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6.私と水商売

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6.私と水商売
1
0
8
昭和 4
7
.1
0 第1
3
号
鋳鉄管
私と水商売
武島繁雄
豊中市助役(前下水道部長)
私は、子供の頃から発電水力に大きな夢を
の町村の中で二番目に公共下水道をはピめた
9年 、 京 城
抱いていた。そして、運よく昭和1
ことである。その上、当初から合理的方式を
工専の土木を卒え待望の朝鮮電業の設計課に
採用し、緩速ろ床による中級処理を実施した。
入った。毎日の仕事が楽しかった口しかし入
私の入った時は事務所もなく、炊事場の裏の
営、終戦、そしてヲ│き揚げと、めまぐるしく
一部を改造して鶏小屋と併設した三坪程度の
人生の輪転はどん底をはい続けた。その中、
小屋であった D
ひょんな事から今度は同じ水商売でも、水道
屋として再出発することになったのである。
その因となったのは、間半且にいた頃、この
職員も新卒の者ばかりで、と言っても総員
私を入れて
5人 で あ っ た が 、 中 に は 未 だ 学 生
帽をかぶって通勤する者もいた。しかし、
「若
方面の設計をさせられたことにはじまるので
さだよ、ヤマちゃん.ゲ」ではないが、全員ク
ある口勉強しながらの設計、懐かしい思い出
リエーティヴな気概に燃えていたのである口
である。
昭 和3
1年 、 私 は 水 道 課 長 に な っ た が 、 ま っ
このあと、昭和 24年 、 防 府 市 の 水 道 課 に 入
たくの新課長兼係長兼平職員と同じであった。
ったのが私の地方公務員出発のはじまりであ
私自体は水道に経験があったが、下水道は
る。この当時は、鋳鉄管がチケット制であり、
不馴れのため、部下に教えるどころではない。
文字通り鋳鉄管の確保が最大の業務であった。
私自体、勉強の明け暮れであった。
私の買いあさりがはじまった。どこそこに鋳
小郡町という町の財産は、何といっても清
鉄管のわ古があると聞くと、すぐ飛んで、行っ
らかな地下水である。私の赴任直後、私の家
て入札に応りた。ある時は呉沖の旧海軍の燃
の 裏 に 直 径 3.5m、深さ 5mの 浅 井 戸 を 掘 っ た
料給油管もまとめて買った。そしてそのパイ
が、なんとこの井戸一本で一日に 3
5,
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r
iの
プを持ち帰り、タールを焼きつけ再生して使
取水量を確保できたのである。その上、水質
ったこともある口また異形管についてはもっ
の良いのも天下一品、このため山陽線を通過
とひどく今日は大牟田、大分、明日は京都へ
する機関車はこぞって小郡駅で給水したもの
と飛び歩いた口
である。
例 え ば そ の 量 が 5 トンとか 1
0トンの少量で
その中、機関車も電車に替わる時期がきた。
も使えるものは全て買った。しかし、ある日
折角の水という財源を無駄にするわけにもい
山口で買った鉛塊には、中に砂詰めのいかさ
かないので、山口市、遠く海岸よりの秋穂町
ま物を買わされ、処置に泣いた経験も思い出
にまで分水することにしたのである。
されるのである。それだけに、一本の幹線毎
の竣功は別の意味で感激あらたなるものがあ
ったのである D
小郡町の下水道事業は、この水道財源を活
用することではじまったのである。
しかし、水道会計の利益だってしれたもの O
その後、私の人生過程においてずい分と勉
まったく財政的には苦しいやりとりの連続だ
強 で き た の は 、 昭 和 29年からの人口 1
5,
0
0
0人
った。このため、設 計もタトi
主なんてまったく
という小さな小郡町在職の 9年間であった。
想像もつかないことであった。その上、職討
この町での快挙は、何と言っても当時全国
J
の数も少なく、私の兼務業はこんなことから
1
0
9
随筆
はじまったので、ある。
と探知した思い出も懐かしい口そして、漏水
忘れもしな ~)o 水道課の裏にある量水器修
理倉庫が、和、の設計・すーる場所であった。日常
個所を当てようものなら無精に喜び、合い、焼
酎で祝杯を重ねたものである。
業務はまったく部下まかせ、夜になると積算
ハアー
にはいるのだが、管渠の中でマンホールの数
白梅香る中領の山で
のt
合ぃ出しなんか事務屋さんにやってもらっ
清き植野の町々見れば
たD
水でみがいた小町娘の
図面でも、最初は T定規に頼っていたので
ずい分と手間がかかった。その中、いつだっ
たか、
ドラフターを買ってもらった時は今更
の如く文明の利器に感銘し、その配慮をして
くれた上司に感訪tしたものである。
ソレ
明るい笑顔がチラホラ見える
私の当時の自作の小郡町水道小唄の一一部で、
ある。この歌を歌いながら、先刻の私の設計
部屋は一瞬の中に祝杯場と変わるのである D
そして私自身、将来の自分の運命に、子供
また小郡町の水道も歴史は古し可 。このため
の時と同様大きな夢をふくらまし、焼酎の祝
老朽管が多く漏水も多かった。冬の寒い晩な
杯をコップで重ねた 30才 前 半 の 私 だ っ た の で
ど、主失キ奉の先にレシーパーをつけた木当に幼
ある。
准な探知器で、夜泣きそばを食べながら職員
河原安治
株式会社大阪上下水道設計事務所
取締役副社長(前堺市土木局長)
0年 8月 1
5日正午、天皇陛下の玉音放
昭和 2
日本人はこの時より休みなく生命の危険に曝
3
送を聞いたのは、満州製鉄本渓湖支社の本音1
されたのである。門扉を堅く閉ざしての虚脱
事務所働であった。時あたかもソ連軍戦車部隊
した生活はいいようもなく重苦しく、暴動説、
が内蒙古から奉天、本渓湖へと侵入してくる
日本人虐殺説、移動収容説等々、身も心もえ
公算大であるとする駐とん部隊の判断で、停
ぐるようなデマが乱舞する日々が続いたもの
5人を動員して日露役の古戦場に
虜苦力約 17
で、ある。
対戦車壕を構築すべく、社員の約90%が現地
収入の道を失って、早くも売り食いの生活
に出動していた。したがって、この時玉音を
を始めた者も出てきた十月初旬、約 1個 大 隊
聞いたのは百名前後の社員に過ぎなかった。
のソ連工作部隊がモンゴルからトラックでや
懸命に膨ましていた風船が突然破れた後のよ
ってきた。目的は、火力発電設備その他重要
J本人のだれしも
うな虚脱感とその衝撃は、 r
機械を取り外し、ハルピン方面ヘ輸送するた
が受けた終生忘れえぬ苦い体験である D
めである。ソ連軍の進駐で治安はいくぶん良
早速、現地の日本人社員に連絡して引揚げ
くなったが、兵士たちの酒、女に関する無軌
前人は
させねばならないのであるが、すでに j
道ぶりがまた深刻な苦痛をもたらすことにな
ウスウス感づ、し Eているようでもある;[犬;兄の中
った。水道はもちろん、電気までその電源を
で
、 10km以 kも離れた山地ヘ連絡に行ってく
切られ、遠方にある満人の井戸まで水汲みす
れる引受手はひとりもいなし」苦力の大半は
ることが、欠かせない重要な日課と化した。
中華民国軍の捕虜であるだけに、連絡も引揚
そのソ連軍は約 2カ 月 で 任 務 を 終 え 、 入 れ 替
げも慎重の上に慎重を要するわけで、外地の
りに中共軍の出現である。
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