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陶酔のなかの覚醒 : 夜啼鳥によせるオード
宮下, 忠二
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 19: 291-329
1979-03-20
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/9920
Right
Hitotsubashi University Repository
陶酔のなかの覚醒
ー﹃夜暗鳥によせるオード﹄i
宮 下 忠 二
私はこの数年来、キーツのこのオードを読むたびに、ここに詩人の体験として語られている、きわめて深い陶酔と
忘我と、そこから覚醒にいたる心理過程は、私がある種の音楽を聞くとき体験する陶酔と忘我と、そこからの覚醒に
たいへんよく似ていると感じてきた。
このオードのように、詩的陶酔をその心理過程に即して、卒直に一息に述べた詩は、キーツの作品の中でも珍らし
い。美への陶酔とそれからの覚醒を扱っている作品としては、このオードと前後して書かれた﹃レイ、・・ア﹄や﹃つれ
なきたおやめ﹄などがあるが、これらはいずれも詩人自身の心理とは関係なく、物語詩やバラッドの形式によって、
陶酔と覚醒は登場人物の問題として客観的に描かれているのである。僅かに前年︵一八一八年︶七月に書かれた﹃バー
ンズの故郷を訪れたあと、高地地方で書いた詩﹄のみが、陶酔の心理を正直に記録した作品として注目に値するが、
陶酔のなかの覚醒 二九一
一橋大学研究年報 人文科学研究 19 二九二
ごれについては後に詳しくふれるこどになろう。
音楽を聞くとき、陶酔が深ければ深いほど、意識の一部はますますはっきり覚めてくる、といった経験は、恐らく
多くの人が持っているであろう。﹃夜暗鳥によせるオード﹄に語られているキーツの体験は、そういうわれわれの音
楽体験に酷似している。陶酔が深ければ深いほど、キーツの感覚は鋭敏となり想像力が活発に働らいてくる。そして
その想像力が最後には時間空間を超えて、いわば第四次元の世界、宇宙との交感を達成する。その稀有な体験があっ
たからこそ、キーツはそれをオードの形式によって卒直に語ったのだ、というのが私の印象であるが、その観点に立
つと、従来発表されてきた有力な解釈に、いろいろ疑問が湧いてぐるのを禁じえない。,
例えばグリアンス・ブルックス︵Ω。導夢卑8冨Yの次のような評言、
、H区Φ。貸夢。σq8。H巴些。日Φo脇夢。℃o①彰旨爵σ。ロ。ω。﹃ぎa錺9緯oh島Φ宣一〇≦5吸℃貰&o囲夢oミ〇二αo︷
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毛〇二自oh8ε巴一身日08℃巴黒包げ矯8昌叶声ω¢、 ﹃ 辱 一
︵この詩の主な主題は、実際、次のような逆説だと言ってよいであろう。すなわち、想像の世界は痛ましい現実の
︵1︶
世界からの解放を与える、しかし同時に、現実の世界を対照的にいっそう痛ましいものにしてしまうのだ︶
これはブルックスがこの詩から読み取った瓢主題﹂がもしれないが、このような対比は、キーツの陶酔の中で付随
的に現われた対比であって、詩人自身の﹁主題﹂ではありえないのではないか。
あるいはケネス・ミュア︵囚2冨些ζ一首︶の次のような解説、
.写。eげΦ首αqε。︸・竜写冒昌。3唱露ωω。h夢。げ民、。Dω8αqい囚①器げ。8ヨ。。D塁碧①。︷夢。8暮声ω梓σ。彗。窪
跨①げ民.ω騨電舘窪二身塑呂夢。巨ω①蔓・=︸・。9暴p8区三。Ph3ヨ島。暮8σq算o脇茎帥。げ一・。。きo巳鴇
暮目2葺﹃芽。ω8需ξ善英ξ℃8嘗ざ薯夢。富き身g轟εβRξ葺。夢。夷耳g号毘・・−
︵小鳥の歌声の幸福のなかで、あまりに幸福であるために、キーツは小鳥の明白な歓喜と人間の境遇の悲惨さとの
対比を意識してくる。そして酒と詩と自然美と死の思いによって、僅かに一時的にその悲惨さの思いから逃れるこ
︵2︶
とができるのだ⋮⋮︶
これも詩が語っていることの要約としては正確であるが、この陶酔の体験が詩人自身に対して持った重要な意味に
、民。器。巷暴講&跨pヨ環冒信旨o=旨。邑蔓葺①ユΦ。・ぎ8。ω。費℃①︷8目お巴一2帥呂鴇①けロ①88。q旨3夢碧
ついて触れていない。そこでミュアは、
昌o①ωo騨℃o一ω℃oω巴び一9、
︵3︶
︵キーツは二の上ない熾烈さをもって、現実から逃避したいという気持を表現するのだが、結局はいかなる逃避も
不可能だと悟るのだ ︶
と“うふうに、せっかくのキーツの稀有な体験に負の評価を下してしまうのである。
二九三
キーツ自身は果して、このオードの中で、詩的想像力の果敢なさを訴えているだろうか。むしろ想像力のもたらし
た稀有の陶酔の歓喜を、読者に伝えようとしているのではあるまいか。
陶酔のなかの覚醒
一橋大学研究年報 人文科学研究
19
または今しがた、だるい阿片を飲み干して、
痛ませる。毒人参を飲んだのか、
わたしの胸は落き、だるい痺れが感覚を
ω営⑳①ω砕oho。仁目旨曾旨誉=−夢8碑oqo舘o.
0︷げoooげoβσq器oP帥昌α号即αo︵ω昌βヨげR一①ωω”
冒呂目。目Φ一〇良o島覧9
目訂け爵2﹂黄耳−惹昌σqaU蔓即山oh夢o嘗OOω嚇
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困図げ$詳8げ8㌧塑 昌 畠 帥 鳥 o ︵ 超 一 旨 ヨ げ 昌 8 の ℃ 鉱 屋
二
二九四
忘れ河へ沈んでゆくようだ。
といってもおまえの幸せな運命を妬むからではない、
おまえの幸せを感じて幸せすぎるからなのだi
軽やかに飛びまわる 木 の 精 の お ま え が 、
みどりの撫の、歌のひびくところ、
木の葉の影が重なるなかで、
喉いっぱいに夏の訪れを歌っているからなのだ。
二の第一節、とくにその最初の四行は、あたかも或る交響曲の冒頭のテーマが力強く鳴り響くように、詩人の激し
い陶酔を訴えている。陶酔があまりに深いとき、胸に痛みを感ずるというのは、感受性の強い人には時々起ることで
ある。そしてその同じ陶酔が、同時に、感覚を痺れさすほどに深い、ということもある。
ところがワッサーマン︵顕園・名島器Hヨ雪︶は、キーツがこの陶酔を、胸の疹きと感覚の痺れとに分解してしまっ
た、と解釈する。
.一二ωロ8。ωω胃﹃8ω8夢鉢冒島。白。。ω〇一&。昌oh。韓p屠葺。げ。鋒㊤9⑦帥呂旨目言Φ器砕置①o運ヨo﹃〇三。轟−
言おo=︷8誌.一α。巴ぢωσ。⑳轟一〇酵一暮。鴨暮⑦算o詩8目℃g①暮饗門け。・帥且島暮夢。℃o卑.ω一旨。もお$δ一80h
臣。。o×℃oユ窪8一のびoぼσQα一ω8拝&び﹃置の嘗p冨一p什一〇昌oh犀置8昌08昌8讐ωo協90ヨo拝巴嘩oユ阜譲げ鉢号〇三畠
陶酔のなかの覚醒 二九五
一橋大学研究年報 人文科学研究 19 二九六
σ09三一言⑳一暮臼巴受一ω麟昌5酔Φロ巴身oh夢①≦3旨αq閃言αーo巳鴇げ708浮o︻島o﹃o餌霧p⇒︵一90℃魯ロo隔90
一
のO目ωOの・:
︵ここで次のことを理解することが必要だ、陶酔を胸の痛みと痺れとに分解したために、キーツの理想︵想像︶の
、矛盾語法的特質がその構成要素に分解しはじめているということ、さらには詩人自身の︵その至福の︶体験につい
ての解釈が、現実の世界の概念に翻訳されたためにゆがめられている、ということである。悦惚たるべき熾烈さが
︵4︶
誤った熾烈さーつまり単なる胸の痙きと感覚の痛みになっているのだ⋮⋮︶
陶酔の衝撃があまり激しいために・現実とは別次元の世界へ入ってゆく、その衝撃をキーツは﹁わたしの胸は瘍き
⋮⋮﹂と表現した。その感覚の鋭敏さと言葉の豊富さを、ワッサ;マンは、陶酔の﹁分解﹂だとか﹁解釈のゆがみ﹂
だとかに誤解してしまった。至福の陶酔の体験を﹁現実の世界の概念﹂に翻訳することこそ、詩人の狙いなのである。
つまり、ワッサーマンは、夜暗鳥への感情移入という至福の体験を、生き身の肉体の痛みとキーツが受けとめた、
と考え、このオードの主題は、その心理的葛藤を解決することだと見るのだが、結局は、このオードの冒頭の﹁陶酔
の分解﹂にこだわりすぎたために、この詩全体の理解を誤ってしまうのである。
しかし、E・C・ペテット︵国’ρ評菖①け︶の、
、Hけ臣鼻跨鉢跨。℃巴昌︻。。9。爵o茜耳o臨ヨo箒巴きΦ塑且跨緯閑8誘融器pヨ日。Qp津R、.ω①一寓oお①§日Φ。。ω..層
昌O什 恥へω①一︷ー一一日くO一!、①一HF①昌み、曽,.
︵私の考えでは、この痛みは人間の苦悩の思いであり、キーツが切望しているのは﹁自己忘失﹂であって、︹ワッ
︵5︶
サーマンのいうような︺﹁自己熱中﹂ではないのだ︶
という見解に比べれば、ここでキーツは小鳥への感情移入に熱中している、というワッサーマンの解釈の方が、陶
酔の性格の正しい把握に一歩近づいているとはいえる。ペテッドは、この﹁痛み﹂が第三節の人生の苦悩の表白と関
係がある、と言うのだが、これは短絡的な解釈であろう。﹃憂愁についてのオード﹄に見られるように、歓喜と憂愁、
喜ぴと悲しみ、といった相反するものが、一つの体験の中に同居していることを、キーツはしばしば詩にうたってい
るのであって、このオードの冒頭はどこまでも陶酔の痛みであり、人生の苦悩とは全く関係はない。
.醤。℃巴昌置浮。墨昌邑ω2ま一g、.80ヨ蓉げg電ぎ鴇、、碁ぽ聲§ぎ8疹。島p。。8一。。二。笠
︵6︶
︵この痛みは﹁幸せすぎる﹂ことの自然の結果であって、歓喜による心房拡張に対する心臓収縮なのだ︶
というR・H・フォーグル︵≠国岡o屯。︶の見方が最も核心をついている。
陶酔のなかの覚醒 二九七
えない。
たはずのヘンデルやモーツァルトの音楽のように、それ自体で自律的なまとまりのある美的陶酔に導くものではあり
︵7︶
その陶酔のきっかけをつくり、その陶酔をいっそう深めてゆく伴奏の役割を果しているものの、例えばキーツも聞い
それは、キーツが夜喘鳥の歌声を聞いて、そのような音楽的陶酔を経験した、ということではない。夜哺鳥の歌声は、
私ははじめに、このオードに語られているキーツの陶酔は、音楽を聞くときの陶酔に似ている、と書いた。しかし
三
キーツの深い陶酔は、むしろ、キーツ自身言っているように、夜暗鳥の美しい哺声を聞いて、
一橋大学研究年報 人文科学研究 19
﹁おまえの幸せを感
二九八
じて幸せすぎる﹂という、その小鳥との一体感から生まれているのである。
すでに﹃エンディミオン﹄において、
ミびR①冒=oo。げ帥℃口bΦ鴇り冒跨馨≦匡oげσ①o冨
Og同畠α網ヨ言駐叶o協o=o≦ω圧℃島≦昌ρ
︾h。一一〇壽三℃惹9。。Dω窪8耳筐譲①号冒ob
岡巳一巴o﹃Φヨ一Noρ卑b山時80賄昭98。
︵肉ミ魯§ご詳ω因・H醤刈ーooO︶
幸福はどこに存するのでしょうか。われわれのすなおな心を
神聖な融合へといざなうところにあるのです。
それは本質との融合です。そのうちにわれわれは
すっかり変貌して輝やき出すのです。空間の自由を得るのです。
とキーヅは書いた。
これは彼のいう﹁消極的能力﹂によって己を空しくし、カメレオンのように自己を変貌させて他者の本質のなかに
入りア︸むとき、その陶酔のなかで、詩的想像が楽園をもたらしてくれる、という、キーツの詩観の核心をなす考えで
ある。
キーツが﹁本質との融合﹂というとき、その対象は大自然の事物であり人間なのであるが、とくに小鳥への感情移
入を 彼 が し ば し ば 楽 し ん だ こ と は 注 目 し て よ い 。
︵8︶
﹁雀が窓の前へやってくると、ぼくはその雀の存在の中へ入りこんで︵同3ざ窓詳β酵象算。昌8︶小石をつい
ばむのです﹂
あるいは、ツグ、・・が詩人自身に語りかける形式のソネットの中に、
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>ロq︾9B矯ωo昌σq8日oω昌暮凶<o惹9些o≦貧ヨ穿“
OF︷鼻gげ9津R一畠。註aQq。lH富︿。8昌ρ
>昌山︾9夢o,o︿自旨αq=馨①房■
おお、いらだって知識を求めるなー私には知識がない、
それでも歌は暖気と共に自然に生まれる。
陶酔のなかの覚醒 二九九
一橋大学研究年報 人文科学研究 19
おお、いらだって知識を求めるな1私には知識がない、
︵9︶
それでも夕暮は歌に聞き入る。
三〇〇
と書いているのも、詩人がツグミの中の大自然の本質と見事に融合した結果、その小鳥が詩人の口を借りて実際に
このように歌っているかのような趣きがある。
小鳥への感情移入は、生き身の人間には堪えられないような至福なので、キーツの肉体に痛みと痺れをもたらした、
とするワッサーマンの解釈は、このソネットから判断しても誤りであることが解ろう。ツグ、・、への感情移入には、緊
張感は全くないのである。
さて、夜哺鳥との一体感の中に、大自然の﹁本質との融合﹂を感七とったキーツは、その融合の陶酔をさらに深め
たいと願う。
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Ooo一、αρ一〇pαqρのo冒夢o匹8℃ムo一<o畠$濤戸
月㊤の試ロαqo︷蜀一〇声即”α葺08島昌貸冤頓器oP
u塁8る民即。<①一お巴ω。轟帥呂ω巨σ・旨げ鼠嘗三
〇︷O周騨げoや犀o︻︷ロ一一〇h一ロ①’<帥同日ωo仁什F
男亀一〇協砕げo窪=や些oσ一島匡E=首℃oRo昌o㌧
毛一夢げ$山aげ仁げ巨oω需置犀冒の暮跨①訂一日㌧
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日プ響目目蒔算母置﹃p民一。巽。夢Φ≦oH匡g器。p
諏βO︵一島芸8碑α①騨≦帥鴇一昌8島Φho器曾良日“
おお﹄一杯の葡萄酒を! 地中深く
長の年月冷やされて、
その風味は、花の女 神 と 田 園 の み ど り 、
舞踏とプロヴァンスの歌と陽に焼けた歓楽ー
おお 暖かい南国の味に満ちた大盃よ、
ほの赤い、まことのヒポクリニの霊泉に満ち溢れ、
その縁に泡のつぶが群がりきらめき、
ふち
くれないに染った大盃よ。
それを飲んで、この世から人知れず姿をかくし、
おまえと一諸にほの暗い森に消えたいのだ。
陶酔のなかの覚醒
三〇一
一橋大学研究年報 人文科学研究
陶酔を深め、その陶酔の中で覚めた詩的想像を楽しみたいのだ。
三〇二
れたい、というのが第一の目的なのではない。詩人はどこまでも夜暗鳥と一体となって忘我の境に没入し、ますます
だから﹁この世から人知れず姿をかくしたい﹂というのは、次の第三節で述べている、この現世の人間の苦悩を忘
感覚は豊かにまた鋭敏になって、思う存分歓楽を味わいつくそうとするのである。
わけである。ここでも、音楽を聞くときと同様に、陶酔と忘我が深けれぱ深いほど、キーツの想像力は活発となり、
しているのは、その陶酔の中で、酒が欲しいと言いながら、すでに酒では得られぬ詩的想像を活発にめぐらしている
そして古代神話の花の女神や南国の踊りやプ・ヴァンスの歌だとかいう、時間と空間を超えた歓喜の悦惚感を想像
と忘 我 を さ ら に 深 め よ う と す る か ら な の で あ る 。
から幸福感を解放しようというキーツの考案﹂なのではなく、キーツがすでに深い陶酔の中にあって、いまその陶酔
︵m︶
この第二節で、キーツが南国の酒の深い陶酔を連想しているのは、ワッサーマンが説くように、﹁︵第一節の︶苦痛
19
月冨≦①胃5①。。ωヤ夢ohoく。斜弩q夢oヰ碑
タβ緯跨oロ費日oお昌。一臼く①・。ぎ答器くR首o≦P
閏置o︷畦費譲やざ象ωωo一くo︸p昌山ρ三一〇︷o茜簿
四
田。β薯げR。ヨ窪簿即区げ①畦臼9。跨R讐o琶⋮
<爵R。饗一。。賓ωげ鼻。ω㊤h①≦廿器ρ一器紳σq声属3訂、
孝R①冤o幕げ鴨o蓄冒一ρ蝉ロ臼。・℃。。嘗。−島旦国且&。ω一
勾げΦHOげロ紳峠o叶げ︷口犀厨酔OげOhβ=O︷ωO㎏昌O毛
>呂一。銭。甲2&亀。ぞ巴β
<浮R。ω$窟蔓8日δけぎΦ℃ヶ①二島汀o岳薯8℃
OH器毛いoくo℃営o緯夢①ヨげo鴫o昌山8ーヨo旨o多
遠くへかすんで、消え失せて、葉かげのおまえが、
見も知らぬこの世のことを忘れ去りたい、
人間がお互いの味き声を聞くこの世の
疲労と熱病と焦燥を。
中風病みが残り少ない哀れな灰色の髪をふり乱し、
若者が蒼ざめ、亡霊のようにやせて死んでゆき、
物を思えばそのまま悲哀と鉛の
眼をした絶望でいっぱいになり、
陶酔のなかの覚醒
三〇三
一橋大学研究年報 人文科学研究 珍
美もその輝やく瞳を永続きさせられず、
新らしい愛がその瞳を慕うのも今日限りなのだ。
三〇四
くりかえしになるが、この第三節の、人生の苦悩を忘却したいという願望は、決してこのオトドの主題ではなく、
あくまでも夜哺鳥との一体感による陶酔のなかで、付随的に抱いた感想にすぎない。
本論のはじめに述べたように、ブルックスやミュアは、この節に述べられた人生の苦悩への言及を重要視し、この
オードの主題を想像の世界と現実との対比だと考えている。
ペテットが、
、屋。巨σq犀一夷巴①.。8譲⋮⋮ぎG・簿貧盆αげ巨琶鼻言αqo︷爵。..毛。蝕器の伊島。︷。く9費且島。坤9..oh冨旨雷
一筒O帥pαohけプoH①一①pωoh㎏o圏p淳■.
︵11︶
︵夜蹄鳥の歌は⋮⋮キーツに﹁人生の疲労と熱病と焦燥﹂とそこからの逃避について考えるきっかけを与えたの
だ︶
と述べているのも、同じ論旨である。
しかし、キーツにおける詩的陶酔のあらわれ方、その特質をよく調べてみると、これらの解釈のように、このオー
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ドの思想的主題を抽出するのは危険であることが解ってくる。
このオードを書く前年一八一パ年七月に、キーツはスコソトランド徒歩旅行の途次、﹃バーンズの故郷を訪れたあ
と、高地地方で書いた詩﹄︵鳴蕊防ミ註§醤鐘蝋ぎ窺むミ§駐息箋&ミ慧&切ミ§の、偽G§ミミ︶という、四十八行の
作品を書いた。
ここには、エアの町にあるパーンズの生家を目指して、スコットランドの西海岸に近い道を北に向って歩いてゆく
ときの、詩人の心理が活写されている。歩きながら、キーツの心は、この偉大な先輩詩人への讃仰の念に凝集し、そ
三〇五
の﹁砂漢を往く巡礼が聖堂を見つけたような﹂陶酔感の中で、他のことは一切考えられなくなってしまう。これはあ
たかも狂気に陥ろうとする人間の頭脳の状態だ、と詩人は心配する。しかし、
陶酔のなかの覚醒
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一W
oo
一橋大学研 究 年 報 人 文 科 学 研 究 1 9
■8﹃吟ぎぎαQσげoぎロ巴﹃の8昌受碧oざ雪畠℃器巴o房ヨ彗崖o一P
︵S占o。︶
心労の境界を越えてゆく時間はほんのひととき、歩みも数歩にすぎない。
甘く苦いこの世を ー そ れ と 知 ら ず に 越 え て も 、
時間はほんのひととき、歩みも数歩にすぎない。なぜなら長くとどまれば
この世に帰ることをはばまれ、人間たることを忘れるからだ。
おお、見なれた顔を見失うことは恐ろしい、
兄弟の眼や姉妹の額、それらはわれわれが
どこへ行こうともつきまとい、強烈な映像で大気を満たす、
むかしの姿、むかしの顔、黒く輝やく髪、乏しい灰色の髪、
あるいはさまざまな感情が大股で歩みよるとき、
画家の視覚を満たすあの烈しい色彩よりも強い映像なのだから。
三〇六
﹃夜喘鳥によせるオード﹄では、その陶酔が現世の苦悩から解放してくれることを願っているわけだが、この詩で
は全く逆に、陶酔がこの世に生きているなつかしい人ぴととのつながりを絶ち切るかもしれない、と怖れているので
ある。
つまり、この二つの詩を比較してみると、キーツにとって肝腎なのは、対象との一体感から生じる陶酔による忘我
の境地という想像の世界なのであって、現実の世界はその陶酔のなかで思い出されるものにすぎない。だからある時
は、﹃高地地方で書いた詩﹄のように、その陶酔と対比された現実世界がこの上なくなつかしく思われたり、また別
の揚合には、﹃夜楴鳥によせるオード﹄の如く、現実世界は、一刻も早く忘れ去りたい、嫌悪すべきものと思われた
りするのである。ブルックスやミュアのように、想像の世界と現実世界との対比が詩の主題である、とする説を私が
誤りだと思う理由はそこにある。
同じ批判は、ダグラス・ブッシュの次のような論評についても向けられよう。
.犀︵民o緯。。、ω爵oヨo首葺ΦO魯&&≧膏ミ誉恥ミ恥︶δ夢o<①曙8日oo︷ヨoすロ90ぐ島暮詮一5一〇鴇ぎ8一〇訂鉢8
凶。・一〇図βげΦきξ昏鉢ヨg簿良o’.
ヤ ヤ
︵キーツの﹃夜蹄鳥によせるオード﹄の主題は、彼がほめたたえる歓喜は、結局は消え去る運命にある美のなかの
︵認︶
歓喜にすぎないという憂愁感の極致にほかならない︶
これもまたキーツの思想を抽象しすぎた考え方であって、これはそのまま﹃憂愁についてのオード﹄の主題でもあ
る。むしろキーツは、美への陶酔と覚めた現実との関係を、いろいろの角度から眺める余裕を持っていたのだ。ちょ
うど美しい糸で部厚く織られた衣裳が、僅かに光線の角度を変えることによって、全く別の美しい色合いを見せるよ
うに、詩人の豊富きわまりない感受性は、あるときは美の陶酔の永遠性を反映し、またあるときはその陶酔が果敢な
いものだという実感を 映 し 出 す の で あ る 。
陶酔のなかの覚醒 三〇七
一橋大学研究年報 人文科学研究 19 三〇八
この第三節の、オード全体の中での位置を正しく指摘しているのは、私の眼にふれた限りでは、R・H・フォーグ
ルのつぎの言葉だけである。 , 、 ,, 、 、 , ,
、=o︵民8富︶冨p蹄N日5の島oく巴濤oh嘗oこo葺塁畠島冨置けげo冥冒声蔓貯9●匿o厨巴8℃竃言の90霞ぎ暮0
8葺。℃9<R。協夢Φ8ゴ帥一、ρ区量。。置器言娼。話暮σ旨ω。8鼠帥q8琶住⑦馨凶。口,⋮⋮=自。a昌。護一<。。2巴
ρヰ。呂98ぎ跨﹂〇二訂89巴8昌芭383。h詩①5答凶ω9。h﹃虫=αΦρ=く三3おρ爵Φωσ。一器旨吸。.
︵キーーツは想像の世界の価値を肯定しているのであって、これが第一に主要な事柄である。彼はまた現実世界の力
にも十分な注意を与えているわけだが、これは重要ではあっても二義的な考慮なのだ。⋮⋮彼は双方の世界に同等
の注意を払う必要はない、なぜなら現実世界は自分で自分を始末できるのであって、支えてやらねばならぬのは、
︵BV
脆い想像の世界だからだ︶
結局、この第三節の現実世界の人間苦の描写は、想像力による熾烈な美を維持するために、消え去らしむぺき不快
なもの、ということになろう。キーツもすでに言っている。
、旨。。図8一百8。h。<。蔓ρ鉢δ酵葺塞ξも趨呂一。。︷暴喜σq斜一三一ωpσQ§pσ一雷。<巷。β貫︷3ヨ藷一じ昏。q
訂98⑦琶昌。匿后類菩ω雷再冤帥邑げ旨7、
︵あらゆる芸術について、卓越ということは熾烈さということです。それは美と真とに密接な関係をもっているた
︵餌︶
めに、すぺての不愉快なものを蒸発させることができるのです︶
国
Away1away1for I wilHly to thee,
Not chariote(i by Bacchus an(1his pards,
But oll the viewless wings of Poesy,
り
Though the dull brain perplexes and retards:
Already with thee1ten(1er is the night,
And haply the gueen−M:oon is on her throne,
Cluster’(i around by all her starry Fays;
But here there is no light,
Save what from heavcn is with the breezes blown
Through vcrdurous glooms and wind量ng mossy ways,
I camot see what flowers are at my feet,
Nor what soft incense hangs upon thc boughs,
But,in embalmed(1arkness,guesg each sweet
置骸e々灸e掴融
1110ぺ
一橋大学研究年報 人文科学研究 19
1ぐげO同Oミ一菖一ヰ一〇ωO㊤ωO昌Pσ一〇口一〇昌荘O昌qO毛ω
目げoσq轟器い90昏一〇犀o詮−帥ロα跨oヰ三一−畦8毛目身
ミ三需プ鎮≦げo同P ρ ⇒ α 践 o ℃ p ω 貯 o 同 巴 o ⑳ σ 目 菖 昌 9
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いざ、飛べよ! わたしも飛ぼう、
バッカスとお供の豹の車に乗らないで・
眼に見えぬ詩心の翼に乗ってゆこう、
鈍い頭がたじろぎひ き と め る け れ ど 。
さあ 追いついた: 夜はやさしく
たぶん月の女王は玉座についていて、
妖精の星たちに護られているだろう。
しかしこ乙に光はない、青葉の
一三〇
なかぞら
暗い繁みと、曲りくねった苔路に
中空より吹きおろす光のみ。
足もとの花の名前はわからない、
そよ風が
木枝にただよう芳香も何か知らない。
ただ、この匂う暗闇で、
草むらと茂みと果樹とに、この五月の・
季節が贈る草花を憶測するだけだ。
白さんざし、田園のかおりの野茨。
草葉の下の、しぼみ や す い す み れ 花 、
五月なかばの早咲きの子、酒の露を
いっぱい含んで開くジャコウばら、
夏の夕に、ざわめく羽虫たちの群るところ。
この第四節と第五節は、なによりもまず陶酔と忘我の心理状態のなかでの記録として読まれねばならない。詩心
︵ポエジー︶によって、小鳥と一体になったという自覚から生ずる深い陶酔のなかで、その陶酔が深まれば深まるほ
陶酔のなかの覚醒 三一一
一橋大学研究年報 人文科学研究 19
三一二
意識の一部ははっきり覚めていて、宙を飛ぶ烏の眼下の暗闇の中にある自然物を、 感覚を十分働かして捉えてい
︵詩心は、自然の本質を開示して詩人自身と合体させるぺきところを、理想的に機能しえないでいる。そしてここ
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ワッサーマンは、この第五節について、
な忘我状態の中で、キーツの意識の一部が、実にはっきりと覚めていることを語っている。
想像力と感覚の働きを必要乏するものだ。だから﹁白さんざし﹂以下、いくつもの草花を数えているのは、この完全
第五節では、暗闇の中で草花の名を﹁憶測する﹂と言っているが、﹁憶測する﹂という行為はもともとかなり強い
この三行は、深い忘我に陥っている、暗い無意識をあらわしているかのようだ。
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驚嘆すべき詩行である。
るど
、 、
︵15︶
でも、至福の天国の領域へと通じるはずのものが、﹁足もとの花の名前はわからない﹂などといった、単なる現世
的なものに変貌してしまうのだ︶ ,
と不満を述べているが、﹁本質との合体﹂ということを、﹁すぺての事物の本質との合体﹂というふうに拡大解釈し
たために、この誤解を生じたのであろう。事実は、キーツはすでに夜暗鳥の本質と合体してしまったので、ここで足
下の草花を憶測しているのは、その陶酔のなかで覚めているもう一つ別な意識なのである。ワッサ;マンの言葉を借
りれぱ、キーツは﹁至福の天国﹂に入ったまま、そこから﹁現世的なもの﹂を考えているのである。
この、陶酔と忘我の度合いが深ければ深いほど、意識の一部ははっきり覚めていて、周辺の事物を冷静に眺めてい
る状態は、再ぴ、すでに言及した﹃高地地方で書いた詩﹄を思い起こさせる。
三二一一
バーンズの生家に近づきつつある、という思いに陶酔している詩人は、夢中にな︶っている余り、周辺の事物の一切
がもう眼に入らない。
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陶酔のなかの覚醒
u
一橋大学研究年報 人文科学研究 19
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︵一い1器︶
その時、軽い鈴なりのヘザーの花もゆらめくだろうが、それは遠く離れている。
ひばりは砂色の羊歯から鳴いて飛び立つだろうが、その声を聞くのは太陽だろう。
せせらぎは岩棚や澄んだ浅瀬の草に接吻するだろうが、
わびしい旅にはその低い声はとどかない。
真赤な太陽は黒い峰の向うに沈み、
青い湖は奔流して洞穴や草むす入江に溢れ、
鷲は翼を広げて空高く眠るごとく見え、
鳩はけいれんを起したように高い杉のねぐらへと飛ぶかもしれぬ。
だが、あたかも巡礼の疲れた眼が沙漠の真中で聖堂を見つけたように、
旅人の夢中の眼差しはじっと大地に落ちて動かないのだ。
三一四
﹁旅人の夢中の眼差しは大地に落ちて動かない﹂というのは、完全な陶酔と忘我の境地である。それにも拘わらず、
注目すべきは、キーツはその深い陶酔の最中に彼を取囲んでいたであろう周辺の自然の事物を﹁憶測﹂によって、八
行にわたって活写しているのである。
ヘザーの花、ひばり、小川の流れ、太陽、鷲と鳩と、これらをキーツは、心は深く陶酔しながら、そのスコットラ
ンド沿岸の道を北へ歩きながら、覚めた一部の意識で確認していたのである。
ペテットも、第五節の陶酔と﹃高地地方で書いた詩﹄のそれとを比較している。
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巴o昌■.
︵しかし、キーツが体験した陶酔は、﹃高地地方で書いた詩﹄に記録している陶酔ほど完全ではない。後者では明
︵16︶
らかに詩入は周囲の自然の事物に完全に盲目になっているのに、オードの第五節の方は、その書き出しの一行があ
るにもかかわらず、同時に非常に生き生きした視力と感覚の印象の表現だからである︶
しかしペテットは、第五節の陶酔も同じく完全であることを見逃している。すでに述ぺたように、陶酔の最中に、
周辺の自然に注意しているもう一つの意識の覚め方は、双方とも酷似しているのである。
陶酔のなかの覚醒 三一五
一橋大学研究年報 人文科学研究
19
月桂樹の花の息吹きで、甘い陶酔を
あなたの神殿から清新な大気を送りたまえ、
しかし、私の熱い祈願にこたえて、
Ohご図ロ蔓⋮⋮ ︵蜜1$︶
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も、﹁詩﹂︵ポエジー︶に呼びかけて、
三一六
ツは、すでに何度か、この感覚的快美感のさなかの死の願望を、詩や手紙に書き残している。例えば﹃眠りと詩﹄に
てその陶酔の快美感がきわまるところは、死の実感である。これは常人でもしばしば経験するところであるが、キー
陶酔が深まるにつれて、詩人の想像力と感覚の働きがますます活発になってゆく次第をわれわれは見てきた。そし
ノ、
山
もたらし、その結果私が歓喜のあまりの
死を遂げることができるように⋮:
乙のような快美感は、例えば主として空間的視覚に訴える造型美術よりは、音楽のリズムと時間的継続感が肉体を
三一七
動かして達成されるものであって、このオードでは、夜蹄鳥の暗声が、この陶酔の絶頂感をもたらす伴奏の役割を果
して い る 。
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陶酔のなかの覚醒
一橋大学研究年報 人文科学研究 19
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暗闇のなかでわたしは聴き入る。いくたぴか
安らかな死をひそかに愛し、
瞑想の歌のなかでやさしい名で呼びかけた、
わたしの静かな息を天空へ運びたまえと。
今の瞬間こそいつにもまして死ぬのが快よく
思われる、おまえがそんなに悦惚として、
おまえの心を外界に注ぎ出している時に、
この真夜中に痛みもなく息絶えるならば。
なおおまえは歌いやまない、がわたしの耳は空しいー
おまえの気高い鎮魂の歌で芝土にかえる。
==八
この第六節を解説するとき、殆どいつも引用されるのは、二のオードが書かれるしばらく前の三月十九日︵一八一
九年︶に、キーツが弟ジ。ージ夫妻にあてて書いた手紙の中に書きこんだソネット﹃今夜なぜぼくは笑ったのか﹄
︵ミ、ミb&、卜亀ミ 恩 同 o ミ 恥 ミ ∼ ︶ で あ る 。
ついさっき笑った自分が、今は深い悲哀に沈んでいる、
不可解だという、その激情のなかでキーツは死を思う。
H悶口oミ夢﹃げo言⑳.ω一畠。。ol
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ぼくは知っている、この人生が借物だということを、
また空想の力でこの世の至福に至ることを。
だが願わくはまさに今、この真夜中に息絶えて、
この世の華麗な旗が皆ちぎれとぶのを見たいものだ。
詩と名声と美はまことに熾烈だ、
が、死はもっと熾烈だ1死こそは生の報いなのだ。
陶酔のなかの覚醒
(℃
この歓喜と悲哀が激しく交錯する人生は、結局闇のように
冥︶
三一九
一橋大学研究年報 人文科学研究
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この第六節の死への願望から第七節への転調は急激である。
ろうか。
︵17 ︶
三二〇
ットの最後の六行は、﹃夜暗鳥によせるオード﹄の最初の六節までの要約だと考えてよい、とは言えないのではなか
酔のなかで安らかな死を願っているのであって、いわば快よい忘我の極致なのである。ペテットのように、このソネ
いているように、自分の無知への絶望から発作的に死を願ったのであった。一方オードの第六節では、どこまでも陶
ットに述べられた苦悩は、ただ無知という苦悩なのです。知識への渇望なのです:.⋮﹂と、このソネットの直前に書
しかし、このソネットに告白された死への願望は、第五節の願望とは異ったニュアンスを含んでいる。﹁このソネ
19
く
べ
き
人
間
た
る
自
分
の
運
命
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O脇℃①H一一〇臣ω$p嘗h器蔓σ昌房ho二〇旨●
死ぬように生まれついていない、不滅の鳥よ!
飢えた時代もおまえを踏みにじることはできない。
このすぎゆく宵にきくおまえの声は
昔 帝王や道化が聞いたのと同じ声だ。
おそらくは異郷の麦畑で涙にくれて、
ふるさとを思ったル ツ の 悲 し い 胸 に
滲み入ったのも同じ歌だろう。
またもの寂しい仙境で、荒れ狂う海に
向って開いている不思議な窓にしばしば魔法をかけたのも
へ
夜哺
二 比
一 較
し
て
、
同じおまえの歌だろう。
急激な転調といっても、もちろん意味の上では、 第六節の、
陶酔のなかの覚醒
死
ん
で
ゆ
一橋大学研究年報 人文科学研究 19 三二二
鳥が永遠の生命を持っている、と強調するのであるから、キーツらしい、巧みな連想だともいえる。・バート・ブリ
ッジェズが、夜蹄鳥を不滅の鳥と呼んだことを非難し、第七節全体を﹁気まぐれで浅薄だ﹂と批評したのは有名であ
︵18︶
る。またH・W・ギャロッドは、キーツが小鳥を古代神話の﹁森の精﹂︵U曙匿︶とみなして﹁不滅の鳥﹂と呼んだ
のだ と い う 。 こ れ に 対 し て ペ テ ッ ト は こ う 述 べ て い る 。
︵汐︶
.=。露一の昌暮夢①おヨ諺叶σ。ωo日。島一お註浮β冨目冒①も窪魯8浮鉢δα①鉢匡。ωω﹄且一二のσ。8諾①。=蓼
舜Φ暮、日5げ.酔冨算箒巳σq暮お号富8ヨ$き.首目。塁一国鼠、﹄g訂85曾けの貫且ωh。二ぎ眉a89夢。
傷qロαoh日蜜些o一〇窒・.
︵キーツは人間の経験の中には何か不死のものがあるにちがいないと感ずる。だから夜蹄鳥が﹁不滅の鳥﹂になる
︵20︶
のは、この潜在的な﹁ちがいない﹂のためなのであって、それが種を代表する鳥だとか、神話の森の精だとかのた
めではない︶
しかし﹁⋮⋮何か不死のものがあるにちがいないと感ずる﹂というのは控え目にすぎる言い方ではなかろうか。実
際にはキーツは、その深い陶酔の果に到達した想像の極致のところで、﹁確かに何か不死のものを実感した﹂、のでは
あるまいか。
だから帝王や道化やルツだとかいう、古代伝説の人物に思いをはせているのも、単に、夜蹄鳥が昔から同じ美しい
声で鳴いていた、といった歴史的回顧を試みているのでなくて、キーツの白熱した想像が、その深い陶酔のなかで、
ついに大地をはなれて時間と空間を自由に飛翔して得たイメージなのである。そしてその極限のぎりぎりの想像が、
である。
日品88器目窪黄o需巳お呂9・h8ヨ
Oh鷲岳o島ωo器︸言︷器H図置ロ房臣oユo旨、
この、全く人気のない無気味な世界、超現実の世界は、キーツの想像が最高潮に達するときしばしば現われる︵例
えば﹃ギリシアの壷についてのオード﹄第四節の、人気ない町のイメージ︶が、これはいわば神秘な宇宙との交感の
記録なのではないか。
ふたたび音楽の比喩を使わせてもらえば、ある音楽は、私にこの神秘な大宇宙との交感を体験させてくれる。キー
ツは、夜喘鳥の歌声に陶酔することにより、その忘我の中での想像力の働きによって、ついに宇宙との交感を成し遂
げたのではなかろうか。そしてその実感があったからこそ、キーツはこのオードを書いたのである。
すでに早く、﹁小高い丘に爪立って立った﹂や﹃眠りと詩﹄といった初期の詩においても、キーツの想像は地上の
事物から天空へ、宇宙へと飛翔する傾向があった。そして﹃ハイピリオン﹄のような叙事詩によって、その宇宙との
交感を一つの秩序ある世界として描き出すことこそ、キーツの最大の詩的野心であったであろう。そしてその宇宙と
の交感の体験を、詩的観念によるイメージの構築ではなしに、陶酔の生理と心理に即して、卒直に語ったのが﹃夜暗
鳥によせるオード﹄ではないであろうか。
かつてキーツは、
陶酔のなかの覚醒 三二三
一橋大学研究年報 人文科学研究
に満足しているのである。
三二四
いなしになったのではない。くりかえしになるが、むしろキーツは、一旦人間の領域を超えた世界をかいま見たこと
このオードでも、キーツの幸福な陶酔と忘我はこれで終ることになる。しかしここでは必らずしも夜哺鳥の歌はだ
と書いた。
夜哺鳥の美しい歌をもだいなしにする。
それは楽しい夏の空の下で悲しみをつくり、
幸福の蝦となるー
きず
人間の領域を超えた世界を覗くことは
︵向慧防§融S霞■需遷§oミ勲肉避‘ooNIoo題︶
犀招o一一ω些①巴お一おo賄夢。巳讐広お巴①,
H什83雷島冒誓 目 ヨ R ω ζ 8 ε 日 O 日 員
一昌げρ℃℃冒oωωεの8げ①網oロ畠o目㎏σoロ﹃昌ー
目叶ぢ四山帥≦
19
︵21V
このオードについて、そのクライマックスが第六節か第七節か、について意見が別れている。ペテットは前者をと
三二五
り、フォーグルやC・M・バウラは後者をとっている。どちらが正しいかは、これまで述べてきたところで、自明の
ことであろう。
陶酔のなかの覚醒
固a一ω跨暮ヨ5一9ーUo一≦爵。oHω一①。覧
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目oε目日。σ8犀坤oヨ島。。8旨網ω〇一①ω。匡
問巳。旨一些①<。q書巳厨一一冨帥げ。目
七
一橋大学研究年報 人文科学研究 四
もの寂しい: この言葉こそ鐘の音のように
わたしを孤独なわが身に立ち返らせる!
さらば! 空想よ 、 人 を 惑 わ す 妖 精 よ 、
おまえは評判ほどうまくわたしを騙せない。
さらば! さらば! おまえの悲しい調ぺは
近くの牧揚をこえ、静かな流れをわたり、
丘のかなたへ消え て ゆ く 。 も う と な り の
谷間の林に奥深くかくれてしまった。
あれは幻だったのか、覚めて見た夢なのか、
あの音楽は飛び去ったーこれは夢なのか、現実なのか。
うつ つ
三二六
﹁もの寂しい﹂︵3二〇旨︶という言葉の音調が鐘の音のように自分を現実に返す、とは、またしても実に巧みな節
の転移であり転調である。このもの寂しさは、人気ない仙境の寂しさではあるけれども、白熱した想像が行きつくと
ころに行きついて、陶酔が終りに近づいたことを意識した寂しさでもある。
90智昌o冤8 昌 昌 9 0 げ o 響 ω o 毛 o =
>の跨①一ω壁日.α8αpα。8凶く営αqΦ一h
の二行は、第三節の人生の苦悩への言及とともに多くの誤解を生んできた。はじめに引用したミュアの、
﹁キーツはこの上ない熾烈さをもって、現実から逃避したいという気持を表現するのだが、結局はいかなる逃避も
不可能だと悟るのだ﹂
といった受取り方は、その誤解の代表的な例である。﹁人を惑わす妖精よ、おまえは評判ほどうまくわたしを騙せ
ない﹂という言葉は、文字通りにとれば、いかにも詩的想像力の限界を悟っていたく失望したかのように見える。
しかし、これはすでに述べてきたように、宇宙との交感という想像力の自然の絶頂をきわめたあと、その白熱のほ
とぼりを次第にさまそうとする詩的技巧なのである。それは最後の二行、
ミ器洋p≦巴oPoH帥霜巴︷一ロ⑳qH8日∼
国8一ω跨暮旨岳一ΩlUoH≦騨犀oo厩。。一〇名∼
という、陶酔が完全に覚めたことを知らせる伏線になっている。
..、目げ。︷費・。遼帥目gg一舞ω。孟一\蔚の一・①三p日a8q。=貯ぎ∼且。魯8。=暴吸一曇一。pビな葺。︷島の
ε叶巴o図℃〇二窪8・目﹃o良o試o昌5仁昌o耳毎。・貯o百一〇≦震oρ什ρ鴨<09昌①頃090hロ騨一h−げ自503島崔o︷乱gωωー.
陶酔のなかの覚醒 三二七
一橋大学研究年報 人文科学研究 19 三二八
想よ、人を惑わす妖精よ/おまえは評判ほどうまくわたしを騙せない﹂の二行は、想像力の否定ではなしに、
るためだ︶
︵22︶
というフォーグルの説明は、この第八節の機微の核心を衝く名評であると思う。
国胃一甲名霧ω巽旨彗“﹃ぎ頴§、ご鳶︵帰げo一〇げ霧国o℃匠田℃8の。。,一〇訟yや一〇。凱・
国o昌昌9げ冒三お&蕊ーマひP
∼蔚ミ§頓ミ恥、
附記。キーツの詩のテキストは冨畠ω臣㍑夷臼”↓ぎ、o価§防魚∼息醤民恥ミ吻︵一〇No。︸頃”宅g.Od■即︶にようた。
︵4︶
︵3︶
甲o■b①ヰ。ゴ9誉ぎ魁遷駄き霧︵o聾旦農。⊂℃こお鴇︶も﹄凱p§
勺こ一80yやひoo。
囚o旨①9冒賃ヨ、↓冨竃雷三おo︷些oOαβ.β国。旨09竃9賊︵a・︶一旨ぎ肉§貴凪さ§驚鴇§恥ミ
夢
切 ミ
o 乳 恥
↓ ︵
q h
客 5 −
這 い・
一■
Ω o馨
3 0 冨﹃
舟 § 、。
鳶 § ミミ
義 載 ミ§
巳 く ■o
O 貰 o一
㊤ ギ gω
ω O y℃
︵1︶
︵2︶
︵5︶
切■串閏。のす円ぎ㌧ミ§§ミ、馬§ミ恥︵dー。︷08愚帥牢。ω。・﹂。M“y℃・ド。ピ︵.国舞ω.ωミミ。象
dり
︵6︶
Q.切暮日き︾費岩一影<・b霧ω&巴コ8一鋒旨冤冨翼
a
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旨 <
一
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器℃ 巨一
勺 鵠 U 査 い図
一一〇鴇︶V
︵7︶
毛器嶺胃日区一長旨一〇5ξξ島く言。諸oNp昌、
ω図≧器匹o一一αq算oρgげ蜜国導3一目器q①器9
︵↓oq智ミ醇9亀匙§Qミぎ﹂一・一〇〇1一二︶
︵い一くoもoo一
全体験の一部なのだ。用語の調子が目立たぬように下げられているのは、ユーモアを含んだ憂いという効果を与え
(「
︵8︶
団■園ー名㊧ωのo﹃日㊤昌”&帖賊■℃℃。一〇〇〇〇IP
.○些曾名9器砂8ゴ帥葺︷o一け島〇三暮①同、ω毛旨山、︸FOl一ド
■oヰR叶o一Wo且ゆ旨営団巴一〇ざ乞o<■NN”一〇〇一M・
︵−o︶
図,ρ勺oヰ9一きミ。マbo団“。
︵9︶
︵11︶
Uo麟堕霧切蕊汀ミ陵きQご恥緊象苫“S馬鵠o§黛き識“↓ミ§欺o§き閏ミ恥畿罫 ㌧s聴黛︵℃p吸op昌け︼Woo犀Ooβ㊤℃昌ざ一〇q博y℃・
閏oの一〇”&ミ,℃や一〇軌19
一〇〇〇〇Hαqo四ロα目oヨ国①帥跨ωいUoρNど
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ωo≦﹃勲目魯恥肉o§黛§識“国ミミ恥蝋§ミごド℃■
℃や=■いード一わ■
一ま■
三二九
︵昭和五三年一一月一四日 受理︶
o﹃、o︸言民恥ミ防 o阜O。目げo賊昌U﹃ロ﹃鴇一〇〇〇〇〇噂や一邑く。
一〇〇辱。
︵12︶
いoヰ臼
国・国■
勺Φ#Φ曾きミ■やNα9
国’菊, ゑ 四 ω ω o 噌 ヨ 帥 昌 軋 ミ 劃 ℃ や 一 〇 N l い ,
国ρ
勺090曾&戚ド唱マNひOi刈O,
Op旨oα”肉恥ミ恥︵○図ho吐臼d。℃こ一〇N9︶
閑’冒.
団 ρ 勺099”&蕊り質bo圃頓■
禺 名,
閑oげo旨 切二ασq田”Hロヰo畠仁o試o昌梓o↓︸恥㌧竃ミ恥
口ρ
一〇丼
︵13︶
︵14︶
︵15︶
︵16︶
︵17︶
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陶酔のなかの覚醒
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