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第三章 『ピュロスとシネアス』における実存思想
第三章 『ピュロスとシネアス』における実存思想 1.序 『ピュロスとシネアス』1はボーヴォワールの最初の哲学的エッセイである。1944 年の 11 月に出版されたこの著書は、小さなプロローグ、二つの部分、結論から成っている。1943 年の初めにジャン・グルニエから「あなたは実存主義者ですか」と尋ねられたとき、ボーヴ ォワールは「実存主義」の意味さえ知らなかった。サルトル、ボーヴォワール、メルロ= ポンティが実存主義の擁護を始めるのは 1945 年 10 月以降である。したがって、『ピュロ スとシネアス』では、実存主義の擁護のために書かれたのではないので、サルトルの『存 在と無』と同様に、「実存」や「実存主義」という言葉の使用頻度は低い2。 2.投企 小さなプロローグは、プルタルコスの『英雄伝』に登場するエペイロスの王ピュロス (BC319‒272)とその臣下シネアスとの対話で始まる。戦いに明け暮れていたピュロス王 に、シネアスは「次にはどこを攻めますか」と尋ねる。「アフリカを」と王は答えるが、 シネアスは「アフリカの次は」と尋ねる。「小アジアとアラビアを」と王は答えるが、シ ネアスは「それから」と尋ねる。王は「インドを」と答えるが、シネアスは「それから」 と尋ねる。「ああ」と言って、王は「休息しよう」と答える。「なぜ、いますぐ休息なさ らないのですか」とシネアスは尋ねる。 それに続いて、ボーヴォワールは、「自分の家に戻るためならば、出発して何になるの だろうか」、「やめなければならないのならば、始めて何になるのだろうか」と問うてい る。顧慮すると、人間のする一切の投企(projet)は無意味なように思われる。しかし、それ でも心臓は鼓動を打ち、手は差し出され、新たな投企が生まれ、それがわたしたちを前方 へと押す。顧慮はわたしたちの自発性の躍動(élan de notre spontanéité)を止めることは できないだろうし、顧慮も自発的なものなのだ3。人間は瞬間ごとに新たな熱意をもって次 の企てへと身を投じる4。 Simone de Beauvoir, Pyrrhus et Cinéas, Paris: Gallimard, 1944/folio2003. 『ピリュウスとシネアス』 ボーヴォワール著作集 2、青柳瑞穂訳、京都:人文書院、1968 年を参考にしたが、私はタイトルを『ピ ュロスとシネアス』とした。 2 『ピュロスとシネアス』では、existence に関連する語は数多く使用されているが、 「存在」ではなく、 「実存」と訳さなければならないのは、数か所に過ぎない。L’être humain existe sous forme de projets qui sont non projet vers la mort(PC64/256)、une analyse existentielle(PC64/257)、comme le montre Heidegger, c’est son existence qui définit son essence(PC82/276)などである。 3 『ピュロスとシネアス』の英訳者ティンマーマンは、élan も spontanéité もベルグソンに由来すると考 えている(Simone de Beauvoir, Philosophical writings ed. Margaret A. Simons with Marybeth Timmermann and Mary Beth Mader, University of Illinois Press, 2004, p. 141)。 4 S. de Beauvoir, Pyrrhus et Cinéas, p. 11/203. サルトルは『存在と無』で次のように述べている。「人 、、、、、、 、、、、、、 間存在は、まずはじめに存在して、しかるのちにこれこれの目的に対して関係をもつような何ものかであ るのではなく、むしろ反対に、根源的に投企であるような一つの存在、すなわち、自己の目的によって自 己を規定する一つの存在である(EN530/497)」。このような存在をサルトルは「自由な実存者」と呼ん でいる。こうした考えは、『存在と無』、『ピュロスとシネアス』、『実存主義はヒューマニズムである』 に共通する。 1 32 するとまた、ピュロスとシネアスのあいだで、終わりのない対話が始まる。ピュロスは 出発するのか留まるのか決めなければならない。留まるのなら、ここで何をするのか。出 発するのなら、どこまで行くのか。ヴォルテールの『カンディッド』では、「自分の庭を 耕しなさい」と言われているが、自分のものとはどのようなものなのだろうか。そして、 自分の隣人とはどのような人なのだろうか。 3.自己拘束 第一部の最初の章は「カンディッドの庭」である。ここで、ボーヴォワールは「良きサ マリア人」を例として、行為が見知らぬ人を隣人に変え、他人との絆をつくると述べてい る5。ここに、自己拘束(engagement)という考えを見ることができる。また、ボーヴォワ ールによれば、わたしを他人に結びつける絆をつくることができるのは、わたしが事物で はなく、投企であり、超越であるからだ6。そして、わたしのものとは、わたしが自己を拘 束するものである。わたしの庭は、わたしが耕すときから、わたしの庭になるのだ7。 「瞬間」の章ではボーヴォワールの現象学的存在論が示され、喜び(jouissance)とは、 ある対象が現前し、その対象において、わたしが自分の存在を感じること、すなわち、対 象とわたし自身が、両者の差異(différence)のなかで、現前していることであると言われて いる8。また、わたしを対象から切り離すことによって、わたしが対象に向かって身を投げ ることを可能にし、わたしが運動であり超越であることを可能にする隔たり(distance)を 取り除くとすぐに、わたしと対象との凝固した結合は、もはや物のように存在するだけで あるとも言われている9。人間は投企であり、超越であるが、それを可能にするのは、差異 と隔たりである。 この章のタイトルである「瞬間」は、喜び(jouissance、plaisir)の体験に関連して論じら れ、ここには、時間への現象学的アプローチが見られる。喜びは世界のなかのわたしの存 在と、わたしの過去を前提としている。また、わたしが自分自身から外へ出て、自分が享 受している対象を介して、自分の存在を世界のうちに拘束するときにしか喜びはない10。 ここでは、実存思想の一要素である自己拘束が、現象学的存在論の必要条件になっている。 喜びは、新しければ新しいだけ貴重であり、時間の一様な地(fond)のうえに浮かび上が る強さが強ければ強いだけ貴重であるが、それだけに限られている瞬間は新しくなく、瞬 間は過去との関係においてでなければ新しくない11。わたしは、丘の頂から、辿ってきた 『ルカによる福音書』10 章 30‒37 に記されているイエスの譬。強盗に襲われた旅人を、その同胞であ る祭司やレビが見捨てたのに対して、外国人であるサマリア人が助けたというもの。 6 S. de Beauvoir, Pyrrhus et Cinéas, p. 16/210. 本論文においては、ボーヴォワールが「je」と書いてい る箇所は、「わたし」とひらがなで表記した。 7 Ibid., p. 19/213. ボーヴォワールは自己拘束によって見知らぬ人が隣人になり、雑草の生えていた土地 が自分の庭になり、喜びを得ると、「自己拘束」をポジティブにとらえている。それに対して、サルトル の『存在と無』では、実存者は投企をする存在であり、何かを選択して、それに自己拘束するが、自己拘 束にともなう責任の重みに耐えている(EN639/598)。 8 Ibid., p. 22/215‒216. 9 Ibid., p. 22/216. 本論文、「第五章ボーヴォワールの現象学的存在論」の「2.『ピュロスとシネアス』 (1944)」を参照。 10 Ibid., p. 24/217. 11 Ibid., p. 23/216. 5 33 道を眺めるが、わたしの成功の歓喜のなかにあるのはその道全体であり、この休息に価値 を与えるのは歩んできたことである。喜びの瞬間に、過去の一切が集まる12。そして、辿 ってきた道と同時に、わたしはこれから下っていく先の谷を眺め、未来を眺める。あらゆ る喜びは投企である13。 ボーヴォワールは「瞬間」の章で、ハイデガーの「人間は遠隔の存在である(L’homme 、、、 est un être des lointains)」14に言及し、 「人間は常によそにいる(il est toujours ailleurs)」 と言い換えている。また、ハイデガーの「人間は常に無限に、瞬間においてそうであると ころのものに還元されたときにそうであろうところのもの以上のものである」を引用して いる。それは、喜びについて考察しながら見てきたこと、すなわち、喜びには過去、未来、 世界全体が含まれているということである15。 くそまじめな精神は目的を、それを決定する投企から切り離し、それに即自的価値を認 めようとする。つまり、くそまじめな精神は、価値は人間に先立って、人間なしに、世界 のうちにあるから、人間はそれを摘み取りさえすればよいと信じているのだ。ボーヴォワ ールはこれを偽の客観性と呼び、偽の客観性に、偽の主観性を対置している。偽の主観性 は、投企を目的から切り離し、それを単なる遊びや気晴らしに還元しようとする。偽の主 観性は世界に何らかの価値があることを否定するが、それは人間の超越を否定し、人間を その内在のみにしようとするからである16。 しかし、欲し、冷静に企てる人間は、自分の欲望に真摯である。つまり、彼は一つの目 的を望み、他のどのような目的をも排除して、その目的を望んでいる。彼はその目的を、 そこに止まるためにではなく、それを享受するために望んでいるのだ。つまり、その目的 が乗り越えられるために望んでいるのだ17。 目的という概念は、あらゆる目的が同時に出発点であるのだから、両義的である。しか し、そうは言っても、目的は目的として目指されうる。こうした目的を目的として目指す 力に、人間の自由がある18。 こうした両義性が、自分の家に帰るために出発するピュロスは馬鹿げているという、諧 謔家(humorist)の皮肉に口実を与えるようだ。しかし、諧謔家は詭弁を弄している。彼は、 人間のあらゆる活動を、並置されると矛盾しているように見える基本的な行為に分解して しまうのだ。彼は、全体に包括的意味を認めず、全体には、互いに対立している部分的意 12 13 Ibid., p. 23/217. Ibid., p. 23/217. 14 この表現は、サルトルの『存在と無』の「第一部、第一章Ⅳ無についての現象学的な考えかた」で、 無についてのハイデガーの理論に関して使われ、「自己に先んじてある存在」と訳されている。邦訳者は このように訳した理由を、「これは、自己の存在可能へ向って自己を投企する場合の現存在のあり方であ り、関心の一つの契機をなす」と説明している。 『ピュロスとシネアス』の英訳者は、 『存在と時間』の第 一篇、第三章、第 23 節の「現存在は、その空間性に従って、差しあたって存在しているのは、けっして ここではなく、あそこであり、……」を参照するよう促している。なお、 『存在と時間』では、 「おのれに 先んじて」は第一篇、第六章、第 41 節、第二篇、第一章、第 46 節、第 50 節、第 52 節で論じられてい る。 15 S. de Beauvoir, Pyrrhus et Cinéas, p. 26/220. 16 Ibid., p. 29/222‒223. 17 Ibid., p. 29/223. 18 Ibid., p. 29/223. 34 味が存在すると言い張っているのだ19。 しかし、ひとは、総合的な意味があって、それに向かって、あらゆる要素が超越される ということを認める20。ピュロスは戻るために出発するのではなく、征服するために出発 するのであって、この企てに矛盾はない。投企は、まさにそれが決めるところのものであ り、自らに与えた意味を持っており、その意味を外部から決めることはできない21。 4.普遍と個別 「無限」の章では、「無限」、「永遠」、「普遍」が問題になっている。すべての人が 兄弟ならば、もはや誰も個別的にはわたしの兄弟ではない。つまり、わたしを世界に結び つける絆を無限に増やすことは、この個別的な瞬間(minute)や地球のこの個別的な片隅に わたしを結びつける絆を否認する一つの方法なのだ22。永遠は瞬間に通じるなどというの も人為性が丸見えだし、内容は空虚だ23。 わたしには、存在しているのは普遍的なものだと主張することができない。主張してい るのがわたしであるからだ。つまり、主張することで、わたしは自分を存在させているの であり、存在しているのはわたしである24。ここで、ボーヴォワールは「個別」の立場に 立つことを表明し、ヘーゲルを批判している。ボーヴォワールの考えでは、個別的なもの は実在性を持ち、止揚されない。 ヘーゲルは、個別性は普遍的生成の一つの契機でしかないと明言しているが、むだで ある。この契機が、止揚されない(non dépassé)ものとしてどのような実在性も持たな いのなら、現象において(en apparence)存在さえしないだろうし、名づけられること さえないはずだ。もしそれが問題になるのなら、その問題が、あらゆる止揚に抗して 明確になる真理をそれに与える。すべてのものの只中で、太陽と人間の真理がどのよ うなものであろうとも、太陽の現象は、人間にとって、還元できない仕方で存在して いる。人間は、自己自身の現存からも、自己の現存が自己の周囲に明かす(révèle)個別 世界の現存からも逃れることはできない。世界から自分を引き離すための人間の努力 でさえも、そこに、自分の場所を掘らせるだけである25。 人間は自己の存在を際限なく収縮させることも、無限に膨張させることもできない。あ らゆる停止は、超越とは絶えざる乗り越え(dépassement)であるのだから、不可能である。 だが、際限のない投企も、それは何にも到達しないのだから、不合理である26。 5.神 19 20 21 22 23 24 25 26 Ibid., p. 30/223. Ibid., p. 30/224. Ibid., p. 31/224. Ibid., pp. 32‒33/226. Ibid., p. 33/226. Ibid., p. 34/227. Ibid., p. 34/227‒228. Ibid., p. 35/228. 35 「無限」の章に続くのは「神」の章である。「神がそれを望むのだ」という行動規範が、 十字軍の兵士たちをシネアスの質問から守っていた。神の意志のうちに、人間は自分の努 力の絶対的目的を見つける。そのような人間にとって、神の存在の必然性は、神に到達す ることになる行為に及び、こうした行為を永久に救済してくれる。ところで、神は何を望 んでいるのだろうか27。この問いに対する答えは以下のようなものである。 もし、神が無限性でありかつ存在の充実であるならば、神においては、投企と現実の 間に隔たりがない。神が望むものは、存在しているし、神は、存在しているものを望 んでいるのだ。神の意志は、存在の確固不動の根拠でしかなく、かろうじて意志と呼 ぶことができる。そのような神は個別的な人格ではなく、普遍的なものであり、不変 で永遠の全体である。そして、普遍的なものは沈黙している。神は何も求めないし、 何も約束しないし、どのような犠牲も要求しないし、賞も罰も免れさせないし、何も 正当化できないし、何も断罪できないし、神を楽観の根拠にも、絶望の根拠にもする ことはできないだろう。つまり、神は存在しているという以上のことは何も言えない。 神の存在の完璧さは、人間にどのような余地も残さない。ひとつの対象へと自己超越 、、、、、、 することは、それを根拠づけること(fonder)である。しかし、すでに存在している ものをどのようにして根拠づけるのだろうか。もし、神が完全に与えられているのな ら、人間は神へと自己超越することはできないだろう。そのとき、人間は、存在の表 層におけるどうでもよい偶有性でしかない28。 このように、神は、存在しているとしても、人間に何も求めないし、何もしてくれない。 人間の行動規範は、テレームの僧院の入口に掲げられた「欲するところを行え」であろう29。 実際、十二世紀のアマルリック派の人々は、「神の手のうちにあるときには、なすべきこ とについて気を遣わないし、なしたことを後悔しない」と言い、享楽の人生を送った30。 ローマ・カトリック教会は、アマルリック派の人々を大々的に焚刑に処した。それにも かかわらず、カトリック的自然主義があって、世界中で神の祝福を広めており、たとえば、 クローデルの作品にその反映をうかがうことができる。すべては神から来るのだから、す べては正しいと言うのである31。 また、「私たちは、み業のすべてを神に祈るだろう。神がなすことに無駄なことは何も なく、私たちの救済に無縁なものは何もない」とクローデルは書いている。神の業がすべ て善であるのは、それがすべて人間の救済に役立つからである。ということは、神の業は それ自体ではひとつの目的ではなく、わたしたちがそれを利用することからその正当性を 27 28 29 Ibid., p. 36/229. Ibid., pp. 36‒37/229‒230. Ibid., p. 37/230. テレームの僧院は、フランソワ・ラブレー(1494 頃‒1553 頃)の『第一の書ガルガンチ ュア』(1534)に描かれたルネサンス人の理想郷。 Ibid., p. 37/230. アマルリック派は、フランスのスコラ哲学者アマルリクス・デ・ベナ(?‒1206/1207) の説に従う一派。1210 年に、エリウゲナ的汎神論のかどで断罪された。 31 Ibid., p. 37/230‒231. ポール・クローデル(1868‒1955)はフランスの詩人、劇作家、外交官(駐日大 使 1921‒1927)。象徴主義を出発点に、強固なカトリック信仰に支えられた作品を書く。その神秘的なカ トリック思想は、若きボーヴォワールに影響を与えた。 30 36 引き出すようなひとつの手段である32。 利用は神の意志にかなっていなければならないと、キリスト教徒は言うが、そのとき、 自然主義は完全に放棄される。キリスト教徒によれば、徳以外に善はなく、徳とは、神の 要求への服従である。したがって、神には要求があって、神は、人間が神を運命とするの を待っている。神は人間を、定められた存在ではなく、創造主の欲求に従って自己の存在 を実現する存在があるようにと創造した。そのとき、神の意志は人間の自由への呼びかけ として現れ、存在すべきであるが、まだ存在していない何かを要求する33。 そのとき、神と人間の関係は理解できるものになる。神が、それがそうあるべきものの すべてでない限りにおいて、人間は神を根拠づけること(fonder)ができる34。人間は世 界に自分の場所を再び見出す。人間は神に関連して状況下にある。そして、今度は神が人 間に関連して状況下に現れる。これこそ、ドイツの神秘主義者アンゲルス・シレジウスが、 「私が神を必要とするように、神は私を必要としている」と表現していることである35。 そのとき、キリスト教徒は、ひとりの生きている人格神(Dieu personnel)を前にして、神 のために行動することができるが、その場合には、神はもはや絶対的なものでも普遍的な ものでもない36。 こうした規定された個別的な神ならば、人間の超越の熱望を満足させることができるだ ろう。それは、存在しているだろうから、実際、ひとつの具体的で、完成し(achevé)、表 面が閉じた(fermé sur soi)存在であろうが、同時に、その存在は終わりなき超越であろう から、限りなく開いた(indéfiniment ouvert)存在だろう37。それは、それ自体が永続的な 乗り越えであるだろうから、乗り越えられない。人間は、神の超越を決して超越すること なく、神の超越に同行することができるにすぎないだろう38。 32 33 34 35 Ibid., p. 38/231. Ibid., p. 39/232. Ibid., p. 39/233. Ibid., p. 40/233. アンゲルス・シレジウス(1624‒1677)はドイツの神秘主義的詩人。本名はヨハネス・ シェフラー。アンゲルス・シレジウス(シレジアの天使)は筆名。ベーメ、エックハルト、タウラーの影 響を受け、『ケルビム〔智天使〕のごとき旅人』と題する宗教的瞑想詩集を刊行。『ピュロスとシネアス』 の英訳者は『ケルビム〔智天使〕のごとき旅人』のアフォリズム 18 および 100、カプレット 272 および 278 に言及している。 36 Ibid., p. 40/233. 37 Ibid., p. 40/233. Ibid., p. 68/262 では「他人は、わたしの前で、表面が閉じ、無限に向かって開いてい る(fermé sur soi, ouvert sur l'infini)」と言われている。規定された個別的な神は、他人と同じような存 在、ひとりの隣人ということになる。ボーヴォワールの他人は、フッサールが『デカルト的省察』で「モ ナド」と呼んだものに類似している。「モナド」はライプニッツのモナドロジーに由来するが、ライプニ ッツのモナドが「窓」を持たないのに対して、フッサールのモナドは「窓」を持っている。フッサールの モナドは「実質的」にも「実在的」にも「窓」を持たず、分離されているが、「志向的」には「窓」を持 っている(『デカルト的省察』浜渦辰二訳、東京: 岩波書店、2001 年、332‒333 頁、注 52)。ウエンディ・ オブライエンは、ボーヴォワールは 1931 年に出版された『デカルト的省察』の仏訳を読んだはずだと述 べている。ボーヴォワールの全作品と『デカルト的省察』を並べてみると、重なり合う点が明らかになる (Wendy O’Brien, Introduction, The Existential Phenomenology of Simone de Beauvoir, Dordrecht, Neth.: Kluwer Academic Publishers, 2001, p. 3.)。なお、ボーヴォワールのソルボンヌ大学での卒業論文 のテーマはライプニッツであった(S. de Beauvoir, Mémoires d’une jeune fille rangée, Gallimard, 1958 /folio1972(2002), p. 369. 『ある女の回想──娘時代』、朝吹登水子訳、東京: 紀伊國屋書店、1961 年、 247 頁)。 38 Ibid., p. 40/233. 37 人間は神へ向って自己を超越したいと思うが、内在の内部でしか決して自己を超越しな い。人間が贖罪を果たさねばならないのは地上においてである。地上での企てのうちで、 どのようなものが人間を天へ上げてくれるのだろうか。「神の声を聞きましょう。神はわ たしたちに期待することを自らわたしたちに語ってくれるでしょう」と信者は言うが、そ れは素朴な希望だ。神が現れるのは、地上の声を介してのみであり、どのようにしてその 声が神のものであると分かるのだろうか。声が厚い雲、カトリック教会、告白者の口から わき起こるにしても、超越者が現れるのは、常に世界への内在的現前を介してである39。 わたしの心のなかでも、わたしが聞く命令は両義的である。それはまさに、キルケゴー ルが『恐れとおののき』のなかで叙述しているアブラハムの苦悩の原因なのだ。悪魔の誘 惑やわたしの傲慢が問題なのではないということを誰が知るだろうか。話しているのは本 当に神なのだろうか。聖者と異端者を誰が分けるのだろうか。メシアは自分はメシアだと 言うが、偽のメシアもそう言う。誰が一方を他方から区別するのだろうか40。 両者はその行いによってのみ識別することができるが、どのようにして、こうした行い を善あるいは悪と決めるのだろうか。わたしたちはある人間的善(un bien humain)の名に おいてて決めるだろう。神が超越していることによって正当化されると思い込んでいるモ ラルはすべて、このように処理するのだ。つまり、そのモラルはある人間的善を設定して、 それは善(le bien)なのだから、神によって望まれていると主張するのだ41。 クローデルは、秩序は存在しているが、無秩序は存在の否定であるから、無秩序よりも 秩序を選ぶべきだと主張している。しかし、クローデルは、スピノザやベルグソンが示し たように、秩序を秩序として出現させるのは人間の視点だけであることを忘れている。ク ローデルの秩序は神の秩序なのだろうか。ブルジョワの秩序、社会主義の秩序、民主主義 の秩序、ファシズムの秩序があり、それぞれが敵の目から見れば無秩序である。あらゆる 社会は常に神を持っていると言い張る。社会はそれに似せて神を作り出し、語っているの は神ではなく、社会なのだ42。 ところで、わたしが自問するために自分に向かうときには、いつでもわたし自身の心の 声しか聞かない。カトリック教会とプロテスタントの個人主義者が、個人の信念のエコー を天啓と見なしていることで互いにとがめることができるのはもっともだ。わたしの外で と同様にわたし自身においても、わたしが出会うであろうのは、神ではない。決して、わ たしは、地上に神のしるしが示されているのに気づくことはないだろう。もし、示されて いるとしても、それは地上のものだ。人間は神によって解明されるのではなく、人間が神 を解明しようとするのだ。神の呼びかけが聞かれるのは人間を介してであり、人間がこの 呼びかけに答えるのは人間の企てによってである。神は、存在していても、人間の超越を 導く力はないだろう。人間は、人々の前でのみ状況下にあり、天の奥でのかの存在もかの 不在も、人間にとって関わりのないことなのだ43。 Ibid., p. 41/234‒235. Ibid., p. 42/235. 41 Ibid., p. 42/235. 42 Ibid., pp. 42‒43/236. 43 Ibid., p. 43/236. ボーヴォワールは、5 歳 6 カ月からカトリック系の私塾で学び始めたが、14 歳のとき に信仰を失った(S. de Beauvoir, Mémoires d’une jeune fille rangée, pp.186‒198.『ある女の回想──娘 39 40 時代』、121‒129 頁)。 38 6.人類 社会がそれに似せて神を作り出すというのが「神」の章におけるボーヴォワールの主張 であり、無神論の立場が表明されている。したがって、「人類」の章では、「神」を作り 出す社会へと論点が移り、人類、集団、個人が問題になっている。 わたしたちは、それぞれの人間は死すべきものであるということを知っているが、人類 が死ぬであろうことは知らない。人類は死なないのなら、決してどの段階でも止まること なく、それ自身を永遠に乗り越える存在であることをやめないだろう。しかし、一つの世 代は、自分の番が来て消えるためだけに、前の世代を引き継ぐというこの行程の漠然とし た性格しか考えないならば、そこに参加することはとても空しく思われるだろう44。 しかし、人類は単にこの終わりのない散逸ではない。人類は生身の人間たちで構成され、 独自の歴史と、一定の形態(figure définie)を有している。わたしたちが人類へ向って安心 して自己超越できるためには、人類は同時に二つの相のもとに、すなわち開いたものとし てまた閉じたものとして、わたしたちに現れなければならない45。人類がわたしたちを介 してその存在を実現し、それにもかかわらず、人類が存在するためには、人類はその存在 から切り離されていなければならない。人類は決して完成していず、絶えず未来へと自己 を投げている。人類はそれ自身の不断の乗り越えである。それぞれの人間を介して人類は 果てしなくその存在を取り戻そうとしているが、こうしたことがその存在そのものである 46 。 しかし、人類は本当に存在しているのだろうか。ひとは、一つの人類について語ること ができるだろうか。人間の集団に集合名詞を与えることは可能だが、これは人間たちを外 から、彼らが占めている空間によって統一された対象と見なすことだろう。このような集 団は知的な動物の群れにすぎないだろう47。 有名な手足と胃袋の教訓以来、ひとは人間たちを一つの有機体の部分として表現してき 48 た 。部分の一つのために働くことによって、すべてのために働くと言うのである。ひと つの自然的調和があると言われ、それによれば、各自の場所は他のすべての人の場所によ って決定されている。しかし、それは外からその人間を規定するものであって、世界のな かで決定された場所を占めるためには、その人間自身も決定されていなければならないだ ろうが、その場合、その人は純然たる受動性を決定づけられるだろう。そのとき、その人 は自分の諸行為の目的を問題にしないだろうから、行動しないだろう49。 だが、人間は行動するし、自問する。それは人間が自由であるからで、その自由は内面 、、 的なものなのだ。いったい、どのようにして人間は地上に一つの場所を持つのだろうか。 44 45 Ibid., p. 44/237. Ibid., p. 45/238. Ibid., p. 68/262 では、「他人はそこに、わたしの前に、表面が閉じ、無限に向かって 開いている」と言われている。他人と、人間によって規定された個別的な神と人類とは同じ構造を持って いる。本章、注 37 を参照。 46 Ibid., p. 45/238. 47 Ibid., p. 46/238‒239. 48 Ibid., p. 46/239.『ピュロスとシネアス』の邦訳者によれば、この有名な教訓話とは、食物を口に運ぶ のを拒否した手に、胃袋が苦情を言うというものである。 49 Ibid., p. 46/239. 39 人間は、自己自身を世界に投げ入れることによって、自己自身の投企で他の人々のなかに 自己自身を存在させることによって場所を占めるだろう50。 人間の場所は、不在としてあらかじめ穴を掘って示されてはいなかった。人間はまずや ってきた。不在が現存に先だつのではなく、無に先行するのは存在であり、存在の中心に 空虚と欠如が生じるのは、人間の自由によってのみである51。 ひとりの人は、他の人々から見て、与えられた対象になることによってのみ、この世で 自分の場所を見つけるが、与えられたすべてのものは超越される運命にある。ひとはそれ を利用しながら、あるいはそれと戦いながら超越する。わたしは一方の人々の障害になる ことによってのみ、他方の人々の道具である。すべての人々に仕えることは不可能である52。 戦争、失業、危機が、人々の間にはどんな予定調和もないことをしっかりと示している53。 ひとりの人は他のすべての人と連帯することはできない。人々の選択は自由なのだから、 みなが同じ目的を選択することはないからだ。わたしは、プロレタリアを支援するときに は、資本主義と闘う。兵士は、敵を殺すことによってのみ、自分の国を守る。階級や国は、 他との対立という統一によってのみ、統一しているとされる。対立が取り除かれると、全 体はばらばらになって、ひとはもはや複数の切り離された個人にしか関わりがなくなる54。 このような対立を越えて、より高次の和解を期待することはできないのだろうか。個々 の犠牲は普遍的な歴史のなかに必然的な場所を見出さないのだろうか。進化の神話はこの ような希望でわたしたちを釣ろうとする55。進化という考えだけが人間の連続性をでっち 上げる。一つの行為が時間のなかでエーテルのなかの波のように続くためには、人類は従 順で受動的な媒質でなければならないだろう。しかし、それでは、どうして人間は行動す るのだろうか56。 もし、わたしが自由であるならば、わたしの息子も自由である。その時、わたしの行為 は世代の連続を横切って、穏やかな水に沿って滑るように伝わることができない。この行 為に、今度は別の人々が影響を及ぼすからである。人類は、主観性によって決定的に孤立 させられている自由な人間たちの不連続な連続である57。 行為は、わたしたちが達成した瞬間で止まるものではなく、わたしたちから未来へと逃 げるが、そこですぐに別の意識によって再びとらえられる。それは他人にとっては決して 絶対的な強制ではないが、乗り越えるべき所与であり、それを乗り越えるのは、わたしで はなく、他人である。この凝固した行為から、他人は自分自身を、わたしが彼のために描 いたのではない未来へ投じる。わたしの行動は、他人にとっては、彼が自分自身でそこか ら作り出すものに過ぎない。だから、どうしてわたしは自分が作り出すものをあらかじめ 知ることができるのだろうか。わたしはそれを知らないのに、どうして人類のための行動 50 51 Ibid., p. 46/239. ( マ マ ) Ibid., p. 47/240. ここで、ボーヴォワールは、サルトルのL’Être et le Néantの p. 38 以下を参照す るよう促している。「否定の起源」の章である。 Ibid., p. 48/241. 53 Ibid., p. 48/241. 54 Ibid., p. 49/242. 55 Ibid., p. 49/242. 56 Ibid., p. 50/243. 57 Ibid., pp. 50‒51/243‒244. 52 40 を目標にすることができるのだろうか58。 人間は、自分の行動の予期せぬ結果を見つめながら、「こんなことを望んでいたのでは ない」と何度叫んだことか。ノーベルは科学のために働いていると信じていたが、戦争の ために働いていた。人間の手から出るすべてのものは、すぐに歴史の満ち潮や引き潮に運 ばれて、瞬間毎に新たに形成され、その周囲に多数の思いがけない渦を出現させる59。 それにもかかわらず、人間の自由がこぞって認める目的がある。人々は科学をこぞって 認める。すべての人がこぞって認められるようなものになったときにのみ、ある考えは科 学的であるのだから。しかし、科学のために働きながら、ひとが働いているのは本当に人 類のためになのだろうか。ひとの発明は、それぞれの人々にとって、新たな状況を決める。 それが役に立つということを決めるためには、それが作り出す状況が先行する状況よりも よくなければならない。大ざっぱに言えば、進歩という考えはこうした比較を求める。し かし、さまざまな人間の状況を比較することはできるのだろうか60。 地上に五千万人の人がいようと、二十人の人がいようと、人類は全く同じように充実し ているが、人類はいつでも「つねに未来である穴」を抱えていて、人類がいつの日にか楽 園になるのを妨げている。人類が乗り越え不可能な目標と見なされうるのは、それがどの ような目標にも限定されていないからである。人類が、その前で瞬間毎に後退する目標を 設定するのは、それ自身の躍動によってである。だが、そのとき、わたしたちに救済の約 束と思われていたものが、わたしたちの希望を裏切る。科学も、技術も、どのような種類 の行動も、人類をこの動いている目標に近づけることは決してない。目標を達成しようと して作り出された状況がどのようなものであっても、それは今度は乗り越えられるべき所 与になる61。 ひとはどこにも到達しない。出発点しかない。それぞれの人間において、人類は新たに 出発する。科学を学ぼうとも、詩を書こうとも、エンジンを組み立てようとも、ひとは自 己を超越し、与えられた状況を超越するが、人類のために超越するのではなく、人類がそ のひとを介して自己超越するのだ62。 こうした超越は何かのためにあるのではない。超越があるということである。それぞれ の人の人生や人類全体は、瞬間毎に、絶対的に根拠のないものとして、何かによって要求 されず、呼び求められることのないものとして現れる。要求や呼びかけを作り出すのは、 それぞれの人の人生や人類全体の運動であり、新たな要求を作り出すことによってのみこ れらの要求や呼びかけに応えるであろう63。 ヘーゲルによれば、わたしたちが人類のうちに矛盾を見るのは、わたしたちが人類の変 化のうちのある変化で停止するからであり、もし人類の歴史の全体を考察するならば、出 来事や人々の間の見かけの分離は消え、すべての契機が和解させられ、それぞれの人は、 その歴史的かつ個別的運命を現実のものとしながら、普遍の中心に自分の場所を見つける 58 59 60 61 62 63 Ibid., p. 51/244. Ibid., p. 52/245. Ibid., p. 53/246. Ibid., p. 53/246. Ibid., p. 54/246‒247. Ibid., p. 54/247. 41 ことができる64。 ヘーゲルの楽観主義に同意するためには、合が、それが止揚した正と反を実際に保って いることを論証しなければならないだろうし、それぞれの人は、自己を包んでいる普遍的 なもののうちで自己を認めることができなければならないだろう。具体的普遍は個別的な のだから、またそれぞれの人がその形態を見出すのは個別的個体性を介してであるのだか ら、それぞれの人は普遍的なものにおいて自己を認めるはずだとヘーゲルは言っている65。 人間は二つの仕方で世界に現存している。すなわち、人間は対象であり、自分のもので はない超越によって乗り越えられる所与であるが、彼自身、未来へ身を投じる超越でもあ る。彼のものは、彼が自分の自由な投企によって基礎づける(fonder)ものであり、他人 によって基礎づけられるものではない66。 ところが、ヘーゲルの弁証法において、一人の人間に関して保たれるのはその人の事実 性である。一つの選択の真実は、その人にこの目的を選択させる生き生きとした主観であ って、選択したという凝固した事実ではない。しかるに、ヘーゲルが採用しているのは、 この死んだ局面だけである。越えられ、止揚されたものとして世界に落ちる限り、人間は そこで自分を再び見出すことはできず、逆に、そこで他有化される(aliéné)67。 おそらく、人間は宇宙全体に与えられたものとして現存している。瞬間毎に、わたしは 人類の過去のすべてをわたしの背後に、その未来のすべてをわたしの前に持つ。わたしは 星雲の間の、太陽系の、地球のある一つの点に位置づけられている。わたしが取り扱う物 のそれぞれは、わたしを、世界を構成しているすべての物へと、またわたしの存在をすべ ての人の存在へと投げ返す。しかし、宇宙がわたしのものであるためにはこれでは十分で はない。わたしのものとは、わたしが基礎づけたものであり、わたし自身の投企の達成で ある68。 ヘーゲルなら次のように言うだろう。「いずれにせよ、もし人間がその投企を十分に遠 くまで延ばすことができさえしたら、彼が普遍的生成のなかに再び見出すのは、実のとこ ろ、自分の投企の達成である。有限なもくろみに固執する愚かな頑固さにとってのみ失望 はあるだろう。だが、もし人間が普遍の視点を取るならば、敗北の外見においてさえも、 彼は自分の勝利を確認するであろう」69。しかし、人間は普遍的なものではないのだから、 どのようにして普遍的なものの視点を取ることができるのだろうか。ひとは自分の視点以 外の視点を取ることができないだろう70。 ひとが、どんな目的も、より遠くにある一つの目的へ向かう一つの手段と見なしうると 主張するときには、何かが本当に一つの目的であるということを否定している。そのとき、 投企には内容がなくなり、世界は一切の形式を失うことで崩壊する。人間は一様な無関心 の広がりの中に埋もれ、そこでは、人間は決して事物を存在させようとはせず、事物はあ 64 65 66 67 68 69 70 Ibid., pp. 54‒55/247‒248. Ibid., p. 55/248‒249. Ibid., p. 56/248‒249. Ibid., p. 56/249. Ibid., pp. 56‒57/249. Ibid., p. 57/249‒250. Ibid., p. 58/251. 42 るがままにある71。 一つの目的のために行動することは、いつでも選択し、決定することである。自分の努 力の個別的形式はどうでもよいと思われたときには、彼の超越は、一切の形態を失うこと で、消え去る。普遍的なものには欠如も、期待も、呼びかけもないのだから、彼にはもう 何も望めなくなる72。 したがって、無限なものとの関係を打ち立てるための人間の一切の努力は無駄である。 人間は、人類を介してしか、神との関係に入ることができないし、人類においては、ある 人々にしか到達しないし、限定された状況しか基礎づけることができない73。 7.死 第一部の最後の章は「状況」である。まず、人間は自己を選択することによってのみ存 在し、もし選択することを拒めば、無に帰すると言われている。また、人間の条件にはパ ラドックスがある。それは、投企は目的(fin)を終わり(fin)として、乗り越えられてはな らないものと規定するが、一切の目的は乗り越えられうるということである。しかし、人 間にはこれ以外の存在方法がない74。 また、この章では、ボーヴォワールの「死」についての考えが示されている。 人間の有限性は、蒙られるのではなく、望まれるのである。それゆえ、死は、ここ では、しばしば纏わされてきたような重要性を持たない。人間が有限なのは、人間が 死ぬからではない。わたしたちの超越は、死の向こう側であろうと死のこちら側であ ろうと、常に具体的に規定される75。 有限性の根拠は、サルトルと同様に、人間が自己を選択することにあると考えてよいだ ろう。だから、有限性は蒙られるのではなく、望まれるのである。ボーヴォワールにとっ て、人間は選択することによってのみ存在するのだが、選択は人間を有限なものとする。 だが、もし選択することを拒むなら、人間は無に帰する。 また、わたしたちの超越は、死のこちら側でも死の向こう側でも、常に具体的に規定さ れると言われ、死のこちら側の例として、ピュロスが挙げられ、死の向こう側の例として、 革命家が挙げられている。ピュロスは、征服を果たして、世界を一周せずに、自分の家に 戻る。革命家は、革命が勝利する日にはもはやそこにはいないことをほとんど気にかけて 71 72 73 74 75 Ibid., p. 59/251‒252. Ibid., p. 59/252. Ibid., p. 59/252. Ibid., p. 60/253. Ibid., p. 60/253. サルトルも『存在と無』、「第四部、第一章、Ⅱ自由と事実性──状況」において、 《状況‒内‒存在》を明確に規定することを可能にするものの一つとして、「私の死」について記述してい る。サルトルは死と有限性を根本的に切り離すことが肝心であると述べている(EN630/590)。サルトルに よれば、人間が有限であるのは、他の諸可能性を排除して、この自己を選ぶからである。死は、決して対 自の有限性の根拠ではない(EN631/591)。 また、サルトルは生と死の差異について、「生は、自己自身の意味を決定する(EN627/587)」が、「死 ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられることであり、自分の意味や自分の勝利 の意味そのものをまでも他人から頂戴することである(EN628/588‒589)」と記している。 43 いない。わたしたちの試みの限界は、試みの中心にあるのであって、外にあるのではない76。 ボーヴォワールは、生を停止させるのは肉体の死ではなく、超越の死であると考えてい る。作家は、次の本を書くために、今書いている本を書き上げてしまいたいと思っている。 彼は、自分の仕事が完成すれば、安心して死ねるだろうと言っている。このような場合は、 彼は死を待たずして自己を停止させるが、もし彼の投企が彼を数世紀のちまで拘束するな らば、死は彼を停止させないだろう77。 ボーヴォワールにとって、自分の死は、自分が死んだときにのみ、しかも他人の目にと って、自分の生を停止させる。しかし、生きている自分にとっては、自分の死は存在しな い。自分の投企は、障害に出会うことなく、その死を横断する。自分の超越が全力でぶつ かることになる障壁などない78。 続いて、ボーヴォワールはハイデガーの死についての考えを批判している。 それゆえ、ハイデガーと共に、人間の本来的な投企、それは死ぬことへとかかわっ て存在することである(le projet authentique de l’homme, c’est d’être pour mourir)、 死はわれわれの真の終わり(fin essentielle)である、人間にとっては、この最終的な可 能性からの逃避かその引受けかを選択する以外の選択はないなどと言ってはならな い79。 ここでは、三つのことが批判されている。まず、ボーヴォワールは、人間の本来的な投 企は、死ぬことにかかわって存在することではなく、さまざまな行動によって対象とかか わり、自己の存在を存在させることだと言っている。ハイデガーは『存在と時間』におい て、いつの日にか訪れる自分の死に思いを馳せて、あらかじめ覚悟のうえで生きること(先 駆的決意性)に本来性を見ている。そして、本来性からの逃避を頽落と呼んだ。それに対 して、ボーヴォワールは、死ぬことにかかわるか否かにかかわらず、すべての行動は存在 するためになされると考えている。 、、、、、、 ひとは死ぬことにかかわって存在しているのではなく、理由なしに、目的なしに存 在しているのである(on n’est pas pour mourir; sans raison, sans fin)。ところで、J. ‑P.サルトルが『存在と無』で示したように、人間の存在は物の凝固した存在ではない。 つまり、人間はその存在を存在しなければならないのだ。瞬間毎に、彼は自分を存在 させようとするが、それがまさに投企(projet)である。人間存在は、死へ向かう投企で はなく、個々の目的に向かう投企であるような投企として実存している(existe)。人間 は狩りをし、漁をし、道具を作り、本を書くが、こうしたことはまさに気晴らしや逃 76 77 Ibid., p. 60/253. Ibid., p. 61/254. ここで、ボーヴォワールは「スタンダールは百年後に読まれるために書いている」と 述べている。作家は自分の作品が読まれている限り、生き続けるのだ。 Ibid., pp. 61‒62/254. 79 Ibid., p. 61/254. サルトルは『存在と無』で、ハイデガーの Sein zum Tode をドイツ語のまま使って いるが、ボーヴォワールはここでフランス語訳 être pour mourir を使っている。Sein zum Tode は、原 佑・渡邊二郎訳では「死へとかかわる存在」とされているので、être pour mourir も「死ぬことへとかか わって存在すること」とした。 78 44 避ではなく、存在へ向かう運動であり、人間は存在するために(pour être)なすのだ80。 次に批判されているのは、死がわれわれの真の終わりであるということである。すでに 見たように、ボーヴォワールは肉体の死を人間の生の停止と考えてはいない。 その他の終わりとは異なり、この最後の終わり(fin suprême)はどのような行為によっ ても終わりと規定されないことをハイデガーは認めている。人間を死へと投げる決意 、、、 性(décision résolue)は、彼を自殺することには導かず、単に死の現前において(en presence de la mort)生きることへと導く。だが、現前とは何であろうか。それはそも そも現前化する行為のなかにしかなく、具体的なつながり(liens)の創造のなかでしか 実現されない81。 そして、この最終的な可能性からの逃避かその引受けかを選択する以外の選択はないと いうことに対しては、以下のように批判している。 〔ハイデガーによれば〕逃避として現れるときには非本来的である行動が、死の前で 、、、 繰り広げられるならば、本来的になる。しかし、このの前で(en face de)という言葉は 一つの言葉でしかない。いずれにしても、わたしが生きているあいだは、死はそこに はない。わたしにとっては一つの目的の自由な選択である行動は、誰の目から見れば 逃避なのだろうか。非本来的実存の実在性の程度(le degré de realité)に関するハイデ ガーのためらいの原因はこの詭弁にある。本当は、主体だけがその行為の意味を規定 し、逃避の企てによらなければ逃避はない82。 8.結 『ピュロスとシネアス』は実存主義攻勢以前に書かれているが、そこには、ボーヴォワ ールの実存思想が示されている。実存主義と聞くと、多くの人は、サルトルの『実存主義 はヒューマニズムである』(1946)で表明されている実存主義を思い浮かべるであろう。私 はそれを「第二章ボーヴォワールと実存主義」の「2.サルトルの実存主義」において示 しておいた。 『実存主義はヒューマニズムである』で表明されている実存思想と『ピュロスとシネア ス』の「第一部」における実存思想には多くの共通点があることが分かるが、それらがす べて『存在と無』から導き出されうるものであるか否かに答えるには、さらなる研究が必 要であろう。現時点では、ボーヴォワールの発言に耳を傾け、その実存思想を理解するこ とに努めるべきであろう。 『ピュロスとシネアス』の「第一部」には、投企(projet)、自己拘束(engagement)、超 越(transcendence)といった、のちの実存主義のキーワードが示されている。ボーヴォワー 80 81 82 Ibid., pp. 63‒64/256‒257. Ibid., p. 62/255. Ibid., pp. 62‒63/255‒256. 45 ルは、人間には自発性があり、意図的な行動だけではなく、自発性においても投企がなさ れていると考えている。 ボーヴォワールは「自己拘束」をポジティブにとらえている83。人間には自発性があり、 瞬間ごとに、新たな熱意をもって次の企てに身を投じる。こうした投企によって、人間は 自己を対象に拘束し、それによって、その対象が自分のものとなり、隣人となる。また、 自己を対象に拘束することによって、対象の存在と自己の存在を享受することが可能にな る。 また、『ピュロスとシネアス』では、ヘーゲルを批判しながら、「普遍」ではなく、「個 別」の立場に立つことが表明されている。その論拠は、主張するのは自分自身であり、主 張することで、自分を存在させ、存在しているのは自分自身だからというものである84。 また、ひとは自分の視点以外の視点を取ることができないのだから、普遍の視点を取るこ とはできないと述べられている85。 さらに「神」の章では、キリスト教の神についてのさまざまな解釈が示され、無神論の 立場に至った理由が詳しく述べられている。ボーヴォワールは、「神が現れるのは、地上 の声を介してであり、どのようにしてそれが神のものであると分かるのだろうか」と述べ ている86。そして、社会がそれに似せて神を作り出すというのが、「神」の章におけるボ ーヴォワールの結論である。 ボーヴォワールは、人類については、「主観性によって決定的に孤立させられている自 由な人間たちの不連続な連続である」と述べている87。また、人類はいつでも「つねに未 来である穴」を抱えているとも述べている88。 そして、「状況」の章では、ハイデガーの死に関する考えが批判されている。ボーヴォ ワールは、人間の本来的な投企は、死ぬことにかかわって存在することではなく、さまざ まな行動によって対象とかかわり、自己の存在を存在させることであると言っている。ボ ーヴォワールにとって、生を停止させるのは肉体の死ではなく、超越の死である。また、 たとえ自分の肉体が死を迎えても、それは他人の目にとっての死であり、自分の行為や作 品が後世の人々に評価されるならば、革命家や作家は生き続けるのだ89。 本章において特筆すべきことは、他人と、人間によって規定された個別的な神と人類と が同じ構造を持っているとされていることである。すなわち、これらは閉じたものである と同時に開いたものであるという二つの相のもとに現れると言われている。これらは、フ ッサールの『デカルト的省察』において、「モナド」あるいは「モナドの共同体」と呼ば れているものと同じ構造を持っている90。これによって、ボーヴォワールの哲学を解明す るための一つの手がかりが得られたと考えてよいだろう。 83 84 85 86 87 88 89 90 本章の注 7 を参照。 S. de Beauvoir, Pyrrhus et Cinéas, p. 34/227. Ibid., p. 58/251. Ibid., p. 41/234. Ibid., pp. 50‒51/243‒244. Ibid., p. 53/246. Ibid., p. 61/254 本章の注 37 を参照。 46