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金融緩和でデフレ脱却はできるか

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金融緩和でデフレ脱却はできるか
今月の視点
金融緩和でデフレ脱却はできるか
みずほ総合研究所 経済調査部 部長 矢野和彦
日本経済
円安の日本経済への影響をどうみるか
─ 実質GDPの拡大と企業間格差の拡大 ─
欧州動向
2013年も欧州は
「政治の年」
─ 不透明感が増すイタリア総選挙の行方 ─
アジア動向
重い経済課題を背負う韓国新大統領
ロシア動向
始動するロシアの「イノベーション地域クラスター」
海外通信
外国人受け入れを抑制するシンガポール
─ 邦人への影響は限定的も、企業の人材確保に制約 ─
今月のキーワード
国土強靭化
今月の視点
金融緩和でデフレ脱却はできるか
日本経済
円安の日本経済への影響をどうみるか
─ 実質GDPの拡大と企業間格差の拡大 ─
欧州動向
2013年も欧州は
「政治の年」
─ 不透明感が増すイタリア総選挙の行方 ─
アジア動向
重い経済課題を背負う韓国新大統領
ロシア動向
始動するロシアの「イノベーション地域クラスター」
海外通信
外国人受け入れを抑制するシンガポール
─ 邦人への影響は限定的も、企業の人材確保に制約 ─
今月のキーワード
国土強靭化
みずほリサーチ February 2013
みずほ総合研究所のホームページでもご覧いただけます。
http://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/research/
本資料は情報提供のみを目的として作成されたものであり、商品の勧誘を目的としたものではありません。
本資料はみずほ総合研究所が信頼できると判断した各種データに基づき作成されておりますが、その正確性、
確実性を保証するものではありません。また、
本資料に記載された内容は予告なしに変更されることもあります。
今月の視点
金融緩和でデフレ脱却はできるか
安倍政権発足後、1 カ月が経過した。
「大胆な金融政策」、
「機動的な財政政策」、
「民間
投資を喚起する成長戦略」という 3 本の矢を掲げるアベノミクスに対する市場や国
民の評価はこれまでのところ良好で、政権は順調な滑り出しをみせたといえる。ただ
し、日銀による金融緩和こそがデフレ脱却の鍵を握るという政権の考え方には異論
もある。果たして「金融緩和でデフレ脱却」は可能なのだろうか。
みずほ総合研究所 経済調査部 部長 矢野和彦
アベノミクス始動
安倍政権が順調な滑り出しをみせている。政権は
発足後わずか1カ月の間に、国費10兆円・事業規模20
兆円の大型経済対策とそれに対応した補正予算を閣
議決定し、さらに 1 月 22 日にはデフレ脱却に向けて
2%の物価安定目標を明記した政府・日銀の共同声
明を発表した。アベノミクスと呼ばれる安倍政権の
経済政策の柱をなす「大胆な金融政策」、
「機動的な財
政政策」、
「民間投資を喚起する成長戦略」という、い
わゆる「3 本の矢」のうち前 2 者について早々の対応
をみせた格好だ。政策の方向感とスピーディーな対
応を市場は好感し株高・円安が進展、各種世論調査で
は内閣支持率の上昇が報じられている。
金融緩和の効果は不透明
順調な船出をみせた安倍政権だが、問題はこうし
た評価の高まりを今後も維持できるかどうかだ。と
りわけデフレ脱却に対する市場や企業・国民の期待
を、これからの政策運営でどこまで高められるのか、
あるいは維持できるのかが大いに注目される。
安倍政権を支える経済ブレーンの中では、デフレ
脱却については日銀が全責任を負うべしとの強硬な
主張もなされていると言われる。
日銀の強力な金融緩
和によるマネーの増大こそがインフレにつながる唯
一のファクターであるという考え方だ。
そこまで強硬
ではないにせよ、
日銀の強いコミットによる期待イン
フレ率の引き上げが物価上昇の鍵だと考える経済学
者もいる。
他方で、
これまでの日銀のスタンスは、
デフ
レマインドが定着している中で、
日銀のコミットだけ
でインフレ期待を高めることは困難であり、
それを無
理に押し通そうとすることは逆に金融政策運営に対
する信認低下につながりかねないというものであっ
た。筆者は、今回の2%の物価目標設定と政府との共同
声明にみられるように、
政府と日銀が連携してデフレ
脱却に対する強い姿勢を打ち出すことはデフレマイ
ンドの転換にとって重要な意味を持つと考えるが、
そ
うは言っても、
金融緩和だけでデフレ脱却が可能にな
るとは思っていない。デフレ脱却は実体経済の回復・
成長があってこそ実現するものだ。
デフレ脱却の鍵を握るのは、
結局は実体経済
図表1は、日本と米国のそれぞれについて実体経済
における需給状態と物価上昇率の動きをみたもので
ある。ここで実体経済の需給状態を表す指標には、日
米で多少異なるものを用いているが、考え方の基本
は同じである。すなわち、需要量としての GDP と、供
給力としての潜在 GDP(「資本量」、
「労働力」、
「生産
性」の 3 要素の下で産出可能と推計される GDP)との
力関係を示すものとして、日本ではGDPギャップ(実
際のGDP−潜在GDP)の対潜在GDP比を用い、米国
では実際のGDPと潜在GDPそれぞれの成長率ギャッ
プ
(実際のGDP成長率−潜在GDP成長率)
を用いてい
る。物価上昇率は日米ともに振れの大きい食料やエ
ネルギーを除く消費者物価の上昇率である。
図表からは、実体経済の需給状態と物価上昇率の
間に極めて深い関係が存在することが分かる。例え
ば、日本では GDP ギャップの動きに約 1 年遅れて消
費者物価上昇率が動くという関係がみてとれる。
2003 年後半に物価上昇率が高まり(マイナス幅が縮
小)GDP ギャップの動きと乖離が生じているが、こ
1
今月の視点
れは医療保険自己負担割合の引き上げに伴う公共料
金の上昇という一時的な特殊要因によるところが大
きい。それ以外の期間ではおおむね消費者物価上昇
率は、1 年程度の遅れで GDP ギャップの動きに追随
する。リーマン・ショック後の物価下落幅の拡大も、
基本的には景気悪化による需要不足の拡大が主因
だったとみることができる。
こうした需給状態と物価上昇率の関係は、米国に
おいても確認できる。米国では需給状態の変化が物
価上昇率の動きに反映されるまでの時間が日本より
多少長いようだが(約1年半のタイムラグ)
、両者の関
係は日本と同様に強い。
金融危機後に連邦準備制度理事会(FRB)が推し進
めた量的緩和について、一般には「信用収縮懸念の緩
和効果やデフレ阻止効果は相応にあったものの、
実体
経済を持ち上げる効果は限定的だった」
と評価される
ことが多い。
信用収縮懸念の緩和効果についてはその
通りであろうが、
デフレ阻止効果と実体経済への効果
についての評価は、やや疑問が残るところである。と
いうのも、図表からは、仮に量的緩和による実体経済
(における需給改善)への影響が小さかったのであれ
ば、
物価上昇率に対する影響も限定的だった可能性が
高いことが示唆されるからだ。
量的緩和がデフレ阻止
と実体経済の持ち直しのいずれにも大きく寄与した
というのであれば話は分かるが、いずれにしても、実
体経済の回復を抜きにして
「量的緩和によってデフレ
が阻止された」
という話にはならない。
日本も米国も、物価動向の鍵を握る最大のファク
ターはやはり景気、すなわち実体経済の動きなのだ
と筆者は考える。振り返ると、緩やかながらも戦後最
長の景気拡大期となった2002年から2007年にかけて
は、GDP ギャップの改善を背景にデフレ圧力が徐々
に緩和し、
消費者物価の下落にも歯止めがかかる状況
にまでこぎつけた。日銀による 2006 年の量的緩和の
解除は時期尚早だったとされたが、
実際にはその後も
2008 年初めまでデフレ圧力の緩和は続いた。それが
途切れたのは景気のピークアウトと世界金融危機に
よって実体経済の悪化が進んだためだ。
成長戦略の実行こそが最重要課題
日銀が大胆な金融緩和を続けることでインフレ期
待に働きかけることは重要だが、それだけではデフ
レ脱却はできない。大胆な規制緩和によるビジネス
チャンスの創出、課税ベース拡大とセットにした大
幅な法人税率引き下げ等々、アベノミクスの第 3 の
矢である「民間投資を喚起する成長戦略」を、まさに
矢継ぎ早に打ち出し実行に移していくことで、持続
的な成長を実現することこそが、デフレ脱却を実現
するためには最も重要だ。成長期待を高めることが
できなければ、おそらくインフレ期待・賃金上昇期待
も高めることはできないだろう。
「国民が求めるデフ
レ脱却の姿とは、景気が回復して賃金が上昇したり
企業収益が増えたりし、その結果として物価が上昇
するという姿だ」
という日銀の白川総裁の指摘は、ま
さに正論なのである。
その意味で、デフレ脱却には日
銀とともに政府も同等の責任を持つという強い姿勢
を示すべきではないかと筆者は考える。
●図表1 実体経済とインフレ率の関係
【日本】
(対潜在GDP比%)
(前年比、%)
0.2
2
1
0.0
1
0
▲0.2
0
▲0.4
▲1
▲0.6
▲2
▲0.8
▲3
▲1.0
▲4
▲1.2
▲5
▲1.4
▲6
▲1.6
▲7
2001 02
(前年比、%)
3.0
2.5
▲1
▲2
▲3
▲4
▲5
▲7
GDPギャップ(1年前)
米国基準コア消費者物価
上昇率(右目盛)
▲8
2001 02
03
▲6
【米国】
(%ポイント)
2
04
05
06
07
08
09
10
11
(年)
12
2.0
1.5
1.0
実際のGDP成長率と潜在GDP
成長率の差(1年半前)
コア消費者物価上昇率(右目盛)
03
04
05
06
07
08
09
0.5
10
11
0.0
(年)
12
(注)1.日本のGDPギャップはみずほ総合研究所の推計値。米国の潜在GDP成長率は米国議会予算局(CBO)の推計値。
なお、GDPギャップ=(実際のGDP−潜在GDP)
÷(潜在GDP)。
2.日本の
「米国基準コア消費者物価」は、食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合消費者物価を指す。
3.短期的な変動を均したトレンドをみるため、各系列はいずれも過去3四半期の平均値を用いた。
(マイナス幅の縮小)
は、
医療保険自己負担割合の引き上げに伴う公共料金の上昇の影響が大きい。
4.2003年後半における日本のコア消費者物価上昇率の高まり
(資料)
内閣府、
総務省、Haver Analytics Databaseなどより、
みずほ総合研究所作成
2
日本経済
円安の日本経済への影響をどうみるか
─ 実質GDPの拡大と企業間格差の拡大 ─
円安の進行は輸出数量の増加を通じて実質GDPの拡大をもたらし、所得収支黒字の
拡大により経常収支の黒字も増加していく。ただし、交易条件悪化により売上高に占
める輸出比率の高い企業に円安の恩恵が集中し、企業間格差の拡大や個人消費の下
押し圧力が高まる可能性には留意が必要だ。
2012 年末以降、政権交代に伴う積極緩和期待など
から急速に円安が進行し、それに伴う企業収益改善
ら1ドル=90円になった場合に、円安は実質GDPを
0.3%程度押し上げる。
期待などから、
株価も上昇している。超円高といわれ
た水準からの修正の動きは、産業界を中心に歓迎の
交易条件の悪化により貿易赤字は拡大
声が上がっているが、原発停止に伴い発電用燃料の
輸入数量が高止まりする中で、貿易赤字が拡大し、経
他方、輸入に関しては、ドル建て価格が変わらなけ
常収支も赤字に転じるのではないかという懸念の声
れば、円換算後の支払金額が増える。この時、国内に
もある。そこで本稿では、円安が日本経済にどのよう
代替財があれば、輸入品から国産品に切り替わるこ
な影響を与えるのかについて確認したい。
とが考えられる。つまり、輸入数量の減少によって輸
入総額が増えにくくなる。
輸出の増加により実質GDPは増加
しかし、近年輸入金額の 4 割程度を占めるアジア
からの輸入品のうち、特に汎用品については、製造コ
一般的に、円安の進行は、輸出の増加を通じて日本
スト面で価格競争力が高く、国産品に切り替わる効
経済にプラスの影響を与える。円安が輸出に影響を
果は限定的となり、輸入数量は減りづらいと考えら
与える経路は二つある。まずは、ドル建ての輸出価格
れる。また、発電用燃料は海外から調達せざるを得な
を維持していれば、海外からの需要量は変わらない
いため、為替の変動だけで輸入数量が減るとは考え
ので、円安になった分だけ輸出総額が増加するとい
う価格面からの効果である。他方、多少のラグを持っ
て現れる効果として、1 ドル当たりに得られる円が
●図表1 円安の影響(マクロモデルによる試算)
(単位:%)
為替レート(円/ドル)
増加することで、価格競争力が高まり、外貨建て輸出
85
価格を下げることで海外需要が増加するという数量
面からの効果がある。こうした輸出の増加が国内生
産数量の増加や製造業の収益改善をもたらし設備投
100
110
0.2
0.3
0.5
0.6
0.8
1.0
個人消費
▲0.0
▲0.0
▲0.0
▲0.1
▲0.1
▲0.1
設備投資
0.6
1.2
1.6
2.1
2.8
3.5
実質GDP
90
95
120
輸 出
0.7
1.4
1.9
2.4
3.3
4.1
資を喚起することで、実質 GDP を押し上げる。みず
国内企業物価
0.5
0.9
1.2
1.5
2.1
2.6
ほ総合研究所のマクロモデルを用いて試算してみ
消費者物価
0.1
0.2
0.3
0.4
0.6
0.7
たのが図表1である。円ドルレートが1ドル=80円か
(注)みずほ総合研究所マクロモデルによる試算
(1ドル=80円ケースとの比較)
。
(資料)
みずほ総合研究所
3
日本経済
にくい。
生産だけが日本に残り、こちらも為替変動に関係な
ここで問題となるのは、円安になったときに、輸出
く輸出数量が決まることになる。
総額と輸入総額のどちらがより増えるのかというこ
そこで、経済産業省の「海外事業活動基本調査」か
とである。日本の輸出入は、2012 年下期で、円建て比
ら、海外に生産拠点を持っている企業の輸出動向を
率が輸出約 4 割、輸入約 2 割となっており、外貨建て
みてみた(図表 3)。その結果、製造業の輸出売上高比
比率の高い輸入の方が、為替変動の影響を受けやす
率は、リーマン・ショック前まで緩やかに高まってき
い。現在、日本の貿易収支は赤字であるため、円安に
たことがわかる。海外生産の拡大が最も進んでいる
よる輸出数量の増加を考慮しても、みずほ総合研究
輸送機械に注目してみると、現地生産用部品を含む、
所の試算では貿易赤字は拡大する(図表 2)。貿易収
現地法人向け輸出の増加が相応に寄与しており、海
支の悪化幅は、円ドルレートが80円から90円になっ
外生産の拡大によって、為替感応度が低下した可能
た場合で現状0.5兆円程度と試算される。
性が示唆される。リーマン・ショック後は、一時的な
加えて、企業の海外生産の拡大などにより以前よ
落ち込みはあったものの、製造業全体では緩やかに
りは円安によって輸出数量が増えにくくなっている
輸出売上高比率が回復してきている。しかし、輸送機
のではないかという議論もある。日本企業が海外生
械は、輸出売上高比率も現地法人向け輸出売上高も
産を拡大してきた背景には、現地に生産拠点を作れ
下げ止まっていない。この間、自動車の海外生産は増
るほど海外需要が高まったことや、新興国企業の成
加を続けていることから、超円高と言われる為替水
長や製品のコモディティ化により価格競争が進展
準の下で、現地生産用部品の現地調達を拡大してい
し、よりコストの安いところで生産する必要性が高
る可能性がある。部品の現地調達の拡大は、日本から
まったことがある。海外に生産拠点を作る場合、
部品
の輸出品と現地調達品の価格競争を激化させるた
製造から組み立てまで全てを現地で行うのではな
め、輸送機械などで、リーマン・ショック以降、為替感
く、部品は日本からの輸出で調達することもある。
こ
応度は逆に高まっている可能性がある。
の現地生産向け部品は、現地の生産水準で輸出数量
が左右されるため、為替変動に対しては影響を受け
にくい。輸出に占めるこうした部品の割合が高まる
ことで、輸出の為替感応度が低下する可能性がある。
また、国内生産では価格競争に勝てない財を海外生
●図表3 輸出売上高比率の推移
(%)
60
第三者向け輸出売上高比率
現地法人向け輸出売上高比率
輸送機械の輸出売上高比率
50
産する動きが高まれば、非価格競争力の高い製品の
40
●図表2 円安による貿易収支(通関ベース)の悪化幅
30
(単位:兆円)
為替レート
(円/ドル)
貿易収支
増減
輸出金額
増減
輸入金額
増減
85
1.9
2.1
▲0.2
90
3.5
4.0
▲0.5
95
5.0
5.7
▲0.7
100
6.3
7.2
▲0.8
製造業全体の輸出売上高比率
10
110
8.7
9.8
▲1.1
120
10.6
12.0
▲1.4
(注)みずほ総合研究所による試算値(1ドル=80円ケースとの比較)。
(資料)
みずほ総合研究所
4
20
0
2001
02
03
04
05
06
07
08
09
10
(年度)
(注)1.海外事業活動基本調査における本社企業の売上高、輸出高、
現地法人向け
輸出高を各年度で1社平均した値を使用。
2.輸出売上高比率=輸出高÷売上高。
3.現地法人向け輸出売上高比率=現地法人向け輸出高÷売上高。
4.第三者向け輸出売上高比率=輸出売上高比率−現地法人向け輸出売上高
比率。
(資料)経済産業省「海外事業活動基本調査」
所得収支は増加することになる。その結果、貿易収支
所得収支の黒字幅拡大により
経常収支黒字は増加
の悪化幅を所得収支の増加幅が上回り、経常収支は円
安になるほど増加する試算となる。
2012 年は、貿易赤字の拡大により経常収支も赤字
過度の円安は企業の二極化をもたらす
になるのではないかと懸念されてきた。円安の進行
によってその可能性は強まるとみるべきなのだろう
上記の試算から言えることは、円安の進行によっ
か。足元の経常収支は、貿易収支、サービス収支、経常
て実質GDPは増加し、経常収支も改善するというこ
移転収支の赤字を所得収支の黒字が上回ることで全
とである。では、円安になればなるほど日本経済に
体の黒字を維持している。このうち、黒字部分の所得
とってはプラスかというとそうではない。極端な円
収支がどう変化するかが、経常収支が赤字化するか
安の進行は、円安による輸出の恩恵を受ける企業と
どうかの鍵を握る。これについて試算したのが図表
輸入品によるコストの増加により収益が圧迫され
4 である。みずほ総合研究所では、円安が急速に進行
る企業を生む。例えば、一般機械や電気機械、輸送機
する前の2012年12月の経済見通しにおいて、2013年
械などは売り上げの 4 割程度を輸出であげている。
度は1ドル=82円で経常収支が6.3兆円程度と見込ん
これら業種は、原材料に輸入品を使っていたとして
でいた。図表 4 はその水準から円安になったときの
も、ドル建てで輸出できれば、
原材料価格の上昇分を
経常収支の変化を示している。
補って余りある利益をあげることができる。
他方、石
所得収支が黒字ということは、海外現地法人の設立
油・石炭製品のように、
原材料はほぼ輸入調達で販売
や企業合併・買収(M&A)などの対外直接投資からの
先が国内という業種では、輸入価格の上昇分を国内
リターンである直接投資収益と債券や株式の利子や
価格に転嫁できなければ、その分収益が圧迫される
配当である対外証券投資収益が、対内直接投資や対内
ことになる。
証券投資のリターンとして海外に支払われる分を上
仮に輸入価格の上昇が国内価格に転嫁されると、
回っているということである。対外資産のうち約 3 割
そのコスト増分は、
企業・家計が広く薄く負担するこ
が米国向けである。もし円安になれば、この対外資産
とになる。輸入金額の増加が大きくなると、輸出ウ
の受け取りは増加するが、対内投資に対する支払いは
エートが低い製造業や非製造業、さらには家計の負
為替変動の影響を受けないので、円安になった分だけ
担感が強まり、円安のデメリットを感じる主体が多
くなるだろう。家計の負担感の強まりによって、消費
●図表4 2013年度の経常収支(国際収支ベース)
試算
(単位:兆円)
為替レート
(円/ドル)
経常収支
者マインドが大きく悪化するようなことがあれば、
個人消費を下押しするリスクが高まる。円安には、
GDP の拡大や経常収支黒字の増加というメリット
貿易収支
所得収支
82
▲5.8
14.9
6.3
だけでなく、貿易赤字の拡大や企業間格差の拡大、家
85
▲6.0
15.1
6.3
計の負担増というデメリットもあるという点には留
87
▲6.2
15.2
6.3
90
▲6.3
15.4
6.3
95
▲6.4
15.8
6.6
100
▲6.6
16.1
6.7
105
▲6.8
16.4
6.9
110
▲6.9
16.8
7.3
(資料)みずほ総合研究所
意が必要だろう。
みずほ総合研究所 経済調査部
シニアエコノミスト 前川亜由美
[email protected]
5
欧州動向
2013年も欧州は「政治の年」
─ 不透明感が増すイタリア総選挙の行方 ─
2013 年は重要な秋のドイツ総選挙に先立ち、まずは 2 月末のイタリア総選挙が注
目される。イタリアの選挙戦は三つ巴の混戦模様となっており、上下院で「ねじれ」と
なる可能性が有力視されている。
「ねじれ」によって新政権の政策運営が停滞し、財政
再建・改革路線が後退すれば、南欧支援の枠組みへの不安が生じかねない。
2012 年は世界の主要各国で総選挙等が行われた
債利回りは4%台へと低下した。
「政治の年」であった。5 月のフランス大統領選挙を
一方、大幅な緊縮によってイタリアは深刻な景気
皮切りに、11 月に米国大統領選挙、12 月に韓国大統
後退に陥り、国民の不満は高まった。就任当初、モン
領選挙、日本の衆議院総選挙が実施された。中国では
ティ首相の支持率は 70%台と、熱狂的な支持を受け
11 月に習近平体制へと移行した。そして、欧州では
ていたが、6 カ月後には 30%台まで低下した。世論の
2013年も「政治の年」が続くことになる。2月24・25日
厳しさが増すと、従来から 2013 年 4 月頃に総選挙が
にはイタリア総選挙、秋(9・10月頃)にはドイツ議会
予定されていたこともあり、主要政党のモンティ政
総選挙を控えている。特に、イタリア総選挙の結果次
権への協力姿勢は徐々に弱まっていった。
第では欧州債務危機が再燃する恐れがあり、目先の
動向には注視が必要である。
こうした中、2012 年 12 月、議会で最も大きな勢力
を有する自由国民党(PDL)が突如、モンティ政権へ
の支持を撤回した。これを受けてモンティ首相は 12
モンティ政権発足後の成果
月 8 日に辞意を表明し、2 月末に前倒しで選挙が実施
されることになった。
マリオ・モンティ氏が率いる現政権が発足してか
らのイタリアの状況を振り返っておこう。モンティ
総選挙後に「ねじれ」議会となる恐れ
氏が首相に就任したのは、イタリアの財政懸念が高
まっていた 2011 年 11 月である。当時のイタリアは、
支持率を見ると、選挙戦は、①モンティ首相が率い
10 年物国債利回りが 7%超と、危機的状況に直面し
るグループ(モンティ連合)と、②PDL中心のグルー
ていた。モンティ首相は議員以外の学者等で構成し
プ(PDL 連合)、③民主党中心のグループ(民主党連
た実務者(テクノクラート)内閣を発足させ、イタリ
合)による三つ巴だ。モンティ連合の支持率は 15%
アの信認回復に向けて矢継ぎ早に対策を打ち出し
前後にとどまっており、PDL 連合と民主党連合の動
た。政権発足1カ月後の12月には総額340億ユーロ相
向に注目が集まっている。果たして、財政再建・構造
当の緊縮措置を発表し、年明け後には構造改革にも
改革路線は維持されるだろうか。
着手した。例えば、長年、問題視され続けながら放置
まず、
前倒し総選挙のきっかけを作ったPDLは反緊
されてきた労働市場の硬直性にメスを入れ、6 月に
縮・反モンティ路線を標榜している。同党を率いるベル
改革法案が可決された。
ルスコーニ前首相は、イタリアの経済危機の原因がモン
イタリアの改革に対するユーロ圏各国の評価は高
ティ政権の政策運営にあると主張し、また、欧州債務
く、モンティ首相は各国首脳から一目置かれる存在
危機を深刻化させたとしてドイツに対する批判もはば
となった。同時に、金融市場の信認も改善し、同国国
からない。
PDL はベルルスコーニ氏が売春等の嫌疑を
6
かけられて公判中というスキャンダルを抱えているた
樹立する可能性が高いものの、財政再建・改革志向を
め、
2008年の前回総選挙時のような高い支持を得られ
継続できるのかは不透明なのだ。新政権は発足当初
ていないが、
「北部同盟」との連立協議に合意する等に
から困難な政策運営を強いられるかもしれない。
よりてこ入れを図っている。これにより1月半ば時点、
PDL連合の支持率は20%台後半まで伸張している。
春先にかけた財政を巡る欧米の政治リスク
30%超の支持率を集め、選挙戦のトップを走るの
が民主党だ。民主党のピエル・ルイジ・ベルサーニ党
財政再建・改革路線が後退すれば、イタリア国債は
首はモンティ政権の財政再建路線を踏襲すると表明
再び市場の容赦ない攻撃にさらされかねない。現状、
している。このため、選挙後にはモンティ連合との政
欧州中央銀行(ECB)の国債購入策(OMT)への期待
策協調の可能性も取り沙汰されている。
を背景に市場は安定しているが、
緊縮財政・構造改革
ただし、民主党連合とモンティ首相の主張は完全
の実施がOMTの発動条件であるため、その条件が満
に一致しているわけではない。民主党の支持母体で
たされない状況となれば、市場の安定が崩れるリス
ある労働組合や民主党と連立を組む一部の左派政党
クはある。
はモンティ政権が推し進めた労働市場・年金制度改
さらに、イタリア総選挙後を展望すると、スペイ
革に反発しており、モンティ首相も労働組合・左派政
ンを巡る動向も懸念材料だ(図表 1)。既に一部のメ
党を改革への抵抗勢力として批判している。また、民
ディア等でも報じられているように、近々発表され
主党内の一部は緊縮措置の緩和を望んでいると言わ
る 2012 年のスペインの財政収支統計では、財政赤字
れており、民主党連合とモンティ連合の連携には難
の削減目標(GDP 比 6.0%)を達成できなかったこと
しさがあるとの指摘も聞かれる。
が判明しそうだ。そのため、スペインには 2013 年の
さらに、選挙後には「ねじれ」議会になるとの見方
目標(同4.5%)の見直しが必要と目されるが、目標を
が有力視されていることも気懸かりだ。イタリアの
緩和するにはドイツ等の支持が重要である。しかし、
総選挙は比例代表制で、下院では全国区、上院では各
秋に総選挙を控える独メルケル政権が、スペインに
州で実施される。このうち、下院では得票率トップの
寛容な姿勢を示すのかは不透明である。
政党連合に過半数の議席が与えられるため、民主党
最後に、5 月にかけて米国の債務上限問題を巡る
連合が安定多数を確保できそうだ。一方、上院では各
議論が佳境を迎えると予想される時期とも重なるこ
州の人口に応じて議席が割り振られるが、人口の多
とを指摘しておきたい。春先以降、財政を巡る欧米の
い北部諸州は伝統的に PDL 等の支持基盤である。こ
政治リスクから目を離せそうにない。
のため、民主党連合にモンティ連合を加えても上院
での過半数確保は難しく、政権運営には PDL 連合の
みずほ総合研究所 市場調査部
協力が必要との観測が根強い。
シニアエコノミスト 中村正嗣
こうした点を踏まえると、民主党中心の新政権が
[email protected]
●図表1 欧米の政治関連スケジュール
2013年
2月
7・8日
11・12日
17日
24・25日
3月
4・5日
14・15日
∼上旬
欧州
欧州連合(EU)予算サミット
15・16日
ユーロ圏財務相会合、EU財務相理事会
末
キプロス大統領選挙
イタリア総選挙
ユーロ圏財務相会合、
EU財務相理事会
末
EUサミット
スペインの2012年財政収支発表
(見込み)
米国等
G20財務相・中央銀行総裁会議
自動的な歳出削減の一時凍結の期限
2013会計年度の暫定予算が失効
(前年に続き目標未達成の可能性が大)
∼3月末 「銀行同盟」の議論の深化
(欧州安定メカニズム(ESM)による銀行へ
の直接資本注入ルールの策定等)
5月
9・10月
19日
債務上限の引き上げが必要
ドイツ議会総選挙
(資料)欧州委員会、各国政府、各種報道などよりみずほ総合研究所作成
7
アジア動向
重い経済課題を背負う韓国新大統領
韓国では2012年12月、大統領選が実施され、セヌリ党の朴槿恵(パク・クンヘ)候補
が民主統合党の文在寅(ムン・ジェイン)候補を破り、勝利した。2月25日、朴新政権が
誕生するが、景気は足元で減速基調にあり、
頼みの綱の輸出もウォン安の修正などで鈍
化している。朴新大統領は就任早々、
難しい政策運営を迫られている。
朴新大統領を待ち構える経済情勢は厳しさを増
している。足元の景気をみると、実質 GDP 成長率は
2012 年初をピークに減速している(図表 1)。この主
因は、世界経済の低迷で「頼みの綱」とも言える輸出
が伸び悩んでいるからだ。輸出依存度(輸出総額÷名
目 GDP)が約 5 割の韓国にとって、輸出の停滞は、企
業業績、雇用・所得環境の悪化を通じて設備投資、個
人消費といった民需への下押し圧力になる。既に、個
人消費は住宅価格の低迷や家計の債務負担も重石
となって、低迷している。また、設備投資はIT(情報技
術 ) 関連を中心に 2 四半期連続で 2 桁の落ち込みを示
し、冷え込んでいる。
しかも、これまで輸出への追い風となってきた
ウォン安の修正に拍車がかかってきた。ウォン相場
は2012年9月以後、米国の量的緩和実施に伴い韓国へ
の資金流入が増加したことなどを受けて、対ドル、対
円いずれの通貨に対しても上昇傾向が強まった(図
表 2)
。こうした環境下、米国が為替政策報告書(2012
年11月)の中で、韓国のウォン安誘導を目的とする為
替市場介入に厳しい見方を示したことに加え、国内
でもウォン安が燃料価格の上昇などを通じて国民生
活を圧迫しているとの反発が出始めた。韓国経済の
浮沈を握る輸出競争力の確保にはウォン安維持が必
要といえ、現在も為替市場介入は継続されているが、
それは小規模にとどまっている模様だ。朴新政権で
はウォン安誘導政策を採りづらくなっている。
また、日本に比べて 3 分の 1 といわれる電力コスト
も今後は見直しが必至の状況だ。韓国ではここ数年、
液化天然ガス (LNG) 価格上昇などを受けて発電コス
トが上昇する一方、企業の競争力に影響するため、政
府は、電力料金の引き上げには消極的だった。このた
め、電力を供給する韓国電力は、高い電力を購入して
安く売るという「逆ザヤ」状態が続き、
3年連続で経常
●図表1 韓国の実質GDP成長率
●図表2 ウォン・レートの推移
(対ドル・対円)
転換を迫られる輸出頼みの経済運営
(前期比年率、%)
(ウォン/ドル)
20
(ウォン/100円)
1,150 ウォン
高
1,050
個人消費
総固定資本形成
純輸出
政府消費
在庫投資
GDP
ウォン/ドル
(左目盛)
1,070
1,200
1,250
1,090
10
1,300
1,110
1,350
1,130
1,400
1,150
0
1,450
1,170
ウォン/100円
(右目盛)
1,190
▲10
2009
10
11
12
1
2
3
4
5
6
(注)統計上の不突合があるため、
項目の合計とGDPは一致しない。
(資料)韓国銀行
8
7
2012
(年/四半期)
(注)目盛は軸を反転してある。
(資料)CEIC
8
9
10 11 12
1,500
ウォン
安
1(年/月)
1,550
2013
赤字である。韓国では、日本以上に原子力発電への依
存が高いことも電力コストの低さの要因となってい
たが、ここにきて原子力発電所の老朽化や不正部品
の使用の発覚が相次ぎ、
2012年後半だけで3基が操業
停止に追い込まれている。こうしたなか、反原発の動
きは韓国でも広がりを見せており、新規建設は日本
同様、容易ではない。このため、今後、これまでのよう
な低い電力料金を維持することは難しいだろう。
反財閥の風潮の中で強まった
「経済民主化」要求
このように、低位に維持された為替レートや電気
料金の見直しが必至とみられるなか、さらに経済成
長を主導してきた財閥・大企業に対する風当たりも
強まっている。
李明博(イ・ミョンバク)政権は財閥・大企業を優遇
し、輸出主導で経済成長を図ってきた。この政策でサ
ムスン電子、現代自動車、LG グループなどはグロー
バル市場で存在感を高めた。しかし、効率経営を徹底
させる財閥・大企業は正規雇用者よりも非正規雇用
者で対応する姿勢を強めた。また、財閥・大企業から
コスト削減を求められる中小下請け企業は、経営を
圧迫されている。経済力の集中は企業の競争力の格
差につながり、非正規雇用者の増加は家計の所得格
差の拡大を引き起こして内需の疲弊を生む一因と
なっている。こうして、反財閥の風潮が強まるなか、
今回の大統領選では「経済民主化」が大きな争点と
なった。
(注)
経済民主化とは、憲法119条2項 に登場する概念
で、①社会の格差を縮小する、②公正に競争できる環
境を作る、③財閥・大企業から自営業者までさまざま
な企業が共生できる環境を目指そうというものだ。
憲法119条は、もともと全斗煥(チョン・ドファン)元
大統領が 1987 年に、軍事政権の政策に財閥が反対で
きないように追加したものだが、25 年の歳月を経て
趣旨は違えども改めて重みを持つようになった。
今回の大統領選で、
朴・文両候補ともに財閥改革を
通じた経済民主化を公約に掲げた(図表 3)。野党候
補の文氏は財閥・大企業の活動を法的に厳しく制限
することで、所得格差の是正を図るとした。一方、朴
氏は公約に「財閥の経済力乱用を防ぎ、公正な取引秩
序の確立」とうたって財閥改革を訴えたが、過度の規
制はかえって経済停滞を招くと、選挙終盤は財閥・大
企業と中小企業がともに成長できる「同伴成長政策」
を主張した。
財閥・大企業寄りの政策継続は困難に
今回の選挙で、国民は結局のところ「所得格差の是
正は必要だが、そのために成長まで犠牲にしてはな
らない」と判断し、先鋭的な財閥規制を掲げた文候補
よりも穏健な朴候補を選択した。しかし、財閥に対す
る風当たり、格差拡大に対する国民の不満は着実に
強まっており、朴政権が李政権のような財閥・大企業
寄りの政策を続けることは困難だろう。
朴新大統領は、変革期にある韓国経済で、一定程度
の成長を維持させながら、格差是正に取り組み、いか
に「経済民主化」を実現させていくのか、その手腕が
試されている。
みずほ総合研究所 アジア調査部
主任研究員 苅込俊二
[email protected]
●図表3 大統領選における朴槿恵・文在寅 両候補の政策スタンス
朴槿恵
(セヌリ党)
より公正な経済民主化
・均衡ある成長を推進
・すべての経済主体が共存・共生できる市場経済の確立
財閥改革は必要だが、
過度の規制は経済停滞を招く
・新規の循環出資だけを禁止
・出資総額規制はしない
低収入の非正規雇用は国民年金保険料を無料化
所得に応じて大学授業料を25∼100%支援
歴史・領土問題は断固対処
・日本に正しい歴史認識をするよう求める
日韓経済連携協定(EPA)の交渉再開、
早期締結を目指す
文在寅
(民主統合党)
経済民主化で共によく生きる社会
経済政策
・公正な市場経済を確立
の考え方
・国民経済の構成員すべてが持続的な成長を目指す
特別な恩恵を受けてきた財閥・大企業への規制は必要
財閥改革 ・循環出資を3年以内に解消
・出資総額規制を再導入
雇用 非正規雇用の割合を半分に減らす
教育 大学授業料を一律半額
歴史・領土問題では断固対処
対日政策
通商政策全般について再検討
(注)循環出資とは中核企業であるA社がB社の持ち分を確保して支配株主になり、B社は同じ方式でC社に出資し、C社がA社に出資する
ことで、系列会社の支配力を確保する出資方式。
(資料)各種報道資料により、みずほ総合研究所作成
(注)国家は均等な国民経済の成長及び安定と適正な所得の分配を維持し、市場の支配と経済力の乱用を防止し、経済主体間の調和による経済の民主化のため
に、経済に関する規制と調整を行える。
9
ロシア動向
始動するロシアの
「イノベーション地域クラスター」
ロシアでは、昨年の選挙で大統領に復帰したプーチン政権の下で、資源依存型の経済
構造からの脱却に向けて様々な取り組みが本格化している。その一環として注目を
集めているのが「イノベーション地域クラスター」創設の動きだ。
令により、世界銀行によるビジネス環境ランキング
プーチン政権下で本格化する
経済構造改革の取り組み
(“Doing Business”)におけるロシアの順位を、2011
年の 120 位から、2018 年には 20 位に引き上げるとい
う数値目標が掲げられるとともに、この目標の実現
ロシアでは2012年5月に大統領に返り咲いたプー
に向けて「企業家権利擁護のための大統領全権代表」
チン政権の下で、かねてからの課題である資源依存
制度の創設が命じられた。同制度の狙いは、現行の経
型の経済構造からの脱却に向けた様々な取り組み
済関連の諸法令や法案をサーベイした上で、ビジネ
が始められている。プーチン大統領による経済政策
ス・投資環境に悪影響を及ぼしているものを抽出し、
の基本的な方向性は、同大統領の首相時代の指示に
その改正の提言を行う大統領直轄の機関を設立する
よって作成が進められ、大統領選挙直後に公表され
ことにあるとされ、現在そのための法案が議会で審
た政策提言文書「戦略 2020:新しい成長モデルと新
議されている。
しい社会政策」から読み取ることができる。そこで
示されているコンセプトは、ロシア経済は中長期的
に年率 5%以上の成長率を実現することが目標であ
始動する「イノベーション地域クラスター」
政策
り、そのためにはマクロ経済の安定化やビジネス・投
資環境の改善、イノベーションの促進が不可欠であ
る、というものだ。
さらに、イノベーションの促進に向けた取り組み
も本格化しつつある。プーチン大統領は首相時代か
これらの課題への取り組みの状況をみると、まず
ら、地域クラスター政策(情報通信やバイオテクノロ
マクロ経済の安定化に関しては、上記「戦略」の提言
ジーなどの特定分野の企業、大学、研究機関、自治体
内容に沿った新たな予算編成方式が 2013 年の連邦
などを地理的に集積させ、
それら相互の連携・競争を
予算から導入されている。これは毎年の予算編成時
強化する政策)を通じてイノベーションの促進を図
に、歳出規模を過去の一定期間の原油価格に連動さ
る方向性を明確に打ち出していた。そしてこの方向
せることで安定させる措置で、2013 年の連邦予算に
性に基づいて、2011 年末頃からロシア政府によるク
ついては過去 5 年間のウラル原油価格平均に基づい
ラスターの公募・選定が行われ、2012 年 8 月、政府が
て歳入予定額が定められ、歳出予定額は財政赤字が
今後支援していく 25 の「イノベーション地域クラス
GDP 比 0.8%となるように定められている。さらに
ター」が公表された。
2014 年からは平均油価の算定対象期間が 1 年ずつ増
選ばれた 25 のクラスターは、地理的にはロシアに
やされ、2018 年からは、過去 10 年間の平均油価に基
全部で 7 つある連邦管区のうち、北カフカス連邦管
づく均衡予算が実現される予定である。
区を除く 6 つに分布しており、主な事業分野として
また、ビジネス・投資環境の改善に向けた取り組
は、医療・医薬品、情報通信技術(ICT)、新素材、航空
みも始まっている。具体的には 2012 年 5 月の大統領
機・宇宙産業、核・放射線技術など、いわゆるハイテク
10
産業が想定されている(図表 1)。別途公表された資
制(日本の法人税に相当する組織利潤税の全額免除
料によれば、クラスターへの参加予定企業のなかに
など)の一部をイノベーション地域クラスターにも
は、インテルやオラクル(いずれもサンクトペテルブ
適用する、といった措置が検討されている。
ルク市のクラスターに参加予定)、ボーイング(同ス
こうして、ロシアでは初となる包括的な地域クラ
ヴェルドロフスク州)
など、世界的に知られる多国籍
スター政策が動き出したわけだが、その行方はまだ
企業のロシア子会社が少なからず含まれていること
不透明な状況にある。一般にクラスターは、企業や研
が目を引く。また、25 のクラスターを合わせた研究
究機関が多数存在するだけでなく、それらが相互に
開発費は今後 4 ∼ 5 年間で 50%近く増加する見込み
連携しつつも競争することで、初めて成立するもの
であり、総売上高については 100%超の増加率が見
であるとされる。しかし、今回選ばれた 25 のクラス
込まれるなど、きわめて意欲的な事業計画が組まれ
ターの中には、ソ連時代から存続する、いわゆる「企
ていることも特徴的だ。
業城下町」をベースにしたものも少なくなく、こうし
た古いタイプの産業集積に、企業間の連携と競争を
企業間の連携と競争環境の創出が鍵に
根付かせるのは容易ではないはずだ。今後、イノベー
ション地域クラスターが機能し、ロシア経済の高度
連邦政府では現在、経済発展省が 2012 年 9 月に出
化・多角化に貢献できるかどうかは、クラスター参加
した提案を基に、イノベーション地域クラスターへ
者間の連携と競争環境の創出に向けて、連邦・地方政
の支援策の検討が進められている。具体的には、①各
府がどこまで有効な措置を講じられるかにかかって
地域がイノベーション地域クラスターの発展を促進
いると言えるだろう。
するための資金を、連邦政府が補助金として提供す
る、②ロシア鉄道、MRSK ホールディング(配電持ち
みずほ総合研究所 政策調査部
株会社)などの国営大企業の参加を促進する、③モス
主任研究員 金野雄五
クワ郊外で建設が進められているイノベーション・
[email protected]
センター「スコルコボ」の入居者に適用される優遇税
●図表1 ロシアの「イノベーション地域クラスター」
所在地域
クラスターの名称
所在地域
クラスターの名称
中央連邦管区
北西連邦管区
オブニンスク市医薬品・
アルハンゲリスク州
アルハンゲリスク州造船クラスター
カルーガ州
バイオテクノロジー・クラスター
サンクトペテルブルクIT・
サンクトペテルブルク市
「ゼレノグラード」
情報通信機器開発クラスター
モスクワ市
(ICT,エレクトロニクス)
サンクトペテルブルク市,サンクトペテルブルク医療・
トロイツク市新素材・
レニングラード州
医薬品・放射線技術クラスター
モスクワ市
レーザー技術クラスター
沿ボルガ連邦管区
ドゥブナ市核物理学・
ニジェゴロド自動車製造・
モスクワ州
ニジェゴロド州
ナノテクノロジー・クラスター
石油化学クラスター
モスクワ州
プシチノ・バイオテクノロジー・クラスター
サロフ・イノベーション・クラスター
ニジェゴロド州
モスクワ州
「Phystech 21」
(新素材,医療・医薬品,ICT)
(核技術,スーパーコンピューター)
ウラル連邦管区
ペルミ地方
ロケットエンジン・イノベーション・クラスター
バシコルトスタン共和国 石油化学地域クラスター
スヴェルドロフスク州 スヴェルドロフスク州チタン・クラスター
モルドヴィア共和国
省エネ・スマート照明技術クラスター
シベリア連邦管区
カマ・イノベーション地域クラスター
タタルスタン共和国
(石油・ガス化学、自動車製造)
アルタイ地方
アルタイ・バイオ医薬品クラスター
サマラ州
サマラ州航空宇宙クラスター
ケメロヴォ州
石炭・産業廃棄物複合加工クラスター
「ウリヤノフスク・アヴィア」
ジェレズノゴルスク市
ウリヤノフスク州
クラスノヤルスク地方
(航空・宇宙機器製造,新素材)
イノベーション・クラスター
ウリヤノフスク州
ディミトロフグラード核イノベーション・クラスター
ノヴォシビルスク州情報・
ノヴォシビルスク州
バイオ医薬品技術クラスター
極東連邦管区
ハバロフスク地方航空機製造・
トムスク州医薬品・医療機器・
ハバロフスク地方
トムスク州
造船イノベーション・クラスター
情報技術クラスター
(資料)ロシア経済発展省ウェブサイトより、みずほ総合研究所作成
11
海外通信 from Singapore
外国人受け入れを抑制するシンガポール
― 邦人への影響は限定的も、企業の人材確保に制約 ―
「高度経済成長のような勢い」で
日本人が増加
「会員が急増しています」。年明けに、シンガポール
日本人会から送られてきた会報を読んだ。2012 年 1
月の4,698世帯から、同12月は5,052世帯と7.5%増加
したという。2011 年の年間増加率は 5.9%で、2012 年
はこれを上回る増加率だったことから、
「高度経済成
長のような勢い」と評されている。また、二つある日
本人小学校のうち、一方の学校では児童数が増えす
ぎて編入を見合わせている学年もある。
日本人会の会員数や生徒数の増加からは、急成長す
る海外市場に日本企業が活路を求めて進出し、これに
伴って在留邦人が増加している動きが実感される。近
年のシンガポールでは、大企業がアジア地域の統括組
織を新設するだけでなく、中小企業もアジア市場の足
がかりとして進出してくるケースが増えている。
街中を歩
くと、日本のレストランや小売店など、特にサービス業の
分野で中小企業の進出が増えている印象を受ける。
外国人受け入れ抑制の影響で
人手不足が深刻化
企業進出の増加はシンガポールにとっていいこと
ばかりではない。それ以前の積極的な受け入れの結
果、外国人を中心に人口が増加し、
「シンガポール国
民の雇用が脅かされる」
「住宅不足や交通渋滞が深刻
化した」といった国民の不満が高まっている。また、
安易に外国人雇用を増やせたことから、経済全体の
生産性改善がおろそかになったという弊害も指摘さ
れており、2010 年頃から、シンガポール政府は外国
人の受け入れを抑制する方向に転換している。
具体的には、単純労働者と高卒程度の中間的スキ
ル労働者に関して、外国人雇用税を引き上げている。
例えば、サービス業の単純労働者の場合、
2011 年 7 月
以前の雇用税は1人当たり月額270シンガポールドル
12
(以下Sドル、
1.9万円)
だったが、
今年1月から370Sド
ル(2.6万円)となり、
7月からは400Sドル(2.8万円)に
引き上げられる予定だ。また、大卒程度の高スキル労
働者についても、ビザ取得に必要な最低給与が、
2011
年7月以前の月額2,500Sドル
(17.5万円)
から、
2012年
1月より3,000Sドル
(21.0万円)
に引き上げられた。
これらの結果、外国人労働者の増加率は昨年に入
り鈍化している。こうしたなかにあって邦人数が急
増できたのは、ビザ取得に必要な最低給与に抵触す
る者が少なかったためと考えられる。もっとも、日本
人のなかでも給与の低い若年者や現地採用者の場
合、ビザの取得が困難になったとの話も聞く。
外国人の受け入れが抑制されたことで、シンガ
ポールでは、特に労働集約型の産業や、省力化投資の
資金が乏しい中小企業を中心に人手不足が深刻化し
ている。つい先日も、2月10日からの旧正月に備えて
人手を増やそうとしているレストラン業界から、賃
金を上げても人材が確保できないとの不満が上がっ
たばかりだ。
経済界の不満に対し、政府は外国人抑制策の後戻
りはないと繰り返す。レストラン業界の問題につい
ても、
「日本と欧米のレストランは少ない人数で多く
のテーブルを受け持っている」とターマン副首相が
ブログで応じ、日本のように生産性の向上で克服す
べきだと促した。
このように、外国人受け入れ抑制策の影響により
人材確保の面でシンガポールのビジネス環境は悪化
しており、ビジネスチャンスを求めてシンガポール
にやってくる日本企業や日本人にとっても無視でき
ない問題だ。特に進出が増えている日本食レストラ
ンに関して言えば、味だけでなく、シンガポール政府
がうらやむ生産性向上のノウハウも持ち込むことが
肝要だろう。
みずほ総合研究所 アジア調査部 シンガポール駐在
主任研究員 小林公司
[email protected]
国土強靭化
Q:国土強靭化とは何ですか
間に集中的に公共投資を実施する
援策が望まれます。
A:自民党が掲げる主要な政策指
計画を描いているようです。
政府はこうした老朽化や防災・
減災対策だけではなく、新たな社
針の一つであり、①東日本大震災
会資本インフラの構築も企図して
都直下型地震や南海トラフ地震な
Q:200 兆円もの巨額投資が必
要なのですか
ど将来想定される大規模災害に備
A:多くの社会インフラの老朽化
都機能の分散化を視野に「多軸型
えるために、日本全体の防災・減災
が進んでおり、それらの改修等に
国土の形成と物流ネットワーク複
力を高めること、③人口や行政・経
相当の費用がかかるのは確かで
線化」を進めることが掲げられま
済等機能の過度の集中を見直し、
す。国土交通省の推計によれば、今
した。具体的には、ミッシングリン
「国土の均衡ある発展」によって地
後 10 年間で既存の社会資本(道
ク(未整備区画で途切れている高
域活性化を促進することを目指し
路・港湾・空港・公共賃貸住宅・下水
速道路)解消や 4 車線化など全国
ています。
道・都市公園・治水・海岸)の維持管
の道路網の整備、及び地方の情報
自民党は野党時代の 2012 年 6
理・更新・災害復旧費だけで 64 兆
インフラ整備などが挙げられてい
月に「国土強靭化基本法案」を通常
円程度必要となります(図表)。
ます。
国会に提出しており(現在は継続
また古い建物では耐震性対策が
審議中)、先の衆議院総選挙の政権
急務です。公共施設については、公
公約にも国土強靭化に関わる政策
立小中学校の耐震化率は 2012 年
を多く掲げました。実際、1月11日
度に約 90%まで進捗する予定で
Q:国の財政事情が厳しい中、
国土強靭化の財源を確保で
きるのでしょうか
に閣議決定した「日本経済再生に
すが、病院の耐震化率は 2010 年
A:現在の公共事業費に国土強靭
向けた緊急経済対策」では、復興・
度時点で 56.7%(2009 年度は
化関連の事業費を上乗せしようと
防災対策に 3.8 兆円を計上してい
56.2%)にとどまっています。民
すれば、財源面で困難に直面する
ます。今後も、10 年間で民間を含
間住宅の耐震化も1998年の68%
のは間違いありません。ただし、政
めて200兆円規模のインフラ投資
から2008年に約79%と進捗が遅
府は民主党政権下で定められた財
が必要との認識の下、最初の 3 年
れており、耐震化を後押しする支
政健全化目標を堅持するとしてい
からの復興の推進に加えて、②首
います。自民党の政権公約には、首
ます。したがって、既存の公共事業
●社会資本の維持管理・更新投資の将来推計
費だけでなく政府支出全体を見直
し、必要性の低い事業の代わりに
(兆円)
12
10
国土強靭化関連事業を実施するこ
災害復旧費
更新費
維持管理費
とになると考えられます。限りあ
る予算を有効活用するためにも、
8
緊急性や費用対効果を見極め、将
6
来にわたって有益となるような公
4
共事業を吟味していくことが期待
されます。
2
0
2006 09 12 15 18 21 24 27 30 33 36 39 42 45 48 51 54 57 60
(年度)
(注)国土交通省による試算値。
(資料)
国土交通省
「平成23年度国土交通白書」よりみずほ総合研究所作成
みずほ総合研究所 経済調査部
エコノミスト 大和香織
[email protected]
みずほリサーチ
第 131 号 2013 年 2 月 1 日発行
発行:みずほ銀行・みずほコーポレート銀行・みずほ総合研究所
編集:みずほ総合研究所 TEL:03-3591-1400 製作:株式会社 白橋
ISSN 1347-2488
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