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『宋会要』道釈部訓注(一〇)
ふ
永 井 政 之 程 正 角 田 隆 真 五十嵐 嗣 郎 大 澤 邦 由 徳 護 長谷川 淳 一 深 沼 宥 祥 上 る。 詔 して 法天 等を して闕 に赴 かし め、 召見慰 労し、 紫 衣
河 中府梵 学僧 法進 訳す 所の聖 無量 寿、 尊勝 の二経、 七 仏讃 を
開 宝 七 年、 知 鄜 州 の 王 亀 従、 表 も て 中 天 竺 摩 伽 陀 国 僧 法 天、
開宝 七年、 知 鄜州 王亀 従表上、 中 天竺 摩伽陀 国僧 法天、 河 中
を 賜う。 法天 の姓 は刹 地利、 徧く 三蔵 に通ず。 其 の兄 達理 摩
〈訓 読〉
〕
府梵 学僧 法進 所訳 聖無 量寿、 尊勝 二経、 七仏 讃。 詔法 天等 赴
犖義多、 西 印度 僧尼 囉、 南 印度 の僧 尼没 駄計哩 帝等、 四 人同
〔
闕、 召見 慰労、 賜 紫衣。 法天 姓刹 地利、 徧通 三蔵。 与 其兄 達
に中 国に 造る。 惟 だ法天 と其 の兄 のみ 達する こと を得、 余 は
とも
理摩 犖義 多、 西印 度僧 尼囉、 南印 度僧 尼没駄 計哩 帝等 四人 同
皆な 路に 没す。 法 天、 梵 経を 携え 鄜州 に至る に、 河中 府梵 学
らく
造 中 国。 惟 法 天 与 其 兄 得 達、 余 皆 没 於 路。 法 天 携 梵 経 至 鄜
僧法 進に 偶い、 其れ 経義 に詳 らか なれば、 始 めて 已上の 経を
(与カ)
州、 偶河 中府 梵学 僧法 進、 其 詳経 義、 始出 已上 経。 法 進執 筆
あ
廻 綴、 亀 従 潤 色 之。 法 天 求 詣 五 台、 礼 文 殊、 遂 徧 遊 江、 浙、
出す。 法 進は 執筆 廻綴し、 亀 従は 之を 潤色す。 法 天、 五台 に
駒澤大學佛教學部論集 第四十六號 平成二十七年十月
五三
嶺 表、 巴 蜀。 許之。
〈原 文〉
204
に赴 かせ、 召 見し 慰労 して、 紫衣 を賜 った。
帝に 進上 した。 こ れを受 けて 皇帝 は法 天と法 進の 二人 を宮 廷
進 が 共 訳 し た『 聖 無 量 寿 』『 尊 勝 』 の 二 経 と『 七 仏 讃 』 を 皇
開 宝七年 (九 七四) に 鄜州 (陝西 省中 部県 南) の 知事 であ
る王亀従は天竺摩伽陀国の僧法天と河中府の梵学僧である法
〈解 説〉
む。 之を 許す。
詣で、 文 殊を 礼し、 遂に 江、 浙、 嶺表、 巴蜀 を徧 遊す るを 求
「 筆 受 」 が 行 い、 廻 綴 は 「 綴 文 」 が 行 い、 潤 色 は 「 潤 文 」 が
役 割 の 詳 細 は〔
七、「 参 訳 」 八、「 刊 定 」 九、「 潤 文 」 の 九 つ で あ る( 各 々 の
義 」 三、「 証 文 」 四、「 書 字 梵 学 僧 」 五、「 筆 受 」 六、「 綴 文 」
執筆、 廻 綴、 潤色 とは訳 経作 業に 関す ること であ るが、 こ
の訳経作業の役割は九つに分課される。一、「訳主」二、「証
つ いては 後考 を俟 ちた い。
れ、『 宋 会 要 』 の 前 後 の 記 述 に は 錯 綜 が み ら れ る。 こ の 件 に
の 名 と 記 さ れ る が、〔
五四
法 天の種 姓は 刹地 利 (クシャ トリ ヤ) であ り、 三 蔵に 通じ
てい た。 法天 は兄 の達理 摩犖 義多 と西 印度の 僧尼 囉、 南印 度
担当 する こと が分 かる。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
の僧 尼没 駄計 哩帝 と共 に中国 に向 かう が、 法 天と その 兄の み
〕 を 参 照 )。 ま た、 左 記 に 挙 げ る『 続 資 治
ていぶん
〕 に は、 法 天 の 改 名 以 前 の 名 と 記 さ
が達 し、 他二 人は 途中で 死没 した。 そ して鄜 州に 至っ て、 た
また ま河 中府 (山 西省 永済県) の 梵学 僧法進 と会 う。 この 法
同 様の内 容が 『続 資治 通鑑長 編』 巻二 三に 載る。
唐の元和より以後、復た訳経せず。江南始めて兵を用い
る の 歳、 中 天 竺 摩 伽 陀 国 僧 法 天 な る 者、 鄜 州 に 至 り、 河
220
を訳 出し た。 共訳 にお いて法 天は 執筆 ・廻 綴を行 い、 王亀 従
亀 従、 之 を 潤 色 し、 法 天 と 法 進 を し て 経 を 闕 下 に 献 ぜ し
尊 勝 の 二 経、 七 仏 賛 を 出 す。 法 進、 筆 受 綴 文 す。 知 州 王
中 府 に て 梵 学 僧 法 進 と 共 に 経 義 を 訳 し、 始 め て 無 量 寿、
通 鑑 長 編 』 巻 二 三 の 記 述 と 対 校 す る と、 こ こ で い う 執 筆 は
が潤 色を なし た。 その後、 法 天は 五台 に詣 でて、 さら に各 地
印度 の僧 尼没 駄計 哩帝 につい ては 未詳。
巻四 三も 同様 の内容 を載 せる。
また、『仏祖統紀』
ふ
知鄜州(音は孚なり、鄜延路にあり)王亀従、表もて称
(中 華書 局本、 第三 冊、 五二 二頁)
名山 に遊 ばん こと を請え ば、 之を 許す。
の名 山史 跡を 巡ら んこ とを皇 帝に 請い、 皇帝 はこ れを 許可 し
227
達 理摩犖 義多 につ いて は、 本 項の 記述 に拠 れば、 法天 の兄
む。 太 祖、 召 見 慰 労 し、 賜 う に 紫 方 袍 を 以 て す。 法 天、
進が 経義 に通 暁し てい たため、 彼 と協 力して 前述 の二 経と 讃
207
た。
220
法天については〔 〕〔 〕、法進については〔 〕もそれ
ぞれ 参照 され たい。 知 鄜州の 王亀 従、 及び 西印度 僧尼 囉、 南
214
( 蒲 州 河 中 府 ) に お い て 訳 さ し む。 守 臣 表 進 す。 上 こ れ
賜 う。 ○ 河 中 府 沙 門 法 進、 三 蔵 法 天 に 請 い て 経 を 蒲 津
す。 詔 し て 法 天 を し て 闕 に 赴 か せ 召 見 慰 問 し、 紫 方 袍 を
訳 す。 河 中 府 に て 梵 学 沙 門 法 進 執 筆 綴 文 し、 亀 従 潤 色
す る に、 中 天 竺 三 蔵 法 天 至 り て、 聖 無 量 寿 経、 七 仏 讃 を
者に 対し て、 しば しば方 袍 (袈裟) を 下賜し た。
で、 太宗 が継 従ら に紫衣 を賜 った。 そ の後、 経等 を献 上す る
太 宗の太 平興 国三 年 (九七八) 三 月、 開宝 寺の僧 継従 らが
西天 より 帰還 し、 入手し 得た 梵夾 の経 等を太 宗に 献上 した の
〈解 説〉
是よ り献 ずる 者あ る毎に、 多 くは 詔し て方袍 を賜 う。
〕
〈深 沼〉
(大 正蔵 四九、 三九 七b)
(曩欠カ)
五 年、 北 天竺 迦湿 弥羅 国僧天 息災、 烏填国僧 施護 至京。 詔 賜
〈原 文〉
〔
開 宝寺の 僧継 従に つい ては未 詳。
べ て紫の 方袍 を賜 う。
『仏祖統紀』巻四三に同様の記述が載る。
(太 平興国三年三月)開宝寺沙門継従等、西天より還り、
梵 経、 仏 舎 利 塔、 菩 提 樹 の 葉、 孔 雀 の 尾 の 払 を 献 ず。 並
を 覧 じ 大 い に 説 び、 召 し て 京 師 に 入 ら し め、 始 め て 訳 事
(大 正蔵 四九、 三 九八a)
を興 す。 こ の 『仏 祖統 紀』 の記 述では 訳出 した 経等 として 『聖 無量 寿
経』 と 『七仏 讃』 の二 種のみ を挙 げて いる。
これ らの 記事 から、 鄜州 にお ける 法天 と法 進の仏 典翻 訳は
北 宋の訳 経事 業の 先駆 けであ り、 訳経 院の 設置等、 太 宗が 訳
〈深 沼〉
〕 を 参照。
経 政策を 興す きっ かけ となっ たと 考え られ るが、 法天 の経 典
訳 出の年 代等 には 議論 がある。 詳 細は 〔
〕
紫衣。 又 令天 息災 等与法 天、 閲旧 献梵 夾。 太 宗崇 尚釈 教、 又
五年、 北 天竺 迦湿 弥羅国 の僧 天息 災、 烏填曩 国の 僧施 護、 京
以梵 僧暁 二方 言、 遂有意 於翻 訳焉。
に至 る。 詔し て紫 衣を賜 う。 又た 天息 災と法 天を して 旧く に
〈原 文〉
太 宗太平 興国 三年 三月、 開宝 寺僧 継従 等、 西天よ り廻 り、 得
〈訓 読〉
五五
献ず る梵 夾を 閲せ しむ。 太宗、 釈 教を 崇尚し、 又 た梵 僧の 二
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
る 所 の 梵 夾 の 経 等 を 献 ず れ ば、 詔 し て 継 従 等 に 紫 衣 を 賜 う。
〈訓 読〉
〔
206
太 宗太平 興国 三年 三月、 開宝 寺僧 継従 等自 西天廻、 献 所得 梵
227
夾 経等、 詔賜 継従 等紫 衣。 自 是毎 献者、 多 詔賜方 袍焉。
205
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
あきら
方の 言に 暁かな るを 以て、 遂 に翻訳 に意 有り。
〈解 説〉
カ シ ミ ー ル
興国 に就 きて 訳経 院を 建てし む。
五六
(中 華書 局本、 第 三冊、 五二 二― 五二 三頁)
こ れらの 記述 から、 天 息災等 の渡 来僧 によ って北 宋太 祖の
乾 徳( 九 六 三 ― 九 六 七 ) よ り 献 じ ら れ て い た 梵 夾 が 訳 出 さ
ま た同様 の記 事が 『仏 祖統紀』 巻 四三 にも ある。
僧施 護が 入京 し、 それに 対し て太 宗は 彼らを 優遇 し、 紫衣 を
れ、 また 太宗 が彼 らの語 学力 に頼 って 訳経事 業を 本格 的に 再
湿弥 羅国 (印度 の
太 宗太平 興国 五年 (九 八〇) に北 天竺 迦
西北 境) の僧 天息 災と烏 填国 (今 のス ワート 河流 域地 方) の
賜っ た。 そし て、 以前に 献上 され てい た梵夾 の経 を彼 らに 訳
開し よう とし たこ とが知 られ る。
〕を
出さ せた。 太 宗は 仏教を 尊崇 し、 また 梵僧ら が梵 語と 中国 語
〈深 沼〉
〕を、施護については〔
の両 方に 精通 して いたた め、 そこ で本 格的な 訳経 事業 を開 始
なお、天息災については〔
参照。
しよ うと した ので ある。
〕
『続資治通鑑長編』巻二三も同内容を載せる。
上即 位の 五年。 又 た北天 竺迦 湿弥 羅国 の僧天 息災、 烏 填
曩 国 の 僧 施 護、 継 い で 至 る。 法 天、 天 息 災 等 の 至 る を 聞
「曩」 の 字を (欠カ) と した。
息 災等所 述自 古訳 経儀 式、 将 欲翻 経於 本院、 建立 道場。 施 護
卿楊 悦、 兵部 員外 郎張 洎潤 色、 殿 直劉 素為 都監。 悦等 言、 天
一 経上進。 詔 梵学 僧法 進・常 謹・ 清沼 等筆 受綴文、 又 命光 禄
訳経 堂、 其東 序為 潤文堂、 西 序為 正義 堂、 訳 経僧 以次 分設 堂
〔
「烏填国」について、本項原文では、「烏填国」と記されて
い る が、『 宋 会 要 』「 蕃 夷 」 の 施 護 に 関 す る 条 に は「 烏 填 曩
き、 亦 た 京 師 に 帰 る。 上、 素 よ り 釈 教 を 崇 尚 す れ ば、 即
請 於東堂 面西 粉布 聖壇、 壇開 四門、 梵 僧四、 各主 其一、 持 秘
国 」 と あ り( 第 八 冊、 七 七 四 四 頁、 蕃 夷 四 ― 八 九 )、 ま た 既
ち 召 し て 天 息 災 等 を し て、 乾 徳 以 来、 西 域 よ り 献 ぜ ら る
是 年、 詔 中使 鄭守約就太 平興 国寺 大殿 西度 地作訳 経院。 中 設
る 梵 夾 を 閲 せ し む。 天 息 災 等、 皆 な 華 言 に 暁 か な る。
密 呪 七 昼 夜。 又 設 木 壇、 作 聖 賢 位 布 聖 賢 字 輪、 目 曰 大 法 曼
(湯カ)
大師、 法 天号 伝教 大師、 施護 号伝 教大 師、 令以 所齎 梵本各 訳
(顕カ)
室。 至七 年六 月院 成、 召 天息 災等 三人 入院。 賜天 息災 号明 教
上、 遂 に 翻 訳 に 意 有 り。 因 み に 内 侍 鄭 守 鈞 に 命 じ て 太 平
〈原 文〉
(鈞カ)
225
述の 『続 資治 通鑑 長編』 巻二 三と 『仏 祖統紀』 巻 四三 の条 に
219
お い て も 「 烏 填 曩 国 」 と 記 さ れ て い る こ と か ら、 本 項 で は
207
素を 都監 と為 す。
護は 東堂 に於 いて 西に面 して 聖壇 を粉 布する こと を請 い、 壇
(日カ)
挐。 衆 迎 請 聖 賢、 閼 伽 沐 浴、 香 花 灯 塗、 菓 実 飲 食、 二 時 供
将に 本院 に於 いて 経を翻 ずる に、 道場 を建立 せん と欲 す。 施
悦等の言く、天息災等の述ぶる所は古よりの訳経の儀式なり、
の四 門を 開い て、 梵僧四、 各 おの 其の 一を主 り、 秘密 呪を 持
(日カ)
曰、 第 一 訳 主 当 面 正 坐、 前 梵 学。 其 左 第 二 証 梵 義 梵 僧、 与 訳
養、 礼 拜 旋 繞、 請 祈 民 祐、 以 殄 魔 障。 僧 羅 曰 二 時 虔 祷。 訳
主 評 量 梵 義。 第 三 証 梵 文 梵 僧、 聴 訳 主 高 読 梵 文、 以 験 差 誤。
する こと 七昼 夜な り。 又 た木 壇を 設け て聖賢 位と 作し、 聖 賢
(梵カ)
其右 第四 梵学 僧、 観焚 夾、 当聴 訳主 宣讃 読、 書為隷 字。 第五
の字 輪を 布き、 目 づけ て大 法曼 挐と 曰う。 衆は 聖賢 を迎 請し
し 日、 二 時に 虔祷 すと。
な
梵 学 僧 筆 受、 第 六 梵 学 僧 刪 綴 成 人。 第 七 証 義 僧 参 詳 向 義、 第
訳 の日、 第一 の訳 主は 当面に 正坐 し、 梵学 を前に す。 其の 左
(文カ)
八 字 梵 学 僧 刊 定 字。 第 九 潤 文 官、 於 僧 衆 南 別 設 位、 参 詳 潤
斎 席。 訳 文有 与御 名廟 諱同者、 前 代不 避、 於 礼未 允。 若変 文
に ある第 二の 証梵 義は 梵僧に して、 訳 主と 梵義を 評量 す。 第
あみ
拝旋 繞し て民 の祐 を祈る を請 い、 以て 魔障を 殄く す。 僧羅せ
て閼 伽 沐浴 し、 香花 灯塗、 菓実 飲食 もて、 二 時に供 養し、 礼
避 諱、 慮 妨 経 義。 今 欲 依 国 学 九 経 書 御 名 回 避、 諱 但 闕 点 画。
三 の証梵 文は 梵僧 にし て、 訳 主の 高く 梵文 を読む を聴 き、 以
か
色。 訳僧 毎日 沐浴、 厳 潔三衣 坐具、 威 儀整 粛。 凡 入法 筵、 依
詔 御名不 避、 余悉 従之。
て 差 誤 を 験 す。 其 の 右 に あ る 第 四 の 梵 学 僧 は、 梵 夾 を 観 て、
あ
位 而坐、 不得 紊乱。 翻 訳応須 受用、 悉 従官 給。 訳 之日、 別 設
是 の年、 詔し て中 使鄭 守鈞に 太平 興国 寺大殿 の西 に就 いて 地
〈訓 読〉
師、 施護 に号 顕教 大師 を賜い、 齎 す所 の梵本 を以 て各 おの 一
を 召して 入院 せし む。 天息災 に号 明教 大師、 法天 に号 伝教 大
分 かち堂 室を 設く。 七 年六月 に至 り院 成り、 天息 災等 の三 人
潤 文堂と 為し、 西 序を正 義堂 と為 して、 訳経 僧を 次で を以 て
を度 りて 訳経 院を 作ら しむ。 中に 訳経 堂を 設け、 其の 東序 を
翻 訳の応 に須 いる とこ ろの受 用は 悉く 官よ り給す。 訳 の日 に
凡 そ 法 筵 に 入 る と き は、 位 に 依 り て 坐 し、 紊 乱 す る を 得 ず。
訳 僧 は 毎 日 沐 浴 し、 三 衣、 坐 具 を 厳 潔 し、 威 儀 を 整 粛 に す。
第 九の潤 文官 は、 僧衆 の南に 別に 位を 設け、 参詳、 潤 色す。
七 の 証 義 僧 は 義 を 参 詳 し、 第 八 の 字 の 梵 学 僧 は 字 を 刊 定 す。
梵 学僧は 筆受 なり、 第 六の梵 学僧 は刪 り綴 りて 文と 成す。 第
当 に訳主 の讃 を宣 べ読 むを聴 き、 書し て隷 字と為 す。 第五 の
けず
経 を訳さ せ上 進せ しむ。
はか
詔 して、 梵学 僧の 法進・ 常謹 ・清 沼等 を筆受 ・綴 文と し、 又
は、 別に 斎席 を設 く。
ちょうき
五七
た 光禄卿 の湯 悦、 兵部員 外郎 の張 洎に 潤色を 命じ、 殿 直の 劉
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
4
五八
子 のそば に仕 える 宦官 である が、 鄭守 鈞の 伝につ いて は未 見
鄭 守 鈞 に つ い て は、『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 二 三 に は「 内 侍
鄭 守 鈞 」 と あ り、 こ れ に 基 づ き 改 め た。「 内 侍 」 は 宮 中 で 天
訳 文 に 御 名・ 廟 諱 と 同 じ も の 有 ら ば、 前 代 に は 避 け ざ れ ど
も、 礼に 於い て未 だ允 されず。 若 し文 を変え て諱 を避 くれ ば
で ある。
経の 義を 妨げ んこ とを 慮る。 今、 国学 の九経 書に 依り て御 名
を 回 避 す る に、 諱 は 但 だ 点 画 を 闕 く の み と せ ん と 欲 す。 詔
4
す、 御名 を避 けず、 余 は悉く 之れ に従 えと。
巻 四 三 に 記 載 さ れ て い る 「顕 教 大 師」 に よ っ て 改 め た。
4
また、 原 文で は施 護の大 師号 は 「伝 教大 師」 とな って いる
が、 こ れ は 原 文 の 法 天 の 大 師 号 と 同 じ で あ り、『 仏 祖 統 紀 』
〈解 説〉
詔勅 によ って、 梵 学僧 (梵語 に通 じて いる僧) の 法進、 常
謹、 清沼 等を 筆受 ・綴 文とし、 光 禄卿 (飲 食を司 る役 職) の
次に、訳経院の翻訳作業を分担する者について述べている。
湯 悦 と 兵 部 員 外 郎( 次 官 ) の 張 洎 に 潤 色( 訳 文 を 脚 色 す る
本項は訳経院の建設とその体制、運営に関する記事である。
な お、 本 項 に 関 連 す る 記 事 は、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三( 大 正 蔵
本、 第 三 冊、 五 二 二 ― 五 二 三 頁 )、『 伝 法 院 碑 銘 』(『 文 荘 集 』
役) を命 じ、 殿直 (天 子のそ ばに 仕え る武 官) の 劉素 を都 監
四九、三九八a―b)、『続資治通鑑長編』巻二三(中華書局
巻二六、『四庫全書珍本』第二四七冊所収)にも見られる。
筆 受 (も しく は兼 綴文) とし ての 記録 が残 ってい るが、 伝 は
法 進 に つ い て は、〔 〕 を 参 照。 常 謹・ 清 沼 に つ い て は、
『大中祥符法宝録』(中華蔵北京版七三所収)に訳経における
(公 事を 掌る 役) とした。
ま ず、 訳 経院 の建 設に ついて 述べ る。
建設 させ た。 訳経 院は、 中央 に訳 経堂 を設け、 そ の東 側に 潤
、詔により中使(宮中からの使者、
太平興国五年(九八〇)
宦官) の 鄭守 鈞に 太平興 国寺 大殿 の西 側を測 らせ て訳 経院 を
文堂、 西 側に 正義 堂を置 き、 訳経 僧の 序列に した がっ て堂 室
大師 の号 を、 施護 には 顕教大 師の 号を 賜わり、 彼 らに よっ て
命し 入所 させ た。 天息災 には 明教 大師 の号を、 法 天に は伝 教
は完 成し、 訳 経院 の指 導者と して 天息 災等三 人の 訳経 僧を 任
内の 席次 を定 めた。 太 平興国 七年 (九 八二) の六 月に 訳経 院
人・ 詩 人 で あ る。 南 唐 保 大 一 三 年 ( 九 五 五 ) に 進 士 と な り、
南 唐、 池 州 青 陽 の 人 で あ る。 父 は 殷 文 圭 で、 唐 末、 呉 の 官
「 湯 悦 」 と あ り、
湯 悦 は、『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 二 三 にいは
ん すう ぎ
こ れ に 基 づ き 改 め た。 湯 悦 は、 本 名 を 殷 崇 義 と 云 い、 五 代、
確 認でき ない。
4
もたらされた梵文原本から各々一つの経を翻訳させて皇帝に
枢密 使、 右僕 射を 歴任し た。 博学 にし て能文 であ り、 激教誥
げききょうこう
献上 させ た。
227
三、『十国春秋』巻二八に伝がある。
宋 に 入 り、 諱 を 避 け 湯 悦 と 姓 名 を 易 え た。『 南 唐 書 』 巻 二
( 詔 ) の 文 書 の 作 成 は す べ て 担 当 し た と い う。 南 唐 が 滅 ん で
以上のように密教的色彩の濃い儀式がとり行われたのであ
る。「塗香」は、本尊に供養する塗香で、『大日経』具縁品に
回 恭しく 祈る ので ある と。
を 妨げる もの をほ ろぼ すので ある。 僧 が集 まる日 に、 日に 二
で ある。 修法 の種 類に応 じて 栴檀 香・ 沈香 ・竜脳 ・伽 羅・ 安
説 く六種 供養 (閼 伽・ 塗香・ 華鬘 ・焼 香・ 飯食・ 灯明) の 一
かいじん
張 洎 (九 三四 ―九 九七) は、 字は師 黯、 又は 偕 仁で、 滁州
全 椒 (安 徽省) の 人で ある。 南唐 で進 士に 挙げら れ、 知制 誥
息 香 ・ 鬱 金 香 な ど を 材 料 に し て、 粉 末 に し た も の を 用 い る。
し あん
給 事 中、 参 知 政 事 等 を 歴 任 し た。『 宋 史 』 巻 二 六 七・ 列 伝 第
(詔書の起草を掌る)となって機密に参与した。宋に入って、
置 を解説 する。
説 仏教語 大辞 典』 の解 説等を 参考 に、 訳経 分担者 の役 割と 配
(『密教大辞典』四二三頁)
湯悦 等が 言う 所に よれば、 天 息災 等が 述べる のは、 昔 から
の 訳経儀 式で ある。 ま さにこ の訳 経院 にお いて経 を翻 訳し よ
第一 の 「訳主」 は、 仏典 など をサ ンス クリッ トか ら漢 文に
翻 訳する 訳場 にお ける 中心人 物で、 西 域ま たはイ ンド から 来
二 六に立 伝さ れて いる。
う として、 訳 経の 道場 を設立 する。 施 護は 東堂の 西に 面し た
た 僧 で あ る。 訳 場 の 正 面 に 坐 し て 外 を 向 き、 梵 文 を 唱 え る。
次に、 翻 訳作 業の 分担者 の役 割と 訳場 でのそ の配 置に つい
て 述べて いる。
のイ ンド 僧に それ ぞれ一 つを 掌ら せ、 奥深い 真言 を唱 え続 け
と ころに 聖壇 を作 って粉 飾 り、 壇の 四方 の扉 をあ けて、 四人
第二の「証義」(本文では「証梵義」)はインド僧であり、訳
劉素 につ いて は、 当該記 事の 他に 伝え られ ている もの は見
い だせな い。
るこ と七 昼夜 にお よぶの であ る。 また、 木の 壇を 拵え て聖 賢
主 に 向 っ て 左 に 坐 し、 訳 主 と 梵 文 に つ い て 評 量 ・ 考 究 す る。
ただし本文は名称や位置を簡略に述べているだけであるの
で、 同様 の記 事の 記載 がある 『仏 祖統 紀』 の記述 およ び 『広
の位 牌と し、 聖賢 を字輪 (悉 曇文 字) で表し、 こ れを 名づ け
第三の「証文」(本文では「証梵文」)はインド僧であり、訳
続い て、 訳経 院に おける 訳経 の儀 式に ついて 述べ る。
て大 法曼 挐羅 (大 法マン ダラ) と いう。 会衆 は聖 賢を 招き 入
主 に 向 っ て 右 に 坐 し て、 訳 主 が 高 ら か に 読 む 梵 文 を 聞 い て、
ざ
れ て 閼 伽 ( 供 え 水 ) で 洗 い 清 め、 香 や 花、 灯 油、 塗 香、 果
か
実、 飲み 物・ 食べ 物を朝 夕の 二時 に供 え、 礼 拝し 旋繞 して 民
原 文と差 違が ない かま た誤謬 があ るか どう かを調 べる。 第 四
五九
衆の 幸い を祈 願す ること を申 し上 げ、 それに よっ て仏 道修 行
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
梵文 を聴 いて、 そ れを音 写し て漢 字に 書きう つす。 た とえ ば
の「 書 字 梵 学 僧 」( 本 文 で は「 梵 学 僧 」 の み ) は、 審 ら か に
で参 考と なる のが 「伝法 院碑 銘」 の訳 場の配 置に つい ての 以
以 上で訳 経分 担者 の役割 ・業 務は 明ら かに された が、 訳場
にお ける 各人 の配 置につ いて はあ まり はっき りし ない。 こ こ
なか った もの であ る。
り、 また 「是 故空 中」 の 一句 の 「是故」 の二 字は 元の 梵本 に
六〇
を「 紇 哩 第 野 」 と し る し、 Ⓢ sūtra
を「 素 怛 覧 」 と
Ⓢ kŗdaya
書 き し る す。( な お、 本 文 で は 証( 梵 ) 文 の「 其 の 右 に あ
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
る 」 と 訳 場 で の 配 置 関 係 を 示 し て い る。) 第 五 の「 筆 受 」
の 証 梵 義 ・ 証 梵 文、
三蔵 主 訳 は 壇 の 北 に 於 い て す。 梵 僧
ゆ
義 学 僧 の 証 義・ 刊 定 華 字 は 左 右 に 于 き、 潤 文 は 東 南 し 以
下の 記述 であ る。
)」を「心」と訳し、「素
kŗdaya
は、 梵語 をそ のま ま漢 字で音 写し たも のを、 次に 漢語 に改 め
る。 た と え ば 「 紇 哩 第 野 ( Ⓢ
な っ て い れ ば、 二 字 の 重 複 を 削 除 し て 「 無 無 明 」 に 改 め、
り、 句 を わ か り や す く 定 め る。 た と え ば 「 無 無 明 無 明 」 と
定 字」 と 表現) は、 訳出 され た文 章に ついて、 冗 長な 語を 削
て、 誤 り が な い よ う に す る。 第 八 の「 刊 定 」( 本 文 で は「 刊
文 で は 「 参 詳 向 義 」 と 表 現 ) は、 梵 漢 両 言 語 の 文 字 を 考 え
た 場 合、 今 は「 照 見 五 蘊 皆 空 」 と す る。 第 七 の「 参 訳 」( 本
本一 四四 頁) を提 示して いる。 参 考ま でに、 その 図を 以下 に
経 場 の 具 体 的 な 配 置「 宋 朝 太 平 興 国 寺 訳 経 院 座 次 図 」( 再 刊
なお王文顔『仏典漢訳之研究』(初出 台北・天華出版、一
九 八 四 : 再 刊 高 雄・ 仏 光 出 版 社、 二 〇 〇 四 ) に お い て、 訳
西 側) が 座席 を設 けた と推定 され る。
か れ て 坐 り、 南 側 に 潤 文( 南 東 側 ) お よ び 監 訳( 都 監 )( 南
し、 さら に第 四の 書字 梵学僧 から 第八 の刊 定まで が左 右に 分
こ れ ら の 記 述 か ら、 訳 場 の 配 置 は、 北 側 正 面 に 訳 主 が 坐
り、 そ の 左 側 ( 西 側 ) に 証 義、 右 側 ( 東 側 ) に 証 文 が 位 置
て筆 削を 資け、 監 訳は西 南し 儀律 を粛 う。
「 上 正 遍 知 」 と な っ て い れ ば、 上 に 「 無 」 の 字 が 欠 け て い る
示し てお く。
怛 覧( Ⓢ sūtra
)」 を「 経 」 と 訳 す。 第 六 の「 綴 文 」( 本 文 で
は 「刪綴 成文」 と 表現) は、 文字 をつ づっ て意味 のわ かる 文
の で「 無 上 正 遍 知 」 に 改 め る。 第 九 の「 潤 文 」( 本 文 で は
章 をつく る。 たと えば 筆受が 「照 見五 蘊彼 自性空 見此」 と し
「潤文官」)は、僧衆の南に別に座席を設けて着席し、翻訳さ
れ た経文 を潤 飾修 辞し て、 中 国語 の文 章と して立 派な もの に
す る。 と き に は 余 分 の 語 句 を 加 え る。 た と え ば 『 般 若 心 経 』
で は、「 度 一 切 苦 厄 」 の 一 句 は 元 の 梵 本 に な か っ た も の で あ
最後 に、 御名 ・廟 諱の取 り扱 い関 する 上奏と その 返答 につ
い て述べ られ てい る。
上 奏 し て 申 し 上 げ る に は、「 訳 文 の 中 に は 天 子 の 御 名 と 先
帝 の諱と 同じ 文字 のも のがあ りま す。 前の 時代に は諱 を避 け
る ことは 行い ませ んで したが、 礼 の観 点か らはい まだ 適切 な
も のとは 言え ませ ん。 一方、 もし 文字 を変 えて諱 を避 けよ う
と すると 経典 の意 味を 損なう こと を心 配し ており ます。 そ こ
で いま、 儒教 の経 典九 種の例 にな らっ て御 名 (諱) を 回避 す
る とすれ ば、 諱に つい ては漢 字の 一画 を省 略する だけ にい た
し た い と 存 じ ま す 」 と。 そ れ に 対 す る 返 答 の 詔 で は、「 御 名
を 避ける 必要 はな い、 その他 の事 項は 上奏 に従っ て行 え」 と
あ った。
「 国 学 九 経 書 」 と は、 儒 教 の 四 書 五 経 の 類 の 儒 教 の 正 典 の
こ と で、 そ の 数 え 方 に は 数 種 あ る(『 諸 橋 大 漢 和 辞 典 』 巻
一・ 三 六 五 頁 )。 ま た 本 文 で は、 上 奏 の 主 体 は 明 示 さ れ て い
し て 上 奏 文 に 対 す る 回 答 で は、「 詔 し て 答 う、 仏 教 の 用 字 は
な い が、『 仏 祖 統 紀 』 で は、 上 奏 者 を 天 息 災 と し て い る。 そ
宜 しく正 文に 従う べし、 廟諱 御名 を回 避す るを須 いず」 と 記
さ らに、 訳経 院で の生 活の様 子に つい て述 べられ てい る。
訳 経僧は 毎日 髪や 体を 洗い清 め、 三衣 や坐 具を厳 かで 汚れ
な い も の に た も ち、 行 動 や 態 度 を 整 え て 厳 か な も の に す る。
〈長 谷川〉
述 して、 経典 の翻 訳に 用いる 文字 は正 字を 使い、 廟諱 御名 を
六一
回 避する 必要 はな いと いう解 釈を 示し てい る。
そ も そ も 仏 法 を 説 く 訳 経 の 道 場 に 入 る と き は、 座 席 に し た
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
ある。
る。 訳経 が行 われ る日 には、 特別 な食 事がふ るま われ るの で
い。 翻訳 のた めに 必要 とされ る物 品は すべ て官か ら提 供さ れ
が っ て 所 定 の と こ ろ に 坐 し、 乱 れ た さ ま を 示 し て は な ら な
王文顔『仏典漢訳之研究』より
訳 ) す る こ と は 大 変 難 し い と し て、 次 々 と 議 論 が 起 こ っ た。
六二
天息 災等 はこ れに 対し、 先に 梵文 の意 味を翻 訳し、 漢 文で こ
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〔
れを 裏付 けた。 衆 僧はそ こで やっ と従 った。 詔勅 を出 し、 新
〕
七月 十二 日、 天息 災上 新訳聖 仏母 経、 法天上 吉祥 持世 経、 施
右 街 僧 録 神 曜 与 諸 義 学 僧 以 為 訳 場 久 廃、 伝 演 至 難、 迭 興 諍
護上 如来 荘厳 経、 各一巻。 詔 左街 選京 城儀 学僧 百人 詳定。 左
たに 翻訳 され た経 典を入 蔵さ せ、 刊行 流通せ しめ た。
し て入蔵 せし め、 刻板 流行せ しむ。
を 持ち先 に翻 義し、 華 文を以 て之 を証 す。 衆僧乃 ち服 す。 詔
す ること 至難 なり と。 迭いに 諍難 を興す。 天 息災 等即 ち梵本
僧 録神曜 と諸 もろ の義 学僧以 為ら く、 訳 場久 しく 廃し、 伝演
す、 左街 は京 城の 義学 の僧百 人を 選び 詳定 せしめ よ。 左右 街
世 経を上 り、 施護、 如 来荘厳 経を 上る。 各 おの一 巻な り。 詔
七 月十二 日、 天息 災、 新訳の 聖仏 母経 を上 り、 法 天、 吉祥 持
〈訓 読〉
入 蔵、 刻 板流 行。
世陀 羅尼 経』 とし て 『大 正蔵』 第 二〇 冊に、 施護 訳 『如来 荘
蔵』 第八 冊に、 法 天訳 『吉祥 持世 経』 は 『仏 説大 乗聖 吉祥 持
こ の時上 進さ れた 経典 の所蔵 に関 して は、 天息災 訳 『聖仏
母 経 』 は『 仏 説 聖 仏 母 小 字 般 若 波 羅 蜜 多 経 』 と し て『 大 正
す」 とな る。
梵 本 を 持 し て 先 に 翻 義 す る に 華 を 以 て し、 華 文 も て 之 を 証
二頁) と 点校 して いる。 この 場合、 読 み方は 「天 息災 等即 ち
之 」(『 北 宋 仏 教 史 論 稿 』、 台 湾 商 務 印 書 館、 一 九 九 七 年、 六
に て 本 文 を 引 い て 「 天 息 災 等 即 持 梵 本 先 翻 義 以 華、 華 文 証
項で は 「以華 文証 之」 と 校訂 した が、 黄啓江 氏は 著書 の脚 注
おもえ
〈解 説〉
蔵』 第一 九冊 にそ れぞれ 収録 され てい る。
し、 京城 の義 学僧 百人 に詳定 (修 訂) させ た。 左 右街 僧録 の
各 一巻を 新た に翻 訳し、 経典 が上 進さ れた。 そこ で詔 勅を 出
『 聖 仏 母 経 』、 法 天 が『 吉 祥 持 世 経 』、 施 護 が『 如 来 荘 厳 経 』
207
神 曜やも ろも ろの 義学 僧は訳 場が 廃止 され て長く、 伝 訳 (通
七月、天息災、新訳聖仏母経を上り、法天、吉祥持世経
を 上 り、 施 護、 如 来 荘 厳 経 を 上 る、 各 お の 一 巻 な り。 詔
『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三 も 若 干 の 語 句 の 異 同 は あ る が 同 様 の 内
容を 載せ る。
厳経』 は 『仏 説無 能勝幡 王如 来荘 厳陀 羅尼経』 と して 『大 正
太平 興国 七年 (九 八二) 七月 一二 日、 前項 〔 〕 の 詔勅 を
受 け、 三 梵僧 から 新訳 経典が 上進 され た時 の記録。 天 息災 が
難。 天息 災等 即持 梵本先 翻義、 以 華華文証 之、 衆僧 乃服。 詔
ママ
な お、 原 文 の「 以 華 華 文 証 之 」 に つ い て は、『 大 中 祥 符 法
宝録』 巻 三や 『仏 祖統紀』 巻 四三 (と もに後 述) によ って 本
(義カ)
〈原 文〉
208
伝 訳 は 至 艱 な り と。 天 息 災 等 即 ち 梵 文 を 持 ち 先 に 梵 の 義
定 せ し む。 時 に 左 街 僧 録 神 曜 等 言 く、 訳 場 久 し く 廃 し、
して両街の僧をして義学の沙門百人を選ばしめ経義を祥
す れ ば、 義 理 昭 然 た り。 是 れ に 由 り、 神 曜 等 及 び 義 学 の
所 訳 の 経 を 執 る に、 天 息 災 等 其 の 梵 本 を 持 し、 華 梵 対 釈
の 梵 章 を 講 求 し、 三 五 の 法 印 を 研 覈 す。 時 に 義 学 の 僧、
為 ら く 訳 場 久 し く 廃 し、 伝 演 す る こ と 至 難 な り と。 単 重
い て、 左 街 僧 録 の 神 曜 等、 及 び 諸 も ろ の 義 学 僧、 咸 な 以
ママ
を 翻 し、 華 文 を 以 て 之 を 証 す。 曜 と 衆、 乃 ち 服 す。 〇 詔
訳と 合に 続く べし と。 詔を下 し入 蔵し 流行せ しむ。
僧 百 人、 表 を 列 し 上 言 し て 称 う る に、 今 の 翻 ず る 所 は 古
して 新経 を入 蔵せ しめ、 開板 流行 せし む。
ま た、『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 巻 三 に は、 七 月 一 二 日 に 天 息 災
等に よっ て翻 訳さ れた経 典の 提要 やと もに上 進さ れた 表 (上
(中 華蔵 北京 版七 三、 四 一五 a)
奏文の原文)、及びこれにまつわる詔勅が記されている。『大
左 右 街 僧 録(『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 で は 左 街 僧 録 ) の 神 曜 の
経歴 等に 関し ては 未詳。
〔
〈大 澤〉
〈原 文〉
尼 経 』 一 部 一 巻、( 中 略 )、『 無 能 勝 幡 王 如 来 荘 厳 陀 羅 尼
十 四日、 帝臨 幸、 召訳 僧坐、 慰諭、 給 臥具 ・幕・ 絵綵・ 什器
太平 興 国 七 年 七 月 訳 成 ず る 経、 三 巻。『 聖 仏 母 小 字 般 若
波 羅 蜜 多 経 』 一 部 一 巻、( 中 略 )、『 大 乗 聖 吉 祥 持 世 陀 羅
中祥 符法 宝録』 巻 三の関 連個 所を 引用 すると、 次 のよ うに な
る。
経』一部一巻、(中略)、右経三部三巻、並べて中天竺の
等物、 悉 度其 院童 行十人 為僧、 増 修仏 殿経蔵。 自 是尽 取禁 中
〕
梵 本 よ り 出 づ る 所 な り。 沙 門 常 謹、 法 進 は 筆 受 兼 綴 文 な
(繒カ)
り、 光 禄 卿 湯 悦、 兵 部 員 外 郎 張 洎 は 潤 文 な り、 殿 直 劉 素
六三
らる る梵 夾を 取り、 天息 災等 をし て蔵 録の未 だ載 せざ る所 の
て僧 と為 し、 仏殿、 経蔵 を増 修す。 是 れより 尽く 禁中 に蔵 せ
幕・ 繒綵 ・什 器等 の物を 給い、 悉 く其 の院の 童行 十人 を度 し
十 四 日、 帝 臨 幸 し、 訳 僧 を 召 し て 坐 せ し め、 慰 諭 し、 臥 具 ・
〈訓 読〉
所蔵 梵夾、 令 天息 災等視 蔵録 所未 載者 翻訳之。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
太宗 禁中 に留 る。 翌日、 詔す、 左 右街 僧司を して 京城 の
義 学 僧 一 百 人 を 選 ば し め、 同 に 詳 定 を 加 え し む。 是 に 於
ず。(中略)上進し以て聞せしむ。
是の月十二日、表を具して上進す、其の詞に曰く、臣天
息 災 等 言 く、 臣 等 承 明 の 詔 し て 梵 文 を 訳 せ し む る を 奉
は其 の経 を訳 する を監す。
209
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
付 す。 天 息 災 等 即 ち 梵 夾 を 以 て 経 律 論 及 び 密 教 讃 頌 等 を
六四
者を 視 し之 を翻 訳せ しむ。
編 列し次 第に 翻訳 す。 (
中 華蔵 北京 版七三、 四 一六 b)
しめ
〈解 説〉
前 項 〔 〕 の 内容 を受 け、 訳経 事業の 視察 のた め太 宗が訳
経院 に行 幸し たと いう記 録。
『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 二 三 ( 中 華 書 局 本、 第 三 冊、 五 二 四
この 記事 によ って 訳経院 の増 修の 詳細 等が知 られ る。 これ
に よれば、 東 西に 殿宇 を建設 し、 東は 仏殿、 西は 経蔵 とし た
〈大 澤〉
と わ か る。『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三( 大 正 蔵 四 九、 三 九 八 b ) と
( 太 平 興 国 七 年 七 月 ) 一 四 日、 太 宗 は 訳 経 院 に 行 幸 し、 訳
僧を 召し て接 見し て功を 労い、 臥 具・ 幕・繒 綵・ 什器 等の 物
頁) の記 事は 『宋 会要』 とほ ぼ同 様で ある。
〔
繒綵 とは 彩色 の施 された 絹織 物の こと。
〈原 文〉
〕
『大中祥符法宝録』巻三、
『仏祖統紀』巻四三、
右について、
『続資治通鑑長編』巻二三に相当する記事を載せる。『大中祥
又 賜大蔵 経以 備撰 閲。 自是毎 歳再 三献 新経。 後毎 誕聖 節、 五
月 一日即 献経、 皆 召坐、 賜緍 帛、 以其 経付 蔵。
十 二 月、 詔、 選 梵 学 沙 門 一 人 為 筆 受、 義 学 沙 門 十 人 為 証 義、
符法 宝録』 巻 三は 本項の 内容 を詳 記し ている。
仏 像 を 安 じ、 西 に 経 蔵 を 置 か し む。 詔 し て、 梵 夾 の 凡 べ
又た詔して、本院の童行一十人を度して僧と為す。仍お
使 臣 に 命 じ 院 の 東 西 の 堂 を 以 て 各 お の 殿 宇 を 建 て、 東 に
〈解 説〉
経 を以て 蔵に 付せ しむ。
即 ち経を 献ず るに、 皆 な召し て坐 せし め、 緍帛を 賜い、 其 の
れ より毎 歳再 三に 新経 を献ず。 後、 誕 聖節 と五月 一日 ごと に
十 二月、 詔す、 梵 学の 沙門一 人を 選び 筆受 と為し、 義 学の 沙
て の 経 律 論 を 徧 閲 せ し め、 今 の 大 蔵 目 録 を 取 り 校 定 し、
門 十人を 証義 と為 し、 又た大 蔵経 を賜 い以 て撰閲 に備 う。 是
其 の 未 だ 有 ら ざ る 者 は 翻 訳 し 以 て 進 せ し め、 已 に 有 る 者
太 平 興 国 七 年、 訳 経 院 に 新 た に 筆 受 と 証 義 の 僧 を 任 命 し、
あらゆ
は 更 に 重 訳 せ ず。 仍 お 尽 く 禁 中 の 所 有 る 梵 夾 を 以 て 院 に
仍お 縑帛 及び 受用 物等を 出し 之を 面賜 す。
〈訓 読〉
210
是の 月十 有四 日、 太宗皇 帝、 訳筵 に臨 幸し、 親ら 慰諭 す
る こ と を 加 う。 天 息 災 等 に 坐 す こ と を 命 じ、 茶 を 賜 い、
天 息 災 等 に 大 蔵 経 目 録 未 載 の 経 典 を 点 検 さ せ、 翻 訳 さ せ た。
蔵を増修した。また、禁中所蔵の梵文経典をすべて取り出し、
品を 給い、 そ の院 の童行 一〇 人を 度し て僧と なし、 仏 殿と 経
208
大蔵 経を 訳経 院に 賜っ たとい う記 録。 訳経事 業を さら に発 展
させ 誕聖 節や 五月 一日 に献上 させ るな ど、 形式も 整っ てい っ
たこ とを 看取 する こと ができ る。
一 二月、 梵学 沙門 一人 を筆受 とし、 義 学の 沙門一 〇人 を証
義と し、 さら に大 蔵経を 訳経 院に 賜い 訳経の 参考 とし た。 こ
の後、 毎 年何 度も 新たな 翻訳 経典 を献 じたが、 後 には 誕聖 節
と五 月一 日ご とに 経を 献上し、 訳 経僧 を召し て同 座さ せ、 金
銭や 絹を 賜い、 ま た新訳 の経 典を 大蔵 経に入 蔵さ せた。
を賜 い、 以て 名題 を検閲 する に備 う。
(中 華蔵 北京 版七 三、 四 六一 b)
文中 の鳳 翔は いま の陝西 省西 部に 位置 する。 この 時筆 受に
任 命 さ れ た 沙 門 建 盛 に つ い て は、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三 に 開 宝
四 年 (九 七〇) の こと として 次の 記載 があ る。
沙門 建 盛、 西 竺 よ り 還 り、 闕 に 詣 で 貝 葉 の 梵 経 を 進 む。
梵 僧 の 曼 殊 室 利 と 偕 に 来 る。 室 利 は 中 天 竺 の 王 子 な り。
詔して相国寺に館せしむ。律を持すること甚だ精にして、
訳 成の 『守護 大千 国土経』 及 び 『大力 明王 経』 で は筆 受と し
建盛 につ いて は 『大中祥 符法 宝録』 に は、 太 平興 国八 年七
月 訳成の 『大 方広 総持 宝光明 経』 では 参詳 として、 同 一〇 月
(大 正蔵 四九、 三 九六a)
都人の施財すること屋に盈つるも、並べて用うる所なし。
一一六「礼一九」では「大朝会、宋は前代の制を承け、元日、
て 名を連 ねて いる。
五 月 朔、 冬 至 を 以 て、 大 朝 会 の 礼 を 行 ず 」( 中 華 書 局 本、 第
皇帝の誕生日である誕聖節とともに特記される「五月一日」
の 含 意 に つ い て は 定 か で は な い が、『 東 京 夢 華 録 』 は 五 月 一
九冊、 二 七四 三頁) と、 諸侯 群臣 が一 堂に集 まる 大朝 会の 儀
日 よ り 端 午 節 の 準 備 が 始 ま る こ と を 記 し、 ま た、『 宋 史 』 巻
礼が 元日 と冬 至と とも に五月 一日 に行 った ことを 記す。
義学 僧の 慧達、 可 瓌等一 〇人 の経 歴等 につい ては 未詳。
〈大 澤〉
八 年十月、 天 息災 等言、 臣竊 以、 教法 末流、 歴朝 翻訳、 宣 伝
〈原 文〉
〔
〕
会要』 に は出 ない。
仏語、 并 在梵 僧、 而方域 遐阻、 或 梵僧 不至、 則訳 場廃 絶。 望
『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 の 当 該 部 分 に は、 こ の 時 任 命 さ れ た 筆
受僧 一人 や証 義僧 一〇 人の名 が記 され る。 こ れら の名 は 『宋
又た 詔す、 鳳 翔の 梵学沙 門建 盛を 筆受 に充て、 京 師の 義
学 沙 門 慧 達、 可 瓌、 善 祐、 法 雲、 智 遜、 恵 温、 守 巒、 道
(東カ)
真、 寘 顕、 慧 超 等 十 人 を 証 義 に 充 つ。 是 れ よ り、 釈 門 の
令両 街選 童子 五十 人、 令習梵 字学。 従 之、 命 高品 王文 寿集 京
六五
選 に あ た り て は 咸 な 訳 筵 を 重 ん じ て す。 俄 に 又 た 大 蔵 経
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
211
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
六六
前号(
『宋会要』道釈部訓注(九)
)
〔
識る。 歳 余に して、 度し て僧 と為 り、 手づか ら梵 経を 写し 以
て、 梵章 を口 授す れば、 即ち 其の 義を 暁り、 遍く 西域 の字 を
惟浄 なる 者は、 呉 王李煜 の弟、 従 鎰の 子なり。 性 は穎 悟に し
引見 し便 坐せ しめ、 詔し て院 に送 り受 学せし む。
じ て 京 城 の 童 行 五 百 人 を 集 め し め、 選 び て 惟 浄 等 十 人 を 得。
梵字 の学 を習 わし めんこ とを。 之 に従 い、 高 品の 王文 寿に 命
廃 絶 す べ し。 望 む ら く は 両 街 を し て 童 子 五 十 人 を 選 ば し め、
而る に方 域は 遐阻 にして、 或 は梵 僧至 らざれ ば、 則ち 訳場 は
る に、 歴 朝 の 翻 訳、 仏 語 を 宣 伝 す る は、 并 て 梵 僧 に 在 る も、
八年 十月、 天 息災 等言く、 臣、 竊 かに 以みる に、 教法 東流 す
〈訓 読〉
訳経、 為 試光 禄卿。
授学、 為 梵学 筆受。 賜紫 衣、 号光 梵大 師。 大 中祥 符後、 令 同
大 中祥符 年間 後に は同 訳経の 官に つき、 試 光禄卿 の階 位を 与
び、 梵 学 筆 受 と な っ た。 紫 衣 を 賜 い、 光 梵 大 師 と 号 さ れ た。
な り、 梵 経を 自ら 書写し て献 上し た。 その 後法賢 につ いて 学
理 解し、 広く 西域 の字を 理解 した。 一 年余 後、 得 度し て僧 と
惟浄 は、 呉王 (南 唐後主) 李 煜の 弟の 従鎰の 子で ある。 生
ま れつき 聡明 で、 梵文 の文章 を口 述で 伝え ると、 その 意味 を
た。 太宗 に臨 座謁 見し、 詔し て訳 経院 に送 り勉学 させ た。
せ、 惟 浄 等 一 〇 人 ( こ の 人 数 に 関 し て は 後 述 ) を 選 び 出 し
宗 はこれ に従 い、 高品 の王文 寿に 京城 の童 行五百 人を 集め さ
人 を 選 ば し め、 梵 字 を 学 ば せ て く だ さ る よ う 望 み ま す。」 太
な ければ、 訳 場は 廃絶 してし まう でし ょう。 両街 に童 子五 十
し た が、〔 天 竺 か ら 〕 中 国 へ の 道 の り は 遠 く、 も し 梵 僧 が 来
仏典翻訳において梵語を述べ伝えるのは梵僧の役割でありま
〕に 関 連 記 事 が あ り 、
城童 行五 百人、 選 得惟浄 等十 人。 引見 便坐、 詔送 院受 学。
惟 浄につ いて もそ の解 説文中 でも 触れ たと ころで ある。
て献 ず。 自後、 法 賢に依 り授 学し、 梵 学筆受 と為 る。 紫衣 を
え られた。
(鎰カ)
賜 い、 光 梵 大 師 と 号 す。 大 中 祥 符 の 後、 令 し て 同 訳 経 と し、
4
試光 禄卿 と為 す。
流」 につ いて、 後 述の 『大中 祥符
なお、 一 行目 の 「教法末
法宝 録』 では 「教 法東流」 とつ くる ため、 これ に従 った。 ま
4
た、 惟 浄 の 父 で、 李 煜 の 弟 で あ る 「従 鎰」 に つ い て は、 原 文
4
〈解 説〉
で は 「 従 鑑 」 と す る が、 史 料 に こ の よ う な 人 物 は 見 え な い。
4
天 息災等 が童 子に 梵字 学を習 わせ るこ とを 上奏し、 惟 浄等
を 得 た と い う 記 事、 及 び 惟 浄 の 略 伝。 こ の 記 事 に 関 し て は、
(弟カ)
義、 遍識 西域 字。 歳余、 度為 僧、 手写 梵経以 献。 自後 依法 賢
惟 浄 者、 呉 王 李 煜 第、 従 鑑 之 子。 性 穎 悟、 口 授 梵 章、 即 暁 其
太平 興国 八年 (九 八三) 一〇 月、 天息 災等が 次の よう に上
奏 し た。「 私 ど も が 思 う に、 仏 法 の 東 伝 の 際、 歴 代 王 朝 で の
197
鎰 の 子 は 祝 髮 し て 僧 と 為 り、 惟 浄 と 名 づ く 」(『 四 部 叢 刊 続
〇〇一年、四四五頁)、『陸氏南唐書』列伝巻一五には「弟従
楊 曽 文・ 方 広 錩 編『 仏 教 与 歴 史 文 化 』、 宗 教 文 化 出 版 社、 二
番目の子の李従謙としているが(楊曽文「宋代的仏経翻訳」、
〔
し 乞 う に、 両 街 僧 司 に 下 し て 諸 寺 院 の 童 子 五 十 人 を 選 ば
る に 遇 わ ば、 則 ち 翻 訳 の 復 び 停 ま る こ と を 慮 る。 臣 等 欲
其 れ 天 竺 中 華 の 方 域 は 懸 阻 な る が 如 く、 或 は 梵 僧 に 闕 有
天息災、因に奏して曰く、臣等竊かに見るに、教法東流
し、 歴 朝 の 翻 訳、 仏 語 を 宣 伝 す る は、 首 は 梵 僧 に 在 り、
が 存する。
は 次 の よ う に 記 載 さ れ、『 宋 会 要 』 と 文 字 の 上 で 多 少 の 差 異
〕 に 見 る よ う に、 楊 曽 文 氏 は 李 煜 の 弟 で、 中 主 李 璟 の 九
編』 史部、 伝 一五、 三丁 表) との 記載 があり、 従 鎰の 子が 惟
し め、 訳 経 院 に 就 か せ、 先 に は 梵 字 を 攻 習 せ し め、 後 に
4
浄で ある と確 認で きる。 李従 鎰は 李煜 の弟で、 李 璟の 八番 目
は 梵 義 を 精 窮 せ し め ん。 貴 な る 所、 梵 学 を 成 就 し、 翻 宣
4
4
4
4
4
す る を 継 続 せ ん と。 上、 之 を 可 と し、 乃 ち 詔 し て、 殿 頭
4
得 た り。 是 の 月、 左 街 僧 録 の 神 曜、 惟 浄 等 を 引 き て、 崇
4
の 子 で あ る。 本 項 で は『 陸 氏 南 唐 書 』 の 記 述 に 従 い、「 従
高品の王文寿をして左右街僧司に於いて京城の出家の童
4
鎰」 と改 めた。
子 五 百 人 を 集 め し め、 以 て 之 を 選 ぶ に、 惟 浄 等 五 十 人 を
4
本 文 中 の「 令 同 訳 経 」 と は、「( 梵 僧 と ) 同 に 訳 経 せ し む 」
と も 読 め る が、 本 文 で は 「 同 訳 経 」 を 僧 官 名 と し て 取 っ た。
4
官名 とし ての 「同 訳経」 は詳 しく は 「西天同 訳経 三蔵」 と い
仍 ち 諭 し て、 以 て 勤 習 す る こ と を 励 力 し、 用 っ て 精 選 に
い、 部下 に殺 され たとい う。
州に 赴い たと ころ、 その 横暴 な振 る舞 いから 兵士 の恨 みを 買
によ れば、 王 文寿 は反乱 平定 のた め三 千の兵 を率 い四 川の 遂
定の ため 防御 使と なった 王継 恩の 部下 として 名を 出す。 こ れ
125
な お、 本 項と 同様 の記 事が 『仏祖 統紀』 巻 四三や 『大 中祥
符法 宝録』 巻 三に ある。 ちな みに 『大 中祥符 法宝 録』 巻三 で
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
4
4
4
六七
す。 詔 し て 令 高 品 王 文 寿 を し て 惟 浄 等 十 人 を 選 ば し め、
4
て 童 子 五 十 人 を 選 ば し め、 梵 字 を 習 学 せ し め ん こ と を 欲
4
また、『仏祖統紀』巻四三の当該記述は次の通りである。
天息災等言く、歴朝の翻訳は並べて梵僧を藉る。若し遐
阻 に し て 来 ら ざ れ ば、 則 ち 訳 経 は 廃 絶 す べ し。 両 街 を し
(中 華蔵 北京 版七 三、 四 一八 b)
政 殿 上 に 見 せ し め、 各 お の に 習 う 所 の 経 文 を 誦 え し む。
い、「西天訳経三蔵」に次ぐ位という。(〔
副 えしむ。 即 日並 べて 訳経院 に送 り受 学せ しむ。
〕 参照)
「 高 品 」 と は 宋 代 に お い て は 宦 官 の 官 職 名 で あ る。 王 文 寿
は、『 宋 史 』 巻 四 六 六( 中 華 書 局 本、 第 三 九 冊、 一 三 六 〇 三
頁) にお いて、 同 じく宦 官で あり、 四 川での 李順 の反 乱の 平
197
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
4
4
4
六八
を「 選 得 惟 浄 等、 十 人 引 見 便 坐 」 と 解 釈 し、「 一 〇 人 」 を 童
4
便殿 にて 引見 す。 詔して 訳経 院に 送り 受学せ しむ。
数 の差異 の問 題は 解消 する。 この 点に 関し ては後 考を 俟ち た
4
ここ で問 題と なる のが、 それ ぞれ の文 献にお ける 童子 の選
抜 人 数 の 差 異 で あ る。『 宋 会 要 』 で は 天 息 災 が 童 子 五 〇 人 を
い。
4
選抜 する こと 進言 し、 童 行五 〇〇 人か ら一〇 人を 選抜 し学 ば
〔
り、 ここ でも 五〇 人を 選ばせ 梵学 を学 ばせた とあ る。 ①同 時
択 ば し む る に、 惟 浄 等 五 十 人 を 得、 梵 学 を 肄 わ し む 」 と あ
銘 」 に つ い て は〔
太 平 興 国 八 年( 九 八 三 )、 訳 経 院 の 名 称 を 伝 法 院 と 改 め、
ま た、 印 経院 を設 置し た。 印 経院 とは その 名の通 り経 典を 印
〈解 説〉
置 く。
是 の年、 詔し て、 訳経 院を改 め伝 法院 と為 し、 又 た印 経院 を
〈大 澤〉
子 を代表 して 太宗 に謁 見した 人数 と解 釈す れば、 これ らの 人
せ た とい う。
『 仏 祖 統 紀 』 で は 五 〇 〇 人 とい う 記 述 は な い が、
〈原 文〉
〕
では、 天 息災 が五 〇人を 選抜 する こと を上言 し五 〇〇 人か ら
その他は『宋会要』と同様である。一方、
『大中祥符法宝録』
五〇 人を 選抜 した という。 さ らに 北宋 の文人 であ る夏 竦 (九
代的 な資 料で ある 『大中 祥符 法宝 録』 や 「伝 法院 碑銘」 が 選
刷 する寺 院で ある。
〈訓 読〉
是 年、 詔 改訳 経院 為伝 法院、 又置 印経 院。
〕、「伝法院碑
抜さ れた 童子 の人 数を 五〇人 とし てい ること、 ② 五〇 人と い
なら
う要 求か ら一 〇人 に人 員を限 定し たと の理由 が 『宋会 要』 等
中国 最初 の刊 本大 蔵経で ある 『開 宝蔵』 は この印 経院 で印
刷 された。 こ の間 の経 緯を 『仏祖 統紀』 巻 四三か ら抜 粋す る
〕 を 参 照 ) に は、「 詔 し て 京 寺 の 童 子 を
に述 べら れな いこ と。 以上二 点か ら、 選抜さ れた 童子 の人 数
と 次のよ うに なる。
4
は 五 〇 人 で あ る 可 能 性 が 高 い。 そ れ で は、『 宋 会 要 』 や『 仏
4
祖統 紀』 の 「詔し て令高 品王 文寿 をし て惟浄 等十 人を 選ば し
4
4
4
4
4
惟 浄 等 十 人、 引 見 便 坐」 と 読 む の が 自 然 で あ る が、 も し こ れ
平 興 国 八 年 ) 詔 す、 訳 経 院 に 賜 い て 伝 法 と 名 づ け、
( 太
む」 とい う記 載と 他資 料記載 の 「五〇 人」 という 人数 の齟 齬
庫全 書珍 本』 二四 七所収、 夏 竦に つい ては 〔
八 五 ― 一 〇 五 一 ) の「 伝 法 院 碑 銘 」(『 文 荘 集 』 巻 二 六、『 四
212
(開宝四年)高品の張従信に勅して益州に往き大蔵経の
板を 雕せ しむ。 (大 正蔵 四九、 三九 六a)
246
はど のよ うに 解釈 すれ ばよい だろ うか。 本 項の本 文は 「選 得
250
西 偏 に 印 経 院 を 建 つ。( 今 の 臨 安 の 伝 法 院 は、 即 ち 東 都
の 訳 経 院 な り。 今 は 但 だ 入 内 道 場 の 法 事 を 供 奉 す る の
み。) 〇 成 都、 先 に 太 祖 の 勅 を 奉 じ、 大 蔵 経 を 造 る、 板
(同 右、 三九 八c)
〔
〕
〈大 澤〉
雍 熙元年 九月、 詔 自今 新訳経 論、 並刊 板摹 印、 以 広流 布。
〈原 文〉
雍 熙 元 年 九 月、 詔 す、 今 よ り 新 訳 経 論 は、 並 べ て 刊 板 摹 印
〈訓 読〉
『 開 宝 蔵 』 は 開 宝 四 年( 九 七 一 ) に 太 祖 の 命 に よ り 成 都 で
刻板 が開 始さ れ、 一二年 の歳 月を 経て 刻板が 完成 し、 本項 詔
し、 以て 広く 流布 せし むべし。
〕等においてたびたび新訳の経
る と す れ ば 九 月 は 太 平 興 国 九 年 で あ る。『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三
が、 雍熙 元年 は一 一月 に改元 され てお り、 九八四 年を 意味 す
雍 熙 元 年 ( 九 八 四 ) 九 月、 新 訳 経 典 は す べ て 刻 板 印 刷 し、
広 く流布 させ よと いう 詔勅。 本項 では 雍熙 元年の 詔勅 とす る
〈解 説〉
建 て た こ と や、〔
『仏祖統紀』の記述からわかるように訳経院の隣に印経院を
で は雍熙 二年 (九 八五) の条 に同 内容 の記 述をす る (大正 蔵
息 災 等 の 訳 経 事 業 も 大 い に 影 響 し た と 考 え ら れ る。 そ れ は、
典 の 刊 行 を 命 じ て い る こ と か ら 知 ら れ る。 ま た、『 仏 祖 統
四 九、 三 九 九 c ) た め、『 宋 会 要 』 と の 間 に は 年 代 の 齟 齬 が
〕 や〔
紀』 の注 は、 南宋 臨安に も 「伝法 院」 として 遷さ れた が、 そ
あ り、 本 詔 勅 が 何 年 に 出 さ れ た も の か は 検 討 を 要 す る。 な
六九
〈大 澤〉
〕の印経院設置の詔勅とも密接に関係し
〕 も 参 照 さ れ た い )。 ち な み に、 印 経 院 は 熙 寧 四 年
て は〔
〕
〈原 文〉
〔
お、 この 詔勅 は 〔
はな い。
是の 歳、 訳経 院に 額を賜 い、 伝法 と曰 う。
(中 華書 局本、 第 三冊、 五六 六頁)
258
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
214
〕参照)。
こで は訳 経は され ていな かっ たこ とを 指摘す る (これ に関 し
印 経院の 設置 の背 景に は、 同 年に 進上 され た 『開 宝蔵』 の
影響 もあ った と考 えるの が妥 当と 思わ れる が、 そ の他 に、 天
勅と 同じ 年に 献上 された。
成れ ば進 上す。
213
(一〇七一)に廃止された(〔
213
て いると 思わ れる。
208
なお、『続資治通鑑長編』巻二四には、『宋会要』と同様に
伝法 と賜 額し たと いう記 事は ある が、 印経院 につ いて の記 載
264
212
衛 尉寺、 宗正 寺、 太僕 寺、 大 理寺、 鴻 臚寺、 司農 寺、 太府 寺
七〇
二年、 帝 覧所 訳経、 詔宰 相曰、 訳 経辞 義円好、 天 息災 等三 人
が あり、 中央 政府 の九 つの事 務執 行機 関の ことで ある。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
及 此 地 数 僧 皆 深 通 梵 学、 得 翻 伝 之 体。 遂 詔、 天 息 災、 法 天、
この 項と 同じ 記述 は 『仏 祖統 紀』 巻四 三にも 見ら れる。
二年、上、新訳の経を覧られ、宰臣に謂て曰く、天息災
等 は 翻 訳 の 体 を 妙 得 す。 乃 ち 詔 す、 天 息 災 は 朝 散 大 夫、
施護 並朝 散大 夫、 試鴻臚 少卿。 又 詔、 訳経月 給酥 酪銭 有差。
試 光 禄 卿 に 除 し、 法 天・ 施 護 は 並 て 朝 奉 大 夫、 試 鴻 臚 卿
二年、 帝、 所 訳の 経を覧、 宰 相に 詔し て曰く、 訳 経の 辞義 円
〈訓 読〉
かに 好し、 天 息災 等三 人、 及 び此 の地 の数僧 は皆 な深 く梵 学
に 除 し、 法 天 は 法 賢 と 改 名 す。 並 び に 月 づ き に 酥 酪 銭 を
(大 正蔵 四九、 三九 九c)
に通 じ、 翻伝 の体 を得た り。 遂に 詔す、 天息 災、 法天、 施 護
給す るも 差有 り。
た訳 経僧 には 月々 に酥 酪銭が 給付 され たが、 金額 には 差が 見
そ こで天 息災、 法 天、 施護の 三人 を試 鴻臚 少卿と いう 官職
に付 け、 朝散 大夫 という 身分 を与 える との詔 が出 され た。 ま
晴ら しい 翻訳 の経 典に なった のだ」 と 言わ れた。
人か の梵 僧は 皆な 梵学 に深く 通じ てい るので、 こ のよ うな 素
完全 で大 変素 晴ら しい。 梵僧 であ る天 息災 ら三人 と中 国の 幾
雍 熙 二 年( 九 八 五 )、 太 宗 は 訳 さ れ た 所 の 経 典 を ご 覧 に な
ら れ て か ら 宰 相 に、「 翻 訳 さ れ た 経 の 文 章 の 形 式 や 内 容 は、
比 較 検 討 し た 結 果、「 法 天 改 名 法 賢 」 と 伝 え る『 仏 祖 統 紀 』
法 賢・法 天・ 天息 災三者 の訳 経形 態を 取り あげ、 その 特徴 を
賢 説 に つ い て 」(『 宗 教 研 究 』 三 九 ― 二、 一 九 六 五 年 ) で は、
法 賢は法 天な のか 天息 災かが 問題 とさ れて いる。 この 問題 は
このように『仏祖統紀』には「法天改名法賢」、『大中祥符
法 宝 録 』 に は 「 天 息 災 改 名 法 賢 」 と 記 さ れ て い る こ と か ら、
( 中 華 蔵 北 京 版 七 三、 四 三 五 a ) と あ り、 天 息 災 が 法 賢 と い
なお これ によ れば、 法天 が法 賢と 改名 したこ とに なっ てい
る が、『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 巻 六 に は、「 詔 天 息 災 改 名 法 賢 」
並べ て朝 散大 夫、 試鴻臚 少卿 とす。 又 た詔す、 経 を訳 する に
月づ き酥 酪銭 を給 すも 差有り。
られ た。
ると結論付けている。『宋会要』でも本稿の〔
〈解 説〉
な お朝散 大夫 は従 五位 下の位 であ る。 また 鴻臚少 卿と は鴻
臚卿 の次 官に あた る。 鴻臚卿 は外 交使 節・異 民族 の接 待に あ
で も述べ るよ うに 「天 息災改 名法 賢」 と記 録され る。
〕及び〔
〕
の 記 述 は 誤 り で あ り、「 天 息 災 改 名 法 賢 」 説 の 方 が 妥 当 で あ
す でに色 々と 検討 され ており、 た とえ ば柴 田泰 「法天 改名 法
う 名を賜 って 改名 した ことに なっ てい る。
た る 役 職 で、 九 寺 の 一 つ で あ る。 九 寺 に は 太 常 寺、 光 禄 寺、
215
217
〈五 十嵐〉
れ たので ある。 因 みに 梵夾と は多 羅葉 に記 した教 典で、 そ れ
そこ で二 人は 持参 してい た錫 杖と 鉢す ら棄て、 梵 夾だ けを
持 参して 敦煌 を脱 出し てきた ので、 法 賢に 明教大 師号 が贈 ら
を 重ね、 版木 で両 端を はさみ、 縄 でこ れを 結び、 あた かも 箱
〔
に 入れた よう に見 える ことか ら、 この 名が ある。
〕
法賢、 年 十二 依本 国密林 寺達 声明 学、 従父兄 施護 亦出 家。 法
な お 法 賢 が 声 明 の 学 を 体 得 し た 密 林 寺 に 関 し て は、『 釈 氏
稽 古略』 巻四 に次 のよ うな記 述が 見ら れる。
(詣カ)
国諸 中国、 至 燉煌。 其 王固留 不遣 数月、 因 棄錫杖 瓶盂、 惟 持
梵 夾以至、 仍 号明 教大 師。
〈訓 読〉
法 賢、 年 十二 にし て本国 密林 寺に 依り 声明の 学に 達し、 従 父
『 釈 氏 稽 古 略 』 巻 四 に よ れ ば、 密 林 寺 の 天 息 災 が 法 天 や 施
護 らと 『大乗 荘厳 宝王経』 を 訳し たと あり、 本項 の密 林寺 の
(大 正蔵 四九、 八六 一b)
法 賢 と は、『 釈 氏 稽 古 略 』 巻 四 に よ る 密 林 寺 の 天 息 災 と 同 一
皆 な梵を 華に 訳し て仏 事と作 す。 即ち 相い与 に北 天竺 国よ り
人 物と窺 える。 こ の事か らも 法賢 は天 息災が 改名 した もの と
製す。
中 国 に 詣 り、 燉 煌 に 至 る。 其 の 王 固 く 留 め て 数 ヶ 月 遣 ら ず、
で あると みて よい。
思 われる。 従 って この 項は前 項に 続い て天 息災に 関す る記 述
〈五 十嵐〉
明教 大師 と号 せし む。
〕
〔
法 賢は、 一二 歳で 本国 の密林 寺で 声明 の学 を体得 し、 従兄
弟の 施護 もま た出 家し た。 法 賢は 施護 に対し て 「昔の 智慧 が
深く 徳の 高い 人は 皆、 梵語の 経典 を中 国語に 訳す るこ とを 仏
三年十月戊午、御製新訳三蔵聖教序以冠経首。令刊石御書院、
〈原 文〉
真廟。 祗 遹先 訓。
道修 行と して いた」 と 語った。 そ の後 二人で 北天 竺国 から 中
れた。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
七一
国へ 向か うこ とに した が、 途 中の 敦煌 で数ヶ 月間 引き 留め ら
216
〈解 説〉
も
因 みに錫 杖瓶 盂を 棄て、 惟だ 梵夾 のみ 持し以 て至 る、 仍って
兄 の施護 も亦 た出 家す。 法賢 之に 語り て曰く、 古 の聖 賢師 は
西天中印度惹蘭陀羅国密林寺の天息災三蔵、法天、施護
等 と 大 乗 荘 厳 宝 王 経 を 訳 し、 帝、 大 宋 新 訳 三 蔵 聖 教 序 を
賢語 之曰、 古 聖賢 師皆訳 梵従 華、 而作 仏事。 即相 与従 北天 竺
〈原 文〉
215
七二
〈訓 読〉
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈訓 読〉
雍 熙四年、 詔 して 名を 法賢と 改め しめ、 累 ねて試 光禄 卿、 朝
し
奉 大夫を 加う。
きざ
に冠 す。 令し て石 に刊 み御 書院、 真 廟に おか しむ。 先訓 を祗
( 雍 熙 ) 三 年 十 月 戊 午、 新 訳 三 蔵 聖 教 序 を 御 製 し 以 て 経 の 首
〈解 説〉
いつ
遹 する なり。
宮 中 の 諸 事 を 掌 る 役 職 で あ る。「 天 息 災 改 名 法 賢 」 に つ い て
〈解 説〉
は〔
雍 熙 四 年( 九 八 七 )、 天 息 災 は 法 賢 と 名 を 改 め、 試 鴻 臚 少
卿、 朝散 大夫 から 試光 禄卿、 朝奉 大夫 に昇 進した。 光 禄卿 は
雍熙 三年 (九 八六) 一〇 月一 一日、 太 宗自 ら作成 した 『新
訳三 蔵聖 教序』 を 新訳仏 典の 首に 冠し、 それ を石 版に 彫り 御
〕 を 参照。
書院 と真 廟に おく ことと なっ た。 これ は太宗 が先 の皇 帝 (太
〈訓 読〉
咸平 二年、 継 作聖 教序 賜之。
聖教序の文を御製し、以て先聖の述作を継ぎ、新訳諸経
けん き
の 首 に 冠 す る を 請 う。 臣 法 賢 等 無 任 に し て 虔 祈 激 切 の 至
は法 賢等 の要 請に 基づ くもの であ るこ とが わかる。
符 法 宝 録 』 巻 一 一 に よ れ ば、『 継 作 聖 教 序 』 が 作 成 さ れ た の
太 宗の 『聖教 序』 に継 いで、 真宗 も新 訳仏 典の巻 首に 『継
作 聖 教 序 』 を 冠 す る こ と に な り、 伝 法 院 に 賜 っ た。『 大 中 祥
〈解 説〉
咸平 二年、 継 作聖 教序 もて之 に賜 わる。
は、 方 め て 係 帳 す る こ と を 許 す。 詔 し て 御 製 三 蔵 聖 教 序
(大 正蔵 四九、 四 〇〇a)
〈五 十嵐〉
〈五 十嵐〉
〕
祖) の遺 訓を 謹ん で受て 行っ たも ので ある。 これ と同 じ内 容
の記 事は 『仏 祖統 紀』 巻 四三 にも 見ら れる。
〔
214
〈原 文〉
218
を以 て天 息災 等に 賜い、 令し て新 訳経 の首 に冠せ しむ。
熙 ) 三 年、 詔 し て 天 下 の 係 帳 童 行 並 べ て 剃 度 を 与 え
( 雍
せ し め、 今 後 自 り 読 経 三 百 紙 に 及 び、 所 業 精 熟 な る 者
〕
ま た、「 伝 法 院 碑 銘 」 に も こ の 項 と 関 連 す る 記 事 が 見 ら れ
る。
〔
雍熙 四年、 詔 改名 法賢、 累加 試光 禄卿、 朝 奉大夫。
〈原 文〉
217
り、 謹 み て 表 を 具 し て 請 を 陳 べ 以 聞 す。 二 年 秋、 上、 中
使 趙 誠 信 を 遣 り て、 継 作 聖 教 序 (文 は 東 土 聖 賢 集 に 具 さ
て本稿〔
〕 を参照 され たい。
〔
な り) を 齎 し 賜 る。 翌 日 謝 を 奉 表 し て 云 く、 臣 法 賢 等 言
〈原 文〉
〕
く、 臣 等 今 月 二 十 二 日 入 内 し、 内 侍 高 班 趙 誠 信 よ り 聖 旨
〈五 十嵐〉
咸平 三年 八月 に卒 す、 慧辯と 諡す。
を 奉 伝 さ る。 法 賢 曾 て 表 章 を 上 ま つ り、 朕 の 聖 教 序 を 製
〈解 説〉
咸平 三年 八月 卒、 諡慧辯。
作 聖 教 序 一 首 を 賜 わ る。 睿 律 祇 園 に 敷 き、 宸 章 海 蔵 に 燭
〈訓 読〉
し、 空 門 は 聳 え て 観 え、 釈 部 は 暉 や き を 生 じ、 凡 て 含 霊
と あるが、 王 応麟 『玉 海』 巻 一六 八に よれ ば、 そ れは 七月 二
侍 高 班 趙 誠 信 か ら そ の 旨 を 伝 え ら れ た の は「 今 月 二 十 二 日 」
平 二年 (九九 九) の秋 に賜る こと がで きた。 法賢 が入 内し 内
序』 を新 訳仏 典の 巻首 に冠し たい と上 奏し た。 そ の結 果、 咸
に入 院し て翻 経に 従事 し、 明 教大 師の 号を賜 る。 雍熙 二年 に
年六 月に 太平 興国 寺に 訳経院 が完 成す ると、 法天 ・施 護と 共
年に 施護 と共 に汴 京に 至る。 太宗 に謁 して 紫衣を 賜い、 同 七
人。 後に 中天 竺惹 蘭陀 羅国密 林寺 に住 し、 次いで 太平 興国 五
『 宋 会 要 』 に よ る こ れ ま で の 法 賢 に 関 す る 記 述 を 纏 め る
と、 天息 災改 め法 賢 (?―一 〇〇 〇) は北天 竺迦 湿弥 羅国 の
七三
〈五 十嵐〉
作成 され た。 咸平 三年 八月に 亡く なり 慧辯の 諡号 を賜 る。
けら れる。 咸 平二 年に は法賢 の要 請に より 『継作 聖教 序』 が
法天 ・施 護と 共に 朝散大 夫、 試鴻 臚少 卿を加 えら れる。 雍 熙
二 日であ るこ とが わか る。
四年、 詔 を蒙 りて 法賢と 名を 改め、 朝 奉大夫、 試 光禄 卿を 授
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
ら れたの で 『継作 聖教 序』 と 呼ば れて おり、 この 項に 関連 し
な お、 こ の真 宗の 『聖教 序』 は太 宗の 『聖教 序』 に継 いで 作
三一 七九 頁)
先訓 を 祗 遹 し、 咸 平 二 年 七 月 壬 寅、 継 作 聖 教 序 之 に 賜
う。(『 合 璧 本 玉 海 』、 大 化 書 局、 一 九 七 七 年、 第 六 冊、
(中 華蔵 北京 版七 三、 四 六四 b)
す な わ ち 法 賢 等 が 太 宗 の『 聖 教 序 』 に 継 い で 真 宗 の『 聖 教
う
に在 りて は、 同じ く激 しく抃 つこ とを 増す。
咸 平三年 (一 〇〇 〇) 八月、 法賢 が亡 くな り慧辯 とい う諡
号を 賜っ た。
近 ご ろ 禫 服 已 に 除 き 方 始 め て 思 い を 構 す。 今 法 賢 等 に 継
235
するを乞うも、諒陰の内に屬するをもって、抽毫暇なし、
219
七四
〔
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈原 文〉
〕
〔
施 護、 十 五 依 帝 釈 宮 寺 僧 悲 賢、 学 五 天 真 草、 及 師 子、 于 闐、
〕
〈原 文〉
三 仏斉、 闍婆 文字、 累 加試鴻 臚卿、 朝 奉大 夫、 又 試光 禄卿。
〈解 説〉
す、 玄覚 と諡 す。
臚卿、 朝 奉大 夫に 累ねて、 光 禄卿 に転 ず。 咸 平四 年五 月に 卒
師 子国、 于闐 国、 三仏斉 国、 闍婆 国の 文字 を学ん だ。 訳経 の
本稿 の 〔 〕 に よれ ば施 護は 烏填 曩国の 人で、 一 五歳 の時
に 帝 釈 宮 寺 の 僧 悲 賢 に つ い て、 五 天 竺 ( イ ン ド ) の 文 字 と、
〈解 説〉
朝 奉大夫、 又 た試 光禄 卿を加 う。
師 子、 于 闐、 三 仏 斉、 闍 婆 の 文 字 を 学 び、 累 ね て 試 鴻 臚 卿、
施 護、 十 五に して 帝釈宮 寺僧 悲賢 に依 り、 五 天の 真草、 及 び
法 天 (? ―一 〇〇 一) は中天 竺摩 陀伽 国の 僧で名 前は 達理
摩犖 義多 であ った が、 後に法 天と 改名 した。 本稿 の 〔 〕 に
功 績によ り試 鴻臚 少卿、 朝散 大夫 から 試鴻 臚卿、 朝奉 大夫 へ
〈訓 読〉
よれ ば、 開宝 七年 に梵夾 を齎 て汴 京に 至り、 河中 府に て梵 学
〈訓 読〉
僧 法 進 と 共 に、『 大 乗 聖 無 量 寿 決 定 光 明 王 如 来 陀 羅 尼 経 』 と
う てん
と 昇進し、 さ らに 試光 禄卿と なっ た。
せいろん
鄜州 王亀 従を 通じ て太 宗に上 奏し たと ころ紫 衣を 賜っ た。 ま
『 最 勝 仏 頂 陀 羅 尼 経 』 と 『 七 仏 讃 唄 陀 伽 』 各 三 巻 を 訳 し、 知
ジャ ワ島 であ る。 三仏斉 国は スマ トラ 島の東 南岸 にあ たる 巴
〈五 十嵐〉
ぱ
〕 によれ ば太 平興 国七 年六 月に訳 経院 が成 ると、 天息
鄰 旁 (今 の南 スマ トラ 州の州 都) であ る。
〕
れんばん
〕によ
加え られ、 さ らに 試鴻 臚卿、 朝奉 大夫 へと昇 進し、 光 禄卿 に
〈五 十嵐〉
転じ た。 咸平 四年 五月に 亡く なり、 玄 覚と諡 号を 賜る。
〔
災、 施 護 と 共 に 入 院 し、 伝 教 大 師 の 号 を 賜 っ た。〔
206
れば 雍熙 二年、 天 息災、 法天 と共 に朝 散大夫、 試 鴻臚 少卿 を
204
214
た〔
崙島 の古称 であ り、 于 闐 国は 西域
獅子国はインドの南の錫
の ホ ー タ ン 地 方 に あ た り、 闍 婆 国 は イ ン ド ネ シ ア に 属 す る
法天、 初 め達 理摩 犖義多 と名 のり、 後 に今の 名に 改む。 試 鴻
転光 禄卿。 咸 平四 年五 月卒、 諡玄 覚。
220
法天、初名達理摩犖義多、後改今名。累試鴻臚卿、朝奉大夫、
221
222
207
〈原 文〉
経 と詔勅 を集 め目 録を 編纂し たと ころ、 皇 帝から 『大 中祥 符
に は御製 の序 を賜 るこ とにな った ので ある。 大中 祥符 六年 八
法 宝録』 とい う書 名を賜 るこ とに なっ た。 ついで 八月 二八 日
〈訓 読〉
月 朔日は 庚申 にあ たる ことか ら丁 亥は 二八 日とし た。
(称欠カ)
(大 中) 祥符 三年 九月、 天竺 僧覚 称、 讃 聖序 を献 ず。
祥符 三年 九月、 天 竺僧覚 献讃 聖序。
〈解 説〉
本項 と同 じ内 容の 記述が 〔 〕 にも見 られ、 さ らに 『仏 祖
統 紀』 巻 四四 にも 同じ記 事が 見ら れる。
4
〕 と 『玉
238
〕
4
『讃 聖 頌』 と な っ て い る。
〔
〈五 十嵐〉
海 』 巻 一 六 八(『 合 璧 本 玉 海 』、 同 上 ) で は、『 讃 聖 序 』 が
ド 僧覚称 が 『讃聖 序』 を皇帝 に献 上し た。 また 〔
本稿の〔 〕および『玉海』巻一六八により「覚」に「称」
を 補って 覚称 とし た。 大中祥 符三 年 (一〇 一〇) 九月、 イ ン
238
〈訓 読〉
〇 巻の序 文を 撰し たこ とで知 られ てお り、 また大 中祥 符四 年
億 は大中 祥符 元年 (一 〇〇八) に 完成 した 『景徳 伝灯 録』 三
を 完成し、 同 一〇 月に 真宗に 上進 され たも のであ る。 なお 楊
人 物 で あ る。 因 み に 楊 億 が 編 纂 に 関 わ っ た 『 大 中 祥 符 法 宝
に 『景徳 伝灯 録』 が入 蔵する こと に関 しても 深く かか わっ た
〈解 説〉
七五
録 』 巻 二 〇 に は、『 景 徳 伝 灯 録 』 入 蔵 に 関 す る 詳 細 な 記 述 が
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
大 中祥符 六年 (一 〇一 三) 八 月、 参知 政事 の趙安 仁ら が新
し賜 わる。
の制 詔を 纂集 す。 賜わり て祥 符法 宝録 と名づ く。 丁亥、 御 製
て、 大中 祥符 八年 (一 〇一五) に 七月 に本 録二一 巻総 録一 巻
僧 惟浄ら が大 中祥 符四 年 (一 〇一 一) 一一 月に編 纂に 着手 し
(大 正蔵 四九、 四 〇四c)
『大中祥符法宝録』二二巻は真宗の勅により、趙安仁、楊億、
蔵に 編入 せん こと を請う。 詔 を下 し褒 め許す。
梵 大 師 惟 浄 等 編 次 す。 又 た 両 朝 の 御 製 仏 乗 文 集 を 以 て 大
来 訳 成 り し 経 律 論 凡 そ 四 百 十 三 巻 な り。 秘 書 監 楊 億、 光
名 を 賜 う。 仍 お 御 製 の 序 を 賜 り て 云 く、 太 平 興 国 よ り 以
八月、兵部侍郎訳経潤文官趙安仁、詔を奉じて大蔵経を
編 修 す。 録 成 な り て 凡 べ て 二 十 一 巻、 大 中 祥 符 法 宝 録 の
239
( 大 中 祥 符 ) 六 年 八 月、 参 政 の 趙 安 仁 等、 新 経 並 び に 降 す 所
宝録。 丁 亥、 御製 賜。
六年 八月、 参 政趙 安仁等、 纂 集新 経並 所降制 詔。 賜名 祥符 法
〈原 文〉
223
ある。
〈訓 読〉
〈原 文〉
七六
『 景 徳 伝 灯 録 』 の 入 蔵 を め ぐ っ て は 椎 名 宏 雄「 宋 元 版 禅 籍
研 究( 八 )」(『 印 度 学 仏 教 学 研 究 』 三 五 ― 一 ) に 詳 し い 報 告
(大中祥符)八年閏六月甲辰、太宗御製の妙覚集五巻を出し、
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
があ る。
〈解 説〉
の 八部六 二巻 とそ の他、 散在 して いた 太宗 御製の 『別 種釈 門
な お 佐 藤 成 順『 宋 代 仏 教 史 の 研 究 』( 山 喜 房 仏 書 林、 二 〇
一 二年) は 『大中 祥符法 宝録』 巻 一八 には、 太宗 の御 製仏 書
この 項と 同じ 記事 が 『仏 祖統 紀』 巻四 四にも 見ら れる。
詔す、 太 宗御 製の 妙覚集 五巻 を以 て、 伝法院 に付 し大 蔵
に編 入せ しむ。 (大 正蔵 四九、 四〇 五b)
大中 祥符 八年 (一 〇一五) 閏 六月 二六 日に、 太宗 皇帝 が作
成 された 『妙 覚集』 五 巻が伝 法院 に付 せら れて入 蔵し た。
院 に付し て入 蔵せ しむ。
八 年閏六 月甲 辰、 出太 宗御製 妙覚 集五 巻、 付院入 蔵。
参 知 政 事 の 趙 安 仁( 九 五 八 ― 一 〇 一 八 ) に つ い て『 宋 史 』
巻二 八七 によ れば、 河 南省洛 陽の 人で、 字を 楽道 とい い、 能
書家 であ った。 雍 熙二年 (九 八五) 進 士に合 格し、 梓 州榷 塩
院判 官に 補さ れる。 景 徳元年 (一 〇〇 四) 工 部員 外郎、 翰 林
学士 に就 く。 景徳 三年 (一〇 〇六) 右 諌議 大夫・ 参知 政事 に
就く。 大 中祥 符元 年 (一 〇〇 八) には 天書が 降る 瑞祥 があ ら
われ たの で泰 山で 封禅 の儀式 が行 われ たが、 その 際、 王欽 若
八) 御史 中丞 とな るが、 五月 に急 な病 により 卒す。 朝 廷か ら
と並 んで 泰山 経制 度置 使を拝 命し てい る。 天 禧二 年 (一〇 一
吏部 尚書 が贈 られ、 諡 号とし て文 定を 賜った。
〈五 十嵐〉
第三巻
五言詩
第五巻 序二首
一九首
第四巻 七言詩 一六首
第一巻 歌行 一一首
古 調 詩 四 言 一 十 首、 三 言 一 首、 七 言 一 首、
第二巻 一言至十言一首
文 字』 を 真宗 朝に なって 編集 した 『妙 覚集』 五巻 があ り、 次
の ような 構成 とな って いる。
訳 経 に 貢 献 し た 一 〇 名 の 官 人 ( 宋 綬、 王 曙、 張 洎、 趙 安 仁、
なお夏竦が訳経事業に功績のあった先人の顕彰ために勅に
より、景祐二年(一〇三五)に著した「伝法院碑銘」の中で、
楊礪、 晁 逈、 李維、 朱 昻、 梁 周翰、 楊 億) の中に 趙安 仁も 名
〕
を連 ね、 儒教 とと もに仏 教に 通じ てい たこと を伝 えて いる。
〔
224
〕
な お、 本 項と 同じ 記述 が 〔
〔
〕 にも見 られ る。
240
〔
〕
後 又 有 法 護 者、 与 法 賢 同 国 人。 依 中 天 竺 摩 伽 陀 国 堅 固 鎧 宮
〈原 文〉
寺、 解八 転音。 年 二十五 至京 師、 賜方 袍。 景 德三 年、 詔参 証
梵 文、 号 伝梵 大師、 累 試光禄 卿。
後 に又た 法護 なる 者あ り、 法 賢と 同国 人な り。 中 天竺 摩伽 陀
〈訓 読〉
字を 修得 する。 太 平興国 五年 に天 息災 と共に 汴京 に至 る。 太
天竺 (イ ンド) の 文字、 及び 師子、 于 闐、 三 仏斉、 闍 婆の 文
〔 〕
〔 〕
〔 〕より、施 護(? ―一〇一八)
本 稿の〔 〕
は烏 填曩 国の 人。 一五歳 の時、 帝 釈宮 寺の僧 悲賢 につ いて 五
天 禧二年 (一 〇一 八) 一月に、 施 護が 亡く なり明 悟と いう
諡号 を賜 った。
〈解 説〉
国 の京師 に来 て袈 裟を 賜った。
転 声のこ とで あろ う) につい て学 び修 得し、 二五 歳の 時に 中
な どが格 の変 化に より 語尾が 八種 類に も変 化する 八転 音 (八
法護 は法 賢と 同国 (北天 竺迦 湿弥 羅国) の人 であ る。 中天
竺 摩伽陀 国堅 固鎧 宮寺 で、 サ ンス クリ ット 語の名 詞や 形容 詞
〈解 説〉
に 至り、 方袍 を賜 う。 景 德三 年、 詔す、 証梵 文に 参じ、 伝 梵
国 の堅固 鎧宮 寺に より、 八転 音を 解す。 年 二十五 にし て京 師
宗に拝謁して紫衣を賜い、同七年六月に訳経院が完成すると、
その 後、 景德 三年 (一〇 〇六) に 法護 を証梵 文に 参じ、 伝
梵 大師号 を下 賜し、 試 光禄卿 に昇 進さ せる 詔が出 され た。 た
214
221
七七
なお 法護 につ いて は 『大 中祥 符法 宝録』 巻一 五に 次の よう
な 記述が ある。
五 によれ ば、 景徳 四年 (一〇 〇七) 一 一月 となっ てい る。
大 師と号 せし め、 累ね て試光 禄卿 とな す。
天息 災、 法天 と共 に入院 し、 翻経 に従 事し、 顕教 大師 の号 を
だ 法 護 が 伝 梵 大 師 号 を 賜 っ た の は、『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 巻 一
207
り明 悟の 諡号 を賜 る。
206
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈五 十嵐〉
賜る。 雍 熙二 年に 天息災 と共 に朝 散大 夫、 試 鴻臚 少卿 を加 え
〈五 十嵐〉
226
られ、 さ らに 試光 禄卿へ と昇 進し た。 天禧二 年正 月に 亡く な
天禧 二年 正月 に卒 す、 明 悟と 諡す。
〈訓 読〉
天禧 二年 正月 卒、 諡明悟。
〈原 文〉
225
七八
典 及 び 諸 記 論 を 習 う。 後 に 中 天 竺 摩 伽 陀 国 堅 固 鎧 宮 寺 に
懐 き、 卓 然 と し て 群 せ ず。 未 だ 出 家 せ ざ る の 日、 四 圍 陀
姓 は 憍 尸 迦 植。 性 は 簡 易、 風 骨 は 俊 爽。 幼 き よ り 志 尚 を
羅 本 と 云 う。 北 天 竺 迦 湿 弥 羅 国 の 人、 婆 羅 門 の 族 な り。
竺の沙門法護と京の太平興国寺の沙門惟浄に詔して、
北天
同 訳 経 文 と な さ し む。 法 護 は 華 言 に て、 梵 に は 達 里 摩 波
号を 賜る。 嘉 祐三 年に亡 くな る、 年九 〇余。 演教 三蔵 の諡 号
に、 四年 には 試鴻 臚卿に 進む。 至 和元 年普明 慈覚 伝梵 大師 の
には 朝散 大夫、 試 鴻臚少 卿を 加え られ る。 天 禧二 年訳 経三 蔵
伝梵 大師 の号 を賜 り、 試 光禄 卿を 加え られる。 大 中祥 符八 年
じて 紫衣 を賜 う。 景徳三 年一 一月 に証 梵文、 四年 一一 月に は
の時 に法 門の 兄で ある覚 吉祥 智と 共に 京師に 至り、 梵 経を 献
利波 羅に つい て出 家し、 受具 し、 八転 声を修 得す る。 二五 歳
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
詣 き、 沙 門 蘇 誐 多 室 利 波 羅、 華 言 に、 善 逝 吉 祥 護 に 依 り
記論 を習 い、 後に 中天竺 摩伽 陀国 堅固 鎧宮寺 で沙 門蘇 誐多 室
出 家 す。 年 満 ち て 受 具 し、 沙 門 希 有 乗、 沙 門 妙 意 尊、 沙
〈五 十嵐〉
を賜 る。
門 布 施 鎧 に 依 り、 受 学 阿 闍 梨 と 為 る。 毗 尼 蔵 を 習 い、 深
閑 と し て 持 犯 す。 声 明 の 論 を 伝 え、 字 源 を 洞 究 し、 八 転
〕
〔
た
大 乗 の 経 論 を 伝 受 し、 筆 札 偈 句 に 以 至 り て は 尤 も 精 錬 す
〈原 文〉
い
の 音 に 通 じ、 三 乗 の 学 を 融 ず。 後 に 又 た 名 師 を 詢 訪 し、
る 所 な り。 年 二 十 五 に し て 法 門 の 兄、 覚 吉 祥 智 と 志 を 発
法 進 者、 学 梵 書、 達 梵 義、 博 究 教 典。 綴 文 婉 約、 得 古 経 格
人。 姓は 憍尸 迦、 婆羅 門族で ある。 幼 くし て四圍 陀典 及び 諸
は 梵語で は達 里摩 波羅 本、 天 息災 と同 じ北 天竺迦 湿弥 羅国 の
257
法 進は梵 書を 学び 梵語 の意義 の解 釈に 優れ ており、 教 典を
ひろ く究 めた。 法 進の訳 した 文章 は美 しく無 駄が なく、 し か
〈解 説〉
によ り定 む。
婉約 にし て、 古経 の格致 を得 たり。 今 の翻訳 の儀 範、 其の 著
(訳カ)
し、 侶 を 結 び て 京 師 に 来 詣 す。 冒 険 し 疲 を 忘 る こ と 数 年
た
致。 今翻 釈儀範 自其 著定 也。
い
し て 而 至 る。 梵 経 を 以 て 献 を 為 せ ば、 上、 召 見 し て 紫 衣
法進 は、 梵書 を学 び、 梵 義に 達し、 博 く教典 を究 む。 綴文 は
(中 華蔵 北京 版七 三、 四 九七 c)
〈訓 読〉
と 束 帛 を 賜 い、 皇 建 院 に 館 せ し む。 景 德 三 年 十 一 月、 詔
227
し て 証 梵 文 に 参 ぜ し む。 四 年 十 一 月、 賜 い て 伝 梵 大 師 と
号 せしむ。
法護については本稿の〔 〕と〔 〕にも記述が見られる。
以上のことから法護について纏めると、法護(?―一〇五八)
236
と あ り、『 聖 無 量 寿 』、『 尊 勝 』 の 二 経 と『 七 仏 讃 』 で あ る こ
慰労 して 紫衣 を賜 う。
進に よっ て定 まっ た。
し、 首 都 開 封 に 登 り、 皇 帝 の 優 遇 を 受 け、〔
も古 い経 典の おも むき も具え てい た。 現在の 翻訳 の基 本は 法
法 進につ いて は 『宋高 僧伝』 巻三 「唐 京師 満月伝」 の 末尾
に次 のよ うな 記述 があ る。
は、 梵学 僧と して 訳経 に従事 する こと にな ったの であ る。
〕でも述べら
と がわか る。 法進 は 『聖無量 寿』 等三 部の 経典を 皇帝 に上 進
我が皇帝、大宝に臨みて五載に迨ぶに、河中府に顕密の
教 を 伝 う る 沙 門 法 進 あ り、 西 域 三 蔵 法 天 に 請 い、 経 を 蒲
大 い に 悦 び、 各 お の に 紫 衣 を 賜 う。 因 て 勅 し て 訳 経 院 を
師 満月伝」 に よれ ば太 平興国 五年 とし、 両 書の間 には 六年 の
な お、〔 〕 で は『 聖 無 量 寿 』 等 の 訳 経、 上 表 の 年 次 を
「 開 宝 七 年 」 と す る が、 先 に 記 し た 『 宋 高 僧 伝 』 巻 三 「 唐 京
れているように訳経院が太平興国七年六月に完成した時に
太 平 興 国 寺 の 西 偏 に 造 ら し め、 続 き て 勅 し て 天 下 の 梵 夾
を搜購せしむ。梵僧法護、施護あり、同にその務に参ず。
( 一 二 頁 ) の 中 で、 大 塚 起 弘 「 七 寺 一 切 経 中 の 北 宋 新 訳 仏
相 違 が あ る。 こ の 点 に 関 し て 佐 藤 成 順 『 宋 代 仏 教 史 の 研 究 』
七九
〈五 十嵐〉
〕 の 記 述 は 誤 り で あ る と 述 べ て い る。 こ の 点 に
204
関 しては 今後 の検 討課 題であ る。
と 記 し、〔
む」 がほ ぼ正 しい ことが 明ら かに なっ た。
月」 に 鄜 州 (陝 西 省 中 部) の 龍 興 寺 で 訳 出 さ れ た こ と が
〕によれ
これにより太平興国寺に訳経院を建てることになったのであ
最 近 の 研 究 に よ っ て、 法 天 訳『 聖 無 量 寿( 王 経 )』 は、
河 中 府 開 元 寺 の 梵 学 沙 法 進 の 協 力 で、「 太 平 興 国 六 年 四
月) をも とに、
典」(『いとくら』五号、国際仏教学大学院、二〇〇九年一二
(大 正蔵 五〇、 七 二五a)
津 に お い て 訳 さ し む。 州 府 の 官 表 も て 進 る に、 上、 覧 て
206
判 明 し た。 こ れ に よ り 『宋 高 僧 伝』 の 「大 宝 の 五 載 に 臨
に 上進し たと ころ、 皇 帝が大 変悦 ばれ 紫衣 を賜わ った。 ま た
天 に要請 して、 経 典の 翻訳を 行い、 そ れを 州府の 役人 が皇 帝
太宗 の太 平興 国五 年 (九 八〇) に、 河 中府 (山西 省) に顕
教 と密教 に通 じた 法進 という 僧が いた。 法 進が西 域三 蔵の 法
204
る。
法進 が法 天に 協力 して訳 した 経典 は、 本稿 の 〔
ば、
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
七 仏 讃 を 表 上 す。 詔 し て 法 天 等 を 闕 に 赴 か し め、 召 見 し
開宝 七 年、 知 鄜 州 の 王 亀 従、 中 天 竺 摩 伽 陀 国 の 僧 法 天、
河 中 府 の 梵 学 僧 法 進 が 訳 す る 所 の 聖 無 量 寿、 尊 勝 二 経、
204
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
八〇
す ること を望 む」 とい う天息 災か らの 進言 があっ たた め、 こ
〕
四 年、 上 海 古 籍 出 版 社 ) は、「 放 」 を「 訪 」 の 誤 り で は な い
〔
か と 指 摘 し て い る。 こ こ で は 原 典 を 尊 重 し、「 放 」 に よ っ て
れ を 採 用 し た。「 購 放 」 に つ い て、『 宋 会 要 輯 稿・ 蕃 夷 道 釈 』
自是 梵僧 至者、 悉 召見、 賜以 紫服、 束 帛。 華 僧自 西域 還者 亦
解 釈した。 な お 「購訪」 だと 「買 い求 める」 とい う意 味に な
(二〇一〇年、四川大学出版社)及び『宋会要輯稿』(二〇一
如之。 又 自天 息災 言、 聞 陝西 諸州 頗有 僧俗収 蔵梵 夾、 望降 詔
る だろう か。
其 年、 詔、 応 西 天 僧 有 精 通 梵 語 可 助 翻 演 者、 悉 館 於 伝 法 院。
購放、 以 資翻 訳。 従之。
院 に 館 せ し め よ 」(『 合 璧 本 玉 海 』、 同 上 ) を 参 考 に し て、 雍
其の 年、 詔す、 応 に西天 僧の、 梵 語に 精通し て翻 演を 助く る
べき 者有 らば、 悉 く伝法 院に 館せ しめ よと。 是れ より 梵僧 の
〈訓 読〉
至 る 者 あ ら ば、 悉 く 召 見 し、 賜 う る に 紫 服、 束 帛 を 以 て す。
〔
〈角 田〉
之に 従う。
〈原 文〉
熙 二年と 考え る。
聞く に陝 西諸 州に 頗る 僧俗の 梵夾 を収 蔵する もの 有り、 望 む
〈解 説〉
献 新経者、 僧 司集 義学 僧詳定 入蔵。
〕
雍熙二年(九八五)、「西天の僧で梵語に精通し、翻訳の助
けに なる 僧が いた 場合、 全て 伝法 院に 住まわ せよ」 と いう 詔
是 の年、 義学 沙門 知則、 新訳 無量 寿経 疏を 上れば、 号 演教 大
〈訓 読〉
ら く は 詔 を 降 し て 購 放 し、 以 て 翻 訳 に 資 せ ん と 言 う に よ り、
が あ っ た。 こ れ よ り、 印 度 か ら 来 た 僧 は 全 て 召 見 さ れ、 紫
てき た者 もこ れと 同じ 扱いを した。
〈解 説〉
師 を賜う。 其 の後、 新 経を献 ずる 者あ らば、 僧司、 義 学僧 を
集 めて詳 定し て入 蔵せ しむ。
さ らに 「陝西 の諸 州に は多く の梵 語の 経典 を収蔵 して いる
僧俗 がい るた め、 詔を降 して これ を買 い与え、 翻 訳の 助け に
是 年、 義 学沙 門知 則上 新訳無 量寿 経疏、 賜 号演教 大師。 其 後
服・ 絹の 束が 与え られ た。 ま た、 中国 人の僧 で西 域か ら帰 っ
229
華 僧 の 西 域 よ り 還 る 者 あ ら ば 亦 た 之 の 如 し。 又 た 天 息 災 の、
なおここで言う「其の年」とは、『玉海』巻一六八の「(雍
熙) 二年、 詔 す、 四天 竺僧の 梵語 に精 通す る者あ らば、 悉 く
〈原 文〉
228
前 項 と 同 じ 雍 熙 二 年( 九 八 五 )、 義 学 沙 門 の 知 則 は『 新 訳
無 量 寿 経 疏 』 を 上 進 し、 演 教 大 師 の 号 を 賜 っ た。 こ れ よ り
に刻 んで 御書 院に 置くこ と。
典の 一つ 一つ の冒 頭に聖 教序 を載 せる こと。 その 聖教 序を 石
て訳 僧に 下賜 し、 次の命 令を 下し た。 一つは 新た に訳 した 経
後、 新た に経 が献 じる 者がい たら、 僧 司は 義学僧 を集 めて 具
『続資治通鑑長編』巻二七(中
聖教序を賜った歳について、
華書 局本、 第 三冊、 六二 四頁) に よる と、 そ の歳 は雍 熙三 年
『仏祖統紀』巻四三も雍熙三年(九八六)とする。『隆興編年
( 九 八 六 ) で あ る こ と が わ か る。 な お 『 玉 海 』 巻 一 六 八 及 び
さに 話し 合っ て入 蔵さ せるこ とと なっ た。
知 則が演 教大 師の 号を 賜った 記事 は 『仏祖 統紀』 巻四 三に
も見 られ るが、 内 容はこ れと 同一 であ る。
通論』 は 太平 興国 三年 (九七 八) とす るが、 ここ では 『隆 興
〈角 田〉
〕 参照。
ま た『 新 訳 無 量 寿 経 疏 』 は、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三 に は『 聖
無 量 寿 経 疏 』 と あ る。 さ ら に 『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 巻 六 に は、
〕
編年通論』を誤りとして、雍熙三年とする。〔
〔
知則 が 『大乗 聖無 量寿決 定光 明王 如来 陀羅尼 経』 を含 む二 経
〈角 田〉
一讃 につ いて、 綴 文に関 わっ たこ とが 記され てい る。
進 上。
天 竺来、 及中 国僧 遊天 竺還者、 所 齎梵 経並 先具奏 聞、 仍封 題
淳 化四年 五月、 詔、 西 面縁辺 及黎、 階、 秦、 広州、 応 梵僧 自
十 月、 帝 作新 訳三 蔵聖 教序、 賜訳 僧。 仍令、 応新 訳経、 逐 部
て、 応に 梵僧 の天 竺よ り来、 及び 中国 僧の 天竺に 遊び て還 る
之 首、 皆 載之。 又 令刊 石御書 院。
者 あらば、 齎 す所 の梵 経は並 て先 に具 さに 奏聞し、 仍 りて 封
淳 化 四 年 五 月、 詔 す、 西 面 の 縁 辺 及 び 黎、 階、 秦、 広 州 に
す、 応に 新訳 の経 の部 ごとの 首に 皆な 之を 載すべ し。 又た 石
題 して進 上す べし。
〈訓 読〉
に 刊み御 書院 にお かし む。
〈訓 読〉
〈解 説〉
八一
〈解 説〉
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
雍熙 三年 (九 八六) 一〇 月、 太宗 は新 訳三蔵 聖教 序を 作っ
十 月、 帝、 新 訳 三 蔵 聖 教 序 を 作 り、 訳 僧 に 賜 う。 仍 り て 令
〈原 文〉
〕
216
〔
231
〈原 文〉
230
八二
印 次 第。 前 後 六 十 五 処 文 義 不 正、 互 相 乖 戻、 非 是 梵 文 正 本。
経、 且非 大乗 秘蔵 経也。 其経 中文 義無 請問人 及聴 法徒 衆非 法
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
淳 化四年 (九 九三) 五 月の詔 勅。 国境 の西 側、 黎 州 (雲南
省 )、 階 州( 甘 粛 省 )、 秦 州( 甘 粛 省 )、 広 州( 広 東 省 ) の 各
帝 召 見 法 賢 等 及 吉 祥、 諭 之 曰、 使 邪 偽 得 行、 非 所 以 崇 正 法
賢 等 言、 吉 祥 所 献 経 是 于 闐 書 体、 経 題 是 大 乗 方 便 門 三 摩 題
所に おい て、 印度 から 来た僧 及び 中国 の僧で 印度 から 帰っ て
也。 宜令 両街 集義 学沙門、 将 吉祥 所献 経、 捜 検前 後経 本、 対
衆焚 棄。 従之。
きた 僧が もた らし た梵 語の経 典は、 全 て奏 上した 上で、 封 緘
〈角 田〉
し表 書を 書い て進 上せ よとい うも の。
是の 年、 于闐 の僧 吉祥、 大乗 秘蔵 経二 巻を献 じ、 法賢 等に 詔
〈訓 読〉
して 其の 真偽 を定 めしむ。 法 賢等 言く、 吉祥 の献 ずる 所の 経
〕
は 是 れ 于 闐 の 書 体 に し て、 経 題 は 是 れ 大 乗 方 便 門 三 摩 題 経、
〔
五 年、 詔、 所 訳経 写二 本、 一 編入 大蔵、 一 蔵本院。
〈原 文〉
の文 義正 しか らず、 互い に相 い乖 戻す れば、 是れ 梵文 の正 本
且つ 大乗 秘蔵 経に は非ざ るな り。 其の 経中の 文義、 請 問の 人
に 非 ず と。 帝、 法 賢 等 及 び 吉 祥 を 召 見 し、 之 を 諭 し て 曰 く、
及び 聴法 の徒 衆無 ければ、 法 印の 次第 に非ず。 前 後六 十五 処
一 は本院 に蔵 せし めよ。
邪偽をして行い得せしめば、正法を崇うる所以に非ざるなり。
五年、詔す、訳する所の経は二本を写し、一は大蔵に編入し、
〈解 説〉
経を将て、前後の経本を捜検し、衆に対して焚棄せしめよと。
〈解 説〉
之に 従う。
宜し く両 街に 令し て義学 沙門 を集 めし め、 吉 祥の 献ず る所 の
淳化 五年 (九 九四) の詔 勅。 翻訳 した 経典 につい ては 二部
ず つ書写 し、 一つ は大 蔵経に 入蔵 し、 一つ は伝法 院に 収め さ
〈角 田〉
前 項と同 じく 淳化 五年、 于闐 の僧 吉祥 が 『大乗秘 蔵経』 二
巻を 献じ た。 これ に対し、 太 宗は 法賢 等に命 じて 其の 真偽 を
〈原 文〉
確か めさ せた。 法 賢は 「吉祥 の献 じた 経典は 于闐 の書 体で あ
〕
是 年、 于 闐僧 吉祥 献大 乗秘蔵 経二 巻、 詔法 賢等定 其真 偽。 法
〔
せ るもの であ る。
〈訓 読〉
232
233
り、 経 題 は『 大 乗 方 便 門 三 摩 題 経 』 と い う も の で、『 大 乗 秘
至道元年、沙州の曹延禄、新訳の経を賜うを乞い、之に給う。
〈訓 読〉
至道 元年、 沙 州曹 延禄乞 賜新 訳経、 給 之。
〈解 説〉
蔵経』 で はな かっ た。 そ の経 中の 文体 は、 釈 尊に 質問 した 人
はな いた め、 この 経は 正しい 仏法 の経 ではな い。 前後 六五 カ
及びその釈尊の説法を聞いた人がいるという決まった文体で
所の文義が正しくなく、相互に矛盾を生じるものであるため、
至 道 元 年( 九 九 五 )、 沙 州 の 曹 延 禄 は 新 訳 の 経 典 を 下 賜 す
るよ うに お願 いし、 太宗 はこ れに 下さ れた。
使 う と い う こ と は、 正 し い 仏 法 を 崇 え る こ と で は な く な る。
節度 使と して 支配 する地 域に 分か れ、 曹氏は 瓜州 ・沙 州 (現
時、 曹氏 が帰 義軍 節度使 とし て支 配す る地域 と李 氏が 定難 軍
沙 州は現 在の 甘粛 省敦 煌県の 周辺。 曹 延禄 は帰義 軍節 度使
とし て宋 朝に 朝貢 した。 河西 回廊 (現 在の甘 粛省 周辺) は 当
こ れ は 梵 文 の 正 し い 写 本 で は な い。」 と 言 っ た。 太 宗 は 法 賢
両街 (僧 録司) に 命じて 義学 沙門 を集 め、 吉 祥の 献じ た経 を
等 と 吉 祥 を 呼 び 出 し、 彼 ら を 諭 し て 言 っ た。「 偽 り の 経 典 を
手が かり に前 後の 経本 を探し 出し、 大 衆の 面前で 全て 焚棄 さ
在の 敦煌 周辺) を 中心と した 地域 を支 配して いた。
〈角 田〉
せよ。」この通りに実行された。
〕
〔
こ れ と 同 じ 記 事 が『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 三 及 び『 補 続 高 僧 伝 』
巻一 にも ある が、 この中 の一 部は 経典 を 『大 乗祝 蔵経』 と し
ている違いがある。なお、
『仏祖統紀』については明版は「祝
真 宗咸平 二年、 真 宗以 継作聖 教序 賜伝 法院。 帝曰、 法 賢多 上
〈原 文〉
〈角 田〉
置。 又有 僧可 升、 献注 解序、 対便 殿、 賜束 帛。
聖 教 序 対。 三 年 九 月 始 得 請、 備 威 儀 迎 導 以 帰、 令 於 便 殿 安
思、 乞時 賜也。 初 刻石 御書院、 法 賢等 累表 求降付 院、 与太 宗
表 章、 乞 製序 引、 属諒 陰之内、 不 欲措 意。 禫服已 除、 近方 搆
蔵経」 と し、 続蔵 版で は 「秘 蔵経」 と して いると いっ た違 い
〈訓 読〉
八三
〔
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
真 宗咸平 二年、 真 宗、 継作聖 教序 を以 て伝 法院に 賜う。 帝 曰
〕
書 物を焚 棄す ると いう 行為は、 偽 経に 対す る太宗 の厳 しい
措置 と言 うこ とが でき よう。
があ る。
235
〈原 文〉
234
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
を 迎 え、 便 殿 ( こ こ で は 伝 法 院 に あ る 行 宮 ) に 安 置 さ せ た。
願 い出た ため、 咸 平三 年九月、 威 儀を とと のえて 継作 聖教 序
上 奏文を 奉っ て伝 法院 に下し、 太 宗の 聖教 序と対 する こと を
初 めは聖 教序 が石 に刻 まれて 御書 院に おか れたが、 法 賢等 は
め、 時 間 を も ら っ て、 撰 文 す る こ と に し よ う。」 と 言 っ た。
脱 い で( 喪 は 已 に 明 け て )、 最 近 は 撰 文 し て も 良 い と 思 う た
の 喪に服 して いた ため、 その 気が 起き なか った。 喪服 も已 に
し ば文章 を上 奏し、 序 引を製 るこ とを 願い 出てき たが、 先 帝
真宗 の咸 平二 年 (九九九) の こと。 真 宗は前 皇帝 の太 宗に
継 いで聖 教序 を作 り、 伝法院 に下 した。 真 宗は 「法賢 はし ば
〈解 説〉
解 序を献 じて 便殿 に対 し、 束 帛を 賜う。
て 以て帰 し、 令し て便 殿に安 置せ しむ。 又 た僧可 升有 り、 注
と 対する を求 む。 三年 九月始 めて 請を 得、 威儀を 備え 迎導 し
か しむる も、 法賢 等、 表を累 ねて 院に 降付 し、 太 宗の 聖教 序
を 搆じ、 時を 乞う て賜 うなり と。 初め て石に 刻み 御書 院に お
内 に属し、 措 意を 欲せ ず。 禫 服已 に除 き、 近ごろ 方め て思 い
く、 法賢、 多 ば表 章を 上り、 序 引を製 する を乞 うも、 諒陰 の
宗の 聖教 序と 対に なるよ うに 御書 院に 置かれ た。
らも 先帝 にな らっ て聖教 序を 著し、 こ れが石 に刻 まれ て、 太
照) 真宗 はこ れに 継ぐも のと して、 法 賢らの 上奏 を受 け、 自
で に 石 に 刻 ま れ て 御 書 院 に 置 か れ て い た。( 前 項〔
述に より 『継 作聖 教序』 とす る。 太宗 が著し た聖 教序 は、 す
教序』 を 作る」 と してい るが、 こ こで は 『高 麗大 蔵経』 の 記
一四 年、 上海 古籍 出版社) は 『継 作聖 教序』 を 「継い で 『聖
で 同 様 の 序 文 が 記 載 さ れ て い る。 な お『 宋 会 要 輯 稿 』( 二 〇
三巻 所収 『御 製大 蔵経序 跋集』 に は 『述聖教 序』 とい う題 名
ここに言う『継作聖教序』とは真宗が著した聖教序であり、
『 高 麗 大 蔵 経 』 所 収『 大 乗 中 観 釈 論 』 巻 一 〇 に は そ の 全 文 が
伝法 院に 下し たの である。
平二年になり、真宗は先帝太宗の遺志を継いで聖教序を作り、
さな かっ たの は喪 に服し てい たた めで ある。 禫も 終わ った 咸
が聖 教序 を度 々乞 うてい たに もか かわ らず、 真宗 が序 引を 下
母・ 夫ま たは 長子 のため に行 う、 除服 の祭り であ る。 法賢 ら
五 ヶ 月 の 喪 を 終 え て 後、 一 ヶ 月 を 隔 て た 二 七 ヶ 月 目 に、 父
八四
さ らに僧 可升 は注 解序 を献じ て便 殿に 置い たため、 絹 の束 を
な お 『仏 祖統 紀』 巻四 四には 「咸 平元 年、 三蔵聖 教序 を御
製さ れ、 明教 大師 法賢等 に賜 い、 先帝 の聖教 序の 後に 置か し
しばし
下 した。
元年 と、 記述 に異 同があ る。 この 記事 につい ては 〔
〕参
載っている。また、『大正新脩大蔵経』「昭和法宝総目録」第
太宗 は至 道三 年 (九九七) 三 月に 崩御 し、 真 宗が 三代 皇帝
と して即 位し た。 咸平 二年は その 翌々 年にあ たる。 禫 とは 二
〕も参
む。 沙 門 可 升、 序 を 注 し て 進 上 す。」 と あ り、 そ の 年 が 咸 平
216
218
照さ れた い。
させ た。 法護 は姓 は憍尸 迦氏 でバ ラモ ンの出 身で あり、 中 国
あっ た国 で、 古よ り中 国に通 じな かっ たが、 宋代 に入 って 朝
貢し てき た国 であ る) より経 典が 貢が れたた め、 これ を翻 訳
僧 可升に つい ては、 注 解序を 著し た以 外は 未詳で ある。
〈角 田〉
〈原 文〉
〔
法 護に関 する 記述 は 〔 〕 にある ため、 詳 細は そちら を参
照さ れた い。 本項 によ ると、 法護 の生 没年は、 九 六〇 年頃 ―
た。
〇五 八) に亡 くな り、 諡 は演 教大 師、 世寿は 約九 〇才 であ っ
に来 て累 ねて 普明 慈覚 伝梵大 師の 号を 賜った。 嘉 祐三 年 (一
景 徳元年、 天 竺訳 経三 蔵法護 入貢 梵経。 真 宗召見 便殿、 恩 賜
一 〇 五 八。〔
甚 厚、 館 於訳 経院。 天 聖末、 注輦 国貢 金葉文 竺字、 詔 令翻 訳
(その年は本項から逆算すると、九九〇頃となり)、本項の景
〕
之。 法 護 姓 憍 尸 迦 氏、 婆 羅 門 之 族、 累 号 普 明 慈 覚 伝 梵 大 師。
(天カ)
嘉 祐三年 卒。 諡曰 演教 大師。 蓋寿 九十 余。
徳元 年と 若干 の差 異が ある。
景 徳元年、 天 竺の 訳経 三蔵法 護、 梵経 を入 貢す。 真宗、 便 殿
〕
〈角 田〉
〕 に よ る と、 二 五 才 で 京 師 に 来 た と あ る た め
〔
二 年九月、 車 駕も て伝 法院に 幸す。
〈訓 読〉
八五
〈程〉
本項 は景 徳二 年 (一〇〇 五) 九月 に、 真宗が 伝法 院を 訪れ
た 記録で ある。
〈解 説〉
九十 余な り。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
の 末、 注 輦 国 ( 注 輦 国 と は イ ン ド 東 岸 コ ロ マ ン デ ル 海 岸 に
を 下 し、 訳 経 院 に 住 ま わ せ た。 天 聖 ( 一 〇 二 三 ― 一 〇 三 二 )
法 護 に 関 す る 伝 記。 景 徳 元 年( 一 〇 〇 四 )、 印 度 よ り 梵 経
をも たら した。 真 宗は便 殿 (応対 所) にて召 見し、 厚 く恩 賜
〈解 説〉
かさ
聖 の末、 注輦 国、 金葉天 竺字 を貢 げば、 詔し て之 を翻 訳せ し
二 年九月、 車 駕幸 伝法 院。
〈原 文〉
に て召見 し、 恩賜 する こと甚 だ厚 く、 訳経 院に館 せし む。 天
226
大師 と号 す。 嘉祐 三年卒 す。 諡は 演教 大師と 曰う。 蓋 し寿 は
226
む。 法護、 姓 は憍 尸迦 氏、 婆 羅門 の族、 累 ねて 普明 慈覚 伝梵
237
〈訓 読〉
236
八六
剛座 に金 襴の 袈裟 を置か せる 詔勅 が出 された ので ある が、 そ
覚 称 に つ い て は、 す で に 〔 〕 に お い て 紹 介 さ れ て い る。
帰国 しよ うと した 覚称に は、 仏陀 の成 道の地 に設 けら れた 金
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈原 文〉
の 理 由 を 探 る に 当 た っ て、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 四 に あ る 次 の 記
れた こと から、 真 宗はさ らに 彼を 称え たとい うも ので ある。
大中 祥符 三年 九月、 中 天竺僧 覚称 献讃 聖頌、 令惟 浄訳 之。 覚
〕
称請 還、 詔造 金襴 袈裟、 置本 国金 剛坐、 及賜 装銭 茶薬、 覚 称
述が ヒン トと なろ う。
〔
復作 頌為 謝。 帝嘉 之。
詔 し て 金 襴 の 袈 裟 を 造 り、 本 国 の 金 剛 坐 に 置 か し め ん と す。
献 ず れ ば、 惟 浄 を し て 之 を 訳 せ し む。 覚 称 は 還 る を 請 う に、
は、詔して金襴袈裟を賜いて金剛座に奉安せしめんとす。
詔 し て 惟 浄 を し て 之 を 訳 せ し む。( 中 略 ) 還 る に 及 び て
真容 菩
・ 提 樹 葉 を 進 る。 便 殿 に て 召 見 し尉 労 す る こ と 甚
だ 厚 く、 訳 経 院 に 館 せ し む。 称、『 讃 聖 頌 』 を 進 れ ば、
金
・ 剛座
・夾
中天竺沙門覚(称法)戒、来朝し、舍利 (慰梵
カ)
及 び 装・ 銭・ 茶・ 薬 を 賜 う。 覚 称 は 復 た 頌 を 作 り て 謝 と 為
よみ
こ れによ れば、 覚 称が 来朝の 際、 仏舍 利、 貝葉経、 金 剛座
の絵画、菩提樹の葉をお土産に上進したという。そうすると、
金剛座に袈裟を置かせるのもその返礼であると推定できよう。
ち な み に、 覚 称 が 来 朝 の 際 に、「 舍 利・ 梵 経・ 金 剛 座 真 容 」
本項 は真 宗皇 帝が 『讃聖 頌』 を献 上し た天竺 僧の 覚称 との
や り取り を記 録し たも のであ る。
を上進したとする記述は、『仏祖統紀』巻五二にもみられる。
か せ よ と す る 詔 を 出 し、 ま た 衣 服 ・ 銭 ・ お 茶・ 薬 な ど を 賜
に、『大中祥符法宝録』巻一六では、
ま た、『 讃 聖 頌 』 に つ い て は、 そ の も の は 未 詳 で あ る が、
上 記の 『仏祖 統紀』 巻 四四の 記述 でも 言及さ れて おり、 さ ら
○中 天竺 沙門 覚称 法戒来。 進 舍利 梵経 金剛座 真容。
(大 正蔵 四九、 四 五七b)
わ った。 これ に対 して 覚称は かさ ねて 頌を 作って 礼を 述べ ら
が成道の地の菩提樹の下に設けられている金剛坐にそれを置
出 たとこ ろ、 真宗 は金 襴袈裟 を造 らせ、 彼 に本国 にあ る釈 尊
翻 訳させ た。 さら に、 覚称が 天竺 に帰 国し ようと 真宗 に申 し
すな わち、 大 中祥 符三年 九月 に、 来朝 した 中天竺 の僧 であ
る 覚称が 『讃 聖頌』 を 献上し たと ころ、 真 宗は惟 浄に これ を
〈解 説〉
及 び装・ 銭・ 茶・ 果を 賜う。 (
大 正蔵 四九、 四〇 四b)
222
す。 帝、 之れ を嘉 す。
大中 祥符 三年 (一 〇一 〇) 九 月、 中天 竺の僧 覚称、 讃 聖頌 を
〈訓 読〉
238
らい
し、 金帛 を加 う。 秘書監 の楊 億は 常に 編修に 預か り、 亦た 賚
を加 う。
〈解 説〉
〈原 文〉
〔
が 下 賜 さ れ た。『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 は 凡 そ 二 一 巻 で、 惟 浄 が
れ に 応 ず る か た ち で、『 大 中 祥 符 法 宝 録 』 の 題 名 と 御 製 序 文
ら、 その 題名 と御 製序 文の下 賜を 賜わ りたい と上 奏し た。 こ
ま ず六年 (一 〇一 三) 八月に、 訳 経使 兼潤 文官で 兵部 侍郎
の 趙 安 仁 は、 下 さ れ た 詔 勅 の 通 り 大 蔵 経 を 編 集 し た こ と か
本 項は 『大中 祥符 法宝 録』 の 題名 の由 来と、 これ を編 集す
るに 際し て活 躍し た訳 経チー ムを 説明 したも ので ある。
六 年八月、 訳 経潤 文兵 部侍郎 趙安 仁言、 準 詔編修 蔵経、 表 乞
そ の 編 集、 翻 訳 の 総 責 任 者 で、 証 義 を 担 当 す る 啓 沖、 修 静、
〈程〉
是の年十月、中天竺の沙門覚称、来朝し『讃聖徳頌』を
作し て以 て献 ず。 (中 華蔵 北京 版七 三、 五 〇二 c)
と あるこ とか らす れば、 頌の 名称 に相 異が あるも のの、 献 上
さ れたこ とは 事実 であ ると考 えら れる。
賜 名題製 序。 詔以 大中 祥符法 宝録 為名、 御 製序給 之。 録凡 二
証殊、 文 一、 重珣、 簡 長らが 同時 に編 集作 業にも 携わ り、 内
十 一巻、 惟浄 写訳、 証義 啓沖、 修 静、 証殊、 文一、 重 珣、 簡
〕
長 同編次、 内 侍李 知和 勾当。 安仁 又請 以太 宗及皇 帝聖 製編 次
六 年八月、 訳 経潤 文兵 部侍郎 趙安 仁言 く、 詔に準 りて 蔵経 を
〈訓 読〉
美を 賜っ たの であ る。
た。 さら に常 に編 集業 務に携 わっ てい た秘書 監の 楊億 にも 褒
い出 た。 これ が完 成した ので 褒賞 する 詔と金、 絹 が与 えら れ
(飭カ)
編 修 す。 表 も て 名 題 を 賜 わ り 序 を 製 ら ん こ と を 乞 う。 詔 し
訳 経潤文 兵部 侍郎 趙安 仁とは、 訳 経使 と潤 文官を 兼ね た兵
部侍 郎の 趙安 仁の こと である。 訳 経使 と潤文 官の 兼務 に関 し
とな る釈 教の 文集 を 『東土聖 賢集』 と して 編集す るこ とを 願
侍の 李知 和が 勾当 を務 めた。 趙安 仁は また 太宗、 真宗 の御 製
(加カ)
て、 大中 祥符 法宝 録を 以て名 と為 さし め、 序を御 製し て之 れ
ては、〔
亦如 賚焉。
に 給う。 録は 凡そ 二十 一巻に して、 惟 浄、 写訳す。 証 義の 啓
紹介されており、それぞれの項目の解説内容を参照されたい。
〕ですでに
沖、 修静、 証 殊、 文一、 重珣、 簡 長は 同じ く編次 にし て、 内
223
〕で言及されて
〕で論じられ、趙安仁については、〔
侍 の李知 和は 勾当 なり。 安仁 は又 た太 宗及 び皇帝 の聖 製を 以
ほうちょく
また、『大中祥符法宝録』についても、〔
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
て 東土聖 賢集 を編 次す るを請 う。 既に 成る に、 詔 を賜 い褒 飭
のっと
東土聖賢集、既成、賜詔褒飾、加金帛、秘書監楊億常預編修、
239
八七
223
245
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
おり、 そ れら に譲 りたい。
一 方、 証 義 と 編 次 に 任 じ ら れ た 啓 沖、 修 静、 証 殊、 文 一、
重珣、 簡 長ら の六 人につ いて は、 証殊 を除け ば、 下記 の 『景
祐新 修法 宝録』 三 箇所の 記述 をみ る限 り、 い ずれ も法 護、 惟
八八
潤 文。 入 内 内 侍 省 内 侍 殿 頭 李 知 和 監 訳。 是 月 四 日、 監
訳中 使引 三蔵 等詣 崇政 殿、 捧 所訳 経、 具表上 進。
(
『景祐新修法宝録』巻四、中華蔵北京版七三、五三四
a ―b)
定、 智 遠、 重 杲、 義 賢、 令 操、 善 慈、 紹 才 証 義。 訳 経
③ 『仏説 八種 長養 功德 経』 一 部一 巻 (中略)
右三蔵沙門法護、惟浄訳。沙門澄珠、文一筆受。沙門
簡 長、 行 肇 綴 文。 沙 門 啓 沖、 道 一、 智 臻、 德 雄、 禅
浄を 中心 とし た伝 法院 の訳経 現場 で活 躍し た人物 で、 いわ ゆ
し仮に証殊を下記の引用文に登場する澄珠の誤写と解釈すれ
使 守 司 空 兼 門 下 侍 郎 太 子 少 師 平 章 事 丁 謂、 翰 林 学 士 刑
る訳 経チ ーム の重 要な 構成員 であ ると 考え られる。 し かも も
ば、 この 人も また 他の 五名と 同様 に訳 経現 場で活 躍し た人 物
と解 しう るの であ る。
潤 文。 入 内 内 侍 省 内 侍 殿 頭 李 希 及 楊 懐 愍 監 訳。 其 経 四
月八 日、 附監 訳中 使齎詣 闕庭、 具 表上 進。
部 侍 郎 知 制 誥 晁 迥、 翰 林 学 士 承 旨 尚 書 左 丞 知 制 誥 李 維
①『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧大教王経』一部三
十巻
そし て、 修静 が右 街講経 首座 に、 重珣 が左街 鑑義 にそ れぞ
れ 任ぜら れて 左右 街の 教団の 事務 を管 轄し ていた こと や、 そ
(
『景
祐新修法宝録』巻六、中華蔵北京版七三、五四〇
b ―c)
れ と同時 に啓 沖が 右街 鑑義に 任命 され てい たこと など は、 次
智 臻、 簡 長、 行 肇、 德 雄、 自 初 証 義。 兵 部 侍 郎 趙 安 仁
右三蔵沙門施護訳。法護、惟浄同訳。沙門澄珠、文一
筆 受。 沙 門 脩 静、 啓 沖 綴 文。 沙 門 道 一、 紹 溥、 重 珣、
十 三 日、 与 『 福 力 太 子 因 縁 経 』 四 巻 同 進。 事 迹 如 右。
潤 文。 入 内 内 侍 省 内 侍 殿 頭 李 知 和 監 訳。 是 年 十 一 月 二
(『景祐新修法宝録』巻二、中華蔵北京版七三、五三二
の 記述に よっ て知 られ るので ある。
掌 沙 門 の 志 拱、 志 江 に 紫 衣 を 賜 い、 童 行 十 一 人 を 度 し て
ち て 知 す。 啓 沖 を 右 街 鑑 義 と 為 す。 証 義 沙 門 の 自 初、 職
詔す、 証 義沙 門の 修 静を 以て右 街講 経首 座と 為し、 重 珣
を 以 て 左 街 鑑 義 と 為 し、 西 京 の 左 右 街 の 教 門 の 事 を 分 か
b)
② 『仏説 頂生 王因 縁経』 一部 六巻
右三蔵沙門施護訳。法護、惟浄同訳。沙門澄珠、文一
筆 受。 沙 門 啓 沖 綴 文。 沙 門 道 一、 紹 溥、 智 臻、 簡 長、
行 肇、 德 雄、 自 初、 智 遠、 重 杲 証 義。 尚 書 右 丞 趙 安 仁
別人 であ ると 考え られる。 む しろ、 先 ほど引 用し た 『景祐 新
う肩 書き を持 ち、 監訳に 任じ られ た李 知和と 同一 人物 であ る
僧と 為す。
(
『景
祐新修法宝録』巻一六、中華蔵北京版七三、五七二
b― c)
は、 北宋 の各 部署 に 「勾 当」 とい うキ ーワー ドを 持つ 役職 名
修 法 宝 録 』 の ②、 ③ に 登 場 し、「 入 内 内 侍 省 内 侍 殿 頭 」 と い
また、 簡 長が 智印 大師の 号を 下賜 され たこと も知 られ てい
る。
のか を断 じが たい が、 お そら く訳 経業 務を監 督し、 事 務的 に
が数 多く あり、 こ こでい うの が具 体的 にいず れに 該当 する も
と み る べ き で あ ろ う。 ま た、「 勾 当 」 と い う 肩 書 き に つ い て
証義沙門の簡長に智印大師と号するを賜う。行肇及び講
論 沙 門 の 文 泰 に 紫 衣 を 賜 い、 童 行 十 一 人 を 度 し て 僧 と 為
補佐 する 役職 であ ろうと 推定 して おい た。 ち なみ に 「内侍 殿
頭」 は、 内侍 省に 隷属す る正 九品 の宦 官の職 名で、 太 宗の 頃
に殿 頭高 品と して 設置さ れ、 真宗 の景 徳三年 に内 侍省 殿頭 高
す。
(
『景祐新修法宝録』巻一六、中華蔵北京版七三、五七〇
c)
と ころで、 秘 書監 の楊 億 (九 七四 ―一 〇二 〇) は、 北 宋初
期に 活躍 した 士大 夫、 詩 人と して その 名が知 られ る一 方、 真
品に、 大 中祥 符二 年二月 に内 侍省 内侍 殿頭に それ ぞれ 名称 を
改め られ てい たの である。
ママ
さら に簡 長が 天台 宗の四 明知 礼に 贈っ た詩が 『四 明尊 者教
行 録』 巻 六に 收録 されて おり、 そ の詩 では 自身の 肩書 きに つ
い て以下 のよ うに 記し ている。
宗の 命を 受け て 『景徳伝 灯録』 の 序文 を撰述 した こと をは じ
に 行われ た 「定川 寨の 戦い」 と呼 ばれ る宋 と西夏 の戦 いに お
あ る 葛 懐 敏 の 伝 記 が 収 録 さ れ て お り、 慶 暦 二 年 ( 一 〇 四 二 )
一 方、 内 侍 李 知 和 と は 如 何 な る 人 物 な の か は 不 明 で あ る。
た だ、『 宋 史 』 巻 二 八 九「 葛 覇 伝 」 の 附 伝 と し て そ の 三 男 で
木哲 雄編 『宋 代禅 宗の社 会的 影響』 山 喜房仏 書林、 二 〇〇 二
〇〇二年)、西脇常記「楊億の研究―「殤子述」を読む」(鈴
一、一九九三年)、李一飛『楊億年譜』(上海古籍出版社、二
る。楊鉄菊「楊億の仏教信仰」(『印度学仏教学研究』四二―
てき たの であ る。 その主 な研 究成 果を 挙げれ ば次 のよ うに な
め、 仏教 とも 関わ りを持 つ人 物と みら れ、 学 界の 注目 を集 め
い て、 葛 懐敏、 李 知和 以下一 六名 の武 将が 全員戦 死し たと 伝
右街鑑義、訳経証義、兼綴文同編修箋注御集、知印大師
(大 正蔵 四六、 九 一三c)
賜紫 (簡 長) 上 え ている。 し かし、 本 項では 李知 和を 内侍、 つま り宦 官と し
年 → 西 脇 常 記『 中 国 古 典 社 会 に お け る 仏 教 の 諸 相 』 知 泉 書
八九
て い る こ と か ら、『 宋 史 』 巻 二 八 九 で い う 李 知 和 と は 同 名 の
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
館、 二 〇 〇 九 年 に 再 録 ) こ こ で は、 西 脇 氏 が 「 楊 億 の 研 究 」
九〇
〈程〉
〔
〕
しな がら その 略歴 を紹 介して おこ う。 楊億 は、 字 は大 年、 建
八 年閏六 月、 内出 太宗 皇帝御 製妙 覚集 五巻、 付伝 法院、 編 入
〈原 文〉
に付 録し た 「楊億 簡易 年表」 を元 に、 仏教 との関 わり を留 意
州浦 城 (福建 省浦 城県) の出 身で、 淳 化三年 (九 九二) に 一
伝 法院に 付し て、 大蔵 に編入 せし む。
大 蔵。
〈解 説〉
佐郎、 二 八歳 に左 司諌、 知制 誥、 三〇 歳に知 審刑 院、 三四 歳
さ れ る が、 四 一 歳 に 知 汝 州、 四 三 歳 に 開 封 に 戻 り、 知 礼 儀
八 年閏六 月、 内よ り太 宗皇帝 の御 製な る妙 覚集五 巻を 出し て
院、 判秘 閣太 常寺 に任 じられ、 四 五歳 に工 部侍郎、 四 六歳 に
本項 は、 八年 (一 〇一五) 閏 六月 に、 御所よ り太 宗の 御製
の 『妙覚 集』 五巻 が出 され伝 法院 に与 えら れて 「大蔵 経」 に
〈訓 読〉
工部 侍郎 権同 知貢 挙に なった が、 秘書 監に降 格し、 四 七歳 に
に 翰 林 学 士、 三 五 歳 に 兵 部 員 外 郎、 戸 部 郎 中 な ど を 歴 任 し
翰林 学士 にな って から 一二月 に死 去し た。 楊 億は 三一 歳の 景
編 入され た記 録で ある。
〈程〉
〕 にある ため、 こ こで は再 論しな
徳元 年 (一〇 〇四) に、 道原 が献 上し た 『景 徳伝 灯録』 を 裁
定 せ よ と の 詔 勅 を 受 け、 三 六 歳 の 大 中 祥 符 二 年 ( 一 〇 〇 九 )
にそ の序 文を 撰述 した。 さら に四 二歳 の大中 祥符 八年 (一 〇
一五) に 趙安 仁主 導の 『大中 祥符 法宝 録』 の 編纂 を助 け、 四
〔
七 歳 の 天 禧 四 年( 一 〇 二 〇 ) に 王 曙 と と も に「 注 釈 典 御 集 」
の編 集を 命じ られ たの である。 ち なみ に、 北 宋初 期 (元豊 の
(貝カ)
謬。 而況 葷血 之祀、 頗 瀆於真 乗。 厭詛 之詞、 尤乖 於妙 理。 方
資 於伝訳。 苟 師承 之或 異、 必 邪正 以相 参。 既失精 詳、 寖成 訛
〈原 文〉
〕と関連していると
改革 以前) の 秘書 監は、 秘書 省監 の略 称で秘 監と もい い、 従
224
天 禧元年 四月、 詔 曰、 金 仙垂 教、 実利 於含生。 具 葉謄 文、 是
〕
本項と同様の記事が〔
い。
て、 四〇 歳に 弾劾 に遭 い、 太 常少 郷分 司西 京 (洛 陽) に左 遷
九歳 で進 士及 第し てか ら、 二 〇歳 に直 集賢 院、 二 三歳 に著 作
240
241
三品 の官 職で ある。
な お、 本 項 の 前 半 部 分 の 内 容 は、〔
思わ れる。
223
天禧 元年 四月、 詔 して曰 く、 金仙 の教 えを垂 るる は、 実に 含
〈訓 読〉
乃令 伝法 院詳 之、 且請不 附蔵 目、 故有 是詔。
今 伝 法 院 似 此 経 文、 無 得 翻 訳。 時 中 書 閲 此 経 詞 意 与 経 教 戾、
増 崇 尚、 特 示 発 明。 其 新 訳 頻 那 夜 迦 経 四 巻、 不 得 編 入 蔵 目。
まず 誤謬 が生 じて しま う。 ま して や葷 辛や血 生臭 いも のな ど
きで ある。 一 旦そ の参 詳が失 われ れば、 釈尊 の教 えに はま す
異が あれ ば、 必ず 互い に参詳 する こと で正邪 を明 らか にす べ
伝承 や翻 訳を 助け るた めであ る。 仮に も師資 によ る相 承に 相
葉 に 文 字 を 書 写 す る(「 貝 葉 経 」 の こ と ) の は、 そ の 教 え の
生を 利す るが ため なり。 貝葉 に文 を謄 すは、 是 れ伝 訳を 資く
が、 最も 妙理 に乖 くよ うなも のは いう までも ない。 ま さに 仏
を用 いた 祭祀 が、 頗る真 の教 えを 冒涜 し、 怨 みや 呪い の言 葉
うつ
る がため なり。 苟 しく も師承 の或 いは 異な れば、 必ず 邪正 を
そ の 新 訳 の『 頻 那 夜 迦 経 』 四 巻 は、「 大 蔵 経 」 の 目 録 に 編 入
教への尊崇を高めて、特にこの道理を明らかにすべきである。
理に 乖く をや。 方 に崇尚 を増 して、 特 に発明 を示 すべ し。 其
ては なら ない。
伝法 院に おい ては これ に似た よう な経 文があ った ら、 翻訳 し
し て は な ら な い( 入 蔵 さ せ て は な ら な い )。 こ れ よ り 以 降、
ます
以 て 相 い 参 ず べ し。 既 に 精 詳 を 失 わ ば、 寖 ま す 訛 謬 と 成 る。
の 新 訳 せ る 『 頻 那 夜 迦 経 』 四 巻 は、 蔵 目 に 編 入 す る を 得 ざ
けが
い わんや 葷血 の祀 は、 頗る真 乗を 涜 し、 厭詛 の詞 は、 尤も妙
れ。 今、 伝 法 院 は 此 の 経 文 に 似 た れ ば、 翻 訳 す る を 得 ざ れ。
そ して、 この 詔勅 が出 された きっ かけ とし て、 次 のよ うに
記さ れて いる。
〈解 説〉
うの であ る。
させ ない よう 懇願 した ために、 上 記の 詔勅が 発せ られ たと い
時 に中書 省が 『頻 那夜 迦経』 を閲 覧し て、 その意 味が 釈尊
の教 えに 相反 して いる と気づ いた こと から、 伝法 院に この 経
院を して 之れ を詳 びらか にせ しめ、 且 つ蔵目 に附 せざ らん こ
もと
時に 中書、 此 の経 を閲す るに、 詞 意は 経教に 戾る。 乃ち 伝法
本 項は、 当時 新訳 経典の 『頻 那夜 迦経』 四 巻がき っか けと
なり、 天 禧元 年 (一〇一 七) 四月 に、 この経 典を 入蔵 させ な
とを 請う。 故 に是 の詔有 り。
いこ と、 さら には 伝法院 に対 して、 こ れに似 る経 典は 翻訳 し
『 頻 那 夜 迦 経 』 と は『 大 正 蔵 』 第 一 八 冊 に 所 収 の 法 賢 訳
『 金 剛 薩 埵 説 頻 那 夜 迦 天 成 就 儀 軌 経 』 四 巻 の こ と で あ る。 内
九一
容的には後期密教無上瑜伽タントラに属しているこの経典
典の 参詳 を命 じた 一方、 真宗 に対 して 「大蔵 経目 録」 に編 目
ては いけ ない こと を内容 とす る詔 勅が 出され た記 録で ある。
す なわち、 天 禧元 年四月 に下 記の 内容 の詔 勅が出 され た。
釈 尊が教 えを 垂れ るのは、 衆 生を 利益 する ためで あり、 貝
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
る。 楊 曾 文「 宋 代 的 仏 経 翻 訳 」( 楊 曾 文・ 方 廣 錩 編『 仏 教 与
り、 これ に毒 薬・ 塩・芥 子・ 酒な どを 供えた りす るも ので あ
夜迦 の像 を造 り、 それを 地中 に埋 め、 或いは 像に 泥な どを 塗
各種の動物の肉や香木を含めた各種の木材などを用いて頻那
成就 法を 説い てい るも のであ る。 具体 的には、 人 間を 含め た
間的 な願 望を 成就 する ための、 種 々の 頻那夜 迦 (歓喜 天) の
無傷 で戦 争の 勝利 を収 め、 或 いは 巨万 の富を 得る とい った 世
は、 金 剛 薩 埵 ( 金 剛 手 秘 密 主 菩 薩 ) が、 或 い は 敵 を 降 伏 し、
研究』(春秋社、二〇一二年)は次のように論じている。
いる。 こ の文 献に ついて は、 胡建 明 『圭峯宗 密思 想の 綜合 的
のこ とで、 そ のテ キスト は 『新纂 続蔵』 巻七 四に 収録 され て
『円覚道場礼懺禅観法』とは、中唐に活躍した圭峰宗密(七
八 〇 ― 八 四 一 ) が 撰 述 し た『 円 覚 経 道 場 修 証 儀 』( 一 八 巻 )
た記 録で ある。
法 院 に 送 っ て、「 大 蔵 経 」 に 加 え る よ う 希 望 し、 認 可 を 受 け
本 項は、 起居 舍人 の呂夷 簡が、 故 御史 中丞の 趙安 仁 (一〇
一八 卒) が嘗 て彫 らせた 『円 覚道 場礼 懺禅観 法』 の印 板を 伝
〈解 説〉
九二
歴史 文化』 宗 教文 化出 版社、 二〇 〇一 年) が すで に指 摘す る
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
よう に、 本項 の詔 勅は、 恐ら く各 種の 動物の 肉で 造像 する こ
的理念を具現するのである。(同書、四四頁)
この著作は宗密が『円覚経』の心性論を実践に移した書
物 で あ る。 礼 懺、 悔 過 か ら 坐 禅 の 法 門 ま で、 宗 密 の 実 践
〈程〉
と、 また 酒を 供え るこ とが、 仏教 の基 本的な 戒律 に抵 触す る
もの と判 断さ れ、 これに 基づ くも ので あろう。
て はいる が、 御史 大夫 は任命 され ない ことか ら、 御史 台に お
とこ ろで、 起 居舍 人とは、 中 書省 に隷 属する 従六 品の 役職
名 で、 正 史の 編集 に資す るた めに、 日 頃の天 子の 言行 を記 録
道 場礼懺 禅観 法印 板、 望送伝 法院 附入 経蔵。 従之。
け る事実 上の 長官 で、 皇帝に 直接 に任 命さ れるこ とに なっ て
す ること を主 な仕 事内 容とす る。
〕
〈訓 読〉
い る。
〔
三 年 ( 一 〇 一 九 ) 九 月、 起 居 舍 人 の 呂 夷 簡 言 く、 望 む ら く
三 年九月、 起 居舍 人呂 夷簡言、 故 御史 中丞 趙安仁、 嘗 刻円 覚
は、 故御 史中 丞の 趙安 仁、 嘗 て円 覚道 場礼 懺禅観 法の 印板 を
また、 呂 夷簡 (九 七八― 一〇 四三) は 『宋史』 巻 三一 一に
〈原 文〉
刻む。伝法院に送り経蔵に附入せしめんことを。之れに従う。
御史 中丞 とは、 御 史台に 隷属 する 正四 品 (宋 初) の職 事官
の ことで、 名 目上 御史 台の長 官で ある 御史大 夫の 下に 置か れ
242
もあ った が、 また 返り 咲き、 宰相 を務 めるこ と十 数年 にも お
年 (一〇 二九) に 同中書 門下 平章 事と なって から、 慶 暦三 年
権知 開封 府と なっ た。 仁宗が 即位 する と、 参 知政 事、 天聖 七
絳州、通州、両浙、浜州などの地方官を歴任した後、知制誥、
文 靖 で あ る。 咸 平 三 年 ( 一 〇 〇 〇 ) に 進 士 と な っ て か ら は、
立伝 され てい る。 寿州 (安徽 省寿 県) の人で 字は 坦父、 諡 は
年代 を大 中祥 符六 年 (一〇一 三) ―天 禧三年 まで の間 と措 定
ま た、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 四 に も 本 項 と 同 じ 内 容 が あ り、 深
浦正 文氏 はそ れを 利用 して真 宗の 『御 注四十 二章 経』 の成 立
され てい る。
『 御 注 四 十 二 章 経 』 と は、 真 宗 が 撰 し た『 四 十 二 章 経 』 の
注釈 書の こと で、 そのテ キス トが 『大 正蔵』 第三 九冊 に収 録
編入 され た記 録で ある。
一 方、『 御 注 四 十 二 章 経 』 と 同 様 に 真 宗 の 手 に よ っ た と 思
われ る 『御注 遺教 経』 は、 現 存せ ず、 僅かに その 序文 らし き
る。(中華蔵北京版七三、五五九b)
録』 巻一 九で は、 その成 立を 天禧 二年 (一〇 一八) と して い
( 一 〇 四 二 ) に 退 官 す る ま で は、 宰 相 の 座 か ら 追 わ れ た こ と
〈程〉
し た(『 仏 書 解 説 大 辞 典 』 巻 四 ― 一 九 五 )。『 景 祐 新 修 法 宝
〕 を参照。
よび、 善 政を 敷き、 大き な功 績を 残し たので ある。
〕
なお、趙安仁については、〔
〔
〕
〈程〉
もの が元 ・煕 仲集 『歴朝 釈氏 資鑑』 巻 九 (新纂続 蔵七 六、 二
(十カ)
〔
九三
四 年二月、 秘 演等、 聖 製述釈 典文 章を 以て、 箋注 して 大蔵 に
四 年二月、 秘 演等 請以 聖製述 釈典 文章、 箋 注附大 蔵、 詔可。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈訓 読〉
226
〈解 説〉
〈原 文〉
〕 を 参照。
一九 c) に残 る。
写入 蔵。 従之。
〈訓 読〉
三年(一〇一九)二月、訳経三蔵法護等、御注四十二章(経)
、
遺教 経を 降し、 伝 写して 入蔵 せし めん ことを 請う。 之 れに 従
244
本 項は、 天禧 三年 三月に、 訳 経三 蔵法 護ら の懇願 によ って
『御注四十二章経』、『御注遺教経』が下賜され、「大蔵経」に
う。
なお、法護については、〔
三 年二月、 訳 経三 蔵法 護等、 請降 御注 四年 二章、 遺 教経、 伝
223
〈原 文〉
243
九四
記の 『新 修景 祐法 宝録』 巻一 三の 内容 によっ てそ の一 端が 知
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
附せ しめ んこ とを 請う。 詔す、 可 なり。
られ、 ま た前 記の 『玉海』 に あっ た 「僧三十 人」 の人 名も 明
すべ
おさ
衣・衣服・茗・帛を賜う。童行を度すること、差有り。
(中 華蔵 北京 版七 三、 五 五八 c― 五五 九b)
す なわち、 こ の書 は真 宗が書 いた 釈教 関連 の文章 に衆 僧が
さらに注釈を施したもので、『注釈釈典文集』(三〇巻、総録
又た詔す、宰臣丁謂をして大てを都めて参定せしめよ。
五年の秋に、書、成りて御に進む。板を鏤みて流行せ
し む。( 丁 ) 謂 等 に 器・ 幣 を 賜 い、 衆 僧 ら に 師 号・ 紫
し て同じ く詳 覆せ しむ。
し め、 翰 林 学 士 楊 億、 劉 筠、 晏 殊、 枢 密 直 学 士 王 曙 を
左 右 街 僧 録 の 守 明、 澄 遠、 訳 経 三 蔵 惟 浄 を し て 参 詳 せ
無象、行円、有朋、文倚を選びて、同じく箋注せしむ。
希 雅、 仲 熙、 省 弁、 崇 璉、 顕 忠、 令 操、 義 賢、 瑞 王、
普 究、 禹 昌、 永 興、 善 昇、 清 達、 秘 演、 善 初、 継 興、
詔す、可なり。乃ち京城の義学文学沙門の簡長、行肇、
恵 崇、 希 白、 鑑 深、 重 杲、 鑑 微、 尚 能、 楚 文、 曇 休、
蔵 に附せ しめ んこ とを。
注釈釈典文集一部三十巻総録一巻
天禧四年春二月に、沙門秘演等、表もて請らくは、
右、
御 製 述 釈 典 文 章 を 以 て、 僧 に 命 じ て 箋 注 せ し め て、 大
らか にな る。
〈解 説〉
本 項は、 天禧 四年 (一 〇二〇) 二 月に、 秘 演等の 懇願 に応
ず る か た ち で、「 御 製 述 釈 典 文 章 」 を 箋 注 し て か ら「 大 蔵
経」 に編 入さ せた 記録 である。
本項と似た内容が、『玉海』巻二八、『仏祖統紀』巻四四な
ど に も み え る。『 玉 海 』『 宋 会 要 』 で は、 天 禧 四 年 の「 二 月 」
と す る と こ ろ、『 仏 祖 統 紀 』 は「 正 月 」 と す る 齟 齬 が み ら れ
るも のの、 両 者に は重 要なヒ ント が含 まれて いる。
会要
(『玉海』巻二八、前掲書、第二冊、五三六頁)
天禧四年二月戊子、僧三十人を選びて聖製述釈典文章
を注 釈せ しむ。 僧 秘演の 請い に従 うな り。
こ れ に よ れ ば、「 聖 製 述 釈 典 文 章 」 を 注 釈 す る 作 業 に 携
わ っ た 三 〇 人 と い う 僧 侶 の 人 数 が 示 さ れ て い る。 一 方、『 仏
祖 統紀』 の記 述に よっ て、 発 議者 の秘 演が 「右街 講経」 の 肩
四年正月、右街講経秘演等、請うらくは、御製釈典法音
集を以て僧をして箋注せしめて凡そ三十巻なるを大蔵に
書 きをも つこ とが 判明 する。
附せ しめ んこ とを 乞う。 詔す、 可 なり。
(『仏祖統紀』巻四四、大正蔵四九、四〇六b)
「 御 製 述 釈 典 文 章 」 の 箋 注 に つ い て は、 現 存 し な い が、 下
いる こと から、 本 項の内 容を 傍証 しよ う。
に秘演より出された懇願に応じたものであることも記されて
一巻) が その 正式 名称で ある。 し かも これが 天禧 四年 春二 月
し て入銜 す。
使 と為し 致仕 す。 既に 章得象、 之 れに 代わ る。 是 れ自 り降 麻
慶 暦三年 (一 〇四 三) に、 呂 夷簡 の相 を罷 めて、 司徒 を以 て
〈原 文〉
〔
記 録であ る。
いう役職を理解するに当たって欠かすことのできない貴重な
本項 は、 歴代 の訳 経使と 潤文 官の 名前、 両役 職の 変遷 を詳
し く記し たも ので、 特 に宋初 にお ける 「訳 経使兼 潤文 官」 と
〈解 説〉
是 年、 以 宰臣 丁謂 兼充訳 経使。 潤 文官 常一 員、 天 禧中 以翰 林
すな わち、 天 禧四 年 (一 〇二 〇) に、 時の 宰相で ある 丁謂
が 訳経使 を兼 任し た。 その頃、 潤 文官 は常 に定員 一名 であ っ
〈程〉
学 士晁迥、 李 維同 潤文、 始置 潤文 二員、 丁 謂罷使 後、 亦不 常
た が、 天 禧 年 間( 一 〇 一 七 ― 一 〇 二 一 )、 翰 林 学 士 の 晁 迥、
置。 天聖 三年 又以 宰相 王欽若 為之、 自 後首 相継領、 然 降麻 不
李 維が同 時に 潤文 官に 任じら れた こと をは じめと して、 潤 文
〕
前 両日、 二府 皆集 以観翻 訳、 謂之 開堂。 慶暦 三年、 呂 夷簡 罷
官 に二人 を配 置す るよ うにな った。 や がて 丁謂が 訳経 使の 職
を 解かれ たが、 そ の職 は常置 され なか った。 天聖 三年 (一 〇
名 ばかり で機 能は して いなか った。 又 た参 知政事、 枢 密使 が
〈訓 読〉
潤 文官を 任じ るよ うに なって から、 潤 文官 という 役職 の重 み
こ れ よ り 後 は、 歴 代 の 宰 相 が こ の 役 職 を 引 き 継 い で い た が、
文 と す る に、 始 め て 潤 文 に 二 員 を 置 く。 丁 謂 の 使 を 罷 め て
はますます増えたのである。毎年の皇帝の誕生日に合わせて、
二五)に、又た時の宰相である王欽若が訳経使に任ぜられた。
後、 亦た 常置 せず。 天 聖三年 (一 〇二 五) に又た 宰相 の王 欽
是 の年、 宰臣 の丁 謂を 以て訳 経使 に兼 ねて充 つ。 潤文 官は 常
若 を以て 之れ と為 す。 これ自 り後、 首 相も て継ぎ て領 す。 然
必ず新訳の経典を献上するようになった。誕生日の二日前に、
こう ま
二人の潤文官(二府)は必ず集まって新訳の経典を検閲する。
九五
こ れを開 堂と 謂う。 慶 暦三年 (一 〇四 三) に、 呂 夷簡 が宰 相
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
に、 二 府 皆 な 集 ま り て 以 て 翻 訳 を 観 る、 之 れ を 開 堂 と 謂 う。
ます
其の 事浸 ます 重し。 生 辰ご とに、 必ず 新経 を進 る。 前 の両 日
し 降 麻 す る も 入 銜 せ ず。 又 た 参 政、 枢 密 を 以 て 潤 文 と 為 し、
に 一員な るも、 天 禧中、 翰林 学士 晁迥、 李 維を以 て同 じく 潤
相、 以司 徒為 使致 仕。 既 章得 象代 之。 自是 降麻 入銜。
(既カ)
入銜。又以参政、枢密為潤文、其事浸重。每生辰、必進新経。
245
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
(中 華書 局本、 一九 九七 年、 一〇 頁)
九六
この 引用 文が 本項 とほぼ 同様 な内 容を 有しつ つ、 本項 すら
言 及 さ れ な か っ た 「 閉 堂 」 も 紹 介 し た 一 方、 本 項 で は 「 開
をや めて、 司 徒と いう 役職で 訳経 使と なり、 これ をも って 退
訳経 使と いう 役職 は名 実一体 のも のと なった ので ある。
行 事を二 日に では なく、 二ヶ 月前 に行 うも のであ ると して い
さ わしい もの かど うか を判断 する 行事 で、 内容の 吟味 など を
「 開 堂 」 と は 高 級 官 吏 の 任 じ る 訳 経 使、 潤 文 官 が 集 ま り、 訳
官した。彼の代わりに章得象が訳経使となったが、これ以降、
ち な み に、 本 項 と 密 接 な 関 連 性 を 有 す る 内 容 が、 宋 敏 求
( 一 〇 一 九 ― 一 〇 七 九 ) の 『 春 明 退 朝 録 』 に も あ る。 そ れ を
る。 果 た し て ど ち ら の 説 を 採 る べ き で あ ろ う か。 そ も そ も
太平 興 国 中( 九 七 七 ― 九 八 四 )、 始 め て 太 平 興 国 寺 に 訳
ひ
経 院 を 置 き、 梵 学 僧 を 延 き て 新 経 を 翻 訳 せ し む。 始 め は
経 て最終 決定 を下 す行 事が 「閉堂」 で ある という こと と合 わ
堂」 を皇 帝の 誕節 の二 日前に 行う もの とす るのに 対し、 こ の
示せ ば下 記の 通り であ る。
光 禄 卿 の 湯 公 悦( 湯 悦 )、 兵 部 員 外 郎 の 張 公 洎( 張 洎 )
せ て考え れば、 誕 節の 僅か二 日前 に選 定作 業を終 える とい う
経院より完成された新訳経典が皇帝の誕節のお祝いとしてふ
を 以 て 之 を 潤 色 せ し む。 後 に 趙 文 定( 趙 安 仁 )、 楊 文 公
日 程は、 物理 的に は不 可能と 言わ ざる を得 ない。 従っ て 『宋
潤 文 官 と 為 る。 天 禧 中、 宰 相 の 丁 晋 公( 丁 謂 )、 始 め て
( 楊 億 )、 晁 文 元( 晁 迥 )、 李 尚 書 維( 李 維 ) ら 皆 な 訳 経
然 し 降 麻 す る も 入 銜 せ ず。 又 た 参 政、 枢 密 を 以 て 潤 文 と
で は 楊 氏 が 言 及 し た 歴 代 の 訳 経 使 兼 潤 文 官 を 表 記 し て お く。
一方、 宋 代の 訳経 使兼潤 文官 とい う役 職につ いて は、 楊曾
文 「宋代 的仏 経翻 訳」 におい てす でに 関説 されて いる。 こ こ
会 要 』 で い う「 二 日 前 」 説 よ り も、『 春 明 退 朝 録 』 で い う
為 し、 其 の 事 浸 ま す 重 し。 歳 の 誕 節 ご と に 必 ず 新 経 を 進
な お 就 任 時 期 に 関 し て は、 楊 氏 の 論 考 に よ っ た も の で あ る。
「二 ヶ月 前」 説の ほうが より 合理 性が あるよ うに 思わ れる。
る。 前 の 両 月 に、 二 府 皆 な 集 ま り て 以 て 翻 訳 を 観 る、 之
た だし、 高若 訥に つい ては 〔
若 ) を 以 て 使 と 為 す。 自 り 後、 元 宰、 継 ぎ て 之 を 領 す。
を 開 堂 と 謂 う。 亦 た 唐 の 清 流 は 尽 く 在 り。 前 の 一 月、 訳
( 訳 経 ) 使 と 為 す。 天 聖 三 年、 又 た 宰 相 の 王 冀 公 ( 王 欽
経 使、 潤 文 官 は 又 た 集 ま り て 以 て 新 経 を 進 る、 之 を 閉 堂
の である。
〕によって新たに追補したも
と 謂 う。 慶 暦 三 年、 呂 許 公 (呂 夷 簡) の 相 を 罷 め て、 司
徒 を 以 て 訳 経 潤 文 使 と 為 し て、 明 年、 致 仕 す。 章 郇 公
(章 得 象) は 之 に 代 わ る。 自 り 後 に 乃 ち 降 麻 し て 入 銜 す。
256
一
再
四
三
九
七
皇
祐
四
年
皇
祐
三
年
一
〇
月
皇
祐
五
年
慶
暦
五
年
四
月
慶
暦
三
年
景
祐
元
年
天
聖
三
年
一
〇
四
三
一
〇
三
四
一
〇
二
五
天
禧 訳
五 経
年 使
兼
一 潤
〇 文
二 官
一 就
任
一 時
月 期
一
〇
月
う「 不 入 銜 」 と は、 そ の 宰 相 任 命 の 詔 勅 に は、「 訳 経 使 兼 潤
文 官 」 と い う 肩 書 き を 入 れ な い こ と を い う。「 入 銜 」 は、 そ
の 反 対 で、「 訳 経 使 兼 潤 文 官 」 と い う 肩 書 き を 明 記 し た こ と
を 意味す ると いう。
と こ ろ で、 本 項 で 言 及 さ れ た 丁 謂、 晁 迥、 李 維、 王 欽 若、
呂 夷簡、 章得 象な どは、 いず れも 太宗、 真 宗、 仁 宗の 時代 に
北 宋の政 治の 中枢 で活 躍した 人物 であ る。 ここで は彼 らの 略
〕、〔
〕 をそれ ぞれ 参照 され たい。
歴 を紹介 して おこ う。 なお、 既出 の李 維、 呂夷簡 の二 人に つ
いては、〔
242
一
豊 県 ) の 人 で、 字 は 明 遠、 諡 は 文 元 で あ る。 太 平 興 国 年 間
( 九 七 六 ― 九 八 四 ) 進 士 に 及 第 し、 大 理 評 事、 殿 中 丞、 右 正
九七
ち なみに 「降 麻」 とは、 唐代、 宋 代で は官 吏を任 命す る詔
勅が 黄色 い、 或い は白 い麻紙 に書 かれ ていた ため、 官 吏に 任
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
言直 史館、 貢 挙、 尚書工 部侍 郎な ど歴 任し、 仁宗 が即 位し て
次 に、 晁 迥 ( 九 五 一 ― 一 〇 三 四 ) は 『 宋 史 』 巻 三 〇 五、
『 東 都 事 略 』 巻 四 六 に 立 伝 さ れ て い る。 澶 州 清 豊 ( 河 南 省 清
に財 政上 にお いて 敏腕を 発揮 して 功績 があっ た。
彼は 南人 官僚 の逸 材で、 機敏 で知 謀が あり、 奸知 にた け、 特
し て か ら、 右 諌 議 大 夫 権 三 司 使、 三 司 使 参
・ 知政事に累進
し、 つ い に 同 中 書 門 下 平 章 事 と な り、 晋 国 公 に 封 ぜ ら れ た。
に 進士に 及第 して から、 大理 評事、 饒 州通 判、 知 鄆州 を歴 任
の 人 で、 字 は 謂 之、 後 に 公 言 と 改 め た。 淳 化 三 年 ( 九 九 一 )
ま ず、 丁 謂 ( 九 六 六 ― 一 〇 三 七 ) は 『 宋 史 』 巻 二 八 二、
『 東 都 事 略 』 巻 四 九 に 立 伝 さ れ て い る。 長 洲 ( 江 蘇 省 呉 県 )
48
九
生
六
卒
六
年
命の 命令 を下 すこ とを いう。 一方、 楊 氏に よれば、 こ こで い
正
月
降
麻
不 備
考
入
銜
降
麻
不
入
銜
降
麻
不
入
銜
降
麻
入
銜
降
麻
入
銜
降
麻
入
銜
降
麻
入
銜
再
任
一
〇
五
二
一
〇
六
九
降
麻
入
銜
降
麻
入
銜
降
麻
入
銜
正
至
和
元
年
閏
再
嘉
祐
三
年
六
月
八
六
煕
寧
二
年
天 月 天 月 天
聖
聖
禧
七
元
四
宰
年
年
年
輔
就
一
一
一
任
〇
〇
〇
時
二
二
二
期
九
〇
三
月 嘉 月 嘉 任 至 正 慶 月 皇 〇 皇 任 皇 月 慶 月 宝
和 月 暦
祐
祐
祐
暦
祐 月 祐
元
元
五
三
五
六
元
三
八 枢 四
年
年
年
年
年
年
年
年 密 年
使
一
一
一
一
一
一
一
一
一
〇
〇
〇
〇
〇
〇
〇
〇
〇
五
五
五
五
四
六
五
三
四
四
三
五
一
八
二
一
八
八
丁
氏
謂
名
呂 一 王 〇
夷 〇 欽 三
簡 二 若 七
五
九
九
七
六
八
二
一 陳 一 章 一
〇 執 〇 得 〇
五 中 四 象 四
九
八
三
九
九
九
七
〇
八
文 一 高 〇 龐
一 彦 〇 若 六 籍
〇 博 五 訥 三
五
九
九
七 一
九
八
九
八
〇
七
〇
一
六
一 曽 一 富
〇 公 〇 弼
七 亮 八
二 一
八
九
〇
〇
九
八
四
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
九八
章 事 に 進 み、 郇 国 公 に 封 ぜ ら れ、 司 空 の 職 を 以 て 退 官 し た。
てい る。
〈程〉
権勢 にも 依附 せず、 中立 の立 場を 貫い たこと が高 く評 価さ れ
から、 礼 部尚 書と なった が、 太子 少保 をもっ て退 官し た。 彼
道
・ の 三 教 に 通 じ、 特
長年 に亘 り、 枢密 使、 宰 相の 高位 にい ながら、 私 情を 挟ま ず
仏
・
は正 道を 踏み 権勢 にも 屈せず、 事 の処 理には いさ さか も私 情
を 差 し 挟 ま な か っ た。 ま た 広 く 儒
に 経伝で は一 家の 説を なした。
〔
は 定国、 諡は 文穆 であ る。 進 士に 及第 して から、 亳州 防禦 推
〈原 文〉
〕
官 より左 諌議 大夫 参知 政事に 累進 し、 工部 侍郎、 刑部 侍郎 資
十巻。 是 書大 中祥 符九年、 詔 惟浄 撰、 今潤文 官趙 安仁、 楊 億
仁 宗天聖 四年、 潤 文官翰 林学 士夏 竦与 僧衆、 上新 訳経 章義七
そし て、 王欽 若 (九六二 ―一 〇二 五) は 『宋 史』 巻二 八三
に 立伝さ れて いる。 臨 江軍新 喩 (江西 省新 喩県) の人 で、 字
政 殿学士、 尚 書左 丞知 枢密院 事な どを 歴任 して、 大中 祥符 年
中 書門下 平章 事、 集賢 殿大学 士と なり、 さ らに中 書侍 郎兼 工
士、 進承 旨兼 侍講 学士 などの 要職 を経 て、 同知枢 密院 事、 同
部 郎 中、 兵 部 郎 中 知 制 誥、 翰 林 学 士、 礼 部 侍 郎 兼 竜 図 閣 学
玉 山県、 台州、 南 雄州、 洪州 など の地 方官 を歴任 し、 尚書 刑
で、諡は文憲、後に文簡と改められた。進士に及第してから、
さら に、 章得 象 (九七八 ―一 〇四 八) は 『宋 史』 巻三 一一
に 立伝さ れて いる。 浦 城 (福 建省 浦城 県) の人で、 字 は希 言
し て名が 知ら れて いる。
大 学 士 と な っ た。 ま た 彼 は『 册 府 元 亀 』『 国 史 』 の 編 集 者 と
仁 宗が即 位し た後、 司 空門下 侍郎 同平 章玉 清昭応 宮使 昭文 館
み、 天 禧 二 年 ( 一 〇 一 八 ) に、 皇 太 子 ( 仁 宗 ) の 師 を 務 め、
「 章 」 と「 音 」 の 校 訂 は『 玉 海 』 を 承 け た 上 海 古 籍 本 に よ
にな って 完成 した ので ある。
に惟 浄が 撰文 し、 趙安仁 や楊 億に 刊定 させて きた もの で、 今
天 聖 四 年( 一 〇 二 六 )、 夏 竦 と 僧 衆 た ち が『 新 訳 経 音 義 』
七〇巻を上進した。これらはすぐる大中祥符九年(一〇一六)
〈解 説〉
て畢 んぬ。
十 巻 を 上 る。 是 の 書 は 大 中 祥 符 九 年、 惟 浄 に 詔 し て 撰 せ し
仁宗 の天 聖四 年、 潤文官 翰林 学士 夏竦と 僧衆、 新訳 経音 義七
〈訓 読〉
刊定、 至 是始 畢。
め、 今、 潤文 官趙 安仁と 楊億 に刊 定せ しめ、 是に 至り て始 め
かしょう
部 尚書兼 枢密 使、 工部 尚書昭 文館 大学 士、 鎮安軍 節度 使同 平
(音カ)
間( 一 〇 〇 八 ― 一 〇 一 六 )、 左 僕 射 兼 中 書 侍 郎 同 平 章 事 に 進
246
残る。
歴 任 す る。『 文 荘 集 』 三 六 巻( 四 庫 全 書 珍 本 第 二 六 七 冊 ) が
道を 鎮め たと いう。 枢 密使英 国公、 武 寧軍 節度使、 鄭 国公 を
典雅 であ った とい う。 仁宗の とき 戸部 侍中と なり、 洪 州の 鬼
夏 竦 (? ― 一 〇 五 一 ) は 『 宋 史 』 巻 二 八 三 に 立 伝 さ れ る。
徳安 の人 で字 は子 喬、 諡は文 荘。 儒仏 道三教 に通 じ、 文章 は
る。 惟浄、 趙 安仁、 楊 億につ いて は既 出。
〈解 説〉
方東 土聖 賢集 伝を して、 之を 凡て で六 千一百 九十 七巻 と為 せ
惟浄 に詔 して 三録 を合せ しめ、 続 いで 訳せし 経律 論お よび 西
を将 って 総じ て一 録と成 さん こと を。
るは 貞元 録、 円照 は続貞 元録 なり、 今、 請う らく は皇 朝の 経
る所、 凡 そ三 録有 り。 僧 智昇 撰す るは 即ち開 元録、 円 照撰 す
〈訓 読〉
六年・八〇〇)、円照の『大唐貞元続開元釈教録』(三巻 貞
元一 〇年 ・七 九四) があ る。 願わ くは 宋代に 翻訳 され た経 典
つ の 経 録 が あ る。 智 昇 の『 開 元 釈 教 録 』( 二 〇 巻 開 元 一 八
年・七三〇)、円照の『貞元新定釈教目録』(三〇巻 貞元一
こ の 年( 天 聖 四 年 )、 惟 浄 が 上 奏 し て 言 う に は、 経 典 の 名
を記 録し た例 は少 なくな いが、 現 在、 行われ てい るも のに 三
り。
是の 年、 惟浄 言く、 蔵乗 の名 録は 類例 尤も多 し。 今、 流通 す
『新訳経音義』七〇巻については『景祐新集法宝録 総録』
の 「第十 五巻」 に 「訳衆 修新 訳経 音義」 とあ る。 また 『仏 祖
統紀』 巻 四五 に、
〈永 井〉
翰林学士夏竦と同じく三蔵惟浄等、新訳経音義七十巻を
進む。 (大 正蔵 四九、 四 〇九a)
と 言及さ れる が、 具体 的内容 は未 詳。
をあ つめ て経 録を 作って いた だき たい と。
〕
〔
(通カ)
惟 浄にた いし 詔勅 がくだ され、 三 つの 経録を 合わ せ、 新た
に翻 訳さ れた 経律 論や西 天東 土の 聖賢 たちに よる 成果、 六 一
(今カ)
〈原 文〉
九七 巻を 収録 する 『天聖 釈教 録』 が編 纂され た。
(続カ)
(貞)
惟 浄によ って まと められ た 『天聖 釈教 録』 は、 現 在、 上冊
を欠 くが、 中 下冊 が趙城 県広 勝寺 所蔵 「金版 大蔵 経」 の一 部
(照カ) (貞)
是 年、 惟 浄言、 蔵 乗名 録類例 尤多。 令所流 進 凡有 三録。 僧 智
詔 惟浄合 三録、 令 続訳経 律論、 西 方東 土聖 賢集伝、 為 之凡 六
九九
として、『中華大蔵経』(北京版)第七二冊に収録される。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
千 一百九 十七 巻。
総 成一録。
(昇カ)
升撰即開元録、円升撰正元録、円照績 正元録、今請将皇朝経
247
一〇〇
され るの は仁 宗の 諱 「禎」 を 避け たも のであ る (陳垣 『史 諱
なおこの一段における人名や経録などの対校は主として上
海 古 籍 出 版 社 本 の 成 果 に よ る が、「 貞 」 字 が「 正 」 字 で 表 記
天 聖 八 年( 一 〇 三 〇 )、 潤 文 官 で あ る 夏 竦 や 王 曙 が『 大 蔵
経名 礼懺 経』 一〇 巻を 上進し た。 初め は五台 山の 崇廉 が上 進
〈解 説〉
五台 山沙 門崇 廉撰 し進 むるに、 今、 竦 等、 詳定し 頒行 す。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
挙 例 』 中 華 書 局、 二 〇 〇 九 年、 一 二 五 頁 )。 ち な み に『 天 聖
八年、 潤 文官 夏竦、 王曙、 大 蔵経 名礼 懺経十 巻を 上る。 初 め
釈教 録』 下冊 では、 従前 の経 録に 収録 された 経典 等を 列挙 し
ある。
した もの であ るが、 夏 竦たち がさ らに 点検し 板行 した もの で
右、 天 聖 釈 教 総 録 中 に 都 べ て 開 元 旧 録、 并 び に 附 続 新
編、 及 び 正 元 法 宝 等 の 録 せ る 計 六 百 二 帙 六 百 二 号 を 収
たう えで 末尾 に次 のよ うに記 す。
『 大 蔵 経 名 礼 懺 経 』 一 〇 巻 に つ い て は『 景 祐 新 集 法 宝 録 総録』 の 「第 十五 巻」 に 「訳 衆修 沙門 崇廉進 大蔵 経名 礼懺 法
王 暁 は、 上 海 古 籍 本 が 言 う よ う に 王 曙 と す る。「 暁 」 は 英
宗 の 諱 「 曙 」 を 避 け た も の で あ る ( 陳 垣・ 前 掲 書、 一 二 六
4
(中 華蔵 北京 版七 二、 九 四七 b)
新 集法宝 録』 にし たが って崇 慶を 崇廉 に改 めた。 崇廉 につ い
』 は『 大 蔵 経 名 礼
詔 付 院 詳 定 」 と あ り、『 大 蔵 経 名 礼 懺 経
懺 法 』 が 正 し い と 思 わ れ る が、( マ マ ) と し た。 ま た『 景 祐
む。
また 『貞 元新 定釈 教目録』 の 編者 につ いては 『望 月仏 教大
辞 典 』 に 従 っ て 円 升 を 円 照 に 改 め た。『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 五 に
4
次 の記事 があ る。
頁 )。 王 曙( 九 六 三 ― 一 〇 三 四 ) は『 宋 史 』 巻 二 八 六 や『 宋
て は未詳。
(大 正蔵 四九、 四 〇九a)
五年。三蔵惟浄、大蔵経目録二袠を進むるに、名を賜い
て天 聖釈 教録 とす。 凡て 六千 一百 九十 七巻な り。
名 臣言行 録』 巻四 など に立伝 され る。 字は 晦叔、 河南 洛陽 の
〈永 井〉
人。 淳化 三年 (九 九二) の進 士。 宰相 寇準 の女婿。 四 川省 益
州 知事や 郢州 団練 副使、 襄州 知事、 河 南譜 府知事、 中 央で は
〕
〔
ママ
〈原 文〉
(曙カ)
れ、 法の 運用 は厳 格で あった とい う。
御 史中丞、 尚 署工 部侍 郎など を務 めた。 清 貧さを もっ て知 ら
(廉カ)
門崇 慶撰進、 今 竦等 詳定 頒行。
〈訓 読〉
〈永 井〉
八 年、 潤 文官 夏竦、 王暁 上大 蔵経 名礼 懺経 十巻。 初 五台 山沙
248
〔
〕
二年。上、天竺字源序を御製して訳経院に賜う。是の書
は 即 ち 法 護 と 惟 浄、 華 梵 を 以 て 対 翻 し て 七 巻 と 為 す。 声
な お 『景 祐天 竺字 源』 は本邦 でも 刊行 され、 享保 三年 (一
七 一 八 ) の 写 本 の あ る こ と が 知 ら れ(『 仏 書 解 説 大 辞 典 』 第
明の 学は 実に 茲よ り肇ま る。 (
大 正蔵 四九、 四〇 九c)
三 冊、 一 二 四 頁 )、 ま た 筑 波 大 学 図 書 館 所 蔵『 景 祐 天 竺 字 源
景祐 二年 九月、 帝 作景祐 天竺 字源 序、 賜訳経 院。 是書 即三 蔵
法護、 惟 浄以 華梵 対参為 之。 凡七 巻。
梵文 新定』 一 巻 (安永九 年・ 一七 八〇) は電 子化 され て公 開
〈永 井〉
景 祐 二 年 九 月、 帝、 景 祐 天 竺 字 源 の 序 を 作 り、 訳 経 院 に 賜
)。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp
〈原 文〉
されている(
為れ り。 凡て で七 巻なり。
十月、刑部尚書夏竦、上奉詔撰伝法院訳経碑銘。詔本院刊石。
〈解 説〉
景 祐二年 (一 〇三 五) 九月、 仁宗 は 『景祐 天竺字 源』 の序
を撰 し、 訳経 院に 下賜し た。 同書 は法 護や惟 浄が 梵語 と漢 語
〈訓 読〉
〕
を対 照し つつ 辞典 化し たもの で七 巻か らなり、 趙 城県 広勝 寺
〔
所 蔵「 金 版 大 蔵 経 」 の 一 部 と し て、 現 在『 中 華 大 蔵 経 』( 北
以 来の歴 史や 関係 者な どが略 述さ れて いる。
一〇一
〈永 井〉
同 碑銘は 『文 荘集』 巻 二六に 収録 され てお り、 訳 経院 の創 立
景祐 二年 一〇 月、 詔勅に より 夏竦 が撰 文した 「伝 法院 訳経
碑 銘」 が 上進 され、 命 により 訳経 院に 碑が 建立さ れた。 な お
〈解 説〉
る。 本院 に詔 して 石に 刊まし む。
十 月、 刑 部尚 書夏 竦、 詔を奉 じて 撰せ し伝 法院訳 経碑 銘を 上
景祐 天 竺 字 源 は 西 天 訳 経 三 蔵、 試 光 禄 卿 伝 梵 大 師 法 護、
訳 経 三 蔵、 試 光 禄 卿 光 梵 大 師 惟 浄、 同 じ く 綴 り 集 む 所 な
り。(中略)是の書や華梵対翻して総べてで七巻と為す。
声明 の学 は寔 に茲 より肇 まる、 云 々。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
『仏 祖統 紀』 四 五に も同 趣旨 の記 事が ある。
(中 華蔵 北京 版七 二、 八 五〇 c― 八五 一a)
と述べる。ここで言う「声明」は今日で言う言語学ほどの意。
京版) 第 七二 冊に 収録さ れる。 仁 宗に よる 「御製 序」 は、
250
う。 是の 書は 即ち 三蔵 法護、 惟浄、 華 梵を 以て対 参し て之 を
〈訓 読〉
〈原 文〉
249
佗 之 辞、 云 々。 詔 刊 於 石。 賜 名、 詔 以 景 祐 新 修 法 宝 録 為 名。
十四 巻、 訳者 釈也、 交釈 華梵、 対 伝句 読。 辯 佉楼 之筆、 簡 韋
貢献 並内 出梵 経、 無慮一 千四 百二 十八 夾、 訳 成経 論凡 五百 六
請依 旧体 御製 序。 序曰、 自興 国壬 午、 距今乙 亥五 十四 載。 其
三 年 十 二 月、 訳 経 使 呂 夷 簡、 潤 文 宋 綬 言、 準 詔 続 修 法 宝 録、
〈原 文〉
字 やヴェ ーダ 文字 も読 み解い たの であ る」 と。
一 句、 読 みを なし た。 ま た古 代イ ンド のカ ローシ ュテ ィー 文
漢 語梵語 をそ れぞ れ訳 したう えで 相互 に伝 えて対 校し、 一 句
四 二 八 箱、 訳 出 さ れ た も の は 五 六 四 点 あ る。 訳 と は 解 釈 で、
( 夏 竦 ) に よ る 序 文 は 次 の よ う に 言 う「 太 平 興 国 七 年 か ら
今 景祐二 年ま で五 四年、 その 間に もた らさ れた梵 文経 典は 一
を 賜りた い」 と。
( 景 祐 三 年 ) 一 二 月、 呂 夷 簡 や 宋 綬 が 上 奏 す る に「 詔 勅 を
承 けて法 宝録 を続 修い たしま した。 旧 例に 従って 御製 の序 文
一〇二
是録 即自 大中 祥符 四年 以後至 景祐 三年、 惟 浄与法 衆、 並預 編
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
纂。
仁宗 は 『景祐 新修 法宝録』 と 命名 され た。 こ の経 録は 大中
祥 符四年 から 景祐 三年 の間の 訳出 経典 を記 録する が、 すべ て
〈解 説〉
三年 十二 月、 訳経 使呂 夷簡、 潤文 宋綬 言く、 詔に 準じ て法 宝
〈訓 読〉
惟 浄と法 衆が 編集 した もので ある。
〕
録を 続修 す。 旧体 に依 りて御 製序 を請 う。
〔
序し て曰 く、 興国 壬午 (太平 興国 七年 ・九八 二) より、 今 乙
なお 上海 古籍 本は、 ここ で 「御製 序」 とされ る 「自興 国壬
午、 云々」 の 一段 は、 夏竦の 「伝 法院 訳経 碑銘」 の序 文で あ
〕 段へ移 して いる。
る と左記 のよ うに 注し、 原文 を 〔
よ
亥 (景祐 二年 ・一 〇三五) ま で距 つる こと五 十四 載な り。 其
是の 録は 即ち 大中 祥符四 年 (一〇 一一) より 以後、 景 祐三 年
名 を 賜 わ る に、 詔 し て 景 祐 新 修 法 宝 録 を 以 て 名 と 為 さ し む。
の辞 を簡 ぶ、 云々。 詔し て石 に刊 まし む。
に拠 りて 此に 移す。
に あ ら ず。 蓋 し『 大 典 』 の 錯 簡 な る べ し。 今、『 玉 海 』
竦「 伝 法 院 碑 銘 」 の 序 に し て、「 景 祐 新 修 法 宝 録 」 の 序
集 』 巻 二 六、『 玉 海 』 巻 一 六 八 を 考 う る に、 此 は 乃 ち 夏
243
(一 〇三 六) に至 るまで 惟浄 と法 衆と、 並て 編纂 に預 かる。
交ご も華 と梵 を釈 し、 対 伝し 句読 す。 佉楼の 筆を 辯じ、 韋 佗
お
し て 経 論 と 成 る も の 凡 そ 五 百 六 十 四 巻 な り。 訳 と は 釈 な り、
の貢 献し て並 に内 出せ し梵経 は無 慮 そ一 千四 百二 十八 夾、 訳
按ず る に、「 序 曰 」 よ り「 詔 刊 于 石 」 の 一 段 の 文 字 は、
原 は 下 条 の 「 御 製 序 」 の 後 に 在 り。 今、 夏 竦 の 『 文 荘
251
を 言 い、 狭 義 に は サ ン ヒ タ ー を リ グ ・ ヴ ェ ー ダ、 サ ー マ ・
ア ー ラ ニ ヤ カ( 森 林 書 )、 ウ パ ニ シ ャ ッ ド( 奥 義 書 ) の 四 種
ヴェ ーダ、 ヤ ジュ ル・ヴ ェー ダ、 アタ ルタ・ ヴェ ーダ に分 け
韋 佗はヴ ェー ダで、 古 代イン ドで 編纂 され た宗教 関係 文書
の総称。広義にはサンヒター
(本集)
、ブラーフマナ(祭儀書)
、
経 」 の 一 部 と し て、 現 在『 中 華 大 蔵 経 』( 北 京 版 ) 第 七 三 冊
「 景 祐 新 修 法 宝 録 」 の 序 文 は 趙 城 県 広 勝 寺 所 蔵「 金 版 大 蔵
ると いう。 手 近な 参考書 とし て辻 直四 郎 『イ ンド 文明 の曙 ―
本 訳 註 で は、 上 海 古 籍 本 の 校 訂 の 妥 当 な る こ と を 認 め つ
つ、 便宜 上、 原本 どお りの位 置に 置い て訓 読して おく。 た だ
に収 録さ れる。 呂 夷簡に つい ては 前出。
哲学へのいざない(ヴェーダとウパニシャッド)』(NHKラ
し 内 容 は あ く ま で 夏 竦 「 伝 法 院 碑 銘 」 の 序 文 と み る。 な お
宋 綬 (九 九一 ―一 〇四 〇) に つい ては 『宋 史』 巻 二九 一に
立 伝 さ れ る。 字 は 公 垂。 諡 は 宣 献。 趙 州 平 棘 (河 北) の 人。
イブ ラリ ー) を挙 げてお く。
〈永 井〉
ヴェーダとウパニシャッド』(岩波新書)、前田専学『インド
蔵 書家と して 名高 く、 経史百 家に 通じ てい たと。 諸職 を歴 任
〔
し 『真宗 実録』 を 修す。
佉楼 ・カ ロー シュ ティー 文字 は、 古代 の西 北イン ドや 中央
ア ジアで 用い られ た文 字。 佉 留、 佉盧 虱底、 佉盧 瑟吒 など と
宝 元二年 十一 月二 十五 日、 伝 法院 言、 建立 訳経碑 銘工 畢。 詔
〈原 文〉
〕
音 写され る。 紀元 前三 世紀の アシ ョー カ王 碑文に 用い られ て
行 く。 少 き者 は蒼 頡、 其の書 は下 へ行 く。 梵及び 佉楼 は天 竺
と 曰い、 其の 書は 右へ 行く。 次は 佉楼 と曰い、 其 の書 は左 へ
蔵 記 集 』 に は 「 昔、 造 書 の 主 に 凡 そ 三 人 有 り。 長 の 名 は 梵
沙 論』 で は 「佉盧 瑟吒」 に作 る。 また、 六 世紀の 僧祐 『出 三
宝 元二年 (一 〇三 九) 一一月 二五 日、 夏竦 が撰し た 「伝法
院 訳 経 碑 銘 」 を 石 碑 に す る 工 事 が( 前〔 〕 項 )、 四 年 を 経
〈解 説〉
工畢 んぬ。 官 吏に 詔し て恩賚 する こと 差あり。
宝元 二年 十一 月二 十五 日、 伝 法院 言く、 訳経 碑銘 を建 立す る
〈訓 読〉
官 吏恩賚 有差。
蒼 頡は華 を鳥 跡に 因む。 文畫 は誠 に異 なる も、 伝 理は 則ち 同
に居し。黄史の蒼頡は中夏に在り。梵と佉は法を浄天に取り、
て、 完成 した。 皇 帝は関 係官 僚に 恩賞 を与え た。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
なり。(大正蔵五五、四b)とある。
た 『阿毘 曇毘 婆沙 論』 に見え る。 玄奘 訳の 『阿毘 達磨 大毘 婆
い るもの が現 存最 古と いう。 竺法 護訳 『普 曜経』 に見 え、 ま
252
一〇三
250
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈徳 護〉
一〇四
り、 都 の 開 府 は 地 方 よ り 少 し 高 い(『 宋 史 』 巻 一 七 五「 食
貨 」、 煕 寧 二 年〔 一 〇 六 九 〕 の 記 事、 中 華 書 局 本、 第 一 三
冊、 四二 四三 頁) ので、 高位 の一 貫を 採用し 換算 する と、 米
〕
〈徳 護〉
〔
〔
五百 碩 (五万 升) となる。
慶 暦三年 十月、 賜 伝法 院、 寺 務司 銭歳 五百 千。
〈原 文〉
〕
慶 暦三年 十月、 伝 法院 と寺務 司に 銭を 歳に 五百千 を賜 う。
〈訓 読〉
〈解 説〉
〈訓 読〉
五 年正月、 宰 臣章 得象 に命じ て、 御製 伝法 院訳経 碑後 記を 撰
五 年正月、 命 宰臣 章得 象、 撰 御製 伝法 院訳 経碑後 記。
慶暦 三年 (一 〇四 三) 一 〇月、 伝 法院 と寺務 司に それ ぞれ
年 に銭五 百千 (五 百貫) を賜 うと いう 命令 である。
せ しむ。
〈解 説〉
慶暦 五年 (一 〇四 五) 正 月、 宰臣 であ る章得 象に 「御 製伝
法 院訳経 碑後 記」 を撰 させる とい う勅 命で ある。 同じ 内容 は
こ の 記 事 に よ れ ば、「 御 製 伝 法 院 訳 経 碑 記 」 も あ っ た ら し
い が、〔 〕、〔 〕 の 夏 竦 撰「 伝 法 院 訳 経 碑 銘 」 と の 関 係 は
に もある。
250
章得象については〔
〕 を参照。
確 認 で き な い。 ま た、「 御 製 伝 法 院 訳 経 碑 後 記 」 に つ い て も
252
『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 一 五 四 ( 同、 第 一 二 冊、 三 七 四 〇 頁 )
『宋会要輯稿』の「職官二五・寺務司」には、
寺 務 司、 京 城 の 大 寺、 殿 宇、 廊 舍 を 補 葺 す る こ と を 掌
す。 (第 三冊、 二 九〇 四頁、 職官 二五 ―八)
と記 され てい る。
未 詳であ る。
頁) によ ると、 当 時江浙 には 米一 碩あ たり六 百か ら一 貫で あ
銭 五 百 貫 の 価 値 に つ い て 考 察 す る と、『 続 資 治 通 鑑 長 編 』
巻一 四三 の范 仲淹 の奏上 (中 華書 局本、 第一 一冊、 三 四四 〇
ている(中華書局本、第一二冊、三九〇三頁)。
寺 務 司 に つ い て は 『 宋 史 』 巻 一 六 五 の 「 鴻 臚 寺 」 の 項 に、
在京寺務司及び提点所は諸寺の葺治の事を掌すると記録され
この 記事 は 『続資 治通鑑 長編』 巻 一四 四 (中 華書 局本、 第
一 一冊、 三四 七九 頁) にも出 る。
254
〈原 文〉
253
245
皇 祐四年 正月 八日、 参 知政事 の高 若訥、 枢 密使に 進み、 詔 し
殿。
三 月二十 二日、 以 伝法 院新建 御書 西竺 声原字 母碑 殿、 為乾 華
〈原 文〉
〔
枢密使と潤文の関係は〔
せ た。
皇祐 四年 (一 〇五 二) 正 月八 日、 参知 政事の 高若 訥が 枢密
使 に昇進 し、 詔命 によ り、 慣 例に 倣っ て同 訳経潤 文を 兼任 さ
〈解 説〉
〈徳 護〉
〈訓 読〉
高 若 訥( 九 九 七 ― 一 〇 五 五 )、 字 は 敏 之、 諡 は 文 荘、 本 籍
は 并州楡 次 (山西 省) の人、 衛州 (河 南省) に徙 った。 進 士
て 仍お同 訳経 潤文 を兼 ねしむ。
三 月二十 二日、 伝 法院 に新建 せる 御書 西竺 声原字 母碑 殿を 以
と な り、 諸 職 を 歴 任。『 宋 史 』 巻 二 八 八 の 高 若 訥 伝 に よ れ
て 乾華殿 と為 す。
〕
〈解 説〉
と 管子で あり、 暦 学に 頗る明 るか った が、 仏教に 対す る態 度
潤 文。
〈訓 読〉
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
〈徳 護〉
〕 を参照。
慶暦 五年 (一 〇四 五) 三 月二 二日、 伝 法院 に新し く建 てた
御 書西竺 声原 字母 碑殿 を乾華 殿と 為し たと いう記 録で ある。
八五頁)。
〕
249
皇 祐四年 正月 八日、 参 知政事 高若 訥進 枢密 使、 詔 仍兼 同訳 経
〈原 文〉
〔
認 できな い。
「書西竺声原字母碑」についての記録はない。前〔 〕項に
記 録され た 『景祐 天竺 字源』 と関 係が ある と思わ れる が、 確
255
256
〔
〕
〈徳 護〉
は あまり 好意 的で はな かった (中 華書 局本、 第二 六冊、 九 六
ば、 知識 が該 博し、 史 伝に詳 しく、 尤 も好 きなも のは 韓非 子
245
一〇五
至 和 元 年 十 二 月 八 日、 伝 法 院 訳 経 三 蔵 大 師 法 護 に 賜 わ り て、
〈訓 読〉
伝 梵大師。 法 護、 西天 僧、 有 戒行、 特 以六 字師号 賜之。
至 和元年 十二 月八 日、 賜伝法 院訳 経三 蔵大 師法護 為普 明慈 覚
〈原 文〉
257
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
普 明 慈 覚 伝 梵 大 師 と 為 す。 法 護 は 西 天 の 僧 に し て 戒 行 有 り、
特に 六字 の師 号を 以て 之に賜 わる なり。
〈解 説〉
一〇六
同 じ記事 は 『宋会 要輯 稿』 の 「職 官・ 鴻臚 寺」 に は次 のよ
うに 記録 され てい る。
て 固 く 辞 す。 明 年 八 月、 乃 ち 以 て 京 の 顕 聖 寺 聖 寿 禅 院 に
四年三月十九日、詔して印経院を廃す。其の経板は杭州
に 付 し、 僧 了 然 に 令 し て 主 持 せ し め ん と す。 了 然 は 復 ね
至 和元年 (一 〇五 四) 一二月 八日、 伝 法院 の訳経 三蔵 大師
法護に普明慈覚伝梵大師と賜わった。法護はインドの僧侶で、
(第 三冊、 二 九〇一 頁、 職官 二五 ―三)
引 き 受 け た。 顕 聖 寺 の 仏 経 印 刷 に つ い て は、 李 富 華「『 開 宝
の懐 謹 (一〇 一一 ―一〇 八五、 号 は智 悟大師) が この 事業 を
了然 (不 詳) とい う僧は 断っ たが、 後 に京の 顕聖 寺聖 寿禅 院
こ の記事 によ れば、 官 営の印 経院 を廃 止す る時、 印経 の経
板を 地方 に与 え、 印造し て流 行す るこ とを望 んで いた。 初 め
付 し、 主 僧 の 懐 謹 に 令 し て 印 造 し て 流 行 す る こ と を 認
(大 正蔵 四九、 四 一二c)
〈徳 護〉
〈徳 護〉
蔵 』 研 究 」( 李 富 華『 漢 文 仏 教 大 蔵 経 研 究 』 所 収、 六 九 ― 九
一頁、 宗 教文 化出 版社、 二〇 〇三 年) に詳し い。
〕
〔
〕参照)、八八年を経て、廃止された。
元豊 元年 七月 九日、 詔 す、 故 西天 訳経 三蔵試 鴻臚 卿日 称に 諡
〈訓 読〉
教。 仍依 法護 例遺 恩度 僧七人、 慧 辨院歳 増度 僧一 人。
(辯カ)
元 豊元年 七月 九日、 詔 故西天 訳経 三蔵 試鴻 臚卿日 称賜 諡曰 闡
〈訓 読〉
(〔
神宗 煕寧 四年 (一 〇七一) 三 月、 印経 院が廃 止さ れた とい
う 記録で ある。 印 経院 は太平 興国 八年 (九 八三) に設 置さ れ
〈解 説〉
〈原 文〉
〕 を参照。
む。
戒行 に優 れた ため、 特 に六字 の師 号を 賜わっ たの であ る。
〕と〔
同 様の記 事は 『仏 祖統 紀』 巻 四五 に出 る。
至和元年、勅す、三蔵法護、戒徳高勝なれば、特に六字
の師 号を 賜う べし、 普明 慈覚 伝梵 大師 と曰う。
法護については〔
〕
236
神 宗煕寧 四年 三月、 印 経院を 廃す。
259
〔
226
神 宗熙寧 四年 三月、 廃 印経院。
〈原 文〉
258
212
習 学、 続 修 宝 元 以 後 法 宝 籙、 候 有 通 達 義 理 梵 僧、 休 旧 翻 訳。
僧 日称死、 同 訳経 僧慧 詢等皆 不能 継、 乞罷訳 場。 乃詔 令在 院
(依カ)
を賜 わり て闡 教と 曰う。 仍お 法護 の例 に依り 遺恩 もて 僧七 人
而降 因有 是命。
〈訓 読〉
(ママ)
を度 し、 慧辯 院は 歳に度 僧一 人を 増す。
是 れ、 訳 経僧 日称 死し、 同訳 経僧 慧詢 等、 皆 な継 ぐこ と能 わ
(絳カ)
〈解 説〉
元 豊元年 (一 〇七 八) 七月九 日、 詔し て、 亡くな った 西天
訳経 三蔵 試鴻 臚卿 日称 に闡教 とい う諡 を賜 わった。 な お以 前
ず、 訳場 を罷 むる こと を乞う。 乃 ち詔 して、 院に 在り て習 学
を 候ちて、 旧 に依 りて 翻訳せ しめ んと す。 而して 絳に、 因 り
し、 宝元 以後 の法 宝録 を続修 して、 義 理を 通達す る梵 僧有 る
十 月三日、 参 知政 事元 絳、 伝 法院 新編 法宝録 を参 定す。 先 に
の法 護の 例に 依り、 遺 恩によ り僧 七人 を度し、 慧 弁院 には 一
〕 を参照。
年の 度僧 人数 を一 人増 員した。
本項と同内容を持つ〔
て 是の命 有り。
〈解 説〉
本記 事と 同内 容の 記事は 『続 資治 通鑑 長編』 巻二 九三 (中
華 書局本、 第 二一 冊、 七一七 四頁) に 出る。 本項 では これ に
4
基 づ い て 一 部 校 訂 を 行 っ た。 主 な 異 同 は 次 の 通 り。「 参 知 政
4
、
「訳経僧日称死」
事元絳」を『長編』では「命参知政事元絳」
4
て、 之を 可す。 (中 華蔵 北京 版七 六、 五 七〇 c)
と 記され てい る。 この 記事か ら、 慧弁 院は 法賢と 法天 の帰 葬
4
4
を『長編』では「訳経僧日成死」
、
「同訳経僧慧詢」を『長編』
4
同年 (元 豊元 年) 一〇月 三日、 参 知政 事の元 絳に 伝法 院新
編 法宝録 の参 定の 命令 が下っ た。 それ は訳 経僧の 日称 が死 亡
訳」、「而降因有是命」を『長編』では「而絳因有是命」。
4
の 所であ り、 法賢 の師 号であ る慧 弁三 蔵に 従って 慧弁 院と 命
〈徳 護〉
で は「 同 訳 僧 慧 詢 」、「 休 旧 翻 訳 」 を『 長 編 』 で は「 依 旧 翻
〕
し、 同 じ く 訳 経 僧 の 慧 詢 た ち に 訳 経 継 続 の 実 力 が な い の で、
〔
一〇七
〈原 文〉
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
訳 場廃止 が申 請さ れた ことに 由る。 し かし、 皇帝 はこ れを 認
(ママ)
名 された こと が知 られ る。
以 て 衆 僧 に 供 す。 望 む ら く は 輸 税 を 免 ぜ ん こ と を。 詔 し
先に地を賜わるを蒙り、慧弁禅院を建つ。田百余畝有り、
な お 『景 祐新 修法 宝録』 巻一 六に、
中祥符六年〔一〇一三〕)冬十一月、三蔵沙門施護上
(大
言 す る に、 故 慧 弁 三 蔵 法 賢、 玄 覚 三 蔵 法 天 の 帰 葬 の 所、
125
十 月 三 日、 参 知 政 事 元 絳 参 定 伝 法 院 新 編 法 宝 籙。 先 是、 訳 経
260
めず、 訳 経僧 たち が伝法 院で 学習 しな がら、 宝元 (一 〇三 八
〈解 説〉
二年六月十一日、参知政事蔡確、伝法院法宝録を参定編集す。
〈訓 読〉
一〇八
―一 〇四 〇) 以降 の法 宝録を 修し、 仏 教教 理に通 達す る梵 僧
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
の出 現を 待っ て、 また翻 訳を 再開 せよ との勅 命を 出し た。 そ
元豊 二年 (一 〇七 九) 六 月一 一日、 参 知政 事であ る蔡 確が
伝 法院法 宝録 を参 定し 編集し たと いう 記事 である。
ここで言う法宝録は前項の伝法院新編法宝録と同じものと
考 えられ る。
のため、元絳に伝法院新編法宝録を参定する命令が下された。
元 絳 (一 〇〇 八― 一〇 八三) は 『宋史』 巻 三四三 に伝 記が
ある。 字 は厚 之、 祖先は 臨川 (江 西省) の危 氏、 唐末 に杭 州
に遷 り、 祖父 が呉 越の丞 相を 務め たこ とによ り、 銭塘 の人 と
る。字は持正、泉州晋江(福建省)の人。進士に合格した後、
蔡確 (一 〇三 七― 一〇九 三) につ いて は 『宋 史』 巻四 七一
「奸臣」(中華書局本、第三九冊、一三六九七頁)に伝記があ
なっ た。 進士 であ り、 諸 職を 歴任。 文 辞を巧 みに し、 范仲 淹
も 彼 の 才 能 を 表 彰 し た ほ ど で あ っ た。( 中 華 書 局 本、 第 三 一
〕
〈徳 護〉
卿 少卿者。 今 除散 階已 罷外、 其帯 少卿 官名 実有妨 礙。 欲乞 以
三 年十月 九日、 詳 定官 制所言、 訳 経僧 官、 有授試 光禄、 鴻 臚
〈原 文〉
〔
『 宋 会 要 輯 稿 』「 職 官・ 鴻 臚 寺 」( 巻 三、 二 九 〇 二 頁、 職 官
二 五―五) に 同じ 内容 の記事 があ る。
所 で卒し た。
諸 職を歴 任し た。 智数 があり、 細 行は 謹ま ずと記 され た。 貶
冊、 一〇 九〇 五頁)
慧 詢 は 『 仏 祖 統 紀 』 巻 一 七 ( 大 正 蔵 四 九、 二 三 五 a ) と
『補続高僧伝』巻三(新纂続蔵七七、七七a)に伝記がある。
字は 謀道、 号 は月 堂。 八歳で 祖印 院に 出家。 乾道 年間、 南 湖
を掌 り、 丞相 魏杞 と道友 とな った。 淳 熙六年 冬一 〇月 二七 日
に亡 くな った。
『 宋 会 要 輯 稿 』「 職 官・ 鴻 臚 寺 」( 巻 三、 二 九 〇 二 頁、 職 官
二五 ―四) に 同じ 内容 の記事 があ る。
〈徳 護〉
授 試 卿 者 改 賜 訳 経 三 蔵 大 法 師、 試 少 卿 者 改 賜 訳 経 三 蔵 法 師、
〔
〕
〈原 文〉
其 師号及 請俸 之類 並依 旧。 詔、 試 卿者 改賜 六字法 師、 試少 卿
(ママ)
262
二 年 六 月 十 一 日、 参 知 政 事 蔡 確、 参 定 編 修 伝 法 院 法 宝 籙。
261
三年 十月 九日、 詳 定官制 所言 く、 訳経 の僧官 に試 光禄 と鴻 臚
者四 字、 並冠 訳経 三蔵、 余依 旧。
に ほぼ同 様の 記事 があ る。
八〇(黒龍江人民出版社、二〇〇六年、第三冊、一四二五頁)
書局本、第二一冊、七五〇六頁)、『皇宋通鑑長紀事本末』巻
〕を
れ(『続資治通鑑長編』巻三〇五)、元豊五年九月二三日に廃
詳 定 官 制 所 は、 龔 延 明『 宋 代 官 制 辞 典 』( 中 華 書 局、 二 〇
〇 七年、 一〇 〇頁) に よると、 元 豊三 年六 月一五 日に 設置 さ
〕 と〔
めて 訳経 三蔵 法師 を賜 わり、 其の 師号 及び請 俸の 類並 べて 旧
止( 同、 巻 三 二 九 )。 元 豊 改 革 の 時 に、 官 名 制 度 の 草 案 を 起
試 光 禄 卿 と 少 卿、 試 鴻 臚 卿 と 少 卿 と は、〔
参 照。
〈訓 読〉
に卿 と少 卿を 授く る者 有り。 今、 散階 は已に 罷め るを 除き て
外、 其の 少卿 の官 名を 帯びれ ば、 実に 妨礙有 り。 試卿 を授 く
に依 るを 乞わ んと 欲す。 詔し て、 試卿 の者は 改め て六 字の 法
草 する機 構で ある。
る者 を以 て改 めて 訳経 三蔵大 法師 を賜 わり、 試少 卿の 者は 改
師 を 賜 わ り、 試 少 卿 の 者 は 四 字、 並 べ て 訳 経 三 蔵 を 冠 せ よ、
者に は改 めて 訳経 三蔵 大法師 の号 を賜 い、 試 少卿 の者 には 訳
の卿 と少 卿の 官名 も実 際には 妨げ があ るので、 試 卿を 授け た
尚 書領之、 廃 訳経 使司 印。
五 年七月 八日、 詔 訳経 潤文使、 同 訳経 潤文 並罷、 自今 令礼 部
〈原 文〉
〔
〈徳 護〉
経三 蔵法 師の 号を 賜い、 其の 師号 と俸 禄の事 はす べて 従来 通
〈訓 読〉
余は 旧に 依る べし。
元 豊三年 (一 〇八 〇) 一〇月 九日、 詳 定官 制所が 進言 する
に、 訳経 を務 める 僧官 には試 光禄 卿と 少卿、 試鴻 臚卿 と少 卿
り と の 願 い 出 が あ っ た。 こ れ を 受 け て、 試 卿 は 六 字 の 師 号、
を授 けた 人が ある が、 今は職 務の ない 位階を 廃止 し、 それ ら
試少 卿は 四字 の師 号を 賜い、 また 訳経 三蔵 の称号 を冠 し、 ほ
五 年 七 月 八 日、 詔 す、 訳 経 潤 文 使 と 同 訳 経 潤 文 並 べ て 罷 め、
一〇九
今 より礼 部尚 書を して 之を領 せし め、 訳経 使司の 印を 廃す べ
かは 元の まま にせ よと の詔勅 が下 った。
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
し。
〕
元豊 の改 革に 際し て、 僧 官制 度も 同様 に、 改 革し てい たこ
と がわか る。
214
〈解 説〉
125
この内容は『宋会要輯稿』「職官・鴻臚寺」(第三冊、二九
〇二頁、職官二五―五)、『続資治通鑑長編』巻三〇九(中華
263
〈解 説〉
淳煕 二年 (一 一七 五) 二 月二 三日、 伝 法院の 智覚 が進 言し
て、 伝 法 院 は 元 は 東 京 右 街 に あ っ た 太 平 興 国 寺 伝 法 院 で あ
〈解 説〉
一一〇
元 豊五年 (一 〇八 二) 七月八 日、 詔し て、 訳経潤 文使 と同
訳経 潤文 を共 に廃 止し、 以後 礼部 尚書 の所管 とし、 訳 経使 司
る。 紹興 初期 に朝 廷が 南遷す るに 従っ て、 僧侶た ちも ここ に
『宋会要』道釈部訓注(一〇)(永井)
の印 は廃 止す ると した。
を 賜わり たい と願 い出 て、 こ れが 認め られ た。
淳祐 七年、 御 扁及 び飛天 法輪 宝蔵 の六 字を以 て賜 わる。
覚、奏請するに、始めて太平興国伝法寺の額を賜われり。
に 随 い 南 渡 し、 乞 う て 院 を 建 つ。 淳 煕 二 年、 慧 弁 大 師 智
南宋の伝法院については、『咸淳臨安志』巻七六には、
太平興国伝法寺、佑聖観の東に在り。先に是れ東京の太
平 興 国 寺 に 伝 法 院 有 り、 紹 興 の 初 め に 普 照 大 師 徳 明、 駕
き て、 仏 殿寺 宇を 興建し た。 伝法 院に 太平 興国伝 法寺 の寺 額
『 宋 会 要 輯 稿 』「 職 官・ 鴻 臚 寺 」( 第 三 冊、 二 九 〇 二 頁、 職
官二五―五)、『続資治通鑑長編』巻三二八(中華書局本、第
二二 冊、 七八 九五 頁) に 同内 容の 記事 がある。
『 宋 代 官 制辞 典』
(前掲書、
同訳経潤文や訳経使司について、
三 二 一 頁 ) に は、 訳 経 使 兼 潤 文 は 名 誉 職 で あ る が、「 訳 経 潤
文使 司」 の官 印の み存す ると ある。
〈徳 護〉
(『宋元方志叢刊』中華書局本、第四冊、四〇四〇頁)
と記される。また、『仏祖統紀』巻四三に、「今の臨安の伝法
院は、 即 ち東 都の 訳経院 なり。 今 は但 だ入内 道場 の法 事を 供
〕
〈原 文〉
奉するのみ」(大正蔵四九、三九八c)と記録されている。
〔
淳 熙二年 二月 二十 三日、 伝法 院智 覚言、 本 院原係 東京 右街 太
(紹カ)
平 興国寺 伝法 院、 自詔興初 間、 僧衆 随従 車駕至 此、 興建 仏殿
〈徳 護〉
寺宇。 乞 賜太 平興 国伝法 寺為 額。 従之。
〈訓 読〉
淳煕 二年 二月 二十 三日、 伝法 院の 智覚 言く、 本院 は原 より 東
京右 街の 太平 興国 寺伝法 院に 係る。 紹 興の初 めの 間よ り、 僧
衆、 車駕 に随 従し て此に 至り、 仏 殿寺 宇を興 建せ り。 乞う ら
くは太平興国伝法寺を賜わり、額と為さんことを。之に従う。
なお徳護担当分については本学大学院修士課程修了の小川
佑次 氏の 助言 があ った。
264
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