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花園には妙見堂があり、お祭が行われています。「天石妙見大士
花園には妙見堂があり、お祭が行われています。「天石妙見大士由来」(享和3年。 1803年)によりますと、延暦年中(782年∼806年)にここに霊石が天から降り、それを 宝珠のように刻み、北斗星妙見大士として奉ったといいます。また、明徳年中(1390年∼ 1394年)、南北朝に別れて天下が乱れていた時、足利義満がこの妙見宮に祈願したところ、 都が静まったので、その利益を感じ、都の丑寅の隅にある妙見としてこの社を再建したと いいます。その真偽のほどはわかりません。妙見信仰は大正時代に盛んになったようで、 石段も鳥居も、花園バス停のところにある立石も大正時代に建て替えられています。戦時 中には武運長久を祈つてお百度参りも行われま した。そのお祭である星祭は節分に行われ ます。長栄寺の住職が祈祷をあげた後、村の人 は札をもらい、古い札を燃やします。各人が守 護星を持つていると考えられているのですが、 札の裏面にはその年におけるそれぞれの星の運 が書いてあります。 妙見さんの大祭は4月15日に行われていたよ うです(昭和9年)が、現在では神明社の大祭 と同じ日である9月15日に行われています。神 明社の祭神は天照大神と豊受大神。神明信仰は、 京都では15世紀ごろから始まるようです。15 世紀というと、花園の地名が文献に現れ始める 時期です。花園はそのころから村としてのまと まりを持ちはじめ、神明さんが村の神社である かのように考えられ始めたのかもしれません ところで花園は、神明さんと妙見さんのお祭 を行うとともに、長谷、中といっしょに長谷八 幡のお祭を行つています。では神明さん、妙見 さん、長谷八幡の関係をどのように考えればよ いのでしょうか。 『洛北岩倉研究』第2号、pp.8-10でも述べ ましたが、『京都古習志』井上頼寿、地人書館、 昭和18年、pp.178-181)によりますと、長谷 八幡には2つの座がありました。蔭山座と新座 です。長谷の戸数は明治時代初めには68でし たが、それ以前に36であった時期があったよ うです。その36戸のうち、16戸が蔭山座に属 し、20戸が新座に属していました。新座には、その20戸に加え、中、花園も属していま した。すると蔭山座と新座では、戸数の上でずいぶん差があったはずです。それにもかか わらず、役職は対等にあたるのです。それどころか、蔭山座の首席が一和尚(いちばんじょ う)となり、新座の首席が二和尚を勤めるというようになっていたこともあったようです。 それゆえ、蔭山座がずいぶん大きな比重を持っていたことになります。ここから次のよう な推測をすることができる のではないでしょうか。長 谷には蔭山社を氏神とする 人たちがいた。やがて長谷 が発展し、分村していった。 また、それぞれ独自の歴史 と文化を持つ花園、中が移 住してきた。しかし中は長 谷と同じ水源に頼らざるを えない。また長谷、中、花 園は京へ行くのに同じ道を 使う。長谷、中、花園の者 たちのうちで結婚相手を見 つけることも多かったでしょ う。そこで、長谷と花園と 中とで共通の神を持つこと になった。そして選ばれた のが八幡神であった(八幡 信仰は鎌倉時代から一般民 衆の間にも広まっていきま した)。神社の場所として は、蔭山と花園の間が選ば れ、長谷八幡から中、長谷 の分村へ向かう真っ直ぐな 道がつけられた。ただし、 蔭山、長谷の分村、花園、 中が同じ権限を持つという のでは、蔭山の者にすればおもしろくない。そこで長谷八幡に2座をもうけ、蔭山だけで 1つの座を構成し、長谷の分村、花園、中で新座を構成することになった。長谷八幡がで きてからも、それぞれの村は独自の祭を続け、花園では節分に妙見さんの星祭を行い、4 月15日に妙見さんの大祭を行い、9月15日には神明さんの大祭を行つたのではないでしょ うか。 ! !