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日本人とマヤの文化の比較
国際アートフェス 2008 in NUMATA Plexus No 7 「日本人とマヤの文化の比較」 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 保住将文 Masafumi HOZUMI -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------チャパス州立時事大学准教授・彫刻家 コロンブスの最後の船出(第四回目の)の時の話である。1502 年 7 月 30 日現在の中米ホンドゥ ラス共和国の北岸にあるグアナハ島沖で、スペイン船団に向かって泳ぎよってくる幅二メートル 半ほどの長い丸木舟のカヌーがあった。防水用にシュロの葉であんだ天幕を、かけ、女も交え 25 人のインディオが乗り込んでいた。石のナイフを使っていたが、その服装は、これまで西インド 諸島で見なれた裸の土人とはまるで違う。そでなしのシャッに細工のこまかい木綿のマントをつ けたスマートな姿。 "君たちはどこからきたのか" と問えば、"マアムの地から" と答えたという。この一隊はコロン ブスの旗艦をも訪問したし、その一人はしばらく通訳して同船さえした。おそらくこれが、新大 陸最高の文明を築いたマヤ族にヨーロッパ人が接した最初の記録であろう。 (石田英一郎著 "マヤ文明 世界史に残る謎 " 中公新書から) 1987 年(明治 30 年)、榎本移民団一行日本人第一時移民 34 名がメキシコ、チャパス州の地を踏 んだのが日本人最初の移民といわれています。 チャパス州のプエルトマデイロ湾に(現在ここの海に面したところに移民 100 年祭を記念して建 てられた私のデザインしたモニュメントがあります) 到着した第一次移民団は、5 月という既に 雨期を迎えて種を植える時期としては遅く、しかも当時同行していた農学者の判断違いもあり、 大失敗に終わりメキシコシティーに陳情に行く道すがら、ほとんどの方々がなくなったと伝えら れています。 現在、私の住んでいるチャパス州はベラクルス州、タバスコ州、ユカタン半島、ガテマラ、ホ ンドゥラスなどとともにかつてマヤ文明が栄えた大切な地なのです。 その昔とても高度な文明を持っていたこのマヤ文明の地に、かの有名なパブロ ピカソやアン トニオ ガウディー、ジョアン ミロなどを生んだ芸術大国スペイン人の血とマヤ民族が混血した メキシコ人は、こと芸術に関してはとてもすばらしい才能があります。 初めに私が移民としてこの地を踏んでから 16 年、新たにここマヤ文明の地で子供たちと接して 新たなる生活を始めます。日本にいたころの固くなに"生活していかなければ"という気負いはな く、ここの子供たちと(大学生)とまた新たな第一歩を踏み出します。 強いていうなら文化の違いは、生活に対する、"生きていく"ということに関する価値観の違いで しょうか。日本人は生真面目すぎて、人間として何かとても大切なものを失っているような気が します。 ここには少なくてもそのことはまだ人々の間に存在し、貧乏でも、みなが生活を楽しみ、芸術 を、楽しみ音楽を奏でて、踊り明かす夜も大切にしています。 私たち日本人はもう一度"生きる"ということはどんなことなのか、なにが私たち人間にとって大 切なことなのか、"豊かさ"とはどんなことを指すのかを考えていかなければいけません。そのこ とが、そのこと自体が、まさに、"日本人と、"マヤ文化との比較"なのだと私は考えます。