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奄美大島のショチョガマ・平瀬マンカイにおける一考察

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奄美大島のショチョガマ・平瀬マンカイにおける一考察
大学院 GP 南西プログラムフィールドワーク調査レポート
~奄美大島のショチョガマ・平瀬マンカイにおける一考察~
大学院文学研究科史学専攻考古学専修博士前期課程 1 年 木村 翔
奄美本島は九州南方に浮かぶ奄美群島の 1 つで、本州を抜かすと佐渡島に次いで 2 番目の
大きさを誇る総面積 712.39km2 の主要島である。国土の 85%が林野であり、海を四方に据
える当該地は自然を媒体にした信仰が古くから伝えられ、今もなお伝統として根付いている
地域が見受けられる。その中の 1 つに新節時における次年の豊作を願うショチョガマ・平瀬
マンカイという祭祀がある。海・山の双方から稲魂を呼び寄せる自然との共生を図る姿勢が
一祭祀から窺える奄美はしかし、耕地開発、人口の変動、産業の進展などの外的要因により、
大きな転換を幾つも迎え、それに伴い、人によって営まれる習俗、祭祀もまた本来の有様か
ら現代私達が眼にする姿へと徐々に変化、あるいは消失していったと推察される。そこで、
ショチョガマ・平瀬マンカイもまた時代の変動と共に変質していった祭祀の 1 つであるとい
う前提の下、本祭祀の本来の姿、その変容を促した要因や過程について自身の考える見解を
述べようと思う。
そもそもショチョガマ・平瀬マンカイという祭祀はどこから生まれたものなのか。一つは
奄美大島が持っていた農業構造に大きく起因していると考え得る。奄美の伝統的な農業構造
は、本島のような平地を旨とした水田稲作と異なり、粘土質の多い土壌をもち、豊かな水系
に恵まれた亜熱帯のイタジイなどの巨木森林生態系と密接な関係をもつ焼き畑であった。そ
して奄美の水田稲作もまた森林と深く結びついていた。だからこそ奄美の農耕儀礼の行事は
森林と深く関わり、
頭上の山森から神道を通り神が集落に来訪してくる祭りが多い。
そして、
一方で海もまた南島に住む人々にとって欠かせないものである。嵐の日に沖から流れて来る
ものには尋常ならざる力が秘められているとして、集落の守り神として祀り、身元不明の品
が出れば海に還し、新節時にコスガナシと共に、水没者を迎える行為も生活に密接する海に
一つの畏敬の念を抱いているからこそ成り立つものである。
『おもろそうし』に登場する万物
をもたらしてくれるネリヤが海の向こうの世界であるとする考えもまた然りである。
このように奄美には山岳を対象とした信仰と海のそれが共生している。一例として小野重郎
氏のシヌグ・ウンジャミ論が挙げられる。氏は沖縄北部と奄美における夏祭りと冬祭りの分
析をとおして、照葉樹林山地文化と沖縄中南部の海洋性平地文化との相違をのべている。シ
1
ヌグは奄美諸島、沖縄県国頭郡一帯、中頭郡与勝諸島、島尻伊平屋列島、久高島などに分布
する旧暦 7 月に行われる豊年祭である。行事は集落により複雑に変化しているが、作物の害
虫や害獣を駆除する祓の行事が共通してみられる。シヌグの際に山から降りてくる来訪神は
荒々しい男神であり、この行事は人々を厳しく打ち祓う男子の年齢階梯制としての性格を強
くもっている。海から訪れる海神のウンジャミは女神であるのと対称的である。シヌグの基
盤をなしているのは、山地の生活であり、その母胎となった照葉樹林の山地文化は、九州の
山地文化と直結していく。
ウンジャミ祭祀は海洋性平地文化で海上生活の男たちを支えるオナリ信仰の女性を守護神
とする。それと共にノロを中心とする女神役組織が組み立てられ、海上理想郷のニライカナ
イの思想が生まれた。ノロ組織やウンジャミの祭りが沖縄北部国頭から奄美に普及していく
背景には、琉球王府支配の伸長が考えられる。こうして見ると、奄美の文化は照葉樹林の山
地生活を基盤とする文化と、沖縄の海洋性平地文化の 2 つの性質を織り交ぜて出来上がった
可能性が指摘できる。そう考えるとショチョガマと平瀬マンカイという奄美大島龍郷町秋名
にて行われている海と山の祭祀が統合した行事も、元は別々に行われていたものではないだ
ろうか。ここで図 1 のショチョガマ・平瀬マンカイの各分布図に注目すると、両者の間には
大きな開きが見て取れる。ショチョガマが存在するからといって同じように平瀬マンカイも
行われているという認識は誤りであり、これすなわち元は別の様式であったことを傍証する
のではないか。しかし根源的なものは同じである可能性も添えておく。可能性の一つとして
高橋一郎氏はショチョガマ祭祀もまた女性が背景となるオナリ信仰から生まれたものではな
いかと説く。それは藁葺の片屋根を揺さぶって崩す際に住民の一人が述べた「船を漕ぐよう
に」という表現からも窺える。古来、南島の男は舟で遠出をする際、航海の安全を女性に託
し、
その贈り物を御守りとして肌身につけていたと言われ、
それがオナリ信仰へと繋がった。
稲の収穫に基づく、本来は山の神に祈るショチョガマは男子の年齢階梯制としての性格を保
持するが、それもまた男子を見守る女を背景にした祭祀であったのかもしれない。
さて、このように海と山をテーマにした祭祀は時代の移ろいと共にその質が変化・形骸化
してきている。例を挙げると、ショチョガマは本来は男子だけで執り行われる祭祀であり、
女性はたとえ近づくことさえ適わなかった。しかし近年では屋根に女の子が上っている光景
もちらほら見受けられる。また平瀬マンカイでは生後一年以内の女の子を神岩にのせ健康を
祈願する習わしがあるが、これもまた別の岩にて男の子をのせている光景が散見される。本
来女性と男性で区切られていた祭祀の場で男と女が重複しているのである。特に後者の方は
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例年増加傾向にあるようだ。つまり山と海、女子と男子として区切られていた各々の祭祀の
境界が曖昧になってきているのだ。この祭祀の形骸化ないし変化の要因として私は次の 2 つ
を考える。
1 つは祭祀を行うに足る外的環境の変化及び、人口の減少、それに伴う農業に従事する人
間の意識の低下である。表 1 は各地域における、耕地面積に対する水田率、総人口及び農家
人口の推移を示したものである。まず水田率と図 1 のショチョガマ祭祀が執り行われていた
地域を比較してみると、水田率では竜郷町及び瀬戸内町、特に竜郷町が現在の奄美大島の水
田域を占めていることがわかる。そして記録に残されている中でのショチョガマ祭祀が行わ
れていた集落も竜郷町・瀬戸内町に集中している。ショチョガマは稲魂を呼び次年の豊作を
祈願する祭祀であるが故に、その執行の根源ともなる田袋の存在が不可欠となる。今では祭
祀が形式化している所も多いが、本来は稲魂の招請を目的としたものであることは、逆に言
えば祭祀の目的でもある田袋の減少・消滅が祭祀の取止め・形骸化を促進する一要素となっ
たのではないか。奄美の農業構造は森林と結びついていると上述したが、1920 年以降「近代
化」のなかで、パルプ資本の進出が行われ、イタジイの枕木利用など木材の商品化が活発に
なることによって奄美の原生林の伐採が本格的に行われていった。また、1950、1970 年代
には水田転換政策により減反が行われ水田は畑へと作りかえられていった。奄美群島の各地
域に広範囲にあった水田稲作の崩壊は地域の伝統的な農業構造を大きく変えて結果、山と民
との結びつきをも軽減させるものとなったのだ。
そして人口の減少についての問題もある。奄美群島の人口は 1955 年には 205,363 人を数
えていたが島外への移住が増加した結果、2000 年には 132,315 人と大幅な減少を示し、総
人口からの減少率は 35,6%になった。45 年間に半分以下に人口のなった町村もあり、これ
に比例して農業人口の減少もまた拍車をかけている。農業を営む家の多くは兼業農家として
の体裁を為しており、家族は名瀬市などの市街地へと生活範囲を移していく傾向を示す。結
果、農地には高齢者が高い比率で残る形となり、自給自足で日々の生活が事足りると見てと
るや、農産物を販売して生きていこうとする生産意欲を手放していく有様である。そのよう
な農業に対する意識の低さが、奄美の耕地面積、特に水田率の低下を促進する要因となった
のである。
従って、ショチョガマ本来の目的となる田袋という外的環境の減少、及び祭祀を執り行う
人々、主に次代を担う若者の島外への移住により継承が完全に遂行できない事態、農業に関
わる人々の意識の低下など、祭祀の形骸化を促す問題が見受けられる。
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2 つ目の要因はショチョガマ・平瀬マンカイの両者が持つ祭祀の特質であると考える。シ
ョチガマは、山手の田を見下ろす場所に藁葺きの小屋をつくり、稲魂を呼ぶためその屋根に
登って小屋を揺り動かして倒す行事である。祀りを執り行うのは男の宮司であるが、根本的
に大事なのは宮司ではなくガマであり、つまるところ稲魂を招く藁葺小屋であると言える。
故に場所という聖域が女性達の侵入を拒むのである。一方で平瀬マンカイは、浜の平瀬とい
う岩にノロが登り稲魂を招く女性固有の行事である。
これは平瀬という場所も重要であるが、
なによりノロという存在が一つの聖域と化し人々、この場合は特に男性を近づけさせないの
である。逆にいえば、極論になるが、ノロがいなければその場は聖域として成立しないとい
うことだ。ショチョガマという聖域の場が確定しているものよりも、平瀬マンカイにおける
ノロという人間が聖域になっているものの方が、時間が経過するに従っての聖域の曖昧さが
如実に現れる。上述の例はまさにそこに起因するものであろう。もしくは意図的な働きかけ
もあるかもしれない。近年奄美大島では住民の高齢化と共に、少子化が深刻な問題として浮
上している。そこにはショチョガマ・平瀬マンカイという男の子、女の子それぞれを厳密に
分け祈願を行うことよりも、未来を担う新しい息吹としての子どもという一つの枠組みで祀
りを行う必要性が出てきているのではないだろうか。
ショチョガマ・平瀬マンカイ、その起源、当初込められていた願い、それらを推し量るに
は時間が立ち過ぎたのかもしれないが、だからこそ今私達にできることは、古人達の願いが
込められた祀りを絶やすことなく連綿と後世に伝えていくことではないだろうか。
末筆ではあるが、此度のフィールドワーク調査にて、御指導いただいた永藤靖、生駒永幸、
牧野淳司、沈慶昊、岡本彰子、高橋一郎先生方、先輩方に対して衷心より厚く御礼申し上げ、
締めの言葉とさせていただく。
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第 1 表 奄美大島各市町村の耕地面積・水田率・農業人口の推移(農林水産省 2005 データを基に作成)
宇検村
126
0.0
名瀬市
1350
1.3
竜郷町
249
12.9
大和村
122
1.6
瀬戸内町
338
2.1
5
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