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山内くんの呪禁の夏。 - タテ書き小説ネット

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山内くんの呪禁の夏。 - タテ書き小説ネット
山内くんの呪禁の夏。
二宮酒匂
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
山内くんの呪禁の夏。
︻Nコード︼
N5809CE
︻作者名︼
二宮酒匂
︻あらすじ︼
﹃きみ、なんで火がお口から出てるの?﹄﹃⋮⋮へーぇ。オレの
火がみえるんだ﹄幼い日、墓石の陰から現れた妖しい子に、山内く
こん
んは命を救われた。小学校六年生になった山内くんは緑豊かな兵庫
にひきこまれ、この世ならぬものが見えるようにされてしま
県山奥の町で、その子、十妙院家の紺に再会する。しかし今度は
仲間
う。そのために事件につぎつぎ巻き込まれ、さらに、自分が以前か
ら誰かに呪われていたことを知る。﹃心配するな、オレが守ってや
1
る﹄紺は胸を張るが、その胸はふくらんでおり、ずっと彼女を男の
子だと思っていた山内くんは困惑せざるをえず⋮⋮?
狐と禁呪、恋とおまじないの青春オカルティックファンタジー。
書籍化決定しました。角川ホラー文庫様から出版します。
2
恩犬と火事と夏のはじまり
僕を救った犬を救うためパパは火のなかに行った。
兵庫県姫路市、七月二十六日の朝。
青ざめた山内くんは路上にパジャマ姿で立ち尽くし、炎上する築
四十年の木造アパートを見上げている。かれのパパがバイクで突入
していったばかりのその建物は、爽やかな朝の空に黒と白の煙をふ
きあげていた。
﹁非常階段からいけ、いまのバイクの男を救出するんだ!﹂
消防団の現場指揮官らしき人が大声で部下に指示していたが、﹁
非常階段側は火勢が強くて突入できません!﹂と答えられた
﹁なんてことだ﹂うめく防火服姿のその人は、突然ふりむいて、山
内くんたちアパート住民に非難をぶつけてきた。
﹁なにを考えているんだ、さっきの人は! 火事場に犬のためにバ
イクで突っ込むなど﹂
山内くんはぎゅっと唇をひきむすんだ。持ち出してきたランドセ
ルをにぎりしめる手が震えた。
︵あなたたちがプディングを助けに行こうとしてくれなかったから
パパは行ったんだ。筋を通すために︶
のどから出かかったがのみくだす。言ってもわかってもらえない。
それに素人目にも火の勢いはすさまじい。消防団が自分たちの命を
賭ける突入を行わなかったからといって︱︱それも客観的には寝た
きりの老犬であるプディングのために︱︱責めることはできない。
﹁プディングはほんまにいい犬なんです﹂
代わりに目を真っ赤にして訴えたのは、プディングの飼い主であ
る田中さんというおばあさんである。
﹁人を何度も助けたんです⋮⋮賢くて勇敢なんです﹂
3
﹁だからといってねえ、犬ですよ! しかももう歳をとってて足も
動かないんでしょう、犬くらいこうなったらあきらめるのが当然で
しょうが。代わりの犬を飼えばいいでしょう﹂
﹁寝たきりなのは、一年前に人間の赤ちゃんを車から助けて代わり
に下半身を轢かれたからなんです。あんな犬ほかにおりません﹂
朝早くから路上に避難しているアパート住民たちがむっつりと消
防団員を見つめる。﹁ああ、その犬だったんですか⋮⋮﹂新聞にも
載ったその事件のことは知っていたのだろう。消防団員はたじろい
だ様子を見せる。だが、それでも理解できないとばかりに首を振っ
た。﹁いくら役に立った犬だからって⋮⋮せっかく人の犠牲者は出
さずにすむところだったのに!﹂かれは言い捨てて救出活動に戻っ
ていった。
ミニチュア・ダックスフントの血が濃い雑種犬であるプディング
は、田中さんの亡くなった孫娘の忘れがたみである。本来ならこの
アパートはペット不可であったが、管理人に特例を認められプディ
ングは飼われていた︱︱認められるに至ったのは鋭い鼻と利口さを
活かし、さまざまな手柄をあげたからだ。管理人の奥さんが紛失し
た宝石を発見した。住民女性の部屋にひそかに侵入しようとしたス
トーカーに吠えかかってお縄に持ち込んだ。誘拐された子供のにお
いをたどって発見したときに、完全に住民に認められた。
なおその誘拐された子とは、山内くんのことである。
︵あの六年前の誘拐事件のときは、プディングが僕のところにパパ
を連れてきてくれた⋮⋮でも、その借りのためにパパはいまあそこ
に行ってしまった︶
黒煙をぶすぶすと吐くアパートの窓に人影が見えないかと、山内
くんは目を凝らした。残念ながら煙の奥に見えるのは赤く凶暴な炎
だけだった。
﹁ごめんなあ、山内くん。私がいつもどおりプディングを散歩に連
れて行ってれば、お父さんに助けに行ってもらうこともなかったの
に⋮⋮﹂
4
田中さんがすすり泣きながら謝る。
﹁いえ⋮⋮僕も、避難のときプディングが残ってることを確かめな
きばぶえ
かったから⋮⋮﹂
︵牙笛が鳴って目が覚めたとき、いつもみたいにあわてて逃げちゃ
った︶
自己嫌悪で山内くんはため息をついた。牙笛︱︱その不思議な笛
がひとりでに鳴ったとき、山内くんはすぐにその場を離れるように
している。そうやって災いを避けてきたのだ。しかし今回はその反
射的な行動が裏目に出ていた。
田中さんは外出するときはいつもプディングを抱いて連れて行く。
そして朝の早い彼女は、明け方ごろに姫路城周辺の遊歩道を散歩す
るのが昔からの日課だった。だから山内くんたち住民も、朝の火事
であわてて避難したとき、田中さんとプディングの姿が見えなくて
もさほど心配しなかったのである。火の手が上がる前に、田中さん
が出かける姿をちらりと見た人がいたのだ。
しかし住民が知るよしもなかった。老いた近頃のプディングは起
きるのが遅くなることがあり、田中さんはその場合愛犬を寝かせて
おいてひとりで散歩に行くのだなどとは。今日がたまたまそういう
日であった。
戻ってきた田中さんは燃えるアパートに駆けこもうとして、消防
団と住民に押さえこまれた。田中さんをはがいじめにしたのは、通
勤中だったのをUターンして戻ってきた山内くんのパパだった。そ
して結局、泣き崩れる彼女を間近で見ていたパパ自身がバイクにま
たがったのである。
﹃あの犬は何度も俺たちを助けたからな﹄燃えるアパートへの突入
前、パパはそう言った。﹃今度はこっちが助けるのが人としての筋
だわな﹄と。
しかしパパは山内くんの同行ははねつけた。﹃ぼ、僕もいっしょ
に行く!﹄と衝動的に声をあげたとたん、返ってきたのは﹃阿呆!﹄
の怒声である。ちょっとみんなこいつ見といてもらえますか、とま
5
わりの住民に念を押すやいなや、パパはバイクを発進させて消防団
の封鎖線を突破したのだった。
︵あのバカ親父、僕を孤児にしたら一生恨んでやる︶
憎しみに変わりそうなくらいに強くパパのことを案じながらも、
山内くんは田中さんに首をふった。
﹁パパならプディングを連れてすぐ帰ってきますから。だから謝る
のはやめてください﹂
それに⋮⋮
︵この火事自体、また僕が呼び込んでしまったものかもしれない⋮
⋮同じアパートの人たちを巻き込んでしまったのかも。責められる
なら僕じゃないだろうか︶
それを思うとくらくらする。自分が煙を吸ってしまったかのよう
だ。
死んだらいやだパパ、と山内くんが息をつめて願ったときだった。
アパートの二階の窓が砕け散った。火の粉と轟音をともなって。
下で見上げている者たちの目が点になる。
炎の尾を引くロケットさながら燃えて飛び出してきたのは大型二
輪の青い車体。
スズキ・イナズマ1200。
周囲でガラスの破片を乱反射せ、パパは朝日に輝きながら飛んだ。
そのままアパート前にある姫路城の堀に放物線を描いて突っ込ん
だ。
どぱーんと派手に水しぶきが上がる。
﹁うわあああ!?﹂
絶叫して山内くんはコンクリートでかためられた堀端へと走る。
どきどきしながら堀をのぞきこむと鯉が三、四匹浮いてきた。バ
イク墜落に巻き込まれた衝撃で気絶したらしい。
藻と白い魚腹がぷかぷか浮かぶ水面に、海坊主のごとくフルフェ
イスメットの頭部が現れた。続いてざばあと水を分けながら巨体が
上がってくる。内側から筋肉で弾けそうな黒いライダースーツ。
6
山内くんのパパ。元ヤンキー。現在は喫茶店のマスター兼評判の
バリスタ。身長二メートル体重一○二キログラム。やや細身で背丈
も同年代小学六年生の平均しかない山内くんとは、親子にすら見え
ないマッチョマン。
それでも山内くんのたったひとりの身寄りである。
﹁プディング生きてるが、だいぶ煙吸ってるからすぐ獣医んとこ行
ったほうがいいな﹂
パパの野太い声が響く。パパは腹に巻きつけた大きなポーチから
息絶え絶えの老犬をつかみだし、岸にかかげた。わっと歓呼が湧き、
山内くんのそばに来ていたアパートの管理人のおじさんがあわてて
プディングを受け取る。田中さんが手に顔を埋めて嗚咽し、まわり
の住民たちが動物病院へのタクシーを手配しはじめた。
岸によじのぼったパパが水したたるメットを脱ぎもせずがははと
笑った。
﹁消防団の連中は﹃堀のせいで消防車が燃えてない部分に寄せられ
ないからはしご突入できん﹄とかなんとか言ってたが、こっちは堀
のおかげで助かったぜい﹂
﹁こっ、この、なにをのん気にっ!﹂
山内くんはふだんおとなしい子だが、このときは感情がたかぶっ
ている。かれはパパの腹に正拳突きを叩きこんだ。
﹁さんざん心配させておいて⋮⋮!﹂
不覚にもじわっと涙がにじむ。
拳は厚い筋肉の壁に受け止められただけだったが、安堵の涙のほ
うはパパをひるませたらしい。気まずそうにパパは山内くんを見下
ろして詫びた。
﹁すまんな。プディングを助けるにゃ今すぐ突っ込むしかねえと思
ってよ﹂
涙をぬぐいながら山内くんは首をふる。
7
﹁助けに行くこと自体は別に怒ってなんかっ⋮⋮﹂
︵パパは本物のバカだし、よその人が今日のこと聞いたら馬鹿にす
るかもしれないけど︶
それでも山内くんにとっては、パパはヒーローなのだった。
﹁ま、無事だったんだから。それより家もバイクもなくなっちまっ
たな。どうするかねえ﹂
頭を掻いてパパは言った。黒焦げになりつつあるアパートを見な
がら。
拳を引いて、山内くんは苦渋のこもった声を出す。
﹁あの、パパ⋮⋮この火事、僕のせいかな?﹂
﹁違う。何を言ってんだおまえ﹂
﹁パパはそう言ってくれると思ってた。でも管理人さんがさっきつ
ぶやいてたんだ。出火原因に心当たりがないんだって。
一階の開かずの物置あったでしょ? あの部屋がまず燃えて、た
ちまち火が広がったらしいんだけど⋮⋮鍵がかかってだれも入らな
い部屋で火の不始末はおろか放火すらありえない、って。
こういうの、僕のまわりでよく起こるじゃないか﹂
はら
不気味な事故は、山内くんの人生につきまとうものだった。
﹁僕⋮⋮やっぱり、もういちどどこかでお祓いとかさ⋮⋮そういう
の、きちんとしてもらったほうがいいんじゃないかって﹂
パパはしばし無言だった。﹁それも考えるとなると﹂かれはよう
やく言った。
﹁こりゃ、ちっと実家のほうに身を寄せるしかねえなあ⋮⋮あの土
には帰りた
にあるの? 行く
あの町
あの町
地にはおかしなことの専門家みてえなのがいる。俺の後輩だが﹂
﹁え? 実家あったの⋮⋮もしかして
の?﹂
山内くんは驚いた。パパは墓参り以外では
がらない。実家が残っているなどと山内くんは聞いたこともなかっ
た。
だが、今回パパは腹をくくったようだった。
8
﹁どうせしばらく寝泊まりするところも必要だしな。盆にはちと早
いがいったん、俺の田舎に行こう。現金とカードは持ちだしてきた
んだろう?﹂
﹁うん⋮⋮あ、その前にパパ、消防団の人にめちゃくちゃ怒られる
と思う。ほら、あっちからずかずか歩いてくる﹂
ありゃだいぶカッカきてんなあ、とパパが情けない声を出した。
かくして小学六年生の夏休み序盤。
山内くんは、家を失ってパパの故郷の田舎へ身を寄せることにな
った。
9
火を吹く狐と牙の笛
かんめいぐんあかるちょう
七月末日 兵庫県神明郡明町
正午前、山寺に通じる石段
かみさまがくれたおてだまひとつ
ふたあつ、みいっつ、よっつに、いつつ
うた
石段に落ちかかる大枝の陰で、青白い火が揺らめいた。リズミカ
ルな数え唄が、蝉しぐれにまじって段の上からすべり落ちてくる。
︱︱あ。
山内くんは見上げて動きを止めた。かれは手にひしゃくを入れた
木桶をさげている。この町を訪れたばかりで、墓参りのため石段の
半ばまで上がってきたところだった。
手すりの上を、見覚えのある小柄な人影が軽やかに渡ってきてい
た。てのひらを外側に向けて両腕を体の横に突っ張り、やじろべえ
のようにバランスをとりながら。
︵また出た⋮⋮︶
火を吹く男の子。
むっつに、ななあつ、やあっつ、ここのつ
とおでとうとうさけました
緑の木漏れ日を浴びるその姿は、山内くんと同じくらいの背丈で
ある。偶然であろうが現在の格好もだいたい同じだった。プリント
Tシャツ、下は膝丈のショートパンツ、足にはスニーカー。
ただしその子には、はっきりと尋常でない点があった。唇から唄
とともに青い火がちろちろと漏れているのだ。
10
美少年と呼ぶに足る怜悧な顔立ち︱︱耳にかかる長さの柔らかげ
グミ
な髪、切れ長の目に細くすっきりした眉、形よく通った鼻梁、薄く
れないの茱萸の実のごとき唇︱︱に、ゆらめく火が妖しさを添えて
いる。なめらかな頬をなでるように、ふありと青い火が横になびい
た。
﹁んひひ。ひさしぶり﹂
山内くんに焦げ茶色の瞳を向け、火を吹く子はにいっと白い歯を
見せて笑った。唇が柔軟なのか、両頬の半ばまで笑みの三日月が吊
り上がる。
笑いかけられてたじろぎながらも、山内くんはうなずく。相手の
名前も知らないが一応、顔見知りであった。兵庫県内陸部のこの町
に来るたび、顔をあわせている。
火を吹く子は手すりを蹴り、ひょいと身軽に山内くんのそばに降
り立ってきた。
﹁オレの言うこと守ってるか? あの笛はちゃんと持ってる?﹂
﹁う、うん。ずっと持ってる﹂
きばぶえ
火を吹く子の確認に、山内くんはしっかりとうなずく。﹁ほら、
ここにあるよ﹂木桶を置いて、首からひもで下げていた牙笛を見せ
た。
その子はちょっと真顔になってうなずいた。
﹁手放すなよ。それがなきゃおまえ、へたしたら死ぬから﹂
山内くんは押し黙る。
呆れてではない。その子の言うことは誇張ではないとかれは知っ
ていた。
山内くんは多くの災難に巻きこまれてきた。
幼いころ、落ちてきた看板に肩を強打されて鎖骨が折れたことが
ある。落下地点がもう少しずれて頭に当たっていれば死んでいただ
ろう。はじめてのお使いで最寄りのコンビニに行ったときは、刃物
11
を持ったパニック状態の強盗に人質にとられて半日連れ回された。
山内くんがコンビニに踏み込んだのは、思わぬ抵抗を受けてかっと
なった強盗がレジの店員を刺殺した直後だったのである。マンホー
ルから下水に落ちたり、ハイキングでは霧にまかれて遭難したり、
ふたたび誘拐されてバットで足を叩き折られたり⋮⋮細かい事故や
不運な怪我は日常茶飯事であった。一年じゅう薬のにおいやばんそ
うこうと縁の切れない子供だったのだ。
かれが小学校に上がるころにはそれはいよいよ酷くなる。後ろに
誰もいないのに列車通過中の踏切へと突き飛ばされたり、サイドブ
レーキがかかっていたはずの無人の車が歩道にのりあげてかれを押
しつぶそうとしたりと、奇怪な出来事が相次いだ。
山内くんのパパもこれには長年思い悩んでいたらしい。お札やお
守りをときたま買ってきて息子の身につけさせていた。効果はなか
ったが。
そして五年前のある日、とうとうパパは山内くんを初めて連れて
この町に来たのである。この山寺に。
﹃この墓はおまえの先祖の墓だ。もっと早くおまえを連れて来てお
けばよかった﹄パパはしんみり述懐した。
頼りになる人
﹃⋮⋮この町やここの祖霊とふたたび関わるなんざまっぴらだった
んだが、そうも言ってられねえからなあ。ちょっと
に連絡とってくるからおとなしくしとけよ﹄パパは墓地のはずれ
に行って携帯電話でだれかと話しこみはじめた。
火をちろちろと吹くこの子に最初に出会ったのは、その折である。
ぽつんと待っていた山内くんは声をかけられたのだ。墓石の陰か
ら顔をひょこんとのぞかせた人影に。
﹃おまえが、おかーさんのいってたこ?﹄
最初山内くんは怯えてあとじさった。
かたびら
びゃっこ
現れたのは同い年くらいの幼児だったが、死に装束のごとき白無
地の帷子姿。顔には祭りで使われる白狐の面をつけていた。
しかも面を外すと、その唇からは細い青火が、呼気のたびに漏れ
12
ている。
その子は山内くんに顔を寄せ、間近でじろじろと見てくる。後じ
さりしながらも、山内くんは気になっていたことを聞いた。
﹃あの⋮⋮きみ⋮⋮なんで火がお口からでてるの?﹄
その子は目を丸くしたのち、ニイと笑った。
﹃へーぇ。オレの火がみえるんだ。じゃあ、これは? おまえもで
きる?﹄
その子は華奢な右手でこぶしをつくり、中指とひとさし指のみを
そろえて立たせ、それを山内くんの眼前につきつけた。二指はひら
めくように動き、虚空になにかの印を描いた。山内くんはわけもわ
からず目をしばたたく︱︱首筋のあたりがぞわぞわする感覚があっ
たが、それ以外に特になにもおかしなことは起こらなかった。
﹃ふうん。はんぱもんなんだ﹄
山内くんの戸惑った反応に、その子は指を下ろして興ざめした声
でつぶやいた。
﹃まあいいや。これやる﹄
その子は左手に握っていたなにかを突き出してきた。おどおどし
うが
ながら山内くんは受け取る。それは五センチほどもある、白い獣の
犬歯だった。
︵なにかの、きば? ⋮⋮あながあいてる︶
先端から根本まで、針で貫いたかのようにごくごく小さな穴が穿
たれていた。ひもがついて、首から下げるようになっている。
それを手渡され、山内くんはあっけにとられて目をしぱしぱさせ
た。
﹃あ⋮⋮ありがと?﹄
だが礼を言うのは早すぎたかもしれない。次の瞬間、その子は山
内くんが首からさげていたおもちゃの双眼鏡︱︱当時のかれの宝物
︱︱をうばいとった。
﹃オレ、たいくつしてたんだ。代わりにこれちょーだい!﹄
一瞬で泥棒と化したその子は、茶目っ気たっぷりの笑いを残して
13
駆けだした。われにかえった山内くんは慌て、泣きそうになりなが
ら追う。
笑うその子は墓の合間をすばやく縫って走った。逃げながら、か
山のかみさまの牙
をけずった笛で、おまもりだから!
れをふりむいてなおも笑った。
﹃それは
みにつけとけよっ﹄
﹃こんなのいらないっ、ぼくのおもちゃかえして!﹄
﹃つぎきたときにその笛とこうかんしてやるよ! だからかえして
ほしけりゃ、笛ちゃんともっときなっ﹄
けっきょく逃げ切られたとき、パパが首をかしげつつ戻ってきた。
﹃向こうに会うまでもなく、たったいま解決したと電話で言われた。
今後は大丈夫らしいぞ⋮⋮なんだかわからんが、そういうことだか
ら帰るか﹄
泣く泣く山内くんは牙笛を持ち帰るはめになった。
まったく嬉しくなかった。その牙笛はどこか雰囲気が陰々として、
子供心にも気味が悪かったのである。それに穴が小さすぎるのか、
鳴らしてみようとくわえて吹いても音はさっぱり響かなかった。
︵鳴らない笛なんかなんにもおもしろくない︶
しかし、その日のうちに、牙笛は鳴り響いたのである。
帰路、﹃喉渇いたな﹄とパパが、谷に面した峠道の自動販売機前
で、二人乗りしていたバイクを止めたときのことだ。
山内くんが首にかけていた牙笛は、ひとりでに震えるや、かん高
い音を放ちはじめた。
いいいいいい、いいいいいい⋮⋮
山内くんの背が総毛立った。その音はどういうわけか、かれに警
告しているように聞こえたのである。逃げろ逃げろ逃げろと。
ココニイテハイケナイ
その直感は、嫌な予感などという漠然としたものではなかった。
14
必死にかれは騒ぎ、パパをせっついてどうにか自動販売機の前から
バイクを発進させた。パパは笛の音が聞こえないようで﹃なんじゃ
い。ゴミ箱の前で飲み物片づけさせろや﹄とぼやいていたが。
直後だった。頭上でがけ崩れが起きたのは。
土石流は、最前までふたりがいたところを直撃し、ガードレール
を突き破って自動販売機を谷底まで押し流していった。
で、普通の子供服を着て現れた火を吹く子は、に
⋮⋮それからも、大なり小なり危ないことが起きる前に牙笛は警
墓参り
告してくれた。
次の
やにやしながら山内くんに双眼鏡を見せ、聞いてきた。
﹃こうかんしなおす?﹄
山内くんは牙笛をにぎりしめてぶるぶると首を横に振った。
⋮⋮以来、年三回、盆と春秋の彼岸が迫るころに、山内くんはパ
パに連れられてこの山ぎわの田舎町を訪れる。そのたびに、この不
思議な子はどこからともなく現れる。決まってパパが離れ、山内く
んがひとりでいるときに。かれだけに会いにくる。
なぶるような惑わすような、妖しい笑みを浮かべて。
15
十妙院
﹁笛、万一なくしたり壊れたりしたらすぐこの町に来な﹂
濡れるような蝉しぐれのなか、火を吹く子はそう言いおいて石段
を下りていこうとする。その足が止まったのは、山内くんがおずお
ず報告したからだった。
﹁あのさ⋮⋮僕、しばらくこの町にいるんだ﹂
ふりかえった相手は目を丸くした。
﹁この町に? なんで?﹂
アパートが全焼したことをひととおり話しながら、山内くんは火
を吹く子をまじまじと見つめる。最初の出会いからもう五年にもな
る相手︱︱それなのに名前すら知らない相手。
思いきって切り出した。
﹁あの、この機会に教えてくれたらうれしいんだけど⋮⋮君、名前
なんていうの? どこの家の男の子?﹂
ちゃんと話してみたい、相手がどこのだれなのか知りたいと、山
内くんはずっと前から思っていたのだ。それに、まがりなりにも命
の借りがある相手だ。
︵あらたまったお礼をするのが筋だよね︶
だがその子は、山内くんに﹁どこの男の子﹂と問われると、きょ
とんとして目をしばたたいた。それから﹁⋮⋮ふーん﹂にいっと片
頬をつりあげ、結局名前は言わずに﹁こっちにいるんなら、おまえ
も祭りに誘わなきゃな﹂
いきなり身をひるがえし、その子は石段を駆け下りはじめた。あ
っと息を呑んで山内くんは手を伸ばした。
﹁待って!﹂
追いかけたが、火を吹く子は相変わらず足が早かった。たちまち
下に着いて、神社の向かいの家の陰に飛びこんでしまう
16
﹁待ってってば!﹂
あきらめずに山内くんがなおも追いすがろうとしたときだ。
﹁おーい、こっち﹂
声をかけられた︱︱背後から。
ふりむくと火を吹く子が、いましがた下りてきたはずの石段上に
いた。山内くんにむけて手を振っている。
足が速いんだな、で片付けられる距離ではない。山内くんはたち
すくんだ。
︵消えて⋮⋮現れた?︶
呆然としたかれの様子を見て、火を吹く子は嬉しげである。両手
なごし
で口元に拡声器をつくり、叫んできた。
﹁今日の夕方七時! ここの境内で夏越の祭りあるから来いよ! それと﹂
ふと真剣な顔になって、立てたひとさし指を唇に当てた。
﹁夜になったら、口に出してものを数えちゃだめだからな。この町
にいるあいだは﹂
じゃーな、と手をひとつ振ってその子は背を向け、駆けていった。
﹁⋮⋮数えるな? なにそれ﹂
意味わかんないよ。そうぼやきながらも、山内くんは背筋にうそ
寒いものを感じた。
かわらぶ
山内くんのパパの実家というその家は、屋根が瓦葺きの和風建築
である。
敷地面積はそこそこあるが、﹁こぢんまりとした﹂印象の家だっ
た。
どういうことかというと、造りが全体的に昔の人のサイズなのだ。
17
天井や鴨居が低い。プロレスラー並みの体格であるパパは、座敷か
ら座敷へ移動するだけでもいちいち身をかがめて戸口をくぐらねば
ならない。﹁ちっ、これだから実家はイヤなんだ﹂と、何度目かに
鴨居に頭をぶつけたあと、顔をしかめてパパは毒づいたものだ。
いま、パパはせまくるしい台所で、巨体を折り曲げるようにして
ガスコンロの前にかがみこんでいる。
サングラスをかけてお昼ごはんのチキンオムライスを作りながら、
パパは毛のない眉︱︱ぐれていた十代のときに永久脱毛済み︱︱を
片方上げた。
﹁この町にまだあんのか、そのわけわからんしきたり﹂
夜間にものを数えること禁止、という話を聞いての反応である。
﹁声に出して数えちゃだめ⋮⋮って、やっぱり迷信なの?﹂
山内くんは茹でた青菜を包丁で切り刻みながら聞いた。パパとお
そろいのエプロンをつけて手伝い中である。
﹁はん、迷信に決まってんだろうが﹂
パパは鼻で笑ってオムライスを皿に移した。かれが二メートル近
すす
い背を伸ばすと、眉と同じく脱毛してあるスキンヘッドが、台所の
煤けた板天井にこすれそうになる。
﹁ここらは山と川しかねえ、クソがつくど田舎だからな。そういう
のが大量に残ってんだ﹂
そううそぶきながらも、パパはその後でぽつりとつぶやいた。
﹁⋮⋮でもおまえは守っとけ﹂
﹁う、うん﹂
﹁で、だれからそんな言い伝えのこと聞いた﹂
おずおずと山内くんは打ち明けた。
﹁例の笛をくれた男の子に。また会ったんだ﹂
パパはゆっくりと山内くんに顔を向けた。軽い雰囲気は完全に消
えていた。
﹁なるほどな。それなら絶対に守ったほうがいいな﹂
﹁うん⋮⋮あのさ、パパ。もしかして、あの子がどこのだれだか知
18
ってるの?﹂
﹁まあな﹂
そっけないといえるほど淡々とパパはうなずき、なにか考えこむ
様子になってそれきり口を開かない。
すぐ教えてくれたっていいのに、と山内くんはちょっとむっとし
た。
︵こんなパパはじめてだ。いつもうざったいくらいあけっぴろげな
のに、この町にかかわることじゃ秘密主義になってる︶
パパが教えてくれないために、この町のことはなにもかも謎ばか
りだった。
たとえばこの古い家︱︱山内くんが会ったこともない﹁おじいち
ゃん﹂が昔住んでいたらしいのだが、かれが死んで以来住人はいな
いとの話だったのに⋮⋮
︵明らかについ先日までずっとだれかが管理してたよね、ここ。荒
れ果てたあばら家とはほど遠いもの。ガスも水道も通ってるし⋮⋮︶
だがパパは事情を明かしてくれるそぶりはまったく見せない。
﹁⋮⋮ねえ、パパ。その子に夕方のお祭りに来いと誘われてるんだ
けど﹂
﹁ん? おお、そうか。着るならじいさんがしまっていた浴衣を出
しとくぞ。俺もこっちの祭りはひさびさだ。そういやこの土地も嫌
な思い出ばかりでもねえな﹂
パパは気をとりなおした様子でちょっと浮かれだした。山内くん
は申し訳なく感じながらもその喜びに水を差す。
﹁あの⋮⋮それだけど、ひとりで行ってみていいかな﹂
﹁なにい? 危ないだろうが。夜道だぞ﹂
パパはいい顔をしなかった。
﹁僕はもう来年は中学生だってば! なにかあったらためらわず逃
げるし大丈夫だよ。いいでしょ﹂
山内くんは力説する。友達になってみたい相手と会うとき、父親
にそばについていてもらうのは恥ずかしい︱︱自分がファザコン気
19
味の自覚があるだけに、余計そう意識してしまったのである。
けんめいな説得ののち、とうとう、面白くなさそうではあるがパ
パは許可してくれた。
﹁ふん⋮⋮十妙院の子がついているなら大丈夫か。だが遅くならず
さっさと帰れよ﹂
﹁じゅうみょういん⋮⋮﹂
それがあの子の姓なのだろうか。山内くんは記憶に刻みつけるよ
うにつぶやく。
﹁ああ。今回、おまえのお祓いをやってもらうところもそこだ﹂
重大なことを告げて山内くんを瞠目させたあとで、パパはふと首
をかしげた。
﹁いや、待てよ⋮⋮んん? あそこに男の子が生まれたなんて話聞
いてねえな。じゃあおまえの友達とやらは別人か?﹂
﹁なんだよそれ。あやふやだな、どっちなのさ﹂
﹁ううん⋮⋮夕方会うならついでに聞いてきたらどうだ。どっちみ
ち明日には十妙院の家へ行くがな﹂そのときはっきりわかるとパパ
は言って、﹁それはそれとして、おからす様に今日の供え物もって
け。こればかりは、この屋根の下にいるかぎり欠かしちゃならねえ﹂
卵をパパに手渡される。
山内くんはいったん庭に出ると、縁の下を覗きこんだ。
﹁おからす様。お供えです﹂
呼びかけて、卵をそっと闇の奥へと転がし、手を合わせる。
卵や、丸いおにぎりや、丸い果物を一日一度縁の下に置く︱︱こ
こに来る前に言い聞かされてはいたが、この儀式のことはよくわか
いたち
らない。縁の下になにがいるのかもよくわからない。
闇の奥でなにか動いた気がしたが、鼬かなにかかもしれなかった。
20
狗眼見鬼
夕刻。
山寺の境内は、祭りの露店に埋め尽くされていた。夜気にむっと
こもった熱が満ち、夏山の草葉や花火の煙のにおいが混じっている。
屋台電球の明かりのもと、金魚すくいやラムネ売りの客呼びの声が
響いていた。
つゆくさ
︵どこだろ、あの子︶
露草色の子供浴衣を着、牙笛を首から紐でさげて、山内くんはち
ょうちんや屋台電球に照らされた祭りの場をうろうろしていた。少
々心細い︱︱人が多くにぎやかとはいえ、なにしろ見知らぬ土地の
夜だ。
︵パパとの約束があるし、長居はできないや︶
あの子に会えなくても、八時になる前には帰ろうと思ったときだ
った。
﹁なあ。姫路からきたやつっておまえだろ﹂
目の前にたちふさがられて山内くんはぎょっとする。狐の面をつ
けた少年ふたりと少女ひとりが、三人で山内くんを囲んでいた。
﹁そうだけど、な、なに﹂
﹁連れてくるよう言われてるんだ。こっち﹂
三人はすたすた歩き出した。戸惑いながらも、山内くんはその後
をおとなしくついていく。
少年たちの歩みは、境内のはずれ、人気のない方へと向かった。
頭上の木々の太枝には縄がはりわたされ、和紙製のちょうちんが無
みかげいし
そとば
数に連なって、古電球の淡い光を内側からにじませていた。立ちな
らぶ御影石、卒塔婆⋮⋮山内くんは、すぐにその場所がどこだか気
づいて身をすくませた。
︵お墓じゃないか︶
21
と、複数の懐中電灯の光線が彼らに当てられ、彼をさらにたじろ
がせた。墓石の陰から狐の面がふたつみっつ、ひょいひょいとのぞ
いてくる。背丈からして、山内くんや彼を連れてきた少年たちより
ももっと幼い子たちである。
墓地の真ん中に樹齢数世紀はありそうな大クスノキがそびえてい
た。その太い幹にひときわ大きなちょうちんがゆわえつけられ、煌
々とあたりを照らしている。
大ちょうちんの下にはどこから運んできたのかでんと木製の酒樽
が置かれている。
そしてあの子が、樽に腰かけてにんまりと笑っていた。
﹁ははっ、来た来た﹂
︵あ⋮⋮︶
きょうかたびら
既視感に山内くんは襲われた。その子の格好は、初めて出会った
せった
日のそれによく似ていた。死者の着る経帷子のような珍しい白無地
の浴衣。ぶらぶらさせる足には赤い鼻緒の雪駄。
﹁あの⋮⋮なにこれ﹂
年代ばらばらな狐面の子供達に取り巻かれて緊張しながら、山内
くんはたずねた。唯一顔を見知った相手である火を吹く子に。
﹁んー、歓迎会? あるいは仲間入りの儀式みたいな?﹂
﹁な、仲間入り?﹂
﹁おまえしばらく、こっちにいるんだろ? 滞在中は、オレたちと
行動してもらうからな。毎日、その日はみんなどこで遊ぶか連絡回
すから、参加したきゃ気軽に来な。参加したくなきゃ、勝手に誰か
を家に呼ぶのも、誰かの家に行くのも止めないぜ。ただし外じゃ、
日没後は勝手にうろつくな﹂
一方的に言いわたされ、山内くんはあっけにとられる。
﹁え⋮⋮あの﹂
﹁山や川や廃墟⋮⋮誰もいないところには一人で遊びに出るな。行
くならまず、どこへ行くのかオレに言え。オレが行っちゃダメと言
ったとこには絶対行くな。やっちゃダメと言ったことは絶対やるな。
22
たとえ誰がなにをそそのかしても﹂
﹁ま、待ってよ﹂
山内くんは、遊び仲間に入れてもらうことが嫌なわけではない。
むしろこの子とはずっと、友達になってみたいと思っていた。
だが、こうまで頭ごなしに行動を束縛されるとは思ってもみなか
った。
﹁うっとうしいなと思ってんだろ﹂火を吹く子は見透かしてきた。
﹁いつどこで遊ぶかなんて自由にさせてほしい、って﹂
﹁うっとうしいってほどじゃないけど⋮⋮理由がわからないし﹂
山内くんがためらいがちに言うと、相手はいまいましげに口の両
端を下げた。
﹁普通ならオレだってこんな面倒なことしない。けど、いまこの町
の状況は普通じゃねーから﹂
﹁⋮⋮普通じゃないってどういうことさ﹂
かまぶたついたち
﹁ここ何年か、町そのものが霊的に活性化してる。それに時期が時
期だ。今夜から釜蓋朔日で、さらになにか起きやすくなってる。だ
からこの町にいるつもりなら、明日から盆まで半月はオレにしたが
え﹂
﹁かまぶた? さっぱり言ってることがわかんないんだけど﹂
﹁盆が近いからあの世の門が開きっぱなしになる。その最初の夜だ
よ﹂
さらりと電波チックなことを言われ、山内くんはやや困惑した。
おかまいなしにその子は続ける。
﹁この土地はもともとおかしなものを呼び込みやすいんだ。おまえ
の体質と同じさ。そんで、おまえみたいなのはいまの時期だと特に
影響受けちまう。ここに集まってるみんなは、おまえと同じ﹃影響
受けやすいやつら﹄だからオレが面倒みてんの﹂
その説明で、山内くんはおぼろげに相手の言わんとすることを理
解した。
﹁⋮⋮なにか危険があるかもしれないから、まとまって行動しろっ
23
てこと?﹂
だがそれにしても、そんなあやふやな理由で団体行動強要は大げ
さではあるまいかと思う。迷いが顔に出ていたのだろう、火の子が
瞳を細めた。
﹁オレの渡した笛使ってるだろ。いまさら無関係とは言わせないぞ、
山内﹂
姓を呼ばれ、山内くんの心臓がはねた。
﹁え、僕の姓を知ってるの⋮⋮まさか下の名前も!?﹂
﹁なに動揺してんだよ。下までは知らねーよ﹂
よかった、と山内くんはかろうじて胸をなでおろした。
︵名前を知られてなければいいや⋮⋮︶
安堵したのもつかの間、
﹁じゃそういうことで、あらためてよろしくな。下の名前なに?﹂
火を吹く子はさっさと話を進めてしまった。山内くんにとって最
悪の方向に。
﹁う⋮⋮上の名前がわかってるならそれでじゅうぶんじゃないか。
僕だって君らの名前知らないし﹂
なおふみ
たいと
﹁それじゃ自己紹介からやろ。オレ、コン太ね。こいつらは右回り
コン太
は手をのべて、かれを囲む子供たちをひとりひとり紹
にマイタケ、穂乃果、アッコ、直文、泰斗⋮⋮﹂
介していく。山内くんは進退きわまって内心うめいた。どうでもコ
ンプレックスの元である名前を打ち明けねばならないようである。
数人からいちどきにじっと見つめられて、山内くんはついに腹をく
くった。
﹁⋮⋮じゃきまるです﹂
﹁⋮⋮なんだって? もう一回言ってみ。いや書いてみ﹂
携帯サイズのホワイトボードと水性ペン。それらをコン太は樽の
後ろから持ち上げた。そんなものまで準備してきたのかと山内くん
は顔をひきつらせたが、結局いやいや名前を記した。かれは律儀な
子であった。
24
じゃきまる
山内 邪鬼丸
まぎれもなく山内くんの本名である。
浴衣を着た子供たちは黙った。なんとも微妙な沈黙のあと、ぷ、
とコン太が噴きだした。それをきっかけに子供たちの笑いが︱︱ひ
とりひとり程度の差はあったが︱︱夜の墓場にさざめいた。子供た
ちはいずれも小学生であり、低学年の子は名前の漢字や意味を理解
できてはいなかっただろうが、高学年の子の笑いに引きずられてか
れらもくすくす楽しげに笑った。
樽に座ったコン太が腹を抱えて足をばたつかせ、遠慮のかけらも
なく笑声をほとばしらせる。
﹁邪鬼丸って、くっ、あは、あははははなにそのひっでえ変な名前
!﹂
わなわなと震えて山内くんは拳を握りしめる。かれはこれまでコ
ン太のことを﹁牙笛のことで恩のある相手﹂と認識してきた。謎め
いた相手であるが、何年もどちらかといえば好ましい印象を抱いて
いたのである。だが数十秒の盛大な笑いは、それをあらかた吹き飛
ばしてしまった。
︵この子とはやっぱり友達になりたくないかも︶
パパに対しても心中罵りを投げつける。山内くんはパパが好きで
あるが、﹁僕にこんな名前をつけたことだけは一生許すものか﹂と
心に決めている。その決意は今夜新たになった。
さんざん笑い転げてから、目尻の涙をふき、コン太は笑顔で言い
放った。
﹁おまえのあだ名ジャッキーでいい?﹂
﹁⋮⋮好きに呼んだら?﹂投げやりな気分になり、山内くんは冷た
い声でそう返す。
﹁前の学校でも一回そう付けられたし﹂
ところが、そう聞いたとたんコン太は口を尖らせた。
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﹁なんだ、二番煎じになるならヤだな。やーめた。考えてみりゃ本
名のほうがインパクトあるし﹂
その傍若無人な言い草に、山内くんはまたもあぜんとした。
︵こんなに意地が悪くて気まぐれな子だったなんて⋮⋮あー、いや、
牙笛と引き換えとはいえ双眼鏡とられたわけだし、最初からこうい
う子だったっけ?︶
ふいに真顔になったコン太が、﹁んー⋮⋮? でもその名、どっ
はふりべ
かで聞いたなあ⋮⋮?﹂と首をかしげ、ややあってぽんと手を叩い
た。
﹁ああ思い出した。それ、祝部のどれかの家の魔除け幼名だ﹂
ハフリベ? マヨケヨウミョウ? 山内くんは聞きなれない言葉
に困惑する。彼のその様子に、﹁ふうん、やっぱりなんにも知らね
ーで育ったんだな﹂コン太は草履をつっかけた足をぷらぷらさせな
がら淡々と言った。あざけりの響きはすっかり声から消えており、
それがかえって山内くんを困惑させた。
︵僕がなにを知らないっていうんだ︶
﹁ま、いいや﹂とコン太は手を打って、まだ笑っていた一部の子供
たちにとがめるような目を向けた。﹁そこ、いつまで笑ってんだ。
名付けは親の責任じゃん? あんま笑ってやるなよ、しばらくこい
つも仲間なんだから﹂
さすがに山内くんは憤然と口をはさまずにはいられなかった。
﹁さっ⋮⋮さっきのいまで君がそれを言う!? 真っ先に笑ったの
も、いちばん笑ってたのも君じゃん!﹂
﹁そんなちっせーこと気にすんなよ﹂
コン太は腰かけていた樽から立ち、浴衣の尻についたほこりを払
った。嬲るような笑みが秀麗な面に戻っている。﹁そろそろ始めよ
っか? みんな、そいつ動かねーようにおさえて﹂
山内くんの周囲で動く気配がした。﹁少しじっとしてな﹂同年代
の少年のひとりがそう言うやいなや、かれの肩を後ろからがっしり
押さえこんだ。同時に真横の二人に、左右それぞれの手首をぎゅっ
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とつかまれる。
この瞬間、山内くんがどれだけ肝を冷やしたか、かれらには想像
もつかなかったであろう。﹁拘束される︱︱動けなくなる︱︱逃げ
られない﹂。それは二度の誘拐を経験し、ふりかかる災厄や悪意か
ら逃げまわって生き延びてきたかれにとっては、致命的な状況なの
だった。
恐怖心が、山内くんを突き動かした。
つかまれた両手首をひるがえして拘束から抜く。背後から肩を押
さえてくる腕の片方をつかみ返し、一本背負いでぶん投げようとす
る。﹁うわあああ!﹂背負われた少年の恐怖の叫びで、山内くんは
われに返った。あわてて投げるのを中断して身を離す。転がるよう
な勢いで石畳の上をとびすさった。
﹁とつぜんなにするんだよ⋮⋮!﹂
山内くんは動揺もあらわに非難する。
三人に捕まった状態から一瞬で自由を回復したかれに、驚きの目
が集中した。
﹁へええ意外、すっトロいかと思ってたら。いまの身ごなし、なに
か武道やってんの?﹂コン太が興味深げに目をぱちくりさせ、﹁し
かたねーな、とりおさえるのはオレがやるよ。人に直接術かけるの
はあんまよくないけど⋮⋮黙ってろよ?﹂左右に念を押した。
不吉なものを感じ、山内くんはたちまち逃げ腰になった。
はじめて誘拐された幼い日の一件以来、かれは護身術を身に付け
るため道場に通ってきた。だが何回も事故や事件に巻きこまれたか
れはよく知っている。たいていの場合、ふみとどまって戦うのでは
なく後も見ず逃げるほうが、子供のかれが身を守るためには有効な
のだと。
というわけで山内くんには、なにか厄介事が起きそうであれば反
射的に逃げようとする癖がついている。このときも怪しい雰囲気に
直面してかれが考えたのは、ひとまず退散することだった。
︵もしかしたらこの子、近づかないほうがいい相手かもしれない︶
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後じさってじりじり距離をあけながら、山内くんは聞いた。
﹁始めるってなにをさ﹂
静かに
とたしなめるようなしぐさ。
﹁通過儀礼っていうか、しつけ?﹂ひとさし指を一本立て、唇の前
へとコン太は持っていった。
﹁ふふふ、だっておまえ、素直にオレの言うこと聞きそうにないし
なぁ⋮⋮ここじゃ誰の言葉がルールなのか、はじめにしっかり叩き
こんでおかなきゃな﹂
ボウ
蛇の舌さながらに唇からちろちろする青い炎が、ひとさし指の先
に宿り、魍と燃え⋮⋮火が灯った指が山内くんに突きつけられる。
そしてコン太はいちだん低めた声を発した。
﹁困々々︱︱﹂
︱︱至道神勅 急々 如塞 道塞 結塞縛 不通不起 縛々々律令
唱えるとともに、火が灯った指先がくるくると大小の円や線を描
く。躍る光が尾をひいて複雑な軌跡を虚空に刻む。奇術めいた光景
に、山内くんは逃げることを忘れて立ち尽くす。
それが失敗だった。
手足がぴくとも動かせなくなっていることに気づき、彼は顔色を
変えた。
﹁あ、あれ!? え!?﹂
﹁身動きできねーだろ? 無理するなよ、そういう術なんだから﹂
れいばく
﹁さ、催眠術?﹂
﹁霊縛術だよ。つってもわかんねーか﹂
﹁冗談じゃない、解いてよ! これじゃ無理やり縛られたのと変わ
んないじゃないかっ﹂
﹁うるせーなぁ。こっからが本番、すぐ終わるから騒ぐなよ﹂
かく
落ち着きはらってコン太は歩を進め、山内くんの眼前に立った。
ひんやりした手のひらが、山内くんの両頬をつつむ。
﹁いまからおまえに見せてやるよ。あっち側の世界を。隠り世を﹂
28
﹁ちょっ⋮⋮﹂
お
さらに身を寄せられて、山内くんはあわてた。火の緒をちろちろ
くがんけんき
吹くコン太の唇が間近で妖しくささやく。
﹁ほんのちょっとのあいだだけ、狗眼見鬼にしてやるよ﹂
双の親指が山内くんの口の両端にすべり入り、こじあける。互い
の唇がかすりそうな紙一重の距離にまでコン太の笑みが迫り⋮⋮
︱︱ふ。
︵え⋮⋮︶
山内くんは限界まで目を開いて呆然とする。
︵火、を、入れられてる⋮⋮︶
口腔へと、コン太の息とともに火が吹きこまれてきていた。
吹きこまれた炎が体内で渦を巻くのが感じられる。腹に落ちた火
球が反転してかけあがり、じわんと頭蓋に浸透する。その青火は通
常の炎とは違い、肉を焼き爛れさせるようなことは起こらなかった。
だが⋮⋮
﹁⋮⋮よし。さあ見ろ﹂
数秒後、そう言い残して、不敵な笑みを宿したコン太の顔が遠ざ
かった。
﹁え⋮⋮ぇ?﹂
りょうらん
墓地の光景を目に映し、山内くんは呆然とした。
光の乱舞がそこにあった。
こぶし大の無数の火球が墓地に繚乱している。おびただしい火の
かわうそ
玉は青くあるいは赤く、尾を引いて宙を飛んでいた。その動きはか
つて水族館で見た獺の水遊びを思い出させた︱︱もぐったり浮上し
たり、くるくる輪舞するかのように泳ぐ姿を。
﹁な、なんだよ⋮⋮これ⋮⋮﹂
ほたる
山内くんは頭上を見上げて頬をひくつかせる。かれの前でコン太
は、蛍の群れでも自慢するかのように手を広げた。
29
ショウリョウ
﹁どーだ、にぎやかでイイ眺めだろ! 盆にそなえて、精霊が渡り
鳥みてーに集まりだしてるんだぜ﹂
ヒトダマ
﹁ショウリョウ⋮⋮こ⋮⋮これって⋮⋮﹂
﹁人魂って言ったほうがわかりやすいか? おまえの目にも見える
ようにしてやったんだよ、オレが﹂
︵冗談じゃないよ︶山内くんは目を回しかけた。
いま見ているこれは、つまりお化けのたぐいではないか。
骨の髄までおののいたとき、二段目の変化が起きた。
︵痛ッ!?︶
今度は、鋭い痛みが頭の芯を刺した。
きいんと耳鳴りが始まる。ちょうつがいの外れるような音、ぱき
ぱきとひびの入るような音がそこに混じり、頭蓋のうちにこだまし
てゆく。
︵大きな鐘が⋮⋮目の裏で鳴ってる⋮⋮︶
氾濫する異質の音響に耐えかねて、山内くんは頭を抱え、うずく
まった。
﹁⋮⋮⋮⋮あれ? もう動けるのおまえ?﹂
コン太があっけにとられたような声を出した。︵そういえば手足
が動く︶とおぼろげに認識したが、すぐには立ち上がれなかった。
︵なんだこれ︱︱また見えるものが変わった︶
ずくん。ずくん。脳の血管が脈打ち、視界が明滅する。かれは呼
吸を速め、冷たい汗で背を濡らしながら周囲をうかがった。
闇はさきほどより濃く、それでいて澄みわたっていた。そのなか
を飛ぶ火の玉のひとつひとつもくっきりと見えるようになっていた。
︵人魂に、顔が⋮⋮︶
最初はおぼろげだった輪郭がはっきりし、細部までが見てとれた
︱︱鼻、目⋮⋮顔面のパーツを持ち合わせ、なかには完全な顔を形
作っている火球もあった。死者たちの顔には感情らしきものがまっ
たく無い。マネキン人形めいた無機質な表情がじいっとかれを見つ
めていた。
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数十数百の物言わぬ顔に囲まれて﹁ひいっ﹂と山内くんはうめい
た。かれの異変に気づいて、周りの子供たちがざわめく。﹁おいっ、
どうした、しっかりしろ!﹂コン太の声が遠くからのように響いて
いたが、それどころではなかった。
すう、とひとつの火球が眼前に舞い降りてきた。それはまるでく
らげが傘を広げるかのように、視界をさえぎるやぶわりと広がった。
くらげの真ん中に老いた男の顔があり、白目のない真っ黒い眼孔で
かれを凝視していた。
尻もちをついて、山内くんは絶叫する。
パニック状態でかれは身を守ろうとする。顔を押しのけるべく無
我夢中で、手を前方に突き出した。
⋮⋮絶妙な間の悪さだった。
﹁山内っ、落ち着けっての、こいつらは無害のはず︱︱﹂
ちょうどそのとき、死霊を自分の体で散らして、コン太がふたた
び飛びこんできていたのだ。山内くんの掌底は、かれを引き起こそ
うと身をかがめたコン太の胸を、正面から突いた形となった。
﹁あっ﹂子供たちのだれかが思わずといった感じのつぶやきを漏ら
した。
コン太は自分の胸に置かれた手を見下ろして、純粋にびっくりし
た表情で硬直している。
﹁⋮⋮へ?﹂山内くんは新たな困惑状態に陥った。ぐにゅ、とみず
みずしい弾力に富んだ感触が手のひらに伝わってきたのである。ま
こん
るで、布でぎっちり巻いてなるべく平坦にとおさえつけてある丸み
のような︱︱
﹁姫路のおにいちゃんが、紺ちゃんのおっぱいさわってる﹂
なぜか感心したような声で、低学年くらいの幼児が言った。ほか
のだれもがぽかんとしていた。触り触られている当人たちを含めて。
﹁え⋮⋮あれ?﹂
︵女の、子?︶
驚愕して、山内くんはぱっと手を離す。まだ止んでいない耳鳴り
31
のことも、周囲を飛び交う人魂のことも、このときだけは頭から吹
き飛んでいた。
切れ長の双眸をまんまるになるまで見開いて固まっていたコン太
︱︱紺と呼ばれた﹁少女﹂が、ぱっと浴衣の襟をかきあわせた。か
ばうように胸元を押さえたまま、彼女はあとじさる。体をぷるぷる
ゆ
震わせ、羞恥で混乱した表情になっており⋮⋮大ちょうちんの明か
や
りの下で、その頬が急速に茹だっていくのが見てとれた。
﹁⋮⋮⋮⋮厭⋮⋮﹂
別人のような小声を彼女はかろうじてしぼりだし、真っ赤になっ
た顔を伏せてその場にしゃがみこんだ。
どうしたらいいかわからず、山内くんはためらいがちに声をかけ
ようとした⋮⋮が、かれの浴衣の袖をなにかがとらえ、ずしりと重
みを伝えてきた。
︵え︶
見下ろすと死霊の顔が袖をくわえている。すでに火とはいえない
ほどはっきり具現化したそれは、ぶらさがりつつのど奥から声をき
しらせた。
︿きぃぃぃぃ⋮⋮﹀
気がつくと山内くんはいちもくさんに家へと道を駆けもどってい
た。
32
黒蝉
パジャマに着替えた山内くんは、タオルケットをかぶり丸まって
いる。パパの実家へ逃げ帰ってきてから、かれはずっとこうして布
団で芋虫状態だった。
︵お祭りになんか行かなきゃよかった︶
牙笛をお守りのように右手ににぎりしめ、歯の根が合わなくなり
そうなほど山内くんは震えている。寝室として使っている座敷の電
気はつけっぱなしだった⋮⋮眠れないのは、あるいはそれが一因か
もしれなかったが、消す気にはまったくなれない。
今日、生まれて初めて幽霊を見たのだ。
うろ
︵結局は逃げるなら、もっと早くそうしておけばよかった。あんな
ものを見る前に︶
あわだ
こちらを見つめてきた死霊の、虚のごとき眼孔を思い出したとた
ん、ぞぞっと肌が粟立った。
︵やっぱりパパのいる部屋で寝ようかな⋮⋮︶
もう来年は中学生なんだから親といっしょに寝るなんて恥ずかし
い。山内くんはそう主張して、すこし前からひとりの部屋で眠るよ
うになっている。しかし今夜かれは、男の意地をひっこめてパパの
布団に入れてもらいに行くべきか真剣に悩んでいた。
なにしろ、火を体内に吹きこまれたときからずっと、
︵目がもとに戻らないし⋮⋮︶
明らかに、視界に違和感があるのだ。
闇があまりにも澄んで見える。獣の目になったかのようだ。
怪異こそいまは見える範囲に存在していないものの、それらが見
えなくなったわけではないと山内くんは気づいていた。単にこの部
屋に存在していないだけである︱︱いまのところは。
﹁全部あの子のせいだ﹂小声で罵る。﹁おかしな技使って、見たく
33
もなかったものを僕にむりやり見せて⋮⋮人の名前を平気で笑うし、
自己紹介でしれっと嘘ついてたし。なにがコン太だよ、男の名前名
乗ったけど女の子じゃないか﹂
そうだ、まちがいなく女の子だった。
それを考えたとたん、山内くんは顔から火が出そうになった。右
のてのひらに、温かいふくらみの感触がありありとよみがえったの
である。布かなにかできつく押さえつけてあったのか外から見ただ
けではわからなかったが、手で触れたいまでは、あの子に乳房が存
在していたことは疑うべくもなかった。
こんなこと意識しちゃいけない、と山内くんは自己嫌悪に陥って
手をにぎりしめた。
︵触っちゃったのは偶然だ⋮⋮女の子だなんて知らなかったんだも
の。性別に気づかなくたってしかたないだろ、言うこともやること
もぜんぜん女っぽくないし、自分のことオレなんて呼んでるし。
でも、謝っておこう︶
パパが聞いたら言うだろうから︱︱触ってしまったことはどうあ
れ事実なのだから筋を通せと。
︵それに現実としてあの子の機嫌をそこねてちゃまずいよね、目を
戻してもらわないと困るし⋮⋮
パパの話だと、あの子の実家に明日行くんだっけ? そのときに
会えたら謝ろう︶
少女への対処を考えていると、恐怖はすこしだけ意識から遠ざか
った。張りつめていた精神がわずかのあいだゆるみ、かれはうとう
としはじめ︱︱すぐに深い眠りへと引きこまれた。
やしろ
怖ろしかった。たとえようもなく怖ろしかった。
いしだたみ
その暗い、荒れ果てた山の社の夢は。
つら
あまたの鳥居立ちならぶ石畳の道を、パジャマ姿の山内くんは駆
けつづける。ほとんど泣きそうになりながら。列なる千もの鳥居の
34
色は、腐った血を何層も塗りたくったかのように赤黒い。
︵逃げなきゃ⋮⋮この山のなかから。真っ暗な神社から逃げなきゃ︶
いま自分は、ここから必死で脱出しようとしている。それだけが
はっきりわかっていた。
のうけつたちまち⋮⋮ゆうてきし⋮⋮しゅうえはみちて⋮⋮ほ
うちゃくし⋮⋮
うた
低い唄声が遠い背後から聞こえた。山内くんは悲鳴を噛み殺した。
ふにことごとく⋮⋮らんねせり⋮⋮ひとのしがいは⋮⋮かずし
らず⋮⋮
唄声に背を押されるようにして、山内くんはしゃにむに鳥居をく
ぐり続ける。だが石畳の鳥居路はどこまでも続いた。息が切れ、と
うとうかれはひざに手を置いて休まざるをえなくなった。心臓が破
れそうだった。汗が目に入りかけてかれはまぶたを固く閉じた。
︵早く出なきゃ、早く︶
もう少しでここから脱出できるという気がしているのだ。がくが
く笑うひざを叱咤してかれは顔を上げようとし、ふいに気づいた。
︵なんだろ⋮⋮笛が重い︶
目を開けて見る。ずっとひもで右手から下げていた牙笛を。
⋮⋮宙に浮いた人の腕が、牙笛をつかんでいた。
血まみれの腕の手の甲は皮膚がはがれて骨が露出し、手首の腕時
計にはひびが入っていた。腕は骨が砕けているようでクラゲのよう
にぐにゃぐにゃになっている。ひじから上は輪郭がぼやけていたが
⋮⋮山内くんが凍りついているあいだに、肩のほうまでうっすらと、
人体が形をとりはじめた。
無残な姿の死霊が現れようとしているのだと気づいて、山内くん
の理性は消し飛んだ。
35
﹁うわああっ!?﹂
山内くんはとっさに牙笛を死霊ごと投げ捨てる。手放した瞬間に
血まみれの腕は消えた。石畳にぶつかった笛だけが、路の先の暗が
りに転がっていった。
山内くんは何をしてしまったか遅まきながら気づいた。
︵しまった⋮⋮あれは手放しちゃだめだ!︶
牙笛が落ちた先に駆けよる。拾わねばならない︱︱が、駆けよっ
た先でなにかが身動ぎした。おののいたが、その存在がはっきり見
えたとき、つかの間とはいえ山内くんは恐怖を忘れた。
︵⋮⋮へ? せみ?︶
一メートルはある黒い蝉の幼虫⋮⋮鳥居の陰から頭を出し、がさ
り、がさりと通路に出てこようとしている。
不気味だがさっきの手よりはましだ︱︱あぜんとして巨大な虫を
見つめ、山内くんは考えた。
︵この場所はいったいなんなんだろう? それより、たぶんこの蝉
な
の近くに牙笛が落ちちゃってる⋮⋮周りで探しててもこいつ、危険
はないかな?︶
とたんけたたましい音が思考を破った。全身がこわばる。
︿いいいいいいい!﹀凶事を警告する牙笛が、狂ったように哭きは
じめていた。︿いいいいいいいい!﹀
大きな幼虫の腹の下で。
これまでの経験が、山内くんに逃走を強くうながした。その笛が
鳴ったときには、一目散にあとをも見ず逃げなければならないのだ。
そうすることでこれまで命を拾ってきたのだから⋮⋮
決断は迅速だった。牙笛を拾いだすことはあきらめ、かれは脱兎
となって蝉の前を駆けぬけた。
山内くんは目を覚ました
36
わけがわからないし、ひどい夢だった。さっさと寝なおさなきゃ
と顔をしかめて、
︱︱自分が立っていることに気づく。
︵あれ︶
そこは寝ていた部屋ではなかった。
まだ夢のなかかといぶかるが、もちろんそうではなかった。落ち
葉が積もった暗い雑木林のなかに、パジャマ姿で山内くんは立ちす
くんでいた。
足の裏に鋭い痛みが走る。見下ろすと折れた小枝を踏みしめてい
た。泥で汚れたはだしで。
︵僕はあの家から⋮⋮自分で歩いて出てきた?︶
夢遊病になったことなどこれまでなかった。目が完全に覚め、と
つぜん背中が冷たい汗を噴くのを感じた。
とっさに牙笛をさぐったが、はたしてそれは消えている。
︵笛を落としたから⋮⋮? でも夢なのに。あれは夢のはずなのに︶
焦ったとき、つんと不快なにおいが鼻にとどいた。それはどこか
で嗅いだことがあるようなないような⋮⋮
小枝を踏む音が背後で起きた。ぱきりと。
あやうく膀胱がゆるみかける。小動物のような素早さで、かれは
体ごとふりむいた。
懐中電灯の光が目を射抜いた。
﹁夜中にいったい、君はそこでなにをしとるんだ﹂
ライトを手にとがめる声をかけてきたのは、髪が半白になった初
老の男だった。銀縁眼鏡をかけ、痩せ型で神経質な雰囲気をただよ
わせている。
﹁どうしました、石田先生。なにかいたんですか﹂
﹁ああ、みんな⋮⋮子供が林のなかにいてな﹂
﹁どういうことです﹂
37
懐中電灯を持った男のあとから三人分の足音が続いた。大人が二
人、下生えのやぶをかきわけて現れた。そのうしろに続いているの
はビニール手袋をはめた中学生くらいの少年である。薄ら笑いを浮
かべる少年の手袋には、赤黒い血がついているのが見えた。
山内くんが立っていたのは林の外れで、道路が思いのほか近い場
所だったようである。
﹁あ⋮⋮あの⋮⋮僕、寝ぼけたのかも⋮⋮﹂
しどろもどろに言う山内くんに、石田先生と呼ばれた男は舌打ち
を聞かせた。
あおに
﹁どういうつもりか知らんが、こんな夜中にふらふらするんじゃな
い。まったく、青丹の餓鬼は猫殺しよるし、最近の子供ときたら⋮
⋮こんな連中が増えたせいで近頃は教職も楽じゃあない﹂
﹁先生、この子は寝ぼけたと言っていますよ。見たところ、夜遊び
のたぐいではなさそうです﹂
後からきた大人たちがやんわりと意見した。石田先生は﹁そうだ
な。そこの猫殺しがずっと舐めた態度とるせいですこしカリカリし
てもうた。補導員のみなさんのほうが大変だろうに、すみません﹂
と、手を血で汚した少年にあてつけるような言葉を吐いた。猫殺し
と言われた少年はそしらぬ顔でそっぽを向いていたが、鼻をひくつ
かせてやにわに顔をしかめた。
﹁ここ臭くない?﹂
不愉快そうに猫殺しの少年を見たものの、石田先生もすぐにけげ
んそうに鼻を鳴らした。
﹁そう言われればなんだ、えらく焦げ臭いな⋮⋮﹂
補導員たちも顔を見合わせている。
︵僕の気のせいじゃなかった。みんなこの臭いを感じてる︶
山内くんはとつぜん息苦しさを感じた。
胸騒ぎなどという段階ではない強烈な悪寒︱︱いますぐ逃げ出し
たくてたまらなくなる。
﹁⋮⋮おい。なんだそれ﹂
38
石田先生がライトを山内くんの横、三メートルほど離れた木の根
本に当てた。
光に照らされたそれに視線をやって、場の誰もが絶句した。
忌まわしい光景。山内くんはあとから何度もこのときのことを回
想して苦みを噛みしめることになる。あのとき自分はすでに、暗い
淵に踏み込んでしまっていたのだと。
︵あの蝉だ︶
山内くんは震えながら見下ろしていた。
︵夢で見た蝉はこの、﹃かれ﹄の姿の暗示だったんだ︶
その物体は落ち葉の上で煙をしゅうしゅうと上げていた。高温で
焼かれて真っ黒に焦げ、うずくまって地に伏すような姿勢。炭化し
た四肢は半ばから崩れてなくなっている。
﹁馬鹿な⋮⋮これは﹂
石田先生がおののいた表情でつぶやく。
黒い蝉の幼虫のようにも見えるそれは、人の焼死体だった。
39
雌狐たちの巣
むね
招かれたその家は、館といってもよい大きさだった。
屋根の棟瓦から夜空へ向けて、交差した竹槍のようなものが十組
うこん
ほど突き出ている。同じものは玄関前の軒先にも取り付けられてあ
り、竹組のまわりを鬱金色の蝶がひらひら舞っていた。
︵蝶って夜に飛ぶものだったっけ? 珍しい色︶
おど
パパといっしょに玄関前に立った山内くんがそれを見上げている
と、眼前の扉が音もなく開いた。
﹁ご覧になっているその竹はからす威しという飾りですわ。呪詛に
対する魔除けです⋮⋮かつてはあなたがたへの備えでした﹂
﹁あ。ああ﹂
見ていたものの説明を受け、パパが虚をつかれた様子でうなずく。
からし
出てきたのは着物姿の、二十代後半に見える婦人だった。藤色の
色無地に芥子色の帯をしめ、長い髪をうしろに結いあげて白い首筋
をさらし、艶がしっとりと匂いたつ女ざかりの風情である。
色香だのなんだのはまだよくわからない山内くんだが、︵うわ。
ものすごく綺麗なひと︶という率直な感想を抱いた。
﹁ですが時代も変われば変わるもの。ほんの二十年前まではこの十
妙院家と対立していたあなたがたが、当家を頼ってくださる運びに
なろうとは﹂女性は優雅にお辞儀した。﹁改めまして、ようこそお
いでくださいました。主人の葬儀以来でございますね⋮⋮このたび
は夜分遅くにお呼び立てしてしまい、申し訳ございません﹂
﹁こんばんは、十妙院さん。依頼しておいて遅れたのはこちらの事
情です、こちらこそ申し訳ない﹂
パパがいつになく改まった口ぶりとなる。女性がくすりとして、
急にくだけた口調になった。
﹁いやだ、山内先輩。そんなにかしこまらなくてもいいのですよ﹂
40
かえで
﹁⋮⋮ああ、じゃお言葉に甘えて﹂パパはいつもの言葉づかいに戻
った。﹁楓ちゃん、ひさしぶりだな。そっちこそ家だのそういう話
はやめてくれ、こっちはもうそんなもん背負ってねえよ。俺は邪鬼
丸のことについて相談しに来ただけなんだ﹂
﹁失礼いたしました。では先輩、さっそく話を進めてしまいましょ
う。邪鬼丸くんはこの子ですね﹂
美しい瞳が、柔和な光をたたえて山内くんを見た。
山内くんははじめましてと挨拶してから、
﹁すみません、お宅訪問が遅れたのは僕が原因なんです﹂
︵黒焦げの死体なんて見つけちゃったもの。状況を警察のひとに話
さないわけにはいかなかったから⋮⋮︶
山内くんは昨夜、夢遊病となってさまよったあげく、家から二百
メートル離れた道路脇の林に入りこんだ。そこで黒焦げの死体のす
ぐ近くに立ち尽くしていたところを、青少年補導ボランティアの人
たちに見つかったのである。というわけでせっかくの夏休みであり
ながら本日は、朝から警察の事情聴取で何度も話を聞かれる羽目に
なった。
ようやく解放されたときにはすでに夕刻となっていて、﹃お祓い
の予定はひとまず延期するしかねえな﹄パパはそう苦りながら﹁十
妙院﹂の家にその旨を連絡していた。だが、﹃遅くなっても構いま
せん。ぜひとも本日中にお越しください﹄とせっつかれ、けっきょ
く足を運んだのである。
﹁ええ。聞きました。大変だったわね﹂
楓と呼ばれた女性は気づかう声で言った。
﹁ごめんなさいね。うんざりすることを強いてしまうけれど、君の
見たものをわたくしにもあとで話してもらわなくてはならないの﹂
力づけるように手をとられ、たおやかな手のひらで握られて山内
くんはどきりとする。
︵あ⋮⋮この人、もしかして?︶
楓さんの気品のある面立ちに、山内くんの目は吸い寄せられた。
41
そこにあの少女の面影を認めたのである。
が、それ以上注視することはできなかった。
蝶たちが舞い降りてきて、ぶわっと山内くんの視界を覆ったので
ある。まるで目鼻や口をふさごうとしているかのようだった。首を
ふっても執拗にたかってくる。
﹁⋮⋮どうしたかしら?﹂
けげんそうに楓さんが聞いてきた。
﹁あの、蝶が集まってくるのが気になって!﹂
﹁あら。大変﹂
楓さんは息を呑んだ表情になる。すぐになにごとか小声で唱えな
がら、ぱっぱっと袖で山内くんの周りを払った。横ではパパがけげ
んそうに目を丸くしている。
蝶が飛び去ったのち、楓さんはまじまじ山内くんを見てため息を
ついた。
﹁古い式神をあなたは普通に見ているのね。それに、こんな年齢で
うちの式神たちに警戒されるなんて、やっぱり血が濃く出てしまっ
たのねえ⋮⋮これはやっぱり早めになんとかしないと﹂
あの蝶も常人には見えないものだったのだと、山内くんは気づい
た。
﹁先輩、結論から述べてしまいますが、しばらくは邪鬼丸くんを当
家に預けていただくことになりそうです。夜間だけでかまいません
かえで
が﹂
楓さん︱︱十妙院楓という女性は、ふたりの先に立って廊下を歩
きながらそう言った。パパが動揺で目をしばたたく。
﹁⋮⋮なんでその結論になったのか聞かせてもらえるか? これま
でも世話になったし、楓ちゃんを信用してねえわけじゃねえんだが﹂
﹁もちろんですわ、ゆっくり説明させていただきます。
そのまえに、お呼び立てしておいでなんですが、こちらから謝罪
42
せねばならないこともございまして⋮⋮お見苦しい部屋ですが、ど
うかご容赦くださいませ﹂
立ち止まった楓さんはそう言ってふすまを開けた。
山内くん親子は声を呑んだ。
ふ
その部屋の天井には、さっぱり読めない字を書きつけたお札︱︱
符というものだと山内くんはのちに説明される︱︱が貼り付けられ
しょうじど
しっくい
ていた。木の板目が見えないほど、べたべたと大量に。天井だけで
はない。障子戸に、砂色の漆喰の壁に、部屋の付書院に⋮⋮そこか
しこに貼られて妖しい空気を醸しだしていた。
そして部屋の中央に、眠っているのか目をつむって座る少女がい
た。
︱︱火を吹く子。
こん
楓さんが紹介した。
﹁娘の紺です﹂
ろ
︵やっぱり、楓さんがこの子の親だったんだ︶
紺は振袖姿だった。薄グリーンの絽の生地には草花や鳥の刺繍が
さんご
あしらわれ、市松模様の帯をしめ、清華な雰囲気のよそおいである。
ショートの髪には一点赤い珊瑚のかんざしが挿されていた。
長いまつ毛を伏せて端座する紺は、そうしていると少年のように
はかけらも見えなかった。山内くんはなんとなく落ち着かない気分
で座布団に座った。
その気配を感じたらしく紺は眠そうに目をこすり、ぱちっと開け
た。山内くんをぼんやりと見た彼女の瞳が、突如剣呑な怒りを宿す。
﹁おまえっ!﹂
﹁こ⋮⋮こんばんはです﹂
麗しい人形がたちまち毛を逆立てる山猫に変じたので、山内くん
ひた
はとっさに挨拶した。先手をとられた紺が、怒りの声を一瞬むぐっ
と口内でつっかえさせる。
﹁ぬけぬけとっ⋮⋮なにがこんばんはだっ、ゆうべはよくも︱︱痛
いっ!﹂
43
それでも紺は喧嘩腰を止めようとしなかったが、すぐ罵声に代わ
って悲鳴を上げることになった。楓さんの指が横から伸び、娘の片
頬をきつくつねったのである。
﹁なにすんらよ楓!﹂
﹁親を呼び捨てにするその態度もこの機に改めてもらいたいわねと
いうのはさておき、ぬけぬけというのはあんたのことよ。よそさま
に多大なご迷惑をかけておいて、反省もせずその態度はなに? ま
ず誠意をこめてお詫びしろと言わなかったかしら?﹂
﹁や、やら! 謝んなひ!﹂
﹁あ・や・ま・れ﹂
﹁痛ひ! いたい!﹂
紺の頬がひっぱられ、むにににと白餅のごとく柔軟に伸びていく。
はんにゃ
︵うわあ︶と山内くんは肝を冷やした。いましがたまで優しげな美
女であった楓さんが、般若よろしく憤怒の相に変じている。あっけ
にとられた声でパパが制止しようとした。
﹁落ち着きな楓ちゃん、なんか知らんが⋮⋮﹂
そそう
﹁いいえ。だいたいのことを聞き出しましたが、この馬鹿娘がやら
かしたのは、こんなぬるい折檻じゃまったく足りないレベルの粗相
ですわ﹂
そうは言いつつも楓さんはひとまず手を離す。
頬を押さえた紺が、涙と恨みをふくんだ目を山内くんに向けた。
﹁オレ、ぜったい謝らない!﹂
﹁あんたという子はほんとに強情にもほどが⋮⋮﹂楓さんの声が嘆
かわしげに高まるが、
﹁だってこいつオレの胸をおもいっきりつかみやがったもん!﹂
﹁わざとじゃないよ!? つかんでないし手が当たっただけだよ!﹂
紺に指さされ、うろたえた山内くんは反射的に弁明した。対立す
る子供二人に、大人二人の視線が注がれる。ににと
﹁⋮⋮何があったのか、両方の話をもういっぺんくわしく聞いてか
らにするか﹂
44
パパが渋い表情でため息をついた。
祭りの夜の詳細から、そのあと山内くんが見た夢にいたるまで︱
︱一件を洗いざらい聞き出したのち、パパと楓さんはふかぶかと頭
を下げあった。
﹁すまねえ。愚息がお嬢ちゃんに失礼なふるまいをしちまった﹂
﹁いいえ、うちの娘が元凶ですから⋮⋮こちらこそ躾が行き届かず、
ほんとうにお恥ずかしい限りですわ﹂
パパといっしょに頭を垂れる山内くんはそっと吐息する。
︵こうなると思ってた。パパはこういうことには厳しいもの︶
山内くんはパパに、﹁見苦しいふるまいはするんじゃねえ。筋は
通すもんだ﹂と言いきかせられて育ってきた。パパのいう見苦しさ
には、弱いものいじめや姑息なふるまいが含まれる。女の子の胸を
触ったあとで謝らずに逃げてきたというのは、どんな事情があれ、
パパにとっては﹁見苦しいこと﹂だろうと山内くんにはわかってい
た。
あっちは僕より悔しそうだ、と山内くんは上目で見て感想を抱く。
楓さんに頭をつかまれて強引に下げさせられている紺は、目尻に涙
をためて口をへの字に引き結んでいた。
﹁ごめん﹂
かれが声をかけると紺は目を丸くする。彼女はフンとそっぽを向
き、直後にうしろめたげに床に視線を落とし、かと思えば顔をあげ
てきっとかれをねめつけ、ころころと表情を変えた。結局、彼女は
仏頂面でつぶやいた。
﹁一度だけ忘れてやる。たしかにこっちも強引だったし⋮⋮いひゃ
い!?﹂
少女の頬が先刻よりひねりをくわえて吊り上げられた。
﹁なんでこの期に及んで上から目線ができるのかしら? 現在進行
形で尾を引いてるのよ、あんたのやらかしたことは。わたくしやお
45
あけだまひ
ばあ様の知らぬところで、秘火を吹き込んで常人を見鬼に変えてい
ただなんて。よくもこんな恐ろしい真似をしてくれたものね﹂
ふたたび般若と化した楓さんに、パパが咳払いした。
﹁楓ちゃん、それでいったいうちの邪鬼丸になにが起きたんだ﹂
頬つねりをやめてパパに向き直った楓さんは、山内くんを視線で
示した。
﹁邪鬼丸くんは見鬼の力を備えてしまいました。
くがん
じょうがん
見鬼は﹃怪異を見る術・能力﹄のことであり、またその力を持つ
者のことです。狗眼もしくは浄眼とも。その子は並みの修行者より
よほど見えてしまうようですね。
いましがたの話では、紺の秘火そのものについては以前から見る
ことができたようです。素質があったのでしょう。そして体内に吹
きこまれた秘火が、さらなる力を引き出す呼び水になってしまった
⋮⋮そう推測できます﹂
楓さんは沈痛な口ぶりで語った。
﹁適切に封じねば、この子は一生見鬼のままでいることになるでし
ょう。先輩には邪鬼丸くんのことを頼まれておきながら、解決どこ
ろか問題を増やしてしまい、まことに申し開きのしようもございま
せん﹂
つまり僕は霊感に目覚めたってことなんだろうか、と山内くんは
聞きながらくらくらする思いである。眠っていた力が起きて、妖し
いものが見えるようになった。わあ格好いい、などとのんきに喜ん
でいたかもしれない。大の怖がりでさえなければ。
﹁楓ちゃん。俺は先祖と違いこっち方面は素人だが、見鬼くらいは
知ってるぜ。なんせその素質がまるでねえってのが、死んだ親父に
跡継ぎ失格として見放された理由だからな﹂
パパはふうと息をつき、
﹁謝る必要はねえよ。俺ら親子はこの家の人たちにはさんざん助け
られてんだ。こちらが礼をなんべん言っても足りやしねえ。
ただな⋮⋮こういう力はこいつにはいらねえはずだ。なるべく早
46
く封じてもらえねえかな﹂
こくこくと山内くんはうなずく。お化けが見える一生などごめん
であった。
ところが楓さんが口を開く前に、余計な口出しをする者がいた。
﹁えええ! 待てよ、もったいねーって!﹂
紺は真剣な顔になり、身を乗り出すようにして力説する。
﹁オレより﹃見える﹄かもしれない見鬼なんてそういない才能だろ。
見えるなら見えるでいいじゃない、おじさん! ちょうど弟子って
取ってみたかったし、なんならコイツにはオレから術を手ほどきし
てやっても﹂
ごちん。
ついに楓さんのげんこつが紺の脳天で炸裂した。
頭をかかえて呻吟する少女に、楓さんは冷たいまなざしを向ける。
﹁未熟者の分際で余計な口出しはつつしみなさい。そういえばまだ
追求が終わってなかったわ。なんであんたはこんな真似をしたのか
しら、紺? 術を使って堅気の子をいじめてやろうとでも思ったの
かしら?﹂
涙目になっていた紺が、あわてて首をぶんぶん振る。
みたま
﹁ちがう! ちげーって! むしろ逆、コイツのためだよっ﹂
﹁へえ、墓地を飛び交う御霊を見せて怖がらせることが?﹂
﹁だって最初にびびらせとけば、オレのいうこと素直に聞くように
なるんだもん!﹂
紺は口をとがらせた。
﹁世の中に多すぎるんだもん、わからずやが。
こっちがどれだけ﹃あの淵は荒々しい水神がいるから遊ぶな﹄﹃
あの辻は悪いものの溜まりになってていつ事故起きてもおかしくな
い﹄と忠告してもさ、笑ったり反発したりでまじめに聞こうとしな
いんだ。
効率
でもちょっとのあいだ怖がらせてやれば、そのあとはたいてい聞
き分けるようになる。これっていちいち説得するよりこーりつ的な
47
やり方じゃん?﹂
﹁こ、この小賢しい馬鹿娘⋮⋮﹂
恐怖を植え付けての支配をとくとく正当化する餓鬼大将。そんな
始末におえない存在となりはてた娘に、楓さんはあきれを通り越し
てげっそり疲れた様子になった。
﹁⋮⋮単なるいたずらで見鬼の力を与えたのではない、それはわか
ったわ﹂
﹁だろ!﹂
﹁もっと悪いわよ。なにも考えていないより悪いわ、浅はかな理屈
をふりかざして力を濫用するのは。
あんたの口から出てる秘火は霊力のかたまりで、それ自体が強力
な術のようなものだから扱いに注意しろと前言ったわよね? しか
では収まらない例が出てきちゃったで
も火を注がれた人間の反応には個人差が大きい⋮⋮現にこうして、
ちょっとのあいだ見える
しょうが﹂
まじない
﹁だ、だってこんなことになると思わなかったし⋮⋮﹂
﹁なら、危険な行いだとこれで学べたわね? 禁厭の術は便利なお
もちゃではない。﹃するしかないこと﹄以外はすべて﹃してはなら
ないこと﹄なのよ。今後おなじことをやれば、けっして容赦しませ
んからね﹂
紺はむくれて押し黙った。楓さんはパパに真摯なまなざしを向け
た。
﹁もちろん、責任をもってこちらで邪鬼丸くんの見鬼を封じさせて
いただきます。夜にもかかわらずお呼び立てしてしまったのは、邪
鬼丸くんの状況を一刻たりとも放置しておけないと判断したからで
す。
お代の心配は無用ですわ。雌狐どもは金に汚いと世人にはそしら
じゅごんし
れてきましたが、身内の過失を棚上げにして施術料を要求するほど、
十妙院の呪禁師は厚かましくはございません﹂
﹁いや楓ちゃん、そうは言うが俺はこれ以上そちらに借りは作りた
48
くねえ。きちんと依頼するから⋮⋮﹂
﹁いいえ先輩。いますこしお聞きください。こちらが責任をもつ代
わり、この見鬼を封じるのは、しばらく待ってほしいのです。先ほ
ど言ったように、かれを当家に預けてください﹂
風向きがいきなり変わり、山内くんはぎょっとした。
楓さんの頼みにパパがぴくりと片眉を上げる。
﹁⋮⋮んん? それはどういうこった?﹂
﹁先輩がわたくしどもに委ねてくれた最初の依頼が関係します。﹃
この子がだれかに呪詛されているのではないか、もしそうならわた
くしどもに祓ってもらえないか﹄との話ですが⋮⋮その件を解決す
るまでは、見鬼の能を封じないでおきましょう。
見ることは、迫る危険を察知する最良の手段です。かれは牙笛を
なくしてしまったということですが、見鬼の力はそれを補って余り
あります﹂
山内くんは心拍数がみるまに増えていくのを感じる。
単なる不運ではなく、呪詛されている可能性があるとはっきり言
われたのだ。
やしろ
﹁牙笛をなくした経緯⋮⋮その子が見た夢のことも気にかかります﹂
楓さんはそっと言った。﹁暗い社⋮⋮先輩、心当たりがあるはずで
す。あなたとわたくしには﹂
﹁楓ちゃん﹂
パパの声は、有無をいわさぬ制止の重みを帯びていた。
﹁悪いが子供の前じゃよしてくれ。あとでふたりで話そう﹂
﹁失礼しました﹂と楓さんは引きさがる。
そばで聞いている山内くんはふたりの顔を見比べてとまどう。
︵僕の見た夢のことをパパは知ってるの? なにを隠してるんだろ
う? 僕には聞かせられない話というのはどういう⋮⋮︶
﹁邪鬼丸くん﹂
目がぐるぐるしそうなほど混乱したところで、山内くんは楓さん
に声をかけられた。
49
﹁なるべくはやく決着をつけるつもりよ。それまでは見鬼のままで
いてちょうだい。しばらくは危険を避けるため、あなたにはうちに
寝泊まりしてもらうつもりです。
もう遅いから今日はひとまず休んでらっしゃい、わたくしはお父
様とお話がありますから﹂
紺の首根っこを、楓さんは手を伸ばしてつかんだ。
﹁うちの娘をそばにつけるから、なにかおかしなことが起きたら任
せてしまえばいいわ。こんな手に負えない子ですが、寄ってくるも
のを追い払うくらいの役には立ちます﹂
一瞬わけがわからず戸惑った山内くんの前で、紺がうんざりした
声を出した。
﹁えー⋮⋮オレ番犬役?﹂
50
よってくる夜
パパはいったん実家に帰り、山内くんだけが夜の十妙院家に残さ
れる。
あてがわれた寝室には蚊取り線香の煙がただよっていた。
二組のふとんが並べて敷かれたその部屋を見回し、山内くんは疑
問をおぼえた。さっきの部屋とほぼ同じ造りの、純和風の畳部屋だ
が⋮⋮
︵お札が貼られてない。こっちはふつうの部屋に見える︶
﹁とっとと寝よーぜ、夜も遅いんだ。ったく、すぐ脱ぐのに振袖な
んか着せやがって⋮⋮﹂
ねまき
となりに立った紺が心底眠たげにうながしてきた。
ついさっきまで振袖姿だった彼女は、すでに白い寝巻に着替えて
いた。山内くんも抹茶色の寝巻を貸し出されて袖を通している。
彼女に山内くんは疑問をぶつけてみた。
﹁あの⋮⋮この部屋はなにもしてないんだね。さっきの部屋にはお
札をべたべた貼ってたのに﹂
﹁あれか﹂紺はふわふわ口を開けてあくびまじりに答えた。﹁あり
ゃオレが女のカッコするときのための結界だ、気にすんな﹂
﹁え?﹂
﹁うちの伝統でオレ、男装を簡単に解いちゃだめだから。原則とし
ては、女の服着ていいのは、あの部屋みたいな結界のなかでなんだ。
ともかく、こっちの部屋が本来の客間。結界は貼ってない﹂
君のいうことはよくわかんないよ、と山内くんは困ったが、紺は
それで説明は済んだとばかりに電灯のひもに手を伸ばした。
豆電球をのこして部屋の明かりが消える。
﹁注意しとくけど﹂
二人して布団に寝そべったのち、紺が釘を刺してきた。
51
﹁こうなったからには、ちゃんとオレの目のとどくところにいろよ
な。めんどくせーけどやるからにはきちんと守ってやる。安心しな﹂
﹁そうするけど⋮⋮でも、あの、寝室までいっしょにする必要が⋮
⋮?﹂
﹁これは罠だから﹂紺はとんでもないことを言った。﹁あえて呪詛
を呼びこんで現場でその術を解析し、どこのだれが悪さしてるのか
探るのが手っ取り早い。おまえがネズミ、犯人が猫、オレが犬だな。
猫がネズミを仕留めに来たら、犬が現行犯で首根っこ捕まえるのさ。
おまえがやられてもちゃんと犯人は突き止めるから、安心しな?﹂
﹁どう安心できるんだよ!?﹂
﹁冗談だよばーか﹂
意地悪く笑って、紺は天井の隅を指さした。
﹁罠ってのは本当だけど。
おまえはさっき気付かなかったけど、この部屋だって何もないわ
けじゃない。あそこの、わかるか?﹂
言われて視線を天井に向け、山内くんは気づく。小さな点ほどの
光がひとつ灯っている。
﹁⋮⋮蛍?﹂
﹁監視用の式︵式神︶だよ。この部屋で起きることは楓やお祖母様
に筒抜けになってるんだ。だからもしもおまえがオレにトチ狂った
ことしようとしてもすぐわかる﹂
﹁しないよ!﹂
どういう意味かぼんやりわかる年頃である。赤面して山内くんは
否定する。紺はとりあわず﹁しかしおまえ、ほんとにあの式が見え
てんだな。隠密性高いから、オレだって目を凝らさなきゃ見えない
のに﹂と感心した。
﹁おまえ自身もその目ぇしっかり使って警戒しとけよ?
楓がさっき話してたろ。見鬼をすぐ封じないのは霊障や呪詛への
対処に役立つからでもあるんだ﹂
﹁⋮⋮呪詛って、見えるものなの?﹂
52
﹁見えるよ。呪詛ってのは式を使うものだもの。つってもおまえの
場合、まだ呪詛だとははっきりしてないんだっけ﹂
かそけ
紺は寝返りをうって山内くんのほうを向いた。整った目鼻立ちが、
口元のおぼろな炎に幽く照らされた。襟がゆるみ、早熟な厚みをも
った白い胸元がのぞく。横向きの姿勢ゆえに深まった谷間が、胸に
巻かれたさらしの上端から鎖骨のほうへと、陰影くっきりした狭間
の線を伸ばしている。困惑しきった山内くんは、視線が紺の顔から
下へいかないようにする。
さいわいといっていいのか、紺がおそろしいことを言ったので、
すぐ山内くんの意識は別方向に向いた。
﹁完全な偶然というには無理があるから、呪詛じゃなかったとした
ら悪質な憑き物だろうけど﹂
憑き物。
以前からうすうす危ぶんでいたことではあるが⋮⋮あらためて聞
つ
くと、呪詛よりもぞっとした。
﹁なにかに憑かれてるの僕? 憑くって⋮⋮幽霊とかそういうもの
だよね?﹂
紺はなぶるような笑みをニッと浮かべた。
﹁霊にならずっと憑かれてたぜ。⋮⋮待て待て、そうおびえんなっ
て。憑いてる霊がいたけど、それは悪いものじゃなかったんだ。だ
から昔、オレは牙笛をおまえに渡したのさ﹂
ますます混乱する山内くんに、紺は﹁牙笛ってのは﹂と説明する。
﹁危険が迫ったとき、すぐそばにいる好意的な霊が鳴らしてくれる
ものなんだよ。おまえは憑いてるものに守られてた﹂
﹁⋮⋮守護霊ってこと?﹂山内くんは漫画で得た知識を思い出した。
﹁あー、そう言ったほうがわかりやすいかぁ。ともかく、おまえは
カラカラに乾いたぞうきんみたいな奴だからさ﹂聞きようによって
は失礼きわまりないことを紺は言った。﹁ぞうきんが水を吸い込む
ように、怪異や災いを引きこむ体質してるよ。そばにいる霊に守ら
れてなきゃ死んでたなぁ﹂
53
嘘だと言うには、過去にいろいろありすぎた。脳裏に浮かぶのは
車に崖下へはね飛ばされてダムで溺れた記憶、誘拐されて逃げない
よう脚をバットで叩き折られた記憶、ショーウインドウガラスの倒
壊に巻き込まれて血だまりのなかで痙攣するはめになった記憶だ。
げっそりしたのち、気をとりなおして話の焦点を変える。
﹁僕を守ってくれてる霊って、どんな姿かたちなの?﹂
﹁外見までははっきり確認してねーよ、オレは気配感じただけで⋮
⋮でも、おおかた祖霊︵先祖の霊︶だろ。ほとんどの場合はそうだ
もん﹂
﹁ふうん⋮⋮女の人かな?﹂
ママかも、とかれは考えた。山内くんのママはかれが幼いころに
鬼籍に入っている。
だが、紺は否定した。
﹁いや、たぶんだけど若い男。男と女じゃ霊気の陰陽の配分が違う
からわかる﹂
﹁そうなんだ﹂どうやら顔も知らない誰かが守護霊らしい。
﹁いっそ自分で見たらどうだ? おまえは見鬼だけならオレより上
かもしれないんだろ。ほら、いまはわかりにくいけど目を凝らせば
そこの⋮⋮﹂
紺は山内くんの守護霊を探すようにきょろきょろしはじめ︱︱
﹁あれ?﹂
いぶかしむ声をあげた。
﹁おかしいな、気配が薄いどころかまったくなくなってる﹂
﹁え? そうなの?﹂守護霊がいないと聞いて、にわかに山内くん
は不安になってきた。
﹁ああ。守る霊がいないんじゃ、牙笛あっても役に立ちゃしないな﹂
紺の声にわずかな困惑が混じる。﹁なんで守る霊がいなくなってん
だ、おまえ?⋮⋮もしかして、オレがおまえを見鬼にしたのが関係
あんのかな? 離れられちゃった?﹂
彼女は勝ち気そうな眉を、気まずげに下げた。﹁そのう⋮⋮そう
54
だとしたら、わるかったよ﹂と山内くんに初めて謝った。守護霊の
不在におびえながらも、﹁うん﹂と山内くんは受け入れた。いなく
なったものはしかたないし、ちゃんと謝られたのだから許すのが筋
だ。
おたがいなんとなく沈黙する。鈴虫の音が庭からしばし聞こえて
きていた。
﹁あの⋮⋮十妙院さん?﹂
﹁なんだ⋮⋮待て、下の名前で呼べよ﹂
山内くんが呼びかけると、紺は微妙に苦い表情で訂正を求めてき
た。﹁オレ、家名で呼ばれるの好きじゃないんだ﹂
僕の逆だな、と山内くんは思った。かれが嫌いなのは自分の下の
名前である。とりあえず呼び方を直してみる。
﹁じゃあコン太さん﹂
﹁おまえけっこう陰険だな。はいはい名前でウソついたのも悪かっ
たよっ。なんだよいったい!﹂
﹁紺さん。なんで話し方やあれこれ、男の子っぽくしてるの?﹂
それのためにずっとこの少女のことを、少年だと勘違いしていた
のだ。
﹁さっきは意味があることみたいな口ぶりだったけど⋮⋮結界のな
かでしか女の子の格好できないとか﹂
﹁これか﹂紺はあっさり教えてくれた。﹁おまえの名前と似た事情
だよ。昔から伝わってる、幼いころだけの魔除けの風習だ﹂
山内くんは衝撃を受けた。
︵僕の名前と同じ事情? いやそれより、邪鬼丸だなんてふざけた
名前に事情があったの?︶
紺が淡々と説明する
﹁呪いや物の怪から子供の身を守るおまじない﹄なんだよ。わざわ
ざ子供に恐ろしい名前やけがれた名前をつけたり、子供の真の性別
を隠したりするのは。
うちはいまでこそ上品ぶってるけど、もともと呪術使って後ろ暗
55
げほう
いことやってた、いわゆる外法の家なんだ。同業者を呪殺したり呪
詛返されたり⋮⋮幼児を殺されることが多かったもんだから、それ
しゅ
への対抗でこんな伝統ができちまった。幼児の性別いつわって育て
ることで、相手の飛ばす呪が方向そらされるんだってさ。
おぐななり
一人前になったと認められたら好きに女の服も着られるけど、そ
れまでは基本的に童男姿⋮⋮男装して、男の子みたいにふるまわな
きゃだめなんだ﹂
こんなしきたり、いまの世じゃアホらしいったらないよな。紺は
ぼやくが、さりとて積極的にしきたりを破るほどの憤りはないよう
だった。
彼女の事情はわかったが、山内くんの関心はすでに自分の名前の
由来に向いている。
ようみょう
﹁あ、あの、僕の名前についてももう少し詳しく説明してもらえる
と⋮⋮﹂
﹁あー、うん。幼名といってさ、昔の男は成人するまで子供用の名
前をもってて、大人になったらあらためて自分で名前つけてたんだ。
代々、家に伝わる幼名もあったらしい。
んでさっき言ったように、幼名には恐ろしい字やけがれた字⋮⋮
たとえば﹃夜叉﹄﹃鬼﹄などを使って災いを遠ざけることがあった。
おまえの名前はそれだろたぶん。理解した?﹂
﹁昔から伝わるしきたりって迷惑だなあ!﹂
山内くんは悲憤慷慨した。いまのご時世、改名はそうたやすくで
きないというではないか。紺のほうは身なりと口調を改めるだけで
すむのだから、自分よりましに思える。
紺があくびする。
﹁同感だけどカッカするのは明日にしろよ。いいかげん寝よーぜ、
もうじゅうぶんに遅いんだ。あとオレの名前だけど、さん付けでな
タオルケット
くていい⋮⋮友達みんなオレのこと呼び捨てで呼んでる⋮⋮﹂
それきり彼女は草木柄の上掛けにくるまって目を閉じた。
山内くんは微妙に途方にくれた気分で彼女を見やる。
56
友達になったのだろうか。よくわからない。
寝ついてしばらくしてから、山内くんは意識を再浮上させた。強
い異臭を感じたのである。血なまぐささと獣臭さが混じった異様な
においだった。
︵⋮⋮なに?︶
目を開けてみると部屋の隅を四つ足でぐるぐる回る影がある。
それは凍りついている山内くんの視線に気づいてぴたりと動きを
止めた。頭とおぼしき部分をぐるりとめぐらせてかれをねめつけて
きた。
中型犬ほどの大きさのそれは、最初は黒いもやのような姿だった。
だがじわじわと輪郭を明らかにしてゆく。血かなにかでひどく汚れ
た毛並みが見えはじめた。
﹁うわっ⋮⋮!﹂
山内くんは上掛けをはねのけて身を起こそうとする︱︱が、そこ
でかれの頭に、のしっと少女の重みがかかった。
﹁失せろよ﹂
ひざ立ちで紺が起き上がっていた。山内くんの頭に組んだ腕を置
き、かれのうしろから身を乗り出すようにして、黒い影をにらんで
いる。
﹁燃やすぞ﹂
冷ややかな声とともに、彼女の唇からふぅーっと青い火が伸び、
黒い影をあとじさらせた。影は向きを変え、すばやく障子戸から庭
に面した廊下へ飛び出していった。
開いた障子の隙間だけが残った。
うり
﹁紺さんっ⋮⋮紺、いまのはいったい⋮⋮﹂
﹁犬かタヌキに見えたな。頭がはじけた瓜みたいになってたけど﹂
動悸がおさまらないかれに紺は答える。﹁事故死かなにかしたばか
りの動物霊だろ、怪異ホイホイみたいなおまえに惹かれてきたんだ。
57
たちがよくないけど、さほど力はない。あのくらいならいくら寄っ
てきたってどうってこたない、怖がりすぎんな﹂
紺はかれから身を離すと、さっさとふとんに横たわった。
﹁寝ろよ。さっきみたいな低級霊は金縛り起こすのがせいぜいだし
⋮⋮おまえはオレの霊縛術すら解いたんだから、そんくらい余裕な
はずなんだ。手に負えそうもないのが間近に来たなら追っ払ってや
るけど⋮⋮ふぁぁ⋮⋮オレはぐっすり寝たいんだから、ちょっとの
ことなら騒ぐなよ⋮⋮﹂
彼女はふたたび寝息をたてはじめた。
︵ぎりぎりまで起こすなって? そんな!︶
胸中で悲鳴をあげ、山内くんは身震いする。
ちらりと障子戸に目を向ける︱︱まだ隙間は開いている。気にな
ってどうしようもなく、山内くんは四つんばいで障子にそろそろと
近寄った。
閉めようと手を伸ばしたとき、障子の向こうの人影に気づいた。
見下ろしてくる視線にも。
隙間の上方に、ふたつの目が並んでじっと見つめてきている。
だれかが無言で室内をのぞいているのだ、頭をかくんと横に倒し
て。生きた人間の気配はしなかった。
ぴしゃっと障子を閉め、山内くんは四つんばいのまま後ろ向きに
すさささとふとんに戻る。
︱︱閉めたばかりの障子戸がカタンと音をたて、またわずかに開
いた。
やっぱり紺をもう一度起こそうかな、と山内くんは震えた。なる
べく彼女のそばにと身をちぢこまらせる。かなり情けないが、しば
らく夜はボディーガードの少女を頼りにするしかなさそうだった。
闇のなかで蚊取り線香の香にまじり、少女の甘い匂いがただよっ
ていた。
山内くんの心臓がひどくどきどきしはじめた。それは主に障子戸
からのぞく不気味な視線のせいだったが、ほんの少しは別の要因も
58
あったかもしれなかった。
59
こっくりさん︵前書き︶
呪禁は﹁じゅごん﹂と読みます。
60
こっくりさん
ふにゃぁあと猫鳴きめいたあくび声が間近で響く。
障子戸を透かす朝の光を浴びて、山内くんは目を覚ました。
紺がふとんのうえにぺたんとお尻をついて起き上がっていた。女
ぼうよう
の子座りで、眠たげにまぶたをこすっている。彼女の寝巻の右肩は
しどけなくずり落ちかけていた。
︵そういや泊まったんだっけ⋮⋮︶
彼女の表情とおなじくらい山内くんのおつむも茫洋としている。
︵これから夜だけこの部屋にいることになるのかな。夏休みのあい
だにもとの生活に戻れないと困るな⋮⋮︶
かれはしばらくぼんやり考えていたが、﹁⋮⋮おい。ラジオ体操
行くぞ﹂紺がぴょんと立ち上がったのでつきあって身を起こした。
とりあえず、あとで考えようと思いながら。
地蔵堂がある竹林内の空き地だった。
曲に合わせ十人前後の子供たちが体を屈伸させる。
着替えて顔を洗うや当然のように紺についてこさせられ、よその
土地のラジオ体操になんとなく混ざってしまった山内くんであるが、
あまり面倒には思っていない。早起きして運動するのは好きである。
﹁おはよう、山内邪鬼丸だったな﹂
体操が終わるやいなや山内くんは、二人組の少年から挨拶の声を
かけられた。相手のひとりはスポーツ刈りで均整のとれた体つきの、
ほがらかな笑みを浮かべた男の子である。
﹁おはよう⋮⋮あ、もしかしておとといの﹂
声音で山内くんは思い当たった。おとといの祭りの夜、紺の使い
としてかれを墓場へ連れて行った少年であった。紺に命じられてか
61
れの肩をおさえてきたため、投げそうになってしまった相手でもあ
る。
﹁おう、こないだは悪かったな。怖がらせたあげく途中でおかしな
ことになっちゃって﹂
﹁いや、こっちこそ君を投げようとしちゃって⋮⋮﹂
そうだなおふみ
﹁あれは俺らが強引なことしようとしたからだしさ﹂苦笑し、その
少年は自分の胸を親指で指した。﹁俺、宗田直文っていうんだ。よ
ろしくな邪鬼丸。こっちはマイタケ﹂
横にいた少年が直文に紹介されておずおずほほえんだ。太めの体
まいだたけし
型で眼鏡をかけている。
﹁ぼくは舞田武志⋮⋮マイタケなんて呼ばれてます。山内邪鬼丸く
ん、ぼくもよろしくね﹂
陽の光の下で見ると、好感の持てる普通の子たちだった。山内く
んもはにかみ気味の笑みを返す。﹁よろしく。でも、僕を下の名前
で呼ばないでくれるとうれしいな﹂
直文とマイタケが顔を見合わせ、やや気まずげに言ってきた。
﹁あー⋮⋮ごめんね?﹂
﹁ついノリで名前のこと笑っちまったけど、悪かったなって思って
たんだよ﹂
かれらの謝罪は山内くんの心から最後のしこりを消し去った。名
前のことは最大のコンプレックスだが、自発的に謝ってもらえたこ
とでじゅうぶん満足である。おうように手をふる。
﹁いいって、変な名前なのはほんとのことだし﹂
それを聞いて安堵の表情になったマイタケが、おっとりした口ぶ
りでしゃべりだす。
﹁君があらためて仲間に入ったこと、さっき紺に聞いたんだ。あの
さ、方位の吉凶を占った結果、お昼からはぼくの家で遊ぶらしいよ。
もう紺に聞いたっけ?﹂
聞いていなかった。かれはややたじろいだ。
﹁方位の? キッキョウ?﹂
62
ひがら
﹁吉凶。この時期の紺はいつも、どこで遊ぶのが無難か前々日に決
めてるんだ。日柄方角の占い﹂
山内くんは昨日の紺の力説、﹃警告しても信じないやつが多いん
だ﹄という憤りの声を思い出す。なるほどこれはたしかに、実際に
不思議な体験をしていない人に話しても迷信あつかいされるだろう。
それにしてもちょっと急な話だった。山内くんは極端な人見知り
というわけではないが、ほぼ初対面の子たちのグループに入ってい
きなり馴染めるほど外向的な性格でもない。マイタケの家へ行くと
聞いてかれはもじもじした。
﹁おじゃましてもいいのかな⋮⋮﹂
﹁もちろんさ。ろくなおもてなしできないけど。お昼からゲームし
て魚釣って、夕方になったらナマズでも突いて遊ぼうよ﹂
﹁⋮⋮ナマズ?﹂
﹁暗くなったら田のあぜや、コンクリで固められてない小川に出て
かば
くるでしょ? とくにうちの近くには多いから、懐中電灯で照らし
ながらヤスで突くんだ。大きなのは七十センチ超えるよ。蒲焼きに
すると美味しいよ!﹂
﹁マイタケは水のなかのもの食うのが趣味なんだぜ。カニからカエ
ルまでなんでも捕って料理しやがる﹂
直文がにやりとして言った。マイタケが慌てたように手をふる。
﹁直文、誤解されるからよしてよ! その言い方じゃぼくがそこら
の小さなサワガニやアマガエル食べてるみたいじゃないか。そうい
モクズ
ウシ
うのもたくさん集められたら味噌汁や炒めものみたいにして食べる
けど、普通は藻屑ガニや食用ガエルみたいな大きなやつだからね。
安心してね山内くん﹂
﹁う⋮⋮うん⋮⋮?﹂
緑と清水豊かな播州の山中では、いまでも変わった食文化が残っ
ているようだった。あるいはマイタケひとりの文化かもしれないが。
﹁まあ午前中は、大人の監視のもとみんなで夏休みの宿題やらなき
ゃならないんだけどさ⋮⋮﹂
63
マイタケが力なくつぶやく。山内くんはナマズとカニとカエルが
鍋でごった煮になっているイメージから急速にわれに返った。
﹁大人の監視?﹂
﹁去年の夏休みのとき、みんなで宿題写しっこしてたことがバレち
ゃってよ⋮⋮今年のうちのクラスは、各地区の公民館で宿題を消化
させられてるんだ。先生や補導ボランティアのおっさんたちが、宿
題やるとこしっかり見張ってるんだ。
くっそ、夏休みにまで授業あるようなもんじゃん⋮⋮﹃かったり
ーから手分けしてやって夏休み最終日に写しあおうぜ﹄と去年紺が
言い出したとき乗らなきゃよかったよ﹂
直文が無念そうに答えたとき、聞き捨てならないとばかりに紺が
割りこんできた。
﹁嬉々として乗ってきたくせになに言ってんだ。てか直文、おまえ
の分担した部分の計算ミスで﹃×印つく問題が全員共通してるのは
なぜだ﹄と先生たちに疑い持たれたんだろーが! あとだれが絵日
記まで人のを写せと言った、バレねーわけねーだろうがこのド級ア
ホ! おまえのとこから芋づる式に写しっこが発覚したんだぞ!﹂
﹁ちげええよ!? 日記はまじめにやったんだ! ただバカの穂乃
果が、﹃絵日記ふたりで書こ! あたしふたりぶん絵描いたるから
! 直文は代わりに文を埋めといてな﹄つって勝手に⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮で、二冊分の文書いてやったのかおまえ﹂
﹁穂乃果が妄想の絵をどんどん描くので、それに当てはまりそうな
状況適当にでっちあげて書いたよ⋮⋮けど結局、二冊の絵柄と筆跡
が同じなのが職員室でとっちめられてさ﹂
﹁考えりゃわかるだろーが。尻に敷かれてねーで止めろよ﹂
﹁だだだれがあんなピーチクパーチク女の尻に!﹂
ぎゃーすかとやかましい言い合いが続く。絵日記を高学年で出す
学校は珍しいなあと山内くんは感想を抱いた。
︵宿題か。僕もやらなきゃ︶
山内くんは夏休みの宿題を最初の一週間でほぼ片付けていたが、
64
それはアパートごと灰になってしまった。なのでこの町に来る前、
担任の先生に連絡をとって再び出してもらってきたのである。
﹁なにおまえ、宿題が好きなの? 信じらんねー﹂
宿題をもう一度出してもらったことを話すと、紺は毛の生えた魚
を発見したような目をかれに向けた。
﹁好きじゃないけど⋮⋮ちゃんと提出するのが筋だもの﹂
﹁真面目なやつ﹂紺は鼻で笑う。そのくせ問題に手こずるやすぐ﹁
おい⋮⋮この計算どう解くの﹂と面の皮厚く、隣のかれをつついて
聞く。
午前中である。勉強会の場だった。
公民館の板張りのホールには、長机とパイプ椅子が並べられ、十
人ほどの子供たちが着席している。さすがにラジオ体操のみならず
地域の勉強会にまで参加するのはおかしい、と山内くんは残ろうと
したのだが、紺に引きずられるようにして同席させられてしまった。
︵ここにいるの気まずい⋮⋮︶
山内くんは辟易している。
前後左右の席から他の子供たちに﹁だれだアイツ﹂とじろじろ見
られるのはまだいい。隅の椅子に座って監視しているおじさんが、
おととい焼死体とともにいた山内くんを見つけた﹁石田先生﹂なの
だ。神経質そうな細面をひきつらせ、かれをちらちら見てくる。
︵あの人もきっと昨日は警察にさんざん事情聴取されたんだろうな
⋮⋮すっごい見てきてるけど話しかけてこないのは、苦手意識持た
れちゃってるのかな︶
ひとりだけ別の問題集を解き進めながら、山内くんは嘆息した。
﹁山内。おい、山内﹂紺がひそめた声で呼びかけてくる。
はいはい次はどれがわかんないのと言うと、違うと怒られた。
﹁あとでここの二階でこっくりさん会やるから。おまえも気をつけ
て見とけ﹂
65
﹁⋮⋮はい? こっくりさん?﹂
﹁知らない? 降霊術の一種﹂
﹁いや⋮⋮知ってるけど⋮⋮気をつけて見ろってなに?﹂
﹁前にも言ったけど釜蓋開いてる時期だし、おかしなものが寄って
きやすい。そばで見るおまえも用心しとけってこと﹂
﹁待って。待って﹂突っ込みが追いつかない。山内くんは器用に小
声でわめいた。﹁なんで僕がこっくりさんする場にいなきゃなんな
いの、帰るよ普通に!? まずなんでこっくりさんなんかやるんだ
よ!﹂
﹁﹃よく見えるやつ﹄は貴重なんだ。むしろおまえに手伝ってもら
いたいからここに連れてきたんだよ﹂
紺は漢字ドリルを猛烈な速さで埋めながら平然と言った。意外に
もその字は、山内くんが丁寧に書いた字よりはるかに綺麗である。
﹁降霊でいちばん大事なのは、降りてきたものの性質の見極めだ。
万が一悪いものだった場合、お帰りねがうのは早ければ早いほどい
い。おまえのほうがオレより早く気づくかもしんないだろ。
プールの監視員みたいなもんだよ、多くて悪いことはない﹂
﹁ぼ⋮⋮僕にもわからなかったらどうするんだよ!? 幽霊だのな
んだの、僕は多く見てきたわけじゃないんだよ!﹂
﹁それならそれでいい経験になるだろ。﹃あれは大丈夫、これは危
険﹄っていまのうちに判別できるようになっとけ。今回はむしろそ
っちがメインの目的かな、おまえはすこし﹃見えること﹄に慣れと
けよ﹂
信じがたい速筆で漢字の書き取りを終わらせ、﹁あちー⋮⋮﹂紺
は下じきで自分をあおいだ。きゃしゃなのどを汗が伝っている。こ
のホールにエアコンなどという上等なものは設置されておらず、駐
車場に面して開け放たれたガラス戸からぬるい夏風が吹き込むばか
りであった。
﹁き⋮⋮危険だからなるべくいっしょに行動しろとかさんざんあお
ってたくせに、なんで危険な場所に同席させるんだよ⋮⋮﹂
66
おびえて愚痴めく山内くんに、紺は大丈夫大丈夫とうけあった。
﹁オレがいなきゃ危ないかもしれないけど、オレがいるかぎりたい
した問題じゃねーっつの。
ここでこっくりさん会開くのだって、オレの手が届く範囲でガス
抜きさせるためだよ。
うちの学校はいまこっくりさんブームで、やりたがるやつがけっ
こういるんだ。﹃絶対やるな﹄と言えば全員抑えつけられるなんて
幻想はオレだって抱いてねーよ。だからせめてオレがいるときやる
ように言い渡してんの﹂
休憩時間。
お手洗いへでも行くのか紺が席を立ち、入れ替わりに直文とマイ
タケが近くに寄ってきた。手に冷えた麦茶の入った紙コップをもっ
ている。
﹁信じらんねーと言われたけどあの子こそ信じられないよっ﹂麦茶
で口を湿し、山内くんは憤然と愚痴った。マイタケは聞きながらう
んうんうなずいていたが、うっすら微笑む。
﹁あのさ、紺はこうしろああしろって言ってくること多いんだけど、
ちゃんと理由があっての押し付けが多いから、態度は大目に見てや
ってね。悪い子じゃないんだ。意地悪で自分勝手で怒らせたらしっ
ぺ返し怖いけど﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁わがままだし食い意地はってるけどそう悪いやつじゃないよな。
紺
面倒見いいし﹂さらに直文が横でうなずく。
あの子って人望があるのかないのかよくわからないや、と山内く
んは思った。
公民館二階の奥まったところにある物置部屋は、ホールの比では
ないくらい暑かった。建物の南側に面しており、正午近くともなる
と日光にじりじり炙られるのである。
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厚い紫色のカーテンによって直射日光はさえぎられていたが、同
時に窓も閉められて風すら吹き込まない。
﹁あちー。窓開けね?﹂
積まれている予備の机の上、足を投げ出すように座った紺が、下
じきうちわを猛烈にぱたぱたさせながら言った。別の机でこっくり
さんの紙を広げている女の子たちがいっせいに首を振った。
﹁紙が風で飛んじゃうし。暗くなきゃ雰囲気出ないよ﹂
﹁暗すぎてもいやだけどねー﹂﹁夜なんか怖くてできないよねえ﹂
女の子ってほどほどにこわいものが好きなのかなと、部屋の隅で
息をひそめながら山内くんは思う。
︵怖いし暑いしほこりっぽい部屋だし。さっさと終わりますように︶
見たところ集まっているのは女の子ばかりで、五人もいる。室内
の男は山内くんひとりで、そういう意味でも居心地が悪かった。
女子のほうでも混じった男子が気になったらしい。ひとりが聞い
てきた。
﹁ところで、そこの見かけないヒトだけど⋮⋮﹂
﹁こいつは置き物みたいなもんと思っといて﹂紺は下じきを持った
手をひらひらさせた。﹁ここらのやつじゃないし人畜無害だから。
何聞いてもしゃべらないって約束させとく﹂
女の子たちはおどおどする山内くんの顔をとっくりながめたのち、
まあ無視していっかと割り切ったようである。
最初に三人が進み出た。
アイウエオ、カキクケコ⋮⋮の五十音字と︹ハイ︺︹イイエ︺、
鳥居マークの書かれた紙の盤︱︱その上に置かれた十円玉に、三本
のひとさし指が乗る。
﹁こっくりさん。こっくりさん。おいでください﹂
落ち着かない気分でいた山内くんは、目を瞠って見つめた。
ただしそれは、呼び出しの儀式をおこなっている三人組のほうで
はない。
紺がそっと、ショートパンツのポケットから一枚の符をひっぱり
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出していた。彼女はくしゃくしゃになったそれをそうっと吹いた。
青い炎が符を包み⋮⋮符は燃え、しかし灰とはならなかった。青く
燃える蝶となって、盤めざして舞いあがったのである。
﹁おいでになりましたら、︹ハイ︺の上へ﹂
山内くんと紺にしか見えていない蝶は、盤の真上でふっと姿を消
した。十円玉に入りこんだかのようだった。
﹁あ⋮⋮来たっ、今日もおいでになられたよ﹂
少女のひとりが声を興奮に弾ませた。その手元では十円玉がすい
すいとアメンボのように滑らかに動いている。
少女たちは次々と﹁こっくりさん﹂に質問を浴びせはじめた。
﹁こっくりさん、こっくりさん。素敵な恋がしたいです。どこに行
けば理想の男の子に会えますか。うちの学校のガキっぽい男子はぶ
っちゃけありえないから、それ以外で!﹂
十円玉がぬるぬる動いて滑らかに文字を示す。
さらなるどよめきが上がった。
﹁﹃シルカボケ﹄⋮⋮ぎゃー。きゃー。このそっけなさ、まちがい
なくいつものこっくりさんだよ! やっぱり紺ちゃんがいると降り
てきやすいね!﹂
ニッポンバシ
﹁つぎわたし! こっくりさん、こっくりさん。A組の松田くんが
好きなのは誰ですか!﹂
十円玉が動く。
﹁﹃サクラギアカリ﹄⋮⋮桜木あかり!? NPB48の!? 松
田くんアイドルなんかに騙されないで、その女ぜったい枕営業して
るはずだから!
そうだ紺っ、紺! 松田くんに桜木アバズレを忘れさせるための
おまじないしてくれない!?﹂
﹁できるかタコ。人の心を操作する系は頼まれてもやらないと言っ
てるだろ﹂
血走った目を向けてくる少女の無茶な要求を、紺はあきれ顔で却
下した。
69
また別の少女が﹁はいはいつぎウチね!﹂と質問を口にする。
﹁こっくりさん、こっくりさん! ウチのビー玉コレクションが無
くなってもーたんよ、どこにあるか教えてくれへん!?﹂
十円玉が動く。
﹁﹃ツギノトキオシエル﹄わかった、つぎのときね!﹂
山内くんは冷や汗を流して紺を見た。
紺はかったるそうに﹁つぎのときまでにこっちで占っときゃ出る
さ﹂と言う。山内くんは紺に近寄り、ささやき声で聞いた。
﹁紺⋮⋮これやっぱり君が動かしてるんだよね?﹂
﹁式神使ってる。ぜったいにバラすなよ﹂紺は認めた。﹁いいだろ、
あいつら喜んでるんだから。質問に嘘では答えてないし﹂
﹁松田くんとやらの好きな人がアイドルだって、よどみなく答えて
たけど⋮⋮﹂
﹁それも嘘じゃねーから。﹃桜木あかりちゃんのハートをゲットす
る呪術があるならやってくれ﹄と松田に依頼されたことがある⋮⋮﹂
げっそりした様子で紺は答えた。﹁発想が同じで案外お似合いかも
なあいつら﹂
なんと答えていいかわからず山内くんは押し黙る。
︵でも、紺のイカサマでよかった︶
そっと安堵の息をついた。降霊術などと言っても実態がこれであ
れば、おびえることもない。むしろ不思議な力を眺めて楽しむ余裕
すらある。
だがその余裕はほかならぬ紺によって剥ぎ取られた。
﹁気を抜くな﹂紺は山内くんの耳に口をつけるようにして警告して
きた。﹁こうした降霊の真似事でも、ときどき﹃本物﹄が途中で混
ざるんだ。オレたちが見張ってなきゃなんないのはそれだ﹂
本物が寄ってきませんようにと山内くんは震えながら祈った。
女の子たちがかしましく五、六の質問をしたのち、紺はグループ
の交代をうながした。
﹁そろそろ絵美とアッコの番な。代わってやれよ﹂
70
﹁あっ、じゃああとひとつだけ﹂
女の子たちは紺に顔を向け、にやーっとした。その含みありげな
笑顔に、紺がきょとんとする。
彼女たちは示し合わせていたのだろう、歌うように声をそろえて
言った。
﹁こっくりさん、こっくりさん。紺ちゃんの好きな人はだれですか
ー﹂
それを聞いて紺は半眼、いわゆるジト目になった。
十円玉が動き、手元を見た女の子三人は失望の声をあげた。
﹁﹃イナイ﹄だって。ちぇー、おもしろくないなぁ﹂
﹁⋮⋮なんだいまの質問は﹂ジト目のまま紺が詰問する。
﹁だってー。あたしたちこっくりさんやるたびに、紺ちゃんに好き
な人からなにから打ち明けてるのもおなじじゃん!﹂﹁質問を隠し
ちゃいけないなんて不便ー!﹂﹁紺ちゃんの秘密だって打ち明けて
もらわなきゃ不公平やんか!﹂
きゃいきゃい騒ぐ少女たちに、しれっと紺は言い放った。
﹁かわりに霊が降りやすい環境作ってやってるし、安全も保証して
やってるだろ? ねがいごと聞かせてもらうのは、金もらうかわり
のオレの取り分だっつの﹂
︵霊なんか降ろしてないくせに堂々としてるなあ︶
紺ってもしかして、こういう占いや依頼を通じて個人情報たくわ
えてるんじゃないだろうか、と山内くんは気づく。
占い師が権力に食いこむ構造がちょっとわかった瞬間。
﹁はいはい交代交代﹂
紺に重ねてうながされ、それまでの三人が名残惜しげにぶーたれ
ながら机を離れる。代わってふたりの少女が進み出⋮⋮
山内くんは氷水を浴びた心地になった。
影でできた蛇のようなものが、新しく進み出た少女たちの肩から
胴にかけて、ぐねぐねとからみついている。
﹁あ、だめ﹂
71
考える間もなく、制止が口をついて出ていた。
72
こっくりさん︿2 くちなわ様﹀
室内の少女たちがぎょっとしてかれを見た。指を十円玉に置こう
としていたふたりのうちの片方、気の強そうな少女が声をとがらせ
た。
﹁だめって、なにが?﹂
山内くんは青ざめながらも首を振った。止めなければならないと
いう気がしたのである。
﹁あの⋮⋮君たちは、やらないほうがいいんじゃ、ないかな⋮⋮﹂
それに対し、気の強そうな少女は不快げに言った。﹁なんなの、
あんた? 口出さないでくれる﹂しかしそのとげのある言葉には、
少なからずひるみが混じっているように聞こえた。
援護は横からだった。山内くんと少女たちを交互にしげしげと見
ていた紺が、﹁なるほど﹂つぶやいたのちはっきり言った。
﹁絵美、アッコ。こいつの言うとおりだ。おまえらは盤に触っちゃ
だめだ﹂
﹁はあ!? 意味わかんないんだけど!﹂
﹁おまえら、こっくりさんに何聞くつもりだよ? 先に話せ﹂
﹁⋮⋮なんであんたに言わなきゃなんないのよ、そんなこと﹂
﹁絵美﹂紺の声は厳しくなっていた。﹁それをオレに聞かせるのが
代価だろ﹂
絵美は眉をつりあげてなにかを言おうとした︱︱その袖を、アッ
コと呼ばれたお下げ髪の少女がつかんで止めた。
﹁絵美ちゃん。いいよ、わたし話すから﹂
﹁アッコ⋮⋮﹂
﹁紺ちゃん、わたし、こっくりさんに探してもらいたいの。三年前
に行方不明になったお姉ちゃんを﹂
︱︱紺が絶句するのを山内くんは見た。アッコはさらに言いつの
73
った。
﹁おねがい、紺ちゃん⋮⋮そうでないと、お父さんもお母さんも安
心してくれないの。
お姉ちゃんが死んでいてもいいの。ううん、きっと死んでる、そ
れはみんなわかってるの。それでもはっきりさせたいの、どうして
も!﹂
先ほどまで山内くんがアッコに抱いていた印象は、﹁おとなしく
て影が薄い女子﹂だった。しかしいま、彼女の瞳には悲痛な激情が
宿っていた。
何も言えなくなっている紺に対し、アッコの肩を抱いた絵美が強
い調子の声を浴びせた。
﹁紺、アッコのお母さんはいまちょっと心がキツい状態なの。一昨
日、町内でおかしな死体が見つかったそうじゃない? あれのせい
ですっかり限界なんだって﹂
︵黒い蝉⋮⋮林のなかの焼死体だ︶山内くんは気づいた。
あの出来事がいまここで、思わぬ余波を見せているようだった。
﹁お母さんがこの町にいたくないと訴えてるから、このままだとア
ッコは二学期になる前に引っ越しちゃうかもしんないの﹂絵美の声
は責めるように高まっていった。﹁紺、あんたの家が役に立たない
から悪いんだよ。この子のお姉ちゃんがいなくなって数年、アッコ
のお家は何度も十妙院の家に⋮⋮あんたのところに捜索を頼んだそ
うじゃない。それなのに、ご自慢の占いはなんの役にも立たなかっ
たんだってね? アッコのお姉ちゃんが見つかりさえしてれば、お
母さんだって落ち着いてたかもしれなかったのに﹂
紺は口を引き結んで無言だった。
しばしして、彼女はようやく口を開いた。
﹁その件でオレたちが役立たずだったのは認めるよ。でも、こっく
りさんに聞くのはだめだ。もしアッコの姉ちゃんが死んでたとした
ら⋮⋮死者の行方を安易に霊にたずねるのは危険なんだ。
だいたいおまえら、すでにおかしなものがくっついてるじゃない
74
かよ。なんだよ、その細長いのは?﹂
絵美が鼻にしわを寄せ、動揺と敵意を増した表情になる。
﹁はあ? なによ、当てずっぽうを︱︱﹂
﹁⋮⋮そうだよね、ごめんね。やめとく﹂
さえぎるようにアッコがかぼそく言った。彼女は肩を落として部
屋から出て行った。絵美があわててその後を追い、戸口でふりかえ
って紺をにらんだ。﹁大したことないのよ、あんたの家の力なんて﹂
言い捨てるその声には、なぜか勝ち誇る響きがあった。
小走りに絵美の足音が廊下を遠ざかっていく。気まずい沈黙が残
された一同の上を覆った。
だれかが小声でつぶやいた。
﹁⋮⋮アッコの家って、お姉ちゃんが三年前の神かくしでいなくな
ったやん⋮⋮それはみんな知ってたけど、探すのを紺ちゃんの家に
頼んでたってのは知らんかった﹂
戸口を呆然と見ていた山内くんは、それを聞きつけてはっとする。
︵テレビのニュースで聞いたことがあるような気がする︶
神明郡の神かくし事件と、たしかそう呼ばれていたはずだ。いま
までで二桁に達する人数が、なんの前兆もなく、消息を完全に絶っ
ているという。
︵あの事件って、明町で起きてたのか︶
祭りの夜、この町は危険だと紺に言われたのは誇張ではなかった
ようである。
せんじゅつ
うつむいて紺がうなった。落ち込んだような、恥じるような口調
で。
﹁そうだよ。お祖母様が占術使ったけど、痕跡すら見つけらんなか
った。神かくし事件は警察だけじゃなく、うちの恥でもあるんだ。
⋮⋮アッコには悪いと思ってる﹂
彼女は、強いまなざしをぐいと上げた。
﹁でも、それとこれとは話が別だ。こっくりさんをあいつらにやら
せるわけにはいかなかった。やっぱりあいつらの後を追って、おか
75
しなことをしないよう釘を刺しておかなきゃ﹂
● ● ● ● ●
無断侵入した廃屋の土間は、さきほどまでいた公民館の物置より
もほこりっぽかった。壁に窓はなく、入り口の木戸が閉めきられて
ありもとあつこ
いるため、暗さもはるかに勝っている。
アッコ︱︱有元敦子は汗にじむ手のひらでスカートをにぎりしめ
る。
﹁いいのかな⋮⋮こんなことして﹂
この木造の廃屋はとある農家のものである。その一家は現代風の
新居をかまえてもう三十年も前に引っ越し、以来無人のここは子供
たちの﹁秘密基地﹂として使用されていた。近くにほかの家はなく、
ここでなにを言っても他人に聞かれるおそれはない。そのはずなの
だが、アッコのしぼりだした声は細かった。
アッコはためらっていた。
﹁紺ちゃんは、わたしたちだけで﹃こっくりさん﹄やるのは絶対だ
めって⋮⋮﹂
﹁紺のことなんか気にするのやめて、アッコ﹂友達の絵美が準備し
ながら言った。﹁最初からあたしが全部やったげるって言ってたで
しょ。アッコが紺に気をつかうからしかたなくあそこに行ったけど、
何様よあいつって結果になっただけじゃない﹂
絵美は腹立たしげに木戸にかんぬきをかけながら言った。続けて
土間にあった石臼のうえに木の板をかぶせ、こっくりさんの盤を置
いた。
﹁だいじょうぶだからまかせなさいよ。紺のやつなんかに頼らなく
ても、あたしがちゃんと効果高くて安全なやり方知ってるから﹂
よどみなくしゃべる絵美は学習かばんから、手のひらに乗るサイ
ズのプラスチックケースを取り出した。
﹁見て、アッコ。ほら。普通のこっくりさんはね、霊なんてなにも
76
関係ない暗示だったりするの。だから正しい答えが出るとはかぎら
ないの。でも、そこにこういうものを添えておけば﹂
ケースの中に入っていたのは、黒ずんだ古い縄の切れはしだった。
しめ
並みの古さではない。朽ちきって、形がすでに崩れかけている。
﹁これ、もとは神社の注連縄なの。これを置いておくだけで霊が降
あおに
りやすくなるし、一方で悪いものは神気をいやがって寄ってこない
んだって。青丹センパイに分けてもらったものだから効果は確かだ
よ﹂
﹁青丹センパイに⋮⋮﹂
アッコはさらに動揺した。紺はまちがいなくいい顔をしないだろ
たかし
はふりべ
う。この近辺でアオオニという悪名が鳴り響いている中学生、青丹
崇は、祝部の分家の子供で⋮⋮
つまり十妙院家とおなじく、この地では有名な、古くから呪術を
なりわいとする家の生まれだった。
︵あの人がくれたというなら⋮⋮この縄は、﹃ホンモノ﹄かもしれ
ない︶
絵美はピンセットを使って、紙に描かれた鳥居のマークの上に、
慎重に縄の切れ端を置いた。さらに十円玉を置いて、ささやくよう
に言う。
﹁あとね、これはこっくりさんじゃないの。やり方はほとんど同じ
だけど、こっくりさんじゃなくて、﹃くちなわ様﹄って呼ばなきゃ
だめなの﹂
﹁くちなわ様⋮⋮﹂
朽ち縄。蛇の別名ではなかっただろうか。
急にぞくりとして、アッコはやっぱりやめようと言いそうになっ
た。
以前から絵美が紺をよく思っていないことは知っていた。今回、
こうしてアッコに力添えしてくれるのも、純粋な友情というわけで
はなく紺への対抗意識がからんでいるはずだ。
けれど⋮⋮
77
﹃もういやよ。とうとう人の死体が捨てられたんでしょう。この土
地はやっぱりおかしいわよ!﹄
そのとき思い出したのは昨日の食卓だった。お父さんの胸を叩く
お母さんの金切り声が響いていた。お父さんがお母さんの肩をつか
よりこ
んで言い返していた。
﹃いつか依子が帰ってくるかもしれないだろう。この町から離れる
ものか、ぜったいに﹄
﹃あなた、おかしくなってるわよ。そのうち依子とおなじように敦
子まで消えたらどうするの。あなたがこの土地を離れないというの
なら、離婚してでも敦子を連れて行きますからね﹄
︵お姉ちゃんがいなくなってから、ふたりとも言い争いが増えちゃ
った。それでも最近は治まってたのに⋮⋮︶
アッコのふたつ上だった依子は三年前、習いごとに行った帰り道
に姿を消した。その後の足取りは一切つかめていない。
非公式に神かくし事件などと呼ばれている、この近辺で起きてい
る連続行方不明事件の一例となってしまったのである。
唇をかみしめる。
︵お父さんはお姉ちゃんが帰ってくるのを待ってる。お母さんはず
っとおびえ続けてる。お姉ちゃんが帰ってくれば⋮⋮せめて生死と、
いまどこにいるのかだけでもわかれば︶
アッコは仲のよかった姉を探し出したかった。神経が追い詰めら
れた父と母に、落ち着きを与えてやるためにも。それが悲哀に満ち
た結果だったとしても、少なくとも生死もわからない宙ぶらりんの
状態からは脱するのだ。
︵警察も、紺ちゃんの家も頼りにならない。お父さんお母さんは十
妙院家に依頼したのに、あのひとたちには見つけられなかった︶
そうだ。邪魔されるいわれはない。
意を決して、アッコは十円玉に指を置いた。
嬉々として絵美がおなじようにする。
﹁⋮⋮くちなわ様、くちなわ様。おいでください﹂
78
こっくりさんと同じ降霊の手順。違う呼び名。
﹁おいでになりましたら、︹ハイ︺のほうにおこしください﹂
しばらくは、なにも起きなかった。
一分。三分。五分。息をつめて待ちながらも、ふたりは徐々に失
望が広がるのを感じている。
﹁もう一回呼んでみなきゃ⋮⋮だめかな﹂
絵美がつぶやいたとき、
ぎち。
一気に体がこわばるのがわかった。じりじりと十円玉は虫が這う
ように進み、︹ハイ︺へとたどりついた。
79
こっくりさん︿3 極楽縄﹀
興奮した表情の絵美と目を見交わし、アッコはおそるおそる聞い
た。
﹁よ⋮⋮ようこそおこしくださいました。くちなわ様、あなたの名
前はなんですか﹂
十円玉は、文字のうえへと動いた。
マ カ レ
変な名前、とアッコは思った。
おかしみを感じていたわけではない。自分で呼んでおきながら、
信じられないという戸惑いのほうが強かった。
﹁ね、この縄すごいよね﹂
さん⋮⋮ですか?﹂
マカレ
と繰り返した。
絵美がはしゃいだ声を出す。あいまいにうなずいて、アッコは確
まかれ
認する。
﹁
十円玉は今度もまた、
﹁様って言わなきゃだめだよ、アッコ。相手は神様かもしれないん
だから﹂
絵美が注意してきて、ついで質問した。
﹁くちなわ様、おしえてください。ここにいる敦子ちゃんのお姉ち
ゃん⋮⋮依子さんは、いまどこにいるんでしょうか﹂
がりっ。
歯で十円玉を噛んだような音がして、びくりと二人は肩をはねさ
せた。
じじっ、じじっと這いずるように十円玉は移動した。
80
ク ラ イ ト コ ロ
不吉な文面だった。アッコはわれしらず身を乗り出してたずねて
いた。
﹁あ、あの⋮⋮おねえちゃんは、死んでるんですか﹂
︹ハイ︺
アッコはきつく目をつぶって唇を噛んだ。
覚悟していたはずだったのに、まったくそうではなかったことを
思い知らされた。頭がしびれたようになっている。頭の片隅で︵こ
れは自己暗示かもしれない。霊なんか降りてきていなくて、わたし
自身か絵美ちゃんが十円玉を動かしたのかもしれない︶と逃避しつ
づけていた。
﹁お姉ちゃん⋮⋮﹂
座りこみたかったが脚に力を入れ、アッコは﹁おねがい。もっと
具体的にお姉ちゃんがどこにいるか教えてください﹂と懇願した。
﹁お姉ちゃんの体は、いまどこにあるんですか?﹂
十円玉は、ぶれるように小刻みに動いた。
それからぐるぐると、五十音のどこに行くでもなく小さな円を描
きはじめる。
アッコはうなじの毛がちりちりするのを感じた。突如として、理
由のまったく不明な焦燥感がこみあげた。
﹁体は、どこにあるんでしょうか?﹂
らちがあかず、もう一度くりかえす。
とたん、十円玉はじぐざぐに速く動きはじめた。
マ カ レ マ カ レ マ カ レ マ カ ロ マ カ ロ マ カ レ マ カ ロ マ カ レ マ カ レ マ カ 81
レ マ カ レ マ カ レ マ カ レ マ カ レ マ カ ロ マ カ レ マ カ レ マ カ レ マ カ レ マ カ ロ マ カ ロ マ カ ロ マ カ ロ
﹁ずっとマカレかマカロって繰り返してる⋮⋮なにこれ﹂
絵美が怯えた顔でつぶやく。声は震え、さっきまでの興奮の響き
はあとかたもなく消えていた。
︵なにかおかしい︶
アッコは、十円玉に指を乗せていることがひどく気持ち悪くなっ
ていた。
ミ ナ マ カ ロ マ カ ロ
恐怖がひたひたと胸のうちで水位を増していく。
﹁絵美ちゃん⋮⋮一回、このひと帰そうよ。なんかおかしいよ﹂
﹁わ、わかった⋮⋮くちなわ様、くちなわ様、お帰りください﹂
︹イイエ︺
そこで十円玉は、紙に貼り付いたように動かなくなった。ぴくり
ともしない。
強烈なパニックがアッコの心臓をわしづかんだ。のどから悲鳴が
漏れる。
﹁絵美ちゃんっ、これ、神様なんかに思えないよ! どうしようっ﹂
盤を見つめて叫んだとき、絵美に手首をつかまれた。
﹁絵美ちゃん⋮⋮霊がまだ帰ってないのに十円玉から手を離して、
いいの⋮⋮?﹂
ゆっくりとアッコは顔を上げた。
絵美が笑っていた。眼球が互いちがいの方向を見ていた。唇から
男の声が漏れてきた。
82
︿まかろまかろまかろまかろまかろ﹀
﹁いやあっ!﹂
絶叫して手を振り払ったが、おさげ髪をつかまれてひきずり倒さ
れた。
なた
げらげらげらと男の声で笑いながら絵美はアッコをひきずって暗
い土間の隅に歩き始めた。そちらの壁には農具、錆びた鎌や鉈がか
けてある。アッコは暴れたが、おさげをつかむ絵美の手はまったく
ゆるまなかった。同年代の少女ではありえないほどの力だった。
まか
﹁いやだ、はなして、はなしてっ﹂
︿死ろ﹀
﹁いやだ︱︱!﹂
破砕音がした。
木戸が外から内へと倒れこんでいた。
恐怖と頭皮の激痛で涙ぐみながら、アッコは呆然と戸口を見た。
あの男の子︱︱こっくりさんをしたらだめと彼女に言ったおとなし
そうな男の子︱︱が、戸を蹴破った足を引いたところだった。
そして、開いた戸から紺が飛びこんできた。
● ● ● ● ●
数分前。
﹁あっち行ったみたい﹂
熱気で景色が揺らめく田んぼ道。十字路の一方を山内くんは指差
した。
公民館の二階で見た、絵美にくっついていた黒い小蛇のようなも
のが、道のところどころにのたくっているのである。それをたどっ
てかれと紺は、絵美とアッコのあとを追いかけてきたのだった。
紺が頬の汗を袖でぐいとぬぐい、きびきびと進んで黒い小蛇を見
下ろす。蛇といっても頭はない。動く縄か黒く大きなハリガネムシ
83
のようにも見えた。
﹁たしかにこっちみたいだな⋮⋮おまえ役立つじゃん﹂紺は山内く
んに真剣な目を向けた。
さっさと縁を切りたい見鬼の力を褒められて、山内くんは複雑な
気分である。
﹁紺にも見えてるんじゃないの? この蛇みたいな、くねくねして
る気持ち悪いの﹂
﹁オレには輪郭があやふやな、細長い黒いもやみたいなのが見えて
る。それも、近くに行ったらわかる程度だな。オレの見鬼がひどい
んじゃないぞ、こんな微弱な残り香みたいな邪気が﹃イメージとし
てはっきり見える﹄やつはそうそういない。やっぱりおまえ、ちゃ
んと修行する気ない?﹂
﹁遠慮させて﹂
﹁⋮⋮ふん。つまんねーやつ﹂
尻込みした山内くんに興味をなくしたように、紺は足早に進む。
あわてて山内くんはそのあとを追いかけ︱︱紺がぴたりと動きを止
めたため追突しかけた。
紺は道端のあばら家のまえに立ち止まっていた。苔むした瓦、破
れた木の壁、ひと目で廃屋とわかるその家を凝視する彼女に、山内
くんは声をかける。
﹁どうしたの﹂
﹁いま声がした⋮⋮ここだ! やばっ⋮⋮あいつら、中からかんぬ
きかけてやがる!﹂
木戸にとりついて開けようとした紺が、切迫した声を出した。
そのとき、アッコの悲鳴が廃屋のなかから響いた。
﹁いやだ、はなして、はなしてっ﹂
反射的に、山内くんはくるりと木戸に向き直った。
声は木戸の向こうから聞こえた。助けが必要なことは明らかだっ
た。ためらっている暇はたぶんない。山内くんは木戸を見る。
︵朽ちてぼろぼろだ。破れるかも⋮⋮あるいは戸板に穴を開ければ、
84
手をつっこんでなかのかんぬきを開けられるかもしれない︶
﹁山内、窓割ってでも屋内に入るぞ。横手に回ろう!﹂
﹁待って。⋮⋮ちょっとのいて!﹂
焦る紺をどかせ、山内くんは少し離れてから、
走って踏み込み、
腰を回転させ、
全体重と突進の勢いをのせて、木戸に横蹴りをぶちかました。
穴は開かなかった。金具の部分から朽ちていたらしい戸は吹っ飛
んだのである。
廃屋の内部では、泣き顔をひきつらせたアッコのおさげを絵美が
引きずっているところだった。息を呑んでいた紺がわれにかえって、
開いた戸から飛び込む。
あ
あけだま
カグツチノミコト
ましま
紺が、二本そろえた右手の指をみずからの口元へ添える。
ことば
﹁吾が心の臓は秘なり、軻遇突命護り座すなり!﹂
よこつまが
あだなえ
ふつかたえう
ひのつるぎ
さか
速い詞とともに吐かれた火が、青い帯のごとく指どころか腕まで
あやほ
巻きついていく。
や
さ
け
﹁奇火は神の身ゆ出でぬ、横津枉れる敵を、悉斬失す火剣、熾りて
焚きて障は消にけり!﹂
彼女は火のまつわりからむ指を絵美へと向けて振るった。九字を
切るというのだと、山内くんはのちに知った。
りん、ぴょう、とう、しゃ、
かい、じん、れつ、ざい、
火炎が八本。宙で格子状に筋を引き、
ぜん︱︱
最後の一閃は、作り上げた炎の格子を縦に斬り裂いた。
炎が一息に弾けて消滅し、大気が揺れたのが山内くんには見えた。
85
絵美は戸から入ってきたふたりに目を向けもせず、壁の鉈を取ろ
うと手をのばしていたが、とつぜんそのひざががくりと折れ、前の
めりに転倒する。
うずくまってすすり泣くアッコの腕を紺がとった。
﹁立てよ。絵美に入ったヤツは追っ払ったから﹂
かけた声には、気づかいの響きがなくもなかった。
﹁まかるってのは﹃死ぬ﹄という意味もある古語だ。この地方では
なぜかその意味でよく使われてて方言化した。罵るときは﹃まかれ
やい﹄と言ったりもしたらしい⋮⋮死ねやってことだな﹂
首をすくめているアッコと、叩き起こされてむっつり黙っている
絵美を前に、紺が説明している。
﹁まったく⋮⋮降霊をへたに試したら、危険なことになると言った
だろ﹂
﹁お説教はたくさん﹂
ふくれて目をそらす絵美を、紺は霜が下りるようなまなざしで見
た。
﹁おい、絵美。おまえが用意したっていうこの縄の由来、なんなの
かわかってるのか﹂
土間の床に落ちていた朽ち縄の切れはしを指さされて、絵美はぐ
っと詰まった。
﹁じ⋮⋮神社の注連縄使ったのが罰当たりだって言いたいんでしょ﹂
﹁神社の縄なんかであるもんか。これたぶん極楽縄だぞ﹂
叩き返すように紺に言われ、絵美はけげんそうにした。
﹁ごくらくなわ⋮⋮なによ、それ﹂
﹁死人を縛った縄だよ﹂
ざかん
氷が張ったかのような沈黙が降りた。紺がため息をつく。
﹁昔の葬儀じゃ、座棺っつー丸いかんおけ⋮⋮木の風呂桶に似たも
んに死人をおさめて土葬するところが多かった。死人は座った形で
86
桶に入れられ、地域によっては姿勢が崩れないように縄で縛られた。
その縄のことを極楽縄といったんだ、それがこれだ。
しかもこの縄の嫌な雰囲気、おそらくわけありの⋮⋮刑くらって
なかだち
死んだ罪人などの、強い負の念にまみれた死人をくくったものだぞ。
こんなものを媒に使って降霊術やったら、悪いものしか降りてこ
ないのは当然だ﹂
﹁うそ⋮⋮﹂
絵美は食い入るように縄を見つめ、
﹁だって⋮⋮青丹センパイは、神社の縄だってはっきり言ったよ⋮
⋮﹂
﹁そうか。このたちの悪い品のでどころはあの野郎か﹂
紺は歯を剥いた獣のように、うなりをあげた。
﹁絵美、おまえアオオニの近所に住んでたんだったな? いいか、
どんなふうに丸め込まれたか知らないが、もうアオオニには近づく
な。あいつは掛け値なしのクソ野郎だ﹂
﹁青丹センパイのこと、悪く言わないでよ﹂
絵美は小さく言い返したが、瞳から力は失せ、はた目にもわかる
ほどしょげきっていた。
紺は絵美から顔をそらし、アッコの前に立った。
﹁言いつけを破ってごめんなさい﹂
蚊の鳴くような声で言ったアッコは、紺が手をかざしたのでびく
りと目を閉じた。
紺はアッコの頬を両手ではさんだ。
﹁たしかに、依頼をまっとうできなかったオレの家にも責任はある﹂
彼女は言った。
﹁だから、依子さん⋮⋮おまえの姉ちゃんは近いうちにオレが探し
だしてやる﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁オレだって友達引っ越させたいわけじゃねーよ。オレが代わりに
動くから、二度とおかしなものに頼るな﹂
87
開けた目を丸くしていたアッコが、じわりと涙ぐんだ。
アッコと絵美を家に送ったのち、十妙院家に一度戻ってからマイ
タケの家に遊びに行く。道中、紺は頭のうしろで手を組みながら言
った。
﹁これでプールの監視員から探偵になったな。なー山内、オレたち
がんばって探さなきゃな﹂
山内くんは怯えて意見する。
﹁あのね紺、責任感強いのはいいことだと思う。友達のためになに
かするってのも。でも僕をナチュラルに勘定に入れるのはやめてほ
しいんだけど⋮⋮
あと、だいたいその、さっきの子のお姉さん。どこで見つけられ
るかなんて心当たりあるの?﹂
﹁あ。そういやおまえにまだ話してなかったな﹂
﹁な⋮⋮なにをさ﹂
﹁おまえが見つけた黒こげ死体、たぶんここらで起きてる神かくし
と関係あるぞ﹂
﹁え﹂
88
もんじゃくん
林のなかで見つかった焼死体の身元は判明している。検死での、
歯の治療痕照合の結果である。数日前から行方不明になっていた隣
町の男子高校生であった。あまりふだんの素行がよろしくなく、悪
い仲間のもとに転がり込んで数日家を空けることが以前からあった
ため、親は捜索願いも出していなかったという。
司法解剖も行われ、遺体は発見される数時間前から﹁ガソリンを
殺
かけられて燃やされていた﹂ことが明らかになった。しかし地面の
状況からみるに、遺体はあの場所で燃やされたのではないとも。
まとめると、こういうことであった。
・あの焼死体は何者かによってあの林に運ばれた可能性が高い。
し
・そいつはあの林以外のどこかで高校生の死体を見つけあるいは作
り、火をかけた。
・完全に燃え尽きてもいないのに、人目につきやすい道路沿いのあ
の林に運んできて遺棄したことになる。だが、なんの意味があって
そんなことをしたのだろう?
こんがらかった状況である。
ただ、悪いことばかりではない。第一発見者とはいえ、山内くん
がこの遺体損壊・遺棄︱︱加えておそらく殺人︱︱事件の犯人容疑
をかけられることはなかった。
車も運転できない子供が、重量があり、熱も帯びた死体を遠くか
ら運べるわけがない
捜査の現場ではそういう見解になったらしいのである。
﹁よかったじゃん。犯人扱いされなくて﹂
青いアイスキャンデーを舐めながらしれっと言う紺に、山内くん
は眉根を寄せてたずねる。
﹁⋮⋮なんで君、捜査状況なんて知ってるの?﹂
89
山内くんが十妙院家に泊まるようになってから迎えた、三日目の
午後である。縁側に座って、広い庭先に足をぶらつかせ、ふたりは
氷菓子をかじっているのだった。
﹁お祖母様か楓が警察に聞いたんだろ。オレは楓から聞いた﹂
ウチ
じゅごんし
﹁なんで警察のひとが楓さんたちにそんなこと話すのさ﹂
れいしょう
﹁十妙院は外法の家だって言っただろ? 呪禁師なんて称して占っ
たり呪ったり、逆に呪詛・霊障から人を護ったり⋮⋮いまはもう呪
うほうはやってないけど⋮⋮こんな家業でも、お得意様はあちこち
にいるのさ﹂
紺は面白くもなさそうに言った。
﹁世の中の地位の高いやつ、どれだけ多くが占いやまじないに頼っ
てくるか、知ったらおまえ驚くぜ。そういうのとふだんからうまく
付き合ってると便利なこともあるんだ。知りたい情報流してもらえ
るとかな﹂
︵君が同級生相手にやってる、おまじないで楽しませる代わりの情
報収集⋮⋮あれを楓さんたちは規模大きくしてやってるってことか
な︶
じゅごんし
商売って︶
昨日見たこっくりさんの会を思い出し、山内くんは納得した。
はんじょう
︵たしかに繁盛してるんだろうな。
この大きな屋敷に庭︱︱池・築山・白砂利の川・木々に草花を配
した﹁庭園﹂と呼んでもいい規模︱︱を見てもそれはわかる。下品
な言い方をすれば、しこたま稼いでいるに違いない。
﹁⋮⋮それはわかったけど、なんで焼死体事件が神かくし事件とつ
ながるの﹂
﹁黒こげ死体が﹃例の神かくしにあった奴﹄だからだよ。今回は、
死体が出てきたから神かくしにならなかっただけだ﹂
山内くんは緊張を覚えてアイスのかけらをごくんと飲み込んだ。
﹁同じ神かくし事件だと、警察がそう言ったの?﹂
﹁いや。ウチでの判断﹂
﹁なんでそんなことがわかるの⋮⋮占いとか、霊に聞いたとかそう
90
いうので?﹂
ウチ
﹁いいや。占ってもなにも出なかった。霊も喚べなかった。
だから、だ﹂
紺は目をすがめ、
﹁これまでの事件と同じなんだ。十妙院家が術を尽くしても手がか
闇宮入り
くらみや
だ﹂
りすらつかめないなんてのは。お祖母様の占術をこれだけコケにす
る事件が他にあるもんか、これは神かくし⋮⋮
闇宮。
その言葉の意味はわからなかったが、山内くんはうすら寒いもの
を覚えた。
﹁き⋮⋮きっと警察が解決するよ。今回は死体が出たんだから﹂
ことわり
﹁オレは解決できないほうに賭ける。この事件は警察の領分じゃな
い⋮⋮この世の理じゃないんだ。だから、オレたちがやらなくちゃ﹂
紺は腹立たしげに、しゃくしゃくっと音を立ててアイスの残り三分
の一を平らげ⋮⋮
﹁あ、しまった、キーンとくるぅ⋮⋮!﹂
一気にかじった氷菓子が頭痛を呼びこんだようである。彼女は縁
側に転がって悶絶しはじめた。﹁うあぁぁぁ﹂ひたいを押さえて足
をじたばたさせている。
紺ってけっこう間が抜けてるよねと思いつつ、山内くんは質問す
る。
﹁紺、くらみやって何のことか教えてもらえる?﹂
﹁つーぅぅ⋮⋮何言ってんだ。おまえ夢でそれっぽいとこ見たんだ
ろ? だから楓がこれ以上なくマジな顔してるんじゃねーか﹂
﹁⋮⋮あの夢の神社!?﹂
息を呑んだ。かれはあそこで牙笛をなくしたのだ。
紺がひたいに手を当てたまま起き上がる。
﹁おまえの家は祝部の分家だからな。おまえには闇宮をのぞくこと
ができるかもしれないってことだ。
⋮⋮もしおまえの見たのが闇宮なら、山内、神かくし事件の行方
91
不明者たちはそこにいたと思う﹂
山内くんは肌を粟立たせてのけぞった。
﹁つ⋮⋮つぎあの夢を見たときには奥までいってよく調べてこい、
とか言わないよね?﹂
予想に反して、紺はすこし考えてから首を振った。
﹁それは危なすぎる。むしろ当分、おまえが夢を見ないように処置
すべきかも﹂
彼女は池向こうの植え込みにまなざしを投げ、沈黙して思案しは
じめた。
山内くんはそわそわする。二度と見たくない夢だ。だが事件の解
決につながるなら勇気を出して手を貸すのが筋じゃないかなと、か
れはかれで苦悩しているのだった。
︵パパが僕の立場ならきっと﹁俺にまかせな﹂って言う︶
﹁あ、あのさ、紺⋮⋮﹂
切り出しかけたとき、
かぶき
﹁おおーい。邪鬼丸、ちょっと見に来いよ﹂
当のパパの声が、冠木門のほうから聞こえてきた。
山内くんたちは視線をそちらに向け、それから顔を見合わせた。
﹁なんだろ﹂
﹁バイクじゃね? 昼ごはんのときに、楓がおじさんのために中古
のを手配するって言ってたろ﹂
﹁それかぁ⋮⋮事故車だって話だよね⋮⋮﹂
午前中、十妙院家にパパが顔を出して楓さんが昼食をいっしょに
とることをすすめた。そのとき流れで﹁山内家の前のバイクが壊れ
たので移動が不便﹂という話になったのである。
﹃あ、うちに使ってないバイクなかったっけ﹄
汁物の椀を置いた紺がそう言い出し、膳を給仕してくれていた楓
さんは娘を軽くたしなめた。﹃あれを薦めるのは失礼でしょう﹄し
かしそこで思いなおしたかのように首をかしげ、
﹃⋮⋮そうねえ、物自体に悪いところはないし⋮⋮。山内先輩、ち
92
ょうど前の顧客ですが、一刻も早く単車を手放したいという人がい
ましたので、うちの蔵で引き取ったんですよ。しかじかのお値段で
⋮⋮よろしければ差し上げましょうか?﹄
﹃ほお。それは破格の安値だな﹄
二日前の夜ふたりきりの時間になにを話し合ったのか、パパは楓
さんの厚意を固辞せず受けるようになっていた。素直に、というよ
り開き直っているようにも見えたが。
﹃ただでお譲りしてもいいんですよ﹄
﹃いや買うが、いっぺん自分の目で状態を見てみないことにはなん
ともいえねえな。しかし、そこまでして元の持ち主が売りたがった
ってのはなにか事情があるんだろうな、楓ちゃん﹄
出る
のでどうにかして
﹃はい。事故車なんです。乗っていた殿方が亡くなられてご親戚が
引き取ったバイクなのですが、夜な夜な
ほしいと。いちおうわたくしが除霊したのですが、薄気味悪いから
とやはり手放したがりまして﹄
﹃薄情な話だぜ。いまは出ないのか? じゃあ問題ねえ、細かいこ
とだ。あとで見せてもらうか﹄
パパはいわくつきのものだろうとまったく気にせず使用できるタ
イプなのである。自分一人なら、アパートの事故物件︵自殺者が出
た部屋︶にも平気で住むだろう。楓さんもそれをよく知っているら
しかった、そうでなければ薦めるまい。
そばで聞いていた山内くんは喉奥でうめいたが、表立ってはなに
も言わない。うつむいてアマゴの塩焼きをつついていた。
︵もう出ないのなら普通のバイクと変わりないし⋮⋮︶
昼食のときとおなじことを内心で自分に言い聞かせ、山内くんは
靴を履いて門のほうへ向かう。
紺が山内くんの前にまわりこみ、かれの前方をキープしながら後
ろ歩きで話しはじめた。
﹁オレが聞いたところだと、あのバイクさ。冬の夜、凍った路上で
スリップしたトラックにぶつかられたんだぜ。事故のときさっさと
93
転倒した機体は奇跡的にほぼ壊れなかったけど、乗ってたやつは巨
人のアッパー食らったみたいに吹っ飛んで即死。無残な死体だった
らしいぞ﹂
﹁紺。別に事故の状況とか聞きたくないから﹂
﹁バイク好きな男だったらしくてさ。どうもとっさにマシン本体を
かばって自分が犠牲になったらしいんだな。で、執着が残ってたん
だろうけど、ずたずたになった男がバイクにまたがってるのが何度
も目撃されたらしいぜー?﹂
﹁紺ウザい﹂
目の前、ひょいひょい左右にステップしながら楽しげに語る紺に、
山内くんは冷たい声を出す。怖がらせようという意図がここまで透
けて見えると、意地でも怖がってやるものかという気分になってく
る。
子供たちが門前の道路に出ると、バイクにまたがっていたパパは
にこにこしながら軽く走ってみせた。
﹁おう、これどうよ。新品とほとんど変わらねえぜ、まちがいなく
掘り出しもんだ!﹂
﹁ぎ﹂
山内くんの視線はバイクそのものより、その後部に釘付けになる。
バイクの後輪にくっついて、ひき肉の塊みたいなものがずるずる
ぞうきん
とひきずられている。髪も内臓も服の切れはしもごっちゃになった
死肉雑巾のなかで眼球が一個、ぎょろりと動いて山内くんをねめつ
けてきた。
﹁ぎゃあぁあああ﹂
﹁おっ? なんだ邪鬼丸、いきなり絶叫して?﹂
紺が横で﹁⋮⋮除霊できてねーじゃん楓﹂とつぶやいた。
﹁なるほど、機体をかばって死んだほどのバイク好きが前の持ち主
94
か。よほど愛車に思い入れがあるんだな。くうっ、バイク乗りとし
て共感しちまったぜ⋮⋮!﹂
話を聞いて男泣きしているパパ。⋮⋮感涙すべきとこだろうかと
山内くんはげっそりする。まあいい、除霊しても戻ってくる霊が憑
いたバイクなんて、さすがにパパだって乗るまい。
﹁邪鬼丸、俺は前の持ち主の想いを汲んでこのマシン大切に乗るぜ
!﹂
﹁乗るなバカああ! 何言い出してるのこの眉無しマッチョ!? 返品っ⋮⋮返品一択っ⋮⋮!﹂
﹁しかしここまで状態が良くて、しかもただ同然というのは﹂
﹁正気なの!? なんなら転売して別の中古単車買うとか、やりよ
うはいろいろあるでしょ!﹂
﹁邪鬼丸、憑いてると知ってて人に売るのは筋が通ってねえ。俺は
さっぱり気にならんが、そういうものを気にする人はいるんだ﹂
﹁僕がいま猛烈に気にしてるよ! 自分自身も乗るな!﹂
﹁あるものを使わないのはもったいねえだろ。マシンを使えるのと
使えないのとじゃ、職場への通勤時間に格段の差が出る﹂
﹁命に換えられないでしょ!? どんな事故起きるかわからないじ
ゃないか!﹂
山内くんが必死に訴えるかたわら、
﹁んー? んん⋮⋮んー?﹂
紺が眉を寄せている。彼女はつぶれた霊のそばにしゃがみこみ、
アメフラシで遊ぶみたいに木の枝でつついている。ぴくぴく動く肉
塊。﹁なーんかひっかかるけど⋮⋮まあいいや﹂彼女は立ち上がり、
山内くんにとって余計なことを口にした。
﹁これならそれほど危険じゃないな。悪意感じないよ、この霊。
それにおじさんは霊に影響及ぼされるような体質じゃまったくな
いぜ。オレの秘火吹き込んでも見えるようになるかすら怪しいな﹂
いや待て、と山内くんはうめく。
﹁ねえ僕は!? ばっちり見えてるんだけど! そのミンチ肉か失
95
敗したもんじゃ焼きかというグロい物体が!﹂
﹁ん? 見えてるあいだは無視すればいいだろ。執着対象、この場
タ
合はバイクだけど、そこから離れたがってないだけだってこのもん
じゃ焼き﹂
﹁嫌だぁぁぁ!﹂
ンデム
山内くんはよくパパのバイクの後ろに乗せてもらうのである。二
人乗りのとき間近でうぞうぞ動いている肉塊を意識したくない、と
かれは涙目になった。
﹁なんとか追っ払えないの紺っ、君の火でおどすとかバイクにお札
貼るとかしてよ!﹂
﹁えー。⋮⋮してもいいけどさ﹂
紺が邪悪な笑みを浮かべた。
﹁これだけ執着見せてる霊ってのは、追い払ってバイクにさわれな
くしたくらいじゃ、そうそう諦めないと思うぜ。愛しのマシンから
引き剥がしたおまえを恨んで、オレがいないときに家にあがって来
ちゃうかもなー。いいの?﹂
﹁いやだよ!﹂
﹁じゃ、焼こっか? グロ外見以外は特に罪がない霊だけど。消滅
させるくらいの勢いで﹂
﹁そ、そこまでやるとかわいそうだけど⋮⋮﹂
山内くんが口ごもったときだった。
﹁除霊が失敗していたとのことですが⋮⋮?﹂
玄関から当惑した表情の楓さんが歩いてきて、
﹁︱︱︱︱﹂
バイクの後ろの肉塊をひと目見るなり、袖で口を覆って絶句した。
顔を蒼白にしてよろめきそうな彼女の様子に、パパと紺がけげん
そうにする。
しばらくしてから楓さんは﹁⋮⋮先輩。こちらに。ちょっとお話
が﹂と、かすれた声でかろうじてつぶやいた。
大人ふたりが庭の木陰に消えたのち、紺が﹁なんだろ、いまの楓﹂
96
と言った。山内くんはバイクの後ろでもぞもぞする霊を指さす。
﹁そりゃこんな酷いものいきなり見たらしょうがないんじゃ⋮⋮﹂
﹁楓はたいていの霊や死体は見慣れてる。こんなので眉ひとつ動か
すもんか、だいたい一度除霊したとき見てるはずだろ﹂紺はきっぱ
り言って、首をさらにかしげた。﹁失敗してたからといってショッ
ク受けるようなタマでもないんだよなあ。オレの母親だぞ﹂
それを聞いて山内くんは微妙な気分になる。立ち居ふるまいに品
のある美人の楓さんも、小さいころは紺みたいな悪ガキだったんだ
ろうかと。
結果から言うと、パパはその幽霊バイクを引き取った。
新たな除霊すら施されていない。にもかかわらず、﹁これでいい。
邪鬼丸、我慢しろ﹂とパパは有無を言わせぬ重い声で告げた。
わけがわからないまま山内くんは涙を呑む。パパは家にバイクを
置きに行き、肉塊こともんじゃくん︵命名・紺︶はそれにくっつい
てずるずる引きずられていく。
97
呪歌
その日はいつもより多い数の子供たちが集まっていた。紺や山内
くんのグループとほかのグループがたまたま遊び場で合流したので
ある。
遊び場は林のなかの公園。
地面に描かれた円の中央にコーヒー缶が立っている。
なおふみ
﹁そいや︱︱っ!﹂
直文が思いきり缶を蹴飛ばした。缶は夕焼け空をくるくる回りな
がら林道に落ちた。固いアスファルトが缶をはねさせてさらに飛距
うた
離が伸びる。むろんそのあいだに子供たちは、蜘蛛の子を散らした
ように四方に駆け去っている。
山内くんは缶を拾ってきて目を閉じ、つっかえつっかえ唄い出し
た。じゃんけんで負けた結果、かれが缶蹴りの鬼なのである。
し
﹁えっと⋮⋮﹃こうやん髪結い、一日かかるな、つとが三百、油が
四百な。これでよいかと、かぎやに問えばな、これでよいよい、か
ぎしゅとままやよ⋮⋮﹄﹂
ほかの土地の缶蹴りや鬼ごっこでは、子供たちが隠れるあいだ鬼
は数を数えて待つ。かわりに、この明町では唄うのだという。﹁夜
にものを数えてはならない﹂というしきたりが影響していることは、
山内くんにもなんとなく想像がついた。
﹁﹃⋮⋮腹に子はなし、身は軽し﹄。じゃ、探すよー﹂
唄い終わって山内くんは声をはりあげ、あたりを見回した。
一本のイチョウのうしろから、明かりがかすかに漏れた。呼吸に
ほりょ
合わせて明滅する青い火の光。
﹁はい紺みっけ、最初の捕虜ね﹂
缶をふみつけて名前を高らかに呼ぶ。
98
しかし少女は姿を現そうとしなかった。しびれを切らして山内く
んはイチョウに歩み寄り、幹のうしろをのぞきこむ。
﹁紺、捕虜になったってば。往生ぎわ悪いよ﹂
幹に背をくっつけて隠れていた紺がかれをにらむ。彼女は怒りに
震えながら火をくわっと吐いた。
﹁このタコ! さっきから鬼になったらオレを真っ先に狙い撃ちに
しやがって!﹂
﹁だって見つけやすいもの⋮⋮﹂
霊気の塊であるという紺の秘火は、山内くんが見鬼となって以来
かれの視界でますます存在を主張するようになった。しかも現在は
夕刻で、周囲が暗くなりかけているのだ。目立ってしょうがない。
﹁その火をひっこめておけばいいのに﹂
﹁うるせー! 唇に解けない術がかかってるようなもんで、ほんの
ちょっとでも口開けたら出ちまうんだ!﹂
自分の意志で止めることができないあたりは、山内くんの目と同
じらしかった。
山内くんは紺とそんなやりとりをしながら周囲の気配を油断なく
うかがう。
︵そこそこ缶から離れて背を向けてるけど⋮⋮だれか蹴りに飛び出
してこないかな︶
離れた隙にだれかに缶を蹴飛ばされれば、捕虜が全員解放されて
しまう。そうと知りつつ鬼は、捕まえるために駆け引きをしかける
ものだ。
油断をよそおったくらいでは、子供たちの大半はおびき出されな
たいと
い。が、中には判断力が甘いものもいて⋮⋮
はたして、一年生の泰斗がやぶから林道に飛び出した。仔イノシ
シさながらのがむしゃらな突進で缶を目指すが、しょせん幼児の脚
だ。二人目の捕虜ゲット︱︱山内くんは身をひるがえして走る。
だが、かれが泰斗を追い抜かす直前、盛大にその幼い男の子はす
っころんだ。
99
﹁だっ、だいじょうぶっ?﹂
山内くんはあわてて抱き起こしたが、すでに泰斗は泣き出してい
た。
﹁あちゃー、ひざをおもいっきりすりむいてんな﹂
追いついてきた紺が怪我を見て言った。悪いことに泰斗が転んだ
場所は、草むらや林の腐葉土のうえではなく、アスファルト舗装さ
れた林道上である。固い地面でひざの皮膚はすりおろされたように
なり、赤い傷口には尖った小さな石粒が食いこんでいた。出血はす
り傷にしてはかなりのもので、見ている山内くんまでひざが痛くな
ってきた。
︵血がすねまで垂れちゃってる︶
林じゅうに響きわたりそうな号泣を聞いて、隠れていた子供たち
がぞくぞくと集まってくる。
﹁どうしたん?﹂﹁泰斗がこけたんだ﹂﹁うわー痛そう﹂﹁マイタ
ケ、あんたばんそうこう持ってたやん。あれは?﹂﹁使っちゃった
よ﹂
明町の子供たちが口々にざわめく。
﹁あの⋮⋮僕、消毒薬とガーゼと包帯持ってる﹂山内くんは腰のポ
ーチから、簡易救急セットの入った袋をとりだした。かれは外出時
はいつでも用心をおこたらないのである。
﹁よし、借りる﹂紺がうなずいた。﹁泣くな泰斗、血を止めてやる
から来い﹂
紺は泰斗の手をひいて公園の隅にある水場に連れていった。山内
くんは明町の子供たちとともにそのあとについていく。
紺はすえつけられた蛇口をひねる。泣きじゃくる泰斗の傷口を洗
い、石粒をとりのぞいた。次はこれだろう、と思って山内くんは消
毒薬のスプレー缶を差し出す。
しかし紺は﹁まだいい﹂と手を振った。彼女は泰斗の脚の前にひ
ざをついてしゃがみ、低い声でささやいた。
﹁ちの道は﹂
100
︱︱父と母との血の道よ ちの道かえせ血の道の神
それから紺は傷ついたひざに顔を寄せた。口づけかと見まがうそ
の一瞬、紺の桃色の舌が傷口に触れたのが見えて、山内くんは目を
みはった。紺はすぐ顔を離して泰斗に言い聞かせた。
﹁これで止まった。だからもうぐずるな﹂
うん、と泰斗がうなずく。まだしゃっくりはしていたが。
ひざの出血はたしかに止まっているように見えた。
﹁消毒するぞ。山内、スプレー貸して﹂
﹁はい﹂
山内くんは消毒薬を渡しつつ、そっと視線を左右に走らせてほか
の子たちの反応をたしかめてみた。みないつもと変わりない様子だ
った。
︵だれも驚かないんだ⋮⋮︶
だれかが怪我したとき紺が血止めをするのは、よくあることなの
かもしれない。
﹁紺⋮⋮なに、いまの。なにかつぶやいていたけど﹂
じゅか
泰斗の手当を終えて立ち上がった紺に、山内くんはたずねてみる。
﹁血止めの呪歌﹂
口をすすごうとしていた紺はふりかえって答えた。
﹁昔からあるまじない歌の一種だよ。正式な術じゃない。でもちょ
っとした効果がすぐ欲しいときには便利だ﹂
ちらとのぞいた少女の舌の先端は、泰斗の血で濡れていた。
艶めかしいほど、あかあかと。
101
呪歌 ︿2 包丁傷﹀
数日ぶりにパパの実家に戻っていた。
バイクを得たパパは仕事に復帰して、もんじゃくんを引きずりな
がらはるばる姫路市内の喫茶店まで出ている。そういうわけで山内
くんは紺とふたりきりである。
﹁山内、何してんのさー。もういっかい対戦しようぜ!﹂
紺の声がかれを呼ぶ。
テレビのある居間を、山内くんはエプロンをつけながらのぞきこ
んだ。
﹁お昼ごはん作らなきゃだめだから。紺も手伝って﹂
﹁えっやだ、超かったりぃ。いま忙しーし⋮⋮﹂
番犬役
をつとめており、かれから長く離れるこ
﹁マリコカートしてるだけじゃん。僕ひとりじゃ作るの時間かかる
んだよ﹂
紺はきちんと
とはしない。それについてはありがたく思うが⋮⋮
テレビゲーム機
﹁そろそろ休憩しなよ。ゲームずっとやってるじゃないか﹂
本日の紺はわざわざ朝からネンテンドーNooを十妙院家からこ
こに持ち込んできた。﹃楓のやつ頭カタいんだぜ、ゲームは一日一
時間だなんて夏休みの意味ねーじゃん! ここでやらせて、いいだ
ろー?﹄と最後だけ甘ったるいおねだり声を出した彼女に、山内く
んは朝から四時間付き合わされた。アクションゲームや格闘ゲーム、
RPGのレベル上げ。
いまの紺はレーシングゲームに夢中である。
﹁もーちょっと待てよぅ。マリコカートいまいいとこなんだ﹂
あぐらをかいてコントローラーをにぎった紺は、上体をくなくな
揺らしながら画面から目を離す様子がない。カーブを曲がる操作の
たびに、メトロノームのように本人も身を傾けている。
102
しかし山内くんが重ねてせっつくと、紺はしぶしぶながらゲーム
機の電源を落として台所に出てきた。シンクでじゃがいもの皮を剥
いている山内くんのとなりに立つ。
﹁めんどくせーなぁ。肉じゃがにサラダに焼き魚? 昼なんだしそ
こまで手間かけなくても、そうめんでいいって﹂
﹁余ったぶんはパパの夕ごはんにするつもり。そこの人参、葉とっ
て皮剥いて⋮⋮あ、包丁はそこだけど、使える?﹂
﹁はいはい。使えるよ刃物くらい﹂
かったるそうに紺は人参を垂直に持ち、包丁を右手で横にかまえ、
﹁えい、っと﹂
勢いよく真一文字に払った。
すぱーん、と首をはねたように葉のついた人参上部がすっとぶ。
ついでに、包丁の刃先が山内くんの耳をかすった。
﹁あ﹂
横に包丁を振りぬいた姿勢で、紺が山内くんを見て息を呑む。
山内くんは手元のじゃがいもを見たまま涙目になってぷるぷる震
えだす。
﹁こ⋮⋮怖ぁぁ⋮⋮﹂
その耳たぶにぴっと赤い筋が入り、一拍置いてたらりと血がにじ
み出た。
﹁あわわわっ!? ご、ごめん山内!?﹂
﹁このバカ⋮⋮狭いキッチンで、包丁を水平にふるうんじゃない⋮
⋮﹂
﹁わ、悪かったって! 治療してやるから耳見せろ!﹂
焦りきった声で紺が包丁を置き︱︱山内くんに身を寄せてきた。
紺のほうにぐいと頭を引き寄せられて、山内くんは目を白黒させる。
紺がつむいだ血止め呪歌は、耳の間近でささやかれたため今度はよ
く聞こえた。
ちの道は父と母との血の道よ ちの道かえせ血の道の神
103
ちろりと、温かい舌先。
かすかな息づかいとともに、かれの耳の傷に触れた。
まじないの言葉と秘火を、傷口に塗りこめるかのように。
︵わ︶
紺の吹く火って熱くないんだな、とかそういう感想を抱きながら、
山内くんは固まった。きしんだ音が出そうな動きで首を回し、あぜ
んとして紺を見る。凝視された少女も目を丸くした。
思いもよらなかった反応をされて、紺はきょとんとしているよう
だった。うすもも色の舌をまだ出したままである。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
物音なく数秒が経過した。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
舌をひっこめた彼女の顔が段階的に赤くなり、
﹁血止めのまじないだっ、なに気にしてんだタコ!﹂
﹁⋮⋮あの。君、いつも怪我した人がいたらこんなことしてるの?﹂
﹁ち、チビども相手がほとんどだし、みんなひざや手の怪我ばっか
だしっ! てかこんくらいで、おまえみたいにおおげさな反応する
失礼なやつはいままでいなかったのっ! 馬鹿!﹂
うわずった声で、紺はばしばしとシンクの縁を叩く。あげくにや
っぱ手伝わねーと叫び、走って外に逃げていった。
﹁⋮⋮そんなこと言われても。ここらの子達は慣れて麻痺してるの
かも知れないけど、僕は初めてなんだからびっくりしたって無理な
いだろ⋮⋮﹂
あんなのでも女の子だもの、とぼやきながら山内くんは耳の傷に
触れてみる。
血は止まっていたが、耳たぶがひどく熱を帯びている。
104
流れ灌頂︵かんじょう︶
や
ラムネの瓶に山内くんは口をつけた。ぎらぎら河原を灼く夏の太
陽のもと、川の清水で冷やされたラムネののどごしが心地よい。
右隣ではマイタケと直文が、かれと同じく河原の石に腰かけて瓶
をかたむけている。⋮⋮ひとしきり泳いだのちの休憩だった。
沢のプール
ふぜいがあっていいね﹂
瓶を口から離してビー玉をカロンと鳴らす。
﹁この
口元をぬぐって山内くんは讃嘆した。
かれらがいま泳いでいたのは、谷川の深くなった箇所を利用して
造られた水場である。山間にある小学校からも近く、毎年夏はここ
が子供たちのプールとして利用されるということだった。
﹁川の横に着替え用の小屋たてただけの手抜きプールだよ﹂直文が
笑った。﹁いまどき、学校の敷地内にプールついてないんだからや
んなるよ。設備がととのったでっけぇプールに泳ぎに行くことある
けど、絶対あっちのほうがダサくなくていいって。姫路住みの山内
がうらやましいや、大きなプールも海も近くにあるんだろ﹂
﹁ぼくは川のほうが好きかも﹂マイタケが控えめに主張した。﹁こ
の小川は海に負けずいろいろたくさん獲れるんだよ⋮⋮魚とか、カ
ニとか。岸がいっさいコンクリートで固められてないから。たまに
大雨で氾濫して大変だけどさ。でもそのときはカニ罠に獲物がよく
入るんだ﹂
﹁マイタケは生きた食材捕まえて食うことばっかだなあ﹂直文が呆
れる。
﹁別にそういうわけじゃ⋮⋮山内くんはどうなの?﹂
話をふられて、山内くんはちょっと辺りを見渡した。
沢にせりだした頭上の太枝から木漏れ日がふりそそぐ。葉群を透
かしたかのように光も心なしか緑を帯びている。川渡りの風ととも
105
にカワセミがすばやく視界をよぎる。さざ波で水面が宝石のように
きらきら輝く。やかましい油蝉の声すらも風流に聞こえた。
﹁こっちのほうが水も景色もきれいだから、僕はこっちが好き﹂
真情をこめて山内くんは言った。マイタケがにこにことうなずき、
直文が﹁ふーん、そんなもんかねえ﹂とつぶやく。
﹁へっ﹂
背後で、だれかが鼻で笑った。山内くんたちはいっせいに振り返
る。
女子用のスクール水着姿の紺がいた。
山内くんたちは固まる。
﹁のんきなこと言っちゃって。このあたりの川をきれいなだけだと
思わないほうがいいぜ﹂
いっちにーさんしー、と準備体操でしなやかな手足を伸ばしなが
ら紺は言う。露出した二の腕や太ももが夏の陽光にまぶしいほど映
えた。
山内くんたちは固まっている。
﹁変なモノ見たって泣きついてくる前に忠告しとくけどな、山内。
この水場は何百年も昔から利用されてて、水難事故も一度や二度じ
ゃないんだぜ﹂
紺はつま先をそろえて、ぴょんぴょんとジャンプをはじめた。肢
体が躍動するたびに宙にショートの髪先が舞った。その髪は狐の毛
並みめいた色素の薄い天然茶毛で、それがきらきら反射光の粉をま
いている。
河虎岩
かわとらいわ
の周りは危険だからな。オレらは何回も大人か
山内くんたちは固まっている。
﹁とくに
ふち
ら注意されてることだけど、おまえは知らねーだろうから教えるぞ。
下流の淵に黄色い大きな岩があんだよ、その岩には絶対に近寄る
な。何人も死んでんだから。
⋮⋮おい聞いてんのか﹂
﹁き、聞いてる﹂
106
﹁なんだおまえら、そろってほけっとアホ面しやがって。あ、この
格好?﹂
得心いったように紺は水着の肩のところを自分でつまんだ。山内
くんはやむなく答える。
﹁うん⋮⋮そのう、君は外で女の子の服着ないって聞いた気がする
んだけど﹂
﹁そうそう、紺はプール授業でも水着になったことないしな﹂動揺
から立ちなおった直文があわてて追随してきた。
﹁うんうん、珍しくて驚いたよね﹂マイタケが同じくのっかってく
る。
紺は顔をしかめた。
お
﹁しょーがねーだろ、オレだってたまには泳ぎたいんだよ。でも服
着たまま泳ぐわけにも男の水着で泳ぐわけにもいかねーもん﹂
﹁そ、そうだよね﹂
ぐななり
﹁ちょっとのあいだ水着着るくらいいいだろ。ほんとは結界外で童
男姿解いたって、いまの世じゃ別に命に関わりゃしねーんだ。⋮⋮
でも楓にはオレが女子水着着たこと黙っとけよ? しきたりにうる
せーから﹂
﹁言わない言わない﹂
山内くんたちはこくこくうなずく。これにてこの話題は終わった
かと思われたのだが、
﹁わかってないなあ紺ちゃんは!﹂
﹁わ!? 穂乃果!?﹂
紺のわきの下から、ポニーテールに髪を結った少女がにゅっと顔
を出したのである。文字通り話に首をつっこんできた穂乃果という
少女は、快活な笑顔で暴露をはじめた。
﹁男子組がびっくりしたのは紺ちゃんの水着姿が珍しいからじゃな
いよ!﹂
﹁おい穂乃果⋮⋮﹂直文が情けなさげな声で制止しようとした。山
内くんたちは一様に恥じ入った様子でうつむいている。
107
﹁⋮⋮はぁ?﹂
紺はとびきりけげんそうな顔になった。それを穂乃果はふりあお
いで﹁あー、そっか﹂と言った。
﹁紺ちゃんみんなの前で水着着たのはこれが初めてやもんね。それ
でこういう男子の視線気づく機会なかったんかあ﹂
﹁だからなんの話だよっ、穂乃果﹂
紺の疑問に直接答えず、穂乃果は山内くんたちをふたたび見る。
そしてうかつに返答できないようなことを言い放った。
﹁ねー、びっくりするよねスタイルのよさ! 特に胸!﹂
﹁んなっ!?﹂
紺が泡を食ったが、穂乃果は意に介さず紺のわき下に顔を出した
まま話しつづけた。
﹁さっきのジャンプ体操のときなんかすごかったよね! ふだんさ
らしで圧迫虐待してるくせに、解いて水着着たとたん水ヨーヨーぽ
よんぽよんって感じやもん、卑怯やんね!﹂
﹁だっ⋮⋮黙れバカ!﹂
頬を燃やした紺がぐいと穂乃果の頭を押さえる。それにも穂乃果
は止まらず、頭上に手をやって勢いよく指さしさえした。﹁学年中
でも一、二を争うボリュームなんよ、これ!﹂
かくて事故が発生した。少々無理な体勢で指さしたために数セン
チほど距離感が狂ったのだろう、穂乃果のひとさし指はななめ下か
ら紺の胸にめりこんだ。水着の生地におおわれた双球の片方がむに
ゅっとたわむ。
﹁ひゃわんっ﹂と悲鳴を漏らして肩をはねさせ、紺が目を白黒させ
た。
見ていた少年たちは穂乃果の恐れ知らずのふるまいに声をのむ。
はたして一秒後、限界まで顔を真っ赤にした紺のひじ打ちが、穂
乃果の頭頂に炸裂した。
﹁いったーい! ひどい、あたしの予備水着貸してあげたのにいっ
!﹂しゃがんだ穂乃果が頭を押さえて叫ぶのをあとに残し、紺は逃
108
げるように足早に川に入っていった。
﹁紺ちゃんほんと天然エロやねえ。たまにきわどいことするくせに
自覚なしなんやから﹂
存外ダメージはなかったようでけろりとして穂乃果は向き直る。
目を点にしていた山内くんの手をつかみ、笑顔でぶんぶん振りは
じめた。握手のつもりらしい。
﹁邪鬼丸くんよろしく! 最近紺ちゃんや直文たちと仲いいんやっ
てね! こっくりさんやったときにあたしもいたの覚えてる!? あの日のお昼から家族旅行に行ってたから、お近づきになる暇なか
ったけど!﹂
﹁いたね、うん⋮⋮よろしく⋮⋮できれば苗字で呼んでもらえると﹂
﹁え、なんで!? あ、下の名前自分ではあんまり好きじゃないん
? ちょっと変わった名前やもんね、あっ失礼なこと言っちゃった
かな!? そういえばお祭りの夜に名前聞いてみんなで笑っちゃっ
たのもごめんね!﹂
﹁う、うん﹂
﹁オッケー、これからは山内くんって呼ぶね! あたし大浜穂乃果
っていうんよ! 大浜でも穂乃果でもいいよ! キミにはお礼言わ
なくちゃって思ってたの!﹂
山内くんが困惑して首をかしげると、穂乃果は得々しゃべりはじ
めた。
﹁紺ちゃんってほら、怖いものなしやん? ふしぎなことできて度
胸あるってだけやなくて! えっとな、紺ちゃんいつでも自信満々
やしぐいぐい引っ張ってくタイプから、女子にもアンチいるんよ。
助けられたりなんだりで、紺ちゃんに告白しかねないくらいぞっこ
んファンになってる子はもっと多いけど﹂
﹁あ、そうなの⋮⋮﹂でもなんとなくわかるなと山内くんは感じた。
紺の個性は強烈だ。そのぶん、周りの反応も極端になりやすいのだ
ろう。
﹁そんでアンチでもファンクラブ会員でもない、あたしみたいな普
109
通に友達やってる子らも⋮⋮ささいな頼みごとやこっくりさんの監
視をやってもらうこと多いと、ね? どの男の子が好きとかの秘密
すごい
ぜんぶ握られてるようなもんやから、微妙に頭上がらへんの。
別に言いふらされたりはせんけど、こう、長年の不公平感えらい
やん?﹂
﹁うん⋮⋮﹂山内くんは困惑する。話がどこにつながるのかさっぱ
り見えてこない。﹁あの、それでなんで僕にお礼を﹂
﹁それそれ。うちのクラスの女子の多くは、紺ちゃんの弱みが知り
たい思っとったんよ! いじれるネタが欲しいというか? そした
ら山内くんが紺ちゃんのおっぱい触ったやん? あの子思いっきり
恥ずかしがって乙女反応したやん? ﹃あ、盲点だった。弱点これ
や!﹄ってあたし気づいたんよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
山内くんは唐突に死にたくなった。
﹁そんでさっき胸ネタ試したらやっぱりあの反応やん? 紺ちゃん
の弱点はおっぱいだってみんなに伝えるつもり。二学期始まったら
きっと楽しいことになると思う! おっぱいタッチしてくれてほん
まありがとうな山内くん! キミのあのえげつないセクハラのおか
げや!﹂
﹁やめて⋮⋮礼を言うより早く忘れて⋮⋮﹂
夏の川辺は緑と陽光に満ちている。山内くんのみ鬱々しい暗黒を
まとっている。
﹁紺に呪われなきゃいいな﹂
直文が醒めた声でつぶやき、こそこそとささやいてきた。
﹁山内⋮⋮もうだいたい悟ってると思うが、穂乃果の話はまともに
付き合ってたら日が暮れるぞ。うるさい長いウザいの三重苦だから
な、やんやん鳴く種類の蝉だと思って適当に聞き流せ﹂
﹁聞こえてるよ、ひどいやん直文! 年々あたしにそっけなくなっ
てない!? 昔はもっと優しくて話じっくり聞いてくれてたやんか
! まだ覚えてるよあんたが保育園のころあたしに渡したラブレタ
110
ーの文句! なんならここで一字一句そらんじてあげてもええんよ
?﹂
﹁そのネタいいかげんにやめろよな﹂直文の目の下がひくひくした。
﹁ちくしょう⋮⋮紺に頼んだら、こいつの記憶を一部消してくれた
りしないかな⋮⋮﹂
﹁余計なちゃちゃ入れないなら言わへんよ? ところで山内くん﹂
話の矛先が戻ってきて山内くんはびくっとした。
﹁な⋮⋮なにかな﹂
﹁いま紺ちゃんの家に泊まってるんやろ。なにか祓うとかで。
あの、聞きたいんやけど、紺ちゃんのおばあちゃん見たことある
?﹂
穂乃果の顔は思いのほか真剣だった。いつのまにかほかの二人も
かれをじっと見ている。山内くんは当惑しながらも首を振った。
﹁会ったことない﹂
実はかれもそれを不思議に思っていたのだ。紺の祖母の姿は一度
も見ていない。気配はまったくないわけではないのだが⋮⋮
三人が顔を見合わせた。﹁同じ家に寝泊まりしてもだめか⋮⋮も
う十年は誰も姿見てないって話だよな。やっぱり実は死んでるんじ
ゃない?﹂直文がとんでもないことをつぶやく。﹁でも、うちの近
所の上月さんが十妙院の家に依頼しに行ったとき、障子に大奥様の
影がうつったって言ってたよ﹂マイタケが怪談みたいな逸話を口に
した。﹁紺ちゃんに聞いたら﹃年がら年中離れの蔵の地下にひきこ
もってるだけ﹄って言うんよ。でもあたしら、紺ちゃんといっしょ
に蔵を探検したことあったよねえ⋮⋮? 地下への入り口なんてな
かったよね﹂穂乃果がはばかることのように声をひそめる。
山内くんはだいたいのところを把握した。どうやら十妙院家の大
奥様こと紺の祖母は、あまりに長いこと人前に姿を現していないら
しい。生存を疑われるほどに。
﹁でもほら、十妙院じゃない。狐の家だし⋮⋮何があっても不思議
じゃないよ。秘密の抜け道とかさ﹂
111
漏れてきたマイタケの一言が、山内くんには気になった。
﹁狐の家? どういうことなの﹂
﹁ん? ああ、こっちじゃ有名な話だよ。十妙院家は狐の血が混じ
ってるってさ。昔この土地によそから流れて来た女が︱︱﹂
直文が言いかけたところで、穂乃果が﹁あっ待って﹂とわりこん
だ。
﹁その話は知りたければ紺ちゃん自身に聞いたほうがいいと思うよ
山内くん!
ところで、とつぜんですがやっぱり直文のラブレターの文面発表
しまーす! ﹃はいけい ほのかちやん いきなりたけと ほくは
いつもたのしそうにおはなしするほのかちやんが すきてす﹄︱︱﹂
﹁黙れえええええ﹂
絶叫。穂乃果が川に逃げこみ、それを直文が追いかけはじめた。
﹁言わないって口にしたばかりじゃないかよクソ穂乃果!﹂﹁きゃ
ははははは﹂泳ぎは双方得意らしく、クロールしながら猛烈な勢い
で川面を遠ざかっていく。
呆然と山内くんは二人を見送る。﹁あの二人はいつもあんな感じ
だ﹂とマイタケが呆れ顔で言い、それから山内くんに﹁ここだけの
話だけど﹂とささやいた。
﹁え、う、うん﹂
﹁直文が口にしかけたのは昔から伝わる話だけど、あんまりいい語
られ方してないんだ、十妙院の家は。元がよそ者ということもあっ
て、昔は悪しざまに言われてたみたい﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
﹁直文はうかつだからそのまんま口にしかけたけど。さっきの穂乃
果は強引だったけど、あれでも気をつかったんだと思う﹂
﹁わかった﹂
聞かないほうがよさそう、と山内くんは決める。家にまつわる噂
など関係なく、紺は紺だと自然にかれは思った。が、
﹁あ、でも紺自身に聞いたらあっさり教えてくれるからさ。自分自
112
身でもネタにしてるもの﹂
﹁⋮⋮なんだよそれ﹂
思わずつぶやいたが考えてみれば、知らないところで人にささや
かれるのと自分で言うのとではかなり違う。
ひとまず納得した山内くんに、マイタケが笑いかけてきた。
﹁ところでそろそろ遊ぼうよ。ぼくは魚を捕まえてくるけど、君も
行かない?﹂
山内くんはうなずいた。面白そうである。
︵マイタケっておとなしくて落ち着いてて、話がいちばん合うかも︶
﹁ほらそこ、そこ網のばして! 遅いよ山内くん!﹂
﹁ご、ごめん﹂
﹁しょうがないな、網を貸してみて。
小川の中央を人が歩くと魚は逃げるけど、縄張りがあるからか、
どこまでも先へと逃げはしないんだよね。ほら、先のほうでUター
ンして岸沿いに戻ってくるでしょ? 人の横を高速ですりぬけよう
とするから、その動きを先読みして岸付近に網を突っ込むんだ。川
幅の狭い場所で魚のこういう習性を利用すれば、さっきのプールみ
たいな広い場所でひたすら追い回すよりはるかに簡単に捕れるんだ
よ。
ほらこうだよ、こう!﹂
ひざまで水に浸かったマイタケが誇らしげにかかげる網のなかに、
小魚たちが跳ねまわっている。
﹁イェー! 幼魚は逃がすけど、十センチ以上の魚はあとで焼こう
!﹂
﹁マイタケって、魚捕りだとテンション高くなるんだね⋮⋮
ところでちょっと⋮⋮みんなのいるところから離れすぎてない?
だいぶ上流に来ちゃってるけど﹂
113
いろいろな理由で冷や汗を垂らしている山内くんに、
﹁だいじょうぶだよ。このへんはたまに魚捕りに来てるんだ。とい
びく
うか、このあたりくらい川幅がせばまってないと、いまやってる逃
げ道に網突っ込む捕り方はできないからね﹂
マイタケはこともなげに言って、水に浮かべた竹細工の魚籠に十
す
二センチほどのハヤを入れた。その魚籠はビニール製の浮袋がつい
ていて、川に半分だけ漬けて魚を生かしておける。生け簀状態で、
ひもを使って川面を引っ張っていくのである。
﹁さ、山内くん、やってみて﹂
﹁う、うん﹂
コツをつかむと面白いほどに捕れた。オイカワ、ハヤ、モロコ⋮
⋮一定の大きさ以下の魚は放すが、それでも魚籠にはどんどん魚が
増えていく。いつしか夢中になっていた山内くんの前方で、手ぶら
のマイタケは大きな川床の石にとりついてしゃがみこみ、なにやら
ごそごそしている。
かと思うと、
﹁捕れたー! ドンコ!﹂
十五センチほどの、ずんぐり太った黒い魚をつかみあげてみせた。
山内くんは目を輝かせて近寄る。
﹁なにこれ﹂
﹁ドンコだよ、見たことない? ナマズと同じで、見た目は悪いけ
ど美味しいよ。
山内くんもつかみ漁やってみない? こういう川中や岸辺の石の
下⋮⋮すきまに手をつっこんでまさぐるんだ。ナマズやドンコみた
いな速く泳ぐのが苦手な魚は、日中は狭くて暗いところにじっとし
てるんだよ﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
﹁つかみ漁で昔はウナギも捕れたっていうんだけどねえ。
ウナギだと思ってつかんだら蛇だったみたいなこともあったらし
いよ﹂
114
岸の石の下に手をつっこみかけていた山内くんは高速で手を抜い
た。マイタケがあははと笑う。
﹁そうそういないからだいじょうぶだよ!﹂
﹁肝を冷やさせないでよ⋮⋮﹂
恨めしげにマイタケをにらんだのち、山内くんは網での小魚漁に
専念することにした。
シャンハイガニ
﹁淵にはカニ罠も仕掛けてるんだ、なにか捕れてたらまた誘うから
見に行こうよ。たいていはモクズガニ⋮⋮上海蟹の仲間の大きなカ
ニが捕れるんだけど、まれにコイの仲間やナマズみたいな大魚がか
かっちゃう。大きなすっぽんも捕れたことあるよ、五千円で料理屋
に売っちゃったけど﹂
楽しそうに話していたマイタケは、﹁流れがゆるやかになって水
が暗くなってるとこは魚のいるポイントだよ。あそこの柳のある岸
沿いみたいなさ⋮⋮ちょっと見てくる﹂と岸辺に寄っていった。
おっとりしているようでいて活発な趣味なんだな⋮⋮とかれを見
ていた山内くんは、
︵ん?︶
眉を寄せて目を細めた。
気になったのは、柳の影が落ちる水面だった。
つつみ
水底から大きな何かに突き上げられているかのように、円形の波
紋が広がっているのである。
マイタケがしゃがみこんで、岸を構成する古い石造りの堤の下を
まさぐりはじめている。その横で、起きる間隔を短くして波紋がひ
んぱんにたちはじめる。
ぷかり。
赤ん坊がうつぶせに水面に浮き上がってきた。
硬直した山内くんの見ている前で、赤ん坊のまわりの水が朱色に
染まっていく。マイタケがしゃがんでいるその場所の水は、たちま
ち赤い絵の具を溶いたかのように変わっていた。
赤ん坊にはへその緒がついていた。その肉の綱は岸につながって
115
おり⋮⋮
山内くんが視線を上げると、柳の岸に、マイタケを見下ろすよう
きょうかたびら
に女がうずくまっていた。
白い経帷子。長い黒髪が前にも垂れて顔は見えない。帷子の腹の
あたりが真っ赤に染まり、すそからへその緒が垂れて赤子につなが
っていた。
山内くんはマイタケのひじを捕まえ、ばしゃばしゃと水をはねあ
げながらものすごい勢いでその場から遠ざかった。
﹁ちょっと、どうしたの山内くん!? 魚の感触が手に触れたとこ
だったよ!﹂
不満げに言いつのるマイタケの肩をつかんで、据わった目で告げ
る。
﹁出。ました。幽霊。さっきのとこ﹂
﹁あっはい﹂
即座にマイタケが素直になる。かれは名残惜しげに魚籠を見た。
﹁まあ、このくらい捕まえたらよしとするべきかな⋮⋮﹂
﹁なにのん気なこと言ってんのさ! 早くみんなのとこまで戻ろう
よ!﹂
血相を変えてせっつく山内くんのかたわら、水面からしぶきをは
ねあげていきなり人が立ち上がった。
すいか
山内くんたちは悲鳴をあげかけ、それが紺であることに気づいた。
川底に潜って泳いできたらしい。手に西瓜の入った網︱︱生き物を
捕るものではなく野菜を入れる種類︱︱を持っている。
﹁あれ見たのかよ。赤ん坊のくっついた、腹の裂けた女だろ﹂
西瓜を水面にたゆたわせておき、水中ゴーグルを紺はひたいに押
し上げた。濡れた肢体を陽光できらきら輝かせながら、呆れをふく
んだまなざしを向けてくる。
﹁忠告しただろーが、このへんは伝統ある水場なんだ﹂
﹁で、伝統があったら幽霊も出るのかいっ⋮⋮﹂
盛大にびびっている山内くんを一瞥して、﹁また葬儀関係だよ﹂
116
と紺は言った。
かんじょう
彼女は山内くんたちが逃げてきた、柳の生えた岸を指さす。
﹁あの女の姿は念が凝り固まったみたいなもんだ﹂
﹁念⋮⋮﹂
﹁残念無念、そんな念。妊婦が死んだとき、ここらじゃ流れ灌頂っ
ていう供養を行ったんだ﹂
彼女の解説を山内くんたちは聞く。
流れ灌頂とは、朱筆で戒名を書いた卒塔婆を水場において、毎日
けが
念仏をとなえながらひしゃくの水をかける供養法である。数十日か
けて念入りに、特別な死の穢れを落としたのだという。
﹁妊婦の死はほとんどの場合腹の子の死でもあった。二重の死とい
うことで強い穢れであり、お産で死んだ女は血の池地獄行きといわ
れたんだ。いまから見れば理不尽だけど。
その死を救済するための流れ灌頂だ。流水は昔から穢れを落とす
ものとされてる﹂
﹁お、落とされてないじゃないか⋮⋮化けて出てるよ﹂
﹁厳密には霊じゃないんだってば。見ろよ﹂
紺は静かに、柳の岸辺をよく見ろとうながした。
﹁柳のそばに地蔵があるだろ? 流れ灌頂を行ってたのはあのへん
しえ
だ。長い年月のあいだ、何百回も流れ灌頂が行われた。
そのつど全部の死穢が完全に洗い流されたわけじゃない、ちょっ
とは水ごと岸の土にしみこんでた。あそこの古い柳はその水を吸っ
たんだ。
腹の赤子もろとも死んでいった女たちの念を、いまもなお柳が投
影することがある。それがおまえらが見たものだよ﹂
﹁おなかが血まみれだったのは⋮⋮﹂
﹁ここらでは魔除けの儀式のひとつに、妊婦を供養する前、夫か父
親が、孕んだ腹を切り裂いて赤子を露出させておく風習があった。
そうしないとウブメという迷い霊になると言われたんだ。でもそれ
自体が、妊婦にとっては恐ろしい話だったかもしれない。死ねば自
117
分の腹が裂かれると知っているわけだから。そのイメージも柳は吸
ったってわけだ﹂
山内くんは、なんとなく物悲しい気分になってきた。マイタケも
神妙な表情をしている。
⋮⋮怖いものは怖いからもう柳に近寄りはしないが。
﹁ったく、勝手に離れんなよな﹂
じと目でふたりを見つめていた紺は、﹁マイタケの漁キチっぷり
は病気の域だから、魚捕り自体はやめさせらんねーけどさ﹂とあき
らめのため息をつき、
﹁ただしマイタケ、これだけは守れ。河虎岩には近づくな﹂
厳しい声で、そう告げた。マイタケがうつむいて﹁う⋮⋮うん﹂
と妙に歯切れ悪く答える。
紺はうなずき、川面に浮かべた西瓜をぽんと叩いて、
﹁西瓜割りするからおまえら呼びに来たんだよ。戻ろーぜ﹂
にっと笑った。
118
アカオニアオオニ
明日の遊び場が林だから、せっかくなので虫取りをしよう。雑木
林のクヌギにはちみつを塗っておいたから、夜が明けたらすぐ行っ
てみようよ
マイタケがそう言い出して翌朝早く。集まったのは山内くんをは
じめ直文、マイタケ、泰斗︱︱男子ばかりである。
ところが雑木林に踏みこむと、木の間に自転車が二台並んでいた。
﹁うげっ⋮⋮オニどもの自転車だぞ﹂
死ぬほど嫌そうな声を直文があげた。﹁紺の方角占い、今日は外
あかしま
れたね﹂マイタケの表情もたちまち硬くなる。虫かごを手にしてい
た泰斗が不安そうに周囲を見回した。
﹁オニ?﹂
虫とり網を持っていた山内くんは首をかしげる。
あおにたかし
﹁中学二年生で、ここらじゃ有名ないじめっこコンビだ。阿嘉島陽
一、青丹崇。それぞれアカオニとアオオニって呼ばれてる﹂嫌悪を
こめて直文が吐き捨てた。﹁関わらないほうがいいやつらだよ。い
かれてる﹂
﹁猫や鳩を殺してるってうわさがある﹂
マイタケが暗くぼそっとつぶやいた。
﹁切り裂かれた猫の死体が、ぼくの近所のケンスケくんちの前で見
つかったことがあるんだけど⋮⋮あれはあいつらがやったって話だ
った。あいつら、自分たちの同級生で猫好きのケンスケくんをいじ
めのターゲットにしてたもの。ケンスケくん、あれで不登校になっ
て転校しちゃった﹂
山内くんはぞっとする。
姫路でかれが住んでいたアパートでも、そういう陰惨な事件があ
ったのだ。犯人は捕まらなかったが、刃物で殺されたらしき小動物
119
の死骸がアパート前の路上に捨てられていたという。それも何度も、
くりかえし。
︵姫路の中心地だと人がそこそこ多いからおかしなやつがいても仕
方ないけど⋮⋮この一見のどかな田舎町でも、そういう事件が起き
てるなんて︶
﹁あいつら、なんでこんな朝早くうろついてんだろ⋮⋮ひとまず帰
ったほうがよくないか?﹂
さほど気の弱いタイプではない直文がそう言い出したのは山内く
んにとって少し驚きだったが、文句はなかった。山内くんは逃げる
ことを恥とは思わない。
かれは護身術の道場の師範に言われたことがある。
﹃君がまた犯罪者に襲われたとして、武道で相手を撃退しようとす
るのは思いあがりというものです﹄と。﹃女性や子供が多少腕が立
ったところで、暴漢の体格がよかったり複数人相手だったりすると
何にもなりません。だいいち、暴力に訴えるのでは獣と変わりあり
ません﹄
じゃあどうしたらいいんですか、とたずねる山内くんに師範は訓
示を垂れた。
﹃最初から危うきには近づかないことが最上です。人にも獣にも共
通する安全の鉄則です。
気をつけていたにもかかわらず窮地に巻き込まれてしまったなら
ば、人の知恵から使いましょう。説得や譲歩で危険を避けられるな
⋮⋮こ
戦うか逃げるか
ファイト・オア・フライト
ら、それに越したことはありません。
それが通用せずして初めて
れは野生動物が敵と出会ったときの反応ですが、
という選択肢が出てきます。逃げることを選びなさい、逃げ切れ
そうであるかぎりは﹄
危険にかかわらずにすむ道があるなら、かかわらないに限る。逃
げられるときは逃げる。それが訓えだった。
逃げよう、と山内くんは直文たちにうなずいた。
120
だが、遅かった。
いきなり何かが飛んできてすぐそばの樹の幹を打った。重くはな
いが硬い音がカツリと響き、四人は身をこわばらせた。
﹁直文じゃん。よう、虫捕りか﹂
顔を向ければ、白カッターシャツと黒い長ズボンの二人組の少年
がにやにやしながら立っていた。ひと目で中学生とわかる。
片方が山内くんたちの進路をふさぐように進み出てきた。にきび
面で、身長と肩幅は大人にこそ届かないがそこそこがっちりした、
成長期まっただ中の体格。
﹁アカオニだ﹂マイタケが相手には聞こえない程度の小声でつぶや
いた。
アカオニという少年は左手に透明なビニール袋を持っており、ご
そごそ動く黒いカブトムシを雄雌合わせて三匹そこに入れていた。
﹁俺たちも捕まえたぞ。クワガタやカミキリがいないのは惜しいけ
ど、ひと朝でこれだけ見つかればりっぱな戦果だ。そう思うだろ?
あと悪いが、ほかにはもういないと思うぜ? 林のなかざっと見
て回ったからな﹂
﹁え⋮⋮あっ!﹂
マイタケが泡を食った表情になった。
すずめばち
﹁ちょっ、ちょっと待ってよ。それ、ぼくが前の日にはちみつ塗っ
といた樹に寄ってきてた虫じゃ︱︱﹂
﹁はああ? 言いがかりはよせよ。おまえらの樹には雀蜂しか寄っ
てきてなかったよ。運がなかったな﹂
アカオニは薄ら笑いでうそぶくと、学生服のズボンのポケットか
ら右手でなにかを取り出し、親指で弾いてきた。
それは普通より小さな、弾きやすい大きさのビー玉で、マイタケ
の胸に当たってかれをひるませた。
﹁おい、因縁つけてんじゃねえぞ。なんだ、俺たちが盗んだという
証拠でも出せるのか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
121
﹁﹃俺たちの捕まえた虫﹄が欲しいのなら売ってやるよ、どうせ誰
かに売りつけるつもりだったしな。一匹二百円だから六百円出しな﹂
金の要求に、直文がかっとなったように声をはりあげた。
﹁なに言ってやがる。だれがあんたらなんかから買うか﹂
﹁直文よう。年上にそういう敬意のない態度は、マジでよくねえよ﹂
アカオニの声が脅すように低まり、ビー玉がまた飛んで今度は直文
の顔を狙った。直文がとっさにそれをはたき落とすと、アカオニは
いきなり目を吊り上げて怒鳴った。
﹁俺のものを壊すつもりか、馬鹿野郎!﹂
大またで迫ったアカオニに胸ぐらをつかみあげられ、直文の顔が
青ざめる。かろうじてぐっと口を引き結んでにらみかえしたが、そ
れも数秒のことで、ややあって直文は震えながら視線を下げた。
唐突で強圧的な暴力は、それに慣れていないだいたいの者を萎縮
させる。
ただ⋮⋮地面には、ビー玉が転がっていた。無気力にそれを見つ
めた直文が愕然とした表情になっていった。
﹁おい、これ⋮⋮あんたのじゃないだろ。穂乃果の集めてたビー玉
じゃないかよ﹂
﹁は?﹂
ふたたびアカオニをにらみあげた直文の顔が紅潮していた。
﹁珍しいやつだ、見間違えるわけがない。﹃職員室に没収されたあ
と、なくなったと言われて返ってこなかった﹄っていう⋮⋮穂乃果
はしょげてたぞ。それをなんでおまえが持ってるんだ、返せよ﹂
﹁知るかよ。これは俺が買ったんだ﹂
﹁どこでだよ。これは穂乃果んちのおじさんの、海外出張のおみや
げだぞ。取引先のガラス工場がくれた非売品だって⋮⋮これをどこ
で買ったか言ってみろよ!﹂
アカオニの顔から表情が消える。
﹁⋮⋮人を泥棒扱いしてんじゃねえよ﹂
﹁あんたは昔っから盗み癖で有名じゃないか︱︱﹂
122
さらに激しく罵ろうとした直文のみぞおちをアカオニの拳が強打
した。直文があっとうめいて体を折り、苦悶しはじめる。
﹁てめえは紺の次に生意気だからな。いつかしめてやろうと思って
たんだ﹂アカオニは薄ら笑いを浮かべて直文の髪をつかんだ。﹁顔
を上げろよ、俺に喧嘩を売っておいてこんなもんですむと思ってん
のかよ﹂
﹁けんかうってきたのはそちらじゃないか﹂
抗議の声が小さく、けれどしっかりと場に響いた。
幼い泰斗が泣きそうになりながらも、足をふんばってアカオニを
見上げていた。
﹁もういちど言ってみな。なんだって、ちび?﹂
アカオニは直文から手を離し、泰斗に向きなおった。みぞおちを
押さえたまま地面にうずくまる直文に目もくれず、かれはポケット
から新たにビー玉をつかみ出した。
﹁こっちが売ってるのは喧嘩じゃなくて虫だ。因縁つけてまでてめ
えらが欲しがった虫を真っ当な取り引きで買わせてやるって言って
るんだ。喧嘩じゃないってこっちが言ってるのに、そっちがあくま
で喧嘩にしたいなら、そっちの非だよな。ほら、これだって遊んで
やってるんだぜ。喧嘩するつもりがあるなら直文みたいに叩き落と
してみろよ﹂
むちゃくちゃな理屈を吐きながら、アカオニは泰斗の頭にビー玉
を一個ずつほうり投げはじめた。こん、こんとビー玉が頭にぶつか
ってはねる。馬鹿にしきった行為を受ける泰斗の目尻から、怯えの
涙が震えてこぼれた。
﹁小銭くらいだれか持ってるだろ? 別に後日にこっちから取り立
てに行くのでもいいんだぞ、利子がついて一人千円になるけどな﹂
アカオニがそう言いながらまた放ったビー玉を、
虫捕り網が横から伸びてからめ取った。
﹁んん?﹂
網をふるった山内くんは泰斗を背にかばって立つ。アカオニはい
123
ま気づいたというようにかれを見た。
﹁そういえばどこのだれだ、てめえは。見ない顔が混じってると思
ったが﹂
﹁これは、筋が通って、ない﹂
﹁⋮⋮何言ってんだてめえ﹂
若干つっかえながら山内くんが言うと、不快そうにアカオニは目
を細めた。
山内くんは緊張にのどが干上がるのを感じる。一方で腰を落とし、
肩や下半身から力みを抜く。体の重心を下げた、素早く動ける体勢。
師範との会話をまた思い出す。
﹃ただし﹄師範は逃げろとすすめた後にこう言ったのだった。﹃良
くも悪くも人は野生の獣にはなりきれません。自分の身の安全より
も優先する大事なことがあるなら、それが人としてどうしても譲れ
ないものなら、そのために戦うことを止めはしません﹄
。
山内くんにとって、身の安全より優先するものはパパの教えだっ
た︱︱
筋を通せ
﹁痛い目見たくなきゃ引っ込んでろよ﹂
アカオニは山内くんの顔に向け、ビー玉を強めに弾いた。
左手を網の柄から離し、山内くんは宙でつかみとった。直線的に
飛んできたビー玉を。
アカオニの鼻に寄ったしわがさらに大きくなる。その口が開いて
怒鳴ろうとした矢先、一枚の符がひらひらと蝶のごとく両者のあい
だに舞って、
ぱん!
爆竹のごとく破裂した。アカオニも山内くんも目を丸くしてたじ
ろぐ。
次の瞬間、山内くんのさらに前に、きゃしゃな背中が立ちふさが
124
った。
﹁アカオニ。直文に何しやがった。泰斗にも﹂
駆けてきた紺の声は、群れの仲間を守る獣さながらの敵意に満ち
ていた。
﹁知るかよ、ちょっと撫でただけだし、その弱虫のちびは勝手にべ
そかいたんだ。それよりその呼び方すんなって前にも言ったろ、な
めてんのか﹂
アカオニは顔を歪めて言ったが、その声にはいささかの狼狽が混
じったように聞こえた。
﹁何度でも呼んでやる。アカオニ、オレがいるときだろうといない
ときだろうと、こいつらに手を出すな! それと﹂
紺は語気荒く威嚇し、手のひらを出した。
﹁そのビー玉。穂乃果のだ。返せ﹂
﹁はあ? 知らねえよ﹂
﹁そのひん曲がった根性を直さねーとろくな死に方しねーぞ。いい
から返せ、だれかがとってったってのは占ったら出たんだ!﹂
﹁俺を泥棒と呼ぶな﹂
アカオニの目に憎悪が宿り、山内くんは息をつめた。いつでも紺
の前に出られるようにする。が、アカオニはけっきょく紺から顔を
そらし、腰のポケットから十数個のビー玉をつかみだして地面にぶ
ばいた
ちまけた。マイタケがおそるおそるそれを拾い集める。
﹁売女と狐をかけあわせた汚れた血の家のくせに⋮⋮なにを偉そう
に﹂
ぶつぶつとアカオニが漏らす声には、それまでとは少し違った黒
い感情があった。紺に対する強いさげすみと、それをはるかに上回
る恐怖が。
そのとき、アカオニの肩に手が置かれた。
﹁なにびびってるんだ、陽一。紺のことはただの女の子と思ってい
いと言ったろ﹂
﹁崇くん﹂アカオニがほっとした顔色になる。
125
その青丹崇︱︱アオオニという少年はそれまで、アカオニの背後
でかれの狼藉を退屈そうに見ていた。紺が駆けつけるや進み出てき
たかれは、一見してそう乱暴者には見えなかった。青白い顔色、秀
麗な優男の面立ちである。だがその歪んだ笑みには粘っこい悪意が
こびりついていた。
﹁なあ、紺。これはおまえの思ってるようなことじゃないよ⋮⋮陽
一の口ぶりは誤解されやすいんだ。僕たちがかわいい後輩をかまっ
ちゃだめというのかい?﹂
﹁なにがかわいい後輩だ。あいかわらず気持ち悪いな、あっちいけ
よアオオニ。とにかくこいつらにちょっかいかけるな﹂
﹁へえ。ちょっかいかけたらどうする? 十妙院では、人に術を直
接かけるのは禁止されてるんだろう? それとも、だれかに言いつ
けるかい? やってみるがいいよ⋮⋮どっちの家格が上なのか忘れ
たかな。ここらじゃ十妙院よりも青丹のほうが偉いんだよ。おまえ
たちはしょせん、たかだか二百年前によそから来た狐の家にすぎな
いんだ﹂
ぺらぺらと舌を回しながら、アオオニはなぜか一瞬山内くんに探
るような目を走らせた︱︱山内くんはまなじりを決してかれを見返
し、はたと気づいた。
この相手とは初対面ではない。
はふりべ
黒焦げの死体を発見したときその場にいた少年だ。たしか猫殺し
で補導される途中だった。
紺が呆れ顔で言い返す。
﹁⋮⋮おいアオオニ、おまえらの本家の祝部はとっくに滅んだだろ。
なに白昼夢見てんだ。ウチの時代錯誤っぷりもたいがいだけど、ま
だ現実は見失ってねーぞ﹂
﹁現実をわかっていないのはおまえだよ、紺﹂
アオオニはべえ、と赤黒くぬめぬめした舌を見せた。このとき山
内くんはにわかに悟った︱︱アオオニのほうが、アカオニよりもは
るかに危険なのだと。
126
おこ
しき
﹁祝部というのはもともと決まった家がやる職じゃなかった。滅び
たら分家のどれかがまた興せばいいのさ⋮⋮紺、僕の機嫌は損ねな
いほうがいいんじゃないかな。僕とおまえは十年後か、ことによる
とたったの五年後には結婚してるかもしれないんだから。なんとい
ったかな、そう、﹃いいなずけ﹄みたいなものじゃないか?﹂
﹁頭わいてんじゃねーの?﹂
冷え冷えとした口調で切り捨て、紺はきびすを返して﹁行くぞ﹂
と山内くんたちをうながした。
一同が中学生二人に背を向けても、アオオニの不快な声はあとを
追ってきた。
﹁おまえのお祖母様がむかし皆の前で言ったことだよ。由緒ある祝
部の血を十妙院に入れるのは損にならないってね。じゃあね、紺⋮
⋮その日のこと、実はけっこう楽しみだ﹂
﹁けったくそわりぃぃ。万が一にもそんな成り行きになってたまる
か﹂
紺はずかずか大またで歩きつつ、歯ぎしりして毒づいた。山内く
んはその話の詳細が気になりながらも聞くに聞けず、直文に肩をか
して黙々とついていく。
林から出たのち、紺は眉をしかめて一同をふりむいた。
﹁遊び場を決めるときの方位占いは、こういう不運を避けるためな
んだけど⋮⋮天気予報みたいなもんで、百%大丈夫ってわけじゃな
いんだ。悪かった﹂
紺は責任を感じているようだった。マイタケと直文がううんと首
をふったが、直文は目を真っ赤にして黙りこくっていた。屈辱がか
れの心をかきむしっているのは明らかだった。
︵どうせあの乱暴者に立ち向かうなら、もっと早く踏ん切りをつけ
ればよかった︶
山内くんは悔やみながら言った。
﹁あいつらのやったこと、大人たちに告げるべきだと思う﹂
どんよりと暗い目をマイタケが向けてきた。
127
﹁無駄だよ﹂
﹁無駄ってどういう⋮⋮﹂
﹁あいつら、大人が何したって悔い改めなかったんだよ⋮⋮先生や
警察のひとが怒ったって、親に連絡したってさ。前にもこういう暴
力事件で被害にあった子がいたけど、その子の親がアカオニの家に
文句言いに行ったら、やる気のない対応されたそうだよ。﹃あの子
に謝らせようとしたって、残念ですがあの子はわたしの説教なんか
聞きやしませんから無駄ですよ。強く言おうとすれば暴れます﹄っ
て。
アオオニの親のほうは、﹃怒っておきます、治療費も出します﹄
っていうもっとましな対応だったっていうけど⋮⋮それ以降もアオ
オニはまったく変わってないんだ、どうしようもないよ﹂
﹁⋮⋮人に直接術を使っちゃだめと言われてるのが、ときどきたま
らなくもどかしくなる。オニども見てると﹂紺は歯噛みしていた。
﹁極楽縄を絵美に渡しやがったことも忘れちゃいない。オニどもに
はいつかお灸すえてやる。年上だなんて関係あるか﹂
その憤懣を聞きながら、山内くんはひとつ決意する。こちらに来
てからおろそかにしてしまっていたが、朝夕の鍛錬を再開しておこ
うと。
超常現象より人の悪意のほうが厄介なこともあると、久々に思い
知っていた。
青丹崇︱︱アオオニは帰宅するとまっすぐに自分の部屋に向かっ
た。
途中、父親がこもりっぱなしの部屋の戸を叩く。
﹁だれかまた文句を言いに来るかもしれないから、適当にあしらえ﹂
返事はない。息をひそめて身をすくませている気配はあった。
舌打ちし、アオオニはもう一度戸を叩く。
128
﹁おい。聞こえたのか。また足の指を無くしたいか﹂
﹁わかった、わかったよ。ちゃんとやっておくから﹂
父親のおびえた声がほそぼそと返ってきた。
アオオニの苛立ちはますます強まった。いっそ近いうちに殺して
しまおうかとも思う。
この戸の向こうにいる男に、もはや肉親の情などひとかけらも抱
いていない。祝部の分家、青丹の当主のくせに呪術の才能をかけら
アオオニ
も持たない、どうしようもない凡人。そのくせ分を知って常人の世
界に腰をすえることもできず、幼くして才の片鱗を見せた息子に望
みを託した男。
︱︱十妙院を追い落とす子だ。
︱︱力すぐれた神を祀ってきた我々が、あんな狐の家の下風に立
たされている現在がおかしいんだ。
︱︱青丹家をかつての祝部のように、いまの十妙院のように栄え
させろ。
アオオニはそう言われて育った。
呪術をほとんど使えない父親は、まともな術者が見れば鼻で笑う
か即刻やめさせるようなやり方でアオオニに呪術を仕込んだ。知り
うるかぎりの古今東西の魔術の知識をかれに詰め込み、儀式の上っ
面をひたすら実践させた。獣の腹を裂いて腸のもつれで未来を占わ
せたり、愛犬に大量の湯をかけて殺した末にその首を切り取って﹁
これで式神をつくりなさい﹂と命じたりもした。
父親は大過なく会社に勤め、温厚な人との評価を外では得ていた
罰
を与えてくるような男だっ
ようである。だが家のなかでは、アオオニが少しでも反抗すると、
かれの手を押さえつけてまち針で
た。母親は獣の虐殺場と化した家中に呆れ、おぞましがり、父子を
残して出ていった。
それだけであれば、常軌を逸したオカルトマニアの父親によって
本物
があった。散逸し
崩壊した家庭がひとつ、という話で終わったかもしれない。
不幸にも、伝えられた知識のなかには
129
つつも一部が残っていた祝部の秘術古伝⋮⋮それを吸収し、青丹崇
という少年は、外法の術を備えるにいたった。何年も前、かれは自
分が﹁本物となった﹂ことに気づいた。式を使ってかれが最初に行
ったことは、父に生涯消えない恐怖を刻み込むことだった。父に首
を切り落とされた愛犬は、異常な雰囲気の家のなかでかれが唯一心
を許していた存在だったのである。
やはり、こいつはいつか殺そう。
こどく
父を殺すことを決めると、いびつな笑みがこぼれた。自分の得意
とする蠱毒系統の呪術をうまく使えば、警察の追求を受けない殺し
方はいくらでもできる︱︱十妙院やほかの祝部分家のような、同じ
呪術世界に生きる者には筒抜けかもしれないが。
﹁でも、しぶとく生きてるあの餓鬼を排除すれば⋮⋮﹂
競争者を排除して新しい祝部になって、ほかの分家や十妙院より
強くなってしまえば、
﹁弱いやつらの追求なんか気にする必要もないよなあ。そうなった
らだれを殺そうと自由だ﹂
笑い、階段を上がり、アオオニは自分の部屋に入った。
カーテンがしめきられて昼なお薄暗いその部屋の床には、ケージ
が所狭しと積み重ねられている。たくさんのケージはそれぞれ識別
番号を書いた紙を貼られ、獣の気配と死の臭いをたちのぼらせてい
る。
ふん、ふん、ふん、ふん⋮⋮鼻歌を唄いながらアオオニはケージ
のひとつに歩み寄る。
はつかねずみ
なかでは、最後の仲間︱︱兄弟か親か子か︱︱を食い殺したばか
りの二十日鼠が、白い毛皮を赤く染めて肉をむさぼっている。過密
状態でつめ込まれて餌を一切与えられず、交尾して産む片端から共
食いしあった群れの成れの果てだった。
﹁ほうら、おいで、おいで﹂
厚いゴム手袋をはめてケージに手をつっこみ、愛情深くさえ感じ
る声音で、アオオニは最後の一匹を呼んだ。
130
﹁おいで、おいで、さあ、おいで﹂
かれの呼び声を聞くうちに鼠はおとなしくなり、ぐったりとして
手袋に握りこまれる。
摂魂術。
鼠をつかみあげて椅子にこしかけ、アオオニは脳裏にひとつの顔
を思い浮かべる。
山内の餓鬼。
︵なんでこんな田舎に来たのか知らないが︶
好都合というものだった。
かつてあまりに幼いころ、姫路に連れて行かれた。住宅街でよち
よち歩きをしている、赤ん坊からようやく脱したばかりの幼児を、
遠目で眺めさせられたことがある。
︱︱あの子を呪詛しなさい。
︱︱あの子はおまえの最大の競争相手なんだよ、崇。これは淘汰
なんだ。蠱毒とおんなじだよ、生存競争を経てもっとも強い毒が定
まる。
ことほ
︱︱何年かかろうとも、必ず殺すつもりでやりなさい。手を血に
染めた者こそを、祝部の神は⋮⋮まがつみくらの神様は言祝いでく
ださるんだから。
粘着的な父親の声が脳内でうっとうしくリフレインする。
父の定めた道だが、アオオニはこのまま歩むつもりだった。
かれは机の引き出しから彫刻刀を取り出して、鼠の頭を削りはじ
めた。キーキー、キーキーと鳴き声が響く。アオオニはゆっくりと
刃を動かす。鼠が静かになるまでは長くかかった。
しかし、とアオオニは眉をひそめた。﹁紺があいつの護衛につい
てるとなると、手持ちの駒じゃ戦力不足だよなあ﹂
鼠ぐらいではどれだけ苦痛を与えて殺しても、十妙院の護りを突
破する式にはなるまい。
﹁猫か犬を調達しないとな⋮⋮新しい殺し方も試してみるか。溺死
なんてよさそうだ﹂
131
血まみれの毛皮を剥ぎ取り、赤い肉をごみ箱に捨てて、アオオニ
はふと思いをめぐらす。
人を蠱毒の材料に使えば、強い式神ができるんだろうがなと。
132
アカオニアオオニ︿2 衝突﹀
山内くんは白いジャージ姿で、青い稲穂がそよぐ田んぼ道を走っ
ている。
同行者は二名。タンクトップにレギンスで自転車に乗って並走し
てくる紺。それと、かろうじて走ってついてくる、キッズスポーツ
ウェア姿の直文である。
﹁⋮⋮直文、だいじょうぶ? もっとゆっくり来ていいんだよ﹂
﹁だい、じょう、ぶっ⋮⋮こんくら、いっ⋮⋮﹂
﹁かけらも大丈夫に見えねーぞ﹂紺が呆れと懸念をこめた指摘をし
た。
目をうつろにした直文は汗をだらだら流し、どう見ても熱中症寸
前である。
山内くんは鍛錬を再開する決意を固めて、さっそく今日から早朝
のランニングに出ているところだった。直文は、その予定を聞いて
自発的についてきたのである。﹃俺も鍛える。オニどもに仕返しで
きるようにしてくれ﹄と暗いまなざしを据えて。
山内くんは退けられなかった。
﹁水筒持ってきときゃよかったなー⋮⋮おい山内。先の方に自販機
があるはずだから、オレそこでスポーツドリンク買ってくる。直文
は、休ませろ﹂
﹁うん⋮⋮そうする﹂
﹁だいたい往復八キロのランニングが手始めのメニューってのがお
かしいんだよ、おまえの稽古﹂
紺は小声でぶつくさ言い残すと、ペダルを立ちこぎして先行しは
じめた。川にかかった石橋を渡ってその姿がみるみる小さくなって
ゆく。
見送って、山内くんはふりかえる。
133
﹁少し歩こう、直文﹂
﹁だいっ、じょうぶだ、って⋮⋮﹂
一朝一夕で体力・筋力ましてや技は身につくわけじゃないんだか
ら焦っても無意味だよ、とは言わなかった。アカオニに殴られた記
憶が直文を駆り立てているのだ。へたにそれを抑えこむことはない。
体を動かせば負の念も多少は発散できるだろう。
とはいえ、これ以上走らせるのはどう見ても限界だった。
﹁僕は歩くよ﹂そう言って山内くんはペースを落とした。
当り障りのなさそうな話題をふる。
﹁そういえばこのへんだよね、河虎岩ってのは﹂
はっ、はっとせわしなく息をつきながら﹁⋮⋮ああ。橋から、見
える。大きな、岩だ﹂と切れ切れにむっつり直文が答える。
︵大きな岩。石田先生という人にも言われたな。﹁河虎岩というの
沢のプール
はんさ
に入った日のことだ。
は、ただの大きな岩だ。だが本当に危険だ﹂って︶
山内くんは回想する。数日前
沢のプールを子供だけで利用するためには、少々煩瑣なことだが、
許可を学校に得て着替え小屋の鍵を借りなければならないのである。
そのため子供たちみんなでわざわざ小学校の職員室まで行って許可
を得、入ったあとは鍵を返しに行った。
鍵を返したとき石田先生という人は、一行のなかの山内くんを神
経質にじろじろ見つめていた。やっぱり生徒のなかによその子が混
じっていると変かな、それとも夜に黒焦げ死体のそばにいたことで
いい印象を持たれてないのかな︱︱と山内くんは首をすくめた。だ
が、石田先生はかれを招き寄せて、紺と同じことを忠告したのであ
る。﹃先に言い忘れていたが、地元の人が避ける水場がある。君も
水辺で遊んどるなら近づかんように﹄と。
﹃あの大岩は、川床と岩の隙間に人を吸い込むと言われとる。⋮⋮
私は迷信は信じとらんぞ、これは合理的に説明がつくんだ。川床の
地形と、岩の下の空隙が大きいせいで、流れ込んだ水がそこで﹁横
に﹂渦巻く形になっとる。いったんその回転する水流に捕まれば、
134
簡単に岩の下から出てこれず、そこで溺れるというわけだ。
迷信といえば十妙院とよくいっしょにいるそうだな。あれは悪い
子じゃないんだが、吹聴してることはあまり間に受けんようにな。
あと⋮⋮ああ、その、夜に林であの恐ろしいものを見てしまった
ことで、君はいやな思いをしとらんか? 悩みがあればいつでもこ
の職員室に来なさい。私なら話をいつでも聞くぞ﹄
石田先生は顔をしかめつつも、山内くんにトラウマが生じていな
いかまで心配してくれた。思ったよりずっといい人のようだった。
︵水流の関係で危険な岩かあ⋮⋮紺なら河虎岩についてどんな説明
するのかな︶
どの道危険そうだから近づくつもりは微塵もないが。
そうこう考えるうちにちょうど橋の上にさしかかっていた。山内
くんは下流に視線を送る。
﹁例の岩はどのあたりなの、直文﹂
﹁⋮⋮あそこの淵だよ。黄色い大きな岩が川中にあんだろ。ほら、
河原に誰かいるとこの︱︱﹂
ふたりの歩みが、急停止した。
視線の先、河原に子供の人影がみっつある。中学生の制服を着た
ふたりが、小柄なひとりの肩をつかむようにして傍らに立っていた。
そばには、昨日見た自転車が二台あった。
︵なにやってるのマイタケ︶
やや遠かったが、この数日で友人になった少年を見間違えはしな
かった。
︵なんでアカオニアオオニにからまれてるの︶
﹁あいつら!﹂うなった直文が身をひるがえしてぱっと走り始めた。
河原に通じる道を。
紺を待ったほうが、と山内くんは一瞬迷ったが、けっきょく追い
すがった。前回は手を出すか迷っているうちに直文が傷ついたので
ある、もうためらうつもりはなかった。
﹁あっ、直文ー、山内くん!﹂
135
途中で見知った顔︱︱手を振る穂乃果が、土手道で犬の散歩をし
ているところに出くわした。直文が答えず顔をそらしてその横を駆
け抜けたので、穂乃果は傷ついた表情になる。出会ったのが大人だ
ったらよかったのにと思いつつ、山内くんは叫ぶ。﹁河虎岩の淵︱
︱河原でマイタケがからまれてる、だれか呼んで! 紺も後から橋
のあたりに来るはずだからっ﹂
言いのこして駆け抜けた。
土手の熊笹が切り払われた箇所から、河原の草むらへと、直文と
ふたりして駆け下った。マイタケの肩をつかんで揺さぶっていたア
カオニが、ぎょっとした顔になった。
しかしこちらに背中を向けたアオオニは、闖入者ふたりをふりか
えることなくマイタケに話しかけている。
﹁舞田といったか。おまえ、なんで猫を沈めるのはだめだって?﹂
﹁だめだからだよ。やめてよ。ぼくの罠でそんなことするのやめて﹂
半泣きのマイタケの声にかぶさるように、半狂乱の猫の鳴き声が
聞こえた。山内くんはもとより、復讐心に目をぎらぎらさせていた
直文すら、ぎょっとして鳴き声のほうを見た。
網でできたカニ罠に、ガムテープで前後の脚を縛られた猫が入れ
られている。すでに一度水に漬けられてから引き上げられたのか、
わら
その全身の毛並みは濡れそぼっていた。
アオオニは愉快そうに嗤った。
﹁ごめんな、おまえの網だなんて知らなかったよ。この猫をゆっく
り溺れさせてみようと岸辺に来たら、たまたま沈んでいたこれを見
せっしょう
つけて、ちょうどいいと使ってただけだが⋮⋮いいじゃないか? 網なんてどうせ殺生の道具だろ。
なあ舞田、おまえは蟹や魚をとってるんだろ。そして殺してる。
それと僕が猫を殺すことと、どこが違うのか言ってみろよ﹂
136
﹁ぼくはとった魚を食べてる。漁師のおじいちゃんに言われたとお
り、ちゃんと感謝してから命を頂いてるもの。あんたみたいに食べ
もしないものを面白半分に殺してるわけじゃないっ﹂
﹁ははっ。おまえ、魚を捕るとき楽しんでないと言えるか? それ
に殺される命にとってみれば、なんで殺されるかはどうでもいいと
思うぞ。死という現象があるだけだ。
だいたい僕だって、こいつらの命を無駄に潰してるわけじゃない
んだぞ?
わからなくてもいいが⋮⋮いや、いつも紺といるおまえらならわ
かるのか? できるかぎり苦痛を与えて殺すことに意味があるんだ
よ。そうすると攻撃的でいい式に仕上がるんだ。だから邪魔するん
じゃあないよ﹂
最後の一言を、肩越しにふりむいてアオオニは冷ややかに言った。
明らかに、山内くんを見つめていた。
山内くんはぞくっとした。アオオニの粘りつく視線に、︵こいつ、
もしかして僕のことを知ってるんだろうか︶と疑いを抱いたのであ
る。あの夜、林で出会ったのが初対面だと思っていたのだが⋮⋮
息を吸って、山内くんは踏み出した。
﹁青丹さん⋮⋮で、いいんですね﹂
﹁あはは、礼儀正しいやつだなあ! おためごかしはよして、アオ
オニと呼んでいいんだぞ?﹂
﹁⋮⋮じゃあ言いますが、猫を溺れさせて式を作るというのは⋮⋮
それに意味があったとしてもひどすぎる。それにマイタケが自分の
網を使われるのを嫌がるのは当然で、断ったら力で抑えつけようと
するのは筋がぜんぜん通ってません。
あんたたちのやってることはただの弱いものいじめにしか思えな
い﹂
聞いていたアカオニが唾でも吐きそうな顔になる。
﹁うざってえな、このよそ者。黙らせていいだろ、崇くん﹂
﹁待ちなよ、陽一。
137
おまえらさあ、猫がどれだけ小動物殺す生き物か知ってるか?﹂
アオオニは唐突に、話をそのような方向へ変えた。
﹁在るべき自然をどれだけ壊してると思う? 野良、あるいは外遊
びする飼い猫として、自然の中へ狩りをしにいくイエネコという種
がさ。
こいつらは必要なぶんだけ狩るわけじゃない。目につく獲物を殺
せるだけ殺す猫もいる。一部の飼い猫なんて餌をもらっているくせ
に、必要もない殺生三昧だぜ⋮⋮気晴らし、レクリエーション、面
白半分の﹃弱い者いじめ﹄をしてるのさ。
外国の話だけど、狩りが趣味の数匹の飼い猫のために、森から小
鳥の鳴き声が絶えたことがあるそうだぞ﹂
山内くんは耳をふさぎたくなった。話が不快だからでも、アオオ
ニの声音が耳ざわり悪いからでもない。その逆だ。アオオニの低い
声は穏やかで、美しい抑揚をもち、耳にからんでゆるゆると脳に染
み透ってくる。聞いていると心地よくて、その語る内容までも一理
あると思ってしまいそうだった。
﹁ふふ、でも狼がいた地域じゃあ話が別でさ︱︱そう、狼だよ。森
の最強の捕食者だ。
森に入って楽しく遊んでるような猫は、狼に追われて殺される。
生き残れる賢い猫は狼を警戒して、遊ぶような余裕は見せず、生き
るための狩りしかしなくなる。するとどんな影響がある? ほかの
森では猫のせいで数を減らしてた小鳥や小動物は、狼のいる森では
ごぎょうそうこく
はるかに多くの数を保てたんだ。
キヒツカミ
五行相剋、あるだろ? 山内邪鬼丸、おまえも五行の理論を知っ
てるよな? 森羅万象に木火土金水の属性あり﹂
ころ
微笑むアオオニが、ひとさし指と中指をそろえて突き出し、五芒
星を宙に描いた。
﹁水の属性は火の属性を剋す。
火は金を。
金は木を。
138
木は土を。
そうしょう
土は水を剋す⋮⋮ところで、水が火を剋すれば、天敵を抑えても
ころしわざ
いかしわざ
らった金は盛んになる道理だ。これは五行相生とはまた別の、生か
すための理だ。剋技は裏返せば生技だ。すべてはぐるぐる巡ってい
て、相互影響のないものはない。殺すことで、別のものが生きるこ
ともあるんだよ﹂
﹁知らないよ。そんな理論。何言ってるのかさっぱりだ﹂
思い切って突き放すように答えると、アオオニは面食らったよう
に目をしばたたいた。
﹁知らないわけがないだろ? おまえは祝部の分家の子だ、僕と同
じ存在のはずだ。
まあ、いい⋮⋮大切なのはこういうことさ。
狼が帰ってくれば、猫だろうと狐だろうと、森では勝手ができな
くなる。森はあるべき姿に戻る。剋と生のバランスがとれた繁栄す
る世界に。それは良いことじゃあないか? 僕はこの、バランスを
はふりべ
崩した明町という森において、帰ってきた狼になってやるつもりだ
⋮⋮新しい祝部に。
祝部を継ぐという目的のためには、猫だろうとなんだろうと、殺
生を厭ってられないんだよ。特に、おまえが消えてくれることが必
要なんだ︱︱祝部を継ぐ素質があるのは僕ひとりでいいんだ﹂
﹁⋮⋮あんたなにを言ってるんだ、本当に﹂
山内くんは不気味でたまらなくなってきた。遠回しに殺すと言わ
れた気がする。
ゆるゆるとアオオニは、山内くんに見せつけるように手印を組ん
だ。にぎった右手のひとさし指・中指を鈎状に曲げて突き出し、開
いた左の手のひらをその下に添える形。
﹁おまえの排除には、もっと時間をかけてもよかったけれど⋮⋮す
﹂
ぐそばに来てくれたのは、とてもとても良い機会だからな。始めよ
いざ参れ︱︱
うか。
139
みしめ
かむみたま
ひふみ
まじこと
︱︱御注連が内の 神霊 霊力身ゆだねて 蠱事ぞ成る
視界がぐらりと揺らいだ気がして、山内くんは戸惑った。かと思
うとアオオニの姿が眼下に沈んでいく。代わって青空が降りてきて
視界を埋め尽くした。
︵あれ。なにこれ︶
首をひねって横を見てみる。あっけにとられた様子の直文がこち
らを見てきているが、その姿はななめにかしいでいた。
︵これ、もしかして僕がうしろに倒れてない?︶
疑問を持った瞬間︱︱目が覚めた。
﹁うわあっ!?﹂
叫び、転倒寸前で山内くんは体をよじって足をふんばった。平衡
をとりもどし、心悸を急激にはねあがらせながらアオオニを見る。
︵妖しい術を使う。紺と同じだ︶
せっこん
一方、驚きに軽く目を見開いているのはアオオニも同じだった。
残忍な興奮がその目に宿った。
﹁そら見ろ、すっとぼけてやがった⋮⋮僕の摂魂術を一瞬で破った
な。
いいだろう、本気で術くらべしてやるよ﹂
アオオニは腰から竹筒を取り出す。かれは一歩を踏み出してきた。
山内くんも身がまえる。
︵来る︶
﹁おまえと僕のふたりにとって、しょせんこの世は蠱毒の籠だ。ど
っちが祝部の遺産を総取りするか︱︱﹂
だがそこで、アオオニの歩みも口上も中断させられた。
直文がだしぬけに突進してアオオニにつかみかかったのである。
高まる場の緊張に耐えかねたのか、積もった憎しみをこらえきれな
くなったのか、だれにとっても予想外の暴発だった。
まなじりを吊り上げた直文が、逆上して叫ぶ。﹁おまえらなんか
140
⋮⋮おまえらなんかっ!﹂かれは高いところにあるアオオニの胸ぐ
らをつかんでぐいぐい押す。それまで山内くんだけを見ていたアオ
オニは、面食らった様子で後ろによろけている。
その弾みに、アオオニの胸のポケットから、紐のついたなにかが
こぼれ落ちた。
地に落ちたそれを見た瞬間、山内くんは小さな叫びを漏らしかけ
た。
︵うそ、だろ︶
牙笛。
死体を見つけた日、暗い神社の夢のなかで無くしたはずのもの。
︵なんであれが︱︱︶
山内くんの混乱をよそに、直文とアオオニの揉み合いは乱闘へと
発展しつつあった。﹁何をする、このわきまえない阿呆⋮⋮!﹂腕
力はさほどでもないのか、アオオニは執拗に打ちかかってくる直文
に思いのほか手を焼いているようだった。おまけに、加勢しなけれ
ばと思ったのか、マイタケが走り寄ってアオオニの腰にむしゃぶり
つく。
だがそれで、ぽかんとしていたアカオニも我に返ったらしかった。
アカオニは大またに歩み寄り、マイタケを蹴倒すと、直文の後ろ
襟をつかんでぐいと引いた。
﹁馬鹿が。前よりこっぴどく痛めつけられないとわからないか、あ
あ?﹂
その粗暴な少年は嗜虐的に笑って、直文の後頭部へと固めた右こ
ぶしを振り下ろした。
危険な部位へのその一撃は、もしかしたらアカオニが意図したよ
り悲惨な結果を引き起こしたかもしれなかった。山内くんがかれの
眼前に飛びこんで、肘でこぶしを打ち落とさなければ。
アカオニはうめいて直文の後ろ襟を放した。
141
ダメージを受けた右こぶしを左手でつつみ、かれは驚愕したまな
ざしで山内くんを捉える。﹁てめえ﹂その顔色がどす黒く変わり、
唇がまくれあがってどすのきいた声が響いた。
﹁前歯が残ると思うなよ﹂
アカオニは踏み込んで腕を大きくぶん回した。その腕が、山内く
んの胴体をとらえた。
腕を上げてガードしたにもかかわらず、山内くんは横によろめく。
動揺する。想定していたよりも相手の力が強い。
間髪を入れずアカオニが殴りかかってきている。固めた防御の上
から二発三発四発と食らい、よろよろと山内くんは後じさる。
︵怖い︱︱まずい︱︱足止めたら不利なのに︶
乱打されているうちは防御を固めざるを得ず、自由に動けない。
息のつまるような恐怖にとらわれる。相手は大人ほどではないが、
体格と体重と筋力とリーチで勝る敵だ。
身体能力だけを見るなら、いちじるしい不利。
打撃の嵐に見まわれながら、しだいに山内くんの恐怖が際限なく
高まっていく。頭が怖れに塗りつぶされ、他のすべてが消し飛ぶ。
ファイト・オア・フライト︵戦うか逃げる
直文とアオオニのこと、牙笛のことすらも一時的に。
の選択を迫る。
本能が獣の理を︱︱
か︶
︵怖い。逃げたい︶
き
顔面に振り下ろされてくるこぶし。打ち上げるように腕ではねの
ける。
︵逃げたい︶
上腕をつかまれる。腕で巻きこんで瞬時にその手首の関節を極め
る。あわててアカオニが放す。
︵逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げられないなら︱︱やるしか
ない︶
攻撃する。
攻撃して、怖いものを自分の前から徹底的に排除する。
142
アドレナリン
くるんと、恐怖が赤い攻撃衝動へと反転した。
エネルギー
神経伝達物質が爆発的に血液中に放出される。肝臓に蓄蔵されて
いた糖がそれに次ぐ。
消化器官系の活動停止。反比例して全循環器系は活性化。
瞳孔は広がり痛覚は鈍り︱︱行動を迅速ならしめるよう脳と筋肉
に血液が集中し︱︱激しい運動に耐えうるよう赤血球生産速度は急
激に増加し︱︱傷を負った場合の血液凝固に要する時間は短縮され
︱︱
意識の攻撃性・残虐性が極端に高まることをもって、戦闘準備が
きょうとう
完了する。
血の狂涛が、人を獣と化す。
﹁なに縮こまってんだァ、ちょっとは殴り返してみろや!﹂
苛立った罵声をあげながらアカオニが中段の回し蹴りを放ってき
た。
交差させた腕で山内くんはそれを受ける。
︵じゃあ返す︶
アカオニの軸足へと、下段回し蹴りを叩き込んだ。
そのローキックはずしんと重く肉に響いた。アカオニの表情が苦
痛に大きく歪む。
アカオニがひるんでその圧迫がゆるむと同時に、山内くんは足元
を見下ろした。自分は川べりまで追い込まれている。しかしこの場
所は大きな石がごろごろしておらず、足元は丈の短い草むらになっ
ていた。これは足の自由を取り戻したかれにとって、敏捷性を活か
せる有利な条件である。
たちまち攻守がところを代える。
山内くんは前傾姿勢から一足でアカオニのふところに入る。跳び
込み突き︱︱地を蹴るのではなく重力を利用し、﹁力を抜いて倒れ
こむ﹂ことで加速移動する中距離技。アカオニの肝臓を強打する。
敵の打ち下ろしをはねのけてとびすさる。
ふたたび跳び込むと見せかけてフェイント︱︱アカオニが放った
143
右こぶしを正確にひたいで受ける。ひじに続いて硬い部位と衝突し
たその右こぶしが、ミシッと軋む。アカオニは今度は叫ばなかった
が、顔はやはり歪んだ。
後ろに、前に、左右に跳ぶ。
攻撃は突きが主体。足をつかまれないように蹴りは下段のみ。間
合いの外から跳び込んで突くことを繰り返す。敵の周囲を速いステ
がいわん
ップでめぐって幻惑する。当てては離れる、ヒット・アンド・アウ
ェイ戦術のお手本のような動き。
主な狙いは敵の胴体より手足。
敵の打撃を防御するときは強烈に、硬い部位︱︱外腕・ひじ・ひ
ざ・すね・ひたい︱︱で打ち払う。﹁柔﹂ではなく﹁剛﹂の受け方、
敵の拳脚にダメージを与えるのが目的の受け。攻撃の一部としての
防御。
ほどなくこぶしを腫れ上がらせて、アカオニは痛みで歯を食いし
ばりっぱなしになる。その攻撃の勢いは目に見えて衰えだす。
それに反比例して、山内くんの攻めは刻々と苛烈さを増す。
跳びかかっては獲物を咬み裂く狼さながらに。
● ● ● ● ●
﹁離れろと、言ってるだろうが!﹂
アオオニは、業を煮やして怒号を浴びせた。
かれは正面から執拗に打ちかかってくる直文に辟易していた。お
まけに後ろからは、友人たちの興奮が伝染したらしいマイタケが、
かれの腰にしがみついて動きを止めようとしてくる。
舌打ちを抑えきれなかった。アオオニはつかみかかってくる者の
あしらいに慣れていない。こういう役回りは陽一︱︱アカオニにず
っと任せてきたのだ。
直文に胸を打たれて息がつまる。
中学生と小学生の喧嘩である。急所以外なら、体格に劣る素人相
144
手に殴られたくらいで、中学生のほうが大きなダメージを負うこと
はまずない。⋮⋮が、いらつかないというわけではもちろんなかっ
た。
﹁うざったい⋮⋮!﹂
かれはようやく正面から直文をとらえ、思い切り突き飛ばした。
腰に抱きつくマイタケの髪をつかんで力任せに引き剥がす。
汗で前髪が貼り付いたひたいを袖でぬぐう。
こうしたことはかれの本領ではない。
かれの本領は︱︱
﹁いいかげんにしろ﹂
はねおきた直文をにらみつけて、アオオニはガーゼで覆っていた
竹筒の封を開けた。中から白い鼠が走り出る。それをすばやくつか
みとり、かれは、
鼠の頭を食いちぎった。
立ち向かってこようとしていた直文とマイタケが凍りついた。
ふたりにもはや目もくれず、アオオニは鼠の頭と、それにくっつ
いてきた脊椎と内臓の一部をぶっと吐き出す。べろりと舌なめずり
して血を唇に塗り広げつつ、川べりのほうで行われている争いに顔
を向けた。
山内くんとアカオニの一対一に。
145
アカオニアオオニ︿3 河虎岩﹀
川べりでの一対一は、ほとんど一方的な展開になりつつある。
アカオニはときおり獰猛な興奮を復活させ、雄叫びを上げながら
山内くんに急迫する。それにもかかわらず、場の主導権がその手に
ぐふう
戻ることはない。
山内くんは颶風のような勢いで、殴りかかるアカオニを迎え打つ。
打つ。攻撃をはたきおとす。打つ。かわして打つ。蹴る。はねのけ
る。さばききれず一発もらう︱︱衝撃と痛み、無視できる範囲︱︱
無視して殴り返す。
こぶしとこぶしが宙でぶつかる。小さい石のような山内くんのこ
ぶしの硬さに、歯の間から悲鳴を漏らしたのはまたもアカオニだっ
た。
スタミナ
山内くんは体格と体重と総合的な筋力と四肢のリーチで劣ってい
る。
その一方、小回りと見切りと技の精確さと運動持続時間と四肢末
端の鍛え方では、はるかに勝っている。すべて修練によって積み上
げたもの。
両手のこぶしを紫色に腫れ上がらせたアカオニはもはや殴ろうと
はせず、山内くんを捕まえようとしはじめる。押し倒して、地面で
の取っ組み合いにもちこむつもりのようだった。
あいにく山内くんは、打撃戦よりも、つかんでくる手をさばく技
のほうが得手である。
肩をつかまれたが、即座にひねってその手を外し、また一撃加え
る。
手首をつかまれる。逆に相手の手首関節を極め、激痛を与えなが
ら地面に転がした。
倒れた相手が立ち上がるのを待つ︱︱ということはなく、山内く
146
んはアカオニの顔面を蹴りあげた。くぐもった叫びを漏らし、アカ
けいけい
オニは地面で顔を押さえる。その指のあいだから冗談のようにどっ
と鼻血があふれた。
︵僕より怖がればいい︶
肩で息をしながら、山内くんは瞳を炯々と輝かせて血を見つめる。
︵怖がって、戦うつもりをなくしてしまえ︶
山内くんの攻撃衝動の根にあるのは恐怖である。敵を無力化する
まで収まらなくなっていた。
アカオニはあえぎながら、こぶし大の石をつかんで立ち上がった。
だが、それは最後の意地だったのだろう。かれは両のこぶし、手首
の関節、ふくらはぎ、太もも、足の甲、肝臓、胃と横隔膜、こめか
み、頬そして鼻に何重ものダメージを与えられ、大量の鼻血で呼吸
を乱し、立つのがやっとの有り様になっていた。その瞳の奥には山
内くんが意図したとおりに、的確にもたらされる痛みと実力差への
恐怖が生じはじめていた。
﹁てめえ⋮⋮ふざけ、んなよ、二歳下だ、ろ、なんで⋮⋮こんな⋮
⋮﹂
通常
ではない。幼いころから、命がかかっ
中学生と小学生。通常なら喧嘩にもならない体格差。
しかし山内くんは
ていると思いつめてきた。みずからの身を守る技の習得に膨大な時
間を費やす子供は、そうはいない。
もうフットワークは使わず、山内くんは弱った敵に正面から歩み
寄った。石を持ったアカオニの手が、近づくその頭を打とうと鈍く
みぞおち
持ち上がる。山内くんは振り下ろされたそれを難なくかわし、正拳
突きをかれの水月へと突き刺した。背中まで突き抜ける衝撃に、ア
カオニがくの字に上体を折る。だめおしに、鋼の鞭で打つに似た下
段蹴り︱︱アカオニの下半身の輪郭がぶれるほど思いきりぶちこん
だ。
それで終わりだった。
糸が切れたようにアカオニはくずおれ、腹を押さえて立ち上がれ
147
なくなった。しゃがんで顔を伏せたまま一方の手のひらを山内くん
に突き出し、弱々しくうめく。
﹁やめろ。やめろよ﹂
心が折れたとわかるその言葉が、トップドッグを確定させた。
山内くんは追撃をやめて数歩下がった。
︵これ以上やれば、弱いものいじめになってしまう︶
呼吸を収めようとしながらアカオニを見下ろして言った。
﹁もう僕らに一切かかわらないでほしい。直文やマイタケたちにも﹂
﹁ところが、そうもいかないんだよ﹂
粘っこい声がかけられた。
山内くんは横を見る。
薄笑いしたアオオニがかれに竹筒を向けていた。
その足元には、白い鼠がいた。中型犬ほどの大きさの体躯のそれ
を、鼠と呼べるのならだが⋮⋮それ以前にそいつには頭部がなかっ
た。首には、鮫に食いちぎられたかと思うような無残な肉の断面を
のぞかせている。
なのに動いている。尻尾をミミズのようにうねらせ、体を震わせ
ている。
せわしなく身動ぎする首なしの巨大鼠からは、強い苦痛と怒りの
波動が伝わってきた。首の断面からは黒い血がおびただしく流れ、
神経や血管の束が出たり引っ込んだりしていた。
︵あ。これ、この世のものじゃない︶
固まっていた山内くんが弾かれたように体ごと向き直ったとき、
はや
にわかに首なし鼠は突進してきた。
人ではありえない捷さに、反応する間もなかった。
胸へ体当たりされる。かろうじて腕を交差させて身を守ったもの
の、後ろにふっとばされた。ふんばろうとした足元が、岸の土を削
ってずるりと滑った。
あっと思ったときには水中にいた。
山内くんは川へ突き落とされていた。深い淵。足が立たない。冷
148
みなわ
静さが保てず、思考が周囲の水泡のごとく乱れる。
︵油断した︱︱アオオニのほうが危険だとわかってたのに︶
︵泳がないと溺れる︶
︵なにこれ、水が速い、重い︶
⋮⋮なにか奇妙だった。
山内くんは動きにくいことに気づく。いくらジャージを着たまま
水中にいるからといっても、ここまで体の自由がきかないものだろ
うか?
ましてや、これだけ深い淵なのだ、通常は流れはもっとゆるやか
になるはずである。それなのに水流は無茶苦茶なほどかれの体をき
りもみにしてくる。水の中で自身の体を見下ろして、山内くんは目
を見開いた。
数十本もの青白い手⋮⋮指一本ほどの太さしかない手がたくさん、
かれの体を捕まえて転がしていた。
このとき、淵の流れは明らかに渦を巻き始めていた。浅い下流に
行くこともできず、ぐいと底の方へ引かれ、山内くんはごぼりと口
から気泡を吐く。
︵水面に上がれない!︶
かれをつかむたくさんの手は、暗い川床のほうから伸びてきてい
た。正確には、巨大な神体のごとく鎮座する黄色い岩の下、その暗
がりから⋮⋮
河虎岩。
山内くんはアオオニの狙いを理解した。最初から、かれを川に落
とすつもりだったのだと。
︵岩の下に引き込まれる︱︱︶
うなぎ
全身の血が急冷した。焦って大量の細い腕を引き剥がそうとする
⋮⋮が、人につかまれているのとはわけがちがい、その腕は鰻か藻
かというぬるぬるした手触りで、つかんでもすべるばかりだった。
息ができない苦しさに、頭がガンガン鳴りはじめ、また底へ引かれ
⋮⋮
149
どぼん。
だれかが間近に飛びこんできたのはそのときだった。白く細かい
大量の気泡が、山内くんのそばで柱を作った。
その柱の向こうから、口を真一文字にひきむすんだ紺が現れた。
彼女はぴったり山内くんに密着し、羽交い締めで捕まえ、立泳ぎ
で水上へと浮上した。
ようやく顔を水面に出せた山内くんは激しくあえぐ︱︱が、下か
ら強く引かれてまた頭が沈んだ。肺に水が流れこみ、むせるとまた
水が入ってくる。あまりの苦しさにかれはパニック状態になりかけ
る。紺がぎゅっとかれを胸に抱き締めて暴れることを封じる。
はやかわ
ま
きこ
紺は必死な声で叫んだ。
かたしろ
﹁速川の瀬に座す神よ聞し召せ! 身供えの形呑みて鎮まれ、この
形代に穢れあらんや!﹂
口から上をかろうじて水面に出してむせこんでいる山内くんは、
苦しさのなかでその光景を見た。
河虎岩を中心に大渦を巻く淵の波間に、白い紙片が一枚漂ってい
ひとがた
た。
人形をしたその紙片は渦の中心でぐるぐると回り、とつぜんヒュ
ッと沈んだ。明らかに、水面下にいた何かに引き込まれての消失だ
った。
同時に体が軽くなり、山内くんの顔はようやく完全に水面に出る。
﹁山内、水神が、身代わりを受け取ったから、もう大丈夫、だ。暴
れるなよ﹂
紺に諭され、山内くんはむせこみながらもおとなしくする。溺れ
る危険は去った。
息を継いでいる山内くんを、紺は抱えたまま引いていく。青ざめ
ていた直文やマイタケ、それに紺を呼んできたらしい穂乃果が、ふ
たりに手を伸ばして岸に引き上げた。
150
﹁アオオニぃっ!﹂
岸に上がるや、荒い息のまだおさまらぬうちに強烈な怒声を紺は
放った。憤怒に燃え上がりそうな目で河原を見回す。
﹁逃げたよ、あいつら。自転車に乗ってさっさと消えた﹂
マイタケがため息をついた。
紺は歯ぎしりする。
﹁あのクソ野郎、式神をけしかけて本気で人を⋮⋮山内を殺そうと
した! 頭おかしい﹂
﹁げほっ、こ⋮⋮紺﹂
山内くんは四つん這いで水を吐きながら、紺に告げた。
﹁あいつ⋮⋮僕を知ってた。僕を狙ってたようなことを言った。も
しかしたら、あいつが僕を呪詛していたのかも⋮⋮﹂
怒り狂っていた紺が体ごとかれをふりむいた。﹁確かなのか⋮⋮
いや﹂彼女は左の手のひらに右のこぶしをぱちんとぶつけて気炎を
上げた。
﹁それがほんとかどうかは、ぶちのめした後で本人に確かめればい
いや。今日のことで話がすっっごく簡単になった。
アオオニには、術者として対応してやる。
ここまであいつはやらかしたんだ。二度と術を悪用できないよう
にお灸すえることを、楓だって止めやしねーだろ﹂
﹁待って、紺⋮⋮﹂山内くんは手をあげて制止する。﹁それだけじ
ゃない。あいつ、牙笛を、持ってたんだ。僕が夢のなかで落とした
はずのやつを⋮⋮﹂
息巻いていた紺がぴたりと止まった。彼女は眉を寄せた。
﹁⋮⋮なにー? ちょっとまて、闇宮の夢だよな?﹂
神かくしに関係するかもしれない、あの夢の。
そうたしかめる紺に、山内くんはうなずいて、離れたところの地
面を指さした。アオオニのポケットからこぼれおちた牙笛がまだそ
こに転がっていた。
紺はしばし黙る。彼女は濡れた前髪をかきあげるように押さえて、
151
しずくを切りながら﹁まいったな﹂と漏らした。
﹁そうなると話がだいぶこんがらかってきてんだけど。アオオニが
おまえと同じ夢のなかに行ったってのか? ⋮⋮まさかあいつが神
かくし事件の犯人とかじゃねーだろな?﹂
﹁あの、紺ちゃん。いろいろ考えるのはいいんやけど、その前に注
意しいな﹂
穂乃果がタオルを紺に押し付けた。
﹁さらしゆるんどるやん。濡れた服が肌にぺっとり貼りついとるよ。
割とスケスケで﹂
電光石火で紺がしゃがんだ。胸を触られたときのようにひざに顔
を埋めてぷるぷる震えはじめる。
男子組は慌てて河原から移動。
河虎岩には荒ぶる水神が宿っているのだと、あとから山内くんは
紺に聞いた。
152
嵐の前の
アカオニアオオニと乱闘した翌日。
十妙院家の庭では、朝からどたばたが始まっている。
﹁待ちなさ︱︱い紺っ! 蔵の鍵を返しなさい!﹂
﹁楓こそいいかげん蔵入るの認めてくれってば! ちょっと探しも
のするだけだって! こっちはあのぽっきり折れた刀借りるだけで
なかおれこぎつね
いいんだよ!﹂
﹁﹃中折小狐﹄は蔵の中にあるものでも第一級の呪具よ大馬鹿者っ
わけみ
!? 勝手に外に持ちだされてたまりますかっ! 止まりなさい!﹂
騒がしいのは当然である。
﹁待たないかコラぁ! 紺、いいかげんに分身の術を解きなさいっ
!﹂
紺が何人も走っていた。
数人の紺はイタチのようにするすると、木々や池の回りを走って
逃げている。
その後ろを、すそをからげて真っ白い脚をむきだしにした楓さん
が、怒涛の勢いで追っていく。楓さんはうろちょろ逃げ惑う娘﹁た
ち﹂をひとりずつ捕まえるが、それが手の中で符に変わるのを見て
歯ぎしりしながら破り捨てている。
呆れながら山内くんは母娘の追いかけっこを見ていた。前を走り
抜けかけた楓さんが立ち止まってすまなさげに微笑む。
﹁うるさくしていてごめんなさいね山内くん。ところで、君の見鬼
でどれが本物のバカ娘かわかるかしら?﹂
﹁符の分身に庭を駆け回らせておいて蔵をこっそり開けようとして
ます﹂
山内くんが庭の隅にある蔵のほうを指さすと、錠前に鍵を突っ込
もうとしていた本物の紺が﹁裏切り者!?﹂と叫んだ。
153
くるりと身を返した楓さんがすっとんでいく。
そこから紺が追い詰められるのは早かった。ほどなく、逃げ場に
窮した彼女は苦し紛れに松にのぼりはじめた。
﹁紺、降りてきなさいっ、危ないでしょっ! それに、ああもう、
こんなところをご近所の皆様に見られたら⋮⋮家の恥というものも
考えなさい!﹂
﹁そんな大した家かよっ、流れてきた歩き巫女が雄の化け狐酔わせ
て逆レ×プしたのが起こりの家じゃん!﹂
やぶれかぶれの紺が松の幹にとりついたまま叫んだ。
ぞうごん
とたん羅刹の相となった楓さんが、紺と同じように火を口からぶ
わっと吐く。
﹁この小娘、ほざくにことかき始祖に対して、なんという雑言を⋮
⋮! なぎなたでそこから叩き落としてやろうか!﹂
怖い。はたで見ている山内くんはぶるぶる震える。
数分後、楓さんは山内くんに花が咲くような笑顔を向けた。その
一見して華奢な肩には、大量の符でぐるぐる巻きにされた紺がかつ
ぎあげられている。頭にたんこぶを作ってぴくりともしない。
﹁協力してくれてありがとう山内くん。ところでわたくし、今日は
ちょっと遠方からの依頼で出かけなければならないの。一泊してき
ますから、このどうしようもないじゃじゃ馬をよろしく﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁昨日のことは聞きました。青丹家の跡継ぎのことも⋮⋮。紺がい
かげばり
る以上滅多なことはないでしょうが、念のため護身の符をあなたに
渡しておきます。かれの蠱毒や陰針程度は払いのけられるはずです。
それにしても、困ったことになったわね⋮⋮﹂
憂わしげに眉をひそめて、楓さんは言う。
﹁紺はかれをみずからの手で処分したがっています。その望みは叶
うでしょう。わたくしの母は、おそらくそれを許可するはず﹂楓さ
てんびん
んは、﹁困ったこと﹂ともう一度言ってため息をついた。
﹁なまじこの子が天禀を持っているせいで、母はこの子を試したが
154
あけだまひ
るの。おそらくわが家の祖である霊狐の血が強く出たのでしょうけ
れど﹂
﹁そう⋮⋮なんですか﹂
﹁ええ。親の欲目ではないのよ⋮⋮この子は霊力の塊である秘火、
はらえ
すなわち狐火を生まれたときから吐いていたわ。三歳で符術を使い、
ことば
くけつ
五歳で数十種の印を結ぶようになり、七歳になるころには呪歌や祓
詞、わが家が伝えてきた口訣をことごとくそらんじていたわ。
おご
いまのこの子の術の技量は、わたくしが成人したときと同等にま
で達している。もう数年でわたくしを抜くでしょう。
︱︱けれどそれが、心配の種なの﹂
さらに深いため息。
﹁この子はいい子よ⋮⋮でもなまじ才が早熟だったために、驕って
しまっている。
どれだけ腕に自信があろうと、術くらべというのは慎重に準備し
て臨まなければならないこと。わたくしや母に相談もしないうちに
この子が先走るのは認められません。
君には、この子が無茶をしないように見ていてほしいの﹂
山内くんはうなずいた。楓さんのその心配が理解できたのである。
︵﹃どれだけ腕に自信があろうと﹄︱︱師範もそう言ってた⋮⋮胸
を張ってそっくりかえる者は、足元をすくわれたらたやすく倒れる
って︶
素人目にも、紺の術は尋常なレベルではないとわかる。なのに、
山内くんは彼女を見ていてどこか危なっかしく感じるときがあるの
だ。何度も助けられているかれがそれを言うのは滑稽かもしれなか
ったが。
紺を連れてパパの実家に戻った山内くんが昼食の用意をしている
と、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、汗だくになってふうふ
155
う息をつくマイタケが、クーラーボックスを手に立っている。
﹁ごめんね、山内くん﹂
玄関先で謝罪されて、エプロン姿の山内くんは困惑する。
﹁あの⋮⋮よくわからないんだけど、なんで謝るのマイタケ﹂
﹁だって昨日危ないところだったじゃないか、きみ。河虎岩の淵で﹂
たしかに死にかけた。だがそれはアオオニのせいである。山内く
んはますますわけがわからなくなる。が、マイタケが口ごもりなが
ら続けた台詞でかれの言いたいことを把握した。
﹁紺に警告されてたにもかかわらず、ぼくが河虎岩に近寄って、カ
ニ網しかけてたのが発端だもの⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あー﹂
それがなければオニどもがあの淵で網を見つけることはなかった
だろうし、網を見に行ったマイタケが猫殺しを制止して絡まれるこ
ともなかっただろう。山内くんたちがその現場を目撃して駆けつけ
ることも、乱闘になることも、アオオニが山内くんを淵に追い落と
すことも起きなかった。そのように考えてマイタケは思い悩んだよ
うだった。
山内くんは手を振る。
﹁別にいいってば、そんなのまで君の責任じゃないよ。⋮⋮なんで
紺の警告破ってまであんなとこに網仕掛けてたのか不思議ではある
けど﹂
﹁そりゃいっぱい網に入るからだよ﹂
マイタケは一瞬のちゅうちょもなく答えた。真顔である。
﹁⋮⋮そうかい⋮⋮﹂
あ、この子絶対漁やめないな、と山内くんは悟る。
﹁だって山内くん。人が立ち入らない場所って、やっぱり魚多くな
るし警戒も薄いからよく捕れるんだよ。淵に入らず網沈めるだけな
らいいんじゃないかって思ってさ。
⋮⋮そのせいで巻き込むことになってみんなに悪かったと思って
るのはほんとだよ?﹂
156
﹁そう思ってるなら金輪際河虎岩に近づくなボケ﹂
ゲームをしていた紺が居間から出てきてマイタケをにらみつけた。
マイタケが恐縮した様子になり、首に巻いていたタオルで汗を拭く。
﹁そうだね、もうあの岩のとこで魚捕るのはやめとくよ。今回のこ
とじゃみんなに迷惑かけちゃったからね﹂
﹁迷惑とかじゃなくて危険⋮⋮ああもうなんでもいいや、近づかね
ーなら﹂
紺は重ねて注意しかけたが、すぐ投げやりな調子になった。山内
くんはマイタケにうなずく。
﹁それがいいと思うよ、マイタケ。あそこほんとに危ない場所だも
かまち
の。ところで、これなに?﹂
上がり框に置かれたクーラーボックスのことを聞いてみる。
開けてみりゃわかるじゃんと紺が言ってかがみこみ、留め金を外
しはじめた。ふたが開くと、笹の芳香が冷気とともにあふれ出てく
る。
﹁じいちゃんがさっき川で釣ってきたんだ。お詫びの品というか、
おすそわけというか、そんな感じだよ﹂
マイタケが説明し、紺が目を輝かせた。
﹁わはっ♪﹂
保冷剤のうえに笹の葉が敷きつめられ、鮎が十二尾並べられてい
る。
塩を振ってグリルで焼き、昼食に添えた。やや小ぶりだが香ばし
い脂がたっぷり乗った鮎だった。大半は夕食に回す。
食後、山内くんはコーヒー豆を挽きはじめる。
ロースト
黒い鉄と赤茶色の木でできたコーヒーミルに、自分で浅煎り気味
に焙煎した豆を投入。取っ手を回すとコリコリといい手応えととも
に豆が粉になってゆく。新鮮な豆の甘く香ばしい薫りが投入口から
157
たちのぼる。かれは上機嫌で鼻歌を唄った。
﹁楽しそうじゃん。それ面白いの? ちょっとやらせろよ﹂
横から紺がミルに手を伸ばす。
﹁だめ﹂
山内くんはテーブル上のミルを横へスライドさせて避けた。豆を
挽く手は止めていない。
﹁なんでだよっ﹂
﹁粉の大きさ揃えるために、最後まで一定の速さで挽かなきゃなら
ないから。なんか紺、飽きたら適当にやりそうだし﹂
﹁⋮⋮昨日おまえが溺れそうなとこ助けてやったじゃねーか。なの
にその言い草かよっ。今朝は裏切ったしさ!﹂
﹁だからこうしてお礼にコーヒー淹れるんじゃないか。いちばん美
味しい状態で出したいんだから、座って待っててよ﹂
むーとむくれる少女に対し、山内くんはすげなく対応する。
もちろんかれは紺に感謝していないわけではない。ただ、コーヒ
ーにはこだわりがあるのだ。
コーヒーを淹れるのとはまた別のところで、いつかきちんと借り
を返そうと山内くんは思う。
沸騰させたコーヒー用ポットの湯に水を差して、湯温を九十度ま
で下げる。
カップにドリッパー、ドリップ用紙、挽いた豆をセット。最初に
お湯をわずかに注いで蒸らす⋮⋮新鮮な豆の粉が、ドームのように
丸く膨れあがってゆく⋮⋮ドームの周縁部を避けてふたたび湯を注
ぎはじめた。豆の味を壊さないように、一定量でちょろちょろと。
︵﹃ていねいに、粉の上に円を描くように﹄⋮⋮︶
山内くんはコーヒーの淹れ方を特訓してきた。それをパパ以外の
だれかに打ち明けるのも、飲ませるのもこの日が初めてだった。
緊張をおさえこみ、真心をこめて丁寧に淹れる。
﹁入ったよ、紺﹂
着席して頬杖をついていた紺の前にカップを置く。イタダキマス、
158
と紺は青い火の乗った息でふーふーコーヒーを吹く。そして一口含
み、
﹁にがぁぁっ!﹂
思い切り顔をしかめた。
﹁おい山内、これ苦っ⋮⋮! ミルクと砂糖が超欲しーんだけど!﹂
かくて山内くんの真心よりも砂糖のほうが調味料として優秀であ
ることが証明された。傷ついた山内くんはブラックコーヒーの利点
について力説する。
﹁あのね、なんの混じりけもないブラックだからこそ純粋な味の良
し悪しがわかるんだよ﹂
﹁オレの舌にわかるのは良し悪し以前にこれが悪魔の汁みてーに苦
いってことだけだ﹂
このお子様舌! と罵りたくなっても実際に子供なのだから仕方
悪魔
がない。正直なところを告白すれば、山内くん自身もまだまだカフ
ェオレのほうが好きであった。
はクリーミーな優しい味の汁になった。
というわけで琉球黒糖と高脂肪牛乳が容赦なく投入され、
の汁
﹁うん。これなら美味しー﹂
カップを両手で持ってすすりながら、紺は﹁にしてもなんでコー
ヒーの特訓なんてしてんだ? 趣味?﹂と聞いてきた。
山内くんはちょっと口ごもり、ややあって恥ずかしげに告白した。
﹁⋮⋮パパの仕事がさ、ほら﹂
﹁ほらって言われても。そういや知らねーや﹂
﹁喫茶店のマスターなんだ﹂
イタリアンバールでバリスタをこなした経験もあるパパは、コー
ヒーを淹れるのが抜群にうまい。
山内くんの漠然とした夢、だが昔からの夢は、パパのようになる
ことだ。物心ついてすぐ、かれがコーヒーの淹れ方を練習しはじめ
たのは必然だった。が、パパ本人に﹃おまえの歳じゃあまだカフェ
インの味を追求するのは早えよ。練習するのはほどほどにしとけ﹄
159
とたしなめられたこともあって、自分で淹れて飲むのは一日一杯ま
でである。ドリップコーヒーはカフェインがとくに濃く出るので子
供はあまり飲めない。
﹁来年⋮⋮中学生の夏休みからは、パパの喫茶店で手伝わせてもら
えることになってるんだ。いつかは僕も、美味しいコーヒーを人に
出す職業についてみたいなあって﹂
向かいの席に座って弾んだ声で語る山内くんを見て、紺は﹁ふー
ん﹂と関心薄そうに聞いている。しかし、そっけなく見えても聞き
流しているわけではないらしかった。彼女はカップを置いてから言
った。
﹁おまえって、おじさんのことほんとに好きなんだな﹂
﹁いや、それは⋮⋮別に⋮⋮﹂
ファザコン気味の自覚はあるがそれをおおっぴらに認めたくはな
い。山内くんはごにょごにょ口ごもって否定した。だが紺は茶化す
こともなく、
﹁チチオヤってよくわかんねーけど。そんなにいいのなら、ちょっ
とうらやましいや﹂
︵あ︶
紺には父親がいないことを山内くんは思い出した。山内くんのマ
マと同じように、物心つく前に死別したという。
ただ、紺の表情にはかすかな憧れと興味があるだけで、悲嘆や自
己憐憫は微塵もない。それで気が楽になり、山内くんは答えた。
﹁紺には⋮⋮頼もしいお母さんがいるじゃない﹂
﹁楓ぇ? まー、楓はなー⋮⋮厳しーしガミガミ言うしすぐ拳骨落
としてくるし、雷親父っぽいとこはあるな。むしろ母性が足りてね
ー﹂
それは君に原因があるのではと山内くんは思った。
﹁それと、あとな。さっきの話聞いてさ﹂
せきりょう
紺は、カップのカフェオレに目を落とした。長いまつげを伏せた
彼女の顔が、つかの間寂寥を帯び、山内くんはなぜかどきりとする。
160
﹁おまえって、普通の夢持ってるんだなって感じた。
こっちの
あ、馬鹿にしたんじゃねーぞ。将来やりたいことがあるなら、無
理に普通でない生き方に引っ張り込めねーなって⋮⋮思ったんだ﹂
﹁⋮⋮ごめんね。ほんとにその気はないんだ﹂
﹁ちぇ。弟子持ってみたかったのに﹂
軽く拗ねたように紺はつぶやき、ぐいと一息でカップをあおる。
ふたたび山内くんに向けられた彼女のまなざしは、真剣な、若い
術者のものだった。
﹁山内。アオオニの件はもうすぐ片付く。
おまえに呪詛をかけていた術者の正体があいつなら、これでおま
えの問題も解決する﹂
表情を引き締めて山内くんも﹁うん﹂とうなずく。
﹁アオオニの処分が終わったら、おまえの見鬼も封じられることに
なる。
封じたのち、生涯その封は解くなよ。二度目の封印はできないん
だ⋮⋮常人の目には戻れなくなるからな﹂
﹁わかった﹂
うなずいたのち、山内くんは懸念を示した。
﹁でも、大丈夫なの? 君たちはアオオニに︱︱﹂
きょうまん
﹁︱︱勝てるか、って? それは余裕だ、たぶん﹂
それは楓さんが朝に言った紺の悪癖、すなわち驕慢のあらわれだ
ったのだろう。けれども、同時に単なる事実を指摘する口ぶりでも
あった。
﹁アオオニはどうやら正式な術者じゃない。
この道に入るには、本人の資質が第一。でもそこから先、大成す
るには独りじゃ難しい。我流の術者が、きちんと系統だった術理を
学んだ術者に勝ることはまずねーよ。こっちは、オレの先祖が何代
もかけて蓄積してきた術や呪具を利用できる。
対してアオオニは孤立無援だ﹂
外法の術者に正式というのも変だけどな、と紺は皮肉って、それ
161
から言い切った。
﹁楓やお祖母様が出る必要もない。アオオニはオレひとりで片をつ
ける﹂
﹁そうは言うけど、紺。かれにはまだつかみきれないところがある
よ。牙笛を持っていたじゃないか。ひょっとしたら殺人犯かもしれ
ないんだ﹂
﹁たしかに。それは気にかかる。あっちはあっちで祝部の古い力の
一部くらいは使えるのかもしれない﹂
紺は認めた。
よはしひれ
ますかがみ
﹁だから、いろいろうちの蔵から持ち出させてもらうつもりだった
のさ。中折小狐や酔比礼、十斗鏡といった十妙院の宝があれば、多
少の奥の手をあっちが持ってようと問題にはならないはずだ。
まあ見てなって﹂
162
嵐の前の︿2 おからす様﹀
﹁山内。ちょっとオレ出かけてくる﹂
昼下がりになって、紺は庭先に声をかけた。
十妙院家の庭園に比べるとこぢんまりした庭で、山内くんはジャ
ージを着て型の演武をしている。上段回し蹴りをぴたりと止めた少
年は、汗をぬぐいながら、彼女にけげんそうな目を向けた。
﹁⋮⋮自分ちの蔵に忍び込みにいくの? きちんと楓さんに許可と
ったほうがいいと思うよ﹂
﹁ちげーよっ。鍵持ってかれちゃったし、そっちは楓が帰ってくる
まで諦めてるよ! そうじゃなくてアオオニの行動についてよく知
ってる人がいるから、話を聞きに行くんだよ。小学校までな﹂
﹁あ、僕も︱︱﹂
ソレ
﹁いや、自転車でさっと行って帰ってくるから。オレひとりでいい
よ。おまえは気にせず稽古やってな﹂
﹁⋮⋮あの、でも、それだと僕ひとりでこの家に残ることになっち
ゃうんだけど﹂
山内くんの表情に不安の影がきざすのを見て、紺は呆れた。
﹁なんだよ、すぐ戻るって。おまえ楓から護身の符もらってるだろ
? なにかあっても少しのあいだなら保つ。だいたいなぁ、腕っ節
強いくせに度胸が足りてなさすぎだろ、おまえ﹂
﹁しょ⋮⋮性分なんだからしょうがないだろ﹂
﹁おまえってなんだかアンバランスなとこあるよな﹂
きまり悪そうな表情になった山内くんをしげしげと見ながら、紺
はそう評した。
163
木造の小学校校舎の職員室では、古いエアコンの音に混じって苦
い声が響いていた。
﹁事情はわかったが、十妙院。溺れた人を助けるために自分も飛び
込むのは危険だ、と体育の授業で教えただろうが﹂
パイプ椅子に深く腰かけた石田先生は渋い顔をしている。くどく
ど説教され、立ったままの紺はうつむいて聞き流しはじめた。
︵めんどくさいことになったなぁ︶
どうやら河虎岩の淵に飛び込んだところを橋の上から見ていた人
がいたらしい。それが小学校に連絡されたようで、顔を職員室に出
すなり紺はそのことについて詰問されたのだ。説明した結果がこの
説教というわけである。
﹁まったく⋮⋮だれかが溺れたときは、岸から長いものを投げて溺
れた人に掴ませるんだ。ロープのようなものがなければみんなで服
を脱いで袖やすそを結び合わせてだな⋮⋮それとすぐに大人を呼び
なさい﹂
紺は反論したくなった。
あのとき、服を結び合わせている時間などなかった。彼女が意を
決して淵に飛びこみ、山内くんを水面にとどめなければ、水神に目
ひとがた
をつけられたかれは底に引きこまれていただろう。とっさに撒いた
身代わりのための人形紙片も間に合わなかったはずだ。
だがそういうことを言っても石田先生には通じるまい。迷信のた
ぐいはいっさい信じないことを公言している人なのである。
︵自分もこの明町の出身のくせに、こういうことにはアタマ固いん
だもんなー︶
やや苦
な人物であった。たぶん向こうもそう思っているだろう、問題
紺にとってこの眼鏡の教師は、べつだん嫌いではないが
手
はないが付き合いにくい子だと。
﹁⋮⋮言っておくがな、十妙院。先生は、おまえが人助けをしたの
は良いことだと思っているんだぞ。方法が感心せんだけだ﹂
とってつけたように石田先生は言い、直後に顔を嫌悪に歪めた。
164
あおに
あかしま
﹁それにしても⋮⋮青丹に阿嘉島か。あのトラブルメーカーどもは
ほんとうにどうしようもない﹂
紺と石田先生は、ひとつだけ認識を共有している。
アカオニアオオニを嫌うという一点で。
︵やっと本題に入れそうだ︶
紺はこの先生に会いに来たのである。アオオニについてよく知っ
ている人︱︱それはまさしく石田先生だった。長年生活指導を行い、
地域の青少年保護活動にもたずさわってきたベテランの教師。ボラ
ンティア補導員も兼ねているため、これまでオニ二人にさんざん迷
惑をかけられてきた人。
﹁石田センセ。あの二人をたまに補導することあるよな?﹂
﹁あ? ああ。どちらも問題児だからな﹂
﹁あいつらがどこ行ってどういう悪さしてるのか教えてもらってい
い?﹂
石田先生はまじまじと紺を見つめた。疑惑が銀縁眼鏡の奥の瞳に
浮かんだ。
﹁そんなことを聞いてどうする、十妙院。あんな連中となどつきあ
うな。感化されていいことはないぞ﹂
その余計な警告は紺をいたく憤慨させた。
﹁ちっげーから! なんだよそれっ、あんなやつらとつるむわけね
ーだろ!﹂
﹁じゃあなんでそんなことを知りたがる﹂
﹁それは、えーと⋮⋮そうだよ、アカオニのやつが穂乃果のビー玉
盗みやがってたんだよっ。オレたちの仲間だって被害にあってんだ、
今後避けるためにもあいつらの行動パターン知っといて悪いことな
いだろ﹂
苦しい説明だったが、予想外の助けが入った。奥の机で事務作業
していた初老の女性教諭が、﹁あら﹂と顔を上げた。驚いた顔をし
ているその女性は穂乃果の組の担任である。
﹁大浜さんのビー玉のこと? 没収したあと紛失してしまったとは
165
聞きましたが、そんなことになってらしたんですか、石田先生?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
石田先生は苦り切った表情になっていた。紺をちらりと見てため
息をつく。
﹁そうか、阿嘉島が。うすうすそうではないかと思っていたが。
あいつを隣町で補導した夜に、ポケットのなかに入れていたもの
をあいつにごっそりすられたようだな。ちょうど大浜から校則違反
で没収した日だった。まったく⋮⋮あの手癖の悪さは教師では更生
させようがない。もうこれはカウンセラーの役割だ﹂
穂乃果のビー玉がどういう経緯をたどってアカオニの手に渡った
のかは明らかになった。だが、紺にとって、本当に聞きたいのはア
カオニのことではない。
﹁隣町?﹂黒焦げ死体となっていた高校生が消えた場所。﹁⋮⋮セ
ンセ、そんとき補導されたのはアカオニだけか?﹂
その情報こそ、紺が知りたいことだった。彼女ははやる気持ちを
抑えて問い詰める。
﹁アオオニのやつが一緒にいたんじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮まあな﹂
﹁アオオニはよく隣町に行くのか?﹂
根負けしたように、石田先生はしゃべりはじめた。
﹁あいつはあちこちに出向く。主に深夜から早朝にかけてだが⋮⋮
小学生のころから無許可で校区外をぶらつくやつだった。二度ばか
り、姫路市で補導されたことすらある。
万引きや喧嘩を行う阿嘉島と違い、猫や鳩を殺す以外、さほど目
立つ問題を起こしてはいないが⋮⋮これまで、あいつを補導した現
場近くでは、事故や火災が起きて重傷者が出ていることが多かった。
あいつはいつもその様子を見ている。他人の不幸をのぞき見る趣味
なのだろうかね﹂
嘆かわしげに石田先生は言うが、紺は︵違う︶と確信していた。
アオオニは事故や火災に寄っていくのではない。おそらく面白半
166
分に術を試しているのだ。
︵アオオニは隣町に出て行く⋮⋮呪いを振りまいてる⋮⋮姫路市に
まで行ってる。姫路の山内のアパートは、原因不明の火災に遭った
んだったな。確定か?︶
ありがとセンセと礼を行って、紺は外に出た。
来た時には肌に痛いほどだった夏の西日がかげっていることに気
づく。空に入道雲が広がっている。大気は湿ってむっとこもり、雨
のにおいがただよってきていた。
急いだが、山内家への帰路の途中で夕立に降られた。
玉砂利が打たれてはねあがるほどの豪雨で、自転車を飛ばしたの
に、ものの数分で完全な濡れ鼠である。
﹁うえー⋮⋮昨日に引き続きまたぐっしょりかよ⋮⋮﹂
自転車を山内家の軒下に止め、紺はぼやいた。肌にぺとっと貼り
付いたTシャツの胸元をひっぱり、頬にわずかに朱を散らす。
︵山内に見られる前にさっさと着替えよ。⋮⋮着替えがないけど︶
あいつの服を借りるしかないなと思いながら家に入る。とたん、
野太い声に出迎えられた。
﹁おう、おかえり紺ちゃん。運悪く夕立に追いつかれたようだな﹂
先に帰って来たらしい。台所に山内くんのパパの背中が見えた。
夕食の食材を並べているようである。
そろそろと後じさって柱の陰に体を隠し、紺は恥ずかしげに聞い
た。
﹁お邪魔してるよおじさん、あの、ところで着るもの貸してもらえ
ない? 山内のでいいんだけどさ⋮⋮﹂
﹁邪鬼丸のでいいなら車庫に陰干ししっぱなしだな。乾いてると思
うが﹂
﹁ありがと!﹂
167
紺は外に駆け戻ってシャツとデニムのショートパンツを取ってく
る。見られないように素早く、廊下を浴室のほうへと渡る。
﹁シャワーもらうよ、おじさんっ﹂
﹁そうだな。飯はまだかかるから、先に浴びとくのがいいな﹂
﹁はーい﹂
直後、﹁⋮⋮あ、ちょっと待った﹂と山内パパの慌てた声が届い
た。あいにくそのとき、紺はすでに脱衣所の扉を開けていた。
湯上がりの少年が彼女のほうを向いて立っていた。全裸。
稽古を終えてシャワーを浴び、バスタオルで髪をふいていたとこ
ろのようだった。紺を見て石化している。
﹁うわわわわわわわごめんっ!?﹂
うろたえた紺は焦って戸をぴしゃんと閉めた。
● ● ● ● ●
ふすまごしにぎゃんぎゃん子供たちのいがみあう声が響く。
﹁信じられないよ! ふつうノックするだろ!?﹂
﹁うっかりしてたんだよ何回も謝ってるだろーがしつけーなー!﹂
やけくそ気味に紺が開き直った。﹁おまえだって前にオレの胸さわ
ったじゃねーか!﹂
﹁そっ、それこそとっくに謝っただろ! だいたいあれはっ⋮⋮!﹂
紺がさっきから何かしている部屋に顔を出し、山内くんはさらな
る抗議をしようとしたが、タオルを投げつけられた。
﹁こ、こっち来んなっバカぁ!﹂
シャワー上がりで山内くんの服を着た紺は、鏡台の前に座って顔
を赤くしている。シャツにショートパンツだけならいつもの格好に
近く、恥ずかしがる意味が分からないのだが、よく見ればひらひら
した白帯みたいなものにドライヤーを当てている。もう片方の腕で
168
は、いつになくふっくら張り詰めたTシャツの胸元を、隠すように
抱いていた。
それで白帯の正体が胸に巻いていたさらしだと気付き、山内くん
はあわてて台所に退散する。
﹁今夜は天津飯だぞう﹂
のんきに中華鍋を振っているパパを、山内くんは尖った目でにら
みつける。先刻の事故は、パパの細かいことを気にしない性格のせ
いで起きたようなものである。文句のひとつも吐いてやろうと口を
開けたところで、プラムを一個目の前に突き出された。
﹁⋮⋮なにさ、これ﹂
﹁完全に日が暮れる前に、おからす様にお供えしてきな﹂
おからす様。
山内家の縁の下に住まうという、丸いものを一日一個求める神様。
そういえば最近はパパに任せちゃってたな、と山内くんはプラム
を受け取りながら思った。
雨が上がったばかりの庭に降りて、縁の下に果物を転がす。
﹁おからす様。お供えです﹂
手を合わせながら、山内くんはふと思った。
︵おからす様って、ほんとにいるのかな。いたらいまの僕には見え
るかもしれないけど︶
どんな姿だろうか。やはり鳥なのだろうか。つかの間、縁の下を
覗きこんでみようかと考える。
︵やめとこ。なんか怖いし︶
そのまま台所に戻ろうとしたが⋮⋮
︿げえ﹀
はっきりと縁の下から鳴き声がした。山内くんはぱっと視線を下
ろす。
一瞬だけ、細長い影が縁下からはみだすのが見えた。うろこに覆
169
われた、爬虫類の頭部⋮⋮
︵黒い蛇?︶
極楽縄のあれとは違う。きちんと頭があった。
︵真っ黒い蛇のことをカラスヘビって言うんだったよね⋮⋮おから
す様ってそういうこと?︶
でも蛇って鳴いたっけ、と思いながら山内くんはじりじりと後退
する。
からす
︿げえ﹀とふたたび軋るような声が響き、そして、それは出てき
た。
蛇では、なかった。
それはやはり名前のとおり烏だった⋮⋮頭と胴体は。
尾が黒い蛇になっている。二本の足は、猿の手のような毛むくじ
おからす様
ゃらの手のひら。血の色の瞳を鈍く輝かせ、黒い翼を広げてよたよ
たと歩み出てきた。
呼吸すら止めて凍りついている山内くんの前で、
はプラムの実をつつきはじめた。食べるのではなく、くちばしを突
いと
き入れて果肉を崩している。果物の汁が飛び散ってゆき、核がほじ
おからす様
は山内くんを見つめ返した。
くり出されていく。その様子が、たとえようもなく厭わしかった。
核をくわえて、
のうけつ
ゆうてき
しゅうえ
ほうちゃく
ふに
らんね
くちばしのあいだから、亡者がすすり泣くような唄声が響いた。
かず
︿膿血タチマチ融滌シ 臭穢ハ満チテ肪脹シ 膚膩コトゴトク爛壊
セリ 人ノ死骸ハ數知ラズ﹀
山内くんは蒼白になってさらに後じさる。
脳
とがびと
なにを唄っているのかわからない。ただひとつわかることがある
⋮⋮
くら
は歩いてくる。
︵この歌は⋮⋮あの、暗い夢のなかで聞いた︶
おからす様
︿餐ワセ給エ人ノ髄﹀
ばんり
いびつな動きで、
こうべ
むくろ
みやまい
︿萬里ガ間ニ音モセデ 地ヨリ湧キタル血ノ泉 十悪五逆ノ咎人ノ
頭連ネテ 頭連ネテ 六道地蔵ガ骸喰フ サテモ目出タノ宮詣リ
170
そろ
おとぎ
ひとふたみよいつむにななやト言ヒ候ヨ 夜ノト夜ノト御伽ニヤ
身ガ参ロ身ガ参ロ︱︱﹀
﹁寄るな!﹂
赤い凶眼で見つめられて、山内くんは絶叫した。
︵これはだめだ。関わっちゃだめなものだ︶
身に沁むように冷たい恐怖は、まぎれもなくあの夢で味わったの
と同じものだった。
呼吸がいやに苦しい。視界が狭窄していく。夕闇の中に自分とお
からす様だけしかいないような気分になっていく。
そのとき、手をにぎられた。温かく汗ばんだ人の手の感触︱︱は
っとして山内くんはそばを見た。紺がかれと同じく青ざめた顔で、
かたわらに立っていた。
﹁こ⋮⋮紺﹂
﹁あれを見るな。そばにいて見つめたりするから、おまえを新しい
主と認識しかけてるのかもしれない。来い﹂
悪夢から醒めたような心地で、山内くんは彼女に引かれて家に上
はふりべ
がる。げえ、と鳴き声が背後で聞こえたが、決してふりかえろうと
は思わなかった。
﹁あれはたぶん、祝部が使っていた古い式だ﹂
家に入ると、紺はつないでいた手をほどき、固い表情で山内くん
に告げた。
﹁祝部本家が滅んだときにいろいろな儀式や式神や呪具が散逸した
はちわりがらす
っていうけど⋮⋮あれは分家のおまえんとこに預けられてたんだな。
伝承によれば、あれは鉢割烏っていうんだ﹂
﹁鉢割烏⋮⋮﹂
﹁鉢は頭のてっぺんだ。⋮⋮丸いものをお供えに求めてたんだろ?﹂
丸い卵。
丸いおにぎり。
丸い果物の実。
﹁山内、たぶんそれ、人の頭の代用だぜ。そうやってあの危険な式
171
をなだめてたんだ。
あーくそ、気持ち悪りー⋮⋮あれたぶん、たくさんの人間を蠱毒
に使って生み出してる。強力なわけだ﹂
山内くんは新たな冷や汗が背筋を濡らすのを感じる。
﹁紺⋮⋮祝部って、なに﹂
おののきながらたずねた。
﹁この町に来てからよくその名前を聞く。アオオニも言ってた、僕
は祝部の分家の子だって。それなのに僕は祝部というものをぜんぜ
ん知らないんだ﹂
﹁⋮⋮祝部はオレたち十妙院の昔からの敵だ。
あかるちょう
同じ外法の家で、この町にオレたちよりずっと古くからいて、オ
レたちより勢力が大きかった。この明町のほとんどの家は、さかの
あおに
よろづ
あしや
ぼれば祝部から分かれてる。そのなかでも血の濃い家は、祝部本家
のほか青丹、万津、芦屋、それにこの家⋮⋮山内家だ﹂
紺はついっと、山内くんの胸を指で指した。
﹁でも、祝部はもう終わりだ。
祝部本家と芦屋は、ここ二十年で後継者が絶えて断絶した。万津
家と青丹家は、才のある子が数代生まれなかったので、かなり前か
ら衰えてる。山内家もそうなると思う︱︱現当主の、おまえのおじ
さんがこの業界とほぼ縁を切ってるからな。
アオオニはオレが潰すし⋮⋮もっとも才能がありそうなおまえも、
深入りするつもりはねーんだろ?﹂
一も二もなく首肯する山内くんに、紺はほうとため息をついた。
﹁オレ、おまえの見鬼が無駄になるのはもったいないと思ってたけ
ど、いまはそれがいいって思う。実際に見たのは今日が初めてだけ
くら
ど、祝部の術は⋮⋮ちょっと⋮⋮あまりに容赦がなさすぎる。外法
にしても昏すぎる。
おまえが影響されて、アオオニみたいにねじ曲げられるところな
んか見たくねーや﹂
﹁紺⋮⋮﹂
172
﹁⋮⋮ま、祝部が復活しなきゃ十妙院の天下になるしな。不戦勝っ
てやつだ﹂
紺は暗鬱さを消し飛ばそうとしてか、朗らかな笑みを山内くんに
向け、
﹁家々のこういう話は、オレより楓のほうが詳しい。興味があるな
ら、明日あいつが帰ってきたら聞くんだな。
さて⋮⋮おじさんには、お供えはもうお前にさせないように言っ
とかなくちゃ﹂
しかし﹁お供え﹂の必要はなくなった。
この夕方より後、縁の下におからす様を見たものはいない。
173
蔵の中
しっくい
ぬりごめ
その土蔵は瓦葺き、白漆喰の塗籠壁。
暦は八月十三日の迎え盆、午後の陽光は焼きつくすような烈しさ
を帯びている。にもかかわらず、十妙院家の庭隅にある蔵は、常と
変わらず陰々たる雰囲気をかもしだしていた。
山内くんは履物を脱いでから蔵の扉を開けて入った。蔵の床は土
間ではなく板敷きになっていて、土足禁止である。
中は、エアコンもないのに妙な冷気がただよっていた。明かり採
りの格子窓すらなく真っ暗である。幸いというのだろうか。山内く
んは闇を見通せるようになっており、懐中電灯の必要はかれにはな
かった。⋮⋮あとから来る仲間たちはそうもいかないだろうけれど。
暗闇のなかはがらんどうになっていた。人影どころか物もない。
誰もいないことを確かめて、山内くんは声をはりあげた。
﹁紺。紺っ。いまどの部屋にいるの? ちょっと戻ってきて!﹂
どこかで作業しているであろう少女を呼びながら、かれは考える。
︵やっぱりこの蔵、どう考えてもおかしいや︶
なにがおかしいといって︱︱
︵なんで扉が四方の壁にあるんだよ︶
外から見たとき扉は入り口一つだけなのだ。広さからいっても、
三つの扉がどこかに通じているはずはない︱︱が、
﹁なんだよ、山内﹂
右手の扉が開き、青い炎の明かりが闇を照らす。紺が上体を戸板
のすきまから出していた。ほこりで汚れた軍手をはめ、大型の懐中
電灯を持っている。
﹁あの、手伝いに﹂
﹁いらねーと言いたいけど、そうだな⋮⋮正直助かる。まだ見つけ
174
らんねーから、こっちから頼もうかと思ってたんだ。入ってこいよ﹂
手招きする紺に、山内くんは﹁それが僕だけじゃなくて﹂と告げ
た。
﹁みんな押しかけてきてるんだ﹂
﹁⋮⋮みんな?﹂
けげんそうに紺が聞き返したとき、
﹁うわあ、なにこれなにこれ! 蔵のなか、前探検したときとぜん
ぜん違うよ!? 見て見て直文、壁に扉がついてる!﹂興奮の声が
弾むとともに、細い光が闇を切り裂いた。﹁この蔵の中、前見た時
は扉がない代わりにものすっごく広かったよね! バレーボールの
コートくらいはあったやん!﹂
﹁⋮⋮穂乃果かよ﹂紺がちょっと眉をしかめた。うるせーのが来た
と顔に書いてある。入ってきた穂乃果がペンライトを振り回しなが
ら元気よく言った。
﹁だって紺ちゃんに相談に来たら、朝から蔵にこもっとるって山内
くんに聞いたもん! 水臭いやんか、探しものならあたしらも手伝
えるよ!﹂
﹁それでマイタケと直文も引きずってきたってわけか?﹂
穂乃果のあとから入ってきた男子二人を見て、紺がため息をつい
た。
﹁おまえらは山内ほどじゃなくても受信機能持ってるし、人手はあ
りがたいけどな⋮⋮﹂
いつもの顔ぶれを見回して渋る紺に対し、マイタケがおずおず手
を挙げた。
﹁ぼく、役に立てるのかわからないけど、できるかぎりのことはし
たいよ﹂
穂乃果がそれに続いた。彼女は珍しくおちゃらけた雰囲気をひっ
こめ、憤りを面に浮かべた。
﹁オニどもにお灸すえるために必要なもん探すんやろ。それやった
ら協力するに決まっとるもん。なあ、直文﹂
175
﹁ああ﹂
直文がぼそりと応じた︱︱かれの顔をのぞきこんだ穂乃果から視
線を暗くそむけて。穂乃果は口を閉じて心配そうな、歯がゆそうな
表情となる。山内くんは穂乃果の﹁相談事﹂がなんであったのか大
体察した。
その少年の自尊心は、アカオニに殴られて以来、まだ傷ついたま
まのようだった。
﹁⋮⋮わかった、手伝うなら好きにしろよ﹂
紺が態度をひるがえしてそう言ったのも、直文の様子に気づいた
からであったろう。
﹁ただ、いいか、奥の部屋には勝手に行くなよ。みんなで固まって
行動するから、﹃怪しいなにか﹄を見つけたらオレに知らせるだけ
でいい。地下へ降りる階段や、半分しかない日本刀といったおかし
な雰囲気のモノ全般﹂
﹁地下⋮⋮﹂
穂乃果が首をかしげた。
﹁あの、紺ちゃん、前にあたしらここに忍び込んで探検したよね?
そのとき地下への道なんてなかったと思うんやけど﹂
﹁あのときは隠されてた。ここはお祖母様のひきこもり場所だ。あ
の妖怪は自分の張った結界内⋮⋮この蔵の中をあるていど自由にい
じくれるんだ﹂
紺がぼやいたとたん、穂乃果、直文、マイタケの三人は微妙に色
めき立った。
﹁十妙院の大奥様!? 会えるの!?﹂
﹁会わなきゃしょーがねーかも。オレが探してる、半分になった刀
は、お祖母様が持ってるのかもしんねーから。そこに行き着くまで
が厄介だけどな﹂
言いながら、彼女は自分が半身を出していた扉を大きく引き開け
た。
﹁見ろよ、ほら﹂
176
そこは暗い、板敷きの部屋だった。広さは六畳間である。
蔵と同じように、四面の壁に扉がついていた。
紺が、部屋を横切って向こう側の扉を開け放つ。
隣室も、同じような四つの扉を持つ部屋になっていた。そして隣
室のさらに別の扉をあけても⋮⋮どこまでも、そっくり似たような
空間が続いていた。
﹁見てのとーりだ。たまにごちゃっと物置状態になった部屋がある
んだけど⋮⋮そういう部屋を見つけるのが大変なんだ。しかもこの
戸、どの部屋に通じるかってのが、あるていどランダム仕様になっ
てるぽい﹂
﹁え⋮⋮ええと⋮⋮どういうこと?﹂
﹁見てな﹂
紺は軍手を片方脱いで、ぽいと隣室の床の上に放った。
扉を一回閉める。
次に開けたとき、そこにあるはずの軍手は影も形もなかった。
﹁まあ、こんな感じで⋮⋮戸を開け閉めするたびに別の部屋に切り
替わっちまうんだよ﹂
忌々しそうに紺は唇の両端を引き下げた。懐中電灯で奥を照らし
ながら息を呑んでいたマイタケがふと思いついたという顔で提案し
た。
﹁目につく範囲の戸を、片っ端からぜんぶ開けていけばいいんじゃ
ない?﹂
﹁やったけどな⋮⋮なにかが邪魔しに来る﹂紺は苦い口調になった。
﹁目を離した瞬間に戸を閉められる。迷宮攻略の定番、﹃ひもを入
り口近くにくくりつけて進む﹄方法を試しても、気が付くとひもが
切断されちまってる。そいつのせいでめんどくせーったらねーや﹂
﹁へ、へえ⋮⋮何がいるの、それ⋮⋮?﹂
﹁わからない。お祖母様の式神かもしれねーけど⋮⋮
実はこの奥の部屋のどこかには、ウチの依頼者から引き取ったい
わくありの品を昔から置いてる。無理に除霊することもないってん
177
で閉じ込めておいたそうだけど⋮⋮その品物に憑いてるやつがいま
も歩きまわってるのかもしれない。
だから決して一人にならないようにな﹂
紺、僕は外に残ってていい? と山内くんは言いそうになった。
地元三人組も引きつった表情になっている。
が、そこでかえって気炎をあげた者がひとりいた。﹁じょ⋮⋮上
等やんか!﹂青ざめながらも胸前で両こぶしをぎゅっと握り、穂乃
どうってことない
果が自分を奮い立たせる。
﹁べっちょないっ、やったるもん!﹂
﹁そうか。そこまで気合入ってるのは頼もしーな﹂
紺はぽりぽり頭をかき、
﹁あ、言い忘れてたけど穂乃果。おまえのすぐそば、戸口の横に貼
ってある符︱︱﹂﹁このお札のことやねっ!︵ぺり︶﹂﹁︱︱には
絶対触るなよ、って言ってる端からなにを剥がしてんだコラぁぁ!
?﹂
がこん。
からくりが切り替わるような音がして、入り口の扉が叩きつけら
れたかのように閉じた。蔵の中の闇が一気に濃くなる。
﹁あわわっ、違っ、剥がすつもりはっ﹂
﹁お、おいバカ、はやくそれ貼り直せ!﹂
ろう
と
うろたえる穂乃果の手から隣の直文が符をつかみとろうとする。
瞬間、その符は蝋のようにぐにゃりと融けた。
液体となり、手をすりぬけて床にぶつかり、しぶきとなる。
みんなと同じく呆然と視線を下げた紺が、はっと顔を上げた。
﹁まずい、外に出てみろっ﹂
山内くんはあわてて入り口の扉を開けた。とたん、息を呑んで立
ち尽くす。目に入ってきたのは庭の風景ではなかった。紺が開けて
いた戸の中とそっくり同じ、四つの戸を持つ暗い部屋が、そこにも
続いていた。
かすれた声でマイタケがあえいだ。
178
﹁まさか、蔵の外へ出られなくなった⋮⋮?﹂
沈黙が一同を覆う。
﹁おい穂乃果⋮⋮﹂紺が目を細くして穂乃果をじとっとにらむ。
﹁ひっ﹂
穂乃果は一同の視線を浴びて首をすくめた。汗をだらだら流し、
青ざめた笑みを浮かべながらぐっ! と手をふたたび握る。
﹁べ⋮⋮べっちょないっ!﹂
﹁べっちょあるわボケェ! 人の話を最後まで聞いてから動けっ﹂
﹁うう⋮⋮勢い余ってつい手にとったら剥がれてもーたんよ⋮⋮﹂
﹁もー、しょーがねーなぁ。こうなったら﹂
紺は扉の奥を指さした。
﹁ここから出るためにも、どんどん奥に行くぞ。入り口消えたから
にはお祖母様探しだして結界外に出してもらうか、この結界壊すし
かねーもん﹂
● ● ● ● ●
やってもーたなぁ。肩を落とした穂乃果はみんなの後ろにしょん
ぼり着いて行く。
扉を開け放しながら進む紺が、一同を先導している。
扉を開けても開けても、部屋は尽きることがなかった。闇と静寂
が支配する空間を、子供たちはさまよう。十分、二十分⋮⋮部屋か
ら部屋へと横切り続ける。
しだいに穂乃果は強い不安にとらわれはじめた。
︵ほんとに、終わりがあるんやろか?︶
だがたしかに紺の言うとおり、がらんどうの部屋ばかりではなか
った。まれにだが、床に怪しい道具︱︱呪具が積み上がった部屋に
行き当たるのだ。
179
︵なんやろここ。お坊さんの杖みたいなもんいろいろ置いとる︶
しゃくじょう
どっこ
穂乃果にはそれらの名称まではわからなかったが、最初に行き当
こんごうしょ
こんごうれい
たったのは密教法具の部屋だった。錫杖をはじめ、独鈷・三鈷・五
鈷の金剛杵や金剛鈴が雑然と放り出されている⋮⋮紺が足を止めて、
﹁使えそうなもんがないか探すぞ﹂と呪具の山の前にしゃがんだ。
﹁紺? 最初の目的を忘れるわけにいかないのはわかるけど、いま
は非常時だし、先に進んだほうがいいんじゃ⋮⋮﹂と山内くんが眉
をひそめて懸念を示した。紺がそれに首を振る。
﹁結界壊せば出られるんだ。そのための呪具が⋮⋮﹃中折小狐﹄が
見つかればお祖母様のところまで行く必要もなくなる﹂
こか
﹁中折小狐⋮⋮って、半分になってる刀のことだよね? 小狐って
変わった名前ついてるね﹂
じむねちか
﹁ああ。ちゃんと由来がある。そのむかし、平安の世に、三条小鍛
冶宗近という刀匠がいたんだ﹂
いささか粗い手つきで呪具を選り分けながら、紺は説明しはじめ
た。
﹁そいつが時の帝から命じられて刀を打ったときのことだ。神霊が
びゃっこ
顕現して相槌をつとめ、ともに刀を鍛えたっていう。その神霊の正
体は神通力のある白狐だったとも、伏見稲荷の神だったとも︱︱そ
うして出来上がったのが神刀﹃小狐丸﹄﹂
語る紺の口元を見つめ、穂乃果は目をみはった。
︵あ⋮⋮紺ちゃん、ほんまに火吹いとる︶
唇からこぼれてなまめかしく踊る青い火の緒。それがかすかにだ
が彼女にも見えたのである。山内くんにはずっと見えており、直文
やマイタケもたまに見るというそれを、この日穂乃果は確認したの
だった。︵はじめて見たー︶と目を丸くしている穂乃果の凝視に気
づかず、紺は話を続けている。
﹁で、ウチにあるぽっきり折れた刀は、小狐丸の成れの果てだって
言い伝えられてる。ほんとかどーかは知らねーけど、あらゆる外法
の術や怪異を断つことができるそうだ。
180
この蔵がだだっ広いのは、お祖母様が作り出した結界のなかで空
間がねじれてるせいだ。だから中折小狐さえあれば、いつでも結界
を斬って出られる。たぶん﹂
﹁ふうん。じゃ急いでそれを探さないとね﹂
マイタケが持たされていたペンライトを法具の山に当て、山内く
んとともに紺を手伝い始める。直文も黙々と作業しはじめ、あわて
さんこつかけん
て穂乃果も参加する。ほどなくしてひととおり検分した紺が﹁ハズ
レの部屋だ﹂とつぶやいた。
﹁この部屋にはろくなもんはない。先に進むぞ﹂
いらたかねんじゅ
その次に当たったのは修験道系の呪具の部屋だった。三鈷柄剣、
最多角念珠、法螺貝に法弓⋮⋮見るからに仰々しい品々であったが、
ひとがた
紺はここでも一言で切って捨てた。
﹁またハズレ﹂
あさお
へいはく
三番目は神道系だった。霊符、人形の紙片、割れた丸鏡に干から
びた榊の小枝、麻苧に幣帛⋮⋮しかしやはり、半分の刀など影も形
もなかった。
ランダムに空間が出現するため、何度も同じ部屋に行き当たる。
めげずに闇を進み、ようやく辿り着いた四番目の呪具庫︱︱
穂乃果は踏み込んだとたん回れ右したくなった。
﹁逃げたい﹂山内くんがつぶやいており、全面的に彼女も賛同であ
る。
嫌な部屋だった。
闇がほかの部屋より濃く、空気が重くよどんでいる。床に積み上
げられたモノも、これまでとは全く趣を異にしている。下あごがえ
ぐられたように欠けたバービー人形。信じられないほどおびただし
い髪の毛が絡みついた地蔵。辻で人をむさぼり喰う鬼を描いた日本
画。蜘蛛の巣のようなひびが画面に入ったブラウン管式のテレビ。
猿かなにかの首のミイラ。
どれもがおどろおどろしい、もっといえば禍々しい雰囲気を放っ
ている。
181
むっつりとそれを見据えたのち、山内くんが手を挙げた。
﹁紺、あのさ、力があるかないかでいったら、たぶんここにあるも
の全部﹃ある﹄と思う。黒い蒸気みたいなものが立ち上ってるのが
見えるよ⋮⋮でも、さすがにここは手をつけず通り過ぎてもいいん
じゃない?﹂
﹁いや、調べる﹂
無慈悲に、紺はスルー提案を切り捨てた。
﹁掘り出し物がありそうなのに見逃すわきゃないだろ。なにかあっ
たらオレが対処してやるから⋮⋮なんだよおまえら﹂
石のように黙りこくった子供たちを見渡して、紺は吐息した。
﹁わーったよ、怖いなら無理に手伝わなくていい。山内だけ残れ﹂
﹁ちょっ、なんで僕!?﹂
﹁いちばんサーチ能力高いんだから、だれか残すならおまえに決ま
ってんだろ﹂
そういうわけで山内くんひとりが紺に付き合わされることになっ
た。他の子供たちは肩を並べて扉近くの壁ぎわにぐったり座り込み、
宝探しの様子を眺める。
しだいに穂乃果は忸怩たる思いを抱きはじめた。
︵あれ⋮⋮あたし休ませてもらってええんかな︶
︵怖いけど、やっぱり手伝ったほうがええんちゃうかな︶
︵だってあたしがポカやらかしてこんなとこまで来たのに、ここで
なにもせえへんかったら口だけやん︶
悩んだ末、やはり手伝おうと立ち上がりかけたときだった。ぶっ
きらぼうな声が隣からかけられた。
﹁しょいこんだ顔してんじゃねえよ﹂
前を見たままの直文が、しょうがなさそうに言ったのである。
﹁おまえの取り柄はいつもアホ元気でうるさいことだろ。それが暗
い顔して静かにしてたら、周りまで余計暗くなっちまう。やらかし
たことなんかもう誰も気にしてないから、脳天気にかまえてろよ﹂
あまりの言い草に穂乃果は憤慨した。
182
﹁そ、そっちこそアホや。ずっと思いつめた顔しとったのは直文や
んか﹂
﹁⋮⋮まあな﹂
それきり直文が黙りこくったので、穂乃果は気を揉んだ。なにか
言おうとする︱︱心臓がはねて声がでなくなった。
直文とのあいだの床についていた手に、手のひらを重ねられたの
である。
︵え。直文?︶
手の甲を包み込むようにきゅっと握られて混乱が加速する。顔が
熱くなる。
︵なんやこれ。どういうこと︶
幼いころならかれと手をつなぐくらいよくあったが、今やられる
とどう反応していいのかわからない。どきどきしつつ無言でいると、
直文がぽつぽつ語った。
﹁俺、ものすごく自分が情けなかったんだよ﹂
﹁そ、そうなん、や﹂
﹁アカオニに食ってかかったけど、腹殴られて黙らされちゃったし﹂
直文がうなだれる。﹁それでオニどもに復讐してやるって思って、
キレてアオオニに突っかかったのに。俺は、アオオニが鼠の頭を食
いちぎったときにびびって止まっちまった。山内が川に落とされる
のを止められなかった。ここ数日、﹃俺なんにもできてない、かっ
こわりい﹄って心底恥ずかしくて⋮⋮﹂
慙愧が再燃したのか、徐々にかれの声が小さくなっていく。
穂乃果はうつむいて聞いていた。かれが打ち明け終えたときに、
彼女は思い切って手を自分からも握った。
ささやかな冒険。
﹁あんな⋮⋮直文が何もしてないなんて、そんなことあらへん﹂
蚊の鳴くような声で言う。
﹁直文が最初に怒ってくれたのって、あたしのビー玉をアカオニが
盗ってたからやろ? それみんなに聞いて⋮⋮あたし、うれしかっ
183
たもん﹂
ちょっと幸せになったもん。熱と勇気を込めてそう伝える。う、
と直文が身をこわばらせた。
﹁いや、それはな⋮⋮ええと⋮⋮﹂穂乃果の顔を見つめ、恥ずかし
さに弱った声をかれはあげた。﹁いや、でもやっぱり情けねえって
俺。結局ビー玉取り戻したのは紺だし、アカオニは気づけば山内が
ひとりで叩きのめしちまったし⋮⋮仕返しも自分でできてない﹂
﹁そんなん、どうでもええ。真っ先に声上げてくれたんやもん、そ
れだけであたしには直文じゅうぶんかっこいい﹂
穂乃果は柔らかく言って、つないだ手をぎゅっと握った。その少
しひんやりした手も、同じだけの力で彼女の手を握り返してくる。
もう少しだけこのままでいよう。それからふたりで紺ちゃんたち
うちわ
を手伝いに行こう。ふわふわした気分で穂乃果はそう思う。直文の
向こうでは、マイタケがわざとらしく手団扇で顔を扇いでいるが気
にしない。
・・
﹁ふたりとも元気になろ。な﹂
﹁お、おう﹂
照れた表情で、直文が両腕でひざを抱えた。
⋮⋮ん? 穂乃果は首をかしげる。
手。つないだままだ。
見下ろした。
別人の手だった。背後の扉が薄く開き、青白い腕が一本、隙間か
らはみ出てきていた。それはつかんだ穂乃果の手を、くいと後ろに
引いた。同時に部屋のなかで、子供たちのだれのものでもない声が
した。
︿アソボ﹀
盛大な悲鳴を響き渡らせ、穂乃果は手をふりほどいた。度肝を抜
かれた表情の直文やマイタケも見つめるなか、腕はするすると引っ
184
込んでいった。扉が完全に閉まる。
紺が歩み寄ってくる。
﹁大丈夫か。なにかうろついてるって警告しただろ。しっかし、見
鬼じゃないおまえらにも見えるって相当元気なやつだな。⋮⋮あ、
これ﹂
紺はしゃがみこんで、床から黒い長方形の物体を拾い上げた。
﹁あー、さっき声あげたのはこれかぁ。でかした穂乃果、おまえが
ちょっかい出されたおかげでひとついいもの見つけたかも﹂
﹁ひ、え、何、﹂
恐怖に歯を鳴らしながら床から見上げると、紺の手にあるのはス
マートフォンだった。
﹁電源は⋮⋮もちろん入ってねーか。
ええと、これは春頃﹃ときおり変な声が混じる﹄ってことでうち
に持ち込まれたスマートフォンだ。近くにいる霊の声を拾っちまう
んだ、たしか﹂
紺以外の全員が気持ち悪そうにその携帯電話を見つめる。﹁なに
か聞こえっかな﹂と紺はそれを耳に当てた。
﹁もしもーし﹂
﹁や、やめなよ紺⋮⋮﹂山内くんが気弱に制止しようとしたが、
﹃いつまで迷っているんだね、紺﹄
しゃがれた女の声がスマートフォンからとつぜん流れだした。﹁
え﹂紺の表情に驚愕がはりつき、そして、
﹁お祖母様?﹂
一同が申し合わせたように静まり返り、耳をすませる。十妙院家
の隠居の声はぼそぼそと響き、そのつど紺が﹁うん。え、うん﹂こ
くこくうなずいた。﹁山内? いるけど⋮⋮﹂紺は山内くんにちら
りと視線を投げ、
﹁え。こいつひとりだけに会うの?﹂
185
蔵の中︿2 白蔵主﹀
﹁暗い怖い怖い怖い⋮⋮うう、せめて懐中電灯を持たせてと言った
のに⋮⋮﹂
山内くんは紺に恨み節を吐きながら、蔵の無限空間のなかを進ん
でいる。ひとりきりで。山内は尋常じゃなく夜目がきくだろ、光は
待ってるオレらのほうに必要だ︱︱と言って紺は、かれの嘆願を退
けたのだった。
︵たしかに見鬼のせいで真っ暗闇でもふしぎと見えちゃう目になっ
てるけどさ⋮⋮手元に光があるかないかで怖さがぜんぜん違うんだ
よ!︶
十妙院の大奥様
の声が響いた。
かれの手には電灯の代わりに、例の拾われたスマートフォンが持
たされている。
出し抜けにそこから女︱︱
︿次は右手の扉﹀
﹁み、右ですね﹂
︿その次は左⋮⋮そのさらに次では、入った扉を一回閉めてその扉
から出るんだ。間違うんじゃないよ﹀
﹁わかりました、間違えません﹂
山内くんは背筋を伸ばしながら了解する。電源すら入っていない
スマートフォンはそれきり沈黙した。紺の祖母は、スマフォを通じ
て進路を端的に指示するのみであり、かれと電話ごしに会話する意
思は持ち合わせないようだった。
彼女は、この迷宮の先でかれを待っている。あくまで顔を合わせ
そうりょう
て話すことを望んでいるのだ。緊張感で山内くんの喉がひりつく。
めったに表に出ない謎の女性、十妙院家の惣領、紺が唯一敬意を払
った呼び方をする相手︱︱そんな人とこれからふたりきりで会わね
186
ばならないのだ。
け
スマフォを手渡されたとき、紺に言われたことが耳に残っていた。
お祖母様の占術はずば抜けてる。未来を知るんだ、星の動きや卦
や人の相を読んで⋮⋮もちろん限界はあるらしいけどな。ともかく、
あの人がやることには意味が必ずある。たぶん、おまえは今日ここ
で、どうあってもお祖母様に会わなきゃならないんだろう
︵なんなんだろ、本当に⋮⋮︶
不安と緊張を強く覚えながら、山内くんは指示通りに進んでいっ
た。
⋮⋮その扉を開けたとき、かれは動きをぴたと止めた。
これまでとは違い、その部屋には入り口以外の扉はなかった。か
わりに、床の中央に虚空が口を開けており、のぞきこむと下の階へ
せんだん
じん
き
と通じる階段があった。奥には閉じられたふすまがあり、明かりが
その隙間からかぼそく漏れていた。
︿降りてくるがいい﹀
地下からの声が、落ち着き払ってかれを呼んだ。
ゃら
ふすまを開けた山内くんはまず匂いに圧倒された。栴檀、沈や伽
あんどん
羅の香︱︱和室内でどぎついほどにくゆり、融け合いかつ競い合っ
ている。
ろうそく
そこは暗い部屋だが、完全な暗黒ではなかった。箱型の行灯や、
はっけ
かめ
あまつかなぎ
そちこちの燭台に置かれた裸蝋燭が、弱い明かりを四隅まで広げて
いる。八卦図、円形の鏡、水を張った瓶、天津金木⋮⋮散らばる呪
具や調度を、炎は影濃く浮き彫りにしていた。
くらみや
火と影と香の混沌の部屋で、かすかな唄声が響いていた。
まじ
かみよ
あした
蠱の目持たぬ子闇宮行くな
神界の朝に道たどるなら
187
こなたに帰れぬ覚悟をしゃんせ
まがつみくらの神さまこわい
からす
うしろに回って首絞りする
まよはし
鬼と鴉がはらわたあつめ
骨噛む音する妖惑の宮⋮⋮
目を閉じて唄を口ずさんでいるのは、和装の女だった。畳の上に
うちき
かさね
かつぎ
脇息︵ひじ置き台︶が置かれ、気だるげにそれによりかかっている。
緑の袿。緋色の襲。
ながばかま
頭からかぶるのは白い被衣。
下半身には薄紫の長袴。
その服装は、いったいいつの世の人間かと思うほどに時代がかっ
ていたが、異様なこの地下の空間においてはしっくりきていた。
︵これが、十妙院の⋮⋮︶
くら
山内くんは声を奪われて戸口に立ち尽くす。
かお
冥い雰囲気をまとった女だった。老婆というには、若すぎる。紺
や楓さんに血を伝えた人間だとひと目でわかるその白い貌には、老
いのきざし︱︱目尻や唇の端のかすかな小じわを別として︱︱がほ
とんど宿っていない。
彼女は、紺と同じ切れ長の目をぱちりと開け、山内くんに呼びか
すえ
けてきた。
からす
﹁祝部の裔の子だね﹂
声だけは、老いた烏のようにひどく錆びていた。
﹁⋮⋮山内です。あの、はじめまして﹂
﹁十妙院銀だ﹂
女はそう自分の名を告げた。それから、冷たく謎めいた笑みを浮
かべた。﹁はじめてじゃないさ。こっちはあんたのことは、よおく
知っている﹂
﹁そ⋮⋮そうなんです、か﹂
188
﹁ああ﹂銀はかれをさしまねいた。﹁おいで。あんたに渡すものが
ふたつある﹂
やむなく山内くんは、畳にひざをついておそるおそるいざり寄っ
た。
銀はかれの眼前に、脇息の陰に置いていた五十センチほどの白木
の棒を差し出した。目をぱちくりさせて受け取った山内くんは、そ
れがただの棒などではないことに気づく。芯に鋼の重みを持ち、微
妙に弧を描くそれは⋮⋮
﹁﹃中折小狐﹄だ。紺に持っていくがいい﹂
白木鞘の、折れた古刀だった。
こわ
手渡された山内くんは背筋にぞっと冷汗を噴く。
かれのおののきの理由は、本物の日本刀︱︱毀れているとはいえ
︱︱を持たされたためではない。それが芸術的価値において国宝級
の存在だからでもない。
せいそう
かれの目には、見えたのだ。鞘におさめられてなおその刃は、﹁
ひむろ
鬼気﹂としか呼びようのない悽愴な気を放散していた。冷煙を吐き
出す氷室のようだ。
銀が冷嘲の響きをこめてつぶやく。
﹁見ての通りの逸品さ。しかしまあ紺ときたら⋮⋮鶏を割くに牛刀
を用いるがごとしだねえ。たかが独学のはぐれ術者ふぜいを料理す
るために、中折小狐まで持ち出すとは。
紺ならば、その刀がなくとも青丹の跡継ぎごときどうとでも始末
を付けられるだろうに。いくらあの子が術くらべは初めてといって
もさ。
⋮⋮なんだね? なにか言いたげじゃないか﹂
銀の顔に注いでいた視線を見咎められ、山内くんはあわてて目を
そらした。﹁気になるねえ。言うがいい﹂意地の悪い愉悦を声にに
じませ、銀がうながしてくる。祖母だけあって、紺と同様の鋭敏さ
を持ち、切り込み方も同じように遠慮がない。ただ紺と違い、銀の
態度には人への温かみが決定的に欠けていた。居心地悪く感じなが
189
ら、山内くんはおずおず意見する。
﹁まちがいなく勝てるようにするのは、悪いことじゃないんではと
⋮⋮そう、思っただけです﹂
戦いが避けられないなら、勝つために全力を投入する。そのほう
が敵をあなどって不覚をとるよりずっとましだ︱︱山内くんの信条
から見ても、紺の選択は当然だった。
かれの言葉を聞いて、銀は片頬に笑みを吊り上げた。
﹁そうだね。これはあんたの言うとおりだ。
それに⋮⋮最初は紺の試験のつもりだったが。これは紺ではなく、
くだ
青丹の跡継ぎの器量を見定めるにうってつけの機会かもしれないね﹂
銀は脇息にふたたびもたれる。
本物
だろうからね。万一、そのような成り行きになれば⋮⋮﹂
﹁もしも中折小狐を持った紺でも降せなかったなら、青丹の跡継ぎ
は
たね
しばし考えこむようにまなざしをさまよわせ、﹁よし、決めた。も
めあわ
おぐななり
しも紺が術くらべで及ばねば、青丹の跡継ぎを胤として迎えよう。
歳も近くてちょうどいい、紺に娶せる﹂
山内くんが耳を疑うようなことを言った。
聞き間違いかと銀を凝視し、少年はあぜんと口を開く。
﹁⋮⋮あの、﹂
﹁紺に伝えておくれ。術くらべに勝てたなら、これからは童男姿を
解いて好きに女の服を着ていい。ただし負ければ青丹の跡継ぎを胤
に迎える、それが嫌なら圧倒してきなと﹂
やはり常軌を逸した発言だった。山内くんは眉間にたてじわを寄
せて、
﹁それ本気⋮⋮なんですか?﹂
﹁嘘を言ってなにになる﹂
﹁で⋮⋮ですが、アオオニは⋮⋮その、あれを選ぶのはちょっとな
いというか﹂
﹁そうだね。あれは人格破綻者で、愚か者だ。それがなにか?﹂
こともなげに銀は言い、山内くんを黙らせる。
190
﹁ねえ、裔の子よ。
うから
あたしらにとって結婚というのはね、おのが族の力を増すための
手段なんだよ。
あたしが、青丹崇が優しい婿殿になることを期待して紺にあてが
うことを考えたのだとでも? いいや、そんなわけがないだろう。
うちは祝部の濃い血をどうしても取り込みたいだけだよ﹂
低まってゆく銀の声は冷淡でありながら、どこか淫靡だった。
くらみやもうで
あすはのかげばり
はちわりがらす
ひるこのいぬまじ
﹁欲しいのは濃い血と、それが生まれながらに備えるという術だ⋮
⋮﹃闇宮詣﹄、﹃阿須波蔭針﹄﹃鉢割烏﹄、﹃蛭児犬蠱﹄といった、
祝部の家に伝わる禁呪の秘奥が欲しいのさ。
なんせあたしたちはずうっと、その術のうちのひとつすら破れな
かったんだからねえ。防御を固めて犠牲を減らすのがせいいっぱい
でさ。
おす
だから、その術のひとつでも十妙院のものにできるなら、紺のよ
うな出来のよい孫娘でも惜しくない。どんなたちの悪い牡だろうが
くわえこめと命じるさ。
まあね、選択の余地がないとは言わない⋮⋮紺がだめなら楓がい
ることだし。あれが優秀な子を産める母胎であることは、紺で実証
済みだ。あたしの胎が使い物になるなら自分で産む道も試すところ
だが、あいにくこれでもけっこう歳いっててねえ﹂
孫も娘も、はてはおのれ自身も道具とみなす言い草。しかし気負
いもなにもなく、ただ当たり前のことを言う口ぶりであった。
︵めちゃくちゃだ、この人︶
白木鞘を握りしめた山内くんは呆然としている。異質すぎる価値
観に触れて、まさしく言葉を失っていた。
銀は山内くんの表情を見て、今度は両頬をにいと吊り上げた。
外法の雌狐
とそしられる家だ。じっさい霊
﹁あたしに良心の呵責を求めるなら無駄だよ。
もとより十妙院は
こび
狐の血が混ざってるせいか、代々、男どもには受けがいい見目でね。
力及ばない相手には狐媚を使って取り込んできた⋮⋮女色をもって
191
たら
たね
強い男の術者を誑し、自分たちの内部にくわえこむことで、血を強
ひる
化してきたんだよ。より強い胤を取り込むのはこの家のならいだ、
おもて
長としてなんの怯みが生じようものか﹂
白い面に浮かぶ笑みはいよいよ蠱惑的に、甘い毒気をにじませる。
だが彼女の目だけはけっして笑うことがなかった。
﹁そんな十妙院でも、現代までついに取り込めなかった血がある。
まさに祝部さ。もっともそばであたしらと競っていた呪禁の家だ。
連中は、神の祀り手と称してみずからを誇る一方、あたしらを狐
の家と蔑んで、徹底して忌避した。そうやってあたしらに誑されま
いとし、自分たちの血を隔離した。
はふ
ほふ
あははは、笑わせるじゃないか! 自分たちこそ古くから残酷な
神に仕えて、葬り部・屠り部が名の由来であった、人殺しの家だっ
たくせにねえ︱︱﹂
いつのまにか伸びていた銀の手が、山内くんの頬からあごにかけ
てつうっと撫でおろす。﹁そうとも、あんたの血は、あたしらなん
かよりずっと冥い血筋なんだよ﹂銀は呪詛するかのようにささやい
た。
まがつみくら
くびしぼ
﹁祝部どもは、むかしから強力な祟り神を祀っていてね。
さっきの唄を聞いたろう?
この土地で畏れられてきた、禍津御座の首絞りの神の唄だよ。知
ってるかい?﹂
﹁知りま⋮⋮せん﹂
気圧されつつ、山内くんは横に首をふった。
銀の手が、かれのあごをつかみ、ぐいと上向けた。らんらんと底
びかりする女の双眸が、少年の瞳を間近でのぞきこんでいる。妖狐
に魅入られたかのように山内くんは硬直した。
﹁だろうね。山内の当主は、かたくなにあんたをこっち側⋮⋮呪禁
の道に踏み入らせまいとしてきたからねえ﹂パパのことを、彼女は
そう呼んだ。
﹁だが無駄なあがきだね。あんたは生まれから逃げられやしないよ。
192
もう真っ白なままでいられた幼い時代は終わりだよ、裔の子よ。山
内の当主は激怒するだろうが、あたしはあんたに本当のところを教
えてやる。
あんたたちの神は闇の向こうに身を隠し、おのれの眷属以外のす
本物
が現れたなら、そいつに
べての力を排除してしまう。だからあたしの占術も及ばない。どれ
だけ力を尽くそうと、祝部を継ぐ
ついては未来を読むことも、心の裡を識ることも、その位置を探る
ことすらもできないんだ⋮⋮屈辱の極みだけどね。
おわ
そういうわけで、青丹の跡継ぎが紺に勝つ可能性がないわけじゃ
ない。あの悪童が祝部の真なる跡継ぎであったのなら⋮⋮闇宮に在
します神の力をひっぱってこれるのなら、紺では勝てやしないだろ
うよ。青丹の跡継ぎを胤として取り込むのはその場合さ﹂
山内くんはそれを聞いて、かろうじて銀の手から身を引いた。
動悸をしずめようとしながら彼女をにらみつける。不快だった。
パパに言及したときの銀のあざけるような口ぶりもだが⋮⋮特に、
紺の意思が先ほどからまるで考慮されていないことが。
笑いを向けてくる紺の姿が脳裏に浮かぶ。ときに妖しくいたずら
っぽく、ときにはつらつとして自信満々で、大輪のひまわりが咲き
誇るかのような笑顔の⋮⋮
輝くような、夏の少女。
あの笑みを曇らせたくない。心のどこかから強く湧き上がってき
た思いが、山内くんの口を内側から押し開いた。
﹁紺は⋮⋮僕の恩人で、友達です﹂
﹁ほう?﹂
﹁どうか、あの子が嫌がるようなことをしないでください。代わり
に僕になにかできることがあればやります﹂
﹁なるほどねえ﹂銀がにやりとする。﹁うちの孫娘はなかなかもて
てるようだね﹂
山内くんの頬が燃えた。そういうことじゃありませんとかれは反
発と羞恥をこめて言おうとした。
193
だがそれに先手を打つかのように、銀はとんでもない提案をして
きた。
﹁それじゃあ、あんたが紺の婿になればいい﹂
あっけにとられる。
﹁なんですか、それは﹂
やしろ
﹁裔の子よ、あんたが青丹の跡継ぎを押しのけて、祝部を継げばい
いんだ。
みくら
素質はある。あんた、暗闇にある社の夢を見たんだろう? 闇宮
だよ⋮⋮祝部の神の御座に踏み込んだんだ、あんたは﹂
﹁あれは︱︱﹂
あれは、一度見たきりの悪夢だ。そう言おうとしたが、山内くん
は言葉を継げなかった。紺からさんざん言われているし、自分でも
おからす様
のものと同じ
とっくに悟っている。あれは尋常の悪夢などでは決してないと。
なにより、
︵あの夢のなかで聞いた妖しい声が、
だった⋮⋮︶
﹁さっき言ったように、あたしらに必要なのは祝部の血と胤だ﹂あ
んたもそれを提供できるんだよと、銀はかれに指をつきつけた。﹁
さあどうする。あんたが決意を固めるならば、あんたに紺をくれて
やる。そうでなければ青丹の子に与える。祝部の末裔たちのうち、
力を示しているのはあんたとあの小僧だけだからね﹂
山内くんの声帯は麻痺している。
激しい困惑がかれの思考を混乱させている。そんなこと考えても
みなかった。
かれはかぶりを振った。
﹁こんな話は、土台からおかしい⋮⋮と思います﹂
﹁そうかね、裔の子よ︱︱﹂
﹁もうやめてください﹂妖言をはねのけるように、山内くんは悲鳴
じみた反発の声をあげた。アオオニが僕に代わるだけで、紺に自由
がないことに変わりはないではないかと。﹁それから、裔の子と呼
194
ぶのもやめてください⋮⋮僕はパパの子だというだけです、祝部な
んて呼ばれたって知らないよ!﹂
静寂が地下室に舞い降りる。
手に汗を握りながら山内くんは銀の反応を待つ︱︱だが少しして、
返ってきたのは怒りでも冷笑でもなかった。
忍び笑い。
銀はうつむいて、く、く、と満足そうに笑声を流していた。話の
運びがこうなると知っていたかのような⋮⋮
﹁あいにく、そこが違ってるのさ。
あんたに渡すもののふたつめがある。これを見な﹂
銀が差し出したそれは一枚の写真だった。警戒しながら受け取っ
た山内くんは、ひと目見て目を丸くする。
四人の若い男女がそこに並んで写っていた。右から二人目、白い
特攻服を着た巨漢は⋮⋮
︵若いころのパパ?︶
スキンヘッドに眉なしの特徴的な風貌は、見間違えようがなかっ
た。
次に山内くんの目は左端の女子高生に吸い付けられる。
︵こっちは⋮⋮死んだママ?︶
はかな
遺影でしか見たことのない山内くんの母親が、そこにいた。控え
めで儚げな雰囲気の、おさげの少女である。
さらに、写真の右端でパパと肩を組んでピースしている学ランの
美少年。明らかに知っている誰かの風貌で⋮⋮
﹁楓だよ、そりゃ。このころはまだ一人前じゃなかったからね、男
用の制服さ﹂
銀が口をはさんだ。山内くんはうめき、男装の楓さんを食い入る
ように見つめる。男子高校生の格好の彼女は、にっときれいな歯を
見せて隣のパパとともに笑っている。そのやんちゃそうな笑いかた
は紺によく似ていた。
そして、もっとも年かさの最後のひとり。
195
︵⋮⋮誰これ︶
その青年だけは間違いなく、見たことのない人だった。
にもかかわらず山内くんはひどく気になった。なにしろその青年
は、
︵なんでママと手をつないでるんだろ、この人︶
二十代前半とおぼしきその青年は、内気な笑みを浮かべ、若い日
のママと恋人のような親密な雰囲気を醸し出していた。スーツ姿、
手には腕時計をはめている。若い銀行員と言われれば違和感のない
風貌だ。
﹁これが祝部本家の最後の当主だよ。事故で死ぬ数カ月前の写真だ﹂
︵え、これが?︶
山内くんは驚きをもってその青年をつくづくと眺めた。これまで
聞いてきた﹁祝部﹂という存在の凶悪なイメージと、まるで重なら
なかった。
普通の人なんだなと感想を抱くかれの前で、銀がさらりと告げた。
﹁そしてあんたの、本当の父親さ﹂
山内くんは、
顔を上げた。
﹁⋮⋮え?﹂
196
夕立
盆の二日目。十妙院家の庭で、花火の袋が開けられた。
夕涼み時刻、太陽はまだ沈みきっていなかったが、子供たちはす
でに空の植木鉢のなかにキャンドルを立てている。
﹁夜やない時間の花火もええね、真っ暗はもうこりごりやもん! 昨日は山内くんが戻ってきてすぐ蔵から出してもらえてよかったわ
! ⋮⋮ところでその山内くん、どうしたんやろ﹂
キャンドルの火に手持ち花火を近づけながら、穂乃果がここにい
ない少年を案じる。
﹁花火やる前にどっか行ってもーて。せっかくいっぱいもらったの
に﹂
﹁知らねーよ﹂
紺は火を自分の花火に分けてもらいつつ、ぶっきらぼうに答えた。
微妙に機嫌を損じていた。
︵なんだ山内のやつ。いつもはビビリで、夜が近づいたらオレから
離れたがらないくせに︶
それがこの夕刻、かれはみなが集まったときにひとり姿を消した
のだ。理由を明瞭に言わず、ふいっと気がつけば消えていた。
︵こんなときになに危なっかしいことやってんだあのヤロー︶
憤っていたが、紺はふと心配になった。
思い返せば、かれの様子は昨日からおかしかった。昨日、蔵に入
って紺の祖母に会ってきてから、ずっと心ここにあらずだったので
ある。
﹁あいつ、十妙院の大奥様となに話したんだろうな﹂
両手に花火を持って宙でくるくる回していた直文が、手を止めて
言った。薬臭い煙に顔をしかめていたマイタケが﹁そうだねえ﹂と
懸念の声を出す。
197
同じことを、紺以外の子供たちも思っていたようだった。
外法の術者
そのものであ
﹁⋮⋮さあな。お祖母様はたまに悪趣味だから。なに吹き込んだこ
とやら﹂
よ
人の宿運を詠む紺の祖母は、性格も
る。通常の術者ならけっしてやらない﹁相手の寿命を告げる﹂禁忌
すら行ったことがあるという。
はた迷惑な一方で、力が頼りになることも確かなのだが⋮⋮
﹁実を言うと、アオオニとオレの術くらべの結果も前もって詠んで
るはずなんだよな、あの妖怪﹂
﹁⋮⋮マジかよ。じゃあ、やる意味あんのかよ、紺? 術くらべ﹂
﹁やらなければまた別の未来に変わる。オレとアオオニが術くらべ
する未来が、お祖母様が導こうとしてる未来なんだろ。あの人の考
えはよくわからねーし、オレは気にしないことにする﹂
水を張ったバケツに花火の燃えさしを突っ込みながら、紺は投げ
やりに言った。
﹁でも勝つやろ、紺ちゃんなら﹂
つとめて明るい話に戻そうとしたのだろう、穂乃果が火をつけた
花火をにぎやかにふり回しながら楽しげに言う。
﹁それに大奥様が言ってくれたんやろ! 紺ちゃんがアオオニに勝
てば、しきたりの、えっと、おぐななりだっけ? 男の子カッコし
なくてもよくなるんやろ! よかったやん!﹂
﹁あ、あー⋮⋮うん⋮⋮﹂
﹁前に﹃さらしで締め付けんのがいい加減キツい﹄とこぼしとった
やん、これでブラジャー買えるね!⋮⋮ひたたたた!?﹂
﹁点火した花火の尻くわえさせるぞてめー、なんでみんなの前で言
う。こないだから妙に人の胸をネタにしやがって!﹂真っ赤になっ
た紺が穂乃果の両頬をつねる。
身をよじってなんとか紺の手を逃れた穂乃果が、頬を押さえなが
らはしゃいだ。
﹁そうなったらうちに来て! お父さんがあたしに片っ端から服買
198
ってくるので余っとるんよ! 紺ちゃんにいろいろ着せたげる!﹂
﹁なんでおまえがそんな楽しそうなの⋮⋮﹂
﹁だって前に聞いたもん。十妙院家の女のひとが一人前と見なされ
るってことは、女の子の服着られるようになるだけじゃなくて、恋
愛解禁のしるしでもあるんやろ?﹂
穂乃果の目が星屑を浮かべて、紺はたじろいだ。
猫にまたたび、ませたJSに恋バナ。
﹁なんだそりゃ、別にそんなこと正式に決まってるわけじゃ﹂
また盛られたうわさ話が出回ってんだな、と紺はうんざりする。
たしかに、たとえば紺の母親も、童男姿を解いてすぐの時期に見合
い結婚している。だが一人前となったうえ結婚年齢に達した者が身
を固めるのは自然な成り行きであって、別にしきたりだの掟だので
はない。
しかし明町内の口さがなくうわさする人々は、表面だけを見て﹁
世間とは変わった十妙院のしきたり﹂をでっちあげてくれたようだ
った。
﹁童男姿を卒業してない未熟者のうちは、色恋なんかにうつつ抜か
しにくいってだけだよっ。それ以上でも以下でもねーの﹂
呆れ声で訂正したが、穂乃果はけろりとしている。
﹁そうなん? でも結果だけ見たら同じやんね! 周りの男の子み
んなそう信じてたから、だれもいままで紺ちゃんにそういう態度で
接しないようにしとったんよ! だから紺ちゃんが女の子の服着始
めたら、友達と思ってた男子がどんどん態度変えてくるんちゃうか
な。二学期ますます楽しみやね!
あ。そうや。今度こっくりさんやるときは紺ちゃん﹃を﹄好きな
男の子の名前聞いてみよ! 何人おるやろ﹂
さ
﹁やめろ、そういうこと﹂
頬に赤みを潮し、苦虫を噛み潰したような表情で紺は止める。
﹁えー、普通気になるものやん。自分ではならへんの?﹂
﹁ならねーよっ! だいたい、いねーだろそんなやつっ。オレはず
199
っと童男姿だったんだぞ、そういう対象になってるわけねーだろ﹂
穂乃果が、ふりかえって後ろの直文やマイタケと顔を見合わせた。
そろって呆れた顔をしているのが腹が立つ。
前に出てきた直文が、肩をすくめるようにして言った。
﹁あのさぁ、紺。どう見てもおまえのこと気にしてる男、うちのク
へきれき
ラスで俺が名前知ってる範囲だけでも二人いるし﹂
青天の霹靂で、紺はたじろいだ。
﹁なんだよ、それ。知らねーぞ﹂
﹁ぼくのクラスにもいるよ。複数﹂直文の隣の学級であるマイタケ
が手を挙げた。﹁紺見るたびからかったり嫌味言ったりちょっかい
しんしゃく
出してる男子グループのうち、何人かがそうだよ。⋮⋮君はウザが
ってたけど、そういう事情も斟酌してやってね﹂
絶句して立ち尽くしている紺に、穂乃果が駄目押しする。
﹁紺ちゃん、女子からしょっちゅう特定の男子名指しした恋愛相談
引き受けてるやん? あれ、紺ちゃんへの牽制でもあるんやで。そ
の男子が紺ちゃんのことええなと思ってるぽいから﹂
﹁そ、そ、そんなこと知ったこっちゃねーって言ってるだろ﹂
紺は風呂で溺れているような心地になってきた。
顔が熱くなり、息が苦しい。
呼吸困難気味にはぷはぷしている彼女を横目に、穂乃果たちがひ
たいを寄せ集めて審議に入る。
﹁どう思う、この意外なネンネっぷり?﹂﹁こいつを好きな奴らに
同情する﹂﹁いや、耐性なさすぎて案外チョロく落とされるかも﹂
﹁あ、わかる。アタックされたらあっさり押し切られて誰かと付き
合いそう﹂﹁すごく面白そ⋮⋮不安やね﹂﹁つまり実質的に早い者
勝ちか﹂
﹁ふっ、ふざけんな、チョロくね︱︱!﹂
夕雲染まりつつある空に、惑乱した怒声が響いた。
200
やっぱり山内を呼んでくるといって紺は逃げてきた。
実家戻ってんのかな、と山内家に寄ってみる。玄関を開けてみた。
﹁山内ー?﹂
靴は、ない。家のなかに明かりもついていない。鍵は開いていた
が、このあたりの田舎では昼間家を空ける程度では鍵をかけなくて
も普通だ。
︵いないか。どこだあいつ︶
身を返して戸を閉め、敷地内から出ていこうとし⋮⋮紺は、足音
を忍ばせてそろそろと戻ってみた。勘がささやいたのである。
一気に戸を開けると、虚をつかれた山内くんが表情をこわばらせ
て立っていた。さっきは隠れていたようだ。紺が去ったと見るや、
念のため玄関の鍵をかけておこうと出てきたのだろう。
﹁やっぱりいたのか⋮⋮なにやってんだよ、居留守まで使いやがっ
て﹂
口を尖らせた紺に、山内くんは押し殺した声で言った。
﹁いますぐ帰って﹂
それはついぞ、紺がかれから聞いたようなことのない声音だった。
口を開け、それから眉を寄せ、紺はいぶかしむ。
﹁おまえ⋮⋮﹂
かれの様子は、明らかにおかしかった。
﹁⋮⋮山内。蔵で、お祖母様になにか言われたのか?﹂
﹁帰って。あとからそっちに戻る﹂
取り付く島もない、突き放す口ぶり︱︱紺は、自分でもびっくり
するくらいに腹が立った。﹁なんなんだよ、なにかあったなら言え
よっ﹂食い下がろうとする。
エンジンの音が、表で聞こえた。
山内くんのパパの乗るバイクの音。
その瞬間、紺は山内くんに腕をつかまれてぐいと家のなかに引き
込まれた。目を白黒させる。
201
山内くんはすばやく、しかし音を立てないように玄関の戸を閉め、
鍵を下ろした。呆然とする紺に﹁上がって。早く﹂と押し殺した声
でささやいた。
﹁おい、何が⋮⋮﹂
﹁静かに。お願い、僕が家にいるってばれたら困るんだ。なにも言
わないで言うとおりにして﹂
やむなく紺は靴を脱いで上がった。その靴をもすばやく山内くん
は回収し、紺を押すようにして奥へ連れて行く。
客間へ入る。かびくさい押入れを開け、かれはそこに彼女と自分
の身を押しこんだ。かくれんぼでもしているかのように。
連れこまれた形の紺は、かれに密着した身をもぞつかせて困惑の
声をあげる。
﹁わけわかんねーんだけど⋮⋮むぐっ﹂
口を山内くんの手のひらでふさがれた。
かれはそうしておいて、わずかに開けた押入れの戸のすきまから、
真剣に室内をうかがっている。声を封じられた紺は至近から山内く
んをにらみあげた。すきまからの明かりに照らされた少年の横顔を
見て、どきりとする。
︱︱こいつ、すごくはりつめた顔してる。
唇を引き結んで血の気が失せた、余裕を完全に無くした表情。
暴れる気が失せ、紺は体の力を抜いた。悟ったのである。そんな
表情をさせるほどのただならない何かが、かれの上に起きているの
だと。
⋮⋮玄関が開けられ、閉まる音がした。
鍵を持っているのだから間違いなく山内くんのパパだろう。足音
が上がってきて、ぎしぎしと廊下をまっすぐ進んでくる。紺はおと
なしく耳をかたむけ⋮⋮ふと気づいた。
足音は、大人二人分ある。
連れ立って客間に入ってくる気配。
唇をふさぐ山内くんの手のひらが、緊張ゆえかほのかに汗ばむの
202
を感じた。
入ってきた者たちはすぐ隣室⋮⋮たしか仏間⋮⋮へと通過してい
った。動く気配はするが、会話は一言も聞こえてこない。無言でろ
うそくを灯し、線香に火をつけ、手を合わせている情景が目に浮か
んだ。
それから、かれらはふたたび客間に戻ってきた。ふすま戸がすう
っと開いて、閉まる音。
山内くんのパパの声がした。
たかゆき
﹁︱︱ありがとうよ、楓ちゃん。いつもこっちで手を合わせてくれ
ていたんだろう。佐知子と隆之に﹂
︵楓?︶
驚きに目を見開く紺の耳に続けて入ってきたのは、
﹁お礼など⋮⋮先輩。佐知子は、わたくしの友人だったんですよ﹂
まぎれもなく、母親の声だった。声は苦笑と懐古、そして哀愁を
帯びている。
﹁ただ⋮⋮佐知子はともかく、隆之さんはわたくしが手を合わせて
も喜んでくれるでしょうか。わたくしは十妙院ですが﹂
﹁問題ねえだろうさ。隆之のやつは祝部本家の当主ってえ立場にも
かかわらず、この町の古い考え方が大嫌いな奴だった。俺以上にな﹂
パパの声もまたしんみりと、思い出を噛み締めるように変化する。
﹁一度四人で会ったことを思い出しな。対立する家の人間だからと、
楓ちゃんを隔てるような素振りはかけらもなかっただろ。
もうちっと、楓ちゃんにもあいつのことを知ってもらいたかった。
その前に逝っちまったが﹂
﹁ほんとうに残念です。
あの一回しか、間近で言葉を交わしたことはないけれど。そうい
う方だと知ってさえいれば、もっと早く打ち解けることができたか
もしれないのに。
祝部隆之さんが⋮⋮あの穏やかな人がすべての鍵だったのだと、
この十年で何度思ったことか。かれがあのとき、とつぜんに亡くな
203
ったことで、何もかもが変わってしまった﹂
﹁⋮⋮たしかにな。こんな成り行きになるとは、あのころは想像も
していなかった﹂
﹁ええ、先輩﹂
楓さんの声にこもる感情が、そのとき微妙に変化した。
﹁隆之さんがご存命であれば佐知子は⋮⋮かれと結婚していたはず
だった。あなたではなく﹂
︵いったいなにを話してるんだよ、楓⋮⋮佐知子ってひとが、おじ
さんの奥さんで、それが死んだ祝部の当主と結婚するはずだった?︶
母の言葉に当惑して、紺は話の先を求めた。息を殺している山内
くんの胸前へと、割りこむようにごそごそと動く。自分もすきまか
ら室内をうかがった。
あかね色に染まった室内。窓辺の床に、放心したように座ってい
る楓さんの姿が見えた。白足袋を履いた足を崩して、片手を床につ
き、視線を窓にあてている。さながら窓が、過ぎ去った時代を描い
た追憶の絵画であるかのように。
いた
差しこむ西日に染まったその姿は、芯を抜かれたようにうつろで、
見るものをうずかせるような傷ましいなまめかしさがあった。こん
な楓、これまで見たことない︱︱紺はとつぜん、ひどく居心地悪く
なった。
、
おぐな
﹁あなたはとつぜん、佐知子を連れてこの町を出て行ってしまった。
みんないなくなって、先輩⋮⋮僕は﹂
なり
楓さんは、そっと息をもらして言った。知らずのうちにか、童男
姿をしていたころの一人称に戻って。
﹁僕は、あなたが佐知子と籍を入れたと聞いたから、それまで断っ
ていた見合いを受けたんです﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
パパの声に、困惑が混じった。
困っているのは押入れで聞いている紺も同様である。
︵なにこれ。なんかやだ︶と顔を伏せたくなる。母親の告白など、
204
聞いても気まずいばかりだ。母が少女だった昔の話だとしても。父
は自分が生まれる前に死んでいるのだから、未亡人の母がいつ再婚
してもおかしくはないと頭ではわかっていても。
﹁ごめんなさい。いまさらこんなことを言い出して﹂
恥じいる様子で楓さんはうなだれる。
が、はたと気づいた表情で顔を上げ、あわてた声を継いだ。
﹁あの、はしたない女だと思わないでくださいね。いまになって先
輩に受け入れてほしいなどと、そういうつもりで話しているのでは
ないですから。
ただ⋮⋮聞いてください﹂
楓さんは表情に浮かんでいた慕情の残滓を消し、居住まいを正し
て、
﹁わたくしは、あのころあなたを見つめていました。あなたが佐知
子をひそかに見つめていることも、その佐知子に恋人が⋮⋮隆之さ
んがいることも知っていました。
あなたは、好いた女を親友から奪おうとするような人ではなかっ
た。たとえそれが友人の死後であっても、いえ、亡くなった直後だ
からこそなおさらに﹂
だから、あなたと佐知子の唐突な結婚には当初から違和感がぬぐ
えませんでした。
きっぱりと、彼女はそう言った。
無言のパパに向けて、さらに断定の言葉を投げかける。
﹁あなたは、おなかに邪鬼丸くんのいた佐知子を守るために籍を入
れたのでしょう?
邪鬼丸くんは、隆之さんの子。そうですね﹂
パパは黙ったまま、すぐには答えなかった。
だがその痛いほどの沈黙こそが、それが真実だとなによりも雄弁
に語っていた。密着した山内くんの体がわなないたのが、紺にはわ
かった。
﹁⋮⋮俺は隆之に、自分になにかあれば佐知子のことを頼むと言わ
205
れたことがある。
まるで自分の死を予感しているみたいな言い方で、縁起でもねえ
と俺は怒ったが、翌週あいつはほんとに死にやがった﹂
ようやく、パパの声が流れ始めた。すべてを認める告白。
﹁佐知子は知ってのとおり孤児出身で、元から頼れる身よりがない
女だった。
そのうえ、隆之のやつを失った打撃が大きすぎた。佐知子はあの
日から、二年後に死ぬまでずっと心身の状態が思わしくなく、自分
の身を守れるような状況じゃなかったんだ﹂
﹁はい⋮⋮覚えています。﹃絶対に、通夜にも葬式にも顔を出して
は駄目﹄と言ったのに、あのときだけは佐知子はなにかに憑かれた
ようになって、わたくしたちの言うことを聞かなかった。結果、祝
部の縁者たちに、彼女の存在は知られてしまった。魑魅魍魎のよう
なあの人たちに﹂
大人ふたりの嘆息。
﹁楓ちゃんの言うとおり、佐知子の腹にはすでに隆之の子がいた。
本家の断絶
ほかの祝部分家の術者⋮⋮あの、隙あらば本家に取って代わろうと
していた連中、隆之の死を誰より喜んでいた連中がそれを知れば、
どんなことになったかわからねえ。たとえ隆之の子であることを隠
しるし
して育てたとしても、分家どもに少し試されれば、その子は祝部の
血を引く徴を見せてしまうかもしれねえ﹂
﹁だから先輩はそれを誤魔化すために、生まれてくる子を、自分の
子と偽れるようにしたんですね。
生まれた子が祝部の徴を備えていても、それは分家であるあなた
の血のゆえだと思わせられる。この土地から離れて、祝部に二度と
関わらないという姿勢を見せたのも、かれらの悪意をできるかぎり
避けるためだった﹂
隠されていたものが暴かれていく。
﹁あなたは友人の死で故郷に嫌気がさし、恋人を連れて出ていき、
よその土地で結婚したのだと⋮⋮周りにそうよそおったのですね﹂
206
﹁実際、嫌気がさしていたからな。この地を捨てるにためらいなん
ざなかった。
もったのは数年だったけどな。邪鬼丸は結局分家の誰かに目を付
けられちまったようだ。姫路なんぞと言わず、もっと遠くへ逃げり
ゃよかったのかもしれん。
そうしなかったのは⋮⋮﹂
パパの慙愧に満ちた吐露。
﹁そうしなかったのは、俺の手に余ることが起きれば、十妙院に⋮
⋮楓ちゃんに助けを求められるという甘え心があったからだ。
すまねえ。勝手に行動したくせに、最後はいつも頼っちまって﹂
﹁ほんとですよ。全部は打ち明けてくれず、僕が必要となったとき
だけ戻ってくるんですから﹂
楓さんの雰囲気がまた崩れる。目元を赤らめ、泣き笑いに近い表
情。
﹁佐知子と出ていくときは﹃たぶんまた来る。連絡する﹄としか言
わずに行ってしまって。待っていたら、来たのはあの子と籍を入れ
たという報せだった﹂よほど根に持っていたのか、彼女はさっきと
同じことを繰り返した。さっきと違うのは、切なげに怨ずる響きが
たっぷり声に含まれているところであろう。﹁謝られたっていまさ
らです。先輩はいつだってわたくしに対しては勝手なんです﹂
﹁⋮⋮すまんかった。いろいろと﹂
﹁もういいです。先輩はそういうひとだもの。にぶくて、一途で、
融通のきかないひと。
そういうあなただからしょうがありません。親友と好きな女のあ
いだの忘れ形見を守ることしか、頭になくたって﹂
押入れのなかにまで、話は残らず響いていた。
紺の背に密着した山内くんの体が細かく震え続けている。
紺はどうすればその震えを止めてやれるのかわからず、唇を噛み
締める。大人たちの話をもう聞かせないほうがいいのだろうか。
︵お祖母様がこいつに吹き込んだのは、この話かよ︶
207
今日のこの時刻、この部屋に隠れていれば、ほんとうのことを確
かめられるよと山内くんに言ったのだろう。
︵こんなこと明かしてどうすんだよ? お祖母⋮⋮あのクソババア︶
直後だった。
山内くんが押入れの戸を開け放ったのは。
紺が制止する暇もなく、かれは紺の横から室内へと飛び出した。
驚愕の表情で、パパと楓さんが座布団から立ち上がる。パパの前
で一瞬だけ山内くんは動きを止めた。
少年はくしゃりと歪めた顔をそむけ、玄関そして外へと駆け出し
ていった。
● ● ● ● ●
夏の夕べの通り雨が降り注いでいる。
缶蹴りで遊んだ公園の樹の下にすわりこみ、山内くんはひざに顔
を埋めている。頭のなかがぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかま
ったくわからない。
︵銀さんの言ったことはぜんぶほんとだった。あの人の指示通りに
したら、パパたちの話を聞けた︶
ほんとに未来詠むんだ、すごいなあの人、と現実逃避気味に感心
する。現実など見つめたくなかった。
︱︱僕はパパと血がつながっていない。
︱︱僕の本当の父親は死んでいて、パパはかれの遺言で僕を引き
取っただけの人。
銀に教えられ、先刻確定したその情報が、いつまでもぐるぐると
頭のなかをかき乱している。枝葉のあいだを縫って夕立の雨粒がし
たたってきていたが、それを避けて移動することすらおっくうだっ
た。
208
︵この町に来なきゃよかったな︶
身を濡れるに任せながら、そう強く思った。来なければ、こんな
知りたくもない話を知らずにすんだはずだった。
自転車が止まる音。
﹁山内⋮⋮﹂
少女の声がかかり、雨滴が頭上から落ちてこなくなった。
山内くんはちょっと顔をあげた。
水玉模様の傘をかれに差しかけて、自転車から身を乗り出した紺
が目の前にいた。
なんで君が泣きそうな顔してるんだよ、とちょっとおかしく感じ
る。
﹁あのさ⋮⋮とにかく、帰ろう。おじさんが心配してる﹂紺はそう
言う。
﹁パパが﹂
山内くんは口のなかで言葉を転がし、
﹁⋮⋮先に帰って。僕は、あとから戻る﹂
﹁放っておけるか。いっしょに帰ろうって。なあ﹂
面倒見の良い紺の気質を、山内くんはよく知っていた。
だがこのとき、かれの精神状態には余裕がなかった。いつもなら
この程度で覚えるはずのないいらだちが、あぶくのようにふつりと
生じる。
口角を吊り上げるようにして、無理やり笑う。
﹁だいじょうぶ、紺⋮⋮僕だってそこまで馬鹿じゃない。ちゃんと
帰るってば﹂
﹁いいから。行こ﹂
傘の柄を持った紺の手が、指を伸ばしてかれのシャツの袖をつか
む。
そのおせっかいさに、いらだちが瞬間的に自制を突破して、
﹁うるさいな!﹂
傘ごと少女の手をはねのけてしまった。傘が宙に舞って落ちた。
209
﹁僕のことなんか放っておいてよ!﹂
怒鳴って彼女を見上げてすぐに、山内くんは後悔した。
手を振り払われた紺は呆然としていた。それから眉がぎゅっと下
がって目尻に涙がたまり、
﹁そんなら勝手にしろよっ! どこにいるかはおじさんたちに伝え
るからな!﹂
怒鳴り返すと、立ちこぎで紺は走り去っていった。
取り残された山内くんは、自己嫌悪に唇を噛む。手を差し伸べて
くれた女の子を泣かせてしまった。
︵最低⋮⋮︶
すぐに帰ろうと思った。
戻ってもどうすればいいかわからないが、ひとつだけやることは
決まっていた。紺に謝る必要がある。
のろのろと立ち上がった。林道に転がった、水玉模様の傘を拾い
上げようと歩き出す。
歩く。
歩く。
いつまでも、数メートル先の傘にたどり着けなかった。
視界が揺れている⋮⋮大地が波打ち、木々や傘がぐんにゃりと歪
んでいる。山内くんはひどく気持ち悪くなって転倒した。吐き気。
視界が回転する。車酔いを最悪にしたよりもっとひどい。
目の前に、自転車のタイヤが見えた。
紺が戻ってきたのかと思ったとき、アオオニの嗤い声が降ってき
た。
﹁おい、どうした。今日はずいぶん、摂魂術がかかりやすいなあ?﹂
続いて後頭部に強い衝撃がぶつかり、山内くんの意識は刈り取ら
れた。
210
ひふみよいむなや
すでに明け方が迫った時刻だった。
ケ
一台のトヨタ・クラウンが銀の車体で闇を切り裂き、曲がりくね
った山道を蛇行している。
﹁もののけというのは、﹃物ノ気﹄⋮⋮元は妖しい存在ではなく病
のことだった。いや、そのふたつは同一視されていた。人は呪詛や
恐ろしい物の存在によって病となるのだと﹂
クラウンの後部座席。
頬を腫らした山内くんの隣で、腕を尊大に組んだアオオニが語る。
﹁まんざら無知な昔人の思い込みじゃない、共通点はあるのさ。
精神か肉体かが弱れば抵抗力が衰え、病にかかりやすくなる。同
時に、ゆうべのおまえのように呪詛や術にもはまりやすくなる。人
に備わる陰の気と陽の気⋮⋮そのバランスが崩れ、外のものに侵さ
れやすくなっているという一点で、両者は同じだ。
で、おまえがずいぶん参っていた理由がそろそろ知りたいね。な
にかあったのか?﹂
面白がるような好奇の目をむけられたが、山内くんは口をつぐん
で答えない。意識して無視したというよりは、泥酔状態で頭にろく
ろく話が入ってこないのだ。
﹁飲ませすぎたか﹂アオオニが舌打ちして、ウイスキーの瓶を持ち
上げて残量を確かめた。中身はほとんど残っていない。
山内くんは縄で手首を後ろに縛られ、数時間おきに無理やり口に
酒瓶を突っ込まれている。目の焦点すら定まらない。小用のために
縄をほどかれて車から下ろされたときでも、逃げるチャンスは皆無
だった。
そんな次第で、さらわれた直後からいままで、一晩じゅう車内監
禁状態である。
211
トヨタ・クラウンを運転しているのはマスクと帽子で顔を隠した
アカオニである。ハンドルさばきは大人とそう変わらず、無免許運
転に慣れていることをうかがわせた。
車で移動する︱︱アオオニがこのアイデアを、無上の狡知と思い
こんでいるのは明らかだった。﹃十妙院の連中の占術で居場所を探
られたら困るからな、動き続けているのがいい﹄そう山内くんの横
で得意げにかれは語っていた。
もっとも、山内くんは知っている。
この小細工はあまり意味が無いだろうことを。
十妙院家の占術︱︱特に銀のそれは、居場所を探るといったちゃ
ちなものではない。未来をも詠む彼女の力を、アオオニたちがまん
まと欺き通せるとなど思わなかった。
⋮⋮それを黙っていたのは、かれらに教えてやる気がなかったか
らというより、何もかもどうでもいいと思いはじめていたからだ。
山内くんは車窓から、暗い山肌をどんより濁った目で見つめる。初
めて口にした酒が、少年の捨て鉢な気分を促進していた。
運転しているアカオニが鼻にしわをよせ、舌打ちして文句を言う。
﹁そいつ完全にラリってるせいで何発殴っても面白くねえ。飲ませ
るのが早すぎたよ、崇くん﹂
﹁しかたない。こいつはやはり僕の術に耐性がある。摂魂術がかか
ったと思ったら、すぐに解けてしまったからな⋮⋮縛るだけじゃ不
安だった。
殴り足りないなら、僕の用が終わったらこいつはおまえの好きに
しろよ。ただし死体損壊の罪を足されても僕は知らんぞ﹂
﹁⋮⋮や、やっちまうのかよ﹂
﹁そういうことになるな﹂
うわずったアカオニの声に、アオオニは平然とうなずき、
﹁だが、僕たちが法的に殺人の罪に問われるようなことにはまずな
まじない
らない。心配するな。
禁厭による死者が出ることなど、現代社会のシステムは想定して
212
いない。なにか起きても警察には偶然と見なされるはずだ⋮⋮ある
いはせいぜい、不可解な事故として処理される。僕らが罪に問われ
少し派手めの非行行為
ってところだ﹂
るとしたら誘拐に車内監禁行為、傷害、それに、酒の強制に無免許
運転かな? アオオニは愉快そうに短い笑声を放ち、
﹁おまえに昔話をしてやるよ﹂
山内くんにふたたび顔を向けた。
﹁むかしむかし、六百年近い昔のこと、飢饉が多かった室町時代。
た
重税にあえぐ民が、播磨全土を揺るがすほどの大規模な反乱を起こ
した。
あかるしょう
世にいう播磨の土一揆だ。
当時は明荘と呼ばれていたこの土地は、もっとも過激な反抗に起
った。荘民が弓や刀をとって代官所を襲ったんだ。播磨の守護大名
だった赤松氏は、明荘の領主から助けを求められ、この土地に対し
て慈悲のない弾圧で報いた。一揆は力で鎮圧され、大勢が殺された。
近隣への見せしめとして、この土地での仕置きは徹底された。守
護の兵は、山へ逃げ込んだ荘民を追って執拗に討ち取りつづけた。
おびただしい死体を持て余すくらいに。
首だけにしても持ち運ぶには多すぎ、重すぎた。それに反乱は広
範囲で起こっていたので、守護の兵は転戦せねばならず、人狩りを
急いだ。というわけで、死体の一部が切り取られた。
どうしたと思う? こう、さ﹂
自分のこめかみに指の腹をあて、アオオニは頬まですっと撫で下
ろした。
﹁首を持って帰るかわりに、顔の皮を剥いだんだ。当時の慣習じゃ
上唇から鼻にかけて削ぎ取るのが普通だったが、この場合は顔の識
別のためまるごと剥いだのかもな。
山中で殺された者たちの顔は順次ふもとに集められ、検分役の武
ものを数えると恨
士によって一枚、二枚と改められていったそうだ。狩り残した逃亡
者がいないようにとな。以来、このあたりでは
213
みを含んだ死霊が寄ってくる
と言うようになった﹂
話を茫洋と聞いている山内くんの耳に、少女の声がよみがえる。
明町に来たばかりのときの、紺の警告。
﹃夜になったら、口にだしてものを数えちゃだめだからな﹄
︵紺⋮⋮ゆうべ、泣かせちゃったんだった︶
つぎ会ったとき謝らなくちゃ、と思う。もう会えないかもしれな
いが。
隣ではアオオニが暗い車外の様子をうかがっている。
﹁たしか、このあたりに供養のための塚があったはず⋮⋮
︱︱おっと、まさにここだ。停めろ、陽一﹂
鬱蒼と茂った森のきわに、黒っぽい石碑が立っているのが見えて
きていた。
石碑の前に、クラウンはゆっくり停車する。
アオオニは続いて運転席に指示した。﹁こいつを下ろすぞ﹂
が、アカオニはぐずぐずためらう様子で、腰をあげようとしなか
った。
﹁おい。下ろすのを手伝え、陽一﹂
もう一度、アオオニが運転席に声をかける。アカオニは小さく首
を振った。
﹁俺は車から下りたくない﹂
﹁なんだ、ここへきて﹂アオオニが呆れた声を出す。﹁もしかして
怯えているのか?﹂
﹁だってよう⋮⋮俺は崇くんと違って、妙なものから自分を守れる
わけじゃねえんだもの﹂
ハンドルに顔を埋めるようにしてアカオニは背を丸めている。運
転席から離れまいとしがみついているようにも見えた。若干間があ
いたのち、アオオニが失笑した。
﹁そうかよ。じゃあここにいろ。おまえの親父の車のなかで、震え
て待ってるがいいさ﹂
相方のささやかな反抗を、アオオニが不快に思っているのは明ら
214
かだった。
いらだちをぶつけるようにかれは手を伸ばして、山内くんの襟を
乱暴につかみ寄せた。
﹁おい。紺は、僕と対決しようとしていたようだが︱︱﹂アオオニ
は山内くんをのぞきこんで嘲った。﹁僕を馬鹿だと思っているのか
? なんで僕が、そんな十妙院がお膳立てした術くらべなんぞに付
き合わなきゃならない? 僕の目的は、紺を打ち負かす程度のちっ
ぽけなことじゃない。僕は力が欲しいんだ⋮⋮そっちさえ達成して
しまえば、あの小娘と対決する必要などどこにもないんだよ﹂
ドアを開けてアオオニは、山内くんを外に引きずり出した。頭上
に張りだした松の枝葉の隙間から、銀月の一部が見えていた。夜明
あした
神界の朝に道たどるなら
かみよ
⋮⋮伝わるあの
け近く、空は一面の黒から藍へと色を変え始めている。
﹁そろそろ明け方だ。
呪禁の唄が本当ならば、闇宮への扉が開きやすいのはおそらくこの
時刻だ﹂
アオオニは山道に降り立って、山内くんの胸を踏みつけた。
けが
﹁闇宮の神は、祝部の血を引く者にのみ応える。
加えてもうひとつ、闇宮の神は死の穢れに惹かれるという。清浄
をこそ良しとするほかの多くの神と違ってな⋮⋮僕も、おまえも、
祝部の血は濃い。となると決め手はどちらがより穢れているかだ。
ぬくぬくと生きていたおまえなどより、たゆみなく小動物殺しを重
とんび
ねてきた僕のほうが穢れに染まってるはずだが、完全に安心なんて
できない。おまえという鳶に油揚げをかっさらわれちゃかなわない、
わかるだろ?
おまえをここで片付けて、僕だけが闇宮の庭を踏んでみせる﹂
山内くんは濁ったまなざしでにらみ返し⋮⋮
あることに、気づいた。
︵え⋮⋮?︶
﹁もしかして⋮⋮﹃まだ﹄⋮⋮?﹂
闇宮︱︱あの影のように黒い千本鳥居が並ぶ暗い場所。そこに未
215
だ入ったことがないと、アオオニは言ったも同然だった。
アオオニが吹き出す。
﹁そう簡単に入れるものか。まるでおまえはあちらに行くことに成
功したみたいな口ぶりだな﹂
山内くんは返答に窮する。同時に、酔った頭がせいいっぱいに情
報を処理しようとする。
つまり、神かくし事件の犯人はアオオニではない。
︵でもこいつは、闇宮で落としたはずの牙笛を持っていた⋮⋮︶
いったいどういうことだろう。混乱しながら見上げる︱︱アオオ
ニの顔にも、じわじわと困惑が広がりはじめていた。
﹁⋮⋮おまえ、まさかほんとうに行ったと言うんじゃあるまいな﹂
さらに失笑しようとして失敗したのか、アオオニの頬がぴくぴく
とひきつった。
にわかに、それまでよりずっときつく体重がかけられ、アオオニ
の足の下で山内くんの肋骨がきしんだ。憎悪のまなざしが、もがく
山内くんをねめつけてくる。
﹁先を越してただと? 嘘をつくな。僕がどれだけ闇宮の扉を開こ
うと試行錯誤したと思ってる。おまえなどがそんな簡単に︱︱﹂
胸がぐりっと強くふみにじられ、それから、
﹁⋮⋮それが嘘だろうとほんとうだろうとどうでもいい。どうあっ
てもおまえを始末してやる。そして、この朝のうちに闇宮を開いて
やる。
人を殺して穢れを濃くすれば、闇宮の神は今度こそ応えてくれる
はずだ﹂
学生服のズボンから、アオオニは白いレコーダーを取り出した。
録音されていた唄が再生される。
数え唄。
︿ひとりきな ふたりきな
みてきて よってきな
216
いつきてみても ななこの帯を
やの字にしめて ここのやとおや
ひいやふう みいやよう いつやむう
ななや ここのや とおや︱︱﹀
リズム
よ
﹁さっきの話を覚えているな? 数え歌は、死霊を喚ぶ﹂
メロディ
律音がつなげる。
諧音が喚ばう。
唄い終わるとまた最初から、延々とリピートされ続け⋮⋮闇を、
揺すぶる。
﹁それとこれだ︱︱悶え死ね﹂
アオオニが粉のようなものをつまみ上げてふりかけてくる。必死
にもがく山内くんの胸の上にぱらぱら粉が落ち⋮⋮影が胸の上でぐ
はこう
ねぐねと暴れ始めた。
爬行する、黒い蛇のようなシルエット。
︵極楽縄⋮⋮!︶
黒い蛇は首にからみついてきて、ふたたび姿を消した。気道が狭
窄するのを感じ、山内くんは恐慌状態におちいる。
︵首の中にもぐり込まれてる。気道を絞められてる︶
抗えないほど弱くはない。だが奇妙にも刻々と、気道を締め付け
る力が大きくなっていった。
あ
﹁呪詛用の式神にこれまでは動物霊を使っていた﹂アオオニが冷酷
らみたま
に言う。﹁が、あいつらには大した力がない。今度はこの一帯の荒
御魂⋮⋮無念を残したままの人霊を利用してる。おまえの首を内側
から絞めているその縄は、集まってくる死霊を吸うほど強くなって
いくぞ﹂
︿ひ⋮⋮ふ、み⋮⋮よ、い、む、な、や⋮⋮﹀
冥い声が、響いた。
217
レコーダーとは別の場所から。
アオオニが動きを停止した。かれは山内くんの動きを封じたまま
ふりかえった。
窓の開いたトヨタ・クラウンの運転席から、アカオニが凍りつい
た表情でアオオニを見つめている。
﹁た⋮⋮崇くん⋮⋮﹂
震える指でアカオニはカーラジオを指さした。
にじゅ
さんじゅ
︿ひいふうみいよ いつむにななよ ななよ ななよと 小石
重ねて﹀
︿ななよこのとお ななよこの二十 ななよこの三十﹀
︿ななつのお祝い わが子をとられ ここのかとおやを なき
なきくらし﹀
︿しんだ子のとし かぞえて泣いて しんだ子のほね かじっ
て泣いて﹀
︿ひいふうみいよ いつむにななや ななごとこうと わかい
しいやまの︱︱﹀
複数の声が重なっていた。
アカオニが逆上に近い叫び声をはりあげた。
﹁し︱︱知らねえ! おい、こんなの入れてねえよ! ラジオから
なんで聞こえるんだよ!﹂
急に、レコーダーから流れる唄までもが、極端に低い声に変わっ
た。
トオ
︿ひイふウみいヨウ 忌ム名ヤコノ頭 くびひとおツ くびふ
タあつ くびみいっつ よおっついつぅつ あたまあつめて おて
だまぽんぽん 余ル胴身はどうしましょ 腕もぎましょおか肝抜き
ましょか それともおべべを着セつけて お雛遊びをしマしょうか﹀
218
﹁⋮⋮予想以上の集まりっぷりのようだな﹂
うろたえたらしく少し目をさまよわせたのち、アオオニがうそぶ
く︱︱平然を装っているがだいぶ虚勢が入った声だった。
﹁アオオニ⋮⋮見えるなら、まわり見ろ⋮⋮﹂
どんどん締まっていく苦しい息の下から、かれはなじる。
﹁多すぎる⋮⋮あんた、これ、コントロールできるの?﹂
さっきから、山内くんの視界には見えている。
ぼろ
顔面が凹み、眼球の飛び出た作業着の男が、道路をよたよたと歩
いている。襤褸の着物を着た顔の皮のない子供ふたりが手をつない
で石碑に座っている。顔を覆ってすすり泣く花嫁衣装の女がいる。
頭部のない裸の男が、裂けた腹からこぼれた自分の腸を傷口に詰め
直している。石碑や木々の陰からは無数の人影がのぞいていた。
一回ぐるりと見回してアオオニは沈黙し⋮⋮
やおら、開き直ったように青ざめた笑みを浮かべた。
﹁おまえはそんなこと心配しなくていい。さっさと喉をつまらせて
ろ﹂
︵あ、コントロールできないんだこの馬鹿︶
山内くんは絶望した。
⋮⋮視界の端で、バイクのヘッドライトが山道をこちらに向かっ
てくるのが見えた。
219
ひふみよいむなや︿2 長縄落秘法﹀
かなたの山道にバイクのライトが輝いている︱︱闇を走ってくる
それを横目にとらえたとき、山内くんは周囲に死霊が満ちているこ
とも、窒息しかけていることさえも一瞬忘れた。
明かりは直線距離にしてもまだ五百メートルの向こうにあり、し
かもすぐ木立にまぎれて見えなくなった。しかし山内くんの胸と網
膜には希望の光が焼き付いた。
︵人が来てくれる︶
アオオニもその光を見たようだった。
﹁邪魔が入るか﹂アオオニがうなってちらりと林の暗がりに目をや
る。かれは最初、車が通りかかる前に、山内くんの体を周囲の木立
のなかに隠すつもりだったのだろう。だが怯えたアカオニが手を貸
さなかったうえ、いまとなっては林に踏みこめる状況ではなかった。
林からただよってくる嫌な気配は刻一刻と強まっていた。
路上に出てきている物言わぬ死者たちに加え、複数の黒い影が木
陰からさまよい出てくる。ここに及んで、結局アオオニは山内くん
を林に運ぶことを断念したようだった。
舌打ちせんばかりにいらだった表情となると、アオオニは山内く
んの襟首をつかんだ。路上をひきずり、少年の体をふたたび後部座
席に押し込む。
短い距離でも人をひきずるのは重労働である。呼吸を荒げながら、
アオオニは運転席にせっつく。
﹁車を出せ。ひとまずここから離れる﹂
﹁た、崇くん、待てよ⋮⋮どうすんだよ、これよう﹂
アカオニが唇を震わせながらカーラジオを指さす。数え唄はやん
でいたが、ぶつぶつささやく低い声がそこから漏れ出てきていた。
アオオニがそれどころではないとばかりに叱咤する。
220
﹁あとで処理する! 一体二体なら霊などどうにでもなる、生きた
人間に見とがめられるほうが面倒だ。出せ﹂
どう見ても納得した表情ではなかったが、しぶしぶと前に向き直
りアカオニはアクセルを踏み込んだ。焦った声で罵りながら。﹁気
持ちわりいな⋮⋮ハンドルが重い﹂
山内くんはアオオニの横で必死に細い息を吸い込みながら、首を
ふった。
︵重いに決まっている︶
運転席の足元から、焼けただれてずるりと皮が剥けた赤い手が伸
びている。それはぶらさがるようにハンドル下部をつかんでいた。
ひ
それに、車の天井や窓に、血の手形がべたべたとつけられている
︱︱内側から。助手席のシートの向こうからは轢きつぶされた子供
の顔が半分のぞいていて、後部座席を見つめてきている。眼球が飛
び出した眼窩でものが見えているとしたらだが。山内くんの左隣の
席にも、さっきからなにかが腰掛けていた。視界の端に白髪まじり
の裂けた頭部が見えて血のにおいが鼻をついた。見るまいと顔をそ
らす。
しぜん、反対側の隣に座っているアオオニの横顔に視線が向く。
アオオニは見えているのか見えていないのか、腕を組んでむっつり
と前方に視線を据えたままである。
﹁どう見ても一体二体じゃ、ないよ⋮⋮それに収まるとも思えない
⋮⋮﹂
どうにか非難を絞りだした山内くんに、アオオニは目を向けず答
えた。
﹁ふん、霊など大したものじゃないというのはほんとうのことだ﹂
その声にはまだ強がりが感じられたが、ふてぶてしさが取り戻さ
れていた。
﹁いいか、陰陽の理にしたがえば、生者と死霊はそれぞれ﹃陽﹄の
ひなた
かげ
存在と﹃陰﹄の存在に対置される。
陽から陰が退くように、本来は生者のエネルギーのほうがはるか
221
に強い。比べれば霊など幻影のようなものだ。
ああ、たしかに例外はある⋮⋮波長が合うかにもよるが、生者に
フィールド
影響を及ぼせる強い念を持った死者もいる。
それに、特定の場において陰の気そのものが強まれば、あらゆる
陰の存在は活性化する。けれど、生者死者の力関係を完全に逆転さ
せるレベルの﹃陰の極まる場﹄などそうそうない。たとえこの町で、
この盆の時期でもだ﹂
一気にしゃべったあと一息ついて、
﹁そんな場がこの町で出現するとするなら、それはおそらくただひ
とつだ﹂
闇宮。
暗い神の領域。
にぎみ
﹁それこそは僕の求めているものだ。このまま陰気を強めていけば、
たま
しず
闇宮への扉が開くはずだ⋮⋮見ろよ、この霊どもはどう見ても和御
あらみたま
霊じゃない。祀られ、供養され、時とともに鎮められて祖霊や自然
の一部となった霊じゃない。
どいつもこいつも鎮まっていない荒御霊だ。闇宮の神が好む、﹃
穢れ﹄に満ちた迷える霊だ。
こいつらが集まるのが闇宮が開く前兆であれば、多少の危険があ
ろうとも問題じゃない﹂
︵正気?︶
山内くんはそうとがめようとしたが、断念した。なにを言っても
無駄なことが明らかで、息が真剣にもったいなかった。
それにアオオニの誤算は予想よりも早く明らかになった。
アカオニがけたたましい恐怖の叫びをあげたのである。
かれにも﹁見えた﹂のだと気づくより先に、ハンドルが右に切ら
れた。山内くんはアオオニもろとも横倒しになりかける。かろうじ
て姿勢を保ったと思ったとたん、反対側へ車は振れた。金切り声で
車窓を震わせるアカオニが、ハンドルを左右に無茶苦茶に切ってい
た。アクセルが踏み込まれて速度計の針がじりじり上がってゆくの
222
に、車は支離滅裂に蛇行しはじめる。乗り込んでいるものを振り落
とそうとしているのだと山内くんは気づいた。
空は白みはじめていたが、路上はいまだ闇が濃い。こんな運転は
剣呑きわまりない。アオオニがさすがに危惧の叫びをはりあげる。
﹁陽一っ、落ち着いて運転しろ! 道から飛び出して木に激突させ
る気か!﹂
﹁じゃあどうにかしてくれよおっ、こいつらを!﹂
泣き叫ぶようにアカオニが怒鳴り返す︱︱ひどい混乱のなか、絶
望しかけていた山内くんは気づいた。
バックミラーに、さっきのバイクの光が写っている。
ふたたび山内くんの胸中に太陽が上ってきた。
みるみるうちに車に迫ってくるそれは、見た覚えのある大型バイ
のぼりばた
クだった。重い排気音を響かせて、後方にちぎれかけた肉塊︱︱も
んじゃくん︱︱を幟旗のようにひるがえしている。
バイクを駆っているのは黒いライダースーツの巨躯。気迫をみな
ぎらせて追走してくる。
︵パパ︶
山内くんは驚かなかった。来るとどこかで信じていたのだ。
ただ、嬉しさと切なさの混じりあった想いだけがこみあげてきて
いた。それは炭酸の泡のようにみぞおちからふつふつと浮いてきて、
胸やのどや鼻の奥をちくちく刺していた︱︱それでいてじんわりと
温かかった。
もう、周りでうごめく死霊のことも気にならなかった。
アオオニは今度も山内くんのまなざしで状況を悟ったようだった。
かれはがばと振り向いて、強く舌打ちした。
﹁紺か!﹂
言われて今度は山内くんが気づく。パパの体で隠れていて最初気
づかなかったが、たしかにライダースーツの屈強な胴に、白い着物
すいかん
の袖が後ろからしがみついている。パパと同じくフルフェイスメッ
トをかぶった少女は、水干姿と呼ばれる服装をしていた。テレビ番
223
おんみょうじ
組で以前に見た、いわゆる陰陽師の格好。
︵紺も来てくれた︶
昨日ひどく突っぱねちゃったのに、と山内くんはまぶたを閉じた。
今度の嬉しさは慙愧をともなっており、同時にほのかな甘みを帯び
ていた。
もちろん、それに浸っていることなどできるはずもなかった。ア
オオニの冷笑が響いた。
﹁運転しているのはおまえの親父か? あんなでかぶつ、そうそう
いないからそうだろうな。おい陽一、いいかげんにしゃっきりしろ
! 霊なんか無視してろ、おまえより先にまちがいなくこいつが死
ぬ。慌てるならそれからでも遅くないだろう﹂
わかりやすい生きた敵が現れたことは、皮肉にもアカオニの精神
をぎりぎりのところで持ち直させたようだった。半ばしゃくりあげ
ながら、アカオニは運転を安定したものに戻す。
アオオニは安堵の息をついてそれを見届けたのち、口の端をゆが
めてさらに山内くんを嘲った。
﹁こっちは車だぞ、バイクで来たからどうだというんだ? 僕たち
がこうして走っているかぎり、紺にもおまえの親父にもなにもでき
はしまい。
ははっ、あいつらはまさに無駄骨折りだな! 悔しいだろう、お
い?﹂
そんなことはない。
山内くんは苦悶のはざまで、ほんのかすかに頬をゆるめた。暗い
車内で目ざとくそれを見て取ったアオオニが不可解そうに眉を寄せ
た。
﹁息が詰まる寸前でなにを笑っている⋮⋮気持ち悪いやつだな﹂
もう浅い呼吸しか肺に流れ込まない。せわしなく息を吸おうとし
つつ、山内くんは消えそうな声で言った。
﹁思い出せた、から﹂
﹁⋮⋮なにをだ﹂
224
﹁パパは⋮⋮僕があぶないときは、いまみたいに﹂
飛ぶようにして駆けつけてくるのだ。自分の危険はかえりみずに。
それを聞いたアオオニが無言となる。だが山内くんはかれの変化
には気付かずさらに記憶を掘り起こした。
﹁そうだ⋮⋮小さなころから⋮⋮ずっと、いつもそうだった﹂
そして大きな手のひらで、肩に抱き上げた山内くんの頭をくしゃ
くしゃと撫でるのだ。大変だったな邪鬼丸と、いたわりと安堵を太
い声ににじませながら。
あの声と手のひらの温かさにはたしかに、絆と呼んでもいいもの
があった。それならば、
︵血がつながっていなくても⋮⋮パパは僕のパパだ︶
温かい記憶の浮上が、安らぎをかれにもたらしていた。まことに
平凡な結論だった︱︱だが、たとえばこれを昨日悩んでいたとき誰
上っ面のきれいごとじゃないか
と。人生三度目の
かに言われていたとすれば、かれは反発していただろう。頭では受
け入れても、
誘拐という災難のまっただ中で、駆けつけるパパを見たからこそ、
かれは﹁納得﹂できたのだ。そういう意味では、アオオニに感謝し
なければならないのかもしれなかった。
⋮⋮が、
いきなり、それまでにもまして山内くんの喉輪が強烈に締めあげ
られた。酸素がたちまち脳に供給されなくなる。完全に言葉も出な
くなり、のどをかきむしるように山内くんはもがいた。
車内に充満していた死霊が、いつのまにか消えていた。否︱︱気
配はむしろ濃密となっていたが、すべての死霊が山内くんの首のな
か⋮⋮内側からかれを絞殺しようとする極楽縄に吸収されていた。
横からかれを見つめるアオオニの目が据わっていた。
﹁黙れよ。なにがパパだ?﹂
低い、押し殺したその声は、ふだんの嘲笑ではなかった。
﹁危ないときは来てくれるだと? そりゃあそうだろうよ。生かし
ておけば自分の役に立つだろう異能持ちの子供を、簡単に捨てるは
225
ずがない。それだけのことだろう、夢見てんじゃない⋮⋮!﹂
アオオニはみずからの手で絞めにきているわけではない︱︱しか
しこのとき、暗く燃えたかれの瞳には、いまにもそうしかねない危
うさが宿っていた。
窒息死しそうになりながら、山内くんは気づく。
いま、アオオニのむき出しの感情を⋮⋮心底からの憎悪を初めて
浴びているのだと。かれの悪意の昂ぶりが、極楽縄の呪を強化した
ようであった。アオオニは馬鹿だと山内くんは先刻確信していたが、
少なくとも術者としての素質に乏しいわけではないようだった。
もうひとつ悟ったことがあった。
︵こいつは、僕だ︶
周りの人間に恵まれなかった場合の僕だ。毛一筋ほどの細さとな
った気道をひゅーひゅー鳴らしながら、山内くんは呆然としていた。
かれへの哀れみがつかの間胸を満たした。けれどそれもアオオニが、
悪意のこもった命令を運転席に出すまでだった。
﹁おい陽一! 後ろから来ているバイクにうまいこと車を当てるん
だ。あちらが追突してきた事故だと見せかけてしまえばいい⋮⋮う
わっ!﹂
反射的に山内くんはアオオニの横顔に頭突きし、のしかかっての
どに噛み付こうとした。手を縛られている状況ではそれがもっとも
効果的な攻撃だった。﹁おい、崇くん!?﹂アカオニがあわてた声
を出す。
だが、どんどん強まる呪いのために山内くんはすでに酸欠状態に
ある。かれはあえぎ、口を放さざるをえなかった。髪や服を乱した
アオオニは、口汚く罵って山内くんの髪をつかみ、かれを自分の上
からぐいと押しのけた。
﹁いいかげんにあきらめろ。おまえの親父と十妙院どもの役立たず
っぷりを恨みながら、荒御魂の一柱になってしまえ。
霊どもが陽一にも見え始めていたのは、場の陰の気がどんどん強
まっているからだ。
226
もうすぐおまえは謎の窒息でくたばる、僕は闇宮を開ける! お
まえらにとっては時間切れだ!﹂
アオオニがわめいたとき、車窓がふっと陰る。
ぐんぐん速度を上げていたバイクが、ついに車の右横に並んだの
だった。
そしてパパがハンドルから左手を離して、紺のしがみついている
背中のほうに回し、
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮へっ?﹂
アカオニが横を見て目を丸くした。アオオニも言葉を切ってまじ
まじ窓を見つめ﹁なんだそりゃ﹂といぶかしげにつぶやく。
パパがピッケルの柄を左手につかんでいた。背にくくりつけて運
えんぴ
んできたのか紺に持たせていたのか、ともかくそれをパパは振り上
ウォーハンマー
げ、二メートルの巨体から猿臂をぶうんとしならせて︱︱
騎士の戦鎚よろしく、振りぬいた。
車の後部タイヤめがけて。
岩盤をも叩き割りそうな勢いの尖った鉄は、高速回転する分厚い
ゴムのタイヤを貫いた。突き刺さったピッケルは瞬時に回転に巻き
込まれ、折れた柄が宙にはねあがる。パパはタイヤを破裂させた瞬
間にすぐピッケルから手を放している。
アカオニがうめく。
﹁タ、タイヤがバーストした⋮⋮なんてことしやがるあのおっさん
!﹂
バイクが先行してゆくが、アカオニにとってはそれどころではな
いようだった。動揺でコントロールを失ってハンドルを左右にぶれ
させ、きりきり舞いしつつあわてて速度を落とす。
﹁くそっ!﹂アオオニにも状況はわかったようだった。一気に目を
血走らせる。﹁ああ、車が⋮⋮!﹂絶望的な声をあげているアカオ
ニに、かれは叱咤を飛ばした。
﹁タイヤ一輪くらいなしでも走れるだろう、行け!﹂
﹁無茶いうなようちの車だぞ、修理できないくらい傷んじまったら
227
⋮⋮それにどうせこれじゃ山道をまともに走れねえよ!﹂
アカオニの抗議にアオオニがぎりっと歯噛みする。
山内くんの襟首がつかまれた。
﹁⋮⋮こうなったらしかたない。停めざるをえなくなってもこいつ
を人質にして時間を稼ぐことができ⋮⋮!?﹂
道の前方を見た瞬間、アオオニは口をぽかんとあけて声をひっこ
めた。山内くんからは見えなかったが、アカオニもおなじ顔をして
いるように思われた。
前方、紺を残してバイクを降りたパパが、道のそばに積まれてい
た杉の丸太材︱︱林業で伐採したのち枯らすために一定期間放置し
ておくもの︱︱を抱え上げていた。
三メートルもの長さと相当の太さがある丸太を軽々かまえたパパ
の姿は、熊か鬼が巨大なバットを手にしているようにも見える。
﹁なあ。おまえの親父って人間か?﹂
驚愕が極まったのか、かえって平坦な声でアカオニが聞いてきた。
減速しつつもトヨタ・クラウンは道に立ちふさがったパパへと突
っ込んだ︱︱﹁ぬうん﹂と地響きめいたうなりをあげてパパが丸太
を豪快にスイング︱︱トヨタと丸太の正面衝突、フロントバンパー
が轟音とともにへしゃげる。車の後部が一瞬浮く。運転席でエアバ
ッグが飛び出してアカオニを押しつぶす。後部座席のアオオニと山
内くんも、入った箱ごとシェイクされたゴムボール同然の目にあう。
慣性エネルギーを丸太との衝突で使い果たし、路上でクラウンは
強制停車した。
パパが後部座席のドアを開ける音がした。山内くんと折り重なる
ようにしてのびていたアオオニが路上に引きずり出されて投げ捨て
られる。
その次は山内くんだった。かれはパパによってトヨタ・クラウン
からかつぎ出された。助け方が荒っぽすぎるよと文句を言う余裕も
ない。
呼吸が完全にできなくなっていた。
228
苦しさにもがくかれを、パパがとつぜん路面に伏せさせて体を押
さえつけた。
︵な、何︶
涙でかすむ視界に、水干姿の少女が駆け寄ってくるのが見えた。
フルフェイスメットを脱ぎ捨てた紺。鞘に入った刀を胸に抱いて
いる。秀麗な眉をはねあげ、これ以上なく真剣な表情で彼女はなに
おろち
あり!﹂
うほ
ごとか吟じている。紺がさらに近づいたとき、その凛呼とした声が
とき
聞こえるようになった。
﹁︱︱至期に果たして大
ひるまきごしらえ
彼女の歩調が変わった。刻むように半歩ずつ進む足は、禹歩すな
かしら おおのおの
やまた
わち魔除けの歩法をなしている。
﹁頭尾各八岐あり!﹂
少女の手はそのふところに抱いた蛭巻拵の太刀の柄を抜きつれる。
じがね
半ばで折れた刀身が現れる。
地鉄は青白き小板目肌。刃紋は乱れてところどころ小足が入り、
小狐丸
中
︱︱三条小鍛冶宗近が作、霊
こかじむねちか
三日月の相をあらわして匂いは深い。妖しく危うく美しく、古刀な
らではの凍るような気品。
。
狐を相方として打たれたという伝承の刀︱︱その成れの果て、
折小狐
パパによって地面におさえつけられた山内くんの前で、紺は手に
した刃を上段にかまえる。山内くんは首をねじまげて彼女を見上げ、
あかかがち
まつかやそびら
お
やおやたに
はひわた
凍りつく。まるで首をはねられるかのようだと思いあたり、縮み上
まなこ
がったのである。紺は厳しい目でかれを見下ろして、
いた
ひとつさかぶね
ねぶ
﹁眼は赤酸醬のごとし! 松柏背上に生ひて八丘八谷の間に蔓延れ
スサノオノミコトすなわ
は
とつかのつるぎ
り、酒を得るに及至りて頭各一槽に入れて、飲み酔ひて睡る! 時
じゅごんのことば
に素盞鳴尊乃ち帯かせる十握剣を抜きて︱︱﹂
を斬りたまふ!﹂
おろち
そしてとどめの呪禁詞が、一閃した刃とともに場を切り裂いた。
づだづだ
﹁︱︱寸に其の
存在しないはずの切っ先が、形のない力となって山内くんの首を
薙ぐ。うなじがぞくりと冷たさを感じ、ほんとうに斬られたかと山
229
内くんは一瞬ひやりとする。
もちろん、実際に山内くんの首が断たれたわけではなかった。
斬られたのは⋮⋮
︵あ、息、が︶
突如として気道に空気が通り、山内くんは胸をあえがせて酸素を
むさぼった。のどを締め付けていた違和感が急速に消え、鎖骨のあ
たりからずるりとなにかが抜け出る。地面にぼとりと黒いものがふ
たつ落ちた。
見れば落ちたのは、極楽縄の黒い蛇だった。前見たときよりずっ
と太い胴体を両断されている。断末魔の動きで数瞬激しくもがいて
から、それは塵となって朝の風に消えていった。
黒い霧が晴れるように、嫌な気配は完全に消失していた。
何度も深呼吸しているかれを、だしぬけにパパが引き起こした。
パパはかれの前にひざまずき、恐ろしい表情でにらみつけてきた。
﹁邪鬼丸﹂
パパの右の手のひらが振り上げられ、山内くんは思わず首をすく
める。頬を叩かれると思ったのである。
思えば自分が勝手に飛び出していったのがアオオニに拉致された
直接の原因なのだ。パパの筋を通すというポリシーからして、まず
けじめをつけるのはありそうなことのように思われた。が、アカオ
ニに殴られて腫れた山内くんの頬を見たからか、パパの手のひらが
顔に触れることはなかった。パパはただ、山内くんの肩をつかんで
深々とため息をついた。
﹁心配させるんじゃねえ⋮⋮﹂
パパの声は、震えていた。弱々しいといっていいほどに。山内く
んは呆然としていたが、﹁うん﹂とようやくうなずいた。パパは顔
をあげ、ずしりと腹に響く太い声で宣言した。
﹁おまえは、俺の息子だ﹂
山内くんの迷いを根から断つように。
﹁⋮⋮うん﹂
230
鼻の奥がつんとして、あわてて山内くんは目をしぱしぱさせて涙
をごまかす。男として、パパの前で泣くのはごめんだった。パパの
瞳がふっとゆるみ、手のひらがかれの頭を撫でてくる。
﹁おまえの出生については、もっと大きくなってから話すつもりだ
ったんだ﹂
﹁もういいよ。別に聞かなくたっていいんだ﹂
山内くんは本心からそう言った。大切なのはこの手のひらの感触
で、それ以外は瑣末なことだったから。
︵撫でられるのは、ひさしぶりだな︶
撫でてもらうのは男としてどうだろうと思ったが、いまくらいは
浸っていてもいいはずだ。
しかし横合いから視線を感じた。
見れば、中折小狐を鞘に収めた紺がかれらを見つめていた。山内
くんはあわててパパの手をつかんでのけさせる。パパが軽く傷つい
た表情になる。
紺はというとむずむずして嬉しげな表情︱︱山内くんと目が合う
や、おもいきり破顔した。
﹁山内、よかったなっ!﹂
﹁う、うん﹂
ひまわりの大輪のような笑顔を向けられて心臓がはねた。山内く
んは動悸に戸惑いつつも素直にうなずいた。そういえば、彼女に謝
らなくてはならない。その前にお礼だろうか。﹁あの⋮⋮紺⋮⋮﹂
おずおずと切り出した山内くんの声は、地の底から噴き上がるよ
うな別の声でかき消された。
﹁﹃長縄落としの秘法﹄だと﹂
起き上がったアオオニだった。車体に手をついて気息奄々でひざ
立ちになったかれは、紺をなじった。
﹁ふざけるなよ、そんなむちゃくちゃな使い方があるものか⋮⋮そ
れは蛇霊を祓うための法じゃないか。おまえがいま斬ったのは、蛇
ではなく大勢の人間の霊だぞ。霊力にまかせて、無理やりあいつら
231
を散らしやがったな﹂
難詰を、紺は涼しげに流した。
﹁まーね。あれだけたくさんの良くないモノをいっぺんに片づける
見立て
ら
なら、中折小狐で斬るのがいちばん手っ取り早い。おまえ極楽縄を
呪詛の媒に使ってただろ、あれは蛇みたいなもんだと
れるのさ。近いものに見立てて術をふるうのはよくある応用だから
覚えとくといいぜ﹂
それから紺の声は微妙に変化した。
﹁残念だけど⋮⋮おまえにもう術をちゃんと学ぶ機会はないだろう
けどな。アオオニ、おまえはやりすぎた。放置できない﹂
紺の声は、勝ち誇ってはいなかった。むしろ気の重い仕事を一刻
も早く終わらせようとするかのように、感情を排除した声で淡々と
彼女は告げた。
﹁おまえのことは楓とお祖母様が処理することになる。
それも警察に引き取ってもらったあとのことになる。もう少しア
あけだまひ
カオニといっしょに車内で寝てろ﹂
紺が指先に秘火を灯し、アオオニの顔に突きつけた。火が複雑な
軌跡を描く。霊縛術。
術くらべは、紺の勝利で幕を閉じた。
232
闇宮
﹁はい⋮⋮これで終わり﹂
盆の終わった翌日の昼。符がいたるところに張られた、十妙院家
の結界の間である。
正座した山内くんの後ろで、かれに眼帯を装着させながら楓さん
が言った。
﹁これで君は、現世の外にあるものを見ることはなくなるでしょう。
その眼帯、しばらく外してはいけませんよ﹂
柔らかい声で、しかししっかりと釘を刺してくる。うなずいた山
内くんは今しがた着けてもらったばかりの眼帯︱︱黒絹に金糸で﹁
禁視鬼﹂という字が入っている︱︱に触れてみた。
これまでかれを呪詛してきた元凶と見なされるアオオニは、十妙
院家によって処理された。術が使えないように念入りに封じられた
うえで、遠い土地の﹁しかるべき矯正施設﹂に預けられることにな
ったらしい。アオオニの父親が嬉々として保護者同意書にサインし
たと聞いて、山内くんの心には一抹の後味悪さが残った。
ともあれ、かくして山内くんに見鬼を残しておく必要もなくなり、
という行
盆が明けるやすぐさまかれの目は封じられることとなった次第であ
る。
山内くんは座った楓さんに向き直ってたずねる。
目を隠す
﹁あの、いいんですか。覆うのが右目だけで﹂
﹁かまわないわ。どちらか一つでもいいから
為に意味があるの。見鬼の能は左目のぶんも封じてあるから大丈夫
よ。もう視界におかしなものは映らないはずだけれど﹂
言われてみればそのとおりであった。この半月かれにつきまとっ
ていた視界の違和感が綺麗さっぱり消えている︵もっとも慣れてし
まっていて、怪しいものが見えるとき以外は気にもならなくなって
233
いたが︶。
思ったよりもずっと見鬼を封じるのは簡単に済んだようであった。
半ば安堵、半ば拍子抜けしながら山内くんは質問を重ねる。
みつき
﹁外してはだめな期間はどのくらいですか﹂
﹁三月は着けておく必要があります。でも夜も昼も着けっぱなしな
のは最初の一月だけでかまいません。そのあとは夜だけでいいわ﹂
外れてしまったときはすぐに着け直せば大丈夫、万一眼帯を紛失
したらなるべく目は閉じるようにしておいて十妙院に連絡すること、
決して自分の意思で怪異を﹁視﹂ようとしないこと︱︱など細々し
た注意を楓さんは山内くんに与え、
﹁特に、最後のは守ってね。常人でいたければみずからの意思で見
鬼の力を使っては駄目。
今日、君は外科手術したのだと思ってちょうだい。縫った傷口が
完全に癒える間もなく、それを無理にこじあけでもすれば、取り返
しがつかないことになりかねないわ﹂
﹁取り返しが⋮⋮死ぬんですか?﹂
﹁いいえ、そういうことはないけれど、二度と﹃見えない人﹄には
戻れません。一生、見鬼として生きなければならなくなりますよ。
怖い目にはもう遭いたくないのでしょう?﹂
もちろんですと山内くんは深く首肯しかけた。だが楓さんが続け
十妙院
た言葉で、かれの声は声帯の奥にひっこんだ。
﹁呪術に関わるすべてのものに⋮⋮今後はわたくしたちにさえも、
必要があるとき以外は関わらないほうがいいでしょうね。それがあ
なたのお父様の望みですから﹂
やんわりと突き放す言葉。けれどもつかの間、その表情に陰りが
きざしたように見えた。
盗み聞きしてしまったあの会話を山内くんは思い出す。
﹁そういえば楓さんって、パパのこと⋮⋮﹂
ついつぶやいてしまった。
楓さんがうっとのどを詰まらせたようにうめく。
234
﹁何!? いきなり﹂
﹁あ、すみません、あの﹂
思い当たってしまったのである。この人は、パパに会えなくなる
のが寂しいのではないだろうかと。それを馬鹿正直に言うのもため
らわれ、山内くんは口ごもる。
しかし楓さんは山内くんが言わんとしたことをだいたい察したよ
うである。彼女は染まった顔を隠すように右手で目元をおおった。
﹁あのね、昔だから、それは昔のことで⋮⋮と、とにかく余計な気
を回さなくていいから、その話は忘れてちょうだい﹂
﹁は、はい﹂
﹁でも⋮⋮そうね﹂
楓さんは顔を横向け、開いた障子から庭を眺めた。一匹うるさい
蝉の声が響いてくる。
﹁いっさい関わるなというのは大げさにすぎたかもしれませんね。
君と紺もだいぶ仲良くなったみたいだし﹂
山内くんはぎしっと固まった。かれの変化に気付かず楓さんは、
微笑を面に戻して続ける。
﹁君がまた何かに巻き込まれていないか確認する必要もありますし
⋮⋮よければ今後も、墓参りの折にでも当家に立ち寄っておいきな
さいな﹂
﹁は⋮⋮はい、ありがとうございます⋮⋮﹂
﹁そういえば、紺ったらどこに行ったのかしら、もう﹂
屋敷には少女の姿はなかった。あわただしく昼食をとるや、山内
おぐななり
くんを一瞥もせず彼女は飛び出していったのである。楓さんが頬に
手をあて、残念そうに息を吐いた。
﹁せっかくいろいろかわいい服を取り揃えたのに。童男姿しなくて
もよくなったあの子に着せようと﹂
はあと山内くんは答え、落ち着かない気分で視線を畳に落とした。
楓さんは﹁あら﹂と小首をかしげ、かれを観察するようにとっくり
見つめたのち、訳知り顔で手を打った。
235
﹁もしかして、紺となにかあったのかしら?﹂
山内くんはますますうつむく。
﹁いえ、その⋮⋮発言がちょっとした誤解を招いたみたいで﹂
たぶん、ちょっとならざるレベルの誤解だった。
それは術くらべが終わった後のことである。
山内くんは盆の期間も開いていた病院に運び込まれていた。
パパは楓さんに連絡するために電話OKエリアに出ていき、廊下
で診察を待つ山内くんのそには紺が残った。中折小狐こそ隠してい
るが、いまだ水干姿である。
彼女は両腕を頭上に差し上げ、水干の胸部を突き上げるようにし
て﹃んーっ﹄と背をそらす。
﹃終わったぁ﹄
彼女がしみじみ言う横で、ふらふらしながら山内くんは﹃お疲れ
様﹄とねぎらおうとした。だがそのとき、拉致されていたときに得
た情報が脳裏にフラッシュバックした。
アオオニは、神隠し事件の犯人ではなさそうだということが。
﹃あ⋮⋮紺。終わってないかも、しれない﹄
紺がかれを見た。ゆるみかけていた雰囲気がふたたび締まってい
る。﹃どういうことだよ﹄
事情をかれが話すと、紺は眉を寄せて腕を組んだ。
﹃じゃあ、アオオニがおまえの落とした牙笛を持っていたのはなん
なんだ。あいつはあれをどこから⋮⋮んん? んー?﹄
唇を引き結んで彼女はうなる。
﹃紺⋮⋮?﹄
﹃なにかを見落としてる気がするんだよな。あとちょっとでつなが
りそうというか⋮⋮うーん。ま、いまはいいか。アオオニから聞き
だしゃ済む話だし﹄唐突に紺はあきらめたようだった。﹃どうせ近
いうちに、お祖母様や楓があいつの知ってることを吐かせるだろ﹄
236
いまは眠くてあまり頭働かねーしなとつぶやいてから、紺は山内
くんにちらと目をやった。
﹃でも確かに⋮⋮どっちにしろ神隠し事件は、おまえへの呪詛とは
別件だった。いまとなってはそう思う﹄
﹃⋮⋮そうなの?﹄
﹃あの事件は、尻尾をまるで掴めない。たとえて言えば無色で無臭
なんだ。どんな力もいっさい関わっていないかのように、術の気配
がまったく感知できない。
一方でおまえにかけられていた呪詛は、巧妙ではあるけれど、楓
にもオレにもわかる﹃尋常な術﹄の範囲だった。だから別モノ。
で、おまえを呪詛してたアオオニは片付いたことだし、おまえの
見鬼はもう封じても問題ないと思うぜ﹄
紺はまた気が抜けた様子になって、背を長椅子の背にあずけた。
﹃これでオレが世話焼いてやる必要もなくなったな。あー、やっと
楽になったー﹄
わざとらしくあくびする彼女を見つめて、山内くんは︵あれ、な
んで︶と自分の心がわからなくなった。おかしなものが見えなくな
る︱︱かれはその日を待ち遠しく思っていた、はずだった。しかし
終わりを実際に告げられてかれはなぜか、笑顔を浮かべられなかっ
た。
嬉しくなくは、ないのだが。もやもやするものが心に残っている。
﹃紺⋮⋮そんなに急いで封じなくても﹄
口が勝手に動いていた。
あくびをやめて意外そうに眉を上げる紺にためらいがちに問いか
ける。
﹃僕はもうすこしこのままでもいいよ。だって、神隠し事件のこと
も解決するんだろ。君は僕に手伝わせようとしてたじゃないか﹄
﹃それか﹄
ちょっと照れくさそうに紺は言った。
﹃あのときはまだ、おまえを術者の世界に引きずり込めないかなっ
237
既成事実
て思ってたから。キセージジツ積み上げようと目論んでたんだ。
でもおまえには、ちゃんとした夢があるんだろ。だから、もうい
いよ。おじさんとも仲直りできたんだし⋮⋮こっち側の事情に関わ
らず、真っ当に生きりゃいい﹄
温かい笑みを向けられて、ずきんと山内くんの胸が強くうずく。
自分たちのあいだに、決定的な立場の隔たりができてしまったか
のように感じたのである。黙りこんだ山内くんを冷やかすかのよう
に、紺がいつものいたずらっぽい笑顔になる。
﹃あはは、なんだその反応。オレに構ってもらえなくなりそうで寂
しくなっちゃってんのー?﹂
﹃うん﹄
からかわれたのは明らかだったが、するっと首肯してしまった。
言葉こそしっかりつむいでいるが、山内くんは静かに泥酔している。
いろいろ本音がむき出しになっていた。
素直なその態度に、かえって紺のほうが強く動揺したようだった。
居心地悪さと強いはにかみが交互に少女の顔に浮かぶ。﹃おい、よ
せって﹄紺は戸惑うようにまばたきしたのち、ふいとそっぽを向い
て、小さな声で悪態をついた。
﹃なんだそれ。情けねーこと言うなよ。別にこれでさよならでもね
ーだろ﹄
﹃じゃあ⋮⋮また、会いにきていいかな﹄
﹃そうしたけりゃしたらいいだろ﹄
通常なら、この会話はそこで終わっただろう。
しかし山内くんは天地が回って見えるほど酔っている。
﹃紺﹄かれは上体をねじって隣の紺に向き直り、真剣な声で呼びか
けた。
﹃君に言っておかなくちゃいけないことが、ほかにもあるんだ﹄
﹃な、なんだよ﹄
﹃ごめん、昨日八つ当たりしちゃって。
ありがとう、助けてくれて﹄
238
﹃へっ、別に大したことじゃねーし⋮⋮﹄
忘れていーからと、紺はいよいよきまり悪げに言う。その頬がは
にかみ色に染まりはじめている。山内くんは据わった目で生真面目
に首を振った。
﹃そういうわけにはいかない﹄
﹃な、なんでだよ。オレが忘れていいっつってんだろ﹄
﹃紺、僕は﹄
思考の輪郭がぼやけた山内くんの脳裏でも、はっきりしているこ
とがひとつあった。
︵僕は紺に対して、大きな借りがいくつもある︶
借りは返さなければならない。それが筋というものだ。
山内くんはいつのまにか紺の右手をとっていた。﹃ふぇっ﹄少女
がしゃっくりみたいな声をあげて目を見開く。
︵そうだ、筋は通すべきだ⋮⋮僕は、パパと血がつながっていない
けれど、信念ならば受け継げる︶
酩酊と、徹夜のテンションと、新しい生き方を見つけたという昂
ぶりがかれを突き動かしていた。勢いが突っ走り、かれは紺の手を
両手でぎゅっと握りしめた。無意識のうちにひたむきさを伝えよう
とするかのように。
﹃なにかお返しさせてほしい。一度くらい君の役に立ちたい﹄
がちがちに肩をこわばらせている紺に、熱っぽく語りかける。
﹃僕の見鬼が必要なら使ってくれていいんだ。君の力になれるなら
怖いのは我慢するから﹄
﹃な、な⋮⋮にゃ⋮⋮﹄
﹃だって、いろいろ助けてくれた君のことを、僕はずっと前から﹄
恩人だって思ってたんだ。と山内くんが告げる前に、
﹃に゛ゃ︱︱︱︱っ!﹄
もう限界とばかりに紺が妙な叫びをあげた。﹃に゛ゃ︱︱っ、に
゛ゃ︱︱っ!﹄握られていないほうの手で彼女は、山内くんの手を
べしべし叩きはじめる。﹃なななにしやがるヘンタイ、まず放せー
239
!﹄声は惑乱に裏返り、顔はすっかり夕日の色。
さすがに驚き、山内くんは手を引いた。紺はつかまれていた手を
ばっと胸前に抱えこみ、目を固くつぶって震える声を絞り出した。
﹃そんなこと、きゅ、急に言われたって困るしっ!﹄
じゃあ遠慮な
と、紺なら言うかと思ったのに。﹃僕は本気で
﹃そうなんだ﹄朦朧とした頭で、山内くんは思う。
くこき使ってやる
言ったんだけど⋮⋮君は困るの?﹄
﹃だ、だって⋮⋮おまえ個人がどうとかじゃねーもん!﹄紺はかれ
と目を合わせず、弱り切った様子でもじもじしている。﹃オレはそ
ういうことまだぜんぜん考えてねーもんっ!﹄
﹃そうなの?﹄
微妙に噛み合っていない会話を周囲の患者たちが興味しんしんに
と
見守っている。ほどなく看護師がすっとんできて、病院ではお静か
異常はなし。念のため後日に再検査
にお願いしますとふたりに雷を落とした。
その後の検査の結果、
診断されて帰された。
タクシーで十妙院家に送られた帰り道、紺は車内で山内くんとけ
っして口をきこうとしなかった。山内くんのほうも、疲労と悪酔い
がピークに達し、グロッキー状態で意識を失い︱︱
翌朝、布団で目覚めた後、顔を手で覆って悶絶することになった。
なにがどう行き違ったのか、頭がしゃっきりするなりおのずと理解
したのである。
その朝、かれの布団の横に紺の布団はなかった。寝所が別々に戻
っていた。
もっとも、もとが呪詛対策であったのだから、アオオニ退治が終
わったいまそうなることは不思議ではないのだが⋮⋮起きてからも、
彼女の姿を見ることがないのは同じであった。
避けられているのではないかと山内くんはうすうす気付きつつあ
る。
240
︵ほんとに紺はどこ行ったんだろ。
あれは告白とかじゃないからって、すこしでも早く訂正しておき
たいのに︶
少年は頭を抱えざるをえないのだった。
そのとききし、きしと廊下を軋ませる足音が聞こえた。
楓さんの、こわばった声。
﹁︱︱お母様﹂
ぎょっとして山内くんも顔を上げ、廊下へと向けた。
いびつな雰囲気をまとって、十妙院銀がそこにいた。長袴のすそ
を引きずり、開いた障子の陰から半身をのぞかせるようにして立っ
ている。
妖気を放つ女は、山内くんの前で笑みを刻む。
﹁無事に戻ったようじゃないか。心配していたよ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
山内くんは硬い表情で応える。未来を詠めるのだから結果は知っ
ていただろうにと少し鼻白んでいる。それはさておき、かれは礼を
述べた。
﹁ありがとうございます。パパ⋮⋮父に助言していただいたそうで﹂
パパのバイクがあのとき都合よくやってきたのは、やはりという
べきか銀の指示に従った結果だったらしい。
ただ、占術に助けられたのが確かであっても、山内くんはやはり
銀に好感は持てそうになかった。パパと楓さんの話を盗み聞きする
ようそそのかされたことといい、どうしても彼女にはもてあそばれ
ている気がするのだった。
﹁しかし青丹の跡継ぎは、やはり期待はずれだったね﹂
山内くんの示した感謝を無視し、銀はつまらなさげにひとりごち
た。
﹁予想をくつがえしてくれやしなかった。ま⋮⋮勘違いが明らかな
時点で、わかっちゃあいたが。しょせん浅い邪道しか学べなかった
241
尻の青い小僧だ﹂
﹁⋮⋮勘違い?﹂
こご
﹁数え唄で霊を集め、自分の周りに陰の気を凝らせる⋮⋮青丹の子
が闇宮を開くために必要と考えた手順は、発想そのものは良い線を
いってた。けれど前提を間違ったね。正しい時刻を得ていなかった﹂
銀は庭に向き直った。
あした
午後の光はまだ強烈だが、太陽はすでに傾こうとしている。
﹁﹃神界の朝﹄ってのは、朝のことじゃないのさ﹂
● ● ● ● ●
﹁紺ちゃん﹂
かげろう
﹁あん?﹂
路上に陽炎が立つ暑い夕刻、紺は穂乃果とともに自動販売機前に
いる。冷えたジュースの缶を両手で胸前に握りしめた穂乃果が、む
ーっとした目で見てきていた。なんだよと紺は電柱に背をあずけな
がら応じた。
﹁アオオニたちとのこと片付いたんやろ、そんならなんでまだ男の
子のカッコなん﹂
﹁⋮⋮いきなり変わってたまるか﹂
紺の格好はいつものごとくショートパンツにTシャツ、スニーカ
ーだ。この日はそこに夏用のパーカーをはおり、キッズ用鹿撃ち帽
をかぶっている。いずれにせよ彼女はまだ童男姿を解いてはいなか
った。
﹁ひらひらのスカートでも穿けってか、冗談じゃねー﹂
こんなのしてたまるかと、紺は目をすがめて穂乃果を見る。薄い
ブルーのワンピースに麦わら帽子をかぶり、ラメの入ったミュール
を履いた、いかにも少女らしい格好。視線を注がれた穂乃果が微妙
242
に視線を揺らした。頬の赤みは夕日を浴びているからだけではなさ
そうである。
﹁えへへ。直文のとこの家族といっしょに果樹園に行ってきたんよ﹂
﹁今年もかよ。仲のよろしいこって﹂
紺は顔をそむける。﹁とにかくそういう服、オレにはまっぴらだ
ね。似合うとも思えねーし﹂
﹁えー。そんなことないと思うよっ﹂
﹁趣味じゃねーし。オレには見せたい誰かとかいるわけでもねーし﹂
最後の一言を言うとき、無意識に語調が強まった。それに気づい
て紺は怒りを覚えた。山内くんに手をつかまれて吐露された言葉が、
記憶から離れない。どうすればいいかわからず、紺は、山内くんが
まだ滞在しているはずの家に帰るに帰れないのだった。
怒りは少年と、平静を保てない自分に向けられている。
︵なに考えてんだあの馬鹿。いきなりあんなこと言いやがって︶
想いを告げてきたとしか思えない言葉。
詳細を思い出したとたん強烈な羞恥がぶりかえし、かっと頬が燃
えた。うずくまりたくなる。
﹁⋮⋮紺ちゃん?﹂
﹁ちょ、ちょっと待て﹂紺は自分も西日に向き直った。赤面してい
ることをごまかさねばならない。
無駄な努力だった。
頬の熱がすこし引いたところで穂乃果をふりかえった紺は、きら
きらしたまなざしを浴びてのけぞった。
﹁紺ちゃん、もしかしてなにかあったん? ひょっとして男の子が
らみ?﹂
﹁なにもねーよっ!﹂
瞬時に頬の赤熱が戻ってきて、反射的に紺は否定していた。なに
かあったと答えたも同然の態度に、穂乃果の目のなかの星屑の数が
増える。追求が厳しくなった。
﹁なになに? なにがあったん? ひょっとして告白でもされたん
243
?﹂
こいつなんでこういうことだけ鋭いんだよ、と紺は悲鳴と悪態を
心中で吐く。
﹁きゃー! だから言ったやん、紺ちゃん告白されるかもって! それにしても電撃的やね、アオオニ退治終わってすぐやろ? うわ
ぁ手が早いやつもおったもんやなあ! 誰、だれだれだれ?﹂
﹁うるせーこのやんやん蝉! なにもねーって言ってんだろ!﹂
きゃあきゃあぎゃんぎゃん路上で騒ぐ二人に、声がかかった。
﹁なにをやかましくしているんだ、おまえら﹂
グレーのハンカチで額の汗をぬぐう壮年の男性だった。神経質そ
うな細い面に銀縁眼鏡をかけ、眉間に軽いたてじわを刻んでいる。
夏ばて気味なのか足取りに力がない。
腕に巻いた補導員の腕章を見るに、夏休みのあいだ行われる非行
取り締まりの声かけボランティアに今日も参加していたようだった。
穂乃果が目に見えてうろたえる。生活指導に熱心で、校則違反物
とみるや片端から没収するこの厳格な教師は、多くの子供に敬遠さ
れていた。
﹁い、石田センセイ。こんにちは﹂
﹁大浜に十妙院か⋮⋮元気なのはいいが、往来の迷惑も考えんとな
らんぞ。夏休みの宿題はやったのか﹂
いつものように小言を口にする石田先生に、穂乃果はううと情け
ない顔になる。﹁大丈夫ですよお、二学期には提出しますって。そ
の、あたしこれでっ﹂
穂乃果が駆け去っていく。苦みばしった表情で見送る石田先生に、
紺はくすりと笑った。
﹁あいつ石田センセのことちょっと苦手だからさ﹂オレもだけどと
は言わない。﹁気にしねーでやって﹂
﹁大浜に特別厳しくしたつもりはないが⋮⋮﹂
﹁でも先生、あいつのビー玉没収したことあるじゃん。まわりまわ
ってアカオニから取り戻すはめになったんだぜ⋮⋮あ﹂
244
紺の脳裏で、思考の火花がぱちっと散った。
︵アカオニ?︶
闇に一筋の光の道がついた気がした。急速になにかがつながって
いく。
闇宮に落としたはずの牙笛を、アオオニが持っていたこと。
アカオニの、ものを盗む癖のこと。
︵アオオニのやつは、闇宮に行けたわけじゃなかった。けれど力を
持つ呪具の見分けくらいはついたはずだ。
あいつはアカオニが盗んだものを取り上げたのだとしたら⋮⋮︶
アオオニとアカオニの力関係は、常にアオオニのほうが上だった。
もしもアオオニが命じたら、アカオニは手に入れたものを渡しただ
ろう。
もちろん、アカオニが闇宮に踏み込んだというわけではない。
かれはどこかから盗んだのだ。
﹁じゃあ先生は行くぞ、十妙院。暗くなる前に帰れよ﹂
そばを通りすぎようとした石田先生を、紺は呼び止めた。
﹁石田センセ﹂
立ち止まってうろんげに見下ろしてくる石田先生に、彼女はたず
ねる。
﹁穂乃果のビー玉は夏休みのあいだ石田先生が持ってて、オニども
を補導した夜にアカオニにすられたんだよな?﹂
﹁そうだが⋮⋮﹂
﹁あのさ、もしかしたらだけど﹂
紺はショートパンツのポケットをまさぐって、牙笛を取り出した。
石田先生の鼻先に突きつける。
﹁こういうものも一緒にとられたりしなかった?﹂
石田先生はとまどいあらわに牙笛を見つめた。沈黙︱︱なにかを
思い出そうとするかのような考えこむ顔つき。それからあっさりと
うなずいた。
﹁そういえば、こんな違反品も没収した気がするな﹂
245
︱︱どくんと紺の心臓が強く打った。
にしおぎ
ものはためしで何人かに聞いていくつもりが、最初から大当たり
を引いたのだ。
﹁だ⋮⋮誰? だれから没収したの、これを﹂
﹁だれだったかな﹂石田先生は首をひねり、﹁六年の西荻だったよ
うに思うが﹂
くちなわさま
﹁西荻?﹂同級生の苗字に、紺は反応した。﹁西荻絵美?﹂
絵美。
紺の同級生、青丹家の近所の少女。
昔からアオオニと親しく、極楽縄を受け取って
の騒ぎをもたらしたこともあった。
絵美が牙笛を持ち帰ってきていたというようなことがあるだろう
か。
︵考えてみれば、あいつだって祝部の血を引いててもおかしくない。
この町には祝部から分かれた家だらけなんだ︶
顔色を変えて紺は考えこむ。
まさかとは思う。絵美は子供であり、極楽縄すら御すことのでき
ない素人だ。
けれど⋮⋮
︵オレだって子供だし、アオオニもせいぜい中学生だった︶
素人という点についても、そう装っていないとなぜ言い切れるだ
ろう?
しかし、脈を速めている紺の前で、石田先生はさらに首をかしげ
た。
﹁いや、四年の瀬戸だったか、五年の安城の持ってきたものだった
かもしれん﹂
﹁な⋮⋮なんだよそりゃ。だれから没収したかちゃんと覚えてねー
のっ!?﹂
ことがことだけに紺はつっかからざるをえない。うとましげに彼
女を見つめ、石田先生は眼鏡を指で押し上げた。
246
﹁没収品については詳細を違反者名簿につけている。校則違反は、
日々の素行として通知簿の成績にからむ事項だからな﹂
﹁それ見たい! どこにっ﹂
﹁むろん学校だが﹂
小学校はさほど遠くなかった。
紺がついていくと言うと、石田先生は露骨に面倒そうにしたが、
彼女を追い返すことはしなかった。かれは職員室に紺を招き入れた
のち、﹁名簿は生徒指導室に置いてあるはずだ。待っていろ﹂と言
い残してふたたび出て行った。
紺はパイプ椅子に座ってかれを待つ。
職員室は静かだった。前と違い、この日は他にだれもいない。か
びくさい冷風を吐き出す古いエアコンの音が大きく響いていた。
紺は椅子の上で片ひざを引き寄せ、なんとはなしに窓から校庭を
見た。西の山の上にさしかかった夕日は黄金色に変わりつつあった。
ようやくだ、と彼女はつぶやく。
石田先生が名簿を持ってくれば、闇宮に踏み込んだ人間が誰かわ
かるかもしれない。
はふりべ
﹁ようやく、手がかりをつかめたのかも⋮⋮!﹂
祝部の呪術、闇宮という異世界に通じる手がかり。彼女の先祖た
ちが何人も殺されてきた術を打ち破る手がかり。呪術を使って殺人
を行ってきた者に通じる道だ。
昂ぶりにぐっとこぶしを握ったとき、パーカーの胸ポケットから
声がした。
︿⋮⋮ニ⋮⋮﹀
﹁わ﹂
不意をつかれたこともあり、紺は少々驚いた。
スマートフォンだが、こんなところでそれが音を出すとは思わな
かったのだ。なにしろ、その携帯は壊れている。十妙院家の蔵から
247
発掘したもので、まともな使い方はいっさいできない代物だ。
それは、周囲の怪しいものの声を拾うスマートフォンだった。
たまにぶつぶつとつぶやきだすそれを、紺は面白がって身につけ
るようにしていた。ごくまれに、有益な情報の断片を聞くこともで
きるからだ。
が、さすがにいまは楽しむ気にも長く付き合う気にもならない。
︵学校なんかで鳴るなよ。つーか、こんなとこにまで霊がいたのか︶
無視していたが、声は止まずに徐々に大きくなっていった。
︿⋮⋮テ⋮⋮﹀
かまってもらいたがる霊が多いのはなんなんだろ、と紺はうんざ
りする。少し相手してやれば、満足したようにふつりと電話が切れ
たりもするのだ。逆にしつこく話しかけてくるような手合いもいる。
まともな話はまずできない。死ぬ前にすでにおかしくなっていた
場合、人間の霊はこちらの言葉を聞かないほうが多い。恨み事、み
さかいのない呪詛、意味なくぶつぶつと呟き続ける。
ちょっと相手してやって、終わりがないようならスマフォを校庭
にでも放り投げて完全黙殺しかねーや、と紺は決めた。
携帯を耳に当てて投げやりにたずねる。
﹁なに? オレになにか言いたいことあんの?﹂
︿逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ逃ゲテ逃ゲ逃ゲ逃ゲ逃ゲテ逃ゲ﹀
ぞわりと紺の背筋に悪寒が走った。
思わず携帯を耳から離してまじまじ見直した。
流れだす音はざあざあ乱れ、複数の声がいちどきに携帯の向こう
側から流れてくる。
︿おまえも死ぬおまえも死ぬ死ぬ死ぬ今夜死ぬはやく早く死ねはや
く﹀︿まぶたヲ切ラレタヨウ赤ク焼イタ針デ目ヲ刺サレテ見エナイ
見エナイなんにも見エナイじゃきじゃきはさみデおなかヲ開カレル
おなかノ中身ヲくるくる棒ニ巻キ取ラレル﹀︿熱いようもうしない
で油かけないで熱いいいい﹀
紺は呆然と、手にしたスマートフォンの黒い画面を見つめる。彼
248
女の背後の光景が、黒い鏡のような液晶表面に映っていた。
背後は、職員室の入り口。
石田先生が戸口から半分顔を出し、彼女の背中をうかがっていた。
手に、焼却炉の火かき棒を持っている。いっさいの感情が宿って
いない表情。底なしの黒い穴のような瞳。
紺はふりむきかけた自分を渾身の努力で抑えこんだ。
︿きぃきぃきぃきぃきぃ⋮⋮﹀
窓のほうから無数の音。視線を動かして見やれば、蹂躙され尽く
した人の残骸のようなものがべっとりと窓ガラスに貼り付いている。
骨がむき出しになった指先でガラスをひっかき、職員室内をのぞき
こんでいる。
かれらの背後の校庭は、墨をぶちまけたかのように暗くなってい
た。日没までは間があったにもかかわらず。
︿ひと、ふた、みい、よう、いつ、むゆ、なな、や⋮⋮﹀
スマートフォンが震え、重くどす黒い悪意の声が数え唄をつむぐ。
いまだかつて知らなかった強烈な恐怖のなかで十妙院紺が悟った
のは、自分が罠に引きこまれたことと、古い古い呪術の奈落が彼女
の足元に真っ黒な口を開けていることで⋮⋮
249
闇宮︿2 行きはよいよい﹀
校長室に逃げこんだ紺は、みずからを呪う。
︵オレはどうしてあの教師を疑わなかったんだろう︶
非行少年
神隠しはアオオニの行動する範囲で起こるのだと、彼女は思った
補導員
ことがあった。違った。アオオニの動き回る場所が、真犯人すなわ
ち石田先生の行動範囲と重なっていただけだ。
先刻だってそうだ。牙笛を見知っていると石田先生が言ったとき、
絵美より先にまずかれを疑ってしかるべきだった。なぜあんなうか
つな真似をしたのだろう? 堅物で偏屈な凡人教師というかれの仮
面に騙されきっていたから? かれが呪術など迷信だとふだんから
公言していたから? それとも、これもかれの力のひとつなのだろ
うか。薄暗がりにまぎれこむように、人の注意を自分からそらさせ
ておくことが⋮⋮
どれだけ悔いても、もう手遅れだった。
また校長室の扉がこつこつノックされはじめた。向こう側から男
の声が呼びかけてくる。物憂げで、抑揚に乏しく、穏やかといって
もいい声。
﹁十妙院、開けなさい。鍵を開けるんだ﹂
暗い室内で、蒼白となった紺は扉を見つめる。
︵なんで︶
極度の焦燥で、呼吸がせわしなくなっていた。歯がカチカチ鳴る
のを抑えようと、右のこぶしに噛み付く︱︱ふっ、ふっと荒い息が
唇の端から漏れた。
︵なんで効かないんだよ⋮⋮オレの術が︶
めくらまし
石田先生の腕をかいくぐって職員室から逃げ出したとき、彼女は
紙の形代を用いて幻惑の術を使った。幻で作ったもうひとりの自分
に、廊下を逆方向に駆けさせたのだ。その次には霊縛術を使ってか
250
れを拘束しようとした。
どちらも効かなかった。
石田先生は、分身には一瞬気を取られただけで紺を追ってきたし、
霊縛術にいたってはほんの刹那の効果すらなかった。
結果たちまち追い詰められて、彼女はすぐそばの校長室に逃げこ
んでいた。
とっさの判断だったが、時間稼ぎとしてはもっとも有効だった。
この校長室の扉は、校内の他の部屋のそれとは仕様が違う。内側
から鍵をかけられる造りであることと、戸板が半透明のガラス窓を
はめこんでいない一枚板であることだ。そうでなければ、石田先生
はガラスを割って容易に室内に踏み込んできていただろう。
﹁そこは遊び場じゃないんだ⋮⋮おまえは出てこなくてはならない﹂
ぼそりぼそりとドアの向こうから、低く男の声が響く。
﹁出てきなさい、そうしたら先生が遊んであげよう⋮⋮鬼ごっこで
も、かくれんぼでも⋮⋮女の子の遊びでもいいぞ。雛人形を使った
ままごとでもしようか﹂
︿明かりをつけましょぼんぼりにぃぃお花をあげましょ桃の花ぁぁ﹀
暗い天井や壁から、狂笑混じりの唱和が響く。
見ればずたずたになった人の顔がそこかしこの壁面に浮いていた。
眼球をくり抜かれた若い男性、鼻を削がれてまぶたを切られ顔中に
釘を打たれている少女、顔の皮を剥がれたどちらの性別かわからな
い者。みな一様に笑っていた。
もはやスマートフォンを介さずに声は直接聞こえるようになって
いた。陰の気が極まって霊が具現化しはじめているのだと紺は理解
した。
そして悪意まみれの死者たちは明らかに狂っていた。拷問の苦痛
と絶望で最期の記憶を塗りつぶされて、まだ生きているうちに発狂
していたと思われた。
﹁なぜ黙っている⋮⋮礼儀がなっていない、それは感心しない態度
だ﹂扉の向こうで、ひとごとのように石田先生がつぶやいている。
251
そこにいつしか、獣のようにガリガリと扉をひっかく音が混じって
いた。
どれが石田先生の立てる音か、霊たちの立てる音かわからなくな
っていた。
﹁⋮⋮出てこい糞餓鬼いいいっ!﹂
一転して怒号とともにどんとすさまじい音がドアを軋ませた。
それきり声は止んだ。ガリガリと引っ掻く音に混じってめった打
ちの乱打音はしばらく鳴りわたっていが、ほどなくそれも消えた。
足音が部屋の前から遠ざかっていく。
⋮⋮が、すぐに戻ってきた。
とつぜん、それまでとは異質の衝撃がドアを震わせた。
呆然として紺は凝視する。裂けた戸板の隙間からのぞいている斧
の刃を。さっき彼女を職員室に残していったとき、火かき棒だけで
なくそれをも持ってきていたのだろう。
斧などが学校の備品であるはずがない、にも関わらずそれは用意
されている。明らかにこの異常な空間は、いつもの校舎ではなかっ
た。
︵逃げ、なきゃ。すぐに︶
紺はみずからの手をいっそう強く噛み、その痛みで震えの止まら
ない体を叱咤する。がくがくとひざが笑っていた。
重い斧が持ちだされてきた以上、校長室の戸は数分ともたず破壊
されるだろう。彼女は殺される。ここにいる霊たちと同じように、
想像もできなかったほど残酷なやり方で。
紺は校長室の窓をふりかえる。
霊たちの赤い手形がべたべたとついたガラスの向こうに、先の一
切見えない暗黒があった。
︵外へ⋮⋮あの闇のなかへ逃げるしか、でも︶
絶望が彼女の心臓をわしづかみにする。
紺は、それなりに見鬼の力を持っている。だが外は黒霧さながら
に濃い陰の気に塗りつぶされ、ほんの一メートル先すら見通せない。
252
自然の闇ではありえなかった。
この闇にはおそらく殺された者の霊や、別の妖しいなにかがさま
よっているだろう。なにより⋮⋮後ろから来る殺人者は、
︵石田センセの力は、山内のそれの強化版だ⋮⋮︶
彼女の霊縛術を歯牙にもかけない強力な術耐性と、幻惑術の通用
しないけた外れの見鬼。かれはこの墨汁溜まりのような闇ですら見
通せるのかもしれない。
となると、窓から外に逃げだせば、自分の手すら見えない暗闇で
一方的に追い回されることになる。怯え、神経をすり減らして消耗
し、そうして逃げまわってもついには捕まって惨殺されるだろう。
早いか遅いかの違いでしかなかった。
︵それでも、ここにいたら確実に死ぬもん︶
背後で斧の二撃目が加えられ、扉の裂け目がめりめりと広げられ
る。石田先生の腕がぬっと裂け目から現れ、扉の鍵をまさぐりはじ
めた。
間近に迫った死への恐怖と緊張で、嘔吐感すらこみあげる。
外へ逃げるほか、彼女に選択肢はなかった。
● ● ● ● ●
じょうあん
﹁浄闇といい、この国の神はもともと闇を快しとする﹂
アマノイワト
山内くんに背を向けた銀が言った。
﹁天岩戸という相反する神話もあるがそれは忘れておきな︱︱もと
もとね、時の概念が違ったんだよ﹂
﹁とき? 違う⋮⋮?﹂
﹁昼と夜、どっちが先に来ると思う?﹂
急に問いかけてきて、かれが回答するのを待たず銀は自分で言っ
た。
﹁現代の常識からいうと、昼が先と答える者が多かろう。だけど昔
は、夜が先に訪れるものだと考えられていた﹂
253
日没こそが一日のはじまりだったのだと。
たっと
おそ
くす
﹁夜というのは、神、霊、鬼、妖、人知を超えたあらゆる奇しきも
のたちの活動する時。尊ばれていたのは夜、畏れられていたのは夜。
夜こそが第一の時間、闇こそが第一の世界であって、人の時間であ
る昼より先に来るものだった。
つまり神界の朝︱︱闇宮が開く時刻というのは、闇夜のはじまる
時間に他ならない﹂
すなわち夕方、逢魔が時だよ。
そうつぶやくと銀は山内くんをふりかえった。その笑みを消した
おごそ
顔は山内くんにひどく不吉な印象を残した。それは腹を据えた者の
いや
表情だったのだ。
人として卑しく、呪術者として厳かに彼女は告げた。
﹁いましがた、紺の未来が詠めなくなったよ﹂
なにを言われたのか、とっさに把握できなかった。
﹁お母様!﹂とつぜん、楓さんが悲鳴をあげて立ち上がった。
﹁どういうことですか、それは⋮⋮あの子になにか﹂
﹁あったんだろうねえ﹂
闇宮
だとわかるね。
蒼白な娘に一瞥すら投げず、銀はつぶやく。他人事を語るかのよ
うな口ぶりだった。
﹁こうまですっぱり見えなくなると、明確に
関わった者をこの世から切り離して隠してしまう影に、紺は触れた
んだろう。
だがこれで、祝部の穢れた神をいまだれが宿しているのか絞り込
むことはできそうだ、すぐにではなくとも。どう転ぼうが、紺が消
えたことは無駄にはならないよ﹂
﹁お母様⋮⋮あなたという人は﹂
楓さんが気色ばんだ。つめよろうとしてか銀のほうへ座敷を一、
二歩進み、かろうじて自制したらしくそこで立ち止まった。
﹁どこです。紺はどこから見えなくなったのですか!﹂
﹁××区の、自動販売機のある辻からだね﹂
254
とたんに座布団を蹴立てるような勢いで、楓さんは座敷から飛び
出していった。
それを見送り、﹁いい大人だというのに、わが娘ながらいつにな
ってもそそっかしいことだ﹂銀は代わって自分が室内に腰を下ろし
た。
山内くんは楓さんの後を追って飛び出そうとしていたが、
﹁座りな﹂
氷の重石のような銀の声に、腰を浮かせたところで動きを止めざ
るをえなかった。銀は腕を伸ばし、山内くんの目に眼帯のうえから
触れた。
ゆっくりと言い聞かせるように彼女は言った。
﹁あんたが行っても、もうどうにもならないよ。少なくとも、こん
なものをつけてちゃあね。楓も余計な真似をしてくれるよ⋮⋮あん
たのその目は、封じるなんてもったいないことをしちゃだめだとい
うのにさ﹂
﹁こんなこと、話している場合じゃないでしょう﹂山内くんは押し
殺した声に非難の響きをにじませた。﹁紺が危ないんじゃないんで
すか﹂
﹁ああ。あの子はまず死ぬだろうね﹂
聞くなりぱっと立ち上がった山内くんを、銀はふたたび止めた。
﹁だめだよ。それをつけたままじゃ無意味だって言っただろ?﹂
年齢にそぐわぬ美しい指が山内くんの眼帯を指し示しつづけてい
る。
﹁でも、それがなければあんたは紺を助けられるかもしれないね。
はふりべ
ほんの毛一筋ほどの望みだが⋮⋮他のだれでも駄目なんだ。
だから心を決めるがいいよ、祝部の跡継ぎよ。
紺を助けたいなら、闇宮をも見るその目を使え。無事に帰れると
は限らない、あんたも向こうから帰ってこれなくなるかもしれない。
そして仮に帰ってこれたとしても、あんたはもう常人には戻れなく
なる。一度ほどこした封印を自分の意志で壊したならば、二度と取
255
り返しはつかないのさ﹂
一生、見鬼でいるしかないってことか
くるめ
山内くんは眼帯に手のひらを当て、ぎゅっと押さえた。
まぶたの裏に記憶が眩く。この夏の。
墓場の人魂。こっくりさん。極楽縄。
柳の下の幻像。河虎岩。数え唄に群がる惨死した霊たち。
思い返したくもないすべての怖ろしい影の向こうに︱︱
ひまわりのような笑顔の、夏の少女の姿がある。
﹁断っても恨みには思わないよ、自分の孫の命がかかっていてもね。
この先のあんたの一生にかかわることだからねえ﹂
うそぶく銀の前で、山内くんは眼帯をみずから剥ぎ取った。
﹁これで、どうしたらいいんですか﹂
悔いの片鱗もない決然としたまなざしに、銀がかすかに口元をゆ
るめた。嘲笑ではない笑みをひらめかせたのもつかの間、彼女は﹁
ついてきな﹂傲然たる面持ちを取り戻して言った。
山内くんが連れて行かれたのは、あの蔵だった。
﹁でたらめな道順でいい、戸を開けてひたすら進むんだ。そしてく
ぐった部屋の数を数えな。十までいったらまた一からね﹂
そう伝えると、銀はかれを先に行かせた。山内くんはことさらに
声をはりあげるようにして扉を開け放った。
暗く静かな、無限に連なる部屋をくぐり抜けてゆく。
﹁この蔵はじつのところ、闇宮の伝承を参考にして内部を作ってあ
る﹂
後ろからついてくる銀の声。
﹁あたしは若いころから、闇宮に興味があった。祝部の神の座す場
所に行ってみたかったのでね⋮⋮まあ、所詮はまがいものにしかな
らなかったが、ある程度似せることはできたんじゃないかと思うね。
﹃そのものの空間﹄にはならずとも﹃通じやすい空間﹄にはなって
いるはずだ。ここは常に陰の気が強い﹂
扉を開けるたびに、妙な肌寒さが増す。
256
それのみではなく山内くんには見えている。
視界の端をたびたびなにかが横切る。部屋のすみでうずくまる影
がある。集まってきているのだと、アオオニに拉致された夜を経た
かれにはわかった。
銀がかれになにをさせているのかもわかった。
まるで悪夢に誘う催眠術だ、と山内くんは思う。延々と数えると
いう単調な繰り返しの行為と、しだいしだいに強まっていく周囲の
陰々滅々たる雰囲気。
それでも戸を開け、叫ぶように数えることをためらいはしなかっ
こと
たま
た。紺のことがある。いまはもう、怯える余裕など与えられていな
いのだ。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
よっつ。
いつつ。
むっつ。
ななつ。
やっつ。
ここのつ。
とお。
ひとつ、ふたつ⋮⋮
﹁そうさ、そのようにひとつふたつと⋮⋮言が霊を集め宿し、異界
を開く。
心配いらないよ、青丹の跡継ぎみたいなひよっ子ならいざしらず、
あたしであれば雑霊になど邪魔させずあんたを導ける。安心して数
えてな。
あんたなら闇宮に通じる道を開けるともさ、それが昔からあたし
にはわかってた。だって幼子のあんたのどこかには、あたしでさえ
詠めない部分がずっとあったのだもの⋮⋮そうとも、見えないから
257
こそ存在を感じる場合もあるのさ﹂
銀が忍び笑っている。
山内くんは一瞬だけ別のことを考えた。
もしかしたら、もしかしたらだが、アオオニではなくこの人こそ
が、昔から僕に呪詛をふりかけていた張本人だったのではないだろ
うかと。
アオオニがまったくなにも仕掛けていなかったとは思わないが⋮
⋮いや、きっとアオオニも手を出してきてはいたのだろう。小動物
を殺して媒に使うなど、かれらしいやり口の呪詛も何度か受けてい
たのだから。だがそれを除いても、あまりにも昔から多すぎたのだ、
ぎりぎり死ななかったような絶妙な具合の災難が。あれがもし加減
された呪詛⋮⋮山内くんを怯えさせ、いつか十妙院を頼るように仕
向けるためのものであったなら⋮⋮そんな巧妙な力のコントロール
がアオオニにできたとは思えなかった。
︵もしかしたら紺と僕が出会ったのも、紺が危険に巻きこまれたこ
とも、僕が紺を助けたいと思うようになったのも、銀さんの計算の
うちだったんだろうか︶
⋮⋮だがすべては推測にすぎなかった。それに、仮にそれが真実
ヒ
だったとしても、紺を助ける決意がいささかも鈍るわけではなかっ
た。
数える山内くんの後ろから、銀の呪歌が流れてゆく。
ミ
ひふみ
﹁此ノ道暗キニ徹ル也、忽チ昇リ降ル也、忽チ往キテ来ル也、霊ト
身ヲ連ネテ一二三也⋮⋮ひふみよ、いむなや、こともちろらね、し
きる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえに、さりへて、のます
⋮⋮﹂
山内くんが﹁十!﹂と挑むように叫んで次の扉を開け、踏み込ん
だときだった。突如、背後の唄が途切れた。
しん
ふりかえりかけて、山内くんは凍る。
異様なほど深と静まり返った夜気。足元は草むら。ねじくれた枝
を絡ませあって見たことのない種類の木々がたちならぶ、嫌に気配
258
の濃い林の中だった。
眼帯を取り去った山内くんの目をしても、ほんの月明かり程度に
しか見えない。
今度こそふりかえると、扉は影形もなかった。
259
闇宮︿3 死者三体﹀
異界の森は、空気が粘って生ぬるかった。
視界を塗りつぶそうと迫ってくる密度の濃い暗黒のなか、ひとり
森に踏みこんだ山内くんは、やむなく先へと進んでいる。
胸中で、かれだけをここに送りこんだ銀に憤懣をぶつける。てっ
きりあの老女もついてきてくれるとばかり思っていたのだ。その姿
が消え、この暗い世界での手助けは期待できなくなった。心もとな
さはいささかどころではない。
この世界
の入り口をくぐれなかったんだろうか︶
さすがに、わざとかれひとりを行かせたわけではないのだろうが
⋮⋮
︵僕ひとりしか
分厚い苔をふみしめながら、かれはあらためて周囲の闇を見渡し
た。
︵ここは、前に来たときと同じ場所じゃない︶
以前、夢を通じてこの世界に入ったときは、石畳の道があり、鳥
居が列なっている場所を走っていた。
どれだけ禍々しい気を放っていようとも、あれらは人工の建造物
だった。比べて、この森には人の手が入った形跡は微塵もなかった。
そして、息づくすべてが悪意に満ちているように思われた。草は
いやに硬く、靴の裏を押し上げ、葉の縁に触れる肌を切ろうとする。
木の根は足をひっかけようとするかのように土から盛り上がってい
る。木々は明らかに、植樹や間伐といった人による管理がいっさい
なされていない。そしてテレビで見た屋久杉を思わせる、巨人さな
がらの大木がそちこちに鬱蒼とそびえていた。樹間は驚くほどに広
かったが、多くの種類の草と、濃密な闇がその空隙を埋めていた。
︵⋮⋮でも、同じ場所じゃなくても同じ世界だ︶
それだけは確信できた。
260
空気が、前踏み込んだ社と同じだからだ。
闇が濃すぎる。黒すぎる。黒気が凝して液化しているかのようだ。
山内くんの目をしても、ほんのおぼろげにしか周囲の光景は捉えら
れない。木々の向こうになにがあるのか目を凝らしても、森の奥の
様子まではわからない。地の底に通じる螺旋階段をどこまでも降り
ているかのような気がしていた。
︿ふふ⋮⋮ふふふ⋮⋮進んでしぬ⋮⋮すすんでしぬ⋮⋮﹀
頭上の大樹のこずえから、ささやき声が降ってきた。
山内くんは無視して足を速める。上を決してあおがなかった。
こちらに触れられるわけでもない弱い霊には反応を返さないのが
いちばんいいのだと、紺に聞いたことがあった。
しばらく気配は追いすがってきていたが、やがて舌打ちの音が聞
こえ、︿馬ぁ鹿⋮⋮﹀ざらざらした声が響き、薄れていった。
ほっとして山内くんは足取りをゆるめた。
ぐいと腕をつかまれた。
横を見るとはさみやボールペンを顔中に突き刺された女がいた。
がびょう
尖ったものの柄で顔の皮膚が見えないほどにびっしり埋め尽くされ
ている。首から下は裸で、顔よりももっと破壊されていた。画鋲を
刺された眼球が山内くんを覗きこんでぐりぐり動き、血混じりでピ
ンク色になった透明な体液を涙のように流した。︿馬ぁ鹿﹀狂った
笑顔が嘲ってきた。
恐怖に脳髄を痺れさせながらも山内くんは迷わなかった。思いき
り突き飛ばす。女はけたたましい笑い声をあげて倒れた。︿し。ぬ。
しぬしぬしぬ﹀なめくじの粘液のように血の跡を引き、ずるずる這
いずって遠ざかっていった。
あいつら、こちらに触れられるじゃないか。山内くんはぞっとす
る。
同時にアオオニに拉致されたときのことを思い出した。陰の気が
極まった世界では霊が活性化するのだと、かれはそういうことを言
っていたように思う。トヨタ・クラウンの車内でも荒御魂たちに囲
261
まれたが、いまの状況はあのときよりさらに悪かった。
考えたらおかしくなりそうで、山内くんはふたたび歩き出す。悪
意と狂気が満ちたこんな世界にこれ以上留まっていたくなかった。
︵紺を見つけてふたりで出なきゃ。でもどこに行けば︶
けんめいに焦りをこらえる。どこに紺がいるか、どうやったらこ
こから出られるのか、どちらもあてがあるわけではなかった。
たか
しかし、立ち止まってゆっくり考えるわけにもいかない。先ほど
から、いまのように霊がかれに寄ってきていた。群がるかれらに集
られたくなければ、移動しておくしかないのだった。
前方の木の根本にぼんやりと立ち姿が見えた。高校生の制服を着
た少女だった。おいでおいでとばかりにゆっくり差し招いている。
バナナの皮のように顔の皮膚をのどまで剥き下ろされており、それ
は前掛けのように血まみれのセーラー服の前に垂れ下がっていた。
生者ではないと見てとり、すぐさま山内くんは進路を変えようと
した。
けれど心にひっかかるものを感じ、かれはふりむいた。
見えたのに対し、彼女の霊は透き通って映った。同じ血ま
その死者からは嫌な感じがしなかった。かれの目にほかの霊が
濁って
みれの姿であっても。
顔を剥がれた少女はかれを招いたのち、背を向けてゆっくりと歩
き始めた。山内くんはしばしの逡巡ののち、そのあとをついて行く
ことにした。自分の直感を、というより目を信じることにしたのだ
った。
ともすれば闇に薄れそうになる少女の霊の背を追い、山内くんは
けんめいに森のなかを歩く。
その霊をほんとうに信じていいのかなど、いまさら迷えなかった。
奔騰しそうになる恐怖と疑念を必死で押しつぶし、かれは思考を放
棄してただ足を動かし⋮⋮
遠くに、一瞬だけ火が見えた。
はっとして山内くんは立ちすくんだ。
262
︵今のは︶
気づけばかれを先導してきた霊の姿は消えていた。山内くんは自
分でその火の持ち主のもとへと駆けはじめる。途中でもう一回、木
立の向こうに火が燃えた。もはや見間違えようがなかった。あれは
あの子の口から出る火だ。
もっと近づくと、森のなかのひらけた空間で、木にすがるように
して紺が立っているのが見えた。
﹁紺!﹂
山内くんは声を弾ませながら彼女の前に飛び出した。とたん、紺
は弾かれたように体をひるがえそうとした。けれどもその身ごなし
からはいつもの精彩が失せており、彼女は足をもつれさせて倒れた。
﹁厭ぁっ!﹂
彼女の叫びに、山内くんも凍りついた。
がくがく震えて表情を歪ませ、紺は尻もちをついたまま後じさろ
うとしていた。それから、自分の唇から漏れる火の明かりで、相手
がかれであることをじわじわと視認したようだった。
﹁あ⋮⋮や⋮⋮山内?﹂
山内、と確かめるようにもう一度彼女は呼んだ。恐怖で見開かれ
ていた瞳が深い安堵で一気に弛緩し、涙が盛り上がり、
﹁ふざけんなぁ、寿命縮んだじゃねーかぁ⋮⋮!﹂
山内くんがそれまで彼女から聞いたことがない弱々しい涙声で、
紺は罵った。
山内くんは答えられない。強い衝撃を受けていた。
︵紺が、すごく怯えてる︶
あの紺が︱︱かれの前ではいつでも不敵な態度で、なにも恐れる
ものはないとばかりに胸を張っていた少女が。
追い詰められて、こんなにも憔悴しきっている。
﹁おまえ⋮⋮なんでこんなとこに来ちまってるんだ﹂
へたりこんだまま、紺がたずねてくる。山内くんは十妙院家の蔵
から入ったことを伝え、自分も重要な事をたしかめた。
263
﹁紺。もしかして、ここじゃ君でも周りが見えない?﹂
紺は、その問いに力ない弱音で応えた。
あけだまひ
﹁ぜんぜんだめだ。
秘火吹いて照らしたら少しは見えるけど⋮⋮それも身の周りまで
がやっと。それでさえ、明かりでヤツに居場所を教えてしまうから
ほとんど使えない。依子さんが⋮⋮アッコの姉ちゃんの霊が森のな
かでずっと手を引いてくれなけりゃ、ここまで逃げてもこれなかっ
た。いまはどこかにいっちゃったから、怖くて火を使っちまったけ
ど⋮⋮﹂
こっくりさん事件のときのアッコという少女を山内くんは思い出
す。たしか、神隠し事件で行方不明になった姉がいたという話だっ
た。
はたと思い当たって、山内くんは聞いた。
﹁紺。その依子さんってもしかして、高校の制服姿で、顔が⋮⋮﹂
かれを導き、紺のもとに連れてきた少女の霊。
﹁そうだよ﹂紺はひざを抱えて涙ぐんだ。﹁酷い殺され方したのに、
依子さんは最後まで正気だった。だから、あまりおかしな霊になっ
てないんだ。彼女の体はそこに捨てられてる﹂
紺の指さした方向の芝生に、白骨が散らばっていた。
痛ましい惨劇のあとを見つめて山内くんはごくりと固唾を呑む。
紺がぐずっと鼻をすする音がした。
﹁笑えよ、くそっ、この真っ暗な世界じゃオレにはなんにもできな
闇宮
は、祝部の神が
い。周りが見えねーんだもん、一人じゃまともに歩くこともできな
いよ。
引きずり込まれてわかった。ここは⋮⋮
張った結界の中なんだ。現世から切り離された、密閉されてる世界
だ。ここに入ったら、霊さえおいそれとは出られない。
結界だとわかってても、破るどころか、結界の境目すらオレには
見つけられない。祝部の神官ひとりを倒すこともできず、殺される
のを待つだけだった﹂
264
﹁⋮⋮祝部の神官?﹂
﹁オレの術、あいつにはなにも通じないんだ。ヤツは見せかけじゃ
闇
だけを備えた、闇を見通す見鬼があるだけの素人だ。でも、
なくて本当に呪術の素人っぽいのに。ただひとつの祝部の禁呪
宮詣で
ここじゃあいつが無敵なんだ。
それに、怪物だ⋮⋮穢れの神を宿したからか、もともとそうなの
か、心の根っこが人じゃない﹂
消耗しきった口調でぼそぼそ言い、紺はひざに顔を埋めた。
﹁ちくしょ⋮⋮だめだ、怖い⋮⋮オレ、依子さんの仇を討たなきゃ
なんないのに⋮⋮﹂
うなだれる彼女を見て、山内くんはおぼろげに理解できた。暗闇
をさまよったこの数時間、精神を責めさいなまれていたのはかれで
はなく紺だったのだ。
このどす黒い闇は、ただそれだけで人の心を蝕む。
枝と葉に覆われた頭上を仰いだのち、山内くんは聞いた。
﹁紺、ヤツってだれ? いったいだれが君をここに引き込んだ、神
かくし事件の犯人︱︱﹂
いいいいい⋮⋮
口を閉じた。
危ない
と。
少年は微動だにしなくなる。たったいま、紺のポケットのなかで、
牙笛の音が鳴ったのをまちがいなく聞いたのだ。
鋭敏に発達したかれの危機センサーが叫んだ。
不安げに顔を上げた紺の手首をつかみ、引っ張り上げるようにし
て立たせ、﹁音を立てないで、隠れる!﹂
紺の手を引いて山内くんは密生したやぶの裏に回りこんだ。ふた
りして葉の陰に座り込む。紺の火が万一にも漏れないように、彼女
の口を後ろから手のひらでふさいでおく。ほとんど抱きとめるよう
な格好で、少女の汗のにおいが間近で香った。
265
駆けてくる足音が森に響いたのは直後だった。
その人影はもの言わず、先ほどまでふたりがいた場所に踏みこん
できた。右手にはいやに錆びた大型ナイフを持っている。ぴたりと
立ち止まり、首を回してあたりの様子を確かめはじめた。
︵あいつも見えてるんだ、この暗闇のなかで︶
山内くんと同じか、おそらくはそれ以上にはっきりと見えている
のだろう。男の動きのなめらかさは昼間の森を歩くのとなんら変わ
りなかった。紺が言った敵に間違いなかった。
山内くんの腕のなかで紺がひどく震え始めた。彼女の口をしっか
り押さえておき、危険を冒して山内くんはふりかえる。葉のあいだ
から視線をその男に注いだ。
顔に見覚えがあった。
︵あの人は、学校の先生じゃないか︶
紺たちに石田先生と呼ばれていた教師だ。かれが神かくし事件の
犯人︱︱そうと知ったらさっさとこの世界から逃げ出して警察に教
えなきゃ、と考える。だがその男を見つめるうちに、言いようのな
い戦慄が山内くんをとらえた。
うろ
その男はまちがいなく生きた人間だった。
けれどその瞳は虚のようだった。表情の浮かんでいない顔はどこ
となく虫を思わせた。
捕食者は歩き回りながら、散らばった人骨の一片を踏み折った。
わざと踏んだという感じはしなかったが、骨が見えていなかったは
ずはなかった。山内くんは総毛立つ。気づいたのだ。こいつは、か
つて自分が殺した人の骨になど、一切なにも感じていないのだと。
この男にとっては、そこらに落ちた枝と同じものにすぎないのだと。
︵とにかく、ここはやり過ごそう︶
可能な限り頭を冷静に保とうとしつつ判断する。
見つかればふたりで森のなかを逃げられるところまで逃げるしか
ない。けれど盲人同然になったいまの紺の足では、いくらかれが手
を引いても逃げきれるとは思えなかった。一度でも木の根や地面の
266
段差につまずけばそれだけで致命的だ。隠れ通すしかなかった。
しかし、横手から音が聞こえた。
︿⋮⋮えあああ﹀
押し潰される寸前の獣が発するうめき。印象は、それが一番近か
った。
真っ赤な犬のようなものが這いずっていて、かれらに近寄ろうと
している。
︿おおおおええあああええ﹀
一目見た瞬間、山内くんの食道を酸っぱいものが急にせり上がっ
てきた。
真っ赤な犬と見えたのは、かつて人間だったものだった。
たぶん若い男性だろう。裸にされたのち、かみそりのような鋭利
な刃物で体表のあらゆるところを少しずつ削がれたらしく、血まみ
れという言葉ではとても足りない有り様になっている。特に顔は凹
凸が完全になくなるまで切り刻まれ、下あごが舌とともに頭部から
切り離されていた。足はひざから切り落とされ、腹の裂け目からは
ゴムホースのような長いものをこぼしてずるずると引きずっている。
山内くんのほうも、声を出さないのがせいいっぱいだった。
あっちに行け、あっちに行け、あっちに行け︱︱山内くんは拷問
死した無残な姿の霊を見つめながら必死で念じた。いまちょっかい
を出されたら石田先生に気づかれる。
指を残らず落とされた手のひらが、救いを求めるように山内くん
のほうに突き出された。
山内くんの見るところその霊は、かれらに害意を持っている様子
ではなかった。ただ苦痛の記憶から解放されず、なにかにすがろう
としているだけの哀れな存在だった。
受け入れてやるわけにもいかなかった。山内くんは息をつめて後
ろを再度ふりかえった。石田先生の姿はすでにない。
︵立ち去った?︶
とても安心はできず、山内くんは目を走らせて周囲を確かめ⋮⋮
267
危険がひとまず去ったことをようやく確認してから立ち上がる。ま
だ座りこんでいる紺に小声でせっついた。
﹁ここを離れよう。紺!﹂
少女は震えたまま動かなかった。その視線の先では無残な姿の霊
が苦痛のうめきをこぼしている。
﹁⋮⋮紺?﹂
様子がおかしいと感じて山内くんが肩に触れたとたん、少女は涙
をこぼしてしゃくりあげた。
﹁やだ⋮⋮やだよぉ、こんなふうに死にたくない⋮⋮﹂いましがた
の一幕は、極度の恐怖と疲労と無力感で追いつめられた彼女の意志、
それを砕く最後の一撃になってしまったようだった。﹁楓ぇ⋮⋮お
かーさん⋮⋮﹂
気丈さが失せきって幼子のように泣くその姿に、山内くんは双眸
をみはった。今度の驚きは長続きしなかった。ああ、とかれは嘆息
する。
悟ったのだ。紺は今日はじめて怖れを知ったのだと。
泣きじゃくる可憐なほどの姿に、幻滅はなかった。ただ彼女を追
い込んだものへの怒りと、使命感と呼ばれるであろうものだけが燃
えていた。
紺もひとりの女の子なんだと、あらためて山内くんは実感してい
た。パパの言うように、男は女の子を守らなきゃならない。
﹁大丈夫だから、紺﹂
彼女を立たせ、ゆっくりと区切るように少年は言う。
﹁僕にはこの闇が見える。いまからは僕が君の目になる。
君は死なない。絶対に﹂
これは僕にとっては慣れていることだ。山内くんは心につぶやく。
恐怖することに慣れている。逃げ出すことに慣れている。獣のよう
に怯えつつ、生き延びるためにあがくこと、ただそれだけは慣れて
しじま
いる。
沈黙の闇へと、山内くんは彼女の手を引いて歩き出した。
268
闇宮︿4 神憑き﹀
この場所に入れるようになったのは父のおかげだろうか。石田先
生と呼ばれている捕食者は、森を歩きながら回想する。
かれの父親は若いころ、酔うと妻や幼い子供たちに手を上げる男
だった。よくある悪癖だったが、子供たちのほうが体格が大きくな
るころには暴力はやんでいた。そのため親子の仲に決定的な亀裂が
走るまでには至らなかった。
やがて数十年が経ち、教職についていた捕食者は老いた父親を引
きとった。長男であり、独身でもある自分が父を引き取るほうが、
ほかの兄弟に任せるより筋だろうと思ったからだ。すぐに後悔する
ことになったが。
引き取ってすぐ、父は肝臓と腎臓の障害によって、もって数年と
余命を宣告された。長年の不摂生のつけが回り、老いた体の中身は
生きながら腐りかけていたのである。
﹃生き肝や。肝持ってこい﹄
父は七十を越していていたが、よほど死にたくなかったのだろう。
怪しげな民間療法にすがりはじめた。知り合いである罠猟師を通じ
て山野の獣を生きたまま届けさせ、手ずからそれをさばき、内臓を
生で食べるという常軌を逸した行動に出始めた。殺して取り出した
ばかりの湯気が立つ生肝でないと病は治らないと言って。
制止しようとしても効果はなかった。医者や子供たちがどう諌め
ても怒鳴り散らして聞く耳もたず、父は周りの目を盗んで獣の腹を
開きつづけた。猟師が獣の供給をやめると、近所の犬猫や鶏を盗ん
でまで血なまぐさい行為を行った。なにかに取り憑かれたかのよう
な一心不乱さだった。
痴呆症の一種と医者は診断を下した。
269
もちろん捕食者は、ただひとりの同居人である父の奇行に耐えか
ねていた。辟易していたなどという生易しい言葉では言い尽くせな
い。屠殺場と化していた台所や外のガレージは、あのころつねに異
臭がこびりついていた。シンクやコンクリートの床にあふれた血と
臓物、断末魔の獣のまき散らす汚物⋮⋮疲れとともに憎悪は蓄積し
ていった。
力ずくでやめさせようとすると父は常軌を逸した勢いで暴れ、寝
ているあいだに包丁をかれの目に突き立てようとした。このけだも
のを引き取りなどしなければよかったと、捕食者は何度後悔したか
わからない。しかしその時点ではもはや、父を捨てることもできな
かった。情ではない、そんなものは最後の一片までかき消えていた。
ひとことでいって世間体のためだった。この男をうかつに解き放て
ば、穢れた所業がおおっぴらに知れ渡るかもしれないのだ。
かじ
戦々恐々としながらも耐えられたのは、希望があるからだった。
獣の肝をどれだけ齧っても、父の病状はいっこうに改善しなかっ
た。当然だと嘲笑する余裕もなく、捕食者は黙りこくってただひと
つのことだけを考えていた。
まもなくこいつは死ぬだろう
頼むから一日でも早く死んでくれ
だが、刻々と迫る自らの死を、父はだれよりも実感していたのだ
ろう。死への恐怖で狂った頭が、ついに最大の禁忌に手を染めさせ
た。
ある晩捕食者が帰ると、父は台所にいて、いつものように獲物の
腹を裂こうとしていた。いまでもありありと思い出せる。不可解な
笑みと死相を浮かべた、むくんだ父の顔。肝障害で黄色く染まった
白目に血管を走らせながら、出刃包丁をかかげている老人。慣れた
その姿に捕食者は、もう疲れ以外のなんの感情も抱かなかった。
ただその日が常と違っていたのは、裸に剥かれた獲物の死骸が通
常の獣ではないことだった。
息絶えてシンクに横たわっていたのは、近所の男児だった。
270
﹃なんで治らないのかわかったんや﹄死んだ男児の腹に包丁を入れ
ながら、父は嬉しそうに言っていた。﹃肝の病には肝が薬になるち
ゅうても、同種の肝でないとあかんのや。猿や猫の肝じゃ効かん、
必要なのは人の肝や。考えればあたりまえのことやなあ﹄
縛られた幼い骸の首には、両手で絞めたあとが残っていた。
捕食者はめまいと虚脱感を覚えた。
うんざりだった。本当に本当にこの男にはうんざりだった。これ
で自分はなにもかも失うことになる。こいつのせいで。
いや
頭のなかに声が響いた、かのように感じた。
いかん
まだ間に合う。まだ世間体も職も失ってはいない。
この状況を放置すれば失うことになるが、行動如何では挽回でき
る。
だと、なぜかわかったのだ。だ
捕食者に決断をうながした心の動きは、自身でも説明するのが難
しい。
いまのうちに片付ければ大丈夫
れかが耳元でささやいたような気がしていた。
なにが大丈夫なのかそれを自問すらせず、捕食者は動いた。
かれはいつもどおりにスーツを脱ぎ、椅子にかけた。足元には、
父が男児を縛った余りであろう縄が床に落ちていた。それを拾い上
げ、一心不乱に腹を切り開いている父の後ろに歩み寄って、老いた
細首に巻きつけた。背中合わせにおぶるようにして父を吊り上げ、
気管と頸動脈を一気に絞る。
ほどなく、もがいていた父の動きが背中で止まった。糞尿を漏ら
したその汚い死体は、そのまま欄間に吊り下げておいた。自殺に見
えるよう足元に椅子も転がしておく。
問題は、腹に包丁を突き立てたままの男児の骸だった。血痕が床
に広がる前に、大きなビニールの風呂敷に包んだ。
それからなんの苦もなく、捕食者は初めて闇宮の入り口を開けて
骸を捨てた。
271
暗い社に。
どうやって来たのかすら説明できない。穢れきった台所から、扉
を開けるよりも簡単に、﹁そこにある世界﹂に踏み出したとしか言
えなかった。
自分がなにかに選ばれて人の世の理から抜けだしたことをうっす
らと感じ取っていたが、そんなことは、どうでもよかった。
これまでの生活は壊れないという深い満足だけがあり、それが重
要だった。
現世に戻るとかれはみずから通報し、父は病を苦にして自ら首を
くくったのだろうと警官に語った。とつぜんの事態に動揺をあらわ
にして/一方で病んだ父から解放された安堵をのぞかせ/さらにそ
の安堵を恥じてみせ/最後に一抹の悲しみを面ににじませる。もち
ごう
ろんすべてが計算された態度だった。冷えた思考での非の打ちどこ
ろのない演技に、警察は毫も疑いを抱かなかった。
男児のことについては、おくびにも出さなかった。そんな子供は
家に来ていない。
このときの男児の消失がのちに﹁播州の連続神かくし事件﹂の始
まりと呼ばれることになる。
そう、始まりだった。
捕食者が自分に備わった使命に気づいたのは、それから二ヶ月ほ
ど経ってからだ。
頭の奥底から、これまで知らなかった自分が訴えるのだ。
もっと死を捧げなければならない
あの世界をこれからも満たさなければならない
使命感の高ぶりは、衝動に近かった。
なぜそのようなことをしなければならないのか、それをいちいち
考える必要すらなかった。どうやってあの世界に渡ったのかを説明
できないのと同じように、かれにとってあまりにも自明のことだっ
たのだ。
実際に夜の町で適当な獲物を見つくろい、闇に引きずりこんで自
272
由を奪ったのちゆっくり解体する。慣れないうちは不手際も多かっ
たが、しだいに技術は向上していった。
迷いは一切なかった。これはなすべきことであり、清らかな奉納
なのだ、父のように見苦しい我欲で動いているわけではない。むせ
返るような血と臓物のにおいのなかで使命感は充足し、かれの心は
澄み渡っていった。
マンハント
人狩りを暫時切り上げて、捕食者は森の倒木に腰かけた。かれの
には昼というものがないが︶。
歳になると夜通し歩くのは少々堪える︵といっても、かれのこの
聖域
むぞうさに拾いあげた樹の枝の先を、土の露出した地面につけた。
泥をひっかき、×印をいくつかつけていく。
少し前にはこの繁華街で男子高校生を選んだ
くぐもった低い声でつぶやく。
四ヶ月前には山菜採りの女をこちらの渓谷で
頭のなかに描いた明町周辺の地図に、かれは印をつけていた。
世間でいうところの﹁神隠し﹂が起きた場所、つまり自分が獲物
を狩った犯行現場を。
地図にマーキングして犯行を思い返すこの行為は、悦に入るため
に行っているわけではない。自分の身を守るための分析だった。
これからは犯行に、可能な限りパターンを生み出してはならない。
不審を抱かれるかもしれない要素を、今後は極力排除せねばなら
ない。
狩り場が近隣の市や町に集中しているのはもう諦めるほかない。
人の死を求めるあの衝動はとつぜん来るし、数日と抗うことはでき
ない。たびたび不自然に遠出するより、土地勘のある近場でいつも
のように行動しながら、孤立した獲物を見定めるほうが安全だろう。
実際、人を手にかけるようになってから数年たつが、捕食者は警
察にマークすらされていない。もっともそれは、殺した者の死体が
273
出ないことが大きかったが。
遺体が確認されなければ、ただの失踪事件であって殺人事件にす
らならない。
現にならなかった。これまでは。
あの祭りの夜からすべてがおかしくなった
捕食者は眼鏡の位置を直し、瞳の焦点を宙に据える。
男子高校生を殺したときだ。手首足首を切断したのち数時間かけ
て、煮えた油を少しずつかけまわして殺した。そのあとは火を放っ
て適当に焼いておいたはずだった。
現世に戻ろうとしたとき、石畳の回廊で捕食者は獣の牙に紐を通
したアクセサリーを見つけた。
これはなんだと疑問を感じたのを覚えている。こんなものをあの
男子高校生は持っていただろうかと。これまで切り刻んできた犠牲
者たちのものでもないはずだ。
不安が胸に兆し、あとで調べてみようと捕食者はそれを拾ってポ
ケットに入れた。それが過ちだった。あのときとるべき行動はただ
ひとつ、即座にあの見慣れない品を処分するべきだったのだ。少な
くとも現世へ持って帰ってきてはならなかった。
おのれを痛罵してももはや遅い。
誤った判断が、その後のさらなる失態につながった。
アオオニ
アカオニ
戻った現世においてその夜のうちに、獣の牙のアクセサリーを捕
食者は失ってしまった。青丹崇と阿嘉島陽一の二人を補導したとき、
かれらによってポケットのなかのものを盗まれていたのだ。
あの二人を殺しておくべきだった
きりきりと音が聞こえる。自分が歯を延々と軋らせる音だ。身の
回りの人間を消せば疑われる可能性は高まる。あの屑どもの腸をこ
れまで引きずり出さなかったのは、ただそれだけが理由だった。
その逡巡が、今日の窮地をもたらした。
殺して焼いていたはずの男子高校生の体がどういうわけか、現世
に出てきてしまったのだ。
274
驚いたというだけではすませられなかった。首に破滅の縄がかけ
られたことにかれはすぐ気づいた。
拾ったアクセサリーと合わせて考えれば事態は明らかだ。アクセ
サリーの持ち主であるだれかがかれの聖域に踏み込み、死体を動か
したのである。
捕食者はそれまで、聖域には自分しか入り込めないと信じていた。
他者は自分が引きずり込んだ獲物だけしか存在しないと。それが誤
りであったと知ったとき、かれの不安と警戒はたちまち極限に達し
た。それは黒く凍えた殺意に変わった。
いったいだれが。それが最大の問題であった。
だれが聖域に侵入したのか⋮⋮その者の正体さえ知っていたなら、
捕食者はすぐにでもそいつと接触し、始末していただろう。
侵入者がもしもアクセサリーを取り戻すようなことがあれば⋮⋮
それがどういうルートをたどって現世に戻ってきたのか、そいつは
突き止めようとするだろう。そうなれば、捕食者の正体に遠からず
気づくだろう。捕食者の行ってきた行為は白日のもとに暴かれるだ
ろう。
そうさせてはならなかった。
この先はもう焦ってはならない
捕食者は、自分のこの聖域が、闇宮と呼ばれてきた場所であるこ
とを知らない。獣の牙のアクセサリーが牙笛という呪具だとも知ら
ない。
捕食者は呪術のことをなにも知らない。
けれども、自分の力がおよそ人界の理にのっとったものでないこ
とはわかっている。
そして、自分と同じような力を持つ誰かの存在を危惧している。
その誰かが自分を探してきたと確信している。このままでは自分の
行ってきたことが明るみに出されてしまいかねないと、承知してい
る。
問題は放置できない。
275
そうだ⋮⋮十妙院は放置できない
捕食者はつぶやく。
捕まるわけにはいかないのだ。使命がある。
聖域の中心である、鳥居の立ち並んだ空間をかれはいとおしげに
思い浮かべた。
剥いだ皮膚の一部や爪や髪や生殖器や腸を並べるときはあの場所
にえ
に置くようにしていた。もちろんきちんと法則はある。かれはどの
部位を贄からもぎ取るかを、自分なりの緻密なルールに則って決め
ていた。まず神聖な贄の名前と生年月日は絶対に聞き出さねばなら
ない。体のあらゆる組織、たとえば爪には8,腎臓には15、四番
目の肋骨には197というようにあらかじめ番号をふってある。生
年月日で数値化してどの部位を捧げるか決めるのだ。といっても安
易に生年月日のみで決定されるわけではなく、贄が死ぬ年と月と日
の数字も重要になる。難しいのはここからで、かれは犠牲者が生ま
れた年と月と日とそれぞれの数字を、現在の年と月と日と組み合わ
せて足し引き掛け割らねばならない。曜日も大事だ。どう加減乗除
するか、その法則は曜日によって細かく変動するからだ。血液型と
性別、家族構成なども変動要因に絡むため、贄の個人情報は口がき
けるうちにあらゆる手を尽くして暴いておかねばならない。そうや
ってはじき出した数値の下一桁∼三桁のどれかを採用して、その数
インスピレーション
字が割り振られた部位をえぐりとるのだ。ここがある意味ではもっ
とも難しいところで、下一桁か二桁かというのは啓示で決めるほか
ない。だからこそ余人にはなしえないであろうと捕食者自身は確信
している。なんとなく決める、では済まされないのだ。啓示を得る
ためにかれは贄の手首を切断して骨髄をやすりで削って叫ぶ声を聞
き、開腹して腸の色合いを手にとって検分し、ガスバーナーで炙っ
たはさみで乳首や腹膜や耳や鼻を切り取って暴れ方を見る。この数
時間かかる儀式のあいだ贄を死なせてはならず、最初のうちはこれ
がうまくいかなかった。発狂するくらいなら問題ないのだが、啓示
を得る前に死に至らしめてしまうことが多々あったのだ。いまは手
276
際がよくなって長く生かしておけるようになったが、それでもこの
作業はまったくの重労働だ。しかしもちろん、自分しかやれないの
だから避けては通れない⋮⋮
じっ
気がつくと、かれ自身が切り刻んできた人々の影︱︱幽霊とでも
いうのだろうか︱︱が、木々の陰からかれを凝と見つめている。手
を振ってみたが影たちは黙して応えてこなかった。
恐ろしくはない。影たちはかれになにもできないし、ここから逃
げられもしない。そういうふうになっていた。
そろそろ行こうと捕食者は立ち上がる。
この聖域が満ちるまであの影たちを増やしていかねばならない。
さしあたり十妙院⋮⋮かれの生徒の少女がまもなくそこに加わるだ
ろう。
しかし、妙なことだと捕食者はいぶかしむ。
今度の獲物である十妙院は痕跡をほとんど残していない。泥につ
いた足跡、森の下生えに残る通過跡、無理に通ったために折れた枝、
狩りにおいて追われる獲物は、そうしたものを残していくのが普通
だ。今回はそれがない。
それに移動が速い、と捕食者はいよいよ目を細める。闇のなかで
めくらめっぽうに歩きまわっているとは思えない速度だ。
かれはしばらくたたずんでいた。
ならば
それから、きびすを返して向かうべきところへ向かった。
277
闇宮︿5 護る者﹀
﹁⋮⋮石田センセも先祖に祝部の血が混じってる。だからあの人は
神憑きになっちゃった﹂
みたましろ
山内くんに手を引かれながら紺がつぶやく。山内くんはちょっと
ふりむいて聞き返した。
まがつみくらのかみ
﹁カミツキ?﹂
﹁あの人は禍津御座神の御霊代になったんだ。祝部の本流に近くも
ないのになんでそうなったのかわかんねーけど⋮⋮もとからなにか
の血の穢れに接していたんだと思う﹂
恐怖と疲れをまぎらわせようとしてか、紺はかぼそい声でとつと
つと語る。
﹁禍津御座の神は、常に人身御供を求めたらしい。祝部はそれを祀
ることで、ある程度なだめていたんだ。代わりに神を自分たちの一
人に降ろし、少しずつ力を引き出して利用していたけど、とても危
険な行いだったって。
神道系の降神術では、神を身に宿す者を御霊代もしくは神主って
いうんだけど⋮⋮祝部の神主は、禍津御座の神を宿したのち穢れに
染まりすぎると、神の欲するまま人を殺戮するようになるらしい。
人を殺しすぎるようになったらその神主は﹃もう駄目﹄と認定され
て内々に処分される。そのあと、祝部は自分たちのなかからまた新
しい神主を選び出すんだそうだ。そうやって長年、犠牲を抑えてき
た。
でも、祝部本家の当主が事故死したあと、だれも神を祀っていな
かった時期があったし⋮⋮。荒ぶる神は間断なく祀られてこそ和御
魂として鎮まるのに。神が放置された結果、石田先生がああなって、
しかも止める者がいなかった﹂
﹁⋮⋮あのさ紺、それって神様っていえるの? 悪魔とか邪神に聞
278
こえるんだけど﹂
あ
紺は首をふる。
﹁この国でも、邪しき神という概念はいにしえからあったけど、近
代になって入ってきた西洋的な善悪とは違う。神々はただ、﹃そう
いう性質をつかさどる存在﹄であるだけなんだ。人間のような知性
や意識があるのかすらわからない。ふくろうがネズミを食べるよう
に、禍津御座の神は純粋に人の血と苦痛の念を求める存在というだ
けだ。
⋮⋮あは、でも、自分が獲物の立場になったとたんびびって泣い
たオレが﹃そういうものだ﹄って悟ったみたいなこと言ってもこっ
けいだよな﹂
ナーバスな自嘲の台詞にどう答えたものかわからず、山内くんは
ふたたび目を前に戻した。森がひらけており、前方の地面に黒ぐろ
とした裂け目が見えていた。
︵崖?︶
近寄ると、流れる水の音が響く。
﹁川がある﹂
崖下を見下ろし、山内くんはつぶやいた。ふいにのどの渇きを意
識する。もう何時間も汗をかきながら山中を歩き続けていた。
﹁ここの水、飲めるかな﹂
﹁だめだ、山内﹂
異界の食べ物や飲み物を口にしたら元の世界に帰れなくなる
紺が緊張をにじませて注意してきた。
﹁
って言い伝えがある。ぎりぎりまで試しちゃだめだ﹂
﹁そうなんだ﹂
肝を冷やして山内くんは断念する。名残惜しげに崖の下をのぞき
こむと、川虎岩のある清流と同じくらいの川幅の沢だった。ふと、
この異空間はどこまで広がっているのだろうと考える。
︵山や川があるなんて広すぎるな︶
困ったことになった。一刻も早くここから出なければならないが、
279
うかつに動き回ればかえって出口から遠ざかるかもしれない。
はたと思いついて、山内くんは少女をふりかえった。
﹁紺。この世界は神様の張った結界のなかにあるって言ったよね。
結界の境目ってあるの?﹂
﹁ある⋮⋮と思う。でも、どこまで行けばそれを見つけられるかわ
からない。異世界って言っていいくらい広いかも⋮⋮それに、蔵の
地下と同じように空間をねじまげてつなげているみたいだから、果
てに着いてもまったく気付かず折り返して歩き続けることになるか
も。
術だとしたら、人間の術者には想像もできないほど術の規模が大
きすぎるし、巧妙すぎる﹂
﹁神様には知性があるかもわからないんじゃないの? それなのに
術が巧いの?﹂
くも
﹁逆だ。神の力のこういう形での発現を、人が術として真似たんだ。
人間は蜘蛛より知性的だけど、蜘蛛より上手に蜘蛛の巣を作れるわ
けじゃないぞ﹂
中折小狐
山内くんは落胆のため息をのみこんだ。
あの半分に折れた刀を銀に頼んで持たせてもらえばよかったとさ
っきまで悔やんでいたが、話を聞くかぎりあれがあっても結界その
ものを破るのは難しそうだった。
︵やっぱり、あの夜くぐった出口を探すしかない︶
鳥居の立ち並ぶ石畳の回廊。前回はそこをくぐりぬけて現世に戻
れたのだ。あの出口は、意外と近くにある気がしていた。
︵でもこの付近を探して回るとなると、石田先生に見つかる危険を
冒すことになる。足元が見えない紺を連れていたら逃げ切れない︶
眉を寄せて考える山内くんの耳に、
﹁あの⋮⋮山内﹂
おずおずと、紺の小声が届いた。
﹁さっきオレが泣いたこと、だれにも言うなよ﹂
まだ目の赤い少女は、恥ずかしそうに釘をさしてきた。ちくしょ
280
ーなんであんな不覚、と顔に書いてある。元気が少し戻ってきたよ
うに見えた。安堵を覚えながら、山内くんは真面目にうなずく。
﹁わかってる。秘密にしとく﹂
﹁⋮⋮ほんとに秘密だからな﹂
﹁うん﹂もう一度首肯し、山内くんはつないだ手を外した。
︵一回紺を隠れさせておいて、僕ひとりが出口を探しに行くのがい
いかも︶
そう考えたのだ。だが直後に考えなおさねばならなくなった。紺
が焦った勢いで手をつかみなおしてきたから。
﹁な⋮⋮なんで放すんだよ!﹂
かっ
不安一色に塗りつぶされた表情。すがるようなうわずった声とと
もに、彼女の唇から出た火が赫と燃え盛る。山内くんもあわてた。
﹁紺! 見つかる、火抑えて!﹂
あっと少女が息を飲んで目をつぶり、もう片手で自分の口を押さ
えた。ずっとつなぎっぱなしだった手は互いの体温が熱いくらいに
こもり、汗ばんで滑る。けれども紺はわずかでも離れたくないとば
かりに、つかんだ手を放そうとは決してしなかった。汗に濡れた手
のひらを通して、少女の小刻みな震えがまた伝わってきていた。
いまの紺をひとりにするのは危なっかしい、と山内くんは判断せ
ざるをえなかった。ある程度持ち直したかに見えても、やはり少女
の精神は、はじめての挫折からまだ回復していなかった。
そして彼女はかれより数時間前から、この暗闇の世界で必死に逃
げていたのだ。体力的にも彼女のほうが消耗しているはずだった。
のどの渇きもおそらく並大抵ではないだろう。
見晴らしの良すぎる崖ぎわから林にいったん戻り、嘆息する。
︵⋮⋮ふたりで隠れるにしても、この世界じゃ長くはもたない。水
も口にできないならなおさらだ︶
正直なところ、八方ふさがりである。それでも、なんらかの行動
はとるべきだった。山内くんが提案しようとしたとき、紺のポケッ
トから、音が響いた。
281
︿いぃい﹀
ぎくりと山内くんの身がこわばる。牙笛がふたたび鳴っていた。
かれは反射的に紺の手を引いて走りだしかけたが、妙だと気づいて
立ち止まった。
︿いぃ。い。いいい﹀
音が断続的だった。いつもの警鐘︱︱ヒステリックなほどのそれ
とは明らかに違う。まるで呼んでいるかのようだ。
﹁紺⋮⋮牙笛をポケットから出して﹂
それまで紺は音が聞こえないらしく戸惑った表情だったが、すぐ
察したようでポケットからその呪具をつかみだした。
ある程度は予想していた。だから山内くんは、悲鳴をこらえるこ
とができた。
紺のてのひらに乗った牙笛を、ずたずたになった手が横からつか
んでいた。
山内くんの視線に気づいた紺が、牙笛をいぶかしげに見下ろした。
﹁うわ!?﹂自分の火で照らしてわかったらしく、のけぞる。とっ
さに投げ捨てなかったのは、さすがに霊には慣れた彼女ならではだ
ったろう。
見たことがある霊だ、と山内くんは記憶を探る。
ふと、血まみれの手首にはまった銀の腕時計が目に入った。
︵そうだ。この手、初めてこの世界に来たときも牙笛つかんでたや
つじゃないか︶
あのときはパニックになって、手ごと牙笛を投げ捨ててしまった。
しかしあれから山内くんは色々と学んでいた、霊といっても個体差
があることを。こちらに悪意を向けるのではなく、助けてくれる者
もいるのだと。
282
ればわかった。言語化するのは難しいが、発する気の色合い
そして、悪意を向けられているかそうでないかは、山内くんには
見
というべきか、霊が湯気のようにまとうかすかな雰囲気でなんとな
く判別がつくのである。
かれに遅れて、火ですばやく霊を確かめた紺が、なにかに気づい
たようにつぶやいた。
﹁山内、この霊⋮⋮﹂
﹁うん。たぶん大丈夫。見た目はアレだけど無害だと思う﹂
﹁いや、そうじゃなくて⋮⋮この気配、オレ、前から知ってる気が
する﹂
え、と山内くんは目をみはった。
︵紺にも?︶
もう一度よくよく見て、かれはまた気づいた。
﹁⋮⋮もんじゃくんの一部だ、これ﹂
呆然とした。パパの買ったバイクにくっついている、ぐちゃぐち
ゃになった姿の霊だ。その無残な姿をあまり見たくなくて、もんじ
ゃくんを直視したことはそれほどない。だからとっさに気づかなか
ったのだが⋮⋮言われてみれば、同じ霊だった。バイクに憑いてい
るはずの霊がなんでこんなところに、と山内くんはけげんに思った。
だが、紺はさらに困惑した表情を見せていた。
﹁え!? あ、ほんとだ、もんじゃくんだ、こいつ⋮⋮でもそうじ
ゃなくて、なんていうか、あの⋮⋮﹂彼女は気づいた表情になり、
急になぜか歯切れ悪くなって、﹁あのさ、山内⋮⋮オレ、もんじゃ
くんにも見覚えある気がしてたんだ。もんじゃくんって、もしかし
てさ、バイクに憑いてるんじゃなかったのかも⋮⋮﹂
わけのわからないことを紺が言い出した。山内くんはどうしてか、
ひどく心がざわつくのを感じた。
﹁どういうこと、紺﹂
﹁思い出した。オレがこの気配初めて感じたのって⋮⋮おまえと初
めて出会ったときだ。この霊、おまえに憑いてるんじゃねーか、っ
283
て、思うんだけど﹂
紺の表情にはいまや、﹁言わないほうがよかったかも﹂という後
悔が現れはじめていた。
山内くんは自分の顔色がすっと変わったのがわかった。
記憶によみがえったのは、紺と最初に枕を並べて眠った夜に、彼
女から聞いた話だった。
︱︱牙笛ってのは危険が迫ったとき、すぐそばにいる好意的な霊
が鳴らしてくれるものなんだよ。おまえは憑いてるものに守られてた
︱︱おおかた祖霊だろ
︱︱たぶんだけど若い男
もう一度、手の霊を見る。
ぐしゃぐしゃにつぶれた手。交通事故で死ねばこうなるのかもし
れない。
手首にはまった銀の腕時計。
銀に見せてもらった写真で、最後の祝部の当主は、こういう腕時
計をはめていなかったか? ずっと牙笛を鳴らしてくれていたのは、
明らかにこの霊だった。
山内くんの、血縁上の父親。
言葉を無くして呆けたように立ち尽くす山内くんの前で、もんじ
ゃくんの手はとつぜん動きはじめた。指をのたくらせて巨大な虫の
ようにずるずると動き、地面にぼとりと落ちた。そこで向きを変え、
ひとさし指を伸ばした。沢の下流とおぼしき方向に。
あちらへ行け、と山内くんたちに教えるように。
その輪郭が薄れ、黒い霞のように夜気に溶けて消え去ってもなお、
山内くんはしばらく動かなかった。
﹁山内⋮⋮﹂
けれども、紺が気づかうように声をそっとかけてきたとき、急に
かれは紺の手を引いて、手の指したほうへ歩き始めた。﹁行こう﹂
284
短くそうとだけ言って。
目からこぼれ落ちそうな熱いしずくを、山内くんは奥歯を噛み締
めてこらえる。
泣くわけにはいかない。いま、僕は弱った紺を守らなきゃならな
いんだから。涙を見せて、彼女をこれ以上不安にしてはいけない。
紺はなにも言わず、かれの手をぎゅっと握ってついてきていた。
無言でふたりは歩き続けた。
拾った木の枝を杖にして、沢沿いに下る。切り立った岩場や密生
した藪に四苦八苦しながら通り抜けた先に、それは見えてきた。
林立する赤黒い鳥居と、石畳の回廊が。
︵着いた︶
夢で見た場所。いまとなっては本物の夢がこの闇宮に通じていた
のか、妖しい空気にあてられて夢と思い込んでいたのかわからない
が。明らかなのは、この場所がいま眼前に存在しているという揺る
やしろ
ぎない事実だけだった。
荒れ果てた社へと入る。鳥居立ち並ぶ回廊にかこまれた庭には、
社殿も祠もなにもない。鳥居を建てたのもたぶん人間⋮⋮祝部の一
族だろう。
﹁僕が前に出られたのはこの先からだった﹂
涙がようやくひっこんでいた山内くんは振り向いて紺に伝えた。
紺は慎重な小声で応じた。
﹁祝部の先祖が出口を作ってたのかな⋮⋮﹂
﹁わかんないけど、出られさえすればいい﹂
それにしても、驚くべきは広大さだった。名高い京の伏見稲荷社
の千本鳥居にも匹敵するのではないかと思われた。しばらく歩き続
けてもいっかな鳥居の回廊が終わらない。
列なる鳥居の陰からは人ならぬものの気配やにらみつけてくる視
線を感じたが、山内くんたちは足を速めて進んだ。臆しないという
よりは、いまさら悪意ある死者たちなどに足を止めていられなかっ
たのである。
285
出られる。もうすぐこの世界から出られる。そのことだけで頭が
いっぱいになっていた。
ついに、山内くんの目は一条の漏れる明かりを見つけた。
﹁あった!﹂
歓喜と安堵で思わず声を漏らしていた。
最後の鳥居。その下の空間に、輝く亀裂が入っている。闇の裂け
目からは、生の世界の光が漏れていた。夢の記憶に刺激される︱︱
そうだ、最初に迷い込んだあの夜は、黒い蝉をかわしてその側を駆
け抜け、あの亀裂に飛び込んだのだ。
﹁紺、あの出口の光は君にも見える?﹂
﹁見える⋮⋮!﹂
紺の喜びはかれに勝るとも劣らなかった。いまにも駆け出しそう
になって、彼女は山内くんの手を逆に引く勢いで前へ出た。﹁早く
行こう!﹂
うなずいて駆け出そうとした山内くんは、足をつっぱって緊急停
止した。
鳴り渡っていた。牙笛が。
出口の横手。なにもない庭とおぼしき場所で、かれらを見た男が
静かに立ち上がるのがわかった。手には大型ナイフを持っている。
待ち伏せられてたんだ、と山内くんは悟る。
闇が、急に密度を増した。窒息しそうなほどに黒く、黒く、黒く
濃密に⋮⋮山内くんの視界すら、もはや闇夜とほとんど変わりなか
った。禍々しくどす黒い世界のなか、人のかたちをとった暗黒が、
ふたりに向けて音を立てずに歩き始めた。
山内くんは石田先生の姿が見えていないかのように目をそらす。
心臓が、狂ったように騒いでいる。
﹁山内⋮⋮?﹂
石田先生の姿は見えなくとも、紺は、周囲の、あるいは山内くん
の雰囲気が変わったことに気づいたようだった。少女の手が少年の
手のなかでこわばった。
286
﹁紺。聞いて。このまま前に歩くんだ。ただ出口だけを見て﹂
ファイト・オア・フライト
おし殺した声でささやく。
戦うか逃げるか︱︱生き延びるための行動を選ぶ時だった。
﹁僕が合図したら、出口へ全力で走るんだ﹂
いまさら引き返せない。後ろに逃げても逃げ切れない。
幸い、出口はすぐそこだ。
近づいてくる屠殺者に気づかないふうを装って、前へと踏み出す。
木の枝の杖を握りしめて。
強烈な恐怖が昂ぶりに変換されていく。
︵最悪でも紺だけは現世に戻してみせる︶
287
闇宮︿6 対決﹀
ななめ前方から、石田先生がゆっくりと近づいてくる。その捕食
者の手のなかでナイフがくるりと回り、逆手に持ち替えられる。そ
の歩みに音はなく、息づかいも含めて気配はいっさい感じ取れない。
山内くんは紺の背に左手を当てて出口を目指しながら思う。まる
でその男自身が生ける幽鬼であるかのようだと。
怯えきった紺が歩みを鈍らせる。闇でなにも見えていない彼女に
も、間近の山内くんの切迫した雰囲気は伝わっているようだった。
﹁大丈夫。紺、僕を信じて。さっき言ったように、合図したら出口
めがけて走るんだ。それまでは火を吹いて周りを照らさないで、怖
くても﹂
石田先生に気づかれないようにささやきながら、山内くん自身も
出口だけを見すえる。
はっぽうもく
武道において、敵の体のどこかに視線の焦点を定めることなく、
虚心となって全体に注意する技のことを八方目という。山内くんは
八方目を応用して、捕食者を直視せず警戒する。
彼我の距離はあと十数歩。
時間にしてあと数秒。
表情筋を抑えつけ、徹底して相手に気づいていないふうを装う。
︱︱そのまま、歩きかたを変えるんじゃない。
呼吸を静かにととのえる。右手に持った杖をあらためて握りしめ
る。
︱︱そのまま油断していてくれ。
己だけが闇を見透せるという力は、強力だ。どれだけ屈強な体格
を持つ人間でも、どれだけ強力な攻撃手段がある人でも、視界が闇
288
に塗りつぶされれば防御すら困難になる。いまのように気配なく接
近されれば、致命的な最初の一撃を避けようもない。
︱︱でも、これまで殺された人々と違い、僕はあいつと同じく﹁
見えている﹂。そして、あいつは僕が見えていることを知らない。
僕は先手をとることができる。
ただそれだけが、山内くんの持つアドバンテージだった。
あと十歩の距離。
双方が一歩ずつ近づく。八歩。
六歩。
四歩。ナイフがゆるゆるとかかげられる。
二歩︱︱
﹁走れっ!﹂
山内くんは叫び、大きく踏み込み、上方に杖をはねあげた。石田
先生の顔を狙った一撃。
外れた。
のけぞることで石田先生はその一撃をかわした。
奇襲の失敗に山内くんは驚愕する。いやでも悟らざるをえない、
﹁見える人間﹂がいることを予期されていたのだ。だがまったくの
成果なしではない︱︱合図とともに紺の火が吐き出されて石畳の回
廊がつかの間明るくなった。言われるまま走りだした紺が、脇目も
ふらず捕食者の横を駆け抜ける。
石田先生は体を回して少女に追いすがろうとした。その横顔を狙
って山内くんはふたたび杖を振るう。しかし横薙ぎの二撃目は、刃
渡り三十センチのナイフにはねのけられた。斬撃で断たれた杖の先
端がくるくる回ってすっ飛ぶ。
ぐりっと首をねじまげて、石田先生は山内くんを見た。
光を吸い込む小穴のような瞳で。
︵⋮⋮人じゃ、なくなってる︶
捕食者の瞳の奥をのぞきこんだとき、本能的な恐怖で山内くんは
あえいだ。
289
ざめ
いま目の前にいるものは、姿形は人間だ。だが内側では得体の知
れない暗黒の存在とつながっている。山内くんは巨大な人喰い鮫と
海中で対峙したかのような息苦しさにとらわれた。
それでも、恐怖を闘争心に変換し、捕食者と出口のあいだに立ち
はだかる。逃げろとせっつく本能を、人の意志によって抑えつける。
︵紺が出口に駆け込むまで、こいつの足を止めなきゃならない︶
ちゅうちょ
短くなった杖をかまえる。前後にステップし、棒術の応用で突き
を浴びせる。捕食者は物言わずさらに後じさった。
みぞおち
山内くんは攻撃衝動を抑えようとはしなかった。躊躇している余
裕があろうはずもない。上段中段下段の急所︱︱金的・水月・顔面
はや
とりわけ両の目︱︱を狙って猛然と杖を突き出す。
連続する迅い打突を、捕食者は後退しつづけることでかわす。そ
の身ごなしはさほど速くはないが、ゆらゆら揺れて妙に動きが読め
ひ
ない。
︵退け、もっと退け!︶
無我夢中で棒を繰り出し、山内くんは前進を止めない。すでに石
畳の上からははみ出ていた。捕食者を追い詰めている方向には沢が
流れているようで、断崖となった向こうから水音が響いている。
もう数瞬もすれば、捕食者を崖に追い落とせるかもしれない。そ
れが叶わなければ、自分も身を返して出口に走るつもりだった。
だが山内くんが渾身の一撃を突き刺そうと踏み込んだとたん、捕
食者はいきなり前に出てきた。なんの予備動作もなく、無造作に。
山内くんの一撃は、半身になった捕食者の胴体をかすめる。
しまったと思った刹那に、ナイフに頬を貫かれていた。
︵あ︶
右頬を貫通した刃が、上下の右側歯列のあいだに滑り込み、口蓋
をがりっと傷つけながら左側の奥歯の一部を砕いた。
︵この人、間合いの取り方が巧い。武道経験者だろうか︶
顔の横からナイフを突き立てられた瞬間、山内くんの脳裏に浮か
んだのは意外に冷静な分析だった。ずぽ、とナイフが顔面から抜か
290
れる。﹁あぎっ、﹂声が漏れ、瞬きの後、痛覚神経の赤い叫びが思
考を根こそぎ揺るがした。
手負いの獣の絶叫が聞こえる。杖を手放し、頬の傷を両手で押さ
えてよろよろと後退する自分の声。押さえた手の指のあいだからも
唇からも、真っ赤な液体がどっとあふれる。奥歯のかけらがびちゃ
びちゃ垂れる血に混じって唇から転がり出た。
足を払われる。かろうじて受け身をとり、立ち上がって逃げよう
と腹ばいになった瞬間に足首を踏み砕かれた。ゴリッとくるぶしの
壊れる感覚があった。
ああやだな、逃げられなくなったとパニックに陥る頭の片隅で思
う。
は
後頭部の髪をわしづかまれ、首を後ろに反らさせられる。血に濡
れたナイフの冷たい先端がすすっと頬を刷いた。ゆっくりとそれは
鼻の下に移動していった。まずは鼻を削がれるのだとおぼろげに理
解した。︿おまえもしぬおまえもしぬこれからしぬ﹀群がってきた
死霊たちが周囲でぶつぶつ言っているのが聞こえた。
ぎゅっとつぶった目から涙があふれ、しゃくりあげが漏れる︱︱
たくさんの声にならない悲鳴が胸中にあふれた。死にたくない。死
にたくない。痛いのは嫌だ。助けてパパ。
その一方で、これでいい、とあきらめる自分もいた。
嫌だけれど、しょうがない。
最大の目的︱︱紺を逃がすことは達成できた。だからしょうがな
い。
何度もあの子に命を救われた。だから、あの子が死ぬよりかは、
僕があの子の代わりに死ぬのが筋じゃあないか。
けれど痛みの瞬間は、やってこなかった。
閉じたまぶたを通して、輝きを感じた。いましも山内くんの解体
を始めようとしていた捕食者の手が止まるのと、山内くんが目を開
けてそれを見たのは同時だった。
幾条もの火炎の帯がかれらを取り巻いていた。
291
あまてら
とも
かか
少女の張りつめた呪歌が後ろから響く。
はやあ
﹁天照す火の灯し立て掲ぐれば︱︱闇てふ闇は早明けにけり!﹂
とたん、炎が数十倍に膨らんだ。
赤い火。青い火。火炎の渦。押し包もうと迫る濃い闇が燃え盛る
火によってわずかな間だけ退けられる。闇宮の一角が真昼のごとく
照らされた。
炎に取り巻かれた捕食者が、山内くんの髪から手を放し、わずら
わしげに火を払った。渾身の霊力をこめたらしき紺の術に対し、ド
ライアイスの煙でも払うかのようなあしらい方だった。けれども、
炎の向こうから紺が飛びこんで直接体当たりしてきたことには、さ
すがに捕食者も意表をつかれたようだった。眼鏡がすっ飛び、たた
らを踏み、捕食者は山内くんの上からどいた。
﹁山内っ、立て、しっかりしろよ⋮⋮!﹂
紺がかれの肩をかついで必死に叱咤する。彼女は術をもって補強
した全力の秘火で、つかの間の視界を確保し、駆け戻ってきたよう
だった。山内くんは状況がすぐには飲み込めないながら身を起こし
た。とたん右のくるぶしに激痛が走り、紺に体重を寄せるようにし
て倒れこんでしまう。紺が苦しげに顔をゆがめてかれの体重を支え、
一歩一歩歩きはじめた。
けれども、どう考えても逃げ切れないのは明らかだった。
捕食者はかれらをろくに見もせず、悠揚迫らぬ態度で眼鏡を拾い
上げていた。不要な余裕を示しているかに見えて、その立ち位置は
ふたりと出口のあいだをきっちり塞いでいる。外界に逃げだす道は
封じられていた。
ただ、捕食者はやはりかれらをすぐ捕らえるべきだったろう。眼
鏡をかけ直したあとで、その目がいぶかしげに細まったのは、少女
が少年を連れて逃げる方向を見たときだった。
山内くんも、出血と痛みで失神しそうになりながら目を見開いた。
紺、そっちは崖だよ。しゃべろうとしたが口内の激痛で声にならな
かった。
292
﹁他にねーもん﹂蒼白な顔の紺は、かすれた声で告げた。﹁逃げ道
なんて他にない﹂
彼女は、山内くんごと崖から沢へ身を踊らせた。
水面まではそう遠くなかった、幸いにして。
ちの道は父と母との血の道よ ちの道返せ血の道の神⋮⋮
間近で血止めの呪歌が聞こえる。裂けた頬に、温かいものが触れ
てつかの間痛みを癒やした。
続いて少女の涙声。
﹁山内、山内っ⋮⋮起きろっ、目を覚ませよっ﹂
重傷を負った山内くんは朦朧と目を開けた。
川の岸辺だった。むろんまだ闇宮のなかである。
涙をこぼす紺が、かれに覆いかぶさってのぞきこんでいた。もう
秘火を抑えるつもりはないようで、彼女の吐く明かりが、ホタルの
光程度ながら岸辺を照らしていた。川中の岩によるものか、紺は腕
や脚のあちこちに切り傷や擦り傷を作っていた。濡れそぼつ髪には
小枝や葉がからんでいる。みじめな有り様だった⋮⋮が、彼女の双
眸や、かれの上にぽろぽろ落ちてくる涙は、火のきらめきを宿して
宝石のように輝いていた。
︵この子、ものすごくきれいになるだろうな︶
紺を見上げ、夢うつつのはざまで山内くんは場違いなことを考え
た。
︵生きていたら⋮⋮︶
しゅうれん
そう、生きていたら、だ。
拡散しかけていた意識が収斂し、山内くんはうめいた。
すべて思い出したのである。出口に向かったはずの紺が戻ってき
て、かれとともに沢に飛び込んだことを。深手によって意識を手放
したかれを、彼女は川中でずっと支えていたのだろう。そうでなけ
293
れば溺れ死んでいる。
見たところ、だいぶ下流に流されたところで、紺はかれを岸辺に
引き上げたようだった。
だが、ほんの少し生き延びられたことを喜ぶよりも、かれは強い
落胆を覚えた。
﹁なんで⋮⋮どうして、逃げなかったんだよ⋮⋮紺﹂
山内くんは気息奄々でつぶやく。これで、ぜんぶ無駄になってし
まった。紺を救うことも果たせなかったとかれは失意に沈んだ。
紺が首をふる。その声が震えた。
﹁置いてなんて行けねーもん。オレを助けに来てくれたやつを﹂彼
女は涙をぬぐい、まだ弱々しくはあったがきっぱりした声で言った。
﹁ふたりでないと帰らない﹂
絶望の吐息を山内くんは漏らした。目の前にいるのはまぎれもな
く、かれのよく知る紺だった。責任感が強く、面倒見がよく、優し
い少女。
だがそのために、彼女はこの闇の世界に残ってしまった。
﹁ふたりでなんてもう無理だよ。足を折られた、僕は歩くこともで
きない﹂
しゃべると口内の血がのどにどっと流れこみ、少年は咳き込んだ。
このままひとりで行ってと紺に言わねばならなかった。そのほう
が、助かる可能性がまだしもある。そうと知りつつ、なかなか口は
動かなかった。闇に置いて行かれて、確実な死をひとりで待つとい
うのは、怖ろしい想像だった。肝が縮み、涙がにじんだ。
でも言うんだ。言わなきゃ
舌を、どうにか動かしかけたときだった。
﹁聞け、山内。思いついたんだ、たったひとつだけある。ふたりで
帰れるかもしれない方法が﹂
悲壮な面持ちの紺がかれの肩をつかんだ。
﹁これからそれをやる。失敗したら、ふたりとも死ぬ。
成功したら⋮⋮おまえはオレを恨んでいい。でも、とりあえずは
294
助かると思う﹂
山内くんはかすむ目を凝らして紺をまじまじと見た。
295
闇宮︿7 禁呪﹀
山内くんの胸に疑問が湧き起こる。そんな手段がほんとうにある
のか。あるのならなぜためらう必要があるのか、とにかく目先の命
を拾うことが最重要事だ。だというのになぜ成功したとき彼女を恨
む必要があるのだろう。
かれの目にあらわれた疑問を読み取ったのだろう。紺はかすかに
肩を震わせ、苦い声で言った。
﹁いまからおまえという器に、禍津御座の神を降ろすんだ﹂
血まみれの口をぽかんと開け、山内くんは耳を疑った。どうにか
声を、口内に溜まった血とともに吐き出してたずねる。
﹁それ⋮⋮ごほっ、石田先生に憑いているやつだよね?﹂
﹁そうだ。この闇宮の主だ。勝てないんだから、こっちに移し替え
て味方にする。
まがつかみ
神仏天魔の力を使役するのは、古来から、人に扱えるかぎりのも
っとも強力な禁呪だ。あの禍津神を喚んで、石田センセから引き剥
がす﹂
緊張の極みか、ごくりと紺はのどを鳴らす。
﹁むちゃくちゃだけど、条件はそろってるんだ。
おまえは、祝部本家の最後の血。本来、石田センセよりも、ずっ
と適性はあるはずなんだ。祝部本家は、自分たちの血脈をあの神の
器として特化させることに数百年をかけたんだから。
あの神は⋮⋮おまえを器として試したら、﹃あっちの器よりずっ
といい﹄と感じるはずだ。獣がより具合のいい巣に移るように、自
分にもっと適した器があれば簡単に乗り換えると思う。
そしていま、わざわざ禍津神を喚ぶための穢れの場を作る必要は
ない。なぜならここはもうこれ以上ない穢れの場、闇宮だから。自
296
分の世界で喚ばれたら、あの神にはすぐわかるはずだ﹂
かみがか
﹁でも、紺、僕には神の降ろし方なんてわからない﹂
いにしえ
﹁それはオレが担当する。
上古には、術者は一人で神憑りとなった。けれど、術がより洗練
かんぬし
されると、確実さと安全を期して二人以上の術者で召喚するように
さにわ
こび
なった。神を宿す神主と、神主を補佐してときには儀式を主導する
審神者とに分かれたんだ。
たぶら
おまえは神主。オレが審神者をやる。
オレの家は男を誑かして血を取り込んできた、﹃狐媚の家﹄の十
妙院だ。勝てない相手を⋮⋮強い者をくわえこんで味方に変えるの
は、うちの本領だ﹂
覚悟と自嘲を微妙に混ぜあわせた表情を紺は作る。
﹁オレ、自分はひとりでも強いと思ってたから、十妙院の先祖たち
のそういうやり方を、ずっと情けねーって思ってた。祝部の術につ
いても、正直ちょっと見下してた⋮⋮危険を冒して神を宿したって、
しょせん他から借りた力じゃないかって。でも、今日よくわかった。
どんなに術者個人の霊力が強くても、ほんとうに強力な神々の前で
は、羽虫みてーなものなんだ。
始めるぞ﹂
横たわった山内くんのとなりで、紺は岸辺の草むらにひざ立ちに
なった。
山内くんは半信半疑で問うように目を向ける。
術のことはなにも知らないが、なにも準備せず、こんな場所でう
まさかき
し
まく行くのだろうか。かれの疑念を、紺は視線からある程度読み取
ったようだった。
﹁大丈夫。たしかにここには、なにもねーけど﹂
で
こぬさ
張るべき注連縄がない。鈴がない。鏡も玉も麻もない。真榊、紙
垂に小幣もない。酒と洗米と塩すらもない。紺はそう認め、
﹁でも、この神が通常と逆で清浄より死穢を好むなら、場を清める
塩や酒はあまり意味はないと思う。それにオレは、霊力と術にまか
297
せたごり押しは得意なんだ。今日はいっぱい醜態さらしちまったけ
ど、これでも天才って呼ばれてるんだぜ﹂言って彼女は微笑んだ。
こんどは自嘲の笑いというよりも、山内くんを少しでも安堵させよ
うとする笑い方だった。﹁オレの力はあの神に立ち向かえるほど強
くないって思い知ったけど、呼びかけて引き寄せるくらいはできる
はずだ﹂
紺は、ショートパンツのポケットから符の束を取り出した。
数枚の符は、濡れなどしなかったかのようにふわりと頭上に浮い
た。
げん
そう
こう
きん
ゆうてん
ゆ
その数八枚。八角形を作るかのように、宙で同心円上にただよう。
けん い
一枚には一字ずつ漢字が記されている。
こん
﹁乾位幽符を冠して幽天と為す。
ごん
坤位朱符を冠して朱天と為す。
そん
艮位変符を冠して変天と為す。
かん
巽位陽符を冠して陽天と為す。
り
坎位玄符を冠して玄天と為す。
しん
離位炎符を冠して炎天と為す。
だ
震位蒼符を冠して蒼天と為す。
兌位顥符を冠して顥天と為す﹂
けんこんごんそんかんりしんだ
けいせいとかくきょせいぼうぼう
乾坤艮巽坎離震兌、
いんようたいきょくりくごうはっけ
奎井斗角虚星房昴、
ゆうしゅへんようげんえんそうこう
陰陽太極六合八卦、
幽朱変陽玄炎蒼顥︱︱
おう
唱えながら九枚目の符を、紺は山内くんの胸の上に浮かべた。
にわ
つうてんいん
﹁央位欽符を冠して欽天と為す。是九天陣なり。此の陣をもって斎
庭に代えるなり﹂
彼女は指を組み、九天に気線をめぐらす通天印を結ぶ。九枚の符
が、伝えられた紺の力を増幅して激しく震えた。山内くんの目には、
298
闇の虚空に狼煙のごとく霊力が立ち上るのが見えている。捕食者が
もしこちらを見ていれば、間違いなく数キロ先からでも気づくであ
ろう目立ち方だった。
おきつかがみいん
へつかがみいん
やつかのつるぎいん いくたまいん
たる
即席で神を喚ぶ場を用意した紺が、山内くんに向けて一拝一柏手
とくさのかんだからいん
し、指を組み替える。
たまいん
まかるがえしのたまのち
いが
んえしのたまのいん おろちのひれのいん はちのひれのいん
くさぐさのもののひれのいん
十種神宝印すなわち興津鏡印、辺津鏡印、八握剣印、生玉印、足
ふた
み
よ
いつ
たまはこのいん
むゆ
なな
や
ここの
たり
ふ
玉印、死反玉印、道反玉印、蛇比礼印、蜂比礼印、品々物比礼印を
順繰りに結び、
ひと
締めくくりに山内くんに向けて魂筥印︱︱
るへゆらゆら
﹁比止 布太 身 与 伊都 武由 奈那 弥 古々乃 多利 布
留部由良由良﹂
ちりんちりんと、鈴の音がする。驚くべきことに周囲の浮いた符
から。
準備
を施されたのだと悟る。
かえ
山内くんは肌がぴりぴりするのを感じた。いまの印で自分がなに
かの
まつげを伏せた紺が口早となり、
﹁血の道と血の道と其の血の道と血の道復し父母の道、ひふみよい
むなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをはたくめかうおゑにさ
かしわで
りへてのますあせえほれけ﹂
お
呪歌と、
われ
と
﹁招ぎたてまつる此の柏手にかしこくも来たりましませ 此の御霊
あだなえ
代に降りましませ 仕えたてまつる吾らに寄り来たり給ひて疾くも
かむおぎ
ことば
ろもろの敵を除かしめ給えとかしこみかしこみ曰す﹂
ふたたびゆるやかな声調に戻っての神招の詞と、柏手︱︱
ときに変化を交えて、何度も何度も彼女は繰り返してゆく。
紺の唇から漏れる秘火は、何匹もの火の蛇のようになって彼女の
周りをゆるやかに巡っていた。少女の服から湯気が立ちのぼり、濡
れた肌が乾き、さらに上気して汗に濡れはじめる。山内くんは驚き
をもって見つめていた。
⋮⋮ぼうっと眺めていられたのは、そこまでだった。
299
総毛立った。
何かがかれに
触れてきた
感触があった。物理的にではないが、
そうと錯覚するほどの濃密な気配が、いつのまにか闇のなかに充満
していた。山内くんの目をしても見えないが、たしかにそれはそこ
にいた。
この巨大な気配を山内くんは知っていた。ついさっき接したのだ
から。
違うのは、今はそいつは石田先生という器に入っていないことだ。
﹁ひっ、﹂
また触れられた。根源的な恐怖と嫌悪感が湧き起こる。這いずっ
てでも逃げたくなる。
夜の海で泳いでいるとき、海面下の部分を人喰い鮫につつかれだ
したら、このような気分になるのだろう。
姿のない人喰い鮫は、ふたりの周りの闇を泳ぎまわりながら、と
きおり山内くんに触れてくる。確かめられているのだと少年は悟っ
た。
焦って紺に横目をやる。彼女も目を閉じて集中しながら、蒼白に
なっていた。
耐え切れず言葉を発しようとしたとき、﹁それ﹂はついにまっす
ぐぶつかってきた。
︱︱どん、
︱︱ずるり
大きなものに押しつぶされかけ、それが凝縮して脊柱にもぐり込
んできたように山内くんは感じた。意外なほどに生々しい、﹁別の
存在﹂に侵される感覚。
少年の悲鳴が漏れた。
毛細血管、末端神経の一本一本にまで、形のない異質のなにかが
からみつく。蝉の幼虫に寄生するというキノコの写真を見たことが
あるが、それと同じく菌糸の根を、全身に張り巡らされていくかの
ようだ。神経網が内側から拡張されているみたいに痛い。痒い。皮
300
膚の下が痒い。自分の皮を剥いで肉を露出させ、直接かきむしりた
くなる。血がのどでごぼごぼと鳴り、気管に流れ込む。苦しくて涙
がこぼれ、顔がひきつる。切り裂かれた頬の傷が、唇とつながって
しまいそうだ。
なんでこんなに苦しいんだよ、僕は器として最適化されてるって
話だったんじゃないのか︱︱と思った瞬間、すべてが淡雪のように
消えた。
消えたのは総身の痛痒と、そして、
闇宮という世界そのもの。
辺りの空気が変わったことも気に留めず、山内くんは腹ばいに転
がる。すさまじい勢いでむせこんだ。気管内の粘る血を吐き出すあ
いだ、紺の手が背中をさすってくれた。
その手がぴたりと止まった。
山内くんも涙にぼやける目を上げる。
むくろ
ずだぶくろ
場所は小学校の校庭で、深夜らしかった。⋮⋮周囲には二十体以
上もの骸が転がっていた。頭陀袋のように見えるのは服を着ていた
遺体。そうでないものは裸に剥かれたのであろう遺体。いずれも大
半は白骨化している。神かくし事件の被害者たちだった。
山内くんに神が移り、リセットボタンを押したように闇宮が閉じ
られたとき、かれらの呪縛は解かれて現世に放り出されたのだと思
われた。
けれど紺が緊張の面持ちで見つめていたのは、それらの遺体では
なかった。
﹁⋮⋮石田センセ﹂
月明かりに照らされて、ナイフを握った人影がかれらの前方に立
っている。
﹁盗んだな﹂
石田先生の顔はこわばり、声は動揺にうわずっていた。
301
﹁どうやって私のなかから盗んだ⋮⋮か⋮⋮返せ﹂
そこにいたのは、ただの中年男だった。山内くんは気づいた。こ
の人、もうぜんぜん怖くない。
当たり前だ、怖かったものはいま僕のなかにいる。
石田先生は歯ぎしりし、頬を震わせてうなった。知識として禍津
神を知らなくとも、自分からなにかが抜け出てしまったことはわか
ったのだろう。ナイフを手に、その男は山内くんたちに一歩踏み出
した。﹁返せ! あれがなければ私は⋮⋮﹂
私は破滅だ。
中断されたつぶやきを山内くんは察する。それはそうだろう、か
れが殺してきた者たちの遺体はこうしてあらわになってしまった。
かれは死体置き場であった闇宮をもう一度取り返したいはずだ。
もちろん、そんなことを許すわけにはいかない。
﹁あんた、痛くなかったんですね﹂
山内くんは茫洋とした口調で確かめた。石田先生は、けげんな表
情を作る。
﹁痛い?﹂
﹁あれが体に潜り込むとき、苦しかった。あんたはそれも経験しな
かったみたいだけれど⋮⋮不公平だな。ここにいるみんなは、僕よ
りずっと苦しかったと思うよ﹂
山内くんは周りを見回す。
闇宮に囚われていた者たちのうち、石田先生に殺された霊は遺体
とともに外に出てきていた。人の形をとどめないまでに壊された姿
が、影となって石田先生をぞろぞろ取り囲みつつあった。
まだ見鬼の能力はあるのだろう。石田先生の顔には色濃い恐怖が
現れはじめる。かれは怒鳴った。
﹁わけのわからないことを言っていないで、いますぐ返さなければ
殺す。脅しじゃない、おまえらを殺せば戻ってくるかもしれないん
だ。そうされたくなければ早くしろ!﹂
いまにもナイフをかざしてとびかかってきそうな石田先生に、山
302
内くんは確かめる。
﹁まだ、僕たちを殺すつもりなんですか﹂
はちわりがらす
﹁だから、そう言っているだろう! 戻せるならば早く⋮⋮﹂
﹁﹃鉢割烏﹄﹂
山内くんののどから出たのは、軋るような呪詛だった。
あし
石田先生の背後で、黒い翼がばさりと広げられた。
猿の手の姿をした肢が男の頭をつかむ。首に蛇の尾が巻きつけら
れる。喚ばれて虚空から飛び出してきたおからす様は、石田先生に
しがみついて、後頭部をがつんとつついた。石田先生が目を見開い
きつつき
て怖ろしい苦痛の叫びをあげ、頭を押さえた。おからす様はかまわ
ずくちばしを二度三度と頭に突き立てはじめる。啄木鳥のような動
きで、ざくざくと。見える外傷はなかったが、たしかにその式神の
くちばしは頭の内部に深く埋め込まれていった。
﹁痛い、痛い⋮⋮!﹂
石田先生のわめき声は、近隣住民が一人残らず飛び起きるだろう
大きさになっていた。かれはひざをついて頭をかきむしっていたが、
その指はおからす様の体を通り抜けてしまい、つかむことはできな
かった。石田先生はついにナイフを捨てて校庭に倒れ、苦悶の形相
でのたうちまわりはじめた。
その様子を、山内くんは冷ややかに見ていた。たぶんさっきの全
くらみやもうで
身の痛みは神様と深く同化した証だったんだろうな、と考えながら。
︵そうでないこの人はしょせん闇宮詣くらいしか使えなかった。あ
んなものは術とも呼べないもっとも基礎の力なのに︶
禍津神が伝えてくるのか、祝部の禁呪の知識がいくつか頭に流れ
込んできていた。
そのひとつであるおからす様︱︱鉢割烏、対人特化の呪殺式は、
どれだけ石田先生が地面を転がっても離れることなく、くちばしを
頭に深く突き入れていた。石田先生の叫びと動きが唐突に途切れ、
うつぶせで激しく痙攣しはじめた。
﹁︱︱︱︱内、山内!﹂
303
耳に声が届いた。さっきから呼びかけられて揺すぶられていたこ
とに、山内くんはこのとき気づいた。
﹁もういい、鉢割烏を止めろ山内っ、殺しちゃだめだ!﹂
紺だった。横からかれにしがみつき、血相を変えて彼女はけんめ
いに制止しようとしていた。
﹁祝部の神主はひとりでも殺したら後戻りできなくなる! 死の穢
れに決定的に染まったら、今度はおまえがこの男みたいに殺人の衝
動を抑えられなくなっちまうんだっ! だからやめろぉっ⋮⋮!﹂
﹁あ⋮⋮あ、あ﹂
自分がしていることに、山内くんはようやく気づいた。相手が殺
人者とはいえ人を殺そうとしていた。死ねばいいとすら思わず、た
だ当たり前のように死にゆく過程を眺めていた。自分の内側に棲み
ついたものにぞっとする。
﹁やめろ﹂
かすれた声でおからす様を止める。おからす様は頭を上げ、血の
ような赤い目で山内くんを見つめて︿げえ﹀と鳴いた。石田先生は
ぴくぴく動くばかりになっていたが、息絶えてはいないようだった。
八月中旬。
この数年にわたり播州の連続神かくしと呼ばれてきた失踪事件は、
電撃的に解決した。
遺体群の発見と、容疑者の逮捕によって。
なお突発的な脳卒中によって半身不随に陥っていた容疑者は、手
術して意識を回復した数日後、警察病院のベッド上において突如詳
細に自供しはじめた。﹁夜中に被害者たちにひっかかれて一睡もさ
せてもらえない﹂と回らない舌で訴え、眠らせてもらえるならとす
べての犯行を認めた。しかし、﹁妄想による睡眠障害﹂と診断され
た症状は回復しなかった。なお実際に、朝になると容疑者の皮膚に
無数のミミズ腫れや歯型がついていることを医療従事者たちは確認
304
している。だがかれらは困惑しながらも、︿聖痕と呼ばれる、強い
思い込みがもたらす珍しい現象﹀と説明をつけた。
容疑者は以後も﹁連中が夜になると集まってくる。私はもう守っ
てもらえないから手を出されるんだ。助けてくれ﹂と訴え続けた。
そしてやつれきった挙句、ひと月後に病室の窓へ這いずっていって
身を投げた。即時の手術で命のみはとりとめたが、顔から落ちたた
めに両の眼球を失い、そののちは﹁ずっと連中がそばにいる。昼も
夜もずっとひっかいてくる﹂と叫び続けて完全に精神に異常をきた
すに至った。
305
約束と風と夏の終わり
闇宮から脱出してちょうど一日経った深夜だった。
頬の緊急手術を終えた山内くんは、病院の個室のベッドに横たわ
っていた。
骨折した足はギプスに固められてベッド上に布で吊られている。
顔の下半分は包帯でぐるぐる巻きにされ、傷がくっつくまであごを
動かさないようにと、これまたギプスで念入りに固定されていた。
しばらくはものを食べるときも、管で流動食を流し込まれるという。
目を閉じているが、寝てはいない。麻酔の切れた頬の傷がひどく
痛むというのもあるが、
︵怖い怖い怖い怖い︶
たぶん、以前にあまりよろしくない死に方で人が死んだ個室であ
る。視界の隅でなにかが自己主張するようにちらちらうごめく。な
ので、それを見まいと目をつむっているのだった。
闇宮にいたときは霊や怪異に怯えている余裕はなかった。が、脱
出してしばらくすると、山内くんはまた、ささいな怪異にも神経を
すりへらす怖がりの少年に逆戻りしていた。勇気を使い果たした状
態ともいう。
︵部屋換えてとぜったい明日頼もう。しゃべれないけど文字書いて
パパか看護師さんになんとか伝えなきゃ︶
そんなことを考えていると、部屋のドアが開いた気配がした。足
をベッド上に吊られた状態でなければ、山内くんは跳び上がってい
たかもしれない。ばくばくと鳴る鼓動をなだめてかれは誰何しよう
とし、あごを固定されたいまの自分がしゃべれないことを思い出す。
﹁オレ﹂
病院のパジャマ姿の紺が開いたドアから顔をのぞかせていた。彼
女も入院していたのである︱︱といっても、細かい切り傷や擦り傷
306
くらいで大きな外傷はないため、すぐに退院するだろうという話だ
ったが。
﹁忍んできちゃった﹂するりと室内に入って後ろ手に戸を閉め、紺
はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
ベッド横に、彼女はパイプ椅子をひいて座った。
物思いに沈むふうで、山内くんの吊られた足を見つめて一言も発
しない。窓からの月明かりを浴びるその表情は、前より少しおとな
びたように見えた。山内くんはなぜかどきどきして言葉が出てこな
くなる。どのみちしゃべれない状態だが。
﹁オレ、明日退院する﹂
紺がぽつりぽつり話しはじめた。
﹁おまえは来週になるんだってな。足とほっぺた、全治二ヶ月だっ
け﹂
うんと山内くんはうなずいた。
﹁ほっぺたの傷は、痕が残るとも聞いた﹂
紺の表情が若干陰りを帯びるのを見て、気にしないでと山内くん
はジェスチャーで伝える。綺麗な刺し傷ということもあって、成長
するうちそれほどは目立たなくなるだろうと言われているのだ。そ
れより個人的に腹立たしいのは、残っている夏休みの大部分が入院
でつぶれる見込みということだ。
また紺が口を閉ざし、病室はしばらくしんと静まり返った。
山内くんがジェスチャーでなにか話を振るべきかそわそわしだし
たころに、紺は苦い声をしぼりだした。
﹁オレのせいだ。おまえが怪我したことだけじゃない。
おまえに危険な神を憑けちまった﹂
︵それは︶
それはやむを得ないことだった。だが、簡単に済ませられる話で
は確かになかった。
307
山内くんはおののく。いつか自分も、石田先生のように狂ってい
って、神に奉仕するしもべにじわじわ作り替えられていくのだろう
か。この先自分は、まともな生き方ができるのだろうか。あのとき
死んでいたほうがよかったと思うことになりはしないか。
⋮⋮ぽん、と山内くんの胸に紺の手が置かれた。
﹁でもあまり心配しなくていい﹂
少女の真剣な声が、暗鬱な空気を変える。
﹁今日、楓が祝部の古記録を調べてきてくれたんだ。ときおり来る
殺人衝動に取り込まれさえしなければ、神主となった者は相当長く
もつんだ。老人になるまでもちこたえ、次の世代の祝部に神を譲り
渡して、罪を犯すことなく天寿をまっとうした者さえいる。一度で
も禍津神の要求に負けて人を殺したら手遅れだっていうけど⋮⋮大
丈夫だよ、おまえなら気をしっかり持っていれば何十年だってきっ
ともつ。その間になんとか神を体から叩き出してしまえばいいんだ﹂
それを聞いて山内くんはだいぶ心が軽くなるのを感じた。早急な
解決は見込めなくとも、希望はちゃんとあるようだった。
﹁もちろん、十妙院が全面的に手を貸す﹂と言い添えたのち、紺は
にひひと照れくさげに歯を見せて笑った。﹁オレを恨んでいいとは
言ったけどさ、やっぱ友達には嫌われたくねーし。知ってっか、オ
レ、けっこうずーずーしーぜ﹂
それは知ってる、と山内くんはこくこくとうなずいた。半目にな
った紺が、なんか腹立つ反応だなと口を尖らせ、また真面目な顔に
戻って、
﹁オレ、おまえのこと、一生かけて責任取る﹂
真摯な誓いの言葉︱︱山内くんは息を止めて硬直した。紺を凝視
する。耳たぶがたちまち熱くなるのを感じた。
かれの反応を見た紺があれ? と首をかしげ、瞬時に悟ったよう
で顔面を沸騰させた。
﹁バッ⋮⋮! 違う! け、結婚してやるとか、そういう意味は含
んでない! もっと術者として力つけて、おまえからいつか神を叩
308
き出して普通の生き方に戻してやるってことだ! 話の流れでわか
るだろ︱︱!﹂
あたふたと紺は取り乱して腕をふりまわす。
﹁言っとくけど、え、えっと、おまえがっ、その、前に病院でオレ
に言ってきたことは微塵も関係ねーからな! それがなくたってや
るんだから、おかしな期待や勘違いすんなっ!﹂
しゃべれない山内くんはむーむー唸って抗議するしかない。
勘違いしてるのは君だろ僕は告白なんかしてないよ︱︱そうはっ
きり言いたくてたまらないのだが、現状ではどうにも誤解を解きよ
うがなかった。
けれど、徐々に静かになった紺が、椅子の上でちょこんとひざを
抱えて言った。
﹁でも⋮⋮もしも﹂絶え入りそうな、小声だった。﹁もしも、がん
ばってもオレがおまえから憑いてる神を除けなくて、ほかに責任の
とりようがなくなったら⋮⋮そういう責任の取り方、最後の手段で
検討してやっても⋮⋮いい﹂
再度、山内くんは固まった。
かれがどう反応すべきかわからずにいるうちに、紺は真っ赤な顔
をそむけ、すばやく立ち上がって病室から出て行った。
彼女が残していった甘酸っぱい余韻に耐えかねて、山内くんは顔
を手で覆う。自分の頬も火照っていることがわかる。
︵だから誤解なんだってば⋮⋮︶
まあ、あごのギプスは数日で外れるというし、口がきけるように
なりさえすれば誤解を解くチャンスはじきに来るだろう。そう願う
しかない。
来なかった。
八月下旬、退院と同時に、山内くんは姫路にいったん帰ることに
なった。
309
ことづ
あの夜以来、紺は病室に来ることがなかった。かといってこんな
ことは人に頼んで託けてもらうわけにもいかない。
そして、誤解を解く最後の機会と見なしていた見送りの場でも⋮⋮
﹁ごめんなさいね。
おぐななり
紺ったらもう、お見送り直前でどこに行ったのかしら。朝は珍し
いことに、自分から童男姿解いてお洋服を着てくれたのに。あの子
の気まぐれっぷりときたら⋮⋮帰ったら怒っとくわね﹂
山内家の前の道路。バイクの横に立った楓さんが、申し訳無さそ
うに山内くんに謝る。
﹁いえ⋮⋮﹂
松葉杖をついて道路に出た山内くんは、目線を伏せてもごもご答
えた。
︵気まぐれじゃなくて⋮⋮たぶん、あんなこと言っちゃったのでこ
っちと顔を合わせるのが恥ずかしいんだろうけど︶
言われた山内くんでさえ思い出すたびに赤面が止まらないのであ
る。紺があとから自分の発言に悶えて、ぷっつり見舞いに来なくな
ってもおかしくない。
︵でも見送りにすら来ないって勘弁してよ、次会うときまで誤解さ
れっぱなしじゃないか!︶
﹁また来いよー!﹂﹁また来てなー!﹂﹁次は秋においでよ、大き
な川ガニ食べさせてあげるよ﹂突如道路脇から上がった声に目を向
ければ、直文、穂乃果、マイタケまで見送りに来てぶんぶん手を振
っていた。
﹁またねー!﹂
手を振りかえしながら、山内くんは松葉杖をついてパパの待つバ
イクに近づいた。
ぴたりとその足が止まったのは、バイクの尻にはりつくもんじゃ
くんを見たからである。その肉塊のなかでぎょろぎょろと目玉が動
き、山内くんを見つめた。
ものすごく複雑な気分で、山内くんはしばらくもんじゃくんと視
310
線を合わせた。
帰ったら線香でも上げよう⋮⋮と考えつつ、もんじゃくんの体を
回りこんで、バイクの左側にとりつけられたサイドカーに近づく。
このサイドカーは、足を骨折した山内くんを乗せるため、パパが調
達してきたのである。乗り込んでヘルメットを被ったとき、
︿げえ﹀
サイドカーの縁で、聞きたくもない鳴き声が聞こえた。
冷や汗を噴いた山内くんが横を見やると、案の定おからす様がそ
こにいて、赤い瞳でじっと見つめてきていた。冗談じゃない、と山
内くんはひきつった顔でそいつを見る。
︵まさかコレ、僕についてくる気なの?︶
﹁しっ、しっ⋮⋮﹂
手を伸ばして追い払おうとしたが、なにを勘違いしたのか、おか
らす様は翼を広げて山内くんの腕によたよた乗り移ってきた。その
まま腕を上がってきて肩にとまる。山内くんは泣きそうになった。
パパがサイドカーの上にしゃがみこんでいろいろチェックし、﹁
よし。行くぞ﹂と声をかけてきた。楓さんが、静かに目礼する。
﹁では、また⋮⋮先輩﹂
﹁ああ。楓ちゃん、世話になったな﹂
台詞と裏腹にパパの口調は、どこか必要以上に淡々としていた。
﹁そんなことは﹂
ふいに、楓さんは声をつまらせて悄然とした。
﹁先輩⋮⋮今回のこと、本当に申し訳ありません。こんなことにな
ってしまって⋮⋮いいえ、十妙院が邪鬼丸くんをこんなことにして
しまって﹂
﹁楓ちゃん﹂さえぎったパパの声は重かった。山内くんの身に起こ
ったことを知って以来、パパは失意をくすぶらせていたのである。
﹁ほんとに楓ちゃんには感謝しかしてねえ。紺ちゃんのことも責め
るつもりなんぞ一切ねえ。話聞くかぎりは、そのときするしかない
ことをしただけだし、邪鬼丸が死んでたよりはずっとましだ﹂
311
最後の一人の十妙院、銀のことをパパは決して口にしようとしな
かった。強烈な怒りをむりやり飲み下しているのだとうっすら知れ
た。
銀の目論見に沿って呪術の世界に引きずり込まれた山内くんは、
はらはらしながら大人たちの微妙に気まずいやりとりを見ている。
︵僕、そこまで気にしてないんだけどな︶
奇妙なことに銀に対しても、山内くん個人としては、怒りはそれ
ほどないのである。あれは術者という変わった人種なのだと納得し
ていたから。もちろん禍津御座神に憑かれたこと自体は気にしてい
たし、将来の夢も諦めていない以上、銀の思い通りになるのはもう
まっぴらだったが。
やがてパパは吐息した。
﹁いまの俺は邪鬼丸のことでは十妙院に頼るしかねえ。邪鬼丸はし
ばらくは大丈夫だが、ほっとけばまずいという話なんだろう? 早
いうちに俺たちはこっちに引っ越す必要があるのかい﹂
﹁いえ⋮⋮先輩。もう少し様子を見ます。わたくしたちのほうから
術者を派遣して、邪鬼丸くんをそばで見守ることになるかもしれま
せん﹂
﹁そうか。よろしく頼む﹂
パパはメットをかぶった。
バイクが発進し、明町の田園地帯をゆっくり走りぬけはじめる。
青い稲穂がなびくのを山内くんは眺めていた。パパと楓さん、今度
会うときは屈託なく話せたらいいのにな、と考えている。
なんとはなしに、次の機会について聞いてみた。声をはりあげて。
﹁ところで、秋のお彼岸の日は例年どおりこの町に来るんだよね?﹂
パパはそれを聞いて、一人合点した答えを返した。
﹁この町に来るのはもう嫌になったか? ひどい目にあっちまった
からな⋮⋮おまえにはすまねえ、だが我慢してくれ﹂
﹁違うよ! 嫌じゃない、別にそういうことじゃ︱︱﹂
山内くんの声は途切れた。
312
︵あ︶
行く手の丘に人影を認めて、視線が吸いよせられたのである。
道を見下ろす、低い丘の上。
可憐ないでたちの少女が、心なしかもじもじした様子で立ってい
る。レモン色のワンピースは、ノースリーブで裾丈が長い。麦わら
帽子には、薄いグリーンのリボンがついて風になびいていた。いつ
もの彼女とまったく違う、お嬢様めいた印象の服。
山内くんのメットのバイザーごしに、ふたりの視線が合った。
かれを見ていた紺は、見られたことに気づいて強い動揺を面に浮
かべた。かああっと恥じらいの色に染まる。彼女は麦わら帽子のつ
ばをつかみ、ぱっと引き下げて顔を隠した。
次会うときのことを山内くんは考えた。
︵ワンピース、似合ってたって言ってみようかな︶
恥ずかしがって怒る姿がありありと想像できた。
丘に視線を注いだまま、かれは楓さんのさっきの言葉を脳裏で再
生する。﹃わたくしたちのほうから術者を派遣して︱︱﹄もしかし
て紺が僕らのところに来ることもあるのかな、と思い当たる。
どちらにしても、またすぐ会えるという予感があった。
バイクとサイドカーは速度をあげて走っていく。
青い稲穂がなびいて揺れる。丘の上では見送る少女のワンピース
裾が、草や樹の葉とともにはためいている。
夏の終わりの風が吹いていた。
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︿了﹀
314
約束と風と夏の終わり︵後書き︶
5月25日、角川ホラー文庫様から出版させていただく運びになり
ました。応援してくださった皆様ありがとうございます。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5809ce/
山内くんの呪禁の夏。
2016年7月7日19時00分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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