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部落への関わりと狭山裁判

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部落への関わりと狭山裁判
岡山同宗連結成30周年記念集会講演
2011年3月11日
『部落への関わりと狭山裁判』
日本バプテスト連盟部落問題特別委員会協力委員
永瀬正臣
ご紹介頂きました永瀬でございます。話がまとまらない心配がありますので、付属の資料
を幾つか配らせていただいております。資料1が東京同宗連のコラム欄に書きました「私
と母の変革―差別意識からの解放の歳月―」
、資料2が私どもの委員会ニュース2号に載せ
ました「狭山裁判」という解説、資料3は私の自己紹介を兼ねて「ヒューマン・ライツ(人
権)
」1997 年 11 月号 No.116 号掲載の「ライフ・ワーク」という文章を、資料4・5で三
者協議の経過を報告している私どもの委員会ニュース第 22 号、23 号を参考に配布させて頂
きました。
私の出自を申しますと、今はさいたま市という名前に生まれ変わりまして、人口も 124
万人の政令都市となっていますが、私がうまれた 80 年前は人口 4 万にも満たない、唯一県
庁所在地でありながら町制を布く小さな街でした。私が生まれて 4 年後位でやっと市政が
布かれ、浦和市になりました。母は長野県北佐久郡春日村という蓼科山麓の寒村生まれで、
父と結婚し浦和の県庁の坂下に居を構え、私はそこで生まれ育ちました。母の実家の周辺
には被差別部落が多くあり、今でも長野県の部落解放運動の中心となっているようで、40
年程前に知り合った長野県連の山崎翁助委員長は、母の実家辺たりのことを意外に詳しく
知っていて話をする中で驚くことが多くありました。母は実家の差別的な環境の中で育っ
た関係で、浦和に嫁いだ後も市内の肉屋、靴屋、下駄屋の誰々の家は被差別部落出身者だ
といった戸籍調べをしては、子供たちにもマイナスの同和教育を徹底的に行なった訳です。
例えば、部落の人が草履を売りに来ても、土間をまたがせず、お金はお盆に乗せて渡し、
欠け茶碗でお茶を勧めて部落の人が飲み終わると茶碗を土間に落として壊してしまうなど、
聴くに堪えない様な差別をしていたとか、部落の人は、苗を植えたばかりの水田を荒らし
て滅茶苦茶にしてしまうといった、「部落の人は怖い人達」「集団で暴れる」という酷い差
別意識を徹底的に教え込まれた様に思います。ところがこれには裏があって、自分たちの
やった酷い差別に対する加害意識は全く持たず、部落の人達の単なる反発に過ぎない反応
を自分たちの被害者意識に擦り替え誇張させる様な酷い教育を受け、部落のマイナスイメ
ージを拡大し続けて育てられていたわけです。
小学校・中学校も浦和でしたが、戦後、
教育制度の改革が行われ、旧制の浦和中学校はそのまま新制度の浦和高校に生まれかわり、
中学最後の卒業生でもある私は、新制の浦和高校の第1回の卒業生でもありました。小学
校 6 年、浦和中学 5 年、浦和高校 1 年の合計 12 年間の学校生活の中で、児童・生徒間を含
めて先生方の口からも部落問題が話題になることはありませんでした。母は相変わらずの
差別者として私に接し、折角の日曜日に野球の試合を楽しみにしていた私が試合に出かけ
1
ようとすると、対戦相手が部落出身の N さんのチームとわかると、グローブ、バットが隠
されてしまい、試合に遅刻するという嫌な思いもしたものでした。母からの箝口令が布か
れていて、小中高を通して、部落が話題になることは一度もありませんでした。
高校卒業後、私は東京教育大学に進み、日本史を専攻することになりました。この日本
史の研究室で目にしたものは「融和事業研究」という部落問題の研究雑誌でした。水平社
創立 1922 年以後、昭和の初めにかけて出版された雑誌でした。部落問題に関する専門書な
ど見た事も聞いたこともない酷い差別者に育っていた私にとって、それは驚くべき初体験
でも有りました。その上、その雑誌を手にとって読もうとすると、全てが今で言うと乱丁
本の類で、一枚一ページずつペーパーナイフで切らないと読めないものでした。この雑誌
は出版されて 20 数年も経つのに、誰にも読まれず放置されて、私が初めて手にして読むの
だと思うと何か嬉しくて心が躍る経験をしたものです。この雑誌との出会いで、私の部落
問題に関する知識は、俗説、迷信、偏見の類から徐々に解放されて、母親の呪縛からも解
かれていった様に思います。大学卒業に当たって就職を暖かい海のある場所ということで、
神奈川、千葉、静岡、和歌山の四県に希望をだしていましたところ、和歌山県の田辺高校
の校長先生が三度も拙宅に足を運んで下さり、その度私は留守にして失礼してしまい、母
が代わって対応してくれていました。三度目にお出で頂いたおりには、私は小田原城東高
校への赴任を決めていました。3 月になって母親に田辺の校長先生に失礼だから、お邪魔し
てきちんと謝って断って来なさいと言われ、田辺高校に出掛けて行きました。高校の校門
を入ると玄関前に浜木綿の白い花がこぼれるばかりに咲き誇り、校長室の窓辺から見る校
庭の続きは黒松の大樹が連なる白浜の海岸で、田辺湾に白波の寄せては返すのがみえる、
それは見事な風景の学校でした。その白砂青松の美しい風景に虜となり、断りに行ったは
ずの田辺高校に喜んで就職することを決めてしまいました。母親には「そう長い事ではな
いので、坊っちゃん先生の経験も悪くないはず」とでも報告しようと覚悟しました。
こうして就職してまもないその年の 6 月、田辺高校に降って湧いたような差別事件が起
きたのでした。その事件の概要は、T 先生という社会科の主任教師が、朝登校の際、バスの
中で挨拶をしない田辺高校の学帽をかぶった生徒の、その学帽を取り上げて来てしまい、
朝礼の際、この学帽の持ち主は取りに来るよう全校生徒の前で話をしたわけです。その子
は田辺高校の校章を付けた学帽をかぶっていても、定時制の生徒だったので全日制の先生
の顔はほとんど知らなかった訳ですが、その学生に対して T 先生はテンプラ学生呼ばわり
をして叱責したそうです。その生徒はたまたま被差別部落出身だったので、帰宅後に親に
その旨を話すと、それは部落出身者に対する人権侵害であり、差別事件だという様に話が
展開してしまい、結局運動体の人が地域の労働組合の人たちを誘って学校に一緒に乗り込
んで来て、糾弾確認会が開かれるということになりました。当時、運動体といっても、部
落解放同盟は未だ組織されておらず、部落解放委員会という段階でしたが、地域の労働組
合の方々を混じえて 16 人程見えるというので、田辺高校側も校長以下、教頭、生徒指導主
任に始まり、13 人の社会科教師全員が出席しました。当時、田辺高校は全日制だけでも 1800
2
人位の生徒がいて、田辺中学、田辺女学校、田辺商業、田辺実践女子校の 4 校が併わさっ
た大きな総合高等学校で、先生方の数も百数十人の大世帯でした。本来その様な大事な会
議に新卒の私のような青二才が出席するハズもなかったのですが、たまたま私が社会科の
教員で事件当時者が主任だったということで、16 人選ばれた中に入ってしまいました。会
議の内容は事件の概要報告の後、校長・関係者の謝罪、その後は全く学校側からは誰の発
言もなく、運動体の方々の厳しい追求のみが続いていたように覚えています。大学時代読
んできた融和事業研究で学んだ部落知識を今生かさないことはないと考えた私は大部分の
先生方が発言しないことをいいことに、主任の先生を守らなければいけないということで、
独りで喋りだしたら、生噛りの青二才の部落知識は止まらない勢いで、それこそが差別で
あることも分からずひけらかしたものです。確認、糾弾の会は一日で終わらず何日も開催
され、夜半もすぎてうどんの夜食が出されたのも記憶にあります。そうした中で運動体の
方が、
「あなたは部落の事に詳しいようだが、何処かの部落に入ったことがあるのですか?」
と尋ねられましたが、「何処も行った事がありません」と答えたところ、「あんた、部落も
知らんでよう喋るなあ、話にならんわ」と言われてしまいました。その後で、先輩の先生
が「永瀬君、僕が部落へ案内するよ」ということで、その先輩に連れられて住んでいる寮
の近くの部落の隣保館に、土曜の午後や日曜に飴、菓子の類を持ってお邪魔し、子供たち
にお勉強の真似事の様な補習授業をやったりしていました。そこで、私はたちまちトラコ
ーマに罹り、学校の保健室で昼休みに生徒に混じって治療を受ける羽目に陥る経験もさせ
て頂きました。初めは気が付きませんでしたが、隣保館に通い、子供たちと接触する中で
いつの間にか、目がくしゃくしゃして目やにが出るようになり、トラコーマに罹ったこと
が分かりました。当時の部落は低位の生活に慣らされていて、多くの者がこれに罹ってい
て衛生状態のひとつのバロメーターにもなっていたと思います。しかし、こうした体験は
今から思えば、興味本位の戯れ事に過ぎないものであったと考えられます。校内では県か
ら担当の指導主事が派遣されてきては、教職員の責善教育(当時、和歌山県では同和教育
のことを、孟子の言葉からとって責善教育と称していました)の研修会が時々行われては
いましたが、その指導を受けても特に校内の体制や教育内容が目に見えて改善されるよう
なことはなかった様に思います。和歌山県ではその前年に西川県議の差別事件が起きて、
県としてはこの問題にかなり熱心に取り組んでいる最中のことでしたので、私自身として
は恵まれた環境に置かれたのかもしれません。その年の暮れ埼玉に帰郷し、正月炬燵で父
母と 3 人で一杯やりながら語り合っている時に、部落問題が話題になりました。私は、和
歌山での責善教育や隣保館を訪問して子供たちに教える中で、トラコーマにも罹った話な
どしました。また現地では、この問題を解決する最善の方法は部落と非部落の婚姻関係の
促進だと聞いていたので、確か結婚話のついでに「私は部落の娘と結婚したい」と言った
ところ母親が烈火の如く怒り出し、
「それは本当なのか、本当ならお前の事は息子とは思わ
ないし、親とも思わないで構わないから出て行きなさい」と言うのです。その剣幕の余り
の凄さに、父と二人で呆れてしまい、特に父は「それは良いことだ」と笑いながら言うに
3
及び、「お父さんまでそんな事を言うのでしたら、私が家を出て行きます。」と言って、本
当に箪笥から貴重品を出して風呂敷に包むような猿芝居の真似をする始末で、その場は気
まずい思いでいましたが、田辺に帰っても、母の一言に頭をガーンと一発殴られた様なシ
ョックを引きずったまま過ごしたものです。そんな凄い差別意識を持った母親に育てられ
た私自身、大変な差別者として育った訳で、今でこそこの問題については理解者・同労者
の側に近い立場に立てるようになりましたが、基本的には「差別者としての自覚」は普通
の人よりも生半可では無いように思うのです。しかし、このままで良いはずはありません
し、完全にこの問題を克服したいと常に考え続け、試行錯誤を繰り返し続け、あらん限り
の努力精進をしたいと願っているわけです。とりわけ宗教者、キリスト者として、
「同宗連」
結成時の呼び掛け文にも「改めて、深き反省の上に教えの根源に立ち返り、同和問題解決
への取り組みなくしては、もはや、日本に置ける宗教者たりえないことを自覚し」とあり
ますように、神様、佛様の教えの原点に立ち返りますと、イエス・キリストの福音の本質
という点で、イエス様が始めた福音宣教のはじめは、ルカ伝 4 章 16 節以下にイザヤ書から
引用して「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
私を聖別してくださったからである。主は私を遣わして、囚人が解放され、盲人の目が開
かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主の恵みの年を告げし
らせるのである。
」と、福音宣教の対象者はプトーコス・アムハーレツ・ハマルトロイとい
った貧しく、虐げられた被差別、非抑圧の人々であり、私にとってイエス・キリストの福
音とは、最初から被差別・非抑圧者への慰めと解放として開示されてきたと思うのです。
今現代のクリスチャンが部落問題に取り組んでいないことは、論語読みの論語知らず同様、
聖書読みの聖書知らずということができると思います。仏典その他の経典についても同じ
ことが言えるのではないかと思われます。神様は先ず被差別の苦しい思いをしている人達
に、神の国の告知をしたのです。簡単に言い換えれば弱い人達がお互いに愛による連帯運
動で結びつき、幸せ共同体を造って楽しく生きましょう、と呼びかけた訳です。ですから
クリスチャンというのは、部落問題の様な被差別者への関わりの問題については、先頭切
って頑張らなければならないと常日頃考えているのですが、現実には、私は差別していな
いと開き直ったり、教会はそうした社会問題に関わるべきではなく、本来の福音伝道に専
心すべきだといった見当違いのことを言って、福音の本質が何であるのかも分かっていな
い人が結構沢山いる現状といえるでしょう。
先程、岡山県の部落解放研究所の代表の楠木裕樹さんがご挨拶でおっしゃられたように、
今の日本は、社会・世の中がすっかりおかしくなって部落差別問題はもちろんの事、国内
外に困った問題を抱え混んでしまっています。差別の最たる物は戦争ですが、この国を再
び戦争の出来る国にしようという、とんでもないリーダーの出現によって、新自由主義と
称する詐欺資本主義を導入し、表向きは郵政改革と称しながら、日本人が営々と汗と涙で
築き上げてきた資産の全てをアメリカに提供するという、完全な属国扱いに満足し、戦後
進みつつあった平等社会を崩し、意識・実質の上でも格差社会を深化させ、生活保護受給
4
者の大量増加を招いて国民生活を混乱させたばかりでなく、ご機嫌伺いに出掛けたアメリ
カで、エルビス・プレスリーの記念館前で、ブッシュ親分に踊りを披露するなど、その卑
屈な朝貢外交ぶりには慨嘆を通り越し、呆れてものも言えなくなるような悲しみを日本人
に与えたのです。こうまでして追従外交を続けなければ、この日本は立ち行かないのでし
ょうか?否、今日の日本の力で世界に独立独歩の歩みを見せられない事はないと思います。
沖縄の米軍基地・普天間問題にしても、戦後まもない吉田首相や歴代首相、特に佐藤首
相以来の懸案問題とは言え、戦後半世紀以上も経ち、植民地でも属国でもない日本が、政
権交代までした日本の首相が、なぜ堂々とはっきり「平和憲法の建前からも、外国の軍事
基地は要りませんのでお引き取りください」と言えないのでしょうか。しかも半世紀以上、
戦後ずっと沖縄県だけに押し付けてきた酷い負担を、一度は「国外に、それが叶わなけれ
ばせめて県外に」と発言した首相の言葉の重みはどこにあるのでしょうか。現状は前政権
時代よりも環境は悪化したのではないかと考えられます。差別的な言い方を許していただ
けるなら、あのアメリカの植民地だったフィリピンでさえ、火山噴火がきっかけとはいえ、
嘗て東洋一と言われた米軍基地を結局、大統領の一存で撤去させているのです。従って日
本にそれが出来ないとはどうしても考えられないのです。
この米軍基地の 75%を沖縄県のみに押し付け、アメリカ政府に対して堂々と正面切って
占領政策下に強制された主権損失状態を 70 年近く経っても改められない、言い出せない日
本政府の現状は何なのだと言いたいのです。この基地問題一つとっても、これは人権問題
の一点に関わることだと断言できると思います。私は我田引水と思われる方が多いと思い
ますが、すべての問題は人権問題に集約されると思うのです。そして、最大の人権侵害は
戦争なのです。戦争に繋がるような基地を、沖縄県民のみに強制している状態こそ、政府
が行う最大の人権侵害であり、許されない事だという認識を全ての日本国民が共有しなけ
ればならないのです。
一時が万事で、今全国で際限なく起こっている幼児虐待、子殺し、子の親殺しなどとい
った人権の軽視・無視の異常な状況は社会全体の病理状況を表しているわけですが、この
社会状況というのは、つまり、今の日本では人権が人権として機能しない、機能不全の状
態に陥っているという証拠でもあり、全国民がこの病状克服のために、全英知を傾け全力
投球で臨まなければならないと考えるのです。我々同宗連に所属するような方は、皆真剣
に取り組んで頂けていると考えますが、実際には同じ意識で取り組まれている方は限られ
ていると思われます。具体的問題としての、被害救済法案の問題にしても、一昨年部落解
放同盟の書記長をしている松岡徹さんという参議院議員が中心となって、議員立法として
提出し、参議院では当時ご当地岡山出身の江田五月さんが議長をしていて、多数決で可決
され、衆議院に送られました。衆議院では自民党が多数を占めていて、もちろん自民党で
も人権問題については議員連盟が与野党の区別なくこれに取り組み、人権政策懇談会も機
能していた筈ですが、自民党議員の一部には極端に偏った人権意識の持ち主の方が居て、
こうした人々の一部ではありますが、激しい反対抵抗に合い、廃案となってしまうという
5
ことがありました。
ご承知の様に 1948 年 12 月 10 日に国連で採択された世界人権宣言によれば、「人権には
国境、身分の別なく平等に保障されるものであって、主権のはっきりしない地域の人々を
含めて、世界の人類が全体でこれを守らなければいけない」と規定されています。日本国
憲法もこうした主旨で出来ているわけですが、今お話しましたように、議員を含めて一部
の人々の中には、純粋日本人のみに通ずる人権とその他の人々の人権とは別なのだという、
排外主義の人権感覚を持った人々がいて、例えば、今でも議論になっている在日朝鮮人の
高校無償化については絶対反対をしており、人権と言うのは日本人にのみ認められ、在日
外国人、特に在日朝鮮人には人権無視をしても良いという間違った考え方の人もいます。
結局はこうした考え方の人の意見によって、人権擁護法案である、被害救済法案は廃案に
させられてしまった訳です。この状況は今も変わっていません。確かに、北朝鮮と言われ
ている、朝鮮民主主義人民共和国という国はおかしな国の様に報道されています。しかし、
この国を報道で知る限りの姿で見ていると、1945 年 8 月 15 日以前の日本、つまり大日本
帝国とそっくり同じと私には思えてなりません。日本は天皇という現人神(アラヒトガミ)
によって統治される神の国で、絶対敗けない滅びない国と教え込まれ、報道は大本営発表
という負け戦を勝ち戦と全くの出鱈目を国民に知らせ、平気で通用していた嘗ての日本。
国民は何一つ本当の事は知らされず、原爆による敗戦によって、初めて本当のことが分か
ってきた訳ですが、今の北朝鮮のテレビ報道を笑って見ることは私には出来ません。世界
の孤児であることも知らされず、大本営発表で神国日本の勝利を信じさせられていた私ど
も日本帝国の嘗ての姿を、生き写しに見ている感じがしてならないからです。
大東亜共栄圏の確立、つまり列強の帝国主義の犠牲となって植民地となったアジアの同
胞ともいうべき兄弟国家をヨーロッパ列強から解放するのだという美名の許に、実は自ら
が列強を真似てアジア侵略を始め、近隣諸国に対して多大の損害を与えてしまったのです。
この間違った世界の孤児の道を歩み出したのは、明治維新による天皇制利用の官僚国家
によって実現し、そこには明治欽定憲法冒頭にある「天皇は神聖にして侵すべからず」の
神国日本として規定され、我々国民は義務教育段階からアラヒトガミを宮城遥拝、奉安殿
最敬礼で叩き込まれ、こうした洗脳教育の中で世界孤児の道を歩むと共に、他国差別の排
外主義をも徹底的に頭に入れられ、人権というものは日本人と外国人に違いがあって当然
といった誤った考えを信じさせられたのです。当然の事ながら、部落差別も当たり前とい
う差別意識を極めて自然に身につけさせられました。従って、今日言うところの人権意識
といったものは育てられず、私が母親から受けたマイナスの同和教育宜しく、差別意識が
徹底的に植え付けられていったのです。そうした明治以来の体制、教育の中では人権など
という思想・意識・感覚が育ちようもなかったと思います。
そもそも、人権というものは特権と対蹠的なもので、人類の歴史、つまり世界史を概観
しますと人権発展の歴史と言い換える事が出来ます。原始社会は比較的平等で、身分・階
級も未分化で特権の存在は、それ程認められませんでした。古代になると、王や皇帝とい
6
った専制支配者が特権を強化することで身分社会が拡大整備されていきました。それが中
世・近代と強化される中で、被差別民衆の反発が人権意識として芽生え、いわゆる民主主
義の発展によって、現代その人権は中核に据えられるに至ったのです。つまり人類の歴史
は少数特権支配から多数民衆支配へ移行の歴史であり、それは特権を排除し、人権を拡大
する歴史であり、民主主義実現の歴史でもあったのです。そう見ていきますと、人権と特
権というものは今も触れましたように対蹠的なもので、人権が民主主義実現のための人と
人とを結ぶ連帯の論理であるならば、特権というものはそれを獲得保持することで、人と
人との格差を拡げ離反させる差別の論理によって構築されたもので、反人権の思想から出
て差別思想に収斂するものだとも言える訳です。差別に反対する考え方は、人権中心の考
え方から出て、結局連帯の考え方に帰納する訳です。そして連帯ということは、基本的に
は自分の事ばかりでなく、愛を持って隣人の全てに接しようということであり、相手がい
れば相手と同じように相手のことを考えてやり、貧しく困った人がいれば、自分の分を少
しでも分けようと考えて行動、実践することだと思います。
人権意識というものは、連帯の精神がないとなりたちません。植民地主義・資本主義・
帝国主義というものは人権の考え方からすれば、反人権・差別の思想・立場から出ている
ものです。明治以降、戦前の日本は欧米列強に学んで、その悪しき思想や主張をまるで良
いことの様に真似てやってきて、原爆を落とされ戦争に敗れて初めて人権思想に目覚めた
訳です。しかし、それでも未だまだ時代の変化に付いて行けず、相変わらず周囲の恵まれ
ない人たちを排除し続け、自分たちさえよければそれで良いのだという排外主義に凝り固
まったような日本人がいて、こういうグループの人達が政治の表舞台でのさばっている限
り、日本に於ける人権思想はなかなか改善されないと思います。かつてエイズ問題の折、
非加熱製剤を平気で垂れ流した製薬会社、それを支えた学者や行政など、裁判でその一部
の酷い行為は明るみに出たものの、政官財の一部の人々の中には凡そ人権思想とは縁がな
く生きている人がいることが証明されたように思います。これは医療問題の一部ですが、
この事はほかのあらゆる分野でも同じ事が言えるのです。
先日も群馬県の桐生市で起きた学校に於けるいじめ問題で、小学6年生が自殺した事件
が報道されましたが、テレビに登場して来た校長先生が、いじめはなかったとか、自殺は
いじめとの因果関係では考えられないといった発言をしていました。本当に驚くべきこと
です。私も校長の経験がありますが、今の日本の学校内でいじめがないなどと断言できる
関係者がいること自体おかしい話なのです。先生方も文科省や教育委員会のお役人のマネ
をして責任逃れに終始しているわけで嫌になります。日本中の学校で、いじめが本当に全
然ない学校なんて私はないと考えています。先生方の努力で非常に少ない学校は多くある
と思いますが、これだけ酷い差別社会になっている日本社会の中で、学校だけが例外とい
う訳にはいかないと思うのです。私の経験から言いますと、先生方が目を皿のようにして
児童・生徒に注目観察し、少しでもその傾向雰囲気を感じたら前もって先手を打って、そ
の防止策、予防策に努力しなければなかなか防げないと思うのです。私は 50 年も前から生
7
徒指導一筋に取り組んで来て、校内にカウンセリングを取り入れたり、精神衛生センター
のお医者さんとも協力していじめ問題をはじめ、生徒指導には人一倍熱心に神経を使って
やってきましたので、私が勤務した学校では酷い、差別はなかったと自負はしていますが、
実際のところ差別は絶対になかったなどという寝言に類した断言はできないのです。差別
に満ち溢れた社会状況の中で、自らだけが例外という訳にはいかないと思う訳です。
しかし、私が最初校長になった草加東高校では、5 年間いましたが、今その時の卒業文章
を読んでみますと、一貫して部落差別をなくそうという一点に絞って、言い続け書き続け
ていることがわかります。本当に執念を持って取り組まなければいじめ・部落差別の様な
差別問題は絶対になくならないと思うのです。一部の為政者の中には今持って格差社会を
拡大することこそが新自由主義だかなんだかわかりませんが、グローバリズムに添ってか、
対外的には排外主義、内向きには差別肯定で押しまくっているグループがいるわけですか
ら、これらの勢力に対抗するには、こちらも肝を据えて執念深く、熱心に取り組み努力を
し続けなければならない訳です。私は、この人権意識というものを我々自身がぴしっと持
たなければいけないと言うことを、生徒に言い続けてきました。
また、そもそも人権とは何かという話もしてはきましたが、人権というのはその具体的
な本質は何かと突き詰めると「いのち」という言葉に集約されるものだと考えられます。
いのち=人権ということで考えをまとめると、それは感覚、ハートで捉える事の大切さを
感じます。つまり人権というものは、本を読んで学べるようなものでなく、感覚ですから
愛を隣人に届けるという実践を通して得られる感覚、フィーリング・センスの問題なので
す。それを把握するということは、愛を相手に届けるという実践をして、受け取った相手
が嬉しいと喜び、こちらもああ良かった、嬉しいという実体験を通して得られるものなの
です。だからその実体験をもたないことには、愛は育たないし、連帯意識も育たないので
す。その意味で、人権と言うのは正に愛の連帯協力運動でもあります。私はキリスト教の
中でプロテスタントの福音派に属するバプテスト教会に属するものですが、イエス様が初
めに宣教に乗り出した時は、中身は愛の連帯運動を全世界に広めましょうということで福
音宣教を始めた訳で、それ以外の難しい話は何一つ言ってないと思うのです。貧しい人・
社会的に脱落者と見られる人々、病人、子供弱い立場の被差別の人々よ、お互いに助け合
って分ちあい、自由をお互いに謳歌することがどんなに素晴らしい幸せなことか分かり合
いなさい。それが分かったら、律法に縛られ囚われている頑固なユダヤ人にもそれを広め
なさいと言われたのです。そしてその言葉を信じて世界の人々に広めていったのがパウロ
であり、それに続く同労のクリスチャンであったわけです。ですから私はキリスト教の信
者はこの人権認識に立つ時、差別問題への関わりについては徒疎かに済ませて欲しくない
のです。この場に集う方がもちろん同宗連ということで、それぞれの宗教・信仰をお持ち
の方ですが、私は宗教者は皆さん同じ思いではないかと思うのです。もちろん仏教の事は
何も知らないといった方が正しいのですが、全ての仏典その他の経典でも、宗祖・教祖と
言われるような方がおっしゃった事は、基本的には皆同じような事だと思うのです。仏教
8
の中で浄土真宗の開祖である親鸞上人の語録に唯円が編纂した歎異抄というのがあります。
あの中に悪人正機説というのが出てきますが、あれなどは本当にキリスト教の考え方とほ
とんど同じような気がしてなりません。話がそれましたが、宗教者はそれ程見当はずれに
人権問題、人権意識を考えてはいないと思うのです。日本の今の人権状況が、いろいろ話
してきたように極めて危険な状態にあるという認識と、その原因についても認識は一致し
ていると思うのです。そして日本人の全ての人が人権感覚をきちんと身に付けていたら、
今日の日本の人権状況にはならなかったと思うのです。
私が大学に入学した 1 年生の時、東大の法学部長をしておられた憲法学者の宮澤俊義先
生という方が、東大出版の評論という雑誌の 34 号に「人権の感覚」という文章を書かれて
いまして、それを読む機会を与えられ、読んだ直後に「人権の感覚」という言葉そのもの
に、本当に驚きを通り越したショックを感じたものです。ちょうど融和事業研究という部
落問題に関する雑誌を読み始めた頃でもあり、母が先にも触れましたように酷い差別者で
もあった関係で、私も同じように酷い差別者だったものですから、母の言っていた差別状
況というものが、全て支配者の都合良い論理で支配のために作られてきたものと知らされ
始めていたところでしたので、宮澤先生の話の一言一句が極めて心打たれるものとして受
け止める事が出来た訳です。宮澤先生の話の内容をちょっと詳しくお話しますと、19 世紀
の末にフランスで参謀本部付きのドレフュース工兵大尉が、ユダヤ人であったところから
スパイ容疑で死刑を宣告され、無実でありながら死刑執行が行われそうになったという冤
罪事件が起こった際、文豪のエミール・ゾラが曙という名の新聞の冒頭に大統領に対する
弾劾文を発表し、本人不在の差別裁判で死刑判決は余りにもひどいと大統領の責任を追求
し、死刑執行が免れ、後年再審の結果無罪になったという事件がありました。この事件に
関する「身に覚えのない濡れ衣を着せられて、恐るべき責め苦を受けている一人の純真な
人間がいることを考えれば、夜も眠れないという気持ちである・・・」というゾラの発言
を引用して、
「自分や自分の家族が、人権を蹂躙的な取り扱いを受けて憤激することではな
い。自分となんの関わりも無い赤の他人がそういう取り扱いを受けたことについて、本能
的にいわば肉体的に憤激を覚えることである。」と、人権とはそういう感覚なのだと宮澤先
生は言っているんです。即ち、この人権の尊重と言うのは、単に可哀想だとか同情するこ
とではなく、差別に対しては怒る、怒らなければ駄目なのです。差別は放っておけない問
題ですが、上品に「お止めください」と言って注意して済ませる問題でもありません。と
ころが宗教者と言われるような方々は、特にクリスチャンの中には「差別、差別、反対・
反対ってカリカリ怒っているのはクリスチャンに相応しくない」と言って批判する人が結
構います。私なんかその代表的な対象者ですが、イエス様は差別に対しては本当に怒って
おられたのです。差別に対してそのイエス様の怒りを感じられない人は福音の何たるかを
理解していないのではないかと思うのです。女性、こども、弱い被差別の人々に対する差
別に対してイエスは、殊の外、語気鋭く怒りの発言をしているのです。このイエスの怒り
は、我々クリスチャンにしてみればイエス様から霊のエネルギーとして頂いて、この差別
9
社会を差別のない社会に変革していく不断の努力を自らに課し、頑張り続けるエネルギー
に転じて行かなければならないのです。
このエミール・ゾラの言葉を借りて宮澤先生が紹介してくださった「人権は感覚なん
だ、人権は他人事ではないんだ、人権は生死に関わる命の問題なのだ」という言葉を受け、
だからハートで受け止め、自らの問題として怒りを込めて真剣に取り組まなければならな
いのだと覚悟して、特に魁より始めよ、そして先頭切って部落問題と格闘してきた心算で
す。
今この問題の中でも一番問題になっているのは、何といっても部落差別が原因となって
いる冤罪事件、狭山差別裁判事件ということで、私はこれに全力投球で臨んでいるわけで
す。司会の方からも紹介されましたが、一昨年から去年にかけて編集された配布済みの、
同宗連「狭山事件―見えない手錠をはずすまでー」は、私が責任者を承りましたが、高齢
ということ、また比較的にはこの問題に長く関わったという理由で指名されたと思います
が、またその意欲も認めて頂いた、と自負しているところです。資料の中にあるバプテス
ト連盟の部落問題特別委員会のニュース 22 号 23 号は、その後の裁判経過、特に三者協議
が行われるようになって以降の経過を述べたものなので、後で読んでもらうと有難いと思
います。2 年前の 9 月 16 日に第 1 回が行われ、12 月の第 2 回の会議には、門野裁判長が 8
項目だかの証拠提出を勧告したのですが、検察庁は 5 月に行われた 3 回目の会議で渋々な
がら 5 項目 36 点の証拠を提出してきました。ところが裁判所が指摘した殺害現場とされる
雑木林で行われたルミノール反応の検査報告書については、当時の埼玉県警鑑識課の係員
がきちんと提出したと報告されているのにもかかわらず、
「不見当」つまり見つかりません。
という不誠実な回答しかしませんでした。これは検察が行う常套手段なのですが、出した
ら困る証拠は何時でも「不見当」で済ませてしまうのです。この雑木林のルミノール反応
検査報告書については、20 年程前にも国会質問で取り上げられ、当時の法務省の筧刑事局
長は国会答弁で、報告書の存在を認めた上で現在東京高検が検討中なので、近く結論が出
る模様と答弁したものです。それから 20 年近くも経って、今持って検討中の上、結局「不
見当」というのですから、この事一つを見ても一事が万事で、この狭山裁判がいかに怪し
げな、出せない証拠によって成り立つ差別裁判であるということがご理解いただけると思
うのです。その上 1999 年の 3 月 23 日、東京高検の会田検事は弁護団の証拠照会に対して、
狭山の裁判証拠は一枚ものの証拠を含めて積み上げれば 2~3 メートル、一つのロッカール
ームに入りきれないほどの量があるとはっきり明言しているのです。それが、今頃になっ
て「不見当」などとよくいえたものだと誰でも思うのが当たり前という訳です。要するに、
三者協議なるものは裁判開始以来、今年で 48 年になりますが、46 年経った 2 年前の 2009
年になって漸く持たれたのです。今までは何度再審請求の申し立てをしても、却下し続け
ていたのですが、2 年前の門野裁判長の就任により初めてこの会議が開かれ、裁判長の勧告
に基づいて、検察側もちょびりちょびり、膨大な隠し証拠のなかから仕方なしに、あまり
関係のない内容なものばかり出し初めているところです。勿論、肝心な証拠については検
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察の常套手段としての「不見当」で逃げの姿は崩していませんが、やはり三者協議という
ものが開催されるようになった事こそ、狭山再審裁判の前進だと思うのです。何故かとい
えば、もともと誘拐殺人事件という単なる刑事事件が半世紀近い時間をかけて、尚ある筈
の肝心な証拠を提出せず「不見当」と言って済まし続けるということはどういうことなの
でしょうか。部落差別に原因を持つ、極めて特異な冤罪事件だからなのです。既に 10 数年
も前から国連の人権規約 B 委員会から、部落差別という人権侵害の絡む事件でもあり、証
拠の全面開示が絶対に必要であると指摘を受けながらも、日本政府法務省は現地に多数の
係官を送り込んで、全ての証拠は開示されていて、弁護団はこれにアクセス出来るという
嘘を平気で言い続けているのです。2008 年には石川一雄さん自身が、ジュネーヴの国連自
由権規約委員会に出席して、無実と証拠の全面開示を訴えて、委員の方々に感銘を与える
と共に、一層日本政府への開示勧告を強く要請し、委員会も引き続き重なる勧告を続けて
いるのですが、法務省はこれに応えていないのです。先進国でありながら、裁判するのに
証拠は全て検察側が持っていて、弁護側が要求しても全証拠は開示されず、一方的に判決
がくだされるなどという裁判が今でも行われているなんて近代法治国家の名に値しないと
考えるのですが、それでも日本の検察・裁判所が国際的に国辱的なそうした裁判制度を平
気で続けていることは恥ずかしい限りです。その上、去年起きた大阪高検特捜部の行なっ
た厚生省の村木元局長に対する冤罪事件のでっち上げが明るみに出たように、検察庁は証
拠隠しが常套手段であるばかりか、冤罪造りも常套の手口と思いたくもなり、特に狭山裁
判を考えると宣なるかなとの感を一層強くもします。しかし、三者協議開始によって明る
い反面も見えては来ていると思います。それは、これを重ねる事によって、僅かながら出
される証拠の中に、石川さんの無実を証拠立てるような思わぬ資料、証拠が出てきて、そ
れを逆手にとって検察の出鱈目なやり口を明らかにするという利点も出てきたりしている
からです。その一つに録音テープの問題やスコップの指紋検査報告書、取り調べメモの類
など、次々と出てきているので、弁護団の追求も一部弾みが付いてきたのかもしれません。
1 月の埼玉の支援する会の交流会に出席した石川さんは、三者協議の展開によって、今年中
には明るい展望が開けるかもしれないという楽観的な発言をしていましたが、本当にそう
なると有難いと思うのです。
私も数年前から癌に冒され、今年1月には国立がんセンターの先生にペット検査の結果、
骨転移が見られるので余命 1 年という宣告を受けました。交流会の席上でみなさんにお話
しましたところ、石川さんご夫妻から「永瀬先生死なないで」という丁寧なお見舞いのお
手紙で励ましの言葉もいただいて、石川さんの無実、無罪が勝ち取られるまでは死んでも
死にきれませんと、石川さんはじめ皆さんに申し上げているところです。今日も実は埼玉
では常盤会館というところで、一審死刑判決の下った記念日なので毎年恒例の「差別判決
糾弾の集会」が開かれ、例年ですとそちらに出席するのですが、今年は岡山同宗連の集会
に呼ばれて、埼玉の集会には出られない旨を石川さんご夫妻にも伝えて、こちらに参って
いる次第です。石川さんご夫妻は「永瀬先生が私たちの狭山問題について、岡山に行った
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りあれこれ頑張ってくださるのは、本当に有難いのですが、無理をして命を縮めるような
ことがありますと、私達が一番困るので、決して命に触るような無理はしないでください。」
と真剣に懇願されていますので、この言葉を心して受け止め頑張り続ける心算です。
石川さんは私にとって赤の他人に違いないのですが、先のゾラや宮澤先生の言葉を借り
ますと、半世紀近くも無実の罪を着せられて苦しむ石川さんと早智子さんといったご家族
の悲しみを考えると、私はどうしても他人事とは考えられず、我が事として怒りを持って
権力・検察の無法・無暴を糾弾せずには居られなくなり、同時にこの部落差別の解消に専
心することが自分に与えられた使命とも考え一見無謀とも思える行動にも突き進むことが
出来るのです。まして、私の命の心配までして下さる、石川さんご夫妻に接していると、
これは単なる赤の他人ではない、同じ血と思いが流れ働く同朋であり兄弟なんだという想
いが強く働いてくるのです。連帯意識とはこのことを言うのであり、これこそが人権意識
であり、人権の感覚の働きなのだと実感出来る訳です。今の日本には、こうした感覚が本
当に働かない人々が増えすぎて、問題が深刻になっているのだと考えます。この日本の社
会病理的現象の続発をくい止め、明るい安心社会を築くためにも先ず、人権感覚、人権意
識を高め育てる真の同和教育が、単に学校だけでなく、家庭、社会においても徹底して行
われなくてはならないと思います。そして、さらに言わせていただければ、我々宗教者は
教えの根元に立ち返り、こうした人権意識、思想の醸成の先頭に立つばかりか、実践行動
においてもその模範を示すべきではないかと思う次第です。宗教者は他意なくその精神性
の強さ故に、特権的意識を時に持ちたくなるものですが、この特権意識の克服こそが人権
感覚、人権意識の醸成・回復の第一歩でもあると今考えている次第です。そして差別の最
たるものが戦争であるならば、強い平和思考に徹する我々宗教者は、世界の紛争、戦争の
絶えない現状を見る時、今こそ団結して平和の理想実現のためにも、その実践行動の先頭
に立って進まなければならないと考えています。
狭山事件に戻ってお話しますと、最近村木さんの事件で明らかになったように、検察の
構造的欠陥による冤罪創作は、次々と明るみに出て、鹿児島の選挙違反事件で自殺者まで
生み出しそうになった志布志事件、富山県氷見の柳原さんが服役満期出所後に真犯人の名
乗り出によって明るみに出た強姦事件、これ又別の犯人が偽証することで、桜井さん杉山
さんのお二人が強盗殺人犯として 30 年近い服役後に、再審開始によって無罪判決がくださ
れると考えられている茨城の布川事件、特に最近では栃木の足利で起きた幼児誘拐殺人事
件で無期懲役刑の服役中、支援者・弁護団の強い働きかけで実現した DNA の再鑑定の結果、
真犯人は別に居て無実が明らかになった菅家さんの事件など、挙げればきりがない位、誤
判事件の実例があります。特に菅家さんの足利事件など DNA の鑑定結果によって冤罪の無
期懲役が押し付けられましたが、10 万分の 1 から 4 兆 7000 億分の 1 という鑑定制度の向
上によって明らかになったと言いますが、同じ鑑定でも科捜研と筑波大学の鑑定では余り
にもその違いが酷すぎて呆れてものも言えません。いくら人の善い菅家さんでもこのまま、
無実が明らかになったのだから良い、で済ますべきではないでしょう。こうした多くの冤
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罪事件がつい最近になって明らかになった訳ですが、狭山事件に限っていえば、今挙げた
全ての事件が虚偽の自白によってでっち上げられたものという点では全く同じ事件であり
ながら、全く異なった点が指摘出来ます。それは部落差別が根拠となってでっち上げられ
た冤罪事件の特異性があるという点です。狭山事件では事件当時、被害者の中田善枝さん
のお父さんは「犯人は家の事情に明るい者」
、三大物証の一つと言われたカバンについても
「革製に見えるが衣性のもの」と証言していて、警察・検察の言い分を否定するような発
言をしたところから、初め中田家周辺の捜査が行われ、付近住民はこれに非協力的であっ
たという、偏見差別によって「菅原4丁目、被差別部落の者に違いない」という差別捜査
に切り替わると、付近住民の捜査協力体制も突然のように進展したと言います。つまり警
察・検察の被差別部落が悪の温床、犯罪者の巣窟といった先入観に基づき、徹底した差別
捜査に切り替わると、マスコミはこれを承けて部落差別報道を思い切り展開し、住民はも
とより第三者であるべき我々の様な一般市民までがさも有りなんといった、したり顔をし
て差別を増幅し、冤罪捜査に協力し、住民の中には見たことも無い石川さんを見たと偽証
したり、何箇月も経ってから時計を拾ったと届け出るなど、とにかく部落差別による、官
民一体の冤罪創作劇だったとも言えるものでした。今だから声高に言える私も実は当時、
新聞報道を丸呑みして石川さんの有罪は確実と信じていたのですから、冤罪劇の搜索に加
担した加害者の一人であって、石川さんには本当にすまないと思うばかりです。こうして
狭山事件は他の冤罪事件と較べると、部落差別という特異性によって、半世紀にも及ぶそ
の裁判の長期化、又、為政者、権力者の目からはこの事件が完全解決を見るということは、
これに関連した民主的、社会的運動の促進や展開に貢献してしまうのではという危惧から、
少しでも再審開始を送らせ、時代思潮・社会風潮の急激な変化を遅らせようと悪あがきを
しているようにも思えてなりません。つまりこの特異性を無視して狭山裁判を考えない訳
にはいかないのです。
私は此処 20~30 年はこの裁判の不当性を訴え、法務大臣、東京高裁、東京高検の責任者
に対し、毎年必ず「証拠の全面開示、事実調べ、再審開始捜査の全面可視化」などを求め
る要請文を書き綴り提出してきました。ある時は毛筆で長文の巻物で、常日頃はハガキを
混じえて何十何百通の膨大な量の手紙を出してきました。本当に今日までなんの返事もあ
りませんが、今後も生きている限り出し続ける心算でいます。今年 1 月には先の参議院議
長をされていた江田五月さんが、国権の最高である三権の長を離れて敢えて
法務大臣に
なられた事から、かなりの思いを込めて 400 字原稿用紙で 14 枚程の長文の要請文をしたた
めました。岡山に来る前、議員宿舎にお邪魔して埼玉出身の山根隆治参議院議員にお会い
して、届けていただく約束をしたのですが、私の体調不良で時間に間に合わず、仕方なし
帰りにそれを果たす心算で要請文は持ち歩いています。その中味は、江田さんは裁判官で
あったのに父三郎氏の急逝を承けて急遽、参議院選挙にうって出られ、父君の意思を継い
だ方ですし、裁判官という法曹の専門家であったのだし、法務大臣という検察最高官の検
事総長に対する指揮権を持った方ですので、折角の政権交代になったにもかかわらず人気
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低迷の民主党の起死回生策として、狭山裁判の全証拠の開示は勿論、捜査可視化の全面実
施、証拠開示の法制化などの即時実施を提言したのです。我々同宗連に属する宗教者はい
ずれにしても、「全ての実践を魁より始めよ。」で、自ら先頭を切って愛の連帯運動として
の人権の闘いを頑張り抜かなければならないと考えております。
狭山に関して、もっとまとまったお話をしなければいけなかったと思うのですが、私の
能力限界で思うように出来ませんでしたので、配布しました諸資料、特に同宗連編纂の緑
色のパンフレット、人権啓発資料 3「狭山事件―見えない手錠をはずすまで―」を丹念にお
読み頂いて、ご理解を一層深めていただきますよう祈念して、話を終わらせていただきま
す。有難うございました。
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