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少年のはくラバー・ ソール 朝七 という想像力

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少年のはくラバー・ ソール 朝七 という想像力
 シューズ
少年のはくラパー・ソール靴という想像カ
ーレイ・ブラッドベリーの短篇小説について
大 西 サ 明
‘The Child is father of the Man.’
−W.Wordsworth
さく
その柵にぼくらは顔をぎゅっと押しつけ,爆風が温かくなるのを感じる
と,その柵にじっとかじりついたまま,自分たちがどこのだれそれだという
ことなど忘れ,ひょっとしたら自分だってあんな人物になれるかもしれない
とか,あんなところへ行けるかもしれないとか,そんなあこがれにふけった
ものだった。・・…・
それでもぼくらは男の子で,男の子だということが気に入っていたし,フ
ロリダのある町に住んでいて,その町も好きだったし,学校にかよってい
て,その学校もかなり好きだったし,木登りやフットボールをやり,お母さ
んやお父さんが好きだったものだ。………
でも,毎週,あるきまった日のあるきまった時間には,いつも,ほんのし
ばらくのあいだでも,ぼくらは,火や星のことや,みんなが待っているあ
ロ ケ v ト
の向こうの柵のことを考えたものだ。……ぼくらは宇宙船のほうがもっと好
きだった。
柵。宇宙船。
毎土曜日の朝……
うち
その連中はぼくの家で落ち合った……ω
15歳の少年クリスは学校の成績もよいが,レイフ,シッド,マック,アール
522 明大商学論叢
といった友だちと毎土曜日の朝,宇宙船基地に出かけて行っては.そめ鉄柵に
顔を押しつけるようにしながら,あこがれの宇宙船を見ることにしている。そ
のクリスに,意外にも早く召集がくる。宇宙船航行委員会が学校の推薦を参考
にして選抜した数すくない宇宙船飛行士の卵としてである。が,選抜されたこ
とを先生と母以外にはだれにも知らせるな,と当局からいわれる。父親はクリ
スの幼いときに亡くなっている。友だちにも知らせるな,というわけだ。なぜ
なら,地球上の数十億の青年のなかから毎年1万人が選ばれ,そのうちからさ
らにふるい落されてわずか3千人だけが残り.8年ののちに初めて飛行士にな
れるのであって,あとのものたちは社会に復帰しなければならぬ,その連中が
いざ出直そうというときに,失敗者として出直すのだということが世間にわか
らぬようにするためには,初めから飛行士の卵として選抜されたということを
隠しておくのが最上の策だから,というのである。友だちのレイフも飛行士に
なりたがっているが係官の話では,レイフは体に欠陥があってだめらしい。母
もと
親はひとり息子のクリスが選ばれて自分の許から離れていくことを内心は哀し
んでいるが,それを顔には出さぬように抑えている。クリスにも母のその哀し
みはわかっているが,それを肚の底に抑えつけ,男の子としての空へのあこが
れを新たにしてわが身を励ます。クリスは自分のあこがれのことを思った。そ
して召集に応じて基地へ向かう。
月へ行く宇宙船。これはもうぼくの一部でも,ぼくの夢の一部でもない。
ぼくがそれの一員になるのだ。
ぼくは歩きに歩きながら,そこではわが身が小さく感じられた。
ぼくが事務所へ向かう坂をおりているとき,ロンドン行きの午後の宇宙船
がいままさに飛びたとうとしていた。それは地面を震わせ,ぼくの心臓を震
わせるとともにわくわくさせた。
ぼくは恐ろしいほど早く成長し始めていた。
ぼくがその宇宙船をじっと見守っていると,しまいにだれかひとり,ぱち
っと靴のかかとをそろえて立ちどまって,一ぼくにすばやい挨拶をしたものが
少年のはくラバP−一・ソール靴という想像力 523
いた。
ぼくはあっけにとられた。
「C・M・クリストファかね?」
「はい,さようであります。申告にまいりました」
「こちらへきたまえ,クリストファ。あの門をとおって」
あの門をとおってその鉄柵の向こうヘ……
さく
この柵こそ,ぼくらが顔をぎゅっと押しつけ,爆風が温くなるのを感じる
とその柵にじっとかじりついたまま,自分たちがどこのだれそれだというこ
となど忘れ,ひょっとしたら自分だってあんな人物になれるかもしれないと
か,あんなところへ行けるかもしれないとか,そんなあこがれにふけったあ
の柵なのだ……
自分が男の子に生まれたということが気に入っていて,町に住んでいてそ
の町が気に入っており学校もかなり好きだし,フットボールも好き.お父さ
んやお母さんも好きな男の子たちが,その上によく突っ立ったあの柵なのだ
毎週,あるきまった日のきまった時間には,いつも,ほんのしばらくのあ
いだでも,火や星のことや,みんなが待っているあの向こうの柵のことを考
えていたあの男の子たち。……宇宙船のほうがもっと好きな男の子たち。
お母さん,レイフ,またお会いしましう。きっと帰ってきます。
お母さん!
レイフ!
そして,歩いたまま,ぼくはその柵の向こうへはいって行っだ21。
これは「ウは宇宙船の略号さ」(Risf・r R・cket)と題するレイ・ブラッドベ
リー一の短篇であるが,この作家との出会いはまったくの偶然というほかはな
い。神田のある古本屋の店先で,なにげなく拾いあげて読み始めたのがこの作
なまみ
品であった。生身の人間とのおつき合いでも,ろくにことぽをかわさない初対
面のときから,何となくうまの合いそうな予感のすることがある,それと同じ
524 明大商学論叢
ように,ばらばらっと何ページかを走り読みしただけで,これなら好きになれ
そうだなという印象が感じられるものだが,ブラッドベリーとのばあいもまさ
にそれで,ここに疑う余地のない高い資質とまぎれもない清澄な才能とをわた
しは認め,すばらしい一篇の詩を読んだのに等しいヴォルティジの高い充分な
満足を感じ,さっそくその本を買ったことを憶えている。それからもうかれこ
れ十年になる。そのあいだに,プラッドベリーの欧米での,特にフランスでの
評価は高まっていったが,わが国では一部のS・Fファγ以外にはほとんど知
る人のないままに歳月がすぎた。折にふれてわたしが,古い文学の仲間にブラ
ッドベリーの名を持ちだしても,どうやら彼らは,S・Fの作家では論議の対象
にならぬという顔つきで,まともにプラッドベリーをとりあげる様子をみせた
ことがない。いちど読んでみたらいいのにとは思うが,彼らがブラッドベリー
やき
を読まないのにも無理のないところはある。なにしろS・Fの作家という烙印
が捺されているからであり,S・Fの作家のなかには,まったく荒唐無稽なア
あら
クシ。ンを売りものにしてそのdetailにいっこう磨きをかけぬ粗っぽい連中が
多いのも事実である。が,ブラッドベリーはちょっとちがう。 「ウは宇宙船の
略号さ」のような筋らしい筋のない話は,文章の質がよほど上等でなければ,
とても読めたものではない。世のいわゆるS・Fの作家にはこういう文章は期
あら
待しがたい。彼らは世間にS・Fフプンの多いおかげで粗っぽい文章を書きな
つ
がらも一人前のwriterで通るからだ。が,ブラッドベリーはまず文章で頭抜
けている。そういう高度の文章家が,たまたま描く領域を主として「未来」に
求めた。と考えるほうが,S・Fの世界にも彼のような名文家がいるとお手軽
に考えるよりは実状に近いのではなかろうか。多くのS・F作家がdetailの描
写のあまりにも粗雑なために,文学的な価値を云々される以前に文章失格とな
るのとはことちがい,彼のぽあいはそのdetailの描写のrealityで断然光って
いる。だからS・F作家という称号こそ,レイ・ブラッドベリーの作品が一般
の文学愛好家から敬遠される最も大きな原因だといってさしつかえあるまい。
ところでdetai1の描写のrealityについていえぽ,彼のばあい,それが彼の
少年のはくラー〈・一・ソール靴という想像力 525
豊かな想像力に基づいていることは他のすぐれた一般文学者のぼあいとまった
く同じであり,描く対象が宇宙空間のぼあいでもそのimageは緻密で巧みであ
るが,他の作家よりも一段とすぐれているのは,むしろ生理的および心理的な
領域においてであって,これを要するに,人間の日常の生活感情に関する想像
力の領域においてひときわ卓越しているように思はれる。
ながあめ
例えば「長雨」と題する作品は,決して雨の降りやむことのない金星を舞台
にとり,その地で行動する4人の守備隊員の苦労を描いkものだが冒頭の文章
はこうだ,一
雨は降りつづいていた。それは激しい雨,小やみなく降る雨,汗をかかせ
きりさめ
湯気のたつような雨でもあれぽ,また,霧雨,どしゃ降り,噴水,目に鞭を
たたきつけてくるような降りでもあるし,くるぶしのところから引き返して
がん
流れ去る引き波のような降りでもあり,またあらゆる雨と雨の思い出とを顔
しよく めかた
色なからしめる雨でもあった。その雨はポンドやトンの目方単位でどっと降
き はさみ
って来,たたっ切るようにジャングルに降りかかってきては,鋏のように樹
えだは
木を切り,草を刈り,地面に穴をうがち.藪の枝葉を奪い去った。それは人
間の手を縮ませて搬だらけな類人猿の手に変えてしまうような雨であり,ま
た,固いガラス質の雨でもあり,そしてそれは決して降りやむことのない雨
であった③。
以上の文章も巧みではあるが,
中尉は目をあげた。むかしはとび色をしていたその顔も,いまは雨に洗わ
れて青白くなり,目も雨に色を洗いとられて,歯や髪の毛と同じように白く
なっていた。からだ全体が白っぼかった。制服までが白くなりかけて,たぶ
あお
んカビのせいか,少し緑みを帯びていたω。
あるいは,
526 明大商学論叢
3人は手足を充分に伸ぽし,雨が口にはいらないように頭の下に支えもの
を置くと,目をとじた。
中尉のからだはぴくっとひきつった。
眠ってはいなかった。
肌の上を鑑っているものがいろいろとあった。いろいろなものが彼の肌の
あま
上に積み重なって成長していた。雨しずくが数滴落ちてきて,他の数滴と触
れ合って流れをなし,それが肌の上をたらたらと流れる。そしてそういう雨
しずくが彼の肌の上を流れている一方では,森の小さい草や木が衣服のなか
から
つた
に根づいていた。彼は蔦がからだに絡みついて,それが自分の2番目の服に
なっているのを感じた。小さい花がつぼみを持ち,花を開いてから花びらの
散るのを感じたが,雨は相変らずからだや頭にばらばらと降っていた。明る
よる
い晩には一というのは,植物が夜発光するためだ一ほかの2人の輪郭が
見えたが,それはまるで丸太ん棒がごろんところがって,その上に草や花を
ビロードのように敷きつめたようなものだった。雨が顔に当った。彼は両手
で顔を隠した。雨が頸すじに当った。彼が毘のなかで,弾力のある植物の上
にうつ伏せになると,雨は背中と足に当った。
突然,彼はばっと跳ね起きると,からだから水を払い落とし始めた。無数
の手に絶えずからだをさわられているようで,もうつくづくさわられるのは
ごめんだった。 さわっていられるのがもうどうにもやりきれなくなった㈲。
さ
こういう文字どおり人間の肌に密着した文章のほうが一段と冴えている。
なるほど描かれているのは架空のものにはちがいないが,読んでいて少しも
荒唐無稽の感じがしないのは,detailの描写にrealityが感じられるからであ
る。
S・Fの作家として彼もまた,他の作家と同じように,「宇宙船」,「恐竜」,
「タイム・マシン」といったものに素材を求めた作品がある。しかし,それら
のばあいでも,その非凡な‘image’が定着されているのは忙しいアクション
少年のはくラバー・ソール靴という想像力 527
の中にではなく,与えられた状況の中に生きる人間が,当然起すであろうと思
はれる生理的および心理的現象を的確にとらえる,その具象的な描写の中にで
あって,彼の個性的な才能が,きわめて自然で生き生きと働らく「image能
力」にあることがわかる。
こんじき
例えば「太陽の金色のりんご」は,太陽まで出かけて行ってその本体に触
れ,太陽の一部分をエネルギー源として奪いとってくる宇宙船を素材とした話
で,その大胆な着想も奇抜ではあるが,この作品の秀作たるゆえんを支えてい
るのは,そのプPセスにおける細部の物理的,生理的な現実感である。気温7
千度を超える太陽の外縁部と,それに接して停泊している宇宙船内の自衛的な
冷凍装置による極超低温とのために,わずかの事故が死を招く,
一等航空士のブレトンが冬のデッキに身を伏せた。彼の防護服がひゅっと
音をたてたかと思うと,そこでぽっくりと口をあけ,そこから彼のぬくみ
こお
と,彼の酸素と,彼のいのちとが凍りついた水蒸気となってシュッとかき消
えたc6)。
また,原始のエネルギーである「火」に対する詩的想像も,彼の特色の一つ
であろう。
とうせぎ
百万年前に,寂しい北方の踏跡に立った裸の男が1人n雷が木を打ち倒す
す で
のを見た。そして仲間は逃げたのに,その男は燃える枝を素手でつかみ指の
肉を焦がしながら,雨をからだで防ぎつつ,意気揚々と走ってその火を洞窟
へ持ちかえると,その場で高らかに声をあげて笑い,その火を山と積んだ枯
葉の上に放り投げて.仲間の連中に夏を与えたのだ。すると部落のものたち
はついには震えながらその火のぞぽに這いずって近寄り,かじかんだ両手を
差しのぽし,その洞窟のなかに新しい季節の来たのを感じ,この小さい黄色
い火が天候を変えるのを感じ,この連中もまた,ついにはたくましくもにっ
こりと笑った。かくて火というたまものは彼らのものとなったのだ‘7}。
528 明大商学論叢
つぎに「タイム・マシソ」と題する作品をとりあげてみるが,この作品の題
名となっているその珍妙な機械は作中にいっこうに姿を現さず,結局ひとりの
老人の記憶力そのものがタイム・マシンさながらのhige一丘delityをもって過去
のできごとのなまなましい追力を伝えるという話であり,この作品を生かして
いるのは,もっぱら老人の一ひいては作者の,聞き手の目にはっきりとした
imageがありありと見えるように感じさせる話術ひとつにかかっている。次の
一節は,1875年に起った水牛・野牛の大群のstampede(大暴走)を描いた文章
で,やや長いが,こういう壮観を具体的に,目に見えるように描いたものは他
にちょっと類がないので,略さずにそのまま引用しておく。一
1875年か……そうだ,わしとポーニー・ビルとは,あの平原の中央にある
小さな丘の上で待っていたのだ。「しっ,耳をすまして」とポーニー・ビル
がいう。平原は,もうじき嵐がやってくるという,そんな趣向に組みたてら
れた大きな舞i台装置に似ていた。雷鳴。おだやかに鳴る。またしても雷鳴。
あまりおだやかではない。それに,この平原のずうっと向こうまで目のとど
はら
くかぎり,その大きくて不吉な,黒い稲妻をいっぱいに孕んだ,黄色みを帯
びた黒雲が,幅50マイル,奥行50マイル,高さ1マイルにわたり,しかも地
面から1インチとは離れずに,どういうわけか地上一帯に低く垂れこめてい
た。 「くわぽら!」とわしは叫んだ。 「くわぼら!」一丘のてっぺんから
だ一「くわばら!」地面がまるで狂った心臓のように,いいかね,諸君,
あわてふためいた心臓のように,どきんどきんと打っているのだ。わしのか
らだは,まるで壊れるのではあるまいかと思えるほどぶるぶると震えた。地
面が震動したのだ。ど・どど,ど・どど,どど一ん! と。ごうごうたる音
をとどろかせて進んでくるのだ。このことばはめったに使わないことぽだ
の が,たしかに,ごうごうたる音をとどろかせて進んでくるのだ。いや,まっ
たく,あの力つよい嵐は,平原の丘をいくつもあがりさがりしながら,それ
を乗り越えて,ごうごうたる音をとどろかせながら進んでくるので,目に見
えるものはただあの黒雲だけで.その雲のなかはすこしも見えなかった。
少年のはくラパー・ソール靴という想像力 529
「あれこそやつらなんだ!」とポーニー・ビルが叫んだ。そしてまさにその
つちぼこり
黒雲は,やつらの舞いげる土埃だったのだ!水蒸気でも雨でもなかったの
だ,そうではなく,ほくちのように乾ききった草から,まるでとうもろこし
の粉のように舞いあがる平原の土埃で,いまそれは日光に照らされてみな花
粉のように輝いていた。というのは,日はとっくに昇っていたからだ。わし
ごうか
はもう一度どなった! なぜだってP ほかでもない,その地獄の劫火を濾
過するような土埃のなかで,いままで隠していたヴェールがわきへどいたた
めに,わしにはあれが見えたのだ,いや断じて嘘ではない!むかしの草原
のあの大軍団が,つまり,野牛,水牛の大集団が見えたのだ!一
こぶし
黒人の大男の拳のような頭,機関車のような胴体! それが400万頭の,
いや1千万頭の鉄の矢となって西のほうから射ちだされ,その進路をいっさ
んに走り去り,その目をらんらんと光らせたまま,走路をつづけざまに踏み
しめながら,はるか忘却のかなたへごうごうたる音をとどろかせながら遠ざ
かって行ったのだ!
わしが見ていると,その土埃が舞いあがってからしばらくのあいだは,隆
々たる肉塊や,柔らかく捏ねたようなたてがみが,見わたすかぎりあたり一
面に,黒い毛むくじゃらの波のように,盛りあがったり沈んだりするのが見
げきてつ
えた……「射て!」とポーニー・ビルがいう。 「射て!」するとわしは撃鉄
を起こしてねらいをつける。 「射て!」とビルはいう。ところがわしはそこ
に立ったまま,神の腹心にでもなったような気分を感じながら,猛烈な力の
奔流がそぼを通りすぎる,それこそ正午の真夜中に,全体が真っ黒で長く,
悲しそうでいつまでも果てしのない,矢のように早い葬列みたいに,力にあ
ふれるものがそぼを通りすぎて行く壮大な光景を見ていたのだが,まさか諸
君は葬列に発砲はしまい,さあ,どうかね,諸君?どうなんだね?そのと
きわしが願っていたのは,あの土埃がもう一度舞いおりてきて,いま重くる
しい動揺をしながら押し合いへし合いしている黒い形の凶運の大集団を,蔽
い隠してもらいたいものだということだけだった。ところが,諸君,あの土
埃が舞いおりてきたのだ。その土埃の雲は,いま雷のようにとどろく音をた
530 明大商学論叢
てながら嵐のように土けむりを立てている数百万の脚を隠した。わしはポt−一一
ニー・ピルが悪態をついてわしの腕をたたく音を聞いた。しかしわしは、そ
た ま
の土埃のなかの力の集団に,自分が鉛の弾丸1発すら射ちこまなかったのが
うれしかったのだ。そこに立ったまま,野牛がまき起こし,かつ野牛ととも
に永遠のかなたに運び去られた嵐に隠されていたすべてを,時間というもの
が,時の車を大きく回転させていくうちに包みこむのを見ていたいと思った
だけなのだ。
1時間,3時間,いや6時間もついやして,その嵐の集団は,わしよりも
思いやりのない男たちのいる地平線のかなたへ通りすぎていっだ8}。
清澄・純一,力つよい原始的なエネルギーへの関心,子供の魂一こういう
一聯の観念から,純朴だが不器用な作家の像がつい頭に浮かびやすいが,ブラ
ッドベリーに関するかぎりそれはまちがいである。なるほど彼は子供のように
虚心な目の持ち主にはちがいないが,また同時に,峡谷を藩進する夜汽車を描
いてそれを竜だと思はせるという逆手に出た作品 ‘The Dragon’(竜)〔9》にお
いて,かえって深い味わいのある幻想美を造形しうる技巧的な腕前の持ち主で
もある。
技巧についていえぽ,一
He dreamed of green meadows free of stones, all grass, round and
あお
rolling and rushing……(彼は緑々とした牧草地を夢に見たが,そこには石ころな
どなく見わたすかぎり緑草が生えており,土地はふんわりと丸くゆるやかに・…・・)aa
例えぽ上記の英文には,
‘r’
フなめらかに転がるようなalliterationが認め
られるし,
On the western sky they saw four crimson 且ares open out,且oat
shimmering down the wind above the desert, then sink silently to the
少年のはくラバー・ソール靴という想像力 531
extinguishing earth.(西の空に照明弾が4発あがり,ついたり消えたりしながら
風しもの砂漠のほうへただよって行き,やがてひっそりと地上に落下して消えた。)al
この文中の‘extinguishing’は,修辞法の‘hypallage’(代換)の‘transferred
epithet’(転喩)の典型的な一例であると認められるし,
Into his mouth his mother with feverish hands put the food.(彼の口の
なかに,母親は微熱を帯びた手で食べものを入れてくれた⑫。
という文章は,まるで日本語の語順どおりに書かれた英文のような印象を受
けるが,それだけに英文としては普通でなく,やはり‘inversion’(語順顛倒)の
一つの型であるが,この程度のものは枚挙にいとまがない。
Were there lovers pausing in their laughter back there〔註‘there’
=in the cl重ff〕, gazing at the two tiny dots that were a man and
もと
woman runnihg toward destiny?(あの元の絶壁に住んでいてたがいに愛し合
っているものたちのうちには,自分たちの談笑を途中で切りあげて,こうして運命に
向かって走っている一組の男女の,遠くからはまるで二つの点にしか見えない姿に目
をつけているものがいるだろうか?)⑬
これは簡潔な表現の中に,意外に詳細な内容の盛りこまれている文の一例で
あるが,嘘だと思うなら上記の訳文を逆に自分で英文に直してみて,それと原
文とを比較してみれぽ合点がいこう。ところで彼のばあい,文章の長さは緩急
自在で,短文もあれば長文もあるが,丹念な描写を心がけるぽあいには,複雑
なsequenceを短く切らずに,わざと長い文章でひと息に言い切ろうとする傾
きがある。その例はいくらでもあるが,ここでは「いちご色の窓」という短篇
の中の,76語力ら成り立っている特に長いsentenceの例を一つだけ挙げてお
く。
532 明大商学論叢
It was a pantomime prolonged almost to the time when someone
might screa皿at the silence, as the mother and father and the boys
washed and dressed and ate a quiet breakfast of toast and fruit juice and
coffee, with no one looking directly at anyone and everyone watching
someone in the reflective surfaces of toaster, glass ware, or cutlery,
where all their faces were melted out of shape and made terribly alien
パントマイム
in the early hour.(それはかなり長い一つの無言劇で,母と父と男の子たちは,顔
を洗って着物を着,トーストとフルーツ・ジュースとコーヒーの朝めしを食べたとき
も黙ったままで,しかも,おたがいに顔をじかに見ようとはせず,だれもが, トース
ターやガラス器具や刃物類の鏡のような表面に,みんなの顔がゆがめられて,そのた
めに早朝の時間にひどくよそよそしくなって映っているのを見守っているだけなので,
しまいにだれかがその沈黙に耐えかねて悲鳴をあげてもむりのないほど,そのだんま
りはいつまでもつづいた。)U4
作家には,Shakespeareのようにあらゆることぽを偏頗なく使う型と, E.A.
Poeのようにある種のことばを愛用する型とがあるが,ブラッドベリーのぼあ
いはどちらかといえば後者に属する。もっとも,特殊な単語を愛用すること
が,ただちに独自性の獲得を意味しないことはいうまでもあるまい。いかに特
殊なことぽを使おうと,その語が全体の文章にすっかり融けこんでいなけれぽ
嫌味な文章になるだけの話である。その点,彼の特殊な語の愛用には抜き差し
ならぬ必然性がある。
例えぽ,一
‘whirP(ぶ一んと回転しながら飛んでいく。ぐるりと旋回していく)
‘thrash’(のたうち回る。ころげ回る)
‘flounder,(のたうつ)
‘flail.(っづけざまに打つ)
‘pore’(毛孔)
‘bleach’(漂白する)
少年のはくラパー・ソール靴という想像力 533
‘slake’(消和する)
などという語は,ちがった作品中に何度か用いられており,このなかで「の
たうち回る」とか「のたうつ」は主としてdinosaurその他monsterに関する
語であるから多言を要さぬが,「漂白」という語は雨や風雪による自然の漂白
作用ないし侵蝕作用という力に対し,自然界において人間の持つ物理的・生理
的な弱さが,作者の心にかなり明確に意識されているからであろうと思はれる
し,また「毛孔」という簡単な語も,他の作家の作品で見かけることの意外に
少いのに反し,ブラッドベリーがこの語を敢えて何度か使うのは,やはり彼が
詳細・緻密な描写に傾く癖があるとともに,鋭い肉感的な表現を重んずる傾きの
ある例証ともなろうが,さらに「毛孔」という卑近なまでに具象的なこのこと
ばも,彼の手にかかると,心の奥ふかくに潜む抽象的な感慨を具体的なimage
によって説き明かす道具と化する。
や うち
あの昔のわが家はいい家だったわ。ええ,そりゃもう古くて,80年一い
え,かれこれ90年もたってる家だったわ。夜,あの家がおしゃべりをし,ひ
そひそとささやくのをよく聞いたものだわ。乾いた材木がみんな,手すり
も,玄関前のポーチもs敷居や窓枠の下板も。どこでも触わったところはみ
うち
んな,話しかけてきたわ。どの部屋もそれぞれにちがった話し方で。家じゅ
う全部がしゃべるようになると,つまり家は,暗闇のなかでわたしたちをと
りまいて,寝かしつけてくれる家族になったわけよ。いまみんなが建ててい
るような家は,そういうわけにいくはずがないわ。家というものをすみずみ
だい
まですっかり柔らかく熟させるには,家のなかに大勢の人たちが代を重ねて
ハット
住まなけれぽいけないのよ。いまいるここのこの宿舎は,わたしがなかにい
ることなんかごぞんじないし,わたしが生きようと死のうと無関心よ。まる
でブリキみたいな音をたてるし,ブリキって冷たいわね。歳月のしみこむ毛
孔がないの。あくる年や,さらにその先の年のために,ものを片づけておく
地下室なんてない。去年からのものや,まだ自分が生まれないうちからあっ
たものを,そっくりしまっておく屋根裏部屋もない。すでになじめたものが
534 明大商学論叢
いまここに少しでもありさえすれば,ねえボッブ,そうなれば,なじめない
ものを受け入れる気にもなれるんだけど。それなのに,どれもこれも,それ
こそどれ一つとっても,みんななじみのないものぼかりだったら,いくら時
間をかけても,とうていものをなじませるわけにはいかないのよas。
ここには「毛孔」という形而下のものを通じて形而上的な思いを語るという
象徴本来の機能が充分に発揮されている手法の一例が見られる。
会話の受け答えの地の文でも,「……といった」とか,「……と手を振った」
という紋切型ではあきたりずに,例えば「とりなすように手を振った」(patted
the air)aeというこまかい描写の例がある。 いったいに丹念周到な表現によっ
て的確明快なimageを伝えようという努力が一貫して文章の底を流れている。
例えば,一
He didn’t want to see a throat like parched thollgs of yellow grass,
hands the pattern of smoke risen from a fire, breasts Iike dessicated
〔註・正しい綴りはdesiccated〕rinds and hair stubbly and unshorn as
ひ ひも のど
moist gray weeds!(黄色い草で編んだ乾からびた紐のような喉も,火から燃えた
つ煙の模様に似た手も,乾燥した果実の皮に似た乳房も,麦の刈り株に似ながら虚め
った灰色の雑草のように刈りこんでいない髪も,彼は見たいとは思はなかった!)an
という文章など,かなり丹念執拗な形容の一端を示すものといえよう。
要するに,これほど多彩な文体を持った作家はあまりないが,同時に,それ
を敢えて奇異とは感じさせずに,かなりすらすらと読ませるreadableな文章
家たる手腕こそ,実はブラッドベリーの持つ最大のmeritではないかと思はれ
る。
特殊な語を愛用する傾向が昂じたぽあいには,辞書にない稀語を用いたり露
らわずに新語を造成したりしかねない。彼のぼあい,
少年のはくラパー・ソール靴という想像力 535
‘Where was the sand?’(「気力はどうしたP」)ua
の‘sand’が「砂」でなく「勇気,気力」であるのV: American colloquialism
だからよいとしても,
‘whickle’(ひゅうっと飛ぶ)⑲
‘dichondra’(おそらく「芝の一種」かと思はれる)tzc「
という稀語はN.E。D.にもentryがなく,また,
ま
‘depollinate’(花粉を撒く)⑳
‘intra−embryonic’(胎内発育期)en
は,それぞれの語幹からその意味は容易に類推できるとしても,語としては
通常の辞書にない造語であろう。が,こういうことばも,的確を期するところ
から生じた必然の所産であってみれぽ,単純にキザと片づけきれぬ要素があ
Pt。さらに,
‘eerie’(ぶきみな)Cl3}
‘dwindle’(だんだん小さくなっていく)a4
という語の使用は,‘desolate’,‘weird’,‘dreary’,‘uncanny’,‘eerie’
などという語を美しく完壁に使いこなしたポオを想はせないことはない。ただ
まと よる
し,ポオが19世紀前半の憂欝を一身に纒った.いわば夜型の詩人であるのに対
ひる
し,ブラッドベリーは,その病症からの快癒期をくぐった昼型の健康に輝やい
ているという対比はあるが。一
ともあれ.一見したところでは簡明な文体に見えようが,彼も技巧の手はあ
れこれと尽していると見てよかろう。
536 明大商学論叢
ブラッドベリーがわれわれ日本人に親近感を抱かせるもう一つの特色は,彼
の鋭敏な「季節感」にある。欧米の作家の中で,彼ほどからだ全体で季節を鋭
く感じている作家は珍らしい。
わたしはこれまでに,ブラッドベリーの特色を挙げるのにいささか急ぎすぎ
たかもしれない。月並なspace dralnaのS・F作家とはちがって,やれ生理
的・心理的に人間らしい反応を呈するその具体的な描写にすぐれているの,や
れ文章上の技巧に長じて個性的な癖がさまざまにあるのと述べてきたが.それ
らをつづめて根本において彼の文学を支えているものは何かといえば,まこと
に平凡なようだが,その初期から一貫して持ちつづけている彼の詩魂にあると
いわざるをえない。
筋らしい筋のない話の一例として冒頭に,「ウは宇宙船の略号さ」を引用し
たが.次の「駆け回る夏の足音」こそはそれの最も典型的な作品であろう。こ
の一篇も名作の例に洩れず,まったく要約不可能な作品であっていずれ実際の
か
作品を読んでいただくほかはないのであるが,話を進める必要上敢えて掻いつ
まんだ紹介をこころみることにする。一
ダグラスは元気な男の子らしく,あの靴屋の明るいショー・ウィンドーのな
かにある例のラバー・ソールのテニス靴が欲しくてしようがない。しかも,
いまは6月だったから,歩道に雨の降っているいまは,おとなしくしてい
るそのテニス靴を買うには,もうかなり時季おくれになっていたua。
それでも,なぜそんなに欲しいのか?
そのわけというのは,ラパー。ソールのテニス靴をはいたときの感じが,
毎年の夏,初めて靴をぬいで素足のまま牧草のなかを駆けるときの感触に似
ているからだ。ラバー・ソールをはいた感じは,冬.温い靴下から足を出し,
あ
少年のはくラパー・ソール靴という想像力 537
開いてる窓からはいってくる寒風にその足を急に当てて,そのまま長いあい
だ風に吹きさらしておいてから初めてまたもとの靴下の中に入れると,足は
まるで靴下の中に雪でも詰めこんだようにひんやりと感ずる,そんな感触に
似ていた。そのテニス靴をはいた感じは,毎年,初めて川の浅瀬を歩いて渡
るときに,本当は水の上に出ている足の部分が.屈折作用で,半インチも水
の下にもぐっているように見えるような感じがかならずする,それと似てい
た⑳。
しかし子供のダグラスには,それだけのことをことぽで説明することはむず
かしい。
どういうわけか,ラパー・ソールのテニス靴を作っている職人は,どうい
う男の子がそれを必要とし,欲しがっているかということを心得ていた。こ
の職人たちは靴底にマシュマロを入れ,ぐるぐる巻きにバネを仕込み,その
他のところは,風雨に漂白され野火に焼かれた牧草を織って作ったのだ。靴
のローム壌土の奥のどこかしらに,あの薄くて丈夫な牡鹿の腱が隠されてい
た。あの靴を作った職人たちは,風が木々を吹きなびかす光景を何度も見
川が湖に流れこむところをいく度も見たにちがいない。見たものがどんなも
のであるにせよ,それがあの靴のなかに仕込まれているのであって,またそ
れは夏なのだan。 ・
ダグラスはそういったことを,何とかことばに表して,自分がどんなに靴を
欲しがっているか,その気持を父親にわかってもらおうと努めた。
「なるほど」と父親はいった。 「でも去年のラパー・ソールでもいいじゃな
いか」
ダグラスは弾力のない去年の靴はもうはく気になれない。なかが死んでいる
からだ。しかし父親は買ってくれそうになかった。 「貯金をするんだな」と父
親はいった。「5,6週間も貯めれぽ一」
538 明大商学論叢
「それじゃあ,夏が終っちまうよ」
ダグラスは何とかあの新しいテニス靴を手に入れる算段をしなけれぽならな
くなった。いま貯金してあるお金ではまだ1ドルたりない。といって冬用の大
きなドタ靴はもうまっぴらだ。
「どんなものが欲しかろうと,自分の力で手に入れなければいけないん
だ」os
ダグラスはそう決心をする。
ま
それから間もなくダグラスは,年をとったサンダスンさんの靴屋の店先に姿
を現し,やがてドタ靴の音をたてながら店のなかへはいって行った。
「きみが何を買いたいのかcわしにはちゃんとわかっとるよ」とサンダスン
さんはダグラスの姿を見るといった。 「きみは毎日ショー・ウィンドーをのぞ
きこんどるからな。そこできみは,支払いのほうは掛け売りにしてくれ,とい
いたいんだろう」
ダグラスはそうではないとことわってから,サンダスンさんに,自分の売っ
シ=・−ズ
ている商品をみずからテストするという意味で,自分でラパー・ソール靴を
はいてみてくれないかと頼み,頼んだとおりにラパー・ソール靴をはいてくれ
たサンダスソさんに向かって,そのはき心地のよい靴を自分はどうしても買い
たいが1ドルたりない,そのたりない分だけ店で働かしてくれないか,と提案
してみる。
「どういうことかな?」とサンダスンさんは訊いた。
「どんと元気よくやるんだよ! ぼく,お店の品物を運んだり配達したり
するし,おじさんにコーヒーをもってきたりゴミを燃したり,郵便局や図書
館へ使いに行ったりするよ! おじさん,見ていてごらん,ぼく,きっと,
十人前以上も働いて,のべつ店を出たりはいったり,それこそ出たりはいっ
たりして働くから。その靴のはき心地はどう,おじさん,それをはいたら,
ぼくがどんなにすぼやく動き回るか,そのはき心地でわかるだろう? いか
少年のはくラパー・ソール靴という想像力 539
にもぴったりと足についていて,まちがっても靴がぬげて素足になるような
目にあうことはないってことがわかるだろう? おじさんが自分でやりたく
ないってことを.ぼくがどんなにテキパキとやってのけられそうか,わかる
だろう? おじさんがこの涼しい店のなかにすわっているあいだに,ぼくは
町じゅうのどこへでも駆け回ってくるさ! でもそれは,本当はぼくじゃな
かど
い,靴なんだ。その靴は猛烈ないきおいで裏通りを突っ走り,角を渡って近
道をして戻ってくるんだ! そうら,その靴が動く!」
サンダスンさんは,この激しいいきおいでとび出してくることぽに,びっ
くりしたまま突っ立っていた。そのことぽにだんだん調子がついてくると,
その調子の流れがサンダスソさんにも乗り移り,靴をはいたままぐっと深く
足を踏みしめたり,足の指先をぐっと曲げたり 土踏まずをしなやかにした
り,くるぶしの具合いを試したりし始めた。あいているドアからはいってく
るそよ風を受けながら,彼は足音をたてずに,柔らかく行ったり来たり身を
動かした。そのラバー・ソールは絨毯のなかに深く沈みこんでひっそりと音
を殺し,深い草原にでももぐるように,ローム壌土と弾力のある粘土のなか
にもぐった。サンダスンさんはそのかかとの荘厳な弾力を,イーストのはい
った捏ね粉のような,従順にこちらを受けつけてくれる大地に試してみたOS。
結局,サンダスンさんはその提案を受け入れ,ダグラスはさっそく新らしい
ラパー・ソールをはき,駆け足で配達に出かけようとした。
「待ちたまえ!」とサンダスンさんが大声でいった。
ダグラスはばっと立ちどまるとふり返った。
かもしか
サンダスンさんは身を乗りだした。 「はき心地はどうだね?一鈴羊にな
ったような感じかね?」サンダスンさんは,ダグラスの顔から靴に目を移し
かもしか
ながらいった。 「北アフリカの小型鈴羊ぐらいかな?」
ダグラスはそれを考えてみたが,どっちともいえない気分のまま,急いで
一つこっくりとうなずいた。うなずくが早いか,たちまち姿を消した。ラバ
540 明大商学論叢
一・ソールの軽いさわやかな音をたてながら,一
ひ t うちがわ
サンダスンさんは,陽の照りつけているドアの内側に立って耳をすまして
いた。遠いむかし,子供のときに夢みたころから,その音には憶えがあっ
は
た。空の下で跳ね回り,藪のなかや林の下を通り抜けて姿を消し,駆け回っ
たあとに,ただ,もの静かなこだまだけを残す美しい生きもの。
かもしか
「鈴羊だな」とサンダスンさんは思った。
「小型鈴羊だな」
サンダスンさんは身をかがめ,ダグラスがそこにはき捨てていったあの例
かずかず
の,もう憶えのないほど数々の雨や,とっくに溶けて消えた雪に打たれたた
や
’めに重たくなった冬用のドタ靴を拾いあげた。灼けつくようなひなたから離
れ.もの柔らかに,足どりも軽く,ゆっくりと,サンダスンさんはまた文明
のほうへ向かって歩を踏みだしたOO……
すでに述べたように,これは筋らしい筋のない,またS・F的なactionのま
ったくない話であって,この少年の清潔な像を支えているのが作者の詩魂であ
ることはいうまでもあるまい。そして何よりさわやかなのは,この少年に甘え
がほとんどないことだ。いや,甘えがない,というよりはむしろ,たとえこの
少年に甘えがあるとしても,その甘えには一種stoicに近い節度があって,い
つも精神が男らしく引き締まっているという点だ。
ブラッドベリーの作品には,冒頭の「ウは宇宙船の略号さ」もそうであった
ように,よく少年が登場する。そして彼らはみな,ほとんど例外なく,自然な
振舞いのなかに節度を保って伸び伸びと生きている。まるで,これが子供の,
それも女の子ではなく男の子の,望ましい原型(prototype)だとでもいわんぼか
りに清潔に,おのれの希望するものに向かってまっすぐにあこがれを持ちつづ
け,節度をもって行動する。おそらくW.Saroyanをのぞいて,これほど男の
子を生き生きと描いている作家は他にほとんどあるまい。
よる
ぼくは中西部で育ったが,子供のころ,夜になるとよく外へ行っては星を
少年のはくラバー・ソール靴という想像力 541
ながめ,はてな,と首をひねったものだ。
男の子なら,だれにもみんな そういう憶えがあると思う。
ま
星を見ていないときには,テニス靴の古いのや真新らしいのをはいて,途
中の路をせっせと走り,木のあいだでブランコをしたり,湖で泳いだり,町
の図書館のなかを捜し回っては恐竜やタイム・マシンのことを読んだりした
ものだった。
男の子なら,だれでもみんな,そんなことをしているのだと思う。
この本には,そういう星やテニス靴のことが書いてある。おもに星のこと
お
が書いてあるが,つまりはそれがぼくの生い立ちを示すもので,12,13,14
Ptケ ッ ト
と成長するにつれて,ぼくはしだいに宇宙船や宇宙に深く熱中していった。
といって,なにもテニス靴や,それの不思議な強い力のことを忘れてしま
ったわけでないことは,「駆け回る夏の足音」をお読みになれぽおわかりに
なると思うし,その一篇をこの短篇集に加えたのは,それが未来に関する話
だからというのではなく,ぼくが星を見たり,将来のことを考えたりしてい
たころは,こういう男の子だったのだということを,いくらかでもわかって
いただけると思うからである。
(中略)ぼくがこの本を捧げる相手は, 「過去」のことで首をひねり.き
いだ
びきびと「現在」と取り組み.ぼくらの「未来」に高遠な希望を抱いている
あらゆる男の子たちである鴨
まさにこれらの少年像は,とりも直さず,ブラッドベリー自身の姿にほかな
らなかったのだ。なるほど現実の彼はクリスとちがい,宇宙飛行士に選抜され
はしなかったが,少年のころ彼は,おのれの望むものを夢中になって想い描
く,いわば特異な「image能力」というあの弾力のある「ラパー一… ソールのテ
ニス靴」をふと手に入れて以来,それを決して手離さぬ男の子の心をひたすら
に持ちつづけてきた,といってよかろう。
まだ世間の約束ごとによって曇らされていない虚心という無意識的な子供の
お
魂を一方に持ちつづけながら.その魂の反応を意識的なことぽに定着しうる大
542 明大商学論叢
とな
人の能力を併せ持っている作家がここにいる一さよう, 「天才」ということ
ばが,もう少しでわたしの口をついて出そうになったが,いまの段階で,例え
ぽポオほどの天分を彼に認めるわけにいかないことはいうまでもない。が,気
がねなくいってよけれぽ,今後の業績いかんによっては,天才の名を獲得しう
るだけの資質を持つ現代に数すくない作家の一人ではないかとさえわたしには
思えるのである。
なるほど彼は,人生とは人間にとっていかなる意味があるか,という問題を
なま
生なことばで読者に突きつける類の作家ではない。が,読み終ってふと,虚空
にただよっているような不安な自分の生活に観照の目を向けてみようという気
にさせる,そういうエネルギーを内在しているという意味では,やはりserious
な文学としての質的条件を濃厚に備えた作品をいくつも世に出したと認めない
ひつぱく
わけにはいかない。ただ,そのエネルギーの内在のしかたが,逼迫した余裕の
ないいらだちを伴うものではなく,ごく控え目で,考えるのがめんどうなかた
はどうぞご勝手に,とでもいうようなnonchalantな味わいのものである点に
独特な読後感のあることは,読んだことのある人々にはよくおわかりのはずで
ある。
(1) p.12,Ris for Rocket,(Doubleday and Co.)
C2) ibid., p.78∼9.
{3)p.53,The Il1ustrated Man,(Bantam Book)
(4〕 ibid., p.53.
(5) ibid., p.61.
(6)p. 165,The Golden Apples of the Sun,(Bantam Book)
{7}ibid.,p. 167.また「火」とか「水」という原始的エネルギーへの強い関心はさまざまな作品に
散見しうる。特に‘Frost anb Fire’という短篇にいちじるしい。
(8) p.221∼2,Ris for Rocket.
(9)p.7∼11,A Medicine for Melancholy,(Bantam Book)
(10) p.176,Ris for Rocket.
aP p. 22∼3, A Medicine for Melancholy.
吻p.160,Ris for Rocket.
a3 ibid.,p.196.
a4 p. 167∼8, A Medicine for Melancholy
少年のはくラバー・ソール靴という想像力
α励
543
ibid.,p.166.
ェα⑳⑬㎝⑳⑳⑳⑳⑳25㈱伽⑳⑳⑳⑳
p.18L R 1s fQr Rocket.
ibid., p。202.
ibid.,p.191.
ibid., p.215.
ibid., p。130.
ibid.,p.127.
ibid., p.176.
ibid., p.138.
p.6,The Golden Apples of the S職.
p.227,Ris for Rocket.
ibid., p. 228.
ibid.,p.228.
ibid.,p.229.
ibid.,p.232.
ibid.,p.233.
ibid.,p.5∼6.
(1973. 10. 26)
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