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明治文壇総評

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明治文壇総評
明治文壇総評
一
久振りに島村抱月氏の﹁囚はれたる文芸﹂を読直した︒
氏が数年間の欧州留学から帰朝して︑非常な抱負をもっ
て ﹁ 早 稲 田 文 学 ﹂ を 復 興 し た 時 ︑ そ の 第 一 号 の 巻頭 に 掲
げた感想文で︑当時の青年読者に愛読されたものであっ
た︒私は︑森下町の下宿屋で︑大晦日の夜︑胸を轟かせ
てこれを通読して︑訳 も分らずに感激したのだ が︑今日
これを読直すと︑その中に書かれていることがよく分る
の で あ る ︒ 概 括 的 西 洋 文 芸 史 で ︑ 当 時上 田 敏 氏 が ︑﹁ 所
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説は當を得ているが︑なぜ︑説明に狂言綺語を弄するの
調から脱却していなかった︒そういう風だったから︑帰
氏は︑明治二十年代の日本の文壇に流行していた﹁美文﹂
家 の 夢 の 跡 ﹂ に し ろ ︑﹁ 沙 翁 の 墓 に 詣 づ る 記 ﹂ に し ろ ︑
ばれたのである︒ヴェルサイユの宮殿を描いた﹁ルイ王
思 わ れ る が ︑ し か し ︑ そ う い う 狂 言 綺 語 が︑ 青 年 に は 喜
ダンテの幻影を呼起すなんかは大袈裟でいやみであると
氏の評に同感であって︑こんな初歩の西洋文学概説に︑
を︑私は薄々記憶している︒今日となっては︑私も上田
で あ ら う ﹂ と ︑﹁ 芸 文 ﹂ と い う 雑 誌 で 批 評 し て い た こ と
6
朝後の氏によって我々が期待したように︑文壇に新生命
が注がれることはなかった︒むしろ︑氏は︑田山花袋氏
などの海外新思潮の研究や自己内省によって起された自
然主義の気運によって刺戟され︑啓発されて︑氏の学殖
識見が新たな光を放つようになったのであった︒
私は︑新日本の文学者が︑直接に欧州先進国の文化風
物 芸 術 に 接 し て ︑ ど う い う 感 銘 を 得 た の で あ ろ う か とい
うことにある興味を寄せて︑抱月氏の﹁滞欧文壇﹂や︑
永井荷風氏の﹁フランス物語﹂や︑島崎藤村氏の﹁エト
ランゼェ﹂や︑徳富芦花氏の﹁日本から日本へ﹂などを
7
熟読した︒いずれも︑明治の新教育を受けた天分の豊か
﹁我々はポット出の田舎者のアンポンタンの山家猿のチ
却って作家の風格が自由に現われていて面白かった︒
たものにちがいないが︑そのために︑これ等の日記には︑
無論世に公けにされようとは︑作者の夢にも思わなかっ
作家の見聞録とは異って︑簡単な覚え書に過ぎないので︑
に ︑ 海 外 滞 在 中 の 日 記 や 感 想録 が ま じ っ て い た ︒ 如 上 諸
目漱石全集﹄中の﹁日記及び断片﹂を見ると︑そのなか
観察にも︑筆者の風格が偲ばれて面白かった︒最近︑
﹃夏
な︑粒選りの文学者であるだけに︑それぞれの叙事にも
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つち け いろ
ンチクリンの土気色の不可思議な人間であるから︑西洋
人から馬鹿にされるのは尤もだ﹂と云っている︒西洋人
の お 茶 の 会 に 招 か れ た の を 得 意 が ら な い で ︑﹁ こ ち ら へ
と云うから這入ると驚いた︒狭い客室にずらりと列んだ
りな半ダースの貴女が御出でだ︒已むを得ないから腰を
据えた︒左を見ても右を見ても知らない女だ︒家の妻君
も知らない女だ︒外国人のしかも日本人に一度も逢った
こともないのに
'at home'に呼ぶなんて︑野暮な奴だと
思 っ た が 仕 方 が な い ︒ 向 う も 義 理 で呼 ん だ ろ う ︑ 此 方 も
、り
、き
、っ
、た
、事
、を
、二
、三
、言
、話
、
義理で行ったのだ︒茶が出る︒極
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、︒其内に亭主が出て来た︒白髪頭の坊主だ︒余り善い
す
漱 石 氏 は ま た ︑ 巴 里 を 一 瞥 し て ︑﹁ 巴 里 の 繁 華 と 堕 落
文 に 比 較 す る と面 白 い ︒
と呼掛けられて︑盛んに婦人論や文芸論を闘わした紀行
名 な 北 方 の 湖 畔 に 避 暑 に 出 掛 け ︑ 車 中 ︑﹁ 東 洋 の 紳 士 ﹂
中︑英人の一団に加わって︑ワァーズワスの詩などで有
何が面白い﹂と︑実感を記録している︒抱月氏が︑滞在
愚かな物だ︒こんな窮屈な社会を一体だれが作ったのだ︒
を 使 う ︒ 早 々に 還 っ た ︒ 全く 時間 潰 し だ ︒西 洋 の 社 会 は
人ではないようだ︒妻君は好い顔をして居る︒善い英語
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は驚くべきものなり﹂と簡単に断定しているが︑荷風氏
は ︑﹁ 現 実 に 見 た フ ラ ン ス は ︑ 見 ざ る 時 の フ ラ ン ス よ り
更 に 美 し く 更 に 優 し か っ た ﹂ と 云 い ︑﹁ わ れ 多 年 の 宿 望
を遂げ得て︑はじめて巴里を見し時は︑明くる日を待た
で死すとも更に怨むところなしと思いき﹂と云っている︒
漱 石 ・ 抱 月 ・ 荷 風 の 三 氏 は ︑ 略 々 同 じ 時代 に 欧 州 へ 渡 っ
た の で あ っ て ︑ 共 に 嚢 中 は豊 か でな か っ た の だ が ︑ 三 人
三様の観察をしているところに︑各作家の素質︑趣味好
尚︑対人生の態度が現われていて興味が深いのである︒
﹁アメリカ物語﹂﹁フランス物語﹂﹁西遊日記鈔﹂など︑
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青年の夢を描い た物語 として︑ 私は愛誦してい る︒氏に
念は︑盛んに文学に現われているのだが︑荷風氏の作品
は あ ら ゆ る 点 で 西 洋 模 倣 を 企 て ゝ 来 た の で ︑ 西 洋 憧憬 の
面白いだろうと︑私は思っている︒明治初年以来︑日本
青春時代にこういう気持で西洋漫遊を試みたなら︑さぞ
荷風氏の胸には︑啻ならぬ轟ろきを覚えさせるのである︒
たゞ
ている︒漱石氏には︑驚くべき堕落と感ぜられるものが︑
婦人の姿態でも︑完全無上のものとして︑氏の心に映っ
ても︑日常生活にしても︑美術でも音楽でも︑言語でも︑
取ってはフランスは地上の楽園である︒自然の風物にし
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には︑最も情味豊かにそれが現われている︒
﹁凡ては皆生きた詩である︒極點に達した幾世紀の文明
に︑人も自然も惱みつかれた此の巴里ならでは見られぬ
生きた悲しい詩ではないか︒ボードレールも自分と同じ
やうに︑モウパッサンも亦自分と同じやうに︑此の午過
ぎの木蔭を見て盡きぬ思ひに耽つたのかと思へば︑自分
はたとひ故國の文壇に名を知られずとも︑藝術家として
の幸福光榮は︑最早これで十分だと云はねばなるまい﹂
と云っている如く︑この世の楽園たるフランスに陶酔し
ている作家の心意気は随所に散見している︒エキゾチッ
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クの情味は脈々と波打っていて︑私の心にも触れるとこ
て︑初期の明治文学史に光彩を放っているが︑その頃の
氏は︑学者で理論家で︑欧州文壇の新知識の輸入者とし
満喫させたものは︑森鷗外訳の﹁即興詩人﹂であった︒
明治の文壇で私などに︑エキゾチックの清新な情味を
て恍惚とさせるほどの強い力は有っていない︒
れて氏自身が魅せられている楽園の夢に読者を誘い入れ
って︑氏自身が魅せられている楽園の夢に読者を誘い入
世 相 人 事 の 洞 察 力 の 乏 し き た め ︑ 全体 が 薄 手 で 底 が 浅 く
ろ が あ る が ︑ 氏 は ︑ そ の 仏 国 滞 在 が 短 日 で あ っ た ため ︑
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私は︑まだ幼かったため︑坪内
遥氏の没理想論に対す
る論戦など︑何の事やら理解されなかった︒青春期に読
んだ﹁即興詩人﹂によって私は︑空前の特異の文芸に接
した感じがした︒これは翻訳とは云え和漢の文字を自在
に 駆 使 し た 新 代 の 創 作 と 云 っ て い ゝ ︒﹁ 舞 姫 ﹂﹁ 文 づ か
ひ ﹂﹁ う た か た の 記 ﹂ な ど ︑ 海 外 情 話 の 片 影 を 描 い た 鷗
外 も ︑ ア ン デ ル セ ン を 日 本 に 移 す こ とに よ っ て︑ 青 年 の
の豊かな夢を思う存分に描き得たのだ︒高山樗牛の﹁滝
口 入 道 ﹂﹁ わ が 袖 の 記 ﹂︑ 樋 口 一 葉 の ﹁ た け く ら べ ﹂︑ 徳
富 芦 花 の ﹁ 思 ひ 出 の 記 ﹂︑ 泉 鏡 花 の ﹁ 照 葉 狂 言 ﹂︑ 田 山
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花 袋 の ﹁ 野 の 花 ﹂﹁ ふ る 郷 ﹂︑ 島 崎 藤 村 の ﹁ 若 菜 集 ﹂ な
ぬ故郷から心を脱却させることが出来なかったように︑
ンポンにしたような愛国心を有して︑故郷とするに足ら
治初期の雰囲気に育ったために︑武士道と基督教をチャ
らず﹂と傲語した内村鑑三氏でも︑幕末の日本に生れ明
﹁偶然に生を享けたる国土の如きは︑我故郷とするに足
気がした︒
の 秀 才 の 作 品 も ︑﹁ 即 興 詩 人 ﹂ と は 比 べ も の に な ら な い
い 詩 で あ り 文 章 で あ っ た が ︑ 私に 取 っ て は ︑ こ れ 等 明 治
ど ︑ 明 治 三 十 年 前 後 に ︑ 文 学 好 き の 青 年 を 魅惑 し た 新 し
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私も︑明治の日本の風潮に︑一から十まで支配されなが
ら微々たる生を営み脆弱な心魂を養って来たことが︑ま
ざ ま ざ と 回 顧 さ れ る ︒ 政 治 や 実 業 や軍 事 の よ う な 俗 界 の
事業に興味が乏しくて︑文学芸術に惑溺した私は︑自か
ら明治文壇の感化を受けて人となったので︑よかれ悪し
か れ ︑ 明 治 文 学 を 軽 視 す る訳 に は 行 か な い の で あ る ︒ 私
は近年明治文学の復習をしながら︑自己の影を随所に見
つけては︑感慨に耽ることが多い︒私の生れぬ前から︑
当 時 の 理 想 を 示 し た ﹁ 文 明 開 化 ﹂ の 語 が 流布 し て ︑ 文 明
開化すなわち西洋模倣が︑各方面に目ざましく企てられ
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ていたので︑田舎から新興の都会へ続々と修業に出て来
遥氏の﹁当世書生気質﹂に細写されて
の で あ っ た が ︑ 今 あ の 雑 誌 の 綴 込 み を 見 る と ︑ 政治 論 に
﹁国民之友﹂で︑私は単純な少年期にその感化を受けた
った︒明治二十年代の代表的雑誌は︑徳富蘇峰氏主宰の
ず 西 洋 憧憬 の 情 緒 を 心 の 一 部 に 養 っ て 来 た の は 当 然 で あ
と文字を覚え︑人間の知識を獲得した私が︑知らず知ら
大 抵 は 西 洋 の 輸 入 で あ っ た ︒ そ う い う 時代 に 人 間 の 言 語
の人名や事蹟を口にするを喜んでいたが︑当時の著述は
いるように︑日常の会話にも片言の英語を濫発し︑西洋
た学生は︑坪内
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しろ︑外国の偉人傑物名家名著の名前が限りなく並び立
て ら れ て い る ︒ あ の 時代 に 若 い 論 客 が ︑ よ く も こ んな に
外国の歴史に通じ︑また外国の文学を読破し得られたも
のだと︑驚歎するよりも私は滑稽に感ずるのだが︑そこ
に時の世相が覗われるのである︒あの頃としては聰明で
あった批判家︑徳富蘇峰氏にしても︑内田不知庵氏にし
て も ︑ 高山 樗 牛 氏 に し て も ︑ 自 国 の 文 学 を 軽 視 し 侮 蔑 し
て ︑ ユ ー ゴ ー と か ︑ ゲ ー テ と か ︑﹁ ク ォ ・ ヴ ァ デ ィ ス ﹂
を書いたシェーンキウィッチだとかを讃美して︑自国の
文学者をして︑彼等に模範を求めさせようとした︒ラフ
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ァエルの聖母や︑ヴィンチの﹁モナ・リザ﹂や︑あるい
純真を持していたところに︑時代の相違を看取していゝ
スレッカラシでなくって︑無邪気で涙脆くって︑幼稚な
の だ ︒﹁ 文 学 界 ﹂ の 同 人 は ︑ 今 日 の 新 興 芸 術 派 の よ う な
を見ると︑あの頃の多恨多情の青年芸術家の心境が分る
どによって創刊された﹁文学界﹂という新興芸術派雑誌
たのであった︒明治二十五六年頃︑藤村︑禿木︑天知な
し た ﹂ 東 洋 青 年 の 一 部 の 敏 感 な 人 々 の 頭 に 憧憬 さ れ だ し
も 輸 入 さ れ て︑ 漱 石 謂 う 所 の ﹁ チ ン チ ク リ ン の土 気 色 を
は︑ダンテ︑ゲーテの空想した永遠の女性などが︑早く
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の だ ︒ 樋 口 一 葉 の 日 記 を 見 る と ︑ 禿 木 ︑ 秋 骨︑ 孤 蝶 な ど
の﹁文学界﹂同人の二三氏が︑女史に親しんで頻りに女
史の家を訪ずれていたらしいが︑その談話や態度は子供
っぽくて︑今日の新興芸術派連はとてもこんなことでは
な さそ うに 思 われ る︒
そういう時代の空気を︑絶えず肺臓に呼吸して︑少年
期青年期を経過した私である︒次第に八犬伝に飽足らず︑
近 松 に 飽 足 ら ず ︑﹁ 三 人 妻 ﹂ に も 飽 足 ら ず ︑ 外 国 を 舞 台
にしながら︑エキゾチックの風趣の極めて乏しい﹁佳人
之奇遇﹂にも飽足りなくなって︑鷗外翻訳の﹁埋木﹂や
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﹁即興詩人﹂に随喜の涙を濺ぐようになったのは当然で
ゲーネフのように文章に骨を折った人もある︒
うに矢鱈に書きなぐった人もあるし︑フローベルやツル
もいゝものはいい︒バルザックやドストエフスキーのよ
かし︑苦心したって拙いものは拙いし︑気楽に書流して
ことに︑翻訳なんか何でもないだろうと思われたが︑し
それに比べると︑鷗外は気楽に筆を執っていたらしく︑
に生命を削る思いをしたことは︑尊敬に価いするので︑
なりと思う︒二葉亭や紅葉が新代の文章を創出するため
あった︒私は︑文学史中の一作家として︑森鷗外は偉大
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田 山 花 袋 氏 は ︑﹁ 近 代 の 小 説 ﹂ と 題 し て ︑ 氏 の 明 治 文
学観を一巻の書物として残しているが︑そのなかに︑
﹁あ
ん な 翻 訳 ︵ 二 葉 亭 な ど の︶ よ り も ︑ 今 の 人 の や っ た も の
の方が︑どんなにうまく︑またどんなに自由でもあるか
も知れない︒それに︑本当の意味から云っても︑原書に
近いかも知れない︒どうしてあんな無駄な努力をやった
のだろうな﹂と云った若い人達の言葉に同意して﹁つま
り翻訳者が骨折って︑体がわるくなるくらい骨折って︑
日本の文章に︑気分に︑近寄せようとしたことが︑今で
はまるで無駄な努力になってしまっているというのであ
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る﹂と断定している︒ここに一面の真理は存在している
ことが︑自己の才能を発揮する縁となり︑ロシヤのプー
初 の 大 詩 人 チ ョ ー サ ー は 伊 太 利 文 芸復 興 の 感 化 を 受 け た
て啓発されて︑新しい自国の文学が起ったので︑英国最
代の文学に刺戟され︑あるいは他の先進国の傑作によっ
っていい︒欧州諸国の文芸史を見ると︑どの国でも︑古
興 詩 人 ﹂ は ︑ た ゞ の 翻訳 で はな く っ て ︑ 創 作 で あ る と 云
出 す る の に 私 は こ の 頃 驚 い て い る ︒ そ れ は 兎 に 角 ︑﹁ 即
ようとは︑私には思われない︒一夜漬な蕪雑な翻訳の頻
が︑近時の翻訳の仕方が︑二葉亭などのよりも進んでい
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シュキンやレルモントフはバイロンに傾倒して︑ロシヤ
近代文学の始祖と仰がれるに足る大傑作を産出したので
あったが︑明治の日本はあれほど欧州を尊崇しながら︑
そ の 感 化 の 下 に ︑ 自 国 の 清 新 な 情 緒 や意 志 を 具 体 化 し た
傑れた芸術を産出し得なかった︒諸家の作品がそれぞれ
に時代を現わしているとは云え︑どれも薄弱である︒敏
感なる当時の青年を陶酔の境地に誘うだけの芸術的魅力
を有していたものとしても︑一の翻訳的創作﹁即興詩人﹂
に及ぶものはなかった︒この一巻は︑私に取っては︑明
治文学史上に最も燦爛たる光を放っているように思われ
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るのである︒明治文学史家は︑この一篇にもっと重きを
ンに心酔して︑それ等の作品をお手本にしたり︑日常の
たロシヤでは︑西欧を尊崇して︑ディッケンスやバイロ
に︑それが一層よく現わされている︒欧州の田舎であっ
代の悩みが出ているとは云え︑そう云えば﹁浮草﹂の方
多 く の 創 作 的 価 値 が あ る の だ ︒﹁ 浮 雲 ﹂ の 主 人 公 に ︑ 時
や ﹁ 其 面 影 ﹂ よ り も ︑﹁ あ ひ び き ﹂ や ﹁ 浮 草 ﹂ に ︑ 一 層
真相を逸する訳なのだ︒二葉亭の文学にしても︑
﹁浮雲﹂
ために︑浅薄皮相な作品を重要視するのは形に捉われて︑
置いていゝので︑翻訳たるがために軽視し︑創作たるが
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会話にも︑自国語よりも仏蘭西語を用いることを自慢に
したりする点︑明治以来の日本に似通っていたが︑しか
し ︑﹁ オ ネ ー ギ ン ﹂ に し て も ︑﹁ 現 代 の ヒ ー ロ ー ﹂ に し
ても︑ゴーゴリや︑ゴンチャロフの作品にしても︑西欧
の諸傑作に比して譲るところのない︑ロシヤ特有の芸術
としての誇りを見せている︒明治の日本では︑頻りに西
洋の文学芸術を噛りながら︑異国の傑作を圧するに足る
力強いものは産出し得なかった︒巨匠鷗外にしても︑自
身独り立ちの作品は︑その得意な翻訳的創作よりも遙か
に 劣 っ てい る ︒ 尾 崎 紅 葉 がモ リエ ー ル や ボッ カ チ オ の 作
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品から材を取って︑翻案したものも︑エキゾチックな香
ぬえ
を非常に助けている︒この即興詩人が︑最初この歌女を
が古芸術の淵藪たる伊太利であることも︑全篇の面白味
い て ︑ 情 景 併 せ 得 て 遺 憾な し と 云 っ て い い ︒ 一 篇 の 舞 台
が︑鷗外の筆は︑芸術味豊かにして︑且つ品位を保って
センの原作は左程に珍重されていないのかも知れない
やまれば通俗小説に堕する恐れのあるもので︑アンデル
ニオと︑薄倖な歌女アヌンチャタとの恋物語で︑一歩あ
興詩人﹂は︑貧家に生れて天分の豊かな即興詩人アント
気の失せた鵺のようなものになっていると私は思う︒﹁即
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じん し
一 瞥 し て ︑﹁ そ の 優 し く 愛 ら し く 些 の 塵 滓 を 留 め ざ る 美
しさは︑名匠ラファエロが空想中の女子の如し﹂と︑印
象 を 述 べ て い る の は ︑﹁ 歌 麿 描 く と こ ろ の 女 子 の 如 し ﹂
と云うよりも︑若き当時の我々の空想を刺激した︒当時
あこがれていたエキゾチックな香いが︑全篇に満ち溢れ
ていること︑明治文学史上類を絶している︒そして我々
日本人に取っては︑伊太利旅行案内として︑ゲーテの伊
太利紀行よりも︑スタンダルやサイモンズの記述感想録
よ り も ︑﹁ 即 興 詩 人 ﹂ の 方 が 遥 か に 適 当 し て い る の だ ︒
私 と 同 じ 時 代 に ︑﹁ 即 興 詩 人 ﹂ に 心 酔 し た 人 々 で ︑ 南 欧
29
漫遊を企つるならば︑この一巻を手鞄の中に収むること
五 月 の 光 に 照 ら さ れ た ︑ 碧 く 和 んだ 地 中 海 を ︑ 広 々 と 見
なご
リに着くと︑海際のホテルに居を定めたが︑窓を開いて︑
ニオの幼なかりし頃の生活の一場景が追想された︒ナポ
広野のところどころを鮮明に紅く色取っていて︑アント
る郊外は︑茫漠として人家稀れに︑たゞヒナゲシのみが
た ︒ ロ ー マ の 市 街 を 離れ る と︑ 古 代 水 道 の 残骸 の 見 ら れ
あろう︒私は︑五月の半ばごろローマからナポリに向っ
自己の青春の夢を随所に辿ることも出来て︑感慨無量で
を忘るゝ勿れ︒旅の興味がどのくらい加わるか知れない︒
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渡 し た 時 に は ︑﹁ こ ん な 美 し い 海 が ほ か に あ ろ う か ﹂ と
驚嘆した︒カプリとソレントの島が雲煙模糊の間に見ら
れ︑屈曲した地域の一端には︑淡い煙を棚曳かせている
ベ ス ビ イ の 山 が 見 ら れ た ︒﹁ ナ ポ リ の 港 に 舟 が か り し て
感慨の事ども多かりき﹂と抱月氏は詠歎して︑ダンテの
幻影を呼起して︑青き道と赤き道との二つに世界思想史
を大別して︑哲理と芸術︵ この時は︑ダンテも抱月氏も︑
赤 を 以 っ て 左 翼 を 示 そ う と は 夢 に も 思 わ な い で ︑ 純 文芸 を 指
示 し て い た︶ と を 説 明 さ せ た が ︑ 私 は ﹁ 即 興 詩 人 ﹂ の 終
篇を追 想し︑永遠の別れを告げたアヌンチャタの遺書を
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読 ん だ ア ン ト ニ オ の 幻 影 を 呼 起 し て ︑﹁ 感 慨 の 事 ど も 多
﹁天にいます神父の功徳を称える﹂基督教も︑明治の初
地 中 海 の 五 月 の 海 の 如 く 和 や か に 結ば れ て い る ︒
なし﹂と︑青春の悲喜哀歓を豊かに蔵している物語は︑
の奇觀に逢ひて︑天にいます神父の功德を稱へざるもの
その奉ずる所の敎への新舊は問はず︑一人として此自然
よ っ て 結 末 を 告 げ て い て ︑﹁ 几 そ こ ゝ へ 集 へ る 人 々 は ︑
勝 が あ る ︒﹁ 即 興 詩 人 ﹂ の 夢 物 語 は ︑ そ の 洞 窟 の 遊 覧 に
カプリ島には︑鷗外によって琅玕洞と翻訳されている奇
ろうかんどう
かった﹂のであった︒湾内遥かなるところに浮んでいる
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年 に は ︑ 清 新 な エ キ ゾ チ ッ ク な 風 趣 を 帯 び て い て︑ 新 代
の敏感な青年の心魂を動かしたが︑文学の上に強い力と
なって現われるに至らなかった︒聖書の日本訳でさえ出
来栄えがいゝとは云われなかった︒民友社に基督教文学
の片影があったが︑そのうちで徳富芦花氏の作品に︑舶
来の宗教が一要素として存在して︑明治文学史上の異色
と な っ て い る ︒﹁ 巡 礼 紀 行 ﹂ と 云 い ︑﹁ 富 士 ﹂ と 云 い ︑
そこに︑神を求める心霊の悩みが現われている︒内村鑑
三氏の警世の文章には︑伊太利の狂信者サボナローラの
神影があったが︑それがいかにも弱少であった︒日本の
33
ニーチェ主義者に﹁牙がなく翼がなかった﹂のと︑趣き
愛 好 者 も 先 代 の 文 学 を 侮 蔑 し て い た ︒﹁ 小 説 神 髄 ﹂ に 於
蔑 す べ き も の と 見 倣 し て い る如 く ︑ 明 治 時代 の 若 き文 学
た新思潮にかぶれて︑明治大正のもろもろの文学をも侮
今日の若き文学者や文学愛好者が︑西洋から輸入され
二
てもよく証明されるのである︒
と︑稀薄になり︑手軽くなる実例は︑明治文学史によっ
を同うしている︒外国の思潮や文学が日本へ入って来る
34
て︑曲亭馬琴が排斥され︑明治後期に勃興した自然主義
の讃美者によって紅葉も露伴も︑まるで取るに足らぬも
の ゝ よ う に 扱 わ れ た こ と な ど ︑ そ の 実 例 で あ る ︒ 時代 時
代の流行の変遷は世上の常であるが︑新しい舶来者に対
して敏捷に魅惑され︑気ぜわしく動かされるのは︑明治
以来の日本の特有性である︒悠然と構えたどっしりした
文学芸術の起るに相応しくない国柄であり時代であると
云っていい︒しかし︑人間には古えを尚ぶ性癖がある︒
またいくら前代を卑んでも︑前代の子孫である人間は︑
過去から全く絶縁した新たなるものを樹立することは出
35
来ないのだ︒
明 治 時 代 に も ︑﹁ 文 学 の 極 致 ﹂ に つ い て ︑ さ ま ざ ま な
遥・鷗外両氏の論争は︑明治文学史上︑最初
読 返 し て ︑ 深 い 興 味 を 覚 え て い る ︒﹁ 没 理 想 ﹂ と い う 言
の真面目な文学論争であるが︑私はこの頃両家の所論を
しての︑
自 か ら 結 論 を 得 る こ と に 熱 心 で あ っ た ︒﹁ 没 理 想 ﹂ に 関
何ぞや﹂
﹁文学とは何ぞや﹂と︑自から疑いを起こして︑
の 刺 戟 に 心 を 動 か さ れ た 明 治 の 若 き 文 人 は ︑﹁ 人 生 と は
し て 生 を 貪 っ て い た 徳 川 の 世 の 人 々 と は ち が っ て ︑ 外来
真面目な研究が企てられている︒懐疑に乏しく︑呆然と
36
葉は︑今から四十年前に創刊された早稲田文学所載の﹁マ
ク ベ ス 評 註 ﹂ の 序 文 中 に ︑ は じ め て 用 い ら れ た ︒﹁ ⁝ ⁝
きよへ い
りたりと
人々試みに自然といふものを見よ︒心を虛平にして觀れ
ば ︑ 自 然 は 只 自 然 に し て ︑ 善惡 の い づ れ に も
は見えず︑固より意地わるき繼母の如きものとも見えね
深き慈母のやうに思ひて︑この世を樂園
ば︑慈母とも見えず︒然るに︑數奇失意の人は︑これに
反して造化を
とも思へり︒畢竟人々の思做し次第にて苦とも樂とも見
らるゝが自然の本相也︒この故に造化の作用を解釋する
に︑彼の宿命敎の旨をもてするも解し得べく︑又耶蘇敎
37
く
の見解も︑
の旨をもてするも解し得べし︒その他︑老︑荘︑楊︑墨︑
と
人が何と聞くらん︒沙
りて秋の哀れを知り︑前にその心樂しくして春の花鳥を
の本意は人未だこれを得知らず︑ 只おのれに愁ひの心あ
んが︑愁を知らぬ少女はいかに眺むらん︒要するに造化
羅雙樹の花の色︑厭世の目には諸行無常の形とも見ゆら
の響きなりといへど︑待宵には
りある也︒祇園精舎の鐘の聲︑浮屠氏は聞きて寂滅爲樂
ふ
造化といふものは︑これ等無數の解釋を悉く容れてあま
これを造化にあてはめて︑强ち當らざるにあらず︑否︑
儒︑佛︑若しくは古今東西の哲學者が思ひ
38
樂しと見るのみ︒造化の本體は無心なるべし︑沙翁の傑
作はその造化に似たり︒⁝⁝彼の作は︑衆嗜好を入るゝ
ば か り か ︑ 彼れ の 傑 作 は ︑ 殆 ど 萬 般 の 理 想を 容 れ て あ ま
、理
、想
、なるをたゝふべき也﹂と説かれて
りあり︒沙翁は没
いる︒論者は︑その頃︑ゾライズムに共鳴されたのでは
なかったろう︒博大なる常識から︑宇宙の没理想を感得
され たのであろう︒
新進気鋭の鷗外氏は︑その語を捉えて︑日本文壇最初
たるあり︒逍
の 舶 来 の 審 美 論 を 持 出 し て 戦 い を 挑 ん だ ︒ 曰 わ く ︑﹁ 世
く
界は賞なるのみならず︑また想のみち
39
遙は没理性界を見て理性界を見ず︒意識界を見て無意識
わづ
のいろいろは︑その根より受くる養ひ同じきに︑色
一なり︒沙羅雙樹の花の色を見るものは諸行無常とも感
ひ︑寂滅爲樂とも思ふべけれど︑其の聲の美に感ずるは
破鐘ならぬ祇園精舎の鐘を聞くものは待人戀しとも思
て渾身の紋理をなすは︑先天の理想にあらざるか︒⁝⁝
もん り
彩の變化は一本ごとに異なり︑その相違なる色彩の合し
の
りても事足るべけれど︑それにて造化は盡されず︒孔雀
思はず︒⁝⁝後天にのみ注げる目は︑ダルヰンの論を守
界を見ず︒意識生じて主觀と客觀と纔かに分るる所以を
40
ひたすら
じ︑只管めでたしとも眺むれど︑その色美なりとは︑目
ありて能く見るために感じるにあらず︒先天の理想がこ
の時︑暗中より躍出て︑この聲美也この色美なりと叫 ぶ
也︒これ感納性上の理想にあらずや︒⁝⁝沙翁の作の造
其個性を具へたれば也︒その自然に似たる
化に似たるは︑曲中の人物︑一々無意識界より生れいで
く
て︑おの
○
○
○
○
○
○
は作者の才︑樣によって胡蘆を描く世の類想家に立越え
○
た れ ば 也 ︒ 没 類 想︑ 没 主 觀 也 ﹂
論争は長く続いて︑しまいには枝葉の言葉争いのよう
になったが︑私は︑明治文壇の二大先輩の所論︑風格を
41
偲んで面白いと思っている︒鷗外氏は︑十九世紀の末期
の 作 品 に は ︑ 封 建 時 代 の 道 徳 意 識 ︑ 武 士 的 気 骨︑ 趣 味 性
を思うと︑それは不思議でないかも知れない︒氏の後年
議に思っていたが︑しかし︑氏が明治以前に生れたこと
作品にはデカダンの影も見せなかった︒私はそれを不思
進んでそれ等の作品の幾つかを翻訳しながら︑氏自身 の
世観を受入れなかった︒当時のデカダンの文学を愛好し︑
かった︒ハルトマンの哲学に敬意を捧げながら︑その厭
に学ばれたのだが︑氏は欧州の世紀末の思潮に感染しな
に独逸に留学し︑専門の医学研究の傍︑文学哲学を熱心
42
が現われている︒内村鑑三氏の基督教に旧幕の武士気質
の潜んでいるのと同様である︒お里は争われないもので
ある︒ 遥氏の劇作に歌舞伎味の濃厚に漂っているのも︑
如 何 と も し 難 い 訳 で あ る ︒ そ れ は ︑ 兎 に 角 ︑﹁ 自 然 は 善
でもない︑悪でもない﹂と人生を観じて︑作者は︑さま
ざまな理想に捉われず︑その束縛を受けないで︑超然と
していることをもって文学の極致であるように信じてい
たのは︑後年の自然主義者の﹁有るがまゝに描け﹂と云
う理論と似通っていて面白い︒この﹁没理想論﹂は今日
の文壇に当嵌め て読 んでも面白い︒
43
元来︑青年は主観的であって︑それぞれの理想に熱中
遥氏は︑年若くして︑早
ふたつには包みかねしわがこゝろ︑うたてや年をへし長
方 で は ︑﹁ 世 を う き も の と は 誰 が 言 ひ そ め し ︒ 想 へ ば 袖
時代精神論︑文明批評家論その他であった︒彼れは︑一
論﹂以来︑明治文壇に強い印象を残した評論は︑樗牛の
と 論 じ ︑﹁ 文 明 の 批 評 家 た れ ﹂ と 説 い て い る ︒﹁ 没 理 想
ハイネを好むと云い︑日本の作家も﹁時代精神を描け﹂
しく主観文学を讃美し︑シェークスピアよりもバイロン︑
く も 没 理 想 を 唱 え た ︒ こ れ に 反 し て ︑ 高山 樗 牛 は 青 年 ら
するのを常例とするのだが︑
44
き ね ざ め の 友 と な り ぬ ⁝ ⁝ わ れ や ま さな き 人 に 物 の 哀 れ
を知りそめき︒思へば葉末の露のいとはかなき終りなり
し︒月影のまどかなる望も︑かつては其中に寫りしが︑
あした
風そよぐ 旦 の野邊に跡もなく︑もゝの夜のひじのはし
がきに︑君やいのちとかこちしも︑思へばあだなる夢な
り き ﹂ な ど と 当 時 の 青 年 文 士 通 有 の ︑ 感傷 的 な 涙 も ろ い
美文を綴りながら︑一方では︑種々雑多の批評家の矢面
に立って︑傲然たる負けじ魂の論鋒を揮い︑硯友社その
他の幼稚な作品を︑痛烈無遠慮に非難して︑群小作家の
怨みを買った︒しかし今日それ等の論文を見ると︑論調
45
が野卑でないとともに大ざっぱであった︒﹁吾人は茲に
なく︑徳操なく︑飄々
な る 理 想の 重 荷 を 担 っ て 苦 し ん でい たの で あ ろうか ︒樗
明批評と文学者﹂論中に云っているが︑樗牛自身は如何
、想
、の
、重
、荷
、を
、擔
、へ
、る
、胸
、の
、如
、何
、ば
、
に文學者となれるのみ︒理
、り
、等
、苦
、し
、き
、か
、は
、︑彼
、の
、未
、だ
、曾
、て
、知
、ら
、ざ
、る
、所
、也
、﹂と︑
か
﹁文
し︑彼等は唯々官吏たらず︑商人たらざる代りに︑假り
るの外︑彼等に於て毫も著作せざるべからざるの必要無
行を遺憾とせざるを得ず︒依て以て虛名を得︑錢利を貪
片 々 と し て 時好 に 投 ぜ ざ ら んこ と を 是 れ 怖 る ゝ の 薄 志
みて︑我邦文學者の多くが︑氣
46
牛の悩み︑透谷の悩み︑独歩の悩み︑あの時代の彼等に
は共通した悩みのようであった︒あの時代ばかりでなく︑
青年期には誰れでもが感じる悩みではなかったか︒前に
引 用 し た ﹁ わ が そ で の 記 ﹂ の 一 節 の 如 き は ︑ そ の悩 み を
現わした一例であるが︑あゝいう感傷的の美文は︑明治
二十年代から三十年代にかけて盛んに書かれていたの
だ ︒ 馬 場 孤 蝶 氏 や 平 田 禿 木 氏 の 如 き ︑﹁ 文 学 界 ﹂ の 同 人
は云うまでもなく︑田山花袋氏でも︑あるいは︑大町桂
月氏のような飄逸な文人でさえ︑あゝいう感傷的美文を
綴っていた︒一時こういう気運が栄えていながら︑日本
47
の﹁即興詩人﹂はついに現われなかった︒貧乏なる日本
强きに過ぎ︑迷はんが爲には︑吾知︑明なるに過ぐ︒
に其適歸する所を知らざる
で愛読者を絶たないようである︒
年にいつまでも共鳴されるらしく︑彼れの著作は今日ま
也﹂と感慨を洩らしているが︑この悩みは︑ある種の青
予は是の中間に佇徊して︑
が
青 年 ら し く 縦 横 に 振 舞 っ た ︒﹁ 畢 竟 悟 ら ん が 爲 に は ︑ 吾
方で﹁世は憂きもの﹂と涙を流し︑短い文壇の生涯を︑
しかし︑樗牛は︑一方で盛んに精神的気焰を吐き︑一
の文壇である︒
48
明 治 文 壇 史 上 ︑ 私 の 目 に 際 立 っ て 映 つ る 評 論 は ︑﹁ 没
理 想 論 ﹂ を 最 初 と し ︑﹁ 時 代 精 神 論 ﹂ な ど こ れ に 次 ぎ ︑
その次ぎは︑例の自然主義論である︒これは︑劃時代的
に賑やかなものであった︒この自然派の中心人物でよく
論じよく作した田山花袋氏は︑この流派の衰頽した頃の
感 想 録 ﹁ 近 代 の 小 説 ﹂ 中 に 云 っ て い る ︒﹁ 藝 術 と い ふ も
の も ︑ 矢 張 ︑ そ の 書 い た 時だ け が 新 し い の で はな い か ︒
作者の筆から離れて來た時だけが新しくって︑すぐ古く
なつて了ふものではないか︒何んなに好いものでも︑古
くなつて了ふのではないか﹂と疑問を起している︒その
49
疑 問 に 就 て ︑ 氏 は 考 え て ︑ し か し ︑﹁ 人 間 の 心 の 底 迄 入
で 經 つ て も ︑ 古 く な ら な い の で は な い か ︒ そ の ため ︑ 作
だ と か ︑ さ う い ふ も の を つ か ん で 書い た傑 作 は︑ い つ ま
かりでなしに︑生きた人間が覗かれて見えるやうなこと
心理的なことゝか︑その作品の中にその時代が見えるば
やうなものでないもの︑例へて見れば男女のことゝか︑
の時だけ流行つて︑時が經てば︑直ぐ變つて行つて了ふ
ゐ る やう な も の ︑ も つ と 詳 し く 言へ ば ︑ 不 易な も の ︑ そ
や う な も の ︑ い く ら 年 月 が經 つ て も︑ 人間 が 矢張 や つ て
つて行くやうなもの︑人間の魂をも搖がさずに置かない
50
者は第一義的でなくてはならないといふのではないか︒
その時代をすら超越するものでなくてはならないといふ
の で は な い か ︒ 社 會 に 捉 は れ て ゐ て は ︑ 社 會 の表 面 で 行
はれてゐることだけに興味を向けてゐては︑到底第一流
の作家になることは出來ないと云ふのではないか﹂と︑
自から断定している︒
高山林次郎氏が﹁吾人は須らく現代を超越せざるべか
らず﹂と云った有名な言葉と︑花袋氏の時代超越説とは︑
甚だ内容を異にしているらしく︑高山氏がたゞ空漠と俗
界脱却を志したのに過ぎないのに反して︑花袋氏は︑愛
51
欲その他個人の心理を︑人類永遠のものとし︑流行不流
理想を抱容し︑時代の精神を如実に写し︑人間の心理を索
さぐ
ほ ど に は 行 か な か っ た ︒ 論 ず る は 易く ︑ 行 う は 難 い ︒ 衆
者の頭脳の聡明さがそこに見られるのだが︑創作は理窟
皆相当に根拠をもった意義ある論評であって︑明治文学
﹁時代精神論﹂︑抱月・花袋・泡鳴などの﹁自然主義論﹂︒
遥対鷗外の﹁没理想﹂是 非論︑樗牛の﹁文明批評﹂
治文学も年とともに成長した訳だ︒
山 氏 よ り 数 十年 人 生 の 経 験を 多く 積 ん だ ため で あ る︒ 明
行にかゝわらないものとしている︒それは花袋氏が︑高
52
って︑有るがまゝに描出すことは︑文芸の極致であるで
あろうが︑それを実現し得た天才が︑明治の日本文壇に
求めらるべくもなかった︒
三
よくも悪くも︑明治二十年代の代表的作家と見倣すべ
きは︑紅葉山人である︒新文体の建設についての氏の苦
心に︑天成の芸術家たる素 質は充分に察せられる︒しか
し︑私は氏の小説の殆どすべてを読んで︑可成りの興味
を感じたに関わらず︑多少の軽侮と反感を覚えないこと
53
はなかった︒芸術的陶酔の境地に惹入れられたこともな
でも︑そこに漂っているエロチックな情趣に心をときめ
然 と 感 じ て い た ︒﹁ 八 犬 伝 ﹂ を 読 み ﹁ 美 少 年 録 ﹂ を 読 ん
と︑ 私など少年 時代に︑誰れに教えられるともなく︑漠
ではなく︑小説というものは色っぽいことを書いたもの
文 壇 に 於 け る エ ロ チ シ ズ ム の 流 行 は 今 日 に 限っ たこ と
い頃からつねに心を動かされるのである︒
骨録﹂と云い︑死に直面した人々の感想には︑私は︑若
骨録﹂であった︒正岡子規氏の病状日記と云い︑この﹁病
かった︒尤も感に打たれたものは︑氏の小説よりも﹁病
54
かしたのであった︒紅葉氏自身も﹁文明批評﹂や﹁時代
精神﹂のような野暮ったいことは︑小説の用のないもの
として︑ひたすら艶っぽく文字をあやつることを心掛け
ていたようである︒露伴氏の作品よりも一般に広く読ま
れた所以である︒しかし︑紅葉氏の描くところの色模様
は︑皮相な 形式に捉えられて︑生気のない型のようだ︒
きや ら
﹁ 伽 羅 枕 ﹂﹁ 三 人 妻 ﹂ な ど が ︑ 二 十 五 六 歳 の 青 年 の 筆 に
成ったことは︑その文才の豊かさに驚かされるが︑その
色っぽさがつくりつけたようで︑観察も単調である︒文
士としては︑紅葉は社交が広く世間をよく知っていたら
55
しく伝えられていたが︑今日︑氏の小説集を新たに読ん
﹁此方の思ふほどでもなく︑疾くよりお心解けての御常
を書いているが︑同じ章下に︑
近 松 は 洒 落 た り け り ﹂ と ︑﹁ 三 人 妻 ﹂ に 男 女 の 恋 の 極 致
、に
、戀
、ふ
、つ
、く
、り
、紫
、の
、入
、墨
、︑齒痕を
、の
、極
、印
、と
此後愼めと︑膝
は がた
大なお沙汰にあづからば︑有がたき仕合と云へば︑屹度
も お ほ せ の 通 り 仕 れ ば ︑ 向 後 ち と 拷問 を ゆ るめ ら れ ︑ 寛
﹁毎日の愚痴責は︑仕置が重すぎて︑いかい迷惑︒何事
じていたとは思われない︒
で見ると︑若い大家であっただけに︑そう世態人情に通
56
、め
、く
、
談か︒堅い堅い︑いつものやうに直と此へ來て︑一
、願
、膝
、ひ
、た
、き
、も
、の
、と
、︑片
、突
、出
、せ
、ば
、⁝⁝﹂と︑その色男は︑
り
仇 し 女 に 痴 話 を 仕 掛 け て い る ︒﹁ 金 色 夜 叉 ﹂ の 満 枝 は ︑
貫一を口説いても相手の冷然としているのに心を焦立て
ひらり
た が ︑ 最 後 に ︑﹁ 飜 然 と 貫 一 の 身 近 に 寄 添 ひ て ︑ お 忘 れ
、の
、太
、股
、を
、し
、た
、ゝ
、
あそばすなと︑言ふさへに力籠りて︑其
、つ
、め
、れ
、ば
、⁝⁝﹂
か
紅葉のエロチシズムは︑こういう風に古めかしい︒抓
氏は後年の﹁金色夜叉﹂の主題として︑金と女の力を
ること嚙みつくことである︒
57
選 ん だ 頃 を 待 つ ま で も な く ︑﹁ 三 人 妻 ﹂ に 於 て ︑ 早 く も
体 を 紙 上 に 活 躍 さ せ 得 な か っ た ︒ 金 を 描 い て も ︑﹁ 大 様
だ が︑女を描い ても︑衣装持物の描写に力を入れ て︑ 肉
的美文を弄んでいた他の青年作家よりも大人びていた訳
たり﹂と云っている︒その着眼はいゝので︑その頃感傷
入りて︑死活自在の力はこの光るものと白いものに止め
四海にこの二重の網を切るほどの魚なく︑面白く我手に
抑へ︑それで行かぬ向は︑女色でにぶらせけるに︑凡そ
をんな
た ︒﹁ 金 と 女 を 道 具 に 用 ひ は じ め ︑ 不 自 由 せ る 奴 は 金 で
人 生 に 於 け る こ の 二 つ の 魅 力 の 如 何に 強 い か を 認め て い
58
に
で掻撫づる指の金剛石︑座敷の前後十二疊を照らす
贅沢さは︑高の知れたもので︑それによっても︑明治の
へも寄りつけない︒紅葉の小説に現わされている富豪の
やふやである︒とても﹁モンテクリスト﹂なんかの足許
のだ︒復讐に全心を燃やした貫一でも︑黄金欲が甚だあ
に 対 す る 人 間 の 執 念 の 強 さ は ︑ 決 し て 現 わ され て い な い
いろな小説に示してあっても︑西鶴にあるように︑金銭
たぐいで︑ダイヤモンドその他の豪奢栄華の記述はいろ
を⁝⁝後學のためと隙見する人數隣座敷に山を成し﹂の
頤
日本の貧乏であったことは察せられるが︑資本家に対す
59
る憎悪の念も甚だ弱い︒人間の所有欲の強さを知るほど︑
なかった︒
葉亭などの翻訳小説の女性ほどの魅力を私達の心に投げ
幻影を胸に銘してあこがれることもなかった︒鷗外や二
一 葉 女 史 の 作 品 を 読 ん で も︑ そ こ に 描 か れ て い る 女 性の
愛着を覚えなかった︒氏以外の硯友社の作品︑あるいは︑
そ し て ︑ 私 な ど は ︑ 氏 の 小 説 中 の 女 性に は ︑ さ し た る
が淡泊である︒
なければならないのだが︑紅葉氏描くところは︑それ等
所有者に対する無産者の羨望憎悪の思いの強さをも知ら
60
明治文学は古典である︒紅葉氏の小説は代表的古典で
ある︒しかも︑早くも色の褪せた古典になりかゝってい
る ︒ 誇 る に 足 る 我 等 の 古 典 と は 云 え な い の で あ る ︒﹁ 囚
は れ た る 文 芸 ﹂ の な か に ︑﹁ 十 七 八 世 紀 は 佛 蘭 西 及 英 國
として⁝⁝いづれも身だしなみ上品に︑整然ま
の天下なり︒彼の一列は佛のコーネイユ以下ヴォルテヤ
等を前
、力
、光
、彩
、に
、乏
、し
、と
、見
、ゆ
、る
、は
、⁝⁝﹂
た繍洒としてゐながら︑氣
と説いてあるが︑ 私にはそうは思われない︒他について
は多く知らないが︑コルネイユ︑ラシーヌの古典戯曲は︑
気力光彩に乏しいどころか︑こんな光彩陸離目を眩する
61
ほどの文学が︑他にあろうかと︑私には思われる︒人間
むべきかな︒
を読みながら感じた︒傑れたる古典を有している国は羨
遷によって真価を失うものでないと︑私はこれ等の古典
か と 惜 ん で い る ︒ 傑 れ た る 古 典 は ︑ 歳 月 の 腐 蝕 時代 の 変
イ 王 朝 時 代 の 雄 大 な る 古 典文 芸に 思 い を 潜 め な か っ た の
に遊び︑ルイ王家の夢の跡に詠歎した抱月氏は︑何故ル
性について戦慄を覚えるのである︒ヴェルサイユの宮殿
うに驚嘆している︒復讐の念憎悪の念の凄さ︒私は人間
の名誉欲愛欲の強さ深さは︑かくの如きかと︑今更のよ
62
紅葉作中の女性では﹁心の闇﹂のおくめなどが逸品で︑
可憐な日本娘がよく描かれていて︑一葉作中の女性と似
通っている︒一葉は︑私がはじめて上京した明治二十九
年頃︑人気の頂点に達していて︑その年の夏︑興津で開
かれた基督教夏季講習会に於て︑内村鑑三氏のような日
本の小説なんかには無関心な宗教家の口からでさえ︑彼
女に対する皮肉な批評が洩らされたほどであった︒多く
の男性作家を顔色なからしめたこの女秀才は︑早くもそ
の年の晩秋にはこの世を去った︒享年二十五歳︒才女の
夭折は︑若い愛読者の心を傷ましめるのであったが︑し
63
かし︑彼女の生存中の人気も︑女であるがために︑他の
もて はや
たとへば︑鏡花とか︑天外とか︑宙外とか︑風葉
迫に對する一種の防禦運動のために︑かれ等に大して邪
されてあつたためではなかつただらうか︒新進作家の壓
とかいふものに對して︑一種の面當といふやうな氣が醸
家
︱
といふこともあつたであらうけれど︑一方︑他の新進作
褒めたのは︑それは一面本當に作そのものが傑れてゐた
大 家 達 ︵ 鷗 外 ・ 露 件 ・ 綠 雨 な ど︶ が あ ゝ し て 條 件 な し に
だ ︒ 花 袋 氏 が ﹁ 近 代 の 小 説 ﹂ の う ち に ︑﹁ め ざ ま し 草 の
男性の新進作家よりも過分に持囃されたにちがいないの
64
魔にならない一葉をあゝいふ風に持上げたのではなかつ
た ら う か ﹂ と 疑 っ て い る の に 私 は 幾 分 の 真 実 性 を 認め る
のである︒彼女は文学者たる天分は豊かに有っていたら
し か っ た が ︑ あ ま り に 若 か っ た ︒﹁ た け く ら べ ﹂﹁ に ご
り江﹂など二三を除くと︑他は少女小説と云った感じが
す る ︒ 描 か れ た 男 女 は ︑ 大 抵 単 純 で類 型 で ︑ 小 説 と い う
よりも彼女の叙情文と云った趣きがある︒それ故︑小説
よりも︑彼女の日常生活をそのまゝに書いた日記の方が︑
今日の私には遥かに面白い︒頻りに彼女を訪問していた
当時の青年文士の描写は︑彼女の小説中の人物よりも生
65
ひん る
しの日記の方が面白いに極っているのだ︒
ている︒全体︑下手に骨を折った小説よりも︑書きっ放
の日記 中類例のないものであって︑ 私は特に興味を寄せ
この二つの日記は︑量に於ても質に於ても︑明治文学者
彼れの創作全集と同じ量に達しているのと同様である︒
て い る の は ︑ 国 木 田 独 歩 の ︑﹁ 欺 か ざ る の 記 ﹂ が ︑ 殆 ど
れたその日記が︑創作全部に匹敵するほどの分量を有っ
帯 び て 現 わ れ て い る ︒ 筆 馴 ら し の ため か ︑ 丹 念 に 書 記 さ
き彼女の心境は︑その小説では見られないほどの生彩を
気を帯びている︒貧婁に悩みながら芸術に志を立てた若
66
﹁一葉の日記には︑日常生活の描写に富んでいて︑芸術
味 が あ り ︑ 独 歩 の に は ︑ 抽 象的な 人生 感 想 録 が 繰 返 さ れ
ていて︑描写が乏しい︒続けて読んでいると退屈する︒
しかし︑男は男であり︑女は女である︒一葉は︑他人に
見 ら れ る こ と は 全 然 予 期 し な か っ た日 記 に 於 て さ え︑ 自
己の心情を露骨にぶちまけなかったと︑私には思われる︒
自分が書いて自分だけが読むにしても︑慎ましやかに美
しく自己の姿を映したかったのだ︒そこへ行くと︑独歩
の 方 が 率 直 で あ っ た ︒﹁ 欺 か ざ る の 記 ﹂ を 読 む と ︑ 私 自
身若かりし頃︑日常瞑想したり反省したり︑時には日記
67
にも書き記したりした感想にたびたび出くわすのであ
緑雨でも一葉でも独歩でも︑明治の文学者は大抵貧乏
あろう︒
と︑ 彼等には末長く青年に共鳴されるところがあるので
に 愛 好 され て ︑ 可 成 り の 売 行 を 保 っ て来 たこ と を 考 え る
牛や独歩の著書が︑死後数十年の今日まで︑一部の青年
は︑さして心を労しないのかも知れないが︑しかし︑樗
青年の多くは︑この日記に出ているような個性の鍛錬に
この﹁欺かざるの記﹂が最も適切な文献である︒今日の
る ︒ 二 十 年 代 の 真 面 目 で 敏 感な 青 年 の 本 体 を 知 るに は ︑
68
であった︒彼れ等の多くが︑肺病などに罹って若死にを
し た の は ︑ 貧 乏 が 重 な 原 因 を な し た と 云 っ て い ゝ ︒社 会
の冷遇が歎ぜられる訳であるが︑本来あの時代に原稿料
で生活しようと企てるのが間違いであった︒徳川時代の
末期には︑いろいろな戯作文学が流行していたが︑原稿
料だけで生活していた作者は︑馬琴くらいなものだった︒
明治になってから︑西洋の感化で文学芸術の士が尊重さ
れるようになったとは云え︑まだ草創の際で︑新文学の
読者が急にそう殖える訳はなかった︒だから︑小説や詩
で︑贅沢な生活の料を得ようと思って︑その道に志した
69
人はなかった筈で︑貧乏は覚悟の前であったのだ︒あの
重する國にあつても︑最初より文學を
以て一家妻子を養ふべき職業となし創作の筆を執つた例
如く︑文學者を
は其の理由を解するに苦しむものである︒欧羅巴諸國の
﹁文學者詩人にして︑猥りに生活難を説くもの︑亦自分
利に心忙しくなるのは自然の勢いである︒
になるのは人情の常で︑従って昔とは気風が変って︑営
悟の文士だって︑一度贅沢の味を占めると︑貧乏がいや
ずかるなんか︑夢のような話である︒しかし︑清貧を覚
頃の作家で大正昭和と生き長らえて︑円本の御利益にあ
70
びう けん
を聞かぬ︒文學が國家及社會に有害なりとの謬見に囚は
れたる日本に生れ︑日本の文學者としてこれを職業にし
ようと云ふ︒自分は先づあまりに其の暴なるに驚かざる
を得ぬ︒一身の不幸一家の悲惨を見るに至るは︑最初よ
り知れきつた事である﹂とは︑明治の末期に︑永井荷風
氏が随筆﹁紅茶のあと﹂のなかに云っている感想である
が︑止むなく文学を職業としたために︑一身の不幸遺族
の悲惨を来たした実例は︑明治文学史の裏面に甚だ多い
のだ︒その点では世界の文学史に類がないだろうと思わ
れ る ︒ 以 前 ﹁ 文 芸 春 秋 ﹂ に ︑ 原 田東 風 氏 が ﹁ 梁山 泊 時代
71
の独歩﹂と題して︑独歩の鎌倉生活を仔細に語っている
明治文壇では類を絶している︒深みや強みはあまり見ら
私も独歩の作品を好んだ︒短篇小説家として︑独歩は
される所以である︒
で︑貧にひしがれたところがない︒後年長く青年に愛読
な い ︒ 多 少 の 厭 世 調 を 帯 び て い る が ︑ き び き び し た文 章
作者の個性が発揮されて︑時流に媚びたところは少しも
の傑れた短篇を幾つも産出したのだ︒それ等の創作には︑
見られる︒そして︑独歩は︑この貧生活の間に︑彼一代
が︑これによっても︑あの頃の文士の生活振りが如実に
72
れ な い が ︑ 気 が 利 い て い て︑ ス ッ キ リ し て い て ︑ い つ読
ん で も 気 持 が い ゝ ︒﹁ 世 相 を 有 り の ま ゝ に 描 く ﹂ と か ︑
﹁性欲を露骨に描く﹂とか云われた日本自然主義作家の
範 囲に︑ 独歩はい や応な しに引入れられ たけれど︑ 独歩
はそういう意味の自然主義作家ではなかった︒この主義
の全盛期で︑その流派の幹部の一人として舁ぎ上げられ
たのだから︑彼自身︑強いて反対はしなかったであろう
が︑ 自 分 で 狐 に つ ま ゝ れ た よ う な 感 じ が し てい たに ち が
い な い ︒﹁ 余 の 従 来 の 作 物 は ︑ 自 然 主 義 な る 者 の 如 何 も
知らずして︑ 只だ余の見る所︑信ずる所に依りて制作せ
73
る 者 で あ る ﹂ と ︑ あ る 所 で 所 信 を 漏 ら し ︑﹁ ウ ォ ー ズ オ
独歩のものは思想が健全なのだ︒多数者には︑紅葉が迎
て︑あまり常識道徳に反しないものなのではあるまいか︒
く喜ばれるものは︑あまり露骨でない詩趣のある︑そし
グロとかゞ一時流行することがあっても︑一般読者に永
ともに︑末長く青年に好まれているのである︒エロとか
義 で あ っ た の だ ︒ そ れ だ か ら こ そ ︑ 樗 牛 や 芦 花 の文 章 と
異って︑ワァーズワス風の詩趣あり宗教味もある自然主
ど の ﹁ 現 実 暴 露 ﹂ 式 ﹁ 露 骨な る 描 写 ﹂ 式 の 自 然 主 義 と は
ースから感化を受けた﹂と明言している︒花袋・泡鳴な
74
えられても︑柳浪が喜ばれず︑独歩が好まれても︑泡鳴
がいやがられる訳は︑そこにあると思う︒一般の小説読
みは自己の弱点を抉りだされたり︑人間の真相を剝きだ
しにされたりすることは好まないのだ︒
四
私は︑去年の秋紅葉の頃︑軽井沢に遊んで︑雨に降ら
れて︑二日ばかり︑薄ら寒いホテルに蟄居させられた間
に︑ホテルの書棚に収められている芦花全集を取出して︑
そ の う ち の 未 読 の 分 に 目 を 通 し た ︒﹁ 日 本 か ら 日 本 へ ﹂
75
と 題 す る 世 界 漫 遊 記 ︒﹁ み ゝ ず の た は ご と ﹂ と 題 す る 田
づから写した﹂と明言している︒兎に角︑田舎を好んで︑
で ︑﹁ 世 に も こ ん な 美 し い 世 界 が あ る か と 嘆 息 し ⁝ ⁝ 手
思われる︒彼自身﹁あひびき﹂や﹁めぐりあひ﹂を読ん
が︑芦花は独歩以上にその感化を受けたのじゃないかと
たので︑独歩の﹁武蔵野﹂はその一例として有名である
刺戟して︑新なる目で周囲の風物を観察させるようにな
界の描写は︑二葉亭などの翻訳によって︑新代の青年を
﹁ あ ひ び き ﹂ そ の 他 に 現 わ れ て い るツ ルゲ ー ネ フ の 自 然
園生活記録など︒
76
自然の四季おりおりの風光を愛して︑清新な描写を試み
たものは︑芦花が明治文壇では第一であった︒古来︑日
本人は西洋人よりも自然美を愛する傾向があって︑絵画
にでも文学にでも︑自然美はよく描かれていたが︑それ
も 次 第 に 型 の 如 く に な っ て い た ︒ 源氏 ︑ 枕 の 草 子︑ 徒 然
草の範囲からあまり発達しなかったと云っていゝ︒明治
になっても︑紀行文家の自然描写は︑多く文章に捉われ
て︑新 しい ところがな かっ た︒花袋の紀行文に も︑ 私は
あまり感心しない︒やはり︑誰れよりも芦花を推称しな
ければならぬと思う︒
77
芦花は田舎が好きであった上に︑トルストイなんかの
によって︑宙外氏の旧作の田舎小説を二三種︑久振りに
が︑今よりは余裕があったのだ︒私は最近︑円本の全集
書いていたと記憶しているが︑実際あの頃は︑田舎暮し
に思われる︒後藤氏は︑田園生活を楽しいものゝように
あった︒生活難や家庭難がこの所説に反映しているよう
士無妻論﹂とは︑ 私が学校卒業当時に心に留った論議で
したことがあった︒この﹁田園生活論﹂と抱月氏の﹁文
たりしたが︑その前に︑後藤宙外氏も田園生活論を主張
主義にかぶれて︑田舎に移住して︑百姓の真似事をやっ
78
読返しながら考えたのだが︑あの頃は小説は都会中心で
あって︑田舎の百姓なんかのことを田舎言葉で書いたり
しては︑読者にも喜ばれなかったのだ︒宙外氏は可成り
よく書いているのだが︑その点で余程損をしていた︒長
塚 節 氏 の ﹁ 土 ﹂ の 如 き は ︑ 明 治 文 壇 の 傑 作 で あ るに 関 わ
らず︑愛読者は極めて少いようである︒
芦 花 氏 は 例 外 で あ る ︒ そ れ は ︑﹁ 不 如 帰 ﹂ に よ っ て ︑
早くから崇拝者を得ていたためでもあろうし︑純粋の田
舎小説はあまり書かなかったためでもあろう︒氏は硯友
社風の文体に感染せず︑独歩のようにキビキビした筆は
79
持っていないし︑田舎者らしく野暮ったいのであったが︑
家とは素質を異にしている証拠になるのだが︑晩年の長
ての誠実を示したことになるので︑芦花が今日の大衆作
の生涯の真相に目を注ぐようになったのは︑芸術家とし
説を書いた作者が︑そういう作風に飽足りないで︑自分
婦﹂や﹁思出の記﹂やあるいは﹁黒潮﹂のような通俗小
己 の 周 囲 の 現 実 暴 露 を 企 て た 小 説 は 嫌 い で あ る ︒﹁ 不如
しかし︑私は︑氏の田園記録は愛読したが︑晩年の自
も︑一般の読者に迎えられる理由になったのであろう︒
そこに清新味があった︒氏の抱持した基督教的人道主義
80
篇﹁富士﹂のような暴露小説は︑芸術以下で︑むしろ醜
態 を 呈 し て い る 感 じ が す る ︒夫 人 と の 合 作 で あ る ため か
も知れないが︑文章も昔の詩趣を欠いてカサカサしてい
る︒真剣に人間の真相を暴露した緊張味は見られなくっ
て︑見さかいもなく内輪のことを喋舌り立てゝいるとし
か思われない︒岩野泡鳴などの暴露小説とは異っている︒
全体︑自己の家庭や︑兄弟縁者の真相を忠実に描写しよ
うとするのに︑夫人と合作するのはいゝ方法とは思われ
ない︒たとい︑夫人が無私公平な観察眼を有っていたに
しても︑夫妻の共同では︑統一を欠くところが出来るに
81
ちがいない︒⁝⁝それに女の入智慧が︑男の目をくらま
廃したキリストの遺跡などを弔い︑霊魂の浄化を志して
ち ら こ ち ら に 当 て の な い 旅 を 続 け た ︒ 芦花 氏 夫 妻 は︑荒
人生の希望を失って残生を引摺るようにして︑世界のあ
を覚えた︒ゴンクールに描かれたモープラン老夫婦は︑
の漫遊記を速読しながら︑老夫婦の巡礼姿にある親しみ
私は軽井沢の淋しいホテルの客間で﹁日本から日本へ﹂
心掛けとは思われない︒
賢明な婦人も︑夫の製作の内容まで手をのばすのはいゝ
すのは︑世上の習いなのではあるまいか︒内助の力ある
82
いた︒それを思うにつけて︑私は自分達の茫漠たる無目
的の世界漫遊に思い及んだ︒
芦花氏が見たか見なかったか知らないが︑ロンドンの
ある美術館に︑ワッツの﹁希望﹂と題する美しい絵が掲
げられてあった︒残光の薄れかゝった地球の上に︑両眼
を 縛 ら れ た 女 が︑ 糸 の 切 れ か ゝ っ た竪 琴 を 持 っ て ︑ 手 頼
りなげに寄りかゝっている︒でも︑彼女は︑徴かに残っ
ている糸によって︑自分の力限りの音楽を奏せんと努力
している︒一見して我等の心に触れる名画であって︑
﹁人
生というものはこんなものだろう﹂と︑私は感じたが︑
83
﹁日本から日本へ﹂の漫遊記を読んで私はふとその絵を
れているが︑果してそうだろうか︒一部の識者は別とし
の進歩につれて︑過去の迷信から解放されていると云わ
その地を踏んで見ると痛切に感ぜられる︒今日は︑科学
文 学 も 理解 さ れ な い こ と は︑ かね て 知 っ てい たが︑ 実 際
勢力であった︒基督教を外にして︑欧州の過去の芸術も
欧州諸国を旅行して気づいたことの一つは︑基督教の
信頼などを︑老いてなお夢みながら︑世界を見ていた︒
し み を 覚 え た の で あ る ︒ 心 の 浄 化 ︑ 永 遠 の 希 望 ︑ 人類 の
思出した︒たゞの旅行記とはちがって︑著者の主観に親
84
て︑全体には︑心の底に宗教の影を宿しているらしく私
には思われる︒多数の通俗映画を見ても宗教臭が感ぜら
れるが︑芝居を見ても宗教の色が︑我々異国人には目立
つのだ︒しかし︑西洋模倣の明治の日本文壇には宗教も
素 通 り し て ︑ さ し た る 痕 跡 を 留 め な か っ た ︒﹁ 見 神 の 実
験﹂なんかを説いた綱島梁川氏の思想も︑文壇には受入
れられなかった︒微温的な人道主義が基督教に似通った
色を帯びて︑いろいろな作家の作品に現われているだけ
である︒⁝⁝私はかねてそう思っていた︒ところが︑こ
の頃考直して見ると︑透谷・独歩・芦花︑それから︑自
85
然主義時代の人々が︑懐疑︑懺悔︑告白などの言葉を口
う︒されば︑現下の私は︑一定の人生觀論を立てるに堪
、じ
、得
、る
、の
、幸
、福
、に入るであら
して呉れたら︑私は初めて信
ない︒何等かの威力が迫つて來て︑ 私のこの知識を征服
を失ふ︒呪ふべき我が知識であるとも思ふが︑しかたが
﹁あらゆる既存の人生觀は︑我が知識の前に其の信仰價
訳だと︑私には思われる︒
懺悔だのは︑宗教から解放されている人間には起らない
宗教の刺戟によるのではあるまいか︒精神上の懐疑だの
にし︑またそういうことに頻りに心を労したのは︑西洋
86
へない︒今はむしろ疑惑不定の有りのまゝを懺悔するに
を忘れて︑痛切
適してゐる︒そこまでが眞實であつて︑其の先は造り物
になる恐れがある︒⁝⁝虛僞を去り矯
に自家の現状を見よ︒見て而して之れを眞摯に告白せよ︒
、は
、人
、間
、は
、永
、久
、
⁝⁝此の意味で今は懺悔の時代である︒或
、わ
、た
、つ
、て
、懺
、悔
、の
、時
、代
、以
、上
、に
、超
、越
、す
、る
、の
、を
、得
、な
、い
、も
、の
、か
、
に
、知
、れ
、な
、い
、﹂
も
これは︑自然主義全盛時代に︑抱月氏の発表した感想
である︒ここに信仰を求むるの声と絶望の声とがある︒
氏 も ︑ 帰 朝 後 間 も な く 発 表 し た ︑﹁ 囚 は れ た る 文 芸 ﹂ や
87
小説﹁山恋ひ﹂に見せたような気取りから脱却して︑自
以 前 に は︑ 日 本 の 文 学 に ︑ そ う い っ た 人 生 の 感じ方 はな
まらないではないかと思われているかも知れない︒明治
の煩悶だのと︑人間がそんなことで頭を痛めたってはじ
は愚かしく思われているかも知れない︒懐疑だの懺悔だ
説︒そういう人生の感じ方は︑今日の文壇の新人諸子に
則人生﹂説︑花袋氏のよく筆にした﹁つらいつらい人生﹂
たが︑抱月氏は冷然として説いている︒泡鳴氏の﹁苦悶
也﹂と叫んだ樗牛は︑感傷的でありロマンチックであっ
己 の 心 を 深 く 省 み た の だ ︒﹁ 予 は 矛 盾 の 人 也 ︒ 煩 悶 の 人
88
かったので︑明治文学中に見られるような個性の煩悶苦
悶 は ︑ 舶 来 物 な の だ ︒ 西 洋 の 過 去 の文 学に は ︑ そ れ が 激
しく現われていて︑明治文学のは︑その影を稀薄にうつ
したに過ぎないくらいだ︒旧 時の日本が非常な 感化を受
け て い た 支 那 文 学 に つい て 云 っ て も︑ 私な ど は ︑ 支 那 の
詩を読むと︑李太白をはじめ︑有名な詩人の多くが︑枯
らい らく
淡な無欲な悟り澄ました口吻を洩らすか︑磊落な豪傑気
取りを見せつけるかした詩作を残しているのに︑嫌悪を
覚えることがあるが︑日本の漢詩人は︑最近までその支
、治
、文
、学
、中
、の
、
那 の 詩 人 の 真 似 を し て 来 た の で あ る ︒ ⁝ ⁝明
89
、疑
、洋
、焼
、苦
、悶
、の
、影
、も
、要
、す
、る
、に
、︑西
、文
、学
、の
、真
、似
、で
、︑付
、刃
、な
、
懐
、で
、は
、な
、い
、だ
、ろ
、う
、か
、︒明治の雰囲気に育った私は︑過去
の
れ る ︒ し か し ︑ そ う い う も の を 読 ま され るよ う な 時 代 に
伸ばすためには︑よろしくなかったのではないかと思わ
の ﹁ 父 と 子 ﹂ の 英 訳 を 耽 読 し た の は ︑ 自 分 の 心 を素 直 に
である︒今から思うと︑この翻訳小説や︑ツルゲーネフ
記﹂はレルモントフの﹁現代のヒーロー﹂の一部の翻訳
と は 趣 き を 異 に し て い る ﹁ 浴 泉 記 ﹂ に 心 酔 し た ︒﹁ 浴 泉
当 時 の創 作 よ り も ﹁ 即 興 詩 人﹂に 心酔 し た 私は︑ それ
を回顧して︑多少そういう疑いが起らないことはない︒
90
生れたのだから為方がない︒もっと早く生れたら︑陶淵
明や李太白や高青邱なんかにかぶれて︑模倣的七言絶句
く ら い 作 っ て い た か も し れ な い ︒﹁ 須 ら く 現 代 を 超 越 す
べ し ﹂ と 豪 語 し た っ て ︑ そ れ は 不可 能 の 事な の だ ︒ 文 芸
復興期の多くの天才も︑あの時代に生まれたればこそ︑
あの芸術が生み出せたのだ︒
五
幸 田 露 伴 氏 は 紅 葉山 人 と 同 様 に 文 学 修 業 の 初 歩 と し て
西 鶴 を 学 ん だ 人 で あ っ た が︑ 文 章 は 紅 葉 と ち がって 重く
91
るしかった︒紅葉ほど一般向きでなかったが︑高級な読
たのであろう︒葭の髄から天をのぞくように︑西洋文学
よし
て私などの心に触れさせなかった一つの原因になってい
専ら東洋の古 典に心を注いでいたことが︑その作品をし
のあった人だが︑鷗外氏のように近代欧州文芸に親まず︑
かった︒氏は鷗外氏とともに︑明治の作家中︑最も学殖
氏の青年期の評判の高かった小説にも︑さして親しめな
のような含蓄ある古典的作品を著すに至ったが︑私は︑
年 と と も に ︑ 氏 の 文 体 は 荘 重雄 渾 の 風 を 帯 び ︑﹁ 運 命 ﹂
者には紅葉以上に尊敬されていた︒支那文学に熟通して︑
92
の一端を知るよりも︑和漢の古典をみっしり討究した方
が︑本当の精神修養のためにはよさそうに︑理窟に於て
は思われるが︑しかし︑実際は︑
﹁きくの浜松﹂や︑
﹁さゝ
舟﹂によって伝えられる東洋風のロマンチシズムよりも︑
﹁即興詩人﹂などの舶来のロマンチシズムの方が︑私に
は一層懐かしかった︒紅葉は写実派︑露伴は理想派と︑
あの時代には大まかに極められていたが︑露伴氏の作中
の理想は︑取立てゝ云うべきほどのものとは思われない︒
しかし︑氏の晩年の﹁運命﹂などは︑厚味もあり深みも
あ る 傑 れ た 歴 史 小 説 で あ っ て ︑ 外 形 の 文 章 は 旧 時代 の 漢
93
文調であっても︑生彩ある人生世相の一面が悠然と叙述
持 っ て 来 ら れ る 訳 で あ る ︒﹁ 造 化 の 脚 色 は 綺 語 の 奇 よ り
事実の堆積である歴史からは︑幾らでも興味ある題材が
なかった︒事実は小説よりも奇なりと云われる︑過去の
塚 原 渋 柿 園 氏 の 歴 史 小 説 の如 き は ︑ 講 談 以 上 の 何 物 で も
じゆうしえん
﹁ひげ男﹂も外形が華やかなだけで浅いものであった︒
明治文壇には︑傑れた歴史小説はなかった︒露伴氏の
中の最高位を占めている︒
伝小説とは趣きは異っているが︑共に︑近代の歴史小説
されていて︑我々の胸に迫って来る︒鷗外氏の晩年の史
94
も奇にして︑狂言の妙より妙に︑才子の才も敵する能は
ざるの巧緻あり︑妄人の妄も及ぶ可からざるの警拔あら
んとは﹂と︑露伴氏も﹁運命﹂の序に云っている︒氏も
青 年 時代 に ︑ 脳 漿 を し ぼ っ て ︑ 所 謂 ﹁ 理 想 小 説 ﹂ な る も
のを作上げた愚かさを感じて︑歴史のうちに人生の真実
を探る気持になられたのかも知れない︒
夏目漱石氏も︑漢文詩趣味の可なり豊かな人であった︒
鷗外・ 露 伴・漱石︑ あ るいは樗 牛なども︑ 漢字 の知識に
富んでいたが︑画の多い漢字を自由に駆使すると︑文章
に重みがあるように思われ︑また漢文調は快い響きを伝
95
えた︒樗牛の用語の如きは︑多少出鱈目であったが︑あ
洋語に魅力を感ずるばかりで︑漢語には何の清新味も感
なければならぬと説く人もあるが︑若き人々は次第に西
はなくなっても︑精神修養のために少年の教育に取入れ
に 加 え てい る 如 く ︑ 日 本 で も ︑ 漢 学 は︑ た と い 実用 価 値
なるであろう︒西洋で希臘羅甸の古語を普通人の教課目
ギリ シ ヤ ラ テ ン
彼等の漢文的名文 句も︑死語として何の感じも与えなく
の 青 年 の 耳 目 に そ う 感 ぜ ら れ た の で ︑ 今 後の読 者 に は︑
日本外史や十八史略の素読から学問をはじめた我々明治
の漢文調が詩のような情緒を伝えた︒しかし︑これも︑
96
じなくなって行くらしい︒そうなると︑つい此間の明治
文 学 も ︑ 一 般読 者 に は 縁の 遠い 古 典に な る 訳 だ ︒
﹁西洋の詩になると︑人事が根本になるから︑所謂詩歌
だとか愛だとか︑正義だとか︑自由だとか︑ 浮
の純粹なるものも此境を解脫することを知らぬ︒どこま
でも同
世の勸工場にあるものだけで用を辨じてゐる︒⁝⁝うれ
しい事には︑東洋の詩歌はそこを解脫したのである︒⁝⁝
舟を浮べて此の桃源
今の詩を作る人も︑詩を讀む人も︑みんな︑西洋人にか
ぶれてゐるから︑わざわざ呑氣な
に遡るものはないやうだ﹂と︑漱石氏は﹁草枕﹂のなか
97
で云っている︒氏は英文学を専門の稼業として洋行まで
ざ
っている︒文学史上では一時代おくれている氏も︑露伴
てゐる﹂と︑暗に自然派の作家や論客に当てこすりを云
煩悶や︑眞面目や︑熱烈ほど氣障なものはないと自覺し
に 託 し て ︑﹁ 凡 そ 何 が 氣 障 だ つ て ︑ 思 は せ 振 り の ︑ 淚 や
き
似であった︒漱石の方でも︑小説﹁それから﹂の主人公
流作家だ﹂と罵倒され︑自然派の連中から軽視された所
文人趣味が横溢していた︒それが︑泡鳴から﹁漱石は二
人趣味を有っていた作家で︑初期の作品には︑その東洋
したのに関わらず︑たやすく西洋にかぶれず︑東洋の文
98
・紅葉と年齢を同うして.共に慶応何年かに生れたほど
あって︑支那趣味や俳諧趣味ばかりでなく︑武士道的道
徳意識からも脱け出ていなかった︒しかし︑氏は︑欧州
文学に造詣深き人であった︒スイフトの真価を見極めた
り︑スチーブンソンやメレジスを読破した人であった︒
頭 脳 は 鋭 敏 で あ り 聡 明 で あ っ た ︒ そ れ 故︑ 後 年 の 小 説 に
は ︑﹁ 悠 然 南 山 を 見 る ﹂ 底 の 生 悟 り や ︑ 封 建 道 徳 の 理 想
臭から離れた︑もっと深い人間性が描出されている︒
﹁行
人﹂や﹁心﹂や﹁道草﹂や﹁明暗﹂などには︑当年の自
然主義作家以上に︑所謂﹁つらいつらい人生﹂が写され
99
ているから︑皮肉だ︒彽回趣味と評された漱石のこれ等
同じ態度を持していたのとはちがっている︒紅葉も独歩
張 月 ﹂﹁ 美 少 年 録 ﹂ か ら ﹁ 侠 客 伝 ﹂﹁ 朝 夷 巡 島 記 ﹂ ま で
動揺の激しい時代の刺戟を受けて進んでいる︒馬琴が﹁弓
書いた漱石が晩年﹁心﹂を書いた︒明治時代の作家は︑
を 書 い た 露 伴 が 晩 年 ﹁ 運 命 ﹂ を 書 き ︑﹁ 坊 つ ち や ん ﹂ を
如 帰 ﹂ を 書 い た 芦 花 が 晩 年 ﹁ 富 士 ﹂ を 書 き ︑﹁ 風 流 仏 ﹂
暗い人間心理を一層的確に写していることか︒⁝⁝﹁不
独歩などの小説とを︑今日よく比べてみると︑どちらが
の 小 説 と ︑ せ っ ぱ 詰 っ た 人 生 を 描 い た と さ れ た 自 然派 の
100
でも︑もっと寿命を保っていたら︑作風がどう変化した
かも知れなかったと思われる︒
思えば︑新日本の文壇は︑種々雑多な思想によって刺
戟されたものである︒徳川時代には︑異端邪説と云った
ところで概して孔孟の教えの範囲をうろついていただけ
であった︒勧善懲悪は︑芝居の作者にでも草双紙の作者
にでも︑確乎不動の憲法とされていた︒明治になってか
ら は ︑ 基 督 教 の 博 愛 主 義 も 入 っ て 来 た ︒﹁ 消 極 的 な 利 他
的な道徳を家畜の群の道徳だ﹂として侮蔑したニーチェ
の超人哲学も入って来た︒スチルネルの自我主義も︑ゾ
101
ラ イ ズ ム も ︑ 社 会 主 義 も ︑﹁ 凡 て か ︑ 皆 無 か ﹂ 主 義 も ︑
今のところ︑私には殖民地文学に過ぎないように思われ
来た︒今日のマルクス主義︑共産主義の文学にしたって︑
は そ の 殖 民 地 文 学 を 喜 ん で ︑ 自 己 の 思 想︑ 感情 を 培 っ て
それとともに殖民地文学の感じがする︒そして︑私など
と︑明治文壇は色さまざまの百花繚乱の趣きがあるが︑
安 朝 文 学 や 元 禄 享 保 の文 学 ︑ 文 化文 政 期の 文 学 に 比べ る
日本は欧米思想の殖民地のようにも思われる︒過去の平
に問題を提供し︑作家の態度を動揺させたことを思うと︑
皆んな大なり小なり︑矢鱈に文壇に刺戟を与え︑評論家
102
る︒
其 後 の ﹁ プ ロ レ タ リ ア文 学﹂ とし て分類 され る新 しい
小説を読むと︑自由民権熱望時代︑所謂明治開化期の政
治小説が︑私には回顧される︒国家を憂い社 会を憂うる
意気をもって筆を執っているところが似通っている︒本
当の心はどうだかと疑われるが︑上べは︑どちらにもそ
ういうところが見られる︒小説好きの私も小説を読みだ
したのは﹁国民之友﹂や﹁都の花﹂の発刊されていた明
治二十年代からのことで︑それ以前に出版された小説は︑
﹁ 佳 人 之 奇 遇 ﹂﹁ 経 国 美 談 ﹂ 以 外 に は ︑ 殆 ん ど 読 ん で い
103
なかった︒この二つの小説が広く流布したのは︑外国の
で頭を束髪にして︑旧弊な両親縁者に反抗するモダーン
自由民権の闘士に同感し︑また英語の読本なんかを読ん
想を振りまわすこと︑官権の無理解な圧迫の盛んなこと︒
あった︒井生村楼の政談演説に有為の青年が西洋の新思
に 立 つ だ け の も の で ︑ 小 説 と し て は 馬 鹿 ら し さ の 限り で
た め に 読 ん だ の で あ っ た が ︑ 当 時 の 時 勢 を 知 る ため に 役
﹁ 雪 中 梅 ﹂﹁ 花 間 鶯 ﹂ な ど は ︑ ず っ と 後 に な っ て 参 考 の
精 神 が 青 年 の 胸 に 響 い た た め で も あ っ た ︒﹁ 世 路 日 紀 ﹂
歴史的事件の物珍らしかったためでもあったが︑憂国の
104
な女の現われていること︒国会開設を理想世界の出現の
ように空想すること︒そういう着想を粗雑な文章で叙述
しているのが︑末広鉄膓の﹁雪中梅﹂その他の政治小説
の特色なのだ︒当時の外来の思想は︑のっけから大した
ものが入っていたので︑ルソーの﹁民約論﹂は︑中江兆
民によって翻訳され︑ヴォルテール︑モンテスキューな
ど の 政 治 思 想 も 伝 え ら れ て い た ︒ そ し て 当 時 の ジャ ー ナ
リズムは︑自由民権に立脚した西洋の断片 小説のまずい
翻訳を頻りに取入れたりした︒しかし︑そういう気運に
乗じていても︑創作は極めて皮相で︑幼稚で︑蕪雑で芸
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術味も稀薄であった︒まだしも︑旧江戸文学の残党たる
蔵 と ︑ 団 十 郎 所 演 の 鳥 井 四 郎 兵 衛 と の 渡 り 台 詞 に ︑﹁ か
と が 多 い ︒﹁ 酒 井 の 太 鼓 ﹂ の う ち ︑ 菊 五 郎 所 演 の 鳴 瀬 東
四五十年前の日本がこんなに幼稚であったかと呆れるこ
の見物を喜ばせていたが︑今それ等の脚本を読むと︑僅
黙阿弥は︑明治初期の世相を無台に取入れて︑その頃
見 ら れ るこ とに な る の で は あ る ま い か ︒
のまゝだったら︑あの頃の政治小説と同様に︑後世から
れるのである︒今日のプロレタリア派の文学だって︑こ
魯文︑柳北あるいは篁村などの作品に︑我々の心は惹か
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く 文 明 の 世 の 中 に ﹂﹁ 開 花 を 知 ら ぬ は ﹂﹁ 愚 で 御 座 る ﹂
と云うのがあって︑その当てぜりふが大受けであったそ
うだ︒内田魯庵氏は﹁思ひ出す人々﹂の中に︑明治初年
の 国 を 挙 げ て の 西 洋 模 倣 の 光 景 を 面 白 く 叙 述 し て ︑﹁ 猿
芝居﹂のようであったと評している︒文学のあるものに
は︑その猿芝居の脚本見たいに思われるものがある︒
六
欧州の壮麗なる韻語︑幽婉なる詩歌を明治文壇に伝え
るに努めた人は︑上 田敏氏であった︒思 想や話の筋を移
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すのは比較的たやすいが︑異国の詞句の風韻を伝うるこ
などの象徴詩に耳を 聳 てた新人もあった︒しかし︑詩
そば だ
を見張ったように︑敏氏の移し伝えるところのマラルメ
示した︒二葉亭の﹁あひびき﹂に新代の青年文学者が目
仏 蘭 西 や 伊 太 利 の 高 踏 派 や 象 徴 派 の 作 品 の 見 本 を 我 々に
ところで︑ホイットマンなんかが喜ばれていた時代に︑
えば︑バイロンとかハイネとか︑テニソンとか︑変った
外 文 芸移 殖 時 代 の 一 つ の 宝 と 云 っ て い ゝ ︒ 西 洋 の 詩 と 云
潮音﹂一巻は︑多数者に迎えられなかったにしても︑海
と は 六 ヵ し い ︒ 敏 氏 は 兎 に 角 困 難 な こ と を や っ た ︒﹁ 海
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は芸術のうちでは至醇のものである︒西欧詩人の微妙な
心 境 に 入 る こ と は ︑ 思 想 や 散 文 の 模倣 を企 つ る よ う に た
やすくはない︒
﹁日本の文学は不良青年の手に堕ちた﹂と上田敏氏は歎
声を発したそうである︒これは蕪雑な自然主義文学を呪
うあまりであった︒氏の高踏的芸術趣味からそう思うの
は当然であったであろうが︑しかし︑それまで明治の文
学者によって築かれた象牙の塔がどれほど荘厳優美なも
のであったであろうか︒皆んな貧弱であったのではある
る こつ
ま い か ︒ 技 巧 か ら 云 っ て も ︑﹁ 彫 心 鏤 骨 実 に 燦 爛 の 美 を
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恣にした﹂ものはなかった︒自然主義の波は陳腐浅弱な
あんなに感動を受けた作が?
これは私
ばかりではない︒誰でも皆さういふ感じを抱かぬものは
つたかしら?
の が ︑ す べ て 詰 ら な く な つ て ゐ る ︒ オ ヤ︑ こ ん な も のだ
氏 が 云 っ て い る ︒﹁ 今 日 讀 ん で 見 る と ︑ 昔面 白 か つ た も
す べ て 時 の 勢 い で あ る ︒﹁ 近 代 の 小 説 ﹂ の な か に ︑ 花 袋
を慨嘆していた︒私には︑上田氏の歎声が回顧される︒
の文学の進路が杜絶して︑低級卑俗な文学が跋扈するの
田山花袋氏は︑晩年︑氏等が努力して道を開いた本筋
玩具の塔を洗い流そうとする意気を持っていた︒
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あるまい︒現に私の書いたものなどでもさうである︒⁝⁝
か
﹁蒲團﹂などが
どうも拙くて讀めない︒どうしてこんなに拙いものが︑
あゝいふ風に世間に迎へられたらう?
どうしてあんなにセンセイションを起したらうか?
ういふ風に思うと︑非常に耻かしくなる︒そして︑全く
一種の深い幻滅を感ぜずにはゐられなかつた︒﹂
田山 氏 の 正 直 な 述 懐 で ︑ 私 も 同 感 で あ る ︒ 昔 読 ん で面
白く思った明治の小説も︑今日読むと︑大抵は詰らなく
なった︒それは︑時勢の変遷にもより︑年齢の加減にも
よるが︑本当の傑れた作品が乏しかったためなのだ︒そ
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の証拠には︑あの頃のものでも︑二葉亭や鷗外の翻訳物
分から疑うほどに︑何から何まで仏蘭西に心酔した荷風
﹁ 自 分 は な ぜ こ んな に 仏 蘭 西 が 好 きな の で あ ろ う ﹂ と 自
り名誉なことではない︒
っているのは︑当然であるが︑明治文壇に取ってはあま
の﹁明治大正文学全集﹂の中に︑多くの翻訳が堂々と入
のように︑私などには感ぜられている︒改造社や春陽堂
の翻訳は︑外国物と云うよりも︑むしろ明治文壇の産物
﹁浮草﹂でも﹁肖像画﹂でも﹁即興詩人﹂でも︒それ等
は︑今読んだって︑そんなに見褪めがしないではないか︒
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氏は︑江戸の末期をも讃美し︑明治の初期の文化にも好
意を寄せたに関わらず︑現在を嫌った︒氏の帰朝後の作
品たる﹁新帰朝者の日記﹂や﹁曇天﹂に出ているような
感じには︑二十年後の今日でも︑海外漫遊を終えて帰国
した我々の共鳴するところが少なくないが︑明治初年の
文 化 や 文 学 を 憧憬 す る 気 に は ︑ 私 な ど は と て もな れ な い
のである︒現在の風俗でも文学でも思想でも︑明治以来
昔も今もかわらない気ぜわしい西洋模倣の一過程である
と思われる︒いつまでも︑所謂﹁開化期﹂の連続である︒
才 人 は そ の 才 に 相 応 し た 業 績 を 残 し て い る が ︑ 概括 し て
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︵ 一九 二 九 年 四 月 ﹁ 中 央 公 論 ﹂
︶
云 え ば ︑ 新 日 本 の 文 学 史 は まだ 独創 の 世 界を現 わ し て は
いないのである︒
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