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私への戒規適用申立を教師委員会が受理したことを問う

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私への戒規適用申立を教師委員会が受理したことを問う
日本基督教団
同
諸教会・伝道所御中
信徒・教職の皆さまヘ
2009 年 10 月 28 日
戒規適用申立を受けた日本紅葉坂
教会教師、
紅葉坂教会牧師
北村慈郎
私への戒規適用申立を教師委員会が受理したことを問う
主のみ名を賛美いします。
去る 10 月 19 日-20 日開催の第36/21回総会期第3回常議員会にて、教育委員会の報告がありまし
た。その中で私北村慈郎への戒規適用申立が提案者小林貞夫以下7名の常議員信徒からあり、それを教師
委員会が受理し調査委員3名を選任したという報告がありました。常議員会ではこの教師委員会の戒規適
用申立受理の正当性を問うことなく、報告に対する若干の質疑の時をとっただけで報告承認を多数で可決
してしまいました。
ただ議長は 12 名の常議員連名による同封の意見書の朗読と配布だけは認とめました(同封文書A)。
つきましては、この事実を諸教会・伝道所の信徒・教職の方々にお知らせし皆さんの属する日本基督教
団という教会が、このようなことであってよいものかどうか、ご判断いただきたいと思い、この書面を出
させていただきます。私は何らやましいことはしていませんので、或規適用でも何でもこいという気持ち
でいますが、この問題は私個人の問題だけではなく、日本基督教団全体の問題でもありますので、皆さん
のご判断を仰ぎ、できればこのような愚行を教団が犯さないように皆さんからも声を上げていただければ
幸いに思います。
(1)教師委員会の私への戒規適用申立受理に至る経緯について
昨秋の教団総会で議案第 44 号、常議員会提案による私への戒規申立決議の無効議案が僅差(326 名中 167
名)で可決されました。議案第 41、42,43 号、私への教師退任勧告取り消し乃至は撤回議案は僅差で否決
されました。
教団総会後に各委員会の人選が行われ、教師委員会も7名選ばれました。その7名の内明らかに 5 名は
もし教師委員会に私への戒規適用申立があれば受理する立場の人たちです。
その後東海教区(同封文言 B)と教師委員会(同封文書 C)から「戒規適用申立」人は誰かという諮問
が信仰職制委員会に出されました。信仰職制委員会はその二つの諮問に答えて、答申を出しました(同封
文書D)。その信仰職制委員会の答申に対する岡本知之委員長の説明 C は、教憲教規上は戒規申立人の規
定がないから誰でもできるとし、自ら信仰職制委員会の先例集96(同封文書 E)の戒規申し立ては教区
常置委員会か各個教会の役員会(役員会の場合も教区常置委員会を通す)とするという答申を無化する判
断を下しました(常議員会で同封文書 F)
。
教師委員会はこの信仰職制委員会の答申に基づいて、教師委員会内規を変更しました(同封文書G)。
その後申立人小林貞夫以下7名(全て信徒常議員)により教師委員会に出された「北村慈郎教師への戒規
適用申立書」を受理し、3名の調査委員を選任しました。教師委員会内規によりますと、調査委員会は3
ケ月くらいで結果を出すことになっています。
ただ常議員会では教師委員会報告で私への戒規適用申立が受理されたということは分かりましたが、私
個人にはまだ文書でも口頭でも何らの通知も来ていません。
なおこの間の信仰職制委員会委員長岡本知之の答弁は詭弁そのものではないかと思われます。教師委員
会の答申内容からすれば、教団新報の報告(同封文書H)に記されているように、教団教規からすれば、
原理的にに戒規適用申立は規程がないので誰でもできるが、そうなる混乱するので先例集 96の信仰職制
委員会の答申が現実の指針になる、ただこの答申は教憲教規以上のものではないので、新しく戒規適用申
立人の規定ができるまで暫定的なものに過ぎない、という判断だと思います。しかし、去る常議員会での
私の質問に対する岡本の回答は、誰でもできるというところを強調しました。
この教憲教規に規定がないので、戒規適用申立は誰でもできるということであれば、私が執行している
未受洗者にも聞かれた聖餐を禁じる条文は教憲教規にはどこにもありませんので、原理的には未受洗者に
聞かれた聖餐執行はできるということになります。そうなりますと、末受洗者に聞かれた聖餐執行は教憲
教規違反だという信仰職制委員会が出した答申はどうなるのでしょうか。
さらに岡本は、今回私に対して出された戒規適用申立書は、信徒常議員からの教師委員会への問題提起
で、その問題提起を受けて教師委員会がそれを戒規適用に値するかどうかを判断するのは教師委員会の主
体性にある、と答弁しています。
(2)なぜ私が戒規適用申立を受けなければならないのでしょうか?
申立人小林貞夫による申立内容は、その内容の文書を教師委員会に当事者である私に開示するように申
し入れましたが、戒規に開わるものだから守秘義務があるので、私にも開示できないという松井睦委員長
の判断で、まだ私の手元にはありません。ただ「末受洗者への聖餐執行が教憲教規違反である」というの
が、私への戒規適用申立の理由であることは間違いありません。
a)私は「来受洗者への聖餐執行が日本基哲教団の教憲教規に違反している」とは思っていません。日
本
基督教団の教憲教規が来受洗者への聖餐執行を志向しているとは思いませんが、規則で未受洗
者への配
餐を禁じているのは教会規則(準則)8条だけです。紅葉坂教会はその教会規則8条を
教会総会で削除して、未受洗者にも聞かれた聖餐を執行するようにしました。
b)またたとえ「未受洗者への聖餐執行が教憲教規違反である」としても、未受洗者への聖餐執行し
てい
る教師は私以外にも日本基督教団の中に相当数いると思われますが、なぜ私だけが戒規適用
申立を受け
なければならないのでしょうか。
c)しかも教会役員会からでも教区常置委員会からでもなく、数名の常議員による申立だけでそれを受
理
し調査委員を選任して私に戒規を適用するかどうか決めようとしている教師委員会は、どう考
えてもお
かしいとしか言いようかおりません。昨秋の教団総会で議長が発議し常議員会が可決し
て常議員会によ って出された戒規適用申立を手続きの不備によって無効とする第 44 号議案が可決
されているのですか
ら(同封文書Iを参照ください)
。
(3)私が教師退任勧告を受けながら、昨秋の教団総会で常議員の一人に選ばれたということは、何を意
味するのでしょうか?
昨秋の教団総会では議案第 41,42,43 号私への教師退任勧告取り消し乃至は撤回議案は僅差で否決され
ました。ですから、常議員会が可決して出した私への教師退任勧告が昨秋の教団総会でも同意されている
にも拘らず、北村はそれに従って未受洗者への聖餐執行を止めようとしないというのが、私への戒規適用
申立をした小林貞夫以下7名の常議員の言い分だと思われます。しかし、同じ教団総会は常議員合から教
師退任勧告を受けている私を常議員の一人に選出しました。このことは何を意味するのでしょうか。
a)教団総会は、一方的に常議員会の私への教師退任勧告を支持しているわけではありません。支持に
し
ていますが、同時にそういう私のような者も同じ教団の教師として認めて一緒にやっていきまし
ょうと
いうのが教団総会の意志ではないでしょうか。そうでなければ、私を常議員の一人に選ぶは
ずがありません。
b)そのことは昨秋の教団総会での教師退任勧告取り消し及び撤回議案の票数にも明らかに示されてい
ま
す。第 42 号議案は 354 名中 167 名で少数否決。第 41 号議案は 356 名中!61 名で少数否決。第 43
号議案は 358 名中拓 1 名少数否決です。ほぼ 20 名の差です。この票数からしても、教団総会で私へ
の教師退任勧告が絶対多教で同意されたとは言えません。
以上のことからして、私に戒規適用申立をするということは、教団に所属する教会の半数強の支持を得
ている申立人が、半数弱から、賛成されているわけではないと思いますが、容認されている未受洗者に聖
餐執行している私を戒規にかけて排除しようとすることを意味するものと思われます。
(4)なぜ、絶対的多数ではなく(絶対的多数でもやってはならないことですが)相対的多数であるに過
ぎない方々が、それでも私を戒規にかけて教団教師をやめさせようとするのでしょうか?
それは、未受洗者にも希望すれば聖餐執行する「聞かれた聖餐」の特っている福音書のイエスの出来事
に即した真理性によって、伝統的な受洗者のみに聖餐を配餐する「閉じられた聖餐」が崩れていくことへ
の不安ではないでしょうか。これはいつの時代でも正統主義者の持つ不安です。その不安から秩序の神学
が生まれ、護教諭が生まれ、排除(宗教裁判)が起こるのです。
a)昨秋の教団総会を終えた頃、私は勧められて「聞かれた聖餐」の背後にある教会論、信仰論、宣教論
をまとめて一冊の本にしました。
『自立と共生の場としての教会』
(2009 年2月発行、新教出版社)です。
2009 年 11 月号の「福音と世界」で本田哲郎さんが私の本の書評を書いてくださいました。その書評には
私への苦言が含れていますが私の本と本田さんの書評を読んでいただければ、「開かれた聖餐」の真理性
を否定することはできないでしょう。
b)現在聖餐をしている教会は、今教会で行っている聖餐と 70 年以上の歴史をもつ戦争協力をした教団の
教会が戦時下で行っていた聖餐とどう繋がるのかを考えなければなりません。私は私の教師退任勧告の問
題が起こる前から一貫してこの問いを出しています(2006 年1月号「福音と世界」掲載の「聖餐について
の個人的体験と一教会の試み」参照)
。しかし、私に教師退任勧告を出し、戒規適用申立をする方々から、
この問いに対する応答は一切ありません。教憲教規違反一本です。
(5)忍耐強い創造的な対話によって未来をつぐむ日本基督教団であって欲しいと思うのですが!
私の教師退任勧告及び戒規適用申立の背後には、聖餐問題だけではなく、宣教論・教会論の違いがある
ように思われます。その違いは元々1941 年の教団成立時からあったと思われますが、1967 年イースター
に当時の教団議長鈴木正久の名前で公表された戦責告白(
「第二次大戦下における日本基督教団の責任に
ついての告白」)をどう受け止めるかによって顕在化しました。今教団の主流を形成しています福音主義
教会連合及び連合長老会に連なる教会・信徒・教職及びその同調者は教団信仰告白・教憲教規遵守を掲げ、
戦責告白は評価しません(山北議長「荒野の 40 年」同封文書J参照)
。戦責告白の最大の存在理由は、戦
時下に国家権力の要請を受け、教会側の主体的な内応・呼応によって成立した日本基督教団の戦争協力の
過ちを言い表したところにあります。戦後の教団は本来この戦争協力による罪責を背負いながら、それを
どう償い克服して教団の教会を形成していくのかという教会存立の根底的な課題を担わなければなりま
せんでした。しかしそのことに無白覚なま圭戦後の教団の歩みが始まり、1960 年前後から当時の若手教職
の中にこの問題意識を明確にもつ人が出て来て、1967 年の戦責告白の公表に繋がりました。
その後この戦責告白をどう評価するかによって教団の教会・信徒・教職は二分しました。1970 年前後か
ら 1990 年頃までは、戦責告白を評価する立場の方々によって教団政治は主導されていました。 1995 年頃
から教団信仰告白・教憲教規遵守の立場の方々によって教団政治は主導されるようになり、現在に至って
います。
是非皆さんにお考えいただきたいのは、戦貴告白を評価する立場の方々が教団政治を主導していたとき
には、教憲教規違反ということて連った立場の人を排除するということはありませんでした。福音主義教
会連合が自主的に教師試験を行い、按手礼式を執行して教師になった方が数名います。この行為そのもの
は明らかに教憲教規違反ですが、当時の教団常議員会は教憲教規違反ということでその教師を教団教師と
して認めることはしませんでしたが、それをした福音主義教会連合を排除しませんでした。他方教師検定
試験の問題性の故に補教師のままで正教師試験を受けないで教会で働いている担任教師も、補教師試験の
段階から拒否して信徒伝道者として教会で働いている人も受け入れていました。すでにその段階から補教
師で聖餐執行をしていた入もあったと思われますが、暗黙の内に容認していたと思います。ところが、教
団信仰告白・教憲教規遵守の立場の方々が教団政治を主導するようにかつてから、段々と秩序の神学が声
高に主張され、現在の私への教師退任勧告、戒規適用申立という自分たちの立場以外は排除する動きが強
まっているのです。
秩序の神学を声高に主張する方々は、戦時下の教団成立の問題を回避しています。この問題に通底する
日本基督教団立神学校の東京神学大学の機勤隊導入問題も回避しています。或いは居直って両者に負の歴
史はないという立場を取っています。国家権力と教会という、イエスは主であるという信仰に立つ教会に
とってその存立の是非が問われる問題に蓋をしたままでは、教会の未来はありません。宗教集団としての
教会は存続するでしょうが、イエスを主とする教会は死滅していくでしょう。そのことは同封の日本プロ
テスタント 150 年集会宣言文によって明白です(同封文書K参照)
。
現在教団は常識貝会をはじめ教団政治の場では単純多数決ですべての事柄が決められています。違った
意見を闘わせて、正・反・合という両者の意見を越えたよりよい真実を求めて折りつつ熱心に議論してい
く熱意はほとんどありません。賛成意見、反対意見を言わせるだけで、すぐ裁決して多数決で決めてしまい
ます。これでに創造性の余地は皆無です。
教団信仰告白・教憲教規遵守の立場の方々は、伝道する教会を標榜し、教団の敵勢と財政の滅退にふれ
て危機感を煽ります。しかし、1970 年以降一番多く教会の現場に教師を送っているのは東京神学大学です。
この 40 年間全国の教会に東神大出身者の牧師が熱心に伝道しているのではないでしょうか。それでもな
ぜ教勢は増えないのでしょうか。教団信仰告白・教憲教規を遵守する立場の方々は、伝道する教会と言い、
ともしますと戦責告白を大切にし社会的関心を持ち活動する教会・信徒・教職に対して、伝道しないかの
ような短絡した意見を述べます。福音宣教にとって人権や平和を大切にする方々は、それぞれの地域で少
数ではあっても誠実に宣教の働きを担っています。イエスを主とする教会の宣教は教ではありません。た
とえ少数でもその福音宣教をもって世に仕えていく教会が各地に存在していくことを、私たちは喜び、そ
の働きを支え合うことが肝要ではないでしょうか。
現在の教団信仰告白・教憲教規遵守の立場の方々によって主導される教団が続くとすれば、日本基督教
団の教会は、政治的社会的関心には疎い教条主義的な教会で、圧倒的に都市部の人が集まる大教会だけが
残っていくようになるでしょう。このことを私たちの信仰の主イエス・キリストは喜ばれるでしょうか。
私もそろそろ牧師を引退する年になりましたので、何れ近いうちに現役を退いていく人間として、現在及
び今後の教団への憂慮を述べさせていただきました。
私には不当と思えます私への戒規適用申立を受理した教師委員会への抗議と共に、教団への私の憂慮の
思いをお汲み取りいただければ幸いです。
末筆ながら諸教会と皆さまの上に主の導きをお祈り申し上げます。
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