂かぶりには妓さんも
ちらほら艶をそえる。今は死語になったが、力士は男芸者といわれ、旦那
衆 が 美 妓 を 囲 う よ う に 、「 谷 町 」 が 力 士 を 贔 屓 す る の も 旦 那 衆 の カ イ シ ョ 。
なるほど時代がかわったが、相撲世界のもつ独特の「はなやぎ」はたいせ
つにしたい。
◇
と、おなじように、菅首相も「責め立て」られだが、中曽根康弘はいう
「政治家には謙虚さが必要な一方、首相には揺るぎない自信と決然たる態
度 、勇 気 、的 確 な 判 断 も 必 要 だ 。内 外 の 情 勢 を 顧 み 、
『この難局を乗り切れ
る の は 自 分 以 外 に な い 』と い う 不 屈 の 精 神 が 求 め ら れ る 。そ う 考 え る と き 、
これまでの自分自身を支えてきたのは、保守党出身の政党政治家としての
歴 史 や 伝 統 、信 念 だ っ た 。逆 に 、そ う し た も の が 、
「 市 民 派 政 治 家 」た る 菅
首 相 に は 感 じ ら れ な い 」。
な る ほ ど で あ る 。つ ま り 、
「 薄 っ ぺ ら 」と 、い う こ と だ 。し か し 、ヨ ク ヨ
ク考えてみれば、こんな政治体制にそだてた一半の責任は国民にもある。
昭 和 20 年( 1945)8 月 15 日 は な に も か も が ひ っ く り 返 っ た 。政 党 政 治 も
ごたぶんに洩れない。にもかゝわらず、左翼政党、労働組合は過去の弾圧
歴史ばかりをがなりたて、共産主義国家を美化し、新しい世界とその趨勢
を把握する努力をおこたり、原理原則にこだわり、視野狭窄症におちいっ
てしまった。この遺伝子はいまの社民党に色濃くのこされている。
◇
戦後長らくつづいた、離散集合を繰り返す野党に、小沢は「政権交代」
を旗印にかかげ民主党を誕生せしめた。それは刮目すべきことだった。し
かし動機が腐っていた。政治権力を独占するために「数こそ力、カネによ
る数」を基盤に、政権獲得のためにはなんでもありのマニフェストを掲げ
13
自民党に大勝した。
地 位 よ り も「 権 力 だ ! 」。骨 の 髄 ま で し み こ ん で い る 小 沢 は「 カ ネ・地 位 」、
許 認 可 権 を に ぎ る 幹 事 長 。そ し て 、
「 カ オ 」で あ る 首 相 に は 小 沢 よ り 清 新 さ
をかんじさせる鳩山由紀夫。しかし、これが度を越え悪かった。世界広し
といえども、これ程、節操が紙より薄い首相はいないのでは。
民 主 党 を こ こ ま で ダ メ に し た 第 1 級 戦 犯 は 鳩 山 由 紀 夫 で あ る 。そ れ に 小
沢 の 「 権 力 渇 望 症 」。 そ れ が 起 し た 「 政 治 と カ ネ 」 に ま つ わ る 数 々 の 疑 惑 。
それをなんとか必死に取り繕う菅首相。さらに、財源もないのに広げに
広げた大風呂敷のマニフェスト。公言した以上それは出来まへんと、ヒッ
コメルわけにもゆかず辛苦艱苦の菅に、三顧の礼にこたえ助っ人としてさ
さえているのが与謝野である。
◇
与謝野は「社会保障制度と税制抜本改革はこれ以上先送りできない。十
年来自分の信念として取り組んできた。税と社会保障を一体的に企画立案
してくれと命が下ったので政治家の最後の仕事として引き受けたのだ」
以 下 「 毎 日 」 の 受 け 売 り 。 平 成 18 年 に 喉 頭 が ん の 切 除 手 術 を う け た 彼
の脳裏にあるのは高橋是清である。高橋は立憲政友会に身を置き、総裁を
務めたこともあった。にもかかわらず、敵対関係にあった岡田啓介内閣に
80 歳 過 ぎ て 蔵 相 と し て 入 閣 、 政 友 会 か ら 除 名 処 分 を う け る 。
高橋の「転向」は国債増発による悪性インフレを押さえ込むため財政健
全路線にかじを切るためだった。軍事予算抑制をめざし、政友会と軍の激
し い 攻 撃 に さ ら さ れ た あ げ く 昭 和 11 年 の 二 ・ 二 六 事 件 で 暗 殺 さ れ た 。
◇
話は古いが、ベトナム戦争を指揮し空爆効果をコンピューターで計算し
たとされるマックナマラ国防長官。彼はフオードの副社長から国防長官に
スカウトされたことで有名だ。注目すべきは、国防にはド素人の彼が一人
で国防省に乗り込んだのではなく、彼の子飼いのブレーンを引き連れて乗
り込んだ。ここがポイントだ。
*ブレーン:頭脳。又はブレーントラスト(政府・企業・個人などの相
談役として専門的な助言を与える学者・専門家のグループ)を言う。
14
菅首相は現経済閣僚の海江田、野田ではまだ持てない、与謝野のブレー
ンに目をつけた?
政府与党案として上程するには学者・専門家による長
い討議、さらに議会工作・根回しが必要だ。与謝野はその組織として「社
会保障改革に関する集中検討会会議」を立ち上げ、盟友柳沢伯夫(自民党
政権で金融担当相、厚労相を歴任)をはじめとするブレーン仲間をおくり
こんだ。
◇
英国では野党にあってもシャドウ内閣(陰の内閣)閣僚は、与党同様に
政策の立案・実行の勉強・研鑽をおこなっている。日本の野党は万年野党
であったがゆえに、政策実行のためにブレーンを集めて勉強なぞしたこと
は な い 。だ か ら 、現 在 も 政 策 の 実 施 に 直 面 す る 現 実 と の 乖 離 に う ろ た え る 。
それが菅内閣に言われるお粗末さの一因でもある。
こんな場当たり的民主党に、かってのスポンサー稲盛京セラ会長は愛想
づかしの発言をした。さらに、このオッチャンにいたっては「与野党の協
力が必要なのに、国民のために何も仕事をしておらず、給料泥棒のような
も の 」。 誰 あ ろ う 財 界 総 理 、 日 本 経 団 連 米 倉 弘 昌 会 長 の 言 で あ る 。
◇
戦 後 63 年 の 日 本 の 政 治 制 度 を 総 括 し て み る に 、 あ る 種 の 「 制 度 疲 労 」
が発生しているように思えてならない。イングランド王は羊毛産業で財を
成しつつある新興成金と世俗貴族とを交えた大会議を開催した。両者をつ
なぐためには議論が必要である。その議論の場が議会であり、それぞれの
利益代表として、House
se
of
of
Commons(庶民)と、Hou
Lords(貴族)の両院が成立し今に到っている。
ひ る が え っ て 、わ が 国 で は 貴 族 院 議 院 は 消 滅 し 、代 わ り に 参 議 院 が あ る 。
衆議院は国民の代表であり、参議院も同様だから、話しがオカシクなりや
やこしくなる。
衆議員で大勝すれば必ず参議院で大敗する。このねじれ
現象がどれほど日本の政治活力を殺いだか?
与野党は徹底して現在の衆
参両院制度を徹底的に検証し、新しい時代にマッチする議院制度を作り直
すべきである
さらに、財源の裏付けのないばらまきマニフェストは廃案にし、ばらま
15
きのための国債発行は即座に停止。国民に痛みを与えない国債発行よる借
金財政をあらため。痛みをともなう増税による税収入の導入をはからざる
を得ないところまで、国家財政は危機に瀕していることを与野党は国民に
しっかり語るべきだ。
NHK政治討論でみるかぎり、各党の幹事長、政策責任者はこの増税に
論がおよぶと、それまでの勢いはどこへやらになる。民主党ばかりでなく
自民をはじめとする野党もフンドシを締めなおし国難にあたるべきである。
与野党ともに不甲斐ない。今いちど民主党にこの日本を立て直すには何
が必要か?頑張ってもらい、勉強させるべきである。
現在のような与野党閉塞状態では、いたずらに選挙しても将来に何の展
望もない。
何でも民意に問う選挙がベストではないことを、国民もこの際自覚すべ
きである。
「行蔵は我に存す」
与謝野馨経済財政担当相にわたしはこの言葉を贈りたい。
* 行蔵:出処進退。世に出て道を行なうことと隠遁して世に出ないこ
と。
福沢諭吉は勝海舟が行なった江戸城無血開城を、徳川に恩顧を蒙った武
士としてより自分の富貴獲得の方便ではなかったと、
『 痩 せ 我 慢 』で 問 う た
にたいし、
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候。
各人へ御示御座候とも毛頭異存無之候
*
行動は私の判断によるもので、けなしたり誉めたりの論評は他人様の仕
事です。どうぞどうぞ、どなたにでも勝手に御説を公開しても一向に異
存 ご ざ い ま せ ん よ 。『 幕 末 か ら 学 ぶ 現 在 』 山 内 昌 之 東 大 教 授
お問い合わせ:編集発行・久保成行
16
☎ ( 078) 994- 5209
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