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10 生きる - 中国帰国者支援交流センター

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10 生きる - 中国帰国者支援交流センター
10
生きる
−吉永六枝のライフヒストリー−
聞き書き:資料収集調査員 付 海
六枝の描いた自画像
吉永六枝(よしなが むつえ)の略歴
かみまし き
み ふねまち
大正 12(1923)年9月
熊本県上益城郡御船町生まれ
昭和 18(1943)年1月
熊本県において結婚
同年3月9日
夫が入植[用語集→]していた北安省通北県の東京丸の内開拓団に到着
昭和 20(1945)年 10 月 14 日
ソ連軍の護送で奉天(瀋陽)へ
同年 11 月 16 日
奉天へ到着
同年 12 月2日
前夫凍死
昭和 21(1946)年3月
現在の夫(中国人)と再婚
昭和 32(1957)年
日本の家族に生存の知らせが届く
昭和 47(1972)年
日本との文通及び一時帰国[用語集→]手続き開始
ほくあん
つうほく
まる
ほうてん しんよう
231
うち
昭和 50(1975)年6月
一時帰国(末子と共に8ヶ月滞在)
昭和 56(1981)年9月
永住帰国[用語集→]
昭和 57(1982)年2月
県営銭湯で働く
平成2(1990)年2月
県営銭湯を退職
現在
熊本市在住
はじめに
生まれが悪かったでしょうか、ずっと貧しい生活を送ってきた。今が一番幸せじゃないですか。今
は健康でいることが一番の幸せですね。
波瀾万丈の人生を送ってきましたが、どんなにつらいことがあっても、常に前向きに生きようとし
てきました。
「自分だけではなく、他の人にも分け合う」ということが大事です。
生まれ
私は大正 12(1923)年 9 月 15 日に熊本県上益城郡御船町で生まれました。
母は 9 人の子供を産んで、
生まれてから死んだ子供もいて、私は 6 番目でした。私が 9 歳の時に母は病気で亡くなって、そ
の後父は再婚して、弟と妹たちがまた生まれました。家は貧しくて土地を持てなくて、米の小作を
していました。
一番上の兄は私より 11 歳上で、農村の仕事が嫌いで町での仕事ばっかりしていました。その後、
終戦前にフィリピンに向かう船の中で戦死しましたが、この兄が私の中国行きのきっかけを作っ
てくれました。
神社での仕事
少しでも働いて家計を助けようと思い、小学校 6 年の時から、時々他の家庭の子守をしました。
232
小学校卒業する少し前に、神社で掃除の仕事が見つかりました。
あまてらすおおみかみ
熊本城の下にある、天 照 大 神 を祭る神社でした。当時の神社には毎日のように結婚式があって、
早朝 5 時くらいからその準備にかかります。冬は寒くて、箒や雑巾を1日中使うから、手も荒れ
て凍傷になりかけました。
一番上の兄はそれを見て、お前は早くお嫁に行ったほうがいいよと呟きました。神社で働きだし
て 18 日目に縁談話が来ました。
兄は祭りなどの時に太鼓を叩いてましたので、一緒に練習していた吉永さんという方と知り合い
ました。吉永さんは学校の先生をしていて、次男の嫁を探しているということで、兄と意気投合
して、勝手に私のことを決めてくれました。
義理の父となる吉永さんは神社まで私の様子を見に来たこともありました。満洲の地図も見せて
くれましたが、何にもよく分からないまま3日後に兄から婚約をしたと告げられました。
結婚
最初の夫の吉永は次男で、私より8歳年長でした。東京に住む兄夫婦とうまくやれなくて、中国開
拓団[用語集→満蒙開拓団]に参加したそうです。4 年間満洲へ行って、結婚のために帰国したが、婚約者が病
気だったため、ほかを探すことになって、その時に吉永の父が私の兄と知り合ったわけです。
私は母がいたので、あんまり遠くへは行きたくはなかったです。
「いやいや」と言って、ずっと泣
きましたが、兄は家のことは心配しなくいいから結婚して2人で満洲で幸せに暮らせよ、と説得
してくれました。吉永の父は終戦まで高校の校長先生でして、私の家庭よりは(家柄が)よかっ
たこともあって、
(私の)父は子供が多いから、行ったほうが幸せになるから、と言って喜んでい
ました。
当時は満洲の宣伝がたくさんありまして、みんな満洲に行けば幸せになると信じていました。もち
ろん(私の)父も兄も例外ではありませんでした。満洲に着いて4日目に、もう私が病気になるな
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どとは誰も思わなかったです。
くまもとじょう
満洲に行くことを前提に、昭和 18(1943)年1月 21 日に熊 本 城 のふもとで結婚しました。当時
19 歳でした。それから東京へ行って、夫の兄の家で 11 日間滞在しました。義兄は置き時計を祝い
にくれました。
満洲へ:東京丸の内開拓団
な
ら
お
吉永は東京丸の内開拓団に所属していました。行く前に富士山の見える奈良尾訓練場でいろいろと
訓練を受けて、3 月にいよいよ満洲へ渡りました。
み ふね
も
じ こう
熊本の御船から出発し、門司港まで電車に乗って、そこから船に乗って、朝鮮半島へ渡りました。
船内には畳があって結構な人数が乗れる大きな船でして、乗客は殆ど開拓団関係(者)でした。夜 8
プ サン
時に乗って、翌朝 6 時に釜山に着きました。
船を下りると開拓団招待所があって、そこで1晩くらい休んでから、電車に乗って、満洲へ向か
いました。広い満洲で何日も電車に揺られ、さらにトラックを乗り継いで、3 月 9 日にようやく東
じゅういちどうこう
京丸の内開拓団が駐在する北安省通北県十 一 道溝に着きました。
開拓団での生活
ば せんざん
十一道溝は旧ソ連の山が見えるくらい旧ソ連に近くて、馬占山という有名な山賊がいたところでし
た。丸の内開拓団は少し離れて3つの部落があって、私たちは第2部落でした。駐在地の周りに高
い塀と4つの門があって、銃を持った警備に当たる人がいました。戦況が悪化すると、開拓団の男
も現地徴兵されて、女と年寄りが警備に当たり、銃がなくなったあとでは木の棒を持つこともあり
ました。ネズミが多く、遠くから狼のなき声がいつも聞こえていました。
付近の水は鉄分が多く、何回沸かしても赤かったです。最初はどうしても慣れなくていつも腹を
壊した上、だんだん目が見えなくなりました。その後、薬を飲み始めて、やっとよくなりました。
夫も体が弱く、翌年に十二指腸の病気で入院しました。
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冬は寒くて、宿舎のような施設にオンドルが2つありましたが、1つは使えなくなっていて、野
菜をおいておくと凍るくらいでした。
開拓団では食糧などは配給方式でした。10 人を1組にして、馬1頭、牛1頭で農作業に当たりま
した。畑を作って農業をしていて、昼間は少し暖かくなって氷が解けるけど、夜はまた再び凍りつ
く毎日でした。そんなところで大豆やトウモロコシなどをつくっていました。収穫した穀物は自分
たちの配給分を少し残してから全部国に収めました。現地の中国人とも交流があって、コートと鶏
を交換したこともありました。
その頃、私には子どもがいなくて、他の家の子どもと仲よくしていました。開拓団に先生が居な
くて、学校がなかったので、毎晩子どもたちに物語を話していました。そうすると、私のことを
吉永先生と呼んでくれるようになりました。毎晩のように子どもたちが寄ってきて、話を聞きに
来る子どもは家の掃除も手伝ってくれました。歌や踊りも教えました。赤ちゃんをお風呂に入れ
るのも手伝ったりしました。
十一道溝東京開拓団
この開拓団は、北安省通北県に入植していた開拓団の1つである。これらの開拓団員等のう
ち、昭和 20 年 10 月下旬に長春、奉天方面に南下できたのは、約 1,400 名に過ぎず、残りの約
5,200 名は現地での越冬を余儀なくされた(この開拓団が南下組か越冬組かの明確な記述はな
いが、越冬地が「奉天一部新京(旧「長春」)」とされていることから、南下組と思われる)
。
この開拓団の終戦時の在籍者は、243 名(うち、現地応召者 13 名)で、内訳は、死亡 98 名、
未引揚者 37 名、帰還者 108 名となっている。
(満洲開拓史刊行会編集発行「満洲開拓史」
(昭 41.4.17 発行)より要約)
※「満洲開拓史」には、
「東京丸の内開拓団」に関する記述が見あたらないが、双方の記述内容
を比較検討した結果、
「東京丸の内開拓団」と「十一道溝東京開拓団」とは同一の開拓団である
との判断に至った。
敗戦
敗戦の年、珍しく8月 15 日から雨が1ヶ月続いたため、9月 15 日にやっと敗戦の通知が届きま
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した。どうにもすることが出来なくて、ただ待つだけでした。ソ連軍が来ると言って、最初は、み
んな山に隠れました。
その時、自殺をする人が後を絶たなかったです。特に中国人に悪いことをした人たちが多く、自分
たちの開拓団にもいました。ある家族は 10 人の子供がいて、夫は戦場に行ったままで、母親と子
供たちだけでした。
その母親は、
なんと子供をみんな1人ずつ殺してから、
自分も自殺をしました。
血があっちこっちに飛び散って、とても残酷な場面でした。
私は、みんなを説得しました。
「何で死ななきゃいけないの?私たちは何のために来たの?私たち
は死ぬ必要がなく、
罪もないし、
天皇陛下からも自殺しろという命令はなかったよ」
と言いました。
それを聞いて、みんなは考え直してくれました。
3つの部落で合わせて 200 人くらいで出発しましたが、最終的に奉天(瀋陽)に着いた時は 10 人も
残りませんでした。毎日のように人が死んでいきました。病死、餓死が殆どでした。
ソ連軍に護送されて長春(ちょうしゅん)へ
さらに1ヶ月後の 10 月 14 日、集合して南に向かって出発しました。ソ
連兵の後に続いて、90 里[尺貫法の長さの単位。現在の日本では1里=
約4㎞であるが、中国では、1里=0.5 ㎞]くらい歩いて、それから蓋
(屋根)のない列車に乗せられました。列車はある駅に3日くらい止ま
りました。冷たい雨が降っても蓋がないから、逃げ場がありません。周
シアオ ルィ ベヌ
りから「 小 日本」[用語集→日本鬼子]と言われ、石を投げられました。そして、
中国人の山賊もやってきました。物を取られたりしたので、列車から降
りることも出来なかったです。喉が渇いても、水を運んでくれるのを待
つしかありませんでした。ある時、トイレに列車を降りたら、危うく2
人の男に掴まれそうになりました。
列車は長春に着いて、旧日本人小学校の跡地へ誘導されて、そこで1ヶ
月くらい滞在しました。その周りの中国人は親切でした。ご飯を作って
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くれて、お金がなくても、お米と交換してくれました。
時々、悪いソ連兵が女を襲いにくるので、女はみんな男の着物を着たり、顔にマスクをはめたりし
ました。マスクをはめると伝染病にかかっているかもしれないとソ連兵が思い、近寄らなくなるか
らです。さらに、玄関に板や机を並べましたが、それでも無理やり入って来ようとします。
私が使役という役割をやっていて、みんなのために天ぷらを売っていました。首から天ぷら(の入
れ物?)を下げて、歩き回って、売ったお金でみんなの食費にしていました。その時は本当に食料
ドゥ バ ヌ ジァン
がなくて、ご飯少しとお匙半分くらいの豆板 醤 で何とか口に入れていましたが、そういう生活も
長く続きませんでした。
食料がなくて、ある日、帰りに人の畑をなんとなく歩いていたところで、1個のジャガイモが落ち
ていました。大喜びして、また探してみたらもう1個ありました。2個のジャガイモを持って帰り
ましたら、みんなが「吉永さん、私にも頂戴、私にも頂戴」と寄ってきました。餅を買いたかった
ぶ
げん
時に、
「2分」
[中国貨幣単位、1分=0.01元]も貸してくれなかった人でしたけど、恨まずに分け
てあげました。その後少し食料が来て、何とか生き延びました。私は飯盒を持っていましたが、軍
用ヘルメットを使ってご飯を作る人も多かったです。
奉天(瀋陽)へ
それからまた列車に乗せられて、奉天へ向かいました。奉天で、また日本人小学校だったところへ
泊まりました。当時、悪環境で病気する人が多かったですが、私は割と病気せずに元気でした。
工農合作社の人もいました。その人たちは金目のものは何でも欲しがります。女の子を探しにも
来たりします。ある時また来たので、みんなで一斉に大きな声を出したら、びっくりして慌てて
逃げました。
さとう
開拓団で会計をしていた佐藤さんという女性がいまして、
ソ連の言葉を少し話せるので、
士官に「カ
ピタン(大尉)はいい、兵士は悪い」と立ち向かいました。
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年寄りの中国人が大変だと思って、稲刈りを手伝うこともしました。それを歓迎する中国農家も
いました。中には優しくしてくれた中国人のおばあちゃんもいまして、あれこれと食べ物をこっ
そりくれました。小さい子どもがいて、病気をしていた人もいたから私はそれをみんなに分けま
した。私にあってみんなにないというのが私には出来ませんでした。こういう性格だったからこ
こまで生き延びたかもしれませんね。
昭和 20(1945)年 12 月 2 日、ソ連軍のために働いた夫が凍死したという知らせがありました。一緒
に働いた人が埋葬してくれました。
その後、国民党[用語集→]の軍隊もやってきました。体を売る女性もいました。私も1人だからと誘わ
れましたが、断りました。心にもそんなことはしませんよ。ある時大勢の兵士に遭遇して、子ども
が待っているからと嘘をついて、遠回りをして逃げました。
てっせい
ふううんがい
鉄西[現在の瀋陽市鉄西区]の雲風街にある日本人小学校だった難民(収容)所は大きな部屋にス
トーブは3つしかなくて、寒くて横に(なって)寝ることが出来ません。夜はトイレばっかり行き
ました。毎日のように人が死んでいきました。さっきまで話をしていた人が静かになったなと思っ
たら亡くなっていました。死んだら遺体を溝に投げるだけで何も出来ませんでした。特に出身のい
い人はあんまり動かないから弱いです。私たちはとにかくいろんな方法を考えて、物を売ったり、
人の手伝いをしたりしました。
中国人との再婚
難民(収容)所にいたとき、人力車を引く人が、ある中国人を連れてきました。
「日本人の女の子
だったら、金もかからないし、嫁にもらえよ」と私たちを紹介しました。佐藤さんは気が強い、も
う1人はちょっと年取っているから、ということで、3人の中から私を選びました。
昭和 21(1946)年 3 月 23 日に再婚しました。再婚相手は工場勤めでしたが、仕事がなくなって、ほ
ぎょうざ
かの2人と一緒に食堂をやって、餃子を売っていました。
私は餃子を作れなくて、掃除とか雑用をしました。ある時、またソ連軍が来たから慌てて逃げまし
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たが、茶碗など全部壊されました。
とうほくでん えいいん
それまでは殆ど家事手伝いをしてきましたが、瀋陽の東北電影院(映画館)で少し働いたこともあり
ました。
1956(昭和 31)年5月、その頃には夫の商売は少しずつ大きくなって、百貨店を経営していました
が、政府の政策で、個人の商売は出来なくなり、夫の商売は国と合併する形になりました。大きな
百貨店をほんの少しのお金で政府が買い取って、家族から1人だけを従業員として雇うことになり
ました。私がそこで働くことになりました。
私は、ほかの長所はないけれど、仕事に関しては真面目でした。ごまかしもせずに、年寄りで目が
見えなくても、来るお客さんにはみな平等に接してきました。私をわざわざ指名してくるお客さん
ピ ドゥ
までいました。そういうこともあって、文革[用語集→文化大革命]の時は「批闘」
[中国語で批判闘争のこと]
に当たらなくて、会議に参加するだけでよかったのです。
仕事が忙しくて、家に帰る暇もないくらいになりました。その時、3歳になった 4 番目の子供が
病気で亡くなりました。5日間熱が上がったままで、金がなくて何とか 30 元を借りて病院に行っ
たら、あと1時間早かったら助かったでしょうと言われました。その子が亡くなった夜に、格好の
いい男の子が白い馬に乗って去っていく夢を見ました。
文化大革命前後
ろう どう かい ぞう
1958(昭和 33)年、大躍進[用語集→]の年です。日本人ということで労働改造[軽犯罪で不起訴になっ
た、麻薬中毒者、売春婦、政治犯、宗教家などを労働改造所に収容して強制労働と思想教育を行う
こと]になり、養豚場に半年働くことになりました。
1960(昭和 35)年、食料危機の年で、金があっても食べ物がない年でした。その時、私は日本人と
いうことで逆に優遇されて、普通の中国人が食べられないものを私に政府がくれました。子供が多
いということで、さらに野菜保存庫へ配属され、貴重な白菜の葉っぱを毎日もらって帰ることがで
きました。
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1966(昭和 41)年、文革がいっそう過激になり、毎日会議に参加しないといけませんでした。仕事
は真面目にやっていたので、自分を批判する理由がなかったのがよかったのですが、そのときは
脊髄の骨に損傷があり、座ることすら辛かったのに、朝から深夜まで続く会議は大変でした。
一時帰国までの道程
1957(昭和 32)年、当時はタバコを売っていました。私たちの町に日本からの文化使節団がやって
とうほくりょしゃ
きました。
「東北旅社」というホテルに泊まっていて、団員の中にいた佐賀県から来たある方と話
すことが出来まして、その方に父への手紙を預けました。
後から知りましたが、その方はわざわざ熊本の実家へ来られ、父に手紙を渡てくれました。8年
間も音信不通でしたから、父は大喜びでした。とは言っても、まだ国交がなかったので、返事は
ありませんでした。(19)72(昭和 47)年にやっと弟から手紙が届きました。
たなか
1972(昭和 47)年、日中の国交が回復[用語集→日中国交回復]しました。当時の田中首相にとても感謝していま
す。お金がなかったので、自費では帰れませんでしたが、旅費は国(日本)が負担するということで
した。それならばと一時帰国の手続きを始めました。
父が保証人[用語集→身元保証人]となり、手続きを進めてきましたが、ようやく一時帰国ができたのは、
1975(昭和 50)年6月 2 日のことでした。末子と一緒に帰りました。父はもう亡くなっていました。
中国から帰ってきたこととお金がないことで、やはり冷たい目で見られました。8ヶ月後の
1976(昭和 51)年 2 月 19 日に中国に戻りました。
その時、中国政府はよくしてくれました。一時帰国する前に、私たちに「何も悪いことはしていな
いから、
堂々とした気持ちで日本へ帰ってください」
と勇気付けてくれました。
一時帰国を終えて、
中国に戻ってから半年後に給料も2級上げてくれました。給料水準が一番低かった時期でした。
永住帰国
一時帰国から帰ってきてから、すぐに永住帰国の手続きを始めましたが、父が亡くなったので、他
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に保証人を探さなくてはなりませんでした。しかし悲しいことに、私の兄弟たちは誰も保証人にな
ってくれませんでした。途方にくれていると、当時市役所で勤めていた前夫の義理の兄が快く保証
人を引き受けてくれました。
それで、1981(昭和 56)年 9 月 3 日にようやく帰国が出来ました。夫は日本に一緒に行きたくない
と言うので、次女、四女家族と一緒に(日本に)帰ってきました。
日本での生活
帰国してから半年後、近くの県営公衆浴場に勤め、(19)90(平成 2)年 2 月 28 日に退職しました。少
し安定してから、夫や子供家族も次々と日本へ呼び寄せました。1983(昭和 58)年に、夫と次女家
族が来日し、1986(昭和 61)年、長女家族が来日しました。その5年後、1991(平成 3)年に三男家族
が来日し、その6年後の 1997(平成 9)年に長男の子どもが来日しました。この子は今は大学 2 年生
になりました。
夫は 83 歳(平成 12 (2004)年当時)になるが、体は健康で自転車にも乗れます。帰国した当時は日中
友好協会などの支援で日本語を勉強して、また草取りの仕事もしました。今は時々中国に帰って
います(筆者注:収録時も中国帰省中だった)。
今思うこと
ちょっと心配しているのが年金問題ですね。私のもそうですが、子供たちもそうです。来日年数が
短くてちゃんとした年金をもらえなくて、政府になんとか対策を考えてほしいですね(筆者注:
2008(平成 20)年4月から、一定の条件内で老齢基礎年金等を満額支給するなどの制度改正があっ
た)。
生きることは容易なことではないですね。去年(2003(平成 15)年)は大きな病気にかかって、死にか
シャン ハ ヌ
けました。これまで、2回くらい 傷 寒(中国語で腸チブスのこと)にかかったこともありました。
私は生まれが悪かったかもしれません。ずっと貧しい生活をしていました。波瀾万丈の人生でし
たが、今が一番幸せかなと思います。何より健康でいることが何よりの幸せです。健康でしたら
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何を食べてもおいしいと思います。
六枝が描いた博多人形の絵
◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
私の母方の祖母も中国残留婦人[用語集→]に当たります。残念なことに(19)95(平成 7)年に病気で亡くなり
ました。祖母が入院していた頃、昔のことを聞こうと思って、何回か祖母と話をしたことがありました。
その時の記録を取っていなかったことが心残りです。もう聞けませんよね。
私は昔のことを聞くのが好きです。私の人生を励ましてくれるキーワードがいっぱいあります。吉永
さんや祖母の話を聞くと、今の生活がどんなに幸せかが分かります。そして、あれだけのことに直面し
ながらも、前向きになれることは、すばらしいことだと思います。
吉永さんはいつも他の人のことを忘れず、少しの食料でもみんなで分け合いました。私の目にはそう
いう姿が大きく写っています。尊敬しています。
吉永さんが絵を描かれることに驚きました。とても上手だと思います。几帳面に日記も書いていらっ
しゃるとのことでした。つらいことがたくさんあるとは思いますが、その中で少しでも楽しく生きよう
とする姿が伺えます。(ふ はい)
基本データ
収録完了:2004 年3月 26 日
初稿完成:2006 年1月 31 日
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