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調査マンと台湾植民地官僚制 - 国際日本文化研究センター学術リポジトリ
調査 マン と台湾植民地官僚制 や まだ あつ し 名古屋市立大学 は じめ に 台 湾 総 督 府 は、 統 治 の必 要 上 もあ っ て 台 湾 内外 で様 々 な調 査 活 動 を行 っ て いた 。 よ く知 られ て い るの は、 後 藤 新 平 民 政 長 官 が調 査 活 動 を重 視 した こ とで あ る。 調 査 だ け を行 っ た わ け で は な い(そ もそ も主 目的 は地 租 増 徴:であ る)が 、 後 藤 時 代 に 台湾 総 督 府 が土 地 調 査 事 業 を行 い 『大租 権 調 査 書 』 な ど土 地 慣 行 調 査 を刊 行 した 。土 地 調査 とも絡 む が 『台湾 私 法 』 やr清 国行 政 法 』 で知 られ る 台湾 の 旧慣 調 査 も後 藤 時 代 に 著 手 され た 。 調 査 は後 藤 時 代 だ げ行 って いた わ け で な い。台 湾 統 治50年 間 に 台湾 総 督 府 や 関係 機 関 が行 った 調 査 活 動 報 告 は、 今 日で も多 数 の刊 行 物 とな っ て残 っ て い る。 刊行 され な くて も、 雑 誌 に発 表 され た り台湾 総督 府公 文 類 纂1に 綴 じ られ た りと、 調 査 報 告 が 残 って い る もの は少 な くな い。 これ ら調 査報 告 は、 今 日の我 々 に貴 重 な情 報 を提 供 して い る。 本 論 の狙 い は、 調 査 マ ン(と 本 論 で呼 ぶ)す なわ ち総 督 府 で調 査 を担 当 し調 査 報 告 を 執 筆 した 人 物 が、 台 湾 総 督 府 の官 僚 制 の中 で どの よ うに処 遇 され た か を、 明治 大 正 期 にお い て原 住 民 族 とそ の居 住 地 域 につ い て調 査 した 人 々 を事 例 に考 え る こ とで あ る。 植 民 地 台 湾 に おい て何 らか の調 査 を し、 執 筆 をす るた め に は、 台 湾 総 督 府 と関わ りを 持 た ざ るを 得 な か った と言 っ て過 言 で は ない 。 ま し て調 査 を も と に、 台湾 で何 らか の活 動 を 考 え て い た 場 合 は(東 京 や 京 都 の帝 国大 学 関 係 者 、 特 に 岡松 参 太 郎 の よ うな帝 大 教 授 は 別 格 と して 岡 松 も臨 時 台 湾 土 地 調 査 局 な ど の嘱 託 で は あ った が)、 総 督 府 の 中 に入 り込 ま ざ るを 得 なか った 。 特 に 「学 術 研 究 」 を 主 とす る 中央 研 究 所 や 帝 国大 学2が 台北 に設 立 され る以 前 は ど うか。 調 査 マ ン は、 一 般 行 政 ・警 察 担 当者 と官 僚 組 織 に 同居 し なが ら、 調査 せ ざ るを 得 ない 。 そ うで あ る な ら ぽ、 調 査 マ ン とい え ど も総 督 府 の官 僚 制 の中 で 生 き、 官僚 組 織 を 相 手 に 自 己 の 目的 を 果 た そ うと試 み ざ る を得 ない 。 で は実 際 、 ど の よ うに 調 査 マ ンは官 僚 制 の中 で処 遇 され た の で あ ろ うか 。 総論 報 告 「台 湾 総 督 府 官 僚 制 概 論 」 で 述 べ た よ うに、 台 湾 総 督 府 の官僚 制研 究 は、 札 幌 農 学 校 閥 や 長 尾 半 平 に代 表 され る、 主 と して 前 期 武 官 総 督 期 の農 政 や土 木 で 力 を発 揮 した 技 術 官 僚 研 究 や 、 政 党 政 治 期 に お け る文 官 総 督 以 下 の高 等 官 の人 事(日 本 帝 国 圏 内 で の政 党 と絡 んだ 人 事 異 動)が 主 な研 究 対 象 で あ る。 台 湾 で の研 究 もそ れ に 台湾 人 下 級 官 吏(普 通 文 官 試 験 に合 格 し、 判 任 官 や 雇 へ)の 研 究 が 加 わ っ てい る のが 目立 つ と ころ で あ ろ う。 1台 湾 の 南 投 県 に あ る国 史 館 台 湾 文 献館 に保 管 さ れ て い る台 湾 総 督 府 の 文書 。 同館 ホ ー ム ペ ー ジ の http://db.th.gov.tw,/%7Etextdb/test/sotokufu/を 2台 北 帝 国 大 学 が 設 置 さ れ た の は1928年 まず は 参 照 され た い。 、 日 本 の 台 湾 領 有 の33年 後 で あ った 。 133 や ま だ あ つ しYAMADAAtsushi 日本 人 調 査 マ ン の よ うな官 僚 組 織 の 主流 で な い 人 々 は、 官 僚 制 研 究 の 対 象 外 で あ るか の よ うで あ る。 しか しなが ら植 民 地 台 湾 の調 査 マ ン、 特 に 東 部 台 湾 や 山 地 とそ こに居 住 す る台 湾 原 住 民 族 につ い て調 査 した 人 々に つ い て は 今 日、人 類 学(人 類 学 史)か ら関 心 が 向 け られ て い る。 植 民 地 台 湾 で も っ とも精 力 的 な フ ィー ル ドワー カ ー だ った 森 丑 之 助(も り うしの す け) につ い て、 台 湾 で 楊 南 郡 に よ って 業 績 とそ の 特 異 な生 き様 につ い て 発 掘 と再 評 価 が 行 わ れ た3。 日本 で も人 類 学 者 の笠 原 政 治 ら に よ って 『幻 の人 類 学 者 の研 究 に捧 げた 生 涯 』4(風 響 社,2005年)と 森 丑 之助 台湾原住民 い う森 を紹 介 す る本 が 出 た 。 台 湾 在 住 の ジ ャー ナ リス トで あ る柳 本 通 彦 も、 森 お よ び本 論 で論 じる伊 能 嘉 矩(い の う 田代 安 定(た しろ や す さだ)ら 明 治 期 台 湾 で 調 査 活 動 に従 事 した3人 る新 書r明 治 の 冒険 科 学 者 た ち 新 天 地 ・台 湾 に か けた 夢 か の り)と の生 き様 を 紹 介 す 』(新 潮 新 書,2005年) を著 して い る5。 また 歴 史 学 か らは、博 覧 会 で の異 文 化 表 象 に つ い て関 心 が 向 け られ て い る。 松 田京 子r帝 国 の視 線 博 覧 会 と異 文 化 表 象 』(吉 川 弘文 館,2003年)は 、台湾原住民族 をは じ め琉 球 や 植 民 地 の人 々 を 「 展 示 」 した 学 術 人 類 館 事 件 で知 られ る1903年 の 「第 五 回 内国 勧 業 博:覧会 」(大 阪 ・天 王 寺 で開 催)に つ い て 論 じて い る。 この松 田 も、 博 覧 会 で 台 湾 表 象 の 基 礎 をつ くった 人 物 の一 人 と して 伊 能 嘉 矩 に着 目 して い る。 伊 能 は 、 植 民 地 台 湾 で も っ と も有 名 な文 献 調 査 者 で あ り、 原 住 民 族 調 査 も こ な した 調 査 マ ンで あ った 。 そ して 、 人 類 学 や 歴 史 学 か ら と もにい わ ゆ る 「 植 民 地 主 義 と人 類 学 」 とい う観 点 か ら、 植 民 地 で の人 類 学 調 査 の あ り方 、 そ して調 査 に従 事 した 本 国 人 の(人 類 学 研 究 者 を も含 む)調 査 マ ン の心 性 や 生 き様 を論 じる議 論 が 登 場 して い る。 例 え ば 、 山路 勝 彦 ・田中 雅 一 編 著 の文 字 通 りr植 民 地 主 義 と人 類 学 』(関 西 学 院大 学 出版 会,2002年)と 勝 彦 のr台 湾 の植 民 地 統 治 タ ー,2004年)で い う共 同研 究 で あ り、 同 じ く山路 〈無 主 の野 蛮 人 〉 とい う言 説 の展 開 』(日 本 図書 セ ン あ る。 この よ うな植 民 地 台 湾 で 活 動 した 本 国人 調 査 マ ン につ い て の議 論 を も う一 歩 進 め 、 植 民 地 台 湾 で本 国 人 が 生 き る の に無 縁 で は なか った 植 民 地 の総 督 府 や 官 僚 シ ス テ ム と絡 め て、 調 査 マ ンた ち とそ の調 査 を(個 々人 を見 る の で な く、 ま とめ て比 べ て)見 てみ る と面 白い の で は なか ろ うか6。 3楊 南 郡(訳 注)『 生 蕃 行 脚 』(台 北 ・遠 流 出版,2000年)。 なお 楊 南 郡 は1990年 代 以 降 、 日本 植 民 地 時 期 の台 湾 で原 住 民 族 の研 究 や 統 治 行 政 の担 い 手 とな っ た人 々 を次 々 と取 り上 げて は 日本 語 文 献 の翻 訳 と人 物 紹 介 に携 わ って い る。 本 論 で 取 り上 げ る、 伊 能 嘉 矩 ・森 丑 之 助 ・田代 安 定 ・野 呂 寧 も皆 、 楊 の紹 介 記 事 が あ る。 4楊 5本 南 郡 著,笠 原 政 治 ・宮 岡真 央 子 ・宮 崎 聖 子 編 訳 。 論 に添 え た 顔 写 真 の うち、野 呂以 外 の3人 は 同書 か ら採 用 した。野 呂 の顔 写 真 は、林 政 君r従 探 検 到休間一 6松 日治 時 期 台 湾 登 山活 動 之 歴 史 図 像 』(博揚 文 化,2006年)77頁 か らの孫 引 きで あ る。 田京 子 は 『帝 国 の視 線 』86頁 で 「 植 民 地 官 僚 ・伊 能 嘉 矩 」 とい う言 葉 を 用 い てい る。 他 の人 類 学 や 博 覧 会 研 究 で も、 個 々 の調 査 マ ンを 総 督 府 官 吏 や 嘱託 と認 識 は してい る。 しか し なが ら複 数 の 調 査 マ ンを 植 民 地 官 僚 た ち と意 識 し、官 僚 制 を 意 識 して論 じた も のは 、1930年 代 の総 督 府 警 務 局 で 原 住 民 族 調 査 に あた った 技術 官 僚 を 論 じた 、 山路 勝 彦r台 湾 の植 民 地 統 治 』 の 「 第5章 明 化 』 へ の使 命 とr内 地 化 』 134 台 湾 植 民 地 官 吏 の実 践 」 程 度 しか ない よ うだ 。 『文 調査マ ンと台湾植民地官僚 制 な お、調 査 報 告 を 執 筆 す る もの だ け を 調 査 マ ン と限 定 して議 論 す る の は異 論 も あ ろ うが 、 調 査 分 担 者 ま で議 論 に加 え る と、 警 察 官 や 事 務 吏 員(が 中央 か ら回 って きた調 査 票 に基 づ き片 手 間 に調 べ て 回答 した ものを 、 中央 で整 理 した だ け とい う調 査 が 、総 督 府 で は 多 か っ た)の よ うな 調査 に つ い て の 専 門 的訓 練 を 受 けた わ け で ない 人 々を 議 論 す る こ と に な って 、 話 が 拡 散 す る の で、 当 面 は調 査 報 告 を 出す よ うな調 査 の元 締 め に議 論 を絞 りた い。 1.明 治 大 正 期 台 湾 総 督 府 の 調 査 活 動 と調 査 マ ンた ち 一 原 住 民 族 調 査 を 例 と して 本 節 で は 、 明 治 期 か ら大 正 期7に か け て の 台湾 総 督 府 の原 住 民 族 へ の調 査 活 動 、 お よび そ れ に 関 連 した 政 治 軍 事 活 動 ・経 済 活 動 の概 略 を押 さ え、 どの よ うな調 査 マ ンに よって ど の よ うな報 告 が 刊 行 され て い るか を 述 べ た い 。 日本 の台 湾 占領 は1895年 で あ る。 占 領 前 後 か ら、 台 湾 につ い て の調 査 活 動 は行 わ れ て お り、 漢 族 に つ い て の調 査 は 、例 え ば 民 事 慣 行 に お い て はr台 湾 私 法 』 な どに結 実 して 行 く。 しか し なが ら台 湾 は 多 民 族社 会 で あ り、 多 数 派 で あ る漢 族 系 住 民 以 外 に原 住 民 族 が 台 湾 の 中央 山地 お よび 東 部 の 広 範 な地 域 に 居 住 し てい た 。 植 民 統 治 の た め に 台 湾 総 督 府 は 、 彼 ら と彼 らの居 住 地 域 に つ い て も調査 す る必 要 が あ った 。 まず 原 住 民 族 の 調 査報 告 に つ い て。 原 住 民 族 につ い て は 、 東 京 帝 国 大 学 か ら派遣 され た 鳥居 龍 蔵 の 調査8が 先 行 す るが 、 台 湾総 督 府 関 係 者 が 初 期 に刊 行 した 調 査 報 告 は 、 伊 能嘉 矩 ・栗 野 伝 之 丞r台 湾 蕃 人 事 情 』(台 湾 総 督 府 民 政 部 文 書 課,1900年)に な る9。同 書 に つ い て、 笠 原 政 治 は 「台湾 先 住民 につ い て 、 初 め て 全 体 像 を 示 した 古典 的 書物 」 と解 説 して い る。 この後 、 伊 能 嘉 矩(1867年 生,1925年 没)か 年)、r台 湾 蕃 政 史 』(台 湾 総 督 府 民 政 部,1904年)と らはr台 湾 史 』(東 京 ・文 学 社,1902 い うフ ィー ル ドの知 識 に 歴 史 研 究 を 加 えた 手 法 に よっ て、 原 住 民 族 を分 類 し、 彼 ら と清 朝 との 関 係 を 明 らか にす る書 物 が 出 さ れ て い る。 後 に、 伊 能 は 台湾 か ら故 郷 の岩 手 県 遠 野 に 引 き揚 げ て か ら も、 原 住 民 族 を含 む 台 湾 につ い て研 究 を続 け、 死 後 にr台 湾 文 化 志 』(東 京 ・刀 江 書 院,1928年)と して刊 行 した 。 伊 能 の原 住 民 族 の調 査 経 路 につ い て は 、 森 口雄 稔編 著 『伊 能 嘉 矩 の 台湾 踏 査 日記 』 (台 湾風 物 雑 誌 社,1992年)が 詳 し い。 原 住 民 族 の調 査 で も う一 人 ま とま った 記 述 を 残 した の が、森丑 之助(1877年 7台 生 、1926年 北 帝 国大 学 に は、 文 政 学 部 に土 俗 人 類 学 教 室 が設 置 さ れた 。 この土 俗 人 類 学 教 室 は、 移 川 子 之 蔵 や 宮 本延 人 らが 人 類 学 的 手 法 か ら台 湾 の原 住 民 族 研 究 を 行 い 、 『台 湾 高 砂 族 系 統 所 属 の 研 究 』 (刀江 書 院,1935年)な ど価 値 の高 い 報 告 書 を 出 して い る。 しか しな が ら、本 論 は 「は じめ に」 で 述 べ た よ うに、 こ の よ うな研 究 組 織 が 出 来 る以 前 の調 査 マ ンにつ い て議 論 す る のが 目的 な ので 、 帝 国 大 学 の調 査 を 含 め 、 昭 和 期 の調 査 に つ い て は今 後 の課 題 と した い。 代 わ りに本 文 や 上 注 で も 触 れ た 山路 勝 彦 『台 湾 の植 民 地 統 治 』 を 、 昭 和 期 の 帝 国大 学 や 総 督 府 の原 住 民 族 調 査 につ い て の 先行 研 究 と して 紹 介 して お く。 8調 査 報 告 は 、 『鳥 居 龍 蔵 全 集 』(朝 日新 聞社,1975-1977年)に 収 録 され て い る。 また 、 中 薗英 助 『鳥 居 龍 蔵 伝 』(岩 波 書 店,1995年)な:ど 一 般 向 け 伝記 で も、台 湾 調 査 の経 路 な どが 紹 介 され て い る。 92000年 に草 風 館 か ら、 笠 原 政 治 ・江 田 明彦 の解 題 付 で 復 刻 さ れ て い る。 135 や ま だ あ つ しYAMADAAtsushi 森 之 助 伊 壟 磊 矩 失 踪)で あ る。森 は 鳥居 龍 蔵 に随 行 す る形 で フ ィー ル ドワー クを 開始 し、 台湾 の 中央 山脈 横 断 だ けで16回 行 うな ど、生涯 に渡 って 台 湾 の 山 野 を 歩 き続 けた 。 台湾 総 督 府 関 係 で 出 し た 刊 行 物 と して はr台 湾 蕃 族 図譜 』 第1・2巻(臨 蕃 族 志 』 第1巻 時 台 湾 旧慣 調 査 会,1915年)やr台 ・タ イヤ ル 篇(臨 時 台 湾 旧 慣 調 査 会,1916年)が 湾 あ る。 他 に も、 森 丙 牛 や 丙 牛 生 な どの ペ ンネ ー ムで月 刊 誌 『台湾 時報 』 や植 民 地 台 湾最 大 の 日刊 新 聞 で あ っ た 『台 湾 日 日新 報』 に 多数 の記 事 を掲 載 して い る10。 明 治 大 正期 の原 住 民 族 の民 族 調 査 者 と して著 名 な の は 、伊 能 と森 の2名 で あ るが、 原 住 民 族 の居 住地 域 につ い て の調 査 と して は、 他 に も開 発 や 土地 整 理 の調 査 を行 った 田代 安 定 や 野 呂寧 を無 視 で きな い。 田 代 安 定(1856年 年)と 生 、1928年 没)11の 調 査 は、r台東 殖 民 地 予 察 報 文 』(台 湾 総 督 府,1900 して刊 行 され て い る。 田代 は 占領 直 後 の 台湾 各地 で 調 査 を行 って い るが、 この調 査 は 田 代 が1896年 に 今 の花 蓮 を 中 心 に 行 った もの の 報 告 で あ る。 前 半 は花 蓮 な ど台湾 東 部 の地 理 的概 況、 原 住 民 族 を 中心 とす る居 住 す る住 民 の 状 況 が 詳 細 に記 述 され 、 今 で も台湾 東 部 研 究 の重 要資 料 で あ る。 後 半 は 農 業 ・園芸 ・牧 畜 ・水 産 ・樟 脳(火 薬 や セ ル ロ イ ドの 原料 で あ った)・ 製 糖 ・果 実 栽 培 の項 目にわ た っ て、 台湾 東 部 の産 業 開 発 の可 能 性 を論 じ、 30万 人 以 上 の移 民 の可 能 性 を 指 摘 した 。 この 『台 東 殖 民 地 予 察 報 文 』 に基 づ き、総 督 府 は 1910年 代 に花 蓮 付 近 で官 営 移 民 事 業 を 行 い、 吉 野 村 ・豊:田村 ・林 田村 とい う日本 人 移 民 村 を建 設 した。 移 民 が予 期 した 成 果 を 挙 げ る こ とが で きず に1917年 10森 の 主 な 著作(た に 中 断 す るま で 、3000 だ し南 洋 群 島、 す な わ ち 現 在 の ミク ロネ シ アな ど台 湾 以 外 につ い て書 い た記 事 を 除 く)は 、 前掲r幻 の 人 類 学 者 森 丑 之助 』283頁 か ら285頁 に著 作 目録 と して整 理 掲 載 さ れ て い る。 ま た 『 幻 の 人類 学 者 森 丑 之 助 』277頁 か ら281頁 に は森 の年 譜 も掲 載 され て い る。 な おr台 湾 蕃 族 志 』 は タ イ ヤ ル 篇 しか 刊 行 さ れ な か った が 、 ブ ヌ ン篇 に 相 当 す る記 述 が 、 『台湾 時 報 』 に連 載 さ れ て い る。 11田 136 代 は 自叙 史 が あ る ほ か、 永 山規 矩 夫r田 代 安定 翁』(1930年)と い う伝 記 が あ る。 調 査 マ ン と台 湾 植 民 地 官 僚 制 晩 年 の 田 代 安定 圖1-5=野 呂寧 。 資 料 來 源=《 臺 灣 山 岳 》 ・第4號 。 人 余 りの 日本 人 が 元 は 原 住 民 族 居 住地 で あ った 台 湾 東 部 に移 住 した12。 野 呂 寧(1868年 生 、1931年 没)13の 調査 と して 最 大 の もの は 、r台湾 官 有林 野 整 理 事 業 報 告 書 』(台 湾 総 督 府 内務 局 地 方 課 編1926年)で あ る。 こ の報 告 書 は 、 台 湾総 督 府 が(原 住 民族 の所 有 権 を否 定 し、 漢 族 の所 有 権 も確 固 と した もの 以 外 は 認 め ず)無 主 地 国有 原 則 に基 づ き 「官 有」 と した 台湾 の林 野 を測 量 調査 し、「 要 存 置林 野」(「国有 林 」 と して残 し て お く林 野)、 「 準 要 存 置 林 野 」(原 住 民 族 の保 留 地 で 、 要 存 置 林 野 に 準 じて 扱 う)、 「 不要存 置 林 野 」(縁 故 者 へ の払 い 下 げ な ど 「民 有 」 と して 良 い 林 野)に 区 分 した 事業 の報 告 書 で あ る。 同事 業 は、1915年4月 し、1924年12,月 に総 督 府 民 政 部 殖 産 局 に林 野 整 理 課 が 設 置 され て か ら本;格化 に伊 澤 総 督 に よる行 政 整 理 に よ って事 業 関係 者 の大 半 が免 職 と な る ま で 継 続 した 。 こ の報 告 書 は 無 署 名 だ が 、 野 呂 は 同事 業 の 当初 か ら関 与 し、1917年 か ら1924 年12月 まで は林 野 整理 課 長(お よび林 野 整 理 課 の 後 継 で あ る地 理 課 の課 長)と して事 業 全 般 を 指 揮 し てい た 。報 告 書 刊 行 を含 む 残 務 整 理 こそ 行 わ なか った が 、事 実 上 、 この報 告 書 は 野 呂を 主 とす る もの と考 え て よい で あ ろ う14。他 に も野 呂は 、蕃 務 本署 の測 量 班 の指 揮 者 と して 新 高 山(今 の玉 山)な 12吉 ど台湾 の原 住 民 族居 住地 を探 検 踏 破 して は測 量 を行 い 、 野 村 な ど移 民 事 業 につ い て の 研 究 は 、 張 素 竕・『台湾 的 日本 農 業 移 民(1905-1945)一 以官営 移 民 為 中心 』(国 史 館,2001年)が 詳 しい 。 13野 呂 寧 に 関 す る先 行研 究 は 、 楊 南 郡r台 湾 百 年 花火 』(台 湾 ・玉 山社 ,2002年)が 、台湾の山岳 探 検 と地 形 測 量 の大 物 と して(そ し て遭 難 事 件 を起 こ した 探 検 隊 の リー ダー と して)紹 介 して い る。 他 に も 台湾 で は登 山関 係 で時 々言 及 され て い るが 、 そ れ 以 外 の仕 事 とも絡 め た 分 析 は な さ そ うで あ る。 日本 で は 、 柳 本 通 彦 前 掲 書 が12頁 に 『台湾 百 年 花 火 』 を引 い て、 明 治 の 冒険 科 学 者 た ち の一 人 と して、 「 野 呂寧(地 形 測 量 、 山地 探 検)」 と記 して い るが そ れ 以 上 の 言 及 は な い。 な お 、野 呂 の 官 歴 に つ い て は、2005年10月19日 に 日文 研 で 「 野 呂寧 一 明 治 期 台 湾 の あ る技 術 官 14残 僚 につ い て一 」 と して 報 告 済 で あ る。 務 整 理 の 代 わ りに 、 台 湾 総 督 府 が 出 す 月 刊 誌 とな ったr台 湾 時報 』 の!926年1月 号に 「 林野 整 理 事 業 の終 結 に 就 て 」 と題 し、 林 野 整 理 事 業 の元 指 導 者 と して の 立場 か ら事 業 を総 括 す る報 告 を 行 って い る。 137 や ま だ あ つ しYAMADAAtsushi 報 告 を 出 して い る。r台 湾 時 報 』へ の寄 稿 も少 な くな い。 上 記 の 台湾 東 部 へ の官 営 移 民 事 業 も、 殖 産 局 移 民 課長 と して の野 呂 の指 導 に よる。 2.明 治 期 台湾総督 府 の調査 マ ンた ちの官 歴 前 節 に述 べ た よ うに 、 台湾 の原 住 民 族 や そ の居 住 地 に つ い て の 調 査 は 占領 直後 か ら着 手 され 、1900年 代 以 降 、刊行 物 が 出 され る よ うに な った 。 で は そ れ らを 刊 行 した調 査 マ ン の 台 湾 総 督 府 官 吏 と して の官歴15は ど うで あ った で あ ろ うか 。 最 も高 位 に上 った のは 、野 呂寧 で あ る。1899年 に 陸 地 測 量 部 か ら臨 時 台 湾土 地 調 査 局 に 転 籍 して技 手(判 任 官)と して赴 任 した 彼 は、1901年 に は臨 時 台 湾 土 地 調 査 局 監 督 官 と し て高 等 官(奏 任 官,八 等 七 級)に 昇任 した 。 ま も な く臨 時 台 湾 土 地 調 査 局 技 師 に も任 じ ら れ た 。 臨 時 台湾 土 地 調 査 局 の閉 局 と と もに 測 量 に 関 す る技 師 と し て総 督 府 財務 局 の 技 師 に 転 任 、 測 量 に関 す る技 師 と して 警 察 本 署 蕃 務 課(後 に蕃 務 本 署)の 技 師 も兼 務 した 。 そ の 後 順 調 に等 級 を上 げ、 殖 産 局 に移 民 課 が 設 置 され る と と も に 同局 に転 じ、 移 民 課 長 ・権 度 課 長 に就 任 、林 野 整 理 に も従事 し、1915年 には 奏 任 官 の最 高 位 で あ る三 等 一 級 に上 り詰 め た 。 最 後 は 内務 局 地 理 課 長 に転 じ て、 林 野 整 理 の指 揮 を続 け、 地 方 の奏 任 官 を 優 遇 す るた め の勅 任 待 遇 制 度(勅 任 官 、 す なわ ち 一 ・二 等 の官 吏 と同等 の待 遇 を得 させ る制 度)が 台 湾 総 督 府 に も取 り入 れ られ る と勅 任 待 遇 と な った 。 台 湾 総督 府 を 辞 め た のは1924年12月 の行 政 整 理 で あ り、 整 理 時 に名 目的 で は あ るが 勅 任 官 で あ る二 等 とな っ てい る。 次 に 出世 した の は、田代 安 定 で あ る。1895年4,月 に陸 軍 省 か ら雇 員 の名 目で 台 湾 従 軍 を 許 され た彼 は、 同年6月 、 台 湾 総 督 府 が設 置 され る と民 政 局 殖 産 部 雇 員 とな り、 ま も な く 民 政 局殖 産 課 技 師(七 等十 級)に 任 じ られ た 。r台 東 殖 民地 予 察報 文 』は この頃 の仕 事 で あ る。 調 査 の後 は 児玉 総 督 に熱 帯 植 物 殖 育 場 創 設 を 提 案 し、 台 湾 南 部 の恒 春(こ 族 の居 住 地 域 に接 す る)に 熱 帯 植 物 殖 育 場(今 資 源 とな っ て い る)を 設 置 し て、1902年 こ も原 住 民 日 これ は、 墾 丁 の植 物 園 とし て台 湾 の観 光 に主 任 と な った 。1910年 まで 同 場 の 主任 と して 運 営 に尽 力 し、 そ の 間 に官 等 は三 等 四 級 に至 った 。 そ の後 は1915年 ま で技 師 を、 続 い て 1919年 ま で台 湾 総 督 府 の林 業 に 関 す る嘱 託 を 続 け るが 、 年 俸2000円 の時 もあ って 高 等 官 並 の待 遇 で あ っ た。 一 方 で、伊 能 嘉矩 と森 丑 之助 は全 く出世 しな か った。 伊 能 嘉矩 は1895年11月 か ら雇 員 の辞 令 を も らっ て渡 台 し、 総 督 府 嘱 託 と な る。 た だ し月 俸50円 い判 任 官級 の待 遇 で あ る。 つ い で1896年 に陸 軍 省 で あ り、 せ い ぜ に 台湾 総 督 府 国語 学 校 書 記 に任 じられ 、 判 任 官 六 等 に な り、 翌 年 に は 台湾 総 督 府 国語 学 校 第 二 付 属 学 校 教 諭 とな り、 判 任 官 五 等 に上 っ て 15現 在 、 台湾 の 国史 館 は、 公 文 類 纂 に残 っ て い る総 督 府 高 等 官 の履 歴 書(人 事 異 動 の際 に本 人 か ら 総 督 府 に提 出 され た も の で あ る)を 撮 影 し て 『日治 時 期 台湾 高 等 官 履歴 』 と して編 集 刊 行 す る と い う事 業 を進 め て い る。2006年11月 時 点 で 第3巻 ま で 出 され 、第1巻 と して総 督 ・ 民 政 長 官(総 務 長 官)の 履歴 、 第2・3巻 は 台 北 帝 国 大 学 の教 官(の うち 高 等 官 で あ る も の)の 履 歴 を載 せ て い る。 しか し なが ら、 本 論 で論 じる 人 々 の履 歴 は、 ま だ 刊 行 され て い な い か 、(高 等 官 で ない の で)そ も そ も刊 行 対 象 で は ない 。 よ っ て本 論 の履 歴 は、 野 呂寧 につ い て は報 告 者 自 ら公 文 類 纂 に 当た っ て調 べた(没 年 は 『 台 湾 大 年 表 』 に よる)。 他 は そ れ ぞれ の伝 記 を参 照 した 。 138 調査 マ ンと台湾植民地官僚制 い る。 しか しなが ら教 育 者 と して は こ こ ま で で、 そ の後 は調 査 マ ンに転 じた 。 台 湾 慣 習 調 査 会 や 臨 時 台 湾 旧慣 調 査 会 な どで 幹 事 に任 じ られ な が らも、 身 分 と して は総 督 府 嘱 託 とな り、1908年 に 嘱託 の ま ま台 湾 を去 っ て い る。 そ の 後 も何 度 か訪 台す るが、身 分 として は 総 督 府 嘱 託 の ま まで あ った 。 森 丑 之助 も1895年 に 陸軍 通 訳 と して渡 台 した 。 そ の後 、 上 述 の よ うに 鳥 居 龍 蔵 に つ い た り個 人 で 浪 人 の ま ま台 湾 を 調査 した。 総 督 府 に入 った のは 、1905年 に は 総 督 府 殖産 局 で 有 用植 物 調 査 科 の 嘱 託 に な った 時 で あ る。1906年 には 当 時 の佐 久 間 総 督 の巡 視 に 同行 して い る。1908年 に は総 督 府 博 物 館 の陳 列 員 に な り、1909年 に は臨 時 台 湾 旧慣 調 査 会 に 蕃 族 科 が設 置 さ れ る と、伊 能 と と もに 嘱託 に な っ て い る。1913年 に一 時 台 湾 を離 れ るが、1914 年 に は再 び 台湾 に戻 り、 臨時 台湾 旧慣 調 査 会 の嘱 託 とな り、 ま た博 物 館 に も戻 っ て い る。 1924年 に は総 督 府 の嘱 託 をや め る。 結 局 、1926年 に船 か ら失 踪 す る まで 、 数 多 くの総 督 府 嘱託 を こなす が、 どれ も給 与 的 に は 判 任 官 程 度 で あ り、(原住 民 族 研 究 の権 威 と して の名 は とも か く)世 間的 な高 給 とか権 限 とか とは 無 縁 で あ った。 3.調 査 マ ン と官 僚 制 の 壁 前 節 で紹 介 した 調 査 マ ンた ちは 同 じ時 代 に 同 じ地 域 を調 査 した 人 々 で あ り、 互 い に 面 識 は あ った 。 単 に面 識 が あ った だ けで ない 。 森 は野 呂 の 山岳 測 量 調 査 隊 に随 行 す る形 で 民族 調 査 を し てい る し、 田代 と も懇 意 で あ った 。 田代(1856年 比 べ 年 の若 か った 森(1877年 生)や 野 呂(1868年 生)や と 生)は 、著 作 の 中 で これ ら先 輩 た ちを 鳥 居 龍 蔵 と並 ん で尊 敬 して い る。 も ち ろん 全 て の先輩 が尊 敬 され た わ け で は ない 。 森 は 伊 能(1867年 生)の 研 究 を 、著 作 の中 で批 判 し続 けて い る16。そ し て伊 能 や 田代 と一 緒 に、r東 京 人類 学 会 雑 誌 』 に 台 湾 の投 稿 を 行 って い る。 とは い え繰 り返 し に な るが 、 彼 らは年 齢 や 時 間 にず れ は あ っ て も同 じ台湾 の原 住 民 族 地域 で調 査 を行 って い た 。そ して 野 呂以 外 は皆1895年 に 台湾 に渡 っ て い た。 で は 、 片方 は 高 等官 の上 ま で上 り、 片 方 は安 月 給 の 嘱託 の ま ま終 わ る とい う よ う に、 ど うして処 遇 が違 って しま った の だ ろ うか 。 台湾 総 督 府 の 官僚 制 は、 戦 前 の官 僚 制 の 例 に漏 れず 、 親 任 官 で あ る総 督 の下 、 勅 任 官 で あ る民 政 長 官(初 期 は 民政 局 長 、 文 官 総 督 期 以 降 は総務 長 官)や 各 局 局 長 、 そ して奏 任 官 で あ る事 務 官 や技 師 が業 務 を取 り仕 切 り、 そ れ を 判任 官 で あ る属 ・技 手 が補 佐 し、 さ ら に 雇 や 傭 人 が下 で働 く とい う体 制 で あ った 。 嘱 託 は これ ら官僚 か ら業 務 の一 部 を依 嘱 され た 人 々 で、 奏 任 官 相 当 の 嘱託 か ら雇 相 当 の 嘱託 まで いた 。 占領 初 期 こそ 、 広 範 な特 別 任 用 制 度 が 採 用 され いわ ゆ る無 資 格 者 で も奏 任 官 や 判 任 官 に な る こ とが で きた が、 特 別 任 用 制 度 は ま も な く縮 小 され 、 事 務 官 とな る に は高 等 文 官試 験 に合 格 、 属 に な る に も普 通 文 官 試 験 合 格 も し くは一 定 の学 歴 を有 して、 い わ ゆ る有 資 格 者 に な る必 要 が あ った 。 技 師 は 詮 考 任 用 が 行 わ れ て お り、 高 等 文 官 試 験 に 合 格 す る必 要 は な か った が 、 大 学 や 札 幌 農 学 校 級 の 学 16森 の 伊 能 批 判 を含 め た 森 の交 友 関 係 に つ い て は、『幻 の人 類 学 者 森 丑 之 助 』231頁 か ら248頁 所 収の笠原政治 「 師 ・友 人 ・訪 問者 た ち」 を 参 照 され た い 。234頁 で笠 原 は森 が伊 能 に 「 屈 折 した 気 持 を抱 い て い た ら しい 」 と指 摘 して い る1 139 や ま だ あ つ しYAMADAAtsushi 歴 、 も し くは 学 歴 に 相 当 す る十 分 な履 歴 や 著 作 が 必 要 で あ った。 技 手 も 同様 に詮 考 任 用 さ れ るだ け の学 歴 も し くは 履歴 が 必要 で あ る。 で は、 前 節 で 紹 介 した 調査 マ ンた ち の履 歴 は ど うで あ った か。 高 等 文 官 試 験 や 普 通 文 官 試 験 に合 格 した 者 は誰 もい な い。 大学 や札 幌 農 学 校 の卒 業 生 もい な い。 しか しな が ら台 湾 に至 る まで の 履 歴 に は無 視 で きな い差 が あ った 。 最 年 長 の 田代 は、 西郷 隆盛 や東 郷 平 八 郎 らいわ ゆ る維 新 の 元勲 た ち と同 じ鹿 児 島 の 加 治 屋 町 で 生 まれ 、 内務 省 や鹿 児 島県 庁 、 農 商 務 省 に勤 め た。 農 商務 省 時 代 は1884年 に 園芸 博 の委 員 に 選 ば れ ロ シア に 出 張 し、1885年 に は八 重 山 群 島 を 調査 して報 告 書 を執 筆 して い る。 また1889年 に は東 京 帝 国大 学 お よび文 部 省 の依 嘱 で、 海 軍 軍 艦iに乗 っ て ハ ワ イや キ リバ ス を 巡 り調 査 して い る。1895年 に渡 台 した 時 す で に満38歳 で あ った。 特 別任 用 が 幅 を 利 か せ た 時 代 に技 師 に任 用 され る の に は十 分 な履 歴 を有 して お り、 特 別 任 用 が縮 小 さ れ 履 歴 不 足 や 無能 な 官僚 が淘 汰 され て い った 後 藤 時 代 初 期 で も、r台東 殖 民 地 予 察 報 文 』 を 出 した 彼 は そ の ま ま技 師 と して詮 考 任 用 され 続 け るだ け の 資格 が あ った 。 最 も高位 に上 った 野 呂 は、 陸軍 の陸 地 測 量 部 出身 で あ る。 測 量 部 で測 量 技 術 をた た き込 まれ 日清 戦 争 に も従 軍 した後 、 技 手(判 任 官)と して(総 督 府本 府 で な く)臨 時 台 湾 土 地 調 査 局 に 転 籍 し任 用 され た。 技 師へ の昇 任 を含 め 特 別 任 用 で あ る。 土 地 調 査 事 業 に従 事 し た 測 量技 術 者 は技 師 ・技 手 と もに臨 時 土 地 調 査 局 閉 局 に よっ て解 雇 され る 中 で、 野 呂 は総 督 府技 師 へ転 属 す る。 この時 は技 師 と して(通 常 の奏 任 官 と して)詮 考 任 用 され て い る。 そ の 後 は測 量 技 術 を活 か した 仕 事 を続 け、 技 師 と して詮 考 任 用 され 続 けた 。 一 方 で、 伊 能 は岩 手 の 師範 学 校 を放 校 に な り、 そ の後 は東 京 で東 京 毎 日新 聞 社 や 東 京 教 育社 を経 て、 大 日本 教 育 新 聞 の編 集 長 に な って い る も の の、 官 職 は な く、 学 歴 と し て は小 学 校 卒 業 の ま ま 台湾 に来 た 。 そ れ で も国 語 学 校 で は かつ て の職 歴 を評 価 され て判 任 官 と し て書 記 や 教 諭 に任 じ られ た も の の、 調 査 マ ン と し て は学 歴 ・職 歴 と も に無 い も 同然 で あ っ た 。 森 に至 っ て は、 中学 卒 業 の学 歴 が あ るだ け で(長 崎 商 業 学 校 で中 国 南 方 官 話 を 学 ぶ が 中退)、 職 歴 もな い ま ま満18歳 で渡 台 し、 かつ そ の 後 の10年 間 を 浪 人 の ま ま、 遺 産 な ど を使 い な が ら自 力 で調 査 生 活 を し て過 した 。 す なわ ち、 官 等 を上 っ てい った 田代 や 野 呂は 、 台 湾 総 督 府 入 りす る前 に 官 職 を 経 験 し、 かつ 総 督 府 が特 別 任 用 で高 等 官 に な りや す か った 時 期(草 創 期 に技 師 と な った 田代)や 部 局(臨 時 台 湾 土 地 調 査 局 で技 師 と な った 野 呂)に 技 師 とな っ て、 そ の ま ま実 績 を 積 ん で技 師 とし て詮 考 任 用 され 続 けた ので あ った。 一 方 、伊 能 に は そ の よ うな 前歴 は な く、国 語学 校 に在 職 し な が ら教 諭 と して の職歴 を 積 み 上 げ る とい う方 法 も選 ぽ なか った ので 、高 等 官 に 上 っ て行 く道 筋 が 開 か れ て い なか った 。 そ れ で も1904年 に 伊 能 はr台 湾蕃 政 史』 の刊 行 と同 時 に文 学 博 士 の学 位 申請 を 出 し、学 位 に よ って 官 を 上 ろ うと考 え た 。 しか し なが ら、 官 吏 が 政 府 の命 令 で 調 査 した報 告 書 が 学 位 論 文 に該 当 す るか 質 疑 が あ り、1907年 に 伊 能 は 学 位 申請 を取 り下 げて い る。 そ して 、1908 年 早 々に 伊 能 は 台 湾 を 引 き払 った。 森 は そ もそ も官等 に は興 味 なか った と考 え るべ き で あろ う。仮 に興 味 が あ った とし て も、 140 調査 マ ンと台湾植 民地官 僚制 組 織 の規 則 に無 頓 着 に過 ぎ る と(失 踪 後13年 経 った)1939年 に な って も 回想 され 批 判 され て いた 森 は、 役 人 生 活 に は 向か なか った で あ ろ う。 そ の意 味 で は 官僚 制 とは無 縁 で あ る。 そ し て これ は 同時 に、 幾 ら台 湾 原 住 民 族 研 究 者 と して名 を挙 げ て も、 台 湾 の原 住 民 族 統 治 に森 は意 見 を差 し挟 む こ とが で き なか った(森 の意 見 は 聞 き入 れ られ な か った)こ とを 意 味 した 。 森 は原 住 民 族 と の平 和 共 存 を 希 望 して いた が、 森 に で ぎた の は総 督 府 批 判 の言 動 を 吐 い た り、 意 見 を 述 べ に 回 る程 度 で あ り、 佐 久 間 総 督 に よる原 住 民 族 へ の武 力 「討 伐 」 を 、 反 対 し なが ら も傍 観 す る しか なか った 。 もち ろ ん 田代 や 野 呂に 、 官僚 制 の壁 が なか った わ け で は ない 。 田代 は30年 に 及 ぶ 台湾 滞在 に満 足 して い な か った。 そ の理 由 と して 田代 は、 台 湾 で は政 務 に就 きた か った とか、 同 じ殖 産 で も林 務 で な く農 務 に 就 きた か った と 自叙 伝 で あ るr駐 台 三十 年 自叙 史 』 で述 べ て い る。 新 植 民地 で あ れ これ 腕 を振 お うと渡 台 し、『台 東 殖 民地 予 察報 文 』 を 執筆 した の だ けれ ど、 自分 が させ て も ら った の は植 物 園経 営 だ けで 、 官 営 移 民 事業 な どの植 民 地 農 業 開 発 は全 くさ せ て も らえ な か った こ とを嘆 い て い る ので あ ろ うか 。 植民 地 農 業 開発 は(移 民 課 長 と して の野 呂 も加 わ っ て い るけれ ど、 主 と して)札 幌農 学 校 出身 の技 師 た ち の担 当 で あ った 。 田代 に比 べ る と、 野 呂 は順 調 な人 生 を送 って い った。 退 官後 に彼 は台 湾 を懐 か しん で、 r台 湾 時 報 』1926年2月 号 に 「台湾 は楽 土 な り」 と書 い た ほ どで あ る。 もち ろ ん そ の彼 に して も(他 の多 くの技 師 と同 じ く)奏 任 官 の最 高 位 で あ る三 等 一 級 が官 等 の壁 で あ った こ とは否 め ない 。 お わ りに 本 論 は 、 伊 能 嘉 矩 ・森 丑 之 助 ・田代 安 定 ・野 呂寧 とい う、 明治 大 正 期 にお い て 原 住 民 族 とそ の居 住 地 域 に つ い て調 査 した4人 の人 々を取 り上 げ、 台 湾 総 督 府 の官 僚 制 の中 で 、 彼 らが ど の よ うに処 遇 され た か を 検 討 した 。 彼 らは 占領 当初 に台 湾 に渡 り、 同 じ よ うな 場 所 を 調 査 し、 好 悪 は あ って も相 互 に認 識 して い た 。 そ し て誰 もが 大 学 卒 業 で も高 等 文 官試 験 合 格 者 で も なか った 。 しか し なが ら、 彼 らへ の処 遇 は 同一 で な く、 片 方 は 高 等 官 三 等 ま で 上 り、 も う一 方 は 判 任 官 相 当 に 止 ま った 。 高 等 官 に上 っ て も必 ず し も官 僚 組 織 の 中 で 自己 の 目的 を 果 せ た わ け で なか った が 、判 任 官 相 当 の者 は(調 査 を 除 き)な お さ ら 自己 の 目的 を果 た す こ とは 難 しか った 。 す なわ ち 官 僚 制 は(野 呂 の よ うな 例 外 を 除 き)調 査 マ ンを調 査 と専 門 的 な 仕 事 に の み 閉 じ こめ る もの で あ り、 か つ(能 力 は あ って も)経 歴 不 足 の もの に は十 分 な 官 等 も与 え ず 冷遇 す る もの で あ った と言 っ て も過 言 で は な か ろ う。 この よ うな 調査 マ ンを 官僚 制 の観 点 を 入 れ て 比 較 す る こ とは、 人類 学(史)な ど他 分 野 に どの よ うな視 点 を提 供 で き るで あ ろ うか 。 調 査 マ ンが 同 時 代 の 調査 活 動 の 中 で どの よ う な位 置 付 け を 占 め て い た か が よ り解 っ て くるの で は な か ろ うか。 例 え ば、 森 丑 之助 の場 合 で あ る。 単 に森 の個 人 史 を調 べ、 森 の著 作 を 分 析 し、 森 の 交友 関係 を洗 うだ け で な く(も ち ろ んそ れ を行 った 、 楊 南 郡 や 笠原 政 治 の業 績 は 優 れ て い るの だ が)、 森 と しば しば 調 査 活 動 を共 に し、 かつ 森 とは正 反 対 に、 総 督 府 の 官僚 機構 に どっ ぷ りと入 り込 んだ(植 民 地 141 や ま だ あ つ しYAMADAAtsushi 主 義 を推 進 す る側 に いた)野 呂 の動 きを 調 べ 森 と比 較 す る こ とで 、 森 の調 査 活 動 が ど うい う意 味 を持 って く るか が、 よ り解 って くるの で は あ るまい か 。 森 の言 動 に つ い て も、 例 え ば 同 じ事 件 に野 呂 は どの よ うな言 説 を 吐 い た か を 比 べ る こ とで、 見 え る こ とは ない だ ろ う か。 野 呂 は森 ほ どの執 筆 数 で な く、 また立 場 上 感 情 を あ らわ に した こ とは 書 か ない けれ ど も、 高等 官 と して は多 く書 い て い るほ うで あ る。 志 田梅 太 郎(測 量 技 術 者 、 臨 時 台 湾 土 地 調 査 局技 手 を経 て総 督 府 の嘱 託 と な り、1911年 に 原 住 民 族 に馘 首 され る)の 追悼 の よ う に、 森 と野 呂 が 同 じ人 物 を論 じて い る こ と もあ る。 要 旨 台湾 総 督 府 は活 発 な調 査 活 動 を 行 って い た こ と で知 られ てい る。で は、調 査 活 動 に 携 わ っ て い た調 査 マ ンた ち は、 台 湾 総 督 府 の官僚 組 織 の中 で どの よ うに処 遇 され て い た ので あ ろ うか。 本 論 は、植 民 地 初 期 か ら1910年 代 にか け て の台 湾 総 督 府 の原 住 民 族 調 査 担 当 者 で あ った 森 丑 之助 ・伊 能 嘉 矩 ・田代 安 定 、 お よび 野 呂寧 の4名 につ い て、 考 察 した も ので あ る。 こ の時 期 は 台湾 総 督 府 が原 住 民 族 に対 し武 力 征 服 を す る前(お 最 中)で あ るが、 最 近 、 人 類 学(史)の よび武 力 征 服 を 準 備 して い る 観 点 か ら、 この時 期 の原 住 民 族 調 査 担 当 者 につ い て の研 究 が進 め られ て い る。 また 歴 史 学 で も当 時 の人 類 学 に よる異 文 化 表 象 の問 題 を 論 じ た 研 究 が あ る。 た だ これ らの研 究 で は 、 調 査 担 当 者 が総 督 府 の官 僚 の端 くれ で あ る こ と、 嘱 託 だ と して も官 僚 組 織 とは 無 縁 で は なか った こ とま で は意 識 して も、 彼 ら初 期 の調 査 担 当者 を官 僚 組 織 側 か ら見 てみ よ うとい う意 識 は 見 あた らない 。 そ こで 既 存 の人 類 学 史 研 究 を利 用 しな が ら、 整 理 し見 直 して み た 。 結 論 と して、 調 査 活 動 そ して 人 類 学 史 の評 価 と、 官 僚 組 織 で の処 遇 は 無 関 係 で あ った 。 す なわ ち、 高 等 官 と して官 歴 を 歩 め た もの は 昇 進 し て行 くが 、 そ うで ない も のは 幾 ら業 績 を積 み 、 大 著 を著 して も昇 進 で きな か った 。 この よ うな結 論 はあ る程 度 予 想 され た も ので あ る が、 この結 論 を人 類 学 史 に 投 げ 返 す こ とで 、 調 査 マ ン の 同時 代 ・同 時 代 人 の中 に お け る位 置 付 けが よ り明か に な って くる と思 わ れ る。 142