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6 列車の小さな旅から - 中国帰国者支援交流センター

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6 列車の小さな旅から - 中国帰国者支援交流センター
6
列車の小さな旅から
いい じろ
こ
の はら
とし え
語り手:飯白 たつ子/聞き書き:資料収集調査員 野原 敏江
飯白たつ子の略歴
え ばら
しながわ
大正 15(1926)年1月
東京都荏原区(現在の品川区)に生まれる
昭和 19(1944)年5月
第 13 次興安東京荏原郷開拓団として渡満
昭和 20(1945)年8月
中国人(後の夫)に引き取られる
昭和 50(1975)年 11 月
一時帰国[用語集→]
昭和 51(1976)年7月
再び中国へ帰る
昭和 61(1986)年 4 月
日本に永住帰国[用語集→]
現在
東京都足立区で1人暮らし
こうあん
あ だち
はじめに
あのころね、国鉄の運営事務所で仕事をしていたの。鉄道の仕事場って楽しいところですよ。まず
制服がもらえるでしょう。当時は制服を着るのが楽しみでね。制服を着ていると、国鉄だけじゃな
く、私鉄の電車もちょっと頭を下げるとか、ちょっと手をあげるとかでただで乗れますね。土日に
とうかいどう
なると、私はよく手にボストンバッグ、リュックサックを背負って、食料品を買いに行くの。東海道
線に乗るとね、駅弁があるのね。蒸かしものなの。ほかに何もないの。
それを買ってきて、家で食べたり、近所の人に分けたりするの。無くなったら、また買いに行くよ
うな繰り返し。あの頃はね、お砂糖とかは配給制で、買わない人もいるのね。それが余っちゃうと、
私はそれを背負って、田舎に持っていくの。田舎のおばさんのうちに行って、お米とか、漬物ね、
味噌づけは美味しいでしょう。こっちは交換のつもりはないけれど、でもみんなまたお砂糖を持っ
てきてって頼むから、帰るときにはおにぎりも作ってくれるし、お米もくれるし、とても歓迎され
たから、ああ、いいなと思った。
遠くは、信州まで行ったことがある。信州はリンゴが有名でしょう。リンゴ園を通ったことがある
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のね。収穫前だから、真っ赤ですね。赤いリンゴを見ながら、農園の人に声をかけた。素敵なリン
ゴですねと誉めたりすると、売らないですか。そしていっぱい売ってくれて、東京に持って帰ると、
近所の人にとても喜ばれるの。
当時の東京はリンゴが今のように食べたいと思ったらいつでも食べられるようなものではなかった。
リンゴは妊婦さんや病弱の人にだけくれるって聞いたけど、うちの父は病弱でももらえなかったね。
リンゴだとか、葡萄だとか、簡単な野菜とかを買いだめに行くの。お米なんか買ってくると、もう
ひやひやしますよ。警察がこわくて。いつも列車がいっぱいで、満員なの。ボストンバッグを椅子
の下に隠しちゃうの。あの頃は本当に楽しかったわね。
これは満洲へ渡る前の 18 歳頃のたつ子の週末である。食料品を購入するために、よく1人
で列車に乗って田舎まで旅していた。地図を見ながら、知らない場所に行くのは何よりの楽
しみだったという。翌年、国境を越えて、満洲に行くとは夢にも思わなかった頃のことであ
る。
1.生い立ち
飯白たつ子は大正 15 年1月 12 日、6人姉弟の三女として荏原区(現在の品川区)に生ま
れる。上の2人の姉は関東大震災の時に亡くなったため、両親は4人姉弟の彼(女)らを大
事にしてきたという。父親は山形県鶴岡市の出身。渡満前は東京で乾物屋を経営していた。
もっとも若い頃は東芝の工場(芝浦製作所)に勤めていたが、ストライキに参加したことが
原因で、失業した。その後、北海道で海産物を経営している兄弟の協力を得て、たつ子の父
は東京で乾物屋の店を開いた。だが当時の東京は食べ物が非常に乏しい時期で、商売の景気
も当然よくなかった。仕入れに行っても、ものがない状況だった。たつ子の父は胃酸過多と
いう病気にかかって、体も衰弱していた。その時、
「満洲の開拓団[用語集→満蒙開拓団]に行きませ
んか」という話があり、行こうと思うようになった。
(あの時)姉弟4人はみんな育ち盛りでしょう。一緒に食事をして、親がちょっと遅れてくると、
もうご飯がないという状況だった。こんなひもじい思いをみんなにさせるのは可哀相だし、商売も
- 120 -
ほとんど収入がないし。私1人のお給料(国鉄の運営事務所での仕事)だけではどうにもならなか
った。父はそう言わなかったけど、満洲にいけば、食べさせてくれるというし、お米がなくても、
少なくとも雑穀はあるから、なんとかなるだろう。いちおう行ってみよう、行ってみようという気
持ちで行ったわけ。そして帰れなくなった。帰してくれないもんね。帰ってこられるならみんな帰
ってきちゃうよ、開拓団全員が。
だから満洲に行く前は、あちこちに食糧を調達するのが私の役目。何でもいいから、とにかくお腹
を満たしてくれるものを買ってこないといけないと思って。よく歩きました。
「年を取ると、おかしいわね。昔のことをいろいろと思い出すの」
。
「どの時期を一番よく
思い出すのですか」と聞いたところ、たつ子が語ってくれたのが、冒頭に引用した言葉であ
る。日本で過ごした青春の一番楽しい思い出だったのだろう。
たつ子は 16 歳から 18 歳までの間、鉄道の運営事務所で働いていた。正社員ではなかった
が、試験を受けて、合格すれば、正社員になれる。その試験を受けるために、たつ子は昼、
雑務の仕事をし、夜、夜間高等女学校(現在の文京区追分にある)に通っていたという。た
つ子の両親はもともとたつ子を除いた次女(たつ子の妹)と末子の次男(たつ子の2番目の
弟)を満洲に連れて行く予定だった。就職したたつ子は1人でもなんとか生きていけると思
ったのだろう。しかし、直前になって、その次女が病気になったので、たつ子が代わりに行
かなければならなくなった。
1
昭和 19(1944)年の初春、たつ子の父は東京荏原郷開拓団 に入植するために、多摩訓練所
で1ヶ月間の短期訓練を受けて、帰宅した。4月 29 日頃、ついに満洲に渡る指令が来た。
たつ子の両親は次女と長男を山形鶴岡の親戚の家に預けて、たつ子と次男を連れて、家族4
人で満洲に渡った。政府が「満蒙開拓団」政策を打ち出したのが昭和7(1932)年であったこ
とを考えると、かなり遅い時期の渡満となる。それだけ生活に追いつめられた決断だったの
だろう。
満洲に渡る時、たつ子の父は 53 歳、母は 49 歳、たつ子は 18 歳、弟は 12 歳だった。
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2.満洲体験
渡満
13次興安東京荏原郷開拓団の団員として、一家は新潟から船で中国と北朝鮮の国境、清
津まで行き、清津から三等列車で長春へ、そこで一晩宿泊。乗りついで興安という町にたど
り着いた。興安という地名は日本語での呼び方、中国では王爺廟と呼んでいたという。
出発する時は千人ぐらいはいたと思うけど、何回かに分けて、船に乗った。船には1回にどれぐら
いの人が乗っていたのかね。いろんなもの(生活用品)も運ばないとならないしね。それにあの時
一番怖かったのはアメリカの水雷。それに打たれたらもう全滅ね。そんなに大きな船ではなかった
けど。たしか興安丸っていう名前だった。
こうして、1週間かけて、ようやく無事に開拓地にたどり着いたが、たつ子の目に映った
のは宣伝とはあまりにもほど遠い景色だった。
あの景色は本当に殺風景だったわね。山もない。木もない。春先といっても、畑もまだ作ってない
頃で、荒地だった。列車から降りて、荷馬車が迎えに来たのね、私たちは荷物をいっぱい積んで、
荷馬車の上に座ったの。
どんよりとした雲が低く重く垂れ込めた空の下、西北風の吹きすさぶ道を荷馬車でガタガ
タ揺れながら、たつ子の一家は日本名に改称された「柏部落」に到着。5月でも寒く、コー
トを着ていたという。
お部屋(自分たちにあてがわれた家)に入った時の印象はね、大きな釜があったのを覚えている。
電気はなくて、ランプだった。油のランプはろうそくよりはいいかなという感じ。日本人としては、
あんな貧しいところは初めて見たから、本当に悲しかった。ガスも水道も電気もない。それこそ、
吉幾三の歌じゃないけど、
「電気もない、ガスもない」
(笑)
、そんな生活を強いられてきた。
- 122 -
最初は毎日泣いていたわね。寒さもあるだろうけど。壁も家もすべて泥でできてた。辛かった。食
事しなければならないでしょう。お水はてんびん棒で担いでくるわけ。初めててんびん棒を担いだ
ときは泣いたわね。私は豆腐屋になるために来たんじゃないわよと言いたいぐらい。昔、東京は朝
になると豆腐屋さんがてんびん棒で豆腐を担いで、片っ方が豆腐、片っ方が油揚げ、がんもどきな
んかを売りに来るのね。笛吹きながら、
「とうふ∼とうふ∼」なんて叫ぶの。私はああいう人たちを
連想して、なんで、私がてんびん棒を担がなきゃいけないのと思ったのよ。冬になったら、もっと
寒いでしょう。井戸の周りがすっかり凍って、つるつる滑るのよね。親は病気だし、弟は小さいし、
結局そういう仕事は私が引き受けるわけね。凍った井戸の周りで悪戦苦闘して、水を汲むあの体験
は忘れられないわね。怖くて、泣いてね。
満洲での農耕生活
(そして農耕開始)
。みんな東京からやってきた人間なので、初体験の人がほとんどだった。畑の仕
事は本当にきつかった。畝が長くて、中国の 1 里っていうと、日本だとどれくらいあるんだろう。
とにかく長∼い。こっちでね、仕事が始まるでしょう、向こうにつくのはお昼ごろ。それくらい広
い土地なの。
農業に使う道具は配給してもらったけども、畑の仕事をやってても、下手だから、中国の人が見か
ねて、こうやってはだめだ、こうやってやるんだよとわざわざ教えに来てくれる人もいた。鋤をも
って。親切だった。
当時、開拓団と現地の農民とは東と西の農耕地で分かれていた。うちの開拓団は東の半分を占領し
ていた。西半分は中国の人。真中に背の高い壁が建ててあった。2メートルくらいあるんじゃない
かな。お隣さんのようで通ずる入り口もありました。西側には地主さんもいて、たくさんの中国人
が住んでいたの。子供たちもみんな素っ裸で外で遊んでいたし、着るものが乏しかった。
西半分の人はもともと東側に住んでいたと思うけど、それは正確には分からない。誰にも教えても
らえなかった。
あの人たち(西側)は友達になりたかったみたいだけどね、当時は日本に占領されているから。で
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も政府のやり方はおかしいのね。日本語を勉強している若い男の子が卵や餃子を持ってきてくれる
んだけど、母は悪いからと、靴下とかそういうものがたくさんあるから、交換してた。だからお金
はかからないのね。でも品物で、そういう付き合いを続けているうちに、部落長は中国人と友達に
なるな、と言うの。私たちは友達になりたくても。でも内緒で、こっそりと付き合っていたわ。私
たちは中国人だからって、敵愾心はなかった。誰だって、友達を作りたいじゃない。
畑の仕事をしたのは主にたつ子1人だった。弟は学校があって、母も病弱だったという。
父親も最初、農作業をしていたが、7月頃慣れない大陸性の気候のなかで、農作業中に日射
病で倒れ、心臓衰弱で病の床に伏していた。医者もなく薬もない開拓団で、獣医の世話にな
って、一時は小康状態を保っていたが、持病の胃潰瘍が再発し、ついに異国の土と変わり果
てた。1944 年 10 月 15 日のことだった。
父が亡くなったとき、火葬した。少し離れた興安の町には日本人がやっているお寺があって、そこ
2
に納骨するの。ほとんどの日本人がそこに葬られたわ。須田さん
のお父さんは亡くなったのが遅
かったから、お骨を持って逃げていたの。私たちはお骨を持つ暇もなかった。お寺に納めていたか
ら、取りに行くのも間に合わなくて。
最愛の父が亡くなった後、たつ子はそれでも農作業をつづけながら、母親と弟の一家3人
を支えていた。当時お米は日本にいる時と同様、配給制だったが、やみの購入も可能だった。
あわ
それ以外にトウモロコシ、高粱、もち粟[穀物の一つで、カロリーが低く食物繊維が豊富。
白米やもち米に混ぜて炊くことで栄養価が高まるといわれている]
、
なども物々交換を通して、
補充することができて、不自由ではなかったという。しかしそれはある種楽しみでもあった
渡満前の買出しのような経験とは全く別のものだったに違いない。
3.終戦の時
逃避行
昭和 20(1945)年春、開拓団の男は徴兵されないとの約束だったが、団の 40 歳以下の男性
3
「赤紙」を胸に収め、家族に別れを告げて、戦場へと旅立って行った。
には召集令状 が降り、
- 124 -
そして銃後に残された老人と婦女子は、主人の留守を守り、かよわい手で農耕を続けた。た
つ子の弟はまだ小さかったため、幸いにも徴兵は免れた。夏になると、自然の恵みが順調で
農作物は前年と比べてはるかに成長が良く、すくすくと育った。あとは収穫を待つばかり。
家畜の越冬の準備のために蓄える草刈が始まりだした頃に突然大変な事態が起きた。
4
それは8月上旬のソ連の対日参戦 であった。長期の戦争で疲労困憊した日本軍の実情を
見こした上での作戦だった。非戦闘員ばかりの開拓団を守ってくれるはずの軍からは、何の
指令も援助もなかった。
昭和 20(1945)年8月6日、アメリカが広島に原爆を投下したことも、ソ連が対日参戦した
8月9日、再びアメリカが長崎に原爆を投下したことも、8月 15 日の日本の無条件降伏の
ことも、開拓民たちは一切知らないまま逃避行が始まった。
畑で草刈していた時、頭上を次から次へと掠めていく飛行機が、最初は日本軍のものだと
思っていたのが、ソ連の軍機だと分かったときはもう遅かった。
それまでに中国側の人たちと築いてきた友好関係も日本の敗戦によって、一変した。日本
軍の侵略に対して怒りが抑えきれず、蜂起した「暴民」
、現地の盗賊、
「土匪」
(匪賊)たちが
いて、避難行の 10 数日間、ソ連軍から受ける爆撃のみならず、これらの人たちにも追われ
る毎日となった。
私たちは何も悪いことはしていないのに、結局そういう逆襲をうけて、うちの家なんかは焼かれな
かったけど、家財道具は全部持っていかれた。その情景はすごかった。
麻畑まで逃げて、そこで一息をつきましょうと、みんな横になっていたら、ほとんどの人が眠りに
ついた。音に驚いて目を開けたら、周りが「匪賊」だらけで、襲撃されて、青年隊の若い男の人が
日本刀を振りかざして。でも鉄砲に叶わないでしょう。それでみんな殺されて、その時は辛かった。
どうしようもなかった。怖いっていうより、ばかになったみたい。誰かが死んでいくのを目の前で
見て、あら、あのお爺さんがまたやられた、と思いながら、涙1滴も出ない。全然出ない。馬鹿み
たいにただ茫然と見ているだけでした。避難行の途中で大勢の人が亡くなった。
残留婦人として帰ってきた人はほんのわずか。運が良かったのか、悪かったのか。あの時は本当に
生きていく気持ちなんかなかったのよ。ポケットの中に石をつめて、沈んでみたけど、死ねなかっ
- 125 -
た。結局死ねなかった。
日中国交正常化後の昭和 51(1976)年 11 月の一時帰国時に、終戦当時の状況を振り返る体
験発表に使われた日記がある。この一時帰国では、およそ8ヶ月間滞在し、民間ボランティ
つぼかわひで お
5
アの方からインタビューを受ける機会もしばしばあった。坪川秀夫氏 も、たつ子にインタ
ビューした1人で、活字にまとめたものもある。以下に当時の記録の一部を引用する。
避難行日記(1945 年8月 13 日∼19 日頃)
8月 13 日
小雨がシトシト降る静かな日でした。昼過ぎと思いますが、阿部井部落長さんは全員を招集しました。
阿部井さんは「団長命令を報告しますから、気を鎮めて聴いてください。けさ興安街にソ連軍の機用部隊
が進入したので、この開拓団にもますます危険が迫ってきました。これから直ちに避難準備をして、今夜
中に瑞穂部落に集結すること」と、緊張した声と青白い顔色に私達もどうなることかと母と相談しては見
たものの、西も東も知らぬ地で頼りにするのは部落長さんのみでした。母は病身で 49 歳、弟は 12 歳の3
人家族です。夜になるにつれて雨はだんだん激しく降ってきました。
どうにか住みなれた部落を離れて落ち延びるのでした。20 戸足らずの瑞穂部落は、他の部落から避難し
てきた人で、ごった返していました。関東軍は我々を見捨てたのか、いや、反撃してくれるだろう。流説
紛紛とする中で、眠られる訳もなく夜明けを待つのでした。
8月 14 日
雨はやんで晴れてきました。この日何の指示もなく、ただ病身の母を気遣いながらもどうすることもで
きず、そわそわするばかりでした。
8月 15 日
今日も晴天です。朝、近くの満人部落より弾丸が打ち込まれてきました。
「ソレ匪賊だ」と、団の小銃も
直ちに応戦して暫く打ち合いの末に、
「匪賊」たちを敗走させました。しかしながら、
「匪族」達はいつ大
挙して反撃するかも知れず、と噂が伝わり、みんな戦々恐々として、その夜も一睡もできませんでした。
男達は部落の周辺を厳重に警戒して夜を徹したのです。
- 126 -
8月 16 日
晴れ。団の決定により全員開拓地を出発し逃避行が始まる。無条件降伏を知らぬ団は白城子へ行けば軍
隊がいる、そこへ行けばなんとかなる、ただひたすらそんなはかない一縷の希望を託しての行動だった。
早朝より全員張り切って、出発準備をしている時に、山崎団長は昨夜服毒自殺を図ったが、死に至るこ
となく、痛々しい姿で大車に乗るのを見ました。
「この非常事態に、全団員の生命を預かる団長が、死を以
って責任を免れるとは、あまりにも卑怯ではないか」と誰かが囁くのを耳にしました。老人や病人を大車
に乗せてまた食料等も大車に積んで、長蛇の列は白城子目指して出発しました。
そんな頃、軍隊から派遣されてきたという軍人を名乗る人物が、逃避行を誘導すると、やってきた。し
っかりした日本語で話すので、一応溺れる者は藁をも掴むの気持ちで同行した。しかし、それは真っ赤な
嘘で略奪を目的とした「匪賊」の計略だった。そのため多数の犠牲者を出し、数人の服毒自殺者がでた。
遂に来るものが来たと全員悲壮な決意を胸にして、列はだらだらと乱れながら進んだ。
灼熱の太陽の下、流れる汗は埃を吸い込み、喉はカラカラに渇いて、時には高粱やトウモロコシの茎の
汁を吸っては喉を潤して、隊列から遅れないようにと一生懸命でした。1日中私達を悩ました太陽も地平
線に沈もうとする頃、列の先頭で、水だ、水だと歓声が上がり、我先にと水辺に走った。九死に一生の思
いで、水筒はもとより持ち合わせていた鉄かぶや空瓶などでいっぱい飲んだ。
一息ついた時でした。突然、ピュンピュンと弾が飛んできて、
「伏せろ、伏せろ」と怒鳴る声とざわめき
の中で撃ち合いが始まりました。みんな草むらや大車の陰に、或いは畑の中に伏せて、味方の小銃隊も一
斉に応戦しました。およそ1時間ぐらい経ったのかしら、敵は敗走したと見えて、銃声はピッタリとやみ
ました。長蛇の列は延々と続く、焼け付く熱気のなかで、前へ進み、その時は、既にあたりは真っ暗にな
って、この戦いで敵陣に倒れた者や恐怖のあまり自殺した者など数名の犠牲者が出たようです。
井上さんの叔父さんもやられたと聞きました。そこは畑だったか、原っぱだったか判りませんが、その
夜はそこで恐怖の野宿をしました。翌朝、白々と夜が明ける頃、犠牲者の冥福を祈りつつ、埋葬しました。
埋葬をすませて、白城子を目指して出発しました。
8月 17 日、快晴
青空高く、
真っ赤に燃えた太陽は情け容赦なく避難者の長蛇の列を照りつけます。
疲労と空腹で列は遅々
として乱れがちです。昼頃やっとある部落(双廟子)のはずれで休憩しました。その部落の人たちにお願
いして、やっとのことで運んできたお米を大車から降ろし、炊きだしを始めた。その時は原住民の部落も
- 127 -
比較的親切で、水汲みなど手伝ってくれて、皆に大きなおむすびが1人1個配られた。
あの時の気持ち、
「ご飯ってこんなに美味しいものだったのか」と、その有難さを改めて感じたものだっ
た。しかしその感慨にふけったのも束の間、現実に戻った時、空は曇り始め、行軍開始をしようとするそ
の時に、ソ連軍の飛行機が1機我らの頭上をかすめ去った。それが合図だったのか、前方から銃声が続い
て、後方からも右側からも連続的に打ち込まれてきた。するとはじめ親切だった住民も暴民化し隊列を襲
撃しだした。
遠い前方の山麓にソ連の大型戦車が現れ、停止して私たちを監視しているように見られ、高いところに
立っている「匪賊」は赤い旗を振っている。ソ連の戦車と何か合図でもしているのでしょうか。そして前
日からついてきた「匪賊」や「暴民」も加わって、私たちは完全に包囲され襲撃されることになった。非
戦闘員である老幼婦女に対して公然の略奪暴行である。
私たちは人間よりもはるかに高く伸びている麻畑の中に隠れて、残りわずかの男性たちは外側を囲んで
襲撃する匪賊に対峙した。頼りにしていた関東軍に完全に見捨てられた私たち団員は絶望し、疲労困憊し
た団で新しく作った警備隊(青年隊)にすがる思いで畑の中に息をひそめていた。青年隊の誰かの頭部に
弾丸が命中し即死した。それは柏部落長の長男、勇君だった。当時 17 歳。他にも次々と犠牲者が出始め、
父亡き後いろいろと父の代わりになって、励ましてくれていた浦野の叔父さんも腹部から血しぶきを上げ
て「やられた」と言いながら畑の中に這ってきたのを覚えている。
暫くして、そっと顔を上げて、周りを見ました。ピストルで射殺された人、服毒して一家心中しようと
する人、日本刀で家族を刺し、自殺する人、死にきれず母を呼ぶ声、泣き喚く声、苦しくて叫ぶ人、これ
こそ「阿鼻叫喚」の生き地獄であった。
8月 18 日
夜明け前、不気味な静寂が襲ってきてどうしたものかと考えていると、突然誰かが暗闇の中で「俺たち
はここで犬死はしたくない、脱出するぞ」との声が上がった。死ぬに死ねなかった人たちは仕方なく行け
るところまで行こうと動きだしました。弟に手伝ってもらいながら、母を背負って列に着いていった(声
をたよりに)
。それから地獄行きの行軍です。病身の母は想像もつかないひどいショックと激しい疲労のた
めにもう歩く気力もなくなっていた。私は時には肩を抱くようにし、時には背中にしょって、黙々と隊伍
についていった。残ったわずかの水とキンカンを弟にもたせて。ただ無意識にトボトボと歩く。隊伍から
遅れだした私たちを保護してくれた青年隊の人が、井上さんのまだ2、3歳の女の子をおんぶしながら列
の最後を歩いていた時、
「匪賊」に追いつかれ、大きな草刈用のカマを振りおろされ、あっという間に青年
- 128 -
と女の子は倒れてしまった。しかし、母を負ぶった私にはあとを振り返る気力さえなかった。目の前を横
を足下を飛び交う弾丸を気にもとめず、ただひたすらにトボトボと歩いた。
この日の午前中は何事もなかったのですが、午後になってから「匪族」につけ狙われているのに気づい
た一行は、段々逃げ足が速くなって、健脚の者は先を争って、逃げ出し、老人、幼児、病弱者は置き去り
にされるのですが、之も止むを得ないことでした。
母を背負って必死に逃げていた時、ある婦人は子供を背負ったまま倒れてしまい、ご主人が介抱してい
た。私が通りかかると、そのご主人が「誰か水を持っていないか、水、水」と悲痛な叫びを上げているの
で、母は「キンカンがあるからあげなさい」と出したのを、私はとっさにそれをひったくるようにして、
その人に投げ出して、夢中で高粱畑へ逃げ込みました。とその時雷鳴が轟き、大粒の雨が大地を打ち叩く
豪雨となったのです。
雨は1時間位も降ったのでしょうか。もう「匪賊」も追われる人も影一つ見えません。ふっと背にした
母に気づいておろした時、母はぐったりと失神状態になっていた。どうすることもできずに、弟と体を寄
せ合って母を抱いていましたら、暫くたって、母は意識を回復してきて、かすかな声で「もうとても助か
らないから、早く殺しておくれ、お父さんのとこへやっておくれ」と繰り返し、繰り返しの泣き言に私も
困り果ててしまいました。
ここまで行を共にした 2、300 名の人はどこへ逃げたのか、今は私達親子3人が高粱畑の中で苦悩するば
かりです。こうしては居られないと、気を取り直して、私は心に鞭打って、またも母を背負って、丘を越
えては休み、畑を横切っては休み、また歩く、方向も地形も全くわからないのに、生き抜くためには歩く、
意外と何もなかったのです。暫くして、約 30 名ぐらい逃避行している青年団に出会って、心強くなり行動
を共にしました。
夕刻より雨が降り出して暗闇の中を彷徨い歩くうちに空腹を訴える青年達が部落を見つけた。夜更けで
あったが、農家(の戸)を叩き休憩と食事を求めたところ、気軽に承知してくれたので、安心してひとと
きの休養となった。しかしその隙に2挺の小銃が持ち去られたのに気づいた青年は、これは危険だと直感
して、
「大変だ、逃げ出せ」と雨の暗闇の中へ一目散に飛び出しました。雨は上がりましたが、逃げる身の
焦りはあっても疲れた足はなかなか進みません。
8月 19 日
暴民化した原住民が加わって、ますますしつこく襲ってくる「匪賊」たち。逃げ惑いながら歩いている
うち、突然母は動けなくなり、背中からすべるように降り、地上に倒れ込み、弟を指さしながら、
「早く連
- 129 -
れて逃げなさい。もう駄目だ。この子を無事に日本に戻れるように、連れて行きなさい、早く、早く」と。
途切れ途切れに苦しそうに、その時の母のあの悲しそうな眼が今でも忘れられません。地面にへばりつく
ように、降りしきる雨に濡れた顔だけを持ち上げるようにして、抱き起こそうとすると、拒む母、呆然と
して立っている弟、あの悲しそうな眼、そして恐かった、厳しい、しかし力のないかすれ声、なんと情け
ない事だろう。そんな親を見捨てるしかできなかった。その場を動こうとしない弟を思わず手を引っ張っ
て前に向かって走り出しました。迫ってきた「匪賊」のため、母の言うとおりに弟を引っ張って・・・恐ろし
い悪夢のようでした。暫くして走りながら振り返った時、母の倒れたあたりにいた人たち(逃げ遅れた人
たち)はカマや竹やりを持った「匪賊」たちに包囲されていました。
あとは何月何日なのか分かりません。数十人ほどの人たちと行動を共にしたのも束の間、襲撃される度
に死者、負傷者が出て、誰かが誰かをかばうこともできず、最後に弟と2人だけなってしまった。流浪の
旅は何日つづいたのでしょうか。分からない。昼、背の高い畑の作物の中に隠れて、暗くなってから星の
出る日は北斗七星を頼りに南へと南へとあてどない夜の旅です。ある日の夜、辺りが暗くなり始めた頃、
西瓜畑を発見し、西瓜を恵んでもらえないかと近づいていくと、見張りの老人が美味しい西瓜をごちそう
してくれたその時、
夕涼みで出てきたある農夫に見つかり、
「日本は戦争に負けたので、
あなたは
(亡国奴)
、
ソ連兵に見つかると、男は殺されて、女は連れ去られてしまうから、僕と結婚しないと、生きていけない
よ」と脅かされて、彼の家に連れていかれ、若い私は無理やりに妻にされました。その男は当時 27 歳で、
私より8歳年上でした。
彼の家に行った翌日だったと思うが、近くに日本人が大勢いることを知らされたので、会いに行きまし
た。そこは大工さんの仕事場のような処で、升谷さんほか 20 名位いました。そこの部落の他の農家にも
30 歳ぐらいの女性が2名いて、1人は足を負傷をしていました。私がここを逃げ出したいと相談すると、
「それは到底無理なことで、今ここを脱出したとしても次々と困難が待っているだろう。時には生命に危
険が迫るかもしれないから、弟さんを日本に帰したいのなら、あんたは辛くともここで嫁いだほうがよい」
とうあん
と説得されて、そこに落ち着くことを決意しました。そこは洮安県巨宝公社太平大隊第二小隊という部落
です。来日するまでずっとそこに住んでおりました。
ソ連軍の爆撃、現地の「匪賊」
、そして「暴民」と、三方から追撃されるなか、九死に一生
を得て生き延びたことがうかがえる。当時たつ子のように「残留」した女性たちは、結局こ
ういう形で中国人の嫁にされるか、殺されるかのどちらかだった。収容所で暮らす人、病死、
凍死、或いは冬までずっと満洲の中で逃げまどった人たちもいた。
- 130 -
その後の弟の経歴
終戦後、たつ子姉弟2人は農家の人に引き取られた。歴史的経緯においては被害者である
中国人の民衆にとって、2人は加害者側の日本人という立場にあった。たつ子の「夫」は弟
に対して、毎日のように暴行を加えた。それを見ていたたつ子は、弟に一度言ったことがあ
った。
「どこかいいところを捜して、逃げなさい」と。弟は何回か逃げようとしたが、連れ戻
されては、また暴行された。また、村の人が遊びに行こうと言って、弟を山に連れて行って
殺そうとしたこともあった。その時は、住んでいた村の村長に止められて、
「日本は戦争に負
けたのだから、もう人を殺すのはやめよう。この人たちには罪はない」と命を助けられた。
[用語集→日本鬼子]
(当時は)虐めようとする人は必ずいたけど、いい人の方が多かった。
「小日本鬼子」
「小
ダ
ビ
ツ
シアオ ビ
ツ
鼻子」
(当時中国ではロシア人を「大鼻子」、日本人を「 小 鼻子」と呼んだりしていた。
)弟は鬼の
子と呼ばれても、笑っていたけどね。日本の鬼と呼ばれて偉くなったねって。
弟は最初私と一緒に同じ村にいたけど、後に夫の親戚の人なんだけども、あの頃は八路軍と呼ばれ
て、兵隊さんになった人がいて、その人が帰ってきて、誘ってくれたのね。軍隊の方の病院があっ
て、そこは日本のお医者さんと日本人の看護婦さんがいるから、人手が足りないから、行かないか
と誘われたのね、弟はそこに行っちゃったの。日本人のところに行った。私も行きなさいと促して、
それが弟にとってはよかったです。
病院の先生達は敗戦になって、帰れなくなって、八路軍の偉い人に留用されて、病院で働くように
なった。無理に帰ろうとすれば、帰れたかもしれませんけど。日本人がしかけた戦争で、償いの気
持ちもあったのだと思うけど。
(その人は)立派な日本人のお医者さんだったのね。もとはチチハルの警察病院の院長だったらし
い。偉い人だったの。本当の院長さんは中国人なんだけど、病院の管理は日本人の先生がやって、
日本人の看護婦さんも何人もいた。弟は今もその人たちと年に1回、北京で集まるみたい。その人
たちはもう 70 歳すぎて、80 代の人たちも多いから、生きている人も大分少なくなったみたいだけ
ど。
- 131 -
弟はあの頃はまだ 14、15 歳で、そこに行って、みんなに弟のように可愛がられて、それからずっと
中国の軍隊にいました。八路軍の衛生兵になった。男の看護婦さんみたいなもので、先生のそばで
通訳もしたりしていた。あれは、日本の敗戦から2年目ぐらいの頃だったかな。その病院は日本で
6
言えば、陸軍病院のようなところ。そこでずっと軍隊について南下して、
「四平戦争」
の時なんか
大変だったらしい。その後、熱河省に行って、今で言うと、遼寧省の錦州。あの辺で軍隊と分かれ
7
たの。軍隊の病院が独立したから。その後、弟は朝鮮に行った。
「抗美援朝」
のために。
(あの戦
争は)けっこう長かったみたい。
昭和 28(1953)年初頭、日中間で1度中断になった中国東北地方からの引き揚げ[用語集→]が再
開した。
「朝鮮戦争」から無事帰還した弟はその知らせを聞いて、迷わず日本へ帰国すること
にした。帰国前に何か技術を持たなくてはいけないと、長春の「第一汽車製造工場」に行き、
そこで見習いをしていたという。
あの時彼は上海に行きたかったんだけど、私はまだ東北に残っているので、長春に来てくれたのね。
家にも来て、一緒に帰ろうという話にもなった。でも私の周りに子供がうようよいるでしょう。決
断できなかった。しかし、あの時、本当は自分の気持ちも半分は帰りたかったの。子供を置いてい
けないから、あきらめた。それで弟は1人で帰った。弟が帰った時はまだ飛行機がなくて、船で帰
った。
弟が日本に帰ってまもなく、中国は文化大革命。本当に危なかった。もしそのまま中国にいたら、
何をされたか分からない。いくら八路軍のために働いたといっても。中国人の偉い人たちだってあ
んなひどい目に遭わされたからね。
弟は栄助っていうの。日本に帰ってから結婚した。奥さんは日本人。中国にいた頃縁談はあったけ
どね。でも日本に帰るからということで、全部断った。縁談を断るのも大変だった。弟を日本に帰
す、それは母の遺言だった。弟は誰とも喧嘩しない、とても芯の強い人間だった。
弟は今千葉に住んでいる。去年は中国に行ったし、今年も行くんだって。ボランティア関係の仕事
をしている。子供は男1人、女2人。みんな結婚している。今は夫婦2人暮らし。まあ、早く帰国
- 132 -
した人は、みんな適当な地位もあるし、財産も築けただろうし、弟は会社勤めからスタートした。
会社の役員をやったこともあるけど、倒産した。弟はいま帰国者のことを応援していて、援助して
いるから、そんなことをして楽しんでいるみたい。自分に何か辛い経験があると、なんらかの形で
後の人たちに役立ちたいのですね。
4.中国東北での暮らし
「残留」から結婚へ
日中戦争が終わった直後の自分の夫は「とても居丈高な人」だったとたつ子は振り返って
こう言った。これは上述の「避難行日記」の最後にたつ子を引き取った当時の彼の言葉と、
たつ子の弟に対する暴行からも分かる。しかしその夫はたつ子に対しては、暴行するような
ことはなかったという。それにも関わらず、異国の地を踏んでまだ1年あまり、言葉も分か
らず、
「避難行」のショックからもまだ立ち直っていないたつ子は、どんな気持ちでその夫と
新しい生活を始めたのだろう。愛情、民族、言語、生活習慣といった溝をどんなふうに埋め
ていったのか。語り尽くせないこれらの問題は、深入りするのが難しい話題でもあった。た
だ、唯一明言できるのは、どんな状況に置かれてもたつ子は生活しなければならなかったと
いうことだ。朝から晩まで畑の仕事をし、重いものを担いで帰り、帰り着いたら今度は食事
の支度、それが新しい生活のすべてだった。
ただ酷かったのは出産した時ね。日本だったら、ちゃんとしたベッドの上、清潔なところで出産す
るでしょう。私ははじめて長女を産んだ時、オンドルの上だから、オンドルは土でできているでし
ょう、その土のうえで、何も敷かないで産んだのね、体中泥だらけ、
(笑)
、でもどうしようもない
じゃない。言葉も分からないし。それで本当に大変だった。血が固まるでしょう。血が固まると、
皮膚についちゃうのね。
出産の時、年配の人が1人来てくれて、素人の産婆さんね、赤ちゃんを取り上げてくれた。
そうね、子供はほとんど、オンドルの上で産んだわね。長女、次女、長男、次男、病院で生まれた
のは1人もいない。3人目ぐらいの時からかな、旧いぼろぼろのアンペラ(筵のようなもの)を持
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ってきて、その上で出産したわけ(笑)
。あの時、何が「綺麗」で何が「汚い」かって知らないのね。
でも病気にならなかったのは、不思議ね。あのころ、田舎に住んでいる人たちはみんなそうして生
まれてきたの。
寒い時の出産はもっと大変だった。長女は旧暦の1月だから、寒いでしょう、次女は旧暦の 12 月だ
から、やはり寒い季節。3番目が長男で 11 月。暑い季節に生まれたのは三男かな。晶子(末子)も
12 月だったな。次女なんか生まれたとき、危く死ぬところだった。家の部屋は、これを言ったら、
また珍しがるかもしれないけど、ドアがないのね、入り口は作ってあるんだけど、それに締めるド
アがないの。それでしょうがなくてね、わらを編んで、ドアを作ったのね、それでもちゃんとしま
らないの。頭の上にお湯の入っている茶碗を置くと、1時間も経たないうちに氷になっちゃうの。
その時にうちの次女が生まれたでしょう。もうね、泣き声じゃなくてね、なんていうの、もう「ハ
ーハーハ」という小さな声で、泣くこともできない状態だったの、隣のおばあさんが「その子は寒
いんじゃないか」と言ったので、それで私は気がついて、自分でも大変だったけど、慌てて抱っこ
して、それでボロ布団をかけて、どうやら生きかえった。けっこう大変だった。次女は本当に可哀
相だった。
長女も、次女も続けて女の子だったから、夫は怒っちゃってね。彼は何もしないの。部屋のなかは
寒くても、見て見ぬふりをしている。分からず屋で。
(たつ子は下を向いたまま続けて言った)だか
ら、彼と暮らしている数十年間、私は毎日、いい気分でいたことはほとんどなかったの。
文化大革命の頃
朝鮮戦争が終わった後、中国はソ連に学ぶ社会主義国家として、再出発を始めた。だが国
防建 設のための重工業政策は、国内農業の不振を招いた。その農業の回復を図り、昭和
32(1957)年年末からの毛沢東による国内視察をきっかけに全国一斉に始まったのが、生産の
大躍進運動だった。農村に設けた人民公社は単なる農業生産組織にとどまらず、工、商業、
文化、教育、軍事(民兵)をも扱う地方行政の単位として、一種の「共同体」となった。し
かし、昼夜兼行の操業が労働者と機械設備に多大の負担を要求することにもなった。
昭和 35(1960)年秋から見舞われた3年連続の自然災害を経た後、社会状況はますます不安
定になり、人心はやがて「不信」の目を持って国家を見るようになる。毛沢東が彭真、劉少
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奇らの党幹部との意見対立から、昭和 41(1966)年から「文化大革命」を働きかけたのはその
ような中であった。群衆を組織して、党の新進幹部から政権を奪おうとしたのである。その
運動は政治、思想、文化の「革命」を叫ぶまでになり、毛に近い別の幹部ら(林彪、江青)
と狂熱的な若者たち、すなわち「紅衛兵」によって知識人を迫害する恐怖社会が出現した。
(以上、
『中国現代史』今井駿、久保田文次など著/1984 年・山川出版社を参照した)
。
幸いなことにたつ子がいる農村では大都市と比べて状況はそれほど深刻ではなく、実被害
はなかったという。
「大躍進」から「文化大革命」までのことを、彼女は次のように語った。
(あの頃は)とにかく大変だった。言葉も分からないし、多少しゃべれるようになったけど、完全
じゃないし、
「文革」の時は、あちこち繰り出して、鉄を作る騒ぎになって、農業を手伝ってやると
かいろいろあった。政府の命令で、収穫後の土地ね、農業用のスコップをもって、土をひっくり返
すのを徹夜でやって、辛かった。
畑をひっくり返して、柔らかくするの。日本だと機械でやるけど、中国は手作業でやるから、寝れ
ないのね。政府の命令だから。畑を作るためにまず、土壌を肥やさないといけないわけで、フォー
クで土をひっくり返して、土を柔らかくする。フォークとはね、歯が4本で、熊の手みたいな道具。
あの時は大変だった。
その時は大食堂ってね、集団食堂が作られたの、まとめてご飯を作って、皆に配給することまで、
やったのね。その時に、あの辺で女性のなかで字が読めるのは私1人だけだから、公社の偉い人た
フオ シ ジャン
ちから私が選ばれて、火食 長 [コック長]をやらされたのね。計算してどのぐらいのご飯を作ると
か、どのぐらいの材料を使うのか、食べる人は何人いるとか、そういう計算をやるの。そのおかげ
で私は辛い労働から免れた。ところが、文化大革命だから、二派に分かれて、中国人同士お互いが
闘争するわけね。私は日本人だから、お前の弟が日本に帰っているのだから、おまえはスパイなん
じゃないかと、それでやめさせられて、また肉体労働に戻された。
うちの長女が、小学校6年しか出てないのに、17 歳のとき、村の女性の婦女主任をやらされたの。
娘は活発だから、そういうことやっていると、目立つじゃない、楽しいし。そうすると、学校も満
足に出ていない、ただ目立つのが好きな子が別のグループにいて、娘と対立していた。周りもそう
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いうふうに巻き込まれて、お前は日本人の娘だから、スパイだからと長女は言われて、
「資本主義の
犬」と呼ばれた。仕事の奪い合いのために、長女は犠牲となり、やめさせられた。
次女も活発で、15 歳のとき、生産隊長をやっていた。やはり嫉む人がいて、いじめられたけど。で
も村の人間はみんな知っているから、別に大した危害を加わえられなかった。だからその点、私は
ほかの日本人から見ると、運がいいほうです。
日本語教師として
「文化大革命」の前までたつ子の生活はずっと農業、家庭、育児が中心だったが、時間が
たつにつれて、中国語も著しく進歩し、隣近所にもうまく溶け込むようになった。次女が小
学校 5、6 年生だった頃、たつ子が2カ国語ができるということが、たつ子の生活に一つの
好機をもたらした。
「学校の先生になりませんか」という誘いがあったからだ。
(最初は)区政府の偉い人で、モンゴル族の人がいたの。私は字の読み書きもできるから、
「学校の
先生になりませんか」と誘われたの。日本人に対してとても理解のある方で。ところが、その時、
私も日本語を大分忘れていたし、子供もまだ小さいし、夫にも反対された。
(それでも)区長がね、
決まったら知らせに来るからと言った。ところがあの偉い人が会議の時にお酒を飲んでね、あの頃
の交通っていうと、馬なのね、馬から落ちて亡くなった。それで、その話がだめになったの。学校
の先生になるには、私の言葉もまだだめだから。分かるのは日本語であって、漢字(中国の簡体字)
もそれほど把握できていないからということで、しょうがなかった。
このことがきっかけとなってたつ子の日本語への愛着が徐々に甦ってきた。それまでずっ
と隠していた日本語が中国でも役に立つのだと思うと、たつ子の胸は熱くなったのだろう。
日本のことを知りたい、日本語の読み物を読みたいと思ったが、当時中国の田舎ではもちろ
ん不可能だった。幸運なことに先に日本に帰国した弟が貿易会社に就職したため、広州への
出張の時、色々な日本語の小説を持ってきてくれた。
持ってきてくれた数冊の岩波文庫は一晩で読んじゃった。本を読んでて、面白くて。面白くて。
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だが文化大革命の到来は、せっかく芽生えていたたつ子の日本と日本語に対する情熱を削
ぐことになった。初めて日本語を教えるようになったのは、文革が終わり、日本から一時帰
国したあとのことだった。
文革の嵐が過ぎ去ると、中国人の価値観が大きく変わった。肉体労働をしない知識人を排
除した時代が過ぎ去ると、その反動なのか、今度は学歴を偏重する社会が出現してしまった
のである。それまで地方に下放された多くの知識青年たちは推薦入試を受けて都市へ戻ろう
とした。紅衛兵たちも慌てて受験勉強をして、大学の門を叩いた。
末子の晶子が小学校に入った頃だったと思う。その頃、師範学校を卒業した日本語の分かる先生が
いて、うちの長男(中学校時)の担任だった。私は日本語も分かるし、字も書けるし、計算も得意
ということで、その先生が私を紹介してくれた。文化大革命の後、大学に入るのは、初めは推薦入
学だったでしょう。それが廃止されて、それが試験に変わった時に、試験で大学に落ちた成績のい
い生徒を集めて「輔導班」を作って、そこで、日本語を教えてくださいと県の偉い人からも連絡が
来た。
あの時代、中国は外国語を教える先生はものすごく不足していた。北京から下放された人がいて、
英語を担当していた。私は日本語、そのほかロシア語の先生は何人かいた。大体、東北はロシア語
が多かったわね。私ともう1人、病院のお医者さんだったんだけど、どういうわけか、田舎に下放
された人で、その人は日本語が上手だったから、彼と2人で日本語を教えていた。
でもあの時は本当に大変だった。教材は何もないの。日本語のただのおしゃべりを教えればいいん
だけど、おしゃべりだけだと、生徒たちは納得しないじゃない。せめて辞書ないとだめでしょう。
それで学校もいろいろ協力してくれて、日本に帰った弟もいろいろ辞書を送ってくれた。
来日前の5、6年間はそこの県立学校で日本語を教えていた。でもみんな優秀な生徒でね、そこは
日本で言えば、予備校のようなところね。日本語を教えてほしいから、うちに泊り込みで勉強して
いた人もいた。教えた生徒のなかで、長春の師範大学に合格した人がいたわね。長春の外国語大学
の日本語学科に行った人も1人いた。私も教えるために、日本語の小説を読んだり、どこかの大学
の日本語の辞書を探してきて、暗記して、生徒に教えていた。自分の勉強にもなるし。あの時、夜
- 137 -
になっても学生がしょっちゅう聴きにきたりしていたね。楽しかった。中国で過ごしたなかで、一
番楽しかったことですね。
5.来日後の暮らし
永住帰国
一時帰国で日本から帰った後、日本語教師として働き始めたため、弟は早期の帰国を望ん
でいたが、たつ子はすぐに日本へ永住帰国することはなかった。そのおよそ 10 年後に、中
国の大学受験科目の日本語が廃止され、英語だけになることになり、ようやく帰国を決心し
た。日本への永住帰国の時、たつ子はすでに 60 歳だった。自分のためというより、子供の
将来を考えてのことであったようだ。たつ子には女4人、男3人の子供がいる。
未成年の子供2人だけを先につれて帰った。
(政府は)20 歳以下の子供に対して対応が違うから、と
りあえず、末子の権と晶子を。家庭をもっている子供は後で来た。私は家族を呼ぶのが遅かった。
定住の6年後に残りの子供を呼んできた。向こうにはお父さんもいるし、そのそばにいればいいの
ではと私は思ったのですが、子供たちはみんな日本に来たいということで、手続きをしてあげた。
夫もね、そういう気持ちはあったらしい。最初、私の帰国に反対していたわけ。だから私は頭に来
ちゃうし、こんなやつとはもうたくさんだ、日本に行ってまで一緒になんていう考えはなかったか
ら、だから手続きをしてあげなかったの。彼に聞こえるように、息子たちに言った。あなたたちは
お父さんがいるのだから、お父さんを大事にしなさいよ。お父さんが死んだら、お墓も守らないと
いけないから、と。だから、最初、長男たちを呼ぶ気持ちはなかった。だけど、兄弟のなかでも、
意見が分かれてて、みんな次々と日本に行きたい、行きたいと言い出して、結局みんなを呼ぶこと
になった。
夫は三女が来たとき、一緒に手続きを取って、来ることになったけど、待てずに死んだ。
さん ご かい
遅れて帰った子供たちは帰国ボランティア団体が保証人になってくれました。三女の時は「三互会」
ほそかわ
の人。
「虹の会」
(
「日中友好残留孤児虹の会」
)も助けてくれました。
「中国帰国者の会」の細川
[用語集→]
- 138 -
しゅう じ
す
さ よし お
周 二さんがなってくれました。須佐良男さんがうちの次女の保証人になってくれました。須佐良男
さんは本当に親切な人だったわね。長男の時は残留婦人でということで、私が保証人になれた。
国の援助は何も受けずに、みんな自費で帰国した。家庭を持っている者たちは自分のものを全部売
り払って、借金もして、旅費にして帰ってきた。
帰国後、30 歳過ぎの者が多かったから、言葉にいちばん困っていた。でも言葉は分からなくても、
働き始めた。幸い、みんなそれぞれ仕事があります。いいのはないけれど、お掃除だとか、洗い場
とか、プロパンを運ぶ仕事とかで。でもみんな喜んでやっていたわ。仕事があれば、生活できるで
しょう。うちの2世たちは日本語を勉強したことがないの。来たらすぐ働いたからね。末子の晶子
と権だけは中学校に入れたから、勉強はできたけどね。
それでも一歩一歩やってきました。言葉が分からなくて、困って働かない人もけっこういるんだけ
ど、うちの子は言葉が分からなくても、なんとかやってきた。生活保護は受けなかった。
家族のなかで生活保護を受けた者は誰1人もいない。私は絶対だめって言いました。息子は文句言
ったこともある。同じ帰国者で受けている人たちは確かにいるけど。でも私たちは働くために来た
のだから、そんなことは気にしないで、働けなかったら、来ないほうがいいって。だから文句はあ
るみたいけど、私には言えなかったみたい。
子供たちが言葉が分からなくて、困ったこと? それは随分たくさんありましたよ。常盤寮[用語集→]
に住んでいた時、三男の権が果物を買いに行ったことがあります。ほかの人からもらった自転車に
乗って行ったから、警察に止められて。当時息子はピンク色のズボンをはいて、外国人っぽかった
からね。それを盗難車だといわれて、私も警察に呼ばれていきました。しかし、それは引越しした
人からもらったもので、その所有者本人も知らなかったみたい、盗難車っていうことを。謝った。
自転車は没収されたが、パトカーで送られて帰りました。
- 139 -
長男一家
長男は1番最後に来た。長男一家4人の状況は少し特殊なの。みんな心身障害者。長男は中国にい
る時ね、馬車で向日葵の種を売りに行って、馬車がひっくりかえって、大腿骨が折れて、今は歩く
時、足が不自由なの。嫁も凍傷で片っ方の足の指がなくなっている。長男には子供2人がいる。上
のほうの孫は結核になって、体が小さい。まだ 18 歳。清掃会社でバイトしながら、葛飾区にある夜
間中学校に通っていた。仕事が終わってから、自転車で家まで来たこともある。夜間中学校卒業し
てから、定時制高校に入って、4年間で、今年卒業した。すごく頑張り家。高校に行きながら、運
転の練習もやった。夜間高校を卒業しないうちに免許を取った。今は清掃会社に就職した。日本語
はまだそんなにできないけども。
下の子は転んで腕の骨が折れて、蟹のように歩くの。
「仕事大丈夫なの? 力仕事はできないでしょ
う」とみんなは気遣ってるけど、大丈夫と平気な顔をしている。まあ、身障者だけど、みんな頑張
り屋。ひとことも泣き言を言わずに。
長男が仕事が見つからない時、私が飯田橋まで行って、仕事の関係で知り合った人に相談してみた
の。お願いして、仕事を紹介してもらって、5∼6年働いている。時給は 1,000 円になるかならな
いか。嫁さんと下の息子はあとから来て、今はこの花畑(足立区)の2丁目あたりかな、化粧品を
いれる小さい小物箱を作る工場があるのね、そこで働いてる。働いて、何年も経つけど、時給は 800
円ぐらいだね。
障害年金ももらっていない。みんな知らないみたいで、私も知らないし。中国では何ももらえない
けど、身障者っていう証明証だけはあるから、持ってくればよかったね。持ってきて、役所に認め
てもらえれば、いいのにって。でも働けるんだから、いいじゃない。中国にいる時はあれだけ苦し
い農業をしてたんだから、それに比べれば、まだいいのよ。
子供の中で長女だけは、現在中国に帰っている。婿の母親が認知症で、90 何歳だから、うちの婿は
親孝行だから、むこうに帰って住むことにした。あとの者はみな日本にいる。日本の暮らしに慣れ
なくて、中国に帰るのではと一時思っていたけども、今中国がよくなっているじゃない。でもみん
な帰らないって。三女は日本の国籍まで取得した、だから笑うの。悔しいって。日本語が分からな
- 140 -
いのに、日本人になったって。
ボランティアの仕事
「自分に何か辛い経験があると、なんらかの形で後の人たちに役立ちたいのですね」
、自分
の弟のことについてこう語ったように、たつ子自身も自分の人生経験を生かしながら、色々
なところで人に役立つ仕事をしている。知り合いに頼まれて、中学校で満洲当時の生活体験
を話したり、高齢にもかかわらず、ボランティアで通訳の仕事もたくさん引き受けている。
活動的だ。
通訳の仕事を始めたきっかけは、大井川きみ子さんの紹介です。あれは常盤寮を出たあとのことで
した。彼女はうちの開拓団の人で、須田さん(中国残留邦人聞き書き集第1集に紹介されている)
と同じ部落。肉親捜しのためにやってきた残留孤児を彼女と2人で迎えに行った。私の知っている
人もやっと帰ってきたから、そこでおしゃべりしていた。そうしたら、東京都文京区の福祉局の主
任さんで、小林?さんっていう人だけど、私の話している中国語に感心してくれたわけ、
「中国語が
分かるのですか」と聞かれて、
「分かりますよ、40 年間も中国にいたんですから」
、
「通訳の仕事を手
伝ってくれないか」と、いろいろ仕事を紹介してくれました。
さん ご かい
明くる年「三互会[用語集→]」の会長もそれを聞いて、うちの「三互会」も両方の言葉ができる人何人か
いる、紹介してくれて、テストも受けた。通訳なるための。簡単なもの。本を読んで、日本語を中
国語に訳したり、中国語を日本語に訳したりするような仕事をしてきたの。時々、個人で頼まれた
ことなどもしていた。練馬区の福祉事務所からも通知が来て、練馬区にも行ったこともあるし。で
も年を取ると、段々できなくなった。
(通訳のボランティアをやっている)メンバーは、みんな私のような中国から帰ってきた残留婦人
で、何人かいます。私たちより後に帰ってきた帰国者たちを手伝うのを中心にやっています。生活
で困った時、たとえば病院に行く時とか、入管に行く時とか手伝ったりしていた。60 歳を過ぎると、
ほかの仕事もままならないから、私は好きにやっていた。孤児たちは言葉が分からないでしょう。
そんな時中国語でおしゃべりしたり、なにか手伝ってあげると、すごく嬉ばれるのね。それが楽し
かった。私は東京生まれだから、地図を手にして、大体はどこでもいけるのね。出かけるのが好き
- 141 -
で。郊外に行くのも好き。知っているところも知らないところも。歩いていると、子供の時に遊ん
でいた場所が今こう変わったとか、いろいろ意外な発見があるから、楽しいですよ。
現在、東京都足立区で1人暮らし
日本に帰ってきて? もちろんよかったですよ。これは誰に対しても言えることです。中国で農作
業をしていた頃、よく「ふるさとの歌」
「椰子の実」のような日本語の歌を歌って、日本のことを思
っていた。いつか日本に帰りたい。1度でもいいから、日本に帰れるのであれば死んでもいいと思
ったぐらい。日中の国交が回復して、
「帰れますよ」と言われたから、じゃあ私も帰りたいと思った。
一時帰国の時は本当に嬉しかった。飛行機に乗って、上海から日本に向かった時、富士山か桜島か
見えるのではと一生懸命目を凝らして見てました。雨だったから見えなかったけれど。
でも今はこの建物から晴れた日の朝や夕方に富士山が見えるから嬉しいの。
いろいろ辛かったけども、子供も生き伸びたし、私も生き伸びたから、満足です。
2005 年現在、たつ子は 79 歳。子供たちからの同居の誘いをすべて断って、1人で足立区
の都営住宅に暮らしている。近所には長女の家族、長男一家、次男一家、三男一家が住んで
いる。子供や孫たちはよく遊びに来るという。
お孫さんは全部で何人って? 計算機で計算してあげましょうか。長女は4人、次女は3人、三女
は2人、四女も2人、長男は2人、次男は2人、三男も2人、全部で 17 人ですね。ひ孫は去年(2004
年)の年末に生まれた子を入れると、5人いますよ。
少し前にベランダで転んで、起きられなくなり、一時は料理や掃除など何もできなくなっ
た。トイレに行くのも大変だったという。今は介護認定を受けて、ヘルパーに来てもらって
いる。午前中は1人で、1時間半。午後は1人で2時間、家事を手伝ってもらっている。天
気のよい日に誰かに押してもらって車椅子で出かけることはできる。何年か前のゴールデン
ウイークに家族全員で箱根に旅行したと、嬉しそうに話してくれた。
日中の近代史に翻弄されながら、苦難の一生を歩んできたたつ子。たつ子の 79 年間の人
- 142 -
生は波乱に富んでいたと言えよう。戦争を体験し、人間の孤独、残酷を体験したからこそ、
たつ子は明鏡止水の心境で今の平和に向き合うことができ、どんな状況に置かれても生きて
行く強い意志を磨いてきたと思う。そしてどんな状況に居ても、たつ子は常に楽しみを探し
求めることを忘れなかった。
18 歳の時、列車に乗って、家族のために食料品を捜しまわって小さな旅をした。その旅は
いわば困難に出会ったときに、それに耐えるために自分で発見した楽しみであった。満洲と
いう広漠とした土地を黙々と耕し、日本語の歌などを通して、希望を探す楽しみを忘れなか
った。文化大革命中、どんなに苦しい生活になっても、子供たちに食事を作って、子供たち
を育てていく母親としてのたくましさ。受験生に日本語を指導して、子供たちに自分の可能
性を教える喜び。帰国後に積極的に残留孤児を助けることで、人を助ける楽しさを得た。た
つ子自身はもちろん、あとから帰国してきた自分の子供たちに生活保護を受けさせずに、自
力で生活するように教える「自力更生」の強さ、そして今、子孫に囲まれて晩年を過ごす「足
るを知る」境地。それら全てが辛い体験を成長の糧にして乗り越えてきた、たつ子がその都
度たくましく求めてきた「楽しみ」に支えられていたのだと今感じる。
◇◆◇◆◇◆◇
<注>
1 開拓団は東京都荏原区小山町の武蔵小山商店街商業組合を中心に、第1次中小企業整備によって転廃
業した人々によって結成された。業種は 154 種に及んだ。農業経験者は皆無だったので参加者は東京郊
外の研修所で農業を学んでから満洲に向かった。
(
『中国残留邦人聞き書き集 第1集』1−1より引用)
2 須田初枝は『中国残留邦人聞き書き集第1集』に所収されている残留婦人の1人。
3 在郷軍人を召集する命令書。臨時召集などの召集には淡赤色の紙を用いたので、俗に赤紙(あかがみ)
という。
4 昭和 20(1945)年 8 月 9 日、ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、戦車 5,000 台、兵員 157 万人の圧倒的
戦力で当時日本の支配下にあった満洲に侵攻した。
5 たつ子と同様に第 13 次興安東京荏原郷開拓団として渡満した。満洲での生活体験を著した『棄て民
よ蒙古嵐は祖国まで』新日本コミュニケーションズ、平成6(1994)年がある。
6 昭和 21(1946)年、日中戦争が終わった後、長春を支配するために共産党と国民党の間に行われた戦争。
- 143 -
四平は長春に入るための通り道。毛沢東は林彪を派遣して四平を攻撃する。林は四平に 10 万の兵力を集
中し、国民党と1ヶ月に渡って戦い、最後に共産党が勝った。
7 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米ソの対立を背景として、昭和 25(1950)
年6月衝突し、それぞれアメリカ軍を主体とする軍と中国義勇軍の支援のもとに分かれて国際紛争にま
で発展した戦争。同年 10 月以降、中国義勇軍が何回かにわたって中国と北朝鮮の国境である鴨緑江を
渡って、朝鮮人民軍を支援しアメリカと戦った。昭和 28(1953)年7月休戦。
聞き書きを終えて
私の父親は「残留孤児」です。中国に残された時、年がまだ小さかったため、戦争に対する記憶はまっ
たくありません。私のような帰国者二世、三世たちの来日の体験や日本で暮らしている今の生活、すべて
がその戦争と切っても切れない関係にあります。しかし恥ずかしながら、私はその戦争のことや、日中両
国の現代史についての知識はあまりに乏しいのです。従って、
「中国帰国者支援・交流センター」にこのよ
うな勉強の機会を与えてくれたことに感謝します。自分の体調を顧みず、長時間のインタビューに答えて
くれた飯白たつ子さんにも深く感謝を申し上げます。
飯白さんの四女、晶子さんと私は中学校の同級生でした。飯白さんは三男と晶子さんを連れて「常盤寮」
を出られたとき、ちょうど私の一家は日本にやってきました。18 年ぶりに飯白さんと再会ができて、一種
の運命のようなものを感じました。
聞き取りは全部で3回行いました。80 歳に近い方の人生には言うまでもなく、たくさんの「思い出」が
あります。たったの十数時間では話しても話し尽くせない、聞いても聞き尽くせないのです。字数と時間
の関係で、たくさんの内容を省略せざるをえませんでした。飯白さんには申し訳なく思うと同時に、証言
を記録するという意味において大変残念に思いました。
飯白さんのお父さんと一家は大の動物好きです。渡満前には猫を、満洲では犬を飼っていました。満洲
に行くことで、
またその後の避難生活のため、
猫や犬と別れなければなりませんでした。
「猫は家になつく」
、
「犬は人になつく」と動物のそれぞれの習性があると、私にとってとても興味深い話も聞かせていただき
ました。
またボランティアをやっていた頃、飯白さんにはとても仲のよい友人がいました。同じ開拓団の人でし
たが、通訳をやっていた頃に知り合いました。しかし小さな誤解で、2人の仲が悪くなりました。その友
人が亡くなった今でも誤解は解けなかったようです。聴いていた私はとても悲しくなりました。幸いその
友人の娘さんと飯白さんの娘さんはいま親友となり、付き合っています。飯白さんは電話をかけるのが大
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好きで、知り合いの残留婦人の方や残留孤児の方といつも連絡を取っています。
3回目聞き取りに行ったのは夏の6月末でした。
飯白さんは花柄の青いブラウスと白いズボンをはいて、
私を迎えてくれました。お召し物について「爽やかで夏らしいですね」と挨拶すると、飯白さんは少しは
にかんで、
「少し前に着替えました」と答えました。それは久しぶりに私に会うためだと分かって、そのお
心遣いが心にしみました。その日はテープ起こしの提出締め切り直前だったので、私は厚かましく1日い
させてもらいました。少し話しを聞いて、少し休む。お昼も食べて、昼寝まで一緒にさせていただきまし
た。都営住宅の窓とドアを全開にして、風通しがよく、気持ちのいい夏日のひとときを過ごしました。お
孫さんたちが遊んでいて置いていかれた風船に囲まれて横になりながら、私はあとがきのことを考えまし
た。
「満洲」の開拓移民として、中国へ渡ったという事実は無論日本近代史という背景があってのことです
が、一種の生の偶然でもあります。残留婦人が追放されたディアスポラとして中国で過ごしてきた 40 数
年間は、後世の私たちにとって最大の課題として今後も研究を継続し、立ち向かわなくてはなりません。
しかし「歴史」
、
「国家」
、
「国民」
、
「民族」といった概念を超えて、飯白たつ子という個人の角度から考え
ると、
彼女の生き方は我々後世の者たちに本当の生きる意味と勇気を提示してくれていると私は思います。
どんな困難な状況に置かれても、不平一つこぼさず、希望と楽しみを探し求める強い意志が何よりも大事
だということが、彼女の聞き取り調査を通して私が学んだ一番大きなことです。
(のはら としえ)
基本データ
聞き取り日:2004 年 11 月 26 日、12 月 20 日
聞き取り場所:飯白さん宅
初稿執筆:2005 年 7 月 3 日
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