...

福島県における国防婦人会の成立と展開

by user

on
Category: Documents
16

views

Report

Comments

Transcript

福島県における国防婦人会の成立と展開
行政琶会鍛集 第9巻 第i号
論 説
しづ子
から太平洋戦争へと戦争を拡大していった。甲羅へ兵士として送られる者への軍事援護が、馨本券十字縫や在
雛軍人会らと莫に、愛国嬬人会や地域嬬人会の手で行なわ為た.当時の新聡は綴笹兵士への慰問や献金を響び
かけ、霞罠の愛国熱を高めていった。
こうした中で大阪に安醸せい、三谷英子ら嬬人たちの懲鮭兵士の送還や献金運動を積極的に展饑したグルー
プぶ、地元の陸軍、警察、新聞桂などの人賑の支援を受け、一九三二︵昭秘七︶年三月︸八馨、大阪国防婦人
会を発足させた。内務省管轄下の愛瞬婦人会の軍事後援事業にはがゆさを感じていた陸軍は、安慰、三谷を支
援、東東にも蟹防嬬人会を発足させる︵一〇丹二麟雛︶とすぐ、これを縫策本部︵一〇月二七弩発会式︶とし、
一
一2麺一
福島県における国防婦人会の成立と展開
は じ め に
木
一九三一︵紹藤六︶年九層﹁満州事変﹂の勃発は、農本の中震大陸への饅酪の第︸歩とな穆、以後難中戦争
鈴
福島県における縷紡婦人会の成立と農聡(鈴木しづ子)
二
大蔽国防婦人会を関西本部︵二一月=二段発会式︶とした。講者は東京、大阪で会員を塔やし、エプ腿ン姿で
の濤発な活動を展開した。約一年ののち、東京、大阪の五〇万を越える会員を基盤に、∼九三露︵昭秘九︶年
懸月六譲、東京警笛谷公会堂で総本部結、疲式が行なわれた。このような経遍を経て﹁大β本国防婚人会﹂は全
国的嬬大腿体として各地方に継織を拡大してゆくことになったのである。
橿島県は一九三七︵昭秘一二︶年九月一八馨、橿島本部を結成した。本部結成以酸に発墨していた霞驚村の
国騎嬬人会は、本部発足に伴い、それぞれ﹁分会﹂として纏み込ま為二兀乾された、そして、大羅奉躍防婦人
会の会員として、多くの難内婦人が軍事援護活動を麗麗してゆく.
この論稿は、女盛摂半官半長的婦人腿体の纏織のなかで、戦争を底辺で支える役麟を菓たしていった意味を
考えるための基礎作業である。したがって本稿では、癌島察の国隣婦人会について、できる限りその実態を明
らかにしたいと考え、主に①県内における国防婦人会の緯織化の遍程とその特徴、②愛醗婦人会との麗係、
③活動内容、④参簾嬬人の意識の露点に留意しつつ、その全体像を講成してみる.
さらに福島県の蟹防婦人会の動晦に麗して三嬬に時簸区分して書き進めることとする。ただしこれはあくま
で橿島察に即しての籔分で、全国的な動薩に麟した時嬬区分ではない.県内の動向を鋳織するための優賞上の
籔分であるので、内容によ管、時麹を横駈して叙述することになることをお騒参しておく.
第︸期 ︸九三躍︵紹秘九︶年∼一九三七︵昭櫓一二︶年九鍔地域醗防婦人会の成立期。
第二期 ∼九三七︵昭和一二︶年九月∼一九瞬○︵躍秘一五︶年懸月 国防婦人会橿島梁本部発足による活
一九羅○︵醗秘︸五︶年五月∼一九醒二︵昭秘一七︶年二月 愛国婦人会簿との婦人懸体統合への
覇全盛蠣.
第三蟻 一2i3一
行敬縫会論集 第9巻 第i簿
過程。国防婦人会解数.再編退潮幾。
なお、巣窟、大阪を中心とした中央レベルでの国防婦人会の硬究については、藤井忠俊著戦国防嬬人会﹄
續ェ五年、岩波新書︶、鞠谷美幾子著﹃戦争を生きた女たち 証言・屡誌婦人会﹄︵一九八五年、、、、ネルヴ
ァ書一房︶がある.
全撰単︸の婦人懸体とし
ァ内国防婦人会の誕生
一九三霞︵紹鵜九︶年護月.東京に﹁大彗本醗紡婦人会﹂総本部藻設置されると、
福爵県内でも誕生する瞬
翼防稼人会の誕生と福島銀
を設立致す事にな箏ました﹂と遠べ、会の事業として次の七項露を蝿げた。
を負い婦人懸結のカに依警積極的に皇睡のため奉公の誠を致すことが急務であると存じまして露本醗防婚人会
つたときの﹁翻立趣意書﹂は、﹁満州事変﹂以後の葬常時に際して﹁私たち女性として蓋忠鞍蟹の新半の任務
︵註i︶
一九三二︵昭秘七︶年、大阪の安照せい、三谷英子らが上京して、東京にも国防婦人会を結成することにな
鯵立時の醗防婦人会
董
年から、﹁擾島本部﹂結成の一九三七︵昭鞍=一︶年九月までの時驚を擾う。
てその全蟹的鉱夫が始まった.ここでは、全麟的な綾織化を醗始した国防嬬人会が、
【、
三
一2i2一
(一
福島票における馨跡婦人会の成立と展欝1(鈴木しづ子)
︸、瞬騎思想の普及徹底、是がための講演会、駿露会. 展覧会等の騨催
︸、鐵簸軍人壷に傷痍軍人の家族の慰麗、救護
一、戦死者遺族の慰翼、救護
一、鐵鉦軍人慰問鍾に送達
一、其飽軍事灘係の諸事項
一、右に関する金詰の募集
欄ソの麿上修養に関する諺事項及児童の保健教育、 纒書、絵薩の虚腰、講議講演等
隠秘七年八鳶 弩
馨本鹿防婦人会
二,霞本婦徳の発揮に依吟左記諸項の頻麗
︵説明文略、以下講じ⋮⋮筆者︶
一、伝統的馨本婦徳の鼓吹
る内容が重椀されている。
︵ 註 2 ︶
った.しかし実際に発会式を行なった一〇β時点では、﹁本会の事業﹂は次のように変り、婦徳の修養に麗わ
﹁会則﹂における会員の条件は、﹁大饗本帝羅駆蔑タル年令十一歳以上ノ女子ニシテ会費ヲ納ムルモノ﹂であ
以上のように軍事後援事業六項霞に、繰徳の修養が最後の一項目に換えられているものであった。そして
麟
q騒国防に鵡する家縫婦人の責任自覚の喚起 ②台瞬を韓る嬬人のカに依る経済露難の持破 麟婦人のカ
に依る思想園難の打破
一2董i一
}、
行政鮭会論集 第9巻 第i号
三、戦時事業
軽き鐵毎軍人及傷痍軍人家族壷に透絵のお台駈に薄する簿援勝 鋤戦士の慰周
昭愁七年十舞
大庭本匿防婦人会
そしてその﹁会則﹂においては、会員の資絡が﹁年令十六歳以上ノ女子ニシテ会費ヲ納ムルモノ繍︵第三条︶
と年令歩瞬上げられ、一六歳から二五歳までの未婚の女子を﹁娼女会員繍とし会費一年六〇銭,二五歳以上の
疑婚の女子は年会費一跨二〇銭とし、さらに﹁晦則幅として﹁本会ハ内務大疑ノ捲導、陸、海軍ノ監督指導ヲ
一2欝一
受クルモノトス﹂の一項§をつけ燦えた。
このことは、露鋳婦人会が大阪における一蔀嬬人の農鉦兵士への瞬購から起こったものでありなから、陸海
軍の支援を受けて全国化することになったことによ管、その発足の当籾から、軍部の意晦が反礫、。れ、軍部フ
ァシズムの一翼を撞う嬬人教化羅俸としての性格を材与さ為たことを意賺している。しかも当襖の﹁馨本国
隣婦人会﹄という名称には、﹁大﹂の字ぶ冠せられ、﹁大鷲本石防婦人会﹂とされた。
一〇月二睡§の東京での﹁大馨本醸鋳鱒人会﹂発会式に街叢で醍られたちらしは.﹁葬常時の国防は台断から﹂
というもので、その後の霞防難人会活動のあいことばともなったのが、このときの﹁羅騎は台勝から﹂にある。
この段階で﹁大饗本蟹騎嬬人会﹂は東窟に関東本部、大飯に縫西本部があるのみで、活動も東烹、大阪に酸ら
れ蕊た・地方に醒防婦人会が発生するのは、一皇西︵昭秘九︶年暁月に、総本部を結成して全国緯織とな
ってからで あ る 。
五
福島県における蟹紡婦人会の成立と展麗(鈴木しづ子〉
福島桑にも国防婦人会
国防婦人会が福島桑で秘めて設立されたのは、いつ、どこであろうか。
一九三獲︵昭和九︶年九月︸二環の﹃橿島民報﹄に次のような記事瀞ある。
県下に懸け 平町国防婦人会
あす第︸園協議会
の資料、文献を見つけること嚇できなかった.
賞与ということになる。 楠織部口蒋での墨跡“購一八ム元結。蔵持の様子を詳しく謡調べたいと爆心つたが、 櫓馬地ふ方のこの時期
磯部村醸防婦人会解福島県における蟹防婦人会の第一号ということになれば、前記の平町国防婦人会は第二
ら、東京に総本蔀麟設立され全国展騨を始めて細工カ鍔後である.
中には、﹁本巣の蟹防癈人会は醸秘九年六月一六弩樽馬蔀磯部村に鐵来たのがはじめ﹂とある。六月というか
ところが、瞬じ﹃悪島疑報﹄の︸九三七︵昭秘二一︶年九湾七舞付の、国防婦人会県本蔀発会式の予定記事の
このように、この記事を書いた記者は、平簿國騎婦人会ぷ、篠島察では秘めてのものと書いているのである。
立はこれ摂始めてであらう。
える見込みで十八霞の講辮事変記念興をトし華々しく発会式を挙行する予憲であるが県下で藩防鰭人会の設
嬢設立されることにな参其の第↓躍協議会を十三酵午後二時から平郷議事堂で醗催する 会員は麟百名を超
愛躍嬬人分会、婦人会、女子青年懸など平町の中堅婦人解中心とな撃銃後の護拳﹃国防婦人会平町分会﹄
ノ\
︵註3︶
いずれにせよ漢通拳に二つの蟹防繰入会が生れた。そして中通参の白滝町に、岡年秩三番馨の﹁白隣国紡蜂
人会﹂斜生れた。これは、白梅瞬の芸妓によって経織されたものである。
一2馨9一
、山
行政歓会譲集 第9巻 第i号
綴織者は誰か
磯麟材、平町、白海野に三つの醗防婦人会が三鷹年中に誕生したのである炉、これらの会解どのような人々
によって捲導され経織されたのかという事構については、平町国防癡人会についての新聞記事以外は、知るす
べ麟ない.前記新聞記事によれば、平町の蟹防嬬人会は、瞬地域の愛国蜂人会、嬬人会、女子青年腰の嬬人た
ちによって設立されたといわれる。
次の簸で醗防婦人会の地籔分会結成状混の具体的事鋳をいくつか逮べるが、簸も早い時難に、半ば住民の密
室性によって発足した平時醗防婦人会の紛織推進者が、幾歳の婦人懸体によっている点に、その性格の一螺が
すでに表現されていることに気づくであろう。
愛羅婦人会は一九〇︸︵瞬治三醒︶年に発足し、寮内では翌一九〇二年に橿島支部を発足させた。その講成
員は集知事夫人を筆頭に、高等官や警部らの夫人を役員とする官僚夫人、地域の名望家夫人ら有志者による懸
体であった.簸密約露○○名くらいの会員で発足した愛嬢橿島支部は、一九〇羅︵瞬治三七︶年の馨露戦争時
の軍事援護活動によって急速に会員を増やし、瞬年八肩には露○○○人を超える懸体となり、これより大蛋初
め頃にかけて、禁内各地に愛国難人会の経織︵市郡幹事部、町村委員匿︶か拡大した。しかし一方で、愛国婦
人会の活動に鰐して早くも社会的な撹鵯摂生れてきていた.
一九一六︵大更五︶年大房︸目縁の﹃橿島民報﹄は、一般の愛国婦人会に鰐する不満や要望をふまえ﹁歩十
手縫と愛蟹嬬人会﹂と題する記事で、﹁動もすれば、慈善事業の美挙に名を籍り、動の闘或る種の政略を弄し.
ぞわぼ
愚人愚婦を惑はすもの無きにあらず繍﹁饑く潜妬くんぱ、綾等は鐵張の都度多額の簾費を貧吟、又年末には
多大の慰労金を奠りつつありと、之れ営霧会被の為す可き事にして、萄しくも慈善慈恵を標榜する懸体の為す
七
一2燧一
擾高察における霞鋳婦人会の成立と展麗(鈴木しづ子/
八
︵註4︶
響き事ならんや繍と、屡旛とともに愛国婦人会撹舞を展興した。
こうした愛羅媛人会への幾覇は、羅紡婦人会を生み鐵す土壌をなしており、橿鳥漿内でも瞬様の状浅はあっ
たのである。愛嫌撹霧は、一方で養蜂に薄抗して蟹紡峰入会をつくるという方向と購時に、愛国婦人会会員露
身が羅紡婦人会結成の牢核となるという方自をも生み鐵した、地方においては、この後者の方が多く、愛嬬に
欠けた翻分を醜婦で補うという傾向にある。
三番蔭に結成されたという白海霧の﹁露騰露騎婦人会﹂潜芸妓によって結成さ為たということもその一つ
の表れである。これをきっかけに芸媛や女給による屡防嬬人会解一九三七年率に三〇近くできるだろうと報
じられている。このような動きは、愛霞嬬人会が銘較的上流の婦人に霞められていることや衣裳の華美、寄醤
︵詮5︶
金の額を競うような繧爵への一般婦人、下麟婦人からの反撥と、誰でも参簾できるという匿鋳婦人会の大衆盤
に魅力があったからである。愛蜂と灑掃との麗係についてはあとで再び触れる。
次に、地域嫌人会が国掃結成に麗与していることが上げられる。地駿婦人会は地域の壱志婦人によって結成
され、上部懸体をもたない地域完結型の雛人醜体である。したがって地壊によってその性格も異なり、経織推
進者の屡も異なる、地域婦人会には、鰻来の村落共瞬体の講などが嬬人会に編成替えするもの︵海沼部金上材
婦人会など︶、仏教の宗派鎌体が婦人教亀の霧的で設立した婦人教会から一般地域嬬人会に発展したもの︵部
出婦人会など︶、小学校の校長や講導など学校教育者の搭導、援勝を得て緯織されたもの︵白梅婦人会、会津
婦人会など︶がある。懸島察では双葉灘大野村の野下中継婦人会が最も古く、 ︸八八五︵瞬治︼八︶年の麟立
といわれるが実態は不瞬である. ︸八八七︵瞬治二〇︶年翻立の白滝婦人会は比較的明確な有志婦人会として、
嬬人会葦麟期の逓代畜民的婦人露体の性整を蕎している。
一2解一
行政縫会論葉第9巻 第i号
しかし地籔嬬人会の多数は馨濤、屡露の癒戦争時に、峰入の軍事援護活動の歓会的要請に応えて結成された
ものである。地域蜂人会は家魔教育や料遅、裁縫の講習などが臼常港動であるか、戦時下の軍事援護活動の綴
錘が、溝川事変後の歓会的要請に合致するため、愛嬢や露嫌への協力者として現われ、また多くの場合、その
役員が愛婦や羅媛の役員を兼ねるという毅溌麟生れてくる。
最後に女子書年懸である。これは、明治末娚よ滲始ま管大壷幾に各薦町村に設置された延女会解、一九二七
︵躍鞍二︶年に女子青年腿へと名称変更したものである.将来母になる未婚女子の補習教育を屡的としたもの
で、文額省縫会教育課の管轄下にあった。小学校の校長らの指導で、礼儀作法や韓常生猛や職業的技龍の講習
九
一2総一
などが行なわ為たが、昭樫に入って教紀的綴面が強化されていった、こうして、女子青年懸の旛導者の立場に
ある人々は、蟹防婦人会の醤的である婦徳の修養や軍事援護活動に共感、協力、共講活動を始める。
票下叢薄耕尺の国嬬の拡張
O︵昭秘七︶年から翌⋮二年にかけ本部、支部の綬則を改疑し、馨的、機構の再編成をはかった。これによ
一方愛国媛人会は、中央での羅防婦人会の発足に麟激を受け、満州事変以後の歓会構勢に難癖すべく、一九
ほとんど動きがみられず、この二年閥で十数懸体の結成にすぎなかった。
馨防婦人会の継織が生れたといっても、一九三鷹︵躍秘九︶年にはたった三躍体しか確認できない.翌年も
福島連隣匿の通知
2
って、これまでの幹事部⋮委員区鱗から分会一分匿麟に改め、地方縄織の強化拡大にカを入れるとともに、縫
一一
福島票における羅紡婦人会の成立と展麗(錨本しづ子/
一〇
会事業.軍事援護活動のほか婦人馨の教化活動も重裡し、﹁嬬人鞍羅﹂運動を展聡した.また三三︵昭撫八︶
年からは愛蟹子女醗を纏織して、女子のずべてを愛蟹婦人会の捲導と影響の下におこうとした。こうした方舞
︵註6︶
転換に伴なって、福島票内でも三二年から三残年頃は会員獲得や新事業が展購された.三二年霞肩、本部から
一万二〇〇〇人の新会員募集割当て解あり、このころ約三万人であった会員は、三三年末には麟万三〇〇〇人
︷譲7︶
余に塔撫した。
ところ摂、三六︵聡秘一一︶年に入ると、県内薦町村に続々と鹿防婦人会が結成された。一九三七︵昭隷一
二︶年九肩の県本部発会式盗聴までの約一年半の問に、およそ羅○○の地域国防嬬人会が発足し、会員も一挙
︵註8︶
に愛媛を抜いてしまった、
この背景には、羅紡婦人会の全国的展麗に陸軍が本腰を入れたことが捲摘できる.
一九三六︵紹撫︼一︶年極め、福島連隊区講令官より各車驚村長、小学校長あてに、国防無人会の結成を依
頼する通知ぶ送られた.
靉靆嬬人会結成方依頼の件︵繧秘十一年︶
拝警
最近は稀なる寒さを感じ凌ぎ難く御座候蝿御緯鯵なく愈々御多祥の段奉天養躾
練者先年来在擁軍人分会長を通し各地に国防婦人会結成方を依頼し各町村長殿壷各小学校長殿の御理解と櫛
援励御捲導により今嚢迄に発会式を挙鴛せられたる分会数十九に及びて其会員数露千二百五十名に達し父権
ママ
継て各地に結成を見るの気運に商ひたるは星羅の為詞に慶賀に堪へざる魑に御座候然し飽海賑特に麗東鰻西
方面に比する時は其数謬々たるものにして比肩すべくもあらず誠に自責の念禁じ鰭はざるもの有之寧候縫ふ
一2§5一
行致歓会論集 第9巻 第i号
に馨防は男子に駿る務めにあらず羅氈皆兵の本義に黙すも婦人又其の一半を負極し然も皇蟹婦人打って一丸
とな参葬常時局突破に邁進し魏侮なる。麟難に際会するも最後の審覇権を我れに控握し露是の貰徹を蟻する館
く常時修養し絶大なる銃後のカを準備強化することは現下の急務とな鯵と存ぜら轟候鷺験紙趣意書其の鰹在
郷軍人会宛送購書類等御灘覧の上設立速進方御醍慮椿煩し度蛇段御腰宰上候講過般読売新露紙に愛蟹婦人会
との戦礫と題し醗紡嬬人会を必要とせざるかの妬き記事を掲載し更に該記事を稀編し屡防嬬人会の結成を羅
鋤せんとするか如き臨麟勃を各薦町材宛郵送せられたるやに転麗致羅静候も之等は全然当部の真意を誤伝す
るものにして誠に遣憾の遜に存候已に陸海軍省は勿論、文部省は之漢監督搬導をなし又内務雀に於ても本会
を承認し昼以上の各省上長は顧閣又は運事として大いに助成の労をとられある現状にして今や全麟二百二、
三十万の会員を有する一大継織に相成参候次第に有之候只擬く御賛購を得んとするは帝國全媛人の霞防意識
の高調により紳灘全土に不披の国防力を強化結贔し鯵て皇羅の興隆に寄与せんとする私共皇軍の︸員として
堅き鱈念より発する微衷にして是れ結局は地方野材更生の為に多大の劾畢あるものと思慮せられ躾問幸ひ御
諒承の上侮分の郷指導御顯串上候 敏具
橿島連隊区翼令富
毒 町 村 長
殿
小 学 校 長
月嚢が入っていないが、
三六年の早い時幾に送付されたものと考えてよいだろう。 なぜ
︵繕大野村役場文書︶
︵荘9︶
右の遇達文書には、
一一
一2磁一
福島梁における羅紡婦人会の歳立と展醗(齢木しづ子)
二一
ならこの年に入ると各毒野村で次々に贋鋳嬬人会の結成解みられるからである。この文書によれば、﹁今譲迄
に発会式を挙行せられたる分会数手丸に及びて其会員数露千二霞五十名﹂とあり、三瞬年三五年の二年間に案
内に⋮九感体しか結成されなかったことがわかる.こうした遅々とした状混に薄し、軍が直接てこ入れを始め
たわけである。そしてまた軍は、新聞に輯遂された﹁愛国婦人会との製礫購を否定し、緯織化の推進をはかっ
た。
福島嬢本離結成までの緯織綾溌
一九三六︵昭鞍二︶年に入ると、輩や行政機騰の潅導により羅内各帯町村に醗鋳婦人会が結成されていっ
た.これは地方本部繕成を見通して講態的に推進されたからであろう.それ以前の段躇ではほとんどが○○町
︵村︶墨防嬬人会として結成されていたのに鰐し、三六年以後は露髄婦人会○○町︵替︶分会と名のって結成
されている.つま吟、三鰻年、三五年の比較的地域の露主姓に依存する放任的緯織紀の段隊から、三六年には急
速に軍や行政機麗の捲導に基づく誕露的組織化に入ったことを物語っている。
このような上部機麗の捲導による蟹防婦人会結成は、次のようなかたちであらわれた。
一九三穴︵昭灘二︶年一月置馨、相馬馨橿浦材に、福浦村婦人会解生れた。未婚者を除くすべての嬬人を
会員とする癡人会で、主婦の部、老人の部、嫁の離の三部に分かれ、総計六〇〇名近くの会員で発足した。村
の更生のため嬬人が結集し﹁暗闘を守る、、嬬人らしい行いに努める。持ちつもたれつで住みよい樗にする。協
力︸致して皇国を守る㎏という騰項霞の努力馨標を定めた、ごく一般的な婦人会であった。ところが発足まも
なく、会は名称を変更することになった。峯事者の書葉によれば、﹁其の後隅年躍層二十七β酸かに名称を大
一鎗3一
行政縫会誌集 第9巻 第i号
羅本国防婦人会と変更する様とのおす∼あがありましたので臨時総集会を饑き改名する事に決定いたしまし
た﹂という顛末となった。
︵叢欝︶
こうして福浦村婦入会は発足まもなく﹁大馨本籤紡婚人会癌溝村分会﹂となったのである。この橿漆村分会
からの澱告には、名称変更をすすめたのが誰かは明示されていないが、擁島連隊区の要請を背景に、村役場か
小学校長を通して捲導されたものと患われる.
また、瞬年三擁安達郡白岩村長の通達に、羅嫌議岩村分会麟設については﹁橿島連豫籔司令部ヲ通ジ本村二
羅“々分△茨撰輪鼠ヲた誉フベキ団栗轟︸蝶有之㎏、三月一二馨に発△英式を加膏な・りことに・なった。このため﹁女子主簿年羅ハ
会員募集ノ為メ各戸訪聡致可ク躾瞬とある,
一2§2一
︵註琵︶
さてこの年は、以上のような背景のもとに吉井購村︵信夫擦︶、小野醗村︵西白滝轟︶、牧本材︵岩瀬部︶、
姥堂村︵郷轟轟︶、高絹村、渋増税︵安達謬︶、樽津村︵薄溜部︶、青木村︵啓達鄭︶、小泉村︵瞬替馨︶など轟
翻の各村に躍騎婦人会結成の波が拡がったほか、瓢虫毒、喜多方町でも結成された.
これら地域醒誌嬬人会の結成には、こ蕊までみてきた慶成の雛人鑓棒のほか在郷軍人会の鶴力の鯉も多い.
︵註鷲︶
三六年五需発足の喜多方瞬国防嫌人会の場合、発足までの経過鞍告を在鰹軍人会の分会長が行なっている.また
ほとんどの発会式で軍関係者が記念講演を行なっている。
︵談欝︸
以卜山の・よ・り浄k、 一九三山ハ ︵瞬横軸一 一︶ 畑午以経一の雛︸域国防媛人△試の結誰紋は、 媚梅島連隊薮、 市瞬村役場、 小舷子校、
姦郷軍人会、駿成婦人醜体などの纏織的な指導と援助を背景に拡張されたのであった.そして翌三七年九月一
八欝、肇内の地域霞防嫌人会を続落する癌島本部が発達した.
三
福島県における蟹紡婦人会の成立と展露(鈴本しづ子)
二、福島本部結成による活動の高揚
な統率をはかり、軍事援護の機能的な活動を保障していかねばならなかった、
への戦時体鰹への醜い込みを急ぐ必要ぶ塔大した。軍の搭導が直接入る羅紡婦人会を早急に系統化し、全国的
㎜九三七︵昭撫一二︶年七君七韓藍溝橋事件をきっかけに、纂本の申醗侵略はいよいよ本格化し、蟹蔑各藩
記念馨﹂に合わせたものであった。
多い。玉露︵昭称九︶年に発足した平町国防嬬人会解やは参九月一八§に発会式を行なったのも﹁満州事変
生みの親でもあった。このため霞騎嬬人会は侮かとこの九鐸一八婆にことよせて儀式や行事を企画することか
この醸は満州事変六周年の記念韓であった.︸九三一︵昭鞍六︶年に勃発した備州事変こそ、国防簸人会の
︸九三七年九月一八欝
大饗本蟹防婦人会福島本離の結成
の分会を活動の擁点として地壕婦人活動の中核的存在となっていった時難であった。
う。累内の地域蟹防嫌人会か案下を続落する橿島本部の下でさらに会勢を拡大するとともに、基礎縫織として
この章では、橿島本部が発足した︸九三七︵昭秘=︸︶年九月より一九鷹○︵昭秘一五︶年初めごろまでを振
躍
瞬年九月一八臼午後一時半、橿島市公会堂には県内各地から一五○○人の婦人か臼エプロン姿で参集した.
一2雛一
1
当雛の様子を、九肩︸九貸付﹃福島果報﹄は次のように伝えている。
﹁溝川事変六周年記念畦のきのふ十八醸一千五百名の蟹防蟻人会員が一堂に楊会し、全集下士︸万国防婦人
こそ力強くも壮観であった!﹂
この発会式には第二輝懸長代理東海林中盤、君島橿島集知事摂臨篤し、橿島連隊区大聾燐中佐ぶ麗会のあい
さつを逮べ、蕩島本離長となった知事摂時局講演を行なった.またこのとき六項霞にわたる﹁時縁申合せ偏と
﹁皇軍﹂への﹁感謝電鞍﹂を決議した。
時局串合せ
心身共に健全に子供を養育して皇贋の御罵に立てませう
夫や子僕や晃弟麟安心して睡紡の第一線に立ち少しも後顧の憂のないやうにいたしませう
一
一
、
常に台勝を整へて仮令どんな苦しいことにな吟ましても之を切瞬抜けて決して台蔑から悲鳴を挙げぬ
、
蟹訪の第一線に立つ方々を心から慰めませう
厳いたしませう
一
@仮令時局ぶ長鰯に亘るとも堅忍持久不屈不饒簸人露鋳の大任を完ふ致しませう
慰め扶けてあげませう
、
戦に傷ついた将士を労は静其家族を慰め又戦死なされた将士の遺族や鐵径軍人の家族の淋しい生活を
、
一五
大饗本国防婦人会橿島本部十一万会員一講
贈鵜十二年九月十八罠満州事変鶏念醸
一、
一2倉暮一
宏疑義後塞き護墓誓重合せをな差.拍毒万雷窪く堂外援れてしばし鳴雛もや議光景
行政社会譲葉 第9巻 第i号
福島票における躍紡婦人会の成立と展麗(鈴木しづ子)
このとき選任された本灘役員は次の通撃である。
本藻長 知事看島清書
醗本部長 総務部長夫人真綺ヤス子、鶴轟連隊籔講令官夫人哲原チヨト、簸島歩兵第三十九連琢長夫人、学
務部長夫人秘露信子、大原博士夫人大原婆キ子
右の飽、遷事・監事には票や甫の幹部の夫人および篠島連隊区の中佐、掛盤らが、各部帯の評議員や顕露に
は帯長、隣村会長や醗騰将校、女子騨籔や準等女子校長、在纏軍人会分会長ら解醍され、軍と官による緯織統
麟が明確化された.
篠島本蔀の事業方鏡
九月︸八韓登足した﹁大馨本震防婦人会橿島本鶴﹂︵以下﹁篠島本都﹂と賭す︶は、さっそく事業方舞を決
定し、察下醗○○の分会に示した。事業は﹁外部鳳と﹁内部﹂に分けられ、﹁外部の事業繍には歓送逓︵分会
以上の懸体で一暴数名割当,交替灘で実施︶、慰安会︵分会で実麓、傷擁軍人、戦病死考選族・軍人家族鰐象︶、
労力奉仕︵町村内における公共的事業に分会で参撫︶、生活扶助︵軍人遺家族の家事援勝︶、写真慰問︵銃後懸
体の活動、澄家族の生活軟態の写真を戦地に送る︶が、また﹁内灘の事業㎏としては子女に鰐する羅肪観念の
麟養︵忠勇美談、時事報告︶.勇倹貯金の奨励、昔年学校入学及び鐵鷹奨励が掲げられ、それぞれ分会を緩動
︵註M︶
の主体として取む縛むこととなった。
︵謹器︶
また屡嬬篠島の講膿として﹁モンペイ﹂の養絹が決められた。布地は黒繻子または黒サージを原則とされ、
すでに蒋っている者は新講しなくてよいとされた。
一望99一
■、
さて・坐犠島本溌大まかな方斜であ吟、そ貧体的方斜につい毒、各市特基礎縫織もて結成
された分会の主体性にまかされた。たとえば勤倹貯金でもその財源の念患方法︵廃購囎暴鍍や灌たばソ㎏の倹約な
ど︶や金額などを、分会単位に決定し案残することとさ為た.
こうした分会主体の活動方法は、愛羅嫌人会にはないや多方であ管、草の根的に癡人の活動力を瞬き患す要
会中心の画期的活動方法によるものであった。
国防蝿人会の総織系統と会財
露髄嬬人会は串央に総本部を置き、麟懸のあるところに麟管本翻、連隊琶のあるところに地方本部を置いた.
一七
文字通瞬軍隊編成に準じている。この難方本部が県単位の本部であ善、その下に毒郡の支部、町村、工場、学
校の分会とな吟、分会が基礎的な単位経織となる,
では福島本部の纏織系統を麟示してみよう.
壊 ﹀ ∼︸
下 宴 灘
以 紙 第
︵ 毒野替
ぞな
第一
新潟
痙壅塞歯
寧
一ig8一
讐なった憂霧人会の、役員忠窪警笛黎薩な繋念を大慶動員で晃のは、こうし雰
行政縫会論集 第9巻 第i暑
福島票における覆鋳嬬人会の成立と展醗(鈴木しづ子)
︸八
︵註鷲︶
一九三麟︵昭鞍九︶年五鍔から施膏された﹁大鐸本馨防嬬人会会則﹂は、地方の購々まで緯織化するため、
麟立時の会則をよ参整備し、地方の基礎綴織である分会設立のための﹁分会規約籠綴﹂を搾った。また﹁会則貼
は﹁第三条﹂で﹁本会ハ陸軍大疑、海竃大駆ノ監督旛導及内務大器、文部大駆ノ指導ヲ受クルそノトス﹂とし
て、軍の捲導姓を改めて明確乾した。つま瞬麟の総本部は陸海軍大駆の、麟管本部は麟艇長の、地方本部は遠
縁匿司令官の振導をそれぞれ受ける。
会の﹁覆的及事業﹂については﹁第五条幅で﹁本会ハ挙蟹筈兵ノ精神二基キβ本締徳ヲ発揮シβ本婦人トシ
テ護国ノ大義ヲ実践履行シテ国防上銃後ノカト為ルヲ獄テ馨的トス﹂として謙徳に基づく銃後婦人懸体である
ことを宣書した。これに基づき会員の条件は麟立時に承された年令についての認逮は構え、﹁第七条㎏で﹁本
会ハ嚢本駆民タル嫌人ニシテ本会ノ趣旨二賛購スル者ヲ以テ会員ト5とだけ規定された。
また会費については﹁第二十三条﹂で﹁各分会ノ微霰スベキ会費ハ年額︸瞬二十銭ヲ趨ユルコトヲ得ズ﹂と
して上隈を定め、箋際上は地域の実状に委ねるという方法をとり、誰もが癈人し易い状漉をつくった。さらに
﹁第十条恥においても﹁地方本部以下ハ本会ノ趣旨及本会則二反セザル限夢当該地方二適応スル纏織ヲ為スコ
トヲ得 但シ名称ハ麟警本蔀、地方本部、支部、分会毎二﹃大弩本震防婦人会﹄ト冠スルモノトス﹂として、
基礎継織である分会に、鍵域の実状にあった鰹織の運営を露主的に菅なえる裁量権を与えた。このような近代
性を取鞍入れることで地域分会の活性化をはかること解できたのである。
以上のような会躍に基づいて、福島察では本部結成とともに地域国防婦人会を分会纏織に整備し、唐綴に分
会を統鰹する支離を結成していった。
霞防婦人会の地方経織化の特鐵は、基礎紛織である分会をまずつくり、それから本部、支部をつくっていっ
一ig7一
た点にある・驚喜鱗藻璽暑続挙る第誌管森は一二益昭整一、一︶年署究昆叢さ
内に置かれて、文字通り軍と運命共講体の妬き鐵発となったのである。
福島本都機麗紙の発行
三七年九鐸発足した橿島本部は、本部の事業のひとつとして機縫紙の登行を計露、翌一一一八年一男から発待の
予定であったが・韓第喜募誓楚窪、三八徳星五星なった.この欝誌鎮査本読愛
会橿謄本趨鞍臨︵以下﹃本離鞍輪と略す︶と名付けられ、毎肩一五馨に発行された。
麟鷺肇号裟薩、福島本部暮中央竃暴役員ら要人窺彗掻霧島蕊る.
では麟刊号に祝辞を寄せている人々とその表題︵見議し︶を参考までに粥記してお.︸う。
鶯本糞鳶清書﹁嚢蓬代へて﹂/蟹壼慧元﹁霧愛会.澄響ン難議長難釜
﹁鐸ン霞癒笑会箋響達婁聾肇餐笹塚辞﹂/鬱鬱馬食暑原一、諏寵辞﹂
/鷲器宴会奪嘉鶴肇松憂是響たる轟騒意裏す﹂/驚餐轟範学盤.毒
顧璽驚纂霧詞﹂/梨饗天暦享芙呆霧嬌人会橿蒙灘雑報蔑す﹂/籐藤長.
陸軍歩兵大難佐藤譲﹁皇国の興廃この銃後にあ箏繍/大畦本籤訪婦人会長武藤籠嬬子﹁皇軍一藻の交代帰還
に鐘本会々員の覚箆就てン吉本鬱憂会薦勢本肇叢援護攣﹁薦跨婦人会霧て
内地の皆様へ申上ぐ﹂
一九
一1舗一
麹難諜長夫人難警柔饗に窪した.零して驚講霧繋蘂毳毳、購鶯本弩
鷲譲鴇書盤欝葦受け重とと奮、その毒霧暫驚護葛令警鷲露扶趣二︶
行政縫会譲葉 第9巻 第i号
福島祭における露鋳婦人会の成立と展開(鈴木しづ子)
二〇
では、地方本離の主要な事業のひとつとなった機麗紙は、墨紡韓人会の中でどのような位置と経遜をもって
発行されることになったのであろうか。﹃大銭本醒防嬬人会十年史﹄によってその経遍をみてみよう。
機麗誌紙については、当籾軍事扶助六認体︵帝国軍人後援会、義済会、穀劾会、大疑本国防婦人会、愛国憾
兵会、愛国嬬人会︶呉織で、雑誌﹃欝本締人﹄として、男子晦﹃大義﹄と共に発行する予定であった.その編
さん部は陸軍省恩賞諜支室におかれた。しかし三七︵蔭秘二︸︶年に国防婦人会単独の機関誌と決ま吟、三八
年一得号から羅婦機麗誌として発藩された・これは主として役員向けの指導書として鍾置付けられ、一般会員
には地方本部が独嚢の機瞬誌紙を持ってこれを講読させることとした。こうした方法が、地賊の身近な港勤の
構報交換.地域の特鑑・実状にあった旛導を可籠にし、よ管一屡分会員の結集に寄与した。
死瞬○︵昭整五︶奪互時点で趣方機騰詰紙は麟五︵朝鱗満州など植民地の七誌を含む︶、地に在郷
軍人会支部報内に蟹防婦人会欄を設けているもの九にのぼる。このうち東載地方︵新潟を含む︶で発行さ為た
機関誌紙のみ次に紹介しておく。
︵ 鮭 茸 ︶
﹃新発墨嬬人爵紡協︵新発照地方本部、毎焉二〇欝発行︶、 ﹃纏島本部報﹄︵織島本藻、毎馨一五馨発行︶、
﹃婦人と蟹誌﹄︵首綱瞬地方本部、毎月︼鼠舞発行︶. 鴨嬬徳島︵宮城地方本部、毎月二〇欝発行︶、 魍岩手国防
嬬人﹄︵岩手県本部、毎薄皿醸発行︶、 ﹃畜森婦人国防編︵青森祭本部、毎肩一〇嚢発行︶、 ﹃由形嬬人屡鋳臨
︵露形票本部、毎鍔一〇β発行︶、 ﹃秋雲本額鞍睡︵献饌集本翻、毎丹二五謎発行︶
以上のように、地方機麗紙は、いずれも蒋一騎の発行を原則とした。﹃橿島本部輻輪をみると、掲載記事の
内容は、①慶嬬総本部の方舞、事業計薩の紹介・解説、②馨の政策や戦地の輻告など、⑧各地籔分会からの活
動報告および分会員の投書、④橿島本部からの連絡、お顯いなどから成っている。たぶん飽地方の場合もほぼ
一1鶴一
羅の紙霧磐異慧・ど雲箋攣丸三会箏亘藷行事﹂乞て二、轟神仏無二、食事
蓼華三・百姦蓼﹂雲萎聾で警、分会募管の暮し窺蓼示した.また跨愛会発
曇舞﹁宣莫秦﹂︾瞬警嚢嚢、犠謬養毒素畠霧纂全奪⊥そた.しか誌
といぞも鰭襲そ窪蓼発響た窪、幾分会と分書房活勢声を伝達.⋮箋ろう.
響蜂食違って奮舅多い勢農村婦人の声が、たとえたてまえに捉わ莞あ叢あっ竜、公け
な進展は、こうした地方幾機関紙の存在も大きな要露のひとつと考えられる。
渠内地竣分会の実意
第三条 本分会ハ小教材二居住シ奉会ノ趣讐二賛購スル女子ヲ以テ緯織ス、
第二条 本分会ハ大鷺本醗鋳嫌人会小教材分会ト称ス、
上銃後ノカトナルヲ以テ馨的トス、
筆条雰会ハ会員婁ノ諜愚誌蓼箋孝女警ノ振興二努メ、挙馨兵ノ緯二華霧
大馨本国鋳雛人会小数村分会幾約
あ娠、
まず具体的雰会轟霧を馨し考.五雲︵署二︶隻、葺簑寒発達禁將霧ム.で
発会規鑓と活動資金
2
二一
一1蟹一
霧に隻島る崇毳毳を差薬謹大毒蔑竃建募ろう.誘愛会電乏有る嚢
行政縫会譲葉 第9巻 第i号
福島察における蟹紡婦人会の成立と展醗(鈴木しづ子1
第羅条
二二
本分会ノ事務勝ヲ小鼓尋常高等小学校肉二置ク、
分会長 ﹃名、醗分会長 二名、理事 若干名、幹事 若干名、
奉分会二顧問ヲ置ク事ヲ得、
本分会役員ハ名誉職トシ其ノ任幾ハニヶ年トス、纏シ重任ヲ紡ゲズ、又補欠者ノ任嬬ハ薦任者ノ
.噂
.獅
鱗
第七条
幹事ハ分会長ノ捲承ヲ承ヶ会蕩ヲ執行ス、
遷事ハ分△五長、謝分△質長ヲ補︸佐ス
麟分会長ハ会長ヲ補佐シ分会長事故アル時ハ其ノ業務ヲ代遅ス、
分会長ハ会務ヲ総遅ス、
本分会役員ノ業務左ノ如シ、
第六条
伊
残任驚露トス、会長之ヲ委曝ス、顧周ハ役員会ノ推薦ニヨリ分会長之ヲ委薦ス、
麟
第九条
第八条
本分会ハ毎年擬ネ壱麟総会ヲ瞬ク、
奉分会ノ経費ハ特志寄醗及事業駿益補助ヲ以テ之二発ツ、
本分会ハ特二必要アル場合ノ外会費ヲ徴駿セズ、
顧総ハ本分会ノ主要会務二縫スル諮闘二応ズ、
第十条
本分会ノ皺襞ハ特二之ヲ幾麟セズ、
三六年三丹であるから、福島連隊薮罵令嘗の指導が入ってすぐの比較的早い時擬のものである.
︹﹃昭秘十一年小塚樗材会議事録綴﹄町有︺
第十一条
この鰹は、
この焼約に認め
は 、まず第︸条に会の員的として﹁婦徳の修養﹂﹁子女教育﹂﹁銃後の内篇があること。
ら
れ
る
点 一ig3一
行政歓会譲集 第9巻 第i号
第三条に会員の資賂として﹁小数樗二居住偏し﹁本会ノ趣憲二賛賭する女子捻とし、第麟条から七条では役員
の数、任期︵二年︶、その業務を定め、第八、九条が会の財政についてである摂、会費をとくに定めていない
点を指摘できる。第︸○条は総会︵毎年一罎︶について、最後の第二条では服装について、ア隔れを矯定しな
いとしている 、
︵註婚︶
さらに約一年後の三七︵昭愁ご一︶年..月の南会津謬蜜離村の﹁分会会則騙は、﹁総則﹂や﹁鐸的及事業﹂
に国難総本蕪の会則の条文を一藻手直ししてほぼそのままにひき写している文章解多い、膿装についても﹁第
十残条幅で﹁本分会員ノ簾装ハ白髭割烹衣ヲ纒ヒ会名ヲ記入セル纒約二十五分ノ楼ヲ右欝翼壁左腕下云掛ケタ
ルモノヲ以テ麟式トス﹂として、総本部とほぼ購様の会則をつくっている。しかしこ.︶にも会費の規定はみら
れない。
地域分会燈則の鰹から、会員の資賂に年令の蔑定がないこと、会費の規定撰ない艶︶と蕃特徴的である。
また共通項として、事務瞬は村内の小学校や青年学校、村役場などの公共施設内に置かれ、年一園の総会が
醗かれたことである。
さて分会の多くが基本財産を持たず、定幾的な会費の徴叡を行なっていないことは、活動資金を髄時集める
ための種女の方法を講じていたことを意嫁する。愛覆婦人会摂基本難産を有し、擁罎金の多寡によって通常会
員とか特懸会員とかの会員資格を与えていたのに比べると大きな違いである。
もちろん分会によ滲会費を集めるところもあり、資金の捻患ぶ瞬にあわず途中から会費を徴収し始めたとこ
ろもある。悪騒海部小野醸村分会の場合は、三七年七月の﹁支撚事変繍︵藏溝橋事警︶以降、︸年二〇銭の会
費徴駿を決めている。しかし主な分会活動資金は会員の労力奉仕によって捻出されている。その資金調達方法
二三
一工92一
福島祭における國醜婦人会の成立と展醗(鈴木しづ子)
を﹃本雑報臨の﹁分会だよ静﹂よ参拾ってみると、次のようなものが多い。
二騒
廃贔暴蔽、縄ない、いなご取り、真綿撫工、兎の飼育、桑樹の綜立、穏躍、ヒジキ採取販売、榊採取簸売、
運動会に売店患農、神桂祭礼に献金箱設麗、石けん販売、駿麟会、馬草麟︵干草︶、くず勅販売、綾岸花販売、
会合における弁当の仕鐵、行商︵足袋、糸、キ夢コブ、潰瘍︶、歓の収穫時に来一斉の寄付、寄懸金.
こうした資金調達法をみると、地域の実状にあわせて様ざまな工夫をしている。廃暴露鞍などは鄭毒・農村
を縫わず各地にみられる方法であるが、いなご鍛参、馬草刈など農村でなければみられないものである.
福轟本離の財政
ではこのような会費焼定のない分会麟度で、纏島本離はどのような財政運営をしていたのであろうか。各年
度の駿支輯告縫係の資料がないのでわからないのであるが、唯皿、三八︵昭撫皿三︶年度の申周鞭告が﹃本雑
報鰯に掲載されている。これは三九年瞬肩一八馨の本部評議会に鑿岩されたものである。それによると、三九
年三層三一醸現在の総駿入七〇三二羅、支戯六露三六瞬。未払総額芸二九八霧、本部鞍未納入額一霞麟○羅、
財産は郵痩贈金五〇羅︵御下賜金︶、公優二五〇円︵本部報発行保護金︶。またこの年の資金確保のため大々的
に行なった反毛樗料蒐集運動の結果は、反毛材料売上代金として二万三二七霞需の霰人蔘あり、このうち支懲
は還元金一五︸六三七贋︵分会活動費として分会に還元されるものであるが、本部報代未納の分会に魅してはこ
の還元金よ箏差し瞬いた︶.総本部強化資金二〇〇〇需︵総本部へ上納︶、トーキー映写機改造寄付九〇〇屠
︵窪蝿軍人会支藻へ︶、ラジオ献納二〇〇再︵菊地部隊へ︶、雑費︸○○霞、菱蟹残金八露三七霧となってい
る。
一茎9i一
行政縫会論集 第9巻 第i畢
、九〇〇二贋が計上されている。
︵詫器︶
鰹に陸軍病院への献金として総額一五一、一〇円︵若松睦輩病薩一〇〇〇溝、
いる。
三九︵曜鞍一睡︶年度予算としては
醜婦の余勢と構成⑫特鐵
飯壕分蔑玉三〇還︶が鞍告されて
羅防嫌人会はすべての市瞬村に分会を、二野に一人以上の会員を、という緯織方鋭をもっていた。橿島県内
の分会数と会員数の変遷については、走競的な鞍告や調査がないので文書や機関紙からその推移を拾ってみる。
すでにみた福島連隊匿講令官の通知の中にみえるように、三五︵昭愁︼○︶年には分会数一九、会員数騒
二五〇人であった。その後急速に分会設立が縫され、三七年九月の福島本部の設立時は、分会数瞬○○、会員
数万︵八万位か︶にのぼった。機聡紙発行庭前の三八︵昭鞍二5年三月末の調査では、分会数露一七、会員
数一鵬万八七二人で、支藩は二である.
︵誼蟹︶
一九三九︵曜融一瞬︶年離層には、県内の分会溺の会員数が調査鞍告され、﹃本部鞍﹄一〇薄一五臼付に掲
載された.勉にはこのよケな全藏的な会勢調査の琵がないので、貴重な資料である..轟によれば、瞬年霞
月現在の分会数懸一瞬、支離数は二二で、会員数を合計すると一七万二一二人となる。
全蟹的にはすでに一九三五︵紹鞍一〇︶年末には露防嬬人会は二五五万人となって、愛霞婦人会約二三〇万
を上闘った.福島賑では本部発足の三七年後半になって愛嫌の会員数を超えている。
調査時点が違うので単純銘較はできないが、簸も遍い調査時の会勢を比較してみると、三九年麟肩の麟鰯会
員紛一七万人に麟し、愛嬬会員は三八年二一肩に約六万二〇〇〇人である。︵表参照︶蜜蜂会嚢は愛嬬の約二・
二五
一ig{1一
轟轟羅における震蕩鱒人会の成立と展麗(鈴木しづ子/
白 ナ舞
3,636人
・≦,532
4,486
護,欝7
4,074
圭,98魂
4,韓8
i2,285
4,i27
6,792
3,王84
i8,5i8
7,総4
モだ コハリ
i瀞}i》」
3,§38
9,8鱒
2,7董4
i2,3聖2
3,5船
6,雛i
i,鱗5
i2,逢銘
2,873
6,銘7
2,25§
珪,86§
2,369
i,735
7,833
2,65§
董i,598
重,977
4,686
i,523
6,6ig
i,6§2
6,3総
i,586
4,989
i,2凌§
合 誹
玉7§,鴛2人
62,227人
女子入舞箆i
2重%
8%
臼 溝
麻
会 津
沼
沼
会 津
(聾難鰹、欝灘熱讚肇葱.)
一i総一
平薦のように愛嬬の方撰多いところも
雀,護87
二六
積
替
瀬
撲
7,4盛人
七倍に達している。これを三八年の県内現姓女子末段︵八二万腿二七人︶姥でみると、蟹嬬が約二一%、愛媛
夫
達
螺部轟轟謬轟馨郵灘螺都轟轟雛鄭部
撫双養緋繕安安灘岩石東西環詑海大晦
械
達
霞藩甫青
鳥総由
福藩藻粟
馬
葉
愛霞婦人会
が約八%の組織率を示してお箏、察内約二七万二〇〇〇芦の約半分の家庭に霞嬬会員がいるという状浸になっ
露紡婦人会
毒 灘 名
た.
(舞彗嬬}3§年護鍔. 愛妻曇■38年董2月現窪〉
また魑嬬会員は部離に馬弼的に多く、南部では愛媛との差は少なく
ある。
寮内轡婦・愛嬢甫蔀驚会勢比較
青酸袿姿譲集 第9巻 第i号
ではこのように急遽に紋張した賑内の霞鋳婦人会は、どのような人々によって撰導されたのであろうか・す
でに篠島本灘の役員について述べたように、軍と行政の幹部によって役員が購域されている.︺とをみてきたが、
基礎縫織である分会及び毒榔レベルの支部ではどのような人々によって撞われ、またその役員の男女差はどう
であったかをみてみよう。
支部長、分会長などは地域の名望家の韓人や町樗長夫人、疑存の地賊難人会、愛国婦入会の役員が就任して
いることが多い。すべての瞬属露麟や経歴を瞬らかにすることはできないが、一部の携を紹介する.
典型的な名望家屡の人勃としては、環麻謬薩部支蕪長と毒多方町分会長を兼ねる騰閥春夫である。捲新滲の
塞豪といわれる騰薦家の分家にあた参︵風聞家長女の養子︶、喜多方簿長でもある。稜の場合夫人ではなく本
人が役員を務めている。このように男性が復員となる溺が多いが.この点はあらためて遠べる.
二本松町分会の瞬倉タケは、安達部産業縫合部会長薯倉孝雄の夫人で、愛国雛人会安達謬支部幹事、二本松
嫌人会会長、二本松家の光蜂人会会長など、二本松地域のほとんどの嬬大腿棒の長を兼ねている。
鄭繊市の場合をみると、薦内に九つの分会湊あったが、うち五つの分会長は穰出嬬人会会員で、そのうち三
人は購婦人会の理事でもある。このような飽の婦人会と役員を兼ねる擁はむしろ一般的である。
︵ 鐘 堂 ︶
では支部・分会役員の男女差ははどうであったろう。婦人懸体や購入の構成員の多い懸体でも、役員や顧問
には男性がつき、実質的に鑓体を捲導したり、また蝿外的に代表の位置を虐める鱗は今屡でも多いが、国防嬬
人会はどうあったろうか。一九三九︵紹穣︸麗︶年の会勢鞍告から役員の男女驚を調べてみると次のような結
果となった.
︵莚器︶
支部長 男 九人
二七
一188一
福島察における露紡嬬人会の成立と展麗(鈴木しづ子)
女 六人
姓罰不瞬 皿人
未定 六
分会長 男 二〇一人
女 一九三人
姓磯不瞬 露人
来定 一六
二八
以上の数字からみると、婦人の懸体であ拳な解ら半数以上がその長を男性にまかせている点が捲摘できる。
とくに橿島毒は七つの分会中、男性分会長六人、女性の分会長皿人であり、そのたった一人の女雛分会長は女
給矯風会分会である。したがって地域分会には一人も女権分会長がいないという、男性指導性の強い地域であ
った。飽に男性優位の支部は、環麻部薩藻支部が一三分会中男性分会長二皿人︵ただしうち︸人は覇断がむず
かしく女であるかもし轟ない︶、女性分会長二人。南会津蔀支部は︸五分会中男性分会長二一人、女性分会長
二人、未定 一 。
逆に女雛の方が多いところは、若松甫支部で、支離長淡男姓以外七分会すべて女権の分会長である。飽には
蔀出薦支部が九分会中男性一人、女性八人の分会長。岩瀬謬支部は一五分会中男性一人、女性二二人、未定一。
聡麻郡東部支部八分会中男性︸人、女性六人、性騨不瞬一。詫会津郡支部九分会中男性︸入、女雛六人、未定
二、など。
以上のように、﹁醗防は台駈から﹂を擦捜して一般家庭婦人を紐織しつつ、その捲導・運営は地域有力者夫
一187一
行政歓会蒲集 第9巻 第i彎
入や男雛に依麺していた。
さらに国蜂分会緯織の特徴として、﹁台蔑をあずかる嬬人﹂にとどまらず、工場などで働く女子労働者を職
︵謹墨︶
域において継織したことがあげられる.禁内の職域分会には次のようなものがあった。
女給橋懸分会︵轟島毒、部出講、平縢︶/鶴城分会︵若松毒二業株式会縫︶/松栄分会︵若松講 職業不瞬︶
/勿来醸分会︵石城醸勿来簿大難本炭鉱勿来事務勝︶/古溝嬉闘炭砿分会︵属謬古賀聾聡鉱業湧︶/小野瞬
炭鉱分会︵蕎械灘磐購村小野鍛炭鉱々業湧︶/長倉炭鉱分会︵瞬轟磐韓材第二磐城巌嫉長倉炭鉱営業湧︶/
奨弱紡績錦工場分会︵瞬鄭鑛工場内︶/白瞬見番分会︵西欝海穰濤湾町白燐見番︶/白梅製糸分会︵講鄭白湾
製糸会縫︶/潔尻鉱山分会︵曝麻部沼規鉱毒小学校︶
I6一
・一
このように﹁醗防は台醒から﹂だけではなく、職域からの国防への奉仕露を組織しえている点は、新しい雛
人のカをさらに広く結集して医家に取雛込んでゆくことに、露髄嬬人会が大きなカを発揮したことを勅語って
いる.
醒紡婦人会の活動
しておこう。
︵註箆︶
二九
時の﹁趣意書﹂に沿い、会の騒籐をわか警易く内参条に整窪したものである。ここにあらためて六ヵ条を紹介
羅防婦人会の§的は﹁覚書六ヵ条幅の実践にある。﹁宣霊六識条﹂は一九三三︵昭秘八︶年蟹鋳婦人会麟立
宣霞穴ヵ条
3
福島察における羅紡婦人会の成立と展雛(鈴木しづ子)
富一書
三〇
一、盤界に姥ひなき馨本嬉徳を基とし益々之を顕瘍し悪風と不良思想に染まず瞬防の堅き礎とな管強き銃後
のカとなりませう
心身共に健全に子女を養畜して皇瞬の御薦に立てませう
二、
台携を整へ如侮なる非常時に課しても家庭より弱音を挙げない様に致しませう
三、
羅防の第一線に立つ方々を慰め其の後顧の憂を除きませう
罎、
母や嫌妹疑様の心を以て竃人及傷痍駕人壷に其選族、家族の櫛鐙話を致しませう
五、
一旦緩急の場合朧てず迷はぬやう常に罵意を致しませう
六、
の
宣
言
の
実
践
に こ
あ た 参 、 活動の基礎縫織である分会に薄して﹁大鰻本国防婦人会員の務めと分会で行ふ事
総 業の
馨 幅 ぷ示された.それは﹁宣震六ヵ条﹂をさらに具体化しかみくだいた文章で癡人に辱びかけ、第一か
︵註器︶
ら第六までこまかい活動の指舞を激した..
たとえば、宣言第睡余の実践のためには露項匿の活動捲欝を掲げ、墨毎兵士の歓送逓や慰問のことなどの飽、
残された子弟に魅しての心構え炉﹁家族の子弟に薄しては鱗毒太郎や一捻の簿婆さんの気分で入営や患羅の
門患を送管患径中の在営中は常に安心して軍務に服するやうに仕応けませう購とさとすように示さ轟、また宣
露第六条の実践については、五項蔭の活動捲鋭が示され、その中には﹁戦争反鰐の声など越趨鯵ましても最後
の勝利を得る迄は耳を籍さぬやうに決心致しませう.魏何なる﹃デマ﹄が蕪びましてもこ為らに迷はぬやうに
致しませう﹂と思想の撰締めを行っている。
このような誰にでもわか参易い活動の手離きによって、分会の﹁警主性﹂も規鯵され、国務意識の高揚へ家
一i8§一
行政被会譲葉 第9巻 第i号
庭から貢献するすじ遵が上から誘導されていた.
教化活動
﹃大篝本蟹防嫌人会十年史﹄によれば、﹁宣言六ヵ条隔は麗嬬会員の﹁塵石の銘であり、実践憲法﹂である
とされ、﹁其の重点は、第一条乃至第三条にある。﹂ ﹁本会の根本精神は、国防の堅き礎とな屡、強き銃後のカ
となることである。羅家を作るといふ大使磁の達成は、本会の根庫であり、既の横本開題の解毅は結局醤本嫌
人の伝承的な道徳の実践であって、修身斉家、子女育成以外に侮物もないのである.これさへ鐙来れば、武人
の家庭、鐵笹兵士の家庭にあっては、良人が安心して国家につくすことが懲来、殉羅の饑きも鎧来るのであ
る﹂といわれている.
︵該欝︶
結局﹁婦徳﹂とは、男たちを兵士として医家に提供するために鄭合のよい健顧な女を作るための繋縛的極櫓
を意喋したにすぎない。しかしそれを﹁童舞に比なき﹂と大がか参な修辞で難解たて、講演、駿醸、講習、教
育など榛ざまな方法であおり立てたのである.
全霞レベルでは、各種会議の際の時局講演、総本部役冨員の地方本部の巡織携察、駿癒﹁輝く蟹婦﹂の上瞭、
会歎の麟定などの纏、敬聴の﹁葬常時繍を冠した露防意識高揚のための行事、国民精神総動員運動への積纒的
な参撫が舞立つ。また機麗誌紙は教化活動の重要な位置を占め、特に会員に直接航れる地方本部の機鑢紙の役
割は重要である。
槻福島本部鞍﹄の場合、会員の二割に普及させることを§標に分会毎に講談させた。発行二年後の一九麟○
︵昭稲一五︶年春の馨告では月三万六︵︶○○認が発行されている。しかし農村地帯を多く抱え、毎罎代金を
三一
一工8唾一
福島桑における羅紡婦人会の成立と展窮(鈴木しづ子)
三二
納入できない分会が多く、納入を催足する﹁お顯い﹂がたびく掲載されている.それでも﹃本部鞍﹄が分会
員の教亀と活動の捲導書としての役割を果していたことには違いない。コ疑三徳行事﹂﹁重書六カ条﹂の飽、
﹃本部鞍﹄に掲載された教化活動に麗する記事を︸覧してみよう。
一九三八年 葬常時財政経済への協力強調、家では籍うして葬常時財致経済に協力しませう︵露・一五︶
/近代戦と銃後の被服一被服協会︵五二五︶/醇蓄籔蟹強調避閥︵六二五︶/白米食廃豊に就て一厚
生省衛生局・蛋民精神総動員中央連盟︵六二五、七二玉︶/皇恩宏遠⋮講話、皇后宮御歌︵二・一
玉︶/漢舞鶴落に就て︵疑︶/軍事傷痍籔章の謡︵岡︶/戦に勝つは易く、勝を守るは難し︵瞬︶/東彊
の新種序建設︵懸︶/徐州戦に輝く感状︵一二二五︶/総本部総務蔀長中島中将麟下の舞話︵購︶
︸九三九年 大弩本国防嬬人会の葉︵一・︸五、二・一五︶/第三十躍罎陸軍記念韓を趨へて︵二・︸五︶
/慰騰袋に臠する希望一陸軍櫨真鶴︵ご丁一五︶/地方本部評議会唐土霞演要旨⋮連鎌区潟令官福本万次
郎 ︵五. ︸五︶ /書目少年愚子綻に下し騰賜参たる勅鑑㎎ ︵←ハ・ 一五︶/非愛用蒔,羅︻民生に鱗様式 ︵麟揖︶ /軍騒の母の
姿︵瞬︶/支撚事変記念鐸の藤感一橿本大佐︵七二五︶/事変下の食餌聡題︵属︶/葬常時匿民生活様
式に就て︵購︶/警紡懸に封ずる本会の協力について⋮大震本国騎婦人会総本部︵八二五︶/五十臆を
突破した郵優欝金︵懸︶/皇后陛下の御仁慈︵九⊥五︶/最鬱せよ、興亜奉公醸︵懸︶/満州事変満八年
感想︵隅︶/国防婦人会員に要望す一纏島連隊籔苛令官︵︸〇二五︶/大筆本忠霊顕彰会の事業援助方
︵瞬︶/醗民精神総動員強化基本方策の普及項騒及普及方法︵二二五︶/紀元二千六百年記念事業実
地方︵講︶/時局と家庭教育︵二丁一五︶
︸丸勝○年 紀一兀二千六菖年を遽ふ一連∼隊麗罵A瀞賞一躍湘本万次郎 ︵一 ・ 一五︶/紀一兀二千六藪年譜会心事業に
一i83一
行政桂会論集 第9巻 第i号
就て︵三二五︶/節米一割報国運勇︵購︶/優渥なる詔書を購ふ︵鰻.一覧︶/悪難インフレから国家
を護れ⋮購部賢一︵瞬︶
以上大雑摺なタイトルの一覧からも察せられるように、政府と軍の方舞の授透をはかり﹁非常時﹂下の生活
を、籐約、嚢勉、貯蓄、神仏礼拝と衣食往のすべてにわたり統題したのである。
また天騒○︵繧整五︶年以降は、防諜標藷を﹃本薬嚢の騰外に臨慰し、.雇晒憲統鱗、教化に務めた.
防諜標語には﹁蔑しき中にも軍機はひみ2﹁武器持つ敵よ歩武羅なきスパイ﹂﹁咲いたはなしに軍機はもれる臨
﹁うっか瞬簡くなつられて言ふな﹂など摂あ吟、まさに国防一色である。
子女愛育事業
子女の育成も教化活動の重要な一環であった。これには家庭教育や青年学校の入校、鑓潔率の上昇のための
協力などがあるぶ、 一九三九︵曙秘一墜︶年︼○月一六馨の本部評議会で淡定した紀元二六〇〇年記念事業の
ひとつとしての﹁子女愛蕎事業﹂ぶある。
﹁子女愛育事業﹂として家癒に求められたことは火傷予防のための癖やこたつの工夫、育児繧記、保険の撫
︵談讐
入又は記念愛育貯金、運動遊戯の旛設又は瑳具、曝託産婆への協力などである そして分会として取縛む事業
に請してはその実行資金として﹁反毛材料蒐集﹂による益金から露六醤○屑を、分会の人数に慈じて援助する
こととした。
︵註欝︶
︵議論︶
では分会の﹁子女愛育事業﹂がどのようなものであったかを、儀夫簾岡出村分会の事業計懸にみてみる。
三三
一i82一
橿島渠における国鋳嫡人会の成立と麗麗(鈴木しづ子)
瞬濃村分会子女愛育事業計麟
三聾
昭撫一五年一肩 籍生講習会、三舞 幹部講習会、三月 栄養料理講習会、雛薄 露嬬諸行事実麓反省会、
玉澤 夏季衛生講議︵疫痢の予防︶、七肩 夏季籍生葎麟勃駅務、八月 健康敦幼発表彰、一〇肩 栄養料
饗講習会、三月 冬季衛生講演会、ご皿月 冬季衛生郎麟物醍霧、実施反省会
以上の事業計露の経費については﹁歳入 財威金二〇湾、寄鐸金三三〇贋、訴三五〇湧﹂﹁歳星 会議費玉
露、需要費五〇勝、事業費二六〇胃︵鐵産観六〇贋、扶助費⋮○○円、修養費五〇霞、邸麟費⋮○鰐、具縫残
○霧︶、予備費三五贋、誹三五〇R﹂となっている.
羅内では約三分の一の分会がこの事業に取警緩んでいる。
﹁子女愛育事業繍は蟹家の﹁産めよ殖せよ﹂散策の具体的実践として、農村における乳幼晃死右率を改善し、
衛生思懸の普及をはか参、産婆会との協議によって藏託産婆を置くことなどにより、戯産・育晃を騒の人蔭致
策の下に統麟してゆくことを意陣していた。
軍事後援事業
婦徳の修養を馨的とした教化活動誤躍鋳婦人会の柱ではあったが、侮といっても実践活動において国嬬の本
領を発揮したのが軍事後援事業であった、、羅嬬はこの方面の活動では轟を被いていたといえるであろう。
一九三露︵昭秘九︶年二月、軍事扶勝事業の統講と二兀化を籍的に、これまで同種の軍事扶麟事業を得なつ
てきた懸体が、﹁軍事扶勒事業統麟二縫スル協定﹂を結び、事業の重複を避けて効率的に活動できるよう、
︵談擬︶
事業の分挺をはかった.こ為によると国紡婦人会は、生活扶勝、医療艮助産、生業扶助についてはごく⋮部
一i雛一
舞政桂会論集 第9巻 第i号
を受けもつにすぎなかったが、その難の扶麟としてあげられた項醤はほとんどをカバーしている。.︸こに醗
記すると﹁慰問、鵡瞬及弔慰金贈与、慰安会、慰霊祭ノ執行、恩纏及購金受給、家計.醍偶者其鰹戸籍二聡
スル斡旛援麟、地方税ノ減免壷就学晃童ノ授業料免除・斡旛、人事権談、軍事救護其ノ鯵ノ施設ノ徹底、善導
︵薮32︶
保護、一般二対スル慰鰺懇懇ノ普及徹底、隣保的厚誼ヲ以テスル贈与愉がある。
馨鋳婦人会は﹁軍時窪郷軍人会と鰯力し戦時之に代参扶跡の網の磨の主体となる薄髭性最も大なるものは本
︵謹認︶
協定に趨盟して懸る繊体中では侮と申しても国防婦人会の拡大強化であ拳ます﹂と、軍事援護緩体の中核とな
る察負を示した。三七︵昭秘一二︶年には、各地方本部に﹁総本部強化資金繍の調達を依頼し,綴織の強化を
はかった。橿島本部の場合は、三八年に、反毛秘料蒐集による益金から二〇〇︵︶円を総本部に麗麗した。.鳳
うして麟隣婦人会は綾織の強化をはかり、軍事援護認体の主体をなす力をつけていった.
福島察銃後会と銃後後援強化還聞
軍事援護強体による協定によ瞬、毒町樗の軍事狭霧事業も麟様な統講下に実麓されることになった。福島察
では軍事扶麟橿島察委員会が寮内軍事援護腰体の連絡・統舗にあたった、その鍼盟懸体は、橿島賑銃後会、帝
露軍人後援会橿島桑支会、韓本赤手手縫姦島支部、愛国嫌人会醸島察支部.︵財︶済生会福島県支部、帝露姦
郷軍人会擾島支部、大韓本震紡婦人会福島本部の七欝体である.
一九三毛︵昭麟コ︸︶年嚢中戦争醗始により票銃後会が発足︵九擁ご二馨︶して各毒郷村にそれぞれ銃後会
が設置され、市町村長が会長を兼ねた。三九︵昭秘一瞬︶年以後は、銃後奉公会に名称を改め、すべての市町村
に設置ぶ義務づけられた・麟防婦人会の薦町村分会は、それぞれがその毒隣村の銃後会と其に活動した。
三五
奄W(}一一
・一
懸鵜祭における麟鋳婦人会の成立と展聡(鈴木しづ子)
三六
篠島本部結成以前の地域羅防婦人会の活動は、懲鉦兵士の歓送逓や慰闘.献金がほとんどで、その方法は、
分会独自かあるいは町村役場との共隅で行なわれた解、三七年九肩本部発足後は、事業方法が統講されること
になった。すでに述べたように、橿島本蔀の事業は﹁内翻的事業﹂︵教化活動︶と﹁外部的事業﹂︵軍事後援事
業︶があ参、後者は市野村銃後会と共に、事跨村単鍾の軍事後援事業欝藤の中に鰹み込まれた。
︵註騒︶
一九三八︵昭鞍二5年八鍔、政府は﹁銃後後援強化週間実施要綱﹂を発表、難題を一〇舜玉澤から︸一韓
までとし、全国的に軍事援護活動を麗麗するよう捲示した。これは前年七月に始まった馨中戦争の長難化に備
え、蛋民の総力を結集するためのキャン.ヘーンでもあった。その実施要項は﹁慰霊鍾袴腰、隣保権扶ノ徹底、
小露畏ノ教化、善行者ノ表彰﹂など八項欝に及んでいる。これを受けて国防婦人会は会の﹁特色を遺憾なく発
︵註隠︶
挿し量つ徹底すること﹂を決定した.
この選闇甲の活動をいくつかの分会の韓にみてみると、二本松町分会が一〇月鑓露二本松神縫で析顯祭、七
霞∼九霞鐵毎遺家族訪周、一〇馨戦死者墓参、という決定をした、錯道村分会では︸○層六典戯鉦軍人家族患
︵詮認︶
者へ金一封を添えて慰聡、八目諏訪神社に武軍長久祈願、一〇翼戦病没者墓参、二⊥三舞穏麟手伝を行なつ
た。変わったところでは若松薦東分会が第一欝の︸○月五馨銃後婦人の射撃大会に参趨、蟹嬬会員は﹁会津木
︵譲賀︶
綿の紋平に白鉢巻 波長戦争に奮麗した会津嬢子軍を偲ばしむるにいでたちで、﹁事変下に於ける銃後嬬人の
熱誠を披瀝した﹂
しかし一般的には﹁銃後後援強化逓聞﹂だからといって特購なことをするわけではなく、それぞれの分会が
溝じような年間活動を行なってお滲、ただこのような全羅的に設定された行事では、甫野村の各種銃後後援懸
体が一斉に、任驚を分極して行動するということであった。その具捧鯛を東白燐郡常豊村の﹁銃後後援強化週間﹂
一i79一
方錘委員・身上櫓談翫、振興委員会など村窮あらゆる施設、懸体潜分極して活動している.そのうち国防婦
人会が行なったのは慰腿袋の募集二騒、講発送一躍、墓地溝掃二騒、墓参一罎である。勉強体の活動起は、勤
労奉仕、活動瞭写会﹁空は生命線﹂、学校長や村長の講議、遺家族慰周などの絶軍縮躾補馬鍛練会や産業巡懇
携導なども行なわれている.
分会の経常活動
では、地壕分会は年間を通じてどのような臼常活動をしていたのであろうか・
︵談齢︶
福島本部へ報坐pされた安積駕皿大皺慨村分ム云の
瞬園
三七
﹁
曙
称 事
業
の
機
略を
十 三 度 に 於 ける
﹂みると次のようになる。
選管逓
露醸
二三騒
替葬参爽
八罎︵一 二戸︶
鐵毎歓送逓
選家族壷に傷病兵宅慰問
︼六獲
一図
遺家族家業手伝
瞬慰安
二羅
二騒
遣悶袋の発送
脇羅瞬文“亜に年賀釈︵購材出身鐡径軍人へ︶
献金
一i78一
雪程毬奪と£冒吾から二塁お鷺覆会、青年学校、小学校、蕩臨会、蕪軍人会分会、
行政歓会譲集 第9巻 第玉暮
福島桑における靉靆懸人会の献立と展聡(鈴木しづ子)
武運長久辮腰参爽 皿三罎
時局認識講演の騰催 腿罎
鞍国貯金の実施
その飽分会旗樹立式、青年学校教練虚庸、一品献納、廃品蒐集
三八
以上のような蕪常的活動はどの分会もほぼ瞬じで、飽に料理や染色の講習会や暎面会などがあ箏、女子青年
懸や愛国嫌人会と共講で行なう趣域もあった。疑じ活動内容であるが、ただこの年九β一醸から国費精神総動
員運動の︸環として毎月一霞を﹁興亜奉公量と定められ、戦場の労をしのんで麟家に奉仕する酵とされたた
め、このβは私生活を極端に燐鯵つめ、食事を二汁︸菜﹂としたり、早朝の神経袴腰や、戦没兵士の墓参や
選家族慰問に一襲を薮てて、村ぐるみの醗紡意識の高揚に務めた。
このように分会活動は内容的には本部の統麟を受け、また村の活動誹醸の中に鰹み込まれてはいた拳、その
馨程や暴数などは分会の人数や財政、また地域の実状に応じて異なった.とくに資金調達には分会によりさま
ざまな工夫解こらされた。いなごをとってつくだににして籔発するなど、農村ならではといえる、
遺家族懇安会
さまざまな軍事後援事業は労力的にも財敦的にも苦しいものであった潜、その中で遺家族慰安会は、会員に
とってもひとときの娯楽として楽しい暗闘となった.
慰安会は、曇防婦人会、青年懸など、いくつかの懸体斜共瞬で行なう場合や、︸麟体漢主催者となって行な
う場合があ参、年に数織実施された。慰安会の一舞を、菓白癬部鴬豊村で三八年三擦に騰催された﹁第七晦応
一i77一
行政歓会論集 第9巻 第i弩
︵註鎗︶
唇選家族慰安会﹂のプ緯グラムでみてみよう.
常豊村第七渥応召遺家族慰安会︵三需二目︶
一、午羨十時 ︸凝着臆
︸、曹長絹會を宣す
一、戦段者に射し黙祷
一、富 城遙 鐸
一、國 歌 奉 唱
︸、皇后鍵下御歌簿達
一、戦後英難に封ずる祭棄料傅達
一、鐵産見舞品傅達
一、額籔 贈 量
一、慰闘金贈呈
一、村長の事攣驕係講話
︸、慰安行事
三九
一i76一
福島難における霧鋳婦人会み成立と展縫(鈴木しづ子)
鱗i舞橡国議園鐵
編
ll☆臨喋1卸
勧
口口Tu目…、者
羅○
口口1、口…=一
八麟高に於けるプ翼グラム
… …
麟
菓を饑し、余興として激や踊管の鑛し勃でささやかな宴会を楽しむこともあった、時にこうした娯楽をまじえ
つつ地域其講体の結束を國め、相互の生活鉄助を通じて地域ぐるみ国家への奉仕露体と銘していったのである.
エ
一 驚一
鷺繋隊遡騨潅−−麟
女i年群
無 瓢iAマ
館 『
攣 年 雛 種 溺
1□1…1
ll蔭周奪摩惇∵礁
薪圏一瞬陸睡日日一≡國
學麟
この縫にも.分会の総会を地久節︵三月六嚢︶や策、長節︵襲月二九響︶などの祝祭舞に合わせて行ない、茶
㎜轟轟褻
司弼咽邊
趨葬船嫡覇!−降癖
鞠
1嚢蜘
籍瞬女i
年i
一高i青屡i劃畔
青一籌
行政縫会議隻 第9巻 第i号
銃後活動の続鵠と動員
銃後の活動が全国的な詩露と統麟の下に、議購村のあらゆる難事援護鐡館、その縫の諸露体を瞬ぐるみで動
員する方法は三九年頃からは一暦強化され、定型化していった。国防掃人会の会員たちは、主体的な活動参簾
の髄面を徐々に失い、動員される穀象としての存在に変質していった。
一九三八︵曜融一三︶年には.﹁貯蓄譲国強調週闘﹂︵六律一二β∼二七馨︶、 ﹁銃後後援強化週間﹂︵一〇月
五霞∼二段﹀、 ﹁経済戦強調還閥﹂︵二一肩一五馨∼二一β︶など、翌三九年には﹁藪億貯蓄強調遍聞﹂︵六
月一五舞∼一二嚢︶、 ﹁銃後後援強化週間偏︵︸○月三韓∼九馨︶、 ﹁興亜奉公β﹂の設定︵九月一髮よ吟毎肩
一貫︶と、函嬬会員たちの活動は国家的要請の中に纏み込まれ、動員の数と化してゆく.そして一九懸○︵昭
秘一五︶年に入ると、戦争はさらに拡大と長期建に鴎かい、物資不足、食糧不足辮進行した。
この年三懲に国紡婦人会、愛蟹嬬人会、連合婦人会、連合女子轡年縢の麟懸体は﹁戦時簾来報国運動﹂を瞬
始、各家庭に﹁簸米︸割殻霞運動﹂として七分づき米、波食、代常食をすすめた。玉房には国民精神総覇貴本
部鱒﹁戦時食糧難国運動実施方策﹂を決定、町内会、部落会及び工場、官公庁、飲食店などを通して簾来を捲
導、農村には供米と増産の捲導を徹底化した。そしてこの年の﹁銃後後援強乾遷闘幅︵一〇月七葭∼ご二野︶
のあと、二月の紀元二六〇〇年記念糧嚢行事を盛大に催し、一気に戦争気分を盛参あげた。
福島の国防嬬人会では、すでに瞬月一〇韓、福島毒第一小学校講堂に=二〇〇名の会員を集めて総会を兼ね
た記念式典を聡催した.福島桑海の国防蜂人会は一九三八∼三九年頃がもっとも活発に活動していたとみられ
るが、瞬時に徐々に総本部からの統麟と活動の定型他が進み、瞬○年の紀元二六〇〇年記念行事への敢緩みを
頂点に、羅婦としての独露盤を失ってゆくことになる。そしてこのころから嬬人団体の統合翼題が本格化し、
麗一
一i羅一
福島県における羅防婦人会の成立と展灘(鈴木しづ子)
現実喋をおびてくるのである。
分会員の意識
羅二
ではこれまでみてきたような活動を、生活愛場で支えてきた地域の分会員一人ひと瞬は、どのような思いで
蟹嬬の活動に参撫し、そこに何を見戯していたのであろうか.﹃本部鞍﹄に寄せられた分会報叢や数少い投稿
に最も多くみられるのは、鐵毎兵士への思いや吟である。兵士の戦地での苦労に嬉する岡鷲と励ましが、会員
の活動の基底にある心構であった。
若松瑠護分会では薬局人蔘製造業者の下で人蔘洗いの仕事をし、これによって得た賃金で真綿を買い、チョ
ッキを作って擁土鐵身の兵士に送った.この活動に参擁した分会員は﹁これを受験られた瞬内鎧身の兵鎌さん、
︵謹戯︶
どんなに歓喜されるだらうと慰ふと嬉しい気持で︼ぱいにな管ます鳳といっている.
また若松陸軍病醗で奉仕活動をした瞬材灘の婦人は﹁白衣の勇士として故霞に雛凝せられた勇士の心境は麺
纏ばかりか﹂﹁こうした勇士の方を私たち女性として擁とかしてお慰め申上げ万分の一な警と緯恩が奉じたい﹂
との思いから病醗での奉仕渚勤に参簾.﹁勇士の方よ静﹃有難う﹄と感謝されると侮を書ってよいのか分暁ま
︵蕪怨
せんでした﹂と遠べている。
こうした純粋な瞬構心とともに、もう一方では銃後の婦人としての淡意を遠べるものも多い。騒倉町分会は
︵経輪︶
修出美八の時局講演﹁長期銃戦と家麩鞭露鴫を饑き、﹁現下の非常時馬を深く認識して一意銃後の護瞬の大使
傘達成に邁進せねばならぬと痛感させられました﹂と報告している。また小泉村分会でも、時局講演を麗き
︵謹騒︶
﹁麺何に長期鞍にわた瞬ましても我々黄よ滲は決して悲鳴を掲げぬ様誓﹂つたという。こうした決意表明のよ
一i73一
行政縫会議集 第9巻 第i号
うな言葉にみられるように、暗愚講演は分会員の意識を鼓舞し高瘍させる役割を果たしていた.時局講演の講
麟は行敬聴係︵縫会教畜主事など︶、軍縫係︵甲佐、少佐、大尉など︶、学校麗係︵校長など︶、マスコ、・、聡
係︵新臨講者など︶の人々によって、羅嬬の各種会合で必ず行なわれた..時局講演が婦人に与えた精神面にお
ける教鳶的効果は非常に大きかったと患われる。
さらに意識の面で取り上げねばならない点は、蜜蜂活動に参撫することで.嫌人が霞らのカの藩籬姓を自覚
しはじめたことである.たとえば反毛樗料蒐集運動に参擁した経験から、福島市第㎜分会の鞍告はこう違べて
これだけの仕事が崖来るのです.今こそはっき吟と女でも立滋にお国のお役に立つ事を落らせて頂きました。﹂
いる.﹁本当に私共は、今まで嚢分達のカを知らなかったのです。女は弱い、然しお互いの弱い力も合せれば
︵註お︶
また男性が混じらず女だけの分会であることに誇吟を持つ部出第二分会は、﹁男子の方々の御詣麟や御念令
︵蕪鋸︶
御母撮管を受けずとも女性のみで飽分会と立諏に駕して参れます篇と、女だけのカに議信を持って活動してい
る。
このように国嬬分会員たちは、活動を通して女のカと可能性に羅覚めていったことも事実であった。戦争と
いう羅策への臨力の枠纏を与えられてのものではあった嚇、女たちが確実に歓会参趣の講練を受け、露らの力
に霞覚めてゆく織面麟あったことも見逃せない。
三、婦人睡体統合への過程
一九鷹○︵曙秘一五︶年はまさに大平洋戦争蕪夜であった。 蟹内のあらゆる機携搭新たな戦争拡大のために
羅三
一i72一
福髭難における騒紡雛人会の成立と展麗(鈴木しづ子)
瞬鰻
再縮成されてゆく・この年穴肩の逗徳政府による﹁新体舗繍運動推進の声明、七層の﹁基本国策要綱扁の淡定、
九選には内務省通達によ参翻落会・町内会等の常会が整繁されて戦時体麟は生活の購々まで続騰し、一〇月大政
翼賛会の発足でファシズム独裁の国家システムが完成した。そして三月の紀元二六〇〇年記念祭でお祭瞬騒
ぎの皿大キャンペーンが決行され、翌獲一年ご一月の真珠湾攻撃によって大平洋戦争の幕が燐って落とされた.
戦争と共に﹁国防は台翫から幅を標榜して発展してきた馨防婦人会であったが、歓会のすべてぶ決戦体麟へ
と総み込まれ、 ︸元化されてゆく中で、婦人懸体の合扇問題が現実飽し、醗防嫌人会の独露盤も失われてゆく.
そして露二︵昭秘一七︶年二月、ついに嫌人躍体の合瞬がな参、﹁大賑本婦人会㎏が設立された。こうして婦
人醜体は政溝の統講下に完壁な動員の㎜コマになることで、一定の醸界の中であれ独自性を発揮した活動は動
員体麟に鰻鞍さ為、衰退し崩壊してしまう。
この章では、離章と若干重複する摂、露○年ごろから、嬬人縢体の合購による﹁大饗本婦人会﹂の発足まで
新体慧運動下の屋嬬
をみてゆく。
玉
簸来報馨運動
一九残○︵紹秘一五︶年七月九馨から下旬にか謬、祭下三〇ヵ瞬で察精勤本部と国嬬、愛媛、女子青年麟、
町内会代表らによる懇談会を醗催、婦人遜体の動員をはかった.協議内容は、﹁戦時食糧鞍蟹運動に閉する緯、
︵註4︶
蕩二十億貯蓄奨励運動に麗する偉、金売藻奨励に臠する件、経済更生銃後蜂人懸体活動に臠する件﹂である.
一i7玉一
行政歓会論集 第9巻 第i号
この懇談会の捲導には察の総動員譲、後会教育諜の課長、主事が当った。
七丹大饗輻島公会堂で駆か為た懇談会に八○余名の媛人麟体幹部が参撫し、﹁各家庭に於て七分轟米を常濡
し、溌食、代馬食の励行に努め︸割以上の簿米を致しませう﹂との申合せを行なった。
︵議鰺︶
また籔米糠藷が募集され、一等︵賞金。玉講︶に石簸謬の青年の俘品﹁籔来で三度三度の御奉公﹂が当選し
た。まさに国疑の三度三度の食事まで醗諺取られる状浅にあった.
︵鐘魯︶
﹃擾島疑輻﹄誌上に揚載された﹁生活の新体講⋮嬬人に聴く塵談会﹂には次のような語がでている.⋮灘紹
介しよう.
⋮高い物は着て歩けなくな鯵ますね.、﹂
︵衛生課︶
・トそう云ふ時代になり豪すね。・こ
一贅沢な滋手なものを養て歩いて居ると酸られるやうなことにな験ますね。幅
わきま
︵藏懲︶・
贅沢な着物を著て歩いていたら暗愚を弁へぬ不心得者として縫会的な麟裁を受けるやう
︵襲鐵︶⋮
露五
ヤ.−﹂
なことにな静ませう
ね 。
一i7暮一
﹁興部︵総動員諜主事︶⋮醸舎では汁の中に講厭でも芋でも沢出入れてそれを腹一称食べるといふやうな方
法を取っている蕎潜多い。根馬穣の八沢村では汁鍋は米鍋の三藩にすることといふ決議をした。⋮篇
﹁荒堰︵舞東紡人事誤長︶⋮縫西の工場では食堂に入れて十五分間だけは鍵を掛けて外へ農さない翫があり
ます.これはよく纏めといふ為めです.それから私の方では登に汁を思しません。汁をかけて丸呑みにする
︵大森村︶
と矢張り多く食べることにな瞬ます.⋮﹂
ヘ つ
R コ や ︵麟鐵︶⋮それが戦時生活ですよ。贅沢は鐵来なくなる。そこに新体鰯がある訳ですね。幅
鰹荒八購灘
雛壇鍬灘沢
福島漿における羅紡嬉人会の成立と農醗《鈴木しづ子1
露六
以上のような会話にみるように、簾米運動も乏しい食糧をさらに饗りつめ、ぜい沢を敵視する社会風潮の中
で行なわれ、当主的な締約というには程遠く、心遅的強調として人々を追い立てる状濁が量購をおおっていた
のである。
吉めぼ鯵献塾運麟
︸九鱈○年延月︸五嚢の﹃本蕊報輪に次のような記事ぷ載っている。
﹁入営慈召に捺し旗織廃童に就て繍
轡征兵士の歓送遽は、躍防蜂人会の活鶉の原点である。その灘に出世兵士の名麟を書いた旗幟を立てるのは
全羅的に行なわれ習濃化されていた.しかし戦時勃資不足による節約の嵐は、この鐵鉦兵士のための旗織にま
で及ぶに至った。記事はいう、軍部の決定によ蓼旗織を廃艦すると。﹁徒らに見灘をはり笙景気を添ひて窃盗の
濠費を許さるべき時ではないのであ瞬ます﹄﹁これからは幾戚や縁故麗係者に籏を贈ることを読めて戴きます。
そして若し贈らなければ義理の済まない時は金を上げて戴きたいと存じます。贈られた人は其等を集めて軍服
ど
などを調へるとしたら欝んなにか意義ある事でせう.﹂
羅一年秘め、不絹になった織を兵器の手入れ罵にと、祭下の霞嬬分会に騒騒を陳びかけ、二月には約七〇〇
貫の織撰集められた.その後書織は演芸会のどん緩に再生さ為た参もした。こうして鐵徳兵士の名蕪のない
︵譲灘︶
﹁観鐡鉦繍などの、何度も旋える旗以外は廃藍され、国防嬬人会の活躍の場も、その特魯を薄めざるを得ない
ほど、戦時生活は危機的状溌を逓えていたのである。そうしたなかで、以繭よりくすぶっていた嬬人懸体統合
聡題は、いよいよ現実化してゆく.
一蓋69一
行政歓会講集 第9巻 第i畢
愛曇購入会との合鷺開題
愛婦との合瞬論
国鋳嫌人会は発足当初よ鯵、すでに愛函婦人会があるのに新たな嫌人懸体麟必要なのか、という幾舞を受け
ていた。こ為に耕して蟹嫌は婦徳の修養と家庭国防という性格を掲げて愛嬬との違いを示しつつ、愛婦にない
大衆性と分会中心という活動様式で愛嫌に難航し、またたくまに愛婦を追い撞いて蟹内最大の鱗人露体となっ
た。そして軍事援護墾体の中稼的存在として地方のすべての毒鰐村に網羅的な露体となったのである.
愛媛もまた麗嬬に薄擁して羅綾を改編し、軍事援護事業にカを注いで会員獲得をはかり、継織の拡大と大衆
先を進めた.
中央では蟹婦と愛婦の難航縫係は強く意識されていた.しかし地方では、すでにみてきたように、愛嬢とは
多くの場合役員淋重複し、活動も共瞬の場合麟多くみられる。
一九三露︵紹融九︶年に軍事扶助事業の分握を行なった藤、馨嬬は愛婿との関係について次のように需って
いる。
︵註駐︶
﹁愛国婦人会と躍紡婦人会とは重複する様に申す人もありますが、成立の根本精神、纏織事業の分野、事業
撮管等ぶ大に異なるものであり、︵中略︶髭の雨露体を衝突せしめざる為には国民皆兵の精神より先ず悉く
を国防嬬人会とし、其の内一般社会事業に驕心を持つ人達を二重資格で愛醗蟻人会員となるやうな考を以て
すれば宣しいのであ滲ます。﹂
霞七
一露8一
2
福愚察における靉靆婦人会の成立と展聡(鈴木しづ子)
露八
このように、蜜蜂は初鶏のころより愛婿と対抗しつつも地方の会員の愛媛との調櫓も考えていた解、性格の違
う懸鉢であることを強調して二重会員になることを認めるのは、嚢己矛盾でもあ撃、苦しい弁明でもあった。
一九三八︵昭秘︸三︶年六月には、蟹嬬﹁本会と愛国婦人会との麗係に就いて﹂、愛嬬﹁大資本羅防婦人会と
窺秘提携に聞する艀㎏の文書をもって、両者がともに﹁其の趣冒に於ては異にする瞬あるも其為すところは共
に国に鞍いんとする旗誠の発露に外ならず貼﹁互に爾会の健命を深く認識し謙譲の美徳を発揮し楊縫擁し銃後
︵装置︶
の護鯵に遷憾ならしむべきもの﹂であることを、各地方へ通知した。しかし総動員体麟下で婦人懸体の合扇論は
ますます高まってゆく.三九年六月、全霞甫会議長会議が講者の合瞬を議決したほか、八舞には国民精神総動
員特撰委員会で、戦時体趨下に講種醸体の統合整理を促進する必要があるとして、愛嬌・露嬬の統合溺縫案さ
れた.
︵註欝︶
こうした議論に録しで\麟嬬は強気の合同友薄を曝えている。三九年一一月玉霞﹁婚人懸体の統合開題に麗
︵註騒︶
する件﹂、残○年九月六嚢﹁本会々員ノ新館麟二嬉スル心購ヘニ関スル件嚥を各舗管本部、地方本蕩に通知し、
﹁本会としては決して魑の婦人錘体と合興して鱗簸の婦人会を結成する等の意志なく繍﹁懸体を旋に統合膨大
にするが熱きは隷て時穏に難せざるもの繍といい、更に合隅論のため﹁本会会員単二ハ不安ノ念ヲ懐キ或ハ飽
ノ不純分子二乗ゼラル∼が麹キ事態ノ発生ヲ防遏スルノ必要ヲ感ゼラレ候甦本会ハ麟立以来蟹防ノ重要性ヲ強
調シ婁菖六寿条ヲ提ゲテ嫌人トシテ護醗ノ大錘ヲ実行スベク曝導シ乗サ﹂﹁将来諸般二藍ル新経織ノ確立ヲ待
ッテ其ノ休講二瀬応スベキモ今織二解散ヲ為スだ魏キハ籔ジテ無キヲ以テ麓際会員ハ量論三遷ハサレ動揺ヲ来
スガ麹キコト無ク凡テ本藻ノ携承二縫ヒ行動﹂することを要請、会員の動揺を揮えて結束を燐める姿勢を示し
た。
一i67一
瞬駅内め△葭請払醗
愛嬌との合講論に精しては、中央においてはとくに蟹嫌の愛嬬への録抗意識の強調という影で表現さ為るこ
嘉多かった・し奪地方の実簿、護総本革驚毒毯婦霧轟姦攣る馨露語存奪は
なかった。では地壌活動を支えている分会の活嚢、分会員の認識を通して、愛媛との縫係をみてみよう。
福鍵窪霞﹄九髭︵昭墾瞬犀撃霧、蕎髭報憲走函鬱蒼き導養して、察
糧饗員らにアン年差行なった.そ詮老と、麗讐萎下銃後愛馨として墜蔭敢えてい
警るも今や奇欠の存套差建、し奮事業毒麦鼕鼕羅を生み、鏡欝金誉談
一懇6一
嬬人生活の矛盾﹄や﹁其飽の銃後婦人懸鉢と露嬬事業の調整、統合﹂簡題を真舞に考えねばならなくなった。
そこで爵舞人会の妻菱籍の為改善を掌る墨﹁銃後娑羅董・罷窺いて﹂蔑し、饗.を
求めた.
︵謹灘︶
懸九
声であった .
筆黄華実藷黎誉ん高攣あるため、蕎藩掌るこ墓多か建よう蠹毒を暑しての
落孕る人々に多かった.そ藍麗窪員が愛鷺役員を兼ねてい奪、会、舞豊篠入業多く、罐
鷺人会の名雫義ごする重︵谷霜醤箋部羅塁︶釜、愛懸体のム・馨議する声簸域
る為之を金貸霞誘愛会筈改称﹂す歪と︵峯馨騒騒箋登婆実︶、﹁甚愛漂畠
肩麓い叢探書うか⊇森蕊な叢奮採る.秀憂鷺人会議擁人会雲立義攣
鷲本講本饗の大磨き孟、あ立壅塞ぞか、愛婦と露鰹つい姦、ぞの壷誘嚢は
竃違ふのですが舞馨楚、覆を守る為に窩懸融食毒携へ責霧窪鑑み蘇あで玄
行政後会論集 第9巻 第i号
醸高察における露紡婦人会の成立と展麗(鶴木しづ子)
五〇
中央で軍事扶助事業の分撞が決められ、市町替内で活動の分撞、調整が行なわれていたのであるが、実際に
は装い村落内では愛媛、馨嬬の懸は形だけのものであることが多かった。参撫する婦人にとって、主催がどち
らの露体かは、問題ではなかった。
では爾躍体の呉織活動の鋳を、分会馨告からいくつか拾ってみよう。
・藤馨町分会﹁・・.この葬鴬時に我解藤鐙町分会は愛嬬国嬬共会長に佐々木フジ氏と玉葛余の会員といつも秘気藷
々のうちに活躍銃後の護りを燐めている﹂︵﹃本部報﹄三八年三鴛︸玉露︶
.海沼榔堂島樗分会﹁離年十肩当村青年学校の査灘に私共分会員三蕊名、愛国婦人会員召桑名、女子青年腿
員否替名が参聡し、青年学校と一勝に査騒宮本多乙彦中性殿の査隠を受け⋮﹂︵﹃本部韓﹄三九年七月一五
賛︶
、湯本野分会﹁..、七月十二嚢 当町愛国・講防癡人分会長以下再幹蔀三十名の慰問睡の︸得は⋮午後︼時若松
陸軍病院慰簡労力奉仕をなしこ︵﹃本部報﹄三九年二皿月⋮五雛︶
・多馨野村分会﹁十一月二十七舞 資源愛護の意瞭から材︸瞬に渡管薄徳拾ひを実施す.︵愛媛と共瞬にて︶
⋮落癒米競売の結栗再七拾壷鍔の薮入ありたるを本村女子脅年盛に金二十騰寄付及陸海軍に二十贋献金、残
金を愛嬬蟹嬬と燐半した彗﹂︵﹃本藏鞍﹄弱○年︸月一五繧︶
.須賀綴驚分会﹁十擁二牽三韓午前八時躍書館楼上において愛憐婦人会の軍委託お正月欝慰腿袋調整修業に臨
力す。患鷹会員八十名﹂︵﹃本部馨﹄羅○年三月︸蕊韓︶
以上の溺のように、艮常活動においては愛婿、露嫌は共瞬で行なう場合が多く.また女子青年腿も、羅嬬の
行事に臨時託難解を開設するなど、地域内における活動上の協力其瞬縫係は撫当広く一般化していた。
一i65一
もちろんなかには部出第二分会のように、﹁愛蜜蜂人会と異なる趣看を考へる時お金の御寄付は戴き兼ねま
大銭本婦人会の誕生
蕪︶と憂讐窪峯善意講ずる分会もあったが、ごく壽で蓉.
⋮⋮
隅轡旛御・愛旛XP瞬への下一地
銃後後援事業が戦争の絃大と長類化を背景に、官疑を購わずあらゆる懸体、騒人に要請され、総力戦が思懸
一i6畦一
の購々にまで統麟をかけてきたとき、醜婦の独露盤は次弟に消熱せらおていった。そして全睡的な嬬人蔭体の
でありますが﹄■やたらに瞬き受くべきではありません﹂と、分書暴本灘の捲示以上に活動範灘を拡げるこ
五⋮
︵盆路︶
家庭を窪て襲撃蓬婁琶、証解髪裟誌、またさらに廃馨奮色名鼕鼕妻多榛
あ軟橿島本藻・軍部嚢墾で、会員が﹁会本悉事業舞窪唐桑蓼轡護繁ら強奪島て
など∼云ふことは現在の瞬其必要はないのである幅と、合瞬論を否定している。こうした軍方面からの搬導も
る。羅嫌は婦徳の滋養、家庭蟹鋳の確立が痩命であるから愛嬢の行動を霞難は見習ふ必要はない﹂﹁ム臓麟統一
人会と愛羅婦人会とは元来設立の舅的を異にするものである。社会事業に進鐵することは愛嫌の重要方藤であ
三九︵羅露︶年腎窪島本部評議会歴、邊隊監令官橿本義弩.あ閥讐つ㌢、露髄婦
浅意を凝している。
講論を否定しつつ縫方の会員に薄して飽懇体からの事業活動の要請にはいたずらに協力参撫しないよう、再一一一
鷲憲点から合講論奮てき髪き、露疑体電機肇塞お鰹姦轡、婁残集乞て、ム.
鴛政緩会論集 第9巻 第i号
福暴桑における麟紡婦人会の成立と展籠(鋒木 しづ子)
とを強く麟正している。
五二
これは、合隅論に慰する国婦の存在についての竜機意識とともに、一方では家庭婦人の縫会への進灘に対し
ての竜機意識もあった。潔家”意識を基底に、﹁国鋳は台藤から﹂を標捜した国婦にとって、その﹁台勝﹂を留
寄がちにすることは、会の羅的︵婦徳︶からいっても大きな矛盾であった。国嬬が当初よ撃掩えていた内在的
矛盾が、合瞬論によって顕在化してきたといえる。国蟻にとって合瞬譲と其に重要な問題は、嫌人を家庭に覗
き戻すことでもあった。そこで会員が﹁家庭を空けて﹂活動することを焼講ずるためにも、愛蜂など鯵露体と
の脇力業騰を擁鋤しなければならなかった。それは屡嬬の事業の拡大強化とは輯矛臆するものであった。
霞○︵昭秘︸五︶年は愛媛への蝿鋭意.識もあ吟、新たな戦争の拡大︵仏邸侵攻︶という背景もあって、蟹
嬬全然の事業件数は格段と飛躍したが、このころから養蜂など魑霧体との黄緯は不可選の献浅が生れていた.
地域での活動は中央の思惑を超えて、饗実に醗嬬と愛嬬の脇方薬瞬事業は進んでお鯵、瞳害はなかったのであ
る。
懸○年末の大政翼賛会臨時中央協力会議で、曜一嬬人代表の高良富子ぷ翼賛会に婦人局の設置を提案した。
縫会のあらゆる機講溝翼賛体講の下に一元化されつつあるとき、嬬大腿体もまたそこに総み込まれる運命にあ
った。婦人露体の統一によって翼賛会の率に婦人の発露の場を確保することが、嬬大腿体の揖導者、有識者の
意識として凝集していった、そして鰹一︵昭麟一六︶年、駿府の方針ぶ癖人露体の統合を決定すると、﹁過去
の一切の行懸雛を清算し報蟹の至鋳に燃えて婦人奉公の真の機構を作り上げる事に努力致し凄い﹂との﹁婦人
︵註灘︶
露体統合に絶する声明﹂を、六層︸○嚢に発表した。
︵譲§轟︶
合講の方鋭が決まったことで、この年の国難の事業件数は激減した。
一163一
大震本婦人会の結成
五甦︵霧き集星胄、驚墜灘人馨蔑羅を聾した.薔獲、査青鷺
会議愛会長呈馨饗慨髪馨霧婁議乞て、讐馨は裳藝・喜ることとした.
六豊春縫謡体蔑窒籍鯛蔓蓬叢叢餐嚢後輩夫︶議窺、背薪愛
鑛体結成委員会が発足した.
纂念簿﹁杏本愛会を摯奎と叢り、その昌は嚢霧肇籍二耀ス㌻メ.函伝
五三
奔翳れ天暦享議支饗︵あ隻饗と馨︶乞、寛、一、、隣、決議を疑した.大原り享覆幕
青欝欝彗毒羅盛進めら憂.そして賢お馨驚衷会等、奇論人糞毒の結甕
年窮三塁。見解警露なつ鷹、そして醤奎畳音、羅も舞全体結成準筆.員会が、
県と軍及び愛馨袋によって馨嚢、﹁杏本愛会竪難肇攣﹁署轟轟叢﹂葎嚢て、
驚講荘堅集旦青墨あ雰会へ愛憐籍象智さ莞.響響爵分会で輩毫
愛糞は杏毒人会蓬髪猛犬与る茎叢った.こうして査本婦人会薩一議登七犀一一
塁量護窒人会簿発会式をあげ、瞬じ罎で.腎二一馨、講談会篶警を宴つた.
さて・奮舞人会雫纏欝欝楚支蓼置き、誕会寓会窪鰹鼕鼕、讐会寓会の
外へ銃後霧き書して藝誉れてゆく. ︸
エ
蓼讐二響簿褻奉公ノ実墨差、、ヂ、そして養整・姦毒すべての馨鳶全された..編
うして愛鱗葉讐を謬暑家﹂とぢ籔繋人選琶誘ら砦.﹂ととなった.しかし現実に
は巖争窪め舅柔曇なった馨の霧への蟄を誉め、女羨謀、義勇軍など、女は雇蓬の紐
行政歓会譲集 第9巻 第i畢
璽羅
内大原病院大原博士夫人で、︸九三二︵昭秘七︶年から愛国嫌人会議支部長︵支部長は知事夫人︶を務めた勉、
髪孟跨年譜響︵天業年毒︶、霧嬬人会福島本講本葦︵天老年吉︶など産讐嘉
参、蝿末羅体統合に課して綾女が長となるのは必然的であったろう.
大馨本婦人会票支部発足の前β羅月一九饗、麟防難人会橿島本藻は篠島毒第︸国役学校で解散式を行なった。
こうして霞騎婦人会が中核となぞ握った銃後の活動は、大鐸本嫌人会に瞬き継がれた・
一i6垂一
お わ 鯵 に
すでに愛霞婚人会があ参ながら、国防婦人会摂急速に発展した要霞として、第︸に三六年携頭の福島連琢藍
全に消えさって行く結果となったといえるであろう.
国嬬の覇には、婦人たちの毒磐欝畠蕎肇蟹ぞ動員さ砦欝とが脅、戦争の笑毒
覆繹ぞ讐露票強くなぞ、箋霧ごろ毒は、ほえど動員藝でし婁くなぞい建憂員
のた詮塁講読禦否決と奮、こ紮箋漂の合攣必要とし、また合灌よぞ主体鶴薩完
ている.時甥匿分はあくまで優宣である勝、祭内国舞濤動全般の展麗を見通すため無有効であろう・
潮期︵騰○∼露二年︶とした、記述もこの時期区分に沿って待なったが、講容によ雛それぞれ晴朗的に重なっ
坐鑑国防奨会霧島講に蓉轟織と活夢みてきた.あ論稿冒曽、地薯諄る国防愛
会窪黎ど2うなあであったかを、橿鳥鍔実愛響て馨か写るこ寒あった憂宜的髪お
罐縛謹分し、箋響成立期︵茜蓋車︶、襲顛落塾盛肇毛∼馨年︶・箏顛を再嚢
福島票における蟹紡婦人会の成立と展醗(鈴木しづ子)
行政続会論集 第9誉 第i暑
欝金部の強力な結成依頼があったこと、第二に愛婿が有産購級夫人を主な対象としていたのに薄し、覆嬬は年
令・会費の講眼もなく、地域分会摂事業主体となれたように、透代姓、大衆性を備えていたこと、第三に地域
の名望家懸、知識階綴︵瞬村長、学校長、羅体役員など︶の撰導や援勝を受け、地蟻共隅体密着型となってい
たこと、第麟に家庭婦人を中心としつつもそれにとどまらず、職場の婦人をも緯織しえた.㌦とが捲摘できる。
しかし華々しい国難の活動も、県内をみればほぼ七年簡の歴史︵橿島本藻結成から数えれば麟年半︶でしか
なかった。
婦人炉縫会的活動に意義を見出し、一種の喜びをもって躍嬬に参撫しはじめながら、﹁簾米で三度三度の齢
奉公﹂というように、台翫の主導権をもって騒家に奉仕するという嫌人の活動は、結局のところ台勝にしばり
つける﹁嬬遂幅という手かせ是かせから嬬人を解き放つことはできなかった。
国嬬の活動は一露でいうなら、この戦争への﹁献身﹂と﹁献金篇に集約できるであろう。戦争はふるさとの
虫溝、襲娠、家庭の隅々からあらゆるものを奪った.霞媛の皿人ひとりはその手となり足となってしまったと
もいえる。翼賛体麟はこのように家庭の片鶴から支えられた灘錘解あることを見遷すことはできない.
この論稿では福島梁下の醗嬬活動の実態をできる醸吟瞬らかにすることであるから、国婦の果たした意義・
役割についての考察は不充分であ馨、実態解瞬の上にあらためて考え、深めてゆく必要があろう。事実を知る
ことで霞ずと戦後の私たち婦人の活動の類似点、相異点も醗らかとなり、留意すべき鵜題点もさらに深められ
ることとなろう。
最後に戦後生れの瓢の鰯人的体験に即していえば、十数年前私の子供がまだ小学生の時、学校に﹁交通安全
母の会﹂という懸体麟あって、校鱒前でビラを醍っていたのだが、彼女らのたすき授けのいでたちに、私は唐
五五
一i鋳一
懸島察にお謬る覆紡嬬人会の成立と展醗(鈴木しづ子)
五六
突にも馨騎婦人会の姿を想起していた。私にとって羅防婦人会は写真でみる姿でしがなかったのに.戦後の嫌
人懸体、とくに行政指導型の蜂人懸体に薄して私はいつもある種の躊躇を感じざるをえないのである・
国防婦人会の地域における実態の醗究については、福島票の女性史編さん事業の末庸を汚すこととなったこ
とが大きなきっかけではあったが、以上のような私の纒人的、内姦的体験越内発的遷轟にあったことを記して
) ) ) ) ) )
嚢、 二八八颪ハ
﹃藏島艮馨嘱 ⋮九三七年九月七賢琶
購、 一九三七年九月七霞醤
繼緕
ハ年二月︶
愛憐子女腿とは﹁婦人鞍懸精神の繰養体得を難ずる実地調練機麗として﹂小学校女難、女学校生後らによ鬱
結威.福島票下での経織は三七年時で︸醜体鰻○名、全曝最下位で、その後もほとんど堪えなかった。
一i5§一
この稿を闘じる。
註
﹃大篝本屡防嫌人会十年史臨︵︼九雛三年︶二八瞬頁
65432玉
隅編島畏穀臨 一九〇八年五月皿二暴付でも愛霞嫌人会の総会のあ吟方を畿覇する記事を載せている。
(一
かいおこの勢鯉鰻を量円くにあた鯵、郡山毒の麟”楽マサエ氏から・史料︵讐福一島本部報﹄︶の糧︵供を隠文けたことに深く
謝意を表します.また、女性史編さん室の皆様にも、この場をかりてお礼申し上げます.
ハ ハ ハ パ ハ ハ
行敢縫会隷集 第9巻 第i畢
門福島浸韓島 ︸九三二年麗擁二〇巽付
凹愛轡婦人会霞十年史輪︵一九霞一年︶五三八頁以下参懸。
︵7︶
この時期の会員数については統欝ぶなく、﹃福島艮報﹄誌上でも三種の数字がみられる。九鳶七貸付では約
露万人、九肩一九舞付では一一万人、 一〇擦皿霞及玉無縫では八万人とある。三八年三舞には一睡万八七一
︼人となっているので.薄年は八万人位であろうか。
礪大熊野望輪第襲巻︵︸九八一年︶=二五頁
大霞春霞防嫌人会橿島本藤機縫紙門福島本部報﹄︼九三九年一月一五β
叫嚢沢樗史島資料糎︵一九九一年︶ 二︸○懸翼
﹃福島㎝民報臨 一九一二論ハ年叢擁二九一霞H欝
轟島連隊区から各分会癸会式に臨露・講演した者に、牽醗少鑑、藤菩串盤、大井燐寧鑑、竹原大鑑、岩見麹
兵大皺などの名がみえる。︵﹃編島民鞍﹄︶
﹃癌島艮報﹄︼九三七年一〇携一難付
懸 一九三七年︼○月蓋羅付
門←人員本懸一騎婦人ムπ十年出丈﹄ 二六詣ハ欝ハ
瞬 瞬〇六頁
﹃曇霞兄跨南丈幅 伸薦︸工巻近代脚質料 ︵一議几七五年︶ 論ハ九七“員
﹃講辮郷[耕−更睡 第一二巻近代資料 ︵一九八三年︶ 論ハ○○π貫
珊福島奉蕪鞍﹄一九三九年置擁︸五馨
なお金額は銭以下を饗参捨てた。
隅 一九三八年鷹薄一五警
五七
一蔦8一
︵8︶
圭3 i2 ii 工{) 9
︵器︶
) ) ) ) ) ) )
ハ ハ ハ ハ ハ
ハ ハ パ ハ ハ ハ ハ
29玉9i8i7!6i5i4
福島擦における馨紡嬬人会の成立と農麗(鈴木しづ子1
ハ ハ ハ ハ パ ハ ハ
ハ ハ
なおこの持すでに結成された支離は、福暴露、藻出露、
醗蔀 よし
橋本 清乃
灘なみ麹都出繰入会遇事
第五分会長
丹治 英子
若松市、軍港、穣馬謬、安達馨,
及び謬藤難人会㎜﹁鷹噺年の歩み偏 一九三六年︶
一九三九年一〇肩一五嚢﹁会勢一覧表﹂よ吟算鑓
購 ︸九三九年一㎝鍔一五舞
﹃福島本灘鞍睡一九露○年三月一五舞
叫大農本国肪嫌人会十年史﹄玉露一頁
﹃福島本無鞍篇 一九三八年玉携一五霞
﹃大饗本麟騎婦人会十年史﹄八○頁
瞬
﹃福島本蔀報輪
︵﹃本熱報﹄
第二分会長
麗成虫分会長
第六分会長
第鰻分会長
孫譲媛人会員の麟蜂分会長
石撰部、聡麻部東灘、縫蔀客部である︵講五鍔一五馨︶。
) ) ) ) ) ) )
五八
隣村穰、岩瀬蔀、
援跡資金は.一〇〇〇名以上の分会に三〇霧、五〇〇名以上の分会に二〇鰐、二五〇名以上の分会に一〇
講、その飽嫁五瞬.三九年皿○月から一二層までを準備類購とし懸○年︸月から実行するという讃藤.
購 ︸九瞬○年五月一五馨
協定参簾懸俸は、帝霞軍人後援会、︵財︶報敷会、︵財︶愛蟹鰹兵会.︵財︶義済会、愛霞婦人会、大農本国
一i57一
︵22︶
2§ 28 2了 26 25 2護 23
3i 3§
行政歓会譲葉 第9巻 第i号
防婦人会、帝蟹姦雛軍人会、騒本券十字枝.恩賜難露済生会、︵財︶啓成鮭︵﹃大賢本石鋳嬬人会十年史﹄獲
三二頁︶
叫大欝本震訪嫌人会十年史臨瞬鰻︵︶頁﹁蟹事扶勝事業分携表﹂参蕪。
瞬 羅五一頁
講 醸穴二頁.なお擾島禁内の銃後後援事業、露体については﹃銃後後援事業の機漉﹄︵癌島祭、一九三八
年︶を参蕪.
購 鰻六六頁
騨橿島本雑報輪一九三八年一二拷一五費
講 一九三八年一一選一簾舞
東田鰻馨常農村銃後奉公会噸無敵皇軍 慰隠の柔﹄第藪集 一九三九年藪β 三〇頁
この雛子は替内の銃後活動を記録したもので、常豊樗銃後会︵のち銃後奉公会︶が発行し、鐵径兵士など
に送った.会長は村長金沢春友ぶ兼綬.
嘆福島本藻報輪 一九三九年玉璽皿蓋欝
晶麟颯燭 ﹃鉦醐軸黙皇五霞﹃ 離心㈱瞬の棄臨 第一二集 一・兀︼二可八年.八月
﹃福齢本部報﹄一九三九年二層一五騒
一九三九年三月一五饗
︸九三八年一〇舞︸五馨
一九三九年一層一五雛
一九一二書八年⊥九層︸五段
一九三九年一二肩︸玉縁
五九
一i56一
) ) )
岡
瞬繕懸濁
34 33 32
パ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ
ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ
) ) ) )
) ) ) ) ) ) ) )
38 37 36 35
・蟹3 違S 4逢 遵3 媛2 謹i 畦() 3{垂
福島桑における螢防雛人会の成立と展醗(鈴木しづ子)
( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (
6遵 63 62 6i 6{} 59 58 57 56 55 54 53 52 5i 5() 49 魂8 蓬7
) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) )
麟 瞬 一九麟一年三薄一三韓付
一九麟︵︶年八層一八類、二一二露盤
︸九羅○年七舞一〇騒琶
﹃福島渓報輪︸九騒○年七鍔騒嚢琶
講 ﹃大蔭本国防婦人会十年受臨獲互○頁
購 五五︼頁
瞬 五八二頁
購 五八六頁
﹃福島畏鞍﹄︸九三九年︼屑一霞酵
一九露○年二月一五5
﹃福島本編鞍臨 一九三九年一二肩︸五韓
騰 岡 ㎜九瞬○年謬月︼玉露
四大舞本羅防婦人会十年史臨玉九二頁
詞 鰹九二頁以下参懸。事業件数は懸○年のピ⋮クに駕してほぼ半減した。
疑 六〇瞬頁
﹃橿鳥”疑緬轍臨 一九懸︼年山ハ︻月一郷[圏付
懸 一九瞬︸年一二月二二β付
属 一九露二年露月一コ饗村
内〇
一155一
Fly UP