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ある都市の想像界 : あるいはどうやって他者を厄介払い
するか
佐々木, 滋子
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 40: 103-224
2003-01-10
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/9847
Right
Hitotsubashi University Repository
ある都市の想像界
あるいはどうやって他者を厄介払いするか
佐々木滋子
﹃慈しみの女神たち﹄の中で、アポロ;ンは言う、﹁母の子と呼ばれる者に生命を与うるは母にてはあらず、母は胤
を受けた胚芽の傅役である。生命は母と交わった男性より来るもの。母がなすは他人の男のために他人の女として、
︵1︶
天の許しあって胎児が流れぬ時、胎を卿すことのみ﹂。レヴィ閥ストロースがオイディプース神話に関して提起した
︵2︶
問題i﹁人は一者から生まれるのか二者から生まれるのか﹂ーに対する見事な解答だ。人は一者からー父から
ール・ヴェルナンはここに、﹁止むことなくギリシャの想像力に付きまとった﹂﹁純粋に父系的な世襲の夢﹂の﹁大っ
︵ 3 ︶
ぴらな表明﹂を見ている。もちろん、これは夢に他ならない。現実は違うことを語っているからだ。たとえば、紀元
︵4︶
前四五一/四五〇年のペリクレスの法律は、アテナイ市民を﹁ともにアテナイ市民である両親から生まれた者﹂と規
定している。そればかりか、﹁母が本当にこれほどどうでもいいなら、父の遺伝だけが重要なら、父は違うが同じ母
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1生まれる。母は、父の胤の生育のために貸し与えられた畑、胎内からの子供の乳母に他ならない。ジャンーピエ
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
︵5︶
から生まれた子供の間のいかなる結合も禁ずる法律がアテナイに存在することをどのように説明するのか。﹂だが、
これが﹁悲劇のディスクールの過激さ﹂の所産であるにしても、この夢が深く﹁再生産に関する市民的想像世界を侵
︵6︶
食する﹂ものであったことは疑いないように思われる。現実認識は、一者は二者から生まれるし、二者からしか生ま
れないことを教えていたにしても、と言うよりむしろそうだからこそ、夢もしくは欲望はそうではないことを欲する。
このことは、幾つかの事情から確認することができる。
第一に、右に挙げたペリクレスの法律ーニコール・ロローはそれに対して次のように反論している、﹁現実には
︽アテナイ人女性︾と同様︽女性市民︾も存在しない。したがってアテナイ市民はただ単に、両側的に市民だけを父、
︵7︶
つまり自分の父と母の父とする者と定義してもよかろう。﹂だが、より厳密に言えば、この定義でもまだ十分ではな
い、︽アテナイ人女性n︾毎雪巴匙あるいは︽女性市民もo葺匡窃︾というステイタスで呼ばれる女性は存在しない
にしても、アテナイ人ではない、言い換えれば外国人であるというステイタスを持った女性は存在するからだ、した
がって、母の母が外国人であれば、彼は﹁アテナイ市民﹂にはならない。ゆえに、母の母もまた、アテナイ市民を父
とし、それから母としてアテナイ市民である父と、やはりアテナイ市民を父とし、母としてはやはり⋮⋮だがこれは
無限後退である。父だけが市民というステイタスを持ちうる限り、言い換えれば、現実に存在しているアテナイ人の
女性−母をそのものとして肯定的に定義できない限り、一者は二者から生まれるという現実認識に基づいているよう
に見えるこの法律も、︽父系の夢︾の重い圧力のもとで、目縄自縛に陥って、アテナイ市民の定義をいつまでも完成
させることができないのである。
同様に、当時のアテナイの結婚制度の研究も、同じ欲望の存在を歴然と読み取らせている。﹁クリステネス[の改
革]以後、αq仁3恕∋Φ藏[正妻]と単なる冨蕃冨[妾]、ひQコ①の互[嫡子]とpひ些9[庶子]の間の断絶がもっと
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
も強く明示される。この二重の対立は体系的に整序されている。なぜならαq鼠巴8であるためには、ひq巨Φαq四ヨ①8
から生まれなければならないからである。ハンス・ユリウス・ヴォルフが、アッティカの結婚システムの鍵全体は、
コ099と讐盆δのの間にこのシステムが打ちたてている明白な対立にある、なぜなら、都市の枠内では、結婚は、
家に合法的な子孫を保証して、父が︽自分に似た︾、目分から生まれた息子碧&ひq品03ω、において延長されて、
都市を構成している制限された結婚の中心のいずれもが、ある時に絶えないようにする手段と見倣されているからだ、
と主張できるのは正当なことである。国躇鼠[婚約]と胃o冒[持参金]を伴う結婚に、合法的な親子関係による正
当な子孫の生殖の専一的特権を与えることによって、都市は世代の連続を通して、都市の構造と形式の恒久性を維持
しているのである。﹂o民8の正当な後継者を、正妻腹の嫡子に限定しようとすることによって、アテナイの民主制
︵8︶
が確立しようとしていたのは、父から生まれ、父に似た息子を通しての、父の延長、父のクローン的再生産に裏付け
られた、○騨8の存続である。結婚形式の法的整備の企てにも、父系の夢は色濃く存在している。
最後の例として、ニコール・ロローが詳しく研究したアテナイの窪898巳Φ[土生性]のディスクール、つまり
8置9δ=oσqOω、弔辞のディスクールを挙げよう。アテナイの市門のすぐ外側、ケラメイコスの国家の墓地には、
﹁姓もなくデーモスもない、富めるまた貧しい、都市のまた田舎の、品m夢9[高名な]あるいは無名の市民−兵士
︵9︶
が、同じ記念碑に並んで部族ごとに埋葬されている。﹂そこで戦没者たちを追悼して語られる弔辞のディスクールに、
ロローは次のような特徴を見出している。﹁8ぎ喜互では、アッティカの大地は決して単に︽母︾なのではなく、
常に父的シニフィアンの強力な回帰によって、︽母にして祖国︾︵ヨ簿酵匿一冨鼠曾母にして父たちの土地︶である。
この連辞はそれだけで、市民のディスクールでは、性的再生産と両親の対のイマージュが母なる大地のあらゆる表象
を排除していることを証明するに十分である。だがそれ以上のことがある。女性原理を中和しても、途中で立ち止ま
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るわけにはいかない、女性が完全に排除されたアテナイという夢が現われるのが見られる。デモステネスが8詳8耳
oωで行っているように、いかなるアテナイ人も、その父によって個人的な、祖国によって集団的な、二重の祖先を
継承していると断言することは、父的連辞において父性の表現を二重化することである。とりわけ都市における女性
の役割を問い直し、女性にいかなる有用性も、さらにはいかなる存在も拒絶することである。[⋮⋮]/生まれと市
民権の圧縮によって、アテナイ人が︽祖国の合法的な市民−息子︾であると言明されている土生性の集団的表象を厳
密に検討すると、驚くには当たらないだろう、市民の想像世界で、祖国が自己再生産するなら、都市が実践において
︵10︶
は女性に委ねているこの生殖能力の土壌自体において否定されている女性には、いかなる地位が残っているだろ
うか。﹂アテナイ市民は、他のポリスの市民とは異なり、き838器、つまりアテナイの大地から生まれた土生人で
あることを誇りにしていた。これもまた、レヴィ”ストロースが提起したもう一つの問題ー﹁人間は人間から生ま
れるのか、大地から生まれるのか﹂1に対する、同じように明快な、だが現実には即していない解答である。だが、
︵H︶
このアテナイの大地は、﹁母にして祖国[B鼠曾父たちの土地]﹂である。したがって、このアテナイの大地、
︽日簿警蓄一B三ω︾に両親のイマージュが投影されているように見えるとしても、それは単に、大地を、父性なし
にすべてを生み出す︽万物の母︾から奪還するためでしかない。次いで今度は、この両親から、現実の母が排除され
る。アテナイ市民は等しく、現実の父と祖国︵父たちの土地︶の息子なのだ。ここでも、︽父性の夢︾は貫徹してい
る。
したがって、問いが生まれる。この︽純粋な父性の夢︾、ぎヨoδ曽同一者のクローン的再生産を通じて、父自身
を、o涛8を、そしてポリスを存続させようとするこの欲望は、いかなる形で、現実にはかなえられない実現を、想
像的に満たそうとするのか、そのために、都市はいかなる矛盾を生きることになったのか。ここでは神話と悲劇に対
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
象を限定しながら、この問いを探っていきたい。具体的に言えば、ここでこれから試みられるのは、ある都市の想像
的世界の神話と悲劇による一種のコラージュを作ることである。それによって、紀元前五世紀のアテナイという一つ
の都市がそれ目身について抱いた、自己の理想的イマージュに接近することができれば、というのが、ここでのささ
やかな目標である。
一 女性−根源的な他者
アテナイにとって、市民とは、︽男性・成人・目由民・アテナイ人︾のことだった。と言うことは、アテナイには、
市民ではないものが多く存在していたことを意味しているー女性、未成年者、奴隷、そして外国人である。彼らは
それぞれが、アテナイにとって何らかの意味で他者性を帯びていたわけだが、その中で最も根源的な他者だったのは、
︵12︶
おそらく女性ではないかと思われる。そのことを理解するために、まず、特殊アテナイ的世界にこだわらず、ギリシ
ャ的世界一般における女性の位置付けを、ヘシオドスが報告している︽最初の女性︾の人間世界への導入のエピソー
ドを通して検討してみたい。ヘシオドスはこのエピソードを﹃神統記﹄と﹃仕事と日々﹄の二つのテクストで物語っ
ている。ここでは、このテクストのヴェルナンとロローのレクチュールに従って、女性の根源的な他者性を確認する
ことにしたい。
﹃神統記﹄では、︽最初の女性︾は次のような状況で、人間界に導入されている。ある時﹁メコネで、神々と死すべ
き身の人間たちが謳いをしていたときのこと﹂、プロメーテウスが神々と人間の前で最初の供犠を執り行い、犠牲の
︵B︶
雄牛を二つの部分に分けて、一方には﹁肉と脂肪に富んだ臓物を﹂、﹁牡牛の胃袋で包んで﹂、﹁牛皮の上に置﹂︵五三
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八−九行︶き、他方には﹁牡牛の白い骨を、業巧みに按配して、艶々しい脂肪でそれを包ん﹂︵五四〇ー一行︶で、
ゼウスに好きな方を取るように言った。つまりプロメーテウスは、食用になる、したがってもっともよい部分を1
当然それはゼウスの取り分になるはずであるー、いかにも食欲をそそらない胃袋で包んで隠し、他方食用にはなら
ない骨、したがってもっとも悪い部分をー通常それは人間の取り分にならねばならないー、脂肪で包んでいかに
も食欲をそそるように見せかけて、ゼウスを欺き、もっともよい部分を人間に与えようと謀ったのである。﹁不滅の
智を弁えるゼウス﹂︵五五〇行︶は、この計略を見抜きながらも、敢えて騙されたふりをして、脂肪に包まれた骨を
取るが、怒りを忘れず、人間から火を隠す。だがプロメーテウスは、天から火を盗んで、薗香の中空の茎にそれを隠
し、人間に与える。激怒したゼウスは、﹁火の代償として﹂︵五七〇行︶、︽最初の女性︾の製造を命ずる。ヘー。ハイス
トスが土から作った﹁花恥ずかしい乙女の姿﹂︵五七二行︶に、アテーナーが花嫁の装いをさせる。こうして﹁美し
い禍悪穿巴曾訂ざ邑﹂︵五八五行︶が、﹁人間どもにとって、手におえぬ、徹底した陥穽﹂︵五八九行︶として、人
問に与えられる。︽最初の女性︾が犀爵9、悪であるのは、﹁彼女から人を破滅させる女たちの種族が生まれたから、
彼女たちから住まいを分かち合う死すべき人間にとっての恐ろしい禍は生じたから﹂︵五九一ー二行︶である。では
その禍とは何か。
彼女たちはいささかも忌まわしい﹁貧乏﹂には連れ合いとならず、﹁裕福﹂と連れ合う。ちょうど巣箱の屋根の下
で蜜蜂が悪行を分け前とする雄蜂を養うのが見られるように︵蜜蜂は疲れを知らず、日が暮れるまで一日中働くが、
雄蜂の方は、巣箱に隠れてその場を動かず、他人の疲労で胃袋を満たしている︶、そのように女性を創造して、天
に轟くゼウスは死すべき人間に悪を創造した。害をなすのが女性の宿命だからである。そして彼は、善の見返りに
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
もう一つの悪を作り出した、結婚と女性がもたらす苦労を避けて、結婚を諦め、誰も世話してくれる人のないまま
不吉な老年に達する者に対して。そのような男は、窮乏を知らずに暮すだろうが、彼が死ぬと遠方の親族が彼の財
産を分け合うことになるからだ。結婚するのが定めで、心に適った賢明な妻を見出した男、彼もまた、生涯が続く
間には、悪が善と釣り合いを取るのを見ることになろう。妻が有害であることを見出した男は、永久に心と魂を悲
︵M︶
嘆に蝕まれて暮すことになるからだー彼の悪は癒しようがない。
女性が死すべき人間にもたらす悪は、一、女性が雄蜂のように、もっぱら人間ー男性︵蜜蜂︶の労働に依存して、座
して食らうばかりであること、二、だがこのような存在である女性を忌避して、独身で生涯を終わる人間−男性は、
孤独な老年を迎え、死後はせっかく築き挙げた財産を遠縁の者たちに奪われてしまうこと、三、他方、よい妻に恵ま
れて結婚しても、結局妻は女性である以上、生涯を悲嘆に蝕まれて暮さねばならないこと、にある。一に関しては、
ギリシャの古代と古典期を通じて一般的に見られる経済体制とそれに伴う性的分業体制ー女性は家にとどまり、家
事労働と屋内に備蓄される財[冨冒①ユ巴の管理を受け持ち、他方男性は生産労働を含む戸外でのあらゆる活動に
従事し、移動財[家畜もδげ窃邑を管理するーを反映しているわけだが、こうして生産活動から切り離されて経
済的に夫に依存していることが、女性という存在の根源的な﹁悪﹂である。二と三は、この悪が男性に強制する二者
択一的選択の帰結としての、善を相殺する﹁悪﹂である。一方で、女性という悪を拒めば、働ける間こそ﹁窮乏を知
らない﹂という善を得られるが、﹁世話してくれる人のない﹂孤独な老年と○民8の断絶が待ち構え、他方で、この
悪を受け入れれば、いくら﹁心に適った賢明な妻を見い出﹂し、o民8を存続できても、結局妻という寄食者を抱え
る以上、悲嘆の生涯を送らねばならない。いずれを選択しても、人間−男性にとっては、善は悪に相殺されるので、
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まことに人間ー男性の﹁悪は癒しようがない﹂のである。
︵応︶
他方、﹃仕事と日々﹄では、物語は一気に、﹁好智のプロメーテウスに欺かれ、怒り心頭に発し﹂た︵四七−八行︶
ゼウスが、人間から﹁命の糧﹂︵四三行︶と火を隠したところから始まる。プロメーテウスは、隠された火を盗む。
怒ったゼウスは言う、﹁わしは火盗みの罰として、人間どもに一つの災厄を与えてやる。人間どもはみな、おのれの
災厄を抱き慈しみつつ、喜び楽しむことであろうぞ﹂︵五七ー八行︶。そしてゼウスの命によって、ヘーパイストスが
﹁土を水で捏ね、これに人問の声と体力を注ぎこみ、その顔は不死なる女神に似せて、麗しくも愛らしい乙女の姿を﹂
︵六〇1三行︶作る。アテーナーが、これに﹁様々な技芸と精妙な布を織る術を教え﹂︵六四行︶、アプロディーテー
が﹁魅惑の色香を漂わせ、悩ましい思慕の思いと、四肢を蝕む恋の苦しみを注ぎかけ﹂︵六六行︶、ヘルメースが
]犬の心と不実の性を植えつけ﹂る︵六八行︶。こうして、アテーナー、カリス、ペイトー、ホーライによって
まった。[⋮⋮]数知れぬ災厄は人間界に跳梁することになった。現に陸も海も禍に満ちているではないか、病苦
に暮しておった。ところが女はその手で甕の大蓋をあけて、甕の中身をまき散らし、人間に様々な苦難を招いてし
それまでは地上に住む人間の種族は、あらゆる煩いを免れ、苦しい労働もなく、人間に死をもたらす病苦も知らず
ピメーテウスは、彼女を受け取ってしまう。では、。ハンドラは、いかなる点で人間にとって﹁災厄﹂だったのか。
いになるやもしれぬから﹂︵八六−七行︶と兄から堅く言われていたにもかかわらず、それを忘れた、思慮の浅いエ
メーテウスの弟エピメーテウスの下に送られる。﹁ゼウスからの贈物は、決して受け取ってはならぬ、人間たちの災
に贈り物[88三を授けたことによる、とされている︵八二ー三行︶1と名付けられた︽最初の女性︾は、プロ
美しく飾り立てられ、パンドラ[評邑o一巴iこの名前は、万の[B旨窃]神々が、人間の禍になるように、彼女
「[
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は昼となく夜となく、人間に災厄を運んで、勝手に襲ってくる、 ただし声は立てぬ1明知のゼウスがその声を取
り上げてしまわれたのでな︵九〇1一〇四行︶
ここでは、女性の﹁悪﹂は、本質的に異なる二つの次元に属している。一つは、パンドラに神々が、人間にとっての
禍となるように与えた、彼女の様々な本性ー美しい容姿や官能的な魅力とそれが人間−男性に生み出す性的欲望の
苦しみ、﹁雌犬の心﹂、言い換えれば厚顔無恥と不実な性格、﹁偽りと甘き言葉﹂︵七九行︶1に属する悪であり、も
う一つは、彼女の行為 苦難の一杯詰まった大甕の蓋を開けるーの帰結 全世界に数知れぬ災厄を撒き散らす
を免れ﹂、労働も病気も死も知らなかった人間の世界には、一気にそれらのすべてが導入されるからである。
二つのテクストで語られている女性の悪には、大きな差異があるように見える。一方では、女性は、o民8の存続
にとって不可欠ではあるが、生涯、男性が労働によって背負って行かねばならない重いお荷物となって、彼女がもた
らすあらゆる善を相殺する悪であり、他方では、美と官能の陰に無恥と偽りを隠して、男性を性的欲望の苦悩に陥れ、
加えて労働と病苦と死を導入する悪である。だが、この二つの悪は、まったく異なるものなのだろうか。言い換えれ
ば、二つのテクストは︽最初の女性︾に関して、二つの異なる物語を語っているのだろうか。
ヴェルナンは、二つのテクストをゼウスとプロメーテウスとの智慧の戦いの神話のシークエンス内にともに位置付
けて分析することによって、両者が補完しあって、女性の﹁悪﹂の人間−男性にとっての射程を十全に物語っている
︵16︶
ことを、明らかにしている。以下、ヴェルナンにならって、二つのテクストを読み直して見よう。
シークエンス全体は、ゼウスとプロメーテウスの間の騙し合い[α〇一8]、与えることと奪うことの丁々発止の応酬
111
ーに属する悪である。とりわけ後者は、人間の世界を一変させる。彼女の行為によって、それまで﹁あらゆる煩い
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
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として構成されている。最初に、プロメーテウスがゼウスを騙す。彼はゼウスに罠をしかけて、牡牛の中の食べられ
るものすべてを人間に与えようとする。そして、彼の企みは成功する。肉と内臓は、人間に与えられる。だが﹁不滅
の智を弁える﹂ゼウスは、与えることによって、実は奪っている。というのも、骨は、動物の中で唯一、︽腐敗しな
いもの︾、動物の永遠の生命が宿る部分だからである。逆に、肉と内臓は、実際には、︽腐敗するもの︾、動物の生命
が立ち去った後の死の部分に他ならない。したがって、プロメーテウスが行ったこの最初の供犠の結果、神々と人間
の取り分は絶対的に決定された。﹁この時からというもの、地上に暮す人間どもの族は、不死の神々のために、芳し
い祭壇で、白い骨を燃やすのである﹂︵﹃神統記﹄、五五六ー七行︶。神々は祭壇で焼かれた骨の天に立ち昇る香気を自
己の取り分にすることによって、自己の不死性を獲得している。それは、ゼウスが人間から奪ったものであり、肉と
内臓を取り分にした人間は、飢え冒ヨ8]と戦って、プロメーテウスの供犠における牡牛の胃袋のように、絶えず
胃袋を肉と内臓で満たすことによって生を持続させねばならないが、それは単に死を先送りすることでしかない。ゼ
ウスは敢えて騙されることによって、人問から永遠の生命を奪い、死を与えたのである。ヴェルナンによれば、﹃神
統記﹄のこの食物のテーマは、農業労働者の立場で書かれている﹃仕事と日々﹄においては、もはや肉ではなく、穀
物栄養の形で提示されている。ここでは、ゼウスは報復として、まず、人間から﹁命の糧[σδω]﹂を奪う、言い換
えればそれを隠す。つまり、生[命][σδω]は、プロメーテウスが肉と内臓を胃袋に隠したように、ゼウスによっ
て命の糧H穀物[σδω]として大地の下に隠され、以後、人間は、労働を通じてそれを獲得しなければならない。ギ
リシャにおいては、供犠が肉食栄養を摂取する︵狩を除けば唯一の︶手段であった以上、供犠と農耕、牡牛と穀物の
間には位置の対称性と地位の相補性があることをヴェルナンは指摘しているー﹁供犠の儀礼は、植物的な栄養摂取
の枠組における穀物栽培と同じ役割を、肉食の栄養摂取の枠組において引き受けている。[⋮⋮]牡牛は、[⋮⋮]野
112
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
生動物の対極に位置している。人間は野生動物を、敵として狩り立てるのであって、原則として同意を得て供犠に付
するのではない。人間の領域に対する野生動物の外在性は、その栄養体制にとりわけ特殊的に記されている。彼らは
規則もなく、制限もなく、飢えを満たす獲物の中から神的諸力に帰する取り分を留保することもなく、互いに貧り食
い合う。[⋮⋮]/牡牛と野生動物の関係は、今度は小麦と野生の植物の関係に等しい。地上のあらゆる産物の中で、
小麦はもっとも人間化されている。野生の植物はただ一人で、偶然の条件がそれに有利な所に生える。小麦は、栽培
されて、子供を人間にするために与えられる教育にも比すべき注意深い一年の世話の後にやっと収穫される。[⋮⋮]
耕作された家庭的植物によって、供犠に付された家畜によって、身を養うこと、これがしたがって、人類を、獣と
神々という、人間に同時に近くて隔たっている二つのステイタスの中間に書き込んで、人間を、それ固有の存在条件
︵17︶
を定義するこの中間的なステイタスにおいて確立する、栄養摂取体制の二つの連携する様相なのである。﹂
次いで、報復として、ゼウスは、人間から火を奪う、﹁彼は疲れ知らぬ火の勢いを、秦皮樹に与えようとはされな
かった﹂︵﹁神統記﹄、五六三行︶。つまり、それまで人間はゼウスが秦皮樹に落した雷露の火を利用してきたのだが、
ゼウスは以後、落雷を差し止めたわけである。そこで、プロメーテウスは、天の火を盗んで、それを人間に与える。
だが、プロメーテウスが与えたこの火においても、与えることと奪うこと、善と悪は、相殺し合っている。一方で、
この火は、調理を始めとする多様な文化的活動を可能にするが、他方では、いつ消えてしまうか分からないので、火
種を穀物のように灰に埋めたり、あるいはプロメーテウスがしたように薗香の中空の茎に隠して運んだりして、保存
しなければならず、また、人間が食べなければ生きられないように、生かしておくためには絶えず食物11燃料を補給
して養わねばならない、そればかりか、貧欲で口に入ったものは何でも貧ってしまうので、管理して制御しなければ
ならない火である。要するに、火もまた穀物のように、努力と注意によってしか、人間のものにはならない。したが
113
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って、与えられたものはまた奪われたものでもある。プロメーテウスが与えた火は、人間を、ゼウスの不死の﹁疲れ
知らぬ火﹂から決定的に遠ざける。
最後に、盗まれた﹁火の代償として﹂︵﹃神統記﹄、五七〇行︶、﹁火盗みの罰として﹂︵﹁仕事と日々﹄、五七行︶、ゼ
ウスは﹁美しい悪穿巴2評畏o邑﹂を製造して、人間に与える。︽最初の女性︾を定義するこの連辞が、既にそれ自
体で、善と悪の相殺を示していることに注目する必要がある。既に見たように、︽最初の女性︾あるいはパンドラは、
美であるが、そしてギリシャ人にとって美は既に善であるのだが、同時に悪でもある、それはその心に外見とは裏腹
な欺隔と無恥を隠しているからであり、多くの災厄を全世界に解き放つからでありふまた﹁女性の種族﹂を生み出し
て、男性に﹁癒しようのない悪﹂に他ならない二者択一的な運命 孤独な老年とo爵8の断絶か、永遠の寄食者
かーを強制するからである。だがそれでも、。ハンドラの美と官能的魅力を前にして、男性はやるせない思いに身を
焦がし、欲望に手足も萎えて、﹁おのれの災厄を抱き慈しみつつ、喜び楽し﹂むことになる。この最終的報復を思い
付いたゼウスが大笑いした︵﹁カラカラとお笑いなされた﹂、﹃仕事と日々﹄、五九行︶のは、当然と言わねばならない。
だが、この﹁美しい悪﹂が、与えると同時に奪うものであるのは、それだけの理由からではない。女性は、他のも
のと同じ資格で人間に与えられた一つの禍にすぎないのではなく、その内に他のすべての禍を含んでいる。本質的に
﹁雌犬﹂である女性は、﹁﹃貧乏﹄とは連れ合わず、﹃裕福穿oδ曾満腹]﹄とだけ連れ合﹂い︵﹁神統記﹄、五九三行︶、
雄蜂のように、自分は何も働かずに、男性の労働の産物を飲み込む胃袋︵ひq器け震︶である︵同、五九八−九行︶。言
わば女性は家に住み付いた飢え冒ヨ8]であり、その食欲は、絶えず食物”燃料を要求する火に等しい。ところで、
食物を貧る女性のこの腹︵恕雪R︶は、また男性にo騨8の後継を与える腹でもある。だが、穀物が労働を代償にし
なければ得られないように、子孫もまた性的結合を経なければ与えられない。ところで、農耕と生殖の間には、周知
114
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
のように容易に指摘できるアナロジーがある。穀物を得るためには、大地を耕して、そこに種子[呂震日巴を置か
ねばならないように、子孫を得るためには、女性の腹を耕して、そこに子胤[ω℃段琶巴を置かねばならないからだ。
そしてここでも女性は﹁雌犬﹂であり、貧欲な鴨卑段である。シリウスが戸外で働く男性の﹁頭と膝を焦がし、肌
は熱気に干されて乾き切る﹂時、﹁女はもっとも色情をつのらせ、男はもっとも精気を失う﹂︵﹃仕事と日々﹄、五八六
−八行︶からだ。﹁食欲と性欲の二重の貧欲によって、女性の恕匁段[腹・胃袋]の雌犬的な性格は男性のエネルギ
ーを焼き尽くし、男性を、まだ若いうちから干からびた老年へと歩ませる。この意味で、ヘシオドスのテクストは女
︵18︶
性を、[⋮⋮]人間に与えるために、プロメーテウスがゼウスから盗んだ火、ゼウスが創造した火として提示して
いる。﹂
ヘシオドスの二つの神話では、︽最初の女性︾の創造の物語は、最初の結婚の物語でもある。ところで、この結婚
もまた、男性にとっては善と悪の相殺、与えられると同時に奪われる事態を招くものである。それは単に、結婚を選
択するか否かが男性に運命付ける二者択一的な未来のためばかりではない。先に見たように、最初の供犠における人
間の取り分の決定と、巨8[穀物]の隠蔽、そして火の隠蔽は、野生動物との対立において、人間固有の食物摂取体
制を決定している。野生動物は、生食と見境なしの共食いに特徴づけられる食物摂取体制の中にあるが、人間は、供
犠と農耕とによって、特定の手続きに従う特定の肉と植物を食用に選択し、それらを生まではなく調理して摂取する。
同様に、性的雑居状態にある野生動物に対して、人間は単婚によって生殖する。﹁。ハンが植物性食物であり、同様に
は、パンや調理された肉と栄養的消費の関係に等しい。﹂したがって、供犠、農耕、結婚は、ゼウスがプロメーテウ
供犠の犠牲の加熱された肉が肉食性食物であるなら、妻となった女性との結合、αq仁畠αq四ヨΦ薮と性的消費との関係
︵19︶
スとの戦いを通じて人間に与えた新たな条件である。この条件が与えられた結果、人間は神々から決定的に分離され
115
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たが、他方また、動物には与えられていない神々からの庇護も保証された。こうして、神々とも動物とも対立する、
人間の中間的なステイタスが決定される。﹁動物と同じ資格で、人間は生き延びるためには、殺し、食べ、再生産し
なければならない。だが、これら三つの領域において、厳密な禁止が人類に対して可能的なものの領野を画定してい
る。[⋮⋮]どんな生き物でも殺していいわけではないし、いかなる種類の食物でも食べていいわけではない、望む
者誰とでも結合していいわけではない。動物の屠殺、肉食であれ菜食であれ栄養摂取、性的結合は厳密な規則に従っ
ている。﹂この条件、この規則によって、それまで﹁あらゆる煩いを免れ、苦しい労働もなく、人間に死をもたらす
︵20︶
病苦も知らずに暮して﹂いた人間冨三ぼ90昌は、労働によって食物を得、女性を通して子孫を得て、最終的には、
死んで子孫の中で自己を再生産する人間−男性冨区おの]になったのである。
したがって、塁身霧にとってはすべてが二重である、いかなる善も悪と同時にでなければ、奪われることを代償
にしなければ、与えられない。﹃仕事と日々﹄が語っている。ハンドラの最後のエピソードはこの文脈に位置し、その
行為によってゼウスの報復の止めの一撃を構成する。・ハンドラが世界に撒き散らす悪−苦しい労働と死をもたらす
病苦1、人間はそれが襲ってくるのを回避できない、なぜならそれらは音もなく忍び寄ってくるから、ゼウスは、
パンドラという悪には﹁声﹂と﹁甘い言葉﹂を与えてその悪を隠蔽したが、これらの純粋な悪からは﹁その声を取り
上げて﹂それを隠蔽したからである。だがこれらはまた、人間に与えられたげ一8の不可避的な代償でもある。しか
もそれは、︽最初の女性︾が製造される前から、供犠の牡牛の切り分けによって人間の取り分が画定され、σ一8が隠
され、火が隠された時から、潜在的に人間の世界に導入されていたものである。パンドラは、甕の蓋を開けて、それ
を一気に顕在化させる。人間−男性の家の亘夢8[甕]が、σδω、次なる一年を食いつなぐためのその年の収穫物
で満たされるためには、別の且58[甕]が空にされなければならないのだ。︽最初の女性︾は、きO﹃Φω[人間ー男
116
性]が置かれることになったこの二重性の目覚しい象徴なのである。
こうして、ヴェルナンの分析は、︽最初の女性︾の人間界への導入の一一つの異文を、プロメーテウスとゼウスとの
智慧比べの神話の中に位置付けることによって、人間i男性の存在条件の決定にとって︽最初の女性︾が持っていた
意味を十全に解き明かしている。これに対して、ロローは、分析の焦点を﹃神統記﹄の︽最初の女性︾のエピソード
︵21︶
に絞って、異なる角度からのレクチュールを提起している。
﹃神統記﹄のテクストでは、最初にいたのは﹁神々と死すべき身の人間ども︵芸8=﹃雪o=.ω葺げδ8一︶﹂である。
まだ女性はいない。そして神々と人間は、﹁謹い﹂の状態にある、言い換えれば分離しようとしている。この分離を
完成させるのが女性である。実際、ギリシャ語テクストには一二回、﹁人閤﹂と訳される語が出現する。すなわち、夢−
3δ=、塁9δ09︵死すべき身の人間ども、五三五行︶、℃馨雪き身85一冨8︵人間どもと神々の父、五四二行︶、
酔ぎ該O﹃巳.帥三耳99︵地上に暮す人間どもの族、五五六行︶、跨滋8勝き9δ8すぎε且990巳︵地上に暮す
死すべき身の人間どもの所には、五六四行︶、o口ゆ旨ぼ90邑︵人間どもの所に、五六九行︶、四三一℃ξ83隻2
犀讐8き9δ℃o一ω言︵火の代償として作った人間どもの禍、五七〇行︶、甚83qき浮δ8一︵神々と人間ども、五
八六行︶、誓滋δ島き甚δ8⊆ω︵死すべき人間ども、五八八行︶、山ヨ9訂昌8①旨ぼ99ω5︵人間どもにとって手
におえない、五八九行︶、夢幕8芭ヨ9.雪費器只死すべき身の人間ども、五九二行︶、雪身霧ω甚躊89幕§ω蒔仁−
轟斎錺︵女という死すべき身の人間どもの禍、六〇〇行︶である。五四二行を別にすると、﹁人間﹂を表す語は、興
味深い分布を見せている。五八九行までの九例では、﹁人間﹂は、神々に対立するものとして、き誓δ℃o一と言う語
によって表されているが、最後の二例では、それが女性、αQ琶Oと対立するものとしてのきαおωに変わる。そして、
117
匿匿α.oω。。90芸ロ日99吊8冨〇三7δ8巨︵心に図った死すべき身の人間どもの禍、五五一−二行︶、8ごマ
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
118
この変化を生み出しているのが、まさしく五九〇行と五九一行に初めて現われるαq窪8の琶巴5⇒︵女性の種族︶と
である。﹁この二行の詩句で、詩人は本質的なことを語った。女性は、既に構成されている男性の集団性に対する唯
に後から付け加えられた余分な種族である。﹁純粋な父系の夢﹂は、この余分なものの存在に対するき母窃の反応
︵結婚を選択しなかった男性には、孤独な老年とo民8の断絶しか待っていないからである︶。だが、それでも︽最
︵22︶
初の女性︾から生じるのは、︽人間︾ではなく、やはり女性なのである。したがって、女性は、︽人類茜暮耳99︾
が、女性が出現して、彼等がき辞霧になった時から、彼等は女性なしには再生産できなくなったことは疑いない
とテクストは語っている。女性が出現する以前のき守58一がどのようにして誕生していたのかは語られていない
︵五九〇1一行︶
彼女から柔弱な女性の種族が生じたので/[と言うのも彼女から禍に満ちた女性の種族と諸部族が生じたので]︶
爵滋ωαq巽頒窪88試の⊆⇒四穿9夢95R3昌/[串ωの貰998窃試閃讐oω評巴℃げ巨ゆ閃仁轟葺O包︵と言うのも
性︾は、確かにo軒8の後継者を生むかもしれないが、﹁女性の種族﹂の祖になるからである。
既に存在しているからであり、第二に、塁身8はそれだけで︽人間︾を意味するからであり、第三に、︽最初の女
ならない。なぜなら、第一に、神々とは区別されるものとしての︽人間”き芸δ℃9︾は、女性が導入される前から、
だが、これはただちに、女性が出現して以降は、︽人類一塁9δ8一︾が男性と女性から構成されるという意味には
ら分離されて、女性との関係において﹁人間ー男性﹂として存在することになるのだ。
鴨8ω匿一9巳国讐呂騨9︵女性の種族と諸部族︶である。女性がテクストに現われるや、﹁人間﹂は完全に神々か
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
一の例外として起源にそれ自体生み出された女性から派生している。[⋮⋮]女性はゼウスの被造物であり、その凝
集において磯雪oω讐呂葺9は男性社会の統一を脅かす。ヘシオドスに対する忠実さだろうか、それ以上に、テク
ストと政治的実践の出会いである。というのもヘシオドスに準拠することによって、市民権に関するギリシャ的イデ
オロギーの常に差異化されるある問いが実現されるからだーギリシャのポリスの逆説的︽半分︾である女性の必要
であると同時に不可能な排除が。﹂
︵23︶
しかも、そもそもゼウスが作らせた入最初の女性︾は、︽女性︾だったのだろうか。ここでも︽最初の女性︾をさ
す語彙を丹念に辿って見ると、興味深い結果が現われる。︽最初の女性︾は決して︽女性菌巨$とは言われていな
いからである。済旨弓震8$顎窪惹ぎ口m旨耳99ωヨ︵火の代償として作られた死すべき人間どもにとっての禍、
五七〇行︶、B旨ぎ3一巴亀o亜民Φ一9︵恥ずかしげな乙女の似姿、五七二行︶、惹一8訂ぎpきけ、諾象ぎδ︵善の見
返りとなる美しい悪、五八五行︶、Ωo幽9巴2P帥ヨ9言8口ゆ三日90芭口︵人間どもにとって手におえない、完全
な罠、五八九行︶、忌巳鋤ヨ品.訂=目20巨ヨ雪.き鳥器一︵死すべき人間どもの中の大きな禍、五九三行︶、冨8δ⇒
女性︾に対してよりもむしろ、彼女から生じた﹁女性の種族﹂に関して用いられている。αq窪8αq仁コ巴5昌︵女性の
種族、五九〇行︶、鴨8ω56言σoq琶巴屏9︵女性の種族と諸部族、五九一行︶、彗昏8ω葺爵9夢38巨碧冨陣−
ζω︵女性という死すべき人間どもの禍、六〇〇行︶、ヨ震目Φ墨Φお勉oq琶巴ざコ︵女性の恐ろしい所業、六〇三行︶。
ゼウスが作らせたものは、幾重にも罠、3一9である。へーパイストスは、﹁土から﹂、﹁恥ずかしげな乙女の似姿﹂
を作る。したがって、それは﹁乙女﹂に見えるが、実は一つの工芸品である。またそれは、斎巴9、似姿、コピーで
ある。何のコピーか、乙女、葛旨冨8のの。だが、この時まで﹁女性﹂は、したがって﹁乙女﹂はまだいなかった。
119
蓋ざ口き一.甜象ぎδ︵善の見返りとなるもう一つの悪、六〇二行︶。他方、oq巨巴ざp︵女性︶と言う語は、︽最初の
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
120
それは彼女以降に生まれる。したがって、彼女は女性ではなく、未来の女性のコピーである。ところで、このコピー
に、﹁輝く目の女神﹂アテーナーが、﹁帯をつけてやり、白銀色の衣で身を装わせ、また両の手で、この娘の頭から、
見事な作りの面被、見るも不思議なものを垂れかけなさった﹂︵五七三−四行︶。これは伝統的な花嫁、昌ロヨ90の
ヴエしル
椿えである。新郎だけが、彼女の面被を取り去り、帯を解くことができる。﹁黄金のアプロディーテー﹂の秘密にま
ヴエ ル
だ参入していないが、その扉を開けようとしている、禁止と誘惑によって二重に輝く冨匡冨8の出仁ヨ90、ここに
もαo一9がある。この﹁美しい悪﹂を前にして、神々と人間を捉える﹁驚嘆の思い旨訂仁ヨo﹂は﹁﹃ホメーロス風
讃歌﹄でアプロディーテーの美が神々に及ぼす効果、女性の形をしたoαq巴ヨ費飾り物の効果、一切の母こ巴o冥巧
みの技の効果﹂であることに、ロローは注意を促している。>昌α8ωが捉えられるのは、この罠なのである。ゼウス
︵24︶
が作ったものは、再生産するものとしての女性ではない、﹁女性においては、︽破壊の力︾の方が︽豊饒原理︾をはる
︵25︶
かに凌駕していることが認められるだろう。﹂
ヘシオドスのテクストが語っているのは、女性の出現が、現在の人間の条件を決定した、ということである。人間
はきαおの、男性になる。言いかえれば、以後、男性は女性から生まれるということだ。だが、それにもかかわらず、
いる。だから、七世紀のボイオティアの詩人には別れを告げて、その都市に赴こう、五世紀のアテナイヘ。
とには、いかなる利益があったのか。実を言うと、ある都市がその起源神話を語ることによって、この問いに答えて
女性の種族、鵯8ωαQ⋮巴ざ昌を構成する。したがって、問いが構成される。こうして、女性を人類から排除するこ
き鳥8、男性だけが人間であり、人類、き一耳99のもう半分であるはずのものは、き鳥霧とは異なる別の種族、
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
ニ エリクトニオスの神話
ピブリオテイーケー ︵26︶
アテナイの起源神話としてのーと言うのも、この都市にアテナイという名を与えた人物が問題になっているから
だがi、エリクトニオスの神話を、まずアポロドーロス︵﹃ギリシア神話﹄、第三巻図署︶に基づいて、簡略に紹
介しよう。
アテーナーがへーパイストスを訪れた時、神は女神への欲情の虜となり、女神を追い駆けた。女神は逃げたが、危
うくも、神の精液が女神の脚にかかる。憤った女神が羊毛でそれを拭き取り大地に投げ捨てたので、大地がこれに
よって妊娠し、エリクトニオスが生まれる。女神は、彼を箱に入れて、ケクロープスの娘。ハンドロソスに、箱を開
くことを禁じた上で、預けるが、パンドロソスの姉妹たちは好奇心に駆られて箱を開き、大蛇が子供を巻いている
のを見た。彼女たちはその大蛇に殺されたとも、またアテーナーの怒りに触れて気が狂い、アクロポリスから投身
したとも言われている。アテーナーは自らエリクトニオスをアクロポリスの境内で育てた。成長した彼はアテナイ
の王となり、アクロポリスにアテーナーの神像を建立し、またパンアテーナー祭を創設する。
実を言うと、アテナイには、エリクトニオス以前に、その祖と見倣すべき人物がいる。アテナイの、と言うよりまだ
アッティカの、初代の王だったのは、大地から生まれた半人半蛇のケクロプスである、彼は、﹁それ以前はアクテー
と呼ばれていたこの地を自分の名によってケクロピアーと名付けた﹂。ケクロプスはまた、人間には母だけではなく
︵27︶
121
122
父もいることを発見して、結婚を創始した人物でもある。だが、エリクトニオスは、アク・ポリスに目らの庇護女神
の神像を建立し、パンアテーナi祭を創始する、つまり、アテナイの政治的−宗教的一年が開始され、終了する枢軸
的時点を。したがって、都市の起源は文明の秩序と政治ー宗教的秩序に二重に割り振られている。だが、市民的空間
としてのアテナイが問題である以上、言うまでもなく重要なのは、政治的起源の方である。
ロローは、この神話を、次の二つの視点から、検討している。一方で、﹁最初のアテナイ人が、大地と神のカップ
ルとから同時に誕生するこの複雑な家族小説﹂において、エリクトニオスは誰の子供だったのか、他方で、エリクト
︵28︶
ニオスの異常な出生は、彼の﹁点線で結ばれた﹂両親、へーパイストスとアテーナーのいずれに送付されるのか。
︵29︶
﹃イーリアス﹄では、エリクトニオスがエレクテウスという名の下で次のように語られているー﹁このエレクテ
︵30︶
ウスは五穀を実らす大地の子、ゼウスの姫アテネが育て上げ、このアテナイの豊かに富む自らの社に住まわせた﹂。
したがって、ここではエリクトニオスは大地﹁ガイア﹂の子である︵だがガイア一人の子ではない、大地はヘーパイ
ストスの精液によって妊娠したのだから、へーパイストスが彼の父である、しかし、ここでもーまた他のところで
もーこの父はまったく顧みられていない︶。そして、ガイアから生まれた子供を受け取って育てたアテーナーは彼
の養育者[霞o喜o曾乳母︺である。だが、ロローはまた、エリクトニオスがアクロポリスに癬囚oξ9398、子
あるように見える。だが、女神に父性を認めることができるのだろうか。この問いに、ロローは壼絵の検証によって
常子供に与えられるのは、︽父の名︾である。したがって、彼のこの命名行為は、アテーナーの父性を認めるもので
︵訓︶
うなのかもしれない。だが、エリクトニオスは、目分の都市にアテーナーの名を与えた人物でもある。ところで、通
の内から彼を育てた乳母︵陸代理母︶であり、彼の真の母はアテーナーだということになる。役割が交換される。そ
供を育てるガイアの信仰を創設した、という伝統があることにも注意を促している。この伝統に従えば、大地は水子
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
が、弩aoω[上昇して]、アテーナーに奇跡の子供を差し出している、一方大部分のケースでは、象9冷ω[両形の、
つまり半人半蛇の]ケクロプスがこの場面に立ち会っている。工人のへー。ハイストスはしばしば、ゼウスは一度だけ
現れる。︹⋮⋮]純粋な証人である原初の王と工人の神は、ここでは重要な脇役であって、それ以上のものではない
[⋮⋮]注意の全体は現実には、エリクトニオスをアテーナーに手渡すガイアの仕草に、﹁大地﹂の手から奇跡の子供
を受け取るアテーナーの仕草にーそして付言しよう、女神へと両手を伸ばしている子供の仕草にー集中して
いる。﹂エリクトニオスのこの仕草を、他の壺絵1たとえば、ペレウスがアキレウスを教師となるケンタウロスの
︵32︶
ケイローンに委ねる場面ーと比較しながら、ロローはそこに子供の仕草の同一性を指摘している。エリクトニオス
が、女神へと両手を差し出すように、幼いアキレウスも、ケイローンから身を背けて、父ペレウスの方に両腕を差し
延べているからだ。これ1子供が身を投げかけるのは父に対してであるーが壼絵の協約であるならば、壺絵が描
いているエリクトニオスの誕生とは、父による子供の︽認知︾であり、子供は母の手から父の手へと︽社会的な移
行︾を果たしていることになる。﹁だがしかし、社会的ステイタスを生物学的事実に折り返して、アテーナーの︽父
性︾をへーパイストスの父性と混同しないことが肝要である。﹂したがって、エリクトニオスには、一方で確かに、
︵33︶
生物学的な父︵へーパイストス︶と母、︵ガイア︶、そして乳母︵ケクロープスの娘たち︶がいるとしても、そしてそ
の限りでは、二者から誕生した子供であるとしても、他方では、社会的には、この三者の機能を一手に引き受け、し
かもそのいずれでもない処女、葛詳冨8ωであるアテーナーただ一人の子供でもある。
このことは、事態を別の角度から検証しても、確認される。エリクトニオスには、へーパイストスと言う生物学上
の父がいるとしても、雲898需、大地から生まれた子供であり、通常の男女間の結合から生まれた子供ではない。
123
答えようとしている。エリクトニオスの誕生を描いたアテナイの壺絵には、同一の絵画的協約が存在する。﹁ガイア
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
だからこそ﹃イーリアス﹄は、へー。ハイストスの父性を無視して、彼を﹁五穀を実らす大地の子﹂と呼んだのである。
だが、それなら彼の出生の原因になったという意味で、﹁点線で結ばれた彼の両親﹂であるへーパイストスとアテー
ナーもまた、彼と同様に、単性生殖によって生まれた子供であったことを思い出さねばならない。この︽両親︾はま
た、性的不能者であると言う点でも共通している。一方は℃貰葺雪8であり、他方はアテーナーに拒絶されるばか
りか、アプロディーテーとの結婚でも裏切られ、常に性的挫折を約束されているからだ。また両者は共に、職人の神
であり、先に見たように︽最初の女性︾の製造では協力して働いている。だが、それでも両者の間には、懸隔がある。
この︽両親︾の間では、圧倒的にアテーナーの上位権が確認されるからだ。
まず、問題になっているのは、アテナイを舞台にした、最初のアテナイ人の誕生の物語であることに注意しなけれ
ばならない。確かにへーパイストスはこの都市でも崇拝されており、アゴラに隣接する所に目己の神殿、へーパイス
テイオンを持ってはいるが、アクロポリスの山上から都市を支配しているのは、もはや職人の女神ではなくポリスの
︵34︶
女神としてのアテーナー︵>串屋8=霧︶である。だからこそ壺絵では、﹁支配的な位置は、必然的に、ポリスの女
神に帰する﹂のであり、生みの父へーパイストスには、この誕生の証人という脇役の地位しか与えられていないので
ある。
第二に、アテーナーとへi。ハイストスは、それぞれゼウスとヘーラーが単性生殖で生んだ子供である。ここでかり
に、ヘシオドス︵﹁神統記﹄、九二七行︶とは異なって、﹃イーリアス﹄が語っているようにへーパイストスがゼウス
の至福なる神々の中でもひときわ秀でた神である、輝く目をしたアテーナーを生んだ﹂ゼウスに腹を立てたへーラー
とへーラーの間の子供だったとしても、﹃ホメi・ス風アポローン讃歌﹄は、﹁私のあずかり知らぬところで、すべて
︵35︶
が、自分一人で、﹁ゼウスに決して劣らぬばかりか、遠くまで雷鳴轟かせるゼウスがその父クロノスに勝ったほどの
124
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
差をつけて、ゼウスより強き者﹂︵三三七ー九行︶となる新たな子供を生もうとしたことを語っている。したがって、
アテーナーとへ㌧ハイストス︵あるいは彼に代わるへーラーのもう一つの単性生殖の子供︶は、ゼウスとへーラーの
いずれがよりすぐれた子供を儲けることができるか、という競合の中に置かれている。だがこの競合においてへーラ
ーが生み出すのは、﹁脚が曲がって、神々の間をおかしな歩き方ではねまわっている﹂︵三一六ー七行︶へー。ハイスト
スでなければ、﹁まがまがしく恐ろしい﹂︵三五〇行︶怪物テユーポーンである。ゼウスの﹁輝く目をしたアテーナ
ー﹂の傍らでは、勝負は明らかだ。ここでも、ゼウスに勝目のない反撃をするへーラーを通して、へー。ハイストスは
アテーナーに地歩を譲っている。
最後に、アテーナーの誕生を描く壺絵は数多いが、そこには常に︽産褥にあるゼウス︾が表象されている。ゼウス
は、父であるがまた、出産能力もあったわけだ。︵だからこそ、妻の再生産機能を纂奪するアテーナーの誕生は、へ
ーラーにとってこの上ない侮辱だったのである。︶これに対して、﹁へーラーによるへーパイストスの出産を描いたい
かなるイマージュも存在していない。[⋮⋮]古典ギリシャには、いかなる男性原理もないところで行われる誕生の
︵36︶
表象は存在しない﹂のである。単性生殖する父と母の間のこの著しい非対称は、彼等の子供にもまた明示されている。
父の秘蔵子であり、常に︽力強い父の娘る酵巨08#需︾であるアテーナーは、完全武装した姿で、関の声を挙げ
ながら誕生し、ゼウスの神楯を自己の属性にして、﹁アイギス持つゼウスの姫君﹂とまで呼ばれている。言わば︽武
アイギス
装したB旨冨きω︾であるアテーナーは、その二重に逸脱した属性−結婚して母になることにおいて完成すべき女
性性からの逸脱と、男性に留保されている戦争への逸脱1によって、父の男性的価値を最高度に具現している存在
なのである。これに対して、エリクトニオスの生物学上の、だが問題にされない父であるへー。ハイストスは、奇跡的
誕生、つまり性的再生産に拠らない生殖にしばしば関与し、ゼウスの命令で︽最初の女性︾の製造に携わり、また、
125
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
って、要するに、奇跡的誕生におけるへー・ハイストスの役割は、︽生殖者︾ではない、単性生殖によって生まれた彼
︵37︶
アテーナーの誕生に際しては、陣痛に苦しむゼウスの頭を双頭の斧で叩き割って、産婆の役を果たしている。したが
は、単性生殖を手伝うのであって、単性生殖するのではない。
へーパイストスに対するアテーナーの上位権は、こうしてエリクトニオスの奇跡的な誕生をアテーナーに強く結び
付ける。それを物語るある壺絵︵ブリティッシュ・ミュージアム所蔵のある﹃琶二〇、水甕︶に、最後にロローは注
意を促している︵ロローのレクチュールを、補足を加えながら、辿ってみよう︶。そこには、﹁この場面に立ち会うへ
ーパイストスはいない、ケクロプスもいない、生みの父は忘れられ[したがって生物学的な親子関係は忘却ー抑圧さ
れ]、結婚[つまり性的再生産]の創始者とその人間−蛇の混じり合った体[つまり父性なしに出産するガイアの、
またへーラーの、子供たちに特徴的な身体]は消失し[したがって、性的再生産と母なる大地の孤独な出産とがとも
に退けられて]、[⋮⋮]アテーナーの背後にニケー︵﹁勝利﹂︶が現われている。偉大な戦士のなりをした女神[アテ
ーナ⊥、厳めしい震oヨ8ぎω[先頭に立って戦う]が、ガイアの差し出す子供を受け取っている[つまりここで受
け取られているのは、市民−兵士となるべき人間ー男性である]。彼女の正面には、彼が現われるのは前例のないこ
となのだが、他の甕でのへー。ハイストスの態度を髪髭させる態度で、雷窪を手にしたゼウスがいる。[⋮⋮]私がそ
こに好んで見ようとしているのは、エリクトニオスの誕生とアテーナーの誕生を結び付けて、ガイアが返還した子供
を﹁ゼウスの処女﹂の唯一の権威の下に置く緊密な絆の認知のようなものである。こうして、容易にアテナイの画家
︵38︶
は、エリクトニオスの誕生を父の徴の下に位置付けたのである﹂。
こうして、父性の徴の下に置かれたエリクトニオスの誕生の神話は、再生産する者としての女性の大いなる否認の
上に、アテナイの都市を、したがって市民的共同体を基礎付ける。エリクトニオスがアテーナーの子供であるならば、
126
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
エリクトニオスの子孫であるアテナイ人︵男性︶はすべて、 ︽アテーナーの子供︾に他ならない。﹁ギリシャ人の男性
︵39︶
的な夢−生殖活動なしに子供を持つというーの実現﹂。
三 炉の子供−子供の第二の誕生
子供の誕生を父の徴の下におくことは、だが、神話的表象の中にのみ見出されるものではない。ごくありふれた儀
礼が日常的にそれを実行していた。アンピドロミアと呼ばれる儀礼がそれである。
子供が生まれて五日目から一〇日めまでの間に、家族の成員のいる前で、アンピドロミアの祭りが祝われる。家の
中心である炉の周りを一人あるいは複数の抱き手が新生児を抱えて走りまわり、翌日は供犠と饗宴が行われて、子供
に名前がつけられる。明らかに、この祭りの﹁本来的な機能は、父による新生児の公式の認知を求めることである。
︵40︶
儀礼は明らかに、子供をo斎8の空間に書き込み、彼が生まれた炉に結び付けることを目指している﹂。ヴェルナン
は、この儀礼を構成する二つの要素ー子供を抱いて炉の周りを回ることと、その後子供を床に置くこと には、
互いに強化し合う側面1﹁家の大地との接触は、固定した炉の周りの閉ざされた円環に従う子供の遍歴が実現する
︵41︶
家庭空間への統合を補完する﹂ と同時に、対立があることを、言わば︽炉の子供の神話︾とでも呼ぶべき一連の
神話との比較を通じて、指摘している。どんな対立だろうか。﹁[子供を]不死にするという伝説は、実際、新生児に
対するこの二つの手続き、一方で、子供を炉の火の中にかざすこと、他方で子供を炉の傍らの床にじかに置くことの
間の対照を強調している。最初の手続きは、炉の火で不死にする儀礼の記憶をとどめている。それと対照的に第二の
手続きは、不死にする企ての挫折、規範的実践への回帰を記している。子供が全面的に炉の炎で︽浄化︾されること
127
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
があったら、彼は不死になっただろう。床に置かれ、家の空間に含まれた子供は、人間の通常の条件を分有すること
になる。﹂言い換えれば、この儀礼は、子供を父の炉の火によって不死にする企ての挫折を反復しているわけだ。
︵42︶
そのような企ての挫折を表象する神話の中から、二つの例だけを挙げる。第一に、﹁ホメーロス風デーメーテール
讃歌﹄四三が語っている、デーモポーンの物語がある。
ハーデースに愛娘ペルセポネーを奪われたデーメーテールは、神々の世界を避け、身を輿して人間界を遍歴した末
に、エレウシスに辿り付き、ケレウスの館に迎えられて、新生児デーモポーンの乳母になる。女神は子供を慈しん
で、昼は﹁アンブロシアを肌に擦りこみ、あまい息を吹きかけて、懐に抱いていた。そして夜にはいつも[⋮⋮]
その子を火の中に埋めた﹂︵二三六ー四〇行︶。ところがある夜、母親のメタネイラがその様子を見て、驚愕し騒ぎ
立てる。腹を立てた女神は、子供を﹁火中から抱きあげると[⋮⋮]地面に置いた﹂︵二五三−四行︶。そして女神
はメタネイラに言う、﹁お前の息子を永久に不老不死なる身と化し、けっして朽ちぬ誉れを授けようとしていたの
だ。こうなってはもはや死と滅びを避ける術はない﹂︵二六一−三行︶。
第二に、アポロドーロスが伝えているアキレウスの物語。
テティスがぺーレウスによって赤子を得た時に、これを不死にせんものと、ぺーレウスに秘して、夜は火中に隠し
てその父よりうけついだ死すべき部分を破壊し、昼間はアンブロシアを塗った。しかしぺーレウスは彼女を見張り、
子供が火の上でもがいているのを見て声をたてた。テティスは目分の目的を果たすことをはばまれ、幼な子を棄て
128
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
て水のニムフたちの 所 に 去 っ た 。
︵44︶
これらの物語では、子供はいずれも、炉の薪に比定されている。デーモポーンとアキレウスの物語では、薪である子
供は火の試練を受けて、自己のうちの死すべき部分を燃やされることによって、不死を獲得する。だが、この試みは
︵45︶
挫折し、子供は火から取り出されて、地面に置かれ、こうして人間の子として死の運命を決定される。これらの神話
とアンピドロミアの祭りの類似性は、したがってこの祭りが神話を儀礼的に再現・反復していることは、論を侯たな
いと言える。
だが、子供をo涛8の空間に書き込む時、なぜ、子供を不死にする企ての挫折が反復されねばならないのだろう
か。デーモポーン、アキレウス、あるいはそれと対照的なメレアグロスの物語が語っているのは、ギリシャのクリッ
シェとも言える例の命題である。﹁汝目身を知れ﹂、つまり人間は神々ではない、ということだ。だから、伝説でも、
アンピドロミアの祭りでも、最終的に子供は地面に置かれて、死すべき者の運命を受け取る。だがそれ以前に、選ば
れた子供はーデーモポーンやアキレウスだけではなく、アンピドロミアで火の試練を受ける子供は、すべて選ばれ
ている、ギリシャでは捨て子の習慣が一般化していたからである、捨てられなかった子供だけが、アンピドロ、・、アを
祝われたのであるー、まず火の試練を受けなければならない。それが、子供が○鱒8に書きこまれる条件だった
のだ。したがって、問いはこうなる。子供が認知されるために、なぜ火の試練が必要なのか。別の言い方をしよう。
神話では、炉の火が焼き尽くすのは、子供の人間的な部分である。この部分とは、言い換えれば何か。
この問いに答えるためには、ヴェルナンから離れて、彼が指摘していない別の神話に赴かねばならない。ディオニ
ューソスの誕生とへーラクレースの死の神話である。周知のようにディオニューソスは、テーバイの王カドモスの娘
129
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
セメレーどゼウスとの間に生まれた。アポロドーロスはその誕生を次のように語っている。
セメレーをゼウスが愛して、ヘーラーに秘して床をともにした。セメレーはヘーラーに欺かれ、ゼウスが彼女にい
かなることでも願いをかなえると承諾したので、彼がヘーラーに求婚していた時の姿で目分のところに来るように
求めた。ゼウスは断ることができかねて、電光と雷鳴とともに戦車に駕して彼女の臥所に来り、雷霊を放った。セ
メレーは恐怖の余り世を去ったので、彼は六ヶ月で流産した胎児を火中より素早く取り上げて、自分の太腿の中に
︵46︶
縫い込んだ。[⋮⋮]適当な時にゼウスは縫目を解いてディオニューソスを生み、ヘルメースに渡した。
他方、ヘーラクレースの死の様子もよく知られている。
ヘーラクレースには妻デーイアネイラがいたが、戦争捕虜イオレーが彼の冨蕾謡となった。デーイアネイラは夫
の愛を繋ぎとめるために、下着に媚薬と信じてネッソスの毒血を塗って、夫に届けたので、それを着て供犠を執り
行ったヘーラクレースの体には毒が回った。下着を引き剥がそうとすると、肉もともに剥がれた。このような有り
様で、トラーキースに運ばれたへーラクレースは、山上に火葬壇を築き、生きながら焼かれたが、﹁火葬壇が燃え
︵47︶
ている間に雲が彼の下に来て、雷鳴とともに彼を空へと運び上げた﹂。天上で彼は不死を得て、神々の仲間入りを
する。
この二つの神話は、言わば成功した火の試練の物語であると言える。ディオニューソスとへーラクレースは、ともに
130
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
ゼウスが人間の女との間に儲けた子供であるが、幸いにして死すべき人間として生涯を終わる運命を免れて、不死の
神々の一員となる。ディオニューソスは、胎児のときにこの試練を受け、神として第二の誕生をする、へーラクレー
スは死すべき人間−英雄として多くの功績をたてた後に、同じ試練を受け、神として再生する。いずれの場合にも、
火の試練は彼等が人間の運命を免れ、神に移行するためにくぐり抜けねばならないものだった。火は、彼等が母から
うけついだ人間的なものを焼きつくして、父からうけついだ神的なものだけを残すからである。したがって、火の試
練は、彼等を、母の息子である人間としては死なせるが、父の息子である神として再生させる。火によって、彼等は
母との繋がりを断ち切られ、父との繋がりを確立して、父の支配するオリュンポスの圏域に統合されるのである。ア
ンピドロミアは、挫折した火の試練の反復であると同時に、人間的次元で、この出来事を反復してもいる。新生児は、
父の炉の火にかざされる時、母との関係を焼却され、父の子として再生する。言い換えれば、母からの生物学的誕生
に続く、父の子としての第二の社会的な誕生、それがアンピドロミアであり、父による子供の認知の、父のo民8
への子供の統合の、不可欠の前提条件なのである。アンピドロミアは、人間に課せられた条件の枠内での、不死の獲
得の形式に他ならない。なぜなら、父の子として認知されるということは、父を目己の内で再生させ、こうして世代
交代を通してo民8の、したがってもo房の、同一性を更新させ、その永続性を保証して、o弊8と唱o房の巴9、
永遠性を実現することだからである。誕生を父の徴の下に置くことの、想像的な利得。
四 クリュタイメストラー母の権利、妻の権利、女性の権利
ソポクレースの﹃エーレクトラー﹄では、クリュタイメストラーがある夢を見る。蘇ったアガメムノーンが、王笏
131
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
︵48︶
を炉に突き刺すと、そこからすくすくと伸び出した若枝が、ミュケナイ全土を覆う、という夢である。ヴェルナンは
この夢を次のように解読している。﹁炉につきたてられた杖は王家の子供、アガメムノーンが以前クリュタイメスト
ラーの胸懐に置き、そこで芽生えた、子孫、芽、8Rヨ餌を象徴している。[⋮⋮]この夢はこれ以上と言ってない
ほど、クリュタイメストラーその人を超えて、現実にその炉の中で、アガメムノーンがオレステースを生み出したこ
と[⋮⋮]を意味している。﹂父の炉から生まれる父の子供、だが、これこそアトレウス王家の血塗られた運命に取
︵49︶
︵50︶
材した三つの悲劇のすべてを通じて、クリュタイメストラーが一貫して反論してきた考え方である。﹃アガメムノ
ーン﹄で、夫の死体の上に立ちはだかったクリュタイメストラーは、夫殺しの﹁正義﹂を次のように論証する。
この人はね、牧場にたくさんいる毛を取る羊の一匹をとって屠殺するかのようにお構いもなしに、自分の娘を、こ
の私の腹を痛めた可愛い子を、トラキアから吹く悪い風を追い払うためにと生賛にした、そういう人︵一四一五−
八行 ︶ 。
この人が私のイーピゲネイアに、私の胸からこの人が生まれさせた若い命に蒙らせたこと、そして私を大いに泣か
せたこと、それをこの人も蒙ったのです。私たちは借りを返した、こうしてこの人はあの世でも傲慢なことは言わ
ないだろうし、刃の一閃にかかったこの人の死も正しい見返りでしかないわけです。この人が取引を始めた、そし
て今日支払いをしたというわけ︵一五二四i三〇行︶。
同じく、エウリピデスとソポクレースの﹃エーレクトラー﹄でも、クリュタイメストラーは、母の所業を非難する
︵51︶
娘に対して、真っ先に同じ論旨を持ち出して、夫の殺害を正当化している。まずエウリピデスの﹃エーレクトラー﹄。
132
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
あの人は、私の娘をアキレウスとの結婚という考えで惹きつけて、私たちから遠く、潮の流れが塞き止められたア
ウリスに連れていった。そしてそこで、祭壇の台に載せて、私のイーピゲネイァの白い喉を、この父親ときたら掻
き切った⋮⋮︵一〇二〇ー三行︶。
次いでソポクレース。
だってあの人を討ったのは﹁正義﹂なのよ、私独りじゃないの、[⋮⋮]だってあの男に、あのお父様、おまえが
デイケし
いつまでも涙を流しているおまえのお父様にね、すべてのギリシャ人のなかでただ一人、おまえ自身のお姉さまを
神々の犠牲に捧げた責任があったんですから⋮⋮ああ、あの人は苦しみやしなかったもの、私に中にあの子の胤を
蒔いた時には、私があの子を産むために味わったのと同じ苦しみはね︵五〇九−一四行︶。
したがって、クリュタイメストラーの目から見れば、子供は断じて父だけの子供ではない、子供は、それを生んで
育てた母の子供でもある。なぜなら、子を儲ける時、父は快楽しか味わわなかったが、母は生みの苦しみを代償にし
て、子に生命を与えるからである。ソポクレースのクリュタイメストラーの言葉は、そのことを明確にしている。ゆ
︵52︶
えに、アイスキュロスとエウリピデスの戯曲で、母を殺そうとするオレステースに命乞いをする時、やはりクリュタ
イメストラーが持ち出すのも同じ論拠である。まず、アイスキュロスの﹃供養する女たち﹄。
︵53︶
133
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おやめ、我が子や、この乳房を疎かにおしでない、この上でお前はよく眠ったのよ、我が子や、 口いっぱいにおい
しいお乳を吸いながら、そのおかげで大きくなったのだよ︵八九六−八行︶。
次いで、エウリピデス。
ねえ、見たでしょう、どうやってあの不運な人が、着物から、片方の乳房を飛び出させて、殺そうとしたときそれ
を見せたか。地面に、ああ、ああ、膝まずいていた、私を生むために開かれた膝を⋮⋮だのに私は、髪を掴んで
:[⋮⋮]まだあの人の放つ叫びが聞こえる、手を私の顎に挙げて、︽お願いだから、私の腹から出た我が子や︾
︵54︶
って、頬にかけた指がふるえていた、だから手から取り落とした、握っていた武器を⋮⋮︵一二〇六i一七行︶。
クリュタイメストラーが突き付ける剥き出しの乳房は︵そしてエウリピデスの、地面を這う、かつて出産の苦痛に開
かれた膝は︶、子供たちに、彼等が今日あるのは何によってなのかをまざまざと見せ付ける。まさしくこの膝と乳房
に、彼等は自己の生を負っているのだ。それに刃を振り上げるならば、彼等は彼等に生を与えるために支払われたも
のを足蹴にし、冒漬で報いていることになる。だからこそ、母殺しが流した血は、エリーニュエスに捧げられた供物
︵55︶
となるのである。既に﹃供養する女たち﹄で、命乞いの無益なことを悟ったクリュタイメストラーは、一転、母殺し
の大罪が引き起こす呪いを盾に、息子を脅迫するー﹁母の呪いが、我が子や、お前にはどうでもいいのかえ﹂︵九
二四行︶。そして実際、この脅迫に耳を貸さず息子が母殺しを敢行するや、その凄惨な供物を嘉納したエリーニュエ
スの群れは、恐ろしい幻となって息子の前に姿を現し、デルポイまで、さらにアテナイのアレオパゴスまで執拗に追
134
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
跡するのである。
したがって、﹃慈しみの女神たち﹄でオレステースの裁判の争点になるのは、子供に対する母の権利、言い換えれ
ば、子供は確かに父の子であるとしても、同時にやはり母の子でもあるのかどうか、という問題である。母を殺した
のは、母が﹁夫を殺し、私の父上を殺害した﹂︵六〇二行︶という﹁二重の恐怖の烙印﹂︵六〇〇行︶を押されていた
からだ、と弁明するオレステースに、クリュタイメストラーを代弁する検事エリーニュエスは、夫は妻の血縁ではな
︵56︶
い、ゆえに流された血において母殺しは夫殺しとは比較にならない、と反論する。
オレステース一では、私は。母の血筋だと思うんですか。
コロス一ああ! そうなのかい。お前をお腹の中で育てた人なのに、 ひどい人殺しだよ。母親の血を認めないのか
い、何より愛さなければいけない人なのに︵六〇六−八行︶。
これに対する被告側弁護士アポローンの反論が、本論の冒頭に挙げたものである。
母の子と呼ばれる者に生命を与うるは母にてはあらず、母は胤を受けた胚芽の傅役である。生命は母と交わった男
性より来るもの。母がなすは他人の男のために他人の女として、天の許しあって胎児が流れぬ時、胎を卿すことの
み。して、母はいずとも父とはなれる、とこう申すことの証拠には、遠くを探すには及ばぬ、ここにおいでのオリ
ュンポスのゼウスの娘御には、母の腹の闇がりにてはお養われにはならなんだがーいかなる女神の娘御がこのお
方に匹敵しようぞ︵六五八−六六行︶。
135
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こうして引き合いに出された裁判官アテーナー目身も、実はアポローンに与している。
私には生命をくれた母と言うものはなく、 心から男性の味方だから1結婚は別だけれど。熱烈に父親の側に付こ
う︵七三六−八行︶。
アポローンとエリーニュエスの間には、見解が一致する点が一つだけある。夫と妻の間には血の繋がりはない、両者
は他人同士だ、という点である︵﹁他人の男のために他人の女として﹂︶。議論が分かれるのはここから先である。父
の胤から生まれた子供は、その成育に腹を貸した、父にとっては他人である母の血をも受け継いでいるのかどうか。
アポローンの言うように母が単に畑、乳母に過ぎないなら、子にとって他人でしかない母を殺害することは、血を分
けた父の仇を討つという大義の前では大きな意味を持ちえない。だが、クリュタイメストラーとエリーニュエスが主
張するように子供が同時に母の子でもあるならば、母が所詮は他人である夫にして子の父の血を流したからと言って、
子がその仇討に目分に繋がる母の血を流すことは許されない。流される血の濃さが異なる以上、父の仇討と母殺しは
等号では結ばれえない。そこを敢えて結んだところに、オレステースと彼を使咳した者の取り返しのつかない過ちが
ある。問題は結局、子に対する母の権利を認めるか否かにかかっている。ところで、この裁判がオレステースの勝訴
と決まるのは、周知のように、投票結果が同数だったからである。言い換えれば、人間の陪審員は極めて僅差で︵一
票差で︶母の権利を承認したことになる。天秤のこの微かな傾きを平衡に戻したのは、最後のアテーナーの票であ
︵57︶
った。したがって、後にアテーナー自身が言うように︵﹁その方等の負けではない[⋮⋮]その方等の威信は損なわ
136
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
れてはおらぬ﹂七九五ー六行︶、クリュタイメストラーとエリーニュエスは、確かに勝利はしなかったが、また敗北
もしなかった。男性の都市は、母の権利をこぞって認めたわけではないが、決して否定はしなかったのである。別な
言い方をしよう、﹁純粋な父系の夢﹂は確かに存在する。だがこの夢に母の存在が声高に浴びせる反論も。アポロー
ンとアテーナーの原理主義もそれを沈黙させることはできないのだ。したがって、都市の精神の深層には、子に対す
る母の権利をめぐる男女のエリスが伏在している。悲劇が剥き出しにするのは、このエリスである。
ところで、クリュタイメストラーには、夫の殺害を正当化するもう一つの理由があった。妻の権利である。アイス
︵58︶
キュロスとエウリピデスのクリュタイメストラーが、それを主張している。まず﹃アガメムノーン﹄では、
ここに横たわっているのは、私を馬鹿にした私の夫、トロイアの城壁の下で、たくさんのクリュセイスをポーっと
させてた人、そしてこの女は、この人の戦利品、女占い者でこの世ならぬ目の持ち主、それをこの人は色女にした。
航海の間そうだったけど、今の眠りでも忠実な伴侶。二人とも、この定めは受けて当然︵一四三八−四三行︶。
クリュタイメストラーの論理は明快である。アガメムノーンは、結婚を裏切り、妻の権利を辱めた。殺害はその支払
いである。コロスを構成するアルゴスの老人たちは、妻の権利のこの高らかな放言に、女性の存在が男性にもたらす
エリスの苦患を聞き取る。彼等から見れば、トロイア戦争とアガメムノーンの殺害は、このエリスの究極の形態とな
る。
我々を優しくお護りくださったお方は倒れられた、女ゆえにさまざまの憂き目に会われ、女の手にかかってお命を
137
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
いイ
霊ン
よ
お前は襲い掛かった、この家に、またタンタロスが二人の孫の頭上に、二人の女のおかげで、私の心
、
138
なくされた。/ああ、ヘレネー、ああ、狂った女よ、お前一人で、多くの、多くの命を打ち倒した。今、お前の成
した技を時代を超えた記憶のために仕上げんとて、何物も洗いえぬこの血が流れる。まことに久しきより、この屋
エリス
根の下には妻を夫にけしかける猛り狂った﹁力﹂がおわした︵一四五一−六一行︶。
コロスの老人たちのこの解釈は、事の本質を突いている、と同時に既に論点をずらそうとする動きも含んでいる。 一
方で、コロスの解釈の正当性は、妻の権利を主張する右に引用した科白の直前に、クリュタイメストラーが、アガメ
ムノーンではなく、情夫のアイギストスが今では彼女の5ユ8であるとはっきり明言して︵﹁アイギストスがこれ
まで私に示してくれた情愛で私の炉の火を燃やしてくれる限りは﹂一四三六行︶、女性には目ら自己の犀貫δωを
︵またーこの科白の性的含意に注意を払うならば1性的パートナーをも︶選ぶ権利があることを暗黙裡に主張し
ていることからも明らかである。クリュタイメストラーの主張は、実際には、結婚における夫に対する妻の権利︵妻
による夫の性的専有︶を超えて、性的欲望における女性の男性と同等の権利に及んでいる。だから、こうして﹁妻を
エリス
夫にけしかける猛り狂った﹃力﹄﹂がこの殺害を引き起こしたのであれば、それは、夫と妻のエリスだけではない、
むしろ性に関わる男女のエリスであるはずだ。ところが他方で、コロスはここではその問題をそのものとしては取り
上げて議論しようとしていない。老人たちは、このエリスをすぐさまアトレウス家の代々に崇るダイモーンの存在に
結び付ける。その時クリュタイメストラーとヘレネーは、だがとりわけ、今夫の死体の上に血飛沫を浴びて立ちはだ
モ
精1
かるクリュタイメストラーは、このダイモーンと同一視される。
黒ダ
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
を押しひしぐ力の重みを掛けた⋮⋮ああ、ここに見える、死骸の上に憎しみに燃えた鴉のように突っ立って、
利の]讃歌の儀礼の歌を傲慢にも響かせているそいつが︵一四六八−七四行︶。
ところが、クリュタイメストラー自身もコロスのこの論点のすり替えを受け入れる。
[勝
お前がここでお言いのことはもっと正しい見方になりましょう、この王朝で飢えを満たす人食い鬼を、ダイモーン
と呼ぶ時には。そうですとも、私たちのはらわたの底にこの渇きを抱え込んで血を飲み干しているのはそいつ。古
い傷は癒されず、早くも新たな傷が膿を持って⋮⋮︵一四七五i八○行︶。
これが私の仕業と思いたいのだね[⋮⋮]私じゃない、アガメムノーンの妻では。お前が死骸を見ている男の妻の
姿を取って、アトレウスとその死の饗宴が引き起こした、古い、容赦ない復讐の精霊が、分別盛りの男を刃に委ね
て、か弱い子等の身代にと、この人を差し出したのです︵一四九七1五〇三行︶。
したがって、アイスキュロスでは妻のと言うより女性の性に関する権利は主張され、聞かれるにもかかわらず、巧妙
に無視されている。それは異なる文脈ーアトレウス家代々の血讐の文脈1に挿入され、それ自体としては議論の
対象にはされないのである。
他方、エウリピデスでは、妻の権利は母の権利より重要な位置を与えられているように見える。王妃はそれを、夫
の殺害の主たる口実としてだけでなく、姦通を正当化するものとしても持ち出しているからである。
139
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
だからと言って、こういう目[イーピゲネイアの生賛]に会わせられはしたものの、私は血塗れな妻にはならなか
った、殺しはしなかっただろう⋮⋮/でもね、お帰りに、女を連れてやって来た、持ち物にした気違い女を。寝床
に連れ込んだ。私たちは同じ屋根の下に並び据えられた二人の妻、ということになるのだった⋮⋮もちろん女は淫
蕩なもの、そうでないとは言わないわ。でもそうなると、夫が義務を欠いて、結婚の床をなおざりにすれば、妻も
真似をして、別の男の優しさに安心したくなるものなのよ。そうなると、非難が投げ付けられるのは私たち女−
本当に責任がある男は、男の方は、全然責められない︵一〇三〇1四〇行︶。
︵59︶
︵60︶
五世紀のアテナイでは、女性の姦通罪が存在し、他方、確かに妻妾同居はあまり勧められる事柄ではなかったにせよ、
男性の蓄妾は公認されていたのだから、母性愛よりは妻の性的状況に立脚して自己正当化を行うエウリピデスのクリ
ュタイメストラーは、アイスキュロスのクリュタイメストラー以上に、︽フェミニスト的︾と言えるかもしれない。
だが、ここでも妻−女性の権利は十分に耳を傾けられる主張ではない。クリュタイメストラーのこの言い分に返され
るのは、次のような反論である。
コロス一御話の筋道には正義がございます。ですがご名誉になる正義ではございません。万につけ、女は夫に従う
べきもの、分別があるならば。こういう見方を認めない女は、取るに足らないものと思って、言い合いをする気に
はなりません︵ 〇五一ー四行︶。
エーレクトラー一あなたの思いはもっと高貴なものであってもよかったはずなのに。確かに、ヘレネーとあなたの
美しさは、語り草になるだけのものがあります、でも不行跡という点でもお二人は姉妹です。[⋮⋮︺イーピゲネ
140
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
イアが屠られると決まるずっと前から、夫があなたの炉を去るとすぐから、あなたは鏡の前で金髪の編み毛をあれ
これいじっては髪型を工夫していた。夫が家を留守にしている時、妻が美しさを気にかけてばかりいるなら、妻と
いう名を消されても仕方がないわ、ただの女ですもの。悪いことをしようというのでもなければ、晴れやかな顔の
輝きを外に見せる必要なんか何もないんですもの。[⋮⋮]でもあなたには、非難されずにいるりっぱな理由があ
ったじゃありませんか。[⋮⋮]あなたの妹のヘレネーはあんなことをしたんですから、あなたにとっては豊かな
栄光をその身に引き付ける機会だったのに、悪徳は美徳と際立って、美徳を輝かせるものですから︵一〇六一−八
五行︶。
見るように、反論は伝統的な婦徳の立場からなされている。妻は夫に従うべきもの、クリュタイメストラーは器量だ
けではなく、不行跡でもヘレネーに負けてはいない、身を謹んでいれば、妹の振る舞いはなおさら姉の美徳を際立た
せたであろうに⋮⋮というわけだ。ところが、この陳腐な反論にクリュタイメストラーは言い返すどころか、譲歩を
示す。
私だって、自分のしたことをそれほど喜ぶには及ばないんだよ、私も哀れな女なの。なんてことを私は決心してし
︵引︶
まったのかしち。夫に腹を立てたからって、あんなことまでしなくてもよかったのに︵二〇五−十行︶。
つまり敢無き撤退である。ここでこのように語るクリュタイメストラーの本心がどうであるにせよ、また先の︽フェ
ミニスト的︾発言にもかかわらず、エウリピデスの戯曲における王妃は、アイスキュロスの王妃ほど確信犯ではなか
141
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
ったわけである。
したがって、母の権利と並んでクリュタイメストラーの夫殺しを正当化するもう一つの論拠である妻ー女性の権利
は、どの戯曲でも、ほとんど議論の対象にはされていない。主張は、すり替えられるかあるいは取り下げられる。父
と母のではなく、夫と妻の男女のエリスは、男性の都市の耳には届かなかった、ということなのだろうか。だが、そ
れでもそれは語られはしたのだ。したがってむしろ、語られたことが取り上げられなかったのはなぜかを問うべきな
のかもしれない。
既にこれまでの分析からも明らかなように、三つの悲劇に登場するクリュタイメストラーは、必ずしも同じ人物で
はない。どの王妃も、母の権利について語るけれども、その語り方は微妙に違っている。妻の権利については、ソポ
クレースの王妃はそれを語ることができず、アイスキュ・スの王妃とエウリピデスの王妃がそれを正当化する弁明に
は上述のような差異がある。実を言うと、差異はこればかりではない。夫の殺害一つとっても、三人の詩人が設えた
状況は異なっている。アイスキュロスでは、アイギストスが陰謀を企み、クリュタイメストラーが湯浴みにことよせ
て殺害を実行する。ところがエウリピデスでは、殺害はやはり浴室で行われるが、アイスキュロスとは逆に、陰謀を
︵62︶
企むのがクリュタイメストラーで、実行犯はアイギストスである。最後にソポクレースでは、殺害現場は炉の傍での
︵63︶
帰国の饗宴の食卓で、陰謀を企んだのはアイギストスだが、殺害は二人で行っている。共通しているのは、クリュタ
イメストラーか夫の殺害にいずれにしても主体的に関わっていることである。
ところで、クリュタイメストラーのこの能動的な役割は、必ずしも伝統的なものではなく、比較的新しいものだと
考える十分な根拠がある。久保正彰が岩波文庫版﹃アガメムノーン﹄の解説で紹介しているように、七世紀の﹃オデ
142
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
ユッセイアー﹄によると、 アガメムノーンの殺害とオレステースによるその仇討の物語は以下のように纏めることが
︵64︶
できるからである。
智のアイギストスは策によって自分より武勇優れるアガメムノーンを殺害する。
ー ギリシャ人がトロイアで苦吟している間、戦争には加わらなかったアイギストスは、アルゴスで長閑に暮らし、
アガメムノーンの妻を誘惑する。クリュタイメストラーは最初不倫の関係を拒むが、ついに屈服する。アイギス
トスは、アガメムノーンが妻の見張り役に残しておいた楽人を無人島に置き去りにして、殺害し、女を目分の屋
敷に連れ帰る︵第三歌︶。
2 アイギストスは黄金ニタラントンで、アガメムノーンの帰国を見張る番人を雇って配置する︵第四歌︶。
3 こうしていち早く王の帰還を知ったアイギストスは、アガメムノーンを目宅に招いて帰国の宴を張り、食事が
終わると、忍ばせておいた屈強の部下二〇名によって、家来もろとも王を殺害させる︵第四歌︶。
冥府のアガメムノーンによれば、﹁アイギストスめが不塀なわしの妻と組んでわしの暗殺を謀り﹂︵第一一歌四
〇八行︶、アイギストスが王を殺害する間、クリュタイメストラーはカッサンドラーを殺害した︵第一一歌︶。
二、オレステース の 仇 討
オレステースは好倭のアイギストスを討って、その名を天下に轟かす︵第一歌︶。
アイギストスは七年間、・・ユケナイに君臨するが、八年目にアテナイから帰国したオレステスに討ち果たされる。
﹁憎むべき母と怯儒のアイギストス﹂を葬ったオレステースは、アルゴスの人々のために、その供養の宴を催す
︵第三歌︶。
143
一、
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
見るように、﹃オデュッセイアー﹄に現われる物語は、悲劇のそれとはかなり異なっている。とりわけ、クリュタイ
メストラーの人物像の懸隔が大きい。久保が指摘しているように、﹃オデュッセイアー﹄では、﹁かの女はアイギスト
スの横恋慕の対象となったすえ、殺害計画に加担する羽目に陥った女性にすぎない。殺害の計画と遂行の主役はアイ
ギストスであり、犯行の場もアイギストスの館であった。クリュタイメストラーの動機は何であったにせよ、消極的
であったかのように扱われている。したがってまた、オレステースの﹁仇討﹄においても、ホメーロスの扱いでは、
︵65︶
相手はアイギストスであって、クリュタイメストラーが仇討の直接の対象であったとは、どこにも記されていない﹂。
久保はこの変化をホメーロスからアイスキュロスに至る約二世紀の間の細部の変遷に求めているが、それはここでは
どうでもいいことである。ここで興味深いのは、やはり久保が指摘している、アイスキュロスと同時代のピンダロス
の﹃ピューティアー祝勝歌﹄第一一歌に挙げられている同じ物語である。目下必要な箇所だけを久保から引用すると、
それは以下のようになる。
あの時クリュタイメストラーの無慈悲なる手が父を屠り、/あの無残な妻が、プリアモスの娘/トロイアーの王女
カッサンドラーを白刃にかけて/アガメムノーンの亡霊と共に/アケローンの闇深い岸辺を渡らせたのだ。/かの
女の心をかき乱し、重い怒りの手を振り上げさせたのは、/果たして故郷遠くエウリーボスの辺りで犠牲にされた
イーピゲネイアだろうか、/それとも、道ならぬ臥所のとりこの人妻を、夜な夜なの床が過ちに導いたのか。/
[⋮⋮]/だがあの年若い御子は、/[⋮⋮]/やがて時みちた日、/[⋮⋮]/母とアイギストスとを、血の海
に沈めた。
︵66︶
144
ある都市の想像界あるいはとうやって他者を厄介払いするか
ピンダロスの挙げている物語は、クリュタイメストラーが夫殺しの実行犯である点、娘の復讐とアイギストスとの不
倫が殺害の二重の動機を構成している点、オレステースの仇討の対象がクリュタイメストラーとアイギストスの両者
である点で、アイスキュロスの物語と重なっている。この類似が、いかなる間テクスト性の網の目に従っているかも、
ここではどうでもいいことである。むしろ、この類似から認めねばならないのは、母−妻−女性の権利に基づいて能
動的に夫殺しに関与して、情夫と共に息子の復讐を受けるクリュタイメストラーという人物像が、スタンダードとし
て、五世紀初頭から中葉のアテナイに存在した、という事実である。ここで、アイスキュロスの﹃オレステイア﹄の
上演は四五八年、エウリピデスの﹃エーレクトラー﹄の上演は四︸八年、その五年後の四十三年にソポクレースの
﹃エーレクトラー﹄が上演されたとする英訳者ヘンリー・タイラーの指摘を採用するなら、エウリピデスとソポクレ
︵67︶
ースの王妃のアイスキュロスの王妃に対する、また相互の、先に見た人物の差異は、先行戯曲に対する差異化の試み
の結果であると考えることができるし、アイスキュロスの王妃に、五世紀には成立していたクリュタイメストラーの
︵68︶
新たな人物像のスタンダードを、求めることができるように思う。
では、アイスキュロスが提出しているクリュタイメストラーの人物像は、﹃オデュッセイアー﹄の王妃に対しいか
なる特異性を見せているのだろうか。ホメーロスとアイスキュロスとのもっとも大きな差異は、アガメムノーン殺害
の実行犯が、アイギストスからクリュタイメストラーに移行したことである。この変化にともなって、幾つかの付随
的な差異が生じた。ホメーロスでは、アイギストスがクリュタイメストラーを自邸に連れて行く、確かにこの二人は
この時点ではまだ正式な夫婦ではないが、この形は明らかにギリシャが採用していた妻の夫方居住形式に従っている。
ところが、アイスキュロスでは、姦夫のアイギストスがクリュタイメストラーの館に入りこむ。言い換えれば妻方居
145
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
住であり、これはギリシャでは異例な形式であると言わねばならない。同様に、アガメムノーンの帰還をいち早く知
るために、見張りを置くのも、アイスキュロスではクリュタイメストラーである。言い換えれば、﹃オデュッセイア
ー﹄では受身の位置にいたクリュタイメストラーは、五世紀になると既に殺害の計画と実行でも、またアイギストス
との関係でも、イニシアティヴを掌握している。その結果、クリュタイメストラーとアイギストスの人物は、ホメー
ロスとは正反対になった。アイギストスは、確かにホメーロスでも自分だけは参戦せず﹁長閑に暮らし﹂、他人の妻
を盗んで、その夫を好計をもって殺害する﹁好智﹂・﹁妊倭﹂・﹁怯儒﹂の男であるが、アイスキュロスではその卑怯さ
ゆえに男であることさえ否定きれている。
︵69︶
きさまは女だ、戦士の帰りを隠れて待っていたくせに、戦にも出ず︵一六二五−六行︶。
この人殺しを企んだ後、目分の手で殺して、自分で仕事をする勇気もなかったお前︵一六三四−五行︶。
何故に、その卑怯な心で、自分でこのお方を倒さなかった、女に殺させたりせずに︵一六四三−四行︶。
雌鶏のそばの雄鶏めが、せいぜい威張っているがいい︵一六七一行︶。
これに対して、クリュタイメストラーは超人的な巨大さを獲得している。
第一に、彼女はアイギストスの男性性をすべて吸収した。戯曲の冒頭から、既に彼女の男性的性格が強調されてい
る。見張りの男は、﹁未来を計る、男勝りで毅然とした女﹂︵二行︶と館の女主人を評する。長老たちのコロスも、
松明リレーの次第と見てきたような勝利の惨状とを語り聞かせる王妃を、﹁女子ながらも賢しい男のような慧眼さで
お話しなされる﹂︵三五一行︶と称賛する。だが、アイスキュロスの王妃の男性的性格が躍如となるのは、夫の死骸
146
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
を挟んで、長老たちと対決する場面である。王妃は自分の所業をいささかも否定しないばかりか、他人の思惑さえ顧
慮していない︵﹁見境のない馬鹿な女ででもあるかに、私に噛み付いておいでだが。よござんすか、怖じ戦きもしな
い心で、言ってあげよう、私をもっともだと思ってくれようが責めようが、私にとっては同じこと。見て御覧、この
人を、これがアガメムノーン、私の夫、今は死骸、見事な手さばきで、はっきりと、張本人の私が署名をした仕事﹂
一四〇一−六行︶。老人たちが、追放の罰をもって脅すと、彼女は逆に脅しを返す︵﹁私を負かした上ならば、お前の
法に従いもしよう。が、﹃天﹄が別なことを仰せならば、お灸を据えられて習うことになるだろうよーその内に
聞き分けよくすることをさ﹂一四二三−五行︶。クリュタイメストラーが長老たちを前にこれだけ強気の発言が
できるのは、夫の殺害を正義と考えているからでもあるが、また、権力を掌握しているという確信があるからでもあ
る︵﹁私を負かした上ならば﹂は、この事情を指している︶。この権力は、夫の不在が彼女に公式に委ねたものであり、
王妃がいかに情夫を新たなξユ8として立てようと、アイギストスの存在が保証しているものではない。そのこと
は、冒頭で老人たちが王妃に向かって語る言葉からも確認できる︵﹁私がここにおりますのは、クリュタイメストラ
ー様、御威勢を称えるため。男の王座が空の時には、優れし殿の奥方を称え奉るは正しいことではございませんか﹂
二五八−六〇行︶。したがって、老人たちは、アイギストスの権威を決して認めていないし、彼が立て続けに口に出
す脅しの言葉にも一歩も引かないばかりか、刃を交えようとさえする。彼らにとってアイギストスは、主権者クリュ
タイメストラーの庇護の下にあることによってのみ、権力を行使できる人物であるに過ぎない、先の﹁雌鶏のそばの
︵ 7 0 ︶
雄鶏﹂はこの事情を当てこすっている。彼らが引き下がるのは、クリュタイメストラーがそう命じるから︵﹁家にお
戻りなさい、うやうやしい長老方。分別を持って、事に出でて苦しまねばならぬ羽目に陥らぬように。転がり込んで
きたのだから、今の私たちの取り分を受け入れねばいけません﹂一六五七−八行︶であり、その後もアイギストスに
147
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
対する非難と反抗は止んでいない︵﹁極悪人に媚びへつらうとか、アルゴスはさようなことはせぬわ﹂一六六五行︶。
要するに、夫の不在がクリュタイメストラーに委ねた主権は、犯罪が行われても、否定されていない。クリュタイメ
ストラーがアルゴスの主権に対する権利を失うのは、アガメムノーンの正当な後継者が現れる時だけである。だから
こそ長老たちは、事態の最終的解決のために、オレステースの帰還と復讐を期待するのである︵﹁オレステースが生
きている、そうとも、この日の下のいずこかに、﹃幸運﹄の微笑に導かれてここに戻ってきて、勝誇ってこの二人の
死刑執行人になってくれよう﹂一六四六−八行︶。クリュタイメストラーの男性的性格は、彼女の行為の残虐さや強
気の発言に確認されるのではないことに留意すべきである。アイスキュロスの王妃が男性的であるのは、彼女が主権
者だからなのだ。彼女は夫を殺害して、母の権利と妻−女性の権利を主張した。だが、それは彼女の男性的性格とは
関わりがない。クリュタイメストラーが男性的と見倣されるのは、男性の専有物である主権に手をかけ、夫の殺害に
︵n︶
よってそれを纂奪した か ら で あ る 。
アイスキュロスの王妃の第一一の特徴は、誰しもが指摘するその悪魔的と言ってよい性格にある。この悪魔的なもの
は、夫の帰還を迎える妻の言葉の、観客だけが聞きとることのできる二重の意味によって、いかんなく明らかにされ
る。まず、王の無事生還を伝える使者に、王妃は懇ろに言う。
喜びの高らかな叫び声、それを私が挙げたのは、つい先程、夜の内に最初の使者、火の使者がやって来て、トロイ
アの攻略と破壊を知らせた時のこと[⋮⋮]私は最良のやり方で、私があの人に負っている敬意を込めて、夫をお
迎えするのにせわしないつもり[⋮⋮]夫にこのよしを伝え、お早くお戻りあるよう申し上げなさい、町中がお待
ちもうしておりますと。御信頼に値する妻が、残していったそのままに、お家にいるのが、そしてこの妻の内には、
148
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
う
と
す
る
者
に
は
戦
う
術
を
知
つ
て
し、
る
よい番犬がいますのが、お分かりになりますように︵五八七ーO八
、
そうだ、こう言う知らせを聞かされるたびに、王妃の心は痛んだ、その傷の一つ一つを負わせるべきは、敵ではなく
けたなら⋮:まったく網に空いているほどの穴が空くでしょう︵八五九−六八行︶。
知らせを吹聴する、いつもどんどん悪い知らせを。私たちの見ているこの人が、私どもに伝えられたほどの傷を受
悲しみに気も狂わんばかりにならねばなりません。おまけに一人、また一人と、やって来ては﹁家﹂にとって辛い
と耐えるのが辛かった、私自身の暮らしなのです。/まず女にとって、男なしに、家に一人うずくまっていると、
これから申し上げることは、人から教わった教えではなく、この人がトロイアの城壁の下にいた長の年月、ずうっ
ついに帰還した夫を迎えて、王妃はまず留守中の辛い生活を語る。
を、やがて夫は知らずにはいないのである。
て、﹁家にいる﹂のであり、この妻の心には﹁悪をなそうとする者には戦う術を知っている、よい番犬が﹂いること
ったという点では﹁信頼に値する妻﹂は、夫が彼女に悪事を成した時以来﹁そのまま﹂変わらぬ怨みと憎しみを抱い
遂げることができるからである。だから、彼女は﹁最良のやり方で夫をお迎えする﹂だろう。復讐を決して忘れなか
この科白のすべてを強調しなければならない。夫の生還を知って妻が喜びの声を挙げるのは、ついに我が手で復讐を
な
そ
彼女自身だったから。そして実際、やがて彼女は投網ー紫の抱1で夫をがんじがらめにして、望むだけその体に
149
行悪
% を
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
穴を開けてやるだろう。
こうした噂が私の傷口に鉄をこき混ぜました。ですから幾度となく、私の首を、それがすでに捉えられていた結び
目から力ずくで解き放して、私が首を吊ろうとするのを妨げねばならなかったのです。[:−.。]私はと言えば、止
って、あなたのことを知らせてくれるのを待ち詫びつつ、うめいていた長い眠れぬ夜さに焼け燗れております。そ
まるを知らぬ涙もついにその最後の一滴まで澗れ果てました次第。私の目は、決して灯らない火の合図が立ち上が
して夢見にも、蚊一匹の軽い羽音もラッパの一吹きのように私を起こしてしまうに十分、眠りが数分も続かないう
ちにより以上の不幸に襲われたあなたが見えまして︵八七四!九四行︶。
夫が戦死してしまえば、復讐はできない、だが、戦勝の知らせはいくら待っても来ない、だから、絶望のあまり彼女
は目殺まで企てたのだ。無念の思いに涙も澗れ果てた、そして、焦燥に浅い眠りに、夫が戦場で倒れる夢︵それは、
戦士の至上の栄光なのだから、決してこの夫に与えてはならないものである︶を見ては、はっと飛び起きる、それが
一〇年間の彼女の毎日だった。ゆえに彼女は、嘘偽りでなしに、夫が無事に帰還したことを心から喜んでいる。待ち
望んだ、かけがえのない、もう二度と手にはできないものと諦めかけていた、大事な大事な、獲物がやっとその手に
入ったのだから。
今ではこうして耐え忍んだことすべての後、また晴れやかになった心で、この人を前にして、こう申し上げられま
す、我が家の番犬が御帰りだ、船の安全を保証する支えの綱、高い屋根を支えるしっかり植わった柱が。父に他の
150
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
子はない時の息子のよう、水夫たちがもう期待してもいない時に現れる陸地のよう、旅人の渇きに差し出される逝
る泉のようだ。これこそこの人を迎えるにふさわしいと私が思う名前。[⋮⋮]ここに来るまで私たちは多くの苦
しみに耐えて来たのですから︵八九五ー〇五行︶。
そして彼女は、聞く耳を持っている者にだけ分かる不気味な意味を秘めた言葉で、夫を王宮に招じ入れようとする。
道を付けて差し上げるのだよ、紫紅の布を広げて、はや越えようとは思いも設けていなさらなかった戸口へと、
﹁正義﹂の望むがままに、この人が導かれるように。その余のことは、人知れず目覚めている思いが、まったき正
義に適って決まりをつけましょう、神々のお助けあらば、定まっているとおりに︵九〇八−二二行︶。
ここでクリュタイメストラーは夫のために車から王宮の入り口まで、紫貝の汁で染めた紫紅の布を敷き延べさせる。
紫貝は古来貴重なものであったから、その汁で染めた布はきわめて高価で、その上を人が踏んで歩いていいようなも
のではない。したがって、これは凱旋将軍の帰還を称える最上級の栄誉であるように見える。がまた、嬉々としてそ
れに従うのは、神々の前でも人々の前でも暦上の誹りを免れない行いでもある。妻の勧めにアガメムノーンが躊躇い
を覚えるのはそのためである︵﹁このような誉れの儀式は神々にこそふさわしい。死すべき身をもち玉虫の布を歩む
は畏れ多し。人としてなら誉れも受けよう、神としてなどもってのほか﹂九二二−五行︶。だが、妻は夫の目尊心を
が味わったような苦しみの中にあったなら、あなただってこのような誓いをおたてにはなりませんでしたろう
151
様々にくすぐって、躊躇う心を説得する。いかに高価な布といえども夫の無事の前では何ほど貴重なことがあろう
(「
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
か﹂九三三行1だが、この言葉自体が二重の意味を持っている︶と嬉しがらせを言われ、またプリアモスを引き合
いに出されて、暗にトロイアを平らげた大将軍の威勢を見せよとおだて挙げられ︵﹁では、プリアモスならいかがし
たと思し召す﹂1﹁玉虫の織物、いかにも彼奴ならその上を歩んだであろう﹂ー﹁それならば﹂九三五−七行︶、
最後に﹁満ち足りている時には負けてやるのも心憎いもの。[⋮⋮]お譲りあそばせな、快く私の願いを聞いて下さ
るのが、優位を保つこと﹂︵九四三行︶と下手に出られて顎を撫でられて、妻に比べて人間的なスケールしか持ち合
わせていないアガメムノーンはついに譲歩する。夫を説得するこの=二行のやり取りもまた、聞く耳を持つ者を戦懐
させずにはおかない。と言うのも、ここでクリュタイメストラーが現実に行っているのは、明らかに供犠執行の式次
︵72︶
第の一部だからである。狩が、野生動物を同意なしに暴力的に殺害するのに対して、家畜を対象とする供犠は、犠牲
獣の同意を得た上でなければ実行できなかった。したがって、アガメムノーンの目惚れにおもねりながら、クリュタ
イメストラーは実際には夫からそれと知られずに自己の死の同意を引出している。何も知らずに、屠所の羊として紫
紅の布の上を宮殿へと歩む夫を見送りながら、王妃は最後の、もっとも恐ろしい、二重の意味を込めた言葉を語る。
海があるー誰にも干せない海が1無数の織物を染める、豊かな、常に蘇る、有り余る紫紅を養う海が。神々の
おかげで、殿様、私どもの家にはそれがたくさん備わっております、我が家には足りないなんてことはございませ
ん。まだたくさん、別の布も差し出して、あなたの足の下に敷く誓いを致しましたろう、もし、私に返されたこの
命を買い戻すためにどんなことでもしようという時、神託のお声でこの家のためにそうせよとの御忠告を戴きまし
たならば︵九五八−六五行︶。
152
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
この海、無数の布を染める紫紅の液をいつまでも吐き出す海は、言うまでもなくアガメムノーンの心臓である。彼が
足下に踏みしめる布は、やがて彼の心臓から遊る血で、既に染められているのだ。
アイスキュロスの王妃の第三の特徴は、怪物性である。それは、その所業が王妃を人問から動物に移行させる時明
らかになる。カッサンドラーの幻視では、彼女は、雄牛を殺す雌牛︵二二五−七行︶、﹁いやらしい雌犬﹂︵一二二
八行︶﹁両頭の腹、岩穴に隠れて水夫に爪を伸ばすスキュラ﹂︵一二三四−五行︶、﹁高貴な獅子がいない間狼と寝てい
た二本足の雌獅子﹂︵一二五八−九行︶である。次いで、現実に夫の死骸の上に立ちはだかる王妃の﹁血の粘った斑
点で覆われ﹂た︵一四二八行︶目をした姿は既にフユリアエのようでもあれば、死肉を漁る鴉、家代々のダイモーン
の具現でもある。子供たちにとっては、彼女はとりわけ蛇である︵﹁恐ろしい腹﹂﹃供養する女たち﹄、二四九行、﹁ウ
ツボか、蛇か﹂九九四行、﹁二匹の蛇﹂一〇四七行︶、そして実際、死んだ彼女は息子に、﹁まるでゴルゴーンのよう
な⋮⋮黒衣を纏い⋮⋮周りには蛇がうじゃうじゃ⋮⋮登いている⋮⋮あの女たち﹂︵一〇四八r五〇行︶、エリーニュ
ユタイメストラーの怪物性を混じり気なしの形で明らかにする。﹁夜﹂の娘である﹁この狂犬のような女たち
エスを差し向ける。最後に、﹃慈しみの女神たち﹄で、逃げた獲物の痕跡を嗅ぎまわるエリーニュエスの群は、クリ
ニユクス
[⋮⋮]この忌まわしい娘たち、古の時代の、神も人も獣も決して近づきにならなかった、この老いた娘たち﹂︵﹃慈
しみの女神たち﹄六六−七〇行︶は、吸血鬼︵﹁おまえから、生きながらにして、真紅の供物を引出す権利があるの
さ、骨の髄から吸ってやるよ。おまえから食料をいただくのは、恐ろしい飲み物をたっぷり頂戴するのはあたしさ﹂
二六四−六行︶であり、食人鬼︵﹁おまえはあたしに御馳走を備えてくれるのさ、まったく生きたまま、祭壇の上で
喉を割かれさえしないでね﹂三〇五行︶に他ならないからである。
アイスキュロスの王妃について最後に指摘しておかねばならないのは、﹃供養する女たち﹄のコロスが、彼女の犯
153
154
罪をアルタイアー、スキュラ、レムノス島の女たちの犯罪に結び付けていることである︵六〇二ー三八行︶。アルタ
イアーは、兄弟の復讐のために、息子メレアグロスの不死を護る薪の燃えさしを火中に投じて、息子を殺害した母親
であり、同様にスキュラは、、・・ノスに恋し、また﹁クレタ細工の金の首飾りに誘惑されて﹂、父二ーソスの不死を支
える紫色の髪を抜いて、父を死に至らしめた娘である。またレムノス島の女たちは、夫が自分たちを疎んじて、捕虜
の女を寵愛したことを憤って、夫を皆殺しにした妻たちである。ところで息子、父、夫は、自由身分の女性が関係を
持ちうる、言い換えれば女性の首言ωとなり得る男性の存在様式の範列を構成している。したがって、彼女たちの
犯罪は単なる殺人ではない、それは言わば今日の尊属殺人にも比定すべき重罪である。言い換えれば、アルタイアー
ースキュラーレムノス島の女たちは、最悪の女性犯罪者の神話的ー伝説的系譜を構成している。この系譜に挿入され
る時、クリュタイメストラーの犯罪もまた、単なる家庭内的スキャンプルを越えた、神話的−伝説的域に属すること
になる。
行︶。だが、母の殺害についてはそうではない、したがって、母の骸を前にして彼はこう言わねばならないー﹁目
もいいことです、この男は女誼しだった、法に従って彼に裁きが下されました﹂﹃供養する女たち﹄、九八九i九〇
彼が、母の姦通の相手を殺害することは、法に適っているからである︵﹁アイギストスの死刑執行人、これはどうで
ースは、アイギストスを殺害したことについてほとんど弁明する必要を感じていない、父亡き後母の屏ξδのである
の結果に他ならない。この巨大さは、母殺しと言う大罪を正当化するために、是非とも必要なものだった。オレステ
の逸脱、人間的なものからの逸脱、日常的−現実的なものからの逸脱である。彼女の人物像の超人的な巨大さは、そ
付けのいずれの点でも、通常の女性ー人間の枠組みを大きく逸脱している、女性的なものからの逸脱、ランガージュ
こうして、アイスキュロスのクリュタイメストラーは、その男性性、悪魔性、怪物性、犯罪の神話的−伝説的位置
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
分を重く身籠らせた男に対してこの恐ろしい企みを練った女[⋮⋮]この女は一体何物でしょう、どうですか、ウツ
ボか、蛇か。噛まずとも、破廉恥で犯罪的な傲慢でそっと触れただけでも膿ませることができました⋮・:﹂︵九九一
アイスキュロスの王妃を殺害されるに値する、だがその分だけ魅力的なものにもしているこの逸脱を、エウリピデ
スは縮減して、王妃を通常の人間的スケールで提示することに心を砕いているように見える。第一に、エウリピデス
の王妃には、アイスキュロスの王妃の特徴だった確信犯的なところが些かもない。単に、彼女は殺害の実行から手を
引いているだけではない、まず、その言い分が細部において極めてあやふやで、首尾一貫していない。犯罪の第一の
弁明として彼女が持ち出すのは、先にも見たように、母の権利である。しかも彼女は注五二で指摘したように、子供
を母一人の子であるかのように語ってもいる。だが実を言うと、この母の権利の主張は、父の権利ー彼女の父の権
利1の枠内にあるものなのだ︵﹁テユンダレオスが私をお前の父上に与えたのは、父の考えでは、私の子供たちに
も、私自身にも、死刑を宣告するためではなかったのよ。ところがあの人は⋮⋮﹂一〇一八−九行︶。したがって、
問題は実際には、父の権利と母の権利の対立ではない、二つのーテユンダレオスとアガメムノーンのー父の権利
の対立なのである。次いで、彼女は夫を殺した動機を、娘の復讐よりはむしろ、踏みにじられた妻の権利に求めよう
とする︵﹁お帰りに、女を連れてやって来た[⋮占。寝床に連れ込んだ。私たちは同じ屋根の下に並び据えられた二
人の妻ということになるのだった﹂一〇三二−四行︶。だが、夫が帰国したとき伴っていた女捕虜の存在が、殺害と
不倫の引き金になったのなら、彼女のアイギストスとの姦通はいつ始まったのか、殺害の計画はいつ練られたのか。
アイギストスを共犯に選んだのは、ほかに味方になってくれる者がいなかったからだ、と彼女は語っている︵﹁私は
あの人を殺しました、そのために私に開かれているたった一つの道をとった、あの人の敵の一人の手を借りること。
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ー六行︶。母は人間ではなかった、殺害できるためには、人間であってはならなかったのだ。
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
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お前の父上の友の中の誰が、私の味方になってあの人を殺してくれたろうか﹂一〇四六−八行︶。では、アイギスト
スは、共犯者になったので、情夫にもなったのか、それとも逆なのだろうか。娘の告発は、この矛盾を突いている・
彼女は夫が戦争に出かけると直ぐから化粧に憂身をやつしていた、﹁ギリシャの女の中であなたばかりが、トロイア
が勝つたびに喜んでいた[⋮・:]アガメムノーンがトロイアから帰ってくるのを見たいとはこれっぽっちも思ってい
なかった﹂︵一〇七六−九行︶。つまり彼女は︵アイスキュロスの王妃のように、焦燥に駆られながら復讐の刃を研い
でいたわけではなく︶、ふってわいた自由をどこまでも謳歌するつもりだったわけだ。動機は、母の権利はおろか、
妻の権利でさえなく、むしろ女性の権利、女性の性的自由にあったように聞こえる。だが、この告発に母は弁明を返
さない、彼女が語るのは︵本心か否かはともかく︶夫殺しに対する後悔の念である。母娘のこのやり取りからは、王
妃がなぜ夫を殺害しなければならなかったのかは、よく分からない。場当たり的な一貫しない弁明しかしていないエ
ウリピデスの王妃は、アイスキュロスの王妃のように、十全の自覚を持って自己の犯罪を引き受け、その理のあると
ころを説くことができる責任主体ではない。
い男と通じてアガメムノーンの復讐をする息子の母となることを恐れた情夫が彼女を殺そうとした時、﹁母御は、い
同様に、エウリピデスの王妃は神々と法を恐れ、また世間体を気にしてもいる。エーレクトラーが密かに身分の高
かに心は残酷でも、アイギストスの攻撃を前に娘を庇われた、夫の死には言い訳があったが、子供を殺せば禍を受け
る恐れが生じたからだ﹂︵二七⊥一一〇行︶。また、王妃は新しい夫と共に外出することも控えている、それは﹁人の誹
りが怖かった﹂︵六四三行︶から、﹁もっとも聖なる法を裏切る妻は辱められる﹂︵六四五行︶ことを知っているから
である。これらはいずれも、アイスキュロスの王妃なら歯牙にも掛けなかっただろうものである。
第二に、エウリピデスの王妃はその男性的な性格においても、アイスキュロスの王妃からはるかに後退している。
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
確かにアイギストスがアルゴスの僑主でいられるのは、彼女がアガメムノーンから委託された主権のおかげである。
したがって、アイギストスは﹁クリュタイメストラーの亭主﹂であり、二人の間の子供たちは﹁クリュタイメストラ
ーの子﹂と呼ばれている。絶対にその逆ではない。だが実質的には、彼女は権力をほぼ情夫に引き渡している。その
ことはエーレクトラーに対する迫害において明らかになる。エーレクトラーはその身の不幸を嘆いて言う。
私がどんななりをしているか、すっかり垢だらけなこと、住んでいる所を[オレステースに]話して下さい。え
え、私たちの王宮から追い出されて、どんな屋根の下に住んでいるか。目分の着る物を作るためにわざわざ機織り
をしなければならず、さもないと体に纏う物一つなくて、裸でいなければならないでしょう、川に行って目分で水
を汲んできます。[⋮⋮]ところが母はトロイアの戦利品に囲まれて、王座に威張って座っている。歩くときには
アジアの女たちが人垣を作る、父上の戦利品だった奴隷女たちで、金の留め金で止めた東洋風のチュニックを着て
:⋮そして父上の血は黒い血膿に凝って、まだあの屋根の下にー父上を殺した男は父上の物だった車に乗って外
を練り歩いています、すべてのギリシャ人に号令した王笏も、彼が人殺しの手に持っています、そしてふんぞり返
って⋮⋮アガメムノーンですが、お墓は祭られもせず放りっぱなし。まだ灌葵もミルテの枝も受けてはいません、
祭壇はいかなる供物もなく空っぽのまま。そしてもう一人は、ワインに溺れて酔い痴れると、母の夫、栄光の君主
と言われる人は、お墓の上で両足を揃えて飛び跳ねて、記念の石に小石をぶつけて。また私たちによくもまあ投げ
つける言葉がこれです、︽息子のオレステースはどこにいる。勇敢に答えて姿を顕し、お前の墓を護れるといい
な。︾こんな侮辱でいない人を追い回すんです︵三〇四−三三一行︶。
157
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デュメジルは、エーレクトラーのこの嘆きが、インドーヨーロッパ世界に伝統的な三機能構造に基づいて分節されて
いることを指摘している。まず彼女は、生まれが保証している富と高貴さ︵第三機能︶を奪われたことを嘆く。次い
で、武人である父の不名誉な死︵第二機能︶、最後に、父の墓に対する正当な祭祀の不在と挑発的な侮辱︵第一機能︶
に関する嘆きが続く。﹁この嘆きのそれぞれが、迫害者たちの行動によって強化されている。クリュタイメストラー
は娘が奪われている安楽と贅沢を見せ付けている。アイギストスはトロイアの勝利者の供揃いの中に居座っている。
アイギストスは死者とその息子を挑発している。﹂したがって、迫害者もまた三機能の範列内に分節されている。ク
︵73︶
リュタイメストラーは第三機能の不幸においてのみ娘に対立しているが、第二機能の不幸︵アガメムノーンの殺害︶
においては、実行者の位置を退き、第一機能の不幸︵死者の冒漬︶においては、迫害行動を全面的にアイギストスに
委ねている。ここでは第一機能−祭祀と主権ーを掌握しているのは、王妃ではなく、その情夫の方なのである。
第三に、エウリピデスの王妃は、怪物的でも悪魔的でもない。確かに彼女は身勝手な女である。息子をなぜ呼び戻
さないのかと問われて、彼女は答える、﹁怖いんだよ⋮⋮大事なのは私の利益、あの子のじゃない﹂︵一一一四行︶。
だが、それでもこの母親にはまだ、娘に対する幾許かの配慮が残っている。実際、それを当てにできるから、エーレ
クトラーは母に対する陰謀を企てることができるのである。
エーレクトラー一爺や、クリュタイメストラーのところに行って言っておくれ⋮⋮私が男の子を産んだと言いなさ
い。[⋮⋮]私が産褥で苦しんだと聞けば、来るでしょう。
老人一それじゃあ、あなた様のことを気に掛けているとお思いなのか。
エ一確かにね。わたしの生んだ子に用意されている身分にだって流す涙はあるでしょうよ︵六五一−八行︶。
158
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
期待に違わず母はやって来る。そして、産褥にあってただ一人きりで、体も洗えず、床上げの清めもできないと訴え
られて、娘のために手ずから清めの儀式を執り行おうとして、彼女は知らずに罠に足を踏み入れるのである。
したがって、エウリピデスでは、悪魔的な二重の意味を込めた言葉を語るのも、もはや母親ではなく、娘︵とコロ
あなたを囲む
ス︶の方である。クリュタイメストラーが美々しい行列を従えて、娘のもとを訪れた時、コロスは次のような歌声で
彼女を迎える。
ようこそ、崇めまする、祝福しまする、神々にも等しいあなたの豪奢を、あなたの豊かな幸福を!
運命に貢ぎ物を支払う時、アルゴスの王妃よ︵九九四−七行、強調引用者︶。
同様に、既にアイギストスの死体が転がっているエーレクトラーの茅屋の前で、 娘が母とかわす対話も、何も知らな
い母には聞き取れない二重の意味に裏付けられている。
エ一私の怨みはやがて終わるわ。
ク一それなら、あの人だって、おまえを苦しめるのを止めるわ。
エ一なんて寛大なんでしょう、私の屋根の下に居候したからなのね。
ク一そら、また熾き火を燃えあがらせて新しい言い争いをしてる[クリュタイメストラーは﹁私の屋根﹂を宮殿と
誤解している]。
159
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
工一黙ります、アイギストスが怖いもの・−怖がらなきゃいけないだけに︵一 一八−一二行、強調引用者︶。
[:占神々に、お供えしなきゃならないものをお供えしてね︵一一三
そして娘のために儀式を執り行うべく家に入ろうとする母に、 娘はアイスキュロスの王妃顔負けの最後の言葉を掛け
る。
私の哀れな屋根の下 に お 入 り に な っ て ね 。
九−四一行、強調引用者︶。
続く言葉は、もはや二重の意味を持ってはいないが、 やはり恐ろしい。行われようとしているのは、やはり供犠なの
である。だが、今や王妃は執行者ではない。
籠の用意はできている、雄牛の喉を扶った刀は研いである、その傍らにあなたも打たれて倒れるの。あの世でも、
日の下で一緒に寝ていた人と一緒になるのよ。思いやりと言えば、あなたが私から引出すことになるのはこれだけ
でも私は、あなたから正義を引出すわ、父上のために︵一一四二−六行︶。
エウリピデスの王妃は確かに逸脱した存在ではあるが、それは伝統的な女性の美徳からの相対的には些細な逸脱に過
ぎない。したがって、彼女の犯罪もまた、平凡な家庭内的スキャンダルに属するものである。そのことが、王妃をあ
りふれた一人の女性にしている。この人間的サイズは、アイスキュロスの悲劇には︵だがまたソポクレースの悲劇に
160
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
も︶見当たらないものを引出している。母殺しの罪に対する子供たちの戦きと深い後悔である。
エーレクトラー一涙が澗れないわ、弟。でも悪いのは私。母上に対する赤い怒りに蝕まれていた、不幸な私、生ん
でくれたのに。娘だ っ た の に 。
[⋮⋮]
オレステース一ポイボスよ、正義とは測り難いもの、あなたの声が私に伝えた正義は、あなたのせいで私が犠牲に
なった苦しみは目覚しい。あなたのために私は眠れなくなった、私をギリシャの大地にはもはやいられなくした殺
人のために。どこへ行けばいい。どんな他所の国に。いかなる主も、神を恐れるなら、顔を背けよう、親殺しの私
の眼差しから。
[⋮⋮]
オ一さあ、死体をとって隠しなさい、この布の襲に。傷口を閉じて⋮⋮だからあなたを殺したのは、あなたが産ん
だ子たちなのだ。
工一愛しいお母さん、憎いお母さん、見て、この布で包んであげる︵一一八二−二三一行︶。
子供たちが母を憎みながら、殺害の後に激しい悔いに駆られるためには、母は怪物であってはならない。エウリピデ
スはアイスキュロスの王妃をあえて楼小化した、人間的サイズに引き戻した、その時初めて、子供たちは人間として、
目己の行為の取り返しのつかなさを知って、母を哀れむことができるのである。
これに対してソポクレースは、エウリピデスの王妃を、その人間的サイズはそのままに、さらに恥知らずな存在へ
161
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
162
と修正している。彼女の破廉恥さは、一方では彼女の行動によって、他方では娘の苛烈な追及によって、明らかにさ
れる。
ソポクレースは、エウリピデスではなくアイスキュロスから、幾つかのアイディアを借用しているが、彼の王妃の
超人的な巨大さは決して採らなかった。ソポクレースの王妃は決して男性的ではない、彼女の宮殿を支配しているの
はアイギストスである。エーレクトラーが宮殿の外に出られるのは、アイギストスが不在だからである︵﹁[アイギス
トスが]ここら当たりにいるなら、私がこの敷居を越えるなんて思わないで﹂三〇三行︶。クリュタイメストラーが
エーレクトラーの欝陶しい嘆きをもう聞かないですむように、娘を地下牢に永久に幽閉しようとするのも、アイギス
トスの指図があってのことである︵﹁本当にそんなことを私にしようと決めたの。﹂1﹁そのとおりよ、アイギスト
スが家に帰ってきたらすぐにね﹂三七六ー八行︶。そして、母親を鋭く非難する娘を罰することができるのも、アイ
ギストスである︵﹁アイギストスが帰って来たら、この無礼の結果は逃れられないよ﹂五六八行︶。
同様に、彼女は些かも怪物ではない。単に専ら、アイスキュロスの王妃の鉄面皮で無情な側面を増幅して受け継い
でいるだけだ。たとえば、アイスキュロスの王妃は、自分が殺した夫の死後の復讐を恐れて、その死体を殿損して埋
︵褐︶
葬する。そうしておいて、一度悪夢を見ると、﹁破局を逸らせるために﹂︵﹃供養する女たち﹄四三行︶、娘を名代に、
無残な埋葬をした亡夫の墓に灌葵を注ぎに行かせる。ソポクレースはアイスキュロスのこのアイディアをそっくり戴
いているが、そこにさらに夫を冒漬する小さな細部を付け加えて、この行為の残酷さと厚かましさを強調している
の女が人殺しの中でももっとも無情な人でなければ、決して自分が殺した男をこんな憎むべき灌葵で称えたりは
て縛って、そして浄化のために父上の髪で母上を汚した血を拭った女から、供えられたこんな栄誉を好ましく思うか
しないでしょうに。よく考えて見て、お墓の中の死骸は、恥ずかしく憎らしい死の原因になった女から、手足を切っ
(「
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
しら﹂四三〇1八行、強調引用者︶。だが、ソポクレースの王妃の厚顔無恥は、同じ悪夢について、とりわけ王妃自
身が門前のアポローンの像に次のように祈る時、隠れもないものになるー﹁昨夜どっちつかずの夢に見ました光景
が、おお、神様、リュケイオス様、幸福の徴として示されたものならば、成就をお与え下さい、が敵の徴であるなら、
敵に送り返して下さい。また誰かが今私が持っております財を裏切りによって奪おうと企んでいるならば、お許しに
ならず、いかなる攻撃からも守られていつまでも生を送れますよう、アトレウス家の﹁家﹂とこの国の王笏を支配し、
私が愛していて今日も結ばれている人々と、また私の子供たちの中でも私に対して悪しき考えも陰露な苦い思いも養
︵75︶
わない者たちと共に、幸福な日々を過せますよう﹂︵五七八−九五行︶。最後に、アイスキュロスの王妃も思い付かな
かったもう一つの残酷な冒漬は夫の忌日の祝宴であるー﹁目分の行いを何とも思っていないみたいに、かつて裏切
りで父上を殺した日を覚えていて、その日には、解放してくれた神々を称えて、毎月犠牲の喉を割き、コーラスに踊
りを躍らせるの﹂︵二六八−七二行︶。この︽アガメムノーン忌︾は、死者の冒漬であると同時に、死者の遺族1あ
くまで死者を嘆き悲しむのを止めず、そのことによって母とその愛人を悩ませ続ける厄介な娘1に対する残酷な拷
問でもある。したがって、ソポクレースは、エウリピデスの悲劇でアイギストスが引きうけていた死者とその遺族に
対する挑発的な冒漬をも、王妃に行わせているわけである。
また、ソポクレースの王妃は些かも悪魔的な。ハロールを語らない。それどころか、彼女のパロールには、裏と言う
ものがまったくない。オレステースが死んだという︵偽りの︶知らせを聞かされた彼女の反応は、呆れるくらい正直
なものだ。確かにそこには嘆きがある、だが、言葉を重ねるうちに、嘆きはいつしか愚痴になり、やがて安堵と喜び
に変 わ る 。
163
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164
クリュタイメストラー一神様、何ということ、これを嬉しいと言うべきなのーそれとも恐ろしいと、たとえ益す
るものがあるとは言っても、でも私の命が助かるのが、身内の不幸のおかげに他ならないなんて、何て残酷なこと。
傅役︵偽の使者︶一お持ちしたお知らせに、奥方様、なぜそのようにお気落ちで。
ク一母というのは恐ろしい力があるもの⋮⋮ああ、惨い扱いをされても、母の心には憎しみは入って来ない。
傅一見たところ、我 ら が 参 っ た は 無 駄 の よ う な 。
ク一無駄ですって、とんでもない、どうして言えるのです、無駄だなんて、確かな証拠を持って知らせに来てくれ
たのに、私が命を伝えた子ーでも私の乳と情愛を捨てて、私を逃れて他国に行って暮らした子の死を。この国を
捨ててから、もう私とは会っていない⋮⋮父親を殺したと言って私を責めて、恐ろしい復讐をすると脅して、だか
ら昼も夜も眠りは優しく私を包んでくれなかった、過ぎ行く時を私は永遠の苦悶の法の下に暮らした。でも今では
・⋮−この日私はこの二人のいかなる恐怖からも解放されたけど、だってこの娘もあの子と同じだから。今では、や
れやれ、この子が私たちにするかもしれない脅迫については静かな日々だと言えるけれど。
エーレクトラー一ああ、不幸な私。今ではあなたの運命をうめかねばならないのね、オレステース、だってあなた
のいるところで、あなたはまだ母親の侮辱を受けているんだから⋮⋮すべては最善じゃないの。
ク一
い い え
お、
ま えに
と
っ て は そう
で
は な い。
でもあの子にとっては、こうなってみれば↓番よかった。
一お聞き下さい、おお、ネメシス様⋮⋮死んだばかりのあの子。
そうね、じゃあ私を倒すのはオレステースとおまえではないのね︵七〇七ー三六行︶。
いくらでも侮辱するといいわ。嬉しいでしょう、今は、いかが。
ネメシス様は聞く価値のあることをお聞きになって、万事を一番いいようになさったんだよ。
クエクエ
ある都市の、想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
無情で臆面もないこの母親は、それでも夫殺しを正当化するために、母の権利を主張している
臆面もないものではあるのだが︶。
︵この主張もまた、
なぜ、誰のために、あの子を犠牲に捧げたの。こうお言いだろう、ギリシャ人のためだって。でもギリシャ人には
私の子を殺す権利はなかった。それとも弟のメネラーオスを助けるために、私の子を殺したのなら、その支払をし
てもらって当然ではなかったろうか。どうなの、あちらには二人の子がいなかったかしらね、だから、普通なら、
私の娘よりむしろあっちの子じゃないかえ、死ぬのは、だって自分等の父親︵それに母親︶のための遠征だったん
だもの︵五一五−二二行︶。
この言い分に対する三段構えの娘の反論ーイーピゲネイアの生賛の︽真の状況︾、すなわちアルテミースの怒りを
解くために娘を生蟄にせざるを得なかったアガメムノーンのギリシャ軍の総大将としての政治的立場、次いで、血讐
のアポリア、最後に母親の不行跡の糾弾rのうちで、平行線の議論を生まないという意味で、真に有効な反論とな
りえているのは、最後のものである。
あなたの言い訳は何にもならないわ。だって、教えて頂戴、お願いだから、あなたの今の振舞のような匹敵するも
ののない汚らわしさは何に対するお答えなの、あなたが一緒に寝ている男は、昔その血塗れの手であなたが私の父
上を非業に死なせる手伝いをしたのよ、その男の子を産んで。そしてあなたが昔産んだ子たち1天に恥じない正
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一橋大学研究年報 人文科学研究 40
しい子で正しい結婚から生まれたのにーその子たちをあなたの炉から遠ざけている。こんなことをどうして承認
できるの。それともこれもまた、娘の復讐のためにとった代償だと言うおつもりなの。[⋮⋮]見事なお振舞ね、
娘が可愛いからと言うので、呪うべき者を臥所に入れるなんて︵五六五−七五行︶。
これに対して、王妃は返す言葉を持たない。実際、ソポクレースはカッサンドラーの存在を排除しているので、王妃
は、夫殺しに関しても姦通に関しても、妻の権利、ひいては女性の権利を表立って主張できない立場にあるからだ。
したがって、ソポクレースでは、クリュタイメストラーの不倫は、この王妃の鉄面皮と死者に対する冒漬と遺族に対
する残酷をもっとも雄弁に証言するものになる。それは単なる性的放縦の証ではない、死者のものだった臥所に夜毎
殺人の共犯者を引き入れることによって、ソポクレースの王妃は、死者を死後もなお、日々汚し辱め、そうすること
で遺族をも傷つけ苦しめているからである。
したがって、ソポクレースの王妃が自分を殺そうとする息子にいくら哀れみを願っても無駄だろう。母の叫びを聞
いたエーレクトラーは言う、﹁哀れと思えですって、でもあなたはあの子にもあの子を授かった父上にも哀れと思っ
たかしら﹂︵一四一六行︶。ここでは、子供たちは母殺しにいかなる呵責も感じない、母のフユリアエが彼らを脅かす
ために現われることも決してない。この無慈悲で恥知らずな女を殺すことは、正義だからである。
こうして、それぞれのやり方で母の権利︵と妻ー女性の権利︶を主張した三人のクリュタイメストラーは、その人
物像に応じた犯罪の支払いをする。だが、そのことは彼女たちの存在がそれそれのやり方で明らかにした父と母、夫
と妻、男性と女性のエリスが、彼女の死によって解消されたことを意味するわけではない。個々の悲劇はそれぞれ、
166
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
独自なやり方でこのエリスを解決しようとしている。確かに、必ずしもそれは真の解決ではないかもしれないが、し
かし、問題をずらすこと、あるいは矛盾を隠蔽することもまた解決の試みの一つの形であるとするならば、そこには
このエリスに対する悲劇の戦略があると考えねばならない。悲劇には、確かに、都市に潜在する矛盾を挟りだし、顕
在化する機能があるとしても、おそらくもう一つの機能も存在する、都市の想像的もしくは理想的自己同一性のイマ
ージュに従った形で、この矛盾に何らかの解決を与えることである。したがって、今はこの悲劇の戦略を見なければ
ならない。言いかえれば、クリュタイメストラーの主張が顕在化させたこのエリスが、いかなる文脈において検討さ
れ、処理されているかを。
まず二つの点を確認しなければならない。第一に、悲劇にあって伝説にはないものは何か。ホメーロスでは、アイ
ギストスが策を弄してアガメムノーンを殺害し、その妻と財と権力を奪う。アガメムノーンの遺児オレステースは、
父の復讐を果たして、奪われたものを回復する。この大枠を踏襲しながら、悲劇では違うことが語られている。つま
り、父と母の、夫と妻の、さらには男女の、エリスである。悲劇の功績は、既存の伝説にこのエリスを読み込んだこ
と、言い換えれば、既存の伝説をこのエリスを盛り込む容器として利用したことにある。だが、第二に、その時ただ
ちに確認しなければならないのは、伝説のこうした利用法がもたらすもう一つの利点である。三つの悲劇では、母の
権利、妻の権利、さらには女性の権利は、娘を殺し、妻を裏切り、自分だけが性的自由を謳歌したアガメムノーンに
対する、母ー妻−女性による復讐−殺害を通して、主張されている。逆に、父の権利、夫の権利、男性の権利は、殺
害と姦通によってこの権利を踏みにじった母に対する、父の子供たちによる復讐ー殺害を通して、主張されている。
言い換えれば、伝説を容器として利用することによって悲劇は、このエリスをそのものとしてではなく、殺害し1殺
害される者としてのクリュタイメストラーの存在を通して、別の文脈に、つまり負債の支払い、血讐、同害刑という
167
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
文脈に翻訳しながら問題にすることができたのである。したがって、伝説を利用することの利得は、次のように定式
化することがでぎる、父と母、夫と妻、男女のエリスから、同害刑による負債の支払いが生み出す血讐の連鎖への、
アポリアの移動。要するに、悲劇は、それが提出した論点をずらしつつ問題の解決を模索している。
だが、この二点が三つの悲劇に共通するものだとしても、三人の詩人はそれぞれ自分なりのやり方で、解決を試み
ている。
アイスキュロスの特異性は、二つの復讐ー殺害が、それ自体として自己の正義を主張しているだけではなく、同時
にその言わば局地的な性格を脱して、一方では、三部作の冒頭からアトレウス王家代々の血塗られた歴史という同じ
血讐のより広大な文脈に挿入されて、個人の意図や欲望を超えた運命的な裏づけを与えられ、他方では最終的に、ま
ったく異なる政治的文脈ー古い神々と新たな神々の対立、血の正義と司法的正義の対立に引き裂かれた都市の政治
的安定の問題ーに置換されることによって、解決を図られている点にある。言い換えればここでは、殺害し1殺害
されるクリュタイメストラーが体現しているエリスは、単に夫殺しと母殺しと言う局地的な血讐にずらされているだ
けではなく、次いで運命に包摂され、最後に都市の政冶的問題に置換されて、ようやくある決着を与えられる。
局地的な血讐については、ここでは単に、殺害するクリュタイメストラーが登場する﹃アガメムノーン﹄と、殺害
されるクリュタイメストラーが登場する﹃供養する女たち﹄は、鏡像的関係を構成している、ということを指摘し
︵76︶
ておけば十分である。前者では、戻ってきた﹁犠牲者が殺人者に迎え入れられる﹂が、後者では戻ってきた﹁殺人者
が犠牲者に迎え入れられる﹂、いずれにおいても、殺害は謀略によって行われるが、前者では、男性が女性に殺され
る、後者では女性が男性に殺される。同様に、この鏡像的関係は、前者が、﹁子供をとられた禿鷹﹂︵﹃アガメムノー
ン﹄、五〇行︶の復讐であり、後者は、﹁親をなくした鷲の子﹂︵﹃供養する女たち﹄、二四八行︶の復讐である、とい
168
う点にも見出される。この関係の設定は、二つの復讐ー殺害の間に等価性を打ち立てる。両者は拮抗し、どこまでも
その支払いとして新たな正義を求める権利を持つ。殺害し1殺害されるクリュタイメストラーという人物が体現する
問題のエリスは、こうして、二つの復讐−殺害の鏡像的関係に置き換えられることによって、そのアポリアを鮮明に
される。
だが、この局地的な血讐は、まだそれが現実に起こってもいないうちから、より広大な血讐の文脈に挿入されて、
語られてもいる。それが﹃アガメムノーン﹄冒頭のコロス登場歌と、惨劇を目前にしたカッサンドラーの幻視である。
パ ロ ド ス
トロイア戦争の序幕とも言える船出を語る二一八行に及ぶ長大な。ハロドスは、のっけからクリュタイメストラーの
復讐が、個人的な動機に基づくものではなく、運命であることを暗示する。歓待の掟を破ったパリスの成敗というト
ロイア戦争の大義名分は、次のような︵妻を盗まれた怒りを語るには些かふさわしくない︶隠喩で語られているから
だ。
力強く、声高らかに、彼らは血と戦争を叫んだ、まるで禿鷹が、子供を取られたので狂ったようになって、風切り
羽を動かして、翼を大きく動かして、巣の上でぐるぐる回るようにーそれと言うのも巣に卿った雛を見張るのに
はらった苦労も空しくなったから⋮⋮そしていや高きではどなたかがその声を聞き給う、[⋮⋮]そして裏切り者
に、いつの日にか、そのお方はエリーニュエスを投げて、支払いをさせ給うのだ︵四九ー五九行︶。
次いでコロスは、船出の折に現われたある徴と占者カルカスによるその解き明かしを語る。
169
対立しあうので、天秤はいずれにも傾かない。いずれもが、それ自体で正義であるが、他方から見れば不正であり、
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
船上の二人の王の前に二羽の鳥の王者がー一羽は黒く、もう一羽は白い尾の1宮殿の近く、右手の、武器取る
手の方に現われて、貧り食っていた、人目にも明らかな一腹の仔を持った雌兎の腹を、[⋮⋮]軍勢の慧眼なる占
者は[⋮・:]こう言った、︽プリァモスが統べる都市を、時とともに、この遠征軍は餌食となさん。[⋮⋮]だが気
を付けるがよい、[⋮・−]純潔なアルテミースは父君の空飛ぶ犬をお憎みだからだ。女神は、仔を生む前に彼らに
よって腹の仔もろとも屠られたこの哀れな兎を哀れんでおいでだ、[⋮⋮]徴は吉祥1だがまた不吉! 声高に
﹁救い﹂の神を呼び奉る、お妹御がどうか我等の船の海路に出るをいつまでも逆風で止めてお妨げあって、我等の
風習にない、習慣に外れた供犠をお求めなきよう、その供犠の御馳走は女神一人のものーしてそこからは、身内
の憎しみに酔い痴れた妻の、あらゆる恥が生まれようから。というのも女神はお待ちあるからだ、いつの日か、記
憶の中で﹁家﹂を思う、恐ろしく陰険な妻が、新たな事を起こすのを。子の血の質を引出そうとする﹁恨み﹂を︾
五−五五行︶。
したがって、カルカスはすべてをートロイア戦争におけるギリシャ軍の勝利を、だがまたその代償となったイーピ
に外れた供犠﹂、犠牲が供犠参加者によって共食されず、﹁女神︸人のもの﹂になる供犠とは、人身供犠を指している。
して燃やされ、肉と内臓は供犠参加者によって共食されるのが習いであったから、ギリシャ人の﹁風習にない、習慣
むことができる。同様に、ギリシャの供犠は、食肉供犠であり、供犠の後、犠牲の一部[骨と脂肪]は神への供物と
oび臣92∋雪9の3﹂はまた、﹁軍隊の前で彼らによって生賛にされた我が子、怯えて震える哀れな子供﹂とも読
ここで、﹁仔を生む前に彼らによって腹の仔もろとも屠られたこの哀れな兎§日9畠9冥oδ98ヨoαq震き
(一
170
ゲネイアの生賛と、クリュタイメストラーによるその復讐をー既に予言している。ここで提出されているのが、二
そのものを放棄するかi、それとも逃れがたい運命そのものであったのかは、ここでは問わない。例によって、予
言は正しく理解されず、船団は出発する。以後に起こることは、予言の実現である。船団はカルキスを指呼の問にし
ながら、アウリスの浜を船出することができない。﹁アルテミースを代弁する占者の妙薬﹂︵二〇︸i二行︶、を聞い
て、﹁大地を錫杖で打って、二人のアトレウスは畷り泣きを押さえ得なかった﹂︵二〇三−四行︶。だが、アガメムノ
ーンは決して言う、
従わなければ、私が引き受ける定めは重いーまた重い、我が子の喉を掻き切るならば、[−・⋮]私が、同盟を見
この世で
捨て、艦隊を見捨てるのを、艦隊が見ることがありえようか。またもしこの処女の血の供犠が風を止め得るなら、
もっとも聖なる私の権利はそれを望むこと、大いなる喜びを持って[⋮⋮]︵二〇六ー一六行︶。
この決意︵マゾンに言わせれば論弁︶を、コロスはこう評している。
悪しき不敬の風が殿の心の向きを変えた。[:⋮]︵というのも恥ずべき計算は、哀れなる錯乱によって、
はどんなことでもさせるものゆえ︶︵二一九−二三行︶。
したがって、この重大な選択の岐路に立たされたアガメムノーンが下した決断は誤っていた。それは言わば二重に
171
者択一な騎−卜。イアを平らげ・だがその代償として、娘と、やがては自らの命を差し出すか、あるいは、戦争
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
172
α⊆ωωΦ冨[神を蔑する、不敬度な]ものだったと言える。なぜなら、この供犠自体が﹁習慣に外れた﹂、したがって
不敬なものであり、またアガメムノーンは、トロイア征討の大将軍たらんとする野心に目が眩んで、﹁恥ずべき計算﹂
から、神を口実にして、それを執行する決意を固めるからである。その時アガメムノーンは確かに﹁気まぐれな運命
と心を一つに合わせた﹂︵一八六行︶のだ、したがってクリュタイメストラーが振るう復讐の刃は、この運命の実現
に他ならない。彼は、﹁今やかつて流された血の支払をせねばならぬ﹂︵一三三七−八行︶のである。
両義的である。それは、﹁自分が昔流した血の支払いをする﹂であると同時に、﹁父たちが流した血の支払いをする﹂
ところで、この﹁だがもし今やかつて流された血の支払をするならヨ⋮α、Φ一増08δコ巴ヨ巷o琶ωのこもまた、
という意味でもある。この後者の意味で、アガメムノーンの死は、より大きな犯罪の系譜に挿入される。そのことを
明らかにするのが、カッサンドラーの幻視である。彼女は、まず予言者として、謎めいた言葉で、アガメムノーンの
︵そして彼女目身の︶殺害が位置付けられている運命を描き出す。彼女の目には、アトレウス家の宮殿は、﹁神々に憎
まれた屋根。[⋮:.]人問の屠殺場、血を吸った土地﹂︵︸〇九〇1四行︶である。そこには、殺されて食われてしま
ったテユエステスの子供たちが見える︵﹁あの子たちが私には見えるんだもの、刀の下で泣いている、あの妥った肉
を、お父さんが食べたんだわ﹂一〇九五−六行︶。夫を殺すクリュタイメストラーが見える︵﹁ああ、見て、雄牛を遠
ざけるのよ、その雌から⋮⋮おお、不吉な角の一撃⋮⋮雄牛を動けなくさせて、織物の壁の中で⋮⋮罠だわ、あの女
が打つ−.⋮桶の水の底にへなへなとなって:⋮血を流すためにこの水浴をさせるのね﹂二二五−三〇行︶。彼女を
彼女は﹁謎をかけずに﹂︵一一八四行︶、アガメムノーンの殺害が置かれている三代に亘る血讐の文脈を語る。
キュトスを流れる地獄の河の辺で、どうやら予言の歌の調べを鳴らすことになるよう﹂︵一一四九−六一行︶。次いで
待っている運命も見える︵﹁私を待っているのは鉄の刃、それで切り裂かれてしまうの、[⋮⋮]今ではアケロンとコ
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
この家には決してそこを去ろうとしない騒がしい群が住んでいる。[⋮⋮]一族と結び付いたフユリアエだから。
ここに居座っているわ、あの歌姫たちは、万事の源にして根源だった背徳を歌っている、近親相姦の床を前にして、
一つまた一つと怒りを吐き出して、その床に溺れた人にとってはそれが高くついたわけ⋮⋮︵一一八六ー九三行︶。
アトレウス家にフユリアエの群が取りつく原因となったのは、 王座に野心を抱いたテユエステスが兄アトレウスの妻
アエ・ぺと結んだ不倫の関係だった︵﹁近親相姦の床﹂︶。
あの子供たちを見て、家の近くに座っているわ⋮⋮悪夢の幻覚のような子供たち⋮⋮あの子たちは殺された⋮⋮言
わば近親から⋮⋮両手には肉が一杯、あの子たちの肉だわ、それを食べさせる、内臓と腸の何というひどい山だろ
う−⋮あの子たちがそれを運んで行くのが見える⋮⋮そしてそれを味わったのは実の父親−⋮︵一二一七−二二
行︶。
つまりこれが、妻と王座を奪われた兄の弟に対する復讐である。したがって、次いで、殺された無事の子供たちの復
讐が、なされねばならない。
家に残っていた誰かさんが、戻ってきた御主人に復讐を企んでいるのよ[⋮⋮]多くの船を導き、トロイアを破壊
した人は、あの嫌らしい雌犬が、その舌で嬉しげな出迎えの言葉の百万弁、繰り出しておきながら、あの陰険な性
173
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
悪女が、この不幸をうまく成し遂げるのを知らないんだわ︵︸二二三−三〇行︶。
﹁家に残って﹂いて、﹁戻ってきた御主人に復讐を企んでいる﹂者、﹁寝床に入り込んだ卑怯な獅子﹂︵じ甲r一二二
四行︶とは、アトレウスの凶行の後に誕生したテユエステスの末子アイギストスである。︵彼はただ単に愛欲のゆえ
にクリュタイメストラーの共犯者となるのではない。︶したがって、ここでアガメムノーンの殺害は、単にイーピゲ
ネイアの復讐であるばかりでなく、彼の父アトレウスの犯罪の支払いという意味をも帯びる。だが、一族に取り付い
たフユリアエは、アガメムノーンの死に対してもまた支払いを求める。こうして、次の世代もまた、この運命を逃れ
ることはできない。
いつか別の人がやって来て私たちの仇を討ってくれる、息子が母親を殺しに来て、父の名で正義を行うわ。追放さ
れて、さ迷って、この地から遠くに追いやられていたが、戻ってきて、逆様に埋められた父の死骸に呼ばれて、一
族の残虐にこうして最後の仕上げをするわ︵一二八OI五行︶。
︵78︶
したがって、すべては、アガメムノーンの死もクリュタイメストラーの死も、定められた運命の中にある。ここで、
運命の役割は、冒された復讐−殺害を個人の次元から引き取ることにある。言い換えれば、すべてが運命の引いた道
筋を辿っているのであれば、行為に個人が込めた意味付けはその価値を失う。殺害し1殺害されるクリュタイメスト
ラーは、運命の一つの駒に過ぎない以上、彼女の存在を通して語られている問題のエリスは、ほとんど意味を持たな
くなる。彼女の存在が挙げるエリスの声を圧して、既に、前もって、運命が語っているのだ。したがって、当初から
174
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
問題は密かに別な形で設定されている、この運命の歯車の回転を、どこで、どのようにして、停止させればよいのか、
それを停止させるものは何か。﹃慈しみの女神たち﹄における、都市の新たな秩序の創設がそれを行う、その時、問
題のエリスは都市の政治的問題へと三たびずらされる、そして、その声は悲劇の表層からは跡形もなく拭い去られて
しまうことになるのである。
﹃慈しみの女神たち﹄は、問題のエリスをエリーニュエスとアポローンの互い,に対立し合う二つの正義に置換して
呈示する。エリーニュエスの群は、彼女たちが体現する正義を次のように語る。
パルカエが紡いだあたしの役目は取り消せない、あたしはそれに縛られている、死すべき者たちの中で、目が眩ん
で、身内の血に足を滑らせた者たちに、地獄の底に落ちるまで襲いかかるが仕事。[⋮⋮]生まれるが早いかこの
役目はあたしのものになった、オリュンポスの神々の手出しはならないよ。彼等の誰とてもあたしらの饗宴には与
らない。[⋮⋮]だってあたしらに与えられたのは倒す仕事、どんな家だろうとそこで内輪の憎悪の心が近親を殺
ア レ ス
すのが見られれば。罪人に飛びかかり、どんなに強いやつだろうと息を詰まらせてやる、そいつが流した新鮮な血
のヴェールの下で。あたしらがここにいるのは、人にこの仕事をさせずに済ませてやりたいばっかり、神々とても
するには及ばない、あたしらの働きがあれば、予審も開かなくていい。血飛沫だらけの、この忌まわしいやつらに
は、ゼウスも法廷をお開きにはならないよ。[⋮⋮]パルカエがあたしに認めてくれた、そして神々が承認なさっ
た法が読み上げられるのを聞いて、恐れと戦きにいささかも捕われない人間が果たしていようか。古い特権があた
しには与えられた、それをあたしから奪おうなんて権利は、誰にもないんだ、確かに地下があたしに与えられた場
所だけど、闇の中では太陽なんて知ったことかね︵三三四−九六行︶。
175
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
神聖な血の絆を汚した者に対する血の復讐、それも、裁判抜きの、即決のーなぜなら、骨肉の争いによって血が流
されれば、それだけで、彼女たちの介入を求めるに必要十分だからであるー、それがエリーニュエスの正義である。
そして彼女たちは、その正義がオリュンポスの神々にも手出しのできない、不可侵の﹁古い特権﹂であることを強調
する。なぜなら、彼女たちは新参者である第三世代の神々など及びもつかない古さを誇る、原初に最初に生じたカオ
スの子﹁夜﹂の娘たちだからである。だが、この正義、この特権は、アポローンから見れば忌まわしい正義でしか
ニユクス
ないQ
首を刎ね目を扶るのが屠殺者の正義だと囎き、惨たらしく子供を去勢して子孫を枯らし、 手足を切り、石打にし、
串刺しにされた犠牲者の果てしない吠え声が喚く、そんな所へ行くがいい。聞こえるか、 そんなのがおまえたちの
大好きなお祭り騒ぎだ、神々から忌み嫌われるおまえたちのな。︵一八六−九一行︶。
アポローンにとって正義とはまったく別のものを指しているからである。互いに他人どうしである夫婦の絆よりも、
親子の血の繋がりの方が重要だと語るエリーニュエスに、アポローンは憤って言う。
それはへーラーの保証を、またゼウスの保証も得ている侵し難い絆を疑める、無にまでするものだ。[⋮⋮︺男と
女の運命に封印をする結婚、それにもまして、ただひたすらに尊重される重みを持ついかなる誓いがあろうか︵二
一三ー九行︶。
176
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
個人を彼を超えたところで縛るものが血の絆の正義であるとしたら、契約の正義は互いに他者である個人をその目由
な発意において縛るものである、この正義は、現在の世界の支配者であるゼウスの権威の下に置かれている︵﹁私と
言う神託は、嘘は言わぬ。我が神託の玉座では、人についてであれ女についてであれ都市についてであれ、オリュン
ポスの神々の父なるゼウスが語られなかった言葉は一言なりとも、私は言わぬ﹂六一五−八行︶。したがって、この
対立を次のように範列化することができる。エリーニュエスとは、古い神々であり、血の絆に基づく氏族共同体の法
の擁護者であり、血讐の正義を体現するものであるが、アポローンとは、新たな神々の一員であり、同じ都市に住む
市民の合意に基づく民主的共同体の法の擁護者であり、契約の、したがって司法的正義の体現者である。この対立に
おいて、流された肉親の血を同じ血で購おうとするクリュタイメストラーの復讐は、一貫して、明らかにエリーニュ
エスの正義に属している。他方、同じ同害刑の実行と見えながらもオレステースの復讐は、アポローンの正義の側に
位置している。単に、母殺しを命じたのがアポローンだから、と言うだけではない、アポローンは、踏み躍られた結
婚の契約の処罰が、血讐の文脈を超越した、それ自体の支払を要請しないものであることを、司法によって認めさせ
ようとしているからである︵﹁この件はパラスの御手に委ねられよう、裁くのはパラスである﹂二二四行︶。
この対立自体もまた、アポリアである。決着をつけることを求められたアテーナーはそのことをよく知っているだ
けに困惑する、当初から彼女はアポロ;ンの背後にいるゼウスの秩序に与しているが︵﹁私の票はオレステースに有
利に取り決めた人々の方に入るであろう。と言うのも、私に命をくれた母はなく、心から男性の味方だから[⋮⋮]
そういうことゆえ、夫を[⋮⋮]殺した女が死んだとて気にかけることを選ばせるものなど何もありはしない﹂七三
五−四〇行︶、アポローンとは異なり、古い神々の蔑すべきではない力もよく心得ているからである︵﹁この者等はこ
177
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
の者等でまた退けにくい権利のあるもの、勝訴を与えねば、いつの日にかこの者等の恨みの毒が、この国の大地を浸
して、都市にとって容赦ない腐らせる傷口となろう。ゆえにどのみちかような仕儀とあれば、この者等に頷くも却下
するも厄介至極、犠牲が大きくなろうゆえ﹂四七六ー八一行︶。したがって、彼女は幾重にも政治的な解決を試みる。
まず、この対立の決着を裁判に委ねることによってーそれによって彼女は、一方では責任を回避できるが、同時に、
他方では巧妙にエリーニュエスの外堀を埋めることもできる。なぜなら、裁判抜きの即決の決着を事とするエリー二
︵79︶
ユエスが、裁判という司法的手続を受け入れることは、既にアポローンの正義に譲歩することだからである。次に、
エリーニュエス自身を彼女の都市の、したがってゼウスの秩序に取り込むことによってーそれによって、エリーニ
ュエスの呪いから都市を護ることができると同時に、票決が露呈させた都市内部の思想的対立を解決することもでき
る。
オレステースの免訴という判決に、いきり立って呪いの言葉を吐くエリーニュエスに、アテーナーは、彼女たちの
ニヨσ[名誉・特権・権威]は決して辱められてはいないことを説明し、それを証明する取引を、契約を申し出る。
ベイトし
不満を漏らし、息巻くエリーニュエスを、アテーナーは﹁説得﹂に導かれて、籠絡していく。
この私が約束しよう、この国土への十全な権利による滞在を、その方等にふさわしき隠退所を、[⋮⋮]そこで塗
油にすっかり輝く祭壇に君臨すれば、この地の住民がその方等の威光を崇めて布施物するであろう。/そなたは崇
められるにふさわしいものになろう、︹⋮⋮]そなたにこそこの広大な国土全体の初穂は捧げられるであろう、こ
れから生まれる子等のため、祝われる婚礼のためにーそなたにこそ、いついつまでも⋮⋮/エレクテウスの神殿
の近くに有難い住まいを貰うがよい、さすればこの国民の男からも女からも、列をなして、この世で決して他の誰
178
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
からも得られぬような供物を受けよう。[⋮⋮]恩寵をふりまけば恩寵が戻ってこよう、また良き恩寵の礼拝も、
さすれば神々の嘉せられる国々の中でもこの国にいて我が家のごとくに寛ぐがよい。/我等の土地に十全の権利で
根付き、ふさわしくも永久に崇められるのを見るはそなた次第なのだ︵八〇四ー九一行︶。
エリーニュエスはついに食指を動かす。
コロ ス の 長一受けるとしますと、どんな名誉が待っていますえ。
アテ ー ナ ー一かようじゃ、家一軒、そなたなしには栄えぬという。
じゃあ、おまえさんが、そんな力を持てるようにしておくれなのかえ。
いかにも、そなたを崇める者たちは生涯成功させてやろう。
その約束を護っておくれかえ、時の続く間中。
いかにも。護らずともよい約束なら、誰に強いられてそのようなことをしようぞ。
うまく譲しこまれたような⋮⋮恨みも消えます⋮⋮︵八九四−九〇〇行︶。
アテナイに鎮座する代償に、アテーナーが求める奉仕は次のようなものである。
地から、また海の湿り気から、そして天から、立ち上るそよ風のあらゆる息が、祝福された太陽の下この大陸を訪
れるよう。大地と家畜の産物が満ち溢れて季節の巡りにあわせて我が民を倦まず満たすよう。人の豊かさが護られ
179
長ア長ア長
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
るよう。だが、敬度な人がとりわけ増え満ちるよう。[⋮⋮]/かく契約の整う上は、疎かならぬ偉大な女神たち
にこの地に鎮座してもらおう。人間たちに至上の支配をふるってもらうために。この恐ろしき女神たちに礼を尽く
さざる者は、生涯どこより禍が来るやも知れぬぞ。祖先に遡る犯罪がその者を法廷に引出し、大声で叫ぼうとも、
死刑の判決が、物をも言わせず、その者を女神の苦い怒りの下に打ち砕こう︵九〇三−三六行︶。
エリーニュエスも、求めに答える。
決して不健康な息が、おまえ方の果樹園を台無しにせぬように、これがあたしの挨拶代わりの手土産。止めて見せ
よう、国境に、若芽の蕾を殺す炎熱の息吹を。おまえ方の所では、収穫を枯らす傷口は倒されよう。土地が豊かな
羊を養い、末はすべてが双子の子を持つように。豊かな鉱山が、おまえ方の地下の財宝が、神々の贈り物を常に称
えるように。/時が来る前に若者を刈り取る禍をこの地から追い払おう、そして麗しい乙女には夫と炉の幸福を授
けよう、[⋮⋮]/また願わくば天よ、永久に、不吉な、飽くことなき不和があなたの城壁に喩るのを妨げられよ、
同国人の黒い血を飲んだ土埃が、怒りに駆られ、交換に質として、他の殺害を無理強いせぬよう。互いの間でおま
え方は、喜びを取り交わし、心の内で友愛の分ち合いを確かにするよう。また憎しみも一つにするよう。人が苦し
む多くの悪に癒しをもたらすはそれゆえ︵九三七−八七行︶。
こうして、復讐の女神たちは慈しみの女神たちに変貌する。血讐の連鎖には終止符が打たれ、過去の恨みと憎しみは
エリドニユエスエウメニデス
一掃される。この大団円は、都市に新たな秩序が創設されたことを語っている︵﹃慈しみの女神たち﹄が、謀殺を裁
180
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
くアレオパゴス裁判所︵刑事司法︶の縁起謹でもあることを忘れてはならない︶。ということは、アテーナーの男性
の都市と、そこを支配するゼウスーアポローン的な、言い換えれば父的−男性的機能が明らかに優越する秩序への、
エリーニュエスのエウメニデスとしての統合は、父−男性の秩序が母−女性の機能を認め、それに一つの地位を与え
たことを、したがって、ここに創設された新たな都市の秩序においては、以後、父−男性の機能と母−女性の機能が
和解して共存することを、意味するのだろうか。言い換えれば、エリーニュエスのエウメニデスヘの変貌ー男性の都
市への統合は、殺害しt殺害されるクリュタイメストラーの存在が体現していたエリスの解決なのか。二つの理由か
ら、否定的に答えなければならないだろう。第一に、確かにアポローンの正義は父の権利を擁護しているが︵﹁おま
えさんの考えでは、一天万乗の君なるゼウスにとっては、それ[アガメムノーンの死]は父親の死だ﹂六四〇行︶、
都市がエリーニュエスの正義の内に認知するものは、母の権利などではないからである。都市が認める彼女たちの太
古的な機能は、恐怖によって人を悪から隔てることである、さもなければ世には無秩序と専制がはびこることになる
々の折りに、恐怖こそは優れたもの。魂を守るのはそれ、いついつまでも、恐怖は魂に座を占めねばならぬ。涙
は役立つ、叡智を学ぶには。心に根を下ろしたいかなる恐れもないならば、どこにー人でも都市でも同じこと1
正義の礼拝は生き延びようか。/そうだ、生きているうちは同意を与えるな、無秩序にもまた専制にも﹂五一六−二
七行︶。アテーナーのアレオ。ハゴス裁判所創設の辞は、彼女たちのこの主張を逐語的に反復している︵﹁この地に聖な
る畏敬がその妹なる恐れとともに真昼にもまた夜とも仲間となって、住民を悪行から遠ざけておくであろう、[⋮⋮]
無秩序も専制も遠ざけておくというのが、私がおまえ方の仲間の市民に与える忠告。彼等がそれを心に留め、敬い、
いかなる恐れも都市から追放せぬようにしてほしい。何も恐れるものがなければ、この世にどうして正しい者がいよ
うか﹂六九〇1九行︶。司法的正義︵刑事司法︶は、紛争を私的な領域から公的な領域に回収することによって、血
181
(「
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
讐の正義に終止符を打つものである。したがって、アレオパゴス裁判所の創設が解決したのは、局地的なものとして
また運命としての血讐のアポリアにすぎない。この血讐の連鎖の根本にあった問題のエリスは、ここでは忘却されて
いる。第二に、エリーニュエスのエウメニデスとしての機能は明らかに再生産機能ではない。彼女たちは、恐怖の威
︵80︶
嚇の下で人間を悪から遠ざけるという否定的な﹁慈しみ﹂を肯定的なものへと転換し、都市から悪を遠ざけておくこ
とによって、再生産を保証するのである。したがって、エウメニデスの都市への統合とは、人間と家畜と大地の富の
再生産を都市が保証するということである。言い換えれば、ここで都市機能の内に位置付けられるのは、女性の再生
産機能ではない。それ自身の延命と繁栄に不可欠なこの機能を庇護し、保証することが、都市の重要な任務として位
置付けられたのだ。確かにその結果、再生産するものとしての女性は、間接的に都市機能の中にその位置を見出す。
アテーナーは自らの原理主義をやや後退させているとは言えるだろう。だが、それは、女性の規範的な生き方︵﹁夫
と炉の幸福﹂︶が再確認されたということであって、問題のエリスに都市が耳を傾けることではない。﹁パルカエとす
べてをみそなわす御方ゼウスが和解した﹂︵一〇四五ー六行︶ことを寿ぐ祝祭の行列の歌声には、もはや問題のエリ
スの声はまったく掻き消されている。この歌声が称えるのは、﹁パラスがその翼の下に匿う者たちの、父君の傍らで
の栄光﹂︵一〇〇二!三行︶だからである。
エウリピデスの悲劇は、まったく異なる戦略を取っている。既に見たように、エウリピデスはクリュタイメストラ
ーを等身大の一人の女性として造形した。それに見合って、この悲劇が取り扱うのも、ごくありふれた家庭内紛争に
起因する犯罪にすぎない。したがって、そこには都市を二分する正義の対立はない。エウリピデスは悲劇の終わりで、
カストールの口からアイスキュロスの﹃慈しみの女神たち﹄を要約させているが、それは、専らオレステースの今後
の身の上にしか関わっていない︵﹁アテナイに行くがよい、そしてパラスの荘厳なる御姿の前にひれ伏すがいい。
182
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
[:⋮・]そこにはアレオパゴスと言う丘がある、[⋮⋮]死すべき者のために、とりわけ聖なる、柾げることの適わぬ
決まりをする法廷がある。流された血について答えるために、汝が頼るべきはそこ。下される判決の、票決は同じけ
れば、汝が命は救われん。というもアポローンが、母を殺せと命じたは我が神託とお考えあって、汝に寄せらるる非
難を我が身にお引き受けくださるゆえ。して時の続く限り、この先例は法となろう、つまり票が同じければ被告の勝
訴となるのだ。恐ろしき女神たちは、唖然とし、票決にいたく憤ろうが、丘の真下なる割れ目に行きて身を隠し、そ
こに死すべき者は参りて敬度に有難き神託の御意見を承らん﹂︸二五四−七二行︶。同様に、アトレウス家の運命も
はるか後景に退いている。確かにコロスはテユエステスのアエロペとの不倫並びに王位纂奪の陰謀を想起するが、そ
こからはアトレウスの犯罪や家代々の呪いは導き出されない。カストールだけが姉弟の犯行を﹁二人共に祖先からき
た同じ呪いに押しつぶされた﹂︵二二〇六−七行︶と語っているが、それは悲劇が観客の熟知している伝承に目配せ
して見せただけのことである。それどころか、復讐の正義︵同害刑による負債の支払い︶への言及も、アイスキュロ
スに比べれば、驚くほど少ない。その分だけ、ここでは子供たちの︵とりわけエーレクトラーの︶復讐の念に含まれ
︵81︶
ている現実的利害が大きな意味を持つ。子供たちの復讐の動機を構成するのは、単に父に対する愛惜の念、父に与え
られた戦士にふさわしからぬ不名誉な死と死後に加えられた辱め︵墳墓の凌辱と母の不貞︶を雪ごうとする思いばか
りではない、復讐はそれ自体が目的であると同時に、彼らに奪われたものを回復させる手段なのだ。確かにアイスキ
ユロスにも、同じ動機が見出される。だがエウリピデスは、エーレクトラーを家柄は古いが貧しい農夫の処女妻にす
︵82︶
ることで、父の死が彼女を陥れた不名誉と経済的窮乏を際立たせている。彼女は、﹁小作人か牛飼いなら住むにふさ
わしい家﹂︵二五一行︶に住み、奴隷女のように自分で水汲みに行き、機を織り、家事をこなしている。﹁垢だらけの
髪を見て、身につけているこのぼろを、王家の姫にふさわしいかしら、アガメムノーンの娘に﹂︵一八四−七行︶。だ
183
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
184
から彼女は、その点で母を難詰する︵﹁なぜ、父上を非業に死なせた後、私たちに世襲財産を渡してくれなかったの。
なぜあなたのものでもないものを情夫にやってしまったの、結婚してもらうために支払った御手当てかしら﹂一〇八
八ー九〇行︶。同様に、弟も、﹁声にならない声で、祖先の封土の返されんことを祈﹂︵八〇九−一〇行︶って、姦夫
を殺す。母とその情夫を殺してアルゴスの主権を回復することだけが、彼等を現在の苦境から救済するのである。し
たがって、この悲劇ではこの個人的次元での復讐の意味だけが問われることになる。そしてその時、母の正義と同様
に子供たちの正義も、その絶対性を失う。母殺しを逡巡し、神託の正義を疑う弟と、彼を叱咤し、父の復讐を強要す
る姉との論争は、父の復讐が母殺しであるという状況のアポリアの現動化に他ならない。
ス
テ
ー
ス
一どうしよう、私たちの母上なのに⋮⋮あの人を殺すのか。
オレ
エ ー レ ク ト ラー
一何ですって、本人を見たら、息子だけにほろっとしたって言うの。
一どうして殺せよう。乳を貰った人だ、生んでくれた人だ。
一父上の大義を護らないなら、不敬な人だわ。
一昨日までわたしは清らかだった1明日からは母殺しと非難されるんだ。
一父上の仇を打つんだから、それが何だと言うのよ。
⋮⋮とんでもない義務を負わせなすった、母を殺すなんて。
一ポイボスが間違っておいでなら、一体どこに叡智があるの。
アポローンの神託は、何たる背徳⋮
一そうよ、まったくあの女の計らいであなたの父上は死ななければならなかったのよ。
エオエオエオエオ
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
オ一母殺しの正当な処罰をどう逃れるんだ。
工一でも誰があなたを罰するの、父上の仇討を免れたら。
オ一闇の精霊がきっと神の御姿とお声を借りたんだ。
エ一聖なる三脚台に座を占めて。いいえ、そんなこと認められないわ。
オ一あの神託は法に適っていたのか。いや、そうは思えまい⋮
工一気弱になって、臆病風に吹かれないで。中に入るの。アイギストスの手を借りて夫を陥れたのと同じ罠をあの
女にも張るのよ。
オ一中に入るよ。これが恐ろしい道の第一歩だ。その恐ろしいことをやり遂げようとしている。神々がそう御望み
なら、よし⋮⋮手柄であっても嬉しくない、恐ろしい⋮⋮︵九六六ー八七行︶。
そして既に見たように殺害の後、彼等は、エーレクトラーでさえも、激しい後悔に襲われる。ディオスクーロイが現
われて、当事者全員に非を認めるプラグマティックな判断によって、彼等を断罪しつつも救済するのは、その時であ
る。
この女[クリュタイムネストラー]の取り分は正しけれど、汝の行いはさにあらず、ポイボス、さよう、ポイボ
スは⋮⋮我らが御主人なれば、言わぬといたそうーなれどいかなる賢者にましませ、汝にくだせし神託は賢から
ず⋮1︵一二四四−六行︶。
185
186
カストールが子供たちの復讐に両義的な態度で臨むのは、彼の考えでは、犯罪の最終的責任はアポローンに帰せられ
るからである︵﹁この殺害行為はポイボスのせいじゃと思うによって﹂一二九六行︶。これは明らかにゼウスーアポロ
ーン的な秩序の批判であるが、それは単に苛酷な神託だけを問題にしているのではない。﹁なにゆえ、神であり、犠
牲者の兄であるあなた方は、彼の屋根からエリーニュエスを追い払われなかったのです﹂︵一二九八−三〇〇行︶と
問われて、ディオスクー・イはこう答えているー﹁運命と、ポイボスが語った途方もない神託とが、定め、命じて
モ イ ラ
いた運命の道がそういうものだったからだ﹂︵一三〇一−二行︶。したがって、運命は、家の呪いとしてではなく、個
人的なものとして姿を表す。クリュタイメストラーは死をもって犯罪の支払をした、だがたとえ神意であっても、実
の母を手にかけることは許されない、したがって子供たちもまた、︵責任の一端がアポローンにある以上、母のもの
ほど厳しくはないが︶犯罪の支払をする、実際、彼等は﹁母上の血から生まれた呪いによって﹂︵=一一二五行︶アル
ゴスを追放される、エーレクトラーはピュラデースの妻となって異国に赴き、またオレステースは無罪を勝ち取った
ったアルゴスには空虚の風が吹く。この空しさは、同害刑のアポリアが孕む空しさであるが、その底には、神意に翻
襲財産の喪失によって支払っている。確かに、こうして犯罪の連鎖が乱した秩序は回復される、だが、誰もいなくな
殺害したクリュタイメストラーは殺害されることによって支払った、殺害した子供たちは、追放、姉弟の離散、世
この運命自体を批判している。
の皮肉な運命なのである。犠牲者と加害者の肉親としてよりも、もとは人間だった神として、ディオスクーロイは、
の背後にあるゼウスの秩序が︶命じた、したがって下級神であるディオスクーロイにはいかんともし難かった、一家
後、他国に行って一から自分の国を建てねばならない、再会したばかりの姉弟は再び生き別れになる、復讐を通じて
な
い
も
の
に
な
る
、
こ
れ
が
モ、
運
イ命
ラが定めて、アポローンの神託が︵つまりそ
望
ん だ 世 襲 財 産 の 回 復 も 、 彼 等 に は 権 利 の
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
弄される人間の運命の空しさが吹き渡っている。その運命は、決して正義ではない。ディオスクーロイは一言も、そ
れが正義であるとは語っていない。そのことは、カストールの次の言葉からも分かるー﹁プロテウスの屋敷を、エ
ジプトを去って、かの女[ヘレネー]は戻ってまいった、アジアには決して行かなんだ。人々の間に流血と口論を目
文脈全体が、人間を弄ぶゼウスの秩序においては、予めその意味を喪失していたのだ。したがって、問題のエリスは
やはり声を失うだろう。コロスの最後の言葉、﹁壼ロびの中にいて、不運の打撃を受けずにすむ者[浮冨δR死すべ
き者]こそは、幸せなのだ﹂︵一三五七ー九行︶は、実際にはいかなる人間にむけても発せられ得ないものだ。それ
はこのゼウスの秩序を生きる人間には与えられるはずのない運命だからである。その時、問題のエリスを語ることに、
いかなる意義があるのか。
アイスキュロスは、二つの正義を対立させ、そこから両者の均衡によって生まれる第三の正義の道を示した。エウ
リピデスは、ゼウスの秩序の中では、人間の行いには絶対的な正義は、たとえ神託が語るものであっても、ありえな
いことを示した。こうして二つの悲劇は問題のエリスに蓋をする。だが、ソポクレースは同じことをするために、唯
一の絶対的な正義が存在することを示す。それは直接的には、﹃慈しみの女神たち﹄でアテーナーがゼウスの秩序に
採り入れたエリーニュエスの正義に近い。母とその情夫の犯罪を想起して、エーレクトラーは言うー﹁正しい裁き
であの人たちが、殺人には殺人で支払わなくてもいいなら、この地上のどこででも、名誉と敬慶の思いはどうなって
しまうでしょう﹂︵二三八ー四一行︶。クリュタイメストラーの悪夢に姦夫姦婦の破滅を予感したコロスは歌うー
﹁やがて⋮⋮︵その数えきれない足が彼女を運ぶ、数えきれない手が恐ろしい待ち伏せを配置する︶青銅の歩みでや
って来るわ、復讐の女神が。[⋮⋮]まさしく、もはやこの世には悪夢からも神託からも引き出すべきいかなる徴も
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覚めさせるべく、ゼウスはヘレネーの幻影をトロイアに送ったのである﹂︵一二八OI三行︶。では、事件を包含する
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
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あるまい、もしこの夜中に見たものが成就しないのであれば﹂︵四七四−八四行︶。同様に、アイギストスを成敗する
時、オレステースは宣言するー﹁このような正義は法を超えようとする者すべてに直ちになされるべきなのだ、死
ね。悪党が広まらぬようにな﹂︵一五〇六−八行︶。だが、そこには﹃エウメニデス﹄にあったような都市の正義とい
う広がりが欠けている。オレステースが彼の正義を実行するのは、﹁我が世襲財産の支配と家の再興﹂︵七二行︶のた
めである。エーレクトラーの正義は、父の恐ろしい運命が生み出した嘆きと怨みだけを凝視している︵﹁私の激しい
気性がどんなものかは分かっている、見違いはしていない。でもあの恐ろしさを目の当たりにしては、この嘆きの眩
量を鎮められない、ええ、生きている限り﹂二一四−七行︶。したがって、この正義は、運命[家の呪い]にも属さ
ない。運命はむしろ、偽りの正義、クリュタイメストラーの正義を養うものである。実際この悲劇では、家の呪いが
喚起されるとき、それはすべてクリュタイメストラーの犯罪に関わっている︵﹁饗宴の折の悲痛な叫び、あの時あな
たの父上は、真っ向から青銅の斧を受けられた。裏切りが命じて、愛が殺した。[⋮⋮]それを実行したのは、死す
ド ロ ス エロス
べき人の腕なのか、はたまた天ご自身か﹂一八六−九三行、﹁ミュルティロスが海に投げ込まれて、海を死衣とし、
残虐に、ふさわしからぬ仕方で、黄金の戦車からもぎ放され、もんどりうって落下してから、その時から、お館には、
弟のために良かれと願って、父上がああいうことをなさったにせよ、それがあなたの手にかかって死なねばならな
論する。
標榜する偽りの正義に正しい裁きをもたらす。エーレクトラーは、アガメムノーンの殺害は正義だったと言う母に反
まえを日々生き延びさせた運命は終わる﹂︸四八九−九行︶。逆に、子供たちの正義は、この呪いを終わらせ、母が
数え切れぬ苦しみが無残にも止まず襲いかかった﹂四八九−九六行、﹁おお都市よ、おお呪われた家系よ、今こそお
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
い理由でしょうか。いかなる法の名においてなの。男にこのような法を蒙らせる宣告をすれば、気を付けて、あな
た目身にそのことで苦しんで後悔するようにという宣告を下すことなのよ。殺害には殺害を、と言う訳なのかしら。
そんな道を進めば、真っ先に非業に死ぬことになるのはあなたよ、正義があなたに下されさえすれば︵五五八−六
四行︶。
つまり、母殺しはクリュタイメストラーの同害刑が自ら招き寄せる必然の結果である、ということだ。言い換えれば
それは、同害刑という偽りの正義に下される、真の正義の鉄槌なのである。したがって、子供たちの復讐は同害刑の
アポリアを免れている。実際、子供たちは血讐の正義を一切語らない、それどころかアポローンの神託も、父の復讐
をせよとは命じていない、神託が命じるのは、何をではなくていかにである︵﹁ただ一人、いかなる準備もなく、武
器も軍勢も用いることなく、策略と回り道とで、正義が求める殺害全体を我が手で行え﹂三六−七行︶。
︵83︶
だが、それでもこの︽真の正義︾は、明確に、父の法、父の正義である。それが父の復讐として実行されるから、
というだけではない。それは母の正義を偽りの正義として断罪すると同時に、父たちを免罪するからである。アガメ
ムノーンの犯罪は、ギリシャ軍の総大将としての彼の政治的立場によって、言い換えれば、私人の義務に対する公人
の義務の優越という、市民的−男性的倫理によって宥免される︵﹁ある日父上は︵聞いた話では︶女神に捧げられた
森で保養をしてらした、その時十本角の鹿に行き会いなさって、それを倒したーでもうっかりと一言、腕前をやや
自惚れてお語りになった。それがアルテミースのお怒りを目覚めさせ、女神はギリシャ人を船出させなかった、父上
に、獣と引き換えに、御自身の娘を生賛に捧げさせるためです。だからこういうわけであの生賛が起こったの、さも
なければ、軍勢は足止めされて、戻ることもトロイアに行くこともできなかった、こういう状況を前にして、四方八
189
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
方から無理強いされて、激しく抵抗なさった挙句、お心に染まぬことながら、父上はお姉様を屠ったんです﹂五四七
ー五八行︶。また、ここでは、アトレウス家の呪いの発端は、テユエステスの不倫と野心にではなく、その父ペロプ
スの、・、ユルティロス殺害に求められている。ペロプスは、オイノマオスの娘ヒッポダメイアに求婚する時、その条件
であるオイノマオスとの戦車競争に勝利するため、オイノマオスの御者ミュルティロスを懐柔する。その後、ペロプ
スは、ヒッポダメイアを犯そうとしたミュルティロスを海に投げ込んで殺害する。その時ミュルティロスがペロプス
の子孫にかけた呪いが、ここでは血讐の連鎖の源になっている。したがって、この縁起諏では、アトレウスの残虐な
復讐も、血讐の起源であることを免除されるのである。最後に、コロスがエーレクトラーを﹁もっとも高貴な法﹂
︵二〇九行︶に従っていると言って称える時、その法とは父への献身である。
唯一の絶対的正義としての、父の法、父の正義、ここではこれがクリュタイメストラーの主張する母ー妻−女性の
権利を完膚なきまでに断罪している。
こうして、三つの悲劇において、クリュタイメストラーの存在が提起する男女のエリスは、最終的には退けられる。
悲劇はクリュタイメストラーに主張はさせるが、結局は耳を貸さない。だが同じ状況は、模範的な父の娘工ーレクト
ラーにも確認されるのである。
五 工iレクトラー1女性の復讐
︵84︶
フォリーは、﹃供養する女たち﹄とソポクレースの﹃エーレクトラー﹄を比較しながら、女性の嘆きと復讐との関
係の興味深い分析を呈示している、それを参照しながら、ここでは、三つの悲劇における復讐へのエーレクトラーの
190
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
関与を検討してみたい。
どの悲劇でも、エーレクトラーは父の死を悼む喪服の泣き女として登場する。この登場の反社会性に、まず留意し
なければならない。確かに、過去の時代には、葬礼に女性の嘆きは付き物だった。多くの泣き女を雇って盛大に死者
を悼む儀礼を実行することが、その家の財力を誇示し、権威を際立たせる手段でもあった。だが死者の私的な哀悼は、
ソロンの改革以降、大幅にその実践を縮減される。とりわけ葬祭儀礼への女性の参加が縮減の対象となる。同時に、
死者に対する私的な哀悼の念を、大げさな愁嘆によって、あるいは華美な葬礼によって、過度に示すこともまた禁じ
られる。私的な死の儀礼は制限され、公式の葬祭儀礼がそれに取って代わる。ケラメイコスには、戦没した市民が、
︵85︶
富める者も貧しい者も、著名な者も無名な者も、等しく部族単位で埋葬されていたことを思い出そう。民主制都市は、
︵86︶
死者を互いにぎヨo§である市民として、匿名の下に葬り、個別のではなく集団的な弔辞によって、国家行事とし
てその死を悼むのである。
バルパリコン
悲劇は、エーレクトラーの服喪を、この都市が禁じている﹁野蛮な﹂行動そのものとして呈示している。﹃供養す
る女たち﹄のエーレクトラーに唱和するコロスの黒衣の行列はその典型である︵﹁私の拳はしきりに打って行列の音
頭を取る。頬に浮かぶは血塗れの切り傷の跡、たった今私の爪が挟ったばかり。[⋮⋮]胸を覆う亜麻布は音を立て
て引き裂かれ、失われている﹂二三−九行、また四二三ー八行も参照のこと︶。エウリピデスのエーレクトラーも、
同じ﹁野蛮な﹂嘆きの中に登場する︵﹁歩け、歩け、悲しみに泣きながら。[⋮⋮]さあ、嘆きの繰り返し文句を目覚
めさせ、畷り泣きにまた喜びを求めるのよ。[⋮⋮]毎日毎日果てしなく、それが私を輿れさせる、そして爪で引き
裂くの、喉の甘い巣を、拳で剃った頭を打って、あなたが死んでしまったから⋮⋮さあさあ、顔を引き裂いて﹂一二
八−五〇行︶。そしてソポクレースのエーレクトラーも︵﹁聖なる光よ、またあなた、大地の夫なる大気の天井よ、幾
191
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
たびとなくあなたたちは聞きました、幾たびとなく私が喪の歌を歌い、力いっぱい血塗れの胸を打つのを[⋮⋮]私
の苦しみは癒されないわ。誰もそれは否定できない。決して私の悲しみには、休息なんてないの。御覧になってる涙
は澗れることがないの﹂七九ー八四行、二二二−四行︶。男がすれば﹁女々しい﹂のだから明確に女性のものである
この過度の嘆きは、だが、三つの悲劇において、復讐との異なる関係を結ぶ。
アイスキュロスでは、この嘆きは復讐の中に確たる位置を占めている。オレステースは確かに、アポローンの神託
を受けて、父の復讐をするために帰国した。彼は目分が全面的にアポローンの庇護の下にあることを、したがって復
讐は成功することを、確信している︵﹁とんでもない、ロクシアスの全能の神託が私を裏切ったりするものか﹂二六
一行︶。だが、実際には、彼の復讐は一貫して女性たちの嘆きと怒りによって情動的に支えられている。そこではエ
ーレクトラーの役割は相対的に小さい︵実際、復讐の手筈が決まると、エーレクトラーは舞台から姿を消してしま
う︶。彼女以上に、彼女と心を一つにしているコロスが、まず、三〇六行から四七八行に至る長大な嘆きの応酬にお
いて、オレステースの言葉に一つ一つ答えながら、彼の怒りに油を注ぎ、復讐へと彼の思いを昂ぶらせる。彼女たち
は、アガメムノーンが女の手で不名誉な死に方をしなければ、地下で受けたであろう栄光を喚起し︵﹁彼がいとしん
だ人々︵あの、かの地の勇敢な死者たち︶からいとしまれた彼は地下でも統治していることでしょうに、敬度な敬意
に包まれて、王座の偉大な将軍として、地下の、冥府の王たちの国で﹂三五五−九行︶、彼の死体が蒙った殿損を伝
え︵四三九i四四行︶、血讐の正義を語る︵﹁父のためにその子等は、正しい報復を求める権利があります﹂三二九−
三〇行、また四七一ー四行、四〇〇1五行︶。さらに彼女たちは、オレステースを行動に促し︵﹁今は御運をお試しに
なる時﹂五一三行︶、クリュタイメストラーの前夜の悪夢を伝えて、陰謀を企むヒントを与える、また、アイギスト
スが護衛なしにただ一人で宮殿に戻るよう工作する。そして、復讐の成功を祈り︵﹁さあ、涼やかな正義で消して下
192
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
さい、昔の悪行の血の負債を。古いものになった殺害がついに広がるのを止めますように﹂八〇三!四行︶、ついに
デイドケ 成った復讐を寿ぎ︵﹁正当なるゼウスの娘御は、戦いに来りて彼の腕に触れた、正義というふさわしい美しいお名前
で、ここに私たちが呼び出したお方は﹂九四九ー五一行︶、母のフユリアエに襲われたオレステースを励まし︵﹁あな
たがそこに見ているのは幻です。あなたの父上は全世界よりもあなたを慈しんでいます⋮⋮気の迷いです・⋮・しっか
りしなさい、何も恐れないで、この偉大な勝利を果たしたのだから﹂一〇五一−二行︶、最後に追われて逃げる彼の
幸運を祈る︵﹁神の摂理が、御好意で、好都合な解決へとあなたをお護りくださいますよう﹂一〇六三−四行︶。この
コロスが、トロイアから連行されてきた女奴隷たちであることは、おそらくどうでもいいことではない。女性であり、
外国人であり、奴隷であるという三重の社会的排除の徴の下にいる彼女たちが、近親でもない過去の死者であるアガ
メムノーンの墓前で、拳で頭を撃ち、顔を掻き雀り、着衣を引き裂くという﹁野蛮な1異国的な﹂仕方で嘆いている、
パルバリコノ
この完全に都市の法の外にある嘆きが、ここでは復讐を煽り立てて、その実行を促し、背後からそれを支えて、成功
に導くのである。女性の嘆きと男性の行動は、ここでは復讐の車の両輪をなしている。この協働は、エーレクトラー
とオレステースの間の相同性によっても︵エーレクトラーは、父の墓前に備えられた一房の髪と地面に残る足跡が目
分のものとそっくりなのを見て、即座にそれが弟のものであることを直感する︶、また弟の姉に対する強い情愛によ
っても︵オレステ⋮スは姉のこの直感を見るや、亡命者に必要な用心も忘れたかのように、直ちに名乗りでて、正体
を明かす︶、確認される。互いにソジーであり、心身ともに一体化している男女の協力が、ここでは復讐を成就させ
るのである。
アイスキュロスではコロスの中にまぎれていたエーレクトラーが、復讐におけるこの女性の機能をただ一人で担っ
て、前面に姿をあらわすのは、エウリピデスに至ってからである。だが、彼女の役割は、﹃供養する女たち﹄のコロ
193
194
スーエーレクトラーよりも遥かに能動的なものである。彼女は単に嘆きによって扇動し、励ますだけではない。彼女
目身が既に機会さえ訪れるなら復讐する意志を固めている︵﹁アルゴスに戻ってきたらオレステースに何を期待しま
すか。﹂1﹁何という御質問。恥ずかしくないのですか、今日すぐにでも動く時ではないでしょうか。﹂1
[−⋮・]1﹁母上を殺すのに弟さんに手を貸すお気持ちがあるでしょうか。﹂1﹁ええ、確かに、父上がその下に
倒れた、その同じ斧で。﹂1﹁そう言うべきですか、弟さんに。弟さんはあなたを当てにしていいんですね。﹂1
﹁もう一人の後に、母上の喉を掻き切ったら、死んでもいいわ﹂二七六ー八三行︶。だから、この姉弟は、再会の喜び
にいつまでも浸るようなことはしない。ただ︸度長々と抱き合うと、ただちに復讐の企てに取りかかる。そして彼女
は、母殺しの陰謀を案出し、アイギストスの殺害に弟を送り出し︵﹁あっちでは、男になるのよ﹂六九八行︶、母殺し
を躊躇う弟の尻を叩き、裏のある言葉で母を罠に誘い込んで、その殺害に立ち会い、実際に自分も手を貸す︵﹁私は
あなたを励まして、私の手はあなたの手と一緒に刃を握った﹂一二二四−五行︶。したがって、三人のエーレクトラ
ーの中でもっとも行動的で、男性の圏域にもっとも深く踏み込んでいるのは、このエーレクトラーである。彼女は単
に嘆きによって男性を奮い立たせるという﹁伝統的な﹂女性の役割︵泣き女︶に甘んじているのではない、母には欠
如している男性的性格を独り占めしたかのように、一貫して復讐のイニシアティヴを掌握し、復讐における男性の役
て、またソポクレースのオレステースでさえ姉の悲嘆には心を動かされたのに、この弟は姉の悲惨な状況を前にして
割分担のこの著しい不均衡は、また、彼等の再会の仕方にも確認される。アイスキュロスのオレステースとは異なっ
トラーに向けられる︵﹁何て恐ろしいことに弟を導いたの、嫌がっていたのに﹂一二〇五行︶。復讐における男女の役
従って、殺害を実行するだけだ。したがって、コロスが子供たちの犯罪を非難する時にも、それは真っ先にエーレク
割︵行動主体︶の大部分を目分のものにしている。逆にオレステースは、唯々諾々と姉と老僕が案出した行動計画に
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
も、またコロスの女性たち︵アルゴスの農民の娘たち︶が二人に対していかなる害意も抱いていないことを知らされ
ても、決して目分からは正体を明かさない、彼が何者であるかが分かるのは、老僕に見顕わされるからである。言い
換えれば、彼は受動的に発見されるのを待っている。同様に、姉も、アガメムノーンの墓前に残された一房の髪と足
跡がエーレクトラーのものとそっくりなことを指摘する老僕を一笑に付す︵﹁分別のある人にもないことを言うもの
だね﹂五二四行︶。アイスキュロスの姉弟は、言わば互いに分身だったが、エウリピデスの姉にとって、弟は、彼女
の延長された手でしかないからである。
ク リ テ イ ク
ソポクレースの悲劇は、アイスキュロスの、だがとりわけエウリピデスのアンチテーゼを構成している。そこでは、
復讐における女性の役割が、語の二重の意味で、もっとも危機的−批判的に提示されているからだ。
それは、まず、泣き女工iレクトラーの嘆きが、それ自体で危機的なものであることが、劇中で明確に指摘され、
批判される、という形で現われている。いつまでも父の死を嘆いて止まないエーレクトラーを、この嘆きの第一の被
害者である彼女の母だけではなく、アルゴスの高貴な血筋の娘たち︵コロス︶もまた非難する。その非難は、都市が
この大げさな愁嘆に投げたであろうものである。
満たされぬ畷り泣きの内で、いつまでも繰言を言って何になるの︵︸二一−二行︶。
あなたがいくら畷り泣いても祈っても、父上を蘇らせはしないわ。[⋮⋮]どんな手立ても諦めて、癒されること
のない喪にかかりきりで、絶えずうめいてみたところで、あなたの苦しみには何の解放もありはしない︵一三五−
四一行︶。
いいえ、この世であなた一人が、我が子よ、悲しみを知ったわけではないわ、あなたはあまりに抗いすぎるわ︵一
195
196
五〇1︸行︶。
目分で余計な悲惨を招いたのだわ、 重い苦労を、絶えず衝突を引き起こすから、それもあなたの苦い心根のせい
︵二〇九i一〇行︶。
だが、エーレクトラーにはこの非難に貸す耳などはない。
私の心に一番近いのは、ゼウスの使者の、喪に酔った鳥の、休みなく嘆くあの嘆きー︽イチュス、イチュス︾と
ー。まったき苦しみの王妃様、石の着物のその下に埋められて、そこから休みなく涙を流しておいでの、ニオベ
様、あなたは私には 神 々 の よ う ︵ ︸ 四 四 ー 九 行 ︶ 。
死んだ父を忘れることを頑なに拒むことによって、エーレクトラ!は単に、過度を戒める︽程々︾の叡智を退けてい
るだけではない。彼女が望んでいるのは、服喪の涙の思考を麻痺させる味わいにどこまでも浸ることである。したが
ってそれは、私的な嘆きに厳しい制限を加えて、死が乱した秩序の回復を意図する︵アルゴスの、だがまた現実の︶
都市の政治に、ノン! を突き付けることだ。ここに彼女の嘆きの断罪されるべき反社会性がある。
彼女の嘆きが危機的なのは、第二に他の悲劇とは異なって、それが、誰にも聞き属けられないという意味で、全く
孤独なものだからである。彼女が嘆きによって奮い立たせなければならない復讐の男性行動主体は、決して現われな
い︵﹁来るとは言っているけれどーでも、これだけ保証をしていながら、何もしてくれないのよ﹂一三〇行︶。実を
言うと、彼は既に来ている、だが、まったく冷徹な軍事的戦略から、敢えて嘆きに耳を塞いでいるのである︵﹁[聞こ
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
える嘆きは]気の毒なエーレクトラーではあるまいか。ここに残ってあの嘆きを聞いた方がよかろうか。﹂1﹁滅
相な。まず何はともあれアポローンの御命令を実行する義務に取りかかりましょう﹂八O⊥二行︶。と言うのも、神
託が復讐の﹁いかに﹂を指示している以上、行動主体は、嘆きによる鼓舞をもはや必要とはしていないからだ。ここ
では当初から、女性の嘆きは復讐から排除されている。エーレクトラーの嘆きは、どこまでいっても宛先を見出さな
い、不毛で無益なものであるべく定められているのである。
第三に、彼女の嘆きは別な意味でも過度であることによって、危機ー批判にさらされている。この見捨てられた状
態で、エーレクトラーは、泣き女から行動主体へと移行しようとするからだ。既に彼女は嘆きを戦いの武器に変えて
いた。妹の日和見主義を支える欺隔︵﹁目由に生きなければならないなら、どんなことでも、御主人である人たちに
従わなければ﹂三三〇1二行︶に、彼女は反論して言う。
あの人たちを悩ませる、 それが死者を称える私のやり方、あの世で父上が喜びを味わわれるならば− ︵三四六f
七行 ︶ 。
だから、弟の死を知ると、嘆きは十全な行動主体になろうとする決意に転換する。
私たちを救ってくれるのはあの子じゃないの、いい、すべては水の泡、もうあの子のことは考えないで。[⋮⋮]
私たちにはもうだれも親しい友はいないわ。﹁⋮⋮﹂私たちだけなのよ。[⋮⋮]あの子がもういない今、あなたの
父上をその手で殺した男を、あなたの姉のこの私と手を組んで、ためらわないで、そいつを殺して︵八五九−九一
197
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
行︶。
ここで彼女が男性に留保されている領域に踏み込んでいることは、妹の目の前に彼女がぶら下げて見せるのが、単に
経済的・社会的利益︵世襲財産と身分の回復、結婚して母になるという女性の定型的生き方の獲得︶だけではなく、
男性的な栄誉であることからも、明らかである。それは、まさしくオレステースが期待しているだろう栄誉である。
私たちのことが話題になると、あなた目身にも私にも、どんな栄光が訪れるか分からないの。私たちの国の人の誰
が、異国の人たちの誰が、こう言って私たちを称えて挨拶せずに、私たちを見るでしょうか。︽この二人の姉妹を
ごらんなさい、皆さん、この子たちは父親の家を救ったんです。大地が敵の足下であんなにも堅固だった時に、こ
の子たちは自分の命を安売りして、父の殺害の復讐をその手で果たしたんです。この子たちを愛さなきゃなりませ
ん、皆はこの子たちを崇めなきゃなりません。祝祭でも市民の集会でも、皆はこの子たちの雄々しいエネルギーを
称えなきゃなりません︾ってね。/誰もが私たちのことを言うわ、この世では、だから生きていても死んでいても、
私たちの栄光は些かも欠けることを知らないわ⋮⋮︵九〇七−一九行︶。
妹は彼女を女性本来の領域に引き戻そうとするが︵﹁自分を御覧なさい、女に生まれたのよ、男じゃないわ、腕の力
は敵には適わないわ﹂九三一−二行︶、孤立無援になっても彼女の決意は変わらない︵﹁それなら私自身の手で、それ
だけで、事を成し遂げねばならないのね﹂九五三行︶。ここに至って、父の娘︵﹁父に忠実な娘﹂一〇〇八行︶による
男性の領域のこの横領を阻むために、悲劇はようやく彼女の前に弟を登場させる。
198
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
だがそれは、この過度を訂正し、彼女の復讐への関与を伝統的な女性の領域に押し戻すためではまったくない。弟
には、姉の嘆きに耳を貸す意志はないからである。
余分な言葉は慎みましょう、母の悪逆も、アイギストスが私たちの世襲財産をどうやって蕩尽し、至る所で使い果
たしているかも、教えてくれるには及びません。あなたはお喋りで好機に扉を閉ざしてしまいますよ︵一二九五−
九行︶。
ここにエーレクトラーの情動的言語が生み出す危機的なものに対する第四の批判がある。女性の情動は、復讐の足を
引っ張るのだ。したがって、弟と再会しても、彼女の言葉は依然として宛先を見出さない。再会の喜びを歌うエーレ
クトラーを、オレステースは一貫して散文で制止しつづける︵﹁でも静かに、自制して。[⋮⋮]黙って、その方がい
い、中にいる誰かに聞かれたら。[⋮⋮]でも用心して。[⋮⋮]その自由を危険にさらさないで。[:⋮.]その欲望
は遠ざけて。[⋮⋮]でもあなたには怖くなる、歓喜に咽んで、十分に自制しないんだから。[⋮⋮]もう黙ってと言
いましたよ。[⋮ムこれ以上尋問を長引かせないで﹂一二四九−三六一行︶。そして、もう我慢できなくなった傅役
が、喋りつづけて止まないエーレクトラーを沈黙させる︵﹁もう十分だ、と思いますがなあ。[⋮⋮]今こそ動くにい
い時なのに、お二人ともここで釘付けになっておいでだ﹂一三七二−六行︶。
実際の復讐におけるエ;レクトラーの関与は僅かなものだ。裏のある言葉で、アイギストスを宮殿内に呼び込むこ
とである。だが、殺害は彼女のいない所で行われるだろう。
全面的に父の法の下に置かれているソポクレースのエーレクトラーは、エウリピデスのエーレクトラー以上に、復
199
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
讐の男性的領域に深く入り込もうとし、けれども実際には、アイスキュロスのエーレクトラーほども、復讐に関与で
きない。ここには決して交わらない二つの復讐の企てがある。専ら嘆きに頼る女性の復讐は、常に表面にあって、男
性の役割をも横領しようとするが、最初から最後まで真の宛先には届かない空回りを続け、現実の復讐からは排除さ
れ続ける。専ら行動に頼る男性の復讐は、一貫して水面下で進行し、女性のいかなる関与も必要とはせずに、実現さ
れる。そこにはいかなる協働も、いかなる役割分担もない。女性の嘆きは不毛で無益なままであり、復讐に何の貢献
ももたらさない。復讐は情動抜きで、冷徹な軍事的計算のみに基づいて、実行されるからだ。
いずれの悲劇も女性の嘆きに挫折を約束している。その理由は明白である。都市の秩序は、個々の紛争や死をのり
超えて、生き延びねばならない。したがって、紛争が私的解決︵血讐︶から公的解決︵司法︶に回収されるように、
︵87︶
死者も最終的には秩序の公的空間に回収されねばならない。だが、女性の過度な嘆きは、この回収を拒んで、死者を
私的な領域に奪い返すのだ。だからこそ、アイスキュロスでは、あらゆる点で違法な女性の嘆きに裏づけられた復讐
は、事態の最終的解決をもたらさない。解決は、都市の新たな秩序によってしか可能ではないのだ。エウリピデスで
も、女性の嘆きと男性の領域への踏み込みは、解決をもたらしていない。秩序は、嘆きが生み出した復讐の支払を求
めている。復讐が事態の真の解決となりうるのはソポクレースの場合だけである、だがもちろんそれは、女性の嘆き
を一切 復 讐 に 関 与 さ せ な か っ た か ら で あ る 。
だが、こうして常に最終的には沈黙を余儀なくさせられるとしても、悲劇で出ずっぱりなのはほとんどいつも女性
である。悲劇は彼女たちの嘆きと怒りの声、情動の響きを終始聞かせつづける。クリュタイメストラーの声、エーレ
クトラーの声、あるいはカッサンドラーの声、トロイアの女奴隷たちの声、ともかく舞台は、この声のために留保さ
200
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
れている。女性的なものが語るために、舞台はあるかのようだ。そこから、血讐の法を通して刑事司法が汲み上げな
かった男女のエリスを語り、死者を公的空間から取り戻そうとするこれらの声、そこに﹁政治的.社会的抵抗の声﹂
を聞きとって、﹁悲劇はその階級世界的な見方にもかかわらず、それを﹃生み出した社会よりもはるかに進んだ形式
︵88︶
で思考している﹄﹂と考える、あるいはまた、そこに﹁女性形の政治﹂の、言い換えれば都市の政治が民主的合意の
︵89︶
下に隠蔽した本質的な葛藤を表面化させる、反政治的なものの、さらには別な政治の、権利回復要求を読み取る企て
が生ずる。その時、悲劇は、男性の都市の声の中に異なる声を、この都市の自己同一性が排除しなければならなかっ
た他者の声を持ち込んでいる。確かに悲劇は、この声に十全な正当性は与えていないし、最終的にはそれを断罪する
のだが︵したがって、排除は正当化されるのだが︶、しかし実際には、断罪するふりをしながら、むしろこの声にこ
そ語らせるために、悲劇は書かれた、ということになろう︵したがって、排除の事実が想起され、排除に基づく自己
同一性は問題視される︶。だが、逆に、この声に舞台を留保することに、悲劇の政治的戦略を読み取ることもできる
︵90︶
だろう。なぜなら、現実には、もしも女性の位置が悲劇にあるとしたら、それは観客席だったはずだからだ。したが
って、悲劇の舞台で女性が語っているとしても、そこで現実に仮面の下で語っているのは男性である。そこには男性
による想像的な女性の声しかない。その時、悲劇は、女性の声に場を用意していると同時に、予めそれを奪っている。
だから、この戦略にもう少し関心を持ちたい。男性の都市が想像的に語る﹁女性︵形︶の政治﹂の裏面を検討してみ
たい。場は、悲劇から喜劇に移る。
201
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六 テスモポーリア祭ー武器を取る女性
アリスト。ハネースの﹃テスモポーリア祭を行う女たち﹄では、祭りの中日写8琶袋断食日]
布令役の女性が、男性の都市の議会の慣用的定式をそっくり真似て、次のように宣言する。
テスモポドリァ
に開かれる集会で、
婦人たちの本議会は、以下の決議を行いました。議長はティモクレア、書記はリューシラ、動議者ソーストラテー、
﹁掟授け﹂のお祭りの中日の朝からつまりわれわれが一番ひまなおりに会議を開き、まず第一にエウリーピデース
につきいかなる刑罰を行うべきかを論議すること。彼はわれわれ一同を侮辱するものと断定しますから。弁論に立
とうてえのは誰です︵三七一一−八行︶。
︵田︶
テスモポーリア祭は、デーメーテールとペルセポネー︵コレー︶を主神として、ピュノアプシオン月□Ol一一
月]に三ないし四日間に亘って行われる、市民の正妻だけが参加できる、男子禁制の祭りである。祭自体は、﹃ホメ
ーロス風デーメーテール讃歌﹄に歌われている、娘を亡くした女神の喪と娘の回復をなぞっている。妻たちは、テス
モポリオンの社に、グループごとにテントを張って参籠し、断食日を中に挟んだ三日間を西洋人参木の枝で編んだマ
ットの上で休む。この植物はギリシャでは、性的欲望を鎮静させ、月経血の流れをよくする効能があると信じられて
いた。したがって、妻が夫から離れて禁欲の日々を過ごすには適したマットであり、そこで休むことは妻の受胎能力
を助長するものと見倣されていた。ここからも、また祭りの開催時期が播種の時期と重なっていることからも明らか
202
なように、祭の主眼は、合法的なo葺8の後継者と作物の豊かな実りとによって、都市の再生産を保証することに
ある。実際、祭の最終日、満願の日は区箋蒔Φ冨冨[美しい誕生]と呼ばれている。だが、この淑徳に満ちた祭には
こいつにゃけしてお前うまうまをもうやれまいよ、わしを放してくれん限りはな、ここ、この御供物の腿のとこで、03
2
これ、この剣で真赤な血管をぶった切られてな、祭壇を血にまみれさそうが︵六九二ー五行︶。
老人は、一人の女の抱えている赤子を奪い取り、祭壇に駆け上がって、脅迫する。
のために、岳父のムネーシロコスを女装させて、集会に送り込む。だが、男性であることが露見して追い詰められた
だが、この恐怖は別の形でも詩人によって強調されている。恐ろしい票決を逃れようとするエウリピデスは、弁護
ハぬロ
の恐ろしさを強調している。
レムノス島の妻たちが、女捕虜を寵愛して目分たちを省みない夫に満場一致で死の票決を下した集会に比定して、そ
男性︵エウリピデス︶は、女性の暴力の前で無防備な状態にあるわけだ。マルセル・ドゥティエンヌは、この集会を、
を・あるいは無効性を訴えて、身の安全を確保する正常な法的メカニズムが、この日ばかりは機能しないのである。
エウリピデスに、女性たちがいかなる処罰を下す決定をしても、それは欠席裁判であり、また、その決定の理不尽さ
で採択されている。したがって、この場面の恐ろしさが分かる。女性の悪行を暴き立てる悲劇ばかりを創作している
が権力を掌握するという事態を、この祭は都市に一時的に成立させるのである。右に引いた決議は、このような状況
集会で、多数決投票による決定に従って、目由に権力を行使できた。つまり、男性の都市が空位状態に置かれ、女性
都市機能が完全に中断され、議会も裁判所も閉鎖されることになっていた。女性たちは、男性の都市の議会を真似た
裏面がある。第一に、男子禁制のこの祭りでは、男性を排除した、女性だけの空間が成立する、第二に、断食日には
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
だが、女たちは彼を焼き殺そうとする。そこで老人は、赤子の搬裸を剥ぎ、突き刺す。真っ赤な血が遜る。いや、ワ
インだ。女たちは、お籠りしながら酒を飲むために、ワインの革袋を赤子に見せかけて持ち込んでいたのである。赤
子の母親は半狂乱になって、供犠の犠牲の血を受ける容器で、飛び散るワインを少しでも回収しようと躍起になる。
こうして、罪もない赤子が生賛にされるという惨事は、いかにもバーレスクなドタバタヘと回避されるわけだが・こ
の滑稽な逆転にはきわめてショッキングなものが揺曳していることが分かるだろう。つまりこれは供犠の。ハロディで
ある。だが、その供犠は人身供犠なのだ。
︵93︶
﹁したがって、テスモポーリア祭で用いられる唯一の供物のタイプは、肉に属さず植物的性質に属すると、長い間認
は、男性の仕事であって、女性はナイフや斧は言うまでもなく、焼き串や鍋に接近することもできなかったのである。
調理が女性の仕事だったとしても、犠牲の喉を割き、皮を剥ぎ、解体し、内臓を鍋で煮、肉を串で妥り焼きにするの
犠を執り行う女性︾という形象は﹁文化的可能事の限界的存在﹂であったことを、ドゥティエンヌは論証して転礁。
性の供犠執行者は、男性−夫の代理として、その権力を一時的に委任されて、それを執行していたに過ぎない。︽供
もとで執行されていたということだ。確かに女性が供犠を執行する例がまったくないわけではないが、その場合の女
︵94︶
おいては、宗教的ー政治的儀礼と不可分だった。つまり、食肉供犠は男性−市民にのみ開かれた厳しい排除の体制の
て、肉食のための供犠は、私的なものでも公的なものでも、男性の専有物であり、とりわけ都市が行う公的な供犠に
ば、犠牲獣︵家畜︶を神々への供犠に捧げた後、供犠参加者が共食するという形でのみ、摂取されていた。したがっ
て確認しなければならないのは、ギリシャにおける独自の食肉体制のあり方である。ギリシャでは、肉は、狩を除け
ドゥティエンヌは、ここに現われる︵人身︶供犠の形象に着目しながら、興味深い指摘をしている。まず前提とし
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
204
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
められて来た。﹂すなわち、生か茄でた大麦や小麦、干し無花果、オイル、ワイン、蜜、胡麻、けしの実、にんにく、
︵96︶
チーズである。だが、デロスの古文書は、この祭の費目として、豚、調味料、薪炭を計上することによって、祭の別
の様相を暴露している。実際、祭が菜食主義的なものであったなら、右の場面は当を得ないもの、したがって喜劇的
効果を持たないものだっただろう。テスモポーリア祭は、女性が供犠を主体的に執行するおそらくギリシャ世界で唯
一の例外だったのである。だが、そのことを確認する時には、同時にもう一つの事柄も確認しておかなければならな
い。同じデロスの古文書は、祭の費用の中に、アルバイトの∋品9δω[調理人−屠殺者]に支払われる、薪炭の値
にも足りない四オボロスの日当を計上してもいる。仕事が終わり次第速やかに、男性禁制の境内から立ち去るよう定
められているこのヨ”αqΦ一δωの任務とは何だったのか。彼の存在は、︽供犠を執行する女性︾というものを考えるこ
とができないギリシャの男性の都市が、女性には供犠のナイフを持たせないという至上命令と、男子禁制の祭で女性
によって供犠が執行されるという儀礼の要請との背理を解決するためにとった苦肉の策を証言している。﹁デーメー
テールの女性たちの中に滑り込む男には、達成するべき仕草は一つしかない。喉を割き、血を逆らせる、ナイフ、
日欝﹃巴田で喉を開くことである。[⋮⋮]血を流すという男性の特権が、男性の追放と動物犠牲を主権的に供犠に
付す女性の社会の設立とを同時に命じているテスモポーリア祭という儀礼の秩序によって、もっとも脅かされるよう
︵97︶
に思われる時、重要なのはまさしくこの男性の特権を維持することに他ならないのである。﹂
したがって、女性によって供犠は執行されるのだが、供犠の中心的場面︵殺害︶から、女性は排除されている。そ
こにドゥティエンヌが見ているのは、女性の権力に投影された忌まわしいイマージュである。決して女性に武器ー権
力を与えてはならないだろう、なぜなら、いかなる妻ー女性もアマゾーヌに、ダナイデスに、変身する潜在的可能性
を秘めているからだ。女性が供犠のナイフを握れば、動物供犠はたちまち人身供犠に転換するのである。殺害を男性
205
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
の特権として留保しようとする欲望は、この無意識的な恐怖の肯定的な、また、︽供犠を執行する女性︾を男性が思
ってもいる。間違っているというのは、通常このような恐怖を生み出すのは、排除の事実そのものだからである。排
考することの不可能性は否定的な、表現に他ならない。だが、この恐怖を妄想だと暇うことは、正しくもあれば間違
除するものは、排除している限りは、排除されるものを恐れる十分な理由がある。だからこそ、排除は正当化される
のだ。排除が強力であればそれだけ、この恐怖も、したがって排除の体制もまた、強力になる。排除は目己再生産す
るのである。だが、正しいというのは、この恐怖が現実には妄想の段階に止めおかれているからである。そのために
こそ、アルバイトのヨ四αqΦ一8ωは必要だったのだ。彼の存在は、女性から供犠のもっとも直接的な実行を、女性の権
力の暴力的な発現のチャンスを予め奪うことによって、妻−女性が現実に喉を割く女になることを防止する。排除が
﹁女性︵形︶の政治﹂に投影した暴力は、この同じ排除によって予め囲い込まれている。だからこそ、アリストパネ
ースは、この妄想を率直に表現して、笑い飛ばすことができたのである。彼の喜劇のバーレスクは、男性が想像する
﹁女性︵形︶の政治﹂の恐怖を余す所なく呈示しているとしても、他方では、この恐怖が取るにたらないもの、滑稽
な妄想でしかないことも、同じくらい明白に示している。﹁女性だけの祭﹂と言われるテスモポーリア祭は、実際に
は、女性の排除の上に成り立っている男性の都市の祭なのである。
喜劇の中で、女性たちは、女性の男性に対する優越を次のように歌っている。
私らは人類にとり万事につけて禍いであり、あらゆる不幸、たとえば喧嘩謝い、厄介な党争、悲嘆や戦さもみな私
らがもとだなんて。だがそんならだよ、もし本当に禍いなら、なんで私らを貰うんだね。それに私らが表へ出たり、
206
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
覗くところを見られるのをさし止めるんだえ、こんなにいろいろ骨折って、禍いてえのを張番しようと心がけるの
さ。そのうえだよ、どこかへ細君が出かけていって、それを外で見つけようもんなら、もう気が狂ったようになる。
ほんとうなら大喜びで神様にお礼いうはず、真実その害悪が家からどこかへ追ん出ていって、うちじゃ出くわせな
いとしたらね。また私らがお祭の日に遊びつかれて他家へ泊まり込んだりすると、誰もかもがこの禍い︵だってい
う︶私たちを、探して歩く、臥床の辺りをぐるぐる廻って。また小窓から首でもちょっと出してると、その害悪を
しきりに見たがるのさ、そいで恥ずかしがって引っ込むと、いっそう皆胸を燃やしてもういちどその害悪が首を出
すのを見ようと構える。こんなわけで私らがお前さんがた︵男たち︶よりずっとましなのは明らかなこと︵七八四
−八OO行︶。
これを女性の讃歌だと、男性の都市が、女性なしには夜も日も明けないことを、ついに認めているのだと、考える
者は、当時も今も、おそらく一人もいないだろう。ここでは単に、女性についての想像的言説を織りなすために、ヘ
シオドスの﹃仕事と日々﹄が引用されているにすぎない。前五世紀の男性の都市を支配するぎヨ99の理想は、そ
れが他者を思考するやり方をも決定しているのだ。したがって、それは確かに、︽他者なき︾社会なのである。だが、
現実には、他者がいるからこそ︽他者なき社会︾は生まれる。︽他者なき社会︾とは、常にそれを成立させるために
排除された他者を含んでいる社会なのである。この社会が、彼等の他者である女性に語らせはしたが、それはついに
想像的なものでしかなかった、という事実を確認することは、おそらくどうでもいいことではあるまい。なぜなら、
他者についての想像的な言説しかない時には、想像的なものを現実と取り違える危険が極めて大きいからである。と
ころで、この︽他者なき社会︾の弁別特徴の一つを、排除の事実に、またこの排除の分割線のこちら側で、向こう側
207
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
の他者についての︵肯定的なものであれ、否定的なものであれ︶想像的言説が組み立てられ、語られているという事
実に見出すならば、したがって、他者目身の言説ではなく、他者についての想像的言説があるところには、常に排除
があり、︽他者なき社会︾があるのだと考えるならば、したがって、同時に他方では、もはや他者を女性のみに縮減
して考えないことにするならば、この前五世紀の社会の全体がではないにしても、その様々な様相は、二五世紀後の
社会にも存続している。しかも、今や他者を指し示す指標は、他者となる属性の多様性においても、また他者性の程
度においても、はるかに複雑なシステムに捉えられているので、同一の個人がある指標に照らせば他者であるが、別
な指標に照らせばそうではないという事態が存在する。その結果、︽他者なき社会︾は、果てしなくミクロ化すると
同時に、どこまでもマクロ化してもいる。今日の社会は、複雑に多元決定された︽他者なき社会︾であり、そこでは
あらゆる個人が、何らかの形で他者と言うステイタスを割り当てられている。したがって、前五世紀の男性の都市が
抱えていた問題は、依然として解決されてはいないのである。
︵1︶ 国ωO国く[φ卜霧肉貸ミ§&8﹂■①㎝ooふ①一一ぎト跨↓醤讐q竃のO講8噂肉のO鴫団卜中のO㌔Oq卜肉南舅ミb鼻↓げ融嘗oOoヨ℃一9
0く8⊆⇒30支α①砕甜ヨΦ暮ω、需匿8二〇コ昌oロ<o=ρ口〇二8ω①け昌o$o。ユΦ≦08﹃出Φ旨凶U国国OO¢卯説胃曾曽<Φo仁器一三3α8−
ぎコ鴨器琶Φg⋮αoωの凶①﹃ω⊆二・叶岳隠岳Φ8﹃評三〇国ζOZ日簿>琶。r国ω国>¢一︽匿℃090985y冨ロくおα①
用文の後に行数を付する。なお、同じ主張は、エウリピデス、﹃オレステース﹄、五五二1五五四行にも見出せるー﹁私の胤
℃8冨葛q三〇拐号評=○量一8P以下、いS9と省略し、本論でのギリシャ悲劇からの引用はすべてこの版から行い、引
父なくしては決して子は生まれぬもの。ですからこう考えたのです、命が育つよう護ることしかしなかった人よりも、私の命
を頂戴しているのは父上から、あなたの娘がしたのは私を生むことだけi他人が気遣ってその胤を委ねた言わば畝です。が、
を最初に作ってくれた人に味方しようと﹂、尋ミも﹂98
208
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
︵2︶ クロード・レヴィuストロース、︽神話の構造︾、﹃構造人類学﹄、田島節夫訳、みすず書房、一九七二年、二三九頁。
︵3︶一8毛奪8く男z婁θ窟婁幣田塁ゆωω⊆二.Φる誘旨三Φ一亜窪ωa巴.Φω8893馨髪弩豊9①巴①8§塾
冒卜90註R自ミ帖§ミ斡卜蒔愚§鳴鴨ミ恥討ミ9℃ωo巳一、一8一も■鶉,
︵4︶ だが、ペリクレスの息子はこの法律の例外である。ペリクレスは、嫡子がみな悪疫で死んだために、家の断絶を避けて、
アスパシヤから得た男児に、自分の名を与えて、息子として氏族に登録することを要求し、それは例外的に受け入れられたの
だが、アスパシヤは正妻でもなくアテナイ女性でもなかったので、子供は二重にコゆ昌8︵庶子︶であった︵プルタルコス、
︵5︶Z一8一①ピO閃︾⊂図ト鵠寒誉ミの風5導§鼻ω①巨曽︽℃o馨ωy一。。。もP一ト。。−。。ρ
﹃英雄伝上﹄、ちくま文庫、一九九六年、三一三頁参照︶。
︵6︶ &§も■誌O’
︵7︶§昏も■誌o。■
︵8︶一Φき由窪Φ<男z>z↓、含①ζ壁畠。︾hきωミ罵鳶Q衷8亀譲§専ざ§&§“臣三9霞oひ8仁︿①幕﹂。翼p。“
なお、ギリシャ語の引用は、一切のアクセント記号を無視してアルファベットに転記し、♪部9eだけを、ρρρひによっ
︵9︶峯8一①ピOカ>¢図一魯良’も,“N●
て区別した。
︵10︶ さ鼠こ署﹂ωO−一■
︵11︶ レヴィ“ス ト ロ ー ス 、 前 掲 書 。
︵12︶ ヘレン・P・フォリーが挙げている次のような例は、逆説的に、彼等の他者性を証言している。﹁古代の見物客は、ジェ
見したように思える。アリスト。ハネースの﹃蛙﹄では、詩人アイスキュロスが、エウリピデスは女性や奴隷に家の主人と同じ
ンダーに対するアテナイのはるかに保守的な社会的習俗の悲劇による素乱が、観客に与えたかもしれない混乱させる効果を瞥
鱒o。の︶はエウリピデスのパイドラーと︵﹃トロイアの女たち﹄の︶ヘレネーが行う高度に修辞的な議論を批判している。また
ように語ることを許して、悲劇を民主的にしたと文句を言っている︵九四九−五二︶。プルタルコス︵b鳴>ミ帖§匙騎b8誉
209
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
210
キリスト教徒の作者オリゲネスは、エウリピデスが、野蛮人の女性や奴隷の少女に哲学的な意見を言わせたので嘲笑されたと
報告している︵9ミミO乳簑ミSω9鐙−8、また皿・1で議論するアリストテレース、﹁詩学﹄、9一&mG。一ーωωを見よ︶。プ
ラトンは、女性や奴隷のような社会的下位者や女性的情動を演劇が演ずることの危険を零している︵﹃国家﹄、一。義8。δ1Φ
︵瀞再Φ,閏○び曽㌔§ミミgω慧O§澄↓醤題魯㌔98け8d三<Φ邑蔓℃﹃①ωω、z睾蒼ω。ドqω甲>;卜。。。一も﹂ω︶。
て、﹁心に適う賢明な妻を見出した男﹂の生涯で、なぜ﹁悪が善と釣り合う﹂のかがよく分からない。オックスフォード版の
悲嘆に永久に心と魂を蝕まれて暮すことになる﹂、ここでは、﹁有害な子孫﹂を持った男の人生が不幸であるのはともかくとし
した男、彼にもまた、生涯が続く限り、悪が善と釣り合いを取るのが見られよう。そして有害な子孫を持つことになるものは、
るかの文意になっているところが難解である。他方、仏訳では、﹁結婚するのが定めで、しかも心にかなった賢明な妻を見出
となっていて、﹁意にかなった、立派な妻を嬰る者﹂と、﹁始末におえぬ︵雄蜂のような︶妻女を持つもの﹂が、同一人物であ
うな︶妻女を持つことになった者は、その胸うちに、止めどもない悲しみを抱いたまま、日を暮らすのだ、心と胸のうちに﹂
妻を婁る者には、当人の盛りの時期以降、禍悪は、善きことと争うことになっている。というのも、始末におえぬ︵雄蜂のよ
拠して作成した訳文を提示した。異同があるのは主として、六〇八−六︸二行、ここは、和訳では、﹁意にかなった、立派な
。。δ3ト騎↓蓉言§恥ミ8むミ9魯9昏もP8−2︶に基づきながら、問題のある箇所についてのみ、ヴェルナンの解釈に依
︵14︶ この引用に限り、どの訳文にも解釈に異同があり、どれも問題を含んでいるように思われるので、原則として仏訳︵=⑩
ε詳。。■a仁\oαq一−σぎ\耳雲亀一〇〇評仁℃”寓Φω。+↓7
<o乱〇三お邑蔓ギ8の響[○区oP≦≡訂ヨ=色器ヨ国目犀9お=︵ギリシャ語テクスト並びに英訳︶耳8ミミ≦著もR8仁幹
誉ミミ蕾§織歳oミ豊8三芸碧国轟一一ωげ⇒塁の巨δ昌ξ=⊆讐¢国く国ピK2−≦霞↓銅醤8鷺ミ、9ヨσユ島ρ言■>,田雫
轟oミ蚕ミ誼§“bミ勲ゆ霧≦#きの一豊g牙ζ■﹃毛国oo↓響○×∂aq巳<Φ邑蔓ギの。。ω’O尊o耳一。。。。。一幕ω一〇“↓書曇o§。−
言§簸醇むミい℃み08Φ3霞↓隷品oミ鳴、↓﹃呂三呂=ひqお09℃みω雪応8﹃Ω餌鼠Φ↓国力刀国>d×・>濠餌﹂。。。。一=oω一〇負↓漕等
行、七〇1七九頁。引用は、特に断らない限り、行数を付して同書から行うが、以下のテクストも参照した。コΦω一aρ卜湧↓ミー
︵13︶ ヘシオドス、﹃神統記﹄、五三五行、廣川洋一訳、岩波文庫、七〇頁。問題のエピソードの全体は、同書、五三五−六一六
①)
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
英訳も同様で、﹁結婚を共にし、申し分のない賢明な妻を得る男は、悪が常に善と争う生涯を送る、他方凄まじい妻を得る男
は心と精神にやむことのない苦しみを抱えて生き、それは癒しようのない不幸である﹂とあって、後半はいかにもそうであろ
うけれど、前半については﹁なぜ悪が常に善と争う﹂のかがよく分からない。他方ケンブリッジ版では、﹁結婚の定めを選び、
心に適うよい妻を得る男にとっても、悪がいつまでも善と戦う、というのも誰であれ有害な子供たちを持つことになると、常
に身内に魂と心にやまぬ悲嘆を抱えて暮らすからだ﹂、だが、結婚した者が必ず﹁有害な子供たち﹂を持つとは、考えにくい
ように思われる。問題は、﹁心に適うよい妻﹂を持った男の生涯がなぜ幸福ではないかを説明している原文六一〇行の、緯寧
藏δδ鴨諾夢一評の解釈である。各訳はこれを妻其始末に追えぬ︵雄蜂のような︶妻女︾、雷矩旨一巴&︾、あるいは子孫一
含琴留ω8区き8ヨ葺巴の巴葺Φ︾、︽巨8三①<o島9まお葛、と読んでいるのだが、いずれの解釈も納得のいく説明を提起
︵oサ黛昏もヒ㎝﹄﹂8︶が、やはり和訳もしくはオックスフォード版が持っているのと同じ問題に逢着するように思われる。
できていない。ロローは、鴨器芸冨を︽子孫︾ではなく、︽種︾、つまり﹁女性のある︽タイプ︾﹂と読むことを提起している
賢明な妻にあたることもあることを認めている。[⋮⋮]だがやはり真実であるのは、たとえ最良の妻であっても、その心が
ここで依拠しているヴェルナンは、この箇所を次のように解釈しているー﹁結局ヘシオドスは、人の心を喜ばせる、善良で
全体を通じて、女性の内に、女性によって、悪は善とその相補物として対決することになる﹂︵言き七一韓おく国刃Z>Z↓k>
あなたの心に一致するとしても、彼女はゼウスによって、女性として作られたのだということである。したがって、この人生
ヨロa﹂Oおも℃、一。O−一︶。
冨↓ぎ一〇qΦω﹃oヨヨoωζ旨﹃①号8&㊤菖g2。。8ユぎΦ9①N瞑ひ巴oOΦyヨト90ミ巳ミ魯の§、慧8§評務讐鳴♪O巴=−
︵15︶ ヘシオドス、﹃仕事と日々﹄、松平千秋訳、岩波文庫、一七頁。問題のエピソードの全体は、同書四三ー一〇五行、一六−
二四頁。以下、引用は同書から行い、本文中の引用箇所に続けて行数を付記するが、工露δαP卜8↓ミミ§恥ミ禽誉ミ勲魯
黛貴=①ωδρ↓言品oミミミ誼§“b遷の、§o鋒も参照した。
︵16︶ On一雷亭霊震おく国力Z>Z↓k>冨欝巨oα霧ぎヨヨ窃︾、号9トもPo。ゴ一認λζ旨﹃Φの。。8ユ諭芭のyぎト魯要⑬8黛ミ壁
§鳴卜b塁ミ▽S恥降蜀讐§8詳ω。旨﹂。。。も,一。。O−“9︽審ヨ旨冨冥oヨ曾幕のコ。冨Nま。。一〇α①︾五きωさ導鳴織の。&慰§
211
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
ヘシオドスで問題になっているのは、︽人類︾を構成する男性と女性ではなく、常に︽人間︾と︽女性︾であることを、
9Z一〇〇一Φ[○カ>¢×曽曾翼,︸︽Z㊤圃箒睾9ヨ○旨Φ一ω︾鼠拐≧甑魯ミ凝ミさミQ曾ミ鴛§織>導薯塁ωΦ三一﹂。。。もp
き&‘℃﹂一㎝’
﹄9ド℃﹂一餅
き&‘P一〇9
︽>σσσ一Φ α o ω ﹃ ○ ヨ ヨ Φ の y o サ 竃 ト も P O 甲 ω ■
O篭8黛§暗§謹、8 ■ ら N ト も ﹂ ミ ゐ “ ■
︵17︶
︵19︶
︵18︶
︵21︶
︵20︶
︵22︶
OI卜oO。
てい るミ
カ︽男性の諸部族︾という言及を探しても無駄だろう。9巨.墜葺3は些かもない、の窪8き位δコも同様だ、oQ雪8
・ローは指摘しているー﹁ヘシオドスは︽人間の諸部族︾︵喜巳.欝けξ92︶と女性の諸部族︵℃言5讐目軒9︶は知っ
︵24︶
︵23︶
き&‘ワOO。
尋&;℃■oo9
尋畳■噛OO■刈o。6臼
oq二目幹ひコと並ぶのは、ひq雪oωき9δ8コである﹂︵三8ざrO勾>C︶︵ト8肉§誉ミ軌“5誉§鼻o⇒黛腎もPO㌣o。︶。
︵25︶
同書、一六〇頁。
アポロドーロス、﹃ギリシア神話﹄、高津春繁訳、岩波文庫、︸六三頁。
ビブリオテイドケし
︵27︶
Z一〇〇一〇rO刃>C図ト塁肉醤誉ミ⇔亀Sミ讐騨8己界P㎝S
︵26︶
︵28︶
尋&■響℃■一ω“■
エウリピデスの﹁エーレクトラー﹄で、ヒロインは、クリュタイメストラーとアイギストスの間の子供が、クリュタイメ
﹃イリアス︵上︶﹄、五四七−五四九行、松平千秋訳、岩波文庫、第二章、六八頁。
︵29︶
︵30︶
︵31︶
スト ラ ! の 子 供 と 呼 ば れ て い た と 言 っア
てイ
、ギストスを非難している︵国⊂幻モ5φ肉貯黛蚕一■8ω−9いSgP一=O︶。
212
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
︵32︶ 蜜8一Φピ○ヵ>C〆卜鵠肉醤誉ミ防叙S導§Ro賢9牌。もP①一−卜。。
︵34︶ き§も﹂ωo。’
︵33︶ 奪§もワ露−㎝■
︵35︶ ﹃四つのギリシャ神話 ﹁ホメーロス風讃歌﹄より﹄、==四−五行、逸身喜一郎・片山英夫訳、岩波文庫、一九八五年、
八十頁。ヘーラーの単性生殖のエピソードは、三〇七−三五五行、七九ー八四頁。本論文中の﹃ホメーロス風讃歌﹄に関する
鵬⊆ρ↓﹃呂8鉱opαΦカΦ募Φ一>Oの三Z↓①4Φ曽oo邑ω窪−o凶葺8﹃旨<,<国勾Z国国ω、国島試oコO喜蔓ρ一〇〇ゴ↓ミ嶺oミ恥−
引用はすべて同書から行い、引用の後に行数を付するが、以下のテクストも参照した。さミ謹のぎミ鳳註q§勲区三9σ三亭
︵36︶ Z凶oo一Φピ○即>¢図ト題肉醤誉ミω儀5ミ駄ミもサ9登で﹂ooO,
篭らミミ講畦雪ωσ8α三け﹃一三δ08二〇コきαロoけ①ωσ鴫ζ一9器一〇刃dUU国ZO蔦o巳q巳<o邑q零①。。の砧OO一.
︵37︶ へーラーは女神である以上、人間の女性と同じやり方でへーパイストス︵あるいはテユーポーン︶を生んだものと思われ
に三分割され、この三つの部分の位置的関係は、価値的関係に対応していた。したがって、生まれた場所からしても、アテー
るが、アテーナーはゼウスの頭から誕生している。ところで周知のように、ギリシャでは、人間の身体は、頭部、胸部、腹部
Z一〇〇一①ピ○閃>¢図ト8肉§誉ミのR証導§90や9、,も℃﹂“㎝ー①■
前す
掲る
書が
’介
︵38︶
ナーとへーパイストスの優劣は歴然としている。
奪註ー
一①塁−霊Φ目①<国幻Z>Z”︽頃oの二鋤山忠ヨ需︾己ゆ房さWぎ§89鳳融§O惹s9§帖§謹もや9斜Po。刈。
尋&,
さ遭。
ロで
ス紹
︵39︶
︵41︶
ドま
1ん
︵40︶
︵42︶
213
﹃四つのギリシャ神話﹃ホメーロス風讃歌﹄より﹄、前掲書、デーモポーンの物語は、二三一−八三行、 二八−三二頁。物
、引用箇所のみ、行数を引用の後に記す。
ポい
ロつ
アポロドーロス、前掲書、第三巻、図目、六、一五九頁。
は
アか
︵43︶
44曇五
)口口
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
︵45︶ メレアグロスの物語は、これらの物語の陰画を構成しているように思われる。この物語では、薪である子供は燃え尽きた
︵46︶ 同書、第三巻、一<、三、一二五頁。
とき死んでしまうので、燃やされない限り不死性を維持するからである。同書、第一巻、≦=、二−三、四五−七頁参照。
︵47︶ 同書、第二巻、≦一、七、一一一頁。
︵48︶ ω○℃国OO[国、史8§﹂﹂一q−鐸いS9また、以下のテクストも参照した。ソポクレース、﹃エーレクトラi﹄、松平千
↓>く[O勾傷雪ωの魯ぎ9塁N詠甘8ミoミ§o、↓ミoミの艶鳴象ミ、ミ﹄8ミ塁国息8αげ曳U餌く一〇劉ω[>≦↓↓雪α評一ヨR
秋訳、﹃ギリシャ悲劇全集Hソポクレース篇﹄、人文書院、昭和三五年一ωO℃瞑OOじ国ω・史o黛ミ﹂轟島一鷺aξ瞑雪蔓
切O≦φ¢巳<Rω一蔓○賄勺雪pω二くきす写①。。ω㌔三一呂①一℃三鋤﹂80。あ○℃頃OOピ閏ψ↓ぎ韓09ミ黒の愚︸o良oω・両eけ巴三荘ヨ冥o−
旦09δ⇒帥コ旦ロ08のσ蜜ωヰ”ざ﹃ma一国ω切O的ヨ耳こαQρO餌ヨ耳こ㎎od巳くR巴蔓℃お器﹂o。O全︵ギリシャ語テクスト︶耳6丈\
︵49︶ <国勾2>2↓曽︽=Φω菖m出段ヨ①。。︾oや9昏℃マOO−一’
≦毛ミb臼器5,εヰpa⊆\畠一立ミ営突篭δo爵仁℃“ωo℃7+国r
︵50︶ 田O頃楓[員﹄窓ミ鳴§昌§ト,S9なお、︽オレステイア︾三部作については、以下のテクストも参照した。アイスキュ
ロス、﹁アガメムノーン﹄、﹃供養する女たち﹄、﹃慈みの女神たち﹄、呉茂一訳、﹃ギリシャ悲劇全集ーアイスキュロス篇﹄、人文
蕊O§卜跨O詳O魯諒O誌のトQ。っ肉讐ミ駄戴魯oっ、↓O蓉①09σ=9賃餌旦三一℃m﹃℃ロ巳ζ>NOZ一ωOO一簿ひロ、国色江Oコ︽rΦのω①=のω[卑q①ωy
書院、昭和三五年いアイスキュロス、﹁アガメムノーン﹄、久保正彰訳、岩波文庫、一九九八年忌のO蔑冥卜馬きミ鳴蛍>題ミ鳴§−
一〇ω㎝︵以下、この叢書からの引用は、劉甲rの略号で記すy﹄8らξミ吻、9湧慰鼻↓田島一響ΦOσ鴫困9ヨo&[>↓目−
︵51︶ 国⊂困国U炉曽8騨鼻いS9また、以下のテクストも参照した。エウリピデス、﹃エレクトラ﹄、田中美知太郎訳、﹃ギリ
ζ○カφ↓幕⊆三くRω一畠o噛〇三8閃o写Φωの︸〇三8のρ一80。臼
ら鷺魯↓Φ曇Φ曾呂=象畦器⊆一け葛﹃まoコ勺︾カζ国Z↓一国国〇一=雪ユO即国OO笏やoooo一簿ひα.国島二〇P︽[①。。ωΦ=Φω写簿お。。y
シャ悲劇全集Wエウリピデス篇﹄、人文書院、昭和三五年い肉ミ∼鴫6画き§鳴、ヌト8寄ε§醤8骨ミ晦讐融§S§註謄史等
一〇卜。㎝料国⊂勾一囚U国ρ曽8壁鼻↓﹃きの一緯Φαロ呂三葺帥昌ぎ賃oロ85一〇コσ賓国ヨ一蔓↓○名Zω国ZO<図刀ζ国⊂[国ワ鼠霧肉貸試冨−
214
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
譜の∫三浮印O訂08一〇四8一20竃冨盈9ヨ9αピ>↓目ζ○力戸↓冨二三くΦ邑蔓o胤〇三〇甜o勺おω。。︸O臣畠o﹂30■
︵52︶ この言葉から明らかなように、ソポクレースのクリュタイメストラーは、子供は母だけの子であると考えているわけでは
まったくなく、十全に父性を認めている。彼女がアガメムノーンの行為を糾弾するのは、それが父としてあるまじきものだっ
たからである。同様に﹃アガメムノーン﹄でも、クリュタイメストラーは、イーピケネイアはアガメムノーンの娘であり
︵﹁自分の娘を[⋮⋮]生賛にした﹂一四一七行︶、アガメムノーンはイーピゲネイアの父親である︵﹁娘のイーピゲネイアが、
この人にふさわしく、父親の前に暖かく迎えに出て﹂一五五六−八行︶と語っている。エウリピデスのクリュタイメストラー
ていった、[⋮⋮︺私のイーピゲネイア[⋮⋮]私の娘を非業に死なせた[⋮⋮]私の子供たちを殺す権利があの人にあった
だけが、父性にほとんど言及していない、そこでは子供は常に母の子である︵﹁あの人は、私の娘を[⋮⋮]アウリスに連れ
︵53︶ ソポクレースでは、クリュタイメストラーは単に哀願するのみで︵﹁ああオレステス、オレステス、お母様を可哀想と思
だろうか﹂一〇二〇1四五行︶。
は、後に考察する。
っておくれ﹂一四一〇行︶、母殺しの不当性を声高には主張せず、自分を殺した息子を呪うこともしない。この差異について
︵54︶ 引用箇所の後半の科白は、和訳ではエーレクトラーのものとされているが、ギリシャ語テクストではオレステースのもの
とされており、英・仏訳もそれに従っている。
︵55︶ 通常、神々にはワインの灌萸が捧げられるが、エリーニュエスに捧げられるのは、犠牲者の血の灌璽である。だから、デ
ルポイのアポローンの神殿で、眠りこけてオレステースを取り逃がしたエリーニュエスの群を、クリュタイメストラーの亡霊
ッ気のない灌葵をさ ﹂ ︵ 一 〇 八 行 ︶ 。
は、こう言って非難するー﹁あんた方は、私のお供物をずいぶんお飲みだったじゃないか、ワインが一滴も混じらない、酒
︵56︶ 既に同じ反論をエリーニュエスはアポ・ーンに対してもしている︵﹁妻が夫を亡き者にした時には・⋮−。﹂1﹁いいや、
妻が流した血は自分の血じゃあないものね﹂二一一−二行︶。
︵57︶ ギリシャ語テクストを始めとしていずれの版も、投票結果が同数だったことを明言している︵、.冨曾窓﹃雷一=貰一葺−
215
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
ヨ0ヨ四8コ葛δづ[石の数が同じなので].、・r甲rワ♂F.、一、甜聾芯α窃くo莫..︾いS9マωOご..ざ8ヨσ話号ωくo厨3ω
αo長℃震房8一聲巴..︶r中rP5曾..↓ぎ9=o富畦①ヨ8仁巴==ヨσR8﹃臼9巴鳥o..・﹄湧oξミωトoサ良“も﹂O㌣﹁勘
定の結果が白黒同数と出た﹂、﹃慈みの女神たち﹄、二八四頁︶。だが、アテーナーの票も含めた結果が同数だったのか、陪審員
の見解に従った。
の票決が同数だったのかは、見解の分かれる所のようである。人文書院版は後者の見解を採っているが、ここではいS9
︵58︶ ソポクレースの悲劇にはカッサンドラーの存在が言及されていないので、王妃は妻の権利による夫殺しの正当化を行うこ
とができない。
︵59︶ ﹁姦通に関する法律は呂ヨσ︵市民権喪失︶の処罰の下で妻を離婚することを夫に求めているし、現場を押さえられた姦
通者を殺害することは許されていた。[⋮⋮]アッティカの妻は、死刑になるかもしれなかった多くの古代社会におけるほど
常にではないが、時には、結婚できないまま家に止まった。演説家アイスキネスによれば、だが、お祭りのためにお洒落がで
は、姦通の罰を受けなかった。代わりに彼女は公式の宗教活動への参加を妨げられ︵男性の呂ヨ富や選挙権剥奪の等価物︶
︵60︶ フォリーは、﹁[妻妾同居の]実践が社会的に好ましいものと見倣されていたようには思われない﹂と述べて、リュシアス
きないことは、このような女性にとっては、﹃人生を生きるに価値ない﹄ものにした。﹂エΦ一雪oマ閃○[国ド魯9登署■8高ピ
。ハレテは夫が高等娼婦を家に連れて来た時離婚を考えたことを、その例証として挙げている︵尋畿‘や8︶。とはいえ、プル
がコリント人のヘタイラをアテナイに連れて来た時、妻を敬して家には入れなかったこと、また逆にアルキビアデスの妻ヒッ
ッ。ハレテは生涯夫の家にとどまったが、それは﹁無法で人でなしのやり口とは思われなかった﹂とも語っている︵プルタルコ
タルコスは、アルキビアデスが、離婚申し立てのために自らアルコンのもとに出頭した妻を力づくで家に連れ帰ったので、ヒ
ス、前掲書、三三頁参照︶Q
︵61︶ 和訳と英訳、r甲rでは、引用したクリュタイメストラーの科白の間に、エーレクトラーのひどい身装に関するコメン
トが挿入されている。卜S9はそれを一一三二行から始まるクリュタイメストラーの科白の冒頭に位置させている。ここで
は後者に従った。
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ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
︵62︶ ﹁お妃のクリュタイメストラーの悪だくみにかかり、テユエステスの子、アイギストスの手で命を落された﹂︵九ー一〇
行︶。また、一五七−六六行も参照。
︵63︶ ﹁母上と閨の愛人アイギストスが、樫の木を切り倒す樵のように斧で撃ち据え、父上の頭蓋をうち割り、朱に染めた﹂︵九
も参照。
七−九行︶、また二〇三−六、二〇五−六、五六〇1一、五二五、五八七、九六五、一一八九−八二、一四〇八、︸四八六行
︵64︶ ﹁オデュッセイアー﹄第一歌二九i四七、二九八i三〇〇行、第三歌一九三−八、二三二ー五、二四八−五二、二五四−
七五行、第四歌五一二ー四七行、第一一歌三八七−四三四行、第二四歌一九一−二〇工行を参照のこと。
︵66︶ 同書、一七一−三頁。
︵65︶ 岩波文庫版﹃アガメムノーン﹄、前掲書、一七〇頁。
︵67︶ の8ぎ98トoサミ,も﹂o。O,
︵68︶ このような差異化の例は、先に挙げた王妃の言動やアガメムノーンの殺害の状況の他にも多々指摘することができる。順
不同に挙げれば、ソポクレースにはもはやカッサンドラーは登場しない、どの戯曲でもオレステースはエーレクトラーに気付
かれる前に早くも姉を認知するが、直ぐには自分の正体を顕さない、この距離の取り方が三つの戯曲では、明らかに異なって
いて、しかも上演年代が下がるにつれて、距離は大きくなる、ソポクレースでは姉弟の再会はほとんど戯曲の終わり近くにな
ってから起こり、再会は即座に復讐の実行に繋がる、オレステースがポーキスのストロピオスに預けられて養育されるに至っ
た経緯も、またエーレクトラーによるオレステースの認知の仕方も、三つの戯曲によってすべて異なる、クリュタイメストラ
ーの悪夢の扱い︵アイスキュロスとソポクレースでは悪夢の内容が異なり、エウリピデスでは王妃は悪夢を見ない、アイスキ
ヌロスでは夢解きがなされるが、ソポクレースではなされない︶、どの戯曲でもオレステースはアポローンの神託に従って帰
して、エウリピデスでは、実際に陰謀を案出するのはオレステースではない、他方ソポクレースではロクシアス自身の命令に
国し、陰謀によって復讐を遂げるのだが、アイスキュロスではオレステースが姉と再会した後に即興で陰謀を考え出すのに対
したがって、オレステースは既に陰謀を胸に秘めて帰国している、陰謀の内容も、エウリピデスでは他の二者と異なっている、
217
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
仇討の順序も、ソポクレースでは他の二人とは反対である、また復讐に女性が加担する割合と役割が三つの戯曲ではすべて異
︵69︶ アイギストスのこの形象は、他の二つの悲劇にも、継承されている。エウリピデスでは、彼が﹁クリュタイメストラーの
なっている。
亭主﹂だったのであって、決してクリュタイメストラーがアイギストスの妻だったのではない。彼等の子供も既に述べたよう
に、父の名では呼ばれていなかった。エーレクトラーによれば、彼は美貌で床上手な界にすぎない︵九三〇1九五二行参照︶。
︵70︶ ヴェルナンは次のように註釈している、﹁彼女[クリュタイメストラi]にとって、男は夫婦においては性的交渉のパー
ソポクレースでも同様である︵﹁あの気弱なだけの、悪行しかしない、戦う時にも女に助けてもらうあいつ﹂二九四ー五行︶。
トナーの役割に縮減されている。男はもはや妻を家の祭壇に導く夫でも、子供を与える生殖者でもない。妻の傍らで、彼は通
︵71︶ ﹃供養する女たち﹄は、王妃の男性的性格の別の面を呈示している。アイギストスがオレステースに殺害されたことを知
常は男の傍らの妾のものである役割を果たしている、つまり、ベッドの友だ﹂︵窟①ω鼠出Rヨ雰y99登P①ω︶。
か、早く、早く、あの男を殺してやる。やるかやられるか見ようじゃないの、だってそこまで追い詰められたんだから﹂︵八
った王妃は、叫んで言うー﹁私たちは騙されて死ぬんだわ、私たちか殺したように⋮⋮ああ、斧を持ってきておくれでない
八七−九 行︶。つまり男性に留保されているもう一つの社会的機能−武力的戦闘iの墓奪である。アイスキュロスの王
︵72︶ ギリシャの食肉供犠では、犠牲獣は﹁未来の消費者によって平和にエスコートされて緩やかな行列で﹂祭壇に進む︵甘雪−
妃のこの側面は、他の二つの悲劇では、復讐の男性的領域にまで踏み込む娘に受け継がれている。
穀粒の雨が振りかけられるが、それは犠牲獣の同意を得るためである。犠牲獣は頭を左右に動かして、生賛にされることを受
8∈ωud勾>ZPe=葺琴一8ヨヨ。一霧け歪ヨ。三巴yヨ審Oミ籔毫§の8忌暴魯9昏も■一8︶。そして﹁犠牲獣には水と
け入れる﹂︵即き8一ω国>刀↓○ρ︽写σ8ξ合巨9三器信﹃︾Φ二ののげ9霧o房α.>&ω︾kミ界つb。零︶。﹁﹁アガメムノーン﹂で
は生賛にされる人間の捕獲は狩の隠喩で記述されるのに対して、処刑それ自体は大抵は飼育動物の隠喩で喚起される﹂ことを
↓ミ鷺ミ鳴§O愚8黛§帖§謹︸田葺9匿漂8ロく。﹃旦お。。。も﹂畠︶。供犠を含意した二重の言葉は、後にもう一度、今度は
ヴィダルーナケは指摘している︵霊震お≦O>ワZ>の¢国β︽O富鵠Φ9緯oユ⇒8匿コ巴.︽98ぎ︾α.国の9二ΦyヨさSo&
218
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
もう生蟄の座についている。お前もそれに加わるつもりなら、ぐずぐずしている暇はないよ﹂一〇五五−八行︶。
カッサンドラーに対しても語られる︵﹁私にはこの扉口でぐずぐずしている暇はないんだよ。家の真中の、炉の前では、羊が
︵73︶08飼。の∪¢ζ国NF︽ごo凶。。ヨ巴げΦξωαΦ一〇聖。α.>窓ヨΦヨ8昌︾h壁の富ぎミ§魯。う凄ミ塁§る里冒震鼻一8♪P
︵74︶ ﹁あの方の手足を切ってーこれもまたお知りにならねばいけませんi[⋮⋮]よろしいですか、お父上は受けたので
卜o①O、
す、このおぞましい仕打ちを﹂︵﹁供養する女たち﹄四三九−四三行︶。
︵75︶ この厚顔な願いの直後に、この悲劇では、異国からの使者が、オレステースが事故死したという、彼女が願って止まなか
った︵だが実は偽りの︶知らせを持って登場する。この場面は、﹃オイディプース王﹄の類似の場面ーイヨカステーが﹁臓
れを払う救い﹂をアポローンに願った直後に、コリントからの使者が現れてポリュボスの死を伝え、国王夫妻を優い喜びで満
たす場面1を思い起こさせて、興味深い。幾つかの重要な差異ーイヨカステーは自己の穫れに無知であるが、クリュタイ
メストラーは自己の犯罪を熟知している、ポリュボスの死は真の知らせだが、オレステースの死は罠である、コリントの使者
は善意の使者だが、こちらの使者は王妃の敵であるーを越えて、二つの場面は深いところで通じ合っている。神が耳を貸す
ていた。願いがかなったことを喜んだ次の瞬間、二人の王妃は、最悪の事態に突き落とされるのである。
はずはない、と誰もが思う恥知らずな願いが、意外にも聞き届けられたかに見えたその時、運命の歯車は既に反対方向に回っ
︵76︶霊R冨≦U>じ2>Od国θ号ミ,も﹂㎝。、
︵77︶ ﹃甲rの註釈者はそう理解しているー﹁この供犠はアガメムノーンに強制されているものではない、女神は単に供犠
を条件としているだけだ、もしトロイアを破壊したいなら、彼はその傲慢に見合った償いを支払うべし、と。叡智は彼が拒む
化する誰弁を見出すことになる、同盟軍を裏切る訳にはいかない、彼がイーピゲネイアの死を望むのは、義務自体がそう命じ
ことを望むであろう、だが叡智は苦しみを代償としなければ学ばれはしない、そしてアガメムノーンは反対に娘の供犠を正当
ているからだ、もしもその死によって海が開かれるなら、と﹂>鷺ミQミ醤§ワr、甲rP§野一,
︵78︶ この血讐の文脈では、カッサンドラーの死は明らかに異物である。そのことを知っている彼女は、最後に慎ましやかな願
219
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
てくださいまし︶私の、かくもたやすく葬り去られた取るに足らない女奴隷の、殺人も﹂︵=二二三−六行︶。
いを語るー﹁私を照らす最後の光を見ながら、ヘリオス様にお願いします、︵アガメムノーンの殺害と同じ復讐の中に混ぜ
︵79︶ ここで、アテーナーは実に狡猜に立ちまわっている。一方の当事者︵エリーニュエス︶の言い分だけを聞くわけにはいか
ない、と言うアテーナーを、自己の正義を確信しているエリーニュエスは鼻であしらう、﹁こいつが、あたしらに誓言してほ
しいだの、こいつの誓言をあたしらに受け入れてほしいだのと言うとでも。まさか﹂︵四二九行︶。誓言は、誓うことによって
自己の正義を立証する太古的な法手続きである︵偽誓はただちに天の処罰を招く以上、誓言はそれだけで誓言者の正義を証明
する︶。だが、オレステースの場合には、この手続きはなじまない。彼が求めているのは、母殺しの事実の有無ではなく、そ
の意味を裁くことだからである︵﹁この殺害は正しかったのですか。行為は、その実際においては否定しません。しかし、御
心の内の思し召しでは、行為は正当化されるのでしょうか、されないのでしょうか﹂六一〇1三行︶。アテーナーは、エリー
ニュエスの言を逆手に取って議論を誘導する、﹁正義を実際に行うよりも、形にこだわって、賛同してもらおうと申すか。﹂
て正しいことにも勝つことにもならぬと言うのだ*。﹂f﹁そんなら、事件を調べて、真っ直ぐなお裁きを出してみるがい
ー﹁どうしてそんな。教えてもらいましょうよ、頭のよさなら御手のものなんだろう。﹂ー﹁よいかな、誓言したからと
いさ﹂︵四三〇1三行︶。なお、*︵四三二行︶を、今回参照した各訳は等しく﹁誓言によって不正が勝利することはない﹂と
いう意に訳しているが、これでは、エリーニュエスの口から﹁裁判をしよう﹂と言わせるに十分な論拠を構成しえないように
思われる、という点で、どうしても納得がいかなかったので、この行だけをギリシャ語テクストる詩oぢ$ヨ①9惹邑ヨΦ
︵80︶ この決着は、血讐に代わって今日普遍的なものと見倣されている、私的紛争の司法的解決の限界を示唆する点で興味深い。
三蓋昌一〇αqoから直接訳出した。大方の御教示を乞いたい。
いのと同様に、この解決はクリュタイメストラーの亡霊を決して宥めはしないだろう。
実際、今日の︵特に刑事︶司法的解決が、必ずしも被害者側のみならず場合によっては加害者側の感情をも満足させてはいな
六、二五六−七、二六九ー七一、二八九、一二四四行参照。これに対してアイスキュ・ス︵とりわけ﹃供養する女た
︵81︶ 四一−四二、八九、四八二−五、五八三−四、六七一ー八二、七七一、八五七−八、九九六ー七、一一四一、一一四五−
220
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
ち﹄︶では、復讐の正義を語る声はほとんど全篇を圧しているー﹁運命の偉大さよ、[⋮⋮]︽憎悪が語った時、憎悪が答え
を、したものは忍ばねはならぬ︾﹂︵三〇六−一三行︶、﹁法は定まっています、地上に振りまかれた血の雨は別の血を求めるも
ますように。︾これこそが消却すべき負債であり、正義の至上の声はそれを要請しています。︽打たれたら打ち返せ、死には死
害には殺害が、法には法が対立するのが見られよう﹂︵四六一行︶。
の。そして殺鐵は復讐の心を呼んで、最初の犠牲者の名において、恐怖の後には恐怖を解き放ちます﹂︵四〇〇1四行︶、﹁殺
︵82︶ ﹁私たちがこの屋根の下で主となれますように。[⋮⋮]私は奴隷です[⋮⋮]そしてオレステースは追放されて、財産を
﹁慈しみの女神たち ﹄ 、 七 五 七 − 九 行 も 参 照 。
奪われています⋮⋮﹂︵﹁供養する女たち﹄、;二−六行︶。また、同、三〇〇ー四、四〇五−九、八六二ー四、九七四−五行、
︵83︶ 父の法の支配は、この悲劇を﹃オイディプース王﹄と比較する時、明白になる。周知のように、オイディプースは、まっ
たくの正当防衛から、父とは知らずに冒した父殺しに激しく戦き懊悩する。だが、父の復讐は母の意図的な殺害をも免罪する
︵84︶ O渉工o一〇昌Φ℃・閃Oピ閃く・8’9㌧‘﹁℃﹂島−刈O,
のだ。
︵85︶ プルタルコスは﹃ソロン﹄の二箇所で、葬祭儀礼の改革に言及している。エピメニデスの改革︵﹁喪の規定を緩和したが、
それは葬式に引き続いて新たにある種の犠牲を行わせ、それまで大部分の女性が従っていた粗野で異国風な習俗を取り除いた
パルパゆコン
り、誰かの葬式で別の人のために号泣したりすることも禁じた。また牛を犠牲にすること、三枚以上の着物を副葬すること、
のであった﹂プルタルコス、前掲書、一一七頁︶と、ソロンの改革︵﹁体を榔って皮を掻きむしったり、大げさな愁嘆をした
た場合、喪に際して男らしくなく女々しい感情に陥っている﹂︵同︶と語っている。フォリーが紹介しているより詳細な規定
葬送のとき以外は他家の墓に行くことを禁じた﹂同、一三一−二頁︶である。プルタルコス自身、﹁男子がかようなことをし
によれば、﹁ソロンは明らかに鷺o誓霧δ[通夜]を一日に制限して、魯90建[死者の墓への葬送]が沈黙裡に夜明け前に行
われるよう明記した。この法律は墓に運ばれて死体と共に埋葬していい贈り物の富を制限した。嘆きは墓では許可されたが、
少なくとも女性の参加は今や近い親族に限られた︵従兄弟の子もしくは孫より先にはいかない︶。近親者以外の、六〇歳以下
221
一橋大学研究年報 人文科学研究 40
の女性は死者の部屋には入れず、また墓への行列について行けなかった。プルタルコスが言うように、ソロンは﹃顔を掻きむ
しって嘆き、一連の哀歌[需8ざヨ①君]を歌い、他人の墓に対する嘆きを行うことを禁じた﹄。国評喜oβでは、女性は男性
の背後にいなければならなかった。他のギリシャ諸都市の法律はーアテナイに関しては確かではないがー女性が衣服を切
︵86︶ ニコール⋮ーは、悲劇コンクールが開始される前に、劇場に戦争孤児がしずしずと入場する儀礼があったことを指摘
り裂くこと、道の曲がり角で泣くこと、ずっと以前の死者を嘆くことも禁じた﹂︵魯良‘Pb。ω︶。
もっとも美しい声明を読み上げた。﹂それから孤児たちは、﹁観客の資格で、英雄たちの苦しみに︽涙を注ぐ︾ことができた。
している。入場の後、布令役が進み出て、孤児たちを紹介し、﹁価値に向かって人々を奮い立たせるにもっともよく作られた、
だが固有の個人に関わるのではない不幸に流される涙は、孤児に関する布令役の政治的な声明が始めたものを終わらせると見
倣されていることを理解しなければならない。実際には、涙はこれらのまったく特別な観客を、残っているいかなる私的な
︵9冨δ5︶喪からも浄化するのである。要するに都市は二度、死者の近親をその個人的な悲嘆の乗り越えに招くことができる。
最初は市民的理想に密着した、政治的昇華の様式で、二度目は、遠方の苦痛に与えられる涙の中にいかなる悲しみも放出して、
︵87︶ だが、たとえば戦没者のための国家の墓地というものを念頭に置くなら、こうした死者の奪還は未だに興味深い問題を含
忘却の形式で﹂︵Z一8一①[○国>O×トaξ旨§“ミ頴魯Oo≡ヨ貰α﹂8P唱P8ム︶。
んでいる。﹁私の父ー夫−息子は国家のために死んだのではなく、国家によって殺害されたのだ﹂と主張して、死者を国家の
︵88︶ 国Φ一①器℃扇○い国ド魯9罰ロ一ω。
墓地から奪い返すことは、今日、いかなる問題を措定するだろうか。
︵89︶ 室8剛。[O勾>¢図ト9ぎ舞§譜ミ§魯号9登P斜①■
︵90︶ ・ローは、都市の政治に対する悲劇の相対的自立の理由を、四一一年と四〇四年のクーデターの折の集会がムニキアとピ
てであろうとなかろうと、だが実際にはしばしば彼の劇場に、民主制から寡頭制へのあるいはその逆の方向への移行の達成を
レのディオニューソス劇場で開かれた事例を引きながら、次のように述べているー﹁ディオニューソスは、彼の劇場におい
決定しうる最小限の集会を迎え入れていること、またその集会は一般に市民的生活におけるトラブルに基づいて開かれること
222
ある都市の想像界あるいはどうやって他者を厄介払いするか
描かれようとする新たな秩序に合法性に似たもの、逆説的な合法性を与えることができる。さらには、そこに住まっている神
が、観察される。さらに付言すれば、ディオニューソスの空間は、聖別されていれば︵三震8︶それだけいっそう、そこで
自体の性質から、この空間はそれが完全に統合されている都市空間の内部に、︽異様な︾飛び地を構成する。[⋮⋮]重要なの
は、都市が基盤において揺らぐ時、集会を迎えるのはディオニューソス一人だということである。[⋮⋮]︽ディオニューソス
なかったかのように、悲劇は、ディオニューソス劇場に位置を占めるということから、︽傑出して︾政治的な性格を纏うと、
の政治︾という概念自体が[⋮⋮]政治の深いところでの変質、さらには変形を前提にしている。したがって、まるで何事も
︵91︶ アリストパネース、﹃女だけの祭り﹄、呉茂一訳、岩波文庫、一九七五年。以下、このテクストから行数を付して引用する
どうして主張しつづけられるだろうか﹂︵尋§もP畠ム︶。したがって、﹁ティオニューソス劇場はアゴラにはない﹂のである。
=>[rきq乏。ζ●O国[O>カ↓噂○首o巳︸Ω震Φ&g写8ω﹂OOメO﹃,葺8一\\ξ≦≦もΦ﹃。。雷の,露津ω,aミo讐−σぎむけo×る一〇〇屏二℃
が、ギリシャ語テクストと英訳に関しては、以下のテクストを参照した。>冨ε喜讐$﹄識訟8貸謹の9ミoミ§る堅男≦・
︸﹃■ZΦ≦<o詩︸即窪qoヨ頃o湯。﹂Oo。o。レ貯8一\\≦≦∈もo話窪。。■三津ωbα⊆\品一σ冒\℃9圏ざoo随℃Φ﹃ω2。。誘>器図まo。>一〇〇〇。O一■OO島
”>ユ。。8℃ゴ■+↓げΦの引︾ユ里o℃﹃き09ミoミ§黛ミ鳴↓蒔⑦ミ8言註9↓ミ9ミ黛鳴鷺Oミ簿bミミ鼻<〇一甲卜。,国⊆のΦ器QZ田[r
律ε①藁︶。
︵92︶ O一ζ震8一∪国↓目ZZ国曽︽≦o一Φ三①ω︽雲鷺ao。。︾窪巳Φぎ①。。↓ゴo。。∋090ユΦの己①ω閉oヨヨoωoo口くΦ旨Φωα①。。響閃yαきの
︵93︶ そのことは、祭壇、ナイフ、犠牲の血を貯める受け盆が登場していることからも、だがまた、ムネーシロコスが空になっ
ト黛Oミ詮竃R貸の§註蕎89,9昏P国O一,
た革袋を女たちに返す時の科白からも確認されるー﹁この皮は巫女のものになるんだ﹂︵七五九行︶。ギリシャの供犠では、
︵94︶ 都市が行う公式の食肉供犠では、外国人は市民の公的媒介がなければ、供犠の祭壇に近づくことはできなかった。
犠牲獣の皮は、供犠執行者の取り分と定まっているからである。
メ ト イ コ ス
原則として供犠に参加する資格がないが、一定量の肉が分配されて、夫−父が家に持ち帰ったようである。9・ζ碧8一〇国目−
居留外国人の場合には、自身では供犠を行うことはできなかったが、会食のサークルに参加することはできた。女性と子供は
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国ZZ卸o>9貼もP一〇。O−刈、
︵95︶ ドゥティエンヌは、女性の供犠の事例を八例挙げているが、女性供犠執行者が、男性i夫の代理−延長でない場合には、
彼女はバッカエであるか、あるいは老婆︵もはや女性ではない者︶である。また逆にエウリピデスの﹃タウリスのイーピゲネ
る。On、皇鮮℃P一〇〇〇〇為﹂漣ふ9N8為。
イア﹄でも、巫女の役割は犠牲者を水で浄化し聖別することであって、殺害は男性の仕事であることを、反証として挙げてい
︵97︶ 、ミ鼻P卜。Ooo,
︵96︶ &ミ噂P一〇〇、
*ギリシャ語の読解に関しては、古澤ゆう子先生の懇切な御教示を受けた。ここに謝して記す。
224
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