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292 - フランスの切手
イールドフランス 闘う人びと 2 図版博物館 vol.222 人の記憶 117 Musée imaginaire philatélique Région Île de France au travers des timbres français Politiques 4e éd. 2013 【229-2-1 ピエール・ド・クゥベルタン】 Pierre de Frédy, baron de Coubertin 1863-1937 YT-1088, 2889「近代オリンピクの父」ピエール・ド・クゥベルタンを、フランス郵政はこれまで 2 度切手のデザインに取 り上げた。1956 年にはオリンピク開催 60 年を記念してアテネと思われる競技場で宣誓する選手を 背景に、1994 年には国際オリンピク委員会創設 100 年を記念してパリ大学のソルボンヌのドームを背 景にして。これに対してクゥベルタン生誕 100 年(1963 年)を記念する切手はなく、隣のモナコ 公国がフランスに代わって発行しているので参考までに掲げておこう。 クゥベルタン家は、 ピエールの祖父ボナ ヴァンチュル・ジュリアン が 1821 年に男爵 位を授与されて 貴族となった。 ナポレオン時代には 帝国官僚として主としてドイツに派遣されていたが、復 古王政でもルイ 18 世に高級武官として仕え、その功績か ら爵位を得た。ピエールが生まれた家庭の空気は貴族的で、 彼はその影響を強く受けて育った。父親は絵描きで官 展サロンで賞を得たこともあるというが、ピエールにとって どのような存在であったかを記述したものは少ない。 ここで紹介するにあたって大事なことはピエールの「高貴 で高邁な」精神がどのように涵養されたかである。本人の語るところでは、19 世紀後半の 激動のフランスにあって、言うならば消去法で青年の教育、歴史[教育]、スポーツの重要性等に行 きついたようだ。消去法で消去されたのは(陸軍士官学校を目指しながらやめた)軍人へ の道と、(貴族的共和主義つまり観念論ではついていけない第 3 共和制下の)政治家への 道である。イギリスに遊学してパブリク・スクールとくにラグビー校などで見聞した知育体育両立の教 育に感銘を受けた(トーマス・アーノルドの学校体育論など)。これに対してフランスでは、スポーツ大会は 子供を競争させて差をつけるから望ましくないという平等公平教育論が根強く、彼を悩ま ©bibliotheca philatelica inamoto 1 せた(これはオリンピクの復活を提唱したころまでつきまとった不愉快な思いであったという)。 ではどのようにしてオリンピク復活の提唱となり、フランス 政府がこれに賛同して 1894 年のパリ会議の開催に至っ たのか。クゥベルタンの呼びかけ(1892 年)に基づいてソルボ ンヌの大講堂で開催されたこの会議には、13 ヵ国の 49 クラ ブを代表する 79 人のスポーツ関係者が参加した。1896 年 にアテネで復活第 1 回を開催することと、ギリシャのヴィケラス Dimítrios Vikélas を初代オリンピク委員長とすること等を決 定した。13 ヵ国の顔触れは、イギリス、アメリカ、 ャ、オーストラリア、 イタリア、 ロシア、ギリシ オランダ、ボヘミア、スペイン、ハンガリー、スエ ーデン、ベルギーとフランスである。「この偉大にして益する こと多いオリンピク復活の事業」とのクーベルタン報告は一般の クーベルタン 31 歳 聴衆には受けたが、ヨーロッパ諸国の代表の反応はさほどで はなかった。「オリンピクの復活はせいぜいが オペラでの話[古代もののオペラを指す]」とい う具合であったと、彼はいう。このムードを 破るために、クーベルタンはイギリスとアメリカの代表に 粘り強く働きかけたが、結果的にはこれが功 を奏して開催の決定に至ったと言うのが真相 であった。いや、真相といえば、フランス政府の 目論見とそれを十分に承知した「高貴で高邁 な」精神の働きによって、さらに具体的にい えば 1900 年の万博開催を国家事業として取 前列左端がクーベルタン、中央はヴィケラス り組む政府にとってもう一つ欲しい目玉を第 2 回オリンピク大会のパリ開催に求めて、であった。結果からみればことはその通りに進んだことに なる。大義名分が立つギリシャに第 1 回大会の花をもたせ、第 2 回大会は花のパリで開催し、万博 に花を添える。極端にいえば、パリのメトロ [1 号線]もオリンピクも万博にあわせて推進された集客事 業であった。先に掲げた国際オリンピク委員会 100 年記念切手は色とりどりで、植民地経営に本格 的に乗り出して好調な産業経済の時代を迎えた 100 年前のフランスを想起させる。その後の第 7 回 パリ大会まで国際委員長をつとめたクーベルタンの苦労は他に譲ることとして、「オリンピク復活のため に闘った男爵」の紹介はこれで終わる。彼は、パリ大会ののち委員長職からは解放されるが、36 年のベルリン大会についてはフランスをはじめヨーロッパ諸国の世論との関係で再び苦労を味わう。ヒットラー 登場前の決定ではあったが、結局は「ハイル・ヒットラー」の喚声包まれた大会であった。彼が翌 37 年 に心臓麻痺で倒れ不帰の人となったことと関連付けて考える評論が多い。 もう 1 枚切手が残った。冒頭に掲げた 1956 年発行の切手である。発行の趣旨は「オリンピク開催 60 年」である。4 年に 1 回であれば 50 周年は祝いにくいので 60 年ということはわかるが、こ ©bibliotheca philatelica inamoto 2 の切手から何か悲鳴のような声が聞こえてこないか、というのが私のぬぐい切れぬ疑問なのだ。 フランスは 1924 年以降は夏季大会を開催していない。4 年ごとの他都市での大会には参加し、 最低 1 点の切手を発行しているが、1980 年のモスクワ大会とソウル大会の際には発行を見合わせて いる(モスクワ大会には参加が決まったのが遅かったという事情があるが、ソウル大会については 不発行の事由は不明)。他方で、56 年のメルボルン大会に際しては切手を発行したのは夏季大 会の全日程が終わった 11 月のことでこれは異常であった。南半球初の大会であったが、国 際情勢が余りにも厳しく、禍根を残したため、史上初めてのボイコットが生じた。同年は政治 的事件としてスエズ運河の閉鎖、エジプト・イスラエル紛争、アルジェリア戦争の泥沼化、そして決定的な 事件としてソ連軍によるハンガリ-制圧が生じた。スペイン、オランダ、スイスがメルボルン大会をボイコットし た。エジプト、イラク、レバノンもイスラエルの参加を理由にボイコットし、中国は台湾の国旗が掲揚された ことを不満として選手を引き上げた。このような悲鳴をこの切手から聞く。クーベルタンの表情 もそれまでの写真にないほど厳しい。フランス郵政は、状況の判断ができないままに切手発行 の時期を失したことを 反省するかのように、 この切手を出したもの と思う。229-2-1 オリンピクの標語は 「より早く、より 高く、より強く」 だが..... → ← 20 フラン記念銀貨 オリンピク 100 年は貨幣鋳造によっても祝賀された。 【229-2-2 アルベール・トマ】 Albert Thomas 1919-69 YT-1600 次 の切手は、国際労働機構 ILO(フランス 語では OIT, Organisation Internationale du Travail)の設立 50 周年を記念して 1969 年に発行された。そのデザインにあ ご髭を蓄えた恰幅の良い紳士とルリエフのような彫刻が描かれている。男は ILO の初代事務局 長アルベール・トマ、彫刻はジュネヴの ILO 本部にある炭鉱労働者を模した像でラドフスキーの作品であ ©bibliotheca philatelica inamoto 3 る。社会党 SFIO 員であり、第 1 次大戦下の挙国一致 内閣の閣僚であったトマが戦後 ILO のトップの座に就い たとしても、当然にここで言う「闘う著名人」のカテゴ リーに入ることにはならないのだが、戦時下の功績と戦 後の成果の両面から、余人には期待できない戦いを祖 国と世界の労働者のために完遂した人間で、フランス政府 首脳も、ヴェルサイユ条約締結国のどの支配者も彼には反 対できなかった、言いかえれば統治の仕組みを構造的に組み変えられてしまったといって よい相手であった。トマとはどのような男であったか。 やがて述べるように、対独戦を勝利に導くという(軍事的には不可能に近い)目標を 社会経済的に労働と物資の総動員的な活用によって達成したのち、労働者を国と国際社 会の対等の担い手と位置付けることによらなければその保護は十全でないとして、1918 年にロンドンで開催された社会主義労働者会議で「やがて開催される平和会議への各国の代 表団には労働者代表を 1 人含めなければならない」という要求をまとめ、それを「平和 のための戦争」の名のもとに L'Humanité, Le Populaire de Nantes, La France de Bordeaux, La Dépêche de Toulouse などの紙面で公にした。これが最終的にはヴェルサイユ条約第 8 章となっ て、ILO を創設し 19 年 11 月に第 1 回の国際会議をワシントンで開催させた。政府、雇用者、 被用者の三者が国際会議に対等に出席した嚆矢であった。彼はその会議で ILO に事務総 長に選出され、20 年 1 月の理事会で承認された。この過程でのトマ(下左)にとって最大 の同志はベルギーの有名な政治家であるヴァンデルヴェルド(下右)であった。 これが「平和のための戦争」であったかは別と しても「戦争を十全に利用した構造改革」であった ことは疑いがない。その前提は戦中の総動員態勢づ くりにあった。 右の写真は上のものよりも 10 歳は若いトマのものである。彼は、パリの東郊のシャンピニィ・シュ ル・マルヌ Champigny-sur-Marne(ヴァル・ド・マルヌ県)のパン屋の息子だが、大変成績がよい子で 名門のリセ・ミシュレの入学試験で 1 位であったばかりか、高等師範学校の入学試験でも 1 位、さ らに卒業に当たっての歴史学教授資格試験でもトップという前代見聞の成績だったらしい。 ©bibliotheca philatelica inamoto 4 だが、教授や官僚、軍人にはならず地元の協同組合の活動家となり、全国食品協同組合連 合を経て 1904 年に政治家となった。といっても、シャンピニィの社会党の市議でやがて市長と なる。1910 年にセーヌ県選出の下院議員となり、党首ジョレス(ミディ・ピレネ 6)に近く 14 年にセーヌ 県で再選されたのちはジョレスの選挙区であるタルン県に移った。ジョレスは開戦反対論者で、社会 党は戦時予算に反対した後で乞われて入閣を決めた。政府は初めからトマを別格の異能の人 間と見ていたふしがある。鉄道と軍司令部と公土木省の行動統括案の策定をかれに命じた。 既にアルザスに侵入していたドイツ軍から石炭と工業施設を守るため、陸軍大臣アレクサンドル・ミルラン は砲弾を中心とした武器の製造と運搬、兵員の移動のダイアグラムをつくらせた。それによっ て砲弾の生産を日産 13,500 発から 100,000 発まで増産するに至ったが、そのかなめは従 軍中の技術労働者の呼戻しと婦人労働力の動員であったようだ。加えて、経営者と労働者 共同の生産管理方法を大企業から始めて中小企業にまで拡大した。ここでいう生産管理の 重要な項目は労働条件の保全つまり 1 日当たりの最長労働時間、夜間労働、婦人の就労制 限などであり、また工場施設の安全・衛生基準の徹底であった。GQG(英語でいえば GHQ) からの、大口径砲弾を日産 70 から 50,000 に増産されたしという途方もない要求を関係企 業の設備拡張によって承諾させ、関連金属業界をふくめて世紀初のストライキの後遺症(減産)を 克服するに足りる増産態勢を実現した、と伝えられている。 トマは、アリスチド・ブリアン第 2 次内閣で軍需大臣となる。ここでは省略するが、3 人の総合力の あるすぐれた部下に恵まれたことが大きい。生産を拡大する場合の労働衛生条件、労使の 協調方法などを指導した。それまでのフランスの産業界にはまったくみられなかった経営構造 を戦争遂行の大義のもとでつくり出してしまったのである。 戦後、各国の社会党間の協議や連帯行動が強化される中で、フランスにおけるトマの教訓が諸 国に伝播し、それがヴェルサイユ条約や種々の国際協定を介して ILO の創設とトマの事務総長就任 につながったのであった。229-2-2 【229-2-3 レオン・ジュオォ】 Léon Jouhaux 1879-1954 YT-2030 1951 年のノーベル平和賞の受賞者である。パリのすぐ北隣りのパンタ ンに生まれ、マッチ工場の労働者から労働運動に入る。戦前の労働総 同盟 CGT Confédération générale du travail の書記長を 1909 年から 1947 年まで務めた。CGT はその結成時から社会変革を目指す様々 なグループを抱えていたため、結束を維持するための内部協定を 1906 年に交わしていた。 「アミアン憲章」charte d’Amiens と呼ばれる もので、 「政党および国家から独立して、緊急かつ日常の要求を擁 護し、社会の全体的な変革のために闘う」ことを組織の目的とした。ジュオォは CGT 書記長 の地位にある間一貫してこの目的に立ち返ることを要求したが、第 2 次大戦下の抵抗運動 の影響を受けてフランス共産党の指導性が強まった結果、1947 年に離脱し、CGT-FO を称する 組織を作った FO( Force ouvrière)は「労働者の力」の意味である。アミアン憲章の精神は彼 ©bibliotheca philatelica inamoto 5 が 1914 年 8 月のジョレスの葬儀で読んだ弔辞でも強調された。 「私は、自分もそうだが戦場へ 行こうとしている者の名において、我々を戦場へと押したてるのはドイツ人民への憎しみで はなく、ドイツ帝国主義への憎しみだと、この棺を前にして叫びたい」。組合運動をつうじて 力を入れたのは、労働協約、有給休暇、40 時間労働、企業国有化などであった。切手に描 かれたメダル には、「社会正義による平和」とある。 戦時下においては初めモンプリエの自宅でヴィシィ政府の監視下におかれたが、ドイツ軍による全 面占領後はナチスによって逮捕され、ブヘンバルト強制収容所に送られ、後にダッハウ関連施設に移 された。強制収容所ではガムラン将軍、ポール・レイノォ、ドゴールの姉ノマリ・アンジュ・ドゴール、レオン・ブルム、 エドアール・ダラディエ、アルベール・ルブラン、ウエイガン将軍クルマンソォの息子のミシェルなどと特別の待遇を受け たようだが、これはナチス側が捕虜交換の玉にする要人であったと推測される。これらの収容 者は 1945 年 5 月 5 日にアメリカ 103 師団によって解放された。解放後は上記のように非 共産党系の組合組織をつ くり、旧 CGT の組合主義の路線を踏襲したが、 全体の状況の変化か ら、その性格は自由主 義労働運動へと変わ っていった。ノーベル平 和賞の授与はそのよ うな意味で政治的色 彩を否定できない。 229-2-3 【229-2-4 ジャコブ・カプラン】 Jacob Kaplan 1895-1994 YT-3859 ユダヤ教の祭司。家系はリトワニア出身だが、彼はパリ 4 区の生まれであ る。1913 年にヴァクラン街のユダヤ学院に入学したが、間もなく大戦が はじまった。学業を中断し、志願してフランス軍の一兵卒となった。 ©bibliotheca philatelica inamoto 6 ヴェルダンで負傷し、軍事功労章をもらった。生涯を「ユダヤ人でフランス人」として、つまり、ユダヤ 人たる誇りを失わないが、フランス共和国の市民であることも大切にして生きた。ユダヤ教とキリス ト教の関係を改善することに一生を捧げたと言われるが、これはフランス人にとっては勿論、ユダ ヤ人にとっても大変なことで、彼はここでいう「闘った人」の権化なのだが、記述は控えめ にしよう。カプランの物腰からして、大業な語り口にはなじまないからだ。 ラ ヒ ゙ ン 負傷して帰り、学院に復帰して 21 年に「祭司」の資格をとり、ミュールーズに赴任するが、そ の深い学識ゆえに 28 年にパリのナザレのシナゴーグに、また 36 年にはヴ ィクトワール街の大シナゴーグ(イルドフランス 1-12)の祭司に任じられた。その年、 彼は熟慮の末極右団体の「火の十字架」団 Croix de feu と提携してユ ダヤ人兵士を追悼する儀式を行った。これは当然に左翼ユダヤ人とくに 「人種差別と反ユダヤ主義に反対する国際同盟」Ligue internationale nationale contre le racisme et l’antisémisme (LICRA)の反発を招いたが 反ユダヤ主義の団体にユダヤ人兵士の鎮魂のための祈りを捧げさせた という前代未聞の「快挙」でもあったようだ。これによって「フランスのために死んだ多数のユダヤ 人」がいることを否 定できなくなったか らである。フランスのユダ ヤ教のトップは「大祭 司」Grand rabbin と いう。その大祭司代 理に任じられたカプラ ンは、ドイツ軍の到来と ともにヴィシィへ移っ た。ペタン政府がそこ へ移っ←中央がカプラン祭 司 たからだ。1942 年の 全土占領に際しては リヨンに移った。最も危 険なところに身を置 いてカトリクの枢機卿たちを説得するためで ある。リヨン大司教のジェルリエ Gerlier にはユダヤ 人をドイツへ連行する列車をやめるように 政府に言えと迫った。44 年、大祭司イザエ・ シュヴァルツがゲシュタポを逃れてスイスに亡命した とき、カプランは臨時大祭司となってフランス警 ©bibliotheca philatelica inamoto 7 察に逮捕され、身代金を払って即日釈放された。「怪物」である。解放後 1950 年にパリ大 祭司、55 年にフランス大祭司となる。その間に「フィナリー事件」が起きた。ユダヤ人夫婦(フィナリー夫 妻)がグルノーブルからドイツへ強制連行されるとき、2 人の子をカトリクに施設の預けた。夫妻は ドイツで殺害された。戦後、近親者が子を迎えに行ったところすでにカトリク教徒として洗礼を 受けているので返せないと断った。裁判となり、マスコミも賛否両論に分かれて論じたため世 界中に知れる「事件」となった。今度はジェルリエ大司教が窮地に立ち最終的には譲歩して子 を返したが、カプランを相手には教皇も勝てないと囁かれたほどの粘り強さであった。プロテスタ ント教会にも訴えて総掛かりの闘いであったという。 1961 年からはアルジェリアなど北アフリカからの帰国者の受け入れに没頭した(これによってフランス のユダヤ人人口は倍増した)。1967 年、人文・社会科学アカデミーはカプランを正会員に選出し、彼 がフランスの偉大な精神的権威であることを承認した。トゥル大学の名誉教授で著名な哲学者のフラ ンシス・カプランは大祭司の息子だ。彼が編集に携わった素敵な表紙の 100 年記念出版物とダヴィ ド・シャピラが書いた定評あるカプランの伝記「20 世紀の証人」の、これも表紙だけだが、見て いただきたい。229-2-4 ©bibliotheca philatelica inamoto 8