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あるユダヤ意識の形成 : ドレーフュス事件までのプルー
スト
鈴木, 道彦
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 22: 139-208
1983-03-10
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/9910
Right
Hitotsubashi University Repository
あるユダヤ意識の形成
鈴
木
道
彦
あるユダヤ意識の形成
ードレーフユス事件までのプルーストー
はじめに
目 次
ブロックの位置
一 スワンの上昇と下降
同化と非同化
一八八○年代の﹁ユダヤ人﹂
ドリュモンとトゥスネル
〃他者〃としてのユダヤ
“他者”としてのわれ
複眼のユダヤ
おわりに
139
八七六五四三二
注
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
はじめに
数年前から、私はマルセル・プルーストのさまざまな側面に光をあてることによって、彼の全体的な理解に可能な
かぎり接近するという一連の仕事を試みてきた。本稿はその一環として、プルーストにおけるユダヤ意識の形成とそ
の意味を、いくらかでも明らかにしようとするものである。
これは私にとって、初めて扱うテーマではない。というのも、すでに私は﹃現代思想﹄一九七七年十一月号に、
﹁半ユダヤ人における反ユダヤ主義﹂という文章を書いて、プルーストとユダヤの関係を考察したことがあるからだ。
今回再びこの問題をとり上げるからといって、私の基本的な考え方が、そのときから変化したというわけではない。
ただ、当時の文章は、紙数のごく限られた月刊雑誌の論文だった上に、まだこの問題に手をつけたばかりの段階だっ
たから、ほんの表面を掠めただけの、きわめて不充分なものであった。そこで今回は、それから後にいくらか進めて
きた調査をもとにして、別な形で問題を掘り下げてみたいと思う。それでも類似のテーマであるから、部分的に重複
する趣旨のことを記す揚合もあるだろう。その点をあらかじめお断りしておきたい。
ところで私がプルーストにおけるユダヤ意識に関心を持ったのは、何よりもまず﹃失われた時を求めて﹄のなかに
描かれた二、三の重要なユダヤ人の登揚人物と、作品の底に常に横たわっているユダヤの存在のためだ。しかもこの
作品に現れるユダヤ人たちは一見したところ互いに甚だ矛盾した姿を呈していて、読者はとうてい統一されたユダヤ
人像などというものを持つことができない仕組になっている。その上、作品の背景には、十九世紀末のユダヤ人将校
の冤罪事件として名高いドレーフ.一ス事件がたえず流れていて、それへの多様な反応が、ユダヤ人であると否とを問
わず、ふだんは隠されている作中人物の側面を明るみに引出すように構成されている。だからこそ、セシル・ド・ル
140
あるユダヤ意識の形成
プのように、プルーストの作晶から逆にドレーフユス事件への関心をそそられる研究者も現れたのである。彼女はプ
ルーストだけでなく、ゾラ、アナトール・フランス、バレス、モラス、レオン・ドーデー、ペギーその他の作家につ
︵1︶
いて、それぞれドレーフユス事件の意味を検討するという仕事を、一九三〇年代に早くも発表しており、今日から見
れぱいくらも不備な点を指摘できるにしても、その先駆者としての意義は否定することができない。
複雑で、矛盾していて、重層的で、しかもある場合には作中人物を左右するほどの決定的な役割を演じているこの
プルーストのユダヤ世界は、では、どのように形成されたのか。それを作り出したプルーストにとって、ユダヤとは
何だったのであろう。むろん、すべての発端に、ユダヤ人であった母の存在があったろうことは、容易に想像される
︵2︶
ところである。アルベール・チボーデがいち早くこの点に着目して、﹁マルセル・プルーストとフランスの伝統﹂と
題された文章のなかで、同じようにユダヤ人の母親を持ったモンテーニュとプルーストを比較したことも、よく知ら
れていよう。プルースト自身も、たとえば・べール・ド・モンテスキウあてのある手紙で、こう書いている。
﹁昨日はおたずねのユダヤ人のことにお答えしませんでした。それは次のようなごく簡単な理由からです。すな
わち私は、父や弟と同様にカトリック教徒ですが、一方母はユダヤ人︵ユダヤ教徒︶なのです。これだけで、あ
︵3︶
のような議論をご遠慮申し上げる充分な理由になることがお分りいただけましょう。﹂
しかし、母親がユダヤ人だということで、何もかもが決定されるわけではあるまい。まして、そこからプルースト
の描く複雑で多面的な世界までのあいだには、はるかな距離がある。その距離を作者はどんな風に埋めたのか。言い
かえれば、プルーストはどのようにしてプルーストになったのか。私が関心をそそられるのはこの点である。
ところで、これを多少なりとも解明するつもりで調べを進めて行くに従い、私はこの問題が途方もない広がりを持
つものであることを理解しないわけにいかなかった。西欧の一作家が、ある形でユダヤの問題に印づけられていった
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一橋大学研究年報 人文科学研究 22
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軌跡を明らかにしようとすれば、直ちにそこには二、○○○年の歴史がまつわりついて来るからだ。それはとても私
の手に負えぬことだが、プルーストの揚合は、どんなに切りつめてみても、少くとも十九世紀のフランスにおけるユ
ダヤ人の状況の変化ぐらいは、まだごく近い歴史として彼のなかに生きていたように思われる。私が本稿で、いくら
か考察したいのは、一個人を形作り、かつその個人のなかで生きているそうした歴史である。しかし、プルーストは
作家として、それを作品化したからこそ、この問題がわれわれの眼にふれることになったのだし、そもそもの出発点
には作品があり、そこに示されたユダヤ世界があったのだから、本稿においてもまず﹃失われた時を求めて﹄を考察
ヤ
の対象として、そこに描かれている最も重要な二つの肖像を手がかりに、プルーストが作品に描いたユダヤ世界の構
造を明らかにすることから始めたい。この二つの肖像は、プルーストの専門家ならずとも、注意深い読者にはよく知
る。ところでそのスワンについてまず読者は、彼の生活が多様な局面で展開されることを知らされる。すなわち彼は、
かしまたそうした浪費自体が一つの憎めない人間的魅力にもなっている男、ユダヤ人シャルル・スワンがその人であ
りながら控え目で、よい趣味を持ちながらそのくせだらしがなく、あたら才能を下らぬことに消費してしまうが、し
ると思われるために、つい読者も共感を覚えずにはいられないような人物、非常に博識だが謙虚で、相当な金持であ
﹃失われた時を求めて﹄には、冒頭から一つの魅力的な顔が登揚する。作者自身がたいそう好意的にこれを描いてい
スワンの上昇と下降
レーフユス事件までの期間に限定して考えてみることにしたい。
スワンとブ・ックがそれである。その上で、これら作中人物を作り出した作者プルーストの意識形成を、主としてド
られたものだが、これを欠いてはプルーストのユダヤ意識そのものが間題にならないはずだからである。すなわち、
ヤ
あるユダヤ意識の形成
株式仲買人であったその亡父の代から、この小説の語り手の家族と親しくしており、﹁息子のスワン﹂と呼ばれて気
楽な隣人づきあいをしているのであるが、同時に他方で﹁ジョッキー・クラブの最高の伊達男﹂、﹁パリ伯爵やプリン
ス.オヴ.ウェルズのお気に入り﹂であり、﹁フォーブール・サン“ジェルマンの上流社会の寵児﹂だというのであ
る︵プレイヤード版﹃失われた時を求めて﹄第一巻一五−一六ぺージ参照。以下これを℃H一一U−一ひのように省略する︶。にもかか
わらず、彼は相変らず気さくに手土産など下げて語り手の家族を訪れつづけているし、語り手の家族の方では、スワ
ンが華やかな社交生活を送っているなどとはつゆ知らずに、﹁初めて家に来るお客のお相伴をさせるのに、スワンで
は少々威厳に欠けると考えて、彼を招待しなかったような重要な晩餐の揚合も、グリピッシュ・ソースやパイナップ
ル・サラダの作り方を知る必要が起こると平気で彼に来てもらうのだった。﹂︵霞し。。︶
このように、二つの異った水準に展開されるスワンの生活と、その両者の途方もない落差とは、作品の冒頭から鮮
明な形で提示されており、それらはまったく相通じあうことのない二つの閉ざされた世界のごとくに見えるのである。
ところでスワンには、これ以外にさらに別な水準の生活があって、それはオデット・ド・クレシーとの結婚によっ
て形成された彼の家庭である。オデットは、貴族に相手にされないブルジョワたちのサ・ンに出没して、次々と男を
わたり歩いて来た一種のサ・ン娼婦であったが、この曖昧な過去を持った女との結婚を嫌った語り手の家族は、スワ
ン本人とは昔通りにつきあうけれども、スワン夫人のことはいっさい家に寄せつけようとしない。それはまたフォー
ブール・サンHジェルマンの貴族たち、たとえばスワンとたいそう親しいゲルマント公爵夫人の執る態度でもあって、
彼女は、最高の社交揚のなかでも他の人たちを小馬鹿にして、スワンと自分だけに通じる会話を共犯者的に楽しむよ
うな間柄であるのに、そのスワンの妻子には頑として会おうとしないのである。こうして、﹁息子のスワン﹂と、社
交界の寵児﹂に並んで、第三のスワン、すなわち﹁オデットの夫﹂という存在が描かれることになるのである。
143
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
したがって、ここには複数のスワンがいると言ってもいい。ところで、プルーストがこのように多面的な人物を描
僻
いたのは、どういう意味を持っているのだろうか。むろんわれわれは、プルースト自身が作品のなかでそうしたよう ー
に、﹁さまざまな︵多様な︶スワン﹂象奉富望、p目から、認識の主観性という結論を引出すこともできる︵℃≡も旨︶。
︵ 4 ︶ 、 、
また、ジャン・ルッセが行なったように、この多様性を、作中人物を提示する方法という観点から分析することもで
きよう。しかし、私が多様性の意味というのは、そういうことではない。﹃失われた時を求めて﹄という虚構の作品
は、たしかな手ごたえを持った全体的な一世界を構成しているのであるから、私はまずその世界の内部で、本人のス
︵5︶
ワンにとって彼自身の生活の多様な局面がもたらした意味を探ってみたいのである。しかもビュトールも言うように、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
どんな作家も必ず現実の自分自身のなんらかの経験から出発して作中人物の創造に向かうものである以上、それが現
実のプルーストの経験となんらかの形で通底しており、したがってプルーストの何かを意味している︵指し示してい
る︶はずだということも、一つの前提としてふまえておきたい。
三つの水準に展開されるスワンの人間関係を考えてみると、われわれはこれがスワン自身の生活史のなかで、明ら
かに三つの異った時期に形成されたものであることを理解することができる。最初スワンは、一介の株式仲買人の息
子にすぎなかったはずである。彼の父親は語り手の祖父の親しい友人だが、これは十九世紀中葉の、比較的裕福な家
庭同士の平凡なつきあいにすぎない。﹁息子のスワン﹂という表現は、そうした気楽な身分から生れたものと言って
いい。
そのスワンが、小説の最初の部分からすでに﹁社交界の寵児﹂として紹介されているのは、この物語の始まる前に
彼が急激な上昇をなしとげて、別な社会層のなかになんらかの手段で入りこんだことを示している。これはプルース
トにとって、後述するごとく非常に重大な意味を含んでいる現象であった。だから彼はそのことを冒頭から力説して、
あるユダヤ意識の形成
一種の階級離脱のようにこう書いている。
﹁当時のブルジョワたちは社会についていくぶんインド風の考えを持ち、社会は閉ざされたカーストで構成され
ていて、銘々は生れ落ちるや否やそのまま両親の占めている身分に位置づけられ、たまたま例外的な生涯や思い
もかけなかった緒婚にでも恵まれないかぎり、離脱して上のカーストに入りこむことはできないと見なしてい
た。﹂︵勺一讐一ひ︶
﹁自分が生れたカースト以外のところ、自己の﹃階級﹄の外でつきあいを選ぶ者は、大叔母の眼には忌まわしく
も階級を脱落した者として片づけられてしまうのである。﹂︵霊る一︶
このように固定されたヒエラルヒーの想定は、プルーストの特徴であって、彼は常にその﹁カースト﹂の存在を、
鋭く意識していたように思われる。そのことを、われわれはまず記憶にとめておきたい。
ではユダヤ人スワンは、どんな風にして最高の社交界にまで入りこんだのか。それについて﹃失われた時を求め
て﹄は、何もわれわれに教えてくれない。しかし、少くとも富だけが貴族社会への万能のパスポートになるものでな
いことは、明らかである。なぜなら、・チルド家か何かを思い浮かべながらプルーストが作り出したと思われるサ
ー.ルーファス・イズレイルズという名のユダヤ人は、比類を絶した財産を持ちながら、決してスワンと同じような
形では、最高の社会に受入れられることがなかったからである。わずかに暗示されているのは、スワンが一時、貴族
の娘との結婚によって上流社会に入りこもうと目論んだ、ということだけであって︵国玉$︶、それは彼が上昇を望
むスノブであったことを示しているとともに、こうした﹁カースト﹂においては縁組こそが決定的に重要であること
をも暗示している。だからまた、一旦スワンが社交界にもぐりこんでしまうと、ユダヤ人であるはずのスワンの父親
までが、実はベリー公爵︵一八二〇年に暗殺されたブルボン王朝の後継者で、シャンボール伯欝の父親︶の落胤では
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一橋大学研究年報 人文科学研究 22
ないかといういつわりの風評が立ちはじめ︵励=温墨ひ総占$︶、そのうちにスワンが改宗したのだということがささ
やかれて︵凹ふ象占呂︶、ついには死後にスワンがカトリック教徒として埋葬されることまで予告される結果になる
︵国一㍉ご︶。つまり、上流社交界への進出は、実はスワン自身の非ユダヤ化の過程であって、スワンをして一個の﹁に
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
せのユダヤ人﹂たらしめるものなのである。
︵6V
しかしスワンは、こうして獲得した地位を保つために必要ないかなる血縁も持っているわけではない。だから彼は、
貴族以上に貴族的になって、辛うじてその地位を維持しなければならない。作品のなかでしばしば語られる﹁ゲルマ
ント家の才気﹂を、スワンほど身につけている者がいないのは、そのためである︵匡﹂軍その他︶。だが、この脆い
立揚は、何かのはずみで崩れ去り得るものだ。果してオデットとの結婚は、彼の顛落の始まりであって、この小説の
スワンは、ほとんどその再下降の過程のみを克明に描き出されていると言えるくらいである。
その上、興味深いことには、このような下降に応じてスワンは貴族社会のなかで身につけた感覚を失い、たとえば
自分の妻のサ・ンに高級役人の妻の訪間があったことを、とくとくとして吹聴するかと思うと、妻のばかげた話にも
相好を崩すようになる。そればかりか、住居もサン”ルイ島の古いオルレアン河岸から撤退して、第二帝政期以後に
開発されたブーローニュの森に近い無性格な住宅地1いかにもブルジョワの住居らしく、寄せ集めの家具に囲まれ
たアパルトマンーに移るのである。われわれはプルースト自身が、自分の住んでいた当時のブルジョワの住宅地を、
必ずしも好んでいなかったことを知っている。とくに、﹃失われた時を求めて﹄の大半を執筆したオスマン通りのア
︵7︶
パルトマンを酷評して、﹁たいへん醜いアパルトマン﹂であると言い、﹁私がこれまでに見た最も醜悪なもの、悪しき
ブルジ日ワ趣味の勝利﹂とこきおろしたことも分っている。ところがそのプルーストの描く﹁オデットの夫﹂になっ
︵8︶
たスワンは、そうしたブルジョワ趣味の環境にもいつか満足するようになり、ずるずると洗練された好みも失ってい
14b
くのであるが、それまでのスワンは社交界の征服によって非ユダヤ化していったのだから、この再下降はスワンの再
ユダヤ化を底に秘めているとも言えるのである。プルースト自身が、非常に巧妙に、読者にそのことを意識させるよ
うな言葉をちりばめている。というか、彼がこれを内心で再ユダヤ化と重ねあわせているために、そうした字句が生
れて来る、と考えた方が正確かもしれない。むろん、オデットはユダヤ人ではない。けれども、プルーストはある部
分で、スワンの登りつめた社交界が風向き次第で、ときにはユダヤ人を排除するかと思うと、ときにはオデットのよ
うな曖昧な出身の女を槍玉に上げるものであることをーつまりオデットがユダヤ人と同様な賎民の要素を持ってい
ることを1両者を比較しながら克明に説いているのである︵国・蟄γ器。︶。別な箇所では、ユダヤ人のみに通じる
コ コ ノ ト
自分の正体をさらす危険があることを記している︵国㍉翼︶。さらにまた別のところでは、奇妙な記述があって、ス
ワンが﹁ユダヤ人特有の湿疹と、預言者伝来の便秘に悩んでいた﹂とされている︵℃押8ω︶。いったいユダヤ人と湿
疹や便秘にどういう関係があるのか、私にはまったく不可解だが、しかしこの不思議な言葉は、スワンがオデットを
︵9︶
通じて再び肉体的にもユダヤ人になっていったことを示しているだろう︵この肉体の問題は、後述するように、プル
ース︸のユダヤ理解に欠かせないものである︶。こうした過程に最後にとどめをさすのが、ドレーフユス事件であっ
て、スワンは多くの社交界の友人たちとは異って、きっぱりとドレーフユス派の立揚をとり、しかも年齢や健康の衰
えも手伝って、一気に凋落を完成する。これは一種の先祖返りとも言えるものなのである。
﹁ドレーフユス主義は、ズワンを異常なくらい単純な人間にしてしまい、かつてのオデットとの結婚以土に、彼
の物の見方を際立って衝動的で逸脱したものにしていた。この新たな階級離脱は、むしろ階級復帰と呼んだ方が
よかったがもしれないが、それはスワンにとって名誉なことにほかならなかった。というのも、そのために彼は、
147
言葉と、オデットのような﹁高級娼婦﹂のみに通じる言葉を比較し、第三者のいるところでそれを用いると、ともに
あるユダヤ意識の形成
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
祖先のたどって来た道、貴族との交際で彼がそれてしまった道に、再ぴ戻ることになったからである。﹂︵国押
軌。。卜。︶
このように見てくると、スワンの多様性といわれるものは、その大部分が、ユダヤ人としてのスワンの上昇と下降、
非ユダヤ化と再ユダヤ化の過程に対応していることが分るであろう。なるほど﹃失われた時を求めて﹄は、とくに最
終篇﹃見出された時﹄で啓示されるように、スワンだけではなくてさまざまな人間の社会的上昇ないし下降の軌跡に
満ちている、と言われるかもしれないーたとえば、どうしても貴族社会に入りこめなくて、その腹いせに貴族を
﹁退屈な連中﹂と呼んでいたヴェルデュラン夫人が、﹃見出された時﹄では、夫の死後にデュラス公爵と結婚し、さら
に二度目の夫の死後に飛躍的な上昇をとげて、ゲルマント大公の妻となって盛大なパーティを主催している姿が見ら
れる、といったようにー。しかし、最終篇で一気に暴露されるこうした上昇と下降は、余りに唐突でもあれば不自
然でもあるし、そのメカニスムに至ってはほとんど明らかにされていない。いま挙げたヴェルデュラン夫人などは、
七十五歳か八十歳で三度目の結婚をして、サロンの女主人におさまっている勘定になるくらいだから、作者がこの変
貌を綿密に準備したとはとうてい思われないのである。そうした不自然さは、未定稿という条件から来たものとして
眼をつぶるとしても、﹃見出された時﹄で不意に明かされるこれら社会的地位の急激な変化になんの必然性もないこ
とは、認めなければなるまい。たった一つ、そうした社会的上昇と下降の基準になっているのは、作者が克明にあと
づけた唯一のケース、すなわちスワンのそれである︵なお、これと無関係ではないものとして、ジャン・ルッセが
﹁スワンの双生児の兄弟﹂と名づけたシャルリュスの揚合があるが、これについては別な機会にふれるつもりである︶。
︵10︶
その意味においても、スワンの上昇と下降、彼の非ユダヤ化と再ユダヤ化は、﹃失われた時を求めて﹄の世界全体を
支える社会的骨組に、生命を与えるものと言わねばならない。プルースト舷このように、ユダヤという間題を中心に
148
あるユダヤ意識の形成
すえて、まずその社会的把握の方法を学んだのである。
ニ ブ・ックの位置
ところで﹃失われた時を求めて﹄には、このスワンの対極に位置づけられる一人のユダヤ人がいるのであって、そ
れが語り手の年長の友人ブ・ックであることは言うまでもない。作者はこの人物を、何から何までスワンと対照的に
作り上げた。控え目なスワンに対してブ・ックは甚だ街学的で饒舌で、仰々しい表現や大げさな比喩を平然と用いる
し、繊細で敏感なスワンに対して、彼はまるで他人の反応に気づかずに、相手の気持を逆撫でするような言葉をまき
ちらす人物である。作品全体を通じて、このブロックは、愚かで、滑稽で、しかも傲慢不遜な一ユダヤ人として、そ
の姿をさらしている。いま一例のみを挙げておけぱ、ブ・ックは、かつてのクラスメートである語り手に向かって、
こんな風に言うのである。
﹁咋日ぼくはね、きみのこと、コンプレーのこと、きみに対するぼくの限りない愛情のこと、きみは覚えてもい
ないだろうけれど午後のクラスで起こったあれこれのことを思い出して、ひと晩じゅうすすり泣いていたんだよ。
もしもこれが嘘だったら、ぼくはたちどころにあの真黒なケールにとらえちれて、おぞましい死者の国の王ハデ
スの門をくぐらされてもかまいはしない。﹂︵国㍉a︶
むろん語り手はこんなことを信じない。ブ・ックの言葉は、彼がさまざまなものにかけて、たとえば﹁誓いの守護
神であるク・ニオン・ゼウスにかけて﹂︵国㍉ホ︶誓えば誓うほど、いっそういつわりの言葉のように響くのである。
注意すべきことは、ブ・ックだけではなくて、彼の父も叔父も、妹たち従妹たちも、ことごとく甚だ滑稽に、ある
意味では意地悪く描かれていることであって、それは同じユダヤ人でもスワンに対する揚合とまったく異っている。
149
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
またそのような戯画は、多分に彼らのおかれた環境に関連しているように思われるのである。
その環境とは何か。ブ・ックの家族は、避暑地のバルベックなどに現れるところから判断するとかなり余裕のある
ヤ ヤ ヤ ヤ
家庭のようにも見えるけれども、多くの揚合は下積みのユダヤ人として描かれているのである。それもユダヤ社会の
ヤ ヤ ヤ
なかでも下層に属するということになっている。それと同時に、作者が注意深く強調しているのは、これが同化して
いないユダヤ人、彼らだけ他の社会の成員から離れて生活しているユダヤ人である、ということだ。だから彼らは避
暑地のバルベックに来ても、ユダヤ人のコ・二−を形成していて、一向に他の避暑客に融けこもうとしない︵霞㌔お
も$︶。ぎくしゃくと、他人の眼を意識しながら、自分たちだけで群をなして、しかもかなり挑戦的に振舞うこの人
たちの記述は、この土地の描写のなかで他の部分とまったく異質な一種の不協和音を放っており、‘それだけが妙に浮
上って見えるのである。
プルーストは、他のところでも、これら同化されないユダヤ人のことを語っている。たとえば、パリのあるレスト
ランでは、ブ・ックとその友人のユダヤ人がしばしば訪れるので、彼らに専用のドアができている、といったように
︵℃月お一︶。そして、これらの同化されないユダヤ人を、﹁ヘブライ人﹂または﹁外国人﹂と呼び︵勺月8一玉。。。︶、彼
らの誠実さや寛大さは認めながらも、その﹁奇妙きてれつな外観﹂が、それを﹁我慢できない人びとに、不快感を与
えた﹂と言う︵国担ε。。︶。ブ・ックが、少くとも発端においては、これら同化されぬユダヤ人の代表として描かれて
いることは間違いない。また、語り手が︵そしておそらくは作者が︶、ここで非ユダヤ人の側に身をおいているらレ
いことも、容易に推 測 で き よ う 。
以上のように見てくれば、プルーストがブ・ックの形容詞として何度も用いている﹁育ちが悪い﹂︵ヨ巴含Φまり
旨雪く巴器&琴簿一8︶︵℃廿§。㍉&︶という甚だ曖昧でしかもかなり通俗的な言葉が、これまた同化していないユダ
150
あるユダヤ意識の形成
ヤ人の状況と密接にからんでいることも、明らかだろう。じじつ、ブ・ックは、作品が進むにしたがい、同化によっ
て﹁育ちの悪さ﹂をかなりの程度まで払拭することになる。というのも、彼は初めユダヤ社会の下層の人間として、
単にキリスト教徒だけでなく、﹁自分より上の層を形成するユダヤ人のカースト﹂︵国﹄云︶の重圧をも受けていたた
めに、これを一段一段とよじ登ることに堪えられずに、越境逃亡をはかることになるのだが、こうして異った環境に
入りこむにしたがって、いつの間にか持ち前の図々しさや強引さを、どこかに脱ぎ落しているからである。
﹁謙虚さ、言葉や行動の上での控え目な態度、それが社会的地位と年齢に伴って、いわば社会的年齢とでもいっ
たものに伴って、ブロックに現れるようになった。なるほど以前の彼は戴遠慮で、他人に親切にしたり助言した
りすることなどできはしなかった。しかし、ある種の長所や短所は、甲なり乙なりの人物に付属しているという
よりも、むしろ社会的観点から見たしかじかの生活の時期に属しているのである。それらは、ほとんど個々人の
外部にあると言っていい。﹂︵コ=もざ︶
﹁育ちの悪かった﹂ブ・ックが、このようにその欠陥を振り落していったのは、彼がユダヤ人社会から脱出した結果
なのであった。じじつ、典型的なユダヤ人のごとくに描かれているブ・ックは、自分のアイデンティティを否認する
ところからその上昇の努力を開始するのであって、﹃失われた時を求めて﹄のなかで何の説明もなく唐突に示されて
いる彼のユダヤ人呪誰の言葉は、そうした志向を示すものなのである。彼は他のユダヤ人の読を嘲笑して、﹁おい、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
だが、これは彼がユダヤ人である故に、かえって露骨な反ユダヤ主義者になったことを意味している。
アプラハム、ぽくシャコプにてあったよ﹂︵∪冨αo昌ρ︾嘆巴声ヨ㌧9総営Oげ巴8℃︶︵℃一㌧器。。︶などと言ってみせるの
ヤ ヤ
ユダヤ人が反ユダヤ主義者になるというのは、決して珍しいことではない。フ・イトもその﹃夢判断﹄のなかで、
自分の夢に現れた屈折した反ユダヤ主義的傾向を語っている。すなわち彼は﹁ふたりの尊敬すべき学者たる同業者を、
151
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
ぴとりは馬鹿者として、他のぴとりは犯罪者として、夢のなかでまさに彼らがユダヤ人であるがゆえに虐待すること
︵11︶
によって、自分が大臣ででもあるかのように振舞﹂ったことを告白しているのである。そしてこの夢の背景には、フ
・イト自身が教授任命を拒まれたという事実があって、ここではそれを拒んだ大臣への復讐と、ユダヤ人にとっての
上昇の願望とが、からみあっていることがうかがわれる。いずれにしてもフ・イトは、このように夢のなかで自分の
ックの揚合は、それを覚醒時の世界のなかで徹底させて、他のユダヤ人を罵倒しながら這い上ろうとするのである。
反ユダヤ主義を暴露したわけだが、それは彼が自分のユダヤ人であることを意識する一つの仕方なのであった。ブ・
こうして彼はいつか貴族の社交界に入りこむことに成功し、ゲルマント家と最も親しい人物と見なされるに至るが
︵勺目もa︶、そうなった彼は、ブ・ックという直ちにユダヤ人と知られる名前を棄てて、ジャック・デ.﹁・ジエな
どという勿体ぶった名前に変更し、その否認を完成させるのである︵=芦。鴇︶。このようなブロックは、スワンの
裏側の人物なのであって、同化したユダヤ人であるスワンの再ユダヤ化とともに、ブ・ックの非ユダヤ化︵同化︶こ
そが、﹃失われた時を求めて﹄の世界を支える縦軸をなしているのである。
三 同化と非同化
同じユダヤ人でありながら、以上に述べてきたように両極端に位置し、また正反対の方向に変化していくこのスワ
ンーブ・ックの対立を、作者プルーストはきわめて意識的に提示したように見える。言いかえれば、その対立は鮮明
な一つの意味を持っていたと思われる。そのように私が推断するのは、ブ・ックが作品のなかで最初に登揚する部分
から、すでにこの両者の関係が、さりげなく、しかし的確に暗示されているためだ︵霞もゲ8︶。その部分は、語り
手の祖父が独特の嗅覚で、孫の連れて来る友だちがみなユダヤ人であることをかぎつけてしまう箇所であるが、現行
152
あるユダヤ意識の形成
テクストでは次のよ う に 書 か れ て い る 。
﹁なるほど祖父は、ぼくが学校友だちのだれかととくに仲よくなって、その友だちを家に引張って来るたびに、
お前の友だちは決まってユダヤ人なんだね、と言っていたが、しかしもし万一、自分の孫がいつも最良のユダヤ
人のなかから友だちを選んでいるらしいと考えていたのであれば、原則として祖父は気を悪くしなかったところ
であろう1祖父の友人のスワンも、ユダヤの血統だからであるー。﹂︵℃H”。一︶
そして祖父は、アレヴィ作の﹃ユダヤ女﹄や、サン“サーンスの﹃サムソンとデリラ﹄など、ユダヤに関係した曲
を口ずさみながら、﹁ご用心: .こ用心!﹂とつぶやく、というのである。
なるほど、ここではスワンの名がちらりと出て来るだけで、あとはブ・ックの無作法さや滑稽さが長々と書かれる
ことになる。しかし、作者にとって、スワンとブ・ックは切離せないものなのであった。少くとも、この両者はプル
ーストの描いたユダヤ世界の両輪として、その特徴を作っているように思われる。その証拠に、この決定稿に至る以
前の段階でも、プルーストはこの二つのものの対立を表現すべく、その形式をしきりに模索しているのである。現在
パリの国立図書館に収められている﹃失われた時を求めて﹄を準備する六二冊の自筆ノート︵いわゆる﹁カイエ﹂と
︵12︶
呼ばれているもの︶の第四冊目には、この対立が今度はスワンに重点をおいて書かれているが、そこではまず、﹁ス
ワンはユダヤ人だった﹂と記されており、その上で、﹁彼は祖父よりずっと若いが、その親友だった。しかも祖父は
ユダヤ人が嫌いだったのである﹂として、現行テクストのように語り手の友人の話になった後に、祖父がスワンの眼
の前で、はっきり声に出して﹃ユダヤ女﹄や﹃サムソンとデリラ﹄をうたうこと、こうしてスワツだけを他のユダヤ
人と区別して、自分のユダヤ人嫌いを平気で示すことのできる身内のように見なしていることが描かれている。つま
りこの挿話は、当初スワンの同化の深さのしるしとして用いられていたのであって、それが決定稿において、ブロッ
153
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
クの奇矯な言動の紹介ーすなわち同化していないユダヤ人の﹁育ちの悪さ﹂の説明1に流用されたことが分るの
である。
それは何を示しているのだろうか。同化ー非同化の関係が、作者の大きな関心を作っていた、ということである。
また、﹁階級離脱﹂を果したあとのスワンを、それでもユダヤ人であると言うためには、ブ・ックないしは彼と同様
に警戒しなければならない本物のユダヤ人の存在が必要だったということを、それは示しているのである。
ヤ ヤ ヤ
こうした考察の末に、私が思い出すのは、ルイス・ワースの﹃ゲットー﹄︵邦訳題名﹃ユダヤ人と疎外社会﹄︶である。
︵13︶
﹁あらゆる民族とすべての文化集団は、自らのゲットーを創造し維持する﹂と言うワースにとっ七、ユダヤ人をユダ
ヤ人たらしめるのはゲットーの存在であった。
﹁そのなかに居住していない、あるいはたぶん、一度も住んだことのないユダヤ人を、完全に彼の世界から離脱
︵14︶
させ、非ユダヤ人社会に吸収されるのをさまたげているのは、このゲットーなのである。﹂
ブ・ックとその仲間は、スワンにとってこのようなゲットーを構成する。いわば、スワンのような﹁にせのユダヤ
人﹂の裏側にあって、スワンをユダヤ人たらしめるのは、これら同化しないユダヤ人であって、したがってスワンの
創造のために彼らの存在は不可欠なものだったと考えるべきだろう。
こんな風に、互いに鋭く対立しながら支えあっているのが、スワンとブロックの関係であるが、その両者を非常に
近づける一点がある。それこそドレーフユス事件であって、彼らは申し合わせたように、いずれも自分の利益に反し
てドレーフユス派になることを選ぶのである。その選択がスワンにとって決定的な再ユダヤ化の契機となり、彼をし
てその後はひたすら凋落の一途を辿らせるようになったことは、すでに述べた通りだ。一方ブ・ックはと言えば、下
層のユダヤ人である身分から少しでも自由な空気に近づくために、自分の出身を隠して貴族の社交界に入りこむ手段
154
あるユダヤ意識の形成
を狙っていたはずなのに︵それが彼のスノビスムを構成する︶、ドレーフユス事件が起こるとたちまち本来の戦略を
忘れ去って、署名集めや裁判傍聴に奔走し、ユダヤ人としての自分の姿をさらけ出してしまうのである。
したがって、作者がドレーフユス事件を、ユダヤ人をしてユダヤ人たらしめる事件と見なしていたらしいことが推
察されるが、ではプルースト自身の揚合はどうだろう。周知のように、彼もまたドレーフユス事件のさいには、その
一生でおよそ例外的なことであったが、ドレーフユス派として短期間のあいだ奔走した。﹁私は熱狂的なドレーフユ
ス派でした﹂と彼はシドニー・シフあての手紙で言っており、またポール・スーデーあての手紙では、﹁私はたぶん
︵15︶
︵驚︶
最初のドレ1フユス主義者でしょう。なぜなら、アナトール・フランスに署名を求めに行ったのは、この私ですか
ら﹂と記している。では、彼はズワンやブロックと同じように、ドレーフユス事件で一気にユダヤ人としての自覚に
引き戻されたと考えるべきだろうか。だが結論を急いではなるまい。プルーストはまた別のところで、﹁ひとりの人
︵17︶
間が苦しむかもしれない、という考えが、かつて私をドレーフユス主義者にした﹂とも書いており、当時の自分の選
択がユダヤ人としてのものであるというよりも、むしろ論理的で人道的なものであるかのように装っているし、さら
に事件当時にも、また後年にも、こうした行動が浮薄なものであるかのような言葉さえ、ところどころで洩らしてい
るのである。おそらく、プルースト自身のユダヤ意識は、ドレーフユス事件によって強烈な刺戟を与えられたではあ
︵18︶
ろうが、しかしそれ以前からきわめて複雑に形成されたのであろう。またそれでなければ、いま一端を紹介した﹃失
われた時を求めて﹄のような複眼の作品に到達することはなかったであろう。というのも、プルースト自身はたしか
に一時期ドレーフユス派であったが、彼の作品は、スワンやブ・ックのようにドレーフ.一ス擁護派か否かを判断基準
にするのではなくて、はるかに複雑かつ立体的にドレーフユス事件当時のユダヤ世界を描いているからだ。すでに、
ドレーフユス事件の渦中で書かれた﹃ジャン・サントゥイユ﹄のなかでも、彼は、﹁ユダヤ人であるからこそわれわ
﹁〇
一〇
1
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
︵19︶
れは、反ユダヤ主義を理解するし、ドレーフユス派であるから、ゾラを断罪した裁判官を理解するのだ﹂と書いてい
る。また前記シドニー・シフあての手紙は、こんな風につづくのである。
﹁あなたは以前にドレーフユス主義者だったことがおありですか? 私は熱狂的なドレーフユス派でした。とこ
ろで、作品のなかでは、私は完全に客観的です。﹃ゲルマントの方角﹄は反ドレーフユス派に見えるかもしれま
︵20︶
せん。しかし﹃ソドムとゴモラ∬﹄は完全にドレーフ.一ス派で、前の部分を訂正するものになりましょう。﹂
なるほど、﹃失われた時を求めて﹄の背景には、ドレーフユス事件がたえず流れており、たえず事件が作中人物の
話題に登揚するけれども、作品はこの事件をはるかに越えて、より広く、十九世紀末のフランスのユダヤ人の状況と
密接にからんでいるように思われる。だからこそ、ハンナ・ア⋮レントは、その反ユダヤ主義の研究のなかで長々と
プルーストにふれたのだし、またマイケル・R・マラスは、ドレーフユス事件当時のユダヤ人を知る手がかりとして、
︵21︶
︵22︶
真っ先にプルーストの作品を挙げたのであろう。ドレーフユス箏件は、フランスを二分するような大事件ではあった
が、ユダヤという観点からすれば、十九世紀末のフランスのユダヤ人がおかれた状況からこぼれ落ちた一挿話にすぎ
ないのである。
それはプルーストが、ドレーフユス事件にかかわるよりもはるかに深く、時代のなかにアンガジェしていたことを
意味してはいないだろうか。言いかえれば、プルーストにおけるユダヤの問題をも含めて、彼を理解するためには、
プルーストをその時代のなかに位置づけ直すことが必要になるのではないか。では、カトリック教徒で医学を修めた
父親と、ユダヤ人の母親とのあいだから、一八七一年に生れたプルーストは、十九世紀末のフランスで、どんな風に
自分の内部のユダヤを意識していったのか。それをあとづけることは、プルーストにおけるユダヤ世界を理解するた
めに、有効な手段ではなかろうか。これはなかなかの難題だが、以下に私はいくぶんなりとも、この問題を解明して
156
あるユダヤ意識の形成
みたいと思う。それがプルーストという作家を理解するために、不可欠な作業だと思われるからである。
四 一八八○年代の﹁ユダヤ人﹂
アルフレッド・ドレーフユス大尉が逮捕されたのは一八九四年十月十五日、彼に終身刑の判決が下されたのは同年
十二月である。翌年一月、ドレーフユスは位階を剥奪されて、流刑地に送られる。しかし、これが直ちにフランスを
二一分する﹁事件﹂となったわけではない。ドレーフユス大尉の兄マチューや、ベルナール・ラザールなど、少数の者
の必死の努力にもかかわらず、この事件が大きな反響を呼ぶのは、それから三年余りたった一八九八年一月十三日の
ゾラの﹁われ弾劾す﹂以来のことにすぎない。プルーストが友人たちとともに署名集めに走りまわるのも、裁判を傍
聴するのも、実はこの時期であって、だから彼が﹁最初のドレーフユス派﹂と自称するのは、かなり割引きして考え
ねばならない。いずれにしてもこのとき、彼は二十六歳になっている。
先にも見たように、なるほどプルーストはその作品のなかで、ドレーフユス事件がユダヤ人を不意にユダヤ人たら
しめる事件であるかのような趣旨のことを書いているとはいえ、むろん彼自身はこのときに初めて自分の内部のユダ
ヤを意識したわけではなかった。彼はその幼少期に、ときおり父親の生れ故郷イリエを訪れることがあったが、大部
分の時をパリとオートゥイユの母方の親戚に囲まれて過ごしたのであって、この親戚を通じて、ユダヤ人の血統を否
応なしに意識させられていたはずだからである。
だが、そのユダヤ人の血統とは、何だろう。そもそも、ユダヤ人とは何なのか。またプルーストが﹁ユダヤ人﹂
冒龍という言葉を書き記すときに、彼はこれによって何を意味させようとしたのだろう。これをユダヤ教徒と解し
てよいだろうか。それとも人種としてのユダヤ人ということであろうか。そもそも、そのユダヤ人と非ユダヤ人とは、
157
一橋大学研究年報 入文科学研究 22
画然と区別できるものなのであろうか。
たしかに種々の統計は、フランスのユダヤ人口について、さまざまな数字を伝えている。しかし、そこで扱われて
いるユダヤ人の定義は、実は甚だ曖昧なものだ。現に、パリのベルヴィル地区のユダヤ人にかんする詳細な研究を発
︵23︶
表したシャル・ット・・ランは、﹁ユダヤ社会の登録簿を参照してみても、︵ ︶宗教的集団のイスラエル人メンバ
ーの数、つまりはユダヤ教の信者で、その集団の生活に積極的に参加している者の数しか分らない。それは、伝統的
にも、出身の点からも、自分がユダヤ人であることを知っていて、しかもユダヤ教を離れている人びとを、とらえる
ことができないのである。にもかかわらず、フランスでも、またわれわれに関心のあるパリの地区︵ベルヴィル︶で
︵餌︶
も、そのような人たちこそ多数派なのだ﹂と記しているのである。
以前は、ユダヤ人といえばユダヤ教徒のことだった。しかし十九世紀のフランスでは、大革命以後、ナポレオンの
同化政策に端を発して、ユダヤ人の政治的解放が進行するにつれて、ユダヤ人社会そのものが急速に変貌したし、し
たがってユダヤ人の意識も明らかに変質したのであった。たとえぱ、彼らはもはや自分を、外国人・異邦人とは考え
なかった。一八二八年には、すでにレオン・アレヴィが、﹁ユダヤ人のすべては、心情においても精神においても、
フランス人である﹂と言明するくらいに、同化は足早に進行しつつあったのである。
︵25︶
このような政治的解放に呼応して、ユダヤ教からの改宗者も相ついだ。十九世紀フランスのユダヤ人社会のなかで、
最も著名な政治家であり、弁護士であり、またユダヤ教会の有力者でもあったアドルフ・クレミウは、後にもふれる
ようにプルーストの遠縁に当る人物だが、そのクレミウ家の子息たちさえカトリックに改宗しており、そのためにク
ユダヤ教会内に留まる者のなかでも、宗教的な実践に関心を失う者が増大した。このように、十九世紀フランスを方
︵26︶
レミウは、一八四五年にユダヤ教会内でのその重要な地位を辞しているくらいである。こうした改宗者とは異って、
︵27︶
158
あるユダヤ意識の形成
向づける非宗教化の趨勢は、カトリック教徒よりもまずユダヤ教の内部で、はるかに急速かつ顕著な形で進行したよ
うに見える。さらに一八七〇年代初めの調査を最後として、フランス政府は宗教上の帰属を調査対象から除外するこ
ととしたために、それからはユダヤ教徒の数すらも明確には知り得ないようになったし、ユダヤ教によってユダヤ人
︵28︶
を定義することも、この時期以後は実質的に困難になったのである。
それに代って登揚するのが︵﹁高利貸﹂といったような通俗的用法を除けば︶、人種としてのユダヤ人という概念で
あろう。この﹁人種﹂声8という語が、どれほど多義的に、また恣意的に用いられて、新たなパーリアとしての﹁セ
ム族﹂と、﹁アーリァ族神話﹂とを作り出すのに貢献したかは、レオン・ポリアコフの著作が明らかにして以絶。すで
に一八五〇年代には、ゴビノーの﹃人種不平等論﹄が書かれているのだが、十九世紀も後半になると実証主義の影響
を受けて、ア︶の﹁人種﹂という語は、疑似科学的な装いのもとに、大手を振って横行するようになる。それ以後、こ
の言葉は実に甚大な影響を及ぼしたのであって、お・てらく一世紀後の今日でも、われわれはいまだにこの﹁人種﹂と
いう概念から完全に自由ではないのだろうし、依然としてユダヤ人を一つの立派な人種であると錨覚している人も少
く ないかもしれない。
おそらく解剖学的にも、また生理学的にも、ユダヤ人種というものが存在するという考え方自体が今では否定され
ているはずであるが、それはともかくとして、これがどれほど曖昧で非科学的に濫用されたかは、マラスが詳しくふ
れている。ルイス.ワースも、ユダヤ人の身体的特徴ということにふれて、そのようなものは存在しないか、ないし
︵30︶
はたと・のへ存在したとしても、それは、﹁何世紀にもわたる離散に身を委ねながら、その血の純潔を擁護してきた﹂セム
族に属する人々といったような﹁伝統的見解﹂とは、まるで関係のないものであること、人種的というよりは、迫害
され隔離された都市住民の特殊な条件のなかで形成されたものと理解すべきこと、を説いている。いずれにしても、
︵31V
159
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
ユダヤ人と非ユダヤ人の境界線を、人種をもとにして客観的に決定することは、きわめて困難であり、とくにプルー
ストの両親のようなユダヤ人と非ユダヤ人の結婚が少しずつでも増加するにつれて、それは不可能なことでもあれば
無意味なことにもなったと言っていい。
にもかかわらず、プルーストの時代にユダヤ人が問題になったとすれば、その揚合のユダヤ人はマラスの言うよう
︵32︶
に、﹁ユダヤ人も非ユダヤ人も含めたフランス社会全体によって、ユダヤ人と見なされている者﹂とでも規定する以
外にないだろう。そしてこのような﹁ユダヤ人﹂は、プルーストが物心ついた一八八O年代から、急速に無視できな
いものになったのである。それまでのユダヤ人迫害とは異質な反ユダヤ主義、人種主義にもとづく反ユダヤの主張が、
この時期に火を噴いたからだ。まことにサルトルがその﹃ユダヤ人問題にかんする考察﹄のなかで、鋭利な直観を発
揮して看破したように、八○年代以降のヨー・ッパでは、反ユダヤ主義がユダヤ人を作ったのである。
とはいえ、もちろん八○年代以前のフランスでも1大革命とナポレオンの同化政策を経て政治的解放が進行して
いたにもかかわらずーユダヤ人迫害がまったく途絶えたわけではなかった。ただ一八七〇年代には、それも余り問
︵ 3 3 ︶
題にされず、反ユダヤの言説すらほとんど聞こえては来なかった。そのことは、あれほど克明に反ユダヤ主義文献を
拾い出したポリアコフも認めているところである。プルーストは一八七一年生れだから、彼が十歳になるまでは、フ
ランスに住むユダヤ人にとって比較的平穏な日々が続いていたと言えるかもしれない。
ところが一八八○年代に入ると、事態は微妙に変化しはじめた。まず一八八一年にパリで﹃反ユダヤ﹄>昌甘瞭と
いう定期刊行物が、さらに一八八三年にはモンディディエで﹃反セム族﹄>酵募巳庄ρ言が、それぞれ発刊され、こ
︵34︶
うして堂々と人種主義を看板に掲げる主張が展開されはじめたのである。もっとも、それはまだごく小さな運動にす
︵35︶
ぎなかったし、ほとんど一般からは無視されていた。後には﹁フランスで最も反ユダヤ主義的な新聞﹂と言われるよ
160
あるユダヤ意識の形成
うになったアソンプシオン修道会派の﹃ラ・ク・ワ︵十字架︶﹄紙でさえ、まだ﹁イスラエルに対して一種の寛容さを
示しており、ユダヤの間題にほとんど注意を払わなかった。ロチルド家のことを語る必要が起こっても、同家の宗教
上の帰属を指摘するまでもないと見なしていた﹂のであった。だから、.こくささやかな動きを別にすれば、八O年代
︵36︶
前半も、必ずしも反ユダヤ主義の声が大きいと言えなかったのである。むしろ逆にそのころは﹁良きユダヤ人﹂とい
った発想が眼につくくらいであって、それはむろん﹁悪しきユダヤ人﹂を前提とした差別的発想であるに違いはない
︵37︶
としても、正面切ってのユダヤ人に対する攻撃とは性質を異にするものであった︵なお、プルーストが﹃失われた時
を求めて﹄のなかで、語り手の祖父をして、スワンを他のユダヤ人と区別させたのは、﹁良きユダヤ人﹂を讃えるこ
うした雰囲気を敏感にキャッチした上でのことだったかもしれない︶。
このような空気に、はっきりと変化が生じたのは、一八八六年であったと思われる。では、その年に何が起こった
のか。この一八八六年は、二つの重要な出版によって印づけられた年である。すなわち、第一にエドゥアール・ドリ
ユモンの﹃ユダヤのフランス﹄が発表された年であり、第二に、数点の過去の反ユダヤ主義文献、とりわけトゥスネ
︵38︶
ルの﹃当代の王ユダヤ人﹄の第三版が、四十年ぶりに刊行された年なのである。この二つの書物は、それ以後のユダ
︵39︶
モンとトゥスネル
ヤのイメージに決定的な影響を与えたものなので、やや詳しく検討しておく必要がある。
五 ドリュ
エドゥアール・ドリュモンの波瀾に満ちた生涯は、十九世紀末から二十世紀にかけてのフランスの、日本では余り
︵⑳︶
知られていない一面を形成しているが、それについては今はふれない。しかし、他のことはともかくとして、彼の著
書﹃ユダヤのフランス﹄と、彼が主宰した﹃リーブル・パロ;ル︵自由言論︶﹄誌とは、以後のフランスに見られる反
161
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
ユダヤ主義の基礎を築いたものと言わなければならない。レオン・ポリアコフも、ドリュモンの著書が反ユダヤ主義
を若返らせたというモーリス・バレスの言葉を引いた後に、次のように書いている。
﹁一八八六年の春になって、初めて、エドゥアール・ドリュモンの﹃ユダヤのフランス﹄が収めた電撃的な成功
︵41︶
が、新たな空気を作り上げ、大規模な反ユダヤ主義の運動のために道を開いたのである。﹂
じじつ、この書物は、わずか一年間で一一四版、全体で二〇〇版以上を出したといわれるくらいであって、その途
︵42︶
方もない成功と、衝撃の深さとは、推して知ることができる。
何がこのような成功をもたらしたのか、真先に認めなければならないのは、ドリュモンのアジテーターとしての特
異な才能である。なるほど彼の展開する論理は、緻密でもなければ、正確でもない。しかし彼には、非常に単純な二
項対立を駆使して押しまくっていく腕っぶしの太さがある。それは強引に単純化されているだけに、一見明快であり、
一度そのリズムに乗せられて彼の主張を信じはじめた人には、ことによると説得的でさえあるかもしれない。
しかも、そのように大まかだが歯切れのよいアジテーションによって彼が主張するのは、先に述べた疑似科学的な
﹁人種﹂を基盤とする﹁ユダヤ禍﹂の警告であり、ポリアコフのいわゆる﹁アーリア族神話﹂なのであった。たとえ
ば次のような例がある。
﹁セム族︵ユダヤ人︶は金もうけがうまく、強欲で、陰謀家で、巧妙で、陰険だ。アーリア族は熱狂的、英雄的、
騎士的で、利害にうとく、率直で、馬鹿正直なくらいに人を信じ易い。セム族は、現在の生活の彼方にほとんど
︵43︶
何も見ることのできない地上の人だ。アーリア族は天の子であって、たえずすぐれたものに憧れている。前者は
現実に生き、後者は理想に生きる。﹂
﹁コミューヌは、二つの面を備えていた。一方は、非理性的で、浅はかで、しかし勇敢な、フランス的側面であ
162
あるユダヤ意識の形成
︵郵︶
る。他方は、利にさとく、強欲で、略奪好きで、低劣な形の投機性を備えた、ユダヤ的な側面である。﹂
こうした強引きわまる二分法的論理は、﹃ユダヤのフランス﹄の至るところに見出すことができる。
しかし、このように単純な弁舌だけで、当時のベスト・セラーができあがるわけではない。それと同時に、この著
作が争って読まれたのは、そのころのイエズス会派を中心とする保守派の待望するもの、その意味で時宜にかなった
ものがあったからだと思われる。すなわちそれは、ユダヤというレッテルによる共和派の攻撃である。
当時のフランスの政治情勢は、普仏戦争の敗北から一八七九年までに至る反動期、つまりいわゆる﹁共和派なき共
︵45︶
和国﹂閃95言き罫島詠薯げ一一。巴扇を経て、﹁共和派の共和国﹂閑曾5言5H曾号浮巴宕が形成され、第三共和制
の基礎が固まりはじめたときであった。じっさい一八七〇年代の前半まで、共和制はまだきわめて不安定であって、
もしブルボン王朝の後継者であるシャンボール伯爵に多少の現実主義と政治感覚があったなら、王政復古も充分に可
︵46︶
能だったろうとさえ思われるくらいに緊迫した情勢がつづいたのであったが、こうした状態は共和派が絶対多数を獲
得した一八七六年の総選挙以後になると徐々に崩れはじめ、野心家マク・マオンの退揚と同時に、八O年代の新らし
い時期に入りこんでいったのである。
この時期の政治的中心課題は、国家の非宗教化の推進という問題であって、無償の義務教育の施行と相倹って、・
ーマ教会との関係の調整は焦眉の急だった。言いかえれば、教権主義と、反教権主義とが、表面的にはフランスの政
クレリカリスム ァソチリクレリカリスム
治を二分して争っていたのである。共和派の指導者で、一八八二年に急死したガンベッタが、﹁教権主義こそ敵だ!﹂
と演説したのは、よく知られている。だから七〇年代の保守派は申し合わせたようにカトリックであり、・ーマ教会
︵47︶
との結びつきが強かった。モンマルトルの丘に醜悪なサクレ・クール寺院の建立が決定され、その工事が始められた
のもこの時期であれば、ルールドヘの巡礼が盛んに行なわれたのも同様である。﹁道徳的秩序﹂の政策といわれたこ
163
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
の時期の保守派の政策は、教権主義と一体をなしていた。
ドリ.一モンの書物は、こうした教権主義を鼓吹したものではない。むしろ、先にも述べたようなアーリア族とセム
族の単純な区別を出発点として、肉体的、心理的、思想的なありとあらゆる悪性をユダヤ人のものとした上で、第三
共和制の確立に影響力を発揮した政治的指導者たちや、財界人たちに、こと、ごとく﹁ユダヤ﹂というレッテルをはり
つけて、これを攻撃したものである。しかしまたそうすることによって、彼は八○年代に入って明らかに劣勢にまわ
った教権主義の擁護者たちに、﹁ユダヤ﹂という攻繋目標を復活させ、こうして新たな活力を注入したのでもあっ
た。
あたかも﹃失われた時を求めて﹄の語り手の祖父のように、彼は至るところにユダヤ人をかぎつける。多くの共和
派がそうであって、ジュール・シモンやアドルフ・クレミウはもとよりのこと、ガンベッタまでが彼によれば﹁ユダ
ヤ人であり、かつ皇帝である。﹂彼は執拗に、ガンベッタがユダヤ人であるという印象を与えるべく、あらゆる資料を
︵48︶
動員した上で、﹁ガンベッタとその朝臣たち﹂について、長い一章を書いてこれを攻撃する。クレミウもまた、世界イ
スラエル同盟の指導者として、六〇ぺージにわたる一章の対象として、罵倒を浴せられる、といった調子で、上下二
巻、一、一〇〇ぺージに上る膨大なこの書物は、終始一貫して、時代を支配する者としてのユダヤ人に飽くことのな
い批判と中傷を放っているのである。
ところでドリュモンは、このような﹁ユダヤ﹂のレッテルによる政敵攻撃の方法を、実は初期”社会主義者”の一人
でフーリエ派に属するトゥスネルから学んだのであった。ここに、近代の反ユダヤ主義の持つ、一筋縄ではいかない、
甚だ始末におえない性格がある。じじつ、ドリュモンは、一八三〇年から四八年までのいわゆる七月王政下で﹁ユダ
ヤ人の支配が始まったしとした後に、次のように記しているのである。
164
あるユダヤ意識の形成
﹁トゥスネルの言うように、﹃フランスにもはや王政は存在しなかった。ユダヤ人がこれを隷属せしめた﹄ので
ある。
この十八年間のユダヤ人による支配から、不滅の傑作が出現した。﹃当代の王ユダヤ人﹄がそれである。
論争の書、哲学的で社会的な研究、詩人で思想家で予言者である人の作品、トゥスネルの見事な著書は、同時
にそれらすべてである。そして長い歳月のあいだ営々として文章を書いてきた私の唯一の野心を告白すれば、栄
光に満ちたわれわれの大切な国がどんな原因で荒廃と屈辱のなかに追い落されたのか、それを理解したいと思う
︵49︶
ような人たちの書庫のなかで、私の書物がトゥスネルの著書のかたわらに並べられるようでありたい、というこ
となのである。﹂
十九世紀末の反ユダヤ主義の教祖ドリュモンは、トゥスネルを手本にして、これと並べられる栄誉を夢見ながら、
﹃ユダヤのフランス﹄を書いたのであった。一方、このような刺戟剤となったトゥスネルの著書も、上述のごとく、
同年つまり一八八六年に第三版として蘇える。むろん﹃ユダヤのフランス﹄の成功が、トゥスネルを忘却から救い出
したのであって、初版は一八四五年、再版は一八四七年だから、実に四十年の歳月を隔ててこの反ユダヤ主義の聖書
は再ぴ脚光を浴びることになったのである。
トゥスネルの書物は、一見したところ、十九世紀前半、とくに七月王政時代の金融貴族︵いわゆる﹁オート・バン
︵50︶
ク﹂︶の支配をあばくとともに、これに結びついたサンーーシモン派を批判した書物のように見える。そしてむろん、
それが重要な主張であることに違いはないが、この書物はそれ以上に、題名にも現れているごとく、サン日シモン派
批判の名目の下に地上の実さいの権力者をユダヤ人と断定し、これに向けてむき出しで感情的な攻撃を加えたもので
あった。彼はユダヤ人を﹁金融封建制﹂と同視して、これを﹁金銭貴族﹂と名づけ、七月革命でその支配が確立した
165
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
として、次のように書いている。
﹁ユダヤ人はフランスを支配し、統治している。どこに彼らの王国の存在証明が書かれているか? 至るところ
にだ。
すべての制度、日々に起こるすべての事柄、内外政治のすべての決定、議会の投票、裁判官の下す判決、王の
︵訂V
演説に至るまで、あらゆるところに書かれている。﹂
﹁商業の両腕たる、銀行と、運送と。これを独占しているのは誰だ? ユダヤ人だ。
金と水銀を独占しているのは誰だ? ユダヤ人だ。
石炭、塩、タパコを、いずれ近いうちに独占するのは誰だ? ユダヤ人だ。
︵52︶
広告を独占しているのは誰だ? ユダヤ人の従僕であるサンuシモン派だ。﹂
これらの引用は、この書物の特徴である好戦的な文体を通して、著者の姿勢をうかがわせるものだろう。彼は︵ド
リュモンと同様に︶あらゆる敵をユダヤ人に結びつける。たとえばトゥスネルにとって、フランスとは、道徳的︵精
神的︶にも、立法的にも、領土的にも、すべての意味で統一を目指す国であって、﹁宗教においても政治においても
カトリック﹂である。これに対してイギリスは、個人主義とプ・テスタンティスムによって規定され、彼はこれをフ
ランスの最強の敵とした上で、﹁現在フランスを支配統治しているのは、イギリスの友人のユダヤ人である﹂と断定
する。こうした考察は、結局のところ、次のような時代錯誤の慨歎によって、しめくくられねばならない。すなわち、
﹁ああ! わが祖国の偉大な君主たちよ、リシュリューよ、ルイ十四世よ、ナポレオンよ、あなたがたは今どこにい
るのか?﹂
︵53︶
サン“シモン派を批判してペンを執った一人のフーリエ主義者が、どうしてこんなことを書いてしまうのだろう。
166
あるユダヤ意識の形成
︵54︶ “
少くともその理由の一つは明瞭である。レオン・ポリアコフの言うように、フーリエ自身が伝統的な反ユダヤ主義に
染まっていたということもあるが、トゥスネルはそれに輪をかけて、心情的には古いカトリシズムによるユタヤ排斥
をいささかも越えていなかったからだ。それを雄弁に示しているのは、第二版につけられた著者自身の序文であって、
そのなかで彼はこう言っている。
あがないねし
﹁崇高なる精神を吹きこまれたすべての預言者を、情容赦もなく殺してしまった人ぴと、人間の賊主を十字架
にかけて、それを罵倒した人びと、それを私は、神の民ユダヤ人などと呼ぶことはしない。﹂
︵55︶
﹁もしもユダヤの人びとが本当に神の民であったなら、彼らは神の子を殺しはしなかったであろう。﹂
こうしたユダヤ攻撃は、それまでカトリシズムの立揚から、数限りなく行なわれてきたものであった。
フランスにおける十九世紀末の反ユダヤ主義を考える上で、トゥスネルの果した役割は、ゴビノーなど較べ物にな
らぬくらいに重要である。彼は、本来ならば冷静に経済支配の実態を暴くという形で書き得たかもしれない書物を、
伝統的な宗教対立のなかで培われた心情的嫌悪にかられて執筆したために、ドリュモンを教祖とする反ユダヤ主義の
先駆者として記憶されることになったのである。
だがまた、これをトゥスネル一人の責に帰することはできない。というのも、一八四〇年代というのは、とくに初
期の社会主義者たちのあいだで、ユダヤにかんする発言が相ついだ時期であって、トゥスネルは、それを最も素朴で感
情的な反ユダヤという形で主張した人物にすぎなかったからだ。トゥスネルに先立って、ブリュノ。バウアーの﹃ユ
ダヤ人問題﹄をめぐるマルクスの文章があるのはよく知られているけれども、フランスでもトゥスネルの著書と相前
︵56︶
後して、初めはサン“シモン派に属していたキリスト教社会主義のピエール・ルルーが、その個人雑誌﹃ルヴュ・ソ
シアル﹄のなかで﹁物質的財産の追求﹂という一連の論文を発表し、その第一部﹁個人主義と社会主義について﹂に
︵57︶
167
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
つぐ第二部には、トゥスネルの著書とまったく同じく﹁当代の王ユダヤ人﹂という題をつけて、サン”シモン派を批
判しているくらいである。なるほどマルクスはもとよりだが、ルルーの場合もその主張はトゥスネルのように単純で
強引なものではない。その上に、彼は人間の集団としてのユダヤ人でも特定の個人でもなくて、﹁ユダヤ精神﹂につ
いて語るのだ、とも言っている。けれどもまた、﹁儲け、利益、利得の精神、ひと口に言えば銀行家の精神﹂が、﹁こ
の人びと。⑦需一一℃一Φに結ぴついた恐るべき宿命冥&。毘轟賦9﹂である、と彼が主張するときに、ここで言う﹁この
人びと﹂が、﹁ユダヤ精神﹂ではなくて具体的な生きたユダヤ人であることは明らかだ。こうして﹁ユダヤ精神﹂は
すぺてのユダヤ人のものとされる。このようなユダヤという言葉の厳密さを欠く使用、多義的にならざるを得ない使
用が、後の反ユダヤ主義の誕生の可能性を準備したことは否定できないであろう。
宗教的対立に基づく感情を温存し、それに拠りかかりながらも、現世的な地上の問題︵当代の王︶に引きずりおろさ
いずれにしても、これら一八四〇年代の思想家たち、なかんずくトゥスネルによって、反ユダヤの意識は、従来の
れたのであり、こうして八○年代の人種主義に基づく反ユダヤの運動のために地盤を準備したのであった。このよう
に、神学上の争いに始まって、過去を温存しながら変貌していった﹁ユダヤ﹂のイメージは、プル⋮ストの作品のな
かにそのまま受けつがれるであろう。そればかりか、資本主義とユダヤとの短絡に新たに人種主義が加算されて、八
○
年 代 以 降 の 反 ユ ダ ヤ 主 義 に 対 す る 社 会 主 義 者 た ち の 批 判 に 、 ブ レ ー キ を か け る 結 果 さ え も た ら す で︵
あ5
ろ8
う︶
。
をあおる部分もあれば、中世以来の悪魔のようなユダヤ人という伝説︵ユダヤ人は子供を殺し、キリスト教徒の血を
ドリュモンは、.︺うした過去の遺産を手当り次第に活用した。彼の人種主義のなかには、金持に対する庶民の反感
すする、といったような︶によりかかる部分もあって、彼が抜け目なく、さまざまな言い伝えを利用したことが分る。
ユタヤ人とスパイ及び裏切りとが絶対に切り離し得ないものだという彼の主張は、ドレーフユス事件を準備するもの
。 ︵59︶
168
あるユダヤ意識の形成
ですらあるだろう。
しかし問題は八○年代である。いったいこの時期には、教権主義以外に、ドリュモンの発言を受入れるどんな要因
が存在していたのだろうか。彼の著書を争って買い求めた人たちは、どうしてユダヤに関心をそそられたのであろう。
このことについて、考えられるのは二つの事実である。
e普仏戦争の敗北がもたらした変化。ベルナノスが、そのドリュモン伝にも記している﹁雷撃のように襲って来
たスダンの屈辱﹂の後で、新たな局面が始まっていた。第一に、アルフォンス・ドーデーの﹁最後の授業﹂に端的に
︵60︶
現れているような、敗北のもたらしたナショナリズムの広がりである。このドーデーが、ドリュモンに常に目をかけ、
彼の﹃ユダヤのフランス﹄を出版社に売りこんで、あの大成功を収めさせた当の人物であるばかりか、その出版が
きっかけでアルチュール・メイエルとドリュモンのあいだで決闘が行なわれたさいには、ドリュモン側の介添人をつ
とめるくらいにまで彼を強く支持した人物であることは、見逃してはならない。こうしたナショナリズムの顕在化に
︵61︶
加えて、第二に起きた変化は、プ・シャに併合されたアルザスから多くのユダヤ人がフランスに移住して来たことで
あった。マラスは﹁少くとも五、○OO人﹂と言っているが、正確な数字は分らない。ドリュモンは、このアルザス
︵62︶
からの移住をフルに利用して、パリ・コミューヌのあとの情景をこう書いている。
﹁一八七一年、六、七、八、九月には、街によっては人影もなかった。ところが年が押しつまると、どこもかし
こも一杯の人で、生き生きと賑わっていた。生粋のパリジャンが町を観察してまわったが、彼は至るところで、
未だかつて見たこともなかった奇妙なタイプの者に出会い、店という店に、マイエル、ジャコブ、シモンなどと
︵衡︶
いう名前を見出して愕然とした。﹂
これらの名前が、ユダヤ系の人間を示すことはよく知られている。もともとフランスでは、﹁セファラード﹂ω曾夢−
169
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
轟︵一窃︵又はω9富&繭βoo無胃区びなど︶と呼ばれるポルトガル、スペイン系のユダヤ人を好遇し、﹁アシュケナー
ズ﹂壽算魯震8︵又は︸ωρ急雪総、>呂鼠塁。。など︶と呼ばれるドイツ系のユダヤ人を軽蔑する伝統が強いのである
が、そこに普仏戦争の生んだナショナリズムが加わっていたから、ドリュモンにとっては反ユダヤ感情をあおるのに
屈強な状況が存在していたことになる。
︵64︶
しかし、先にも述べたように、そうした反感は、七〇年代にはむしろ余り目立ちはしなかった。アルザスからの移
住者が、フランス社会への同化に、非常な努力を払ったという事情もあるだろう。後のドレーフユス事件の犠牲者で
ありまた主役でもあったアルフレッド・ドレーフユス大尉の家族も、普仏戦争後にアルザスから来たのであるが、そ
のドレーフユスが軍隊に入り、参謀本部の大尉になっていたことからも、彼らの強烈な同化志向がうかがわれよう。
したがって、反ユダヤ主義の爆発には、この七〇年代に醸成されていた状況に加えて、次に述べる第二の変化が必要
だったのである。
⑭ 八0年代の変化。すなわち一八八一年以来、東欧およぴロシアでのポグ・ムを逃れて、西欧に移るユダヤ人が
急増したのである。﹃パリのユダヤ人﹄の著者ロブランは、一八七六年にパリにいたル⋮マニァ人は五八四人、一九
〇一年には三、五三二人、という数字を上げている。また、・シア皇帝アレクサンドルニ世の暗殺直後に、パリに逃
︵65︶
れて来たユダヤ人は、五〇〇人がクリニャンクールに、それより若干少い数が十三区のシテ.ジャーヌ・ダルクに、
それぞれ収容されたという。これら東欧のユダヤ人とともに、﹁イディッシュがパリに到着した﹂とブールドレルは
︵66︶
書いて磁・注意し薄倉奮ないのは・イディッシュ語を語るユダヤ全、同化したユダヤ人とのあい歪、し
︵衡︶
ばしば軋礫の見られたことであろう。それはドイツでもフランスでも見られた現象だった。また、プルーストが、ア︼
れら東欧と・シアから来たユダヤ人の存在に無関心ではなかったことも忘れてはなるまい。彼が、反ユダヤ主義のユ
170
あるユダヤ意識の形成
ダヤ人ブ・ックをして、外国から来たぱかりの︵おそらくはアルザス系ユダヤ人たちの︶託の強い発音を嘲笑させた
ことは前にふれたけれども、バルベックに現れたブ・ックおよびその妹や親類たちの姿を描くに当って、プルースト
は次のような比喩さえ用いているのである。
コロユし
﹁ところでこのユダヤ人の群は、気持のよい人びとというよりは、むしろ絵になる連中だった。バルベックの
彼らは、・シアだのルーマニアだのという国のユダヤ人のようなものであって、地理の授業の教えるところでは、
そうした国でのイスラエルの民は、たとえばパリにおけるのと同じように優遇されてもいなければ、同程度の同
化にも到達していないのである。﹂︵国㌔い。。︶
これら東欧と・シアからの移住者の群は、一八九〇年代になっても続き、その多くは、パリのル・マレi地区や、
︵の︶
ベルヴィル地区に住みついて、下層ユダヤ人の群を形成したのである。彼ら以外のユダヤ人において、同化がいっそ
う進行していたのに対して、彼らは言語的な障碍もあって、容易に社会の他の成員に融けこむことができなかったし、
また融けこもうとしなかった。シャル・ット・・ランは、二十世紀の半ばになっても、ベルヴィル地区のユダヤ人の
︵70︶
なかでイディッシュ人口が多数派を占めていたことを報告している。ワースの言う意味で、ユダヤ人をユダヤ人たら
しめるゲットーを形成していたのは彼らであった。
エドゥアール・ドリュモンの﹃ユダヤのフランス﹄は、このようにフランスのユダヤ人が同化によって急速にその
特性を失いながら、しかし外部からの刺戟によって辛くもユダヤ人でありつづけていた時期に、不意にフランス社会
の眼をその上に向けさせ、その存在を大きくク・ーズ・アップさせたものであった。彼によってユダヤ人は、それま
でひたすら同化の道を歩んでいた者も、そうでない者も、いずれも同じユダヤ人とされ、フランス社会の異邦人とし
て、つまり“他者”として、しかも同時にフランスを浸蝕する恐れのある病巣として、指摘されたのであった。つま
171
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
リドリュモン自身が大いに自負するように、彼の書物は﹁ユダヤ人を明らかにした﹂ のである︵むろんここで言う
﹁ユダヤ人﹂とは、﹁ユダヤ人と見なされた者﹂ということにすぎないのであるが︶。 そしてこれに直ちに反応してド
︵71︶
リュモンに熱烈な手紙を送ったのは、多くの村の司祭たちであったという。
以上が一八八六年の状況であった。では、この年に十五歳であったプルーストは、 どんな風にこの問題を意識した
であろうか。
六 ”他者”としてのユダヤ
ドリュモンの問題の書物を、十五歳のマルセル・プルーストが直ちに読んだとは思われない。また、彼の一生を通
じて、ドリュモンヘの言及はごく少く、ほとんど取上げるにも当らないように思われる。にもかかわらず、彼はこの
八O年代半ばからの微妙な空気の変化を敏感に感じとっていたにちがいないし、彼の思考もかなりの程度はそれに影
響されていたと思われる。というのも、ドリ.一モンが、ガンベッタと並んで最も激しい攻撃と罵倒の対象としたユダ
ヤ人の政治的指導者アドルフ・クレミウは、先にもふれたようにプルーストの遠縁に当る人物だったからだ。七月王
︵72V
政のさいにルイ“フィリップの信用を得て以来、常に政治劇の舞台で活動しつづけたクレミウは、二月革命後の法務
大臣であり、世界イスラエル同盟の議長であり、熱心な統合論者・同化論者であり、一八七〇年の国防内閣では再び
法務大臣をつとめ、第三共和制の時代には元老的存在として重きをなしていた。しかも彼が、プルーストの母方ヴェ
ーユ家の誇りとする人物であったことは、プルーストの両親の結婚に母方の証人の一人として参列していることによ
っても明らかである。念のために、最近出版されたフランシスとゴンチエの共著﹃プルーストとその親戚﹄を手がか
︵73︶
りにしつつ、クレミウとヴェーユ家の関係を図示しておこう。
172
あるユダヤ意識の形成
アドルフ・
クレミウ
︵ローズの妹︶
アメリー・
シルニー
ローズ・
シルニー
ナ
タ汗ア拶榔母︶
ベルンカステル
クレ、、、ウは、七月王政時代にはサン“シモン派と親交があり、したがってペレール家やアレヴィ家とも親しかった。
彼が政治家とじて名を成した後の、クレミウ夫人アメリーのサ・ンには、ラマルティー奥ユゴkミュッセ、ジョ
ルジュ・サンド、女優のラシニルなどが、常に出入りしていたという。前記フランシスとゴンチエの共著によれば・
︵μ︶
クレ、、、ウの姪に当るベルンカステル家のアデール︵すなわちプルーストの祖母︶は、よくこのサ・ンを訪れたという
が、もしそうだったとすれば、彼女は孫のマルセルをたいそう可愛がった人だから、その話を通じて、プルーストは
早くからサ・ンの生活を心に描いていたことだろう。少くとも、一八八O年にアドルフ・クレミウが死んで国葬にな
ったときには、プルーストが子供心に、自分の母方の親戚の存在を強く意識したろうことは、まず間違いのないとこ
173
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
ろである。このときプルーストはまだ九歳にもなっていなかった。
ところでこの母方の親戚のヴェーユ家の者たちは、ユダヤ教を維持していたのであった。たとえばプルーストの祖
父のナテ・ヴェーユは、自分でもよく意味が理解できないままにユダヤ教の儀式を守って、毎年ルポ街にある小さな
んロ
ユダヤ人墓地の両親の墓に詣でては小石を一つ供えていたという。またその弟のルイ・ヴェーユの死にさいしてプル
パま
ーストは・﹁彼の宗教のしきたりに従って、儀式は行ないません﹂と、・ール・エーマンに書き送っている。ア一れに
対して・プルースト自身は周知のように、カトリソクとして洗礼を受け、常にカトリック信者として育てられたので
あった。﹃失われた時を求めて﹄を見ても、架空の町コンブレーの教会や司祭の描写のために、第一篇から読者は直
ちに、語り手の立場がカトリックで非ユダヤ人であることを諒解するのである。そのコンブレーと混同されてはなら
ないが、しかしコンブレーにいくつかの重要な特徴を与えているのが父の生れ故郷イリエであることは、今さら言う
までもない。ときおりプルースト家の者が訪れたこの町は、鄙びた素朴な教会と、その前面の広揚とを中心にして、
聖者の名のついた狭い道の広がる敬慶そのものの場所であって、プルーストが後にラスキンの﹃胡麻と百合﹄翻訳の
序文として書いた﹁読書の日々﹂が示しているように、空から降って来る教会の鐘の音に毎日何回か規則正しく包み
パのレ
こまれるような、典型的な田舎町である。私は、この町を何度も訪れたが、そこに立つたびに、プルーストにとって
のカトリシズムがどんな風に形成されたのかを考えないわけにはいかなかった。じっさい、プルーストのカトリシズ
ムを作・たのは、パーでの日あ生活というよりも、たまに訪れるこの田禽の嚢姦会だ.︵醗のかもしれない.
いずれにしても、そこには同時に父の権威も貫かれていることは、疑いを容れる余地がないだろう。
プルーストは・子供時代に身につけたこのカトリシズムの記憶に一生涯忠実だった。それを鋭く示しているのは、
おレ
一九〇三年に書かれたジョルジュ・ド・・リスあての手紙である。そのなかで彼は、イリエの小学校の卒業式に村の
174
あるユダヤ意識の形成
司祭が招かれなくなったことを歎き︵この点で、彼は教権主義者と同じく政教分離に反対する立揚をとることにな
る︶、﹁私にラテン語と、自分の庭の花の名前を教えてくれた司祭﹂のことをしきりに懐かしんでいる。この立揚は政
治的にも、また歴史的に見ても、まるでナイーヴとしか言いようのないものだが、プルーストの本質だけは鋭く暴露
していると私は思う。すなわち、彼が大切にしているのは過去であり、少年時代の思い出であって、その意味で彼は
典型的なパセイストと言うべきなのであろう。そのような懐古の対象となる少年時代のなかで、教会や司祭がきわめ
て重い意味を持っていたことを、われわれはこの手紙から推測することができる。またその過去に忠実であるかぎり、
彼の立場がカトリシズムの側にあって、ユダヤは”他者”であることを、われわれは理解するのである。
したがって、プルーストは自分の母親のなかにも、”他者”としてのユダヤを認めたのであった。そのことは、冒頭
に引いたモンテスキウあての手紙の、﹁私は、父や弟と同様にカトリック教徒ですが、母はユダヤ人︵ユダヤ教徒︶な
のです﹂によっても知ることができよう。この手紙は、一見母をかぱっているように見えるけれども、また家族のな
かで一人だけユダヤ人である母を、他の三人と異った者、つまりその意味で”他者”と見なすというニュアンスをも、
濃厚に含んでいる。だからこそ、母と子のあいだの書簡では、母の改宗のことさえ話題になったのであろう。たとえ
ぼ一八九〇年に書かれた母から子への手紙には、﹁アンジェリックは、わたしが改宗すると思うことでしょうーそ
してランベール夫人は希望に満たされるでしょう﹂という文句が見られる。むろん母は改宗しなかったし、むしろ改
︵80︶
宗を安易に期待する者への一種の憐欄の情さえそこには感じられるけれども、それでもこれは彼女がその周囲に、改
宗を望む人たちの存在をたえず意識していたことを示している。言いかえれば、母は自分が”他者”として対象視さ
れている.︼とを充分に承知していたのであろう︵なお、右引用中のアンジェリックは、プルースト家で働いていた女 5
ア
中の名前であるらしい︶。 −
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
母親がユダヤ人であるということは、しかしながら、単に宗教上の他者ということで終りはしなかった。.︶の母と
子のあいだには、彼らがやりとりした手紙の表面的な字句などでは容易に表わすことのできなかった感情が存在して
いたように思われるし、そのような感情は、むしろ書簡よりもプルーストの作品のなかに鮮明に映し出されているよ
うに見える。たとえば、﹃失われた時を求めて﹄にとりかかる引き金となった﹃サント“ブーヴ反論﹄では、語り手
がサントuブーヴにかんするエッセイの形式について意見をきこうとして、ベッドに横たわったまま母を呼ぶ箇所が
あるが、その部分などは単なる宗教上の違いとは異って、さまざまな解釈を可能にする謎めいた表現で描かれている。
すなわち、母は、躊躇しながらそっとドアを開けると、ラシーヌの﹃エステル﹄のなかに書かれている台詞を引用し
ながら、息子の先まわりをして、
﹁そなたか、エステル? 呼びもせぬのに﹂
﹁わしの命令もなくて ここへ足を運ぶのか?
いかなる不遜の者が、死を求めに来たのじゃ﹂
と言われそうだ、と告げる。それに対して、語り手である息子は、
﹁エステル、何をそなたは恐れるのか? わしはお前の兄ではないか?
かかるきびしい命令は、そなたのために作られたのではない。﹂
と、これも引用で答えるのである。そしてエステルとは言うまでもなく、旧約に記されているように、アハシュエロ
︵81︶
ス王の妃となるユダヤ人の娘であり、また﹁お前の兄﹂とは、ここでは﹁お前の夫﹂の意味なのである。だからこの
対話のなかには、ユダヤ人としての母の姿がくっきり浮かんでいるとともに、それと並んで、母と子のあいだにある
一種の近親相姦的な感覚が示されていると言えよう。
176
あるユダヤ意識の形成
そうした感覚は、﹃ジャン・サントゥイユ﹄にも、﹃失われた時を求めて﹄にも、文字通り充満していると言ってい
い。ただ、私が指摘しておきたいのは、単に母と子の近親相姦的な感情というだけではなくて、そこにしばしぱ、他
者11客体としてのユダヤの存在が介在することであり、この二つがからみあって、ときには陰惨な暴力性まで帯ぴる
ということである。そのような例を、﹃失われた時を求めて﹄のなかから、二つだけ引いておこう。
その第一は、ラシェルというユダヤ人女優の存在であって、彼女の役割は、スワンとブ・ックについできわめて重
要であり、無視できぬユダヤ人の作中人物である。彼女は、後にゲルマント一族のサン“ルi侯爵の愛人になって、
一種の非ユダヤ化を果すのだが、最初はブロックが語り手を連れて行く下級娼家の一人の女として登揚する。しかも
その娼家の女主人は、ラシェルがユダヤ人だということをセールス・ポイントにして、しきりに語り手に、ラシェル
を売りこもうとするのである︵﹁考えても.こらん、お若い方、ユダヤ女なんだよ、そりゃいいに決っていると思いま
すよ! おお、おお!﹂︶︵国玖ま︶。そしてこの一節を書いたときに、プル;ストが母親のことを、ちらりとも考えな
かった、などということは、絶対にあり得ないだろう。だからこのユダヤ人娼婦の登揚は、母を性的対象として見る
眼を示していると考えるべきである。それも、単なる近親相姦的な感情というだけではなくて、母をいわば辱しめる
姿勢︵その意味で暴力的な姿勢︶を伴っていると言えよう。
それに似たいま一つの例として、私は作品中の頽廃的な貴族シャルリュスの言葉に現れるユダヤのイメージを挙げ
ておきたい。彼はユダヤ人を﹁外国人﹂と呼び、ユダヤ教の割礼式とか、賛美歌をうたうところを見たいものだと言
った後に、ユダヤ人の子供がその両親、とくに母親をぶんなぐるような笑劇があれば、さぞエクゾティソクで面白い
だろう、と言い放つのである︵勺戸鵠。。︶。なるほどこれは一登場人物の語る言葉にすぎない。しかし語り手自身も、
揚所によってユダヤ人を﹁外国人しと呼んでいることは前述した通りであるし、ここでもユダヤと母親とを結ぴつけ
177
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
る言葉のなかで、プルーストが自分自身の母のことをまるで思い出さなかったとは、私には考えにくい。むしろ、他
者としてのユダヤは、あるときは母を凌辱する意識とからみ、あるときは母に加える暗い暴力性のイメージとなって、
︵82︶
プルーストのなかに存在していたと考えるのが正しいのであろう。
七 “他者”としてのわれ
ユダヤはしたがって、マルセル・プルーストにとっては他者”客体だった。それは初めのうちこそ、単にカトリッ
ク教徒である自分︵ならぴに父や弟︶と異った者としての意識だったのかもしれないが、最後に引いたシャルリュス
の暴力的な夢や、とりわけその前に挙げたユダヤ人娼婦ラシェルの創造においては、視点がすでにはっきりと移動し
ていることが感ぜられる。すなわち、そこでは﹁人種﹂が基盤になっていて、異った血、異った肉体の想定が、性的
好奇心や欲望を形作っているのである。その意味で、プルーストには、当時の大多数の者と同様にーそしてある点
までは、現在のわれわれとも同様にー、一八八○年以降に精力的に展開された人種主義に基づく反ユダヤ主義者た
ちの主張が、間接的な形ではあれ、しみ通っていたと言うぺきだろう。
にもかかわらず、彼は父方よりも、むしろはるかに母方の親戚と親しく往来していた。パリに住んでいたのが、母
方の親戚ばかりだったということもあるだろうが、とくに﹁オートゥイユの叔父﹂といわれたルイ・ヴェーユは、そ
の奔放な生活でプルーストの心をとらえたらしく、彼はしばしばオートゥイユを訪れたし、﹃失われた時を求めて﹄
にもさまざまな形でその面影を刻みこんでいる。
︵83︶
ところで、他者としてのユダヤという態度は、プルーストが頻繁に往き来していたこのヴェーユ家のユダヤ人の親
戚たちからも、植えつけられたものではなかったろうか。もう少し正確に言うならば、彼に間接的に反ユダヤ主義の
178
あるユダヤ恵識の形成
主張を伝える仲介となウたのは、むしろこれら親戚のユダヤ人たちではなかったろうか。私にはその疑いが消えない
ので あ る 。
彼らは、上述の.ことくユダヤ教徒であったが、またアドルフ・クレミウが同化論の急先鋒であったように完全な同
化主義者でもあった。またそうでなければ、プルーストの両親の結婚︵これはカトリックの形式で行なわれた︶は、
あり得なかったろう。統計こそ乏しいが、カトリックとユダヤの結婚は、この時代になっても非常に多いとは言えな
かったらしいからである。あたかもクレ、・・ウの子供たちがカトリックに改宗したように、このヴェーユ家の同化主義
︵84︶
者たちも、その点でカトリシズムに対して非常に寛容だったのであろう。また、もしも同化がこのまま進めば、すな
わち政教分離が完成し、政治的解放が完全に徹底して行なわれていれば、彼らがユダヤ教徒であるという事実も、社
会的にはほとんどその意味を喪失したであろう。そしてヴェーユ家の人ぴとは、そうなることを望んでいたように思
われる。
そのような同化の進行を妨げたのが、八O年代に起こった東欧と・シアからの大量移民と、それを利用して声高に
﹁ユダヤ禍﹂を訴えた反ユダヤ主義者たちであることは、すでに述べた。卜・ツキストの立揚で特異な通史を著わし
︵邸︶
たA・レオンも、東欧からの移民の果した役割を異口同音に伝える次のような証言を引用している。
﹁西方ユダヤ教は、東方ユダヤ教の反映としてしか存在しない。﹂
﹁西欧のユダヤ人の完全消滅は不可避であったが、それを停止させ、おそらく西欧のユダヤ人を救出したのは、
東方のユダヤ人の西欧への流入であった。﹂
﹁東欧からの移民がなければ、イギリス、フランス、ベルギーなどの、小さなユダヤ人社会は、おそらく徐々に
そのイスラエル 的 性 格 を 喪 失 し た こ と だ ろ う 。 ﹂
179
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ヴェーユ家の人びとは、むしろそうした喪失を望んでいたのではないだろうか。
その点で私が注目するのは、﹃失われた時を求めて﹄のなかの語り手の祖父の言動であり、とりわけ先に引いた﹁ご
用心! ご用心!﹂の一節である。これは、さまざまな暗示を含んでいる箇所だが︵なぜプルーストは、語り手の祖
父を、わざわざ反ユダヤ主義者にせねばならなかったのか?︶、とくに興味深いのは、この部分にかんするユゲット・
ダヴィッドの指摘である。彼女は、﹃失われた時を求めて﹄を準備する﹁カイエ﹂の第九冊目の草稿では、この部分
が次のように書かれていることに、注意を喚起している。
︵86︶
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
﹁祖父は、・べールとぼくが友だちのだれかと仲よくなるたぴに⋮⋮いつもユダヤ人なんだね、と言っていた。﹂
︵傍点筆者︶
ここに言う・ベールとは何者か。プルーストは、﹃失われた時を求めて﹄の執筆にとりかかる直前の短い時期に、
弟の・べールを作品に生かそうと考えたことがあって、それが﹁・べールと仔山羊﹂という断章になって一九五四年
版﹃サント”ブーヴ反論﹄に掲載されていることは、よく知られていよう。してみれば、ここに言う・べールも、ま
、、、、 ︵87︶
ず確実に弟のことを考えながら書かれたものと思われる。ちなみに、私の調べた﹁カイエ﹂第四冊目にも、ほぼ同じ
情景が描かれているが、そこでは﹁われわれが学校から新らしい友だちを連れて帰ると﹂となっており、語り手に決
定稿では存在しない兄弟のあることを想像させる。そうだとすれば、この﹁ご用心! ご用心!﹂の挿話を書くに当
って、プルーストが弟・べールと自分の実際の体験を利用したのではないかという想定が成立つであろう。しかも作
品のなかの語り手の祖父は母方であり、もし現実のプルーストにそれを当てはめれば、ユダヤ人である祖父が、ユダ
ヤ人に対して警告を発していることになる。私は、そのようなシーンが、実さいのプルーストの生活のなかにあった
としても、不思議はないと思う。ユダヤ人のユダヤ嫌いは、先にもフ・イトの例でふれたように、いささかも珍らし
180
あるユダヤ意識の形成
いことではないからである。ことによると祖父のナテ・ヴェーユは、作中のスワンに若干の特徴を貸し与えた弟のル
イ.ヴェーユを前にして、﹃ユダヤ女﹄や﹃サムソンとデリラ﹄をくちずさんだことがあるのかもしれない。だがま
た、たとえそんなことが一度もなかったにしても、プル;ストが﹃失われた時を求めて﹄の語り手の祖父をして、
﹁ご用心! ご用心!﹂と言わせたこと、しかもそれを彼の口ぐせにまでしたことは︵国もド﹂8︶、きわめて意味の
深い創作だと言わねばならない。なぜならプルーストは、語り手の母親と祖父母とのなかに、明らかに自分の母親と
母方の祖父母の特徴を書きこんでいるからである。おそらく、同化主義者であるヴェーユ家の空気は、このような言
葉が祖父の口からもれても不思議ではないようなものだったのではあるまいか。
それにしても、このような言葉は甚だ危険な両刃の剣であって、それを口にした者を傷つけないわけにはいかない。
またそれを記録︵ないしは創作︶したプルーストは、そこから、“ユダヤの血”を引いている自分のことを振返らな
いわけにはいかなかったはずである。つまり、プルーストの祖父が、﹁ご用心! ご用心!﹂と言ったとき、あるい
はプルーストが語り手の祖父をしてその言葉を吐かせたとき、彼は自分のなかに警戒すべき対象をかかえこんでいる
ことを否応なしに意識したにちがいない。なるほどユダヤは彼にとって”他者”であったが、しかしまたそれは母を
通じて彼のものなのでもあった。言いかえれぱ、プルーストはこの他者なるユダヤヘの警告を通して、自分のなかに
その他者を認めて裸然としたにちがいないのである。・
もともとプルーストにとって、われとは他者であった。彼は七歳から九歳にかけての時期に、自分の肉体や神経症
︵88︶
的体質が、自分の意志のカの及ばぬ”他者”であることを、いち早く知りはじめていたのである。私は別のところで
その問題を詳論したので、今はくり返さないが、これは彼の自覚の原点であった。それに加えて、今や別の”他者” 1
18
を彼は自分のなかに認識することになる。そして、そのような態度を作るのにカあったのは、プルーストの宗教上の
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
帰属が明らかである以上、むろんもはやカトリシズムではなくて、疑似科学的な﹁人種﹂の概念であり、それを活用
した八O年代の反ユダヤ主義の言説である。
実さい、ドリュモンの書物が爆発的に売られ、反ユダヤ主義者の発言がようやくかまびすしくなりはじめた一八八
八年ごろ、プルーストは一つの危機を、最初の覚醒を、つまり﹁知的クーデター﹂を経験していた。すなわちこの時
期のプルーストの手紙には、複数の自我という考えが、くり返し現れるのであるーたとえば、二日前から哲学の授
︵89︶
業を受持ちはじめたダルリュに、プルーストは切々と自我の分裂の間題を訴えているー。フィリップ・コルブは、
それがプルーストの﹁ごく個人的な理論﹂であることを認めつつ、そこにアナトール・フランスの影響を見ようとし
ており、それもあながち不可能な想定ではないだろうと私は思う。その上、年齢的な問題も、むろん重大な要因を形
︵90︶
成していたにちがいない。だが、それらと並んで、私はプルーストのユダヤ人としての意識がその大きな原因であっ
たと思いたい。そのように私が推断する根拠は、同じころ、すなわち十七歳のときの九月に、やはり複数の自我のこ
とにふれながら彼が級友・べール・ドレーフユスに送った手紙の一節である。
﹁もう一つの快楽は、友人の悪口を言うことで得られるだろう︵.−−,︶。ぽくは芝居をして、自分以外の者になっ
て、罪悪感も覚えることもなしに友だちの悪口を言うことができる。ぼく自身の悪口もだ。ぼくは喜んで、自画
像を、自画像の一端を、お目にかけよう。﹃ご存じですか? Xを? ほら、あのM・Pのことですよ。率直な
ヤ ヤ ヤ ヤ
ところ、あの人はどうも虫が好きませんね。始終大げさに感情を爆発させて、せかせかして、ひどく感激してみ
、 ︵兜︶
せたり、やたらと形容詞を並べたてたり。なによりも、わたしには、あの人がひどく気がふれていて、うそだら
けに見えるのです。﹄﹂︵傍点筆者︶
ここに書かれた友人の悪口を言う習慣と、自分の言葉がうそだらけに見えるという印象ーこれこそまさにプルー
182
あるユダヤ意識の形成
ストが、﹃失われた時を求めて﹄でユダヤ人ブ・ックの肖像を意地悪く描いたときに、そこに適用したものだった。
つまリプルーストは若いころの自己解剖を維持したまま、それを後にユダヤ人の特徴として生かしたのである。さら
に言いかえれば、彼が十七、八歳のときに見ていたのは、自分の内部のユダヤだったのである。だからこそ、後に彼
が作り出したブ・ックは、若いころのプルーストと同様に、語り手に向かってはその友人サン”ルーの悪口を言い、
サン目ルーに対しては語り手の悪口を言うことになるだろう︵国㍉参︶。しかもそのそれぞれに向かって大げさに友
情を誓っては、自分で自分の言葉に感動してほろりとするのであるが、それはすべていつわりのものに見えて、一向
に相手を納得させないし、﹁嘘をつくときの、ヒステリックな官能﹂の涙としか見えないのである︵霞㍉&︶。こんな
風に手きびしく、ブ・ックを裁断した後に、プルーストは﹃失われた時を求めて﹄のなかで次のような注目すべき一
節をつけ加えたのであった。
﹁﹃きみには想像もつかないだろうね、きみのことを思うとどんなにぼくが辛い気持になるか﹄とブ・ックは言
葉を続けて、﹃要するにこれはぼくのかなりユダヤ人的な側面がまた顔を出したんだよ﹄と皮肉につけ加えなが
ら眼を細めたが、それはまるで顕微鏡で﹃ユダヤの血﹄の極小量を調合しているかのようであり、またキリスト
教徒ばかりの祖先を持っているフランスの大貴族が、その祖先のなかにサミュエル・ベルナールを、またさらに
潮って聖母マリアーレヴィ家の人ぴとがその末商を自称していると言われる聖母マリアーを数えたとすれば、
そのような貴族にして初めて口にし得るような︵だが決して口にしなかったであろうような︶言草であった。彼
はさらにつけ加えた、﹃ぼくはこんな風に自分の感情のなかで、かすかなものではあるけれどもユダヤ人という
ぼくの生れに由来するのかもしれない感情を見分けるのがわりに好きなんだ。﹄﹂︵国為まもミ︶
プルーストがここで、自分のなかの﹁ユダヤの血﹂を考えていなかった、などということはあり得ない。たしかに
183
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
彼はブ・ックとちがって、このことを容易に口にしなかった。しかし彼が十七、八歳のころに自分のなかの﹁ユダヤ
の血﹂の極小量の上にかがみこみながら、それに平静でいられなかったことは、二十年後にブ・ックを創造するに当
って、あたかも他人の悪口を言うように若いころの自分をもモデルの一人として、自己観察から得たものにブ・ック
︵92︶
のユダヤ人性のかなりの部分を担わせたことによっても明らかである。
﹁ユダヤの血﹂という以上、これは宗教的なものや文化的なものであるより前に、まず人種的なものを指している。
プルーストには、人種や遺伝についての一種の信仰が認められるけれども、それは自分の自由にならないこのユダヤ
の血の存在1つまりは自分の宿命1の意識の、一つの現われ方なのであった。そのことに関連して、﹃失われた
時を求めて﹄には、プルーストのこのようなユダヤ意識を思いがけず暴露する部分があるので、少し長いがその一つ
を引用しておこう。ただし表面上の主題は、ここではユダヤ人ではなく、バルベック海岸に出現する美少女たちの肉
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
体である。
﹁この少女たちのかたわらの母親なり叔母なりを見れば、それだけでもう充分に測定できるのであった、これら
の顔立ちが、一つの型−多くは醜悪なものーの持つ内的牽引力に引きずられて、三十年足らずのあいだにど
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
れほどの距離を歩むか、ということを。揚句の果てには、視線も衰え、顔はすっかり水平線に没して、もはや光
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
も当らなくなるような時期に至るのである。ぼくにはよく分っていた、自分の種族から完全に解放されたと思っ
ている人の揚合にも、ユタヤ的愛国主義やキリスト教の隔世遺伝が深く根を下していて避けられないように、ア
ヤ ヤ ヤ ヤ
ルベルチーヌ、・ズモンド、アンドレたちのばら色に咲きみだれた花にかくれて、彼女たちにも知られていない
がいずれ必要なときのために、大きな鼻、とがった口、ぶくぶく肥った身体などが蓄積されていることを。それ
らは人を驚かせるであろうが、実は常に舞台裏にひそんでいて、いつでも舞台に飛出して行こうと身構えている
184
あるユダヤ意識の形成
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
のであって、このように意表を衝く宿命的なものは、ドレーフユス主義、教権主義、民族的な、また封建的な英
雄主義、といったものに見られるように、個々人以前に存在している一つの本性から状況に応じて突然出現する
ものにそっくりであり、個人はそうした本性によって考え、生き、変化し、強化され、ないしは死んでいくので
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
あるが、そのくせ個別の動機をこの本性ととりちがえて両者を区別することもできないのである。精神的にもわ
れわれは、思ったよりもはるかに自然の法則に依拠しており、われわれの精神は或る種の隠花植物あるいは禾本
科植物のように、自分の選んだつもりになっている特殊性を実は前もって所有しているのである。ところがわれ
、 、 、 、 、 、 、 、 h 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
われは二次的な観念しかとらえることができず、そうした観念を必然的に生み出す第一原因、またい酔どいテど
きに必ずわれわれが表現するものである第一原因︵ユダヤの種族声8一三話、フランスの家系など︶には、気づ
きもしないのである。一見したところこの前者は思索の結果であり、後者は軽率な不養生の結果のように見える
けれども、実はおそらくわれわれは、董科植物が種子からその形体を得ているように、われわれを生かしている
観念もわれわれを殺すことになる病気も、いずれもか柑か粗分案旋が射勢耽ゲでいぐむσなのである。﹂︵凹﹄2
ー。。8 傍点筆者︶
長々と引用したのは、プ︼の一節に作者にとってのユダヤの位置が見事に暴かれていると思われるからだ。語ってい
るのはもちろん作品の語り手であり、虚構の﹁われ﹂一①であるが、その口調の背後から響いて来るのは作者自身の
声である。しかも比喩は一見したところ、はなはだ滑稽なものだ。すなわち、つづめて言えば、女性の容貌が年齢と
ともに母親に似ていくのは、ユダヤ人がドレーフユス主義者になるようなものだ、ということになるのだから。しか
しこの逆転した比喩でプルーストは、人が何かのきっかけで否応なしにユダヤ人に戻っていくこと、またユダヤ人の
血統が逃れる術もない宿命であることを、強調しているのである。先にふれたように、スワンやブ・ックもその例外
185
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
ではなかった。だからこそブ・ックについてプルーストは、皮膚や髪の毛や鼻の形が人種によって押しつけられたも
のであるように、自分のカを越えたある法則によって彼はドレーフユス主義者になった、ということを記しているの
である︵頃一るS︶。そしてこの考察は当然のことながら、プルースト自身にも当てはまるものでなければなるまい。
じじつ、この引用のなかで、﹁母親なり叔母なりを見れば﹂と彼が書いているのは、直ちに彼自身のことを連想させ
ずにはいない。なぜならプルーストの写真はきわめて雄弁に、﹁東洋風﹂と評された彼の容貌が、父親よりもはるか
に母親似であることを暴露しているからだ。彼は自分が少しずつ、ユダヤ人の母親を再現していくように感じはしな
かったろうか。彼は自分のドレーフユス主義を、その﹁家族から受取った﹂と思わなかったであろうか。そしてこう
したユダヤ人としての己れの自覚は、上に見たように、十七、八歳のころの複数の自我の発見のときには、すでにか
なり明確になっていたのではなかろうか。にもかかわらず、彼はまさにその複数の自我のために、決してドレーフユ
ス主義者か否かを価値判断の絶対的な基準にするような態度はとらなかった。ドレーフユス主義者とは、いわば”他
者”としての自分にすぎず、プルーストにとっては一向に実感の湧かない役割だったのかもしれない。こうして彼は、
﹁さまざまなスワン﹂ならぬ﹁さまざまなプルースト﹂の前に立たされることになる。つまりは、彼が後にスワンの
非ユダヤ化と再ユダヤ化とを描く必然性が、そこに生れるのである。
八複眼のユダヤ
以上にふれた自我の分裂や、自画像のことなどについて、十七、八歳のプルーストが手紙を書き送った相手は、彼
よりも二歳年下の友人ロベール・ドレーフユスだった。そしてこのドレーフユスは、ユダヤ人であった。
すでに多くの人が言及していることだが、この時期のマルセル・プルーストの友人で、現在分っている者の大部分
186
あるユダヤ意識の形成
が、ユダヤ人ないしはユダヤ系であることは、やはり注目に価しよう。すなわち上記ドレーフユスのほかに、ダニエ
ル・アレヴィ、その従弟のジャック・ビゼなど、コンドルセ中学時代の親しい友人たちは、みなそうである。尤もこ
ック・ビゼの母親で再婚したスト・ース夫人のサ・ンが、カイヤヴェ夫人のサロンとともにやはりドレーフユス派の
の友人たちが、ユダヤ人の条件についてどう考えていたかは、必ずしも明らかでない。それでも、彼らが一八九八年
︵93︶
に、ゾラの﹁われ弾劾す﹂を受けて急速に広まったドレーフユス派の署名運動のための中心勢力になったこと、ジャ
根拠地の一つとなったことは、記しておいてもよいであろう。
ところでこれらユダヤ人の友人たちのなかで、プルーストの態度は、いくらか他の者と違っていたのではなかろう
か。すなわち彼は自分のなかにユダヤの本性を否応なしに認めながら、しかしそれを”他者”として否定しつづけて
いたはずであったから、この両義的な態度が他の者には、いささか不快な印象を与えたのではないかと思われる。
そんな風に私が考えるのは、当時の印象を書き残した・ベール・ドレーフユスの﹃マルセル・プルーストの思い
出﹄のためだが、そのなかで著者は、プルーストが十七、八歳のころからしきりに社交界に出入りしはじめたこと
︵94︶
にふれて、この変化が仲間の者たちに、非難というよりは嘲笑で以て受取られた、と記している。じじつ一八九二年
六月に、間もなく二十一歳になろうとしているプルーストが、母と子ほど年齢の離れたスト・ース夫人にあてて、花
束とともに送った手紙には、﹁私のことを怠け者だと思われたり、社交人になりたがっていると考えられたら、間違
いです。私はとても勉強しているのですから﹂と書かれており、自分の友人の母親である彼女からも、社交生活に現
︵95︶ うつつ
をぬかす怠惰さをたしなめられていたらしいことがうかがわれる。他方、その直前の一八九二年四月には、プルース
トは同人誌﹃饗宴﹄に反ユダヤ主義的ニュアンスを帯びた短文を寄稿しており、ロベール・ドレーフユスは、それを
︵96︶
前記﹃思い出﹄のなかで、やんわりと非難しているくらいである。だが、ドレーフユスは気づいていないらしいけれ
187
188
ども、この二つのことは実は互いに密接な関連を持っていて、そこにプルースト特有のユダヤ意識がからんでいるの
ではなかろうか。私は最後に、その点にふれておきたい。
、反ユダヤ主義的傾向を指摘された問題の文章は、甚だ奇妙なものであって、婦人の衣裳にかんするある匿名の小著
に対する批判的書評として書かれている。その小著は、プルースト自身の文章によれぱ、﹁フランス社会の災厄とも
いうべき女性の衣裳が、社会の建築の基盤を少しずつ揺るがせている﹂と主張して、その原因を﹁最も卑俗な意味で
の、民主的で平等主義的な傾向﹂に求めたものであるらしい。プルーストは、これを反駁して短文を書いたわけだが、
そのなかで彼は、﹁カトリックの新聞に甚だ興味をそそる読物として描写されている現代の最もエレガントなユダヤ
婦人たち﹂よりも、ヴァ・ワ王朝の女官たちの方がはるかに華美であったと主張した後に、こう記している。
﹁われわれは、テオドール・レーナック氏が伝える一つの事実を引用しよう。リヨンのユダヤ婦人たちは、十三
世紀に余りにも贅沢な暮しをしていて、多くのものをエレガンスの犠牲にしていたので、彼女らに対してきわめ
て厳格な布告を発することを余儀なくされた。今日パリのユダヤ婦人たちが、より大きな寛容の恩恵に浴してい
︵97︶
るという点については、﹃上下顛倒﹄の著者の見解に同意しなければなるまい。﹂
問題になったのはこの部分だが、見られるごとくこの文章は、反ユダヤ主義というほどのものではない。むしろ、
その意図としては、ユダヤ婦人を擁護するために書かれたのかもしれない。しかし面白いことに、ここには反ユダヤ
主義によって口火を切られた当時のフランス社会の悪宣伝が、深く染みこんでいるのである。実さいユダヤ人とお酒
ユダヤ系であると断定した上で、サ・ンの淑女の衣裳費が膨大なものに上ることを嘆いて書いている、﹁衣裳で着飾
のなかで、﹁クラブと競馬が男たちを引受け、衣裳が女どもを破滅させる﹂と書き、ドレスメーカーはほとんどみな
落や衣裳を結ぴつけるのは、当時の反ユダヤ主義者の常套手段であった。ドリュモンはすでに﹃ユダヤのフランス﹄
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
あるユダヤ意識の形成
る.一とを好むのは、もはや比較的無邪気で可憐なコケットリーではなく︵⋮←、一種の固定観念、有無を言わせぬ暗
い悪習になった﹂と。プルーストは、知らず知らずに、こうした反ユダヤ主義者たちの言説を、いつの間にか常識と
︵98︶
して許容していたように思われる。
というのも、こア一にプルーストの変らぬ行動パターンがあるからであって、彼は、ユダヤ人を﹁異邦人﹂︵”他者︶
と見なす少年期からの視点を、ついに手放すことがなかったのである。手放さなかったばかりか、”他者”としての
ユダヤを自分のうちに認めることも、その傾向にいささかもブレーキをかけなかったように見える。彼は反ユダヤ主
義の視線にさらされたユダヤを引受けながら、しかもそのユダヤをそのままの形で救い出そうと試みているのであっ
て、右の短文はそうした傾向の現われだと言ってよいのである。
プルーストが、この少しあとで、一八九四年からアルフォンス・ドーデーの家族とつきあいはじめたという事実も、
そんな風に理解することができるであろう。ドリュモンの後楯になって、﹃ユダヤのフランス﹄の出版を実現したこ
のナショナリストのサ・ンが、プルーストにとうてなんの抵抗もない場所だったはずはない。また実さいに彼は、ユ
ダヤ系の作曲家レーナルド・アーンにあてて、ドーデi家での夕食会のことを記した手紙のなかでこう書いている。
﹁恐るべき物質主義だ。︽エスプリを持った︾人びととしては、これは実に異常なことだ。彼らは性格や才能を、
肉体的習慣や人種によって説明する始末だ。ミュソセと、ボードレールと、ヴェルレーヌの違いを、彼らの飲ん
だアルユールの量で説明し、ある人物の性格を、彼の人種によって説明するのだ︵反ユダヤ玄魏︶。﹂
るのであろうか。ところがそうはならないのであって、逆に彼はそれ以後もドーデー家に何度も足を運ぴ、二人の息
この反応は、..︸く自然なものと言うべきである。では、プルーストはドーデi家に厭気がさして、そこから遠ざか
子とは親交を結んでいるのである。たしかに弟のリュシアンは線の細い青年で、父や兄と違っており、プルーストは
189
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
︵鵬︶
晩年の手紙で彼が反ユダヤ主義を許容しないと言明してくれたことに感謝さえしているのであるが、兄のレオンは筋
金入りの反ユダヤ主義者で、アクシオン・フランセーズの有名な指導者の一人であった。しかもそのレオン・ドーデ
ーとプルーストは、一八九六年十月、二人でフォンテーヌブ・1のホテルに一週間の滞在をし、昼間は森を散歩し、
︵副︶
夜は暖炉を囲んで談笑するという生活を送っているのである︵すでにアルフレッド・ドレーフユスは、二年前に逮捕
されていた!︶。それだけではない。一九〇〇年四月に発表された﹁ア、・・アンのノートル・ダム寺院におけるラスキ
ン﹂という文章も、また一九二〇年に発表された﹃失われた時を求めて﹄の第三篇﹃ゲルマントの方角﹄も、いずれ
もレオン・ドーデーにささげられているし、そのほかにもプルーストは、﹁私の師であるレオン・ドーデー、シャル
ル・モラス両氏﹂などという言葉さえ残しているのである。さらに恐るべきことは、一九二〇年にレオン・ドーデー
︵㎜︶ “
の﹃ユダの時代﹄と題された回想録が発表されると、プルーストは、ユダヤ人への意地の悪い考察に満ちた.︼の書物
を絶讃する書評まで書こうとしたのであった︵これは当時は発表の機会を得なかったものだが、その内容は今日、プ
︵旧︶
レイヤード版﹃サント“ブーヴ反論﹄で読むことができる︶。またさまざまな人にあてた書簡のなかでも、彼はレオ
︵⋮︶
ン・ドーデーを讃美する言葉を残している。おそらくドーデーが、﹃花咲く乙女たちのかげに﹄のゴンクール賞受賞
のために尽力した、という事情も手伝っていたのであろう。また、そのようにドーデーを讃美しながらも、プルース
︵鵬︶
トがドーデーの政治的立揚に同意するという言明をいっさい行なっていないことは、認めなけれぱならないだろう。
しかしそれにしても、﹃ユダの時代﹄のように、一八八O年代から一九〇〇年代にかけての文学.政治.美術界の思
ュモン﹂の影響を語ることから始まるこの回想録を、政治的立揚をまったく切り離して絶讃するア︶とは、私には不可
い出を、アクシオン・フランセーズの立揚から書いた書物、題名が挑発的に表現しているように、﹁天才的作家ドリ
能に思われる。だからプルーストは、反ユダヤ主義を露骨に発揮しているこのような思想を、どア︶かで受入れている
190
あるユダヤ意識の形成
と考えねばならない。プルーストが、ドレーフユス主義という基準を絶対的なものとして人を裁断するようになった
︵鵬︶
スワンの変身を、﹁滑稽な盲目ぶり﹂と書いたのも、おそらくはそのためであろう︵国朗関N︶。このようなプルース
トの立揚を作ったものこそ、少年時代の教会や司祭の記憶と分かちがたく結ぴついた田舎町の保守的カトリシズムに
始まって、八○年代からのフランスの空気に浸透されながら、自分を含めてユダヤを常に社会の”他者”と見なして
きた視点であったと思われる。
彼自身もそのような視線を身に蒙るユダヤ人であった。つまり先にも述べたように、ある時期から、彼は自分のな
かに宿命的に賎民の存在を抱えていることを意識していたのである。だからスワンやブロックと同様に彼自身も、た
えず上昇願望、非ユダヤ化の願望にとりつかれていたにちがいない。彼が、スト・ース夫人やカイヤヴェ夫人といっ
た、ユダヤ人ないし半分ユダヤの血を引いた婦人のサ・ンを皮切りにして、徐々により閉鎖的な貴族のサ・ンに入り
こんでいったのは、その欲望の実現のためであった。それにしても、なぜプルーストは社交界を選んだのであろうか。
時代おくれになった社交界が、どうして非ユダヤ化の象徴と見なされ得るのであろうか。このことは、立ち停って考
えてみる価値がある。それほどに、プルーストの生活においても作品においても、社交界の占める比重は大きいので
あるから。
重要なのは、ユダヤ人U他者の構造である。他者とはこの場合、マラスの言う﹁ユダヤ人と励かぎ紺だ存在﹂であ
り、善なる社会全体によって悪の烙印を押された存在、つまりは客体である。もともと人は、いわゆる”悪事”をど
んなにはたらこうとも、純粋な自発性において自分を悪と見なすことはあり得ないものであって、悪は必ず、それを
悪と考える他の主体の存在︵その意味での他者︶を前提としているはずである。純粋自発性の想像力における悪の欠
如を徹底してつきつめた李珍字が、二度の強姦殺人という自分の行為を経て神を求め、カトリシズムヘと向かった理
191
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︵瑠︶
由は、そこに求められる。まして、自分の行為などとは何の関係もなしに、その存在自体において、生れ落ちたとき
から社会の異邦人、客体、と指定されたユダヤ人の揚合、いっさいが自分以外の他者の主体の地平で進行しているこ
とは明らかだ。その進行を断ち切るためには、悪と見なされた客体を、価値ある主体に転化することが必要だろう。
あたかも十九世紀末から急速に広がったシオニズムや、今世紀に一時燃え上った黒人のネグリチュードの運動が、自
らの価値を主張したように。ところがプルーストはあらかじめ、ユダヤ人を悪または病患と見なす他者の主体に同意
を与えていたのであった。したがって彼がシオニズムに同調できないことも明らかだった。ユダヤは、散り散りにな
り、孤立して、一つの社会全体に躁躍される異邦人としてしか、彼にとっては意味を持たなかったからである。
それ故、ユダヤ人とはプルーストにとって、悪であり、疾患であるほかはなかった。それにもかかわらず、プルー
ストはやはり名誉回復を切望してもいたのである。そしてその名誉回復は、当然のことながら、他者の主体によって
行なわれなければならなかった。いわば自分を客体としたままで、他者の主体によって損なわれた名誉が、他者の主
体によって回復されないかぎり、烙印は消えることがないのである。以上が、プルーストのかかえている基本的な悪
の構造であった。
ところで社交界は、そこへの出入りの資格認定がいっさい社交界自体の手ににぎられているという点で、典型的な
他者の主体を構成している。つまり社交界に迎えられるということは他人によって名誉を回復される証しなのであっ
て、それは社交界が閉鎖的であればあるほど確固たるものになるはずであった。初めにも述べたように、プルースト
の小説において階級が不動の﹁カースト﹂を構成しており、容易に他の階級に移れない仕組になっているのは、その
ためであろう。また、上はゲルマント家のサ・ンから、下はヴェルデュラン夫人のサ・ンに至るまで、すべての社交
の場の主人たちが、出入りする人の資格認定に全権を揮うのも、そのためだと思われる。
192
あるユダヤ意識の形成
プルーストがシャルル・アースの生き方に注目したのも、そのことに関連している。アースは、たいした財産もな
︵鵬︶
いのに最高の社交界に出入りを許されたユダヤ人、つまり他者によって非ユダヤ化されたユダヤ人の典型だったから
だ。そのアースがスワン最大のモデルであることは、作者自身が種明しをしている通りだが、しかし問題はスワンー
アースの上昇だけではない。よく見れば、﹃失われた時を求めて﹄のなかで、他人の主体に左右され、他者の手で引
上げられるという点で、誰よりも鮮明に特徴づけられるのは、語り手自身であって、そこにプルーストがいつの間に
︵畑︶
か語り手に植えつけてしまったユダヤ意識を見ることも、可能であろう。じっさい語り手の少年は、一介の役人の子
供にすぎないのに易々と貴族の社交界に出入りを許されるばかりか、常にその貴族たちに目をかけられ、可愛がられ、
保謹され、引上げられていくのであり、名門中の名門である貴族たちがこの少年を才気あるマスコットのように受入
れ、サ・ンの扉を彼のために開くのは、不思議な現象でさえある。そればかりか、この少年の記憶にない幼いころの
こととして他人の語るところによれぱ、ある日シャンHゼリゼを通りかかった老ゲルマント元帥︵ゲルマント公爵夫
妻の祖父︶が、そア一で遊んでいた語り手の姿に眼を止めると、﹁美しい子じゃのお!﹂と言いながら、御褒美のチョ
コレート・ド・ップをくれたことさえあるという︵℃戸旨占い︶。ここで少年が、まったくの客体のまま、その存在に
よって一人の老貴族からの顕彰を受けているのは興味深い。サルトルは﹃家の馬鹿息子﹄のなかで、馬車で通りかか
っ
た
ベ
リ
公
爵
夫
人
が
幼
い
フ
・
− べ ー ル の 姿 に 気 づ き 、 彼 を 抱 き 上 げ て 接 吻 し た と い う 逸 話 を 語 っ︵
てn
いo
る︶
が、プルース
トにもまた明らかに、同様な名誉を夢見る姿勢が認められる。
じ願望がくっきり描かれているのである。たとえば主人公のジャンが、レヴェイヨン公爵家の息子のアンリによって 3
その姿勢は、﹃失われた時を求めて﹄に現われるだけではない。すでに﹃ジャン・サントゥイユ﹄においても、同
︵⋮︶ 19
認められ、引上げられ、抜擢されるところは、その一例であって、仲間に小突かれ嘲笑されているジャンは、かけつ
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けたアンリに救われ、みなの眼前で、その立派な馬車のなかに迎えられる。さらに、レヴェイヨン公爵夫妻によるオ
︵搬︶
ペラ座への招待の場面も、同様に理解することができよう。マルメ夫妻からの招待を取消されて恥ずかしめられたジ
ャンに同情して、レヴェイヨン公爵夫妻は、同じ日に彼を、ラ・・シュフーコー公爵夫人、ポルトガル国王、アキテ
ーヌ大公、ブルターニュ公爵夫人などといった鍾凌たる顔ぶれとともに、自分の桟敷に招いて、復響をしてくれるの
である。しかもジャンの代りにマルメ夫妻が招いたのは、取引所外株式仲買人であるユダヤ人のシェレクタンビュー
ルであった。ここでもプルーストは、ひたすら他人の手による救済と名誉回復によって、自己を非ユダヤ化すること
に憧れていると考えるぺきであろう。
以上のように見てくれば、プルーストにおいてドレーフユス主義に加担した時期は、きわめて例外的な瞬間であっ
たことが分る。またそのドレーフユス主義に全面的に支配されているように見えるときも、彼がスワンやブ・ックの
ユス事件のさなかで書かれた﹃ジャン・サントゥイユ﹄でも、プルーストはこう書いているからだ。
ように盲目的に、ドレーフユス一辺倒になることがなかったのは、当然のことのように思われるのである。ドレーフ
﹁たえず誠実であろうと努力するとき、われわれは自分の意見を信ずることができなくなって、自分たちにとっ
て最も不利な意見に組するのである。そしてユダヤ人であるからこそわれわれは反ユダヤ主義を理解し、ドレー
フユス派であるから、ゾラを断罪した裁判官を理解し、シュレル目ケストネールに烙印を押した公権力を理解す
︵鴨︶
るのである。﹂
さらにまた別のところでは、ドレーフユスは犯人ではないけれども、エステラジーにもまた罪はないのだ、という
︵⋮︶
意見を述べる人物を、あたかも真相の最も近いところにいるかのように描いている。このように、ドレーフユス事件
の最中においてすら、彼はドレーフユス支持の立揚をとりながらも、その立場はベルナール・ラザールやジョゼフ・
194
あるユダヤ意識の形成
レーナックの.ことき支持派のリーダーとは明らかに異っていたひ
それというのも、有罪か無罪かの二者択一は、プルーストのような形でユダヤ意識を作り上げてきた者にとって、
余りにもその本質から遠いためである。十七、八歳ごろの自我解体の危機以来、﹁さまざまなスワン﹂で示されてい
るような複数の自分を同時にかかえこんだプルーストにとっては、そのような自分の﹁未知の記号に満ちた内部の書
物﹂を読みとくことこそが何よりも大きな使命であった。だから彼は、﹃見出された時﹄のなかで、﹁ドレーフユス事
件であれ、戦争であれ、それぞれの事件は作家たちに、この書物の解読を怠るためのさまざまな口実を与えて来た﹂
と書 き 得 た の で あ ろ う ︵ 国 口 ・ o 。 苫 ︶ 。
おわりに
以上、プルーストにおけるユダヤ意識の形成について、考察してきたが、しかし彼のユダヤはこれで尽きるわけで
はない。おそらくすべてを語ろうとすれば、プルーストの全体について述べることが必要になるだろう。私が﹃失わ
れた時を求めて﹄の記述は必ずプルーストの何かを意味しているものと見なして、これに拠りながらも、主として若
ヤ ヤ
い時期のプルーストに間題点をしぼってこれを書いたのは、そのためである。
それでも、この時期のみの問題点のなかでも、なお言い残したことがないわけではない。その最大のものは、第一
にプルーストの同性愛とユダヤの関係である。ハンナ・アーレントが、その興味深い﹃反ユダヤ主義について﹄でふ
れているように、同性愛とユダヤ人とは、十九世紀末の社交界が許容した︵そしてある程度までは、それに惹きつけ
︵鵬︶
られた︶二つの﹁悪徳﹂<一8ωである。そればかりか、プルーストのなかには、半ユダヤ人であったことも一つの原
因で彼が倒錯者になったと考えられるような、あるいは倒錯者であったためにこのようなユダヤ意識を持ったとも思
195
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
196
えるような、両者を同一の観点でとらえようとする態度がはっきりうかがえるのである。ただ、同性愛の間題につい
て考えるためには、ユダヤの間題だけではなくて、さらにさまざまな要因を考慮することが、必要になるであろう。
とりわけ幼年期からの彼の足跡を、細かく辿り直すことが必要であろう。それは本稿を余りに膨大なものにするだけ
でなく、すでに私が他のところで試みはじめている仕事と重複することにもなりかねない。そこで今回は、この問題
を初めから諦めることにしたのである。しかし私はいずれ、なんらかの形で、このことを考察してみるつもりである。
いま一つ、ここでふれられなかったことは、ドレーフユス事件をめぐる彼の態度の変化である。なるほど最後に記
したように、﹃ジャン・サントゥイユ﹄においてもすでに複眼の思想は随所に現れていて、決してプルーストがいわ
ゆる﹁熱狂的なドレーフユス派﹂という枠組に納まるものでないことは明らかだが、それでも後年の﹃失われた時を
求めて﹄でのドレーフユス事件の扱いとは同一視することができない。これは、彼における作晶の創造にかんする考
え方が変化したことを示すものであるが、では、その変化のなかで、彼のユダヤ意識はどんな風に働いたのであろう
か。その問題もまた、今後の宿題として残しておきたい。
O巴=ヨ畦ρ一〇試ヤ℃勺ー$Io。Q・
︵4︶︸。彗男o島m。戸︽■。欝ε叶惹﹃β窪αゴロ需蓉目品9ω≦gコ︾﹄9ミミ句ミミ&‡。§wN尊ミ翁等§恥誉§跨鐸
︵3︶Gミ鳶尽§亀§驚魯ミミ、ミ等。誤さ8ヨ。戸巨op一零9マひひ■
︵2︶≧げ窪冒一富区。戸︽蜜§一牢。琶。二四冨匹三8富潟昏。︾㌧奪さ瞬ミ§葬§き、§量墨一①弓一睾<一R一8い・
︵1︶ R皇oUo臣o吾ρト、﹄誉きbミ愚a黛醇肉ミ帖ミ蝋誤﹁義ミ夏勲国畠三〇霧≦99き一凶おPG鵠、評蔚・
注
あるユダヤ意識の形成
︵5︶
鵠一畠。一ω昇oき笥奪ミ嚢ミ∼ト■oω図色江o器ユ。目一昌一倉一8介サ呂。
︵6︶ 一$ロ男08口ρ葺㌔、息ぴ㍉裳爵魯ミミ“賊㌔き§き切目げo梓、Oげ器8ど一S沖マ一いP
︵7︶ Ooミ馬落§§§恥辞ミミ“乳勺き§さ叶o日o<押垣op一〇〇。ρ層階N■
反ユダヤ主義の右翼作家として有名なレオン・ドーデーは、その﹃ユダの時代﹄のなかで、ユダヤ人にかんする意地の悪
︵8︶ き蕊‘℃■8q、
︵9︶
い観
し て い る が 、﹃ラ・ルヴュ・ブランシュ﹄で文芸時評などを書いたリュシヤンニ・・ユルフェルトに会ったと
察
や
回
想
を
記 迅ミ
目ミ愚偽魯∼ミ§勲Zo薯亀o口ぼ巴幕2簿一9巴P一8ρや一8︶。してみると、湿疹や便秘という言い方は、反ユダヤ
きの
に ふ れ て 、﹁そのむしばまれた顔は、執拗な便秘に悩まされていることを示していた﹂と書いている︵寂昌∪窪畠堂
こ
と 主義
者
の
好 ん で 用 い た 、悪意のある噂話の決り文句だったのかもしれない。一方、環境と肉体にかんしてプルーストは、ユダ
ヤ人
が
上
流
社
交
界
の
人 間 に な る と 、 そ の 鼻 の 形 ま で 変 る と い う 趣 旨 の こ と を 述 べ て い︵る
℃一H﹂8︶。これはいわぱ、再ユダヤ
︵−o︶
一$昌菊o島器甘Oサミ馬‘℃、MP
化し
た
た
め
に
肉
体
的
に
変 調 を 来 し た ス ワ ン と 、逆の現象と言えるであろう。
フ・イト著作集2﹃夢判断︵全︶﹄、人文書院、一九六八年、一六二ぺージ。
この第四冊目の﹁カイエ﹂は、国立図書館では一六、六四四という整理番号を与えられているもので、私が参照したコビ
︵11︶
︵12︶
には、鉛筆のノンブルのみが打たれていた。そのノンブルの五六ぺージから五七ぺージに当る部分が、問題の箇所である。
ルイス・ワース著、今野敏彦訳﹃ユダヤ人と疎外社会ーゲットーの原型と系譜﹄、新泉社、一九七一年、三∼四ぺージ。
︵B︶
同右、一六四ぺージ。
Oミ§落§§§恥恥ぎ無ミ恥誉ミミ“乳㌔ミ§斜8目oH一H、︸一〇P一〇罵︸サ一〇■
︵14︶
︵15︶
﹄ミ賊︷唱謹■
︵17︶
今は一例だけを挙げておくが、ドレーフユス事件当時に書かれたと思われる自筆原稿のなかに、﹁才能を要求しないさま
冒貰8一男3一一ωμGo蕊ミ切ミミも−切ミミ’里三一〇98仁①α①一帥=鰹四αρ一〇二、℃■ひOい■
︵16︶
︵18︶
197
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
切ミ婁国9一〇昏8琴αo一帥娼一鋒鼠ρや斜嵩︶。
ざまな仕事のなかに逃げこむこと、ドレーフユス事件を口実にすること﹂という文句が見られる︵勺3島戸9ミミ防&ミや
︵19︶冒胃8一娼﹃o島ひ∼ミミ的象ミ恥§押亜巨一〇穿8一一〇αo一騨︸一鋒毘PドSど℃,訟一,
︵20︶Oミ釜落§§§恥Oミ無ミ驚魯ミミ&馬、ミ§き酔oヨo目H魎や一P
︵21︶ 頃窪奉一・︾8民倉的ミN、黛ミ慧ミ詳§30巴ヨ弩早寂くざお冨魍唱ワ旨¶む避 私の参照したのは仏訳のみだが、原文は
日冨9喧房a目o言一一富H一目一m日の第一部に当る。この書物は一九五一年初版、以後版を重ねる.ことにかなつの改訂が加えら
︵22︶ 客一9器一男.竃帥鐸房・卜塁、設爵織恥等§驚勘馬、閏待ミ§辞脳、﹄強導、恥望、運S講・9ぎ睾マ敦乏・這謡一℃・お・本書は、
れたらしく・仏訳は一九六八年版に依拠している。
︵23︶ たとえぱ一九七一年現在で、フランスに五八万人のユダヤ人がいる、という数字がある︵Oミ籍∼ミ、警等§3国島−
一九七一年に○風o&d菖<①邑¢甲①器から出版された日ぎ唱o一三島亀貯巴ヨ雨戊9の仏訳であるQ
国ρ9﹄醤ミoミ恥§∼ミミ偽ミ馬㌔ミミ&防︵一$国ユ三〇話象置旨一叶・這8︶によると、一八八二年の在仏ユダヤ人口とし
試o霧竃黄鼠どや寓︶。しかしこの揚合のユダヤ人の定義は、一向に明確にされていない。
て、アドルフ・フランクは六万人、﹃イスラエル史料﹄≧9ぞ霧耳器葎霧は八万ないし八万五〇〇〇、テオドール・レーナ
アンドレ・スピールもまた、ユダヤ人人口の計算のむつかしさを語っている︵>コαa㏄且30§§§、ミ蓼噂フn臼8お畠o
ックは六万三〇〇〇︵内四万人がパリ︶、そしてドリュモンは五〇万︵!︶という数字を挙げているという︵同書六三ぺージ︶。
︵24︶ 07p二〇窪o男o一帥昌辞b貰O、四ミo斜﹄、O象ミ恥ミーbミミO簿駄ミ畿o自網裁§気ミ砺§、ミ謹♪卜o。。団象試o器αo冒冒直F一8ρ
閏旨8ρ一〇一い噂マ“o這︶。
︵25︶ い仏oココ巴仏くど淘跨設§駄織偽∼、霞傍む勘馬織題∼ミ冨ミo織恥、ミ題、■ooo冒酔ρ一〇〇Nooい℃■い一Do なお、このレオン。アレヴィは、
︾罫
ック・ビゼの大叔父に当ることは、興味深い。
十九世紀前半のサン”シモン派に属する歴史家だが、彼がプルーストのクラスメートであるダニエル・アレヴィの祖父、ジャ
198
あるユダヤ意識の形成
︵26︶ 閑①菰02。ぽH−切oヨげ①一P国慧oミ∼ミ鼻誉爵乳きミ§恥ミ恥謄ミ肉§&砺魯§恥脚醤8誉ミ漁8巳。目”一①図H図。
︵27︶ 閑塑亘﹂ミミ。ミ鳶§∼ミミ肋§恥肉喰ミNR蹄︵■9国象試o冨3言呂一世這9︶には、一八四四年創刊の﹃イスラエル世界﹄
巴①o一ρ国︼首o訂 一 ① o F 一 〇 謡 一 や 這 歴
い.q巳さ冨冒3警8の初期の文章の一つとして、次のようなものが紹介されている︵同書六六ぺージ︶。
﹁われわれの寺院には、人っ子一人いない。ヘプライ語を話し、古代の象徴をまとったユダヤ教は、最も著名なイスラエル人
市民からも見捨てられてしまった。そのユダヤ教を、フランス語を話す家族のなかに求めようとしても無駄であって、われわ
の意味に用いているということだけだ。﹂
れはそれを見出すことができない。唯一われわれが発見するのは、人ぴとが信仰の自由という言葉を、何物をも信じない自由
︵28︶ マラスによれぱ、一八七二年から︵冒畦暑の魎O︾ミ‘マ&︶、またスピールによれぱ、一八七六年から︵o。ロβO>翼‘
唱■卜。己︶、宗教の帰属が国勢調査から消えたという。なお、マラスは一八七二年の調査として、ドイツに統合されたアルザス、
︵29︶ 寂8財o一楠鯨9、㌧望魯ミ魯煽、﹂ミミミ趣一ミ︸時o日。H一押b馬§、ミミ馬勘ミ魂ミきO巴ヨ翠亭敦くざ一80。”℃■器一〇け
・レーヌ州を除外したユダヤ人口は四九、四三九人、内二四、一三九人が、バリ及びその近郊に住んでいる、と伝えている。
︵30︶ 窯騨霞臣いO︾ミ登唱。繋1£■とくに、著者が引用するレオネル・ド・ラ・トゥーラソス■ε需一計い鈴円9β。。器の、
超中 なお、同じ著者に零冒旨訂>﹂、雪という著書があるはずだが、私は未見である。
次の言葉は、人種論者の偏見を遺憾なく伝えている︵同書二八ー二九ぺージ︶。
﹁このことは、いくらくり返しても、くり返しすぎることはあるまいが、ユダヤ教冒鼠厨ヨoは宗教ではなく、一つの人種で
ある。いかなる国に所属しようと、ユダヤ人は、余りに多くの絆、余りに多くの親戚、余りに多くのコスモポリティズムを、
維持しつづけている。彼らは、すぺての国にまたがって、その血統と心情からして、兄弟である。︵⋮⋮︶フランスのイスラ
エル人たちがフランス人だとしても、彼らはある程度まで、つまり彼らがわれわれの人種に同化したかぎりにおいてのみ、そ
世遺伝を通じて、初めて形成されるものだ。﹂
うであるにすぎない。しかも、一般的に、彼らの同化の度合いがごく少いことは、認めなけれぱならない。人種とは、長い隔
199
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
200
このようにユダヤ人を人種と見なすことの誤りは、多くの人が指摘している。たとえばクセジュ文庫の﹃人種﹄の著者アン
﹁人類学的な見地からすれば、︽ユダヤ人︾は一つの人種ではないし、またかつてそうであったこともない﹂と明言している
リ目V・ヴァ・ワは、人種成立の要件を、解剖学的特徴、生理学的特徴、心理学的特徴、病理学的特徴の四点に求めた後に、
ワース、前掲書、八二i九一ぺージ。
︵邦訳四七ぺージ︶。
行されており、一八四〇年代から八O年代までの一貫した支持者のあることをうかがわせる。
第二版は二巻本として、O暮ま一300讐9の手で出版された。第三巻も、同じOo鷺卑による詳細な伝記的紹介をつけて刊
グ富も目9鄭コ帥目・崔ユoP一〇。o。墜 同書の初版は一巻本として、一八四五年に一pごげ円鉱H一〇α。一、団8一¢ω09警巴﹃。から、
︵39︶>’日。蕊ω窪。どト塁妻昏’ざ階匙恥馬、導ミ暴顛魯ミ§騨寂ミミ載憶き§&蚤︾o邑ぎ。田一自oPN<o一‘O・
魯§ミ畑、O誉獣§︵ρ冒PもOP陣国固p目目胃δ昌︶を発表している。
ドリュモンは、この﹃ユダヤのフランス﹄の爆発的反響と、それへの種々の反応を踏まえて、同年に ぎ等§“恥ヤ§
本書には多くの版があり、ぺージ付けも若干異っているが、本稿で引用する場合は、第九〇版のぺージ数を掲げておく。なお、
︵38︶匿・轟巳U旨日o鼻9専§驚∼ミミ鵯騨砺§“、韓§ミ9ミ§博ミ&§﹄<o一こρ寓曽℃8知団・国帥日ヨ毘○戸一。。。。ひ・
表している。
な
ユ
ダ
ヤ
人
と
を
主 者と 、 誠実
題 と し た 、﹁善良なるユダヤ人﹂という題のコントを、一八八○年十二月十一日付けの同紙に発
﹄ミ野や試”やまP それによれぱ、■①田一。旨・︵巡礼︶という名のカトリック新聞が、偽誓者で泥棒のカトリック信
きミ‘や翼■
垣。目・ooo臣P卜ago巽亀§∼裳昏︵一。。。。OI一〇。8yO茜のω。“一8ざ℃●O軌■
專ミ;サ鴇。
ま8悶o一芭8く㌧国慧。帖ミ警N、﹂ミ傍駄ミミ砺ミ3ε日。Hく、卜、閏ミ。特句ミ“鴛&“O巴ヨ帥一白−寂くざ一〇MMリサUド
零費琶ρO歴壽︾やま・
37 36 35 34 33 32 31
(((((((
)))))))
あるユダヤ意識の形成
さらに、同じ一八八六年には、閂ぞ簿ざユo魯Ωoから、瓢Oぎ︿些ROo轟窪9匹o切鵠o島器鎧卸簿、ミ麟群∼黛§跨ミ恥
︵⑳︶ たとえば田目磐β卜aOミミ馬寒ミ§肋望§㌔§砺§置O冨。・ω曾這呂を見よ。また、甘目U冨巳戸bミ§。塁ミ
無ミ㍉ミミ恥ミ帖§籍恥㌧§黛塁Oミ§§切が再刊されている。初版は一八六九年刊行。
、§§恥∼ミ竃職ミト融ミ、ミ。劃ω8菰ま閏声君巴。。①α、国q三〇屋ご辞警巴おω9日o号昆ε$這雛を参照のこと。とくに
後者は、ドリュモンの著書と行動に衝撃を受けて、本人を訪れ、これに傾倒した同時代の若者の証言として、当時の実情と雰
︵41︶悶o一巨6∼奪■ミ・﹂o目。署一唱﹂阜・
囲気を生き生きと伝えている。
︵42︶ 一。目U﹃呂拝O︾&・’℃℃・呂−総には、ドリュモンの著書に対する反響の深さと広がりが記されている。また、著者自
身は、﹃ユダヤのフランス﹄を軍隊内に持ちこみ、兵役に従事していた同じ隊の仲間とこれについて議論したことを記してい
る。なお、この本によって侮辱されたとして、アルチュール・メイエルは、ドリュモンに決闘を挑み、決闘は一八八六年四月
かもしれない。
二十四日に実さいに行なわれた。そのような事件も、﹃ユダヤのフランス﹄をいっそう人ぴとの話題にするためにカがあった
︵43︶ ∪ヨヨ8戸O憾■匙‘8ヨoH一やO、
︵44︶ ∪巨臣8戸O︾ミ鳳‘一〇BoH、り8一・
︵45︶ ︾馨9言Uoげ践8きト、閏箋鴇Gミぎ∼避ミ鴨ミ、韓ミ§、ミ§♪8ヨoHり一89頴一営≧8P℃・8け
︵菊︶ き試■曽唱﹂。。∴一9 >象窪∪目uqoヰρ顛§ミ器畑喧ミ雛詩ざ‡§驚9ミ§博ミ§蕊噛国pββ包op一。ひ魯唱・
O軌OIい軌一。
︵47︶ U①げ凶山8きO賢ミ‘マ一認, U霞8洋POサミこ℃ワいいPまひ・
︵49︶ U言ヨo暮・O︾ミ;8ヨoH︸℃や睾一占鳶’
︵48︶ ∪崔旨8 ρ O ︾ 匙 ; 峠 o 旨 o 担 マ 器 P
︵50︶ 古賀英三郎﹁フランス資本主義とオート・バンク﹂︵一橋大学研究年報﹃社会学研究 6﹄一九六四年︶には、トゥスネ
20!
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
目o島器琴どO︾ミ馬こ一〇。轟ざε目o一ヤ℃。S
ルの こ の 書 物 が詳
、利用されている。
し
く
紹
介 ︵51︶
きミ‘やM9
℃o一一爵o<魍Oサ息‘ε目Φ一HH触℃やωo。O占o。ωー
奪蕊‘サ一9
↓o仁ω。。窪o一いO憾■轟こ一〇ヨoH︸℃や目,簿目H■
︵53︶
︵55︶
︵54︶
トゥスネルが、マルクスの﹁ユダヤ人間題によせて﹂︵一八四三年︶を読んで影響を受けていた可能性のあることを、指
︵52︶
︵56︶
肉きミ防。9ミ馬ミ防O卜q同﹄O之、鼠q﹄、国◎q肉bq、為Obo卜肉ミ閏bq、肉O卜肉﹃﹂需、﹄担、竃ミ誉篭ミ襲馬ミ恥トミo蓑、
摘する
も あ る
者
︵勾oげ。詳冒一。。β亘ミミ疑窺ざ◎ミ駐§智きひO些冒畦ρ一〇謡㌧℃う一〇。ひー一〇。博︶。
︵57︶
第一号
は
一
八
四
五
年
十
月
刊
。
以後毎月第一日曜に刊行。間題の論文は、Uo一p男o号Rgo含$ω田ZUo竃>日国勾田■Uっで・
その第
二 月 ︶に掲載されたUo一、冒島く巳墨まヨ。9身OOo巳些聲おであり、第二回が第四号
一
回
は
第
三
号
︵
一
八
四
五
年
十 ︵58︶
十九世紀末の反ユダヤ主義に対して、フランスの社会主義者たちはまったく備えを欠き、自らも反ユダヤ主義的な態度に
︵一八
一 月 ︶ 掲 載卜
のoω一巳駐菊Oδαo一、国唱oρ5である。
四
六
年
参照の
と 。 なお、西欧と東欧では事情がちがうけれども、革命以後のソ連及ぴ東欧におけるユダヤ人問題︵さらに広く、民
こ 陥るこ
く な か っ た 。これについては、℃o一す犀oく”O博■ミン8日①一一一㌧唱マ鴇MIω2、ン鼠轟器讐O>ミ︾マ鼠Oなどを
と
が
少
族と人
す る 間 題 ︶の不明朗さ、曖昧さは、その問題にかかわる他国共産党の態度とも併せて、その原因の一端を十九
種
に
か
ん 世紀中葉のユダヤ人理解にまで潮って考える必要があると思われる。
︵60︶ω①旨e一〇望曾甲ミ﹂8PO勾一一巨p具い。口く困Ω。bo3①㌧唱■い9
︵59︶ ∪昌ヨo 耳 一 〇 ︾ 息 ‘ 8 日 o H ㌧ マ ま 簿 呂 亭
︵61︶Uβ島戸専もきマ8・ω窪・騨8望Oやミ・、やまP 決闘はこの当時、かなり頻繁に行なわれた。プルースト自身が、
ジャン・ロランと決闘をしたことがあるのは有名だが、ドリュモンとその周辺では、ときおりこのような決闘が行なわれてい
202
あるユダヤ意識の形成
︵62︶ 竃霞昌ω︸O︾ミこやお・その同じ著者は、﹁十九世紀の終りには、パリのユダヤ人人口のなかで、アルザス出身の人た
る︵勺巨一首℃ΦωOロ巳お測鴫蔚む帖ミ織象∼ミ欝魯肉ミ§魯︾一げ首目8げ魯這博♪℃つBひ1800︶。
ちの数が明らかに支配的だった﹂とも言っている︵やお︶。
︵63︶ U霊ヨo馨︾O︾町蝋■一8日¢担マ禽N■
︵64︶ ドリュモンは、彼らの強いアクセントをも槍玉に上げ、また彼らはフランスよりもむしろプロシヤヘの愛国心が強かった
とも書いているが︵O︾亀︾8ヨ。一・℃や鳶Nム8︶、これは彼らがフランスを選んだという事実からして、論理的にもおか
しなことである。むしろ、彼らが他のフランス人よりもフランスヘの強い愛国心を持っていたことを指摘する者もある︵国き−
五月革命当時のコーン”ベンディットに浴せられた罵倒のなかにも、﹁ドイツ系ユダヤ人﹂冒寵亀。旨雪︵一という言葉がよく
5聾≧窪象一〇>ミリ薯,NN竿8ひ︶。なお、﹁アシュケナーズ﹂への反感は一世紀後の現在までつづいており、一九六八年
用いられていた。
︵66︶ き&;サa■
︵65︶ 冒一。言一園oげ冒P卜塁∼ミ闇魯、ミ画⇔、bヘミ虎ミ黛誉山8§ミ恥−Gミミ藁国象瓜o房>。。叶いり一8巳廼ΩP這器㌧やま,
︵68︶ ﹁同化したユダヤ人は、モーゼス・メンデルスゾーンがイディッシュ語を棄てて、ドイッのユダヤ人に文学的ドイッ語を
︵67︶ 団8巳器一”O︾§こ唱つ8軌占一〇、
〇万のプ・レタリアートの言葉であるから、衰微することはないのである。﹂︵>&鼠oo口﹃ρO§貯ミ動∼§冨㌻呂︶
用いるように勧めたとき以来、常にイディッシュ語に戦いを挑んできた。しかしながらイディッシュ語は八○○万から一〇〇
︵69︶目鳶﹃霧﹄O︾ミ‘マお■なお、反ユダヤ的なカトリックの刊行物は、これらの下層ユダヤ人の移住をも富と結ぴつけ
ており、そこにトゥスネルら一八四〇年代の先駆者たちの教訓の生かされていることが感ぜられる。たとえば﹁富につきまと
われて彷裡うユダヤ人﹂という﹃巡礼﹄誌の記事は、東欧を追われるユダヤ人も必ず利益を上げていることを、挿絵入りで主
︵70︶ O富二98菊&Pb醤象恥誉岱∼、O象畿“ミ㌧や嵩・ なお著者は、この二十世紀半ぱにおいても、ベルヴィルのユダヤ人
張している︵霊R30りo岳劃O︾ミ︾マ8︶。
203
一橋大学研究年報 人文科学研究 22
コぞヘユニテ
は、他の人ぴととくっきり区別されており、﹁ユダヤ人とは人種か、宗教的集団か、歴史的集団か、あるいはそれ以外の何も
のなのか、といった問題を出すまでもない﹂状態であったことを記している︵マ8︶。それほどに、彼らは同化と無縁だった
のである。
︵72︶ U置巨o算㌧卜黛、ミ§恥∼ミミ、8ヨΦ目い℃や一−驚・
︵71︶ ∪旨ヨo暮いト魯憤、§&㍉ミ需恥ミR蕊噛、O慧§§魍一〇。o。9ρ寓即も8知φ国印営目霧凶OP℃ワ?け・
︵73︶ 男oげ。詳ω08署拝ミミR、㌧き誤酬§&&§ミ§幾豊ミ︾一8ざ国oPやホ・
︵74︶Ω四&。穿目。一。。卑国①旨窪山①Oo注。きミミ&等ミ無乳試盟§勲鶏三山雷のo薯雪富α。ω=昌冨雪8,甲o島“
Goミ馬落§警§馬魯ミミ“戚㌔ミ誤ひεヨ①目︶国op這N9やひ曾
>巳鼠oo℃貯ρ◎ミ§§㍉ミ番戚∪恥§い−∼黛昏︸一80。ヤ冒R。日①αo即嘗oρやま・
想op一〇〇〇一ヤや8・
︵拓︶
この点については、拙稿﹁イサクと父親﹂︵﹃一橋論叢﹄一九七八年七月号︶を参照。
冒貰8一甲o塁“︽旨8ヨ亀霧盆一①g日①︾、9ミミ旨軌ミ馬山ミ暴国匹o跨3ロo匹①一即℃一虫区ρ一Sど℃や一ひo占£・
︵75︶
︵77︶
︵78︶
Goミ馬落§野§恥騨ミミ“魁㌔ε誤戯εヨo一”℃一gb一Sρ唱・一&・
Gミ§落§§§馬警ミミ6戚、こ§ひεヨo一目,℃一〇p一〇N9℃℃・いo。一ムo。P
Goミ蓋防&旨、恥−切ミミヤや曽り
︵79︶
母親を、”他者”としてのユダヤ人と見なす、という意味で、われわれの想像をかきたてる奇妙な手紙がある。一八八七
︵80︶
︵82︶
︵81︶
十
五
日
と
推
定 年七月
さ れ る 手 紙 だ か ら 、ドリュモンの﹃ユダヤのフランス﹄の翌年であり、プルーストは十六歳になったばか
プルーストはブーランジェを支持する群集の熱狂にまきこまれて興奮しており、それが母の気に入らずに、二人のあいだ
る
。
宛
名
の
人
は
彼
よ
り
一
歳 ル
で
あ
る
。
ちょうどブーランジェ将軍事件の最中
りと い う こ と にな
年 長 の ア ン ト ワ ネ ッ ト ・ フ ォー
で、
っ
た
ら
し
い
の でい さ か い があ
だ が 、そのことをプルーストはこう書いているのである。﹁ぼくがわれらの勇敢なる将軍のこと
め
に
し
た
の をべ たぼ
で 、 それが、ジャーヌ・プルースト夫人の古くさいオルレァン派的共和主義の感情を刺較したのでしょ
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あるユダヤ意識の形成
う。﹂︵qミ馬恥博。ミ黛醤“恥職恥ミミ“恥軸㌧ミ誤さεヨo押℃つ81S︶いさかいのあととはいえ、﹁ジャーヌ・プルースト夫人﹂と
いう皮肉な言い方はずいぶん異常である上に、﹁古くさいオルレァン派的共和主義﹂という文句もわれわれの眼を惹かずには
いない。書簡集の編者コルプは、彼なりの説明を加えているが、私は母方の親戚アドルフ・クレミウを筆頭に、七月王政時代
のサン”シモン派から第三共和制にいたるまでのヴェーユ家を、ブーランジェヘの熱狂のなかで少年プルーストがからかって
いて、ユダヤ人を”他者〃と見なす発言ということになるだろう。
いるのではないか、という疑いが消えないのである。もしそのような想定が成立つなら、これは自分を非ユダヤ人の立揚にお
︵83︶ 友人たちの回想が、この叔父︵実は大叔父︶のことにふれているところを見ると、プルーストは若いころに、よくこの大
叔父の噂をしたのであろう︵菊oσ。耳∪器且島いどミ恥獣嵩砺ミミミミ㌔ε誤ひO冨器9一露9つ旨・及び男o竃井3切苧
ぎミミミ㌔き§wート異、恥恥無9ミミ器勘§勲国良試o富α窃℃o岳20。・口3ρや宝を参照のこと︶。なお、私はこのルイ・
ヴェーユが、﹃失われた時を求めて﹄のアドルフ叔父に特徴を貸し与えているだけではなくて、スワンを創造する上でも若干
の要素をプルーストに提供していると思う。それについては、丸善発行の雑誌﹃学鐙﹄の一九八二年五月号の拙稿で、すでに
︵84︶ 諸舞昌辞Oサミ‘℃・o。ド
ふれておいた。
︵85︶>び﹃騨訂目敦βζ9§慧§さ馬駄ミき警騨曾逃§∼§♪卑区。の①酔u。。毒Φ暴量二幕ヨ豊8帥星ま。。㌧
や一ま¶
︵86︶国。σQβ①ヰ。Up<苓︽国麩8一甲。二舞①訂。ωp巨。・嘗賦緻邑霧︾︸却ミ恥織.建§欝趣譲ミミ魯ミ等§3ω。讐弩訂。‘
匹曾oヨげ話一薯どマO一9
︵87︶ 本稿の注12を参照。
︵88︶ 拙稿﹁プルーストと喘息﹂一橋大学語学研究室刊﹃言語文化﹄第18号︵一九八一年︶、ならぴに、﹁マルセル・プルースト
︵89︶ 9ミ魁落§亀§驚魯ミミ&、§盗翼o巳oHり電・目o占卜。ρ
の誕生の﹂丸善﹃学鐙﹄一九八二年八月号を参照。
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一橋大学研究年報 人文科学研究 22
︵90︶ きミ︸℃や一辰占風一PN■
︵91︶ きミ;や=ひ,
︵92︶私は、ブ・ックの創造の上で、プルーストの自己観察が不可欠なものだったと思う。たとえば、十五、六歳ごろのプルー
ストが祖母にあてて書いた手紙には、次のような文句が見られるが、これは先に引用した﹁真黒なケールにとらえられて、お
ぞましい死者の国の王ハデスの門をくぐらされてもかまわない﹂︵勺H一Ma︶や、﹁誓いの守護神であるクロニォン・ゼウスに
かけて﹂︵悶一一翠軌︶の原型というぺきだろう。
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ミスと、燃える眼のプルートーンに誓って申しますが、ぽくはマダム・カチュスに見られるはずはないつもりでこれを書い
﹁ぽくはとても困っています。マダム・カチュスは、この肖像画をきっと見てしまうでしょう。そうして、白い女神アルテ
ているとはいえ、あの人のことを素敵だと思っていると打明けるのは少し恥ずかしい気持がするからです。﹂︵qミミ尽§、
§§馬籍ミミミ㌧ミ誤、耳oヨ。どや3︶︵傍点筆者︶
さらに、ブ・ックに見られるドレーフユス支持の活動は、もともと﹃ジャン・サントゥイユ﹄では主人公のジャンの行動と
されていたものであり、また現実にはプルースト自身のものだったと思われる。この点でも、ブ・ックの有力なモデルの一人
︵93︶ ドレーフユスの再審を推進するための署名を集めた者として、ジョゼフ・レーナックは、﹁フェルナン・グレーグ、エウ
は作者自身というべきだろう。
及ぴダニエル・アレヴィ、アンドレ・リヴォワール、ジャック・ビゼ、マルセル・プルーストなど﹂と記している。︵甘器菩
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Goミ恥も§§§馬§ミミも匙、ミ義さざ日o同︾や旨O。
︵97︶
︵96︶
︵95︶
︵98︶
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あるユダヤ意識の形成
︵99︶ 9、§尽§§§恥譜ミミミ等。誤w﹂o目Φ一︸ウ盆一■
︵㎜︶ いg一gU帥口αΦρ﹄ミoミ§玩o馳鶏ミ恥卜違、塁謄ミミ“ミ ㌧さ§戯■①のO昌一R。。竃霞8一牢o自簿μO巴一冒畦島ヤ一8P℃ー
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9ミ馬落§魯ミ馬魯ミミ&噌、ミ茎8BoHH︸唱,一象1一8。
﹁レオン・ドーデーは、ある新聞でしきりに私をほめてくれますが、その新聞は私の好みのものではありません。﹂︵カミー
ユ・ヴェタールあて。﹄ミ3マ一〇。N︶
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
のなかで、﹁わたしの知った最も機智に窟んだ面白い人物﹂、﹁最も不思議な男﹂と評したアースは、そうした魅力を武器にして、
いる。ジソプがその﹃第三共和制の陽気な少年時代﹄︵卜9、ミミ雛肉誉§鳴魯ミ、自。葡骨さ、暗§︸9言弩〒敦くざ這弩︶
︵期︶ アースについては、フィリップ・ジュリァンが、O鶴。ヰoユ島ωo臣羊≧錺誌の一九七一年四月号に、長い紹介を書いて
︵∬︶ ﹃李珍宇全書簡集﹄一九七八年、新人物往来社。
憾§§§恥O駄ミミ、♪酔oヨo目ンマ嵩N︶。
素晴らしい肖像に満ちているのです﹂︵傍点筆者︶と書いたときに、彼はちらりと心をのぞかせているように思われる︵Gミ§−
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んな
ま せ ん し 、ニ十年の不在を通じて変らない大きな愛情を抱いています。そして彼の本は、とても滑稽な
感
謝
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ね
ば
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り プルーストが、ジャック“エミール・プランシュあてに、﹁レオン・ドーデーの話はもうしますまい。私は彼に、たいヘ
︵獅︶
増すことになる。﹂︵シドニー・シフあての手紙。Oミ§落§§§恥O警警ミ♪8ヨ。目ンマ頓V︶
誇張してほめているのだがー。ドーデーと私は、政治的には意見が一致していないのだから、これはいっそう彼の価値を
﹁レオン・ドーデーが、私について﹃アクシオン・フランセーズ﹄紙で絶讃しているのを読んだろうか1尤も、ひどく
09、誤博§“§驚寂ミ・ミも警ミミミミ。§w﹂。ヨ。日一=g﹂。貫−﹂鴇g℃﹂呂暮o器<︸℃一。戸一£鈎℃■零
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何よりも他者の手で引上げられることと、女性の気に入られることに意を注いだようである。ここには、自分をひたすら客体
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にすることに同意した人間の一典型がある。
︵鵬︶ これに関連して、語り手とブ・ックを、しばしば混同する人があるというのは、見過すア︸とのできない記述と言うべきだ
一①睾も帥三ω胃ぼp卜、㌧§ミ魯ミ誉§ミ“εヨo一”O匙一一一5p&・一薯ど℃やひOOIひO曾
ろう︵℃自押S令O獣︶。
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