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見えぬ町キーテジの物語 - HERMES-IR

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見えぬ町キーテジの物語 - HERMES-IR
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見えぬ町キーテジの物語 : ロシアの一ユートピア伝説を
めぐって
中村, 喜和
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 21: 219-293
1981-11-25
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/9913
Right
Hitotsubashi University Repository
見えぬ町キーテジの物語
喜
禾口
見えぬ町キーテジの物語
ーロシアの一ユートピア伝説をめぐってー
巡礼者たちe
目 次
奥ヴォルガの森の中で
巡礼者たち⇔
ユートビアとしてのキーテジ
沈んだ町々の伝説
見えぬ町をおとずれた人ぴと
﹁いわゆる年代記本﹂の所伝
民謡にうたわれたキーテジ
逃亡派の夢
伝説の古層−異教信仰
奥ヴォルガの森の中で
村
モスクワの北西のヴァルダィ台地から発するヴォルガは、はじめゆるやかな弧を描きながら・シア平原の北のはず
中
れを東に向かって流れ、ウラル山脈に近寄ったカザンのあたりでほとんど直角をなして南に転進し、その後は大きく
219
注
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
進路を変えることなくカスピ海へと注いでいる。ヴォルガの緯度が最も高まる地点、いわば弧の頂点にあたるルィビ
ンスクから、緯度ではカザンと並ぴそれよりやや上流のゴーリキィ市までのヴォルガの左岸、すなわちモスクワを要
として扇を半分開いた形の外側を一口に鐸<o一昌.。﹁ヴォルガのかなたの地﹂つまり奥ヴォルガと呼んでいる。
針葉樹の森におおわれたこの地方に・シア人が住みついたのは遠くリューリクの時代であるーとメーリニコフは
書いている。メーリニコフはアンドレイ・ペチェルスキイの筆名で発表した長篇小説﹃森の中で﹄と﹃山の上で﹄を
もって知られる十九世紀の作家である。二ージニイ・ノヴゴ・ドつまリニージェゴ・ド︵現在のゴーリキイ市︶に生
まれ、官吏として長くこの町に住み、奥ヴォルガの民衆の生活に通じていた。彼らの民俗やこの地方の歴史に関する
多くのアカデミックな業績をもつ学者でもあった。・シアの国を開いたとされるヴァイキングのリューリクの時代と
言えば九世紀から十世紀にかけてであり、モスクワが一僻村としてはじめて文献に登揚する一一四七年よりはるかに
古い。
・シア正教会に分裂がおこる十七世紀以後、奥ヴォルガの住民は宗教上の少数派、いわゆる分離派教徒、別名旧教
︵1︶
徒であった。彼らの生活を描いた﹃森の中で﹄の冒頭で、メーリニコフはまた次のように述べている。
ここ︹奥ヴォルガ︺には古い・シア、太古以来楡わらぬ・シアがのこっている。・シアの国がはじまって以来、
ここには他所者が足をふみ入れたことはなかった。昔ながらの・シアが少しのまじりけもなく生きのこり、はる
か祖先のときのままの姿が今日まで保たれている。
見えざる町キーテジの伝説が生まれたのは、この奥ヴォルガの森の中であった。
ゴーリキイ︵この町の名が作家のゴーリキイにちなんでいるのは言うまでもない︶の北六十キ・ほどはなれたとこ
ろにセ、、、ヨーノフ市があり、そこからさらに北西四十キ・にウラジーミルスコエ村がある。ゴーリキイの下流で北か
220
見えぬ町キーテジの物語
らヴォルガに流れこむ二つの川ケルジェネツとヴェトルーガにはさまれた地帯のちょうど中間あたりである。むろん、
よほど大きな地図でなければウラジーミルスコエ村の名を見出すことはできない。この村にスヴェトロヤール、ある
いはスヴェトルイ・ヤールと呼ばれる湖があり、キーテジの町はこの湖の底、ないしは湖畔の丘の地下にあるとされ
ているのである。スヴェトルイは﹁光る﹂﹁明るい﹂の意、ヤールの語義については問題が多岐にわたるので、あと
でくわしく述べることにしよう。
︵2︶
キーテジの町の伝説は一八四三年に雑誌﹁モスクワ人﹂ではじめて世に紹介された。当時この雑誌の編集者は歴史
家として名高いポゴージンだった。そしてキーテジに関する記事には﹁セミョーノフ市在住メレジン氏から寄せられ
た報告より﹂という脚注がつけられているので、地方の読者からの投稿に編集者が多少手を加えたか、それとも省略
を行なったものと考えられる。
まず注目されるのは、メレジンが町の名をキチジ国三昌としていることである。現在のように困富旨とつづっ
てアクセントを第一音節におく読み方が一般に定着するのは今世紀になってかららしい。ちなみに、十九世紀末に出
たブ・ックハゥス”エフ・ンの百科辞典は田象昌という形を見出しに採用している。
メレジンの文章は四ぺージ半ほどの短いものであるが、伝説の概要を要領よくまとめている。ウラジーミルスコエ
村のスヴェト・ヤール湖の南西の岸に小高い丘があり、その丘の地底に秘宝がかくされているという噂が流布してい
るーとメレジンは説きおこす。秘宝とは何か。丘の下の地中に町がうもれていて、そこには聖なる人びとが住んで
いる、と近隣では信じられているのである。つづいてメレジンは物知りたちの語るところによればとして、いかなる
経緯でキーテジが地底にかくれるにいたったかを説明しているが、それは後に述べる文書史料の要約にほかならない
ので、ここでは省くことにする。メレジンの報告の意義はとりわけ後半にある。かならずしも﹁物知り﹂ではなかっ
221
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
た一般民衆のあいだで、キーテジ伝説がどのように受け入れられていたかを伝えているからである。
信心ぶかい人たちは、スヴェト・ヤールの湖畔でときどき楽しげな鐘の音を聞くことができる。ろうそくの光が見
えることもあれば、風がないのに湖面が波立って教会のかげが水に映ることもある。あるとき一人の牛飼が湖の近く
で道に迷い、地底の町で一夜をす.こした。食事に与えられたパンがことのほか美味だったので、一片をかくして持ち
かえったところ、すでに腐っていた。その後牛飼はもう一度地下の町へ行きたいと思ったが、どうしても入口を見つ
けることができなかった。かくれた通路からこの町へおもむいた者は少なくないが、ここにはいるためには、行先を
他人に告げてはならず、地上のことをすべて忘れ、かつこの世のものは何一つ携行してはならぬという条件がある。
キーテジの祭日は主の昇天祭と降臨祭︵いずれも春から初夏にかけての移動祭日︶、ウラジーミルの聖母の日︵有
名なイコンの記念日で六月二十三日︶である。このほかの教会の祭日や平日にも、スヴェト・ヤールに参詣にくる者
が多い。それもかつては分離派教徒に限られていたが、おそらく好奇心からであろう、今では国教会の信者もやって
くる。巡礼たちは夕方湖畔に着いて、そこで夜を過ごすのが常である。まず彼らは岸辺に腰をおろし、背中の袋から
食物をとり出してカをつける。そして湖の水を飲んでから、ゆっくりと祈りに行く。その方向はさまざまで、ある者
は丘にのぼり、ある者は丘のふもとで、またある者は小さな礼拝堂のまわりに、三々五々集まる。︵おそらくセクト
別にかたまるのである1中村︶イコンをとり出したり、祈薦書や詩篇を読みはじめる者もいる。祈りおわると、寝
るために分かれる。朝は早く起き、湖の水で体を洗い、病気があれば薬効をもつこの湖の水を飲む。そして短い祈り
をささげてから、地下の町を見るために湖の水の中をのぞきこむ。湖畔に穴を掘って住みついている隠者もいる。彼
らは巡礼たちの施しにすがって暮らしており、そのお礼としてさまざまな奇蹟謳を語って聞かせる。参詣者たちはそ
んな話に耳をかたむけてから、水筒に湖の水をつめて帰途に着くのである。
222
見えぬ町キーテジの物語
メレジンについでキーテジの町の伝説を有名にしたのはメーリニコフである。すでに引用した彼の長大な小説﹃森
の中で﹄の開巻第一ぺージがこの伝説の記述にあてられている。﹁太古以来の﹂・シアの姿をたもつ奥ヴォルガ地方
にとってキーテジ伝説が象徴的な意味をもつ、とメーリニコフは考えたようである。この小説は一八七一年から七四
年にかけて雑誌﹁・シア報知﹂に発表された。﹁・シア報知﹂は当時の一流作家の作品をつぎつぎに掲載して・シア
小説の黄金時代をきずいた有名な雑誌である。﹃森の中で﹄と同じ時期には、トルストイの﹃アンナ・カレーニナ﹄
とドストエフスキイの﹃悪霊﹄が雑誌の誌面を飾っていた。これらはいずれも﹁現代小説﹂ではあったが、﹃アンナ・
カレーニナ﹄や﹃悪霊﹄に描かれる・シアと、﹃森の中で﹄のロシアは際立った対照を示していた。前者はもっぱら
貴族とインテリゲンツィヤの世界であったのに対し、メーリニコフの作品には都会風の知識人が一人も登揚しないづ
﹃森の中で﹄が扱うのは奥ヴォルガとヴォルガの中・下流に住む農民や商人の生活である。作者はそこに﹁生粋の﹂
・シア人の生き方、・シア精神の神髄を見ようとしていた。
﹃森の中で﹄ゐ第一部第一章におかれたキーテジ伝説の叙述は、メレジンの揚合とちがって、文書史料と明白に食い
︵3︶
ちがう内容を含むので、次にそのまま訳出してみよう。
ここ︹奥ヴォルガ︺にはバツ︹抜都汗︺による劫掠の言い伝えが生ま生ましくのこっている。だれでも﹁バツの
道﹂を指さし、スヴェトルイ・ヤール湖の見えざる町キーテジのありかを教えてくれる。この町は現在にいたる
まで無傷のまま立っている。白い石の城壁、金の頂をもついくつもの教会、数々のとおとい修道院、壁や窓に模
様をほどこした公の宮殿、石づくりの貴族たちの邸、堅牢な丸太を組んでつくった家々もそのままである。町は
無傷であるが、目には見えない。罪ぶかい人間たちの目には栄えあるキーテジの町は映らないのである。神を知
らぬバツ汗はスーズダリ地方を荒らしたのち、キーテジをも征服しようと押しよせた。そのとき町は神の命令に
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よって、不思議にも見えなくなった。大キーテジの町に近づいたタタールの汗は、家々に火をかけ、男たちは斬
り殺すか捕虜とし、女房どもや娘たちは妾にしようと望んだ。主はキリスト教徒の聖所を異教徒がふみにじるこ
とを許されなかった。十日のあいだ夜となく昼となく、バツの大軍はキーテジの町をさがしまわったけれども、
にわか盲になったようにどうしてもこの町を見つけることができなかった。そして今日にいたるまで、ア︶の町は
見えずに存在している。姿をあらわすのは、最後の審判の前である。しずかな夏の夕べ、スヴェトルイ.ヤール
の湖畔に立てば、水の中に城壁や教会や修道院や公の宮殿や貴族の邸や庶民の家々が映ることがある。そして夜
ともなれば、キーテジの町の憂いをふくんだ鐘の音がかすかに聞こえてくる。ヴォルガのかなたではこう語られ
ている⋮・
見えぬ 町 を お と ず れ た 人 び と
メレジンの牛飼のように、キーテジの町をその目で本当に見たという者は少なくなかった。小説の中ではあるが、
︵−V
メーリニコフも三つほどの例をあげている。
第一はヴォルガの下流に住んでいたらしいペルフィール・グリゴーリエヴィチという老人。彼は日頃神の教えにつ
いて書かれた書物を読むことを好んでいたが、あるときキーテジのことを述べた本︵おそらくは後述の﹁キーテジ年
代記﹂であろう︶にめぐりあった。そこで矢もたてもたまらず、博識の修道僧に道を教わってスヴェトルイ.ヤール
ヘと向かった。首尾よく﹁バツの道﹂に行きあたって進んでゆくと、緑の草原に出た。見わたすかぎり花が咲き、鳥
がうたっていた。しかしまもなく道を失い、沼地に迷いこんでしまった。それから六週間ものあいだ森をさまよい、
やっと人里にたどりつくことができた。あとで洞穴の隠士にきくと、緑の草原こそキーテジの町はずれだったという。
224
見えぬ町キーテジの物語
次はヴェトルーガのほとりに住む若者。彼は牧童として他郷へ出かせぎに行く途中、キーテジの町へまぎれこんだ。
ちょうど夕飯どきで、町はずれの修道院では僧たちが食事をしていた。若者は食事をふるまわれた上で、ここはお前
などの来るところではないと言われて送り帰された。修道院のパンがあまりにも美味だったので、それを持ちかえる
ともう腐っていたという話がつづくから、これはメレジンの紹介している牛飼と同一人物であるらしい。
ペルフィール老人はキーテジに近づいたにすぎなかったが、牛飼の若者は町の中に足をふみ入れている。さらに進
んで、ここに住みついたという人物もいた。
なることを望んでいたが、両親はそれを許さず、無理やり息子に嫁を迎えた。婚礼の翌日、彼の姿が消え、三年目に
小キーテジとも呼ばれるヴォルガ河沿いのゴ・デーツの町の近くに、信仰厚い若者がいた。彼は早くから修道士に
キーテジから手紙がとどいた。メーリニコフによれば、この手紙は写本の形で分離派のみならず国教会の信徒のあい
だにも流布しているという。このテキストは﹃森の中で﹄に引用されているばかりでなく、彼の論文﹁容僧派概観﹂
︵容僧派は分離派教徒の一派、僧侶の権威をみとめるのでこの名がある︶にも収められている。後者によって全訳し
ておこう。
︵2︶
神の子、主イエス・キリスト、われらを憐れみたまえ、アーメン。
父上某、母上某なる両親さまのみもとへ。まずはお変わりなきよう祈ります。ここに本状をしたためますは、
両親さまが私の供養をいとなみ、私の妻に詩篇を唱えさせようとされているためです。この件、お取りやめ願い
ます。私いまだ存命にて、死ぬるときにはお知らせいたしますゆえ、今は弔いをおやめください。私は聖僧たち
といっしょに、平穏な揚所にあるこの世の楽園に暮らしております。まことに地上の楽園であります。安穏、静
寂、それに喜ぴと楽しみにあふれていますが、それは精神のものであって、肉体の喜ぴや楽しみではありません。
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私がともに暮らしている聖僧たちは、その見事なること野の百合の.ことく、なつめやしの.ことぐ、,糸杉の.こどく、
宝石の.ことく、高価なるビーズの.ことく、老ゆることなを木々の・ごとく、空の星の..︸とくです。聖僧たちの口か
ら天なる父にささげられる絶えざる祈りは、さながら霰郁たる芳香をはなち、選り抜きの香炉ぐ薫よき聖油その
ものです。夜ともなれば、聖僧たちの口から出る祈りは火花を散らす炎の柱のごとく、大いなる月と星の。ア︾とく
目に映り、この揚所のみならず国中を稲妻のように照らします。そのときにはろうそくの光をかりずに読書し﹂
かつ物を書くことができます。聖僧たちは全身全霊をあげて神を愛し、神以外に心を奪われることがかつてなか
ったので、神もまた彼らを愛し、聖なる高みから耳を傾けて、あたかも母親がいとし子を愛するごとくに聖僧た
ちをいつくしみ、およそ祈りの中で彼らが神に願って叶えられぬことはありません。聖僧たちは沈黙を好み、真
心もてあらゆる善行を積んできました。そこで神は彼らを愛で、瞳のように彼らを大切に守り、その御手もて彼
らの姿をかくしました。聖僧たちは敬慶な心で神におすがりしているので、主の御言葉にしたがって山々を移す
ことさえできます。しかしわが聖僧たちはそれを求めず、天国で生きることを願い、かりそめの富よりも天国の
富を欲したのです。主が生者と死者を裁くために来臨されるとき、彼らはその辛苦のゆえに天の楽園と静寂を、
喜びと楽しみを与えられるでありましょう。両親さま、あなた方はなぜ惑いにみちたかりそめのこの世と、いず
ヤ ヤ
・れは朽ちはてる富に心を奪われているのですか。朽ちも腐れもせず、しみにも食われず、盗人にも盗まれぬ天国
の富をお求めなさるといいのです。わがいとしの妻によろしく。アーメン。
右の手紙は十八世紀後半の手書本に含まれているものであるが、その表題には﹁秘められたる某修道院の息子より
父親への手紙、七二〇九年六月二十日付﹂と書かれているという。七二〇九年とはビザンツ流の宇宙開關紀元で、い
わゆる西暦に直せば、一七〇一年にあたる。この手紙がどのようにして名宛人の手に渡ったかについては伝承がない
226
見えぬ町キーテジの物語
らしい。,修道僧たちのささげる祈りが炎の柱になるというイメージは、神を知らぬ者には極地の天をいろどるオー・
ラを連想させる。
メーリニコフ以後の十九世紀の末には、湖底の修道院の僧になったという別の人物の噂がスヴェト・ヤール湖の周
︵3︶
辺にひろまっていた。この噂をじかに聞いて記録にとどめたのは作家のコ・レンコである。語り手の老人は若いころ
当の人物の知り合いであったという。
毎年湖のほとりへ蜜をあつめにくる養蜂家がいた。名前をキリール・サモイ・フといい、信心ぶかい老人であった。
あるとき彼は湖畔で鐘の音を耳にした。その揚に居合わせた村人にはその音が聞こえなかった。まもなくキリール老
人は集めた蜜も蜂の巣箱も売り払い、突然姿を消してしまった。そのころ村の老婆が夜になって牛をさがしに森の中
へ行った。やっとさがしあてて家に戻りかけたとき、岸から湖の中央へ向かう小舟が見えた。小舟には三人の男たち
が乗っていたが、そのうちの一人がまさしくキリール・サモイ・フであった。しばらくして、こんなこともあった。
村の百姓たちがセ、・・ヨーノフの市で小麦を買い、荷馬車に積んで帰ってきた。湖のほとレを通りかかると、不意に水
の中から老修道僧があらわれて麦を売ってくれと頼んだ。そして金を払うと、また湖の中へ帰っていった。ヒの僧も
キリールだったというのである。
話は一足飛にとぶが、二十世紀後半の現在でも、スヴェト・ヤール湖のあたりでは、キーテジの教会の鐘の音を聞
いたという者、、キーテジの町を見たという者、さらには一時的にせよこの町をおとずれたという者などが跡を絶たな
い。一九六八年にウラジーミルスコエ村とその周辺でかなり大がかりな口碑採録を行なった民俗学者のサーヴシキナ
︵4︶
女史がそのことを詳細に報告している。たとえば、七十六歳で文盲の一老婆は、.仲間づれゼ乳ヴェト,ルイ腎セールヘ
巡礼に出かけ、見知らぬ老女の家で一夜の宿を乞うた。老女はサモワールで茶をふるまった上、・新しいシーツを敷い
227・
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
たベッドを貸してくれたが、翌朝になってみると巡礼たちは何と湖畔の丘の上で寝ていた、という。老婆が自分の体
験談としてこんな話をしたのである。彼女のほかにも、キーテジヘ行ったことがあると述ぺた者が何人もいた。
﹁いわゆる年代記本﹂の所伝
キーテジの町の伝説は文献史料によっても伝わっている。正確には﹁いわゆる年代記と呼ばれる書物﹂、俗に﹁キ
ーテジ年代記﹂と名づけられているものがそれである。 ﹃P・V・キレエフスキイ収集の歌謡集﹄第四巻の付録では
じめて刊行された︵一八六五年。ピョートル・キレエフスキイはスラヴ主義者で、民謡研究家としても知られた︶。
その底本となったのは、上述のメレジンがもっていた手書本である。一八八九年には、二ージニイ・ノヴゴ・ド地方
の有名な歴史家ガツィスキイが同じ年代記の別の写本を出版した。
ソビエト初期の研究者コマローヴィチによれば、そのほかモスクワの歴史博物館やレニングラードの公共図書館な
どに十点ほどの写本が所蔵されており、そのうち七点はメレジンやガツィスキイのものと大同小異で、他の三点は多
少とも不完全なものであるという。もっともこの数はコマ・ーヴィチが目にしたものだけであって、奥ヴォルガの分
離派教徒のあいだにはかなりこの年代記が流布していたといわれるので、現存する写本の数はおそらく彪大なもので
あろう。当然それぞれの写本の本文にも大小の異同が生じていると考えられるが、ここでは一九三六年に出たコマ・
︵1︶
ーヴィチの研究書に収められたテキストにしたがって、この年代記の内容を要約して掲げておく。このテキストはレ
ニングラード公共図書館蔵の一写本に収められており、二十二葉の表と裏、あわせて四十一ぺージに及ぶ長文のもの
である。写本自体は十八世紀の末あるいは十九世紀初頭に書き写されたものであるらしい。校訂したコマ・;ヴィチ
の意見にしたがって、小見出しをつけることにする。
228
見えぬ町キーテジの物語
︹O 歴史的叙述︺
ゲオルギイ・フセーヴォ・ドヴィチ大公は洗礼名をガヴリールといい、プスコフの奇蹟成就者である。父のフ
セーヴォ・ド大公はムスチスラフ大公の子であり、・シアの亜使徒ともいうべきキーエフ大公ウラジーミルの孫
にあたる。
フセーヴォ・ド公ははじめ大ノヴゴ・ドを治めていた。しかしノヴゴ・ドの市民は公がまだ洗礼を受けていな
いという理由で彼を追放した。公は伯父にあたるキーエフのヤ・ポルクのもとに去った。その後フセーヴォロド
公はプスコフの町に招かれ、洗礼を受けてガヴリールと名のり大いに精進につとめた。やがて六六七一年︹二
六三年︺二月十一日にこの世を去り、息子のゲオルギイによって葬られた。彼の遺骸からさまざまな奇蹟があっ
だ。
ゲオルギイ・フセーヴォ・ドヴィチ大公はプスコフ市民の願いで父の跡を継いだ。ゲオルギイ公はこの年チェ
ルニーゴフのミハイル公をおとずれて歓待を受け、・シアの町々に神の教会を建立する允可状を得た。そこから
公はまずノヴゴ・ドにおもむいて聖母就鰹教会を建てることを命じ、ついでプスコフを経てモスクワに行き、そ
こにも聖母就寝教会を建立させた。あくる六六七二年にはペレヤスラヴリを通って・ストフにはいり、やはり聖
母就寝教会を建立した。教会を建てるために溝を掘っているとき、ロストフ市民に洗礼をほどこしたレオンチイ
主教の聖骨が発見された。ゲオルギイ公は・ストフ公アンドレイ・ボゴリュープスキイにも命じてムi・ムの町
に聖母就寝教会を建てさせ、自分自身はヴォルガ河畔のヤ・スラーヴリに出てここからヴォルガを下り、この川
の岸に小キーテジの町を建設した。町の住民の懇請にしたがいフヨード・フの聖母像を運んでこようとしたが、
途中で聖像が動かなくなったので、公は聖母が選ばれたその場所に修道院を建てるように命じた。ゲォルギイ公
229
OりN
でー,’、﹄ノ
ノ
一N.駅毒卦虞以く 奪庶駅庫躰艦輕i
噂
ノレ
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キーテジ伝説関係要図
ビ
亥
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ノレ
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海
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ガ ヤロスラヴリソペルキ
川
ヴ
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ロ
キネシマ 1・
● ユ.一リエ.ヴェbソ ノレ
ロストフ
セミョーノフ . ヴラジーミルス』エ
_ 。 Oケ スヴェトロヤール湖
ソビエト連邦
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熱
海
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ゴロアーソ ノ窪リ’ン
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ニージエゴ。ド。うη
ヴラジーミル
モスクワ
毛
ス
ク
ワ
川
o
くス
スーズダリ
翫
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コストロマー
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ヴ
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川
マカーリエフ麟 オ
ルイスコヴォヴ ルガ
オ
川
力oムーロム
カザン
カ
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マ
〃’
オカ〃’
ヴオレ
ガ
川
見えぬ町キーテジの物語
はそこから陸路をとり、,ウゾラ、サンダ、サブグタ、ケルジェネツの四つの川を横切つて、スヴェト・ヤールと
呼ばれる湖に着いた。そこは景色も美し<、住民も大勢住んでいた。公は住民の願いを容れ、湖畔に大キ;テジ
の町を建設し、聖架挙栄、聖母就寝、聖母福音の三つの教会を建立するように命じた。町の大きさは長さ二百サ
ージェン、幅が百サージェンであり2サージェンは約二ニメートル︺、六六七三年に工事をはじめて、完成までに
三年かかった。小キーテジと大キーテジの町の距離を測らせると、百露里であったΩ露里は約一キ・︺。公は神に
感謝をささげ年代記を書くように命じてから、プスコフの町に戻った。プスコフでは精進にはげみ、貧しい者た
ちに多くの施しをしながら暮らしていた。
﹂一つの町を建設してから七十五年たって、六七四七︹一⋮二九︺年になった。われらの罪の報いとして、この年
神を知らぬ王バツが・シアに来襲して町々を荒らし、教会を焼き払い、■男たちを殺し、女たちをはずかしめた。
ゲオルギイ公は手勢を集めて、バツの軍勢とはげしく戦った。しかし味方の数が少ないので、公はヴォルガを下
って小キーテジに立てこもった。夜になって、公はひそかに大キーテジに移った。翌日パツは小キーテジを占領
して住民を殺鐵したが、公は見つからなかった。そこで一人の男を拷問にかけると、彼は苦しみに耐えきれずに
道を教えた。バツは大軍をひきいてスヴ‘エト・ヤ﹂ルの湖畔の大キーテジを占領し、﹃ゲオルギイ公を殺した。そ
れは二月四日のことであった。
︹◎ 護教論︺四
バツが去ってからゲオル﹁ギイ公の遺骸を収容したゆ大ギーテジはそのとき以来、目に見えなくなった。キリス
トの再臨のときまでこの町は見えることはないであろう。このようなことはかつて多くの聖なる教父たちの伝記
や聖僧列伝にも録されており、その数は天の星き浜辺の砂のようにおぴただしくて、枚挙にいとまがないほどで
231
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
ある。むかしダピデ王も義人はきっと栄えると述べたし、使徒パウ・や金ロヨハネもそれに類したことを語って
いる。またわが国の教父イラリオンも、義なる町や修道院はかくされるだろうと書いている。アンチキリストが
この世を支配するようになると、人びとは山や洞窟に逃げこむが、人間を愛する神は救いを望む者を見棄てたも
うことはない。
︹国 短い歴史的叙述︺
ゲオルギイ公が戦死して葬られてから、バツはふたたび・シアに来襲した。チニルニーゴフのミハイル公は貴
族たちとともにパツと戦い、戦死した。それは六七五〇2二四二︺年九月二十日のことであった。スモレンス
クのメルクーリイ公もパツと戦って最期をとげた。
︹㈲ 結ぴ。隠された町キーテジの物語とその探求︺
本心からこの町に行きたいと思う者は、精進潔斎して大いに涙をながし、たとえ飢え死にをしてもこの町から
ふたたび戻らぬ覚悟をきめなければならない。神はそのような者だけを救いたもうからである。ある淫婦は聖教
父と修道院にはいろうとしたが、門の前で息絶えてしまった。しかし結局この女は救われた。神学者ヨハネは七
つの角をもつ獣にまたがった淫婦のことを書いている。淫婦は手に汚物にみちた盃をもっていて、それをこの世
の王や富める者どもに与える。救いを求める者はこの世から身を避けなければならない。謙虚な心をもてば、神
から見棄てられることはない。この世で悔い改める者は神の栄光を見るであろう。真心をもって不退転の覚悟を
かため、家族のだれにも口外しない者に神は門をひらき、避難所へみちぴきたもうであろう。そこでは聖なる父
たちが昼夜祈りをささげ、芳香がたちこめている。ここに迎えられた者は救われる。心に何か企みをもつ者は門
をとざされるので、森や荒野しか目にできない。この世の終りに、見えぬ町はあらわれる。大キーテジの町は神
232
の御手によって隠されているからである。
われらはこの年代記を六七五九︹一二五ご年に書き、後にこれを読み、また聞くことを望む正教徒のために教
会にゆだねた。この文書をののしり、われらをあざける者は、神と聖母をののしり、あざけっているのである。
この文書に一字一句といえどもつけ加えたり消し去ったりする者は呪われるであろう。
このキーテジ年代記には口頭伝承と一致しない部分がある。メレジンやメーリニコフの述べるところにしたがえば、
バツが裏切者︵年代記は名前を示していないが、その名はグリーシカ、紳名はゴロドニャあるいはクテリマとされて
ヤ ヤ ヤ ヤ
いる。町人グリーシカあるいはでたらめグリーシカほどの意︶の案内で大キーテジに攻め寄せたとき、ゲオルギイ公
ヤ ヤ
は町から打って出て戦死した。そして大キーテジの町自体はバツによって占領される前に、神の恩寵によって敵の目
から見えなくなったのであった。と二ろが年代記では、大キーテジは小キーテジ同様バツの軍勢によって占領された
ことになっている。そのあとで大キーテジは見えぬ町となったのである。
ヤ ヤ ヤ
常識になじまない個所もある。年代記ではゲオルギイ公がヴォルガ河畔に小キーテジ︵現在のゴ・デーツ市とされ
る︶を、スヴェト・ヤール湖畔に大キーテジを建設してから、さらに七十五年も生きのびて、バツの軍勢を迎え撃っ
たという。十二、三世紀にこれほど長命の公が実在したとは考えられない。
何十年あるいは何世紀かにわたって書き継がれた他の諸年代記の記述と比較した揚合、キーテジ年代記の疑問点は
ほとんど枚挙にいとまがない。まず主人公ともいうべきゲオルギィ・フセーヴォ・ドヴィチがすでに虚構の疑い濃厚
である。キーエフ大公ウラジーミル・モノマフ︵一〇五三−一一二五︶ー同じく大公ムスチスラフ︵一〇七六−二三二︶
ちユーリイなる息子がいた記録はない。フセーヴォ・ドが未洗礼のためにノヴゴ・ドを追われたということも信じが
235
ーノヴゴ・ド公フセーヴォ・ド︵?1一一三八︶の公統はたしかに存在したが、フセーヴォロドにゲオルギイすなわ
見えぬ町キーテジの物語
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
たい。キリスト教が・シアの国教となってすでに一世紀半も経ていたからである。﹁
とはいえ、アンドレイ・ボゴリュープスキイ公が・ストフを領していたこと、チ’エルニーゴナ公ミハイルがパツと
戦って討死したことなどは事実であった。また一二三七i三八.年のバツ来襲にさいしてロシア諸公中最も頑強な抵抗
を示したのが当時ウラジーミル公国を支配していたゲオルギイ・フセーヴォ・ドヴィチであったことはよく知られて
いる。彼はユーリイ︵ゲオルギイのロシア化した呼び方Yドルゴルーキイの孫、ウラジーミル・モノマフの曾孫に
あたる。このゲオルギイも一二三七年バツと戦って、二iジニイよりはるか上流でヴォルガにそそぐシーチ川の岸で
戦死をとげている。定説ではバツの軍勢はこのとき奥ヴォルガには攻め入らなかったとされている。その意味では、
この地方を走るという口承の﹁バツの道﹂なるものも史実にもとづかない伝説であることは明白である。
たて よニ
要するに、キーテジ年代記の歴史的叙述は、十二、三世紀の壮大な・シア史を経糸として、それに想像力の緯糸を
織りまぜた一・種の文学的物語ととるぺきであろう。コマ・iヴィチはゲオルギイ公を一種の集合名詞と理解すぺきで
あると考えている。 , ,∼、
︵2︶
ところでキーテジ年代記はどのようにして成立したものであろうか。この点に関する研究では今までのところコマ
・:ヴィチのものが最も詳細をきわめているので、まず彼の推論のあとをたどっておく必要がある。
コマ・ーヴィチはキーテジ年代記が︸人の人物によって一.度に書き下ろされたものとは考えない﹄この年代記を構
成している四つの部分は、それぞれ異なった時期に異なった目的をもって成立したものである。そのうち最も古いの
は、eの歴史的叙述である。独立した形で﹁ゲオルギイ・フセーヴォ・ドヴィチ公討死記﹂と呼ばれることもある部
分セある。ここには真偽さまざまな史実が入りまじっているが、中でも小キ■テジと呼ばれるゴ・デーツ近郊のフヨ
ード・フ修道院の開基説話︵この年代記では一一六四年だが、実さいには十三世紀初めの創建とされる︶、・ストフ主
234
教レオンチイの聖骨発見︵十二世紀︶のような事実は、ローカルな特殊史料に依拠していると考えられる。おそらく
この部分の記事は二iジニイ・ノヴゴ,・ド地方、それも多分ゴ・デーツで書かれたのであろう。ここでとりわけ注目
を要するのは、バツと戦って死んだ歴史上のゲオルギイ・フセーヴォ・ドヴィチ公がのちのモスクワ諸公の直系の祖
であるという事実が故意に無視され、ノヴゴ・ドやプスコフと関係づけられていることである。これは十五世紀の・
シアの政治情勢に起因している。銭袋と紳名されたイワン一世以来・シアの諸公国の中で藩実に地歩を固めつつあっ
カ リ タ し
たモスクワ公国は、十五世紀にいたっ七四隣の諸公国の併合を積極的におしすすめる。この世紀の初めには、それま
でスーズダリ・二ージェゴ・ド公国に属していたゴ・デーツがモスクワ公国の版図に組み入れられた。いわば町の自
ヴエしチニ
ーリイほ父祖の玉座の奪還セめざして奔走するが、やがてモスクワの陰謀によって殺害されたものとみられる。この
時期資・ユーリイ自身と彼の兄弟や子供たちは、やはりモスクワの圧迫を受けていた富裕な都市ノヴゴ・ドやプスコ
フに招かれ、これらの商業都市で傭兵隊長的な役割を果たしていた。ちなみに、ユーリイの血縁でこのころからモス
コ ノドチ キリ
クワに出て貴族となるのがシュイスキイ家であり、イワン雷帝の公統が絶えたあとの動乱時代に、この一門からモス
クワのツァーリが出る。 . ㌦ ‘
キルジャーパの子の土iリイは奥ヴォルガの背後にあるヴャトカ︵今のキーロフ市︶をも支配していたらしい。ゴ
・デーツからヴャトカヘの道はスヴェト・ヤール湖を経由しているコそこでこの悲運のユーリイ公と十三世紀に非業
の死をとげたもう一人のユーリイ︵ゲオルギイ︶の名が二重写しになって、キーテジ年代記のゲオルギイ公の像が形
成されていったのではあるまいか。キーテジ年代記の反モスクワ的傾向はこれで説明がつく。
ところでキーテジ年代記の歴史的叙述が聖者伝によくみられるように主人公の系譜から説きおこしているのは、ゲ
235
治の象徴とも,いえる民会の鐘も、モスクワ肥運ぴ去られる。最後のゴ・デーツ公ドミートリイ・キルジャーパの遺児ユ
見えぬ町キーテジの物語
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
オルギイ・フセーヴォ・ドヴィチ公の聖列加入がこの文書の成立の直接的動機であったためにちがいない。ゲオルギ
イ公が・シア正教会の聖者とみとめられるのは一六四五年で、彼の命日︵二月四日︶は一六四六年刊行の全・シァ教
会暦にはじめて刷り込まれた。すなわち、今日伝わるような形でキーテジ年代記の基本的部分が最終的に成立するの
は十七世紀の四〇年代である、とコマ・ーヴィチは考えるのである。
その後まもなく、一六五〇年代の二iコン総主教による改革を契機として、・シア教会に分裂がおきたことは前に
もふれた。,改革を受け入れないグループは分離派と呼ばれて、教会と政府の弾圧を受ける。奥ヴォルガの住民の大多
数は旧来の儀式を遵守する分離派にとどまった。やがてピョートルが即位する。彼は急激な西欧化を企てる過程で、
正教会のカを抑えるとともに、分離派に対してもきびしい政策をとる。その峻烈さのゆえに、彼は分離派教徒からア
ンチキリストと呼ばれるにいたった。
メーリニコフの刊行した一七〇二年の修道院からの手紙︵前出︶とキーテジ年代記の㈲の部分は、この世から隠され
アボクりフ
た修道院における地上の楽園について語っている点で共通している。コマ・ーヴィチはこれら二つの文書を偽経的
な宗教伝説と規定した上、両者ともゴ・デーツとスヴェトロヤールの中間にあたるケザ川のほとりの救世主修道院で
書かれたのではないかと推定している。この修道院の又の名はラーエフ、すなわち楽園修道院であったという。救世
主修道院は一七一三年、旧教徒から背教者と非難されているピチリム︵分離派出身で国教会に復帰し、二ージェゴ・
ドの主教にまでなった人物︶の弾圧によって閉鎖された。したがってキーテジ年代記の結びの部分は一七二二年まで
に成立したと思われる。
年代記全体の編纂はこれよりさらにおくれる。⑨の歴史的叙述と四の結ぴのあいだに⑭と㊧を挿入したばかりでな
く全体に独得のセクト的色彩を加えたのは、分離派教徒の中でもとくに﹁逃亡派﹂と呼ばれる一派である、とコマ・
236
見えぬ町キーテジの物語
ーヴィチは断定する。アンチキリストの到来を暗に陽に指摘していること、それに﹁救いを受けるにはこの世から身
を避けなければならない﹂とする考え方などはまさしく逃亡派の基本的な思想だからである。この点については別に
傍証もある。すなわち年代記の⑭において、人はアンチキリストの支配をのがれて洞穴に住まねばならぬと述べられ
ているが、スヴェトロヤールの湖岸に実際に洞窟を掘って住んでいたのは逃亡派の信者たちであった、とメーリニコ
フが証言しているのである。逃亡派の本拠はヴォルガ河畔のヤロスラーヴリから十ニキロほどはなれたソペルキ村で
︵3︶
あった。かくてキーテジ年代記が現在みられるような形でまとめられたのは最古の現存写本が書かれる一七九〇年、ご
ろ、編まれた揚所は右のソペルキ村、というのがコマローヴィチの到達した結論なのである。
このような大雑把な要約では充分に紹介しきれなかったおそれがあるが、キーテジ年代記の成立事情に関するコマ
・iヴィチの研究は広い視野からの精緻な論証と、大胆な、しかし説得力豊かな推理からなっていて、その史料操作
の手際のあざやかさは名人芸の印象を与えずにはおかない。彼はペト・グラード大学︵彼がここに学んだのは第一次
大戦の勃発後、ピョートルの町がこう改称された時期だった︶では有名なヴェンゲー・フのぜミナールに参加し、プ
︵4︶
ーシキンやドストエフスキイについての研究があるほか、フランス文学に造詣がふかく、スタンダールの翻訳と注釈
にも手を染めている。キーテジ伝説論は彼の仕事の中では一見異色の感じがないでもないが、実はこれが彼の文学博
士号請求論文であった。
もっとも彼の生まれ故郷二iジェゴ・ド県マカーリイ郡ヴォスクレセンスコェ村はスヴェト・ヤール湖のあるウラ
ジー、・・ルスコエの隣り村であった。コマ・ーヴィチという姓自体が、旧教徒の修道院群で知られたコマロヴォと何か
のつながりがあるにちがいない。彼が幼時からこの湖に親しんでいたことは疑いないし、キーテジの伝説にも格別の
愛着をいだいていたことであろう。大学を出てからも、何回か湖のまわりで口碑の収集に従事したことが知られる。
237
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
サマーリンを隊長とする一九三一年の学術調査にも加わった。彼が集めたアォーク・ア資料の分析についてはのちに
ふれる。第二次大戦中の一九四二年レニングラード防衛戦の最中に四十八歳で餓死したのは惜しまれることであった。
民謡にうたわれたキーテジ
文字に定着された所伝のほかに、歌のかたちでつたわる伝承についても一言しておく必要がある。民衆的な英雄叙
事詩ともいうぺきブィリーナに、ごく稀にではあるが、一く一3昌という地名があらわれる。
ブィリーナに登揚する勇士の中で、ムー・ムの百姓の息子イリヤーは智勇兼ねそなえた第一の豪傑である。彼の生
いたちは一風変っていた。生まれついての足なえで、三十歳を過ぎるまで片輪者の生活を送って.いた,のだ。ところが
ある日、老いたる巡礼たちから不思議なカをさずかり、たちまち病いが癒えてしまう。そして父親が買ってくれた馬
にまたがって、太陽公と紳名されたウラジーミルのいるキ⋮エフの都へと旅立つ。その道中の冒険をうたっているの
が、﹁イリヤーの最初の旅﹂あるいは﹁イリヤーと賊ソ・ヴェイ﹂などの名で知られる一群のブィリーナである。そ
のうち、アルタイ地方のバルチウルで採録された一ヴァリアントが次のような個所を含んでいた。グリャーエフとい
︵1︶
う研究家が一八七〇年代のはじめに土地の語り手のレオンチイ・トゥピーツィンから聞きとったものである。イリヤ
ーが生まれ故郷を出てからの描写である。
うるわしの鷹が大空を翔けゆくにあらず、
白き羽根もつ隼が宙天を飛ぶにもあらず、
駒をすすめるのはたくましき若者、
手だれのコサック、イリャー・ムiロメッ。
238
見えぬ町キ.一テジの物語
やがて勇士が室3呂の町に近づくと
折しも町には天罰がくだっていた。
異教の軍勢が押し寄せていたのだ。
イリヤーは異教のやからに襲いかかって
三日のあいだ、縦横無尽に戦いつづけた。
駿馬の鞍から降り立ついとまもあらばこそ
飲まず食わずで戦いつづけた。
さて、このとき国箆o旨の町の中では
,司祭たちから補祭たちにいたるまで
数々のとおとい聖像をもち出して
感謝の祈りをささげつつ、いぶかっていた。
﹁異教の大軍を木の葉のように蹴散らして
われらの町を守ってくれたのは
とおとい天使ではあるまいか﹂
イリヤーが一︷置o昌の町にはいり
かの教会のかたわらをすすんでいくと、
司祭たちと補祭たちが口ぐちに頼んだ。
﹁おぬしこそ天下無敵の勇士、
‘ ,
239
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
パンと塩の歓迎の席に蒲いてくれ、
どこから来たか教えてくだされ﹂
﹁わしは旅の者、ユリシ・マリシ・シシマレチン、
たわむれにボリス王子と名のる者
パンと塩を頂戴している暇はない。
キーエフの町への道を教えてくれ⋮⋮﹂
実は大部分のヴァリアントでは、イリヤーがキーエフヘおもむく途中で異教徒の包囲から救うのは、チェルニーゴ
フの町となっている。これはウクライナの実在の都市であって、ムーロムからキーエフヘの道筋にあたっている。そ
れに対して民己o跨という地名は架空である。
イリヤーが最初に勇名をはせる揚所はもともとチェルニーゴフであったと考えられるが、一部の語り手はその地名
をキーテジ伝説にちなむ揚所におきかえたのだった。イリヤーの武勲が護教的性格のものだったことと関係があった
からにちがいない。このさい、十九世紀後半ヨー・ッパ・・シアからはるかにはなれたアルタイの語り手とその聴衆
にとっては、古く栄えたチェルニーゴフの町よリキーテジの名前のほうがはるかに耳なれたものになっていたという
事情が想定される。
ブィリーナよりも一層明確にキーテジを名ざしている一種の巡礼歌が十九世紀の末に二iジェゴロドあたりでうた
われていたことを、ゴーリキイが自伝的な作品﹃世の中に出て﹄で書きとめている。作家自身の年老いた祖母が孫に
︵2V
語ってきかせたものとして紹介しているのである。
神を恐れぬタタールのやからは、
240
見えぬ町キーテジの物語
雲霞のような大軍で押し寄せ
朝の聖なる祈りのさなかに
栄えあるキーテジの町をとりかこんだ。
正教の民は神に祈りをささげた。
﹁おお、われらの神よ、
いと清き聖母マリアよ、
汝らのしもぺたるわれらに
朝の祈りを終りまであげさせたまえ。
聖書の教えを終りまで聞かせたまえ。
タタールのともがらに許したもうな、
とおとい教会をあざけることを、
妻や娘らをはずかしめ
幼い子らをなぶりものにし
老いたる者を容赦なく手にかけることを﹂
キリスト教徒の民草の
涙ながらの嘆きの祈りを
241
万軍の主はきこしめされ、
聖母マリアも聞きとどけられた。
ノ
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
たのもしき万軍の主は
首天使ミカエルにおおせられた。
﹁行け、天使ミカエルよ、
キーテジの底なる大地をゆるがせよ、
キーテジの町を湖の中に沈めよ、
かの町の正教の民が
朝の祈りから深夜の祈薦にいたるまで
ありとあらゆるとおとい勤行を
たゆみなくつづけられるよう、
とこしえに、いついつまでも﹂
右に挙げたブィリーナと巡礼歌がすで晟立していたキ手ジ伝説を反映している.︼とは一一一一口うまでもない.換一一、一口す
れば・このブィリーナや巡礼警奪らくキーテジ伝説の普遷貢献しただけであって、その形成に関与したとは考
えられない。そしてブィリーナが採録されたアルタイのバルナウルと巡礼歌がうたわれていた二ージェゴロドに共通
しているのは、ともに分離派教徒、しかもそのうち逃亡派セクトの拠点ともいうぺき地方だった.︾とである。
逃亡派の夢
神の御手によ・て隠えた修道院とキーテジの町の伝説を蓼つけ年代記と称する文書にまとめたのは旧教徒の逃
亡派とみて誤りがないようである。彼らは一体どのような人びとだったのだろうか。
242
見えぬ町キーテジの物語
メーリニコフは十九世紀中葉という時点で・シアの国教会以外の宗教的分派の分類を試みている。彼の場合、分類
の基準としたのは・シア正教会の宗法規則と各セクトの教義とのへだたりである。前にも書いたように、もともとメ
ーリニコフは本格的な作家活動にはいる前に、二ージェゴ・ド県の役人をつとめていた。奥ヴォルガ地方の歴史と民
俗についての知識を買われて、旧教徒行政を担当していたのである。ニコライ一世の晩年の一八五〇年には内務省直
属の官吏に登用され、その悪名高い分離派弾圧政策の一翼をになわされた。小説﹃森の中で﹄を書いた七〇年代には
分離派に対する彼の考えも変っていたらしいが、いずれにしても当時の・シアの宗教事情についての彼の認識は机上
の知識のみから形成されたものではなかった。
︵1︶
メーリニコフは正教会を別楕として・シアのキリスト教諸派を次のように大別する。
e異端
目 離教派︵分離派のうち﹁無僧派﹂︶
◎ 独断派︵分離派のうち﹁容僧派﹂︶
0の中には西ヨー・ッパのプ・テスタンティズムと関係のあるドゥホボールとモ・カン、ピザンツの影響を受けた
とされる鞭身派、それに去勢派などが含まれる。メーリニコフの考え方にしたがえば、その後・シアで勢力を得るバ
プティスト、福音派もこのカテゴリーに属することになる。
.︸れに対して、各宗派の起源に重きをおく分類が伝統的に行なわれ、アメリカの神学者コニベアなどもこれに従っ
ている。
︵2︶
0旧教徒
A 容僧派
243
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
(⇒
244
B 無僧派
合理主義派
A ドゥホボール
B モロカン
神秘主義派
A 鞭身派
B 去勢派
その数も少なく、各分派間に本質的な差異がなかったとされる。
ァクーム派、オヌフリイ派など、中心となる指導者や居住地の名を冠した分派が形成されなかったわけではないが、
えた。旧教徒の中では容僧派が多数派で、むろん国教会により近い﹁穏健な﹂グループであった。この中にも、アヴ
エラルキーを樹立しようとしたのが容僧派である。彼らは司祭の権威をみとめ、、・・サの儀式に司祭が必要であると考
国家教会の手に独占されてしまったからである。やむなく正教会から破門された僧を受け入れたり、国外に独自のヒ
えたりすると、分離派は平信徒ばかりで僧職者をもたぬことになった。聖職者を叙任する権限をもつヒエラルキーが
二ーコンの改革に反対した分離派の初代指導者たち、すなわちネ・ーノフやアヴァクームなどが殺されたり死に絶
ようという政策的な配慮にもとづくものとみることができる。
また彼が旧教徒を⑭と国に分けたのは、政府”国教会に比較的従順なグループと、逆に反抗的なグループとを区別し
ておけば、メーリニコフがコニベアの⑭と国を合わせて異端と片づけたのは正教徒流の偏見と考えなくてはならない。
それぞれの分類の当否についてここでは深く立ち入らないことにしよう。ただ、一言だけ不可欠なコメントを加え
(コ
見えぬ町キーテジの物語
それに対して無僧派は司祭をみとめず僧職の序階制度一般を否定する点で、メーリニコフの分類のOの異端諸宗派
と共通していた。無僧派の中で比較的早く出現し大きな勢力となったのはポモーリエ派である。白海と北氷洋の沿岸
とその広大な後背地がポモーリエ︵文字通りには沿海地方︶と呼ばれる。十七世紀の末、デニーソフ兄弟の指導のも
とで、白海に近いヴィーグの修道院を中心に無僧派旧教徒の共同体が形成された。アンチキリストのツァーリによる
圧迫の中で、きびしい戒律を自らに課して純粋な信仰を守ろうとしたこのグループがポモーリエ派の名で知られるよ
うになった。一時このグループに属したフェオドーシイという人物が、教義上の意見の相違︵たとえばフェオドーシ
イは、正教会の司祭が執行した結婚を有効とみとめた︶からデニーソフと快をわかち、十八世紀初頭に独自の一派を
創始した。これがフェオドーシイ派︵あるいはフェドセイ派︶である。彼らは無僧派内での結婚をみとめず、正教徒
のつくった食物は一切口にしないなど、戒律はポモーリエ派よりかえって厳格であった。この一派はノヴゴ・ドやモ
スクワで多くの支持者を得た。
プをリーダーとするグループがポモーリェ派から分かれて、フィリープ派を形成した。彼らは権力に対してきわめて
一七三〇年代にヴィーグの共同体でツァーリの名を祈藩の中で唱えるようになったとき、それに反対してフィリー
非妥協的な態度をとり、フィリープ自身、政府の派遣した軍隊に包囲されるや仲間とともに焼身自殺をとげた。もっ
とも、このような最も過激な抵抗の道を選んだのはフィリープ派だけではなかった。十七世紀の末までにアンチキリ
︵3︶
ストに対する抗議の手段として集団的焼身をとげた分離派教徒の数は二万に及ぶともいわれる。この数字の典拠は幾
分あやしいが、十七世紀末から十八世紀末までについてはかなり信頼のおける資料にもとづく調査があって、それに
︵4︶
よるとこの一世紀間にシベリアを含む・シア全土での焼身自殺は五十四件、人数にして一万六六七名に達した。
無僧派にはこのほかにもおびただしいセクトがあった。周囲の環境が変わるごとに新しい条件への対応をめぐって
245
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
セクト内に対立が生ずるという状況が一方にあり、他方あらゆるセクトが時の経過とともに初源的純粋さを失ってい
き、ある段階まで達するとふたたぴ純化作用がはじまるという傾向があって、あたかも細胞分裂のようにセクトが増
殖していった。メーリニコフはそれぞれ異なった見地からのセクトの数え方の例をいくつも挙げているが、有力なセ
︵5︶
クト の 数 は 十 四 ほ ど と み る の が 妥 当 な と こ ろ ら し い 。
ペグヌイ ストランニキ
そのうちの一つ逃亡派、またの名遍歴派と呼ばれるセクトを開いたのはエフィーミイという人物である。もちろん、
彼の生涯については知られるところが.こく少ない。民衆の中に生きて、知識人の世界とは生涯かかわりがなかったか
らである。最近になってソピエトでもようやく二、三の研究者が逃亡派の思想に注目しはじめたが、まだモノグラフ
︵6︶
が書かれる段階までにはいたっていない。
エフィーミイの俗名はエスターフィといった。ペレヤスラーヴリの出身でモトヴィーロフなる地主の農奴とも、ま
たペレヤスラーヴリの町人であったとも、さらに別の説では下級の聖職者に属して教会の歌手をしていたともいわれ
る。生まれた年も一七四〇年と一七四四年の二説に分かれている。一七六四年に軍隊にとられその年のうちに脱走し
たが、二年後につかまって、ペレヤスラーヴリの町人共同体の手で当局に引き渡された。エフィーミイは筈刑をうけ
てふたたぴ軍隊に戻された。しかしその後またも脱走に成功し、今度は生涯捕われることなく、時おりモスクワにあ
らわれたほか、ヤ・スラーヴリやコスト・マーなどの北部諸県を放浪した。ヴィーグの共同体にも二年ほど住んだら
しい。放浪生活を送っているあいだに、ポモーリエ派はもちろん、フェオドーシイ派やフィリープ派をはじめさまざ
まなセクトと接触して、思索をふかめていった。二度目の脱走の直後からイリーナ・フ・ード・ワという婦人が彼の
生涯の伴侶となった。イリーナはエフィーミイの死後、彼の思想の忠実な継承者となる。エフィー、・・イには﹃花園﹄
と名づけられた説教集のほか数種類の著述があり︵ただしいずれも未刊︶、聖像や挿し絵も自分で書き、聖歌もたく
246
見えぬ町キーテジの物語
みに歌ったという。プレハーノフが﹃・シア社会思想史﹄の中で彼を﹁疑いもなく才能ある人物﹂と呼んでいるが、
その才能はきわめて多面的だったわけである。
一七七二年.ころエフィーミイは独自の体系をもつ信念に到達し、無僧派系のさまざまなセクトと関係を断った。そ
してまず自分自身に再洗礼をほどこして︵エフィーミイと名のるのはこのときであろう︶、新しいセクトをおこした。
エフィーミイの教義の特徴は政治権力に対する徹底的な不服従と、私有財産と不平等の完全な否定であった。ツゲ
ーリとすぺての国家制度はアンチキリストのあらわれであるという考え方にもとづいて、エフィーミイは自分に従う
信者たちに税金を支払うこと、軍隊にはいることを拒否させたばかりでなく、貨幣を使用したり、パスポートを受け
取ったり、人口調査に応じたりすることさえ禁止した。個人が財産を私有することは不平等を生ぜしめるがゆえに、
すぺての悪の根源と考えられた。
十九世紀半ばのことであるが、内務省の役人がヤ・スラーヴリ県へ調査におもむいたことがあった。ある村でエフ
ィーミイのセクトに属する親子に出会って話しかけたところ、見上げるように高い背丈の百姓たちは帽子もとらず、
首都の官吏にむかって﹁兄弟﹂と呼びかけた。つきそっていた巡査がたしなめると、一人はこう答えたという。﹁お
前さんたちの考えじゃ、だれかはツァーリ、だれかは将軍、だれかは大臣かもしんねえけど、わしらの考えじゃ、み
︵7V
んなおんなじ兄弟ですだ﹂
エフィーミイの一派が逃亡派とか遍歴派と呼ぱれるようになったのは、さきに述べた教義から容易に推察されるよ
うに、彼らがアンチキリストの支配する社会とすべての関係を断ち、﹁キリストのために﹂放浪することを唯一の正
しい生き方としたからである。そうなると、荒野や森にのがれるほかなかった。
’逃亡派が集団生活をいとなむときには、衣服から履物にいたるまですべてが共有であった。しかし放浪が最高の生
247
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
活形態とされても、時がたつにつれて、いわば﹁在俗﹂の信徒も受け入れないわけにはいかなかった。したがって逃
亡派の内部では、一所不住の遍歴者が完全な成員とされ、それに次ぐのが遍歴見習中の信者、最後は﹁肉体的﹂には
権力に服従することを許された者というように、階級がもうけられた。第三の在家信徒は遍歴信徒にいつでも宿と衣
食を提供する義務をもち、一方対外的には、自分が逃亡派に属していることを秘匿しなければならなかった。彼らの
住居にはいつ当局に踏みこまれてもいいように、壁や床下にかならず隠れ揚所がしつらえてあったという。
一七七三年から七五年にかけてウラルとヴォルガ流域を中心におこったプガチョーフの反乱が逃亡派と関係がある
︵8V
のではないかという説もある。分離派の事情にくわしかった十九世紀の歴史家のシチャーポフがそう書いているが、
これには確証がない。
参考までに、サルトィコフuシチェドリンの長篇小説﹃ポンェホーニエの往時﹄︵邦訳は﹃僻地の旧習﹄の題名を
冠している︶の一節を引用しておこう。舞台はヤロスラーヴリの西隣りのトヴェーリ県である。﹁そのころ︹十九世紀
初期︺逃亡派というセクトの噂がながれていた。それは百姓家の乾燥小屋や床下にひそんで当局の追求をのがれながら、
パ ド コ ス ト ヌ イ
神の都を求めて村から村へわたりあるく連中ということだった。地主たちはこのセクトをくけがらわしいVと呼んで
︵9︶
いた。地主の権力をみとめないのが彼らの教義の一部だったからである﹂
・エフィ!、・・イが活動をはじめたのはエカテリーナニ世の治世の初期にあたっている。この女帝は分離派に対して一
種の宥和政策をとったことで知られるが、無僧派の中にはそれに呼応して体制と妥協する動きがあらわれた。たとえ
ば、一七七一年にモスクワのプレオブラジェンスキイ墓地に政府公認の共同体︵フェオドーシイ派︶が成立している。
そのような動きに反発したのが逃亡派とみることもできよう。モスクワ在住のフェオドーシイ派とフィリープ派の長
老にあて、彼らがツァーリと国家に尻尾をふり﹁人の姿をした悪魔﹂になりかかっていると痛烈に非難したエフィi
248
見えぬ町キーテジの物語
ミイの手紙がのこっている。
エカテリーナの政府も逃亡派に対してだけは弾圧政策をとった。たとえば一七八九年には、逃亡派が﹁最も有害
な﹂反国家的セクトと規定され、あらゆる手段を講じて彼らを追求し、これを根絶せよという命令が宗務院から出さ
れた。
逃亡派の信者の大部分が農民だったことはいうまでもないが、脱走兵や逃亡農奴やその他各種の犯罪者もこの派の
︵10︶
メンバーになっていた。横暴な夫のもとを逃げ出した女たちが身を寄せる先も逃亡派であった。アルバート.ハード
というイギリス人は十九世紀の末に出した本の中で、逃亡派の中核は盗賊と浮浪者からなり、彼らはまるで宗教上の
︵ 1 1 ︶
義務でも果たすように強盗殺人をはたらく一方、飲酒と淫慾に身を任せ、ときには群をなして村々を俳徊して淳朴な
農民を恐怖におとしいれた、と書いている。あまりにも厳格な禁慾主義をたてまえとする裏ではそのような一面も生
︵珍︶
じたかもしれない。それを証明するような記録ものこっている。ただそれだけでは、逃亡派がロシアの民衆のあいだ
で相当な期間にわたってあれほどの力をもちえたはずがない。
原則的には彼らは権力に対してあくまで不服従の態度をとりつつ、暴力に訴えることは避けている。一七九二年に
エフィーミイが死ぬと、イリーナ・フヨードロワはヤロスラーヴリから十五キ・ほどはなれたヴォルガ右岸のソペル
キ村に落ちついた。このときからこの村が逃亡派の中心地の観を呈するようになった。このセクトがソペルキ衆とも
呼ばれたのはこのためである。
コニベアのいわゆる合理主義派に属するドゥホボールやモ・カン教徒が天国は人の心の中にありと考えて自己修養
にはげんだのに対し、旧教徒の中でも逃亡派は驚くぺき執拗さをもって地上に楽園を追い求めた。ヴォルガがカスピ
海にそそぐアストラハン近くに移住して、葦の原に泥小屋の集落を形成したこともあった。楽園探しが・シアの国境
249
250
を越、.∼たこともある。ピョートル一世の治世にネクラーソフなる人物を指導者とする容僧派に属するコサックが、自
由を求めてトルコに亡命したことがあった。彼らが異境で束縛のない豊かな暮らしを送っているという風聞が・シア
につたわった。十九世紀の後半にはネクラーソフ派のもとへおもむく逃亡派信者が少なくなかった。それより早く十
九世紀の初め..一ろから、アルタイの山々のかなたにべ・ヴォージエ︵白水境︶と呼ばれる旧教徒の住む国があり・そ
こでは古式を守る教会もあるという噂がロシアの北部やシベリアにひろまっていた。そのベロヴォージエが日本に存
在するとして、﹁日本国への旅案内﹂というような文書も流布した。これを書いたポモーリエのトポーゼ・修道院の
オガヒニア
僧マルコも逃亡派と関係があったらしい。トポーゼ・修道院にはエフィーミイが二年ほど滞在したことがあった。噂
を知らずに隠れ住んでいる噂がある、と書いている。
面したアルハンゲリスク、あるいはヴォルガの下流のジグリーの山々などにも、古い儀式を守る修道士が老いること
ら聞こえてくる。地下の修道院に行くことは非常にむずかしいけれども、全く不可能というわけではない。この話を
パき
つたえているのもメーリニコフである。彼はさ略に、ヤロスラーヴリの真北にあるヴォ・グダのキリi・フ、白海に
つかの修道院が土の下に沈んだ跡で、,今でも修道院には男や女の修道僧が生きている。祭日のたびに鐘の音がそこか
州︶上ヴォ・ツク郡ムリョーヴォ村の修道院である。ムスタ川にそったこの小村に古い壕がある。それはかつていく
かにあると信じていた。その一つが、ヤロスラーヴリの西へ三〇〇キ・ほどはなれたトヴェーリ県︵現在カリーニン
みずからの信仰の支えとして、常人の目には見えないが聖なるキリスト教徒が正統的な教義を保持する修道院がどこ
べ・ヴォージエも含めて、宗教的ユートピアは元来逃亡派だけのものではなかった。分離派とされた旧教徒たちは
を真に受けてジュンガリァの砂漠に足を踏み入れた・シア人の数は当局の記録にのこっているだけでも数百人にのぼ
匙・
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
見えぬ町キーテジの物語
スヴェト・ヤール湖の見えぬ町キーテジが旧教徒一般、とりわけ逃亡派の理想境とされたのは自然の成り行きだっ
たと思われる。コマ・ーヴィチは地底に隠された修道院のモチーフと見えぬ町の伝説を結びつけたのはキーテジ年代
記を編纂したソペルキの逃亡派であると推定している。それでは、なぜほかならぬスヴェト・ヤールがユートピアの
ありかに選ばれたかが次の問題となる。
伝説の 古 層 ー 異 教 信 仰
見えぬ町キーテジの伝説はもっぱらキリスト教、それも旧教徒の信仰から生まれたものであるか、それとも・シア
の大地にキリスト教が根づく以前の土俗的信仰と関係があるのか。この問題をめぐっては研究者たちの意見が二つに
分かれ、今にいたるまで決着がついていない。
まずスヴェト・ヤール湖にまつわる異教信仰が土台にあって、その上にキーテジ伝説が成立したと考えたのはメー
リニコフである。この説は二十世紀の初頭にこの湖をおとずれた作家のプリーシヴィンにも受けつがれた。そして前
述のコマローヴィチにいたって、この問題をアカデミズムの土俵の上で論証することが最大の研究課題の一つになっ
たのであった。
これに対して、最初の紹介者メレージンのように、湖底からひびいてくる鐘の音の中にキリスト教的敬慶のあらわ
れだけを聞きとろうとした者も少なくなかった。あとでふれるバシー・フのように、コマ・ーヴィチの﹁論証﹂を真
向から否定する学者もいる心また一番新しい一九六八年のスヴェト・ヤール湖の調査に参加した民俗学者のサーヴシ
キナは、三五〇点ほどの口碑を現地で採録することに成功したが、その中には教会分裂以前の伝説のあり方を示すよ
︵−︶
うなものは何一つなかったと述べているコこれもコマ・ーヴィチに対する間接的な反駁と受けとれなくもない。
251
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
最初にコマ・ーヴィチの主張から見ていこう。彼が郷里でもあるスヴェト・ヤール湖周辺で集めた口頭の言い伝え
︵2︶
は次の三つに分類できるという。
のU。蒔即,目目.犀丁つまり乙女のトゥルカが馬に乗ってやってきて、ここにあった町が馬のひづめにかかって沈
んでしまった。そのあとにできたのがスヴェト・ヤール湖である。ーコマ・iヴィチによれば、これは町が湖底に
沈んだ原因を説明する伝承の中で最も知られていないもので、彼がこれを耳にしたのは一九二六年のことである。そ
ヤ ヤ ヤ
れより二十年ほど以前に、プリーシヴィンも湖のほとりでタチヤーナという老婆からこれとよく似た話を聞いたこと
があった。﹁トゥルカが一度に一ヴェルスタ︹約一キ・︶ずつ跳ぴながら駈けてきた。神さまが義人たちをかわいそう
︵3︶
に思われて、町をトゥルカからおかくしになったのさ﹂
タチヤーナの話では、トゥルカは男性名詞である。
↓目.ξはトルコ人ではなくて、今は絶滅した野牛のことである、とコマ・ーヴィチは説明する。中世文学やフォー
ク・アの中で非凡なカと勇気をそなえた人物、それも身分の高い公などに対する呼びかけに円巽が用いられることは
よく知られている。たとえば十二世紀の作品﹃イーゴリ軍記﹄で主人公の弟は次のように歌われる。﹁荒か牛冒H−εお
フセーヴォロドよ、御身は陣頭に立ちはだかって、敵陣に矢の雨ふらせ、鋼の剣をふるって敵のかぶとを打ちひびか
せる﹂
伺 地中の隠者たちとはバツの侵入から奇蹟によって救われた修道院の僧たちである。1この揚合、修道院はと
くにキーテジの町とは関係がない。この伝承はスヴェトロヤールをおとずれる文盲の巡礼たちのあいだで優勢である。
修道院を建立したのが白海のソ・フキ修道院の僧たちであると考える者もいる。ソ・フキはかつて分離派の最大の拠
点であり、一六六八年から八年間にわたって政府軍の攻囲にたえた大修道院である。ここを逃れた修道僧の一部は上
252
見えぬ町キーテジの物語
述のべ・ヴォージエにたどり着いて正しい信仰をつたえたと信じられていた。
◎ バツ侵入のさい神の恵みによって大キーテジの町が救われた。そのあとにできたのがスヴェト・ヤールの湖で
ある。ーキーテジ年代記によって定着した説で、文字を知る者はすべてこれを信じている。
右の三種の伝承のうちコマ・iヴィチがこの揚合とくに重視するのは0である。ここでは湖の成立に関してキリス
ト教は何の役割も果していない。
得体の知れぬ巨大な怪物の駈け抜けた足跡が湖になるというのは、わが国のダイダラ坊の伝説を連想させる。大き
な違いは、ダイダラ坊が日本の各地にその足跡をのこしているのに、知られる限リトゥルカはスヴェトロヤール湖に
一つきりしか足跡をきざまなかったことである。
コマ・ーヴィチがキーテジ伝説のかげに﹂層古い信仰の名残りをみようとする根拠は、月自詩帥についてのかすかな
風聞だけではない。十九世紀以来知られていたように、見えぬ町キーテジの最大の祭日はウラジーミルの聖母像の記
念日、すなわち六月二十三日であった。この聖像は十二世紀に東・ーマの帝都コンスタンチノープルからキーエフ・
ルーシに将来されたもので、母の慈愛をあらわすエレウーサ型聖母像の傑作とされている。歴代のロシアの君主の尊
ウスベノスキイ
崇の的となり、モスクワ時代にはクレムリンの中の聖母就寝寺院にまつられた。残忍非情で鳴ったイワン雷帝もしば
しばこのイコンの前にひれふして痛悔の涙にくれたといわれている。スヴェト・ヤールのあるウラジーミルスコエ村
の名にちなむ教会の祭日がキーテジの祭日になったという説明は、コマ・iヴィチによれば成り立たない。ウラジー
ミルスコエには十九世紀初めまで教会がなく、それどころか、村の名前さえ近くをながれる川の名をとって古くはリ
ュンダと呼ばれていたからである。
六月二十三日はロシア風にいってイワン・クパー・、つまり洗礼者ヨハネの祭日の前日にあたっている。これは・
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一橋大学研究年報 人文科学研究 21
シアに限らず、北ヨー・ッパ全域にわたってとりわけ異教的色彩の濃厚な夏祭りであった。ゴーゴリの短篇小説﹁イ
ワン・クパーロの前夜﹂で描かれているように、この夜にはワラビの花が咲き、物の怪が闇の中を跳梁すると信じら
れていた。スヴェト・ヤール湖畔の丘の下に埋まっている三つの教会の一つが聖ヨハネ教会であるという言い伝えも
あった︵キーテジ年代記では聖母就寝、聖母福音、それに聖架挙栄の三教会。このうち聖架挙栄の代わりにヨハネ教
会が含まれるのである︶。
一年中で太陽が最も長く輝くこの日には、おそらく近隣の男女がこの湖の岸に集まり、かがり火のまわりで夜どお
し踊り明かしたのではないか。ポリワーノフという郷土史家がある地方雑誌でかつてここが﹁悪魔的な遊楽﹂の揚所
︵ 4 ︶
であったと報告している、とコマ・ーヴィチは言う。それはたとえば、日本の歌垣のようなものであったらしい。
メーリニコフはスヴェト・ヤールあるいはスヴェトルイ・ヤールの﹁ヤール﹂がキリスト教以前の異教の神ヤリー
・にほかならないと考えた。ということは、湖の名前が﹁光明のヤリーロ﹂となることを意味する。・シア人の土俗
的な信仰の中でヤリーロは太陽神であった。それは光であり、父親であり、男性的原理を象徴している。冬のあいだ
ヤリーロは母なる大地を見棄てているが、春になると姿をあらわして大地を愛撫し、光と熱をあびせ、雨をふらせる。
ヤリー・と大地の抱擁から万物が生まれる。それが古代・シア人の自然観であった。このヤリー・とクパー・は同じ
︵5︶
もの、つまり同一神格の別の呼ぴ方である、とメーリニコフは言い切っている。
ス ト グ ラ フ
一五五一年に発布された有名な百条令では、イワン・クパi・、クリスマス、それに主顕節の前夜に男女が集まっ
て﹁悪魔的な歌舞をなすこと﹂を﹁神をはずかしめる所業﹂として厳禁している︵四+一条︶。まだ十六世紀には・シ
アにこのような風俗が存在したことがわかる。メーリニコフが小説﹃森の中で﹄を書いた十九世紀中葉には、さすが
︵6︶
にもう奥ヴォルガの森の中でクパー・のかがり火を焚くことも、ヤリー・の神をまつることもなくなっていたという。
254
見えぬ町キーテジの物語
メーリニコフのヤール時ヤリーロ説には弱点がある。フィン語では湖を一管≦と呼ぶ。奥ヴォルガ地方の先住民は
フィン系のチェレ、・・ス人であった。チェレ、・・ス人はマリ人とも呼ばれる。現在でもゴーリキイ市より下流のヴォルガ
の北岸はマリ自治共和国を形成し、日本の大きな県を一一つ合わせたほどの広さの地域に二十八万人のマリ人が住んで
いる。スヴェトロヤールの周囲には、たとえば2①ω&巽や国旨、目o一巽や図冨。n曙と賃のように、 一胃の語尾をも
つ湖がある。スヴェトロヤールの﹁ヤール﹂を含めて、フィン語がω昌馨冨言巳としてのこったと考えるのが妥当で
あろう。ついでに一言すれば、このほかにもソピエト領内には、ヴォルガ中流や下流の民声のξご胃やω①一&一畦、
シベリアの国H霧8す同降、アストラハン地方の9①ヨo宣邑︻のように﹁ヤール﹂を含む地名が多い。この場合のす吋
︵7︶
は断崖を意味するチュルク系の言葉にさかのぽるといわれる。いずれにしても、スヴェト・ヤールの名称の起源をヤ
リーロの神に求める説は連想としては面白いかもしれないが、そのまま信用しかねるといわなければならない。
コマ・iヴィチはもう一つの論拠として、かつてスヴェト・ヤール湖では水浴と樹木伐採の二つのタブーがあった
ことを挙げている。特定の場所の樹木を切ることを禁ずる風習はキリスト教以前から・シアにひろまっていた。一本
一本の樹木に精霊がやどっていて、タブーをおかした者に崇りをなすとされた。スヴェト・ヤールの湖畔でモミの木
︵8︶
を切ったある農婦がその木に押しづぶされて死んでしまったという話をコマ・ーヴィチは聞かされたという。
樹木伐採のタブーを解除する儀式や豊饒祈願の春送りの儀礼が葬式という形をとる慣習は最近までロシアの各地に
のこっていた。切りたおしたモミあるいは白樺を冠やリボンでかざったり、かかしをつくって擬制的な葬送儀礼を行
ヤ ヤ ヤ
ない、川や湖に投げ捨てたり土中に埋めたりしたのである。そのかかしをクパー・に見たてる地方もあった。スヴニ
︵9︶ 、 、、
ト・ヤールのまわりでもそのような風習が存在した可能性は充分にある。今でも木片に・ウソクの燃えさしをのせ、
︵m︶
火をつけてこの湖に流す風習があると報告されているが、これは樹木伐採のタブーにかかわりのある昔の儀礼にさか
255
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
のぼるのかもしれない。
水浴のタブーについては多少疑問がなくもない。コマ・ーヴィチはこの湖で泳ぎかけた作家のコロレンコが釣竿と
ヤ ヤ
びくをもった男から軽く注意された例を挙げているが、それが本当にタブーに由来するかどうかは疑わしいのである。
そればかりかコロレンコはその紀行文の中で、村の若者たちが白い肌の娘たちと入りまじって湖の渚で水浴をしてい
るのを見たと書いている。前述のサーヴシキナの最近の調査でも水浴のタブーについての伝承はなかったようである。
︵11︶
キーテジ伝説がスヴェト・ヤールの非キリスト教的な伝説ないしは習俗の上に成り立っているかどうかは、現在の
時点からは容易に断定しかねるむずかしさを含んでいる。
バシーロフは↓目ざの伝承を重視することに反対する。それはたった一回だけコマ・ーヴィチが得た孤立した情
報だったからである。イワン・クパー・に関する旧習の存在をバシーロフも否定するわけではないが、キーテジにま
︵η︶
つわる旧教徒の伝説はその旧習とは全く無関係に成立したというのが彼の意見なのである。
私としては、コマ・ーヴィチが依拠しているすぺての論点に然るべき評価を与えなければならないと考える。目目ざ
の足跡がスヴェト・ヤールになったという話を耳にしたのはプリーシヴィンとコマ・ーヴィチがそれぞれ一度ずつに
すぎなかったにせよ、話柄自体に古拙の趣きがあって相当に時代がかった伝承であったことを思わせる。見えぬ町キ
ーテジに詣ずる人の最も多い祭日がクパー・の日の前夜と一致するのも偶然ではあるまい。おそらく、その点では
﹁悪魔的な﹂遺習がもちこされたのである。ただ同様な習俗はスヴェト・ヤール湖にかぎらず、奥ヴォルガの他のお
ぴただしい湖沼についても存在したのではあるまいか。したがってメーリニコフやコマ・ーヴィチの論拠からだけで
は、スヴェトロヤールが分離派成立以前から格別に神聖視されており、その土台の上にキーテジ伝説が生まれたとは
言い切れないように思われる。
256
見えぬ町キーテジの物語
現実には、スヴェト・ヤールにキーテジの町が沈んだこと、あるいは聖なる修道士たちの住む修道院がその湖畔の
丘の下に隠されていることを、旧教徒をはじめとする多くのロシア人が心から信じたことも確かである。そしてコマ
・iヴィチが言うように、隠された修道院のモチーフをスヴェトロヤール湖に結びつけたのが旧教徒逃亡派であった
とすれぱ︵この点について私は否定する論拠をもち合わせていない︶、逃亡派のファンタジーをかきたてたのは古来
の伝承や土俗的行事もさることながら、スヴニトロヤールの景観とその呼称のもつ響きのよさではなかったかと私は
想像する。この湖の特異な美観については、以下の章で述べるように、多くの作家や学者によって語られている。そ
れと同時に、スヴェトルイ・ヤールという言葉の﹁好音性﹂も見のがせない。ヤールはたとえ発生的にはフィン語で
あったとしても、・シア語としては太陽神ヤリi・に通ずることはすでに指摘されているとおりであるし、﹁光のつ
よい、明るい﹂の意味をもつ形容詞の一帥.一.ごとも音が通じている。スヴェトルイω<亀&も闇に対して光のある状態、
すなわち﹁明るい﹂を示すほか、音の連想から民間語源のレヴェルではの5鉢o一﹁神聖な﹂の観念とも結ぴついてい
たといわれる。ロシア正教暦で復活祭にはじまる七日間が聖週間。降5舞εpま留一すとも光明週問ωく。号す器留言と
︵13︶
も呼ばれるのはこのことと無関係ではないであろう。
残念ながらスヴェトロヤールの湖がなぜこう呼ばれるにいたったかは、まだ解明されるにいたっていない。
巡礼者たちの
前に書いたように、メレジンが雑誌﹁モスクワ人﹂でキーテジ伝説を紹介したのは一八四三年のことだったが、そ
れより早く地元の二ージェゴ・ド県ではこの伝説のもたらした結果が裁判沙汰になっていた。未刊の地方文書を発掘
︵1︶
してその状況に光をあてたのはコマ・iヴィチの論敵バシー・フである。
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一橋大学研究年報 人文科学研究 21
.一八三七年六月二十二日、ウラジーミルスコエの東隣りのヴォスクレセンスコエ村の長司祭ピ日ートル・ス、・・ルノ
フは、クニャギーニン市の正教委員会の委員に、スヴェト・ヤール湖が一部の人間たちの礼拝の対象になっていると
申し出た。これについて正教委員会がすぐにウラジーミルスコエ村に問合せたところ、同村の教会から、湖に人が集
まるなどということは聞いたこともないという回答があった。それから五年後の九月七日に、ス、・・ルノフ長司祭はマ
カーリェフ市の郡裁判所に今度は書面によって告訴状を提出した。その内容はおおよそ次のようなものであった。ス
ヴェト・ヤールの岸の丘の上に無届けで小礼拝堂が建てられ、そこで集会や祈薦が行なわれていること、五月八日と
九日には昼夜にわたって六十人ばかりの人間が集まり、六月二十三日の︵ウラジー、・・ルスコエ村の︶教会の祭日には
千人以上の群衆が寄り集まったこと、その後も夏のあいだ中、日曜や祭日には湖をおがみにくる者が途絶えることが
ない、というのである。告訴状にはさらに、ここへやってくる者が﹁年代記﹂と称する書物を読むこと、湖岸の一部
の樹木が特別の崇拝の対象となっていて、その根本に深い穴が掘られ根のまわりが露出したため半分枯れかかってい
る、と書かれていた。
,審理が行なわれ、領地管理人︵この村はシビルスキイ公爵の領地だった︶のつきそいで出頭した村民たちは、次の
ように申し立てた。問題の小礼拝堂はたしかに当局の許可を得ずに建てたが、それは二十一年も以前に当時流行した
家畜の疫病から免れるためにつくったもので、ウラジーミルスコエの聖母教会の年三回の祭日、つまり五月二十一日、
六月二十三日、八月二十六日にそこで祈藩をするだけである。湖畔の集会と樹木崇拝については、農民たちはそれを
否定した。同席したウラジーミルスコエ教会の司祭も村民の言い分を支持し、彼らがいずれも熱心な正教徒︵つまり
国教会派︶であると保証した。地方裁判所はこの供述にもとづいてスミルノフの告訴は誤りであると認定した。
これに対してスミルノフが控訴したらしく、二iジェゴロド市の高等裁判所は審理不充分として審理の継続を命じ、
258
し立てを行なったことは明白であるし、村の教区教会の司祭も村民をかばっている。このころ、表面上は正教徒をよ 9
じむ
そおいながらひそかに二ーコンの改革以前の古い儀式をまもっている分離派教徒は少なくなかった。 2
ウラジー、、、ルスコエの村人たちの態度も興味ぶかい。彼らが裁判所で、虚偽とまではいわずとも真実を無視した申
教徒も好奇心から集まってくる、ともメレジンは書いているのである。
また湖底の教会の鐘の音を聞くためにここをおとずれるのはかつては旧教徒ばかりだったが、今は国教会に属する正
しになるがメレジンによれぱ、そのころすでにスヴェト・ヤールの湖岸に洞窟を掘って隠者たちが住みついていた。
キーテジ伝説が全国に知れわたったことになる。当局は故意に旧教徒の動きに目をつむっていた感じである。繰り返
い。マカーリエフ地方裁判所での審理が終るか終らぬうちに、メレジンの書いた記事がモスクワの雑誌に発表され、
ウラジー、、、ルスコエの村民や司祭の言い分だけを重視したふしがある。現地に役人を派遣して直接調査した形跡もな
三〇年代の後半になってス、、、ルノフが執拗に聖俗両界の司法機関にこの問題を訴えたとき、どういうわけか裁く側は、
じめたのは、ス、、、ルノフがウラジー、、、ルスコエ村をはなれた一八〇七年以後のことであるらしい。それからもう一つ、
とんど知られていなかった﹂と書いていることである。旧教徒がスヴェト・ヤールの湖畔をおとずれて人目につきは
ルスコエ村に居住していたが、そのころはスヴェト・ヤール湖での﹁悪魔の誘惑と迷信﹂は﹁全く闇につつまれ、ほ
ス、、、ルノフ長司祭の告発状の中でとくに注目されることがある。彼自身一八OO年から一八〇七年までウラジーミ
することを決定した。今度は高等裁判所もこの決定を承認してしまった。
と裁定したばかりか、無実の誹誘を﹁十年以上﹂も繰返しているとして、この長司祭の処罰を正教管理監督局に要請
集会と祈薦がまだつづいているとあらたに申し立てた。しかし地方裁判所はまたしてもスミルノフの告訴を根拠なし
ズ、、、ルノフは、くだんの小礼拝堂がとりこわされたあとも︵村民がかかわり合いを恐れて早速殿壊してしまったのか︶
見えぬ町キーテジの物話
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
作家のメーリニコフは本職の役人としての仕事の性質上からも、何回かスヴニト・ヤールをたずねる機会があった。
︵2︶
そのときの見聞を生かしているのが、小説﹃森の中で﹄の第四部で描かれる湖への巡礼のもようである。時代は一八
五〇年前後、聖母の祭日に容僧派に属する近くのコマ・ヴォの尼僧院から若い修道尼たちがキーテジの鐘の音を聞き
に出かけるという設定である。娘たちは半分物見遊山の浮き立った気分になっている。日暮れどきに湖に近づくと、
遠近から集まった老若男女の数はもはやかぞえきれないほどである。男よりも、女のほうがはるかに多い。尼僧たち
は湖畔で荷車から下り、徒歩で丘にのぼる。引率者のアルカージア老尼が柏の木の枝に綿でつつんだ聖母像をかけ、
まわりに・ウソクを立てると、全員が脆拝して祈薦がはじまる。あたりの木々のうち半分ほどは同じように聖像でか
ざられ、・ウソクであかあかと照らし出されている。詩篇を唱える者もいれば、聖母への賛美歌をうたう者もいる。
しかし、みんな声をひそめている。丘のふもとには﹁キーテジ年代記﹂を声高に読み上げている老人がいる。そのま
わりに二十人ばかり人だかりがして、熱心にその朗読に聞き入っている。ややはなれて、一人の修道僧が一片の紙片
をかざしながら、地底に隠された修道院から若者が両親に書き送ったという例の手紙を読んで聞かせている。まもな
くこの男は、修道僧とは真赤ないつわりで贋札づくりの常習犯ということがわかる。しかし人びとは彼が語った手紙
の内容は信じて疑おうとしない。コマ・ヴォの尼僧たちは丘の上で夏の一夜を明かし、鐘の音はついに耳にすること
はできなかったが、満ち足りた心で帰途に着く。
見えぬ町キーテジが最も多くの巡礼をひきつけたのは十九世紀の半ばだったらしい。二ージェゴ・ド地方の歴史の
研究で知られるガツィスキイが一八七七年にスヴェトロヤール湖に出かけたとき、七十歳になる土地の故老が次のよ
︵3︶
うなことを語ったという。前の年つまり一八七六年には三千人ほどの人出があった。遠いところでは三百露里以上も
はなれた場所から来る者もいた。しかしこれでも、以前にくらべれば人の数は少なくなったのだ。地主にしばられて
260
見えぬ町キーテジの物語
いた十五年ほど前までは、もっと多くの人間が集まったものだ。それで警察がやって来て、群衆を追いはらっていた。
今は取締りもずっとゆるやかになった⋮
にもかかわらず大勢の巡礼が集まったことになる。実質がともなわなかったとして歴史家に評判のよくないこの改革
農奴解放令が出るのは一八六一年である。この老人の言葉を信じるならば、解放令発布以前のほうが、当局の妨害
も、多少は農民の意識に変化を及ぽしたのであろうか。二ージェゴロド県は地主に従属する農奴の数が比較的多い土
地柄であっただけに、解放令施行とキーテジ崇拝の頭打ちの現象に全く因果関係をみとめないわけにはいくまい。だ
が私見では、ニコライ帝の晩年、とくに五〇年代に分離派への弾圧が強化され、旧教徒の僧院が破壊されたりしたこ
とのほうが、農奴解放令などよりは、キーテジヘの巡礼ともっと直接的に結びついていた可能性がある。迫害がきび
しければきぴしいほど、旧教徒はスヴェト・ヤールの湖畔にひとときの慰めを求めようとしたのである。
もっともガツィスキイの老人は、キーテジの教会の鐘さえ昔のほうがよく聞こえたとも語っているところをみると、
老齢につきものの懐古趣味が多少彼の判断を偏向させていたかもしれない。
一八七〇年までに、ふたたびスヴェト・ヤール湖の丘の上に礼拝堂が建てられていた。これは正教会のものであっ
た。この年の夏の祭日にポスペーロフという正教会の僧が湖をおとずれ、﹁農村司祭のための手引﹂というキーエフ
で出版されていた雑誌に紀行文を寄せている。六月二十二日の深夜湖に向かう路上で、彼は若い男女の一群とすれち
︵4︶
がう。その中の数人は明らかに酒気を帯びていて、,上機嫌のていであった。祭日の湖畔には市が立つことが昔から知
られていた。そこで酒なども飲ませていたらしい。新築の礼拝堂はかなり広いが、ぎっしり人がつまっていて息苦し
いほどであった。旧教徒は礼拝堂とは別の丘の上に集まっていた。大部分はすでに地面にごろ寝していて、通り抜け 1
26
るのが困難であった。まだ目覚めていて、年代記の朗読に聞き入るグループや、声を合わせて詩篇をとなえるグルー
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
プ、黙示録の語句をめぐってはげしい議論をたたかわせているグループなどもあった。無数の・ウソクがともされた
岸の木立と満月に照らし出された湖面を眺めながら、ポスペーロフは喜びと悲しみの入りまじった物思いにとらわれ
る。・シアの民衆が天国への道をさがし求める熱意が彼を喜ばせ、逆に、存在しないものを盲信する無知と迷信深さ
が彼を悲しませるのである。このような民の蒙をひらく使命がいかに重大なものであるかを強調して、彼の文章は終
っている。
ピョートル一世以来、政府は単に分離派の信仰に弾圧を加えるだけでなく、彼らが国教会に復帰する途をひらいて
いた。むしろ政策の最終目標は彼らを教会に合流させることであり、そのために各地ヘミッションを派遣していた。
エカテリーナニ世の時代にこの方向はさらに組織的な形をとるようになった。ポスペー・フがスヴェト・ヤールにお
もむいた直接的な動機は明瞭でないが、その立揚が国教会の、・・ッシ日ンに近いことは確かである。ポスペi・フから
七年目に上述のガツィスキイがスヴェト・ヤールの人出を見物に来たときには、礼拝堂のわきに宿泊所ができていた。
︵5︶
丘の中腹の隠者たちが警察によって煙でいぶり出されたので、その代りにウラジーミルスコエ村の、・・ールつまり村民
共同体が建てたもので、﹁巡礼宿﹂簿声雪ε三ヨξ一3ヨと呼ばれていた。天井は低いが、かなりの間口と奥行をそ
なえた大きな建物だった。ただし祭日ともなるとそこは超満員で、いったん横になるか立つか坐るかすると、もう他
の姿勢はとれないありさまだった。湖の岸辺の二、三ヵ所で、裸になって水につかっている男女がいた。そうすると
病気に効き目があると信じられたのだ。小さなグループに分かれて、祈ったり歌ったり﹁年代記﹂に耳をかたむけ
たりしている旧教徒たちのひたむきな面もち、木々の枝にかけた聖像の下で終夜祈藤をささげる敬慶な熱意がガツィ
スキイに感銘を与えた。政治的立場の点で彼はナ・iドニキに近い学者だった。さまざまなセクトの信者がかしまし
ネモレヌイ
く宗論をたたかわせていることは従前どおりであったが、ガツィスキイはこのときはじめて非祈薦派を目にした。彼
262
見えぬ町キーテジの物語
らはモロカンに近いセクトで、十字架も聖像も崇拝しない点に特徴があった。この派の信仰に十五分間はいれぱ、す
ぺての罪が許されまっすぐに天国に行けるというまことしやかな噂がささやかれていたという。コニペア流にいえば
そのような﹁合理主義﹂的セクトは、隠れた町の鐘の音を聞きに来たわけではあるまい。おそらくスヴェト・ヤール
の湖畔はこのころすべてのセクトのプ・パガンダの揚となっていたのであろう。ガツィスキイの紀行文は﹁見えぬ町
︵6︶
キーテジのかたわらで﹂と題して、ペテルプルグから出ていた歴史雑誌﹃新旧ロシア﹄に掲載された。
十九世紀の末から二十世紀初頭にかけて、スヴェト・ヤールをおとずれる知識人はますます多くなっていった。巡
礼者の群の中にインテリゲンツィヤというカテゴリーがあらたに加わったともいえる。多少とも文章をのこした作家
だけでも、メレシコフスキイとその妻ギッピウス、コ・レンコ、プリーシヴィン、ドゥルイリンなどを挙げることが
できる。名のある画家ではA・ワスネツォフとレーリヒが湖を描いたし、音楽の分野ではS・ワシレンコがカンター
タ﹁大キーテジの町としずかな湖スヴェト・ヤールの物語﹂をつくり、リムスキィ一コルサコフがオペラ﹁見えぬ町
キーテジと乙女フェヴローニァの物語﹂を作曲した。
トルストイのつくった出版社﹁ポスレードニク﹂︵仲介者ほどの意味︶で働いたことのある批評家のドゥルイリン
の言葉をかりれば、地上の見える教会はもはや信ずるに足らない。完全な正義を求める者は、東方の大海にうかぶべ
・ヴォージエや湖底のキーテジのような理想境におもむく以外にない。・シア・インテリゲンツィヤの大部分は旧教
︵7︶
徒や多くのセクトとそのような信念を分けもったのである、という。
一九〇三年に湖畔に足跡をしるしたメレシコフスキイは、岸辺の白樺の茂みのかげに腰をおろし、百姓たちの皮の
長靴や獣脂のロウソクや人の汗の匂いや森の湿気の立ちこめる中で、旧教徒のさまざまのセクトの論客たちと宗教的
ユートピアについて熱っぽく語り合った。・シアの教会は専制主義と手を切って、ナロードやインテリゲンツィヤと
263
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
同盟し、社会革新と解放に積極的に参加しなけれぱならない。それが・シア正教と・シアの民に神から与えられた使
命である、と彼は信じていた。その信念がキーテジの町のほとりで一層つよまったかのようにメレシコフスキイは回
想している。
︵8︶
︵9︶
夫に同行したギッピウスは、ペテルプルグからスヴェト・ヤールヘの旅の記録を日記の形で発表した。それによる
と、夫妻は二人の国教会の宣教者︵一人は二ージニイの僧、もう一人はセミョーノフ市在住の僧︶に案内されて湖に
おもむいたことがわかる。このころには国教会の側が毎年きまって宣教者を送りこんでいたのである。ギッピウスの
案内者たちは大きなトランクに古い宗教書をぎっしりつめこんでいき、逐一典拠を示しながら夜を徹して大声で旧教
徒と論争をした。翌日は声が出ないほどだった。しかしメレシコフスキイもギッピウスも国教会側の唱導する復帰運
動に賛成していたわけではなくて、彼らの主たる関心は民衆の信仰心の発露そのものにあった。この夜・ウソクを手
に湖のまわりを十回まわると聖山アトスヘの巡礼、二十回まわるとエルサレムヘの巡礼と同じ功徳があると信じて列
に加わる素朴な農民たちもさることながら、この当時目立った活動を示していた非祈禧派の自信に満ちた論争ぶりが
夫妻の注意をひいた。そのセクトの信者たちは帰途についたメレシコフスキイのあとを追い、セミョーノフの宿舎に
までおしかけて彼と議論をつづけている。・シアの再生は正教を基盤にするほかはないと考える点で、ギッピウスは
夫の信念を共有していた。スヴェト・ヤールヘの旅は、首都に住む貴族出身の作家夫妻に・シアの民衆の正義への渇
望をつよく印象づけたのであった。
世紀末から・シア革命にいたる時期の・シアの知識人の一部に、メレシコフスキイ流の宗教観が支配していたこと
は事実であるが、もっと醒めた目でスヴェト・ヤールの水面を眺めた作家たちもいた。ナロードニキの一人コ・レン
コと、一時メレシコフスキイの組織した宗教哲学協会に属しながらやがて彼らからはなれ、のちソビエト文壇に独自
264
見えぬ町キーテジの物詰
の地歩をきずいたプリーシヴィンである。
コ・レンコは世紀の変わり目をはさんで三回もスヴェト・ヤール湖に出かけている。頭陀袋を背中にかつぎ杖をひ
いた・シアのナロードの典型的な巡礼スタイルだったらしい。六月二十三日の祭日の時だけでなく、平日の湖のたた
ずまいをも観察しているのが彼の手柄である。彼の奥ヴォルガ紀行は﹃ヴェトルーガとケルジェネツの旅から﹄にま
とめて収められている。
︵10V
コ・レンコのころには、見えぬ町への巡礼は明らかに衰微の兆しを示していた。彼はその理由として、第一に人ぴ
との﹁熱意﹂がおとろえたこと、第二にパスポートの規制がきびしくなった、の二つの事情を挙げている。祭日以外
には丘の上の巡礼宿もしまっていた。一九〇〇年前後までここには九十歳あまりのつんぼの老人が住んでいた。白髪
で子供のように無邪気な人物で、スヴェトロヤール湖の飾りであった。老人の死後、一人の尼がここに住みついた。
ミしル
それからまもなく、退役した兵士が村会の許可をもらって、丘の近くに掘立小屋を建てた。するといつのまにか尼さ
んと兵隊の仲があやしくなったので、村人たちは二人を追い出してしまった。そんな話もコロレンコは耳にした。
彼はまた水浴ぴをしている娘や青年たちを見て、自分も湖にはいっていった。魚を釣っている老人にも声をかけた。
コイ、スズキ、ウグイ、カマス、フナなどがとれるということだった。上述のドゥルイリンやコマローヴィチは水浴
も魚取りもタブーであると書いているが、平日にはそうでもなかったことは明らかである。
はじめてスヴェト・ヤールを見たときあまりにもさりげない光景に幻滅した、とコロレンコは告白している。しか
し二度目には、緑の岸にかこまれた卵型の小さな湖に﹁謎めいた単純さ﹂があることに気づいた。そしてこんな湖を
古い素朴なイコンで見たことがあるような気がした。メレシコフスキイとちがって神秘家の気質をもち合わせなかっ
たコ・レンコは、天国に通ずる道やバピ・ンの淫婦について巡礼仲間と議論はしなかった。それでも、昔は本当に信
265
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
心ぶかい者たちはひざまずいたまま湖のまわりを三まわりしたというのに、今はそんなことは滅多になくなった、と
伝えるその口ぶりはいくらか残念そうだし、﹁古いキーテジヘの道から逸れてしまった自分にとっても、この伝説に
はどこか感動的なものがある﹂とも述ぺている。コ・レンコの目は醒めてはいたが、冷たい目ではなかった。
一九〇五年、日露戦争が引き金になって第一次革命がおこり、ニコライニ世はいわゆる十月宣言を発して混乱を収
めようとした。この宣言には信仰の自由もうたわれていた。実際の法制化までには若干の紆余曲折はあったが、二世
紀半ぶりに、国教会からの分離派はまさに分離派たるがゆえの迫害をうけることがなくなったわけである。
プリーシヴィンの奥ヴォルガヘの旅は、信仰の自由がみとめられてからこの地方の旧教徒の意識がどう変わったか
を調査する目的を帯ぴていた。彼の紀行は﹁見えぬ町の城壁のかたわらで﹂と題して、自由主義的なナ・ードニキ派
︵UV
の雑誌﹁・シア思想﹂の一九〇九年一月号から三月号までに分載された。
﹁お前さんはだれだ。一体何のためにやって来たのかね﹂これがまずプリーシヴィンに浴びせられた質問だった。民
俗調査を志す者にとって免れられぬ問いかけである。﹁正しい信仰を求めに﹂と作家はとっさに答える。この返答の
おかげで彼はいい案内者にめぐまれ、奥ヴォルガの民衆の心をひらく鍵を手に入れたのだった。
折しも旧教徒容僧派の高僧が堂々と奥ヴォルガの森の中の村々を巡行していた。これはまぎれもなく新しい法律の
もたらした変化であった。行く先々で信者たちに熱狂的に歓迎されるこの僧は兵士あがりだった。スヴェト・ヤール
の湖畔では、ポモーリエ派、救世主派、否定派︵再洗礼派の一派︶などありとあらゆる旧教徒非僧派のセクト、また
ス パ ス
ン ユ ト ウ ン ダ
非祈蒔派、バプティスト派、時薦派などの合理主義セクトが集まって、俳徊する警察官の姿に一切おかまいなく、
公然と教義論争に熱中しているのは昔ながらの光景であった。 一
新しい法律ができてから巡礼の数が増えたかそれとも減ったかというようなことをウラジーミルスコエの村人にた
266
見えぬ町キーテジの物語
ずねまわることはしなかったらしい。その代わりプリーシヴィンは旧教徒から転向した人物をさりげなくスケッチし
ている。マクシムというこの男は以前非僧派の村に住んで、書物を筆写したり装釘したりしていた。祭日にはかなら
ずキーテジの鐘の音を聞きにでかけた。その後事情があって、正教徒の村へ引越した。国教会の宣教僧が彼のもとへ
出入りするようになり、ある日すすめられて非僧派では禁じられていたお茶に口をつけてみた。何ともない。もう一
杯飲んでみる。やはりどうということはない。それからもうスヴェト・ヤールヘ行くことをやめた。鐘の音も耳にひ
びかなくなった。法律とは別に、新しい風が湖畔の村凌に吹きはじめていたのである。
従前どおりの敬慶も生きのこっていた。ある老婆は一本の白樺の木の前にひざまずいて、一心不乱に祈っている。
その木の根本に隠れた修道院に通ずる門があると信じこんでいるのだ。夜にはいりどしゃぶりの雨が襲いぬかるみに
なった岸辺で、プリーシヴィンは何かやわらかいものにつまずく。目をこらすと、一人の農婦がうつぶせになり、額
を泥に埋めている。驚いて助け起こそうとすると、横から声がかかる。﹁かまいなさるな。今、鐘の音を聞いている
のじゃから﹂
他方、手にもつ本の重さを誇ったり、教義の言葉尻をとらえて相手をののしり合うようなセクトの争論はプリーシ
まなこ
ヴィンの心に疑問を生じさせる。﹁長い緑の瞳をもった明るい眼﹂にも似たスヴェトロヤール湖は彼に深い感銘を与
えずにはおかなかったが、そこでいがみ合う巡礼たちを見ると、今や﹁アヴァクームの精神はカを失い、地上の人間
たちの心を結ぴつける代わりに、ばらばらに分裂させているのではないか﹂と考えこんでしまうのである。求道者プ
リーシヴィンは、正教徒がもはや失ってしまった救済への情熱を旧教徒やさまざまなセクトの中に見出しながらも,
彼らの情熱のあり方には異和感をおぽえざるを得ない。
267
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
巡礼者たち⑭
︵−︶
一九一七年の革命当時、旧教徒の数は二千万から二千五百万であったという。彼らは・シア帝国領の各地におおむ
ね集落をなして暮らしていたばかりでなく、その居住地は国外にまでひろがっていた。当時のロシア人の人口は九千
万程度だったので、二割以上が旧教徒だったことになる。
首都でプ・レタリアートが蜂起しツァーリズムが打倒されはしたものの、新しい体制が農村にまで浸透するにはか
なり時間がかかった。集団化が開始されるのもようやく一九二九年で、奥ヴォルガにコルホーズ化の波が及ぶのは三
〇年代になってからである。制度としての教会は反宗教の立揚にたつ政治権力との関係の中で、迫害と分裂と内部抗
︵2︶
争の苦難を経験したが、信仰としてのキリスト教は依然としてかなりの民衆の心をつかんでいた。したがって一九三
一年に学術調査と反宗教宣伝を旗印にしてスヴェト・ヤール湖へ調査隊がのりこんだとき、さまざまのセクトの教義
論争が依然として観察されたのも不思議ではなかった。もちろん、正統的な正教会はすでに宣教者を派遣できる状態
ではなかったが、それでも礼拝堂で祈る者、木々に・ウソクをかざってその前で十字を切る者、湖の周囲を四つんば
いになってまわる者、聖水と薬草をもち帰る者がみられた。この調査隊を構成したのは国立芸術学アカデミー、反宗
教中央博物館、ソビエト諸民族研究所、二ージェゴ・ド︵まだゴーリキイと改称されていなかった︶郷土博物館の四
つの機関から派遣された十人の研究者である。例のコマローヴィチと、わが国でもよく知られている日本学者のアレ
︵3︶
クサンドル・ネフスキイも隊員として加わっていた。ネフスキイの書いた短い報告によれば、二ージェゴ・ドから四
十名の反宗教宣伝隊が同行し、ヴォスクレセンスコエ村とセミョーノフ市の二つの地区に新しくできたばかりのコル
ホーズが協力したという。地元のウラジーミルスコェ村のコルホーズの名が見えない理由はわからない。まだ組織さ
268
見えぬ町キーテジの物語
れていなかったのかもしれない。調査の実施は七月中の二十日間だった。革命直後の一九一八年に暦法が改められた
ので、祭日の六月二十三日が七月の上旬にずれこんだためにちがいない。
ネフスキイは、前述のような宗教色がのこってはいるものの、巡礼の数は以前ほど多くはなく、湖畔の丘の上では
巡礼歌の代わりにアコーディオンを伴奏とする陽気な踊り歌のチャストゥーシカのメ・ディーがひびき、祭日が全体
として異教的な夏至まつりという初源的な形態に戻りつつあることを指摘している。
変化が一層歴然としていることが判明したのは、一九五九年の民族学研究所の総合調査のさいである。この調査隊
︵4︶
の一員がすでに何回か言及したバシi・フであり、彼の報告は﹁宗教と無神論の歴史の諸問題﹂第十二号に発表され
た。それによると、まずスヴェト・ヤール湖にやってくる巡礼の数が激減した。バシー・フらが現地に滞在したのは
九月で、この月には二十日から二十一日にかけての聖母降誕祭、二十七日から二十八日にかけての聖架挙栄祭の二度
の祭日があった。いずれも湖畔の丘の地底に隠れたとされる修道院にちなむ祭日である。集まった巡礼の数は前者の
揚合﹁ごくわずか﹂であり、後者の揚合も﹁少数﹂であったという。バシi・フが概数でもいいから、実数を示して
いないのが惜しまれる。またウラジi、、、ルの聖母の日が最も盛大に祝われるのに、調査がその時期をはずしたのも解
せないことである。いずれにしても、千人︵一八四一年︶、あるいは三千人︵一八七六年︶という数とは比べものに
ならないのであろう。
バシーロフらがウラジー、、、ルスコエの本村とスヴェトロヤール部落︵湖畔に新しい部落ができたらしい︶の人たち
から聞き出したところでは、巡礼の出身地にもいちじるしい変化があった。二十世紀初頭までは二ージェゴ・ド県は
むろんのこと、近隣の諸県、すなわちヴャトカ、コストロマー、ヤ・スラーヴリ、ウラジーミル、カザンなどから・
ときにはさらにはなれたペル、、、やウラルからさえおとずれる者がいたが、今では地元であるゴーリキイ州︵かつての
269
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
二ージェゴ・ド県︶内、それもスヴェト・ヤールに隣接した諸村の老婆たちの顔が見られるだけである。
丘の上の礼拝堂は三六年から三七年にかけて取り乙わされてしまった。︵巡礼宿はもっと早くなくなったらしい。︶
祭日のたびに立っていた市が姿を消したのはその数年後というから、第二次大戦中のことになる。やはり住民から聞
いた話では、昔巡礼はどんな遠くからでも歩いてやってきたものだが、今では通りがかりのトラックに便乗してくる
者が多い。スヴェト・ヤール湖に到着すると礼拝堂のあった丘のふもとを起点に、時々祈禧をあげるために立ちどま
りながら湖の周囲をまわることは依然として変わりがないが、這ってまわる者は.ア一く稀になった。
信仰と崇拝の対象は三〇年代まで見えぬ町キーテジそのもの、あるいはキーテジの教会や隠された修道院だったが、
五〇年代の末にはスヴェト・ヤール湖自体、岸辺に立っている一つの根から分かれた三本松、それに﹁聖なる塚﹂が
尊ばれている。鐘の音はもう聞こえないと考える者が多い。湖に願をかけると叶えられる、また湖の水は病気とりわ
け精神病に効き目がある、と信じられている。﹁ある少女が荷車から落ちて怪我をした。父親が、自分か娘のどちら
かがスヴェト・ヤールヘの巡礼を生涯つづけると誓ったら、怪我はなおってしまった﹂とか、﹁めくらの少年の母親
が湖のまわりをまわったら、子供の目が開いた﹂というような話が真面目にささやかれているのである。
かつて礼拝堂のあった丘のふもとと、そこから少しはなれたキベレク川のそばに二つの泉があり、前者の水は﹁愚
きもの落とし﹂に著効がある。後者の水も一般的な薬効をもっているが、泉の水は朝の日の出前、だれとも口をきか
ずに出かけて汲んでこなければならない。全身を水に浸しても、洗ってもよい。瓶に汲んでもち帰る.︼ともできる。﹄
三本松が崇められるようになったのは、五〇年代後半のことである。今では、タタール勢が来襲したとき、キーテ
ジの町の教会の聖器の一つである有枝灯架がここに埋められ、その上に挿した松の苗がこのように成長したと信じら
パニカノラロ
れている。この木の周囲をまわったり、枝に聖像をかけ、・ウソクをともしたりする。ここの根本の土と松の幹の皮
270
見えぬ町キーテジの物語
は歯痛と頭痛に効く、と巡礼たちは考えている。
﹁聖なる塚﹂はスヴェトロヤール湖の近くにあり、一九四〇年に﹁発見﹂されたものである。バツと戦って戦死した
ゲオルギイ・フセーヴォ・ドヴィチ公とその部下たちの墓がどこかにあるはずだと昔から語り継がれていたが、つい
にこの塚がさがし出されたのである。もっとも、これには反対を唱える者もいる。
一九五九年の調査によって明らかになったのは、ほぼ以上のような事実であった。バシー・フらの調査が重要な部
分に関して全面的にスヴェト・ヤール湖周辺の住民からの聞き取りに依存し、ここをおとずれる巡礼を調査の対象に
しなかった欠点はあるが、人ぴとの意識が半世紀のあいだに根本的に変ってしまったことがわかる。とくに聖なる町
の鐘の音に耳をすます者がなくなり、代わりに病気に対して効能があるとして湖や泉の水を求めにくる者がふえたこ
と、新しい聖所が二つも出現し、もっともらしい歴史的説明が付会されていることに注目しなければならない。
﹁文学新聞﹂がスヴェトロヤールヘ調査隊を派遣した。大体ソビエトでは一九二〇年代の後半以降、民俗学やフォー
民族学研究所の調査につづいて、翌六〇年の七月には﹁ソピエト百科辞典﹂出版所が、また一六八年の十一月には
ク・アの専門家がチームを組んで僻地へ調査に出かけることは珍しいことではなかったが、奥ヴォルガのスヴェト・
ヤール湖めざして十年たらずの期間に三つの調査グループが立てつづけに送りこまれたのは、ちょっと異常であった。
第一、計画経済の旗をかかげる国柄にふさわしくないが、この時期にキーテジヘの関心がそれだけ高まりを見せた証
拠というぺきかもしれない。
﹁ソビェト百科辞典﹂の調査隊は自然科学者からなっている点に特徴があり、﹁文学新聞﹂の調査グループは首都の
︵5︶
考古学・歴史・文学・地理・地質水理学などの専門家のほか、現地の郷土史家や潜水クラブのメンバーをも加えた
学際的大編成を誇っていた。ここではとりあえず本章のテーマとの関連で、﹁文学新聞﹂隊に文学関係担当として参
271
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
加したフォーク・ア研究家のサーヴシキナの調査結果を取り上げたい。彼女を中心としモスクワ大学の四人の女性学
者からなるチームの研究報告は、一九六九年のモスクワ大学の紀要と﹁・シア・フォーク・ア﹂第十三号に発表され
た。サーヴシキナのチームは文学部の学生なども動員していわば人海作戦をとったらしく、一九六八年九月十一日か
ら二十五日までの二週間に、スヴェト・ヤール湖周辺の村凌でキーテジ伝説に関する三五〇点にのぼる口頭の伝承を
採録した。その内容は昔話などとちがって、断片的なものが多かった。この資料から判断する限り、キーテジ伝説の
現在最も流布しているタイプは次のようなものである。AlDの各項目ごとに口頭で質問をした結果をまとめたもの
である。
A︵キーテジのかつてのありか︶、かつてキーテジの町はスヴェトロヤール湖の岸にあった。
B︵キーテジヘの脅威︶、バツがゲオルギイ公を追撃してきて、公はキベレクの泉のほとりで討死をとげた。
C︵奇蹟的な救済︶、キーテジは地下と湖底にかくれた。
D︵キーテジの今のありか︶、現在にいたるまでキーテジは湖底と丘の下に存在している。
サーヴシキナの意見によれば、キーテジ伝説が最終的にこのような形をとったのは、﹁キーテジ年代記﹂などの文
献資料の影響が口頭による伝承を圧倒してしまったからである。
スヴェト・ヤール湖周辺の住民の意識ではキーテジ伝説の宗教性はかなり薄れており、代わって歴史的愛国的性格
が顕著になっている。スヴェト・ヤールは今や・シアの歴史上の名所と化した。ゲオルギイ公は、同じ十三世紀にド
イツ騎士団を打ちやぶったアレクサンドル・ネフスキイ公とならぶような国民的英雄とうけとられている。奇蹟を信
ずる者もいないではないが︵﹁見えぬ町をおとずれた人びと﹂で一例を挙げた︶、その数は.こく少ない。湖底の教会の
鐘の音を聞きにここをたずねる巡礼の数は今や限られている。ウラジーミルスコエ村では﹁鐘の音が聞こえると、あ
272
見えぬ町キーテジの物語
とでよくないことが起きる﹂とか﹁鐘を聞いた二人の子供がいたが、両方とも戦争で死んでしまった﹂などと語る者
もいた。
バシーロフの調査のときと同様に、かなり露骨な現世利益を求めてスヴェト・ヤール湖にやってくる者がふえてい
る.︸ともわかった。こんな例があった。ヴャトカ︵キー・フ州︶のさる地区委員会の書記が数年の間隔をおいて三回
も足の麻痺におそわれた。母親がスヴェト・ヤールに願をかけたおかげで麻痺がなおった。それ以来この書記は毎年
かなりの道のりを乗用車でやってきて、湖のまわりを徒歩で三べんずつまわって帰ることにしている。書記の名前は
もちろんわかっていない。この種の願かけをするのは、地元にはなく他所者に多いという。湖の水や近くの泉の水が
薬効をもつと信じられていることはバシー・フも指摘したが、実際に湖の中や湖岸にある種の薬草が生えており・五
月から六月にかけて、とりわけ六月二十三日の祭日の直前にこの薬草を採集にくる者のいることがサーヴシキナの調
査でわかった。奥ヴォルガではクパーロの祭りの前後に採んだある種の草に特別の効き目があると昔から言われてい
た。湖の近くではモユウリの塩漬をするときに湖の水を使うと漬物が永もちをするとか、湖水で鏡を拭うとよいとい
われている。サーヴシキナらに同行した科学班が調べたところ、これにはりっぱな根拠があって、スヴェトロヤール
湖の水には銀分が含まれているためと判明した。スヴェト・ヤール湖の特殊性に関しては、たとえば湖の底が海とつ
ながっていて、海から地底のトンネルを通ってきた怪物がときおり泳いでいる、などと語る老婆がいた。
サーヴシキナらの調査はバシー・フの場合と同じく、スヴェト・ヤール湖の周辺に住む住民を対象としていた。時
期もやはり九月である。したがって最も厳密な意味では、現代の巡礼者がどのような人びとであり、何を考えている
かという点については間接的にしか答えていないといえる。とはいえ、天国への道を求めて集まった十九世紀の旧教
徒にくらぺて、また泥淳に顔を押しあててキーテジの鐘の音を聞きとろうとしたプリーシヴィンの農婦にくらべて、
273
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現代の巡礼がはるかに﹁現実的﹂になっている事実だけは疑う余地がなさそうである。
沈んだ町々の伝説
・シアの古いフォーク・アは、自国の西で境を接する異民族をリトワ、東の国境の外に住む民族をタタールと呼ん
だ。・シア人はほとんどあらゆる時代を通じて周囲の異民族に攻撃を加えたり逆に異民族の侵入を蒙ったりしたので、
伝説もリトワやタタールの名と結びついたものが少なくない。そのさい、力トリック教徒たるリトワ、イスラム教徒
たるタタールは、ともに国家の敵であるとともに、・シア人の信仰する正教の敵でもあったことは注意しておかなけ
ればならない。
キーテジの伝説が十三世紀のモンゴル族︵・シア人のいわゆるタタール︶のロシア征服という歴史上の事実と結び
つけられていることはすでに何回も述べたとおりである。モンゴル軍の総司令官バツはチンギスカンの孫であった。
このバツにまつわる伝説は数が多いが、キーテジの伝説のように町が湖に沈むというモチーフは、実は例外的な位置
を占めているのである。大多数のバツ伝説では、彼が襲ってきたとき、神が霧を送って村と教会を敵の軍勢の目から
隠してくれたとか、どこそこの修道院に接近した敵の軍兵が急にめしいになり、あるときは互いに斬り合いをはじめ、
あるときは聖像に礼拝してやっと視力を回復する、ということになっている。珍しいものでは、バツとタタール勢が
︵1︶
村や町を手当り次第に焼き払いながら進軍したため、その火が空に映って天の川になったというのもあった。
キーテジはなぜ沈んだのであろうか。
バシー・フによれば、キーテジが湖に沈むというモチーフは十九世紀の中頃になってこの伝説にもちこまれたので
あるという。たしかに、メレジンの報告では﹁神はバツが町を占領することを許さず、町は土でおおわれた﹂とあり、
︵2︶ ︵3︶
274
見えぬ町キーテジの物語
︵4︶
メーリニコフの﹃森の中で﹄の記述にも単に﹁この町は神の命令によって不思議にも見えなくなった﹂とあるにすぎ
ない。一方、現在ではバツ来襲にさいしてキーテジが﹁地下と湖底﹂にかくれたと信じられていることは前章で書い
たとおりである。バシー・フの指摘が正しいとするならば、町が水没するタイプより土におおわれたり単に消え失せ
︵5︶
るタイプの方が、伝承としては古型を保つことになる。ただしバシーロフ説を否定するような口承もないわけではな
く、その上たとえバシー・フにしたがったとしても、十九世紀の半ばの時点でなぜ水没のモチーフがつけ加わったか
という疑問がのこるのである。
いったい、スヴェト・ヤールとはどんな湖であろうか。今のところ外国人がこの湖を目にする可能性はほとんど皆
無といっていいほどなので、われわれはソビエト側の情報にたよる以外にみちはない。一九六〇年代に科学的調査を
目的として二つの尊門家グループが派遣されたことは前章の終りでふれた。ただアカデミックな調査といっても、そ
の結果はかえってあらたな疑問を生じさせるような点もないではなかった。たとえば一九六〇年の百科辞典隊の調べ
では、スヴェト・ヤールは南北に長い楕円形をなした湖で、南北の長軸は二一〇メートル、東西の短軸は一七〇メー
トル、最大の水深は二八メートルであった。ところが八年後の文学新聞隊の計測によれば、長軸が四五〇メートル、
短軸が三五〇メートル、深さは二九・七メートルと発表されている。前者は七月、後者は九月の調査なので、いずれ
も・シア特有の春の出水とは関係がない。それにもかかわらず、湖水の表面積は一対四以上の食いちがいがあるので
ある。また湖水の澄明度も、一九六〇年にはプランクトンのため水中の視界が一・五ないしニメートルにすぎなかっ
たが、一九六八年には﹁澄んでいた﹂という。ちなみに、二十世紀の初頭にこの湖を見たコ・レンコは﹁水晶のよう
に透 き と お っ て い る ﹂ と 書 い た 。
文学新聞隊が伝説成立の前提としてスヴェト・ヤール湖の景観に注目したのは、われわれにとって幸せだった。奥
275
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
ヴォルガ地方でもゲルジェネツとヴェトルーガの二つの川にはさまれた地域は泥炭や粘泥におおわれた沼沢地帯であ
るのに、スヴェト・ヤールを中心とする二平方キ・ばかりが湿度の低いカレリアやバルト沿岸を思わせるような特異
な光景を呈している、と報告は述ぺている。このため古くからこの湖があたり一帯の住民から神聖視され、異教の礼
拝所になったのではないか、という見解が導き出された。ここでスヴェト・ヤール崇拝と異教の夏至祭りの断絶を主
張するバシー・フの説が否定され、メーリニコフ師コマ・ーヴィチの異教起源説が復活するのである。
文学新聞の調査に加わった地質学者は、スヴェト・ヤールが二つの深い断層の結び目にあり、数千年ないしは数百
年以前にここで陥没が起こった可能性もあると推定している。もう一つの百科辞典チームの見解によると、奥ヴォル
ガのこの地域では最初氷河の運動で湖沼が形成され、のち石灰岩の層があらわれて第二の陥没が生じたのではないか
とヤう
ロ
スヴェト・ヤールが小さいながらもロート状をしたかなり深い湖であり、岸から四〇メートルほどはいった水底に
木々の幹が存在する、という点では両隊の調査が一致した。ただし百科辞典隊はそれを倒木とし、文学新聞隊のアク
アラング班は柵のように突き立っていると報告した。この幹に人が手を加えた跡があるかないかは重大な問題である
が、 科 学 的 調 査 の 結 果 は こ こ で も 食 い ち が っ た 。
ヤ ヤ ヤ
湖の水底に昔の住居跡らしきものが全くみとめられないことは百科辞典隊が断定し、湖岸の丘については文学新聞
隊の考古学者が徹底的な発掘を行なった末、この下にかつて集落が存在したことはあり得ないという結論を出した。
最近の学術調査で判明したことは大体右のとおりであったが、地質学的にみてスヴェトロヤール湖が歴史時代にな
ってから形成された可能性が否定されていない点に留意しておきたい。まず陥没の事実があって、その記憶がキーテ
ジ伝説の核の役割を果たしたかもしれないのである。
276
見えぬ町キーテジの物語
スヴェト・ヤールに隣り合った奥ヴォルガのヴォスクレセンスコエ地区には大小二十あまりの湖があり、村や町や
教会がそれらの湖に沈んだとする口碑が知られていることも無視できない。そのうちのいくつかはサーヴシキナによ
って採録されたが、十九世紀から比較的よく知られていたのはネスチァールの湖に関する伝説である。それはメーリ
︵6︶
ニコフの小説の中で次のように語られている。
破戒僧グリーシカが・シアに攻め入ったころ︹十七世紀初頭に偽ツァーリ・ドミートリイが侵入した動乱時代︺、モル
ドワ、チェレミス、タタール人たちも・シア人に戦いをしかけた。やがて彼らはヴォルガ河畔のワシリスルスク
︹現在のゴーリキイ州ヴォ・ティンスキイ地区︺に攻め寄せた。ここは・シア側の守備隊が手薄だったので、住民はヴ
ォルガを渡って森の中へ逃げた。のこった兵士たちは決死の覚悟で打って出た。これを見て敵の大軍は逃げ出し
た。そのわけは、恐ろしげな形相をした一人の僧兵が・シア軍の先頭に立ち槍をふるって奮戦したためと捕虜の
口から知れた。その僧兵とは、ワルラーム・フトゥンスキイが聖像からぬけ出したのだった。これを聞いてワシ
リスルスクの市民は神に感謝をささげた。だがまもなく、市民の大半は信仰がゆらぎ、信心ぶかい者は四十人ほ
どに減ってしまった。復活祭後第四週目の水曜日のこと、その四十人が教会へやってきた。他の者たちは罪深い
遊びにふけっていた。勤行が終ると信仰厚い人びとはヴォルガヘ水清めに出かけた。その行列の先頭にはワルラ
ームの聖像が、だれの手に捧持されるでもないのに進んでいった。岸に着くとヴォルガの水が門のように開いた。
そしてヴォルガ河はその胸に聖なる行列と、そのあとから進む教会を受け入れた。彼らは河を渡り終えてからさ
らに先へ進み、ついに到着したのは森の中のネスチアール湖であった。こうして今日にいたるまで、目に見えぬ
人びとが目に見えぬ教会で生活している。
︵7︶
メーリニコフは他の論文で、このネスチアール湖からも教会の鐘の音が聞こえるという噂があると書いている。
277
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
ネスチァールの伝説で注目されるのは、押し寄せた敵が諸民族の混成軍だったこと、その時期が十七世紀までくだ
っていることである。モルドワもフィン系の部族、ワルラーム・フトゥンスキイはノヴゴロドの同名の修道院の開祖
として名高い十二世紀の・シアの聖者である。しかし不可解なのは、ワシリスルスクの敬慶な住民がなぜ湖の中に沈
まなければならなかったか、その理由づけがなされていないことである。この伝説にもかかわらず、ネスチアール湖
がスヴェト・ヤールのように巡礼をひきつけた記録がないのは、おそらくこの弱点に原因があったのであろう。
︵8︶
やはり奥ヴォルガのクラースヌイ︵赤い︶・ヤール湖に関する伝説は次のようなものである。
ガブリーラという大工がタタールのイリンジク汗のもとから女の捕虜たちを救い出した。夜になって敵の追跡
の手をのがれながら、ガブリーラは大地に﹁母なる大地よ、助けてくれ﹂と叫んだ。その瞬間、大地が割れてタ
タール勢は穴に落ち込み、火のように赤い大軍が土の中に姿を消して、その上に水が張った。こうしてできたの
がクラースヌイ・ ヤ ー ル で あ る 。
この伝説にはキリスト教のモチーフがなく・しかも水に沈むのがタタール勢であってロシア人ではない。
東からばかりではなく西方からも侵入する敵があり、・シア人の集落や教会が救われる奇跡がおこったことは言う
までもない。この揚合も敵が一時的に視力を失うことによってその攻撃から免れるという筋立てが多いが、水没のモ
チーフがからむこともあった。かつてペテルブルグと呼ばれたレニングラードのロディノエ・ポーレ地区にメグラと
いう村があり、そこにはパンスコエと呼ばれる湖がある。昔リトワの騎士︵・シア人は彼らをパンと呼んだ︶が千人
あまり村をおそってきた。メグラの百姓たちは財宝のありかを知っているといつわって、通り抜けできない森の中へ
敵を連れこむ。このとき奇蹟が起こり、森の中に湖ができ、百姓たちは救われ、招かれざる客たちは湖に沈んだ。湖
はパンをのみこんだのでパンスコエと呼ばれるようになった。この話にはもう一つのヴァリアントがある。それによ
278
見えぬ町キーテジの物語
るとポーランド軍が攻めこんだとき、湖はすでに存在していた。メグラの百姓たちは敵軍を湖岸に連れていき、自分
たちの財宝がその真中あたりにあると指さした。どっとそこへ押し寄せた騎士たちは、あらかじめ割られていた氷の
︵9︶
中へ落ちこんでしまう、というのである。
このように湖が突如として生ずることによって外敵の襲撃から救われるというモチーフはさまざまな揚所と結びつ
いた伝説に含まれている。このさい、水がこの世とあの世を画然と区別する働きをしているのである。キーテジ伝説
における水没の意味も、一つにはそのようなものとして理解できるのではあるまいか。
次に異民族との抗争に限定することなく、伝説における水没のモチーフを眺めてみよう。
この種の伝説に・シア人としてはじめて注目したのはナ・ードニキの理論家として知られるピョートル・ラヴ・フ
であった。一八七〇年の二月に流刑先のヴォログダから脱走してパリに着いたラヴ・フは、早速第一インターナショ
ナルに加入してパリ・コミューンの活動にも積極的に参加した。彼がパリ人類学協会にいつ入会したかは明らかでな
いが、コミューン崩壊の翌年つまり一八七二年の五月十六日に同協会の例会で﹁湖と流水の崇拝について、また沈ん
︵皿︶
だ町 の 伝 説 に つ い て ﹂ と 題 す る 報 告 を 行 な っ た 。
ラヴ・フはまず人類のあらゆる宗教をフェティシズムの段階にとどまる低次のものと、洗練された観念体系をもつ
高次なものに分ける。後者は文明社会の.こく少数の特権的な人ぴとに信奉されているにすぎず、世界中のほとんどあ
らゆる地域にわたって今なおアニミズム的信仰がみられるとして、ラヴ・フは北米、アフリカ、西ヨーロッパの例を
引き、あわせて比較的詳しく・シアの伝説も紹介した。それはトゥーラ、スーズダリ、コ・ムナの伝説で、いずれも
神に対する不敬な行為の報いとして教会あるいは修道院が水底に沈められ、祭日になると鐘の音が聞こえるという話
である。このうちスーズダリの湖だけがポガーノエ︵異教︶湖と名前を挙げられている。キーテジの町の伝説が含ま
279
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
粍ていないところを見ると、ラヴ・フはまだそれを知らなかったらしい。メーリニコフの﹃森の中で﹄が雑誌に連載
されはじめるのは、彼が・シアを去った翌年である。
・シアのインテリゲンツィヤがキーテジに注目するきっかけをつくったのはたしかにメーリニコフの小説だったが、
その背後にはナ・ードニキ運動の進展という大きな時代の流れがあったことを忘れてはならない。この伝説に対して、
知識人は二とおりの対応を示した。第一は、前に述ぺたごとく、自ら巡礼のようにスヴェト・ヤールにおもむいて民
衆の生まの姿に接し、彼らの考え方を知ろうという動きである。そしてもう一つは、類似の伝説をなるぺく多く集め
た上でキーテジ伝説の意味をさぐろうとする方向だった。
︵U︶
後者の方向での代表的な成果としては、スムツォフがあらわした﹃消えた町々の物語﹄︵一八九六︶を挙げることが
できよう。著者はウクライナ生まれの民族学者で、ソピエト初期の科学アカデミーの会員に選ばれた人物である。ス
ムツォフによると、ウクライナのヴォルイニ地方にポチャーエフという湖がある。以前この地の森の中に同じ名前の
村があって、あるとき地中に陥没したのだという。復活祭前夜にはこの湖から鐘の音が聞こえてくる。またハリコフ
のドネーツク地区にウードイという川があって、この川を小舟で渡ると、舟底に教会の十字架がひっかかることがあ
る。昔ここに町があり、水の中に沈んだからである。スムツォフはそれにつづいて、リトワ、ブルガリア、チェコな
どヨーロッパの諸国、さらにはアフリカ、アジアにわたって類似の伝説を示している。彼の結論を要約すれば、陥没
などの自然現象の結果としてどこかに湖があらわれると、固有名詞が消滅したり変えられたり一般化されたりして、
事実謹が伝説のように広まる。そのさい、かつては物語を伝播する役を受けもったのは僧侶であったので、必然的に
伝説が宗教的教訓的な色彩を帯びることになった。スムツォフはキーテジ伝説の根底にもある種の古い事実の支え、
たとえば杭の上に家を建てて住むという風習がこの地方にあったのではないかという説を引いた上で、﹁歴史的な二
280
ユアンスをまじえて心理的・文学的に説明すればもっと容易に解明されよう﹂といささか軽く片づけている。その上
言葉を添えている。肝心の﹁心理的・文学的説明﹂の具体的な含意は明らかでないが、キーテジ伝説を特殊的なもの
とみることにスムツォフが反対だったことは確かである。
︵珍︶
二十世紀にはいってまもなく、文芸学者のぺーレツがスムツォフの説を部分的に補強する論文を書いた。彼は沈ん
だ町の伝説を広めたのは僧職者に限らなかったとして、ロシア年代記にアトランティスの伝説が記録されている例を
引用したのである。それは世俗的なギリシャ語文献の翻訳であり、格別な宗教的意味合いをもたなかった。ただぺー
レツの揚合も、一般に沈んだ町の伝説がある種の自然現象に関する情報が歪められた結果として発生すると考える点
では、スムツォフの見解と変っていない。それは神秘的、超自然的な伝説の成立を﹁科学的﹂ないし唯物論的に解明
しようとする立揚であった。
伝説の起源とか成立に焦点をしぼる限り、右のような立揚も容易に理解される。しかしいったん成立した伝説が同
時代の人びとの心にいかなる作用を及ぼしたかとなると、話はまた別である。この揚合には、ふたたび伝説の内容に
ついて検討が必要となる。その見地に立つと、ラヴ・フ以来多くの・シア・ソビエトの民俗学者が挙げている類話群
の中でも、キーテジ伝説はかなり特殊な性格をもつと断定できるのではあるまいか。大キーテジの町が湖に沈んだに
せよあるいは土におおわれたにせよ、それは住民の犯した罪に対する報いではなかった。キーテジは神の恩寵によっ
て敵の襲撃から守られたと人々は信じたのである。そのゆえにこそ、スヴェト・ヤールの湖とその岸辺は見えぬキー
テジの町のありかとして、旧教徒や正教徒や一部のインテリゲンツィヤの巡礼の聖地と化した。キーテジはそれほど
多くの・シア人の心をとらえたのだった。今のところ、伝説の成立に関する単なるタイポ・ジカルな研究はまだこの
281
彼は、この種の揚所なら白ロシアだけで十個所以上も知っているという民俗学者兼作家のセルゲイ.マクシーモフの
見えぬ町キーテジの物語
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
点を説明していないといっても過言ではない。
ユートピアとしてのキUテジ
伝説が力をもつことがある。それが人をして行動に駆りたてるときである。だがそのとき、伝説は単なる伝説“昔
あった事実の伝承と考えられるわけではない。過去に根をもち、同時に今にかかわる関心事として強く意識されなけ
れば な ら な い 。
見えぬ町キーテジの教会の鐘の音を聞くために人々がスヴェト・ヤールの湖畔に集まるようになったのは、一八○
八年以後のことであった。どのような人たちが最初の巡礼であったかを知る確実な記録がのこっているわけではない
が、当時のロシアの農民たちの考え方や行動を知る手だてはいくらかのこされている。
︵1︶
一八O八年のこと、ノヴゴ・ド県の農奴二十九人が地主のもとを逃れて森の中に隠れるという事件があった。まも
なく彼らは見つかって逮捕された。一味の首謀者はヤーコフ・ヤーコヴレフという者で、実は無僧派旧教徒逃亡派の
創始者エフィー、・・イの伴侶であったイリーナの弟子の一人であった。裁判記録では、二十九人のうち六人が﹁改俊﹂
した。国教会の正教徒に転向したのである。のこる二十三人の中で十人が鞭で打たれた上、中国との国境に近いネル
チンスクヘ流刑になった。この逃亡に加わった者は三十五歳から四+五歳までの壮年が最も多かったが、最年少は九
歳、最年長は九十五歳だった。女も十二人含まれていた。裁判所に引き立てられても、年齢や出身地や両親の名を明
かさず黙秘した者もいたが、地主はもとより皇帝の権威さえみとめず、地上の何ぴとにも服従しないと申し立てる点
では、子供も含めて全員が一致していた。彼らが森の中に身をひそめているあいだ中、近くの村の百姓たちが食物を
運んでいたことも裁判の過程で判明した。
282
見えぬ町キーテジの物語
この事件から四年後、ナポレオン軍侵入の直前のスモレンスク県のある農村の気分がトルストイの﹃戦争と平和﹄
の中で次のように描き出されている。これは・シアの中で例外的な現象ではなかった。
︵2︶
彼ら︹ポグチャ・ヴォ村の農民たち︺のあいだにはいつも何かあいまいな噂が流れていた。百姓たちが全員コサッ
クに編入されるとか、新しい宗教に入れられるとか、何か勅語が出るとか、一七九七年のパーヴェル・ペトロー
ヴィチ帝への宣誓とか︵これについては、あのときすでに農奴解放令が出されたのに地主たちが取り消してしま
ったのだと話していた︶、七年後にはピョートル・フヨードロヴィチ︹パーヴェル帝の父親。実際にはもう亡くなって
いた︺が即位するはずで、その治世下なら何もかも自由で簡明になって、何事も起きなくなるだろうとかいう噂
だった。戦争や、ナポレオン、その襲来などの噂は、彼らにとってアンチキリストとか、この世の終りとか、自
由勝手とかについての漠然とした概念と一つに結びつくものだった。
ボグチャロヴォの周辺は、官有地でも地主の小作村でも、大きな村ばかりだった。この地方に住む地主はごく
わずかだった。地主屋敷に仕える召使や、読み書きのできる人間もやはり非常に少なかった。そしてこの地方の
農民の生活には、現代人にとってその原因も意味も往々にして説明しがたいような、・シアの民衆の生活のあの
神秘的な流れが、他の地方よりもずっと強く、顕著にあらわれていた。そうした現象の一つは、二十年ほど前に
この地方の農民たちのあいだに生じた、どこか暖かな川のほとりへの移住の動きだった。ボグチャロヴォの村民
も含めて数百人の農民たちが、突然、自分たちの家畜を売りはらい、家族ともどもどこか東南を目ざして旅立ち
はじめたのである。鳥がどこか海のかなたをさして渡るように、それらの人ぴとは妻子を引き連れて、自分たち
のうちのだれ一人行ったこともない東南の方角をさして、まっしぐらに進みつづけた。旅仲間を組んで立ちあが
った者もあれば、一人ずつ身代金を支払って自由を買戻した者もあり、脱走した者もありで、馬車で行く者も、
283
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
歩いて行く者も、みな暖かな川の岸をめざして進んだ。多くの者が処罰されてシベリア送りになり、多くの者が
途中で寒さと飢えに倒れ、多くの者が自発的に戻ってきて、これといった明らかな理由なしにはじまったこの運
動は、やはりひとりでに静まってしまった。だが底流は依然としてこの民衆のなかに流れつづけており、同じよ
うに思いがけなく、奇妙な形で、同時にしごく簡単に、自然に、力づよく発揮されるはずの何か新しいカのため
に結集しつつあった。今、一八一二年に、この民衆と身近かに暮らしていた人間の目には、この水面下の流れが
勢いよく動いていて、突発寸前になっていることが明瞭に見てとれたのだった。
ボクチャ・ヴォ村の農民たちがどのような宗派に属していたかは述べられていないが、﹁東南の方角﹂の﹁どこか
暖かい川のほとり﹂への移動は、逃亡派のアストラハンヘの大量移住を想起させる︵﹁逃亡派の夢﹂参照︶。トルストイ
は彼らの動揺を﹁・シアの民衆の生活のあの神秘的な流れ﹂のあらわれと呼んでいるが、この﹁神秘的な流れ﹂こそ
見えぬ町キーテジの伝説を育てた土壌であった。繰り返して言えば、スヴェト・ヤールをおとずれる巡礼たちはキー
テジの町の伝承を﹁伝説﹂とは考えなかった。見えぬ町は彼らの心の中で、確固として実在したのである。それは彼
らの理想郷であった。
・シアの農民のユートピアを大別して三つのタイプがあることを示したのは現代ソピエトの民俗学者のチストフで
ある。彼は一九六七年に刊行された﹃・シア民衆のユートピア社会伝説︵十七−十九世紀︶﹄の中でそのうちの二つ
のタイフを重点的に取り上げ、一つを﹁帰って来た解放者﹂の伝説と呼び、もう一つを﹁遠い国﹂の伝説と名づける。
。 ︵3︶
前者の﹁解放者﹂伝説は・シア農民のあいだに根づよく存在したツァーリ信仰にもとづいている。民衆に対する圧制
はツァーリを取巻く貴族たちによるもので、犯すぺからざる神聖さをそなえたツァーリ自身はつねに善良である、と
民衆は考えていた。十七世紀の最大の農民暴動であるステンカ・ラージンの反乱︵︸六六九−七一︶では、ラージン側
284
見えぬ町キーテジの物語
は味方の陣営に皇太子アレクセイが加わっているという噂を広めた。時のツァーリのアレクセイの同名の長子アレク
セイはすでに天折していたが、ラージンを支持した農民たちはこの噂を信じて疑わなかったという。
それから百年後の大蜂起︵一七七三ー七五︶の指導者エメリアン・プガチョフが自らピョートル三世と名のったこと
もよく知られている。当時の女帝エカテリーナニ世の夫であったピョートルは十年も前に妻の情夫らの手によって殺
されていたが、民衆のあいだには彼がまだ生きているという風聞が絶えなかった。トルストイも書いているように、
プガチョフが処刑されてからも、いつかピョートルがあらわれて農奴を解放してくれるのではないかという期待が消
えなかったのである。
﹁遠い国﹂伝説の代表的なものが、すでにふれたべ・ヴォージエの伝説である。中国よりもっと東の海の中にべ・ヴ
ォージエと呼ばれる島々があり、そこには古い純粋な信仰を守る教会がある。この国では不法や抑圧はなく、戦争も
行なわないので兵隊に取られることもない、という噂が十九世紀の初め.ころから・シア中にひろまっていた。べ・ヴ
ォージエのほかにも、ヨー・ッパ・・シアの東の辺境やシベリア、あるいは・シアの国境を越えたどこか︵たとえば
エジプトの南、メソポタ、・・ア、トルコ、チベット等々︶に、宗教上の迫害のない豊かな土地があると考えられていた
のである。
チストフが考えたユートピア伝説のもう一つのタイプは﹁黄金時代﹂伝説である。これはすでに実現した理想郷を
歴史的過去に求めるものであるが、チストフはなぜかこのタイプに重きをおかず、例も示していない。
ドヴィチがバツと戦って戦死するというモチーフが伝説の一つの構成要素になっているからである。彼は・シアの多
キーテジ伝説が﹁解放者﹂を期待するものでないことは明らかである。この町の支配者ゲオルギイ・フセーヴォロ
くの公がそうであったように、聖者の列に加えられていた。キーテジはまた﹁遠い国﹂でもない。奥ヴォルガのスヴ
285
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
エトロヤールまで、二ージニイ・ノヴゴロドからだと一〇〇キロ、モスクワからでも六〇〇キロである。ペル、・・やウ
ラルからさえ千キ・の距離である。・シア人はしばしばウクライナのキーエフの洞窟修道院、場合によってはギリシ
ャのアトスやパレスチナの聖地まで巡礼の足をのばしていたことを考えるならば、この程度の距離は格別驚くにもあ
たらない。もっと重要なことは、それが・シアの中にたしかに存在する揚所だったことである。ぺ・ヴォージエとち
がって、あやしげな﹁旅案内﹂なしでも行き着くことができた。
︵4︶
作家のコ・レンコの筆を借りれば、キーテジをおとずれる巡礼の心理は次のように表現できるであろう。
まこと
スヴェトロヤール湖のほとりに、二つの世界が存在する。一つは真の世界であるが、目には見えない。もう一
つは目には見えるが、仮りの世界である。二つの世界はたがいに交錯し、重なり合い、浸透し合っている。はか
ない仮りの世界は真の世界より堅牢である。真の世界は水のヴェールをすかして、信仰の厚い人の目にときどき
ちらっと映るだけで消えてしまう⋮⋮
しいて言えば、キーテジ伝説は﹁黄金時代﹂伝説のタイプに属すると考えることができよう。この町には二ーコン
の改革によってけがされる以前の・シア正教、いや二ーコンよりさらに四世紀もさかのぼるバツ侵入以前の信仰の姿
がそのまま保存されている、と信じられたのだった。それはかつてあった町であるとともに、今もありつづける町だ
った。
しかしチストフの三つのタイプにこだわらないとすれば、キーテジ伝説を義人信仰伝説と定義することもできるで
あろう。義人とは、正しい信仰に生きる人である。教会が聖者とみとめた人びとがこの範晦に属することは当然でめ
るが、・シア人の考えでは、教会による公認に関係なく、またその身分や地位や業績にかかわりなく、正しい信仰.
信念にもとづく生活を送るのが義人とされる。地底の修道院からの﹁手紙﹂が示しているように、十九世紀の巡礼の
286
見えぬ町キーテジの物語
心をとらえたのは、キーテジの町の建設者ゲオルギイ公ではなく、沈んだ修道院にのこって日夜神に祈りをささげ
﹁善行をつんで﹂いる聖僧たちであった。ロシアの伝説の中では﹁ムー・ムのピョートルとフェヴ・ーニアの物語﹂
を義人信仰の典型的なものとして挙げることができるし、十九世紀以後の文学の中ではドストエフスキイ、トルスト
イ、レスコフにはじまって現代のソルジェニーツィンにいたるまで、義人を描く伝統がつづいているのである。
十九世紀の・シアの民衆にとって、キーテジの町は太古の純粋な信仰を守る義人の住む理想郷であった。﹁真の世
界﹂にあこがれてスヴェト・ヤールをおとずれる巡礼は、キーテジの鐘の音を聞いた者も聞きもらした者も、新しい
勇気と活力にみたされて、﹁仮りの世界﹂へと戻ったのである。
奥ヴォルガの森の中で
︵−︶ 目写三雪臣莫8︵>●コ280ズ苺y山ミミき3し3い釜甲ど3マ穽 ここで﹁太古以来﹂というのは文学的誇張
民としてこの地方に住んでいたことは・シア最古の﹁原初年代記﹂からも明らかである。
の気味があって、スラヴ系諸種族が進出する十一世紀以前から、フィン系のチュージ、ムー・マ、モルドワなどの諸族が先住
︵2︶三。﹄①h⋮響野↓巽=。。9Φ昌。も睾。器℃ρミ。ミ睾ミ軸蓑き一。。参2ρ長3やu。よ一一、
︵3︶⇒丼三窪臣美8蔓蓉騨8fnづ一ω−罫
287
注
一橋大学研究年報 人文科学研究 21
見えぬ町をおとずれた人びと
︵2︶○=︾民ρ98葦=。=。窪嗣一量き嚢亀息ミ§・§§免寒や2α・し8p↓・四。↓やNひ−NN
︵1︶ =。;三雪臣=スOP恥﹄象貸≧三;ら器︶訳FρO↓PboO望卜08
︵3︶甲﹁■ス。で。曇一β切ξ。場び⋮壺7§曼︵浮・。。ω臭︸;。国。↓蔓﹃雲ス8蓉葺曳yぎ篇§息、塁ミ§§恥蓑や
OコOこ一〇一弁↓’μO↓マN“ooIN轟℃■
︵4︶=﹄■9喫罠塁9・﹄窪甲壼。量需姿器芙3§℃隻==8巽困望。糞曽象糞職冒き§§3一§﹄嵩
O↓PNOー刈恥
﹁いわゆる年代記本﹂の所伝
︵2︶Nミhミ♪自P軌9
︵1︶鐸⇒天o憲ロo窪F、ミミ魁繋ら覗“ぬ﹄器巽魯■O§∼ミ轟ヒ§ミミミミミこミ逸﹄ミ塁勲三、旨‘一〇まり6↓マ耕oo8一蕊・
︵3︶○幕38国℃窪①⋮窪8。8差⋮℃。突⋮目=、三雪臣美婁一。。軌茸■象。ミ§免嵩嚢§守轟垂ミ§ぴささミー
工︸蒙■工O零O℃O算一〇一どO↓℃■這9
︵4︶中村健之介氏の訳による﹃ドストエフスキーの青春﹄︵一九七八年、みすず書房︶が日本では紹介されている。
民謡にうたわれたキーテジ
︵1︶ミきぬミ短、oミ聖.﹁︻o勾o↓o巽。。↓突o↓o炉3讐堅=否竃藷=↓。。℃蚤>・鋒>3巽80鈴3−﹄‘一呂o。・qマ轟一1お・
︵2︶茎﹁。℃畏畏ゆ馨窒×一ミo蕎さ鳴8曾§§8煮塁讐§一↓﹂帥三‘むNNも↓マNNv・
逃亡派の夢
288
見えぬ町キーテジの物語
勾ρOo口鴫げo舘ρ葡ミ鴇誉§b融鴇醤覧ミ勲乞,くこ一〇ひN。
耳写三①き⋮否9コ胃ぴ暴o冨臭gρ菊ミさ偽8曾§§8§よミ騨∩﹁︻♀一8P■9。β繋p
イスウォルスキー︵平塚武訳︶﹃ロシア人とキリスト教﹄、昭和三十九年、一七〇ぺージ。
︵−︶
戸耳9口o蓉︻巽8噛9議08§遷ミミ馬、聴ミoま、“ミミ♪3しo。o一︸口讐き美①==o鈴
︵2︶
︵3︶
メーリニコフの分類の試みについては、右の﹁ラスコール書簡﹂にくわしい︵注のー︶。わが国では安村仁志氏の次の論
︵4︶
︵5︶
文が丹
念
に
こ
の
問
題
を
追
究
し
て
い
る
。
﹁ラスコーリニキの内部分化−一1﹂、﹃中京大学教養論叢﹄、第二十巻二号、一九七九年、
︵6︶ 止りわけ次の二点が逃亡派に言及していて、参考になる。客甲‘膏8P曽らミ禽蓉、&まミ8餐§ミo忌ミミミ免ミ§
五七−八三ページ。
§貼。。偽亀弾h㌶ミ﹄−さ歯墨や斉一8ご︾=鼓着9=。9こ§&養逼8§§寒§﹄ミ§§鴨、8ミ罫ミミ&驚&§R﹄
恥ミ騨﹄≦こ這NN
︵7︶ 界閃・二青↓09短≧禽■8縄●一〇も﹃ω&.
︵9︶罫Eg℃==︵客国o笛豊壽︶﹄。E突。一剛。蚕。善壽讐§ミ§免§§§タ3一。軌一﹄蚕。↓2。一■
︵8︶>・目目普oPω睾曾8=冨。スoき9§よ塁§一〇コqし89ジト8マ密9
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︵13︶ .︸れについてはかつて以下の拙稿で論じたことがある。﹁日本国白水境探求﹂、金子幸彦編﹃・シアの思想と文学﹄、昭和
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五十二年、五〇九−五三七ぺージ。
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一橋大学研究年報 人文科学研究 21
伝説の古層 異教信仰
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巡礼者たちe
二六ぺージ。
これについては次の拙稿でふれたことがある。﹁聖なる・シア以前﹂、﹃一橋論叢﹄第六十一巻二号、 一九六九年、 一一九
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見えぬ町キーテジの物語
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この時期の・シア正教会に関しては次の論文がくわしい。四方陽子﹁ソピエト・・シアにおける正教会改革運動﹂、﹃お茶
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水史 学 ﹄ 第二十三号、昭和五十五年、一−二六ぺージ。
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と改題され た 。
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一橋大学研究年報 人文科学研究 21
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・ア関係の論文のほか、﹁文学新聞﹂の 九山ハ八年十 月
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︵5︶ ﹁文学新聞﹂隊の調査結果は、 前述のサーヴシキナらのフォ
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この報告はのちに ・シア語に訳され、彼の論文集に収められた。﹁︻﹄畠BPO3雪o莞⋮属oω8壁=↓突釜惣ぎ需類
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292
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十七日号に発表された。
沈んだ町々の伝説
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( ( (( 見えぬ町キーテジの物語
ユートピアとしてのキーテジ
︵1︶ この事件をつたえているのは現代ソビエトの民衆思想研究家クリバーノフである。>●罫§a壁oPk蓉勲
“oN“IN“o軌●
︵3︶界切・‘胃弓8︾﹄覗器’8縄.
︵2︶ ﹃戦争と平和﹄第三部二篇九章。 員年↓o蓉8評9曾§§8§凌巽ミ曽3し凛o。︸↓9自や一鋒−二P
︵4︶甲﹁弐。℃。お震。もさ勲§.も↓℃る爵
︵昭和五六年四月一
らO賦こO↓マ
一日受理︶
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